防災グッズ専門カタログを開発!KOKUA代表・泉勇作さんに訊く!根拠のない自信が自信に変わるまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第189回目となる今回は、泉勇作さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

 

幼いころに阪神淡路大震災を経験し、物心ついた頃から地震に対する意識が人一倍強かったという泉さん。「防災」というフィールドでビジネスをする現在に至るまでに、いったいどんな経験をされてきたのか、取材しました。

 

防災グッズ専門カタログってなに?

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

 はい。株式会社KOKUAで代表をしている泉と申します。元々、防災・災害救援に関する活動を個人として続けておりました。現在は、それに加えて、防災をよりポジティブな形で一般の方々に考えていただけるように、と「防災×ギフトのライフギフト」というサービスを作っている真っ最中です。

ーライフギフトとは?

 防災ってとっつきづらい・何から手をつけて良いか分からない・堅いなど、とても大事なことなのに簡単に手をつけられないのが現状ですよね。そういった自分で防災グッズを買い付けるのが難しい中でも、自分の大切な人の大切な日(例えば、誕生日や父の日・母の日など)に1冊のカタログギフトとして、防災グッズをまとまって見ることができるものがライフギフトです。自分たちで言うのもあれですが、とってもお洒落でスタイリッシュなカタログになっています!(笑)

 僕たちは、「あなたのことを大切に思っています」「あなたの無事が何よりです」という思いが伝わるようなカタログギフトを作っています。先日2ヶ月ほど行っていたクラウドファンディングが終わりまして、現在は印刷や紙の質感の調整などの作業真っ最中ですね。

ースタイリッシュなカタログ、がポイントかと思うのですが、デザインをお洒落にすることにはどういった想いがあってデザインを考えられたのでしょうか。

 防災が大事だ、と自発的に認識して防災を始めていくことがベストだとは思うのですが、それは難しいなと思っていて。防災を何と馴染ませていくかが大切だなと僕らは思っています。そのため今回は、防災グッズとしてではなくてまずは「ギフト」として喜ばれるものであることが大前提としてあります。贈り物をする体験として喜んでもらえるように、ということでデザインにはこだわりました。

 

防災にかかわるようになったきっかけは?

ー大学受験の失敗があったとお伺いしています。

 はい。森見登美彦さんという作家さんが好きで、その作品に登場する京都出身のこじらせた大学生に憧れを抱きすぎて京都の大学を受験して進学しました。正直、今まで自分で思い描いた目標は達成することが多かったので「自分ならまあ、何とかなるだろう」といった自信がありました。その延長で、受験も何とかなるだろうと思っていたのですが、見事に大学受験で打ち砕かれましたね。

ーその、いわゆる根拠のない自信をもつきっかけは何だったのでしょう。

 高校生の頃に、ある大学の教授を招いて自分のビジネスを発表する、という機会がありました。当時、地元の有馬サイダーを他県の人に知ってほしいと思ったことをきっかけに社長さんの元へノーアポで伺って「(有馬サイダーを)800本、僕に預けてください!どうにかしてみせます」と伝えたことがありました。優しい社長の心遣いでその時は800本頂き、それを使って、地域の夏祭りで有馬サイダーの無料試飲をやってみたんです。この時の効果測定として、その場でオンラインから有馬サイダーを購入してくれるひとが増えることでトータルの販売数がアップするという仮説を立てていました。結果は、全くだめでした。無料で提供して終わりでしたね。ですが、この研究を1000人程度が集まって発表する場で審査してもらって優勝できたんです。この成功体験が、根拠のない自信が植えつけられて勘違いするというきっかけになる事件ですね。(笑)

ーなるほど…。その後の大学入学後に、東日本大震災を経験されたのですね。

 厳密にいうと、入学式の直前ですね。在学していた大学と被災地は、地理的に離れていたのですがボランティア活動を始めました。僕が1歳半の時に阪神淡路大震災を経験しているんです。ほぼ記憶には無いですが身の回りの環境がそこで大きく変わったという経験があり、物心ついた時から年の離れた兄姉や親戚から地震の話を聞いたり、震災学習を熱心に学ぶ機会があったりと地震に対して人よりも敏感だったというのが前提の背景にあります。なのでボランティアというか、特別なことを何かしたとは思っていません。あの当時って、日本中の誰もが「なんとかしたい」と思っていたと思いますし、初めて募金をしたひともいるかと思います。僕もそういった感覚でボランティアに参加しました。

ーボランティアに参加してみて、内面の変化などはありましたか?

 いわゆる何も起きていない安全圏から遠く離れた非日常の現場に行って感じるギャップに対してとても思うところがありましたね。その後も、東日本大震災に限らず災害支援は基本的に参加するようにしていて、学生時代は1軒でも多くの家の役に立てるならと思って活動していました。

 我々は土日やお休みの期間に活動をするんですが、平日に日常へ戻るととんでもなくギャップがあるんですよね。自分自身に対して、無力とまでは行かなくても微力だな、と感じることも多々ありました。1週間と経てば関心の低い友人たちは「台風なんてあったけ?」といった様子で、そういった人たちにとって災害を自分事として考えてもらうためにはどうしたらいいのかと考えるようになりましたね。

ーその後、ボランティア団体に入られたのですね。

 インカレのような形で各大学に支部があって、当時1000名程度、現在は3000名程度の団体に入っていました。当初、僕の大学の支部には3名しか人がいなかったので「人数を増やして欲しい」という依頼を受け、支部長として「仲間を増やして出来ることを増やしたい」というマインドで活動していました。

 共に生きる共生社会をつくることをミッションに掲げる団体で、当時から共感して活動していました。僕が在学中には1年半ほどで200名くらいに増えましたね。メンバーを増やすために泥臭く、新歓の時期に色んなひとに「とりあえず説明会だけ来て!」と走り回っていました。自分に酔いしれまくった演説をして(笑)それに共感してくれた下級生が加入してくれ、そこからは口コミで広がって、という感じで人が増えていきました。

「なんでもできる」「なんとかなる」と思っていた過去。どうにもならない現実を経験して感じたこととは

ー学生時代は色々と活動されている中で、留年を経験されたんですね。

 そうなんです。当時、ボランティアするか遊ぶか、あと学費・生活費を稼ぐために沢山働いて、という生活だったので本末転倒で留年してしまいました。ボランティア団体は規模が大きく、一緒に活動する中で横の繋がりが強かったです。周囲が自身の成長や社会への貢献という意識が強かった分、当時の自分は1年遅れになることに対して取り残されてしまった感覚に苛まれていましたね。

ーなるほど…。その悩みを乗り越えて、就職活動はどういった形でされていたのでしょうか。

 とにかく、成長したい!と思っていたので、いちばん過酷で実力が試される環境にいこうと思い、人材会社に営業として入りました。当時、200-300名いた同期の中で1位をとることが自分の価値の証明になると思っていたので、入社後は時間を惜しまず努力していましたね。

 当時、NPOへの就職も選択肢としてあったのですが、少し違った切り口から自分がやってきた防災というフィールドで持続可能なサービスを作りたいというか、社会起業家のような存在にぼんやりと憧れがありました。そのために、モノを売って、お客様に価値の対価としてお金をもらうという経験をしたいという思いで一般企業に就職しました。将来を視野に入れた選択でしたね。

ー当時、ガンガン営業を極めて成果も出されていたかと思うのですが、しんどくはなかったですか?

 そうですね。1年目で経営企画室に配属後、表彰されてから、新たなシステムの作成・販売担当となりました。出来たばかりのサービスだったので、誰も売ったことのない商品を扱っていました。作りたてのサービスはバグが起こりがちなこともあり、リアルに週に3日は朝の7時まで一睡もせず働く日々でしたね。近くの満喫でシャワーを浴びて8:30にはまた出社、という生活を仕事を辞めるまでの最後の8か月は続けていました。そんな生活を続けていたので、体重は57kgから80kgにまで増えました。当時娯楽が本当に無くて、帰宅時にご飯をどか食いすることしか楽しみがなかったんです。今思えば病的で、ストレス解消で食事に走り、見事にブクブクと太っていきましたね。

ーそんな中、退職を考え始めたきっかけとは?

 新卒入社時からお世話になっていたメンターの方が、ご自身のお父様の会社を継ぐということで僕が辞める3,4か月前に辞められたんです。僕としては、起業したい・新規事業を自分でつくりたいという思いが強かったので、先輩に自ら頼み込んで「(先輩が担当していた)-2000万の赤字を黒字にすることができたら、僕に好きなビジネス何でもやらせてください」と言って承諾を得て先輩(の会社)についていきました。その後、1年半ほどで黒字化に成功しました。その時もめちゃめちゃ働きましたね。

 

根拠のない自信がいつからか根拠のある自信に。その過程にあった努力と葛藤とは?

ー防災をキーワードとしたビジネスをしたい、という想いが強くなっていったきっかけなどありますか?

 はい。社会人になってからも当時に起きた災害時にはボランティアへ行ったりなど活動を続けていたのですが、その中で自分はまだまだだなと思いつつもこれまで経験してきた自分を試してみたいと思うようになりました。「防災をいろんな人に広めるためのビジネスが何かあるのではないか」と、当時いた会社に自分の想いを伝えたことがきっかけです。最初は会社の中での一事業という形でスタートしましたが、そこから続けていく中でしっかりビジネスとして考えてみてと言われた時がありました。ちょうどその時が「防災ガール」という団体の解散のタイミングで、アクセラレータープログラムがあってそこから思わぬ方へ展開が進んでいくという感じですね。防災ガールからは、防災をどうやって伝えるか、社会に馴染ませるか、とそもそもの防災のあるべき姿を突き詰めていくこと、そしてそれを実際に行動することの難しさを学びましたね。

ーアクセラレータープログラムではどんな経験をされたのでしょうか。

 個人として、友人と2人で参加しました。プログラムを通して改めて、防災を事業化することの難易度の高さを感じましたね。半年で2回ほどビジネスモデルを変えたり、と僕らはとても出来の悪い方だったかと思います。最終的な着地点として、企業研修という形に落ち着きました。僕らがBtoBの営業にはそれなりの自信があったので、企業様にとって役に立てるように新人教育などの研修に防災教育を組み込んで「防災を学びながら企業様のチームビルディングができる」ような防災×企業研修を提案しました。

ーそこから、独立へと踏み切ったのはどうしてでしょう。

 そうですね。僕の場合、どちらの方が心地よい人生かと思った時に、自分が力になりたいと思う場所で努力することを心地よいと感じたので、独立することを選びました。

 当時の上司からは、「困ったら戻ってこればいいし1度やってみたら?潰れても死にやしないよ!」と温かい言葉で背中を押してもらいました。保険というか、そう言ってくれる人がいるというのは大きかったですし、僕個人の深い部分での気持ちを見透かされたようでした。

ー独立を決めてから、心境の変化はありましたか?

 決して今の自分が根拠のある自信を持っているというわけではないんです。ですが、自分が求めればリアクションをくれる、知恵をくれたり手を貸してくれる、時には支援をしてくれたりする方々の存在に気付けたということが大きかったですね。頼っていい、与えてもらってもいいんだ、という感覚です。多くのひとのリソースを合わせて生かすことが大事だと気付けました。自分は何でもできるぜ、という感覚から、自分はまだまだだなと思いつつも頑張れば何とかなるという感覚に変わった感じがしますね。

 

防災を通して実現したい世界とは

ーこれから、どんな世界を実現したいとお考えですか?

 防災に関わらず、気候変動に関することなども手広くやっていきたいという思いがあります。いま、防災は多くの人にとって不自然な、敷居の高い行為だと思うんです。それをもっとナチュラルに取り組めるような仕組み、商品やサービスを作り出すというのが僕らのミッションです。

 たとえば「防犯」って日頃から「あの角を曲がったら刺されるかも…」とは思わないとしても、夜道の帰り道に誰かを迎えに行ったりするじゃないですか。無意識に。大事な誰かがいるから自然と迎えにいく、といったような無意識にできることが防災にも必要だと思っています。

ー泉さんの思う今後の展望について、お聞かせください。

 まずはライフギフトをひとりでも多くの方に手に取ってもらえるよう広めることが直近の目標としてあります。ですが一方で、ライフギフト1冊が手元に届いたからといってその方の防災意識が上がっていくわけではなく、きっかけにすぎません。取り組んでみようかしら、と思ってほしいという想いの込もった商品なので、その先で「防災を取り揃えたい」「どういったことから出来るのだろうか」と考えた時に、情報が整っているような、そういったサイトや場所なども合わせて作っているところです。

 最終的には災害救援にまで手を出したいと思っていて、「自然災害の事前から事後まで」自然と付き合って生きていく中で、世の中の人のお役に立てるような会社を作っていきたいなと思っています。

 

ー本日はありがとうございました。泉さんのこれからを応援しています!

 

取材者:中原瑞彩(Twitter
執筆者:たるちゃん
デザイナー:五十嵐有沙(Twitter