同世代の生き方をアップデートし、教育から世界を幸せに。宮坂春花のバイタリティーあふれる生き方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第243回は、株式会社Mahal.KitaQ代表取締役 宮坂春花さん。起業をした経緯や、自分に自信をつけるまでの経緯などについてお話いただきます。

ーまずは簡単に自己紹介からお願いします。

宮坂春花(24)です。現在は、株式会社Mahal.KitaQの代表と人材紹介会社の2社で働いています。

Mahal.KitaQでは主に、フィリピン留学をメインにした海外プログラムを展開中です。

会社名のMahal.KitaQの由来は、フィリピンのタガログ語で「愛している」という意味になる「Mahal.Kita(マハル キタ)」と発足当時の拠点、北九州(通称:キタキュウ)からきています。フィリピンと北九州を愛で繋ぐという意味でつけました。

ー普段はどこで活動されていますか?

基本は東京です。この時期なので月に1、2回福岡・北九州へ出張にきています。

多動の秘密は小学校時代の習い事の多さ

ーそうなんですね。本日は、少し過去を振り返って現在の宮坂さんのターニングポイントとなったお話をお聞きできればと思います。

最初のターニングポイントは10歳です。週7日の習い事生活であったと思います。3歳からエアロビクスを習い始め、小学生では11個の習い事を平行していました。

子供らしく遊ぶことよりもハードスケジュールで毎日を過ごしていましたね。

ーそんなに習い事をしていたなんて、びっくりです(笑)

習い事は、ダンス系や塾が多かったです。興味を持ったものを親は習わせてくれましたね。

1日に習い事4つの日もありましたが、どれも楽しく真面目に取り組んでいました。一番続いたのがエアロビクスです。

ー続けられた理由はありますか?

一つ目は、エアロビは大会があったことです。レオタード(衣装)を着て、技の難易度を競い合うんですね。結果を残すためにライバルと競い合う競争環境が自分に合っていたところだと思います。

二つ目は、踊っている姿をみて、家族や周りの人が笑顔になったり、結果を残すと喜んでくれたのがやりがいに感じたことです。

自分も周りの人も笑顔になれるのが、エアロビの魅力だと思います。

ーなるほど。充実していた小学校時代だったんですね。中学校はどうでした?

中学は、受験に合格して地元の中高一貫校の進学校に進みました。しかし、小学校時代のなんでもできる天狗状態から一転して「井の中の蛙」であったことを痛感させられました。

中学1年生にして既に周りの子は資格や自分の強みになる特技を持っていたんです。

そこで自分がいた世界の小ささを知りました。皆んな個性も強く、とにかく圧倒されていましたね。

ー1番つらかった出来事はありますか?

部活で仲間外れにされたことですかね。

バスケ部に所属していたのですが、私の父がバスケの外部顧問だったんです。

真剣に取り組んでいたのですが、私が試合に出るたびに「お父さんがコーチだからでしょ」と周囲から言われ始めました。やがて部室でも一切喋ってくれなくなり、友達がいなくなるという経験をしました。部員の親御さんからどつかれたり。(笑)びっくりしました。

でも、朝練や土日の自主練など自分がやれることは絶対にやろうと逃げずに努力していましたね。

ーいじめで辞めるのではなく、もっと努力される方を選んだんですね。

最後の試合まで出ました(笑)

親や友達、学校の先生に頼っても、結局自分が変わらないと周りは変わらないということに気づきました。最終的に、少しはいじめもマシになっていたと思います。

ー周りの目も変わっていったんですかね。

今振り返ると、その時から負けず嫌いで根性があったと思いますね。

他人は他人と切り替えることができたんじゃないかと思います。

ー切り替えが身についたんですね

でも当時は学校のレベルも高いし、いじめもあったので、自分にそんなに自信が持てませんでしたね。

コミュニケーションをどうすればいいか自然と考えて気をつけていたと思います。

また、頑張らなければ置いていかれるということを自覚していたので、自分ができる努力で精一杯でした。

ー周りができる環境だからこそ持ち前の根性で努力し続けられたのですね。高校は、そのまま進学されましたか?

はい。高校は中高一貫校だったので受験せずに行きました。

進学校なので、私は勉強も特にせず、週5でエアロビに夢中になっていました。

他にもバレー部のマネージャーをしたり、生徒会に所属したり、国際交流の部活をするなど、好きなことしかしていませんでした。

案の定、大学受験には失敗し、受験に本気で向き合っている人には負けると当たり前を痛感しましたね。

ー大学生活はどうでしたか?

最初の1年間は大学の寮で生活をしていました。女子大ということもあり、門限22時、点呼23時。食事入浴の時間が決まっており、外泊は3日前申請・親の許可必須という結構縛りがきつかったです。真面目に授業にでて、学内でいい成績を残そうと優等生ぽい生活をしていましたね。

しかし、2年生から一人暮らしを始め、環境も変わったことで少しづつ活動的な自分を取り戻してきたんです。

大学に出会った人にも影響を受けたので、そこで自分の将来も大きく変わったと思っています。

ーエアロビも離れたんですか?

大学一年生でインストラクターの資格をとり、インカレやアマチュアの大会に出場し、大学生最後までやっていました。最後の4年生の大会では個人で5位に入賞して、大学生活では一番いい成績を残せました。

ーすごいですね。エアロビも続けられながら他に何かしていましたか?

最初に熊本地震のボランティアをやり始めました。

地震で一番被害が大きかった益城町で子どもから高齢者までを集め約100〜200人のイベントを開催したり、復興のためのペイントイベントなどを開催しました。また、学生団体に所属し、ラジオや北九州の地域創生活動やキャリアイベントなどを経験してきました。

同世代の生き方をアップデートしたい

ーマルチですね。そのエネルギーの源は何だったんでしょう?

