「将来の夢は人間国宝です」桂枝之進が推して参る未来の落語

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第164回目のゲストは、落語家の桂枝之進(かつらえだのしん)さんです。

落語を、同世代にとってもっと身近なものにしたいと願う枝之進さん。中学時代に年間150回を公演し、ポーランドとフランスでの海外公演を敢行。中卒で落語家・桂枝三郎師匠に弟子入りしました。初めての社会人経験で、伝統的な落語業界に必要な礼儀や作法をほとんどゼロから学び取ってきたそう。親や先生、友人のしがらみを捨て去り、自分が狂愛する世界に身を投じて、伝統芸能を未来に継承しようとする現在に至るまでを取材しました。

「右向いて左を向いて」友人を笑かす

弟子入り前の枝之進さん

ー自己紹介をお願いします。

桂枝之進です。2001年生まれの現在19歳です。5歳の頃に初めて落語を見て、9歳でアマチュアとして活動を開始し、15歳で師匠である落語家の桂枝三郎に弟子入りしました。現在はプロ4年目です。活動拠点は大阪ですが、最近は東京でもちょこちょこ活動しています。

-落語との出会いはいつでしょうか。

近所の市民ホールで開催される落語会に、親がたまたま連れて行ってくれたことが出会いとなりました。落語という言葉を知らず、「これ、なんなんだろう?」と疑問を持ちながら鑑賞しました。右、左と向いて、違う人物を演じ分けるおじさんを、日常生活で見ないじゃないですか。その後は、テレビやラジオで落語を見聞きしていました。9歳のときに学校の図書室で落語の速記本を借りました。落語の小噺で登場する全てのセリフが書いてある本です。興味本位だったものの、ずっと読みあさってましたね。

読んでいるうちに内容をだんだん覚えて、登下校中に友達に喋ってたんですよ。それが、自分で落語をやる一番最初の体験でした。「おかしなことをやってるな」と、友人は面白がってくれました。

「Il était une fois、昔々、un petit garçon、男の子が、」

鯉鮎亭(りねんてい)ボタンとして話をする弟子入り前の枝之進さん

-小学生、中学生でも落語に関わっていかれるんですか。

友達の前、親戚の集まり、飲食店と落語をする機会が広がりました。ちびっこ落語が少しだけ流行した時は、子ども落語の全国大会に出場し、それがきっかけで、キッズ落語家としてさらにいろんな機会に呼んでもらえるようになって。

中学生の頃は年間で150回ほど公演していたので、今より忙しかったですね(笑)。学校より落語が優先だったので、学校で授業受けていると、慣れない感じでした。ふつうの中学生だったら、月曜日から金曜日まで同じことの繰り返し。しかし、落語のおかげで古今東西に足を運び、いろんな体験や人に出会えました。毎日がどんどん加速していくので楽しかったです。

ポーランドとフランスに海外公演へ行ったときは、とても忙しくて、帰国した翌日は沖縄、その次は岐阜で…。落語を通じて社会と接点が増えました。

-印象に残っている舞台、もしくは場所はありますか。

フランスで「じゅげむ」を披露したことですね。「Il était une fois、昔々、un petit garçon、男の子が、…」みたいな感じで、フランス語と日本語を同時通訳で覚えました。海外で落語を初めて公演したので、ひどく緊張したことを覚えています。フランスの高校生が並ぶ会場に、着物を来て出る僕が現れると、「なんだこれは!」と驚いている様子でした。

フランス語は発音が難しいので、意味が伝わるのか不安でしたね。しかし、公演後に、「すごい面白かった」「フランスにも似たような芸能があるよ」と反応をもらって、ほっとしました。中でも面白かったのは、「あなたはラップができますかー?」と話しかけられたこと。「じゅげむ」では、「寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の…」と、長い名前が登場するじゃないですか。これをラップだと解釈したらしく、僕にボケてきたんです(笑)。

プロポーズは、ローストビーフ丼とともに

お囃子さんが使う太鼓

-ご自身がアマチュアからプロになる転機はいつだったのでしょうか。

小学校の卒業文集で「プロの落語家になりたい」と書いていましたが、「いつなろう」「なれるのかな」と思いあぐねていました。プロの落語会に足を運び、終演後の送り出しでは、落語家の先輩方に「いつ落語家になれるでしょうか」と、相談をしていました。

大学生や社会人生活を経て落語家になる人も多いので、弟子入りの平均年齢は20代後半。中学校を卒業してすぐに弟子入りすることに、周りの大人や友人は反対する意見が多かったんです。一方で、プロの落語家からは、「早くてもいい業界だと思うよ」と賛成する意見も多くいただきました。僕はどちらかというと早く落語家になりかったので、後者の言葉を信じたかったんです。

身近な存在からも、弟子入りをすすめられていました。中学3年生の進路相談では、学校の先生に「落語家になるって言ってるけど、どこに弟子入りするの。早く決めてこいよ〜」と尻を叩かれ、親からも「落語家に反対ではないけど、弟子入りできる覚悟はあるの」と、急き立てられていたんです。中学を卒業してすぐプロの落語家になるなら次の進路相談までには弟子入りしないといけないと思い、中学3年生の冬に弟子入り志願に行きました。

-弟子入り志願とは、どのようにして行うものなのでしょうか。

師匠である桂枝三郎の落語会に足を運びました。「このあと弟子入りを志願するんだ!」と考えると、頭がぼーっとして師匠の噺が何一つ耳に入ってこないんですよ。終演後に声をかけようとしましたが、言葉が出てこなくて…。他の進路は全く考えていなかったので、絶対に弟子入りを決めないといけない。だけど、なかなか切り出せず…。「これ、今か?今か?」と、タイミングを窺ううちに、「どうしよう、どうしよう!これで、決まるのか?」と焦燥感だけが高まりました。弟子入りは一生に一度の告白。プロポーズに近いもので、断られたら他の師匠ってわけにはいかないんです。

人生を決める一言をどう切り出そうか迷っていると、師匠は僕がいる場所まで歩み寄ってきて、「このあと、飯行くか?」って声をかけてくれたんです。「行きます!」と返答し、緊張ではちきれそうな心臓を押さえたまま会場を後にしました。近くのご飯屋さんに入り、頭の中では「弟子にしてください」と鳴り響いている状態で、米を口に運んでいると、師匠が「お前、弟子入りに来たんやろ」と話題を振ってくれて。「あ、そうです!」と安心して答えると、「桂枝之進っていう名前を考えてるんやけどどうや」って。僕は嬉しくなって、「ありがとうございます!」と返事をすると、「弟子としてのはじめての仕事や、ここの会計払ってといで」って言われて財布を渡されました。

後から聞いたら、その日、僕が落語会に来たときから、僕の挙動不審さから楽屋で「あいつ今日弟子入りに来ましたよ!」と、話題になってたらしいんです(笑)。落語家に弟子入りした過去が全員あるので、緊張が伝わったのでしょうね。

ーなぜ桂枝三郎師匠に弟子入りしたのでしょうか。

僕の師匠である桂枝三郎は、「枝三郎600席」というライフワークにしている落語会があります。600席の落語をする定期開催の落語会で、昔の資料から落語を再構築し、誰も演じていない噺を披露しているんです。訪れた落語会で、ほかの師匠と同じ演目だった…ということも度々あったのですが、師匠の落語会はいつも違う演目なので面白くって…

師匠の公演に足繁く通っていました。終演後に話をさせてもらうことも多く、僕のYoutube動画を観て、「ボタン(枝之進さんのアマチュア落語家時代の名称)、あの噺の所作はこうやで」と教えてくださることもありました。

はじめての舞台

高座で落語を披露する枝之進さん

-弟子入りを果たし、その後、どのような稽古やお仕事をされていらっしゃるのですか。

入門後、落語の稽古が始まりました。師匠の自宅へ伺い一対一の空間で座布団に座り、向かい合います。「三べん稽古」という形で、師匠がまず3回演って、その後に僕が演らないといけない。でも、3回聞いたぐらいで出来ないんですよ。それを何回も繰り返す。師匠の自宅を出ると、覚えたことを忘れないように、必死にボイスレコーダーに吹き込んでました。一ヶ月で1つの噺が終わると、次の一ヶ月はまた別の噺をはじめます。

また、お囃子(おはやし)と呼ばれる太鼓と三味線で奏でる効果音があります。これも、若手の仕事なんですよね。師匠によって出囃子が違うので覚えるのが大変で、鳴り物教室へ月に何回か通って、初歩的なところから覚えていきます。

