社会の荒波を楽しんで越えていく。株式会社リチカ代表取締役・松尾幸治が動画市場注目のスタートアップを創業するまで

今は第一線で活躍しているビジネスリーダーの方に、10~20代の頃のまだ何者でもなかった頃から、現在に至るまでのストーリーをお聞きする連載企画「#何者でもなかった頃」。今回のゲストは株式会社リチカ代表取締役の松尾幸治(まつおゆきはる)さんです。 誰でも簡単に・低予算で・ハイクオリティの動画を作れるプラットフォームとして注目を集める「リチカ クラウドスタジオ」のリリースをはじめ、現代の動画コミュニケーションを爆発的に加速させている株式会社リチカ。その創業者である松尾さんは、いったいどのようなキャリアを経て今に辿り着いたのか。松尾さんがまだ何者でもなかった頃から、今に至るまでのユニークなキャリアに迫ります。   恩師の言葉をきっかけに関東の大学に進学 ーはじめに、自己紹介をお願いします。 株式会社リチカで代表取締役を務めている松尾と申します。弊社では、制作に時間や費用のかかる動画コンテンツを、クリエイティブとテクノロジーの力で誰でも簡単に作れるようにするプラットフォーム「リチカ クラウドスタジオ」を軸に事業を展開しており、現在は、大手企業をはじめとして400社以上の企業様にご利用いただいています。 ー松尾さんは学生時代から起業を考えていたのですか? いえ、僕は佐賀県で一番小さい街で育ち、起業や経営などの情報とは無縁の環境で生活してきたこともあり、学生時代に起業を考えたことはありません。むしろ、僕の家系は両親をはじめ、先祖代々教師を勤め上げてきた家庭だったので、将来は先生になるのだろうと漠然と思っていました。 ーそうなんですね!学生時代はどのような学生でしたか。 中学生までは野球少年でしたが、坊主になることが嫌だったので、高校進学を機に野球を辞め、バンドを組んだり、アコースティックで弾き語りをしたりと、プチアーティスト活動をしていました。高校は途中から不登校になってしまったのですが、それでも音楽活動は続けていましたね。 ー高校に行かなくなった理由というのはなんだったのでしょうか? 明確なきっかけがあったわけではありませんが、校則が厳しく、勉強にも忙しく取り組まなければいけない学校の雰囲気が合わなかったんだと思います。高校ってときどき「何のためにやるのか分からない課題」がたくさん出されたりしますよね。疑問に思い「この課題はどうしてやらなきゃいけないんですか」と先生に聞いたことがあったんです。そうしたら返ってきた答えが「良いからやれ」というような返事で。そんなこともあり、途中から学校がつまらなくなってしまったんです。 ーですが、松尾さんは横浜の大学に進学されてますよね。大学受験をしようと思ったきっかけは何でしたか。 高校を辞めて働こうと思っていたときに、高校3年生のときの担任の先生が「お前は勉強しなくても良いから、関東の大学に行け」と言ってくれたんです。 「世の中にはいろんな人たちがいて、いろんな考えがある。それを知らないまま生きていくのは、お前の人生にとってとてもったいないことだから、どこの大学でもいいし、4年間遊び呆けても良いから、大学に行った方がいい」と。それを聞いて、「遊び呆けてもいいなら行こうかな」と思って笑 そこから大学受験の勉強を始めました。 ー「将来は教師になるのかなと思っていた」ということでしたが、教育学部ではなく、経営学部を選んだ理由は何だったのでしょうか。 はじめは教育学部を目指して勉強をしていたんです。「親が教師の人あるある」かもしれませんが、親が教師だと教師になる以外の選択肢を知らないんですよ。そのため無思考に教育学部を目指していたのですが、センター試験が終わり、いよいよ大学を決めなければいけないとなった時に「自分がなりたいのは先生じゃないな」と思って。そこから急いで大学を探し直して、横浜の大学の経営学部に入学しました。その時も、起業を考えて経営学部を選んだわけではなく、なんとなく経営っていいなと考えていたからでした笑   悔いなく遊んだ大学生活から一転、厳しい環境を求めブラック企業へ就職 ー大学生活はいかがでしたか? 高校の先生に言われた通り、悔いなく遊び呆けました。昔からクリエイティブな遊びが好きだったこともあり、映像を作ったり、ものづくりをしたり。他にはバンド活動やバックパック旅行、飲み歩き・バーでの修行など、今振り返っても大学時代は遊び切ったなと思います。 ーその後、就職活動を経て大手通信会社に就職されますが、どういった軸で会社選びをしたのですか? その時一番しんどい会社に行こうと思っていたんです。というのも、僕が大学に入学した頃がちょうど就職氷河期で、300社にエントリーシートを出して一社も通らないなどという先輩の就活談を聞いても驚かないような時代でした。そんな世の中の先行きが不透明な中、大学時代を遊び呆けた僕はどうやって社会生活を立ち回ろうかと。そして辿り着いたのが、「そのとき一番しんどい会社で3年働けば、きっとそこが底だろうから、それを乗り越えたらその先も食いっぱぐれることなく生きていけるだろう」という考えでした。それから、一番しんどい会社に行くためにブラック企業ランキングを調べ、数年連続で1位にランクインしていた会社を選んで就職したんです。 ーあえて厳しい環境を求めて就職をされたんですね。実際にブラック企業と言われる環境に飛び込んでみてどうでしたか? いわゆる「ブラック企業」に飛び込んでみたものの、1社目で経験したことがその後のスタンダードになってしまいますし、またホワイト企業に入らないまま今に至るので、何が普通なのかが正直まだわかっていないんです笑 ただ、東京配属だったはずが突然福岡配属を言い渡されたり、3日間の入社研修が終わると、4日目からビルの最上階に連れていかれて、ビルの地図を塗りつぶしながら飛び込み営業を100件こなしたりと、そんな営業生活が始まりました。「土日なんて無いよ」とも言われてましたね笑   飛び込み営業先でのスカウトを機に、ベンチャー企業へ ー典型的なブラックですね笑 その入社2ヶ月半後に転職されたとのことですが、転職を決めたきっかけを教えてください。 経営者のインタビューメディアを運営していた会社に飛び込み営業をしたことがきっかけです。 そこは社員が5人ほどの小さなベンチャー起業だったのですが、「契約するついでに、今度うちの社長とお茶でもしないか」と言われたんです。その社長というのは、今ベルフェイス株式会社の代表取締役として有名な中島さんだったのですが、中島さんとお話をすると「将来起業したいと思っているか」などと将来の話になって。その時は、独立も視野にありましたが、具体的な将来像はまだ考えていませんでした。 すると、「営業として受付の人や担当者と話して回るのと、経営者に話を聞くのとどっちが面白そうか」と聞かれて。僕自身、ブラック企業での飛び込み営業はゲーム感覚で楽しくやっていましたし、今考えてもあの時の経験は楽しかったなと思います。しかし、中島さんに「経歴なんて失敗したら飲み会のネタに出来るんだから、面白そうだと思った方に行った方がいいよ」と言われ、その言葉が後押しとなり、転職を決意しました。 ー大手企業からベンチャー企業に転職してみていかがでしたか? 転職したベンチャー企業もまた、前職と比にならないくらいブラックでした笑 というのも、ベンチャー企業ということもあり勤怠やら仕事に必要な携帯やら、ほんとに何もなかったんです。また、社用車を使っていいから中国地方を車中泊しながら新規開拓してくれないかと突然言われたこともあって。これは冗談ではなかったみたいで、本当に車中泊しながら営業する日々を送っていましたね。 ーすごい経験ですね。辛いから辞めたいというような気持ちにはならなかったんですか? むしろ、その状況を面白がって働いていたように思います。スーツで営業して、車でパジャマに着替えて、道の駅の駐車場で寝泊まりする、こんな経験は誰もやっていないだろうと思って。たとえこの仕事がうまくいかなかったとしても、きっとその後の人生で飲み会のネタに使えるだろうし、美味しい経験をしているなと思っていました。 ー経験をネタにできる力って大事ですよね。一見ネガティブに見える出来事をポジティブに変換できるメンタリティは昔からあったのでしょうか? 昔から人と違ったことをやりたいと思っていたので、そういう意味ではもともとそういう気質はあったのかもしれません。   組織の解散をきっかけに独立を決意 (創業当初のオフィスの写真)   ーその数年後、独立されますよね。きっかけはなんだったのでしょうか 会社の解散がきっかけでした。当時僕は取締役として参画していたのですが、僕も含めて経営層が若くて未熟だったこと、ファイナンスや経営に関する情報収集をうまくできていなかったことが原因で、経営に関する間違った意思決定をたくさんしてしまっていたんです。しかし、その一方で組織は大きくなり続けていて。そうしているうちに会社経営がうまくいかなくなり、オーナーが変わる話が出てきたタイミングで、組織を解散することになりました。 ー解散後、転職も含めて色々な選択肢があった中で、あえて独立を選んだ理由はなんだったのですか。 情けない話なのですが、その年の住民税を払えないことに気づいたことがきっかけでした笑 取締役を務めさせていただいていたこともあり、会社を解散する前はある程度の収入があったのですが、僕らの年代では「27~30歳くらいまでは、稼いだお金は貯金をせずに経験に使え」という言い伝えがあって笑 僕はそれを真に受けていたので当時は貯金がほとんどありませんでした。しかし、住民税は前年の給与額を考慮して算出されるので、会社が解散して所得が減ったにも関わらず、引かれる額はかなりの額で。収支計算すると、これは死ぬなと気づいたんです笑 そして、どうせ死ぬなら自分で会社を経営してあがいてから死のうと思い、独立を決めました。 ー独立を決めたあと、事業領域として動画市場を選んだ理由はなんだったのでしょうか。 実は、独立を決めた時点では、登記をすること以外何も決めていませんでした。そのため、何屋さんかわからない状態で、依頼された仕事は全て受けている状況が続いていたんです。しかし、仕事を受けているうちに、受ける仕事の内容が得意領域だった制作系の仕事に少しずつ寄っていき、気づけば制作会社になっていました。そしてありがたいことに、実績が少しずつクチコミで広がり、初年から黒字化することができました。   動画制作の経験に着想を得て、リチカ クラウドスタジオを開発! (3つ目のオフィスにて。ミーティング中の様子) ー現在は制作会社ではなく、プロダクトを運営するスタートアップ思考の企業に変化していますが、そのように経営を変化させた理由は何なのでしょうか。 制作会社というのは、ひとつ納品が終わるとまた次の案件を獲得しにいき、0から新しい制作物を作るという工程の繰り返しなのですが、僕自身そのループに疲れていく感覚があったんです。そこで、納品がなくても、継続して収入を得られるプロダクトを一つ持ちたいと思ったことが始まりです。 そこから約20個ほどのプロトタイプを作ってサービス検証を始め、28,9歳の時に辿り着いたのが現在のメイン事業になっている動画制作プロダクト「リチカ クラウドスタジオ」でした。 動画制作というのはかなりの労力が必要な仕事で、制作会社として仕事を受けていた時に「自分たちではなく、システムで動画を作れるようにならないかな」と思っていたんです。その経験に着想を得て開発をスタートし、実際にサービスをリリースすると1週間で200件ほどの問い合わせがきたんです。 ー1週間で200件の問い合わせはすごいですね。 僕たちだけでなく多くの方が同じような課題を抱えていたんだなと分かりました。それからは、制作会社として仕事を受けながら、「リチカ クラウドスタジオ」のプロダクト開発も進め、そしてつい2年前にようやくプロダクト会社としての方向に軸を置き、経営を始めることが出来ました。 ー制作会社時代とスタートアップ企業に移行したあとでは、経営に関する考え方の違いはありましたか? 使う脳が180度変わりました。制作会社の時は「納品までの過程をいかに遂行するか」を考えることが中心で、納品した時点で仕事は終わりでした。ですが、スタートアップ企業として経営を始めると、いかに継続的に成果を出し続けるかを中心に考えるようになりました。特に、外部資本を使って会社の成長を目指すとなると、目の前の利益だけでなく、何にレバレッジが効くのかを考えることが重要になってきます。そのため、コツコツ利益を積み重ねていく制作会社の時とは、事業の作り方や会社としての考え方は真逆だと感じますね。 ー事業は順調でしょうか? 順調だと思います。組織や事業に関して大なり小なり課題はありますが、前職で80人ほどのマネジメントを任せていただき、そこで組織の立ち上げ方やトラブルへの対処法などを学ぶ機会があったおかげで、「この課題は成長痛だな」などと判断がつくんです。そのため、課題を楽観視しているわけではありませんが、焦らずに取り組むことが出来ていると思います。   コミュニケーションがリッチになる世界を目指して ー最後に、今後松尾さんがチャレンジしていきたいことを教えてください。 僕たちは今年1月、コミュニケーションをリッチ化させる会社「リッチコミュニケーションカンパニー」を実現しようという決意を込めて会社名をリチカに変えました。この社名の通り、今後はコミュニケーションがリッチ化する領域に積極的に投資していきたいと考えています。僕たちが動画やコンテンツを制作している目的は、「伝えたいけれどうまく伝えられない」コミュニケーションの課題を、コンテンツを使って分かりやすい言葉に変換し、コミュニケーションを円滑にするためだと思うんです。なんでもないテキストコミュニケーションが、動画やスタンプ、gifなどの表現と組み合わさってリッチ化することで、より豊かで円滑なコミュニケーションがとれる世界を実現していきたいなと思っています。 そしてもう一つの目標として、今の時代に合う良い組織を作りたいと考えています。前職で約1000人の経営者にインタビューしてきたのですが、本当に楽しそうに働いている良い組織って実は日本にはそんなに多くないのではないかと思っているんです。僕が新卒で就職したブラックと呼ばれる企業は、僕にとってはとても良い会社だったように、社員が会社に求める要素はそれぞれ違うので「良い組織」の定義は一つではないと思いますが、僕たちは組織運営のスタンスを一貫させることで、入社前と入社後で認識の齟齬が起きないようにし、社員が気持ちよく働ける環境を実験しながら作っていきたいと考えています。 僕たちが掲げるミッションに共感してくれる仲間を集めながら、令和に合った会社像を作って行けたら楽しそうですよね! ー本日はありがとうございました。松尾さんのご活躍を応援しています! 取材者:西村創一郎(Twitter) 執筆者:青砥杏奈(Facebook) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

ティーン世代に第3の居場所を!株式会社Plaly稲尾拓也さんに聞く面白くて楽しい日常とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第295回目となる今回は、株式会社Plaly 稲尾拓也さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 「いつまでも年齢に縛られることなく事業を進めていきたい」と語る稲尾さん。そんな稲尾さんが起業したきっかけや半生について詳しくお伺いしました。 ひたすら剣道に打ち込んだ学生時代 ーまずは簡単に自己紹介と今されている事業の具体的な内容をお願いいたします。 株式会社Plaly 稲尾拓也と申します。年齢は24歳で、事業はティーン向けの匿名SNSサービスを展開しています。 サービス名が「Plaly」といって、「24時間でたった10人と繋がれる」をコンセプトに14歳から19歳向けのサービスの提供をしています。学校とか家以外の第3の居場所を作ってあげたいと思ったのが、この事業をはじめたきっかけですね。 すでにリリースはされていますが、これからマーケティングなどを本格的に開始していく予定です。 ー起業に至るまでの経緯など詳しくお伺いしていきたいと思います。ライフログを拝見すると15歳をターニングポイントとされているようですが、どんな中学生でどのようなできごとがあったか教えていただけますか? 小学校からずつ高校まで剣道をやっていて、中学は剣道の名門中学に通っていました。年間成果を残せなかったことや、「なんで俺のことをレギュラーに選んでくれないんだ」と、悔しい思いをしたことを覚えてます。 ー3年間レギュラーじゃなかった中で、部活を続けようと思うと結構大変ですよね 大変でした。僕が通っていた中学校は他の部活と比べて、剣道部へのまわりからの期待がとても高かったです。剣道部が学校の華でまわりから注目されるような部活だったので、やめてしまった後、「自分が何者でもなくなってしまうかもしれない」恐怖から止めることができなかったです。 ー高校でも剣道を続けれて国体選手候補に選ばれるまで強くなったようですが、中学校のときからのなんか練習の仕方の変化や自分なりに工夫されたことなどはあったのですか? 練習はとにかく剣道だけの生活をしていました。朝5時に起きて7時までランニングして朝練に参加、放課後は部活に出たり、友達の高校の練習にも参加していました。学校の部活終わった後、23時ぐらいまで外で自主練や筋トレをして大体2時頃に寝ていましたね。 高校2年生の時の顧問の先生の紹介で高校2年の時は警察道場などの練習に参加してました。 「自分で起業した方がしたいことを実現できる」と思い起業へ ーひらすら勉強に打ち込んだ高校生活だったのですね。その後大学に進学されているようですが、進学はどのように考えてたのですか? 鹿児島の鹿屋体育大学に進学したかったのですが、補欠合格で誰も辞退せずに別の大学に進学することになりました。通うことになった大学の剣道部に入ったのですが、周りとの民度の低さですぐに部活をやめてしまったんです。 今までは剣道ばかりの生活だったので時間が空き、空いた時間でインカレやインターン、アルバイトなどに打ち込んでいました。 生活をしているうちに「大学生活の中で1回起業してみたい」と思い、20歳のときに起業に踏み出しました。 ーいきなり起業をするのはハードル高いように思いますが、起業するに至ったきっかけをお伺いできますか? あるIT企業主催の起業の大会で優勝したに出資や融資する企画があり、僕が大会で優勝したんです。大会の主催起業に支援をしていただき、ファッションSNSの事業で起業しました。 当時付き合ってたファッションモデルを目指していた彼女のために、SNS上で自分の写真などを投稿して、芸能事務所や芸能関係の方と繋がれるようなSNSを作ってあげたいと思ったことが企画をしたきっかけです。 1年半くらいファッションSNS事業を運営し、もっと勉強してから起業したいと思ったことがきっかけで一旦この事業はクローズしました。 ー大学は卒業して、改めてまた起業されたのですね。 大学卒業して1度物流系企業のスタートアップに就職しました。企業で半年から1年ぐらい働いたあとに起業した流れですね。 起業しようと思ったきっかけは、働いていて「自分はこうしたい」と思うことが増えていき、起業した方が自分のしたいように事業を展開できると思ったことです。結果でなくても結果でも起業をした方が面白いと思いました。 「好き」を事業に!SNSだからできることを ー今運営されているサービス「Plaly」を始めたきっかけなど詳しくお伺いできますか? 元々僕は幼少期からSNSがすごく好きでした。覚えている限りでも3歳の頃からずっとSNSを触っていて、当時から現在までリリースされているいろいろなSNSに登録していたと思います。 SNS上で知り合って、直接会う、交際や結婚に至る、事業に支援するなど、「直接出会う」ことが主流になってしまってきているSNSですが、僕は「直接出会うことだけがSNSの面白さではない」と考えています。 趣味の話や小さな相談ごと、SNSで匿名だからこそできるものがあると思っていて、匿名だからこそ本音が出るものだと思うので、安心できる場を提供したいと考えています。今のSNSは発言に責任が出てしまったり、面白いことをしないといけない使命感があったりするのでもっと気軽にできるSNSを作りたいですね。 「Plaly」を10月にリリースして、1度出して一旦停止、再度1月にリリースして半月ぐらい立ちました。これからほかSNSなどでのプロモーションを行っていきたいと思っています。 ー今後、展開していきたい事業や展望をお伺いできますか? CtoC向けのカップルSNSを展開したいと思っています。また、SNSは音声で投稿するスタイルのものが作れたらいいなと思っていますね。 YouTubeでカップルYouTuberの動画を見ることが多いのですが、すごく可能性を感じているんです。 僕の10年後5年後はやはり自分の事業を展開していきたいなと思っていますね。多くの人は年齢に合ったサービスを展開すると思いますが、僕は年齢関係なく自分のしたい事業を展開していきたいと思っています。 ー本当に今日はあっという間でした!素敵なお話ありがとうございました。今後の稲尾さんのご活躍楽しみにしています。 執筆:ゆず(Twitter) インタビュー:増田稜(Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

何かが生まれる場を手掛けたい!吉田東洋の志す教育のカタチとは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、多種多様な肩書きをもつ吉田東洋さんです。 吉田さんは、都内のバーテンダーを対象に「接客英会話教室」を運営しつつ、ご自身もバーテンダーとして経験を積んできました。特に、”コミュニケーションを生む場づくり”を得意とし、現在は「b.e.park 祖師ヶ谷大蔵」という施設の接客プロディースを行っています。 また、「ワークショップデザイナー」として学校や企業のワークショップのコンサルティングを行ったり、自身も役者でありながら教育劇団の運営をしたり。様々な方法で、教育・交流の分野で活躍されています!そんな非常にユニークな経歴な吉田さんの、これまでとこれからについて、掘り下げていきます。 優秀な兄に劣等感を抱いた幼少期…乗り越えたキッカケとは? ーいきなりですが吉田さん、肩書きが本当にユニークですよね!現在はどのような活動をされていますか? 現在は、b.e.park祖師ヶ谷大蔵という、飲食店とシェアハウスの複合施設の統括マネージャーと、「未来教育劇団ここたね」の運営をしつつ、役者として活動しています! また、ワークショップデザイナーという資格を活かし、都立高校や様々な企業から依頼を受け、ワークショップのデザインを行っています。 他にも、ドラマケーションファシリテーターという資格を活かし、演劇要素を用いたコミュニケーション教育のファシリテーションを都立高校などで行っています。 ーすごい!過去を振り返ると、すごく好奇心旺盛な子供時代でしたか? 幼稚園から小学校まで、かなりやんちゃな子供でした。戦闘ごっこが好きでしたし、勉強よりは遊び回ることが圧倒的に好きな子供でした。 3つ上の兄がいるのですが、昔は仲が悪く、お互いが怪我を負うほど喧嘩したりしていました。(笑)今では互いに社会人になり、別居しているので仲良くやっています。 小学校2年生のときに、母から勧められた”英語劇”を始めたことが、人生の大きなターニングポイントでした。 ー英語劇はどんな経験だったのか、ぜひ聞かせてください! 学校ではよく、「吉田君、みんなの意見も聞いてあげようね」と僕の意見や主張を抑えなくてはいけない場面に少し窮屈さを感じたこともありました。 ですが、英語劇では「みんなでこんな表現をしてみよう!」とか「こうしたら面白いんじゃないか?」という発散したい思いが、受け入れてもらえたんです。ありたい自分でいられる環境に居心地の良さを感じ、すごくのめり込んでいきました。 8歳ながら居心地の良さを感じられた背景として、全力でぶつかれた、というのが大きかったです。皆に合わせることも必要な学校と反対に、自分のやりたいことを隠さず、全力でぶつかっていける環境でした。結果、8歳から大学卒業の22歳までずっと続けられました。 ー学生時代は、英語劇にずっと夢中だったんですね。 学校の勉強そっちのけで、英語劇にのめり込んでいましたね。でも小学校〜中学校時代は、自分に合っているものはなんだろう?と迷走していた時期でした。 兄が中学で部活動を始めたのを機に、僕も同じ競技に挑戦したりもしたけれど全然敵わなくて。兄は優等生タイプで僕とは正反対のため、共通の知り合いから比べられて生きてきて、若干の劣等感やコンプレックスを感じる場面もありました。兄に比べて僕ができないものを突きつけられて、苦しんだ時期もありましたね。 ー兄弟で比較されるのは苦しいですよね…。どう乗り越えたのでしょうか? 高校1年生の夏休みに1ヶ月間アメリカにホームステイをしたことが、大きなターニングポイントになりました。もともと高校生になったら1ヶ月間アメリカで生活することは親からずっと言われ続けてきたことだったので、「やっとこのときが来たか」という感覚で渡米しました。 英語は苦手で、全く話せない状態で行くわけですが、なんとか英語を話そうと必死になって生活を続けたところ、帰国後は高校のクラスでも成績トップになるほど英語の実力がぐんと伸びたんです。 同じく留学した兄よりも英語が話せるようになり、英語が唯一、学業面での特技・アイデンティティとなりました。成長を実感した大きな成功体験で自信もつきました!   大学中退を決意!あらゆる教育現場を巡る旅をスタート ー大きく変わった高校生活を経て、大学生活はいかがでしたか? 実は大学はほとんど行かず、授業以外のところで積極的に色々なことに挑戦していました。 現在のワークショップデザイナーの仕事に繋がるような、中高生を対象としたワークショップを企画したり、自然保護活動をしながら子供たちと一緒に学ぶ企画を作ったりしました。英語劇も、最上級生として新しく入った年下の子に教えたり、支えたり。 子供とふれあい、彼らのやりたいことや意見を吸い上げる日々を送るにつれ、教育という分野に非常に関心を持ったのもこの頃です。互いの主張を消さず、みんなが自由でハッピーになる環境を作りたいと感じました。 次第に僕自身でも企画を立ち上げるようになり、リーダーシップ研修を大学で開催したり、外国の方との交流パーティーを企画・開催したことも。コミュニケーションが蜜な関係で、相手の立場を理解するまで話を聞き、違う所は否定するのではなく、違いを楽しめるような環境を育む活動が楽しかったです。 ですが、色々な経験を経て考えた結果、4年の秋学期に大学は中退してしまいました。 ー非常に充実した学生生活だったにも関わらず、大学を中退した理由は…? 急に決めたのではなく、実は4年間ずっと悩んでいました。決め手は、高校教師になるための授業を受けていて、僕が子供たちに発信したいこと・教えたいことは、”学校教育”とは大きくズレがあると感じたためです。 教育実習なども参加し、母校の先生にも相談したところ「君がやりたいことは、学校という場では実現できない」と言われてしまいました。僕のやりたいことは、英語劇から培ったコミュニケーション教育の分野だったんです。 どういった環境であれば僕のやりたい教育が実現できるか?を考えるため、大学を中退し、日本の学校教育現場を見て廻る活動をスタートしました。 ー実際に教育現場を見て、何か見つかりましたか? 印象的だったのが「アドベンチャー教育」という分野です!キャンプやアスレチックでの野外活動と遊びを通じて、何かあたらしいことに挑戦する精神的なタフさであったり、挑戦する際のリスク察知・回避能力を培う分野でした。 参加者は皆大人で、僕が22歳で最年少でした!大人が童心に返って翌日はひどい筋肉痛になるほど本気で遊んでいたんです(笑) そこで出会った40〜50代の方々を見て、「僕もこんな風に、何かに挑戦し続ける大人になりたい!」と思えました。その出会いが、ずっと現役で役者を続けることにも繋がっていたりします。 ー22歳が、吉田さんにとって大きなターニングポイントだったのですね。 僕にとって、22歳は他にも大きな出来事がいくつかありました! まず、「表現教育」を専門としている方との出会いがあったのもこの頃です。表現教育と聞いただけで、共鳴するものを感じました。 複数人で1つの芸術を作り、ステージに立って発表する。そのプロセスの中で、他者理解や合意形成、コミュニケーションを培うという教育分野です。何の言語化もせず、これまでずっとやってきたものが「表現教育だったのか!」と腑に落ちた瞬間でもありました。その方と劇団を立ち上げ、役者として一緒に活動しています。 また、「バーテンダー接客英会話教室」も立ち上げました。 半年間、日本巡りの資金集めを行うために働いていたバーで、オーナーさんから「せっかく教育分野に進みたいなら、うちのバーテンダーに英語を教えてくれないか」と言われたのがキッカケです。そこでバーテンダーをやりながら、接客と英語を教えるという経験をやらせていただきました。演劇的な要素も取り入れ、お客さん役になりきって練習をしてみたり、様々なシチュエーションで生徒さんたちとコミュニケーションを学んで行きました。 役者として表現する技法を磨きつつ、バーテンダーの教育を通じて目指したい教育のやり方を実証していったのがこの時期でしたね。 社会の中で自由に生きる人を育てたい!今後の挑戦とは ーなるほど。やっとここで、今の吉田さんに繋がるわけですね。 ある時、「吉田くんのやっていることって、いわゆるワークショップだよね」と人から言われて、そこでワークショップという存在を初めて知りました。劇団を立ち上げた方がワークショップデザイナーの資格を持っていたこともあり、社会人向けのワークショップデザイナーの資格を受けてみようと思ったんです。 いざ挑戦してみると、同じような活動をしている仲間に出会い、かなり視野が拓けたと思います。今でも同時期に学んだ方々との同窓会のようなものが開催されるので、1度繋がった人やコミュニティから、新しい繋がりが広まっていくのが面白いです。 お仕事を紹介いただいたり、一緒に仕事をさせていただく中で、色々な活動に繋がったと思っています! ー現在の、b.e.park統括マネージャーはどんなキッカケが? ワークショップデザイナーの資格をとったあと、劇団員とバーテンダー英語教室以外にも複数の仕事をいただくようになりました。 そのタイミングで、空き家再生などをやっている兄から連絡があり、「ワークショップをやってくれないか?」という依頼が来たんです。実は、b.e.parkの姉妹店が練馬にあるのですが、そこで1日店長をやりながら場を作る経験をさせていただきました。 その後「一緒に活動しないか?」と兄からの誘いがあり、飲食店とシェアハウスの複合施設であるb.e.parkの企画・立ち上げ・運営を行っています。バーテンダーに英語を教えつつ、バーテンダーとして接客していた経験が活かせますし、ワークショップなどの場作りの経験も発揮できていると感じます! ー人との繋がりから、何かを生み出すサイクルをたくさん経験されているんですね。 そうかもしれないです。バーテンダーもやりたい!と強く考えていたわけではなく、偶然やることになったものですし、現在もまたご縁があってバーテンダーをやっています。 最近ではコロナの流行で社会情勢が厳しい状況で、やりたいことだけをやりつづけることがいかに難しいのかを学べましたし、一方で人から依頼されたこと・求められていることが何かを知ることもできました。 僕はやりたいことがあると、急いでそれを勉強しなきゃ!とのめり込むタイプです。成り行きだったとしても培った技術があるなら、それを活かさないともったいない。真面目にコツコツやってきたことが、どれも無駄ではなかったことを学びつつ、楽しく活動させてもらっています。 ーそんな吉田さんが今後、チャレンジしたいことは? 教育現場のデザインは継続していきたいです。表現者としての活動を踏まえ、最終的には人を育てる場所を作りたいと思っています。 一番大きい目標は、中高生の方々を一箇所に集め、進学を考えている子や進学せず就職した子など、色々なバックグラウンドの子たちと、1つの大きな作品を作りたいです。その経験を通じて、これまでにない、非常に面白いコミュニケーションが生まれるんじゃないか?と考えています。 僕が高校生の頃そうだったように、進路のことで悩んだり、自分だけの価値観やバックグラウンド内で視野の狭いまま悩んでしまうのはもったいない。 高校生が自ら視野の狭さに気づき、世界はもっと広いということに気づいたり、他人との違いを受け入れることを学んで欲しいです。僕自身が演劇を通じて学んできたので、似たような環境で、本人たちに何か新しい学びが生まれたらいいなと考えています。 他人から言われて気づくのではなく、あくまでも本人たちが自分で感じていく場。そんな教育の場を手掛けたいです。 ー吉田さんを、それほどまでに突き動かすものって何でしょうか。 人からはよく「吉田君って、色々なことをやっているね」と言われるのですが、僕の中では常に1本の芯がある状態。 僕には、”社会の中で自由に生きる人を育てたい”という目標があります。自分の思い描いた理想を社会で実現させるために、柔軟に手段を変えられる人間を育てたいのです。 理想を実現させる為の”手段”というのは、無限の可能性があると信じています。僕自身、コロナ禍でも飲食店の立ち上げやワークショップ、イベントの企画などを、常にやり方をアップグレードしながら挑戦し続けている。 常に変わっていく社会状況に柔軟に対応し、またその目標までのプロセスを組む事を楽しめるという自由度の高い人間が、まだ誰も見たことのないものを生み出して、社会を少しずつ楽しくしていくのだと信じています。 ー自由に生きられる人を増やしたい、そんな人の触媒になりたいという思いがあるんですね。最後に、この記事を読んでいる同世代の方々にメッセージをお願いします! 自分の心の中に生まれたものは、”ナマモノ”だと僕は考えます。 「やってみようかな」と思いついたものの、実際に行動することって意外と難しい。ですが、そういう気持ちはナマモノなので、時間が経つにつれどんどん腐ってしまう可能性もあります。 ふと思いついたら、お酒の場でも良いから、親しい人に軽く相談する感覚で口に出してみる勇気が大事だと思います。まずは口に出すこと。そこから、自分のやりたいことや生活は始まっていくのではないでしょうか。 今の状況を悲観して何も行動しないよりは、ちょっとずつ、小さな一歩から始めてみましょう。思ったより身近なところに、思いがけないチャンスがあるかもしれないですよ。 ー素敵なお話とメッセージ、ありがとうございました!   <関連SNS> 吉田さんの作るカクテルが飲めちゃう!? b.e.park祖師ヶ谷大蔵はこちら ・食べログ ・公式Facebook ※吉田さんの話にもでてきた、お兄さんの取材記事はこちら! インタビュー:高尾有沙(Facebook / Twitter / note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter) 執筆:MOE

17歳で画家になることを選んだ私の自由な世界 画家 萌白mejiroさん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第283回目となる今回は、18歳の画家 萌白mejiroさんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 辛かった学生時代を経て、画家として生きていくことを決めた萌白さん。決断の背景やここまでの半生を詳しくお伺いしました。 元気な幼少期からインドアに。波乱万丈な学生時代 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 17歳から画家として活動をしております、現在18歳の萌白mejiroと言います。 現在は画家と絵画教室をメインに活動しています。 ー萌白mejiroさんの幼少期について詳しくお伺いできますか? ほとんどが母から聞いた話ですが、箱いっぱいに詰めたダンゴムシを母にプレゼントしたり、木登りをしたり、とのびのびと育ってきました。 また、幼稚園の時の将来の夢はアイドル歌手だったので、友達に自作の曲を披露したりもしてましたね。アイドル歌手が将来の夢になったきっかけは、昭和のアイドルをみてかっこいいな、と思ったことでした。 ー幼稚園時代は活発な女の子だったのですね。小学校時代はがらりと変わってインドアになったとのことですが、どんな経緯があったのでしょうか? 小学校1年生の時、学校の同級生とは仲がよかったのですが、同じ地区の女の子たちとの相性が悪かったです。当時元気いっぱいだった私と比べ、同じ地区の女の子はどちらかというとお淑やかな子が多かったので性格が合わず、仲の良い女の子ができなかったです。 自由奔放な母だったので、どちらかというと同級生の男の子のお母さんと仲がよかったです。また、私のことをよく思っていない同級生のお母さんにしてもいないような内容の噂を流されてしまって、登校も下校も1人でした。中休みや放課後も本を読んでいたり、友達と遊ぶこともなかったのですぐに家に帰っていました。 私は覚えていないのですが、「学校に行きたくない」と大泣きしたこともあったそうです。 ーこの時からすでにインドアだったとのことですが、すでに絵を描くことはしていたのですか? 幼稚園の時から絵を描くことは好きで、ずっと書いていました。小学校の時も、授業中のノートに落書きばかりで母に怒られていました(笑) ー中学生時代に中二病を発症とありますが、詳しくお伺いできますか? 「アニメに憧れて」ではなく、「私なんて生きてる価値ない」のようなことを考えるようなネガティブな中二病でした。 最初は見たものに影響されて真似をしていただけでしたが、「病は気から」のことわざがあるようにどんどん私は生きてる価値がないと本当に思うようになってしまいました。当時の友達も私と同じような考えの子が多かったですね。 両親も私のことを心配して叱ってくれましたが、それを煩わしく思うようになり、家族との折り合いも悪くなっていきました。 ー高校に進学をきっかけに中二病が改善してきたとのことですが、具体的にはどんなことがあったのでしょうか? 中学3年生から好きだった方と交際が始まったことがきっかけでした。 当時付き合った彼に変に思われたくなくて、自分を変えようと決意したことでどんどん中二病が改善されていきました。その後、別れてしまいましたが今でもとてもいい思い出です。 ー中二病の時期だったり、恋愛で気持ちが上向きになった時で作風は変わってきましたか? そうですね。作風は変わっていました。 中二病の時はちょっとグロテスクなものが多かったのですが、今はとにかく綺麗な作品を書きたいと思っています。 「17歳の画家」を名乗り、本格的に趣味から仕事へ ー高校2年生で学校をやめて画家になる決断をすると思うのですが、その時のエピソードをお伺いできますか? 私はデザイン系の学校に通っていて、高校1年生の時は仲のいい友達と楽しく学校生活を過ごしていました。楽しかったからこそ、大学に通って企業に就職する、いわゆる「普通の進路」を考えていました。 しかしある日、仲のいいグループ内で喧嘩が起きてしまい、私の生活がガラッと変わりました。きっかけは悪口を言った言わないのような内容だったと思います。私は喧嘩の発端となった時に1人で黙々と絵を描いていたので何が起こったかわからなかったのですが、仲のいいグループでの出来事だったので仲裁に入って話を聞きました。 グループ内で和解をしたあと、私が仲裁に入ったことが気に入らなかったのか、今度は矛先が私に向いてしまいました。その時から私はいじめの標的になってしまい、クラス内で孤立してしまったんです。 いじめがきっかけで、学校に行くことが怖くなってしまい、そのまま不登校になりました。当時は両親にはいじめのことや学校に行ってないことを話すことができず、制服来て家を出たあとそのままカフェで絵をずっと描いていました。 ー美大に行くや他の学校に転入するのではなく、自分で画家として生計を立てる決断に至ったのはきっかけはあったのでしょうか? 両親に何度か学校をやめたいと話をしましたが、高い学費を払って入った学校だったので2年生でやめるのはもったいない結論になりました。私ももったいないと思っていたので両親と話して学校に通う、また不登校になるの繰り返しでした。 学校を行っていない期間でずっと絵を描いていたのですが、SNSで絵を投稿すると画家としての仕事の依頼がきました。お仕事としての依頼を受けるうちに「画家を仕事にしたい」と思うようになりましたね。 ー教室を開いたきっかけはありますか? 前々から、教室を開いてみたいと思っていました。 ただ、私はとてもあがり症で人前に立つと緊張してしまうので、対面での教室を開くまでに踏み出せずにいました。コロナの影響でオンライン授業が主流になってきて、「オンラインなら私でもできるかもしれない」と思ったのがきっかけですね。 ー自分で描くことと人に教えることは違う点が多いと思いますが、大変なところだったり嬉しかったことはありますか? 同い年や年上の人が多い中、みなさんが「先生」と慕っていただけるところやSNSで「今日の授業楽しかった」と投稿されているのをみた時にすごくやりがいを感じます。 オンライン授業は予約制ですが、基本的に24時間いつでも開講しています。24時間できるのもオンラインならではの良いところだと思いますね。 自分の好きなことができる自由な環境を作りたい ー具体的にはどのような形で授業を展開されているのですか? 基本的には顔は出さず、通話で授業をしています。自由な環境で想像力を伸ばすお手伝いをしています。 私の教室は「絵を教える」ではなく、「個人の力を引き延ばす場所を提供している」イメージです。習い事は続けることが大切だと思っているので、時間・姿勢・授業の受け方など個人個人が受けやすい環境で受けていただきたいです。 例えば、家族食事をしている時でも、友達といる時でも、寝っ転がりながらでも、自分が描きたいと思ったタイミングで描けるような環境を提供しています。 ー「教室」と聞くともっときっちりしているイメージでしたが、萌白さんの教室はすごく自由な環境なんですね!今のような環境にしたいと思ったのは開講時から決めていたのでしょうか? 私自身堅苦しいことが苦手で、「授業中は物を食べてはいけない」「飲み物も飲みにくい」など決まり事の中で授業を受けることが苦痛でした。そのため、堅苦しい授業にはしたくないと思っていて、自由な環境を作りたいと思っていました。 過去の自分の経験から気軽にふらっと入れる授業の形で実施しました。 ーもう1点、お仕事でアートメイクをされているようですが、アートメイクのお仕事について詳しくお伺いできますか? 元々SNS上での私は「画家」ではなく「自撮りを載せる人」でした。写真を載せているうちに、「ただ自撮りを載せるのではなく、面白いことがしたい」と思うようになり、アートメイクをし始めました。 アートメイクも絵を描く時と同じで、最初に完成形を決めて作るよりは作りながら感じたまま描いていくことが多いです。 ー萌白さんの今後の展望をお伺いできますか? まず1つ目は宝石を取り扱う事業を展開したいと思っています。宝石のデザイナーをしたいと思っており、知り合いの方と一緒に進めている段階です。 近所にいつも通っているインド料理屋さんで占いをしていただき、元々したいと思っていたジュエリーデザイナーが向いている仕事と言われたのがきっかけでした。 日頃から自分がイメージするようなアクセサリーを見つけることが難しく、ほかにも同じように思っている人がいるのではないか?と考え、思い切って自分の好きなアクセサリーを作ってみることにしました。 あとは、幼稚園から小学生用の絵画クラスを展開したいと考えています。 今やっている教室は少し課題が難しい教室で、小さい子供は難しく思うことがあります。一方でお子さんに課題のレベルを合わせてしまうと、この度は大人の方が退屈に思ってしまうと思います。 伝え方、伝わり方も含めて、違うクラスを作った方が分かりやすいと思うので幼稚園から小学生用の絵画クラスを展開をしていきたいと思いました。 どの活動も「自分の好きなこと」「自分が作りたいもの」を作るところが根本にあり、今後も自分が好きなものやしたいことを自由にしていきたいと思っています。 ー本当に今日はあっという間でした!素敵なお話ありがとうございました。今後の萌白さんのご活躍楽しみにしています。   執筆:ゆず(Twitter) インタビュー:吉永里美(Twitter/note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

ヲタク兼プロデューサー。両方の顔を持つ武本英里香がコンテンツにかける想いとは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第277回となる今回は、コンテンツプロデューサーの武本英里香さん(通称もてぃさん(@mtmtchiii))。SNSキャラクターのプロデューサーとして活躍する傍ら、「推しは推せるうちに推す」をモットーにヲタク活動にも熱を入れている武本さんに、プロデューサーになった経緯や「推す」ことが人生に与えた影響など、これまでの歩みを伺いました。 推しに少しでも近づこうと、スポーツライターを志す ー本日はよろしくお願いします。まずは自己紹介をお願いします。 SNSコンテンツのプロデューサーをしている武本英里香です。「推しは推せるうちに推す」をモットーにBiSH(WACK所属アイドル)や紗倉まなさんをはじめとしたアイドルヲタクもしています。 ー「推しは推せるうちに推す」というのは、どういうことなのでしょうか。 アイドルは思いがけないタイミングで引退・解散、活動休止をしてしまうことも多く、最後に会えるのがいつになるかわかりません。また、わたしが推している紗倉まなさんはAV女優さんで、体が資本のお仕事なので、推しにいつ何があっても後悔しないよう、活動している間はちゃんと応援しようという意味で、この言葉をモットーにしています。 ちなみに、わたしがアイドルを好きになるときは、アイドルという仕事にかける「覚悟」に惚れ込むことが多いためか、ありがたいことに推しが引退したりしたことはまだありません笑 ー武本さんの初めての推しは誰でしたか? 初めての推しは元プロ野球選手の高橋由伸さんで、初恋の人でもあります。そのころは、文房具や下敷き、ガラケーに貼るシールまでを高橋選手にし、右か左か選べと言われたら、高橋選手のポジションであるライト=右を選ぶように決めていて、さらに高橋選手がきっかけでソフトボールを始めるほどに大好きな存在だったので、気づけばあだ名が「由伸」の時期もありました笑 また、高橋選手はわたしの進路選択にも影響を与えていて、高橋選手に少しでも近づきたい一心で中学生の時にスポーツライターになることを決めました。日本でスポーツメディアを学べる大学が2校しかなく、そのうちの一つである立命館大学に行くために立命館大学の附属高校に入学したんです。   挑戦できる環境を求めて方針転換!人材業界へ飛び込む ー新卒では人材会社に入社されたということですが、進路変更の背景には何があったんでしょうか。 大学入学後は、「体育会の部活を取材する部活」で大学生選手たちへの取材活動をしていました。その一環で、読売ジャイアンツに入団する同級生の取材していたところ、なんと高橋選手に接触することに成功したんです。スポーツライターを志したきっかけは由伸選手の存在あってのものだったので、その夢が達成できたのは喜ばしいことなのですが、冷静に考えたときに、「高橋選手は既婚で、さらに現役も引退している。どうしてスポーツライターを目指すんだっけ・・・」と思ってしまって。その頃から、スポーツライターを目指すことに疑問を感じるようになりました。 また、父をはじめとして私の家系には経営者が多く、さらに高校から私立学校に通わせてもらっていた責任感もあり、自分はちゃんとしたサラリーマンにならなくちゃいけないんだという意識がありました。そのためどういった進路を選択するかで葛藤がありましたが、最終的に新しい挑戦をするという意味で「新規事業に携われる環境」を軸に企業を探し、そのチャンスが巡って来やすい人材業界の会社に就職しました。 ー入社後はどのように新規事業に携わっていたのでしょうか? 入社した会社は新規事業の開発に熱心な会社で、社内のビジネスコンテストがあったり、上司にも新規事業への熱意をぶつけやすい環境でした。1年目はビジネスコンテストに参加するも敗退、2年目は新規事業人材に選ばれ、医療系ベンチャーに出向して経験を積み、そして3年目に役員に当てた企画が通り、新規事業責任者として事業開発に取り組めることになったんです。 ー3年目で見事企画が通った要因はなんだったのでしょうか? 1年目に提案した案は、全国の遊園地を年間パスで通えるサービスを作ろうという内容でした。この提案が落ちてしまった原因は、会社の持っている強みやリソースを生かした企画ではなかったことだったんです。そこで、翌年からは会社の強みをフルで生かすことを意識して事業を組み立て、3年目でタレントプールという将来の採用候補者に自社のファンになってもらうための採用ツールの開発を提案したところ企画が通り、事業化が決まりました。 ー目標だった新規事業開発に携わってみて、結果はいかがでしたか? 実は、実際に携わったのはわたしが提案した企画とは別の新規事業でした。というのも、いざ開発しようとなると、エンジニアスキルなど専門的スキルがないわたしには企画の実現可能性がわからず、また会社としてもタレントプールは「取り組んだ方がいい」ものではあるものの、「絶対必要」なものではなく、事業を開発する上で「誰のどんな課題を解決したいのか」があまりハマっていなかったんです。 そんな時に会社の方針が転換し、3・4年目は在留外国人をターゲットにした「在留カード」の管理ツールの開発に携わっていました。   創作活動への興味から、コンテンツプロデューサーへ転身 ーその後、武本さんは現在の会社に転職されますよね。転職を決めた理由はなんだったのでしょうか。 幼い頃から持っていた「創作活動への興味」がきっかけになります。わたしが転職したのはクリエイターの創作活動を支える会社なのですが、実はわたし自身も小学生の時から小説を書いたりと、創作活動というものに興味があって。そんな背景もあり、作ることに携わる人たちへのリスペクトが非常に強く、彼らの創作活動を支えたり、その可能性を広げることに関心がありました。 わたしはそれまでプロデューサー職を経験したことはありませんでしたが、「人の熱量を動かしたい」という思いで転職を決め、現在はオリジナルキャラクターの開発やディレクション・SNS運用などを通してコンテンツとファンの熱量の橋渡しをする仕事をしています。 ー生み出したキャラクターをファンの方に推してもらうために、プロデューサーとして意識していることはなんですか? これは私の持論ですが、アイドル・キャラクター問わず自分の推しを「推し続ける」というのはすごく難しいことだと思うんです。というのも、わたし自身、推しとのコミュニケーションが一方通行になっている状態に寂しいと感じることもありました。だからこそ、わたしはプロデューサーとしてファンの方たちと熱量を共有できる機会を作り、その橋渡しをすることが役割だと考え、企画・運営に取り組んでいます。 ー推し続けてもらうために、これまでどんな工夫をされてきたのでしょうか? 「自分だったらどういう企画が嬉しいか」「自分ならどういうときにテンションが上がるか」を考え、月に1つはビッグニュースを作るなど、イベントやニュースを絶やさないようにしています。また、「インスタグラムの投稿に対して、この時間でコメントくれたらリプを返します」などと、SNSを通してファンの方とインタラクティブにコミュニケーションを取る工夫をしています。   「プロデューサー」と「ヲタク」二足のわらじで人生を楽しむ  ーご自身の経験が仕事をする上でも武器になっているんですね!逆に、武本さんが推しを長く推し続けるために意識していることはありますか? これは先程の話と少し矛盾しているようですが、わたし自身は推しの情報をあえて追い続けないようにしているんです。以前は、推しのTwitter投稿通知をオンにして、誰よりも早くいいねする・誰よりも早くリプライするような推し方をしていたのですが、そういうことをしているうちに、他のファンに嫉妬したり比べたりして辛くなってきてしまって。そこで、一時期あえて活動を追い続けない期間を作ってみたところ、次のイベントで会えた時の嬉しさが倍増し、「それで良いんだ」と思えるようになりました。 ヲタクは長距離走なので、推しを推し続けるためにも、良い距離感を見つけるように意識しています。 ーちなみに、推しが複数人いる場合、推しへの熱量が分散することはないのでしょうか? 推しが増えることによって、熱量が上がったり下がったりすることはあると思います。が、推しが複数いると自分の中での平穏が保たれるんです。例えが正しいかわかりませんが、彼氏や彼女がいない時に3人くらいとLINEをしていると心の平穏が保たれるあのイメージです!笑 推しが複数いると推しへの愛が活力になり続けるので、推し増しはおすすめです! ー過去には、進路選択で高橋由伸さんに影響を受けたとのことですが、他にも推しから影響を受けていることはありますか? 振り返ってみると、紗倉まなさんやBiSH、GANG PARADEをはじめ、推しから影響を受けたことは多々あるように思います。 例えば、BiSHにはチッチ(セントチヒロ・チッチさんの愛称)という歌がうまいメンバーがいるのですが、歌唱力で注目されるのはいつもアイナ・ジ・エンドという別のメンバーなんです。チッチは負けず嫌いなので、その状況を乗り越えるために自分の良さを磨き、自分の見せ方を研究して努力していて。その姿を見て、わたしも「自分の勝ち方」というものを考えるようになりました。 ー「自分の勝ち方」を考えることは大事ですね。そういう意味では武本さんはTwitterを積極的に活用されていますよね。何か意識していることはありますか? 呟くことが癖のようになっているので、発信する上で特に意識していることはありません。でも学生の時からツイートしなかった日は一日もありません。毎日呟いてます笑 しかし、フォロワーがまだ50人くらいだった頃はフォロワーが全員ヲタクだったこともあり、くだらないことばかりツイートしていたのですが、次第に関わってくださる方が増えてきて、前のようにはいかなくなっていて。そのため、最近は公序良俗にだけは気をつけて発信しています笑 ただ、推しの生誕祭の日はツイートやリツイートが増えるので、フォロワーがごっそり離れていってしまいます笑 また、アイドルに関するつぶやきを見てくださっていた方から、アイドルへのインタビューの仕事を依頼してもらったこともあります。仕事でアイドルに会いに行けるなんて、こんな幸せな仕事があるかと思いながらライバーやアイドルにインタビューをしていました。好きなことを発信しているうちに、そういう風にチャンスが広がったことは嬉しいです!ただ、緊張のあまりインタビューの時はいつも以上に声が低くなってしまいました笑 ーSNSを通じて新しいチャンスをゲットしたんですね!武本さんの2021年の目標を教えてください。 わたしは「人の熱量」を大切にしていきたいと思っているので、仕事ではファンの方々たちの熱量が常に右肩上がりになるよう運営していきたいと思います。 またヲタクとしては、推しを黙って推し続けていきたいなと思っています。実は先日、紗倉まなさんとの未来をタロットで占ってもらったんです。その結果が「あなたの推しはまさに新しいことに挑戦したいと思っていて、その挑戦は全てうまくいく。だから、あなたは黙って推しなさい」という内容で。そのため、今年は占いの通り、自分の中の熱量を大切にしながら長く応援していきたいと思います。 ー最後に、U29世代にメッセージをお願いします! キャリアでは自分と周りを比べてしまう辛さを経験する方も多いと思いますが、わたしは自分と他人を比較することをやめたところ、楽になることが増えました。皆さんも周りと比較せず、自分自身の選択を考えてみると良いのかなと思います! ーありがとうございます!もてぃさんの今後のご活躍を期待しています! 取材者:エルモ(Twitter) 執筆者:青砥杏奈 (Facebook) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

自分にとっての「幸せな生き方」を選択するまで NPO法人職員 兼 書道家の金子泰之さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第282回目となる今回は、NPO法人職員 兼 書道家の金子泰之さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 現在、NPO法人職員 兼 書道家として2つの分野で活躍をしている金子さんに、2足の草鞋を選択した経緯やここまでの半生について詳しくお伺いしました。 きっかけは母のすすめ。書道に没頭する ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 現在、NPO法人の大学生ボランティア団体の職員をしています。主に大学生がボランティアに参加する機会を提供したり、現地の方との調整などをメインに業務にあたっています。 また、幼少期から書道を習っていて、現在は書道家としても活動をしています。 ー書道を始めたきっかけをお伺いできますか? 書道を始めたきっかけは、母のすすめでした。私が通っていた幼稚園の友達のおばあちゃんが書道教室を運営していて、母から教室に通うことを勧められたことがきっかけです。 その後、友達から文字が綺麗だと褒められることが嬉しくて書道に通い続けてました。 書道にのめり込んだのは、中学校の環境が1番でした。塾の先生から「君たちの中学校の同学年の頭の良さは異例だ」と言われるくらい優秀な子が多かったです。 私は小学生の時から勉強をがんばっていたのですが、秀才な子が多く、勉強で同級生には勝てなかったのです。ほかの誰にも負けないものを考えた時に「字の綺麗さなら誰にも負けない」と思ったのが書道にのめり込んだきっかけですね。 私もそこそこ勉強ができるほうだったのですが、それでも200人中50人くらいでした。さらにみんな勉学に加え、スポーツもできる人が多かったので、自分の中で自分の存在価値を見つけるための葛藤がありました。 ー自分の存在価値を考える中で書道を続けていく結論に至ったのですね そうですね。中学生時代に軟式テニスのサークルに入りましたが、書道のある日はテニスを休んで書道教室に通うくらい、書道の優先順位が高かったです。 私は一緒に書道を始めた同級生が書道教室をやめていく中、小学校・中学校に行っても書道を続けていました。 ーまわりの同級生が書道をやめていく中、書道を続けることに迷いはなかったのですか? 続けることに迷いはなかったです。書道を続けられた理由は2つあって、自分との相性と私の性格に合っていた点だと思います。 サッカーを習っていたこともありましたが、すぐに集団戦は自分には合わないと思ってやめてしまいました。でも、友達はお習字の授業は苦手で嫌がっていましたが、サッカーは一生懸命続けていたので、相性は大事だと思いました。 また、1人でコツコツと1つのことに没頭することが好きだったので、性格も書道に向いていたと思います。 ボランティアを通して新しい価値観を持つ ー志望校を選択した経緯をお伺いできますか? 周りの影響と自分で選択したのが半々くらいでした。 公立の高校に行きたかったのですが、行きたい高校には行けなかったです。私立は滑り止め目的で適当に受けた学校だったので、希望ではない学校に進学することになってしまいました。高校生活は自分の中ではとても落ち込んでいた時期だったと思います。 書道は高校に入ってからも定期的に書道教室に通っていて、1番上の段位を取ることを目標に続けていました。 ー書道以外にボランティアに没頭されていたとお伺いしましたが、ボランティアに出会ったきっかけはなんだったのでしょうか? 大学は立命館大学に通っていました。行っていた高校と立命館大学が提携をしていたので、推薦がもらえる立命館大学を選びました。 ボランティアに参加するきっかけは東日本大震災でした。大学生になる前の年に、東日本大震災があり、テレビのニュースなどをみていて現地の方の助けになることをしてみたいとずっと思ってたのがきっかけです。 もう1つは、私が男子校に通っていたのと大学も理工学部であまり女性との接点がなかったので、接点を作りたいと思ったのもきっかけの1つですね。 ボランティアの主な活動は、被災地の災害救援や地元のお祭りのお手伝い、台風の影響で流れついてしまった流木を片付ける作業など、災害関係の活動が多かったです。 ー実際にボランティアをしてみて、自分の中で変わったことや気づかされたことなどはありますか? 自分の中で、今後の生き方に対する価値観がガラッと変わりました。 広島の救援活動に行った時に「まさか自分が被災すると思わなかった」「まだ新築なのに壊れてしまった」などの声を聞くことが多く、今まであまり現実味がなかった被災が一気に人事に感じられなくなりました。 それからは住む場所についてはすごく慎重に考えるようになり、家族を守るためにどういった選択をしないといけないかとすごく考えるようになりました。 なかなかテレビだけだと気づけない部分が多いので、現地に行って肌で被災を感じることができたのはとても貴重な経験だったと思います。 ー大学生活はボランティア活動をして過ごすことが多かったのですね。 そうですね。学生生活はボランティアが楽しくて費やした時間が多かったです。 楽しかったポイントとしては、同世代の仲間と寝食を共にして同じ目標に向かって行動できる点ですね。あとは、現地の方がどうしたら喜んでくれるか、考えながら行動をすることで結果現地の人に感謝されて、次へのモチベーションにつながりました。 書道部にも入っていましたが、どちらかと言うとボランティア中心に活動していましたね。ただ、まったく書道をしなくなったわけではなく比重が変わったような状態でした。 3足の草鞋を生活の柱に。誰もが「感性」を磨ける環境を提供したい ー就活についてお伺いできますか? 自分の行きたかった企業で3、4社だけを受けたので、まわりの就活生のように何十社と面接を受けたりはしていなかったです。 地域の農業支援がしたいと思っていたので、地域支援を間接的にしている企業を探していました。 ー会社員をしながら、書道をしようと思った経緯はどのようなことだったのでしょうか? 最初に入った会社は自分に合わずに、すぐにやめてしまいました。1社目は営業の仕事をしていたのですが、営業は自分に合わないと感じましたね。 2社目は主に事務のような仕事でしたが、事務の仕事も自分ではしっくりこないように思えました。「自分は一般的な仕事が苦手なのかもしれない」「合わないことが多いのかもしれない」と感じた時に、自分は職人気質だと気付いたのがきっかけで、書道の道でも収益を出せるようにしていきたいと思いました。 また、私のことを応援してくれてる方の支援もあり、書道を仕事にしていくことが少しずつできつつあります。 ー2つの仕事の両立はどのようにしていますか? 今は本職のNPO職員業務の方が仕事の中で大きな割合を占めています。休みの日や夜に娘を寝かしつけた後の時間や仕事で副業に当てていいと言われている時間で書道の活動をしてます。 今後は3足の草鞋を目指していて、「農業」「地域の困りごとを解決する事業」「書道」と生活を3分割してできたらと思っています。 農業に関しては、ボランティアを通して大先輩に言われたことがきっかけでした。段々畑の景色を見ながら、「日本にある原風景は農業に関わってる人がいるから、この景色があるんだよ」と言われました。農業がなくなってしまうと日本の素晴らしい風景もなくなってしまう話を聞き、日本の今の素晴らしい風景を守っていきたいと思ったことが農業に興味を持ったきっかけです。 1つのことをしている人よりも成果は少ないかもしれませんが、自分の中で幸せに生きることを考えた時に3つを同時進行することが幸せに繋がるのではないか、と考えています。 ー書道を事業として進めていく上での今後の展望をお伺いできますか? 私は今の日本の教育に関して疑問を持っています。日本の教育は、正解が決まっていることを学ぶ教育が主流で、正解のない自分の感性や個性を伸ばす教育はほとんどしていないように思います。将来働くために必要とされる人材と子供の教育環境がミスマッチしている状態です。 自分の中の感性を磨こうと思った時に、磨ける環境がすごく大事だなと思っていて、自分の感性を磨ける環境に書道が適していると思っています。 また、私たち大人は何か楽しいことを経験する時に「作られた楽しみ」を体験していることが多いと思います。例えば、テレビ番組などは、「こんな風に感情が動いて欲しいと想定して作られた娯楽」が多いです。 自分の感性と関係なく誰かにコントロールされて感情を動かすのではなく、「自分が何を幸せだと思うのか」「何に心を動かされるのか」について理解することが自分の人生を豊かにしていく上で大切だと考えています。 自分の感性を磨くような環境を書道を通して提供していきたいと考えています。 ー本当に今日はあっという間でした!素敵なお話ありがとうございました。今後の金子さんのご活躍楽しみにしています。 執筆:ゆず(Twitter) インタビュー:山崎貴大(Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

想いを紡ぎ、地域の人材をいかし人おこしを!内閣府認定地域活性化伝道師 Time Colors Lab.代表 伊藤 晴樹さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第248回目となる今回は、Time Colors Lab.代表 伊藤 晴樹さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 「人の夢を応援したい」と語る伊藤さん。そんな伊藤さんが、現在の地域おこし事業や起業をするに至った経緯や半生について詳しくお伺いしました。 「委ねるのは他人でなく自分」認めてくれた恩師との出会い ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 Time Colors Lab.代表 伊藤 晴樹と申します。教育人材育成を行う個人事業を今年の4月からスタートしてます。また過去に、秋田県の男鹿市で地域おこし協力隊を3年間していました。 地域おこし協力隊の時の活動は、主に移住定住の促進、イベントの企画運営や子供たちの教育をしておりました。地域作りの根本は人作りだと思っており、現在の個人事業でも人材育成を中心に事業を進めています。 ーありがとうございます!それではまず幼少期のお話から聞いていきたいと思います。 私は一人っ子で、実は引っ込み思案でした。その影響か人の性格や話してる様子を観察する機会が非常に多かったです。兄弟がいると対人関係を学ぶ機会多いと思いますが、一人っ子ですと親とのコミュニケーションだけのため、対人関係に不安がありました。人目を気にして過ごしていた幼少期でしたね。 引っ込み思案な幼少期から様々な人と関わり、私自身の良さを見つけていただいたり、面白い人と関わることでエネルギーもらえ、どんどん変わっていきました。イメージとしては私の心の氷が溶けていくイメージですね。 ー人との出会いで自分自身が変わっていったのですね。とくに印象的な出会いなどはありましたか? 1番大きかった出会いは委員会での活動と当時の先生との出会いです。私自身すごく真面目だったのですが、堅いイメージを持たれることが多かったんです。委員会をやっていく中で先生は、その真面目さを買ってくれ、「真面目でいい、それがあなただ」と客観的に見て認めてくれました。 先生の言葉で、「ちゃんと大人は自分のこと見てくれてる」と思い、心を開くようになりました。 ー先生との出会いで1つの転機だったのですね。その後、中学、高校と進学されると思いますが、当時から進路に関しては決まっていたのでしょうか? 正直なところ、当時はキャリアデザインをまったく考えていませんでした。身近な存在で年上の学生、例えば大学生の方などがいる地域ではなかったので、あまりイメージが持てなかったです。自分が大学生になることや大人になることの具体的なイメージは持ってなかったです。 そのため、受験の時期はとても苦しかったです。田舎の方ってなると競争ってあんまり正直ないんです。しかし、いきなり受験となった瞬間に「競争」の文字がちらついてマイペースの私にとっては、とてもストレスでした。 ー葛藤を乗り越えて高校に進学した後、秋田大学に進学されているようですが、大学選択の背景をお伺いできますか? 大学受験のときは研究者になりたいと思っており、大学院までいくつもりで秋田大学に進学しました。中学自体のライフプランが決まっていなかった時とは打って変わって、高校3年間はしっかり考え、準備をしていました。 「委ねるのは他人ではなく自分」と思い、自分でこれからを作っていかなくてはいけない気持ちになってましたね。 地域おこし事業に触れ、自分の将来について考える ー進学されたあとはどのような大学生活を送られていて、今の活動に繋がるようなきっかけがあっったのでしょうか? 私は出身が秋田県北部だったのですが、大学が秋田県北部の出身の高校生と大学生を集めて、ローカル鉄道とかの利活用や未来を考えるようなワークショップを企画していたのです。ローカル鉄道のワークショップに参加させていただいたことがきっかけで、地域を見つめ直す機会になりました。地方大学の良さだなと思いましたね。 その後、ほかのプロジェクトにも参加させていただき、地域の方と接する機会が増えました。活動地区が母の実家があるエリアだったので、幼少期通っていたのですが、大学生になった自分が同じ地域に入ると、知らないことがたくさんあり、表面的な情報でしか地域を見てなかったことを考えさせられましたね。 地元秋田県について、田舎だけれどもいろいろな良さがあることを肌で感じることができて、地域を活性化する活動っていいなと思ったきっかけでした。 ー在学時に地域貢献団体を設立されたことが転機になっているとお伺いしたのですが、活動内容を具体的にお伺いできますか? 学生を受け入れてくれる地域を募集して、社会科学系の地元学のようなフィールドワークやワークショップのような学びの場を提供する活動をしていました。雪祭りお手伝いや地元特産品を販売など常時学生が地域に溶け込むような機会を作らせていただいて、コーディネーターやパイプ役をしていました。 私は秋田県出身で地元の大学進学しましたが、他の地域から進学してくる学生の方も多いんです。大学が秋田県の中央に固まっているうため、大学4年間で秋田県全体のことをあまり知らずに卒業してしまう方がほとんどでした。 私は地元民として、もっとローカルな故郷を知ってもらいたい気持ちがあり、知ってもらうためのルートができれば、私が卒業したあとも学生さんたちが各自で地域に入り込んで交流してくれるだろうと思いました。交流の機会を提供できるようなシステム作りたいと思ってたのが一番のモチベーションです。 ー学生時代から「関係人口を増やす」ような活動をされてたのですね。大学4年間の経験を経て、大学院に進学されたとのことですが、進学されたきっかけや実際進学してみていかがだったでしょうか? 私は探究心が強く、打ち込みたかったのが大学院進学の1番の理由だと思います。 実際に入ってみて研究者をしている自分を客観的に見たときに、「ずっと自分がやり続けたいことなのかな?」と感じました。 私が好きなことは幼少期から「人と関わること」だと思い、研究以外のキャリアで自分が挑戦したいことはなにか考えた時に地域おこしの活動を自分のライフワークにした思いが強かったです。この想いが今の事業に直結してますね。 大学院時代は学生の社会参画をキーワードに考え、学生の社会的機能に目を向けて欲しい思いで、もう1つ団体を立ち上げました。 当時、18歳選挙権の政策がきっかけで総務省さんからワークショップの依頼をいただいたことや模擬選挙をしたことで、政治家の方と話すような機会が増えましたね。 「雇われずにお金を稼ぐ」の第1歩を踏み出す       ー大学院を卒業して社会人になると思いますが、どのようなキャリア選択をしたのでしょうか? 就活をしている時は、教育系や国内旅行系の分野に興味がありました。しかし、大学院で勉強してた分野とはまったく違う方向だったため、自分の中でどんなキャリアに進むかの方向性が固まっておらず葛藤した時期でもありました。 考えた結果、地元のベンチャー企業に就職しました。農業もしながら、いろいろな仕事をマルチにこなす企業でした。 ー就職したベンチャー企業から少しずつ違う選択肢を考え始めたきっかけや背景をお伺いできますか? 就職して1年目は環境のとても変わるので、辛かったのが1番にありました。また、就職した会社に長い間いないな、と感じ、半年くらいで退職しました。 次に別のことをしたいなって思っていたところ、総務省が実施する制度の地域おこし協力隊の募集があり、興味を持ちました。募集条件が「都市部からの移住すること」がキーワードで、私はできないだろうな、と思っていました。そんなとき、知人から「やってみればいいじゃん」と背中を押してもらい、駄目でもいいかなと思ってエントリーしました。 ー退職や友達の後押しがきっかけで今の事業につながっていったのですね。地域おこし協力隊としてどのような活動をしていたのでしょうか? 秋田県の地域おこし協力隊自体は約70人(令和3年1月時点)ぐらいの協力隊がいるのですが、十人十色な印象が強いですね。 最初はほかの地域の隊員の方と交流する機会がなく、私が2年目ぐらいのときから秋田県主導で全県単位で集まる研修が増えてきて、交流する機会が増えてきました。現在はいろいろ専門性を持った人たちが増えてきている印象はありますね。 私自身は移住の事業に携わっており、地域へ溶け込むのがうまいねと言われることが多く、学生時代のキャリアが生かせてるなと思いました。 地域で活動する中で、地域の人が私の良さをたくさん言ってくれるんです。フィードバックをいただいて、こういうふうにサービスを提供できるなと今の事業を確証に変えていく機会だったなと思います。 ー現在の事業は具体的にどんな人にどんな形で届ける日々を送っているのかお伺いできますか? 今回インタビューをする中で、私自身が今までとても悩んでることがおわかりいただけたかと思うのですが、悩んでる人は自分だけじゃないと思ったんです。 キャリアや自分のパーソナリティについて考え、どう向き合うか悩む方が多いと思います。私自身が悩んだからこそ、共感できることがあると思ったことが1番大きかったです。 人の夢を応援することを仕事にしたいと思い、Time Colors Lab.を作りました。自分のキャリアに迷いがある人の相談をメインに自分にあるものをどうやって磨くかからライフプランまでサポートをしていますね。 ー最後に伊藤さんの今後の展望についてお伺いできますか? 東京とかにも行きたいなと思っていたのですが、新型コロナウィルスの影響でなかなか行くことができませんでした。 今年は本当にいろんな人ともっと会っていき、自分の思いを直接伝えていきたいです。さらに自分の思いを日本全国にやっぱり広げていくのが今後継続していきたいことですね。 ー本当に今日はあっという間でした!素敵なお話ありがとうございました。今後の伊藤さんのご活躍楽しみにしています。 取材:山崎貴大(Twitter) 執筆:ゆず(Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

仕事=責任感のある遊び。No Code Walker・池田龍一さんがたどり着いた「ゆる〜く稼ぐ」とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第266回目となる今回は、専門学校に通いながらオンライン塾経営、オンラインサロン運営、webサイト制作と幅広く活動している池田龍一さんをゲストにお迎えし、現在に至るまでの経緯を伺いました。 4つの肩書きを背負って活動を続けられている池田さん。なぜ大学を中退してまで現在の生き方を選ばれたのでしょうか。また、Twitterを中心に発信されている「ゆる〜く稼ぐ」とはどのような働き方なのでしょうか。自分の意思で責任感をもって突き進みつつも、遊び心を忘れずに活動する池田さんの思いをお伺いしました。   ー現在の池田さんについて教えてください。 バンタンテックフォードアカデミーという、IT系の専門学校に通う20歳です。学校で勉学に励みながら、オンライン塾経営やオンラインサロン「NoCode Walker」の運営、フリーランスでwebサイト制作をしています。 ー4つの肩書きで活動されているのが、本当に多彩ですよね!現在されている経営やパラレルな働き方には親しみのある環境で育ってこられたんでしょうか? 両親ともにそういった働き方ではなく、周りにもそういった人はいませんでした。大学入学後のとある転機を迎えるまでは、自分も既存のレールに乗って楽に生きていきたいと思っていましたね。   大学進学。楽に生きたいと思っていた18年間 ー大学時代で転機を迎えられたとのことですが、大学はどのような視点で選ばれたんでしょうか? 就職したくない思いから理系を選択し、そのなかでも興味のあった学問を扱っていた東京理科大に進みました。 ー決断の裏には消極的な考えもあったのですね。現在のように、自分で何か新しいことを始めたり、創造的な活動に対して興味があったりしたのでしょうか? 一切ありませんでしたね。 家庭環境が恵まれていたこともあり、甘やかされて育ってきたと思います。今振り返ると「18年間何をやっていたんだろう」と思ってしまうくらい、自分から何か行動を起こすことはしていませんでした。 ーとなると、現在とは真逆の生き方をされていたのですね。大学ではアルバイトなどはしていましたか? アルバイトは塾の講師をやっていました。その頃は、将来は就職するんだろうと漠然と考えていましたし、周りの人たちと同じようにアルバイトしか稼ぎ方の選択肢は持っていませんでしたね。   浮き彫りになった違和感から、模索し始める ーごく一般的な学生だったところから、19歳の頃に考え方が180度変わったそうですね。 当時お付き合いしていた社会人の彼女がきっかけでした。 その方は「働きたくない」とよくこぼしていたんですが、その姿を見ているとこっちも「自分が稼がないと」という気持ちになってきて。大学生の自分が稼ぐにはどうすればいいか考えた時に、大学では稼ぎ方は学べないということに気付きました。 また、アルバイト先の塾での指導が度を越して厳しかったということも感じていました。 当初はそれが普通だと思っていたんですが、自分の後から入ってきた先生に「パワハラじゃない?」と言われてしまって。「これがパワハラなんだ」と気付かされたと同時に、アルバイトとして稼ぐことへの違和感も抱くようになりました。 そんな二つの経験から、普通のアルバイトよりも効率的に稼げる方法を探し始めました。 FXやブログ、せどり(転売)などから手をつけ始め、その過程でプログラミングにも出会いました。 ーそれが、初めて自分で行動を起こした瞬間だったんですね。 新たな道を自力で見つけられたものの、大学との両立は難しくなってしまいました。 また、ITで技術を身につけていきたいという思いを大学の教授にぶつけたのですが、「大学では君のやりたいことはできない」と言われてしまいました。 思うように進めないのなら、ということで最終的には中退を選びました。 ー中退を選ばれたんですね!大きな決断です。 迷いは一切ありませんでしたね。休学という選択肢をとることもできたとは思うのですが、保険を残したくないという思いが強かったので。 また、プログラミングという一つの分野にフォーカスしてみても、大学ではコードの読み方を教わるくらいだったんですよね。実践的な書く動作については教わらなかったので、そうした点からも大学への違和感、物足りなさはもともと感じていました。 大学中退は一般的には大きな決断だと思いますが、自分としては納得のいく決断ができたと思っています。   大学中退、新たな道へ。自分で歩み始めたことで回り始めた歯車 ー自分で責任を持って下した決断だったのですね。 次のステップとしてバンタンテックフォードアカデミーを選ばれたとのことですが、どのように見つけたんでしょうか? 中退を決めてから1日で見つけました。 IT系の専門学校でありつつも、柔軟にいろんな学問分野を取り入れている点がすごく魅力的で。環境も重視していたポイントだったので、熱意のある人が集まりそうだと直感的に感じたこの学校にしました。 入ってみて実感するのは、とにかく自分に合った環境だということです。登校時間も自由で、教材も欲しいものは買ってもらえる。学びに集中できるので居心地が良いですね。 ー重視していたポイントがマッチした学校だったんですね。どんなところが合っていると感じますか? やりたいことがあって、かつ自分で責任感をもって実行することができる人間は、自分でやっていくべきという考えにマッチしていました。既存の上下関係が無い、対等な組織だったのもよかったです。 ー専門学生でありながらも、オンライン塾経営、webサイト制作、オンラインサロン運営という4つの肩書きを持つようになった経緯もお伺いしたいです。オンラインの塾はいつ始められたんでしょうか? 塾は学校に通いながら設立しました。 アルバイトという働き方をとらずに自分でできることを考えた時に、これまで頑張ってきた受験勉強を教えることを思いつきました。当時、教育系ブロガーとしてTwitterで発信していたので、そこで生徒になってくれる人を募集したのが始まりです。 オフラインだと場所が必要になりますし、すでにコロナも流行していたので、オンラインという形で「スタデイ」という塾を開校しました。現在は中3から高3の学生を数人教えています。 ー2つ目の肩書きであるwebサイト制作は、どのようなことをされているのでしょうか? サイト制作に関しては、塾の立ち上げと同時期にTwitterで繋がった人の会社の外部顧問に就任しました。 その方は名古屋のある企業を経営している方だったのですが、同じように個人塾を始めたいと考えていたようで。いろんな話をしているうちに、「ウェブに詳しいなら」と知見を買っていただき、その方の会社の外部顧問になりました。 ー塾立ち上げと同時に企業顧問になられたんですね!行動の一つ一つが歯車のように噛み合って、どんどん進んでいった感じですね。 最初に展開を想定していなかったんですが、次に繋がらないことはしたくない、という自分の性格がうまく作用していたのかもしれません。 世間的にも、Twitterはビジネスの基盤になりつつありますし、塾の運営や顧問になった経験からも、Twitterの活用は個人の成功の鍵ではないかと思っています。 ー池田さんのお話をお伺いしていると、プロとアマチュアの壁もどんどん溶けていっているということを実感しますね。 いろんなツールの技術が進歩しているということもありますよね。 今一番注目しているノーコードという技術はその筆頭ではないかと思います。4足目のわらじとして携わっているオンラインサロン「No Code Walker」では、サロンメンバーの学習サポートやノーコードの魅力を伝えるメディア運営をしています。 プロとアマチュアの区別は、お金を稼いでいるか無償でやっているか、ということがよく言われますよね。でも、今の世の中では初心者からでも稼ぐことができると感じます。プロと言えばプロになれる。そんな中で責任感を持って向き合えているか、が重要なのではと思いますね。   模索の末たどり着いた「ゆる~く稼ぐ」とは ー相手の求めているものに対して、責任をもって適切なアウトプットができれば、仕事は成立すると。 池田さんが発信されている「ゆる〜く稼ぐ」ということなんですが、これはどういった働き方なんでしょうか?責任感とゆるさというのは、一見相反しているように聞こえますが...。 自分にとっての「ゆるさ」とは、上司や下からの圧力がなく、自分の意思で動けるストレスフリーな状態です。 そういった環境では、個人の裁量で稼ぐ額が変わってきますが、そこはゲーム感覚で楽しむ。自分の戦略やビジョンをもちつつも、遊びのように楽しむことが「ゆる〜く稼ぐ」ことだと思っています。 ー池田さんが「ゆる~く稼ぐ」うえで大切にしているポイントって何なんでしょうか? 大切にしているのは、誰と一緒に働くか、ですね。 こうした働き方のメリットは、働きたくない人と付き合う必要がないことです。それが恵まれたことであるとは実感していますが、だからこそ周りの人との関係は大切にしています。時にはお金は二の次にしてしまうこともありますね。 ーどれだけ技術が進んでも、大切なことは人間同士の繋がりということですね。 生き生きしている経営者さんと関わっていると、よりそのことを実感しますね。 仕事に対して思うことは、楽しめないと損だということです。 人生の中で50〜60年、あるいはそれ以上やっていくことなので、この「働く」という行為を一番楽しくないともったいないなって。だから、直感的にやりたいと思えることしかやらない。その思いで続けていると、仕事は「責任感のある遊び」だなと思うようになりました。 これからも、責任感をもって遊びつつ、好きな人たちと良い関係を結びながら生きていきたいですね。 ー責任感のある遊び...!人生を楽しく生きるコツですよね。 とはいえ、好きなことを仕事にしたい、と思いつつもなかなか行動に移せずに悩んでいる人も多いのでは。自分がやりたいことを見つけるにはどうすれば良いんでしょうか? とりあえず全部やってみる、ということですね。全部やれば「これだ」と思うものに出会えます。 どんなことでも、やる前は「うまくいかないんじゃないか」と不安になりますよね。でも、やってみないと分からないこともあるし、途中で辞めても良いんです。 やってみて合わないと思ってやめたことでも、一度触れたことがあれば、次に熱が入ったときに理解しやすい。それって失敗じゃなく経験になるので、将来にも生きてくるんですよね。   可能性に満ちたノーコード。サロン運営を通して技術を広めたい ーいろんな稼ぎ方を模索された池田さんだからこその説得力がありますね。 今注目されているノーコードとは、どんな技術なんでしょうか? ノーコードは、普段私たちが使っているようなツールを、直感的な操作で作ることができる技術です。裏側の処理すらコードを記述する必要がなく、パワポを仕上げる感覚でサービスやアプリが作成できてしまいます。 プログラミングで作るよりも断然早くでき、少人数で制作できるのが魅力です。現段階で、アプリの動作が重かったり、元のサーバーが落ちると連動してアプリも落ちてしまう、といったデメリットはありますが、ノーコードの波はこれから確実に来ると思っています。 ノーコード×ビジネスのオンラインサロンを運営していますが、ノーコードでの開発案件が来たり、最先端の情報が入ってきたり、という環境なのでとても刺激的ですね。 ー今後の展望について教えてください! 今、一番力を入れているのが「No Code Walker」というオンラインサロンの運営です。 このサロンを法人化し、受託案件によって基盤を築いていきたいと考えています。受託した案件を、ツールに熟達したサロンメンバーに還元していきたい。将来的には、自社サービスを展開したいという希望もあります。 サロンメンバーも現在募集しています。 ノーコードを使って、自分が持っているビジネスアイデアを実現したい人、ノーコードという技術を使って稼ぎたい人は、ぜひ一緒にやっていきましょう。個人で経営している塾の生徒も募集しているので、こちらも興味のある方がいらっしゃったらぜひご連絡ください! ー池田さんの仕事観、人生観にとても刺激を受けました。ありがとうございました!   取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆:中原瑞彩(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

落語×教育の授業って?!人から愛される人を育て、人を笑わせる楽しさを伝える落語教育実践家 小幡七海さん

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第254回のゲストとして、落語教育実践家・小幡七海さんをお呼びしました。 「落語」と出会い、様々な体験を通じて自分が本当にやりたいことを導き出した小幡さん。落語の魅力はもちろんのこと、なぜ落語を通じた教育なのかという気になることについてもお伺いしていきました。   自分の好きなことと何かを繋げるのが好き!今の自分が作られた幼少期 ー落語と教育の掛け合わせものすごく面白いアイデアだと思いました。落語に親のない方も多いと思うのですが、小幡さんにとって落語とはどのようなものなのでしょうか。 NHKの番組「超入門!落語 THE MOVIE」では、「落語は想像の世界を楽しむエンターテイメント」と言われていました。皆さんご存知の通り、落語は視覚的にわかるものがないため耳で聞いた話を自分たちの頭の中で描きながら楽しんでいくのですが、それこそが魅力だと感じています!生で聞くと本当にその世界観に引きこまれていくんですよね。私もその一人でした。   ー今のお話をお伺いするだけでも落語を聞いてみたくなりました!そんな落語と小幡さんの出会いについてもお伺いしていきたいですが、幼少期のお話もぜひ聞かせてください。 生まれ育ったところが自然豊かな土地ということもあり、その草原を駆け回っていました!そういう幼少期に、自由奔放に育ててもらったというのも今の自分を作るのに欠かせない要素だったと思います。 あとは、自分の好きなことと何かを繋げるのが好きな子でしたね。具体的なエピソードとしては、小学校の時にクラスに自分が卒業した幼稚園の友達と、その前に通っていた幼稚園の友達がいて、自分が橋渡し役になってその友達同士をつなげたということがありました。母もそのエピソードを覚えていて「あの時は大活躍してたよ〜」と言ってくれたくらいで(笑)そのエピソードが今の自分にもすごく通ずる部分があると思っているんですよね。 ー元気いっぱいの小学生であったことが今のエピソードからもわかりました(笑)小さい頃からクラスの人気者だったんですね。中学生の頃に印象的なエピソードはありましたか? 中学生になっても、大好きな芸人「NON STYLE」のDVDを友達みんなに「みてみて!」と配り歩いていました。そもそもお笑いがとても好きで、中学生の時には相方を見つけて漫才をやったりしていました。ただ、母がお笑い嫌いだったんですが、それでも反対を押し切ってやっていましたね。自分がやっていたのは、漫才なのですがその時に、言葉で人を楽しませる魅力を感じたんです!思えばこれがのちの落語にも繋がっていると思います。   落語の全国大会優勝!その結果を今度は社会へ還元できるように ーここからは大学生のお話をお伺いしたいと思いますが、いよいよ人生のターニングポイントになる「落語」との出会いがあるんですよね。 高校生のエピソードにもあったように、私は当時お笑いが大好きで大学に入ってもお笑いサークルに入る予定だったんです。しかしいざ入学したら、大学にはお笑いサークルはなくて「落語研究会」しかなかったんです(笑)その落語研究会をたまたま覗きに行ったら、吉本に仮所属しているという先輩が落語をしている姿をみて、一気にファンになりました。 「お笑い」は皆さんにとって身近なものだと思うのですが、落語は違って結構難しいイメージを持ってる方も多いと思うんです。でも、全然そんなことなくて子どもでも楽しめるものもあって。こんな面白い世界あるのか…!と私も落語の世界に足を踏み入れました。   ー確かに、落語というとちょっと敷居が高いイメージがある方も多そうですよね。落語の世界に飛び込んだ小幡さんですが、そこで何か印象的なエピソードなどありますか? そんなこともあり、大学生の頃は落語を聞いてくれるおじいちゃんおばあちゃんと仲良くしている日々でした。落語を聞いてもらって、そのあと一緒にお茶を飲みながらそれぞれの人生ログを聞かせてくれるのですが、それはそれは面白くて!一人の人間の教科書を見せていただいている感覚でしたね。その時にふと「これ、教育にいいな」って思ったんです。様々な人の人生を知るということももちろんのこと、若者と高齢者が繋がる場が生まれることも社会的にとても意味があることだなと思って。 お話を聞いて印象的だったのは、昔から服を作る仕事をしていたおばあちゃんの話でした。