2、3年後には図解を卒業します。「図解クリエイター」新垣才が語る、大学在学中から好きを仕事にした方法

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第110回目のゲストは合同会社ウェブデリの新垣才さんです。 新垣さんは、中学時代はバスケ、高校時代はアニメに熱狂したそう。その一方で不登校や勉強のやる気を喪失するなど、自分の人生にしっかりと向き合い、悩みながらも行動していく姿が魅力でした。現役路線とアニメイベントのある東京を優先し、東京工業大学に進学します。 大学院時代にTwitterで見つけた有名Youtuberのオンラインサロンで「図解」の世界を開拓した新垣さん。その背景には、好きを緻密に分析する力と方針に沿って行動する場がありました。 ーまずは自己紹介をお願いします。 図解クリエイターの新垣才です。「図解」とは、様々なモノゴトを整理整頓し、図形や文、アイコンなどを用いてわかりやすく説明したものです。図解を作ったり、図解の作り方を教えたりすることを仕事にしています。 また、合同会社ウェブデリを2020年4月に立ち上げました。ウェブデリでは、図解でコンテンツを視覚化する事業を展開しています。具体的には、スライド制作、スライド研修、SNSやWebメディア運営などです。「伝えたい想いが伝わる世の中を創る」を、企業ビジョンとして掲げています。 ー図解って、独特のポジションですよね。 そうですね。僕は、デザイナーではないので図解クリエイターと名乗るよう意識しています。デザイナーと名乗ると、WEBデザイナーやグラフィックデザイナーを思い浮かべると思いますが、図解はまた違ったアウトプットなんです。 バスケ少年の中学時代と根暗なアニメオタクの高校時代 ー図解クリエイターとなるまでの歩みを教えていただきたいです。学生時代はどのように過ごされていましたか? 中学受験をし、中高一貫校に入学しました。6年間を通してバスケ部に所属していました。部活自体の練習量が非常に多く、ほぼ毎日、バスケをしていました。あまり熱心な部員ではなくて、やる気がない方だったと思います…。もちろん、試合ではスタメンではなくベンチスタート。 ただ、それは中学生までの話で、高校1年生で、突然やる気が出たんです。朝の自主練もしましたし、本を何冊か読んで自分のポジションでの動きへの理解を深めました。一生懸命に練習を始めて2か月くらい経った頃に、腰に痛みを覚え…。医師の診断結果は「第五腰椎分離症」。過剰な練習が原因の疲労骨折でした。 ー振り返ってみて、どのような子どもでしたか? 小学生では学級委員長をやっていて、明るい性格でした。中学から突然静かになり、思春期で自分の容姿を気にするようになって、周りと全然話さなくなってしまったんです…。かなり根暗な性格でしたね。その上、腰の骨を悪くしたことが重なって精神的に病み不登校を経験しました。 ー思春期は人間関係で壁にぶつかったんですね。学業の方はどうでしたか? 中学生の時に、漫画「ドラゴン桜」の影響を受けて、「東大に入りたい!」と思うようになり、愛知県から両親に連れられて見学にまで行きました。しかし、不登校になると共に、勉強へのモチベーションも一気に下がってしまって…。高校3年生に進級するまでは、全く勉強をしていませんでした。 ーそのような状態から、大学進学とどのように向き合われたのでしょうか? 不登校になっている時、アニメを見ることが僕の楽しみでした。アニメのイベントは東京に集中しているので、それで、絶対東京には行きたかったんです。両親と相談し、資金のことも考えて国立大で理系の東京工業大学へ進学を決めます。 大学デビューとプログラミングの壁 ー大学生活はどうでしたか? ダンスサークルに入り、友達ができて、性格も明るくなりました。仲間たちと過ごす時間はとても楽しかったですね。他に、軽音サークルにも入っていて、バンドでボーカルをしていました。大学デビューというやつですね。 ー友人にも恵まれ、充実した大学生活を送られた後、大学院に進学したんですね。進路はどのように決められたのでしょうか? 大学では情報工学を勉強していました。これから伸びる分野であるという確信があったので選んだんです。東工大では9割程の学生がそのまま大学院への進学を選びます。「まだ働きたくないな」という気持ちもあり、僕も院に行くことにしました。大学では4年間、プログラミングを学んでいたんですが、大学院に入りようやく、プログラミングが好きじゃないことに気づいたんです。時間を無駄にしているような感覚さえ覚えていましたね。 5月には研究室も辞めてしまいます。教授との相性や失恋などでかなり落ち込みましたね。学業でのストレスがたまった状態で彼女と喧嘩し、振られてしまいました。当時は、かなり凹んだ記憶があります。 ー辛いことが一度に起きると、なかなか立ち上がるのも難しかったのでは? 数時間とにかく泣いて、「これからは好きなことをやろう」と気持ちを入れ替えられました。「ようやく解放された」そんな気分でした。経営や、人と関わること、事業立案などに関心があったので、もう一度大学院へ入学しなおして勉強を新たに開始することにしたんです。 5月には新たな進路を決め、8月の入試に備えて勉強の日々を送りました。無事に合格して翌年4月に経営工学部に入学できたんです。 ー入学までの期間はどのように過ごされていたんですか?また、入学後はどうでしたか? 他の学生は4年間経営を学んだ上で進学するので、そのレベルに追いつく必要があります。経営の国家資格を独学で勉強し、入学に備えました。大学院の修士課程は2年間です。1年目は就活に注力し、2年目はオンラインサロンで大学以外で出会える方たちとの交流を広くもちました。そこから、僕の現在の活動である図解クリエイターにつながっていきます。 はあちゅうサロンがきっかけで、図解の世界と出会う ーオンラインサロンに入られたきっかけはなんでしたか? はあちゅうさんの「自分を仕事にする生き方」という本を読んだところ、面白かったので、はあちゅうさんのツイッターをみたんです。Twitterを見ると、新しくオンラインサロンをはじめますとツイートしていたので、入ることに決めました。就活が終わりかけで、次の趣味を探していたタイミングでもあったんです。 ー好きを仕事にする発想はそこから強く持ったんですね。 僕の趣味は読書で、ロバート・キヨサキ著の「金持ち父さん貧乏父さん」という本に特に影響を受けています。本の中で会社員・自営業者・ビジネスオーナー・投資家という4つの働き方が紹介されているのですが、どれも自分でやってみたかったんです。オンラインサロンに入り、自分の商品やサービスを作って、稼ぐという経験を積みたいと考えていました。 ーそこから今のお仕事である図解へと繋がったんですね。 はあちゅうさんのサロンは、オープン3日後にはメンバー数が200人に到達していました。サロンのslackは、熱量が高く、24時間動いていたため、そこに流れる情報量も膨大でした。 そこで、サロンメンバーのことを考え、情報を簡素化して理解しやすくする取り組みを導入してはと考えたんです。図を用いて方向性の提案を投稿しました。すると、メンバーからポジティブな反応が次々と返ってきました。わかりやすい、どうやって図にしたのか、教えて欲しい…。その言葉を目にして、図にまとめることが誰にとっても得意なことだというわけじゃないと気づいたんです。 ー図解という切り口が導かれ、その後、どのように活動を発展させていったのでしょうか? まずは友人のカフェでサロンメンバーに向けて図解を教えるワークショップを開催しました。2回目からはTwitterで募集し、外部の方も参加できるように。そうやって、すこしずつ広げていったんです。そのような活動を通し、Twitterを経由していくつか仕事の依頼をいただけるようになりました。会社員になって3ヶ月経った頃には、長期的な業務委託契約の相談を2社からいただき、図解クリエイターとしての収入も増えていきましたね。 ーご自身のサービスの金額設定を行っていくのも、難しい工程だと思います。どのように決められましたか? 安売りしちゃだめというのは、周りの事業主の先輩や読んだ本から学んでいました。そのため、自分にとっては挑戦的な価格の1枚5,000円を設定しました。図解のサービス提供を行っている他の方の価格表も参考にしました。 ー1枚ごとではなく、中長期の業務委託契約となると、また金額感も違ってきますよね。 ご相談いただいた中長期の業務委託契約の請求では、図解枚数あたりの金額でも、月額報酬でもいいということでした。そこで、時給2,000円ほどで稼動工数を考え、月2万円の契約で提案したんです。しかし、「安すぎる」という理由で請求書が通りませんでした。その後、クライアントから4倍程の報酬をご提案いただきました。衝撃と同時に、とても嬉しかったですね。商品としての価値が認められたことで、学生感覚が完全になくなりました。自分の市場価値をしっかりと理解することができたんです。 ーそのまま複業ではなく、独立を選ばれていますね。 会社員生活は11ヶ月で終わりましたね。会社員の、月給制という給料体系が好きではありませんでした。月に160時間働き、定額をいただくという契約内容です。自分がお金を得るために会社に売るのは時間です。なので、言われたタスクを全部やらないといけません。納得しなくとも、やりたくなくとも、お金もらうためにやらなきゃいけないという感覚を個人的に感じていました。 一方で、社会人と同時並行で実践していたフリーランスの働き方では、成果に対し、対価であるお金をもらっています。やりたくないなら断れるし、値段交渉もできます。そのほうが僕は性に合っていました。 実家が近くにあって、お金に困った際には拠点を移せばいいというのも、精神的なセーフティーネットになっていたと思います。また、彼女と同棲をスタートさせることになったとき「いざとなったら、私が助けるから」と後押ししてくれたことも大きかったです。僕はきっと、今踏み出さなければ、この先もなにかと理由を付けては二の足を踏んでいたと思います。早いうちに行動に移したほうがいい、そう思って、独立、そして起業を選びました。 ー将来の展望はありますか? 2、3年で「図解の人」というイメージを卒業したいなと考えています。もうワンステージ先に進みたいですね。企業コンサルや、企画立案などに携わりたいです。図解を活かしつつ、別の領域に手を広げるイメージです。そのために、ブランド戦略やUXデザインを学びたいと考えています。 ー新垣さんは、図解に出会えて変わったと感じられます。まだ自分の道が定まっていない人にアドバイスはありますか? まずは、小さいことで構わないので「やりたい」「好きだな」という気持ちを大切にして欲しいです。例えば、食事のときにお店のメニューで「これが食べたい!」と感じるものを注文する。歩きながら、周囲を観察し、「あの店のデザインや見た目が好き、嫌い」と考える…そんなことでもいいんです。何が好き・嫌い、何がやりたい・やりたくない…その判断を小さいことでいいので日常から実践してみる。判断力というのはスキルだと思うので、やらないと感覚が鈍ります。育てていきましょう。 また、特にこれは学生に伝えたいのですが、学生は社会人経験の浅さから分からないことがたくさんあるので、すぐに自分の道を見つけようとすることを諦めるのもオススメです。就活においても、いきなり100点狙いで新卒入社しなくて大丈夫。1社目を決めることは人生の一大事だと感じる人もいるかもしれません。しかし、学生から社会人になる過程で、社会の見え方や自分が進みたい道は絶対に変わります。 最後に、様々なことに手を出してみることです。僕は好き嫌いあれど、いろいろなことに挑戦しました。FPの資格取得、中小企業診断士の勉強、会社員で広報と人事、業務委託契約ではWEBマーケティング…いろいろやっていく中で、僕自身、好きなことの輪郭をよりはっきりと掴めていくことができたので。 ー本日はありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材者:三田 理紗子 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) 編集者:野里和花(ブログ/Twitter)・三田 理紗子 デザイナー:五十嵐有沙  

就職せず海外に 長年の教員志望から大方向転換 ベンチャーで「旅人採用」を担う青木空美子の不変の情熱

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第98回目のゲストは、日本初の旅人に特化した就職支援サービス、「旅人採用」を務める青木空美子さんです。 青木さんは『U-29 Career Lounge』(ユニキャリ) のアシスタントとしてお馴染みです。(ユニキャリでは毎朝、ユニークな価値観を持つ29歳以下の方々へのインタビューを生配信しています。) 教員を志し熱心に勉強していた青木さんは、意外なことに、就職せずオーストラリア行きを決断しました。 海外での語学アシスタント、公務員、そしてベンチャー企業と大きく舵を切ってきたようですが、心の底では教育へのたゆまぬ情熱を貫いていたのです。 青木さんのお話は、周囲の反対に遭っても、違う道でも、意志を持って自ら選択することで道は拓けると教えてくれます。 決断と苦難の一つひとつに正面から向き合ってきた、青木さんのこれまでの歩みを伺いました。 採用活動に新風 旅人の光る才能を発掘するエージェント ー青木さんが現在携われている旅人採用について教えてください。ご自身の就活迷子、海外経験、公務員勤務といった様々な経験を活かしてカウンセリングに励まれているそうですね。 旅人採用は、株式会社TABIPPOと株式会社ダイブが共同で運営する就職支援サービスです。旅人採用の「旅人」は海外を旅した経験がある人を指します。 私たちは旅人の就職サポートを行っており、現在は新卒の方々に特化しています。 2018年のローンチから大変多くの方に登録いただき、就職活動に新しい流れを生んでいます。 サービス立ち上げの背景には、旅人たちの海外経験を発掘し活かすサービスを展開したい、という事業発起人たちの強い思いがありました。 従来の選考では、旅人の強みが採用側に伝わりきらないことが多かったように感じています。旅の経験は履歴書に詳しく載りませんが、学生時代に大きく成長できる機会です。 そして、自分の軸を持っている、行動力があるといった旅人の持ち味は、才能の芽とも呼べます。私たちは、旅の経験が就職で有利になるカルチャーを作っていこうとしています。 ー青木さんも海外に行かれていましたが、旅人とそうでない人を比べて旅人の強みは何ですか? コミュニケーション力が高いという表面的な部分は話題になりやすいですが、より本質的な点は、恐れず新しいことに挑戦できる行動力です。 実際、自分の軸をしっかり持つ旅人たちは、組織によい影響を及ぼしています。それは、彼らがしっかりとした軸を持って生きているからです。 旅といえば遊んでいるイメージをどうしても持たれがちではあります。しかし、旅は人生を大きく変える原体験になることだってあるのです。 小学校時代から一筋に教員を目指す ―ご家族は公務員一家、祖父母は学校の先生だったそうですね。 そうです。祖父は校長先生でした。父母はどちらも教育学部を卒業し、公務員として市役所に勤務しています。何かしら教育に携わってきた家族ですね。 ―家庭教育が厳しかったのではないでしょうか? あまり「きつい」と感じたことや、家族に反抗することはありませんでしたが、振り返って「我が家は普通ではなかったのかもしれない」と気づきました。 周りに家族の話をすると一番驚かれるのは、サザエさん一家のように「大黒柱の祖父が一番たてられるべき」という考えが根付いていたことですね。 晩御飯の時間になれば祖父を呼びに行くとか、寝る前は祖父母の寝室の襖を丁寧に開けて土下座して「お先に失礼します。おやすみなさい。」と挨拶をするとか、祖父が箸を置くまで席を立てないとか…目上の方に対する丁重な態度を小さなことから教えてもらいました。 ―幼いの頃から小学校の先生を志し、教育学部に進学されたんですね? 大学時代は勉強に集中しようと入学時から決めていました。 有難いことに親のサポートもあって、本来ならば生活費を自分で工面すべきところ、アルバイトの時間を勉強にあてさせてもらう許可を得ることができました。 そのため、朝の6時から夜の11時まで大学にこもって勉強していた日もありました。 ―熱心に勉強していたことはなんですか? 教育も色々な分野があります。ひたすら教育学だけを勉強することもできますが、現場に入って必要になるのは自分で教材を開発できる力。 教科書をただなぞるだけでなく「この方が子どもたちに伝わりやすいから、こうしよう」と友人と盛んにディスカッションしていました。 あとはピアノの練習です。大学4年で進路決定をしてからは、ボランティアなどを積極的にしていましたが、それまでは「先生になるためにどれだけ頑張れるか」ばかり考えていました。 転機となった初の海外経験 長年の教員への夢を手放す ―そんな中転機になったのが、海外での短期留学ですね。旅人採用にも繋がってくると思いますが、どういうきっかけで海外留学に挑戦しようと思いましたか? ニュージーランドに1ヶ月間短期留学をしました。留学プログラムは、たまたま通りかかった大学の掲示板で見つけました。それを見て、ビビッときたんです。 大学生活を経て、自分自身が今まで生きてきた世界がいかに狭かったか、ということに気付き始めていました。家庭の状況もあって、視野が狭まっていたのかもしれません。 大学の友人やいろんな人を見るにつれて、漠然とした不安、「自分は何も知らないな」という恐怖を持ちました。 そんな中で、海外を選択した理由は、同じルーツも持たない、私のことを全く知らない人ばかりの環境で自分がどんな行動をとるのか知りたいと思ったからです。 その先に、今までの周りから影響を受けてきた自分ではなく、本来の自分が見えてくるのではないか、という期待がありました。 ―実際に海外に行ってみて、自分の中で大きな変化はありましたか? 自分の中では、革命的に変わったなと感じています。 ニュージーランド人は、積極的で恥ずかしさがなく、手を挙げたらその分の価値が返ってくると考えていて、彼らから大きな影響を受けました。 大学のプログラムとして日本人約15人で参加をしましたが、同じ留学生と一緒に活動するだけではなく、自分でもアクションを起こしました。そこから更に、チャンスが広がりました。 「自分で動き出したら、世界って広がるんだな」と、その経験から発見を得ました。と同時に、それまでの自分は環境のせいにしていたと気付きました。 「できない」のではなく、「やらなかった」だけなんだと反省しましたね。 ―帰国されて教職に就くと思いきや、その夢を断念されるんですね。どういう考えの変化があって、その決断をされましたか? 自分でも驚くような進路変更でした。大学1年生の頃から教育を突き詰めていたことから、学校教育が持つ制約が段々とわかってきていました。 さらに、教員になる夢を断念する最後の一押しとなったのは、大学3年次に参加した1ヶ月間の母校実習での経験です。 そこでいろんな先生に面談していただき、教頭先生以外の皆さんに「先生にはならないほうがいいよ」と言われたんです。私の特徴に対してというより、先生という仕事の複雑さゆえの助言でした。 また、実習の現場で、先生を務めるのは優秀な方だらけだなと実感したんですね。 優秀な方が全力を尽くしても課題があり続ける教育現場の状況に目を向けたとき、私がここから数十年働き続けたとして、課題を解決できるイメージが持てませんでした。 革命を起こしたいという大きな目標のようなものがあったわけではありませんでしたが、先生になった後の頭打ちが見えたといいますか。 プロにはなれるかもしれないけれど、プロ以上にはなれないと思ったことが大きなきっかけでしたね。 ―10年以上にわたって抱いてきた夢を手放す瞬間というのはなかなか苦しい決断だったと思います。 大学の先生に、「学校の先生にならないことに決めました。」と伝えたとき、「レールから外れるんだったらいらない。」、「存在自体が迷惑だよね。」と言われてしまいました。 本来なら就職活動にシフトすべきなのですが、就活のサポートを得られる状況ではないと悟りました。もう自力でしていかないと、と覚悟を持ちました。 就職せずオーストラリアへ「自分で決める」子どもたちを自身に重ねた ―そこから就職活動はどうされたのでしょうか? 就職活動は1ヶ月くらいしかしませんでした。それまで、小学校の先生になる夢しか持ってなかった人間が、新しい夢を突然掲げられるほど人生甘くはないですよね。 家族全員が公務員だったので、一般就職の相談は難しく、周りの友人も教員採用試験に向けて必死に勉強を頑張っていた時期でした。 自分の中で教師以外の選択肢が具体化するかどうか、休学していろいろなことに挑戦してみよう、と思った時もありました。ですが、こちらも大学の先生から許可を得ることはできませんでした。「教師にならないのに、休学なんてできないよ」と...。 そういう状況下で自分なりに情報収集をするしかありません。オーソドックスに3月から合同説明会に出て、1ヶ月だけ就職活動をしました。 ―1ヶ月で就職活動をやめたのはどうしてですか? 合同説明会の雰囲気や自己紹介の仕方、履歴書の書き方など、しっくりこなくて違和感を感じていました。 みんなが一様にスーツを着て企業の人事さんに駆け寄り、本当かもわからない言葉を交わしている…。 周りの就活生に対しても、人事さんに対しても、「心からの言葉を言っているのだろうか?」と疑いの目を向けるようになってしまったんです。そうして、就職活動はストップしました。 ―そこから海外へ行くことにしたのはどうしてですか? 当時、就職をする気にならなかったのは、私が働くとは何かを知らないからで、そこからくる自信のなさが大きいと思っていました。 このまま就職する以外の方法で、働く経験を得たい。 そういった想いと、自分のことをとことん突き詰めて考えて見えてきた自分の特徴、人生の中で経験しておきたいことを考えたとき、長期間の海外滞在に挑戦しようと決めました。 ―オーストラリアで日本語教師として働かれたんですよね。どのような経験になったのでしょうか? 自分にとって、原点となる経験でした。日本語教師としてオーストラリアの子どもたちと接し、自分で決めて自分で動く経験が人の成長に大きく関わると感じました。 日本の学校には時間割がありますよね。彼らには時間割がない日もあり、自分で今日やることを決め、勉強する言語も小学生の頃から自分で選べる環境にあるんです。 先生と生徒の間で、「あなたは何ができる?」、「今日、自分はこれをしようと思います。」という会話が交わされます。 自分で決めて自分でする、というサイクルを幼い頃から学んでいるんです。これは、日本では珍しい教育方法。 彼らを自分と重ねました。私の場合、オーストラリアに来る前に、自分で決めて新卒カードを捨てたのだと。 周りからとても反対されましたが、自分で選んで決めたからこそ、それぞれの経験が積み重なったなと振り返る機会になりましたね。 ただ、私の場合は気付くのが遅かった。幼い頃から、できるだけ自分で意思決定するサイクルを経験することの大切さを学びました。 バナーで見つけた「旅人採用」に応募 ―帰国後は市役所で働き、今はベンチャー企業で全く畑違いのチャレンジをされていますね。どのような経緯がありますか? 帰国後、親が在籍していた市役所で3ヶ月ほど事務を担当していました。 その後、海外渡航経験を活かし、英語専門職員として観光案内にも携わっていました。この時も、5年後の自分の姿が見えてしまったんです。教員の夢を断ったときと同じですね。 改めて自分の人生を振り返ったとき、やはり教育という想いは捨てきれませんでした。 頑張っている学校の先生に、外から何かしたい、という想いが募りました。教職志望から方向転換したとはいえ、自分の根本的な関心は人の成長に関わること、人の能力を見出すことだった。 そんな時に、たまたまバナーで旅人採用を見かけました。最初はユーザーとして登録を考えていました。 サービスが立ち上がった背景を知り、このサービスの運営に携われたらどんなに面白いだろうかと、思うようになりました。 人生でこの会社しか受けたことがありませんでしたし、面接も履歴書を書くのも初めてのこと。まさか受かるとは思いませんでした。 ―採用された要因は何だと思いますか? 入社して3ヶ月くらいが最も辛く、周りの人々の優秀さに、「私はなぜ受かったのだろう」と疑問に思うことばかりでした。 実は、最終面接では、私の経験不足が理由で執行役員の見立ては不採用だったらしいんです。 しかし、面接に同席していた現在の同僚と事業リーダーが「この子は育ちます。もし違ったら自分たちが責任を取ります」とまで執行役員に掛け合ってくれていたと、後々知りました。 がむしゃらに頑張れる可能性をくんで頂けたのかな、と今は思っています。 ―旅人採用に携わり2年ほどですね。振り返ってみてどのように感じていますか? 大変でしたが、楽しかったですね。事業の立ち上げは簡単ではないので、忙しく、終電で帰ることが多くて体を壊すことも。 それでも、大好きなメンバーと泣きながら笑いながら進んでこれたことは、人生においてかなり大きな経験になっていると感じています。 ―大学生をはじめ、学生に向けてどんなことを伝えたいですか? 社会的規範や「〜すべき」という世間一般の常識だけでなく、「あなたはどうしたいのか」の答えを大切に守ってあげてほしいな、と思います。 私が就職しないと決めたとき、周りからは「新卒ってゴールドカードだよ?なんで捨てるの?」と言われました。 「新卒で就職する方が有利」という概念は、大人たちが創り上げた仕組みであって、学生さんが必ずそれに従わなければいけない理由はありません。 当時の私も、まだまだ未熟でしたが、自分なりに自分の特徴を考えました。 本当にやりたいことなのかわからない、働く覚悟があるのかもわからないけれど、新卒で就活した方が有利だからという理由で入社を決めた人生。 一方、自己責任のもと自分で選んだ人生に基づいて、青木空美子という人間を見ていただいた上で、「一緒に働こう」と言っていただいた人生...。 どちらを歩みたいかと考えたとき、私の場合は後者が残りました。だったらもう、自分で責任を取って進むしかない、という覚悟に変わったんです。 学生の皆さん。社会に対して何か疑問に思うことがあれば、その疑問を大切にしてください。 そして、異論を呈するだけでなく、「自分はどうしたいのか」に転嫁されるまで、考えたり動いたりしてみてほしいなと思います。 ー上京から2年を経て、どのようなことに気付きましたか?また、今後挑戦してみたいことはありますか? 何事も自分次第だと気付きました。これは、上京してよかった点でもありますね。東京は何でも手に入ります。環境のせいには全くならないと実感しました。自分がやらなかった、判断しなかった、本当にそれだけです。だからこそ、足を動かし、認識を広げることが重要だと知りました。 仕事としては、今後も教育には関わっていきたいと思っています。制約ある中で頑張っている学校の先生を助けるためにも、民間という外の世界から、少しでも学生さん、子どもたちのためになることをしたいですね。 プライベートとしては、「自分で決めた人生を悔いなく生きる」というモットーのもと、「やらなかった」で後悔しない選択をしていきたいと思います。 ー本日はありがとうございました!今後のご活躍も楽しみにしています。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材 : 西村創一朗  (Facebook/Twitter/note) 執筆:笹谷由佳(Twitter) 編集:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)        

「世の中のめんどくさいを効率化する」中卒エンジニア・小野花依がエンジニアと高卒認定試験の二足の草鞋を履くようになるまでの物語

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは中卒エンジニアとして株式会社日本暗号資産市場で活躍をされている小野花依さんです。 わずか16歳で「オクリマ」というサービスをローンチした実績を持つ小野花依さん。小学生時代に将棋大会で全国優勝を経験しながらも、中学生で将棋から距離を置く決意。高校に行かず、エンジニアとして働きながら、高卒認定試験の勉強をしているというユニークなキャリアを持つ小野さんのユニークキャリアに到るまでの歩みに今回は迫りました。   将棋の大会で全国優勝と将棋をやめた理由 ー本日はよろしくお願いします。まずは小野さんの現在について教えてください。 去年の12月から日本暗号市場という会社に3月までエンジニアのインターンとして入ってたんですけど、3月から週4日の時短社員として入社しました。 週4日エンジニアとして働いているその一方で、今は高卒認定試験に合格するために勉強をしています。 最近では「オクリマ」というサービスをローンチさせて頂いたり、自社のプレスリリースにも携わっています! ープログラミングと出会う前は、将棋をやっていたとお伺いしたのですが、将棋を始めたきっかけはなんだったのでしょうか? 幼稚園の年長から小学6年生まで将棋を習っていたのですが、姉が将棋会館に通うようになったので、自分も一緒に通うようになったのが始めたきっかけです。 小学校に通っていた時は、放課後や休日は基本的にずっと将棋付けの毎日でした。 とにかく将棋を指すのが楽しかったので、できるだけ毎日指し続けたいなって。 その甲斐もあって全国大会の小学生の部で優勝することもできました。 ー全国優勝はすごいですね!中学に入ってからはなんで将棋を続けなかったんですか? はい。中学に上がった段階で、将来棋士を目指すのは自分の中では違うなと思い始めたんです。 一旦将棋から離れようと思って、将棋を指すのであれば、趣味程度にしようと決めました。 自分の親に報告した時は、「良いんじゃない」って感じだったので、潔くやめる決断ができて良かったです。   学校教育の教育システムに疑問を持ち始めた中学時代 ー小学生の時は充実した生活を送られていたと思うんですけど、中学生になってからの生活はどうでしたか? うーん、あんまり良い思い出はないですね。休み時間が楽しくありませんでした。友達はたくさんいたんですけど、自分の中であまり楽しくないという思いがずっとあったのは確かです。 ー中学生になって、学校の教育システムに疑問を持つようになったきっかけはなんだったんでしょうか? 小学生の頃は将棋もありましたし、学校が楽しかったので、何も疑問に思わなかったんです。 でも中学生になって、環境の変化からか凄くメンタルが不安定になってしまって、、、 校則で生徒を縛って、生徒全員に同じ格好をさせたり、生徒が学力や生活態度で評価される環境がすごく苦痛に感じてしまいました。 学校がなくても普通に勉強ができてましたし、だから「なんで私は毎日集団で勉強しなきゃいけないんだろう」みたいな。 中学1年の終わりぐらいから「勉強するぐらいなら家でもできるし、学校にわざわざ行く意味ってなんなんだろう」って、思うようになったのがきっかけです。 「学校に行かない」という選択もできたんですけど、その選択をしなかったのは、「義務教育」というシステムがあったからなんです。 「義務教育でみんなも学校に通ってるし、私も通おう」となんとなく学校に通い続けていました。 ー小野さんは中学を卒業して、高校に進学する人がほとんどの中で、「高校に進学しない」と決断をされてしますよね。「高校に進学しない」と決めたきっかけってなんだったんですか? 中学三年生の時の話なんですけど、私が進学するかどうか悩んでいた時に、母から「通信制も良いんじゃない?」って提案してもらいました。その時に「高卒認定試験」の存在を知ったのがきっかけですね。 「高卒認定資格」を取れば、大学に行けることを知って、「わざわざ集団で勉強する必要もないな」と思うようになりました。 うちは恵まれていて、親が塾の先生なんです。もし勉強でわからないことが出てきた場合は、親に聞けば良いので、自宅でも勉強ができる環境が整っているんですよ。 だから、思い切って高校に進まないという選択をしました。   ー素敵な親御さんですね。多くの親は「我が子のためだ」って言いながら、進学を勧める人が多い中で、小野さんの意思を尊重しているってことが今のお話から感じられたんですけど、やりたいことは意思を尊重してくれる家庭なんですか? そうですね。昔から私のやりたいことを挑戦させてもらえる環境にいました。将棋をのびのびとやらせてもらったのも、両親のおかげですし、本当に感謝しかありません。 とはいえ高校進学の時だけはいつもと違って、最初は「高校に行かない選択」を両親に猛反対されました。。。 でも最終的には「私に任せる」って言ってもらえて嬉しかったです。その結果、高校に進学せずに、学校教育のしがらみから全て開放された気がしました。   アルバイトと勉強の両立。プログラミングとの出会い ー中学を卒業してからどんなことをされてたのですか? 飲食店でアルバイトをしながら、とにかく勉強ばっかしてました。友達の数がかなり減ったので、影響されることが少なくなったんです。 周りの影響を受けなくなったことがきっかけで、いろんなことを始めてみようかなと。プログラミングを始めたのもそれの1つでしたね。   ープログラミングはどういう経緯で始めようと思ったのですか? 家で父親と話しているときに、「最近プログラミングが流行ってるらしいね。プログラミングを始めてみたら?」と言われました。 その当時はなんでもやってみよう精神があって、その1つとしてプログラミングを始めてみようかなと。 でも具体的なことは何も説明されなかったんですよ。何から始めたら良いのか全然わからなかったので、とりあえず近くにある書店で「Ruby」の本を買いました。 書籍で学習を始めてみたら、思ったよりも楽しくて、1日8時間ぐらい勉強するぐらいのめり込んでいる自分がいたので、びっくりですよね。   ー1日8時間も勉強するのはすごいですね!プログラミング学習は独学だと挫折する人がほとんどなんですけど、どのように勉強していたのですか? 「teratai」という簡単に質問ができるサービスを利用してました。 最初に買った書籍の中でわからない箇所が11箇所ほどあったのですが、「teratai」で質問して、疑問点を解消させていったって感じですね。 でも質問してもわからない箇所が3箇所ぐらいあって、、、当時はググる力もなかったので、どうしてもわからなかったら一旦置いて、次に行くって感じで進めていました。   ープログラミングを学習して、実際にプログラミングができるようになるまでどのぐらい時間が掛かったのですか? 私は今でもプログラミングができるとは思ってないので、まだできる段階には全く到達していないです。だからもっといろんなことを学習して、できる幅を増やしていきたいですね。   「Twitter転職」でバズを起こし、そのきっかけで日本暗号資産市場と出会うことに ー日本暗号資産市場との出会いはなにがきっかけでしたか? プログラミングの学習を始めて、3ヵ月が経とうとしたタイミングで、当時「Twitter転職」ってタグが流行っていたんです。 「今16歳なんですけど、エンジニアとして働けます」という投稿をしたら、たくさんRTされて見つけてもらいました。バズってこんな感じなのかぁって感じでしたね。 Twitterで知り合った中の1人から紹介してもらって、一度面談をさせていただきました。面談の場所はオフィスではなく、まさかのカフェでした。普通の会社はオフィスがあると思っていたのですが、オフィスがないってところが1番びっくりしました。。。 実際に事業について熱く語っていらして、すごい熱意のある人だなって印象を受けたんです。「ここで働きたいと」感じたので、「ぜひ入らせてください」という形で自分からお願いして、入社しました。   ー代表さんの熱意に惹かれたのですね。学業との両立が大変だと思うのですが、実際どうですか? 勉強自体の時間が減ってしまうので、学業との両立が難しいですね。「プログラミングを独学で勉強したい」って気持ちと、「高卒認定試験」の勉強の時間に充てたい気持ちがあったので、現在週4日間稼働してます。 だから基本的に暇な時間、休憩時間などを参考書や単語帳を開いて、勉強時間に充てています。 たまにプライベートで、友達と出かけたりもするんですけど、プログラミングが好きすぎて、家にいるときもずっとプログラミングをしちゃうんですよ。。 プログラミングに出会ったのが父親がきっかけでしたので、本当に感謝しかありません。 ー日本暗号資産市場について教えてもらってもよろしいですか? 日本暗号資産市場は、ユーザーから箱を受け取って、それを芸者専用の市場で売るという会社。ユーザーから箱を受け取る「オクリマ」というサービスを現在開発しています 「オクリマ」というサービスは箱を受け取って、受け取った料金をお渡しするという買取サービスを開発しております。そのほかにも会社の業務効率に役立つスラックのボットの開発をやっていて、私はシステム開発と後方でプレスリリースの作成に携わっています。   ー日本暗号資産市場でのお仕事は楽しいですか? 弊社は「ICS」という組織を採用してまして、緊急事態にも対応できるように、部署に仕事を振るのではなく、1人ひとりに仕事を振る形なんです。 だから、今いる部署以外でも自由に仕事ができまして、「この部署が気になる」と思ったら、そこにジョインできるのがすごく楽しいですね。   世の中のめんどくさいを効率化する   ー「オクリマ」は小野さんのアイデアだったのですか? そうですね。どうやったらうまくいくかなということは普段から考えていますので、そこから生まれたのかなと。 私もフリマアプリに出品しているんですけど、実際に使ってみたら、出品もめんどくさいし、発想もめんどくさかったので、外注できるサービスがないかなと思ってたら、「あ、うちの会社で作ればいいじゃん」ってなりました。   ー手数料無料、回収も無料、最短0日で売り上げが確定する便利なサービスだなと思うんですけど、どうやって販売手数料無料を実現しているのですか? お客様の商品を売る過程で業者専用の市場がありまして、その一連の過程の中で古物商の方から手数料を得ているので、ユーザーから手数料を取らない形を生み出すことに成功しました。   ー生まれて初めて発想したサービスが、世に出た時はどんな気持ちでしたか? 「サービスが徐々にできていくな」って気持ちと、「サービスの発展によって徐々に会社が大きくなっているな」って気持ちのふたつが込み上げてきました。 まだまだ発展途上のサービスなので、もっと良いサービスにして、出来るだけ多くの人に使ってもらえたら嬉しいです。   ー現在エンジニアと高卒認定試験の二足の草鞋を履いている小野さんは、今後はこんなことに挑戦してみたいということはありますか? 大学に行こうかなと思っています。ただ普通の受験は考えてなくて、AO試験か通信制の大学に行こうかなと。 大学で総合的にいろんなことを学びたいので、どこの大学に行きたいっていう希望は今のところあんまりないんです。プログラミングは情報学科ではなく、実践で学びたい気持ちが強いので、大学で学ぶことは今のところ考えていません。 とにかく大学で総合的にいろんなことを学びたいなと。 今後具体的に学びたい分野が出てくるかもしれないんですけど、現在は特定のことを学びたいというわけではないんです。 あともっと自分の技術を向上させていろんなサービスを作りたいですね。うちの会社は仮想通貨を扱っているので、そこで得た独占技術を用いたサービスを作りたいと思っています!   ーエンジニア1年生で自分でサービスを生み出している小野さんの今後がますます楽しみですね!本日は貴重なお時間をいただき本当にありがとうございました!   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる   === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:サトウリョウタ(note/Twitter)

茶人として生きる岩本涼が語る、茶の魅力と茶の湯という思想

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第111回のゲストは株式会社TeaRoom代表の岩本涼さんです。 幼少期からずっと茶道を続けてこられた岩本さんがお茶で起業を決めたきっかけと現在に至るまでのお話をお伺いました。また今後お茶を更に身近なものにしていくべく、岩本さんが現在進めている新しいサービス・プロジェクトについてもお話いただきましたので最後までぜひお読みください! お茶との出会いは9歳の頃 ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします。 茶の湯(茶道)という思想と日本茶という産業の隔たりを感じたことがきっかけで2018年5月に株式会社TeaRoomを創業し代表を務めています。茶の湯という日本の素晴らしい文化を次世代に伝えていくべく、「お茶で対立のない優しい世界をつくる」を理念にお茶に関わることに幅広く取り組んでいます。 ー岩本さんのお茶との出会いはいつ頃だったのでしょうか。 9歳の頃に茶道を習い始めたのがきっかけです。当時テレビでみた東山紀之さんの和服姿に憧れて、茶道をやってみたいと思ったんです。両親がそれを聞いて裏千家の茶道教室を見つけてきてくれ、習い始めることになりました。 元々「コミュニティに所属する」のが小さい頃から苦手なタイプで、学校以外の場に足を運ぶことが多かったこともあり、自発的にやってみたいと思った習い事を挑戦させてもらっていました。 ーということは他にも習い事はされていたんですか。 5歳から空手を習っていました。9歳の時に黒帯を取得し、150人規模の道場の頭となり他の生徒の指導なども行っていました。空手は今でも指導員としてずっと続けています。また唯一両親に非言語のコミュニケーション方法として勧められて始めたバイオリンも今でも続けており、年に1回のオーケストラに参加しています。 ー幼少期の習い事を今でもずっと続けられているのはすごいですね…! 両親が自分の感性の赴くままにやりたいことをやりなさいと言ってくれたおかげです。逆に「勉強するな」と育てられたこともあり小学校はほとんど勉強することなく過ごしていたところ、中学に入学して自分の学力がかなり低いことに気づくことになりました。これは取り返さないと、と思い両親に塾に行かせてもらえるようお願いし、勉強するようになったところ成績がやればやるほど伸びて勉強が楽しいと思えるようになりました。   留学がきっかけで知った喫茶の文化と魅力 ーなるほど…その結果高校受験はうまくいったのですか。 第一志望であった早稲田大学の附属高校である早稲田大学高等学院に無事合格することができました。偏差値28から偏差値78の高校に受かったので努力した甲斐がありましたね。ただ、実際入学してみると周りに自分より頭の良い人がたくさんいて焦るようになりました。大学に入ったら留学したいと思っていたことや、行くからには政治経済学部に行きたいという思いがあったので高校に入学してからも必死に勉強していました。 ー大学にその後入学され、留学には行かれのでしょうか。 はい。希望通り政治経済学部に進学することができ、大学在籍中に計3回留学することもできました。留学に行ったことで、日本では当たり前なことが海外では違うことに気づくことができたのはとても良い経験になりました。例えば日本では牛丼が300円で食べれますが、海外ではこれも立派な日本のカルチャーと捉えられます。海外に行き、他国を知ることで初めて自国を知ることができるのは留学の醍醐味だと思います。 ー留学がきっかけでやはり起業という選択肢も視野に入れるようになったのですか。 そうですね。留学がきっかけで「日本の物で世界で戦えるものは何か?」と考えるようになりました。その中で「喫茶」という、飲料を通して人と人が空間を共有する文化が世界中にあるのは面白いなと思いました。昔は飲み物に毒が入れられているかもしれない可能性があった中で、一緒に飲み物を飲むということはリスクを共有するということでもありました。 日本では緑茶やほうじ茶などのお茶がありますが、海外にはコーヒーを飲む文化がある国があったり、ハーブやスパイスを煎じてお茶として楽しむ文化がある国もあったりと本当に様々です。ただ、その中で日本の茶道という文化はライフスタイルとして浸透しているのではなく生き方として浸透しているのが特徴だと思いました。そんな茶道の思想を茶人としてこれから伝えていくことができたらいいなと思ったんです。   茶は形を変えて若い世代には楽しまれている ーそこからお茶のビジネスをされるようになったんですね! はい。お茶に関連したビジネスはいろいろと挑戦しましたが現在は卸業者としてお茶を企業に提供するビジネスがメインとなっています。静岡にある経営破綻した日本茶工場を受け継ぎ、お茶の生産・開発・販売を行っています。 ー工場を受け継ぐことは大きな決断だったかと思いますがいかがでしたか。 工場のある地域が平均年齢78歳の山奥にある村だったので、地域活性化の観点からむしろ喜んで受け入れてもらえると初めは思っていました。しかし実際のところは村からの反発があり、受け入れてもらえるまでには苦労することとなりました。 村にある組合のトップの方になぜ当時21歳だった私と22歳だった共同創業者がこの村に移住し、右肩下がりである産業に対してどう取り組もうとしているのかという思いを何度も伝え、少しずつ村の方々の理解を得ることができましたね。 ー実際のところ、茶産業は右肩下がりなのですか。 そうですね。しかし個人的にはこの右肩下がりの原因はおじいちゃん・おばあちゃん世代が茶葉からペットボトルのお茶にシフトしているのが原因だと思っています。昔はよく祖父母の家に遊びに行ったら急須に入れたお茶がでてきたけれど、今はペットボトルのお茶がでてくるようになったという経験のある人が多いのではないでしょうか。 逆に若者は以前よりお茶を飲むようになっていると私は思っています。ただし、それが急須にいれて飲むお茶ではなく、抹茶ラテなどの飲み物や抹茶アイスなどと形を変えて消費されているのだと思います。 ー確かにそうかもしれませんね。 だからこそ私たちは20~30代をターゲットとしたビジネスをやっていきたいと思っています。茶という文化の価値を次の世代に繋げていくためにも、子供を今後産むであろう世代をターゲットとし、次世代に自然と茶の文化が浸透していってほしいと思っているからです。まだ私たちはスタートアップですが、茶の文化を次世代に伝えていくために、これから40年位かけて徐々に茶の魅力を伝えていくことが目標です。   茶の湯の良さを伝えていきたい ー茶の価値を20~30代に伝える方法として何か具体的に考えられていることはありますか。 現在、OCHILL(オチル)というお茶を吸うシーシャというプロジェクトに取り組んでいます。お茶はこれまで飲料として捉えられてきましたが、それを気化してシーシャ(水タバコ)で楽しんでもらおうという試みです。 実はカフェインは飲んで腸で吸収するよりも気化して肺で吸収した方が効率がいいんです。お茶には飲む時に鼻から匂う香りもありますが、飲んだ後に喉の奥から花に戻ってくる香りもあります。それを水タバコを通して楽しんでいただければと思っています。来年には都内のお店で皆さんにも楽しんでいただける計画でプロジェクトを進めています! ーそれは楽しみです!その他、今後の展望や目標があればぜひ教えてください。 近々、お茶で夜の睡眠を改善しセルフマネジメントできるサービスをスタートしようと考えています。日本茶と茶の湯(茶道)の融合をしたいと思ったことがきっかけなのですが、お茶という有形のモノを通して思想を伝えることをしてみたいです。まだ想像できないかもしれませんが、茶の湯における動作や所作の意味を、日本茶を飲むという喫茶体験に応用していくサービスにしていきます。こちらは来月頃に情報解禁できる予定となっておりますのでぜひ楽しみにしていてください! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:山崎貴大 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)  

日本と中国、二カ国でのマイノリティを力に変え、起業のアクセルを踏んだ、株式会社Lincの仲思遥さん。

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第104回目のゲストは株式会社Lincの仲思遥さんです。 日本、中国で学校に通学し、秀逸な仲間に囲まれて自分の輝けるポジションを意識しながらも、小さな努力を絶えず惜しまずに取り組んでいました。 残業だけで月平均200時間を仕事に打ち込んだ仲さん。大手投資銀行から独立を決めた背景には、ビジョンの不一致の経験と、外国人として自身がこれまで感じていた課題がありました。 優秀層の外国人に日本での就労機会を与えるというひらめきの背景 ー株式会社Lincを創業し、経営されてらっしゃる。簡単に略歴も含めて、お仕事の紹介と自己紹介をお願い致します。 6歳で初めて日本に来ました。当時、僕の父親が中国の会社を辞めて日本に留学に来ました。福岡で小学校卒業まで住んでました。その後、父親の仕事の都合で、中学校から中国に戻りました。大連に移住し、インターナショナルスクールに通い始めました。高校卒業まで、中国にいました。高校卒業し、僕の友達たちは欧米の大学に進学しました。 自分の強みを生かしたかった。今欧米に行っても自分のポジショニング的にあんまりおいしくないと考えました。日本も好きでした。したがって、日本の大学に進学しました。大学を卒業し、野村証券会社に入りました。投資銀行業務に 3 年間ほど従事しました。IT系企業向けの M&A・資金調達を担当しました。主にIPOが中心でした。当時リクルートのIPOの主幹事証券を野村が務めました。僕のチームが担当しました。 リクルートのビジネスモデルを色んな方向から見て、面白いなと思いました。 リクルートは情報の格差といった「負」がある産業において事業者と一般消費者を結びつけます。ビジネス手法が、面白いなと思いました。一方で過去の経験を振り返ると、一外国人として使いづらいなぁと、感じる部分もありました。就職活動でリクナビに登録しましたが、ほとんど使いませんでした。 ふと、外国人が使いやすいライフイベントサービスを作れないかと思いました。日本は少子高齢化で、深刻な人手不足です。生産性を保つためにも今後特に優秀層の外国人が増えると予想しています。日本に外国人が増えて来る将来に備えて、サポートできるインフラを今から整えたい、外国人材版のリクルートを目指すべく、3 年間働いた後に会社を退職し、現在の株式会社Lincを作りました。 ー起業自体は、昔からやりたいと考えてた? 僕が就職活動をしたのは、2012年から2013年の間です。中国では起業が爆発的に増えました。例えば、タクシー会社「ディーディー」さん、TikTokを運営するバイトダンスさん等。どういう会社が出て、何が成功したのかに興味がありました。しかし、自分が大学卒業しすぐに起業しても、武器がないと気づきました。 自分は起業したいのか、何をやるかを含めて少し修行したい気持ちが強かったです。修行なら少なくとも、経営者に会える環境に行きたいと思いました。投資銀行かコンサルが選択肢に上がりました。専門的な知識を身に付けたい。投資銀行を受け、ITのセクターに行きたいと伝えていました。無事通りました。様々な規模の企業のIPOやM&Aに携われました。色んな案件を通して、経営者の思考や意思決定の仕方等を学びました。 最後は1 ヶ月以内にすぱっと辞めて、起業しました。 ー事業は、学習支援事業のLinc Studyと、キャリアマッチングサービスのLinc Career。 2 つをやろうと思ったのはなぜですか? Linc Studyの方から申し上げます。僕は日本に留学していました。僕の父親も 30 年前に一回日本に留学しましたが、 30 年前と現在で変化はありません。 学生たちは高校を卒業したら、エージェントや仲介業者に頼り、語学学校に入ります。しかし、語学学校の差別化はあまりありません。2 年間の学習期間で、基礎的な日本語は学べますが、進学の対策はほとんど独学で行いました。 大学進学は、留学生版のセンター試験があります。物理、化学、数学、数Ⅱ・数Ⅲをはじめ、受験科目を語学学校のみで勉強することができなかったため、当時は不便だと感じました。僕自身福岡の語学学校に通いながら、独学で受験科目を勉強しました。とても大変でした。だったら、支援できる環境を作りたい。Linc Studyは、日本に渡航する前から利用でき、進学に必要な情報や学習を一気通貫でオンライン上より提供できます。 また、中国では受験競争が世界トップレベルで激しい。近年は競争に揉まれるより早い段階から留学にしたい人が多くなりましたが、進学の準備ができる仕組みが中々ありませんでした。 中華圏で日本語を学ぶ方は115万人程います。Lincは来日前の留学生や全国で800校ある語学学校向けにLinc Studyを提供します。またLincは、進学のみではなく、生活面に関しても様々な企業と提携し、留学生にとって必要な情報やサービスを提供してます。 Linc Careerは学生と社会人が対象です。これまで多くの1、2年間働き離職した若手社会人を見てきました。求職者と企業のミスマッチは頻繁に起きてます。Linc Careerは「インバウンドタレント(外国人材)の可能性を再定義する」ことをミッションにマッチングのみならず、自己理解やスキルアップワークショップ、そしてコミュニティを提供してます。 Linc Careerをやり始めた理由も、自分より優秀な方が軒並み就職活動に苦労されていることを知ったからです。特に僕が就職活動してた2012、13年は氷河期でした。優秀なのに日本に残れなかった友人を何人もみました。。日本の就職活動はすごく特殊です。例えば、セミナーが参加自由なのに出席をとったり。キャリアカフェと言いながら、カフェでは全然無くて、面接だったり。外国人の方からしたら、「Why japanese people?」って感じです。 また、なんとなくみんなが就職するから就職するのではなく、自分が何をやりたいのかを知ることがとても大切です。Linc Careerを通じて私たちはより多様性と包容力あふれる社会を実現したいと思います。 日本でも、中国でもマイノリティだったので、自力で語学を克服した努力 ー「日本に来て良かったを、最大化させる」という思いの原体験は何でしょうか。 大学4 年生で実家に戻った時に、 6・7歳の時の住んでいた場所に行きました。そうしたら、若い人が全然いませんでした。おじいちゃん、おばあちゃん、ばっかりでした。小さい時に遊んだ遊具は、めちゃくちゃ錆びていました。長期間放置されていたからです。 総務省の人口動態調査があります。2020年の 1 月時点で日本国内の日本人は、確か前年度より 50 万人近く減少しました。1968年に人口動態調査は開始しました。それ以来最大の減り幅です。日本国内に確か在住外国人が 20 万人ぐらい増えています。20...