さらに、師匠の仕事に同行し、師匠の着物を畳んだりとか、出囃子を叩いたりとか、いろいろお世話をするんです。社会人としての仕事も、弟子入りがはじめてだったので、最初のうちは何をしていいかもわかりませんでした。礼儀や作法は先輩の所作を見て学びました。一日一日を全力で駆け回り、帰宅の電車では何回も寝過ごして隣の市まで行くことも。

-一人で舞台に立ったのはいつだったんでしょうか。

弟子入りして一年後の年末でした。小さい頃から足を運んでいた寄席である大阪の天満天神繁昌亭が初舞台。僕にとっては憧れの場所だったんです。この舞台のために、半年間ぐらいは稽古をしました。初舞台は、太鼓や三味線に合わせて噺を展開する「ハメもの」入りの演目でした。

落語の初舞台で一番怖いのは、絶句すること。初めての舞台、そしてハードルの高い演目で、緊張していました。そしたら案の定、僕は舞台で、絶句したんです。「これはヤバイ」と心の中で思い、なんとかそれっぽく誤魔化したんです。

噺が終了し、「師匠なんていうかな、怒られるかな…」と不安を抱えて袖に降りると、師匠は、喜んでいました。「なんでだろう?」と不思議がっていると、「お前な、落語家は、ひゃっぺんの稽古よりいっぺんの誤魔化しやで」って。「100回稽古するより、実地で1回経験する方が大事だ」ってことを伝えてくれたんです。記念深い、思い出深い、初舞台になりました。

-現在は、SNSで落語を発信する活動もされていますね。

落語会の中では僕が唯一の10代ですし、お客さんにも同世代はいませんでした。そこで、「僕がおじいさんになって舞台で喋っていたら、観客席で誰が観てるんだろう」という意識が湧いたんです。将来、落語会にお客さんが足を運んでくれるためにも、同世代に落語を知ってもらうきっかけを、僕が積極的につくっていかないといけない。そう感じて、社会の中の立ち位置として自分のやるべきことが見えました。

僕のやっていきたいことは、同世代に対しての導入設計を考案し、実践すること。いろんなところで落語と触れる仕掛けをつくっていけたらいいなと思うんです。そこでまずは、SNSでアカウントを作成しました。修行中の様子や訪れた場所を発信すると、いろんな方と知り合い、同世代にアプローチできるような仕事が頂けるようになったんです。

-同世代に落語を知ってもらうために、ほかにはどのようなことを実践されていますか。

最近の活動では、「Z落語」というプロジェクトを立ち上げました。Z世代(95年から2005年に生まれた世代)にとって「落語はどんな存在になれるだろうか?」をメインテーマに掲げ、さまざまな取り組みを行っています。

例えば、「落語ってどんなイメージを持ってる?」「落語家と聞いて誰が浮かぶ?」と、Z世代に聞くと、「古典的、伝統芸能」「日曜日の夕方の笑点に出演する人」という答えが返ってくる。一方で、「次の休みに友達に落語に誘われたらどうする?」という質問に対しては、「興味があるから、行きたい」というポジティブな意見がアンケート調査回答全体の半数以上だったんです。

落語は古典的なイメージが強いんですが、漫才やコントと同じ日常的なエンターテインメントの一つです。予備知識を必要としないので、日常生活の娯楽として自然体で楽しんでもらいたいですね。

ー落語家として、何を大切に活動していきたいですか。

僕は、新しい落語をやっているように思われますが、古典落語しかやっていません。古典に落語の全ての魅力が詰まっていると思うからです。古典落語は400年の期間、脈々と受け継がれているので、今も廃れない笑いのポイントがあるんですよね。人間として生活する上でのあるあるが詰まっているものなので、日常的な笑いをもっと届けていきたい。

「温故創新」をモットーに、古典的なイメージの強い落語を、新しいカルチャーとしてZ世代に伝えたいんです。普段は大阪で落語家としてのキャリアを積み、古典落語を深めるのが温故。東京で新しい導入設計を展開することが創新だと思っていて、常にバランス保ちながらこれからも活動していきたいと考えています。

ーありがとうございました!

取材者:山崎貴大(Twitter
執筆者:津島菜摘(note/Twitter
編集者:野里のどか(ブログ/Twitter
デザイナー:五十嵐有沙(Twitter