昔広島で洋服店を家族で営んでいた時に、東京で服を売ってこいと言われてその距離を3日くらいかけて移動したらしんです。3日もかかるので宿泊が必要になるわけですが、そのおばあちゃんは必ず旅館に泊まって、そこに集まっている人にも服を売り捌いていたらしいんです。目的地に行くその道のりでさえ商売の機会にしてしまうと言う話がとっても面白いアイデアだなと思って、こう言う話は普段接している同世代からはなかなか聴けない話でとても意味があると思えたんです。   ーこれはとても素敵な気づきで今の小幡さんの活動にも繋がる出来事でしたね。大学生は落語漬けの毎日だったと思うのですが、その活動はどうでしたか? その通り、落語漬けの毎日を送っていて、結果としては21歳の時に300名くらいが参加する「全日本学生落語選手権」で優勝することができました。学生が行う落語は、自分とどう融合させて落語を披露するかが、どう個性を出すのかが大事な評価のポイントになります。 たまたまその大会の審査員で2年続けて私を決勝に進めてくれた方と後日お話する機会があってその時に「誰よりも楽しんでいた」というフィードバックをいただくことができて、それはものすごく嬉しかったですね。参加した自分としても、自分だけが楽しいだけではなくお客さんとの調和の上で落語を楽しめていた感覚があったので、そう言っていただけたのはとても嬉しいことでした。   ー勝負どころでは「楽しむ」ということより緊張が先行してしまう人が多いと思いますが、その中で楽しめたと言うのは本当に凄いことですね。全国優勝と言う結果でしたが、その後どんな変化が生まれましたか? そのまま落語の道に進むという選択肢もあったと思いますが、自分の中で子どもと関わる仕事に就きたいと言う気持ちにブレはありませんでした。 優勝後に様々な分野で結果を残してきた人が集まるイベントに招待されたのですが、そこで出会う人々はその優勝や一位といった結果を持って、社会で何か成果をあげよう、社会に何か貢献しようとしていることに気がついたんです。その時に私も「このままじゃいけない」と動かされたのが大きかったですね。 そこで思いついたのが、先ほどエピソードの中でもお話ししましたが若者と高齢者の繋がりだと感じたんです。ちょうど、大阪の小学校の先生をやっている方と知り合う機会があり、その先生にその話をしたところ「うちの小学校でやっている!子どもたちが老人ホームで落語を披露する活動をしているんです」と教えてくれました。話を聞いていくうちにこの活動自体の素晴らしさはもちろん、この活動が子どもたちに与える影響も大きいことがわかっていきました。落語を披露することで目の前にいるおじいちゃんおばあちゃんに喜んでもえるという経験を得た子どもたちは、それによって自信が生まれるんですよね。その成功体験を元に、色々なことに挑戦できるようになった子どもや勉強を頑張れるようになった子どもがいると言う話を伺って、これだと思いました。自分も落語を使って子どもたちに何か還元しようと言う決意に変わりました。   人生初の挫折から見えた、私がやりたい本当のこと ーその後、目指した小学校教諭になった小幡さんですが、ここで大きな挫折を味わったということでそのエピソードをお聞かせいただいてもいいでしょうか? 夢だった小学校の先生になったわけですが、それはそれは大変な日々でした。一週間30時間分の授業内容を作成、そしてそれ以外の業務をすることに追われすぎていて、「目の前の子どもを成長させたい」という想いに対しての考える時間が全くありませんでした。もう目の前にある仕事に必死なんです。一人が抱える仕事量があまりにも多いことから、涙が止まらなくなることもあって職員室ではよく泣いていた日々を1年間過ごしていました。結果的には、小学校の先生は一年で辞め、今の道に進むこととなりました。辛かった日々ですが、小学校の先生というお仕事は、約1年間子どもたちの成長を共に過ごせる他に変え難い素敵なお仕事であることを実感していました。 辞めることに対しては、母にすごく反対はされました(笑)でも、目の前を幸せにできないままお金をもらうことは絶対にできないと思ったんです。この経験があったからこそ、自分は誰かを幸せにすることで得られるお金で生きていきたいと思うようになりましたね。   ーそんな日々経て、小幡さんが次に選んだ道はどういうものだったんですか? 花まる学習会の社長と知人を通して出会う機会があったんです。そこで自分がやりたい「落語を通した教育を実践したい」という想いを話すと、たまたま社長も落語好きというのもあり「やってみよう!いいじゃん!」と言ってくれて一気に実現へと走り出すことになりました。なので今は、花まる学習会で教育の勉強をしつつも、落語教育を自分で進めています。 花まる学習会では、改めて子どもとの関わり方を学ばせていただいています。例えば「叱る」と「怒る」の違いについて学び自分が教師だった頃は生徒に怒るしかしていなかったと改めて反省する機会にもなりました。私たちは、子どもの成果だけではなくその頑張った過程も見てあげて、それに対して褒めてあげるということが重要なんですよね。   ーそのように今改めて学校教育を振り返る機会もあるかと思うのですが、客観的に見て思うことなどはありますか? 学校は行政のものなので閉ざされた世界であると改めて思いますね。なので、そこにいかに外部の人が入り込んでいくかというのが重要になってくると思います。やはり一番いいいなと思っているのは「様々な人に出会う」ということです。色々な過程があって今を生きている人たちから、その生き方を学んで人生の選択肢を増やすことがとても重要だと思います。これは、自分が落語を通しておじいちゃんおばあちゃんの人生ログを聞いていたあの経験からも言えることです。なので、学校はひらかれた存在であり様々な人が出会う場であることが望ましいのではと私は考えています。 私も実際に学校に呼ばれて落語を披露することがありますが、それだけではなく自分のキャリアについても話すようにしています。そうやって外部の人が教えてくれることは、先生たちの負担軽減にも繋がると思うんですよね。これも私の過去の経験からですね。 ーまさに小幡さんのこれまでの経験が今に生きている素晴らしいアクションだと思います!今日は貴重なお話をありがとうございました。 取材:増田稜(Twitter) 執筆:後藤田眞季 デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

もっと身近に「木」を感じてほしい!今、私が伝えたい森のこと 森林デザイナー・森本達郎さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第252回目となる今回は、森林デザイナーの森本達郎さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 「木材という資源を身近に感じてほしい」と語る森本さん。森本さんが家業の林業に関わるきっかけになったエピソードや今の世の中の人に伝えたいことを詳しくお伺いしました。 スポーツと街づくりに熱中した学生時代 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 森庄銘木産業株式会社で林業や銘木をはじめとした木材販売をしている森本達郎といいます。 主な事業は林業で、林業とは木を植える、苗をつくる、生えてる木を間伐する、道を作ったりするなど森に携わることのすべてが「林業」と呼ばれています。 もう1つしている生産業の「銘木」とは、建築資材のことです。名木は見た目の木目が綺麗なため、木造住宅で見えるところの柱に使われるものです。 銘木の1つで森庄銘木産業が製造している商品に「磨き丸太」があります。磨き丸太とは、日本伝統産業の1つで床柱などに利用される皮をむいて磨き上げられたスギで、会社がある奈良県の宇陀市の気候が適していて品質のいい丸太が作れるんです。 「林業」と「銘木生産業」、2足の草鞋で経営している会社が森庄銘木産業で、その会社の4代目として修行をしているのが私です。 ー子供時代はどんなお子さんだったかお伺いできますか? 絵に描いたような活発な男の子でした。3つ違いの兄と一緒に野球をしたり、空き地で友達とスポーツをしていましたね。家の近くに会社の工場があり、幼少期から家業と関わる機会が多く、ずっと憧れはありました。 学生になってからは野球と街づくりについての勉強を積極的にしていました。 「街づくり」とは具体的に、現代でいうところの「少子高齢化」を改善することや「地域活性化」のための対策を考えることです。 当時、「少子高齢化」や「地域活性化」が他人事のように感じられず、地域問題を自分に近い課題として認識していました。周りの大人の方々が考えている意見と違った考え方があり、自分なりの方法を模索するために日々勉強をしていました。 地域問題に気づいたきっかけはクラス替えでした。今となってはクラス替えがあることが当たり前ですが、私が住んでいる地域はクラス替えはなかったんです。そのことに気づいたときに地域としての問題や人口が少なくなることの理由を真剣に考えるようになりました。 ー少子高齢化について勉強する一方で、ボランティアにも参加されてるようですがボランティアの活動について詳しくお話いただけますか? 僕は地元を離れて滋賀県草津市の大学で経営学を学んでいました。学部内だけの学びではなく、学校外で地域の方と関わるような活動することで、自分に今できることを考えるような機会が授業としてありました。 その授業の一環でボランティアをしていたんです。例えば、滋賀のお祭りでお祭りの運営や展示物の管理などをしたりしました。 ボランティアでお祭りを手伝うことで、地域の方々との関わりがとても楽しく、勉強になると感じていましたね。 第二の故郷ができたような気分でとても嬉しかったのを覚えています。 家業である林業の難しさとロマン ー大学卒業後の進路について詳しくお話いただけますか? 大学4年生の時には、周りと同じように就活はしていました。金融機関や広告会社などのインターンに行ってましたが、「その会社に入って自分しかできない仕事があるのか」という考えや地元を離れるのが寂しい気持ちから、実家の家業を継ぎたいと思いました。 しかし卒業後いきなり家業を継ぐわけにもいかず、取引先の大手の商社に就職しました。家業にはいつ戻るかは決めてましたし、辞める時期も就職先に伝えてましたね。 就職した商社は扱っている木材が違っていて、家業とは違う部分の知識に繋がり、1度違う会社に就職してよかったと思いました。 ー家業に活かせた知識や家業に戻ってみて思ったことはありますか? まず、家業で使ってる木材と就職先で使っている木材は違っていたんです。就職先は輸入材を使うことが多かったんです。一方家業は日本製のものを取り扱っていました。 扱う資材が違っている中で、家族や家業に対して何ができるかを考えたときに「どんな木に需要があるか」「お客様の提案方法」などを商社で学んで家業に戻ってきました。 実際、家業に戻ってからは価値観の違いで喧嘩が多かったです。元々家族の働く姿に憧れがあり、家業の役に立つために勉強をし戻ってきたのにけんかばかりしていたので、喧嘩のために戻ってきたわけじゃない……と気持ちが沈むこともありました。 林業は自分がしたことの答えが出るまでに40年かかるんです。そのため、今していることが正解かどうかわからない点が難しいですね。 ー林業に対するロマンをお伺いできますか? 木を見上げると歴史を感じるんです。自分が植えた木はどうなっていくかはわからないですが、今向き合うのは先代が植えた木で歴史や林業の壮大さにロマンを感じますね。 身近な小さなことから伝えていきたい、限りある資源 ー木が身近にない方々に伝えたいメッセージはありますか? まず1つは世の中の資源がどう活用されているかを調べてほしいです。木材は限りがあるので代々継承していくべき資源です。今ある資源が私たちの子孫の時には木材が残っているのか考えて欲しいです。 身近な生活の中で、木材と思っていたものが違う物から作られていたり、逆にこの製品は木材で作られていたんだ、と発見があったりします。木材が意外と身近にあることをSNSなどで発信し、多くの方に広めていきたいと思っています。 また、ニュースで土砂崩れのニュースなどをみると、他人事のように思ってる方が多いですが、それは木が減少していることが影響していて、自分の身近に関係があることだと認識してほしいです。 ー最後に森本さんの今後の展望をお伺いできますか? 林業は私だけの力で解決できない問題が多く、林業と親和性が深い業界とも協力して課題解決に向かっていく必要があると思います。課題解決に関して、インターネットなどを通してしっかり訴えていきたいです。 今の子供達が大きくなった時の森がよくなっているように1つ1つ身近なところから変えていきたい思っています。子供に胸を張って渡せるような会社にしていきたいと考えています。 ー本当に今日はあっという間でした!素敵なお話ありがとうございました。今後の森本さんのご活躍楽しみにしています。 執筆:ゆず(Twitter) インタビュー:吉永里美(Twitter/note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

最近読まれた記事