「コンプレックスが共感を生む」保守的だった私が、離島に移住し地域おこし協力隊に。地域魅力化ライター・湯目知史

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第69回目のゲストは鹿児島県の離島・種子島に移住して地域おこし協力隊をされている湯目知史さんです。

失敗や挫折を繰り返し、保守的な選択ばかりをとるようになっていた湯目さんが、縁もゆかりもない種子島へ移住することになった経緯から、自分のコンプレックスを「共感」を生む材料にする考え方が見えてきました。

 

コンプレックスは欠点ではない

ー本日はよろしくお願いします!まずは、湯目さんの自己紹介からお願いします。

湯目知史、25歳です。2020年4月に、東京から鹿児島県にある離島・種子島の中種子町(なかたねちょう)に移住して地域おこし協力隊となりました。

地域魅力化ライターとして、中種子町の魅力を発信しています。

 

ー「地域魅力化ライター」という肩書きはどのように生まれたんですか?

種子島はとても美しい島です。肉眼で天の川を眺めることもできますし、海も綺麗で…。でも、地元の方々はそれをわざわざ発信することはありません。彼らにとっては当たり前すぎる光景だからです。

移住者である私だからこそ、新鮮な気持ちで、種子島の魅力を切り取ることができます。日常だと思われているところの魅力を見つけ出し、発信しようと思って地域魅力化ライターになりました。

一緒に移住した妻と島を巡り、住んでいる人から直接お話を聞きながら記事を作成しています。

 

ー素敵ですね。離島への移住、という選択だけお聞きすると、とても行動力がある方だな…という印象を受けます。湯目さんはご自身のことをどのように捉えていますか?

人生を振り返ってみると、ずっと保守的な選択ばかりを重ねてきました。平凡だし、失敗も挫折も多く…。ただ、そういったコンプレックスだと捉えてしまいがちな部分は、必ずしも欠点ではないと思っているんですよね。

記事作成もそうですし、種子島の観光業もそうですが、なにより大事なのは「共感」を生むことです。私のいままでの経験、決して称えられるようなものではないですが、だからこそ、多くの人に共感してもらえることはできると考えています。

 

共感こそ武器になる

ー湯目さんの中に、「共感」というキーワードがあるんですね。それが育まれていった学生時代はどのように過ごされていたんですか?

宮城県の出身で、中学時代からバレーボールをしていました。弱小校にいたにもかかわらず、高いレベルの環境に身を置きたくなって、高校ではバレーの強豪校に進学しました。県内トップレベルの選手が集まりますから、ボール拾いの日々で…。マネージャーに転身し、レギュラー選手になることから逃げたのに、後輩マネージャーの存在ができたことで、さらに自分の居場所を失います。存在感がまるでありませんでした。

部活に時間をとられて、公立大への進学も失敗しました。地元の私立大学に進学して、教職免許の取得を志します。バレーはうまくなかったけれど、指導者になるのはいいかもしれない、とその頃は考えていたんです。

そんなとき、ある経済学のゼミの先生と出会います。それまで、大学の先生はどこか適当である、と偏見を持っていましたが、その先生は違いました。多くの時間を生徒のために費やして、全力で向き合ってくれたんです。 

そんな先生の熱意に動かされて、教職課程はやめ、ゼミでの勉強に熱心に取り組むようになります。

 

ー素晴らしい出会いがあったんですね。

先生の後押しがあって、防災関係のディベートの全国大会へ出場することになりました。私は高校の部活動の時に、東日本大震災に遭い、練習場だった体育館が避難場所になるという経験をしてました。しかし、ディベートは馴染みがなく…。

 

正直、「相手を論破さえすればいいんだ」そんな競技だと思っていました。でも、論理性はもちろんのこと、ディベートには共感がとても大事になります。勝ち負けを決める審判は人間です。議論が拮抗したとき、最後に票を手繰り寄せるのが共感です。

結果、準優勝という成績を修めることができました。

 

ー共感の重要性をディベートの場で知ったんですね。大学生活で印象深い経験を積んだ先で、どのような就職活動をされたのでしょうか?

正直、就活は全くうまくいきませんでした。スペシャリティがなにもない人間なので、100枚のエントリーシートを送り、面接すら進めないことがほとんどでした。拒絶、拒絶の繰り返して、承認欲求が満たされない出来事の連続に大変なストレスを抱えていたと思います。周りの友人にまるで就活が順調であるかのように装うことで、なんとか自分を保っていました。

インターンをしていた損保会社への就職を志望していましたが、損保の総合職というと、エリートと呼ばれる人たちが集まるところです。面接でそのような人たちと並んで、結果、落選…。ディベートやゼミでの経験から、一喜一憂しながらも成長してきたという気持ちがくじかれるような思いでした。段々と、「何をやっても、どうせそこそこの成果しか出せない」と後ろ向きな考えをするようになったんです。

 

ー就職活動は、かなり大変な思いをされたんですね。こくみん共済coopに就職を決められたのはどうしてですか?

当時、3社から内定はいただいていましたが、正直、どこの企業も決め手にかけていました。そんな中で、coopの人事の方は、「ぜひうちに来てほしい!」と熱量をもって接してくださいました。それまで枯渇していた承認欲求が満たされて、それで就職先を決めたんです。

配属されたのはリスク管理部で、私の保守的な思考を見抜かれたような人事に、思わず失笑してしまいました。

 

パートナーの存在が人生の指針に

ーcoopには3年お勤めになられたとお聞きしていますが、移住、そして地域おこし協力隊への転職を意識されたのはいつですか?

宮城の大学から、就職を機に上京していました。1年後、大学時代からお付き合いしていたパートナーも都内のベンチャー企業への就職と共に上京し、同棲生活を始めたんです。結婚を見据えてふたりでライフプランを考えるようになりました。

「ふたりでいる時間を増やすなら、一緒に仕事をしたほうがいいよね」ということで起業を意識するようになり、「せっかく起業するなら、景色が綺麗なところがいいな」ということで移住も考えるようになりました。

妻は岩手県の出身で、過疎化していく地域をなんとかしたいという気持ちを持っていました。就職した企業も、ベンチャーのコンサルティングファーム。将来を見据え、スキルを身につけるためです。地元を含め、各地域の課題解決に携わりたいという願いを聞いていて、地域おこし協力隊の制度を利用して種子島の中種子町へ移住することができました。

いきなりの起業、縁もゆかりもない土地に移住…となるとハードルがとても高いですが、地域おこし協力隊が足掛かりになってくれたんです。

 

ー素敵なパートナーさんですね。湯目さんの行動指針はふたりで作ってこられたことが感じられます。

保守的な私と違って、妻は、自分がやりたいということにとても素直で、行動的で、人目を全く気にしません。そういうところに惹かれていますし、今後も、この人と一緒なら面白い人生をつくっていけるぞと思って結婚しました。

きっと、妻の存在がなければ、会社への愚痴を毎日こぼしながら、それでも定年までずっと勤めていただろうと思います。

 

ー起業を考えているということですが、どのような事業をされるご予定なんでしょうか?

私たちが暮らす中種子町は、観光協会がないんです。なので、観光法人をつくって、観光客を接触的に誘致したいと考えています。

そのために、どんどん魅力を発信してきたいですね。

-本日は貴重なお話をありがとうございました!

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取材:西村創一朗(Twitter
執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter