中学生でフリーランスになり高校時代は年収4桁万円。 「頑張らない人」浦邉勇さんのモットーとは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第134回目のゲストは、IT企業で12社の採用統括、保育園の経営、大学講師として情報関係の授業を受け持つなど、幅広い分野でご活躍中の「頑張らない人」こと浦邉勇さんです。

経営、採用を強みとする元料理人・浦邉さんの仕事の極意は「頑張らない」。中学生の頃からプログラマーとして働き始め、高校時代の実体験を機にそのモットーを掲げ始めたそうです。
料理人を止むを得ない事情で断念し、その後任された営業職では数々の表彰を受け、活躍の幅を広げています。

そんな浦邉さんにとって最も忘れられない出来事は、15歳の時に参加した東日本大震災の被災地でのボランティア。帰京した浦邉さんは、「一円でも多くを被災地に寄付したい」というその一心で、高校生にして年収1000万円を超えるほどプログラミングに専念したそうです。今でも寄付を続けるその理由とは…

自分の持ち味と与えられた環境を活かし、成果を出すためのヒントが詰まった浦邊さんの半生に迫りました。

採用×経営で活躍の場を広げる元料理人

ー自己紹介をお願いします。

浦邉勇です。「頑張らない人」と自己紹介させて頂くことがあるのですが、これは自分の生きる姿勢を端的に表しています。

現在、東証一部上場のIT企業で、子会社12社のグループ全体の採用統括をしています。新卒・中途の採用や採用戦略の決定などはもちろんのこと、会社の課題解決にも関わっています。他には、保育園の法人経営、飲食店の採用支援をしています。

ーこれまでは採用関連のお仕事を中心にされてきたのですか。

前職では人材紹介に携わっていました。現職になってから、採用が仕事になりました。入社以来掲げてきた目標は、採用費なしで新卒エンジニアを採用することでした。現在、ほぼ達成済みです。今後は、このやり方を会社全体で仕組み化していきたいと思っています。

ー保育園の経営はどういった経緯で始めましたか。

祖父が創設した保育園があります。祖父に続き、祖父から経営を受け継いだ父親も共に病に倒れ、僕が経営を任されました。最も古い保育園は50年以上の歴史を誇ります。

保育園の経営といっても書類関係の仕事が中心で、現場を見学する機会は無いに等しいです。
時々、僕が経営する保育園に足を運ぶことがあります。純粋無垢な子どもたちをよく観察していると、自分の初心を思い出すようで。子どもたちの人生経験はまだ浅いですが、見習いたくなるところがあるんですよ。

飲食店の採用支援はどのようなきっかけで始められたのですか。

僕は調理師学校の出なので、周囲に料理人の知人が多いんです。彼ら・彼女らは料理の専門家ですが、全員が経営の道に明るいわけではありません。僕が持っている飲食業界と経営についての知見を活かし、彼らの夢を応援したいと思って始めました。

支援内容は、料理人たちの経営にダメージを与えない範囲の人材紹介です。例えば、料理人たちが新しいメニューを開発したい時、使用したい食材・取り入れたい調理技法を得意とする人材を探し出し、お繋ぎしています。

ー採用と経営に強みを持つ浦邉さん。古巣の飲食業界にとっては「救世主」です。

親の離婚でプログラミングにのめり込む

ー10歳の頃にプログラミングを始めたそうですね。 

友達の家に遊びに行った時、お兄さんが書いたコードを見たことがきっかけではじめました。「なんだこの謎の文字は!」と興味を持ち、その方から、プログラミングやIT業界について教えてもらったんです。

当時は、堀江貴文さんが注目を集めていた時期。テクノロジーがとても大きな影響力を持っていることを幼いながら理解していました。また、好きだったゲームが作れることも知って、「興味あります!習いたいです!」とその場で打診し、お兄さんからプログラミングを習えることになったんです。

一番最初の作品は、簡単なアンケートをプログラムしました。なんとなく作った作品でしたが、それが動いた瞬間、一気にはまりましたね。

ー当時、その年でプログラミング技術を持つ中学生はとても珍しかったのではないでしょうか。

そうですね。プログラミングをしていたのは、ほんの数人の友達だけでした。
遊びで始めたプログラミングが、両親の離婚を機に、いつの間にか生活の中心になっていきました。

親が離婚したのは、私が13歳の頃でした。元々、父親は家族より仕事と釣りを優先し、滅多に家に帰ってきませんでした。それを見兼ねた母親は、ある日「離婚する」と妹を連れて家を出ていきました。父親は、僕に「住宅ローンは返済済みだから、ここに住んでいていいよ。仕送りは父さんがするから生活の心配はいらない」と言い残し、千葉に引っ越してしまいました。

ーご両親のどちらかに付いて行くことなく、一人暮らしを始めたのですか。

それまで家族4人で暮らしていた4LDKで、突然一人暮らしが始まりました。家には僕しかいないため、文句を言われることなく、プログラミング浸けの生活を送るようになりました。親の離婚で精神的なダメージを受けるどころか、自由の身になれて最高の気分でした。

ー親御さんの離婚がご自身にプラスに働いていたことがわかります。プログラミングがみるみるうちに上達したのではないですか。

その通りです。中学生の頃からプログラミングの仕事を貰うようになったんです。

当時、先ほどお話しした、プログラミングを教えてくれた方が大学を卒業し、エンジニアとして働き始めました。いつの間にか、その人の仕事を僕と友達が委託されるようになっていたんです。そのつもりはなかったのに、突然「納期」という言葉が出てきて、「あ、これはお金を稼いでいるんだ」と。

ー中学生フリーランスは意図せず誕生したんですね。

僕がしていた仕事は、企業のホームページ作成がほとんどでした。今ではよく見かける副業に特化したウェブサイトもなかったので、仕事に慣れてくると、自ら仕事を積極的に取りにいくようになっていました。

プログラミングの報酬の高さに驚きながら、「どんな風にしたらもっと稼げるのかな」と考え、絶えず試行錯誤していましたね。

ープログラミング以外に関心ごとはありましたか。

株に興味を持っていました。学校の授業で株について扱われた機会があり、お金が増える仕組みがあることを知って自分でも投資したくなったんです。そして、プログラミングで稼いだお金を元手に、株をはじめてみました。面白いゲームをしているような感覚でしたね。

人生観を塗り替えた震災ボランティアの経験

ー浦邉さんの中学・高校時代で一番印象に残っている出来事は何でしょうか

中学校を卒業した直後に参加した、東日本大震災の被災地でのボランティアです。僕の人生観がガラリと変わった体験でした。

ー何を思って参加されたのですか。

実は、暇潰しでした。東日本大震災が起きたのは、中学校の卒業式の直後です。計画停電になったり、高校入学が遅れたり…僕の生活にも影響がありました。その一方で、時間を持て余していたため、軽い気持ちで参加したんです。

ー被災地を目にした時、何を思いましたか?

被災地に着くなり、生なましい被害が残る、絶望的な光景を目にしました。「比較的被害が少ない地域」と説明を受けて行った先は、とても「被害が少ない」と入れるような状況ではありませんでした。

全国各地からボランティアの人たちが集まっていました。僕には、胸を張って言えるような参加理由がなかったのに対し、ある人が「阪神淡路大震災で被災した時にボランティアの人たちにお世話になった。だから今度は恩返しに来た。」と話したんです。

見ず知らずの人のために働く、利他的な人たちの影響で、自分の価値観が大きく変わっていきました。誰かのために働く大きな意味に気付くと同時に、「自分さえ良ければいい」という生き方をしてきた自分を恥ずかしく思いました。

ーボランティア活動で考え方が180度変わったのですね。その後、ご自身の行動にどんな変化がありましたか。

ボランティアを機に、被災地に寄付するため、プログラミングの案件でもっと収益を上げることを目指しました。被災地で活動中、僕が一番価値を生み出せるスキルはプログラミングだと気付くんです。瓦礫撤去のボランティアに充てる時間をプログラミングに投資すれば、被災地に倍以上貢献できると。

ー人のために働く大切さに気付き、すぐに実践されたのですね!

ボランティアを終えて東京に戻ると、プログラミングの案件を大量に引き受け、中学時代の稼ぎの倍以上の収入を得るようになりました。学校の勉強はすぐ理解できたので、授業中は睡眠をとり、夜の時間はプログラミングに費やすような生活を送っていたんです。

ー高校生でそこまで稼ぐことができた要因はなんだと思われますか?

現在と比べて、ウェブ開発の市場が圧倒的に小さかったことが関係していると思います。今より受注も簡単で、こちらで選べる案件が多かったんです。そのため、費用対効果を基準に、受注したいかしたくないのか線引きしつつ、手が回らなければ断りました。単価が高いサーバーサイドの受注は優先的に受けていました。

あとはやはり、被災地で湧き上がってきた「人のために働こう」という衝動に突き動かされたといいますか。プログラミングのし過ぎで死ぬことは無いですが、体力が尽きるまでなら、出来る限り仕事を引き受けようと腹を括っていました。

エンジニアから一転 調理師として就職

ー高校卒業後の進路はどうされましたか?

高校は進学校だったので大学進学を選択する人が多かったのですが、私は調理に興味を持っていたので、料理学校に1年通いました。その後、2年ほどブライダル系の会社で調理師をしていたんです。エンジニア業からは離れました。

料理っておもしろいですよ。例えば化学だと、何と何を混ぜるとこんな物質ができる、という公式がありますよね。料理の場合、何と何を混ぜたらどんな味になるかはわかりません。それを探求することに飽きがくることは一生ないでしょう。

ー今後は料理一筋の社会人生活を送られたのですね。

それを望んでいましたが、予想外の展開を迎えました。やむなく営業職の配属になったんです。

20歳になってお酒を飲むようになったある時、アルコールアレルギーだということが判明しました。それまでも手荒れで悩んでいたのですが、どうやらその原因はアルコールだったようなんです。手が荒れていると厨房で食中毒を起こす危険があったため、調理師として働くことを諦めなくてはいけませんでした。

元々調理師をしたかったので、営業の仕事にはもちろん、結婚式そのものに全く興味がありませんでした。営業先に行っても、自分がなにを話しているかも分からないくらいで、正直、本当に無念に思いました。

ーそのようなこころもちのなか、どのような工夫をして営業に臨んでいらっしゃったのでしょうか。

社内ではとても不評で、先輩たちからはお叱りの言葉をいただくこともありましたが、他の人と違う営業スタイルを貫いたから、結果を出すことができたのでは、と自負しています。

ウェディング・プランナーは普通、新婦に営業をかけます。昔は、新婦さんの両親が挙式代を払うことが多かったんです。しかし、現在は新郎の親が負担することが少なくありません。そのことに目を付け、僕は、新郎に売り込むことにしました。

新郎は式をどこで挙げるかだとか、結婚式自体にはあまり興味を示さないことが多いんです。しかし、お金の話は違います。関心を寄せる方が多いので、新郎に積極的にお金の話をシェアするようにしました。すると、それまであまり主張しなかった新郎が前のめりになるものですから、新婦も驚きと共に喜んでもらえます。この営業スタイルで成約が増えたんです。

蓋を開けてみると、青山地区の新規受注率で1位を獲得し、社内の歴代営業記録を総塗り替えしました。

ーその後はどのようなキャリアを歩まれたのでしょうか?

ウェディングプランナーをした後、偶然、求人広告で見つけた人材紹介の会社に転職しました。社員が3,4人のかなり小規模の会社でした。営業として、BtoBもBtoCも経験し、2年目にひとりで営業利益8,000万円を達成。表彰される機会にも多く恵まれました。その年に二度目の転職を決めて、現在に至ります。

「頑張らない人」の戦い方

ー未経験から始めた営業で大活躍された秘訣はなんだったとお考えですか?

成績を残すことができた背景には、「他の人がしない方法でやってみる」という心がけがあります。この意識が芽生えたのは、プログラミングをしていた時に「頑張ることに意味はない」と痛感したある出来事がきっかけです。 

当時、被災地に寄付するために、がむしゃらに頑張ってお金を稼いでいました。しかし、その頑張って稼いだ金額よりも、株で得た利益のほうがずっと大きかったんです。日経平均株価が約2倍になっていたことと、好きなゲーム会社の株を買っていたのが、スマホゲームブームのおかげで伸びたことが理由でした。

プログラミングは報酬が高いと思っていたのに、労力を費やしていない株の還元利益の方が高い。「僕が寝る間も惜しんでさばいた大量の案件は何だったのか」と…

ここにきて初めて、「頑張ることをやめよう」と決意しました。しっかり地に足をつけて考え、他の人と違う最適な手段を取ることが、結を出すことへの近道なんだと気付きました。

ー具体的に、意識されていることはありますか。

頑張らずに成果を出すために他に必要なことは、世の中の流れを知った上で動くこと、でしょうね。

ビットコインが話題になる前から投資していたんです。メディアで取り上げられるようになった頃には、最初は3、4万だったビットコインが120万くらいになっていました。世の中の流れを知るには、単純にみんなと同じことをするのではなく、みんなが当たり前だと思っていることを疑うことも大切ですね。

細かい点で意識していることは時間を割くなら、自分の得意なことに充てる。苦手な事務作業などは積極的に人に頼んで、効率よく動いていたんです。

ー浦邉さんの今後のご活躍から目が離せません!今日はお話をありがとうございました。

取材 : 青木空美子  (Twitter)
編集:野里のどか(ブログ/Twitter
デザイン:五十嵐有沙(Twitter
執筆:Yuka(Twitter