「僕は勝手にCEOです」おせっかいな起業家が生み出すのは、守るためのビジネスモデル

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第38回目のゲストは株式会社MIKKE代表取締役の井上拓美さんです。 日本初の“吸うお茶”のブランド「OCHILL(オチル)」共同創業者、日本全国でシェアハウスを展開する株式会社リバ邸取締役、シーシャカフェ「いわしくらぶ」取締役、コワーキングスペース「ChatBase」やWebマガジン「KOMOREBI」、ラジオ番組「ハミダシミッケ」などのプロデューサー…井上さんが関わるプロジェクト、そしてポジションを並べると止まらないほど、たくさんの事業に参画されています。 ただ、そんな彼に「肩書きは?」と尋ねると、先に整列させた言葉はでてきません。 起業家、だけど、その型に嵌め込むにはあまりに変幻自在で大きな輪をもった井上さんに、これまでの歩みと、その先で芽生えたビジネス観について取材しました。 ビジネスのはじまりは「もう一回、会いたいから」という気持ち ー井上さん、本日はどうぞよろしくお願いします。多くのプロジェクトに関り、肩書きもその数だけ増えているかと思いますが…ご自分をどう他人に紹介していますか。 よろしくお願いします。 自分を紹介する肩書きは、相手によって変えるようにしています。誰かと会ったときに僕が一番強く思うことは「この人と友達になりたい!」ということなんです。僕、とても寂しがりやなんですよね(笑) 人と会ったときに「もう一回、この人と会えないかなあ」という気持ちが沸き上がるんです。「僕の肩書きはこれです!」と言ってしまうと、その人のなかで関係性に対するバイアスが出来上がってしまうように思います。なので「僕はこういう者です」って差し出すのではなく、その人の話を聞き、自分がその人のために出来ることを探して伝えます。 ー井上さんは少し変ったデザインの名刺を持っていらっしゃっていますよね。 この名刺のデザインにしたのも、そういった理由からです。やっていること、好きなこと、やりたいことなどをいっぱい並べて、相手に興味があるものを言ってもらうんです。そこからどんどん深く話を進めていくと、仲良くなれることが多いです。 色んなプロジェクトに携わっていますが、肩書きは決めないようにしています。出会ったその人がその人なりに解釈して、その人の言葉で僕を表現してくれたほうが仲良くなれるし、嬉しいよなあ、って。最近だと、「何をやっているか分からないけど、MIKKEの井上拓美という人がいるらしい」って声も聞こえるようになってきました。それが面白い。 使うつもりはありませんが、もし無理やり肩書きを自分に付けるとしたら、「勝手にCEO」かな(笑) そういう感覚でプロジェクトに関わっています。 ー「勝手にCEO」、なるほど。様々なプロジェクトを並行して進めていると思いますが、どのようなきっかけで井上さんが参加することになっているのでしょうか。 日本発の“吸うお茶”のブランド「OCHILL」の場合は、完全にただのおせっかいからスタートしましたね。 もともと、僕がプロデュースしたコワーキングスペース「ChatBase」のクラウドファンディングに支援してくれていたのが、シーシャカフェ「いわしくらぶ」の店主である磯川大地さんだったんです。それからいわしくらぶに通うようになって、シーシャにももちろんハマったんですが、何より空間全体に惚れていきました。もともとChatBaseで実現したかった空間が、いわしくらぶにあったんです。もう「ここでいいじゃん!」って思って、週に3,4回は行くようになりました。 ー週に3,4回!?かなりの頻度ですね。 そのうち、自然な流れで磯川さんから相談を受けるようになり、「どうやら意外と大変な状態みたいだぞ」というのが見えてきました。そこで、勝手にCEOをやりだしたんです(笑) 収支計画書がなかったので作ったり、そもそも何がやりたいのか、何が大切なのかを一緒に言語化していったり、お客さんをどうやったら巻き込んでいけるかを考えたり、なんならお客さんを呼びまくったりしていました(笑) ーとてもありがたいおせっかいですね。 いろいろやるなかで、「いわしくらぶを今後どういう形で続けていくのがいいのか」まで考えるようになり、フランチャイズ化もありなのではないかと検討しました。その道を模索するうちに、いわしくらぶの想いをまとったシーシャのモノがあれば、場所はどこでもいわしくらぶ的な空間になるのではないか、ということに気付いたんです。そこで今度は、「OCHILL」というシーシャの構造を応用した、“吸うお茶”のブランドの立ち上げをすることになりました。 高校を卒業して起業へ。「ただの見栄だった」 ー高校卒業後に、大学へ進学をしなかったのはどうしてですか? 僕は自分のことを、かなりスタンダードな「ゆとり世代」だと認識しています。漫画に憧れて、ドラマの主人公を真似た格好をして育ち、インターネットに出会った。高校3年生の時です。僕が暮らしていた札幌でもインターネットが広がり始めていました。。インターネット上の有名人がすこしずつ現れるようになり、「俺もきっと何者かになれるはずだ」って思えてくる。ただ、何になれるかは分からない、何をしたいのかも別に分からない。そんな中で、大学受験で落ちてしまいました。 ー受験はしたけれど、行けなかった。浪人という選択肢はなかったのでしょうか? そもそもテストという一般化された評価軸で測られることが苦手でした。そのときに知っていた選択肢は、大学進学のための浪人か、専門学校進学か、アルバイト。根拠の全くない思い込みで「何者かになれるんだ!」とプライドだけは高かったので、どれも選びたくなかった。でも結果、実家でゴロゴロしていました(笑) ーそこから起業へと行動が移ったのにはどういったきっかけがあったのでしょうか? 母親に「自立しなさい!」と言われて、そのとき思いついたのが「お金を借りよう」だったんです。そこから銀行に通い詰めるようになりました。門前払いを受けたんですけど、毎日通ううちに、銀行員さんと仲良くなって…18歳が銀行に通うなんて、きっとないですから、可愛く見えたんでしょうね。 でも結局お金は借りられなくて。そこで、日本政策金融公庫の存在を教えてくれたんですよ。「ここは何かを始めたい人のためにお金を貸してくれるところだよ」って。そこで「何か」を始める必要性ができて、高校生のときに飲食店でアルバイトをしていたので「お店ならなんとなくわかるんじゃないか」って飲食の事業を始めようと決めました。 ー日本政策金融公庫からの元手で飲食店を始めたんですね。 いえ、実は借りられなくて…。ただ、事業計画も作って、物件も契約して、お店を始める準備は整っていたので、もう、やるしかなかったんです。最終的には、約6年ぶりに会った父親から借りることに。そしてイタリアンのお店をオープンさせました。 いま思い返すと、頭が悪かったなあって(笑)別の選択肢を全く考えられなかった、知らなかった。学校は、学ぶ内容は教えてくれますけど、学び方は教えてくれないじゃないですか。学び方が分からないから、何を知れば自分の選択肢が広がるのかも分からなかった。そんな状態がずっと続いていたような気がします。 ーそんな状態でも、開業まで辿り着いたんですね。イタリアンは、井上さんが作りたかったんですか? お金を借りた段階では、どんな飲食を提供するか決まっていませんでしたね。そもそも僕は料理を振舞いたかったわけでもなかったし、振る舞うほどのスキルもなかったので、シェフが必要で、料理ができる人と出会うために飲食店を回って聞きまくったんです。「余っている人、いないですか?」って。 ーそんなこと聞く人いますか?(笑) いないと思います(笑)当然、余っている人なんていなくて。ただ、あるお店で、「うちの店と合わないんだよね」と言われている60代の料理人と出会いました。その人はイタリアンをやりたがっていて、独立を考えていたんです。ただ、どうやればいいか分からない。そもそも、その料理人も経営に興味はなくて。対して僕はお店のコンセプトなんかは考えていない。なので「経営に関することは僕がやるので、好きな料理を提供していいですよ」と言ったら、その人がシェフになりました。それで、イタリアンのお店に。 ーコンセプトもなく、料理人任せでイタリアンのお店をスタートして、うまくいったのでしょうか? 1年半ほどで黒字になり、2年を過ぎた頃には借金の返済もできました。 今の時代は、まず最初にコンセプトを作ってから何かを始めることが多いですよね。当時の僕は、まず始めて、やっていきながら「このお店は、こんなお店かもしれない」って気付いていく過程を面白がっていました。 もちろん、最初から順調だったわけではありません。国道沿いのお店だったのですが、車がまったく止まらず、いつまで経ってもお客がこなかった。そこで、周辺に住んでいる人たちに注目したんです。この人たちが来てくれるようになったら「食っていけるぞ」と思って。とりあえず話すことから始めてみようと挨拶をするようになりました。そうすることで、そこにどんな人たちが住んでいるのかを把握していきました。ご年配の方が多く、昼間からスナックやパチンコに行っているんですよね。 ーそんな人たちをどうやって自分のお店に引き込んだのでしょう? 町を散歩してひたすら挨拶をしたり、スナックに通うようにもなりました。未成年だったのでお酒は飲めませんでしたが、ビートルズや玉置浩二さんの歌を歌えたので、仲良くなっていけて(笑) その人たちは、別に昼間からお酒を飲みたいわけじゃなかったんですよね。寂しくて、人と触れたがっていたんです。スナックのオーナーさんもご年配で、昼間からお店を開けることに負担を感じていました。なので、「うちの店で無料のコーヒーを出しますよ」って提案をしました。そうしたら、昼間はうちでコーヒー、夜はスナック、というルーティンができてきました。最初は、本当に無料のコーヒーしか飲まなくて(笑)でも、続けていくうちに彼らにも申し訳なさが芽生えてきたのか、料理も注文してくれるようになって…そこからは早かったですね。それまで食べなかった人が食べるわけですから、売り上げが倍以上になりました。 この経験から、まずは行動によってコンセプトが生まれると強く感じました。自分が起したアクションが、外からどう見えるかによってコンセプトは変るんです。この感覚は、今のプロダクト作りにも活きていますね。 上京、起業。「好きなこと」が分からなくなる ー北海道で飲食店を経営し、その後、20歳の時に上京をされますよね。どうして活動の拠点を東京にうつしたのでしょうか? 2年半飲食店をやって、飽きてきたっていうのが正直な気持ちでした。そんなときにビジネスコンテストに誘われて、「交通費はでるし、参加費はいらないし、行くか」という軽い気持ちで参加したのですが、そこで優勝してしまったんです。主催者の上場企業が、出資すると言ってくれたので、上京して起業することになりました。少し酔っているときに返事をしてしまったので、結構ノリでした(笑)そのときはまだ、飲食店の方はどうするかなんて考えていなくて…。 ー上京をして、新規事業に参入するのは大きなハードルに思えますが…。 そもそも、何かを始めるときに大きな意識や行動を自分自身がもつ必要があるとは思っていません。そういったものが必要なタイミングは訪れることはあるでしょうけど「それまで待ってよう」くらいの姿勢でいます。 ー上場企業から出資をうけての企業。全く違う業界になったわけですが、苦労はしましたか? Webサービスの開発にあたったんですけど、その頃、エンジニアっていう存在すら知らずにいたので…。とにかく難しかったです。ただ、サービスの完成から逆算して考えて、進めて、大きな失敗とかはありませんでした。ユーザーも増えて、うまくいっているように思えていましたね。でも「僕、誰のためにやっているんだろう」って問いが生まれてきたんです。 Webサービスがどんどん誕生していて、その波にのって東京の真ん中で開発をして…何も考えていなかったんですよね。その先の、単純な「自分は何がしたいんだろう」という問いへの答えが分からなくなった。 そうなってからは、友達に「何が好きなんだと思う?」ってひたすら聞いていました。そのタイミングで、出資してくれた社長から今後の話を聞かれて、サービスとしても天井が見えていたので「もっと勉強したいです」と伝え、入社することにしました。 辛いからこそ分かった、自分の感情が向うところ ー初めての会社員生活ですね。しかし、その企業は入社して数カ月で退職されたようですが…。 本当に小さなストレス積み重ねです。朝の電車が辛い、とか。だってドアから人がはみ出しているんですもん。そんなのに乗れない、ってホームに引き返したこともあります。 上場企業だったので、優秀な人が集まっていて、そういう人たちのことを知れたのは学びでした。自分で起業、経営をしてきたので天狗になっていたんですよね。優秀な、仕事が出来る人を前にして、自分が出来ない奴のように感じました。ただ、そのことについて考えれば考えるほど、そもそも彼らとは世界線が違うんじゃないかな、という違和感が芽生えたんです。 「この気持ちはなんだろう」と考え抜いた先に、株式会社の構造そのものに疑問が生まれました。会社の中の一部署で仕事をするってどういうことかというと、「なぜ」が決まっていて、それに対してのビジネスモデルの仮説が決まっていて、事業があって、行動が決まっていて、目指す先まで…ある程度、経営会議で決定済みの事項なんです。その固まってしまった中で、僕らに「具体的にどんな方法でやると良いのか、クリエイティブに考えろ」って託されるんですよね。 「『具体的にどうやるか』から始めたら、クリエイティブに考えられるんだろうか?」それが、僕が抱いた違和感でした。だって、もう枝まできてしまっているんです。クリエイティブを発揮するのであれば、本来、根っこから解決しないと出来ないよ、と思って。大企業だと仕方がないと思うんですけど、その構造を受け入れられず、1ヵ月で辞めてしまいました。 ー1ヵ月で!もうすこしいれば変わるかも、とは思わなかったのですか? 蕁麻疹が出るようになってしまって…。ただ、あの会社員生活がなかったら今の僕はいなかったので、無くてはならない経験でした。辛かったからこそ、自分の役割やポジションを模索し続けて、その結果として好きなことや得意に気付けました。 ナチュラルな状態を大事に。守るためのビジネスモデル ー会社員を辞め、再び起業家に。 辛すぎて、やりたいことがいっぱいでてきて、それを解放するために株式会社MIKKEを立ち上げました。ただ、明確に、この事業を、とか、こういう会社にするぞ、というビジョンが定まっていたわけではありませんでした。 「友達と仲良く楽しく飲んでいて、そしたらいつの間にか一緒に始まっていた」みたいな流れを面白がりたい。「自分の感覚に純粋でいられる状態を作りたい」という想いで活動しています。僕のプロジェクトや仕事は、必然性や偶然性をとても大事にしています。ナチュラルな状態であることが心地いいんです。「何かをするために何かを捨てなきゃいけない」とか「こうしなきゃいけない」とか、そういうのが嫌なんです。いつの間にか自然と「こうなってしまった」という状態を大事にしたいと思っています。 ー先ほどの「なぜ」から始まる体系的なビジネス思考とは違いますね。 決して、循環させるための構造やお金の必要性が先にくることはありません。縁起として繋がる偶発性や、言語化しきれない感情…そういうものを大事にしていきたくて、それを守るためにビジネスモデルを作ろうと日々あらゆるプロジェクトや事業を生み出しています。 ー本日はありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter) 撮影:橋本岬

「今を一番楽しめる選択をし続けたいんです」ゼロから“自分の好き“を見つけ、パラレルワーカーになるまで

「パラレルワークに興味はあるけど、学生の頃からビジネスに関わっている人じゃないと無理だよね…」と、不安に思う人は多いんじゃないでしょうか。  色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ第38回目は、ベンチャー企業の経営企画・マーケティングの担当者として活動しながら、複業で地域活性団体の共同代表を務める、など多岐に渡って活躍される吉田柾長(よしだまさなが)さんにインタビュー。 パラレルワーカーとして活躍され、この4月からは独立してフリーランスとなる吉田さん。意外にも、学生の頃は何がしたいのか全く分からなかったとのこと。そんな学生がどのように独立にまで至ったのか。熱意をつかみとった吉田さんにお話を伺います。  焦りから、行動してつかんだ飲食店への想い  ― ベンチャー企業の会社員・地域活性団体の共同代表・コミュニティバーの立ち上げ、と多方面に活動なさっていますが、活動の軸などはあるのでしょうか?  軸としては2つありまして。1つは「飲食店の可能性を広げる」、もう1つは「多様な働き方を体現する」です。 ― その想いは昔からあったんですか? 色々行動しながら見つけたものですね。そもそも就活を始めるときは、自分が何をしたいのか全く分からなかったので。 ― その状態から、どのように動いてぐるなびさんへの新卒入社に繋がったんですか? 私、本当に平凡な学生だったんです。ほどほどにサークル活動して、ほどほどにバイトして、ほどほどに勉強する。どこにでもいる学生だったんですけど、3年生になり就活をぼんやり意識し始めたとき、このままで良いのかな、と少し焦ったんです。  絶対何かを成し遂げたいという想いもなかったですし、興味のある業界とか分野も全然浮かばなくて。これはマズいな、と思って色んな会社のインターンに参加するようにしたんです。 ― 何社くらい参加したんですか? 1dayとかも含めてですけど、30社くらいは行ったと思いますね。 ― 30社はすごい…! すぐに軸や業界は定まりましたか? すぐには決まらなかったですね。インターンに参加する度に、感じたことや自分の頭の中を整理して、ようやく見つけた、というイメージです。新卒で入社したぐるなびも、ほぼ30社目くらいでしたしね。  毎週自己分析して、試行錯誤をし続けていました。 ― そうして動いてる中で、ぐるなびさんと運命的な出会いをしたわけですね。  そうですね。様々な企業を知り、自己分析もして「頑張る人を応援したい」という絶対的な軸を見つけることができました。 でも、出会えてラッキーだった、というよりは自分でその出会いをつかみとったんだ、と思うんです。本当に平凡な学生だった自覚はあったので、自分から情報を取りに行く姿勢だったり、分からないなら分かるまで探し続ける、だったり。 その結果、入りたいと思える会社に出会えたので、自分でつかんだ出会いだったと思います。   ― ぐるなびさんとは、どのような出会いだったんですか? まず、飲食業界に惹かれたんです。飲食業界って、労働環境や利益率がどうしても他業界よりも厳しくなってしまうんですけど、その中でも誇りを持って働いている方々がいて。単純に尊敬したんです。何で、ここまで情熱を持てるんだろう、自分もこんな大人になりたいと思うようになりました。 そう思っていたので、ぐるなびのインターンで「飲食店の想いをユーザーに届ける」という理念を聞いたときに、もう鳥肌が立つくらい感動したんです。「あ、ここに入りたい」と思えたのは初めてでしたね。 その後、早めに選考を受けさせてもらって。恐らく、同期で一番早くに内定をもらったと思います。 ― やっと見つけた出会いですもんね。熱意がすごい。 そこからは飲食店にどっぷりでした。就活が終わったので、勉強しようと思って、飲食店のバイトを2つ始めたんです。  ―次を見据えての勉強なんですね。伝えることになるお店側の想いを知ろう、と。 長津田というベッドタウンのイタリアンと、渋谷センター街のカフェの2店舗でバイトしていましたが、面白かったですね。  イタリアンのお店では、シェフが持つ料理のこだわりを、お客さんにどう伝えればよいか考えたり。カフェの方では、料理の美味しさももちろんですけど、場所としての役割が求められているんだ、と実感できたり。そういう違いを知れるのが面白かったです。 ― 実際に働いてみることで、より想いが強まったんですね。  そうですね。飲食店が持つ可能性を実感したのは、そのときが初めてかもしれません。色んな形態やジャンルがあって、変化も激しい。この業界は一生面白がれるな、と感じました。 「狂ってる」と言われるほどの熱意で動いた新卒時代 ― 同期で、そこまでの熱意を持っている人はいたんですか?  いなかったと思いますね。先輩から「狂ってるくらいの熱意」と言われたくらいなので(笑)。 ― 最初は営業配属?  そうです。ぐるなびって広告だけでなく、注文に使うタブレットなども扱っているんです。飲食店の課題をヒアリングして、どういう商品が良いのかを考えて、提案することは楽しかったですね。 お店の人からも「そこまで言ってくれるなら、賭けてみようと思う」と言ってもらえたり。熱意を持って仕事ができていたと思います。 ― 2年間営業をやって、企画に異動したんですよね。異動は希望していたんですか?  入社当時から言っていましたね。もっと上流でやりたいと思っていたので。上司との最初の面談で「企画行きたいんです」って伝えたり、意志を発信するのは意識していました。 ― その結果、希望通り異動してますもんね。言い続ける、って大事。企画のお仕事はどんなことを?  ぐるなびの広告を扱うのではなく、飲食店や料理人のネットワークを使って、企業や地方自治体のプロモーションをお手伝いする仕事でした。 意外なところで料理人のニーズがあることに気付いたりして、飲食店の可能性をより強く実感しましたね。 ― 印象的な企画ってあります? とある高級家具屋さんとの取り組みは、かなり衝撃的でした。そこの会員さん向けに、家具屋さんのショールームでイベントをする、という案件で、「お金を持っている人が応援したくなる料理人をアサインして欲しい」と言われたんです。 厨房の外にも料理人の活躍する場があるんだ、と思いましたね。しかも、厨房の外に出ることで、その人が持っている想いを広めることができる。飲食店の可能性を広げるヒントを感じられて、印象深いですね。 新しい可能性を感じる仕事が他にもいくつもあって、本当に楽しかったです。 きっかけは違和感。外の世界への興味からパラレルワークへ   仕事は充実していたんですけど、パラレルワークを始めたのもこの頃なんですよ。外の世界も知りたいな、と思って。 ― 希望していた部署で楽しくやっていた中で、なぜ外を知りたいと思ったんですか? 異動しても周りの環境が変わらなくて、少し違和感を感じたんです。営業部ほどは多くはなかったですけど、辛そうに働いている人が多い、という環境が営業部と変わらなかった。 企画部を理想化していたからかもしれませんが、少しだけがっかりしてしまったんです。そこからですね、外にはもっと色んな働き方をしている人がいるんじゃないか、と興味を持つようになりました。 ― 外に興味を持って、何から始めたんですか? 企画で地方自治体と関わることが多くて、地域活性って面白いな、と思っていたんです。なので、面白そうな地域活性系のイベントを見つけては、とにかく参加していましたね。 ここでも、週4回くらい狂ったようにイベントに参加する時期もありました(笑)。 ― 興味が溢れると、もう一直線なんですね。イベントへの参加から、どのようにパラレルワークに移っていったんでしょう? イベントに参加して、少しずつ知り合いが増えてきたところで、「うちのイベント手伝ってくれない?」とお誘いをもらうことが多くなったんです。 最初はもちろん無償でしたけど、元々興味でやっていることだし、お金よりも得るものが大きいと思って、そういうお誘いは受けるようにしていました。 ― 最初はGiveから始めたんですね。 いくつかお手伝いしていく中で、初めてお金をいただいたことがあったんです。参加費が投げ銭制のとあるイベントだったんですけど、かなり盛り上がって、結構な額が手元に残ったんです。 その残ったお金は打ち上げでほぼ消えてしまったんですけど、趣味としての活動でお金をもらえたのは初めてで。ものすごく嬉しかったんですよ、金額にしたら本当に少なかったのに。 そこからでしたね。この感覚が忘れられず、没頭するうちに共同代表に誘ってもらったりして、段々と趣味が仕事に近づいていきました。 フリーランスは、ぶれずに「今を楽しむ」ための選択   ー 外で活動の場を広げる中で、転職もなされました。この選択は、外で色んな働き方を見たことが大きかったんですか? それもありますが、飲食店の可能性を考えたとき、これからITとシェアリングが大きく関与してくるな、と確信じみた予感を持っていたんです。 その予感が大きくなるにつれ、より多角的に飲食店を見たいと思うようになり、転職を視野に入れはじめました。 ー アスラボさんは転職活動の中で出会ったんですか? アスラボは転職を考え始める前から知っていて。企画部で競合調査するときに、唯一興味を惹かれていた企業だったんです。ITとシェアリングをどっちも扱っていたので、ここだ、と思って一社だけ受けて転職を決めました。 ― そこから、何をきっかけに独立を決めたんでしょうか? 一つは、もっと飲食店のことを勉強したい、という想いです。飲食店の可能性を広げたいと言いながら、実際に飲食店の内部で働いたことは学生時代のアルバイトくらいしかないので、週1でもいいから飲食店で働いてみよう、と思ったんです。  近しい話で、1月からコミュニティバーの立ち上げに参加しているんですけど、やはり自分主体でお店と関わるのは勉強になります。 ― 内部にいないと分からないことはありますもんね。  もう一つは、お誘いしてもらった面白い仕事を「許可のない複業は会社的にNG」という理由でお断りしているのが、単純にもったいないと思ったからですね。せっかく一緒にやりたい、と思ってもらえるのなら可能な限りやってみたい。 そう考えると、独立してフリーランスという形が今は一番良いな、と。4月からは、いくつかの企業で業務委託として働きながら、飲食店の現場にも立ってみようと思っています。 ― 今は、ということは会社員に戻る可能性もあるんですか?  そうですね。今を一番楽しめるのがフリーランスだと考えているだけなので、会社員として所属した方が楽しめると思ったら戻ると思います。 ― 「今を楽しむためのフリーランス」という考えは素敵ですね。  私にとって、働くことは趣味に近いんだと思います。テレビを見たり音楽を聴くのとあまり変わらないんです。稼ぐ、というよりは、楽しい。この感覚は忘れないようにしたいですね。  ぶれないために、就活のときにやっていた自己分析を、今でも毎週やっているんです。今の方向性が合っているか、大切なものを見失っていないか、確認する時間をとっています。 今は失うものがないので、とにかく挑戦していきたいと思いますね。「頑張る人を応援する」という絶対的な軸だけはぶらさずに、今の自分を一番楽しめる方法を選択し続けたいです。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 写真:山崎貴大 文:安久都智史 デザイン:矢野拓実  

下着ブランドPeriod.プロデューサーに聞いた「自分だけの好き」を持ち続ける大切さ

生理の日を快適に過ごすためのパンツブランドPeriod.をご存知でしょうか。このブランドを立ち上げたのが、寺尾彩加(てらお あやか)さんです。  色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ第37回目は、下着ブランドPeriod.を立ち上げ、プロデューサーを務める寺尾さんにインタビュー。  新卒で動画コンサルの会社に入った寺尾さんが、下着ブランドを立ち上げるに至った理由は何だったのか。「好き」を追求し、没頭し続ける。そんな寺尾さんの選択をお聞きしていきます。 「自分らしく働く」ことを意識した新卒時代 ― 新卒で入ったLOCUSさんをこの2月に退職したんですよね。何年在籍したんですか? 2016年に新卒で入ったので、約4年間ですね。  ― LOCUSさんに入ったのは何がきっかけだったんですか?  まず「自分らしく働きたい」というのが一番にあったんですよ。  学生のときに、イケア・ジャパンやリクルートでインターンさせてもらっていて、新規事業などで提案の機会を多くもらったんです。そこでの体験ももちろんですし、周りの社員さんも見て「あ、自分らしく働くって楽しいことなんだ」って思うようになりました。 ― 働くことに対する自分のマインドが固まったんですね。 その後、就活中に先輩から誘われた逆求人イベントで、LOCUSに出会ったんです。逆求人のイベントって、学生が自分のことを話すと思っていたんですけど、全くの逆で。企業の人が一方的に売り込んでくるんですよ。  ちょっとその雰囲気に疲れていたとき、LOCUSのブースだけ、私の話を親身に聞いてくれたんです。そこで「興味があったら話聞きに来ませんか」とオフィス見学に誘われて、遊びに行くようになりました。 ― 1社だけ話を聞いてくれて、信用も出来たし。 しかも、オフィスに遊びに行って色んな方と会う中で、誰一人として違和感を感じなかったんです。「この人とは合わないな」と感じる人が1人もいなくて。自分らしく働こうと思うと、毎日一緒にいる人ってすごく大事じゃないですか。  なおかつ、「やりたいことやらせてあげるフィールドがうちにはあります」ってお話を頂いていたんです。ただの学生なのに、こんなに言ってくれることがすごく嬉しくて、LOCUSへの入社を決めました。 ― 実際、入社してからは自分らしく働けたんですか?  そうですね。座学じゃなくて、実践で学ばせるという会社の教育方針も自分に合っていましたし。ありがたいことに、入社4ヶ月くらいで初めて自分でプロジェクトを回させてもらったりと、本当に良い経験をさせてもらいました。この会社選んで良かったな、って素直に思っていましたね。  ― ベンチャー企業って、付いていけずに挫折しちゃう人も多いと思うんですけど、寺尾さんが意識していたことって何かありましたか? 「分からないことは素直に聞く」と「効率的に終わらせて、無駄な残業はしない」ことは自分の中で決めていたかもしれません。  分からないまま勝手に悩んで、時間だけ過ぎることってあるじゃないですか。もちろん考えることは大切ですけど、素直に分からないと言った方が得だな、と思ったんです。ダラダラ働くよりも、全部やること終えた後にダラダラする方が楽しいですしね(笑)  人生で初めて生理が楽しみだった。生理用品を必要としない下着THINXとの出会い ― そこから、どのような出会いがあって下着ブランドの立ち上げに繋がったんですか?  本当に偶然の出会いなんですよ。海外のファッションとか広告のトレンドとかをリサーチするのが好きなんですけど、たまたまネットで吸収型パンツのTHINXの創業者インタビューを見つけて。ありそうでなかったし、これはすごく便利だな、と感動してすぐに注文したんです。  無事届いたんですけど、届いてから生理が来るまでは実際に使えないじゃないですか。そうしたら、「はやく次の生理来てくれ…!」って生理を楽しみにしている自分がいたんですよ。この体験が衝撃的すぎて。25年生きてきて、生理を楽しみに待つなんて初めてでした。  ― 生理を楽しみに感じる!それはすごい。 しかも、実際に使ってみたらめちゃくちゃ快適で。「何度この商品に驚かされるんだ、友達にもこの驚きを味わって欲しい…!」と思って、友達にも勧めたんです。そうしたら友達も同じように驚いてくれたんですよ。それがすごく嬉しかったんです。 こんなに良いものが日本で知られてないなんて。私が持ってこなかったら日本に広まらないんじゃないか、と思って、個人でTHINXを輸入して販売することを考え始めました。 ― 私がやるしかない、と使命感を感じたんですね。 私がやらなきゃって思いましたね(笑) そこから個人でECを立ち上げて輸入したものを販売していたんですけど、TwitterやFacebookで気軽にシェアしたら1000件のリツイートとか、600件のいいねとか、ものすごい勢いで広まって、一瞬で完売したんです。 「これは日本でもいける…!」と思い、大量発注しようとしたときに、THINXからWholesalesとして誘われて。ありがたいお誘いだと思って話を進めていたんですけど、ネット販売を禁止されたんですよ。 ― え、リアル店舗での販売じゃないとダメってことですか?  そうです。でも、店舗を持つってすごいリスク高いじゃないですか。ポップアップストアとかも考えたんですけど、継続的にやっていける自信がなかった。  どうするか、すごく悩んだんですけど、ふと「輸入出来ないなら、日本で作ればいいんじゃない?」って思ったんです。 ブランド立ち上げから独立への選択。好きなことをやるのは楽しい ― 「じゃあ自分で作ろう!」となるのはすごいですね。どうやって始めていいかも分からないんですが… 最初は、そもそも日本で作れるのかが分からなかったので、工場への問い合わせから始めましたね。「工場 サニタリーショーツ」でGoogle検索して、電話していくっていう(笑)  あとは、日本のブランドでも売れるかも分からなかったので、クラウドファンディングに挑戦して。そこで目標を190%達成させることが出来たので、「日本のブランドでもいけるぞ!」と自信を持って、ブランドを立ち上げることにしたんです。 ― 多くの人は、興味があってもECやブランドの立ち上げまでいかないと思います。何がそこまでのモチベーションになっているんですか? 今もそうですけど、始めたときも儲けようって思いは全然なくて。もう本当に広めたいと思っていたんです。それくらいTHINXから受けた衝撃は強かった。  THINXに出会ってから、私も自分の身体について考えることが多くなったんです。悲しくなったり、怒りっぽくなるのがPMSだってことを知ったり、それを軽減する方法を知ったり。 そうやって、自分の身体の不快をコントロール出来れば、自分も周りもハッピーじゃないですか。そうやって、多くの女性に自分に合うものを選択して、アクションしていって欲しいって思うんです。 信念と呼んでいいのかは分かりませんが、想いが先行しているからこそ、私をここまで突き動かしているのかもしれません。  ― そうして生まれたのがPeriod.というブランドなんですね。 個人でEC立ち上げたときから、屋号として使ってはいたんですけどね。“Period“って、英語で「生理」っていう意味なんですよ。  最近はマシになってきましたけど、日本だと生理のことを生理って言いにくいじゃないですか。ちょっと抵抗があるとき、“アレ”って誤魔化すのも少し違うなと思っているんですけど、“Period”だったらライトに使えるんじゃないかなって。 無理にオープンに話す必要はないですけど、何かあったときに話に出したり、ライフハックを共有したりとか、そういう契機になれば良いな、と思ってPeriod.と名付けました。 ― 素敵なネーミングですね。ずっと副業として活動してきた中で、独立する、という選択をしたわけですけれど、どのような考えがあったんでしょう? 自分でも新しい発見だったんですけど、「好きなことをやるのって、こんなに楽しいんだ」と実感したことは大きかったかもしれません。大変なことはあるけど苦じゃない。素直にもっとやりたい、って思えるんです。  あとは、チャレンジするなら今しかないなって。まだ結婚もしてないですし、子供がいるわけでもない。仮に失敗しても失うものがない。だったら、好きなことにチャレンジしてみようって思ったんです。 今やらなくていつやるんだ、くらいに思って独立することを決断しました。 何が伏線になるかは分からない。ただ自分だけの「好き」を追い求めて ― 寺尾さんのように、好きなことに没頭したいと思っているU29読者は多いと思うんです。「コレだ!」と思えるものに出会うために、何か意識していましたか? 私の場合、元々ファッションやヘルスケアの情報をリサーチするのが好きだったんですよ。それも海外、特にアメリカのトレンド。  単純に好きなので、最先端のものを知りたいと思うんですけど、海外のトレンドだと翻訳されるのを待たないといけないじゃないですか。すると、日本語で読む頃には流行ではなくなってたりするんですよね。なので、海外の英語のメディアを自然に読むようになっていました。 そこで、たまたま出会ったのがTHINXで、その偶然の出会いから、色んなものが転がるように動いていったんです。  ― 好きなものへのアンテナを張っていた、と。 そうですね。自分は何が好きなのか、ハッキリさせておくのが大事だと思います。  誰にでも好きなものってあるじゃないですか。日々過ごしていく中で「あ、これ良いな」って思ったものを心にメモしておく。そして、メモが溜まってくると、何となく自分の好みの方向性が見えるはずなんです。「あ、私ってこういうものが好きなのかも」って。 そこに気付いてからは、更にその方向性の情報を深く知ってみて、心にメモして、の繰り返しです。 ― その点が連なって、線になっていくんですね。 私、点だけだとすぐに冷めちゃうんですよ。1つだけだと、深入りしてもすぐに忘れちゃう。でも、多くが連なって、線になった後に「これだ!」と思って深入りしたら、より魅力にはまっていく感覚があるんです。この感覚は大事にしていたかもしれません。  ― なるほど。自分で自分の好みを深堀りしていくのが大事。 とは言え、どの点が線になるかは分かりませんからね。私が独立できたのも、学生時代にインターンで仲良くなった友達に独立している人が多かったのは大きくて。独立っていう選択肢がすごい身近だった。  インターンを始めるときに、そこまで考えていたわけではないですが、今思えばそのときの経験や環境がすごく役立ってますし、大学のときに学んでいた経営学やマネジメントの知識も今になってようやく活きてきました。 何から、じゃなくて、自分が好きだと思ったことをとりあえずやってみることからしか始まらないんだと思います。考える時間があったら、とりあえずやってみる。やってみて、良かったかダメだったかを経験して、また点を打ってみる。 そうやって打ち続けた点が、いつか振り返ったときに1本の自分だけの線になるんだと思います。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 写真:山崎貴大 文:安久都智史 デザイン:矢野拓実  

他人軸から脱却し、独自の働き方「週4正社員、週1フリーランス」を実現するまで

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第34回目のゲストは、ユニークキャリアラウンジにてカメラマンとして多くの取材にも立ち会っている山ちゃんこと、山崎貴大(やまざき たかひろ)さんです。 新卒で就職するも一年で退社し、自作の「ミニ火鉢」をリヤカーに積んで歩く旅を始めたというユニークなキャリアを歩んでいる山崎さん。現在は株式会社オンリーストーリーにて経営企画室・PRとして勤務する傍ら、週1日のみフリーランスで他社の広報やコンテンツ制作に携わっています。 自分軸だと思っていたものが圧倒的他人軸だったと気づき、そのときの失望感に一度が心が完全に折れてしまった山崎さん。いかにそれを乗り越え、現在の働き方を掴んでいったのか…26年の人生を振り返りながら語っていただきました。 東日本大震災をきっかけに、自分の気持に素直に生きることへ目覚める ー人生における最初のターニングポイントが「震災」と伺ったのですが、何があったのでしょうか。 3.11の震災当時、私は茨城県にいて17歳でした。震源地から近く、4日間ライフラインが止まりました。前日までは何てことない日常が一瞬にして変わっていく様子を目の当たりにして、「今やりたいと思ったことや、興味あることは実現していかないと、後悔する!」と感じたんです。 ーいつ死ぬかも分からない、という状況が山崎さんを変えたんですね。 それまでは引っ込み思案で、人前で話したり初対面で誰かと打ち解けたりすることも本当に苦手でした。ですが、なんとなく変わりたい。このままでいいのか?というモヤモヤは心の中にずっとあった気がします。素直に生きている人への憧れみたいなのもあったのですが自力じゃ変われなくて。今思えば震災を機に変わるチャンスを頂けたのだと思います。 大学入学後は、和太鼓部へ入門したり、海外への短期留学、学生団体の取り組みにも挑戦しました。高校までの僕じゃ飛び込まなかったような世界にたくさん迎え入れていただいて、色々な経験をさせていただきました。小学生や高校生の頃の同級生に話したら「お前どうした!」と言われるほど変わったと思います(笑) ーいろいろ活動された結果、新卒で旅行会社に就職を決めたのはなぜですか? 大学が国際観光学科だったのもあり、就活はシンプルに旅行会社に絞っていました。旅行会社を何社か受け、内定を頂いた中で一番幅広く挑戦ができる印象だった企業に決めました。 ー新卒時代はどのようなお仕事をされていたんですか? JR東日本グループの旅行会社に就職し、訪日旅行部に配属となりました。職場は成田空港第一ターミナルの訪日旅行センターでした。こちらでは外国人専用カウンターというものがあり、旅行商品やチケットの販売、通訳をするんですけど、当時は英語が出来なくって…。よく使うフレーズなどを先輩に教わりながら覚えていきましたね。   新卒で旅行会社に入社し1年で退職。持て余したパワーの行く末は…? ー入社1年で退社に至ったのはどのようなキッカケがあったのですか? 大学時代は土日問わず様々なことに挑戦し、常に「パワーの箱」が広がっていく感覚がありました。就職してもそれは変わらず、予定を入れまくり、毎日クタクタになるまでやり切ることが当たり前だと思っていたんです。そのイメージと比べると、職場はホワイト企業で過度なストレスもなく、休みもきっちり取れますし、環境も人間関係もすごく良かったんです。残業も少ないですし、本当に恵まれて多くのことを勉強させてもらっていたのですが…仕事がうまくいってたがゆえに、「パワーの箱」をどこに使おうか模索していました。 仕事以外の時間を使って、Webデザインスクールや起業・開業支援が受けられる場に通っていたので、もっとそっちに集中したいと上司に打ち明けました。すると、「やってみた方が後悔しないし、これから先色々あるから、そこまで言うならやってみたらいい」と背中を押してくれたんです。上司の理解と応援もあり、退社を決めました。不満はなかったです。 ーそんなポジティブな退社の後は、起業を目指したのですか? 登記まではしなかったものの、やりたかった事業のプロトタイプ的なものは作り、お金ももらって少し活動していました。しかし、なかなかマネタイズができなかったんです。 起業・開業を志す周りの人々を見ると年上も多かったですし、家族のために覚悟や情熱を懸けて取り組んでいたんです。その時、自分にはそこまでの覚悟も情熱も無いと気づいたんです。それからもう一度自分を奮い立たせることができず、お金はなくなっていくばかり…。なんて大変な決断をしてしまったんだ…と、ようやく気づきました。 26年の人生の中で一番底を感じた瞬間でした。 ー人生における底を味わったんですね。収入がゼロの時は、どんな心境だったんですか? 震災を機に自分のやりたいことに素直に生きはじめたと思いきや、他人の評価軸に飲み込まれていたと気づいて、めちゃめちゃ苦しくなったんですよね。人に褒められて嬉しいこと、人からすごいと言ってもらえることが嬉しくて、それを目指してこれまで生きてきたことに気づいてしまって。 結局、お金もなくなって不安ですし、この先なにがあるんだろうという不安とで誰にも頼れず、いっぱいいっぱいになってしまいました。ある日、キッチンで水を飲もうと蛇口をひねったものの、手に持ったコップには注がずぼーっとただ水だけ流していたんです。しばらくしてハッとして「なんか違う」と思い、母親に泣きながら電話しました。母は「東京に居続ける必要なんてない。田舎にも仕事はいっぱいあるから帰ってきなさい」と言ってくれました。 そこから偶然の出会いがあって、とある古い家を持つ方に拾って頂き、テレビも何もないところでゆっくり、ただ内省を繰り返した毎日を送っていました。   金なし、仕事なしの隠居生活中に見つけた「自分のやりたいこと」とは ーリアル「ご隠居生活」は、どんな生活だったんですか? スマホ・パソコンは使える生活でした。朝起きたら渓流のそばに行って「自分は何がしたかったのか」と考えるのが日課で。 内省につながるブログはと細々と書いていました。 自然の中で生活をしているうちに、人間は自然には逆らえないことを肌で感じ、自分でコントロールできないものや変えられないものを相手に、どうやって付き合っていくべきか?ということを真剣に考えました。何でもコントロール出来るって傲慢にちょっと思い込んでたんだな…と気づけました。 ー結果3・4ヶ月でその生活にピリオドを打ったのは、何がキッカケだったのでしょうか。 最初は本当に誰にも会いたくない・無理して何かをやりたくない気分でした。次第に、その生活で関わる周りの方にいろんな機会を頂き、変わっていきました。特に大きく変わるキッカケとなったのが「囲炉裏」との出会いでした。 囲炉裏に火を入れて魚を焼き、初めて食べた瞬間、安らぎを感じて面白いな…と思ったんです。この面白さを同世代は知ってほしいと思い、友人に話すと興味を持ってくれました。友人たちと一緒に火を囲むと、心が落ち着くと喜んでくれたことが嬉しかったですし、自分自身も楽しかった。そこでまた安らぎを感じていました。 ー心を閉ざしてた頃から、囲炉裏をキッカケにオープンになっていったんですね。 友人が僕を通して火のある場所を知り、興味を持ってくれて。色々な方が面白そうだね、と関心を寄せてくれました。そこから火を囲んで話をしてる自分自身のこともだんだん好きになってきたんです。そこから、火のある場の魅力をもっと同世代の色々な人が知ってくれたら、僕みたいに落ち込んでいた人も暮らしやすくなるのかな…と思いつき、「これだ!」と思ったんです。 ーそこから、山崎さんのユニークな旅がスタートしたんですね! はい。「これだ!」と思ってバーッとメモを書いて。まず、火のある場をポータブルな形で楽しむために火鉢みたいなものを作ろうと思いつきました。でも火鉢はリュックには入らないので、リヤカーを作って灰・炭と一緒に積んで歩こうと考えました。 リヤカーで歩き、出会った人たちと火を囲んで、その土地のものを持ち寄って一緒に焼いたり食べたりして暮らせないかな?そしたら囲炉裏を知らない人にも、生活に安らぎや彩りが加わるかな?という仮説を実験したくなったんです。そのアイディアを思い立った瞬間、すぐ行動に移したのが隠居生活の最後でした。   一歩一歩、自分の足で前に踏み出す大切さと多くの人に触れたリヤカーの旅 ーリヤカーで旅する日々はどんなものでしたか? まず、スタートの時期を間違えました。真夏にスタートしてしまったので歩くのが辛い&火鉢なんて要らない季節。明らかにタイミングを間違えました。思い立ったままに行動してしまうことが多いんですが、このときばかりは自分を恨みました…(笑) 実際に歩き始めてみると想像以上に辛くて、最初の頃はなんどか諦めたくなって「なんでこんなことをしているんだろうか」と辛くなることもありましたね(苦笑)いろんな人との出会いや慣れがあって次第に日々を楽しめるようになってきてからは、歩きながらひたすらに内省をしていました。 歩いてると自分自身しか話す相手がいないっていう不思議な状況なので、内省がとても深まるんです。そうすると、辛いときでも「これは試練だな。試されてるな。」と捉えられるようになったり「なんでいま嫌な気持ちになったんだろう。何がそうさせてるんだろう。」と冷静に考えることで気づき、学びも多かったです。 特に中断するまでに約1000kmほど歩いたんですが、物理的に一歩一歩、1mずつしか先に進めない毎日を通して体感した「積み重ねることの大切さ」は、人生においても同じだと学べたことは大きかったですね。 ー印象的だったエピソードや出会いはありますか? 広島県を旅していたある日、いきなり知らない方から「さっき見かけました!」とメッセージをいただいたんです。なぜメッセージが来たのか不思議だったのですが、後で聞いたら「リヤカーなんとか旅」みたいなボードを見かけて、ネットで検索してくださって僕のブログからFacebookに 登録してメッセージを送ってくださったんです。 その方はお子さん向けの体育教室をやっていて、「子供たちに、火のある場所の良さっていうのを教えてあげたいんだよね」と言ってくださって。僕自身へのチャンスを下さったんだと感じました。 そこに一晩泊めていただいた時、ある女の子がシシャモを焼き始めたり野菜を焼いてくれていたんです。するとその子のお母さんから、「普段はこんなに積極的にお手伝いとかしないんですよ。なんでだろう。」って僕に言ってくださって。女の子は、魚を焼いたり食べたりしながらイキイキとしていました。そこに、また一つの可能性を感じたんです。火のある場所は、人をより素直にする可能性があるんじゃないかと! この出会いに限らず、出発地点の鹿児島でたくさんお世話になった方や、道中足が痛くて歩けなくなったときに治療をしてくださった方…お世話になった方々は数え切れないほどいて、その全部が印象的でした。リヤカー旅をしていなかったらその方々には出会えなかったですし、大きな発見でした。 結果、半年間の旅で鹿児島県から岡山県まで歩いて旅しました!当時資金がなくなり始めたところで、ちょうど近くに友人が務めていたゲストハウスがあり、そこで一時中断することにしました。   リヤカーの旅を終え、再就職はインターンからのスタート ーリヤカー旅を終え、どう人生を見つめ直して、再就職することに至ったのでしょうか。 旅をしてみて、旅をしながら暮らす在り方・生き方が心地良いと感じる人たちは確かにいる一方で、僕が心地いいのはどこかっていったら、もう少し社会と近いほうが良いと気づいたんです。 「社会に居場所が欲しい」と失って初めて気づいたんです。 そこで、どうやって自分の居場所をもう1回見つけようかと考えた時に、編集者とかライターの仕事の面白さって良いなと感じはじめて。言葉にならないようなことも言葉にしてくれて、本当に素晴らしい職能と職業だなぁって憧れがだんだん大きくなっていきました。 「編集者とかライターになれる会社に、どうにかして入れないかな」と考えていた時、現在働いているオンリーストーリーの取締役のFacebookで編集長を募集している投稿を見たんです!その投稿に飛びついて、久々に再会してお話を伺いました。 ーオンリーストーリーの取締役と、学生時代からの繋がっていたんですか? 僕が大学3年生の時に、卒業論文のテーマに「ヒッチハイク」を選んでいたのですが、論文を作成する過程でヒッチハイカーに直接ヒアリングがしたいと思って、先輩に紹介いただいた方だったんです。論文の内容は、ヒッチハイクの前後で人の性格がどう変化するのか?というものでした。 その方にもヒッチハイクのことや、性格の変化などをヒアリングさせていただいて、そこからちょっとずつゆるく関わりはあったような状態だったんです。久々に再開し、その方も世界一周の経験があったので、リヤカー旅のことや雑談をしている中で「価値観がもしかしたら根っこで合うかもしれないから、一緒にやらないか」っていう話になって。 未経験で、編集のことなど何も教わったこともないのに編集長という肩書きだけ最初に頂いたんです。僕としてはリヤカーの旅を中断してでも、今はこっちにかけてみたいっていうワクワクした気持ちがあったので、旅を支援していただいた方に個別で連絡をして東京に戻ってきました。 そして、今のオンリーストーリーにインターンとして入社し、編集の仕事をスタートさせました。 ー社会人インターンからの再出発だったんですね。久々の社会人生活はどうでしたか? 僕の社会人生活は、1年間の接客業しかなかったので、メールの送り方も、名刺の渡し方も分からなくて、YouTubeで見て覚えました(笑)学び直しつつ、編集長という肩書に成長させて頂いた1年間でした。 編集長という肩書があると、編集力があるないに関わらず皆が編集長として僕を見るんです。ありがたいことに、社内のメンバーは僕のことを「編集長の山崎です」と紹介してくださるので、これは生半可な知識と振る舞いでは成り立たないなということを気づかされました。 社外で編集長って名乗らせていただく度、矢面に立つ度に「自分のあるべき姿」に気づかされて。理想の自分と今の自分との差に気づかされて。その差を必死に埋めるためには、何をすればいいか?と考え、セミナーに色々通ってみたり講座にいってみたり、自分で色んなPDCA 回してみたり挑戦の日々でした。 その経験の中で一番大きかったのは、矢面に立って、自分が作ったものを世に出せるチャンスをいただけたことでした。上手くいけば大きなやりがいにも直結していたし、失敗すれば自分でなんとかするしかない。原因を探れば結局そこに自分のミスがあり、それを改善し続けるしかなかったので、非常に濃い時間を頂きましたし、成長させてもらいましたね。 ー素晴らしい経験ですね!そこから正式にジョインされた経緯を聞きたいです。 会社に面白い賞与制度があって、受賞回数を重ねていくとMVPとしてインターン生の中でも殿堂入りされるような制度を作っているんです。MVPになると、社内外からその働きを認められたっていう客観的な証拠になるので、入社選考への切符を獲得できます。インターンでも社員登用されるかもしれないチャンスです。 そのMVPを受賞したかつ、社長から「社員にならないか」と誘ってもらえて入社を考えたんですけど、1回お断りというか、少し考えさせてくださいと伝えました。 ーせっかくのチャンスを?それは何か理由があったんですよね? 一言でいうと、その当時は新卒で入社した頃のように一社で週5日働くっていうものが考えられないというのが自分の中にあったんです。 というのも、まず好奇心が強くいろんなことに興味を持ってしまうんですが、僕にとってはそれを押し殺して生きないといけないということがかなり辛いんです。とはいえ、じゃあその好奇心を一つの場所で満たすなんてことはほぼ不可能だと思っていたし、それを一つの場所に求めるなんてことも出来ないなと。 であれば、週5日一社にコミットする働き方の他に、自分の好奇心を分散的に満たすことができる身軽な働き方はないかと考えていました。そんな時に社長と話していてお互いの間で見つかった落としどころが、「週4正社員×週1フリーランス」という働き方。 弊社には「成果からの要求」という合言葉があるんですが、まさにこのときは会社としては僕のこれまでの成果を認めてくれて、僕としても正々堂々会社に要求ができる状況だったので、話し合いはスムーズでした。その翌月、正社員×フリーランスの形で正式に入社が決まりました。   週1日はフリーランス!自分の好奇心を軸に居場所を作っていく働き方 ーそこから1年経って、週4日会社員、週1日フリーランスの生活はいかがですか? 自分の好奇心ごとに満たせる場所が持てて、自分のやりたいこと・好きなことを諦めずに自然体でいられてると思います。ある会社では海外とのつながりを感じられ、またある会社ではずっと学びたかったことに触れることができています。とても楽しいです! 戦略的に自分の好奇心を満たせる複業との出会いを探していった方が、自分はご機嫌でいられる気がします。やってみて本当に良かったですし、さらに進化させてより良いものにしていきたいです。 ーフリーランスとして、週1日は何をして過ごしているのでしょうか? 主に、採用広報や企業広報などをしています。取材系の顧客事例など、コンテンツ制作に関わる企画と取材と執筆です。例えば、採用広報の一環で、オウンドメディアに掲載する社員取材コンテンツを実際に2〜3社分、作らせていただいています。 この「U-29」の活動も心から良いなと感じ、撮影で関わらせていただいています。今後は僕から、積極的にこの場づくりに参加したいなと思っています! ー社会の中で自分の居場所を作るために意識してきたこと、やってきたことはありますか。 居場所を作るまでには、居場所にする場所を見極め、作るという流れで戦略的に取り組んでいます。 まず、人によって苦手なストレスの種類は異なります。それになるべく触れない環境に自分を置くことで自然体で生きれるようになり、自分の感情(好き・嫌い)がよく感じられるようになっていくと思います。忙しかったり過度なストレスがかかっている状態だと、人はそういう感情に鈍感になっていきます。その環境で、自分の感情を整理します。僕の場合は内省メモみたいなものに更新し、並べるとバラバラに見える感情のキーワードをいくつかのまとまりに抽象化していきます。 続いて抽象化したキーワードを元に、出向く場所・集める情報・習慣を変えます。そうすると飛び込めそうな場所が必ずあるので、イベントやアルバイトのように試しに飛び込んでみます。その場所で、周りの人にとって自分が発揮できる価値を考えて、ひたすら行動に移します。まとまった期間はコミットすると腹をくくるんです。行動を重ねていくと、信頼を得て任されることが増えていきます。社内外の人の役に立てている実感を得られます。ここで、自分で考えて決断し、行動してきたことを正解だという実感を持てます。 自分の選択を正解にしていくために、さらにハマっていくんです。自分が興味をもったことを、人に対して提供できる価値まで昇華して、それを受け取った人からお礼を言われることは、すごく嬉しいです。その方が僕は自分自身も好きでいられると思います。 こうして自分が自分の好き嫌いで生きていると、自分のことに夢中になるため、いい意味で周りのことが気にならなくなりますよね。人の好き嫌いも肯定できるようになる。 今振り返ると、僕は自分軸を見失ったとき、本業の会社に出会ってから今の働き方を形にするまで、そのどちらもこの方法で考え、決断し、行動していました。 この経験から、就職活動中の学生さんにも「わざわざ追い込まなくてもいいから、まず自分の感情とか共感心とかを捉えられるようにしたらどうかな。いきなり大手じゃなくても、自然体で働ける場所に身をおいてみたら?」などアドバイスしています。 ー最後に。今後、自身のキャリアをどう進化させたいと考えていますか? まだ抽象的なのですが、楽しく働くために提供できる価値を高め、よりやりがい・達成感・影響度を感じられる仕事を獲得していきたいです。 そのために質をより高く・密度を濃く働き、今関わっている仕事のすべてを同時に高めていきたい。そうすると、高めた先で関わっている別の仕事・コミュニティ同士が必要とされる場面が出てくる可能性がある。その時にシナジーを生み出したいと考えています。 さらに、移動すること、知らないものに触れることが大好きなので、より広く、おもしろいシナジーを生み出すために国内外様々なところを行き来するような働き方もしてみたいです。 そうしたなかで、もちろんさまざまな世代の方々とご一緒していきたいですが、同世代である20代に関わっていく機会をどんどん作りたいという想いはもうずっと持っているんです。僕自身もそうだったように、20代って本当にモヤモヤすること・わからないことが多い世代だなって思うんですよね。 なので、僕たち20代がより楽しく働けるような「サードプレイス」、自分たちがうまく生きていける居場所をもっと築き上げていきたいなと考えています。それが、このU-29の活動だと思っています。 もし今の自分を好きになれないな…と感じ悩んでいる方がいれば、僕が積極的に会っていきたいです。理解し合い、心地よい感覚を得られる場や人と接していると、今までしまいこんでいた「自分が好きな自分」が引き出されて、今の環境における働き方や次のキャリア、人生を通した自分のテーマについて気づきが増えます。そんな機会を同世代に提供していきたいです。 やりたいことが多すぎてまとまらないのですが、火のある場に触れる・作ることはどこかのタイミングで再開したく、今でもたまに焚き火やキャンプをしています。 そういう場を、また改めて作ったりその魅力をまだ知らない周りの同世代に伝えていくようなことはまたしたいなと思っています。ぜひ、焚き火、囲炉裏好きの方、興味のある方がいいれば一緒に火を囲みましょう! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 写真:吉田 達史 デザイン:矢野拓実 文:Moe

東京&下田の二拠点で、地方の複業家・角田尭史が紡いでいくストーリー

CSO ー チーフ・ストーリーテリング・オフィサー。この役職名、聞いたことがありますか?株式会社FromTo(以下、FromTo)でこのCSOを務めているのが、角田 尭史(すみだたかし)さんです。 色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ第35回目は、「地方の複業家」として東京と静岡県下田市で計4社にコミットする角田さんにインタビュー。  CSOとはどんな仕事なのか、またなぜそのような役職を名乗ろうと思ったのか。そして東京と下田との二拠点生活に至ったきっかけは何だったのか。周囲を巻き込んで活動する彼の、これまでとこれからのストーリーを紐解いていきます。 仕事で苦しんだからこそ「伝える」仕事を選んだ ― まず「CSO」、チーフ・ストーリーテリング・オフィサーについて教えてください。どのような役職なんでしょうか? 会社の「伝える」という部分を全て統括しているようなイメージですね。具体的な業務で言うと、投資家へのピッチの資料作りやイベントの内容の構成、広報などもやっています。 ― それで「ストーリーテリング」なんですね。そう名乗るようになったのきっかけは何だったんですか? その経緯としては、新卒で入った会社まで遡ります。 実は、新卒2年目のときに職場でハラスメントを受けたんです。仕事としてはすごく意義のあることをやっているのに、そのストレスによって仕事のモチベーションを失ってしまったんです。それをきっかけに、働き方に対する違和感を持ち始めました。 さらに、地元の同窓会に行ったときに、「仕事を辞めたい」と話している友達が少なくなかったことがショックで。仕事って、人を幸せにするもののはずじゃないですか。なのに、僕も含めて仕事に苦しめられている人が多すぎる。だから、「働く」ということに関して何か伝え、幸せな方向に導きたいと思うようになりました。 ― その手段として考えたのが、メディアだったんですね。 そうです。伝える側になるため転職しようと考え始めたのが、2018年の4月でした。編集の仕事は未経験でしたが、リスナーズ株式会社(以下、リスナーズ)から内定をいただけたので、「機会をもらえるのならそこに決めよう」と思い、入社を即決しました。 取材する中で気付いた、ストーリーの持つ力強さ ― 前職は土木系企業の技術者だった角田さん。そこから大きく違う業界へ飛び込んでみていかがでしたか? 最初はもちろん大変でした。だけどそれ以上に、編集の仕事がめちゃくちゃ面白かったんです。誰かの話を聞いて、それを伝えて世間の人に知ってもらうこと。そして世間の人に影響を与えるということ。それが嬉しかったんです。僕の中で何かが始まった感じがしました。 でも、編集の仕事を始めて一番大きかったのは、安心感を得られたことかもしれません。 ― 安心感というのは? インタビュー取材をする中で、仕事に対して前向きな話を聞くことが多かったんです。だから僕自身も明るい気持ちになれましたし、安心できたというか。そういう感情になれて、初めて仕事が好きになりました。 ― なるほど。何か具体的なエピソードや印象に残った取材があったんでしょうか? リスナーズへ入社したばかりの頃に同席した、とある会社の代表へのインタビューが一番印象に残っています。その方、創業当初は社員への接し方がかなり厳しかったらしく、途中でメンバーが多く離れてしまったそうなんです。そこから「なぜみんなが離れてしまったんだろう」と考えた結果、性格を真逆に変えることにした、と。そしたら再びメンバーも増え、こっちのほうが幸せだったと話されていて。 離れていったメンバーの気持ちもわかるし、「メンバーの幸せを願える会社って素敵だな」とも思いました。そして、なんだか自分と重なる部分があるように感じて、すごく印象に残っています。 ― インタビューは、相手の人生観を知って影響を受けることができるいい機会ですよね。 この取材で僕は、ストーリーが持つ力強さに気付きました。たとえネガティブな話だったとしても、ストーリーとして昇華させることができる。僕自身も、ネガティブな感情が原因で転職したので、そのストーリーが持つ力強さに対して安心感を得たんです。  ― ストーリーの力強さを感じたことが、その後のCSOに繋がるんですね。 そうですね。でも、ストーリーを一本の軸として語るのはけっこう難しいとも思っているんです。特に会社という組織だと、歪みが生まれやすいから尚更難しい。 ― 歪み、ですか。 例えば、同じ事実でも人によって話している内容が違っていたら、組織の中に分断が生まれることがありますよね。その分断を放置していると、取り返しのつかない歪みになって、会社や組織の雰囲気が悪くなってしまう。 そうならないためにも、会社の設立ストーリーも含めて、一本の筋が通った組織を作っていきたい。それを、リスナーズで学んできたストーリーテリングを用いて実現したくて、僕はCSOと名乗ることにしたんです。 初めて感じた仕事への熱量がステップアップを導いた ― 未経験で編集の仕事に転職し、半年後にはリスナーズのメディア『LISTEN』の編集長に抜擢されていますよね。要因は何だったと思いますか? 「編集長になりたい」というのは入社当時から常に言っていました。一社目は大手企業だったので、出世までのステップが長かったんですが、リスナーズでは編集長という役職は1つ先にあったので、「上がりたい」という熱量を持って伝え続けることができましたね。 その甲斐あって、前編集長が退任されるタイミングで、次の編集長として選んでいただけたんです。 ― 熱意が編集長への道を繋いだんですね。その後、FromToにCSOとしてジョインされるわけですが、FromToとはどういう出会いだったんでしょう?  あるイベントで代表の宮城と偶然会ったのがきっかけですね。そのとき、二人の目指したい世界観が似ていて意気投合。二人とも、仕事や「働く」ということに対して何とかしたいと思っていたんです。また、お互いに地方出身ということもあって、都会と地方の格差に対する課題感を持っていました。 それで仲良くなったんですけど、僕はリスナーズに入社したばかりの時期だったので、FromToでは副業という形でライティングの仕事をさせてもらっていました。 ― そこから副業で1年関わってきて、FromToに役員として入社。複業から本業へとシフトさせたのには、何か理由があったんですか? リスナーズでの仕事はすごく楽しかったんですけど、編集長のその先の姿を描きづらくなってしまったんです。 それと同時に、FromToでは代表の壁打ち役をしたり経営戦略の話をしたりと、少しずつ僕の役割が増えていきました。次第に、副業という形では収まらないほどになってきたタイミングで、役員として誘っていただいたんです。 自分の将来を考えたとき、20代で役員を経験する機会は貴重だなと思ったので、その場で「ぜひ」と。迷いはありませんでした。 下田に住む決め手は、人の熱量と自由に動ける環境 ― FromToに転職すると同時に、東京と静岡県・下田での二拠点生活を始められましたよね。そのきっかけは何だったんですか?  FromToにジョインする前に、知り合いに誘われて下田に遊びに行ったことがあったんです。そこで、完全に下田にハマって。一度住んでみたいなと思ったのがきっかけです。 ― 「もう一度行きたい」と思うことはあっても、「住んでみたい」という感情はなかなか湧きませんよね。下田のどこに惹かれたんでしょう? 下田の人の熱量ですね。人としても熱い人が多かったし、下田市としても色々仕掛けているんです。素直に、その活動に関わりたいと思ったのが大きかったですね。 下田って「日本で一番もったいない街」と言われることがあるんですよ。海もあるし、特産品もある。魅力は山ほどあるのに、それが伝わり切っていない。だからこそ、伝えようと活動している人の意志は人一倍強い。その熱さと、まだまだやれることが山積みという状態を感じて、僕のスキルを使って何かやれないかなと思ったんです。 ― とは言え、行くのと住むのとは全然違うと思うんです。二拠点生活を始めて、何かご自身の中で変化はありましたか? 僕の中のしがらみが減った感覚はありますね。いろんな人との付き合いに少し疲れていたのもありましたし、東京だと編集者はたくさんいて競争を強いられますが、下田でなら僕のスキルを活かせる余白があるので。 「もっと自由でいいのかも」と思えるようになりました。下田に来てみて、興味や意欲の赴くままに色々やってみたくなって。しかも、担い手が少ないから、やりたいと思ったら僕がやるしかないんです。縁もゆかりもない場所だからこそ、あまり人目を気にせず好き勝手することができました。 最初は3ヶ月間のお試し滞在で終わる予定でしたが、いざ住んでみたらやりたいことがいっぱい出てきて、滞在期間を延長したんですよ。意志に突き動かされての活動は本当に楽しいですね。 繋がりに支えられ、仲間と紡ぐ自分だけのストーリー ― 東京と下田の計4社で活躍されている「地方の複業家」として、これからチャレンジしたいことはありますか?  都会と地方の情報格差を埋めていきたいと思っています。下田を含めて、地方だとまだまだ余白が大きすぎるんです。でも手段を知ることで、一気に解決へ動き出す余地があるとも言える。まずは、どちらにも住んでいる僕が発端となって、東京と地方で情報をなめらかに伝達していきたいですね。 ― こうして多くの場所で活躍する角田さんを支えているものとは何なのでしょう? 「仲間」という感覚を持てていることかもしれません。下田に限らずだと思うんですけど、地方で仕事するときって、まず人と人との付き合いがあるんです。深く知り合ってから、その上に仕事の話が乗っかるイメージ。 なので、その人とは深い関係性を築いた上で仕事が始まっていく。また、その繋がりが次の人にも広がっていく。こんな風に色んな人との繋がりができていって、一人じゃなくなったという感覚があります。 そして、この繋がりが、下田だけじゃなくて東京の人にも広がっていく。 今考えると、2年前の苦い経験があったからこそだと思うんです。あの経験がなかったら、ストーリーの持つ力を感じることもなかったし、下田に来て人が持つ熱量の力強さも知ることはなかったかもしれない。 そう考えると、今こうして仲間と思える人達と一緒に活動できているのが本当に楽しいなって。この繋がりが、僕を支えてくれているんだと思います。  ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる ===== 取材:西村創一朗 写真:山崎貴大 文:安久都智史 編集:ユキガオ デザイン:矢野拓実  

EVERY DENIM・山脇耀平が抱く、デニムの街への想いと実現させたい願い

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第32回目のゲストは、兄弟で「EVERY DENIM」というデニムブランドを立ち上げて様々なプロジェクトに挑戦する山脇 耀平(やまわき・ようへい)さんです。 デニム好きだった兄弟が、デニムの街・岡山県倉敷市児島を拠点にものづくりの情報発信をスタートさせたのが始まりだったEVERY DENIM。新たなチャレンジのたびにクラウドファンディングで多くの方の共感と支援を得ながら、全国を巡る旅や拠点作りを行なってきました。 今回はEVERY DENIMとしての活動に限らず、山脇さんご自身がどのような道を辿ってきたのか、またこれからどんなチャレンジをしていきたいのかについて伺いました。   EVERY DENIMは、兄弟による週末販売から始まった ー 2014年、大学在学中に兄弟で「EVERY DENIM」を立ち上げた山脇さん。簡単に自己紹介をお願いします。 EVERY DENIMというブランドを兄弟で経営しています。僕が兄で、92年生まれ。弟が94年生まれです。出身は兵庫県加古川市なんですが、EVERY DENIMの本拠地は岡山県倉敷市児島というところにあります。 弟は岡山の大学に行ったんですが、彼が大学1年のときにデニムの職人さんに出会う機会がありまして。そのとき僕も初めてものづくりの現場を見させてもらって、「ザ・職人」といった姿がすごく面白いなと思ったんですね。 そこで、まずはその職人さんたちのことを広めていきたいなと。日本のジーンズの工場がたくさんある岡山県から広島県福山市までのエリアの方々にお話を聞きに行って、Webで発信するという活動をスタートさせました。それが2014年の12月です。 ー そこから、もうすぐ6年が経とうとしているんですね。 そうですね。スタートさせた翌年には、情報発信だけでなくもう少し深く職人の人たちや工場と関わることができないかな、デニム産業やデニム産地の人たちと一緒に歩んでいけたらいいなという想いが強くなりまして。オリジナルデニムを販売するという企画を作ったんです。 2016年に、初めて製品を企画して販売し始めたところから、本格的に事業がスタート。大学生で始めたので、週末にジーンズのサンプルをスーツケースに積み、いろんなところへ出向いて販売会を開きながら「自分たちはこういうことやってます」というプレゼンテーションをして……といったスタートでした。 販売会で製品を見てもらったり履いてもらったりするということを、岡山に住む弟と、茨城に住む僕とで分担しながら2年ほど続けていました。そこから「こういう風なものづくりのあり方がいいよね」と見えてきて、もっとたくさんの作り手に出会いたいな、と思うように。 販売会として各地に出向いていると、その地域にものは届けられるんだけれど、その土地のことを知る時間がなかったな、とモヤモヤするようになりまして。もうちょっと長い時間をかけてその地域のことを学んだり、作り手さんにお会いして刺激を受けたりしたいなと考えるようになったんです。 そこで、クラウドファンディングを使ってキャンピングカーを購入し、47都道府県を巡るという企画をスタートさせたのが2018年。その4月から翌年7月まで約15ヶ月間、毎月一週間ずつ各地に行ってまた帰って……というのを繰り返しながら、販売を続けました。 その旅でいろんな地域の人たちにお会いして話を聞き、それをWebメディアで発信しつつ、全国の作り手の人たちとの繋がりを作ってきたのが2019年の夏頃ですね。そうやっていろんな地域に行くうちに、僕たちも岡山という地に根差して活動していきたいと思うようになりました。 ー 全国を見てきたからこそ芽生えた想いですね。 今までは店舗を持たず、いろんな地域に行っては帰るということをやっていたんですが、そろそろ腰を据えて、この地域に人を呼び込んむことで貢献したいなと思いまして。2019年9月、クラウドファンディングで開業資金を支援してもらって、僕らの本拠地である児島に「DENIM HOSTEL float」を作ったんです。   自分の生き方に迷っていた学生時代 ー EVERY DENIM立ち上げから現在に至るまでのお話を伺いましたが、立ち上げ以前の山脇さんはどんな少年時代・学生時代を送ってこられたんでしょう? 小さい頃からジーンズが好きで、よく履いていましたね。父親がアメカジ世代で、ジーンズやバイク流行していた時代の人なので、そういうものをたくさん持っていたんです。そんな中で「いいな」とずっと思っていて、それは弟も同じだったと思います。 だけど、それを職業にするなんてもちろん思っていませんでしたし、むしろ小学校から高校までずっと野球に打ち込んでいました。大学でも本格的な野球の団体に入って続けていたくらいです。 ー では大学時代は、主に野球をして普通の学生生活を送ってたんですか? 大学2年になるまでは、そんな感じで過ごしていました。ただ、大学2年の途中で弟に「将来のこと何も考えてないでしょ」と言われてしまって。実は当時、けっこうモヤモヤしていたんですよ。 ー このままでいいのか、という気持ちはあったわけですね。 ありましたね。正直なところ、「どうやって生きていこう」と真剣には考えてなかったですし、なんとなくの就活情報が全てだったので。 そんなとき、東京で大学生がやってるビジネスコンテストがあると教えてもらって行ってみたんです。そしたら、自分と同世代や年下の大学生が、自分の熱い想いやビジョンをプレゼンテーションしているところを目の当たりにして。「何をやってたんだ俺は」と、自分を変えたいと思うようになりました。 ー 何か熱中できることをやりたい、と。 はい、自分も向き合うものを見つけたいなと思って、そこから一年間休学することにしたんです。そして東京のベンチャー企業で経験を積もうと、2社でインターンをしました。 ー インターン先には、どんな会社を選ばれたんですか? 最初は、Web業界で話題になっていた株式会社LIGという制作会社で3ヶ月ほどインターンをさせてもらいました。その後、アパレルブランドを展開しているライフスタイルアクセント株式会社で1年ほど働かせてもらったんですが、当時はちょうど成長期のタイミングだったので、組織が大きくなる様子を横で見ながら学べたのはすごく貴重な体験でしたね。 ー インターン先で受けた影響は大きかったでしょうね。   挫折経験がEVERY DENIMの転機となった ー 大学でインターンを経験して就活して……という流れはよくあると思うんですが、山脇さんは休学した年の12月にはEVERY DENIMを立ち上げられたわけですよね。きっかけは何だったんでしょう? 使命感を持ってやれることを模索してる時期だったことと、その中で自分にとってすごく輝いている身近な大人が工場の人たちで、すごく惹かれたというのがきっかけですね。彼らのことを広げていく活動を、本格的にやっていきたいなと強く思うようになって。「まずやってみよう」とスタートさせました。 だけど、最初にメディアを立ち上げてから、実際に製品を作って販売し始めるようになる転換期のほうが実は大きなきっかけがあったんです。 ー どんな出来事があったんですか? 当時、ものづくりの現場に一般のお客さんも来て見学できたほうが楽しめるんじゃないか、という動きがジーンズの街でもあって。 ジーンズ業界で長くデザイナーを務められた後に定年された方が、「この業界に貢献したい」という熱い想いを持って実現しようとしていたんですね。 それで、工場を巡るツアーを企画されていたので、僕の弟がEVERY DENIMと並行して手伝わせてもらってたんです。だけどその企画、「あと少しで実現しそう」というところまできて頓挫してしまったんですよ。 ー そんなことがあるんですか……頓挫の理由は? 二つの課題があって。ひとつは、一般の人が見学にくるということに対して工場の人たちの理解を得られなかったことですね。それまで、工場からアパレル企業へというtoBの仕事でやってきているので、ツアーの必要性を説明してもなかなかニーズを感じてもらえなくて。 もうひとつは、一口に「ジーンズの産地」と言っても、一ヶ所にギュッと集まっているわけではないので、お互いに切磋琢磨しているライバルのような存在なんです。だから、横並びで扱われることに抵抗があったようで。 企画を立てたのはジーンズ界の重鎮のような方で、周囲からもすごく慕われていたのに、それでも実現できないという事実がすごくショックでした。その頃には、企画の運営チームもどんどん人が減ってしまって、結局解散することになってしまったんです。 ー それは切なすぎますね。 企画されていた重鎮の方も相当ショックだったみたいで、「こういう活動、もうやめとこうかな」なんておっしゃっていて。僕らとしては、歳が離れていても同じ価値観を持って活動できたことがすごく嬉しかったので、「僕らが彼の意思を引き継いで、いつかツアーを実現させることを目標に活動していきます」って約束したんです。 それで、情報発信にとどまってちゃいけないな、もうちょっと深く関わっていかなくちゃなと思うようになりました。 ー それが山脇さんのターニングポイントになっているわけですね。 そうですね。この出来事がなかったら事業にもならず、普通に就職していた可能性も高かったです。僕らにとって、すごく大きな出来事でした。そこから一層、自分たちの使命感を持てるものが生まれたんです。   初めてのクラウドファンディングで製品販売に成功 ー 企画が頓挫したことで、兄弟にスイッチが入ったわけですね。その後は、具体的にどう行動していったんでしょう? そこからは、めちゃめちゃ早かったんです。工場に行って自分たちがやりたいことを伝えたら、「ちょうど製品化したかったものがある」と言ってもらえて。 アパレルの工場は、素材を作る人・形にする人・加工する人といった具合に分業化されているんですが、それぞれ発注元がデザインを決めてお願いするという関係性なんです。だけど工場のほうでも色々と試作をしていて、アパレル企業に採用されなかった試作品はデッドストック状態になっていました。 僕らが最初に話を聞いたのがジーンズを加工する工場だったんですが、そこで試してみたいものを僕らの第一弾の製品として届けていきましょう、と決まったんです。そこから、どうやって届けていくのか考え、半年後に製品販売をスタートしたという流れでした。 これだけスムーズだったのは、一度工場見学をさせてもらってお話を伺うなど関係性ができていたのも大きかったと思います。 ー ゼロから関係を作っていったわけじゃなかった、と。 そうですね。関係性のない状態で「ものを作らせてください」だったら難しかったかも知れないですけど、さきほどお話ししたツアーの企画者の方にもあちこち連れていってもらったり、優秀なデザイナーの方を紹介していただいたりしていたので、知恵もスキルも何もない状態にしては、恵まれたスタートを切れましたね。 ー 製品として販売をスタートさせたのは、具体的にいつ頃ですか? 2015年の9月に、「Makuake」というプラットフォームを使ってクラウドファンディングで販売を始めました。 普通の大学生だったので貯金もなくて、でも早く実現させたいという気持ちがあったので、クラウドファンディングに挑戦してみようかな、と。まずは、どれくらいのロットだったらジーンズを作ってもらえるのか教えてもらって、その製造原価を計算して目標金額を決めました。 ー そして、クラウドファンディングは目標金額の2倍以上の額が集まって成功。どのようにして共感してくれる人を集めたんでしょう? サンプルができた段階で、岡山県内のいろんな事業者や起業家の方に見てもらって話をして……と、コツコツお願いして回っていました。皆さんすごく応援してくださったので、無事に立ち上がったという感じです。Webマーケティングというよりは、直接顔の見える関係性の中で完結した気がしますね。 ー...

「王道ではなく最短ルートを」ムスカCEO・流郷綾乃が辿った複合的キャリア

ハエを使ったバイオマステクノロジーで世界を救うべく、熱意をもって事業開発に取り組む株式会社ムスカ(以下、ムスカ)。そこで代表を担うのが、1990年生まれで2児の母、流郷 綾乃(りゅうごう・あやの)さんです。 高校卒業後にアロマセラピストとして仕事を始め、営業職を経て広報の仕事へ。現在はCEOとして会社の顔を務める流郷さんの、キャリア変遷とターニングポイント、そして今後の展望について伺いました。 「苦手なことを克服するのではなく、他のやり方で最短ルートを探す」という流郷式の仕事術と、これまでの経験を複合的に繋げていくキャリア形成法は、仕事で上手くいかずに悩んでいるU-29世代にヒントを与えてくれるはずです。   アロマセラピストになったキッカケは身近な人の死 ー 大学へ進学する人も多い中、「大学に行かない」という決断をしてアロマセラピストの道を選んだ流郷さん。どんな理由があったんでしょう? やりたいことが大学にないと思ったからですね。大学に行く目的が「遊ぶために」というようなことを言っている周りの人たちを見て、当時わざわざお金を払ってまで行くところには思えなかったんです。だったらお金も稼げるし、仕事をしよう、と。 高校生の時からタップダンスをやっていて、舞台に出ることもあったので、レッスン費や衣装代等、その目的のために仕事(バイト)をするという考え方だったんです。 ー アロマセラピストという仕事と出会ったきっかけは? 身近な人が亡くなったことがきっかけです。「何か自分にできることはなかったんだろうか?」と悔しくて……気持ちの面で何かできなかったんだろうか、と考えたときに、匂いが気持ちに直結しているということを知りました。そこからアロマを独学で勉強し始めたんです。 ー アロマセラピストという仕事は、業務委託のような雇用形態が多いんですよね?正社員ではない働き方をすることに対して不安はなかったんですか? そうですね、私も業務委託契約で働いていました。だけど、雇用形態についてはそこまで意識していなかったですね。むしろ、ほとんど知識のない状態で働かせてもらって、勉強もできるしお金ももらえることがラッキーだというマインドでした。 ー アロマセラピストとしては、何年くらい働いていたんですか? 最初のお店を辞めたあともフリーで仕事をしていたので、細く長く続けていたという感じです。21歳と23歳のときに出産して仕事をストップした時期もあるので、何年とはカウントしにくいんですが。案件ベースでゆるく続けていましたね。   「営業ができない」と気付いて拓けた広報への道 ー 23歳で二児の母となったとき、営業会社の社員へ転職。「稼ぐぞ!」というモードにギアチェンジしたきっかけは何だったんでしょう? 子供のことが大きかったですね。このままじゃ家計も苦しいなと思っていましたし、働くことは嫌いじゃなかったので「私が稼がないとな」と思って稼ぐ方法を考えたんです。 ー それで就職活動をされたわけですね。 はい。「営業の仕事は頑張ったら頑張った分だけ稼げる」というイメージを持っていたので、とりあえず営業職を探しました。5社ほど受けて、内定をもらえた会社に入社。 そこはOA機器等の販売代理店だったんですが、その会社が介護系のクライアントが多いことを面接中知り、面接でアロマディフューザーの法人営業を提案。すると社長が気に入ってくれて、「新規事業にしよう」ということで、その専任として採用してもらえました。 ー 入社してみて実際どうでした? そもそも新規事業開発なんてやったことがなかったので、本当に大変でした。何の知識もない状態から必死に勉強し、アロマ機器や香料の選定をしながらメーカーと代理店契約を結んで……と。すごくいい経験になりました。 だけど、周りは営業で数字を上げている中、私は新規事業ということで売上に繋がっていなかったんです。私を雇用していることで会社が負担している費用を考えたら、「なんとか貢献しないと自分の価値はゼロだ」という考えて、すごく焦っていました。 営業職で入社したものの、営業ができないということにも気付いて…… ー 営業ができない、というのは? 電話が苦手でテレアポができなかったんですよ。しかも当時はあまりアロマが普及していなかったので、アロマの話をしてもあまり理解してもらえなくて苦労しました。どうにかしないとと考えているうちに、「新聞に載せたら問い合わせが来るんじゃないか」と考えるように。会社にはまだ広報担当もいなかったので、社長にお願いして広報の講座を受けさせてもらったんです。 その後、講座で繋がった方に紹介してもらって日経新聞に企画を持ち込んだところ、ローカル版に企画を載せてもらえて。新聞を読んだ企業の社長さんやお客さんから連絡がたくさん来たんです。これが大きな転機であり、成功体験になりました。   最短ルートを走るためには捨てることも重要 ー 日経新聞で取り上げてもらえたのは、何かポイントがあったんでしょうか? ひとつはアロマというものが事業として目新しかったからだと思います。だけど、一番の要因は「業界をまとめた」からかなと。アロマだけでなく「香り」に広げて、関連事業をやっている企業を集めて企画を作りました。 ー それは広報の講座で習った手法だったんですか? それもありますが、特に「広報は売り込みじゃない」という教えを意識していました。だから売り込みじゃない方法を考えていたんです。自分たちを知ってもらうためには、まず周辺のことを伝えよう、と。 ー 苦手意識のあった営業の仕事にコミットするのではなく、「新聞に載ればいいんじゃないか」と発想の転換をされたのがすごいですよね。 窮地に追い込まれていたんだと思います。毎月給料ももらって、講座も受けさせてもらったのに何の役にも立っていないな、と。そう考えたら今辞めるのも何も成果がないままでは大変申し訳ないと思っていました。 結果的に「広報に逃げた」という意識はあります。でも、当時はとにかく最短で結果に結びつく方法を考えていたんです。 ー 苦手を克服するのではなく、努力しないための努力をした、と。 方法ってひとつじゃないですよね。私、タップダンスをやっているときもリズム感がなくて苦労したんですけど、周りの人の動作を見て自分の動くタイミングを判断していて(笑)本当はリズム感を身につける努力をしたほうがいいんですけど、どんなに頑張ってもできなかったので。捨てることも重要かなと思いますね。 ー 王道がダメでも別の道をいけばいい、という発想ができるのが流郷式かもしれないですね。   フリーランスに転身して自分の価値を知る ー そこから流郷さんのキャリアはどう変わっていったんですか? アロマの事業に後継者ができて一区切りついたタイミングだったので、声を掛けてもらっていたスタートアップ企業に移ることにました。そこではイベント企画などをさせてもらったんですが、会社が東京に移転するタイミングで退職。 転職先を探そうと思っていたとき、2つの会社から声を掛けてもらったんです。だけど、どちらかを選ぶことができなくて……だったらフリーランスとして両方の会社に関わろうと思ったんです。 ー もし声を掛けてくれたのが1社だけだったら、フリーランスにはなってなかったかもしれない? なっていなかったでしょうね。転職先は、ハローワークで探そうと思っていたくらいなので。設計して築いたキャリアではないんですが、これまでの経験を全て複合的に繋げてきた感じはしていますね。 ー 結果的にフリーランスという働き方を選び、ご自身の中で変化はありましたか? 当時は、声を掛けていただいた2社で給料もリソースも2分割という感じだったので、1社で働くのと大きく変わらなかったんです。でも、「2つの仕事ができるんだ」「自分が持っている情報を与えることが仕事になるんだ」と知れて衝撃を受けました。 ー フリーランスになって、最大何社くらいとお仕事されていたんですか? 15社です。だけど全然手が回らないし、子供といられる時間もなかったので、そこから仕事のやり方を変えました。 これまでは自分で手を動かすプロジェクトばかりだったんですが、その会社自体に広報の部署を作るために「教育をする」というスタイルに変更。そもそも私個人に依存したやり方をは、双方にとってよくないなと思っていたんですよね。 やり方を変えたことで合わなくなった企業とは離れることになりましたし、それでも継続してくれるところだけ契約するようになったので、仕事もやりやすくなりました。 ー 最終的には取引先を絞っていったわけですが、最初はやはり仕事をもらうために営業されていたんでしょうか? いえ、営業は苦手ので……当時はフリーランスで広報の仕事をしている人がほとんどいなかったのもあって、広報の価値を理解してくれる人からピンポイントで「欲しい」と思ってもらえたんでしょうね。 今までを振り返ってみても、母数の少ないところばかりに身を置いてきたなと思います。戦略的に、というわけではないんですけどね。自分で面白いものを見つけたいのかもしれません。それを広めて「面白いでしょ?」と問いかけ、「YES」の答えを増やしていきたいのかな。   広報目線で就いた「暫定CEO」の座と、代表としての想い ー フリーランス時代に、現在代表を務めているムスカと出会った。なぜ1社にフルコミットしようと思えたんでしょう? ムスカから、代表にならないかというお話をいただいたんです。その頃、他の企業のプロジェクトも並行していたんですが、ちょうど手離れするタイミングだったのもあって、ムスカにコミットすることにしました。 ー 代表になられたときは「暫定CEO」という役職名でしたよね。どんな経緯があったんですか? 基本的な考え方が、適地適材適所です。現在のムスカにとって何が必要か。それに基づいて、ポジションも役割も変わると思っています。現在は事業を認知してもらうステージだと思っています。 誰にも知ってもらえなかったら、この事業は前に進みませんし、資金調達もしなければならなかった。ある意味究極の広告塔になろうと思いました。ハエの持つネガティブなパワーを再定義するためにも、と。 ー ハエ好きではない人をスポークスパーソンにしたほうがいいんじゃないか、と。 うーん、ハエを好きではないというより、少し身近に感じてもらえることが大事でした。あと、当時経営陣が足りていなかったので、「暫定CEO」とすることで、CxO募集宣言でもありました。肩書きを採用広報に活かそう、ということですね。 2019年4月に経営陣が変わったタイミングで「暫定」ではなくなったんですけど、想い自体は変わっておらず、事業が前に進めば私でなく他の人が代表になったほうがいいだろうとは今でも思っています。 ー では、これからもムスカのCEOを続投されるわけですね。 適地適材適所で、柔軟に判断したいです。この技術を事業化し、バトンを渡せる状態を作るのが私の責任なんです。だけどまだそのフェーズに辿り着いていない。早く次に渡せる環境を作らないとな、と思っています。 ー 10代、20代で様々なキャリアを歩んでこられた流郷さん。30代を目前にして、今後のチャレンジしていきたいことはありますか? 個人的にやりたいことはあまりないんですが、ムスカが自分ごととなっているので、今はとにかく、ムスカの技術を事業にしたいという気持ちが強いですね。そして早くその事業を社会貢献できるレベルに持っていきたいですし、循環型社会を構築したいと考えてます。 私自身、ムスカのCEOになってすごく変わったなと思うのは、特に物事を俯瞰して見るようになったことです。日々足りてないと痛感する部分もたくさんありますが、事業化するために必要な要素、そのための適切な環境は何なのか。ムスカの関わる一人ひとりが最大パフォーマンスをあげられる環境を作ることができたら、加速度的に事業が進められる状態なんです。だから、社内外問わず、いかにいい環境を作れるかというのを常に考えるようになりました。 社会的にもSDGs等の追い風が吹いている状態なので、ムスカの技術を事業にするための土壌を早く作り上げたいと思っています。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる ===== 取材:西村創一朗 写真、デザイン:矢野拓実 文:ユキガオ

お金を払ってでもやりたいことを考える。グラレコで活躍する新卒フリーランス上園海

今回お話を伺ったのはファシリテーションを軸に持つグラフィックレコーダーとして活躍する上園海(カミゾノマリン)さん。これまで多数のグラレコ実績を持つ新卒フリーランスとして活躍する彼女。 自らを「フリーランスになっちゃった系」と語る彼女のグラフィックレコーディングに出会うまでの経緯、そして好きを仕事にすることについて語っていただきました。   グラレコに絵的センスはいらなかった? ーまずは簡単な略歴を教えてください 沖縄県出身の新卒1年目です。昨年大学を卒業してグラフィックレコーディング(以下グラレコ)というファシリテーションの一種の手法を活用してフリーランスとして働いています。大学ではマーケティングや経営を勉強していたこともあってマーケティング系のイベントでよく書かせていただいています。 ーグラレコについて詳しく教えていただけますか。 グラレコとは、今しているこういう対話だったり議論をリアルタイムで可視化していくっていう手法の一つです。でも、こういうものっていうカッチリした定義はなくて。その場を促進するための手助けになるようにグラフィックや文字、イラストを使います。議事録ではないんですが、その場でどのような議論が行われたのかという共有や足跡を残すことができるのが特徴です。 ーグラレコというと絵的センスも問われるのかなと思いますが、絵が得意だったんですか? グラレコをしているとよく絵が得意だから始めたって思われるんですけど、そういう幼少期は実は絵を書くというものは全然やってこなかったです。今思えばそれが逆によかったのかなと思います。 私はピクトグラムがすごい好きなんです。ピクトグラムって非常口のマークとかが代表的ですが、あれは瞬時に分かれば良いというものですよね。 グラレコも綺麗な絵を書くことが目的ではなくて、伝えられる絵を書くことが目的なんです。その場のためになるかが良いグラレコかどうかの判断軸になってくるので、全然絵はかけなくても大丈夫でした。実はどうやったら楽して書けるかなっていうのをいつも考えてやっています。   そもそも大学に進学する予定はなかった ーグラレコとの出会いまでも教えていただけますか。 グラレコとの出会いを話すにおいて先に話しておきたいことが2つあります。 1つは小学校6年生の時に両親が離婚したことです。これは結構大きな人生のターニングポイントになっています。兄弟3人を母が1人で育ててくれていたので、子供ながらに早く稼げるようにならないとという気持ちがありました。それもあってすぐにスキルを身につけられそうな沖縄の商業高校に進みました。 高校では生徒商業研究部という部活動に所属していて企業とコラボして商品開発したりしていました。それがすごい楽しかったんです。この時にマーケティングが面白いなと思ったのが今の自分に繋がっています。 もう1つは高校1年生の時に病気にかかったことです。 ーどんな病気だったんですか。 免疫が高すぎて、自分の体を攻撃しちゃう、SLE(全身性エリテマトーデス)という病気です。今は症状が安定していて、2ヶ月に一回採血をして主治医さんと一緒に病気とうまく付き合っています。この病気が理由で体育の授業に参加できなくなったりして、自分に出来ないことがある・周りの友達とスタートラインが違うことについて考えはじめました。 また、この病気をきっかけに自分の将来やキャリアについて考えた時に、難病者の就職支援をするNPOを作りたいなぁと思ったんです。でもそれにはもう少し知識と人脈、時間が必要だと思い、大学進学を決めました。 ー病気がきっかけで高卒で働くのではなく大学へ進むことを選んだんですね。 はい。大学へ進学すれば、病気持ちという自分のマイナスをゼロにするには何か自分にしかない強みを身につけることができると考えました。 それからは毎日バイト漬けの日々で、100万円貯金して大学に進みました。   苦に感じることなく続けられたのがグラレコだった ーということはグラレコとの出会いは大学生になってからですか? はい。大学では何となくこういうことしたい、自分で何か出来る人になりたいと思っていたので、色んな課外活動に参加していました。グラレコとは約2年間関わった学生ベンチャーでの経験から学び始めたファシリテーションで出会いました。 ファシリテーション講座を沖縄で運営していた時に、半年間のプログラムで毎週行なっていたので、振り返りのためにグラレコを導入しました。受講生が欠席した際に、実際にグラレコが活用されている様子にとても嬉しくなりました。もともと聴覚障がいを持つ学生のために一緒に横で授業を受けてノートをとっていた経験があったので、話をまとめたり要約するスキルは持っていて、特に勉強や練習したりすることはなく出来ました。 ーそこからグラレコにのめりこんだんですね。 そうです。グラレコはやっていてすごく楽しいということを私が慕っている方に話したところ彼女がやっているワークショップでもやってよとお声がけいただいたんです。 そこでやってみたら、すごく好評でポジティブなフィードバックをいただくことができました。私のやったことに対してこんなに喜んでいただけたというのがそれからグラレコをもっとやりたいと思うきっかけになりました。 苦に感じることなくつづけられて、誰かに喜んでもらえて、原価もペンと紙だけだしと思って続けていたら、何回かお仕事で書かせてもらえるようになりました。そんな頃に就職活動を始める時期を迎えました。   ー就職活動はされていたんですか。 はい。自分の将来を考えた時に28歳くらいまでは東京で働いて、沖縄に何か貢献できる人になって沖縄に戻りたいなと思っていたので東京で就職活動していました。 そんな時にフリーランスでグラレコをされている方に出会いました。その方に「グラレコってフリーランスで生きていけるんですか」って聞いてみたら「なれるよ」って言われたんです。 ーそれでフリーランスになろうと? 当時の私にはグラレコだけで食べていけるのかが全く想像がつかなかったんです。でもグラレコが職業として成り立つのであればなりたい!と素直に思いました。 ちょうどそのタイミングで友達から沖縄で開催されるマーケティングイベントのスタッフをしないかと声をかけてもらいました。そこでグラレコを書かせていただき、その後そこのつながりからお仕事をいただけるようになりました。お仕事を引き受ける中で、税金等を払うために大学4年生時に開業届を提出して学生フリーランスになりました。自称「フリーランスになっちゃった系」はこれが理由です。 就活もグラレコの仕事と並行してやっていたところ上場企業から内定も頂けたんですが、やっぱりもう少しグラレコで挑戦してみたいと思い新卒フリーランスの道を選びました。   お金を払ってでもやりたいことは何なのか ー内定を辞退してでもグラレコを選んだ理由はなんだったんですか。 自分の価値を認めてもらえたのがグラレコだったから、です。学生ベンチャーを2社経験して、自分の無力さをすごく感じて自分の武器が欲しいとずっと思ってました。なのでグラレコを極めて誰かの為になりたいと思ったんです。 自分がやりたいことと、自分ができること、そして社会や周囲の人に求められていることの軸が重なったのがグラレコだったのでできるところまでチャレンジしてみようと思えました。 ー実際フリーランスとして働き始めてどうですか。 フリーランスなのでやっぱり収入は毎月かなり上下します。学生フリーランス時代は平均20万位稼いでいましたが、今は月によって25万〜80万位です。大きなイベントの有無で収入は毎月変動しますが、生活していく分には困らずある程度自己投資できる位はいただけています。 ー好きを仕事に出来ている人はまだまだ同世代でも少ない中で新卒でそれはすごいですね。 確かに最近、高卒の社会人5年目の友人や大卒で社会人2年目の友人からこれからのキャリアに悩んでいるという話をよくされます。そういう話を聞いた時に思ったのは、何かチャンスがあったときにすぐ飛びつくって、制約条件があって意外と出来ないんだなということです。 相談してくれた友人の場合、やりたいことはいっぱいあるけどやっぱり会社への恩もあるからすぐには辞められないと言ってました。きちんと上司に気持ちを伝えたら理解してくれると私は思うんですが、本当はどこかに飛び立ちたいけど、いろんなことを考えたらなかなか次に進めてない子はたくさんいるんだと思います。 ーそんな友人にどんな声をかけているんですか。 まずは情報収集してみたら?と伝えています。迷っているならとりあえず動きだしてみるのがいいと思います。私だってはじめからグラレコに出会えた訳ではなくていろんな場に顔を出していろんな人と繋がった結果好きでやりたいことに出会えました。 あとは、自分がお金を払ってでもやりたいことは何か考えてみるのもいいと思います。お金を払ってでもやりたいことは自分の好きなことだから続くし、実際にお金を払って学べばスキルになっていくので。お金をかけてやっている趣味があるならまずはそれをもっと深めていけばいいと思います。 ー最後にこれからの目標やチャレンジしたいことがあれば教えてください! グラレコが映える要素で使われているのがもったいないなと思っているのでグラレコの使い方についてもっときちんと考えて、使い方の提案をしていきたいし依頼をいただいた際には一緒に考えていきたいなと思っています。グラレコがあることで、その場がどうよくなったかとかファリシテーターが求めているものを探求していきたいです。またグラフィッカーがファシリテーターに求めているものも言語化していきたいです。あわよくば、本に全部まとめて出版できたらな〜なんて思っています。 ー2020年中に形になるかもですね!楽しみにしています。 <取材:西村創一朗、撮影:山崎貴大、執筆:松本佳恋、デザイン:矢野拓実>

プロサッカークラブ経営に携わる山﨑蓮の人生の軸は「絶対に諦めない」こと

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第31回目のゲストは、株式会社トリニータマーケティングにて代表取締役をされている山﨑 蓮(やまざき・れん)さんです。 幼い頃から続けてきたサッカーで挫折を経験したものの、その後悔から「逃げない」「絶対に諦めない」という精神を身に付けた山﨑さん。ビジネスの世界でも、常に諦めず苦難を乗り越え続けて、現在はサッカークラブ・大分トリニータの子会社社長として活躍されています。 そんな山﨑さんがこれまでの人生を通して得た、仕事で成果を出すコツや、結果が出せないときの心の保ち方、そしてこれからサッカーを通して実現したい世界について伺いました。 サッカーでの挫折経験から「絶対に諦めない」と決めた ― 現在、大分トリニータのチーム経営に携わっている山﨑さんですが、昔からサッカーのクラブチームの経営に興味があったんですか? もともと小学校から高校までサッカーをやっていたので、興味はありましたね。地元が静岡で、サッカー人口が多い地域だったんです。サッカーに興味があるというよりも、負けず嫌いだったから「やるからには絶対勝ちたい」と思って小中高とサッカーを続けた感じです。 中学では、中高一貫校に入学してサッカー部に入りました。地域の上手い子たちが集まっていたので、なかなか試合に出ることができない時期もあったんですが、全国大会へ出場したこともあります。 ― 中学校で全国大会。それはすごい!高校ではどうだったんでしょう? 実は高校1年のとき、サッカーが嫌になって辞めたんです。厳しいことも多くて、楽しいというより辛いという気持ちのほうが強くなってしまって。そこからは、失われた3年間ですね。 ― 高校1年でサッカーからドロップアウトしたあと、どうやって人生を軌道修正していったんですか? 僕の中では、いろんなもののせいにして「逃げた」という思いがありました。だから、「逃げない」というのを自分の中で決めたんです。逃げたことで、失ったものも多かったですし。「絶対に諦めない」ということを人生の軸として生きてきました。 ― 後悔もあるでしょうけど、人生になくてはならなかった3年間だったんですね。そして高校卒業後は大学へ進学されたんですよね。 はい。「東京に出たい」という思いがあったので、埼玉の大学に進学しました。でも大学にはほとんど行かず、ずっと東京にいましたね。いろんな人と会って話す中で、自分を見つけられたらいいなと思って。   スタートアップでがむしゃらに働いて見つけた自分の課題 ― エネルギーが有り余っていた大学生活の中で、1社目のスタートアップに出会ったわけですね。 1社目の人たちと出会ったのは新宿の飲み屋で、たまたま隣に座ったのがきっかけです。話をしていたら、「これからマッチングアプリの事業をやるんだ」と聞いて。面白そうだと思ったので、インターンとしてジョインさせてもらうことになりました。 ― そこではインターンとしてどんな仕事をしていたんですか? 何のスキルもなかったので、ディレクターのサポートやマーケティングアシスタントのような仕事からスタートしました。毎日寝袋での生活で、倒れたことも何度かあったんですが、「自由にやっていいよ」と言ってもらえる環境だったのが良かったですね。指示されるより、自分で決めたいタイプなので。 ― 裁量を与えてもらえるのはいいですね。就職活動はどうされたんですか? 就職活動は一度もしませんでした。学生インターンとして働いていて、気付けば大学を卒業。そのまま入社して働き続けていた感じです。だけど一年半ほど経って、僕がやっていた事業の譲渡が決まり、退職することに。 ― そのときはどんな心境でしたか? ほぼ毎日使っていた寝袋もボロボロで、新しいものを買おうかと思っていたタイミングなのでちょうど良かったなと。また、仕事をしている中で、マーケティングのスキル不足やコミュニケーションの仕方が分かっていないことなど、自分の課題が見えてきていました。だから、一度きちんとした会社に入って学ぶ必要があるなと思い転職することにしたんです。   未経験の仕事でも成果を出せたのは、諦めない精神があったから ― 1社目を退職することになり、次に選んだ会社はどこだったんでしょう? 株式会社VOYAGE GROUP(以下、VOYAGE GROUP)に転職することにしました。この会社と出会うきっかけは、原宿のパンケーキ屋なんですけど(笑)そこのオーナーさんに転職活動の話をしていたら、VOYAGE GROUPを紹介してもらえて。その後、正式に面接を受けて入社したんです。 ― 面白い出会いですね!VOYAGE GROUPでは4年ほど働いていたそうですが、その間どんなお仕事をされていたんですか? 最初はアドテクノロジー系の子会社で仕事をすることになって、そこでDSP(=Demand-Side Platform)の新規事業の立ち上げに参加。ただ、それが全然売れなくて苦労しました。商品的に売るのが厳しいなと感じていたんですが、そこは営業力でカバーしようと思い、がむしゃらに営業をかけていましたね。 ― 山﨑さんは営業未経験ですよね? 未経験でしたけど、1日8件くらいアポを取って頑張っていました。それで無料トライアルを利用してくれる企業を獲得できて新規受注数は伸びたんですが、トライアル後の本契約には至らず、結局売上を上げることができなかったんです。 ― 営業未経験からそこまで頑張れたのは、高校時代に決めた「絶対に諦めない」というのが根底にあったからなんでしょうか? そうですね、それが唯一のモチベーションでした。仕事は全然楽しくなかったんです。売れないし、周りの社員も辞めたり異動したりしていってしまって。入社してから1年ほどでそのサービスは撤退したんですが、撤退するまで一度も楽しいと思ったことはないです。 ― サービス撤退後はどうされたんですか? 1年間結果が出せなかったのでクビになるかなと思ったんですが、一人だけ「これだけ仕事をしているのになぜ結果が出ていないのか」と気にかけてくれた方がいて、自分の部署に呼んでくれたんです。 そうして異動先で新しいサービスを売ってみたら、1ヶ月くらいで売上がバンバン上がるようになって、会社で賞をいただくほどに。その後もとんとん拍子に昇格して、最後は局長として2つの局を任されていました。逆に上手くいき過ぎて怖かったですね。   アクションへの細かい振り返りが、仕事で成果を出すコツ ― 仕事で成果を出すために行動レベルで意識していることは何ですか?精神的な話だと、「逃げない、諦めない」だと思いますが。 常に意識しているのは、アクションすることと、そのアクションをすごく細かい頻度で振り返ることですね。PDCAサイクルのDoばかり乱れ打ちしていたら、がむしゃらに頑張るだけになってしまうじゃないですか。だからまずは仮説を立てて、仮説に対してアクションはどうだったのかを振り返るんです。そして悪かったところは直すように、良かったところは再現できるようにと意識して習慣化しています。 たとえば、営業するときの商談は準備で全て決まると思っているので、相手のことや求められているものなどを調べてめちゃくちゃ準備をします。会話のパターンも10個用意しておくんです。それを繰り返して毎回振り返ることで、会話の精度を上げていきました。 ― なかなか評価されなかったり成果が出なかったりするときに、自分を奮い立たせるための原動力やモチベーションはどうされていますか? 「諦めない」ということもありますが、僕けっこう楽観的なんです。どう頑張ってもダメそうな時は、もう流れに乗っかってやっていけばいいかな、と思っています。嫌になってしまう人って、自分を追い込んでメンタル負荷をかけてしまうんですよね。それで体調も崩してしまったり。だから僕は、頑張って努力はするけど、メンタル負荷はかけないようにしています。 ― メンタル負荷をかけないように意識しているのはいつ頃からなんですか? VOYAGE GROUPに入社した頃ですかね。それまではメンタル負荷をかけていたと思います。仕事に関しての努力する追い込みは良いんですけど、ネガティブな追い込みは必要ないですよね。 もしメンタル負荷がかかりそうだったら、物事を大きな視野で考えるようにしています。足元は苦しい状況でも、大きく考えたら割と明るい未来があるなと思えるんですよ。そうすると、自分のパワーが適切なほうに向かうので、努力の方向を間違わないで済みます。正しい努力をしているかどうか、意識することも大切ですね。 ― 「しんどいな」と思ったら、俯瞰して大きく考える。そして自分のパワーを正しい方向に使うということが大切なんですね。   サッカーを通した活動は、大分トリニータにとどまらず世界へ ― 営業の仕事をされていた中で、大分トリニータとはどのように出会ったんですか? 僕はその頃、株式会社Zucksに異動していたんですけど、そこに大分トリニータから広告の問い合わせが入ったのがきっかけでした。自分の業務とは全然関係なかったんですけど、どうしても行きたくてついて行かせてもらうことに。 行くからには、自分なりにサッカー業界の課題や上乗せできる回答をしっかり準備して臨みました。そしたら商談時に、「そこまで色々考えがあるんだったらやってみてよ」と言われて、複業として参加することになったんです。 ― 会社は複業OKだったんですか? OKだったんですが、みんなオープンにしない雰囲気で。ただ僕は、仕事を頑張っていたからこそご縁があったことなので、隠す必要はないと思ってオープンにしていました。複業の良さは、金銭面もそうですが、好きなことができるというところですね。 上司や同僚からも応援してもらえて、そこからみんなも複業がやりやすい雰囲気になったと思います。 ― 大分トリニータでの複業は、どんな業務をされていたんですか? はじめはTwitterの運用がメインでした。その後はスクール事業のサポートをしたり。大分に実際に行ってたのは月1回で、あとはリモートとオンラインミーティングで参加していました。 ー 複業で関わっていた中で、こちらが本業になったのはどういうきっかけがあったんでしょう? 大分トリニータのマーケティング関連事業を子会社化することになり、そこのトップに打診してもらえたのがきっかけです。そして決まったのが2019年10月頃。そこから2ヶ月でVOYAGE GROUPを辞めて、転職しました。 (参考記事)株式会社トリニータマーケティング 設立 ― 2ヶ月で転職というのは、かなり急ピッチでしたね。転職してみてどうですか? サッカーのことを知っているつもりでしたけど、知らない部分もあって、今ようやく自分たちのバリューが何か見えつつあるという状況です。サッカーはやはり注目されていて、認知度と引き寄せ合う力がすごく大きいので、ひとつのメディアとしての価値があると思っています。その価値を他の企業と一緒に作っていくことが、最近の僕のテーマです。 ― 今後実現したいことがあれば教えてください。 「世の中のためになることを何かしたい」とすごく思っています。世の中は平等ではないと感じているので、その中で平等を目指すとしたら何ができるか……ということをテーマにしたいですね。サッカーは誰にでもできるスポーツなので、せめてサッカーで平等な教育ができればと思います。「アフリカへ行ってサッカー教室をしたい」ということも考えていますし、東南アジアでも活動を広げていきたいです。 ― サッカーを通した活動は、日本にとどまらないわけですね。これからも山﨑さんのチャレンジに注目していきたいと思います! 山﨑蓮さんのTwitterはこちら   ===== 取材:西村創一朗 写真:山崎貴大 文:品田知美 編集:ユキガオ デザイン:矢野拓実

”実は僕、ゴルフの楽しさが分からなかったんです”。そんな彼が手がける「従来に囚われないゴルフ場」とは

  さまざまな経歴を持つ方々が集まり、これまでのキャリアや将来の展望などを語り合うU-29 Career Lounge。第30回目のゲストは株式会社セブンハンドレッド代表・小林忠広さんです。 高校時代までラグビー一筋だった小林さん。さまざまなきっかけを機に、今では 「みんなが幸せを実感できるゴルフ場」をビジョンに、ゴルフ場を経営しています。 若くして、経営者の道を歩んだ理由とは何か。 実は小林さんは、ゴルフがあまり好きではなかったようです。そんな彼だからこそ手がけられる「従来に囚われないゴルフ場」の仕組みがありました。 ▼プロフィール 小林忠広:慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科修了。 事業承継により世界最年少のゴルフ場社長としてセブンハンドレッドの経営を行う。 「みんなが幸せを実感できるゴルフ場」をビジョンとし、 地域とゴルフ場の融合を図る事業の他、 新しい次世代ゴルフ場作りを経営戦略として行っている。2020年にはフットゴルフワールドカップの招致に成功。地域一帯となった取り組みに昇華すべく奮闘中。 カンボジアのボランティアと東日本大震災が教えてくれたこと ーーまず小林さんの学生時代をお伺いしたくて。今はゴルフ場を経営されていますが、大学時代までラグビー一筋だったんですよね? 小林忠広(以下、小林):そうですね。18歳の時にスタディツアーでカンボジアに行ったんですが、その経験があって方向性がガラッと変わりました。 現地ではスラム街に行ったのですが、母子ともにエイズにかかっている家族に出会って。ただ、稼ぎがないので「私たちは死ぬしかないんです…」と言われて、本当にこんな世界があるんだなとびっくりしたんです。 ーーなるほど…。日本では馴染みのない話なので、衝撃ですよね。 小林:高校生までラグビー一筋だったんですが、「好きなことに没頭できる環境って幸せだ」と再確認できたんです。 一方で「自分は困っている人たちになにができるんだろう…?」と思ったのがターニングポイントだったと思います。 そして、その後に東日本大震災が起こりました。ここでも、すごく衝撃を受けたんですよね。 大学でもラグビーをする選択はあったんですが、「もっとやるべきことがあるはずだ」と思い、被災地ボランティアに出向いたりしていました。 ただ、実際ボランティアをしてみて思ったのが「やっぱり、自分でできるインパクトってものすごく小さいな…」ということでした。 NPO法人の創業をきっかけに大学院へ進学。そこから事業承継の世界へ ーーそこから「教育」に繋がって、NPO法人スポーツコーチング・イニシアチブでの活動創業に繋がったんですね。 小林:自分でやりたいことを考えた時に、「もっと現場の教育に根差したいな」と思いました。僕がラグビーをやっていた頃、体罰や根拠のない指導を受けてラグビーを嫌いになる瞬間があったんです。 なので、まずは周りの大人たちがしっかりと、子供の可能性を信じられる環境を作る。その先に、子供達が自分たちの可能性を信じられると思ったので、そこから「コーチの教育」に注目しましたね。 ただ、まだ分からないことがたくさんあったので、懇願して、ラグビー協会のコーチングディレクターで当時U20日本代表監督だった、中竹竜二さんという方の補佐でラグビー協会に入りました。 ーーなるほど。そこから、今のゴルフ場の経営に繋がったきっかけは何でしたか? 小林:就活もしていましたが、今後のキャリアを考えた時に「会社員をしながらNPOを続けるって大変そうだな…」と悩んでいたんです。 社会的に意義のあることを掲げておいて、課題が解決しきる途中で降りるのは本意でないし、期待していただいた方々にも裏切りになるので、NPOの活動をやめる気はありませんでした。 せっかく本気でやるなら、大学院に入って視野を広げようと思い、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科に入ったんです。 そんな折、卒業が迫ってきて頃、はじめて父から「大学院での勉強がそろそろ終わるけど、どうする?」と話しかけてくれて。父と会話を重ねていくうちに「事業承継をしたい」と思い、今に至ります。 ビジョンは「みんなが幸せを実感できるゴルフ場」になること ーー家業を引き継ぎ、もう少しで1年が経過すると思いますが、実際にどうですか? 小林:社長継ぐ前は取締役として入っていましたが、代表になると「全然違うな」と実感しています。 「ゴルフ場の事業承継」と言うと、周囲から「優雅で余裕がありそうで、いいね」と言われるんですが、想像以上に大変なんです……。 また、今はほとんどが年上の方で。マネジメントも経営も試行錯誤していかないといけない中で、やはり「ビジョン」が大切だなと思いましたね。 ただ、みんなが向かいたい方向や「こうなったら幸せだよね」という基準を掲げて、そこにどれだけ忠実でい続けるかがむずかしいですけど、僕の仕事だと思っています。ラグビーをやっていた経験から“One for All, All for One”(みんなは一人のために、一人はみんなのために)の考えを大切にすることで、結果的に高い成果を出せると信じています。 一方、まだ未熟なので、時には自分もぶれちゃうこともありますし、「こうした方がいいよね」と気づいて言ってしまうこともある。 でも大切なのは組織として「いかに自分たちで自己学習できるか」だと思っているので、を常に現場のスタッフの方の意見や行動ができるための環境づくりを意識しています。 ーー経営って本当にむずかしいですよね。どんなビジョンを掲げていますか? 小林:今は、シンプルに「みんなが幸せを実感できるゴルフ場」になることです。「みんな」は、お客様・従業員・地域・環境などをまるっと含めています。 「何がそれぞれにとっての幸せか?」を考えて、それを踏まえ、「どんなサービスを提供できるか?」を模索して実行することが、当面のビジョンですね。 ーー若いのに、幅広く考えられていてすごい…。 小林:ビジョンなので、まだこれからな取り組みがほとんどです。そのために、成すべきこととしてのミッションは「世界一何でもできるゴルフ場」と置いています。 制限なく、広いゴルフ場をいかようにも活用して「やりたいことを何でもできるスタンス」を目指して。日本一だと物足りないので、どうせなら「世界一何でもできる環境」にしたいですね。 今お伝えしたビジョンとミッションを作ったのは、会社として長くビジョンやミッション、理念などがなかった中で大きな出来事でした。広く、そして深く浸透するにはまだ時間がかかると思っていますが、目指していかない限り到達しないので大きな一歩です。 ゴルフの楽しさが分からなかったからこそ作れる「従来に囚われないゴルフ場」。2020年はフットゴルフの誘致への挑戦 ーー実際にビジョンとミッションを掲げて、今年1年間でアクションを起こしたんですよね。例えば、どんなことをされましたか? 小林:僕の圧倒的なアドバンテージとして、「ゴルフの楽しさが分かっていなかった」ことにあると思っています。 あ…ちなみに、日本でゴルフが好きなゴルフ場経営者はいても、ゴルフの楽しさが分かってなかった経営者は僕を除いていないと思います(笑)。興味がなかっただけに、ゴルフ未経験者の気持ちが理解できて、どうしたら興味を持って貰えるか、試して貰えるか、従来とは違うゴルフの展開に活かしていきます。「ゴルフ場でのキャンプ」を企画して、好きなところにテントを張って寝ましたね。他にも、サッカーと掛け合わせた「フットゴルフ」もしました。 ーーあら…(笑)。だからこそ「従来に囚われないゴルフ場」を目指せるのではないですか? 小林:そうなんです。生粋のゴルフ好きだと、「ゴルフをよりよくしたい」や「ゴルフファンのために」だけが目的になり、ゴルファーファーストになってしまうんです。嫌いでも好きでもない、という僕のスタンスがちょうどいいのかなと(笑)。 もちろんゴルファーの方にも思いっきり楽しんでいただくのは前提で、ノンゴルファーの方にも楽しんでいただく。「みんな」が楽しめ、幸せを感じられるために何ができるか、という視点から考えています。 ーー話が変わりますが、フットゴルフのワールドカップを開催されるんですよね? 小林:そうです。まだ日本だとフットゴルフがまだまだ浸透されていないんですが、実は世界では熱くて。モロッコでの前大会はフランス政府が全面的にバックアップしていて…!アルゼンチンでは既に国策としてフットゴルフに力を入れ始めています。 2020年夏は東京オリンピックやパラリンピックがあるので、その直後の9月末(大会としては9月25日~10月4日まで)にフットゴルフワールドカップを開催します。いまは着々と準備を進め、ゴルフ場の新しい可能性の発信として仕掛けられたらと思っています。 もっと積極的に認知を広げる活動をし、業界全体を盛り上げたい ーーでは最後に、今後チャレンジしたいことを教えてください。 小林:引き続き「ワクワクするゴルフ場」は作っていきたいです。それこそゴルフ場の新しい姿を発信して、ゴルフにイノベーションを起こす気概です。昭和時代のゴルフのイメージを刷新し、今に求めら、未来に必要とされているゴルフ場へと変革していきます。 ただ「さまざまなゴルフ場の在り方を作りたい」となった時、ファイナンス面や経営面での懸念点や問題点は、まだまだ山積みです 信頼をしてもらうために、売上目標の達成や地域連携、メディアを使って認知していけるように頑張っていきたいです。 本当はメディアに乗るのが苦手で怖いんですよ…逃げれなくなるので。 ただ会社の力になれたり、認知が広がることで業界全体が明るくなるのなら、自分の名前と「世界一若いゴルフ場経営者」という肩書きを使おうと。積極的に頑張りたいなと思っています。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 文:ヌイ 写真:山崎貴大 デザイン:矢野拓実

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