仕事もパートナーも全力。その根底にある妻スタグラマー・吉田達揮の秘められた想いとは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第95回目となる今回は、妻スタグラマーとして多数のnoteを投稿しながら、本業では2度の転職経験を持つ吉田達揮さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 キャプテンとして挑んだハンドボールの大会で準優勝に終わり、自分の弱さを痛感した小学校時代。また、持ち前の負けず嫌いな性格を発揮して上位の成績を残した吉田さんですが、当時周りにいた人とは違った進路選択をします。進学校から有名な国公立大学という典型的な道ではなく、私学へ指定校推薦で進学を決めた背景には、一体何があったのか。その後、新卒で入社した会社で奥様と出会い、ひょんなことから『妻スタグラマー』としての活動を始めました。 皆さんの近くには大切な人がいますか?その人と、最近どんな言葉を交わしましたか?仕事もパートナーも大切にする吉田さんには、「今、1番近くにいる人」に対するあたたかい想いがありました。   妻スタグラマーの誕生とパートナーへの想い ー本日はよろしくお願いします!吉田さんを表わす妻スタグラマーという言葉は初めて聞きました。吉田さんのオリジナルなのでしょうか? もともと『嫁グラフィー』という言葉は、世の中に存在していたようで、奥さんをいい感じに撮影した写真がInstagramに投稿されています。しかし当時の僕はそうとは知らずに、妻の写真を『#妻スタグラマー』と称してアップしていました。それが妻スタグラマーを名乗るようになったきっかけですね。生業としてやっているのではなく、あくまでも僕の趣味です(笑)   ー何がきっかけとなり、いつ頃から始められたんですか? 結婚して半年くらい経った頃に開始しました。ある日、妻と出かけた時に撮った写真をInstagramにアップしようとしたんです。ふと遊び心が芽生えて、「妻スタグラマーと名乗ったら、いい旦那っぽく見えるんじゃない?」という話になったことがきっかけです。 ー何気ない会話からスタートしたんですね。Instagram以外にもご自身のコンテンツを発信されているとお聞きしました。 noteを書いています!2019年10月から書き始め、12月頃から本格的に運用するようになりました。 『パートナーシップについて僕達はどう向き合い、どのように考えているか』『どうやって仲良くあろうとしているか』『妻の尊敬しているところや気になっていること』など、妻との関係を通して考えるパートナーシップについて書くことが多いです。自分の考えをアウトプットする手段にもなっていますね。最低毎週1本は書くと決めて、週刊マガジンのような形で吉田家に起こった出来事を記録しています。   ー特に多くの方に読まれたり、渾身の気持ちを込めて書いたりした記事はありますか?具体的な内容も教えてください。 『「専業主婦」はブランクではない。』という記事は、いろいろな方から「この考え方いいね」と反響がありました。 実は、昨年末から妻が専業主婦をしているんです。今の日本は、専業主婦になることに対して、どちらかというとネガティブなイメージを持っていますよね。でも、僕は営業や事務といった職業から『主婦業』に変わっただけだと思っているので、キャリアダウンだと捉えたことはありません。そこから学ぶこともあるし、楽しさを感じることだってあるはずです。『ただ職種が変わっただけだ』という僕の捉え方を記事にしました。 ーnoteで書かれていた『パートナーを大切にする人で世界が溢れますように』という言葉が印象的でした。どのような想いを込められたんですか? 『相手に優しくするために、自分の1番側にいる人を大切にしよう』というメッセージを表現しました。僕は仕事が好きで楽しく取り組んでいます。でも、その状態でいられるのは、一番近くにいる人との関係性のよさが起点になっていると感じています。仕事ですごく充実していても、パートナーとの関係がよくないと、なんとなく人生が楽しくないなと感じた瞬間がありました。だからこそ、『まずはパートナーを大切にする人でありたい』と思っています。パートナーを大切にしていると、自分にも余裕ができ、相手にも優しくできると思うんです。   ー結婚当初からこの想いを持っていたんですか? いえ、はじめはここまで明確な想いは持っていませんでした。妻スタグラマーという名前でいろいろな発信活動をしている間に、「なんでやっているの?」「奥さんってどんな人なの?」と質問を受けることが増えていきました。友人や先輩に、妻についてアウトプットする機会が多くなったことで、少しずつ妻を尊敬する気持ちや、自分は妻がいるからこうやって幸せに生きていられるんだ、と感じるようになっていきました。   ー仕事では、前職と転職後の現在の仕事でどのようなことをされているんですか? 6月末までは、採用代行や、人材系のサービス導入を企業向けに提案する仕事をしていました。転職先は、人事評価や目標管理のクラウドサービスを提供している会社です。僕はコンサルタントとして、企業の人事や経営層向けに、人事制度設計をサポートしています。 ー転職先は、どのようなところが決め手になったのでしょうか? 2つあります。1つは、HR Techの領域だったこと。もう1つは、志に共感できたことです。 転職先では、『仕事に夢を 日本に野望を』というビジョンを掲げています。これを自分の志にもしたいと思いました。その他にも様々な要因が重なりましたが、最終的には直感でしたね。気が付けば会社の記事や動画を見ている自分がいたんです。「こんなに意識しているんだ」と実感したことが、背中を押しました。   弱かった自分。「成功体験も僕にとっては失敗体験」   ー過去のお話も伺いたいです。幼少期はハンドボールに打ち込んでいたそうですね。何がきっかけで始めましたか? ハンドボール教室のコーチをしていた父の影響で、6歳のときに始めました。 兄がハンドボール教室に入れる年齢になったタイミングで、僕も練習について行ったことがきっかけです。 あまり覚えていないのですが、その頃の僕は「絶対やらない」と言っていたらしいんです(笑)でも、当時の監督が僕にボールを転がして「投げてみなよ」と言ってくださって。そのボールを投げたら、たまたまゴールに入ったことが嬉しくて始めたみたいです。中学時代はサッカー部に入ったものの、高校から大学まではまたハンドボールに取り組みました。 ーすごい継続力!小学校時代には、近畿大会で2位になったそうですね。この結果を残せた要因はなんだったのでしょうか? 同じ小学校の中で運動神経がよかった2人をチームに引き入れたことと、いろいろなタイミングが重なったことが大きかったですね。スポーツ人生のピークとも言える成功体験でした。 1つ上の代がいなかったので早めに僕達の代が主戦力となり、6年生になるまでは負けることも多かったんです。そんな時に、2人がチームに入ってくれたことが戦力になりました。当時、僕はキャプテンを務めていたので、自分自身もそれなりに頑張っていたと思います。ですが、『自分より優秀な人を採用する』ではないですが、チームの総力を上げるための行動をとれたことがよかったのでは、と思います。 ですが、結果的に優勝はしていないので、成功体験でもあり、失敗体験でもあると思っています。 実は、近畿大会決勝戦で「負けてもいいか」と、どこかで思った瞬間があったんです。サッカーでいうところのPKのような形になったのですが、そこで勝ちきれませんでした。優勝するのが怖くなってしまったんです。優勝して自分が目立つことが怖かったのかもしれません。   ーこのときの体験を、振り返ってどのように捉えていますか? 『準優勝は敗者である』。僕が好きな言葉です。 この言葉には、2つの捉え方があります。1つは、『準優勝は優勝ではないので目立たない。1番でないことに意味はない』という考え。もう1つは、『自分が準優勝だったということを捉え直して、次は勝てる可能性がある。優勝の可能性がある』という考え方です。この経験を通して、1つの言葉を2つの意味で捉えることができるようになりました。   自分で決めた道を行く!迷いはなかった進路選択 ー大学受験では、何がこだわりを持って大学を選んでいましたか? 特にこだわりはありませんでした。通っていた高校は、国公立大学への合格率が60%以上、東大や京大を志す人もすごく多かったです。ですが、当時の僕はそこまでの志を持つことができず、どこに行っても一緒だと感じていました。最終的には指定校推薦を選択し、高校3年生の9月頃には進学先が決定しました。関西学院大学を選びましたが、先生をはじめ学校として「私学は滑り止めで受けるのが当たり前だ」という価値観を持っている人がほとんどでした。 「なぜ第一志望で、かつ推薦をとるんだ」とかなり聞かれましたし、「考え直せ」とも言われました。でも、両親や塾の先生は僕の選択を応援してくれていたので、その声が励みになりました。それまでの歩みは兄に続く形が多く、結果的に、この決断がそれまでの人生で初めて『兄と違う選択肢を選んだ経験』となりました。   ーお兄さんからは、今後についてのアドバイスがありましたか? 特に何も言われなかったですね(笑)もともと家族自体が、誰かが何かをすることに対して批判をするわけでもなく、かと言って強く応援するわけでもないんです。「自分で選んだんだったらそれでいいよ」という感じで、送り出してもらいました。   ー大学生活はどのように過ごされていたのでしょうか? 基本的には、それまでとあまり変わらなかったように思います。引き続き、成績に関しては定量的な評価がつくので頑張っていました。唯一自慢できることは、所属していた経済学部全700名の中で成績上位1%に入り、奨学金をいただいたことです。定期テストの2日前から詰め込んで頑張ったかいがありました(笑)   ー圧倒的なコミット力!大学生活で一番思い出に残っていることはありますか? 大阪マラソンに出場し、『一般的なランナーが目指す4時間を切る』という目標を達成したことです。実は、ずっとマラソンが得意ではなく、友達がエントリーしてしまったので、仕方なく出場することにしました(笑)それから本番までの4ヶ月間、ほぼ毎月100㌔以上を走り続けました。達成感がありましたね。 ーその後、就職活動はどのように進めていらっしゃったのでしょうか? 両親と兄が全員教師ということもあり、初めの頃は、なんとなく公務員として働こうと思っていました。僕は教師になる予定はありませんでしたが、地元の和歌山県に戻って働くのだろうと思い、予備校に通っていたんです。   ー今とは違う道を考えていらっしゃったんですね。最終的に一般企業へ就職された背景には、どのような心境の変化がありましたか? 1年間の予備校通学の結果、一緒にいる人達となんとなく合わないことに気付いたんです。大学3年生の時でした。 このことを先生に相談したところ、「達揮はあまり公務員には向いてないんじゃないかな?」と言われました。そこから、『一般企業に就職する』という選択肢を意識するようになったんです。当時、仲の良かった先輩がレイスグループに就職されていて、その流れで人材系企業のお話を伺ったのが最初の一歩です。就職活動を始めるタイミングが周りよりも少し遅かったため、多種多様な業界の企業を短期間で受けましたね。   ーどのような基準で企業を見ていらっしゃいましたか? 主に3つあります。 1つ目は、営業先で社長に毎日会えそうな仕事であること。2つ目は、新規開拓営業ができること。3つ目は、就職活動の期間が短かったこともあり、自由度が高いことを大切にしていました。 3つ目に関しては、例えば、自分が関わる業界や会社の規模に縛りがないかを見ていましたね。人材系の企業では、新卒や中途専任の支援を軸として事業を展開する企業も多いです。こういった制約がないように掛け算をしていった結果、株式会社クイックが残りました。 ーどの程度の期間に渡って就職活動を行っていましたか?他の企業と迷うことはなかったのでしょうか? 2ヶ月くらいです。大学3年生の2月初旬からスタートして、3月末で内定をいただきました。一番最初に内定を頂いたのがクイックだったので、他に最終選考を控えていた企業は全て辞退し、入社を決めました。   ーそこでパートナーとも出会われたんですね。 妻とは同期入社メンバーとして知り合いました。1年目の10月にお付き合いを始めて、半年後の年度末にプロポーズをしたんです。そして、社会人3年目の年に入籍し、妻スタグラマー活動をはじめました。   5冠達成→転職で気づいた「独立はあくまでも手段でしかない」 ー当時、お仕事ではどのような活躍をされていたのでしょうか? 入社1年目から新人賞やMVPをいただくことはあったのですが、正直、なんとなく「もらっている」という感覚があってモヤモヤしていました。そんな中、ブレイクスルーできたと感じた経験がありました。 お客様へ価値提供ができたことに嬉しさを感じたことはもちろん、それだけでなく、社内表彰として全指標トップになることができました。全5つの指標全てでトップとなる5冠は前人未踏で、目標にもしていたため、成功体験となりました。   ー前例のないの成績を残すのは簡単ではない印象があります。達成できたポイントはなんだったのでしょうか?また、苦労はありましたか? なにより覚悟を決めたことです。感覚的なことなので言葉で言うのは簡単ですが、僕の場合は「今後3ヶ月でやり切ろう!」と期限を設けていました。また、自分の時間を費やす対象を明確にしたことも、達成できた要因の1つです。僕は、自分がアプローチしていたお客様に対象を絞り、全精力を注ぎました。 その一方で、妻には怒られることも多かったです。結婚からわずか3ヶ月後に、0時に帰ってきて朝5時に出かける生活を始めてしまったので(笑)仕事を頑張ることについては何も言われませんでしたが、家に帰ってきてからも仕事をしていたので、そのまま力尽きて机で寝るとすごく叱られました。 ー仕事と家庭のバランスに葛藤があったんですね。 自分の能力が低かったなと思います。当時、妻に言われた言葉があります。「仕事を頑張るのはいいけど、夜中に睡魔に襲われながら作成した提案書なんて、お客様に失礼なんじゃないの」と。ものすごく本質だなと思いました。 妻とのコミュニケーションを通じて、『これはなんのための時間なのか』を意識するようになりました。例えば、買い物に行っている時間は妻との時間だから、できるだけ携帯は触らないようにしよう、とか。目標に向かって全力で頑張っているときに、好きなようにさせてもらえたことが、パートナーを大切にしたいという想いにも繋がっているので、妻のおかげだなと思います。   ーその後、創業2期目のベンチャー企業へ転職したのは何がきっかけだったのでしょうか? 転職したと言うよりは、辞めることを先に決めた過程で、たまたま拾っていただいたという流れでした。特に何か当てがあったわけではなかったのですが、本当は、独立しようと思って退職したんです。独立を意識するようになったのは、大学時代の就職活動を始めた頃でした。「何か夢を持とう」と思った時に、「死ぬ時に1万人のお葬式を開きたい」と思ったんです。例えば、スポーツ選手や芸能人は誰かによい影響を与えることができた方だからこそ、最期に多くの方がお別れを言うために集まりますよね。僕も彼らのような人格者になろう、そういう人であろうと思ったんです。そのために、経営者という立場でより多くの方に価値を届けられればいいのではないかと思い、社長になることを目指していました。 結果的に、独立ではなく転職することになったのは、2社目の社長が掲げている理念やビジネスの創り方に面白さを感じ、そこで一緒に学ぼうと思ったことが理由です。ここで経験を積んだ上で、1年以内に独立の準備を整えようと考えていました。 ーその後、目標としていた独立ではなく2度目の転職を決意した背景には、どのような想いがあったのでしょうか? 1人で何かを作っていく適性がないと気付いたことですね。自分の中でやりたいことや、元々なかったものを創り上げていく力が、まだまだ弱いなと感じました。そこで改めて、自分がパフォーマンスを1番発揮できるのは、組織の中だということ、チーム目標の達成・メンバーを引っ張って最前線を走る方に興味関心があるということに気付きました。また、1人でやると、どうしても社会的影響力を感じにくい部分があります。自分の持つ特徴に気付いた時、はじめて独立が手段に変わりましたね。   「世界一の夫婦になりたい」夢ノートに託した、吉田家の未来 ー2度目の転職に際し、奥さんとはどのようなやりとりがありましたか? 転職を機に、妻と一緒に関西から埼玉県に移り住むこととなりました。家族と離れてしまうので寂しがりつつも、とても応援してくれています。僕のわがままに付き合ってくれていて、ありがたいです。   ー妻スタグラマーの活動は、転職後も継続される予定ですか?新しくやってみようと思っていることはありますか? noteでの発信は継続したいです。僕がnoteを書いて、妻が読んで編集する形を楽しんでいます。僕の自己満足ではありますが、記事を読んだ妻が喜んでくれているのを見るのが嬉しいですね。なので、今後も妻と一緒に楽しんでいけたらいいなと思っています。さらに、パートナーシップをテーマに、イベントの開催などをやっていけたら面白いのではないかと考えています。 ー夫婦の共同作品なんですね。パートナーシップにおいて、日々大切にしていることはありますか? 妻を見ていると、『相手に怒れるか』はすごく大事だと感じます。 僕はまだまだできていないのですが、妻は僕のいいところを褒めて、悪いところはちゃんとダメだと怒ってくれるんです。本気で向き合っているからこそ、いい面も悪い面も気付くことができているのでしょう。日々褒められ、そして怒られていますね(笑)   ー吉田さんが今後の人生で成し遂げたいことや夢があれば教えてください。 仕事の面では、収益の軸づくりですね。新規事業の立ち上げを担当させていただくので、それを会社の柱にしたいと思っています。その後は、自分で創った事業をもっとスケールさせていくために、3〜5年スパンで未来を考えられるビジネスマンになることが目標です。今までは見えていなかった視点を持ちたいと思っています。 プライベートの面では、「世界一の夫婦になりたい」という夢を掲げているんです。その実現に向けて、何をするか模索しています。妻と結婚し、2人で人生を歩んでいく上で、「互いの夢は2人の夢にしたいよね」という思いから『夢ノート』を書き記しています。これがいい指標にもなっているんですよ。「最近、夢ノート書いていないな」と思う時は、大体夫婦の会話が少ないか、一緒に過ごす時間が足りていないとき…。アラートとなってくれているので、パートナーを大事にする時間づくりを意識できています。   ー本日はありがとうございました!吉田さんの夢が叶う瞬間が楽しみです。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材・執筆:青木空美子(Twitter/note) 編集:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

18歳にして海外経験豊富な永野理佐が語る、次なる留学への思い

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は3月に高校を卒業したばかりの永野理佐さんです。現在はタイガーモブでインターンをしながら、9月からのサセックス大学進学に備えている永野さんにこれまでのご経験や今後の展望についてお話いただきました! 初の高校生インターンとして奮闘する日々 ーまずは簡単な自己紹介をお願いします! 永野理佐と申します。現在18歳です!今年の3月に郁文館グローバル高校を卒業し、9月からイギリスのサセックス大学に進学を予定しています。また、大学進学までの期間を活用し2020年1月よりタイガーモブ株式会社にてインターンをしています。 ータイガーモブとはどのような会社なのですか。 タイガーモブでは海外インターンや短期海外プログラム、企業研修プログラムを主に提供しています。私はその中で、中学生や高校生といった若い世代が海外で挑戦するためのきっかけ作りを担当しています。具体的な仕事内容としては現在高校生ながらにインターンをしている方の記事を書いたり、イベントを企画運営したりするなどの形で中高生へアプローチしています。 ー2020年1月からということは高校生でインターンを始められたんですね! はい。立ち上げ時の初期メンバーの方で高校3年からジョインされた方がいたんですが、その方を除くと学生よりの活動をメインにする高校生インターンは私がはじめてでした。私自身も初めてのインターンなのでいろいろと模索しながらやらせていただいています。 ー初めてのインターンを経験してみてどうですか? 小学生〜高校生にアプローチしているので同世代はもちろん、イベントなどでは様々な社会人の方とご一緒させていただく機会がありとても刺激的で楽しいです。同時に、私自身初めてのことが多いので、調べたり教えていただきながらとにかくいろいろトライしてみている状況です。9月の渡英までの残り1ヶ月程でできる限りたくさんの方に出会い、たくさんの経験をさせていただきたいと思っています。   挑戦できる環境を求めて自分の意思で転校を選択 ー少し過去の経験もお伺いできたらと思います。どのような中学校生活を送られていたのですか。 大学までエスカレーターで行ける私立の学校に小学校から通っていましたが、中学3年の夏に公立中学校に転校しました。 ー中学3年で転校されたんですか!何が理由だったのでしょうか。 きっかけは中学2年の時に行われた委員会の選挙でした。周りの友人から推薦してもらい委員に立候補し、十分な投票数を獲得していたのですが、先生に「辞退してほしい」と言われたんです。理由は学力が足りないからでした。確かに学力が高い方ではなかったのですが、周りからの人望ややる気があっても学力が足りないからという理由で物事が決められる現実にショックを受けました。 この出来事がきっかけで、学力で人を判断するような学校に居続けても意味がないのではないかと思ったんです。また、所属していた陸上部でもちょうどその時、人間関係がうまく行ってなかったことなども重なり、自分のやりたいことができる環境を見つけるために退学を決めました。 ーご両親は反対されませんでしたか。 されました(笑)特に中学3年の夏というと受験期だったので「なんで今?!」という反応でしたね。結果的には英検3級を合格したら転校していいという条件付きで認めてくれました。 ー公立中学校に転校してみてどうでしたか。 幼稚園から大学までのエスカレーターでずっと同じ人たちと同じ世界で過ごす予定だったのが、公立学校という様々な環境で育ってきた人がいる環境になったことはもちろん、女子校から共学になったこともあり、何もかもが新鮮でした。 ー転校と共に高校の進学先はどのように決められたのですか。 行きたい高校も決まっていない中での転校だったので受験は偏差値が高すぎず、海外留学に行くことができるプログラムがある高校を探しました。私は、小学校の頃から海外研修プログラムで海外に行く機会に恵まれたこともあり、高校では絶対留学をしたいと思っていたんです。郁文館グローバル高校は1年間の留学が必須となっていた他、学校説明会を生徒主体となって進めているところにも魅力を感じ、進学を決めました。 留学漬けの高校生活で見つけたやりたいこと ー進学してみて高校生活はいかがでしたか。 私の代まで郁文館グローバル高校は数学などの理系科目の授業がなく、代わりに英語の授業がたくさんあったり、毎朝新聞を読んで発表する時間が設けられていたりと少し変わった学校でした。その中でも大きかったのは生徒主体で作り上げるゼミ活動でした。全員がゼミに所属しなければいけないのですが、私はアジアの貧困問題や幸福度、経済などについて調べるゼミに所属し、ゼミの活動の一貫でインドに行きました。 ー高校でゼミは珍しいですね。インドはいかがでしたか。 これまで海外に行ったことはありましたが、途上国は初めてだったのもありその活気の凄さに圧倒され、とても印象に残る国となりました。衝撃的だったのは、やっぱり街で物乞いの子供にお金ちょうだいと言われたことでした。生まれる国が違うだけで全く違う環境で育つことになるんだなという当たり前の現実にショックを受けました。 それまでは特別興味のある分野がなかったのですが、インドへの訪問がきっかけで今できること・今やりたいことを全力でやらないとと思うようになりました。また、これまで自分の中で決めつけていた世界というのを一度疑ってみる必要があるなと感じました。発展途上国の人たちは可哀想と思っていたけれど、実際会ってみたら楽しそうで熱量を持って生活されていました。もっと勉強して、いろんな人と交流して広い世界を見る必要があると感じた経験になりました。 ーそして高校では1年の海外留学も経験されたんですね。 留学面談では都会に行きたいと伝えていたのですが、私はニュージーランドの田舎に留学が決まりました。実際行ってみると本当に田舎で、何もなかったです(笑)でも自分から何か行動しないと何も起こらない状況だったからこそ貴重な経験ができたと思います。留学した高校がクリスチャンの学校だったので教会のボランティアをしてみたり、ハカサークルに入ってみたり、カルチャーイベントとして浴衣の着付け体験クラスを開いてみたり。友達を作るためにいろんなことに挑戦してみました。 先生方は私が最終的には周りに流されやすいという性格を見越して、自ら行動しないといけないであろう地域を選んでくれたようでした。後から私がニュージーランドの田舎留学になった理由を聞いて納得したのですが、実際ニュージーランドに行ったことで自分のやりたいことに向けて行動ができたので自分の自信につながりました。 リベンジ留学に向けて ーその後の高校生活はどのように過ごされたのですか。 ニュージーランドの留学期間終了後は日本に帰国せず、続けて2週間のマレーシアでの海外プログラム、1ヶ月のセブ島への語学研修、1週間のシンガポールでの海外プログラムに参加しました。そして高校3年生の夏は普通であれば大学受験で忙しい時期ですがせっかくなら最後の高校生活をもっと充実させたい、同級生と違う夏休みを送りたいと思い参加したのがタイガーモブのACTというプログラムでした。結果的にこのプログラムがきっかけでやりたいことが見つかり、インターンもさせてもらうことにもなりました。 ーそのやりたいこととは何だったのですか。 農業です!プログラムでは1週間、インドネシアのバリ島を訪れたのですが現地のオーガニックライスファームに行き、その視察で見つけた課題からアクションプランを考えるビジネスコンテストのようなものが行われました。 東京に住んでいると農業に触れることや農家の人と出会うことがなかったので現地での訪問が新鮮で、実際に土を触ったり自然に囲まれている時とても楽しいと思ったんです。これが今、自分のしたいことだな!と直感で思いました。 ーではこれから進学される大学では農業を勉強される予定なのでしょうか。 サセックス大学では開発学を専攻する予定です。もともとロンドンの大学に行こうと考えていたのですが、勉強してみたいことがたくさんあったので全部勉強できるように様々な授業を履修できる総合大学、サセックス大学を選びました。農業はもちろん、これまで興味を持ってきた途上国支援を目的としたジェンダーや貧困、教育などについても大学では学んでいきたいと思っています。 ー9月から、楽しみですね!最後に今後の目標や夢があれば教えてください。 将来はやっぱり農業をやりたいと思っています。なのでまずは大学で農業に関する知識を身に付けていきたいです。また、これまでの留学経験で成長できたという実感はあるものの、正直留学するたびに自分の不甲斐なさを感じていました。9月からのイギリス留学はこれまでの不甲斐なさを払拭するリベンジ留学だと個人的には思っています。 笑顔は万国共通の最大の武器だと思うので毎日笑顔で過ごすことを大切に、時には周りの人に助けてもらいながら自分らしい充実した大学生活を送りたいと思っています。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:青木空美子(Twitter/note) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)

「ウミガメをきっかけに、ITに興味を持った」データサイエンティスト 兼 POTETO Media CTOの藤田健登が目指すところとは

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第106回目のゲストは、大手通信会社にてデータサイエンティストとして働きつつ、副業で株式会社POTETO MediaのCTOも勤める藤田健登さんにお越しいただきました。 学生時代にウミガメの国際学会で最優秀賞をとった経験を持つ藤田さん。しかし、現在はパラレルキャリアというかたちでITの仕事をしています。一体どのような経緯でITの仕事に興味を持ったのか、お話を伺いました。 本業はデータサイエンティスト、副業はベンチャー企業のCTO ー本日はよろしくお願いします。さっそくですが、藤田さんは現在どのような仕事をしているのですか? 大手通信会社で、データサイエンティストとして働いています。具体的な仕事内容としては、GPS情報で集めた人の位置データを分析することです。人がどこで、どのように動いているのかを把握することで、それをビジネスに活用できないかを模索しています。 また、副業として「株式会社POTETO Media」という会社のCTOもしています。 ー副業もしているんですね。POTETO Mediaではどのようなことをしているのですか? POTETO Mediaは、政治の広告代理店として有権者に政治をわかりやすく知ってもらう活動をしています。なかでも私は、選挙の分析・SNSの分析・アプリ開発などを担当しています。 主に携わっているのは新事業の「POTOCU」です。これは、補助金や助成金などの情報を適切な人に適切に届けるためのサービスです。これらの情報は非常にわかりにくくて、上手く利用できていない人が多いのが現状。そのため、そういった方に少しでもわかりやすい情報を届けられるように、日々取り組んでいます。 ー素敵なサービスですね。どのような経緯でPOTETO Mediaに加わったのですか? 新橋で飲んでいたら、本業の同僚でもあるPOTETO Mediaのメンバーに夜、新宿に呼ばれまして(笑) 話を聞くと、新事業を始めようとしていて「ビジネスアイディアを見てくれ」と言われたんです。「明後日、海外の人に発表することになったから今すぐに見てくれ」と。 AI関連の事業なのですが、当時POTETO MediaにはAIの知識を持つ人がいなかったので、このアイディアは実現可能なのか教えてほしいと言われました。急な依頼で非常に驚いたのですが、次々と質問に答えていくうちに自分も面白さを感じていました。 その日はそれで終わったのですが、翌週に社長からご飯に誘われて「うちに入らない?」と言われたんです。ちょうど生活に物足りなさを感じていたので「ぜひ一緒にやらせてください」と即答すると、すぐにオフィスに出社してその場で契約書にサインをしました(笑) ITに興味を持ったきっかけはウミガメ ー藤田さんはテクノロジーを中心に仕事をされていますが、もともとITの知識が豊富だったのですか? いいえ、学生時代はウミガメの研究をしていました。大学3年生のときから研究をスタートして、それからは「ウミガメだけの生活」をしていました。 もともと動物が好きだったので、動物の研究がしたいと思っていたのですが、大学には昆虫の研究室しかなく…。しかたなくその研究室に入ったのですが、どうしても動物の研究がしたいと悩んでいました。そこで「昆虫に興味がない」と素直に先生に伝えると、ウミガメの保全活動をしているNPO代表の方を紹介していただきました。そこからウミガメの研究を始めることになったのです。 ーそうなんですね。具体的にはどのような研究をしていたのですか? 無人島に住み込みで、砂浜で産卵に来るウミガメを待ち伏せていました。ウミガメの数をかぞえたり、背中にセンサーをつけて行動を追う日々。「ウミガメはここで餌を食べているんだ」「ここで寝ているんだ」など、位置情報からウミガメの行動を予測していました。 長いときは3〜4ヶ月ほど、島に住み込んでひたすら調査をしていたときもあります。 ーそれはすごいですね! なぜ、そこまでウミガメに没頭できたのですか? せっかくなら研究でしか関われない、レアな動物に触れたかったからですね。実際に研究してみると「ウミガメって面白いじゃん!」と思い、没頭することができました。 挫折しかけた大学院時代 ー順風満帆な学生生活だったように見えますが、挫折のような経験はしましたか? ウミガメの生態は、だいたい研究しつくされています。そこで「ITの技術を使えば新しい発見ができるのでは?」と感じたことをきっかけに、京都大学大学院の情報学研究科に進学をしました。しかし、まったく授業についていけず…。もともと学部時代は農学部のような授業を受けていたので、プログラミングの知識は皆無で、本当に大変でした。 また、夏ごろになると授業を受けて、遠くの島で研究をしながらインターン選考を受けるというハードスケジュールで…。しかも研究の影響で昼夜逆転の生活になっていたので、なかなか辛かったですね。 ーなるほど、それは大変でしたね…。どのようにして乗り越えたのですか? 周囲には優秀な人が多かったので「周りを見返したい」という強い気持ちが大きな要因としてあります。また、ウミガメの研究をしたくて情報系の勉強を始めたので、何かしらの成果は残したいという気持ちもありました。なので、研究室に泊まり込みで専念していましたね。 結果的にウミガメの国際学会では、日本人で10年ぶりに最優秀賞をとることができたので、努力が実って本当によかったです。 ーすごいですね! 最優秀賞をとれた要因は何だったと思いますか? 新しいことに挑戦できたからですね。ウミガメの国際学会では過去に「ウミガメ×IT」で発表している人があまりいなかったので、それがもっとも大きな要因だと思います。 「ウミガメにセンサーつけたら面白いだろうな」という好奇心から始めたことですが、コツコツと努力してきたことが報われました。 これからは、選択を「広げる」から「定める」へ ーウミガメの研究をした後に、なぜ大手通信会社に就職されたのですか? 正直、博士課程への進学も検討していました。しかし、ウミガメの研究はなかなかビジネスにはつながらないのが現実。お金が集まらず、研究をするのに苦労している方が多いのです。尊敬している先輩方でも苦労しているのに「果たして自分はやっていけるのか」と不安に感じました。 そこで、インターンシップなどでインフラ・コンサル・メーカーなど、さまざまな業界を見ていたのですが、あまり「ここに就職したい!」と感じる会社がなくて…。将来どうしようかと迷っていたところ、たまたま今本業で働いてる会社の人事と話す機会がありました。話をするうちに、社員の人柄や会社のビジョンなどに惹かれて「ここに就職したい」という思いが強くなったんです。 また、ウミガメの研究で位置情報をもとに分析をしていたので、データ分析の仕事に興味を持ったという経緯もあります。通信会社なので、携帯で特定できる位置情報をもとに、行動ログを分析してビジネスに応用したいと思いました。 ーそうなんですね。今後はウミガメの研究はしないのですか? そこは正直迷いどころですね。今でもウミガメは好きで、もう一度研究したい思いもあります。一応、最近でも教授とコミュニケーションをとったり、ウミガメの保全活動に参加したりしています。 ただ、本当に研究をするのであれば尊敬している先輩や先生方に追いつく、もしくは追い越すぐらいの気持ちがないとダメなので、当面は研究に関しては保留ですね。 ーなるほど。これから先は何をしたいのですか? 正直まだ決まっていないです。今までは興味のあることに挑戦をして、将来の選択肢を広げていました。しかし、これからは徐々に選択肢を「広げる」から「定める」に移行していきたいと考えています。そして、それが今年なのかなと。 自分のリソースをフルでどこかに投入したいと考えています。 ーこれからの活躍が楽しみですね!本日はありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:青木空美子(Twitter/note) デザイン:五十嵐有沙 執筆:下出翔太

やりたいことなら、自分で道を切り拓く。SmartHR たった一人の新卒・加藤桃子は、好きなものに真っ直ぐな広報家

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第108回目のゲストは、株式会社SmartHRで広報を務められている加藤桃子さんです。 高校時代に熱心に取り組んだチアダンスでは、全国2位に。その一方で、苦手だった勉強でつまずき、大学受験で志望と違った進路になりました。思い通りにいかず、やきもきした経験を重ねます。だからこそ、アルバイトや就職先の決定などでは、自分のやりたい道を、たとえそこに道がなくても切り拓いてきた加藤さん。その推進力の根底にあった、自分と向き合うことの大事さと、着実な歩みの重ね方に迫りました。   「フラットな会社。大好きな会社を広めたい」 ー本日はよろしくお願いします。まずは加藤さんの現在のお仕事について教えてください。 加藤桃子です。株式会社SmartHRで、広報をしています。SmartHRは、HR業界のなかでも、HRテクノロジーに力を入れている会社で、煩雑で時間のかかる労務手続き・労務管理をペーパーレス化するサービスの提供をしています。 会社のことが大好きで、もともとはセールスだったのですが、より多くの潜在層にSmartHRを知ってもらい、SmartHRを使って本来やるべきことに注力できる人を増やしたいと思い、広報に異動しました。主な仕事は取材対応など、コミュニケーションの調整役が多いですね。   ー会社のことが大好き、というのは広報にとって欠かせない要素ですよね。どのような点が会社の魅力だと感じていますか?  対人関係も、コミュニケーションも、とてもフラットなんです。会社によっては、人間関係で悩まれる方もいらっしゃるかと思いますが、良好な関係をお互いに構築できているので、余計な部分を考えずに仕事にだけ集中できます。また、Slackのスタンプひとつで会話が進むため、スピーディさもあります。コミュニケーションによるストレスがほとんどありません。 わたしは現在社会人3年目で、SmartHRが一社目ですので、この環境を当たり前に享受していたのですが、友人などの話を聞くとより自社のフラットさを感じます。   ー風通しの良い職場であることが伝わります。そのような環境が築かれた要因はなんだと思いますか? 情報がオープンなため、社員であれば誰でも、欲しい情報を取りにいけるんです。そうすると、結論から渡されたとしても、自分でそこに至るまでの過程や要素を確認できるので、納得感が生まれます。人が動く上で、納得感ってとても大事だと思うんです。なんとなく疑問や不満を持った状態だと、動きにもそれが出てしまいますよね。   SNSを通じて、好きなものの魅力を発信 ー素晴らしい環境で、充実した社会人生活を送っているんですね。プライベートで取り組んでいることはありますか? 大学生の終りから始めたトレイルランニングですね。斑尾高原トレイルランニングレース2019にて、女子総合優勝という成績を修めました。トレイルランニングは、登山道や砂利道、林道などトレイルと呼ばれるコースを走る競技です。   ーマイナーなスポーツかと思いますが、どういったきっかけで始められたのでしょうか? 大学の終りが近づくと、卒業旅行などに行く機会が増えて、健康面を気にするようになり…。そんなときに友人に誘われてハーフマラソンに参加したんです。河川敷がコースだったのですが、それが辛くて堪らなくて…。走るのがもともとあまり好きじゃなかった上に、河川敷という平坦なコースを走ることに面白味を感じられませんでした。そうしたら、「山道を走る、トレイルランニングなら楽しめるんじゃない?」と教えてもらいました。 それから、初めてトレイルランニングレースの応援に行きました。参加者はわたしより年上の方が多かったのですが、みんな、驚くほど顔をきらきらさせていました。そして「あそこでつまずかなかったら、もっと早いタイムだった!」なんて、悔しそうに笑い合いながら言い合っていたんです。それを見て、「この人たち、なんて楽しそうなんだろう…」と心が動かされ、自分でも挑戦してみました。 特に、下りの山道を走ったとき、全身でその楽しさを知ることができました。油断すると危険なスポーツでもあるので、とにかく集中力が研ぎ澄まされて、「ここを進むこと」だけをひたすらに考えるんです。その感覚が新鮮で、見事にハマりました。   ー加藤さんは、ご自身が体感した魅力をSNSでも発信しているそうですね。 「トレイルランニングってどんな競技?」と周りから聞かれることが多くなってきたので、Instagramに投稿している他の方にはない方法で、もっとこのスポーツの魅力が伝わるように、と意識して発信をしていたんです。 そのInstagramから、雑誌やPRムービーへの出演、取材など、活動の場が広がることとなりました。   ひとつのことに打ち込んだ経験が、今に活きている ー着実にトレイルランニングの魅力を広めているんですね!さすが広報家です。ハードなスポーツだと思うのですが、もともと運動は得意だったのでしょうか? 高校生の時に、チアダンスをしていました。小学生時代、勉強も習い事も盛りだくさんで、その上中学受験までして…燃え尽きてしまったというか、あまりに忙しく過ごしていた反動で、中学はあまり活動的ではなかったんです。それが、もったいない3年間だったな、と振り返り、高校ではチアダンス部に入部しました。  最初は部活ではなく、チアダンス同好会からのスタートでした。チームメイトにも恵まれて、熱中するという体験をしました。朝、昼、部活、帰宅してからと週6.5日くらいは練習していましたね(笑)ひとつのことをとことん考え、打ち込んだ経験はいまでも活きていると感じます。2年生のときには、夢のようだった全国大会出場、そこに留まらず、なんと準優勝という快挙を成し遂げることまでできました。   ー同好会から全国2位なんて、まるでドラマのようです。相当な時間を練習に注力されたかと思いますが、大学受験は問題なかったのでしょうか? 勉強は苦手でした…。なので、夏を待たずに3年の春に引退をし、そこからは受験勉強に集中します。ある大学のキャンパスに憧れていたのと、いきたい学部があったことから、第一志望校を決めていたのですが、そこは残念ながら合格することができませんでした。 結局、別の大学に進学します。大学受験を失敗した、というのは大きなコンプレックスで、その後の就職活動にも影響します。   「憧れのあの人と働きたい」飛び込んだアルバイト ー受験は辛いことも多いですよね…。どのように過ごされていましたか? よく行くカフェがあって、そこの店員さんにいつも励まされていました。とっても可愛い絵を、注文した飲み物のカップに書いてくださっていたんです。 でも、特段、それ以外に目立った言動があったわけではありません。今、こうやって振り返っても、具体的に「こんなエピソードがあって…」とはお話できないんです。なのに、その人に会うだけで元気をもらえていました。注文ひとつとるのも、商品を渡すのも、特別なことではないのに、その人がするだけで、気持ちがこもって受取れたというか…。   ー素敵な出会いがあったんですね。加藤さんにとっては憧れの方になったのではないでしょうか? 「大学生になったら、絶対にそこでアルバイトがしたい!」と思いました。実際に、進学して、アルバイト募集をしていなかったにもかかわらず、電話で志願し、面接をした後に採用していただきました。憧れていた店員さんとも働くことが叶い、嬉しかったです。 お店側の人間になり、その人はお客様に対してだけではなく、一緒に働く仲間に対しても自然と楽しんで仕事をできる雰囲気を提供していると気付きました。   ーその方の接客を受けてみたかったです。他に、アルバイト経験で印象的だったことはありますか? 新店舗の立ち上げメンバーとして仕事をしたことですね。全国展開するカフェのチェーン店だったのですが、わたしの家の近くで、新しくドライブスルー形態の店舗オープンが決まったんです。これはきっと貴重な経験を積めるに違いない、と思って、その店舗への異動を志願しました。 時間はかかりましたが、自分でプレゼンなどして、オープン1か月前に新店舗に配属されました。店員の中にもいくつかポジションがあり、わたしは他のメンバーを指導する「トレーナー」だったため、育成にも携わることができました。   とことん自分と向き合った就活 ー店舗立ち上げに関われるというのは特別な経験でしたね。大学受験が就活に影響を与えたそうですが、いつ頃から始められたんですか? 大学2年生のときには就活をスタートさせました。大学受験を失敗したという意識から、早めに着手したんです。就活では、大学名は当然重視されますよね。それ以外の部分で、自分のことを見てもらうための関係性づくりができればと考えていました。「絶対に成功させるぞ」と意気込んでいたと思います。 就活は、総じて楽しかったです。もう一度やりたいくらいです(笑)就活生、というだけで、ちゃんとお願いすれば、みんな会ってくれるんですよね。それって、ものすごく有難いことだったと思います。今であれば、「会う価値のある人間だ」と相手に自分のことを思ってもらえないといけません。就活生であれば、社会人側は「採用活動がしたい」、就活生は「会社の話が聞きたい」とwin-winな関係で会うことができます。 ー就活が楽しい、と言えるのは素敵ですね。意識したポイントなどはありますか? 自己分析は徹底的にしましたね。自分とそれまで向き合うことはなかったので、その過程ではしんどいこともありました。でも、それを乗り越えて気が楽になった部分もあるんです。 自己分析をする中で、恩師に壁打ち相手をお願いしたことがありました。その方に、「現状維持でもいいんじゃない?」と言われて…。聞いた瞬間は、「どういうこと?それだと停滞しちゃうじゃん」と思ったのですが、さらに考えると、「人と比べなくてもいいんだ」ということに気付けました。そこに行き着いた瞬間に、気持ちがびっくりするくらい楽になったんです…。 それまでのわたしは八方美人で、全員から好かれようと振舞っていました。そこに無理もあったと思います。人と比べなくてもいい、と分かったときに、そういう「みんなから好かれなきゃ」という思い込みもなくなり、本当の意味で自分の人生を生きようと思いました。   ー加藤さんを後押しする存在が大きなキーになったのですね。壁打ちも大事かと思いますが、ひとりでもできる自己分析はありますか? モチベーションシートを用いることが多かったですね。自分の調子の浮き沈みをグラフで表わして、それらの共通点を探るんです。共通点が洗い出されたら、今度はそこに伴っていた感情まで深掘りします。自分の過去の感情に向き合うのはきつい気持ちになることもありますが、しっかりと自分と向き合えるいい方法です。わたしは今でも実践することもありますね。   「楽しんで働く人と一緒がいい」二度目の就活に ー参考にさせてもらいます。自己分析も徹底し、人にも会い、時間もかけて…そうやって就活は成功しましたか? 大学3年の秋には、人材業界の大手企業から内定をいただいていました。「よし、これで終りだー!」と安心しましたね。ただ、それから時間ができて…そうすると、改めて「自分の選択はこれでいいのかな?」と思うようになったんです。大手企業に決めたのは、「両親が安心してくれるだろう」というところが大きかったことに気付きます。もともと両親は、ベンチャー企業よりも大手企業を選んでほしい、という気持ちが強かったんです。 大手企業には、有名な大学出身の先輩や同期もたくさんいました。でも、知れば知るほどみんなそんなに楽しそうに働いていなかったんです。仕事に対しての向き合い方が、どうしても引っ掛かりました。きっとみんながそういう訳ではなく、その時期にわたしが出会った人たちが、そうだっただけだと今は思えます。 その一方で、いろんな人の話を聞いていたときに出会った、ベンチャー企業で働かれている方々は、みんなきらきらと目を輝かして、未来について語っていました。「仕事を心から楽しんでいる人と一緒に働きたい」そう思って、二度目の就活として、ベンチャー企業の求人を見直すことにしたんです。   ー大手企業からせっかく内定をもらっているなかで、スタートアップ企業を志望するとなると、親御様は心配したのではないでしょうか? そうですね。反対されました。そこはとことん話し合って、不安材料を聞き出し、ひとつひとつ納得してもらえるように説明を重ねました。そのうち、わたしの熱意が伝わったのか、親も就活を応援してくれるようになったんです。   ーご自身だけではなく、親御様ともしっかり向き合われたんですね。そこから、SmartHRへの入社を決めたのはどうしてですか? そもそもSmartHRは新卒採用をしていませんでした。人材業界だと、1対1での仕事が基本なのが、HRテクノロジーは、1対nのインパクトを生み出せると思い、魅力を感じたんです。そこで、いくつかのHRテクノロジー企業サイトを見た中で直感的にどうしても働きたいと思ったSmartHRの、お問い合わせフォームから思いの丈をぶつけました(笑) そうして選考を受けることができ、採用していただきました。   ーカフェのときと同じく、自ら道を切り拓いて…!新卒採用をしていない会社ということで、困難なことはありませんでしたか? みんな、中途採用で会社に入ってきているので、すでに様々な経験があり、なにかしらのプロフェッショナルです。「わたしには何もないな…」と悩んだこともありました。でも、それはしょうがないことです。悩んで考えて、わたしは開き直りました(笑)いまは、セールスの経験を活かした、広報のプロフェッショナルになろうと前を向いて頑張っています!   ー加藤さんの、壁を壊して前に進んでいく力強さに元気をもらいました。本日はありがとうございました! 加藤桃子さん(Instagram / Twitter)   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる   === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

歌舞伎町の若者の政治関心を引き上げる。国際政治を伝わる言葉に分解するホスト・楽の生き様

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第99回目のゲストは歌舞伎町ホストの楽さんです。 幼少期は、尊敬できる大人とできない大人に囲まれました。大学時代は、アカペラを辞め、学外との交流を増やしました。現在は、ホストとして歌舞伎町で働きながら、若者に政治との結びつきを作るために奮闘しています。 人材系の内定を蹴って、ホストとして歌舞伎町で活動する楽さん。アウトサイダーとして挑戦し続ける理由には、人と向き合い続ける姿勢と、自身のルーツである中東が鍵を握っていました。 主観を鍛え、他者との関わりを考え抜いた学校生活 ー周囲の大人が考える力に大きく影響した? 僕の周りは、尊敬できる大人とそうでない大人の両方がいました。家庭では、父親は周囲から尊敬され、優秀だし、昔からモテました。母親は、暴力をふるい、一度説教を始めたら何時間でもしつこく続ける人でした。本人だけが悪い訳ではないと思います。おそらく発達障害を持っている上、うつを発症していたものと思われます。精神病院に入院することもありました。学校では、教員が軒並み問題を起こしていました。教員同士のいじめ、僕の同級生に別の教員がセクハラ。小学5、6年で学級崩壊しました。 一方で、ボーイスカウトのリーダーたちは立派でカッコ良かったです。茶道の先生は教養がありました。つまり大人は全員が従うべき存在という訳でもなく、一方で正しいと考えられる存在もいます。誰を信用すべきか・すべきじゃないのかを、自分で考える力が育ちました。 ーカウンセラーになりたいのはいつからだったか? 高校生。高校1年の終わりで震災を経験しました。僕は当時、部活に打ち込むあまり、数学を100点満点で7点を取りました。最後のテストが3月で、震災の影響で流れました。テストが流れた関係で、先生方が手を尽くして下さったこともあり、救われました。震災のおかげで助かってしまい最悪の気持ちでした。 罪滅ぼしをせねばと思いました。NPOを探し出し、連絡を取り、ボーイスカウトの仲間とボランティアに行きました。夏なので、仮設住宅環境がきつかったり。住宅の問題点を聞き回り行政に報告し、環境を改善するという建前ではありますがメインの目的は孤立して心の傷もうまく吐き出せない被災者の方に、会話のきっかけを作ることでした。ヒアリングで気づいたのは、ただ質問をすればいいのではなく、話し手の心理的安全を担保したり、話す内容を浮かびやすくさせるための仕掛けが何重にも必要だということです。家族を亡くした被災者にも会いました。重たい話を、抵抗なく引き出せるかは、カウンセリングに近いと思います。 ーアカペラ部で難攻不落の生物部を撃破? 僕は中学が公立で、高校が中高一貫の男子校でした。男子校なので、合唱コンクールの文化がありませんでした。共学出身者と合唱コンクールの思い出話をしたら、え、やらね?ってなって、うちの高校の先生に、ゴスペラーズの先輩に当たる人がいたので部活を立ち上げました。 文化祭で優勝した経験もあります。地道な票集めが優勝のカギでした。どうやって 2位を獲るかを戦略立てて臨みました。十数年間生物部が不動の王者でした。小学生たちに生き物を配っていました。小学生で票数は稼げません。したがって、保護者とナンパ待ちの女子高生を狙った選曲をしました。さらに、来場者の導線を読んでパフォーマンスをしました。 ー死にかけたことがある? 高校2年の夏、イラン最高峰のダマバンド山(頂上の標高5600m)に父と2人で挑戦しました。頂上が吹雪とのことで4200mくらいのところから引き返し下山したのですが、その途中でホワイトアウト(雪や霧で360°真っ白になり方向が分からなくなること)し、完全に広い山の中で孤立し遭難しました。自分はこうやってあっけなく17年の生涯を終えるのか...と絶望で目の前が真っ暗になりました。しかし登山経験が自分より浅いはずの父が冷静に振舞っている姿に勇気が奮い立ち、2人で知恵を絞ってどうにか方角の見当をつけました。結果奇跡的に目の前に登山口への道が現れ助かりました。 この経験から、「明日死ぬかも」論や「今(だけ)を生きる」思想には反対です。未来という概念を持ちそれに希望を抱けるのは唯一人間のみに許された特権です。希望があるから前に進める。第一、常に明日死んでも後悔がないように生きるなんて可能なのでしょうか。現在と未来の充実はトレードオフなのではなく、未来の希望を持って今を生きるから本当の意味で充実する。もし命に危険が迫ったら諦める前に最後まで最善を尽くすべきです。後悔しないよう生きるくらいなら、交通に注意を払い、防災グッズを揃え、余力があるなら護身術を習ってでも一度しかない命にしがみつくべきだと思うのです。 ージェンダーの違和感は共学から男子校への転換がきっかけ? 男子校の中身は見せられません。女性差別までとは言いませんが、「ブス、ビッチ」と多くの人が言います。そう言って強がりたいだけなのだろうと思いつつ、社会に出たら、無自覚に誰かを傷つけてしまいます。彼らだけが悪いわけではないのはそうなのですが、だからといって放置してよいものではないと思いました。人間をプロフィール情報ベースで物のように扱うのではなく、1人の人間として接するということに、まだ困難があるのだと感じます。 ー大学受験ではどんなことがあったか? 当初は心理学をやりたかったです。また歴史が好きで、幅広い学問として教養を中心に大学さがしをしました。数学で7点を取り、かつ世界史が得意だったにも関わらず、「数学は役に立つ学問なので僕は受験で数学を使います。」と言った僕に対し、先生方は爆笑しながらも温かい目で見守ってくださいました。1 年目は全落ちしましたが、浪人して、全部受かりました。浪人中に初めての恋愛を経験し、恥ずかしいですが毎日お互い結婚しようと話していました。夜8時ぐらいに、一緒に予備校を出ました。8時5分ぐらいに、新宿駅の改札前に到着しても、話が止まりません。気付いたら9時で、予備校の友人が横切り、「あいつらいるよ。」と笑われました。落ちたら一生後悔すると焦り、彼女を突き放しました。付き合いの経験が浅いゆえの愚行でした。 僕は合格しました。彼女は不合格でした。大学入学後2、3ヶ月は似た背格好をみて、彼女を思い出して振り返りました。抜けてる人だったので、受験番号見落とした〜。言ってきそうな気がして。 アカペラサークルを辞め、ホストの世界へ入り、自分のルーツの再発見に繋がる ー大学に入ってからどのように過ごされたか? 高校の先生と同じ早稲田に入ったということで、ゴスペラーズが出身のアカペラサークルに入りました。サークルの部員は音楽に対して真剣でストイックでした。音の正確さをヘルツで測ったり、音楽理論の難しい方式を持ち出したり、マニアックな洋楽を探したり。音楽への熱は本当にすごい方ばかりでしたが、一方で他大のアカペラサークルをミーハーであると見下し、他者との間に線を引くことで自尊心を保とうという気持ちが見え隠れしている人は一定数いたのも事実でした。 また軍隊的な組織でもあり、「あたしを含め4年生は天皇であり、象徴的存在だ。実際に動くことがあってはならない。3年は将軍、1年生はピクミンだ。」と先輩に言われました。あそこで言い返せなく、後輩にも苦しい思いをさせました。大学2年の途中で抜けました。 ーとある企業でインターンをされた? Huber.Incという会社です。訪日外国人観光客と日本人をマッチングするプラットフォームを提供してます。マッチングすると、日本人が外国人を案内する仕組みです。日本人は生活と観光に必要な知識を当たり前に持っています。具体的には、美味しいスポットや楽しい場所や電車の乗り方です。突然知らない国の空港に降り立った外国人はやはり不安な気持ちになります。海外生活における困難を考えながら、外国人をサポートしました。 卒業して作ったシェアハウスの考えもインターンから導き出きました。お互いの良さが見えるとコミュニケーションはプラスになります。食べ物は減る資産。食べ物は、人にあげる分減ります。しかし、シェアハウス空間は減りません。したがって、シェアハウスの人間関係は減りません。宿泊者と居住者の両方に開かれた空間なので、シェアハウスに関わる人は孤独感を軽減できます。例えば、田舎から上京し、よりどころがない人たちが宿泊します。簡単に手に入るので農作物を宿泊者がシェアハウスで受け取りました。価値交換で、空間のよさがより高まりました。 ーホストを始めたきっかけは? 直接の動機は先輩に金がないと相談したら、ホストを提案されたことです笑。しかしまた歌舞伎町は人間の欲が生々しく表れる空間で、人間の根源的な不満や苦悩を哲学するいい場所でもあります。ホストクラブに来るお客さんも働く人もそうです。その奥に貧困やジェンダー解決のヒントがあると思います。社会勉強の狙いもあり、飛び込むことにしました。 ー実は、就活もしていた? 大学卒業後は就職を考えていました。しかし、もやもやがありました。そのもやもやがはっきりしたのが卒業直前の旅行です。自分の原体験は中東です。現地の空気を思い出しに行こうとサウジアラビアに旅行し、中東に関わりたいと思いました。人材系は、中東と直接関われないので就職先じゃないと思いました。自分をごまかして就職するのはやめようと思いました。 ー中東にどんなルーツがあるの? 国際関係や世界平和を考える自分の根源は、湾岸戦争とイラク戦争です。湾岸戦争がなければ僕は生まれていませんでした。当時は父親が現地にに駐在していたのですが、戦争の影響で危険になり、外務省から通達があって、邦人が全員帰国しました。日本に帰国し父親が仕事が少ないので暇していたら、母親と出会いました。 2002年まで僕はUAEとカタールに住んでいました。帰国の翌年にイラク戦争が起きました。メディアから切り取られるイスラム像が僕の知る隣人の姿とかけ離れ、ショックを受けました。メディアは事実のまま伝えないと思いました。例えば近年でも、イスラム圏の人たちはラマダンで団結力を高めるとNHKが報道していました。しかし、ラマダンは断食を通じて貧しい人たちの思いを忘れないようにしようという習慣です。事実をあえて曲げるのは、裏で力が働いていると考えます。根本的な解決は外交の日本の交渉力を高め、海外の影響をしりぞけるしかありません。 ー具体的に中東とどのように関わりたい? 例えば、安全保障。メディアで軍事的な意味で多く使われます。安全保障は、生活の必要最低限だと僕は捉えます。自分たちが生きるために必要不可欠な安定供給が、広い意味での安全保障にあたります。よくニュースで言われる軍事的文脈での国土防衛も安全保障でありますが、その一部に過ぎません。具体的には、石油がなければ、食糧輸送や電力供給ができません。医療も安全保障の 1 つと言えます。日本は石油が取れないので、安全保障政策は海外に依存します。言い換えれば、日本は石油が弱点の1つになります。 外交の場面では、石油を止めると他国から圧力がかかれば、日本は譲らざるを得ません。今の世界は戦争はあまり起こりません。なぜなら、核兵器が溢れているからです。代わりに、貿易そのものやサイバー攻撃などが交渉の武器となりました。したがって、戦争状態と平和状態は境界が曖昧になります。例えば、日本が韓国に対し工業に必要な化学物質3 項目を輸出制限し韓国が大打撃を受けた。これも攻撃と捉えられます。 世界中の誰もが平和を願います。成し遂げられないのは、よりよい交渉を望むからです。自国の安全を守りたいが故に他国の安全を脅かします。これでは解決にならないので、僕はその根本を改善したいと考えています。しかし、外交は仕組み化できないため、都度交渉し続けることしか今はできません。なぜ仕組み化できないかというと、現代社会は、国家が百何十こあり世界が無秩序だからです。国家は一番強い権力を持っています。したがって、最終的な意思決定機関は国家です。 それゆえ、国家を超えた問題は対応できません。世界裁判所や世界立法機関が存在しないからです。したがって、罪を犯しても罰せられません。例えば、以前アメリカ大統領がイランの司令官を殺した事件がありました。しかし、仕組みがないので殺人罪に問われません。これが国際社会の現状です。300年後ぐらいに世界政府か国家を超えた機関の誕生を期待し、今は交渉で最悪の事態の回避を積み重ねるしかありません。その実現のために自分は外務省に入るか、試験などの関係で叶わなかった場合、大学に戻り研究をしようと考えています。 政治と歌舞伎町は、人間関係に置き換えると身近に感じる ー外交官になり、中東と日本の架け橋とホストの仕事は、一見リンクしない。どんな風に楽さんの中で繋がる? 外交で勝つためには国内のコミュニケーションが必要です。しかし、ほとんどの人は外交に興味がありません。海外から日本へのプレッシャーに気づかないからです。海外の要求に日本人が意思表示をすれば、海外からの要求に抵抗できます。まずは関心を持ってもらうために、外交に関心がない層に、外交に限らず政治を伝えることが必要です。興味がないと、人は遠ざかります。歌舞伎町的な視点と外交の背景の結びつきに関心を持ってもらうことが自分の目標です。そして、歌舞伎町には人間の欲求が最も生々しく現れている場所。権力、金、自己の弱さと正当化し隠したい気持ち。他者を特定の尺度で上回ることで自分を保ちたい本音。自分の所属する何かに名前をつけることで孤独から逃れようとする集団依存。支配と被支配という関係の構築により自分が受け入れられているという証を可視化する行動。実はこういった人間の本能は、社会や政治を見る上で大きく繋がって来るのです。たとえばこの前、ナイナイの岡村が風俗をめぐる発言で炎上しましたが、この時の荒れ方や問題のこじれは、戦争の原因となる外交問題のこじれに例えて分析することができます。長くなるので割愛しますが、これについては今文章を書いているところなので、どこか別の場所で紹介すると思います。 ーホストクラブは政治や外交を学ぶ場所ではない。関心のスイッチをどう入れる? テレビで名前は広まったので、自分自身に関心を持ってもらうのが一つ。もう一つは、面白く伝えることです。例えば、第一次世界大戦。きっかけはロシアとオーストリアの思惑の衝突でしたが、互いに味方を増やすため利害関係に基づき同盟を巡らせており、派閥対派閥の構図になっていました。自分の主張を守りたい思いがゆえに派閥を膨らませた結果悲惨な戦争に発展しました。国際関係は実生活の人間関係に応用できます。自分の主張を通したいときは自分一人よりも見方を作る性質があることがわかるため、問題の深刻化を防ぐには人間関係の構造を二極ではなく複雑にしておこうと行動の指針になります。 人間関係の悩みは誰でも抱えるので、国際関係をわかりやすく理屈っぽくない程度に伝えることを心がけています。海外の問題を身近な問題として少しずつ考えてもらえればと思います。 ー茶道とホストクラブ、茶道とセックスに共通点がある? 僕は売春に該当する行為はしていません。しかしながら、女性を理解し、そして少しでも満たされ幸せな気持ちにするために、セックスが重要なツールの1つなのは間違いありません(僕はヘテロセクシャルなので対象を仮に女性としていますが、どのような当事者であっても同じことが言えると思います。)。セックスほど、人を幸せにも不幸にもするものは存在しない。自分がモノにされている、消費されているような気持ちになれば、それはたとえパートナー間でも、性別を問わず自分の尊厳を危機に晒します。一方で、自分が本当の意味で大切にされている、リスペクトされていると感じてもらい、その人が自分自身をより好きになれるのもまたセックスの側面です。言葉で取り繕えないものを形として示すことができる。ありがたいことに今まで「料理もセックスも職人」「セックスしているだけでフェミニストなのが伝わる」「こんなことをされたら誰でも好きになってしまう」(さすがに大げさですが)といった評価を頂きました。しかし実はそこに至るためにヒントを与えてくれたのは、以外にも茶道でした。 ここに、コーヒーマグがあるとします。あなたはそれを、目の前の人に振る舞おうとしています。この時、渡し方は3通り。1つは、持ち手を相手の右(利き手)に向けない。2つめは、利き手の方にマグの持ち手が向かうように最初から持ち、そのまま置く。3つめは、持ち手を適当な方向に向けて置いた後、テーブルの上で回して向きを直す。2つめと3つめ、相手への心遣いで言えば一緒ですが、2つめは気持ちが形として伝わりません。一方3つめは、あえて回すことで「自分はもてなされている」と相手に感じさせることができます。「抹茶が出された時茶碗を回す」というのを知っている方も多いと思いますが、実はこんな意味があります。茶道にはこのように、相手を大切にする気持ちを形にするための様々な工夫が詰まっています。 ホストクラブも同様、お酒の配置からドリンクの作り方、灰皿の扱いに至るまで細かく作法が決まっており、それら全てにお客様をもてなす上での理由があります。これは全く茶道と一緒です。 ではセックスにおいては具体的にどんな行動になるか。たとえば「私今日肌ちょっと荒れてるんだよね...」という言葉が会話にあったとします。もしセックスの時その荒れた肌に、たくさんキスをされたら、きっと相手は嬉しいのではないでしょうか。なぜならそれが、肌の状態に関係なく相手を大切に思っているというメッセージになるからです。言葉以上に相手への肯定になります。他には、ふと相手の手足が流れの中で下敷きになりそうな時よけてあげる、「こんな反応をしたら引かれないかな?」と不安に思っていそうだったら手を握る、こういったことの積み重ねが重要です。もちろん一番は愛のあるセックスだとして、では2番目にいいセックスは何か?これは僕の考えですが、「礼のあるセックス」だと思います。あまり生々しい話をするのもあれなのでこれぐらいにしますが、とにかく、セックスはもっとも人間が無防備な状態になる瞬間の1つ。性別を問わず誰もが不安です。そしてその不安の正体は、反応や行動1つ1つで自身の内面が簡単に晒されてしまうことです。相手にもっと自分を必要とされたい、尽くされたい、支配したい、支配されたい、挑戦的な言動をしているが逆にその分跳ね返してかまってほしい、などなど。相手の性格を注意深く観察し、それを受け入れてゆく。その繰り返し。逆に何か困ったことがあった時にメッセージをもらえれば一緒に考えることもできます。 ー日本人の何を守りたいのか? 僕は他者をある程度は放置すればいいと考えてます。自分が理解もしておらず直接の利害もないのに関わるのは問題を複雑にします。日本の世間は他者を放っておけません。放任できない世間を変えたい。守りたいのは、個人の意思です。 例えば、この本ですね。(「同調圧力」を画面で紹介。)この作品は、 同調圧力に屈さず正義を貫いたジャーナリストと官僚3人が自身に起きたことについて語る本です。同調圧力が強いこの国では、官邸から無言電話がきたりすることもあります。圧力に負けず、自分の意見を主張し続けるのは、国で貴重な存在です。どのようにどのような課題が組織にあり、3人がどう対処したか、対処できた 3人の背景が書かれています。 同調圧力 (角川新書) | 望月 衣塑子, 前川 喜平, マーティン・ファクラー |本 世間を気にして生きると、人々の協力を促せます。集団として高いパフォーマンスが出せるのは事実です。一方で世間には実体がありません。責任はとらない。そして、世間は感情的です。日本以外の国では歴史的に、立場が上がると、自由が増える構造でした。ゆえに人は自由を求め高い地位に向かい競争するのが一般的な歴史の流れでした。しかし立場が上がっても、日本人は自由がありません。世間がいろいろ口出しをするからです。政治家や社長であっても、同じように相応の振る舞いを求められます。 東条英機であっても、世間を忖度した側面があるのは事実です。それゆえはっきりと戦争責任の原因を歴史は言及できず「開戦の空気が高まった」となってしまいます。結果、うやむやに物事が進んでしまう。世間が全ての意思決定をします。世間は文句を言うだけですが、世間は罰せられません。 最近のニュースでは、俳優がコロナの影響を心配し主役を降りました。コロナにかかったら世間は健康管理不足であると叩く。かといってコロナが理由で自分の役と仕事を放棄しても世間は攻撃します。そしてどうすればいいのかを示さないのが世間です。しかし、世間を壊すことはできません。渡り合いの精神が日本社会に浸透し、世の中が柔らかくなればいいと思います。 人間は誰しもが自由から逃れたいという本能を少なからず持っています。なぜなら判断するにはエネルギーを消費するからです。誰しもが自分の決定が正しいという根拠が欲しい。しかし1つ1つの行動について考え抜き自信を持つのは大変。ゆえに、何か大きな存在を拠り所にし、それに従うことで安心感を得ようとするのです。それは恋人かもしれない。国によっては宗教かもしれない。日本人の場合はその拠り所が「世間」になってしまいます。だから周囲から認められることをすることと、自己肯定感が直結してしまっているのです。 しかし、誰もが実は自分の意見を持っている。心の中のどこかで正しくないと思っていることを続けると、少しずつ自己嫌悪が溜まってゆく上、周囲と同じことをするだけの中で自分の存在意義を見失うこともあります。恐れずあなたが正しいと思ったことをすることで、あなたはより自分を好きになれるでしょう。 ー楽さんの実現したいビジョンは? 平和に生きていられればと思います。人が争わないのは結構難しい。人間は自分の命以上に自分の存在意義が大事です。自分の存在意義が危ぶまれると人間は死に向かったり、自分の存在意義を確かめるために人を傷つけます。 夜職の一部もアイデンティティの危機に晒され続けています。具体的には、風俗嬢は、風俗嬢として周りはみてくれません。風俗嬢に両親から満足な愛情を受けていない人が傾向として多いのは事実です。しかしそれとはまた別に、友達がいて、学校に通い、部活をしてたといった部分もまたその人の個性なのですが、そこがぼやけてしまう。しかし、風俗嬢となった瞬間、風俗嬢としかみられません。「風俗嬢」という言葉を使う裏にはしばしば、同じ人間として見るのではなく「風俗嬢とそうでない私たち」と線を引くニュアンスがあったりします。人は自分をはっきりさせるためにアイデンティティを作ったり、他者の主語を大きくしたりする。宗教?人種?性別?学校?職業?国籍?こういった本能がある限り、人間には常にどこでも争いの火種がくすぶっています。 人間同士の平和は構築が難しい。僕は治安のよさを後世に残せればいい。しかし僕の生きる時代で、平和の仕組み化は無理です。国家を超える意思決定機関ができるにはまだ数百年必要。だとしたら、そこに繋がるレンガの 1 ピースを乗せられればいいと思います。 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:津島菜摘(note/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる

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