大学当初、自分の周りの人は、9割教員を目指していたことから自然と私も教員を目指していたんです。でもある違和感で学校の先生ではないと感じ始めたんです。

それは大学の授業で発表する時の時間。教員希望の人でも全く手が上がらず消極的だったので、「実際に教員になったとき、『子ども達に手を挙げましょう』とか『主体性を持ちましょう』言えるのか」と率直に疑問に思いました。

私は、今の教育を変えなければ、受け身を譲り受けた子どもしか育たないと思いました。

まずは、同世代の教員を目指す学生の意識を変えるところからやりたい、と。

でも教職以外で自分にできそうなことが分からず、とにかく行動することを意識していました。

自分ができることをやっていこうと

まさに自分たちができるところから変えていこう、社会をより良くしていこうという意識しました。生き方、働き方も自分達からアップデートしていかなきゃなと。

今一緒に会社をやっているメンバーも実は大学時からの仲間で、新卒で入社した会社を辞め、上京してきてくれました。

ー大学時代に特に印象的だったことはありますか?

大学二年生の夏に初めてフィリピンを訪れたことです。

実は海外には特に興味はなかったんです。留学も行こうと思ったことなかったくらいで。(笑)

ボランティア活動を通じ、世界一周の旅の話を聞き、興味を持ちました。きっかけは、先輩との「世界地図にダーツを投げて現地集合して旅をしよう。」というノリ。

ダーツを投げたら、たまたまフィリピンで!(笑)

ーまさに運命ですね(笑)近かったから行けたのもありますし……。

ノリで始まったので、ツアーとかも組まず、日本ではきっと経験できないような生活をしていました。

突撃でアポをし、学校で授業をしたり、家にピンポンし泊まらせてもらったり……。

星空を見ながらシャワーを浴びたり!(笑)

「現地で、旗立ててるから!」と先輩が言ったので、そこまで辿り着くためにWi-Fiをもたずにフェリーに乗ったり、バスやタクシー、徒歩など冒険したのはいい経験でした。

ー貴重な経験が今の事業の原体験になっているんですね。帰国後は何をされましたか?

時期的に就職活動をはじめました。大学三年生の11月には直感でベンチャーの企業に行くと決め、就職活動をすぐに終え、残りの大学生活をマハキタに使いました。

そこで紹介して頂いたのが、フィリピンの語学学校を経営する日本人の女性社長でした。

お話をして、フィリピンと日本の教育のプログラム作りたいと夢を語りました。

改めて決意を固め、自分と自分の周りのまだ自信のない女の子を変えたく、北九州女子大生団体Mahal.KitaQを創りました。

ー団体に共感する人も増え、仲間もできたんですね。さらには初年度は学生団体ながら一千万円を売り上げたと。マネタイズのポイントはありますか?

一番は、『学生が学生のために作り、行動し続けることができた』ことがポイントだと思います。

マハキタが提供するプログラムは、全てオリジナルです。例えばフィリピンの大手航空会社や旅行代理店などの海外インターンシップなど豊富に用意しました。自分たちがやりたいことを形にしてきた結果、一千万円を売り上げる組織になったと思います。

特に意識していたのは、周りの学生が「留学で、何をしたいのか」をヒアリングし、自分たちにできる付加価値を生み出していったことです。最初は「マハキタ」なんて言葉もなかったので毎月、30人に会うなど目標を設定し、ひたすらに動き続けていました。

9ヶ月で退職。そこからスピード起業へ

ー自走力がすごすぎます!このまま起業も出来そうですが、大学卒業後はそのまま就職したんですね。

はい。2020年まで、東京という日本の最先端で働き、営業力をつけようと上京。入社9ヶ月間は走りきりましたね。

最初は成績もよく楽しかったのですが、会社と家の往復でだんだんと精神的に追い詰められていきましたね。

会社の経営に関わっていきたい思いと最初からがむしゃらにやりすぎたことから体調も悪くなってしまったんです。

会社にいくと具合悪くなったりし、ここでやり切るのも厳しいのかなと。

ー辛いですね……。

ですが、自分で自分の人生を切り拓く決心ができたので良かったと思います!

今後に悩んでいた時に、ご縁があり、今の人材紹介会社の社長に相談する機会を頂きました。そこで自分のやりたい事の応援をして下さり、勇気をもらいました。すぐに学生団体を法人化の準備をし、2020年の7月7日に会社を設立しました。

ー早い!(笑)

そんなことないですよ!私は特別行動力があるとは思っていなくて、理想の自分になれているか日々振り返る必要があると思っています。

理想の自分であるためにどうするか、内面的なところを考え、実行することが行動力につながるのかなと!

最後に今後の目標を教えてください。

実はコロナウイルス感染拡大の前は、留学ができる国を18カ国準備していました。

しかし海外事業が動けなくなった時に、教育のプログラムを作るのは留学だけではない、自分たちにできることは他にもあると気づいたんです。

現在は、グローバル教育に特化したオンラインでできる海外事業と、SDGsプログラム、日本でのキャリア教育事業を展開しています。これからは、自らがロールモデルとなり、同世代の生き方ををアップデートしていきたいと思います!

私のビジョンである、信念を持って生きる人を増やすことで世界貢献していきます。

ー本日はありがとうございました!宮坂春花さんのさらなる活躍を期待しております!

取材者:吉永里美(Twitter

執筆者:三田理紗子(Twitter

デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter