複業を経て看護師からマーケターに転身した半田恵清良が一貫して追い続けている夢とは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第208回目となる今回のゲストは、HeaR株式会社マーケターの「きなこ」こと半田恵清良(はんだえずら)さんです。 半田さんは看護師とアフィリエイト運営や営業代行の複業をし、現在はマーケティングのあれこれを発信する「きなこ」としてTwitterフォロワー1.3万人のインフルエンサーに。一貫して「より多くの人のために」「結果が出るまで粘る」という姿勢を貫いてきたパワフルな半田さんにその姿勢のルーツをお伺いしました。   看護師と個人ビジネスの複業を経てマーケターに   ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 HeaR株式会社でマーケティングを担当している「きなこ」こと半田です。ファーストキャリアは看護師なのですが、看護学生の頃からブログやアフィリエイトなどの個人ビジネスに携わってきました。きなこはTwitterでの名前で、現在フォロワーが1万人以上になっています。今年の5月に今までやってきたマーケティングの話を書いたnoteがバズったのがきっかけでフォロワーが急増しました。 ーHeaR株式会社さんでは現在何をされているんですか? HeaRの新規事業で未経験からでも異業種に転職できるようなキャリア支援を行うサービスを提供していて、そちらのマーケティングやマーケター育成を担当してます。 原点はクリスチャンの両親から学んだ「自分の命は自分だけのものではないこと」 ー半田さんのこれまでをお聞きしていきたいと思います。まず看護系の道に進もうと思った背景をお聞かせください。 敬虔なクリスチャンの両親に影響を受けて、幼い頃から「人を助ける」ことには興味がありました。医療系の道に進もうと思ったのは幼稚園頃だったと思います。人を助ける手段はたくさんありますが、物心ついてから私が特に関心を持ったのが、医療の仕事です。 幼稚園生の時から海外のボランティアなど、貧しい国の人たちを助けることに興味があって、何ができるんだろうと考えたときにパッと思いついたのがお医者さんになることだったんです。結局、医者になるのは諦めましたが、代わりに看護師を目指しました。看護師として人の命を助ける現場に行こうと決めたんです。 ー人を助けることにすごく熱くなれるのには何か理由があるのですか? 両親の影響が大きいと思います。小さい頃から海外でボランティアをされている方の話を聴く機会も多く、途上国の貧しい方達の生活を追ったドキュメンタリーを観ながら「どうしたら力になれるだろう?」という会話もよくしていました。 また、私が生まれる前の1995年の冬に、両親は阪神淡路大震災で被災しています。朝の礼拝に行くため家を出た直後に地震が発生。立っていられないほどの激しい揺れの後、振り返ると家は倒壊していたそうです。 あの時1分でも家を出る時間が遅かったら、私は生まれていませんでした。この話と共に、両親からは常に「自分の命は自分だけのものではない」と教わってきました。 看護師の限界を感じ、複業を始める ーなぜ看護師をしながらビジネスにも挑戦しようと思われたのですか? 看護学校3年生の頃、就職を前にして、看護師の給料や現実を知るようになりました。「このまま看護師になったとしても、やりたいことができるのだろうか?多くの人を助けるにはもっと稼ぐ力、人を集める力が必要なのでは?」と思い、ビジネスの世界に興味を持つようになりました。看護師だけでは救える人数に上限があると感じたんです。 自分で調べたり、お金をかけて失敗したりもしつつ辿り着いたのがアフィリエイトブログの運営です。最初は上手くいかず、鬱っぽくなっている時期もありました。それでもなんとか続け、看護学校を卒業する頃には月10万円くらいは稼げるようになっていました。 看護学校卒業後は看護師として病院に就職しましたが、アフィリエイト運営も続けていました。一時期は、いずれビジネスの世界でやっていくためにもと、営業代行の仕事もしていて死ぬほど忙しかったです。とはいえ、ビジネスは頑張った分だけ成果が上がるものだったので楽しめていました。看護師の世界は、頑張ったらその分報われるものではなかったので。 ーどうしてそれだけストイックに働くことができたんですか? 看護師以外での繋がりが大きかったと思います。副業でビジネスをされている方やフリーランスの方と話をしていると、早く自分もそちら側に行きたいという気持ちになりモチベーションを強く保てました。 ーその繋がりの中からビジネスに誘われたりもあったんですよね。 そうですね。社会人2年目の時に看護師の仕事を週1.5日に減らして、知り合いの起業された方の下で働くことにしました。実は社会人1年目の時から「一緒に働かないか?」誘われていて。 しかし会社は順調とは言えず、入ってみるといきなりの倒産の危機。私は苦手な営業の仕事も頑張って、動き回って、やっと倒産の危機を脱しました。倒産の危機は入る前からわかっていたのですが、ビジネスが軌道に乗ってきた時に、社長が「このままでいい」というマインドになってしまったのが一番ショックでした。 私としてはもっと会社を大きくしたかったし、より多くの人のためになりたかったんです。そこで生まれたすれ違いで、仕事へのモチベーションが下がって鬱々としていました。だんだん細かい憤りが溜まっていって、できただろうことをやらなかったということで社長にキレてしまったこともあります(笑)。 看護師でも複業を始められた理由 ーそれで、会社を辞めてフリーランスになられたんですよね? そうですね。転職を希望していたんですけど、週1.5日看護師をしながら企業で働く形を認めてくれるところがなかなかなくて。「それなら自分で働き方を決めてやる」と思い切ってフリーランスなりました。アフィリエイトや営業代行、前社に新しく入った社員への営業指導などをしていました。 ーそもそも看護師って週1.5日で働けるものなんですか? 前例がないと言われました。社会人1年目でしたし、珍しかったようです。しかし職場も人手不足でしたし、結局、ある程度業務のわかっている人がパートで入ってくれるならいいんじゃないかと認めていただきました。交渉はしてみるものですね。 ーパラレルワークはやっぱり大変ですか? いろんな方がそうおっしゃられるのですが、私としては息抜きになっていいなと思っています。毎日毎日営業とかキュレーションサイトの立ち上げをやっている中、使う脳みそが違う看護の仕事をすることは休息になるんですよね。何かに没頭するのに疲れた時は、別のことに没頭するのが案外良かったりします。 会社を大きくしてより多くの人に貢献したい ーHeaRに入社された理由とどんな経緯で出会われたのかを教えてください。 先ほど前の会社の後輩たちに営業指導をしていたと言いましたが、私が海外に行っている間に彼らが一斉に心を病んでしまって、会社を辞めてしまったんです。 自分に力があれば救えたんじゃないかと思うとすごくショックでした。その出来事がきっかけで自分が稼いで終わるのではなく、大切な人たちを守れるくらい強くなりたいと思うようになりました。 それで自分が成長できる環境に行こうと、Wantedlyを利用してスタートアップで働く場所を探して、その中にHeaRもありました。応募してから面接までの間に送られてきた採用ピッチ資料がきっかけで、面接を受ける前にもう「この会社で働きたい」と強く思うようになっていましたね。 もちろん他の会社の面接も受けたのですが「なんか違うな」と思うところばかりで。HeaRに関しては面接の前からすでに働きたくて仕方がなかったですね。 採用ピッチ資料には、社長が会社を設立した思いやメンバーがHeaRに入社した理由などが書いてありました。それが当時の私には新鮮で、会う前からこんなにオープンにしてくれる会社って初めてだなあと惹きつけられました。極め付けは「アツくても浮かない」というキラーワードです。これには感動しました。当時はずっと熱量の高い仲間と働きたいと思っていたんです。 そして、待ちに待ったカジュアル面談の日が来て社長と話したのですが、とにかくピュアな人なのが第一印象でした。私はこの人のためなら頑張れるという気持ちになったのを覚えています。 ー本当に一貫して人のために頑張れる方なんですね。どうしてそこまで頑張ることができるのでしょうか? 私は、お金を稼いで自分のために使いたいという気持ちはそんなに強くなく、一番の喜びは人が喜ぶのを見ることなんです。これってすごくいいように聞こえるかもしれませんが、結局は自己満足なんですよね。自分の良い行いで他の人が喜んでくれないとちょっと落ち込んだりすることもあるので、傲慢だなと時々思います。幼い頃友達が少なかったり、家庭でも妹の方が可愛がられていたいすることもあって、承認欲求が強くなったのかもしれません。目に見える成果をあげれば私でも認めてもらえる意識は根底にある気がしています。自分が死んでも誰かの心の中に残っていられたらいいなとよく考えますね。 ー半田さんが今後成し遂げたいことを教えてください。 1つは小さい頃からの夢である海外のボランティアです。自分が現地に行ってお手伝いもしてみたいですし、いずれは自分の力で人を派遣して少しでも多くの命を救う手助けがしたいです。 近い未来で言うと、自分のマーケティングスキルをさらに磨き上げて、もっともっとHeaRを大きくしていきたいと考えています。 ただ、ここまで来ると次に起こることが予想できなくて、計画が計画じゃなくなってくるので、自分の想いや感情を大切にしながらその時にビビッと来た道を進みたいです。 ーステキなお話をありがとうございました。半田さんの今後の活躍を楽しみにしています! 取材者:山崎貴大( Twitter) 執筆者:久高諒也(note) デザイナー:五十嵐有沙 :(Twitter)      

鵜ノ澤 直美の人生から紐解く、好きを突き詰めた先に広がる世界とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第219回目となる今回のゲストは、SNSコンサルタントとして企業のマーケティング活動支援に従事しながら、フリーのフォトグラファーとしても活動されている鵜ノ澤 直美さんです。 閉塞感を感じながら生きていた幼少期からバンド活動を始めたことで、世界が広がったという鵜ノ澤さん。幼少期から変わらずに「好きを突き詰める」ことを大切にしてきた鵜ノ澤さんのこれまでの人生とこれからのビジョンについて伺いました。 SNSを通じて憧れの人と繋がれることを経験した少女時代 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 株式会社オプト(以下、オプト)に2015年新卒で入社をし、現在はSNSコンサルタントとして様々な企業のSNS活用支援に従事しています。企業のアカウント運用支援だけではなくテレビや雑誌、ラジオなどでInstagram企画の支援なども行っています。 さらには、ライターとして若年層のSNSの使い方やマーケティングに関する記事を執筆したり、副業でフリーのフォトグラファーとしても活動しています。 ーここから幼少期のことについてお伺いしていきます。小学生、中学生の頃はどんなことに時間を費やしたり、どんなことを楽しみにして過ごされていましたか。 小中一貫校に通っていました。幼稚園からほぼ同じメンバー・同じルーティンの生活だったので、早く閉塞感のあるコミュニティから抜け出し、外に出たいという気持ちからインターネットで誰かと繋がることに楽しさを覚えました。 ソーシャルメディアを通じて音楽好きの人と繋がり、バンドが好きだったことから高校に入ったら軽音部に入りたい、ライブを観にいきたいと外向きの気持ちを強く持つようになっていきました。 ー高校進学のときは、どんな高校に進学されたのでしょうか。 普通科と生活系の学科があり、個性的で自己表現が得意な人が集まる高校でした。 部活動はそこまで活発ではなく、自分たちで部活を作っていくというスタイルでした。そこで私は念願だった軽音部に入部しました。同じクラスの女子4人でバンドを組みましたが、4人ともたまたまASIAN KUNG-FU GENERATION(以下、アジカン)やELLEGARDEN(以下、エルレ)といったバンドが好きで、楽器もドラム・ベース・ギター・ボーカルにバラけていました。 クラス替えがなかったので、3年間この4人でバンド活動をしていましたが、毎日が楽しくて仕方ありませんでした。 ー当時はどんなバンドが好きでしたか。 アジカンやエルレが出始めた頃だったので、それらを聴きながらコピーしたり、自分たちの曲を作りSNSにアップして楽しんでいました。 自分たちのページに音源をアップしたり、公式のアーティストが新曲やインフォメーションをシェアしてライブ情報を共有できる「MySpace」というSNSがあり、曲をアップして様々なアーティストをフォローしたり、「自分たちの演奏を聞いてください」とメッセージを送ったりしていました。 ーMySpaceを使われていたと思いますが、SNSの中での出会いはありましたか。 同年代の音楽好きな方と繋がれたり、好きなバンドをフォローした時にはそのバンドのプロデューサーの方から会ってみないかと連絡をもらったりしました。 連絡をいただいたプロデューサーの方に実際にお会いした時に「同じクラス4人でバンド活動をしているのは売り出し甲斐があるよ」と自分たちのバンドを褒めていただきました。当時はアジカンやエルレを聴いていましたが、そのプロデューサーの影響でより楽しさを感じるようになりました。 ーSNSに自分たちの曲をアップしたり、聴いてもらう機会を作ることは勇気がいりませんでしたか。 私と、バンドの中でギターを担当していた子が積極的なタイプだったこともあり、勢いでやっていた部分はあるものの、勇気は必要でした。曲をアップしていたのは、興味や好奇心と目標を叶えるためという両方の理由がありましたが、どちらかといえば興味や好奇心の方が強かったです。 4人でmixiのコミュニティグループを作り、その中で「こんな歌詞どうだろうか」「スタジオ予約をいつにしよう」と頻繁に連絡をとっていたので、クローズドのコミュニティで発信することは4人とも臆せず出来ていました。Myspaceで公開することはハードルが高かったものの、これもやってみたら楽しそうじゃない?という好奇心から始まりました。 一歩外に踏み出すことで世界が広がるなと思った瞬間で、このことがきっかけでSNSは自分の憧れの人と繋がれる最強のツールだなと思うようになったことを覚えています。 自分自身が何をしたいのか悩んだ時に抱いた「好きを突き詰める」という考え ーその後の音楽活動はどうなったのでしょうか。 高校生の時は下手なりにデビューを目指していたので、デビューを目指してTOKYO FMが主催している閃光ライオット(現:未確認フェスティバル)に応募をしました。 1次審査を通過し、2次審査を控えるタイミングで本格的にデビューに向けて練習をする中で、これからのバンド活動について真剣に考えた時、就職をしたいと思っているバンドメンバーがいたこともあり、バンドを解散することになったんです。 私は音楽活動をしたいというよりも4人で何かをしたいという思いが強く、各々の道を進むことになった時に今後のキャリアについて考えるようになりました。 ー自分自身を見つめ直したときはどんなことを考えていましたか。 バンド活動以外で何をしようかと考えた時に、音楽と同じくらい写真が好きでした。中学生の頃に写真を撮り始め、高校生の時にはバンド活動をしながら個展を開いたり、ギャラリーの人に写真を買ってもらったりしていました。 写真を撮ることは楽しく、より表現したいと思いましたし、その中でも広告写真が好きだったので、そういった方向に進みたいと思いました。 ー中学、高校の時の写真活動はどんなことをしていましたか。 当時、家族共有のカメラで撮った写真をmixiにあげていたのですが、知らない人から「写真いいですね」という言葉をいただいたことで、こんな表現もありなのだと思うようになりました。そして、SNSに投稿したり、ギャラリーで展示を開催することによってコミュニティがさらに広がりました。 写真活動をしているうちに、中高生の部活動を応援したいという大人と出会い、その人たちから「中高生の部活動を応援するウェブマガジンがあるんだけど、部活動をバーチャルで立ち上げてみないか」と言葉をもらいました。さらに、中高生が作る中高生のためのアートマガジンを作ってみたらともお声がけいただき、両方ともに楽しそうでやってみたいと思ったので、ウェブ美術部を立ち上げました。 ウェブ美術部はオンラインでの部活動になるため、部員集めをするためにCamera PeopleというSNSで同世代に一緒に活動しないかとDMを何通も送っていました。 ーコミュニティの線を超えて、新しい人に伝えにいくとか色んな人を巻き込んでいくというのは自分に合わないなと感じたことはなかったですか。 実行することができたのは、好きなものを突き詰めていたからだと思います。 やらなければいけないという思いではなく、好きだからどんどんやっていこうぜくらいの感じで無邪気にやっていた記憶があります。 ーウェブ美術部にそこまでコミットできたエネルギー源を教えてください。 『FARU18』というウェブ美術部を知ってもらいたいというのはありましたが、個人的なモチベーションとしてフリーペーパーやウェブメディアの運営を通じて好きな人にインタビューをしに行けるというのがありました。 『FARU18』ではプロの写真家や絵本作家の酒井駒子さんといった方々にインタビューをさせていただきました。好きな人に会える幸せ、さらには同世代のSNSクリエイターと繋がれる楽しさを感じながらやっていました。 ある社員との出会いで、オプトに入社することを決意 ー大学生活を経験して、どのようなキャリアを選びましたか。 大学3年生の時にIT企業出身のキャリアカウンセラーと出会いました。その方と進路の相談をするうちに、かねてより興味のあった広告業界を目指すことを考え始めました。 就職活動は業界理解の意味も含め、幅広い業種を受け、いくつかの企業から内定をいただいた中でオプトを選びました。 ーオプトに入社を決めた中で、自身が想像していた働いている人物像と実際にお会いした人の印象はどうでしたか。 オプトに初めて行った会社説明会にて、すごく熱い雰囲気を感じました。グループ面談を受けた時に当時2年目でありながら最年少でマネージャーをしている女性社員に出会い、その方が女性としての落ち着きを持ちつつもバリバリ仕事をしている姿、さらには写真が好きという共通の趣味を持ち合わせていたことで一目惚れをしました。そして、「私は彼女のようになりたいです」という思いをその後の面接でも貫き、入社することになりました。 大学受験の時が自分の中では挫折だったと思っていて、学費面で進路をチェンジしたことに自分の中で引っかかっていました。しかし、これが精神的にも経済的にも自立するきっかけになり、将来フリーのフォトグラファーとしてもやっていきたいという目標があったことから、社会人3年目くらいで一人前になれるようなビジネススキルを身につけられる会社を探していました。その時にオプトが候補として上がりました。そして、憧れた先輩が働いていた会社で社会人として最初のスタートを切りたいと思いました。 ーオプトで働いてみて良かったこと、大変だったことを教えてください。 やって良かったことは日々ありますが、SNSの仕事はダイレクトにユーザーと繋がれるので、私たちが支援したことがきっかけでお客さんが商品を購入をし、SNSにレビューを書いてくれるなど企業様との関係性を強く結びつけられたと思う時はやっていて楽しいです。 最高にテンションが上がる瞬間は、自分の仮説で効果を出した時ですね。 逆に大変だったことは、社会人2年目くらいの時に企業様や会社に迷惑がかかる大きな出来事がありました。その時は早くみんなのために役に立って恩返ししなければという気持ちで仕事に取り組んでいました。 ーその失敗をどのようにリカバリーしていったのでしょうか。 企業様はもちろん、営業さんや上長にも迷惑をかけ、数字としても貢献しなければと感じていたので、数字を取り戻すまではオプトをやめられないと思い、恩返ししなければという気持ちでやり続けていました。 多くの失敗をした中で、自分が役立てることは何なのかと洗い出しをしていたタイミングでクライアンド業務が少し減りました。そこで、私は新しいチャレンジができるタイミングだと思い、オプトのオウンドメディア「kakeru」で記事を執筆することにしました。kakeruで記事を書いていくうちにInstagramに関するお問い合わせが増えていくようになりました。 ー最後に、鵜ノ澤さんの今後の展望について教えてください。 SNSコンサルタントとして働きながらフォトグラファーとして活動をしている人がなかなかおらず、ロールモデルがいないので、自分で自分のキャリアを切り拓かなければいけないと思っています。ただ、フォトグラファーとして今後も活動していきたいですし、SNSコンサルタントとしてもSNSマーケティング市場が変わってきている中で、より企業様と顧客の関係性を強く密接に結びつけるようにしていきたいと思っています。 ー鵜ノ澤さんの今後の活躍を期待しています!本日はありがとうございました! 取材者:山崎 貴大(Twitter) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙(Twitter)

家族のカタチを探求し続ける。NPO法人で医療的ケア児支援領域に携わる安野早紀子

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第238回目となる今回のゲストは、NPO法人に新卒で入社し、医療的ケア児の支援領域に携わっている安野早紀子さんです。 京都大学へ入学後、女性起業支援を行う企業でのインターンや、スウェーデン留学を経験してきた安野さん。そんな安野さんがNPO法人に就職し、医療的ケア児の支援をテーマに活動するまでの経緯について伺いました。   母を通じて “女性の社会進出” に関心を持つ ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 今は親子の社会課題を解決する認定NPO法人で、医療的ケア児の支援領域を中心に活動しています。 ーNPO法人への就職に行きついた原点をお伺いしたいです。 母の存在が大きいですね。私の母はもともと小学校の先生で、出産前に一度退職したのですが、非常勤という形で復職しました。 復職してからは担任を受け持つほど忙しかったので、私も家事をするようになって。高校生になり、本格的に勉強に取り組むにあたって家事が重荷に感じ、母に何度も「仕事を休んでほしい」と伝えていました。 年度末のある日、母が生徒や親御さんからたくさんの手紙やお花をもらって帰ってきたので、それを読ませてもらったんです。 すると、生徒や親御さんに必要とされていることを感じる言葉が並んでいました。家では感じなかったですが、母は日々、人の人生に関わっていて、学校では輝いているということを一瞬で突き付けられたようでした。 「休んでほしいという自分の願いは、母のこの素敵な出会いをなくすことだったのか」という申し訳なさで、涙が止まりませんでした。 ー安野さんの中で、きっと葛藤があったのですね。 そうですね。時期を同じくして、高校で「女性の生き方」をテーマとする特別授業がありました。自分が今後働く姿を想像したときに、母の姿が浮かんできて。 家族からは、「お母さんは家にいて当たり前」という向かい風があってもなお、自分の価値を発揮できる場を持っている母を、次第に尊敬するようになりました。 女性の生き方について調べていく中で、我が家だけでなく日本中で同じ問題があることを知り、女性の社会進出というテーマに取り組んでいきたいと思うようになったんです。大学や学部も、その軸で選びました。 ー働き方について考えを深める最初の機会だったんですね。   関心は “男性の家庭進出” へとシフトする ー先ほど、女性の社会進出というテーマを軸に、大学や学部を選んだというお話がありました。進路選択から、大学入学後までのお話をお聞かせください。 女性の社会進出はとても複雑な課題なので、分野を横断してアプローチする必要があると感じていました。 そこで、京都大学の総合人間学部に入り、政策とジェンダー論について学び始めたんです。 ー入学後、何か転機はありましたか? 大学1年生の春休みに、女性の起業を支援する会社で1か月半ほどインターンをして。私にとってその経験は、大きな転機になりました。 社員は社長だけで、女性の起業支援に関する新規事業を作っていくタイミングだったので、社長と一緒にいろんな女性に会いに行き、話を聞きました。 すると、自分のスキルを活かして活躍している女性が思いのほか多くいらっしゃって。「女性の社会進出は進んできているんだな」というのが率直な感想でした。それと同時に、「男性の家庭進出が進みにくい社会構造があるのではないか」と考えるようになったんです。 ーなぜ、男性の家庭進出について考えるようになったのでしょうか? 色んな女性にヒアリングする中で、フルタイムでの仕事は難しいというお話を聞いたのがきっかけです。 当時、奈良にいる女性にヒアリングしていると、奈良の方は大阪や京都に出勤されることが多いという事実を知って。そうなると、より家事や子育てに関わる時間は減りますよね。 子どもが生まれたときに女性が世話をしていると、それが当たり前になってしまって、夫婦間での家事や子育てのバランスを変えづらくなるみたいです。 女性は本当はバリバリ働きたいけど、バランスを変えづらくてフルタイムでは働けない。逆に男性は、県外へ出勤しているので家庭に時間を割けなくなってしまう、という構造ができていました。   スウェーデンで脳裏に焼き付いた暮らしの映像 ー男性の家庭進出に関しては、その後どのように学んでいきましたか? 高校で女性の生き方について調べていた頃、スウェーデンでは男性の家事参加率が高いことを知って。大学生になり、男性の家庭進出について気になり始めたときに、その頃のデータを思い出したんです。 なぜスウェーデンでは男性の家事参加率が高いのか、その数字は本当なのかを自分の目で確かめたいと思ったので、大学3年生で交換留学制度を使い、1年間スウェーデンで暮らしました。 ーすごい行動力ですね。スウェーデンへ行って気づいたことや、感じたことをお聞かせください。 スウェーデンでの家族の在り方は、日本とは違うものでした。 当時いろんな方に紹介していただいて、いくつかの家庭に行かせていただいた中で、気づきがたくさんありました。スウェーデンでは性別によって働き方を区別するわけではなく、それぞれの夫婦で話し合って役割の配分を決めていたんです。 私は少し前まで、50対50など、男女でちょうどいい役割の比率があるのではないかと思っていたのですが、そうではなく、お互いのタイミングを見て「今はこっちが頑張る」とか、話し合って決めることが大事だと知りました。 「私がずっと追いかけていたのは、この話し合う関係性だったのかもしれない」と気づいたんです。 ー安野さんの中で、答えに近いようなものにたどり着いた瞬間ですね。いろんなご家庭へ行ったときに、印象に残っている出来事はありますか? あるご家庭に4日間ほど泊まらせていただいたときに見た風景が、ずっと心に残っています。 料理を作るときはご夫婦で台所に立ち、前菜はお父さん、メイン料理はお母さんが作ったり、休日のお昼ご飯はお父さんが作ったり。些細ではありますが、そういう暮らしの映像が宝物です。 ー他にも当時の気づきがあれば教えてください。 スウェーデンの歴史を学ぶ中で、今のスウェーデンでの暮らしは長年一貫した方針で行ってきた政策の結果であることに気づきました。スウェーデン式だけが正解ではなく、日本には日本のやり方があると思ったんです。 どんな政策を行っても、メリットとデメリットのどちらもありますが、大事なのはメリットが現れるまで続けていくことではないかと考え始めました。   NPOに就職。目で見て、耳で聞いて、心で感じる ー大学卒業後の進路はどのように考えていましたか? 「家族の在り方」に関わる仕事に就きたいと考えていました。関わり方は色々ありますが、その中でも人々の行動に大きな影響を与えられるのは、国の制度だと思ったんです。 ただ、机上の空論になってしまっては良くないですし、自分の目で見たり聞いたりしたいという想いがありました。「 “国の制度” と “生の声” 、2つを行き来できるところはどこかな?」と探しているときに、NPOと出会ったんです。 ー安野さんは「直接聞く」ということを大事にされていますが、それはなぜでしょうか? 聞きに行くと、聞いたこと以上の情報が得られたりするからですね。言葉以外でも、現場でしか感じられない情景があると思うんです。 やり取りを交わすことで生まれる新しい関係とか、新たな道が見えてくるとか……そういう偶然の産物に惹かれているのかもしれません。 ーNPOに入ってみて、ギャップはありましたか? 日々の仕事はまさに思っていた通り、現場と仕組みづくりを行き来するようなことでした。 意外だったのは、財務を重要視していることです。NPO法人と聞くと、お金よりも人助けという印象があるかもしれませんが、助けるにも持続性がないといけないので、永続的に成り立つモデルを目指していることには驚きましたね。 ー良いギャップですね。今されているお仕事についてお聞かせください。 現在の仕事の領域は、医療的ケア児の支援です。医療的ケア児というのは、呼吸や食事などをするために医療的なデバイスを使っていて、そのケアを必要としているお子さんです。 預かるには専門のスタッフが必要だったり、外出が難しいお子さんもいらっしゃったりするので、親御さんが離れる時間をなかなか取れないのが現状です。私はそういったお子さんを、看護師が預かる事業に携わっています。 関われば関わるほど多くの声に触れ、何とかしたいという想いがどんどん湧いてきますね。 ー具体的に、何とかしたいと思うのはどのようなときですか? 現在東京都エリアを中心に活動しているのですが、他の地域の方からも日々お問い合わせをいただいていて。東京以外でも、支援制度を必要としている人はいるということを実感したときに、「何とかしたい」と強く思いますね。 他の地域にも真似してもらえるようなケースを作ることで、「こういうやり方もあるよ」と広めていきたいです。   もう少しだけ、生きやすい世の中に ーいろんな家庭の在り方を見てきた安野さんだからこそお伺いしたいことがあります。夫婦間のパートナーシップを良好に保つには、どうすれば良いのでしょうか? とても難しい質問ですね。まずは自分が今、どういう状況にあるのか知ることが大事だと思います。 自分の感情に無自覚なまま表面的な反応をしてしまうと、通じ合えないと思うんです。なので、表面的な感情の奥にあるニーズを知ることが、第一歩として必要な動きだと思います。 ー自分の感情を知ることは、シンプルですが難しいですよね。自分の感情にアプローチするために、安野さんが普段されていることはありますか? 昔から日記を書いています。人に話すのが苦手だったので、とにかく感情を書き出してきました。 書いてあることを見て、「何でこう思ったんだろう」「何が気になっているんだろう」と深掘りしていくことで、頭の中が整理されるんです。 パートナーシップに限らず、日々の仕事の中で感情が駆け巡ったときは、紙に書き出していますね。 ーすぐに実践できそうですね!最後に、安野さんの今後のビジョンを教えてください。 近い将来としては、現在東京で行っている事業を、他に必要としている地域にも伝えていきたいです。 長期的な目標でいうと、目に見えない生きづらさや、人との関わりづらさについて考え続けていきたいです。私自身、人と関わる中で「親しい関係を築きにくいなあ」と悩むことがあるので。「みんなが暮らしやすくなる仕組みを生み出せたらいいな」と思っています。 そのための1つのプランとして、まずは子どもが安心して育つ場を作りたいですね。 ー安野さんの描いている未来が実現できれば、今よりもっと生きやすい社会になると思うので、今後のご活躍をお祈りしています!本日はありがとうございました。   取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

22歳の世界平和活動家・金田菜々恵「世界平和は、ひとりひとりの心の中に」

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、世界平和活動家・金田菜々恵(かねだ ななえ)さんです。 金田さんは「天才バンク」という約1,200人が参加するオンラインコミュニティの運営メンバーとしても活躍しながら、『世界の平和は、1人1人の心の内側にある』をモットーに世界平和活動家として発信をし続けています。 世界発信向けのTwitterでは世界の52カ国以上、2,500以上のフォロワーと繋がっているんだとか!様々な活動をしている金田さんのこれまでの人生と今後の夢について語っていただきました。 19歳で函館に単身移住!「人生の岐路に立っている感覚がした。」 ー現在に至るまでを伺いたいのですが、どのような幼少期を過ごしてきましたか? 私は3人兄弟の真ん中として生まれ育ちました。上と下が男兄弟だったこともあり、外で遊び回ったり一緒にサッカーをしたりして過ごしていました。兄に食らいついていくガッツがあり、負けず嫌いで活発な女の子だったと思います。 その影響で、学校などでも男友達のほうが遊ぶことが多く、グラウンドでサッカーなどをして遊んでいました。好奇心旺盛なのは昔からですね。 私の祖母がテニスプレイヤーで、その影響でテニスをやっていました。中高ではテニス部でしたね。祖母は、日本代表のシニア選手として80歳になった今でも現役で活躍しています! ーおばあさん、すごい…!中高時代は部活熱心な子だったのでしょうか? 勉強の面でも上位をキープできるよう努力するタイプだったと思います。特に英語は頑張っていました。私の母は英語の先生をしており、私も英語が好きだったので、中高時代の英語のテストや予習復習も熱心に取り組んでいたのを覚えています。 友人の誘いで出場した英語のスピーチコンテストでは中学全体のうち2位に入賞したこともあります!誘ってくれた友人は結局落選してしまい出場できなかったのですが、ネイティブの先生の指導を受け、練習して発音がどんどん上達していくのを感じ、自分の成長を実感できたことが特に楽しかったのを覚えています。 ー素晴らしい経験ですね!その後、大学進学時には大きな転機があったとか…? 19歳の頃、大学受験を浪人生として控えていた夏休み中に弟から「函館に夏期講習を受けにいかない?」と誘われました。函館には父の高校時代の恩師がおり、77歳という高齢ではあるものの小さな塾を経営していたんです。 ちょうど勉強も少し行き詰まっていたタイミングで、ふと何かを変えたい…と思っていたタイミングだったように思います。弟に誘われて1度は断ったものの、行ってみよう!と感覚的に決めて出発しました。 結果、1週間の函館滞在後に東京の予備校を辞め、函館に移り住んで一人暮らしをスタートしながら通い続けることにしました!それほど影響を受けたのが函館の先生でした。 ーその決断をした決め手はどんな出来事だったのでしょうか? これまで学校や予備校ではあまり聞く機会がなかった、大人の方の話を聞けたことが面白かったからです!点数やマルバツのつく評価が自分の能力ではなく、自分自身の本来の能力の見つけ方を教えてくれた“メンター”のような存在でした。それが自分にとってはじめての経験・出会いでした。 その頃の私は、いつか人の役に立ちたい・人の幸せに貢献したい…という思いを持っていました。でも漠然としており、その手段などは見つかっていませんでした。 中高までは、友人と遊んでいるときやテニスをやっているときに能力の伸ばし方なんてそもそも考えていませんでしたし、自分を俯瞰して捉えることもなかったので、「どうしたら、私の能力はもっと伸びていくのか?」と考えるのは新鮮でした。 人の役に立てる人間になるため、まずは実力をつけよう、成長しよう、とはじめて自分の思いや成長することに向き合えた瞬間でした。人生経験を踏まえて様々なことを教えてくれた先生との出会いが、自分が成長する大きなキッカケになりました。 ー19歳で函館に行くことを決断したとき、周囲はどんな反応でしたか? これまでの私の人生において、函館に行くという決断は私が自分だけで決めた最初の大きな決断でした。ただその時、言葉では言い表せない“人生の岐路に立っている感覚”があったのを覚えています。ここで決めないと、選ばないと後悔するくらいなら挑戦してみたい!と思えたんですね。 この決断に、家族も友人も非常に驚いたと思います。父は自分の恩師の元に行く娘の背中を押してくれていましたけれど、母は不安そうでしたし、私が上手に思いを伝えられていない部分もあって反対されることもありました。それでも最終的には、背中を押して応援してくれました。   函館からアメリカへ留学。より厳しい環境を求めて行った先には… ー函館から日本ではなくアメリカの大学へ進学した経緯は? 函館の先生の元で勉強と人生観について学びながら、より多くの人の幸福に貢献できるよう、もっと実力をつけたい…という漠然とした目標はあったものの、明確な手段がまだわかっていませんでした。 そんなとき、先生から「海外という選択肢もあるよ」と言われたことが引っかかったんです。日本の大学よりも単位を取るために厳しいというイメージでしたので、自分自身が鍛えられるような厳しい環境が待ってるかもと感じました。 学問のみではなく、“実践的な学び”がしてみたい!という知的好奇心から、アメリカ・カリフォルニア州へ留学を決意しました。 ー実践的な学びを求めて渡米!アメリカでの生活はいかがでしたか? 日本語は通じないですし、異国の地なので厳しい環境ではあったかなと思います。 ただ、実践的な学びを体験したいという漠然とした期待を抱いてアメリカの大学に進学したものの、その期待を超えるようなものは無かったんです。 結局、成績を取るための学習がメインになってしまい、ふと振り返ると「これって自分がつけたかった能力じゃないよね?」という“これじゃない感”を感じてしまいました。 もっと他の人の役に立つ人間になるために実力をつける手段を見つけに来たのに、あまり自分が鍛えられている実感がせず、これでは違うと気づいてしまったので、渡米してちょうど1年経ったタイミングで日本に戻ろうと決意しました。 ーまた大きな決断ですね!戻ることに迷いはなかったですか? なぜその選択肢をするんだっけ…?という考えの揺れはありました。 ただ最終的に決断への迷いはなかったですね。自分の直感を信じて、“人生の岐路に立たされている感覚”を頼りに決断しました。 また、日本に帰ろうと思えたキッカケとなった「天才バンク」に出会ったのがアメリカで過ごして半年ほど経ったタイミングでした。 ー「天才バンク」とはどんな存在なのでしょう? 「天才バンク」は、”世の中をアップグレードする天才のプラットホーム”です。 私たちの団体は「天才=天から授かった才能」と再定義し、誰もが天才を持つとして活動しています。交流や遊びを通じ、1人1人のメンバーが持つ天才をシェアしていきながら、楽しく自分自身の天才を自覚していきます。 日本では自己肯定感が低い人がよく問題視されることがあると感じます。それはおそらく、何か1つの指標で人を比べてしまい、できない自分の価値を感じられずに悩むことで、自己肯定感が低くなってしまうのでしょう。 ですが、人は持っている才能や得意分野は1人1人違うはずです。それぞれが本来の能力に気づき、その能力を発揮できる場所で自分の価値を感じ、お互いが尊重できる場が大切です。 各自の天才を活かし、世の中を様々な分野からのアプローチでアップグレードしていく活動をしています。現在は10〜80代まで、本当に色々な価値観と天才にあふれる多様性のあるコミュニティになっています!   天才を認め自分の価値に気づけば、自己肯定感は自然と上がっていく! ー金田さんは「天才バンク」にどのように関わっていったのでしょう? アメリカ留学中にたまたまTwitterで存在を知り、「天才バンク寺子屋」という無料オンライン教育コミュニティで、無料でオンライン授業を受講してみることにしたんです。 その後も色々なイベントやコンテンツに触れ、天才バンクの方々とのコミュニケーションを通じて、次第に求めていたのはコレかも!?と感じていきました。 天才バンクの方々を通じて、自分の能力の伸ばし方の実践的な学びがあるとも感じました。 ちなみに、80代のメンバーは私の祖母なんです!私の活動に影響を受け「天才バンク」に入っています。コミュニティ内でニックネームで呼ばれたり、私の出演するニュースに登場したり親しまれている存在です。 ー「天才バンク」を通じて気づいた金田さんの天才とは? 私は、コミュニティ内外で誰かをサポートする姿勢だったり、抽象的なことをまとめることが得意、ということに気づきました。 それまでは息を吸うように自然にやっていたことでしたので、特に大した価値を見いだせておらず、私にとっては”当たり前のこと”でした。 ですが、他人からこの力を「金田さんにしかできないことだね。すごいね!」と言われ、これって誰もが当たり前のようにできることではなかったんだと気づいたのです。 コミュニティメンバーと関る中で、自分のことを知り、天才に気づいていくことができたと思います!すると、「私ってこんな能力がある価値のある存在なんだ」と、自己肯定感も自然と上がっていました! ー天才が見つかる瞬間というものはあるのですか? 一緒に遊んでいるときの何気ない瞬間や、オンラインで交流しているふとした自然体のとき、“その人らしさが出る瞬間”に、天才は見つかると思います。 他人を褒めるときって少し恥ずかしかったり、褒められたことを素直に認めるのも「そんなことないですよ〜」と、日本人は謙遜することが多い印象ですよね。ですが、天才バンクは自分以外の3人から「◯◯さんはココがすごい」と言われたら、その能力を天才として認めましょうとしています。 天才バンクは積極的に色々な能力を持つ天才たちを受け入れて認め合う、他己肯定の姿勢も非常に強いコミュニティなので、自分の天才も見つかる環境なのだと思います。 ー金田さんご自身は、普段から自分の天才をどのように発揮していますか? 現在22歳の私自身は、まだこの天才・能力がどのような場所で伸ばせるのか探している途中です。 そのため、You Tubeでの配信やコミュニティ運営、イベントの企画など色々な行動をする中で何かしらの学びがあるはずだと感じ、積極的に活動に関わるようにしています。 これが何のためになるのか?と頭で先に色々考えず、まずは何でも挑戦してみよう!というマインドですね。 ー天才バンクの活動をしながら、「世界平和」を意識したキッカケとは? 生きている中で、他人と考え方が違ったとき、価値観を否定されたときに喧嘩になったり、衝突して関係性が悪くなることってありますよね。 天才バンクでは1人1人の価値観の違いを受け入れる姿勢を「アート思考」と呼んでおり、世界中に違う人が生きていて、それぞれが違うものの捉え方があることが当然として活動しています。 それぞれの人の世界=“ユニークネス”があると考えたときに、私は「1人1人の持つ“心の世界”が平和だったら、もっと全世界が平和になるだろう」という考えに至りました。 ー金田さんが「心の世界平和」を活動のテーマにした理由は? 例えば、人は恋愛をすると昨日までの世界が明るくなり、失恋すると一気に世界が暗く見えたり人を妬ましく思えたり…同じ場所に暮らしているのに、心の状態で世界は違って見えることがあります。 私自身、自分の人生を振り返ったときに実感したのが、私の人生は喧嘩やネガティブな出来事も少なく、日常生活はすごく幸せなものだったということでした。 この私が心で感じた「平和感」をもっと色々な方に伝えてシェアできたら、人の心が平和だったら、もっと世界は平和になると信じています。そのため私は、『世界の平和は、1人1人の心の内側にある』をモットーに、ひとりひとりの方の心の中に平和を感じていただける活動をしていきたいのです。 ー今後、目指したい姿とは? 私は、まだ世界中に何かを伝えるには無力だと感じています。 心の世界平和を世界中にシェアするには、より多くの方に発信する必要があります。現代ではインターネットを用いれば、全世界に配信することが可能なので、まずは私の存在を知ってもらうことを目標にしています。具体的には、私の発言の影響力をつけていくため、“インフルエンサー”になることを決めています。 世界発信向けに運用開始したTwitterは、1ヶ月でフォロワー1,000人を超え、現在のフォロワーは2,500人以上。世界の52カ国以上の人々と繋がることができました! また、全世界で2億人ものユーザーが登録しているというライブ配信アプリ「BIGO LIVE」では、英語を用いて日本の事を配信しています。 無名な私がいきなり『世界平和活動家』として発信するよりも、まずは皆が関心をもっていることを発信していこうと考え、私の住む日本の文化やトレンドなどを発信しています。 アメリカ留学中もFROM JAPANというだけで興味を持ってくれる方が多く、アニメや漫画、食事のことなど聞かれることもあったくらい、日本は海外の方にとって興味深いようです。 そしてゆくゆくは私という存在をもっと知りたい・私の話を聞きたい!と思ってくれた方々へ、世界平和を感じてもらえるよう、影響力をつけていく活動をしていこうと考えています。 ー素敵な夢とエピソード、ありがとうございました!   取材:吉永里美(Twitter/note) 執筆:MOE デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

「やりたいことをやり続ける」天性の”巻き込み力”をもつN高生起業家・中澤治大の挑戦

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第202回目のゲストは、株式会社Unpacked取締役副社長、株式会社レイテスト代表取締役CEO、Yahoo事業アドバイザーの中澤治大さんです。 現役のN高生にして、起業家の顔も持つ中澤さん。高校生に向けてキャリア支援事業を行う株式会社Unpackedでは取締役副社長として活動し、現在は日本最大級の高校生キャリア支援イベント「U-18 career summit」を計画しています。 アプリ開発を行う株式会社レイテストでは、代表取締役CEOを務めており、その他Yahooでも事業アドバイザーを担うなど、何足もわらじを履いて幅広く活躍しています。 そんな中澤さんに幼少期の家族との関わりやターニングポイントとなった出来事を振り返っていただき、起業家になったきっかけやこれからの展望を伺いました。 自分でゼロイチを生み出していた子供時代 ー本日はよろしくお願いします。まずは簡単に現在のお仕事について教えてください。 高校生に向けたキャリア支援事業をしている株式会社Unpacked取締役副社長と、アプリ開発の会社である株式会社レイテスト代表を務めています。また、yahooのCOOの下で事業アドバイザーという形でコンサルを行なっています。 ーキャリア支援やアプリ開発など多岐にわたる業種ですね。レイテストではどのような事業をしているのですか。 アプリ開発については、MVP(Minimum Viable Product)の制作を専門にしています。MVPとは最小限の機能を搭載した製品のことです。アプリのプロトタイプを作っているというほうがわかりやすいかもしれないですね。その他にも企業のWebページを制作したり、人材業・地方創生業・SNSマーケティング業にも携わっています。 ー高校生という枠組みを超えて活躍されているのですね。現在在籍されているN高と起業部について教えてください。 N高は1万5000人を超える日本最大級の通信制の高校です。その中に起業部という部活があり、選抜された20〜30人が在籍しています。起業部はN高生の中で何か起業をして社会に価値を出したいという人や、もともと起業しているけれどN高というフィールドを使ってもっと上を目指したいという人のハブとして機能しているんです。 ー少し過去のことも伺いたいのですが、小学生時代はどんな子どもだったんですか? 小学生のときは、自分で新しいゲームを作るのが好きでした。両親が基本的に家にいなくて、何かを買ってもらう機会がなかったので自分で作るようになったんです。ポケモンカードも友達は本物を持っていたのですが、僕は紙にポケモンを書いてカードを自作していましたね。 友達と遊ぶときも自分の好きなように遊んでいて、「こういうルールでやろう!」と僕が決めて、クラスや友達を引っ張ってひたすらやりたいことをやりたいようにやっていました。 初めての家出。経営者の父の影響を受けN高へ ー14歳の頃家出されたとのことですが、どのような経緯で家出をされたのですか? 14歳までは神奈川の湘南方面に住んでいたのですが、親の都合で中学3年の受験期真っ只中に東京に引っ越すことになったんです。当然転校することになったのですが、自分の中では学校が変わることは大問題でした。 反抗期だったことや受験期だったことも重なって、親とのすれ違いが起こり、「もう出て行く」と言って家出をしましたね。両親が離婚していたため僕は母と住んでいたのですが、母と住んでいた家から父の家に駆け込んだんです。 ー家出をした当時のことは、やっぱりつらかった思い出となったのでしょうか? むしろ、家出をしたことによって自分の可能性が広がったと思っています。経営者である父の姿を間近で見るようになって、ただ勉強するだけが生きていく道ではないのかもと思い始めました。 N高を勧めてくれたのも父なんです。父はホリエモンさんが好きで、たまたまN高起業部を見つけてきて「N高に行かないか」と言われたんですよ。経営者としての父の背中を見てきたので、直感的にN高に興味を持ちました。 何か自分にもできることがあるのではないか、高校生起業家で1番を取ったらとても面白いかも、と思ってN高に入ったのが人生のターニングポイントになりましたね。 ーお父様の背中はやはり中澤さんにとってカッコよく映っていたのでしょうか? そうですね。父は経営者でありながらITコンサルタントとしても仕事をしているのですが、父もそこまで学歴は高くないんです。大学入学後に頑張ったタイプで、大学在学中に税理士の資格を取ったり、企業と繋がりを作ったりしていたそうなんですよ。 父の昔話を聞いている中で、父のように頑張ることは社会人になってからではなく、高校生の今からでもできるのではないかと思ったんですよね。日々頑張っている父の姿はN高に入ってからの目標にもつながりました。 ー実際に入学してからのN高の印象はどのようなものでしたか? 実はあまり記憶にないんです...…。僕が周りに対してガツガツ話しかけすぎて、周りから受けた印象の記憶がないからだと思います。恥ずかしながら、高校に入ってすぐに金髪にしたりして、起業したいと言いながら大学デビューみたいなことをしちゃったんですよ(笑) 仮入学のときに片っ端から「LINEを交換しよう」と話しかけて、100人ぐらいのLINEグループを作りました。そのおかげである意味自分の通っていた代々木キャンパスでは有名になりましたね。目立てたのは良かったのですが、周りにはなんだこいつと思われた気がします。 ー100人ってすごいですね!そこで目立ったことが今のお仕事に生きていると感じますか? 感じますね。最初に自分が発起して最終的に150人ぐらいのLINEグループになったのですが、自分の力だけでその人数を集めるのは絶対に無理だったと思うんですよ。仲間を作って、その仲間が他に6人ぐらいの仲間を作って、どんどん輪を広げたことでグループの人数が増えていったんです。 ビジネスを始めた当初から、1人で仕事をするのは楽ではあるけど時間がかかるというイメージが持てたのは、そのときの体験からきているのではないかと思います。 ーなるほど。その後はかなり遊んでいたようですが両親に怒られたりはしなかったのでしょうか? 怒られることはなかったですね。父は昔から「自分の好きなことをやれ」という教育方針で僕を育ててくれました。父とは小学生のころ3ヶ月に1度ぐらいのペースで会っていたのですが、久しぶりの再会のはずなのに僕はいつも父のスマホを借りてパズドラばかりしていました。父からすれば色々プランを立ててくれていたはずなのにむしろ、「パズドラ楽しいかー?そりゃあ良かった」と全然怒らず聞いていましたね。 「本当にやりたいことを見つけたときに頑張れる人は昔からやりたいことをやってきた人だ」が父の考え方なんです。普段は「あれもダメこれもダメ」と言われてきたのですが、3ヶ月に1度思い切り自分の好きなことができる環境があったのは良かったですね。 起業家への道が拓けた酪農体験 ー遊んでいた期間を経て、もっと青春したいと感じたと伺ったのですが、具体的に何か行動を起こしていったのでしょうか? はい。N高はキャンパスがビルの一角にあるので、青春風な写真を撮るような「ザ・スクールライフ」みたいなことができなかったのですが、1つ手段があると気付いたんです。 それがN高の職業体験。普通の学校だったら遠足や修学旅行があるじゃないですか。職業体験なら遠足や修学旅行のような体験ができると思いました。いくつか職業体験先はあったのですが、募集が終わっていたため仏教と酪農しか残っていなくて、「北海道に行きたい」という単純な理由で酪農を選びました(笑) ーなるほど。そのようなワクワクとした気持ちで行った酪農体験はいかがでしたか? 青春できると思って行ったのですが、N高の子ってどちらかというとコミュニケーションが苦手な子が多くて、なかなか盛り上がらなかったんです。これじゃダメだと思って、花火大会やスイカ割りを企画して先生に提案したら、すんなり許可してもらえて。 さっそく次の日の夜に実行することになり、なかなか話さなかった子たちも話すようになりました。みんなが1つになって、最終的にすごく仲が深まって楽しいイベントになったんです。 この経験は「自分が周りに何か価値を与えて、状況を変化させていく」のが楽しいことだと気付くきっかけになりましたね。 ー素敵な学びですね!そこからどのようにしてビジネスへとつながっていったのでしょうか? 酪農体験の際に関わった方が「牛のエサの生産地は90%ぐらいアメリカだよ」とおっしゃっていたんです。その言葉が心に残り、酪農家の抱える課題と、もともと僕が持っていた「ビジネスをしたい」という気持ちが重なって、「酪農アプリを作ろう」と思って。そこから僕のビジネスの活動が始まりました。 ーこの酪農アプリはどのようなものなのでしょうか? 酪農の管理システムを促進するアプリです。理想的な牛の脂身の量や肉質にするためのエサと水の量を、現在の牛の状態と理想の状態とをAIで比較して適切な飼育方法を示すことができるんです。 考えるよりもまず行動。熱意で次々とビジネスチャンスをつかむ ー酪農アプリを作るまでの過程はやはり大変でしたか? 大変でしたね。酪農アプリの開発を始めたのはいいのですが、僕は当時ビジネスが全然分からなくて。どうしようかと思ったときに、「とりあえず会社に行く」という選択肢を取りました。今思えば学生団体や起業コミュニティに参加してみるなど色々選択肢があると分かるのですが、当時は何も知らなかったんですよね。 働かせてもらいたいと思う会社に行き、社長が出てくるまで外で待ちました。そして、社長が出てきたら、「N高等学校の中澤治大です。あなたの会社で働かせてください」と言う。13社ぐらい訪問して、その中の2社から連絡を返してもらい、そのうち1社でインターンとして働かせてもらうことになりました。 ーすごい行動力ですね。社長さんから相手にしてもらえなかったりすることもあったと思いますが、怖さやつらさはなかったのでしょうか? あまりなかったですね。僕はコードが書けなかったので、友達のツテを使って大学生のエンジニアを紹介してもらっていたんです。そのエンジニアを雇ったらもう後には引けず、なんとしてでもビジネスを学ばなければならないと思ったんです。 普通の人だったら考えてから動くと思うんですけど、僕の場合は考えても元が0だから分からないんですよ。それだったら動くしかないですよね。だから、冷たくあしらわれてもあまり気にせず次に行こうと思えました。 ー実際にインターンではどのようなことを学びましたか? IT会社で営業をしていたのですが、ビジネスの基礎や、対人スキルを学びました。あと、営業をするにはしっかりとした商材がないと営業にならないことも知りましたね。 この会社ではそのままカスタマーサクセスのマネージャーに昇級し、12月に辞めて今の活動に専念しています。たくさん勉強させていただきましたね。 ーそのように豊富な経験がある中で、改めてなぜ中澤さんは起業にこだわるのでしょうか? 株式会社レイテストは自分が起業したかったというより、自分の動かしているビジネスがあって、それが形になりそうだったから起業したんです。取引先から信頼を得るために個人事業主ではなく、会社としてやった方がメリットがあったので法人化しました。 起業したいという気持ちはN高入学時はありましたが、実は起業当時はそんなになかったんです。ただ、起業をすると「自分のしたいことを自分の好きな仲間とできる」というメリットがありますね。今日も仲間と一緒に鳥取出張に来ているのですが、メンバーの大半は「鳥取に行きたい」という気持ちだけで集まったんです。それぐらいの軽い気持ちで良いんじゃないかなと思っています。 結局世の中って、誰かに対して価値を与えればその対価が返ってくるようにできていますよね。だから、そのために自分にもwinで相手にもwinな活動をすることが「積極的な最高の自己満足」だと思っています。 仕事も結局は「自己満足」だと思っていて。例えば、貧困問題に対して様々な考えがある中で、自分が貧困問題解決したい理由って結局は「自分が貧困問題を解決したいから」に行き着く。それは自己満足にすぎないけれど、このような自己満足でwin-winの関係が重なっていくことが、結果的に社会の利益につながると思っています。 自分が好きだと思った会社、社風、メンバーで好きなことができることが起業の魅力かなと。ワンピースの海賊王になるみたいな感覚ですね。 次世代に知恵を受け継ぎ、恩返しへ ー「次の世代に知恵や学びを繋げていくこと」をお金よりも価値があることだと思われているそうですが、その理由はなんでしょうか? 事業をする中で、社会人にご飯をごちそうになることがすごく多いんです。お礼を言った際に、「ありがとうはいらないよ。代わりに俺が君に教えたことを次の世代に受け継いでほしい。俺はそれを昔の人にしてもらってその中で正しいと思ったものを下の世代に伝えている。それを途切れさせないで受け継いだものを次の世代に受け継いでほしい」と言われたんですよね。 この言葉を聞いて知識や知恵を循環させる仕組みを作りたいと思い、高校生に対してキャリア支援を行う「株社会社Unpacked」を立ち上げました。 ーなるほど。そのように何足もわらじを履いて活躍している中澤さんは普段どのような生活を送っているんですか? 学校は通信コースに切り替えたので、通学する必要はなくなりました。学業との両立は頑張っていますが、けっこう難しいですね。普通に学校に通いながら活動している人はすごいなと思っています。 僕は「これもやりたいあれもやりたい」という気持ちが強すぎるので、毎日学校に通っていたらきっと上手くいかないですね。本当は学校に行きつつ仕事もできるのが理想ですが、企業としては自分のやりたいことをひたすらやり続けていき、それに共感してくれる仲間がいてどんどん成長していくのかなと思っています。 ーそれだけ自分の「やりたいこと」に忠実に生きている中澤さんですが、そもそも好きなことが見つからない人はどうすれば良いのでしょうか? やりたいことがあっても、諦めてしまう人が多いと思うんです。昔はみんな、自分のやりたいことを人に言っていたけど、大人になるにつれ口に出さなくなったのではないでしょうか。 人生には様々なことが溢れている中で、何かやりたいことは必ずある。みんな無意識のうちにやりたいことを落としているのではないでしょうか。 「本当はやりたいけれど諦めていないかな?」と思うものを探して、どう動けば辿り着けるかを逆算していくのが良いと思います。 ー最後に今後のビジョンを教えてください。 今最も力を入れているのが「株式会社Unpacked」での活動で、高校生向けに「U-18 career summit」という日本最大級の18歳以下向けキャリアイベントを行なっています。YMCAや元アリババマーケティング日本社代表の山本さんたちと共に、高校生と企業で社会に価値を提供しようと活動しているところです。 自分が何をやりたいのか分からない人に対して「何か1つやりたいことを見つけて、夢中になることができるフィールド」を提供したいと考えています! ー本日はありがとうございました!中澤さんの今後を応援しています! 取材者:吉永里美(Twitter/note) 執筆者:五十嵐美穂(Twitter/note) 編集者:えるも(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

元WeWork社員の入江那帆が、Power of The Color アーティストとして伝え続けたいコト

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第229回目となる今回のゲストは、“Power of The Color” = 「色が持つ力」をコンセプトに、絵を見た人にひらめきや刺激を与えられるような作品作りを行っている入江那帆さんです。 ホテルの専門学校を卒業後、スイスでの就職、WeWorkへの転職、アートイベントの開催などを経験してきた入江さん。そんな入江さんがアートと出会い、個展やイベントを実施するまでに至った経緯について伺いました。 アメリカ研修を経験し、性格が一変 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 現在はIT企業で働きながら、“Power of The Color”をコンセプト兼アーティスト名として、活動しています。 もともとホテルの専門学校を卒業後、新入社員としてしばらくホテルで働いていました。その後スイスでの就職、WeWorkへの転職を経験し、アーティストとして絵の活動を始め、今に至ります。 ー非常にバラエティ豊かな経歴ですね。ホテルの仕事を辞めてスイスへ行かれたのはなぜでしょうか? ホテルで働いているときに、日本のお客様だけでなく、海外の方もたくさんいらっしゃって。海外の方と接しているうちに、「海外にはどんな仕事があるんだろう」と考えるようになったんです。 海外の求人情報サイトを見ていたときに、たまたま「スイスのハイキングガイド募集」を見つけて。自然も山も好きだし、スイスに行ってみたかったので受けてみよう!と思い応募したところ、無事受かりました。 ーもともと海外への関心は強かったのですか? 英語に関心を持ち始めたのは、中学生の頃です。海外ドラマや海外のYoutuberを見て、「私もあの人たちみたいにしゃべれるようになりたい!」と思ったのがきっかけで。 それから英語を勉強して、高校で外国語専門コースへ進学しました。そのときに初めて1か月間アメリカ研修を経験して、人生が180度変わったんです。 ー1か月でそんなに変わるんですね。 実は私、小中学生の頃はかなりシャイだったんですよ。人見知りで自己表現の方法もわからず、人前に立つのが苦手でした。 日本は相手の言いたいことを察する文化があるのでシャイでもやっていけたのですが、アメリカでは自分の考えを言わないと何も伝わらなくて。 最初は苦労しましたが、自分の意見をしっかり伝えよう、自ら行動しようという意識が芽生え始めたんです。帰国後は、友人に「人が変わったみたい」と言われました。   スイスのハイキングガイドで最大30名をご案内 ースイスでの生活について教えてください。 ハイキングガイドの仕事は夏だけなので、夏はスイス、冬は日本で生活をしていました。スイスではマッターホルンという山のふもとにある、小さな村に住んでいて、ほとんどみんな顔見知りでした。 週6日ペースで毎日お客様を連れて、山でハイキングして。仕事が終わった後は、午後に地元の友達とロッククライミングしたり、1人で山へ行ったりしてました。 ー仕事で大変だったことはありますか? HISやJTBのツアーでいらっしゃる団体のお客様をご案内することが多く、最大30名を1人でガイドするのは少し大変でした。 30名全員をハッピーにするのは難しくて。みなさんに楽しんで帰ってほしいと思っていたので、1人でもハッピーにできない人がいるとつらかったですね。 ーツアーの引率をするうえで、意識していたことを教えてください。 話し方には気をつけていました。ご年配の方も多かったので、言葉選びや話すスピード、話すタイミングには配慮していましたね。 あとは、必ず同じ目線に立つことを意識していました。お子さんだったら座って話したり、ご年配の方だったら少しかがんで話したり。一人ひとりに合った接し方をすることは、ホテル時代も、ツアーガイドでも心がけていたことです。   WeWork Japan CEOとの思いがけない出会い ースイスからの帰国後、どのように過ごしていましたか? スイスから帰ってきて、一般企業への就職や、ホテルへ戻ることは考えていなくて。当時24歳で、漠然と「ワーキングホリデーでオーストラリアへ行こう!」と思っていました。 まずは留学資金を貯めるため、オーストラリアに本店があるレストランで働き始めて。1か月ほど経った頃、担当していたテーブルのお客様から「こういう者です」と名刺を渡されたんです。 その方が実は、WeWork JapanのCEOで……!そのときはもちろん誰かわからなかったです。「WeWorkに来ないか」と誘われたのがきっかけで、転職を決意しました。 ードラマみたいな出会いですね。他にもスタッフがいる中で、どうして入江さんだけにお声がけをされたのでしょうか? 当時私は、お客様がレストランを利用する用途によって提供スピードを変えたり、細かい対応に気をつけていたので、てっきりそこを評価されたのかと思っていました。 WeWorkに入社して数か月ほど経ち、CEOに呼ばれて本当の理由を聞く機会があって。CEOがおっしゃるには、「一人ひとりに合わせた接客はもちろんのこと、チームメンバーへの声のかけ方や、動かし方に魅力を感じた」とのことでした。 ーWeWorkへ転職することに迷いはありませんでしたか? 当時WeWorkはそれほど有名ではなく、共有オフィスも一般的ではなかったので、もちろん迷いはありました。事業内容を聞いても、あまり頭に入ってこなくて。 私が迷っているときに社員の方が、「僕もこれからどうなるかわからないし、会社や事業が日本で成功するかもわからない。今後を保証することはできないけど、だからこそ面白いと思う。きっと人生変わるよ」と言ってくださったんです。 私の人生も今までわからないことだらけでしたし、これから何が起こるかわからないからこそ面白いという考えにすごく共感して。「ここで働こう」と即決しました。 ー社員の方の一言で、考えが変わったんですね。WeWork入社後の仕事内容を教えてください。 私はコミュニティチームにいたので、イベント企画やWeWorkのメンバー様のご対応、ビルの管理などをしていました。 ー働いていて、どんなときに楽しいと感じていましたか? メンバー様とお話しているときが楽しかったです。WeWorkのメンバー様は、スタートアップや大企業、学生さんや年配の方など、勤め先も年齢も違うので、いろんな方とお話できることにひたすらワクワクしましたね。   アーティスト活動の始まりは1枚の絵から ーWeWorkで働いていたときに、何か転機はありましたか? クリエイティブなイメージが強い、原宿の拠点に移動したことで、アートとの出会いがありました。私はもともと絵を描くのが好きだったので、「せっかく原宿に移動するのであれば私も何かやってみたい」と思い、“Power of The Color”というプロジェクトを企画したんです。 “Power of The Color”とは、「色が持つ力」という意味で。誰でもクリエイティビティは持っているから、みんなでクリエイティブなものを作ろうという想いのもと企画しました。 私が絵の下書きをして、メンバー様やお客様に色を塗ってもらって。完成した絵をみなさんにお見せしたところ、かなり好評でした。「私だったらこの部分にこの色を塗ることは思いつかなかったなあ」と、私自身も発見がありましたね。 ー入江さんにとっては、すごく意味のある絵になったんですね。 実はその絵が、アーティストとして活動し始めるきっかけになっていて。あるメンバー様が、オフィスに飾ってあったその絵を見て、「絵を描いてほしい」と言ってくださったんです。誰かのために、商品として絵を描くというのは初めての経験でした。 ー絵を描いてほしいと言われて、どのように感じたか教えてください。 とても嬉しかったです。それと同時に、完全オーダーメイドだったので「期待に応えなきゃ」というプレッシャーもありました。 ただ、絵を描き上げて評価していただけたときは、幸せな気持ちでいっぱいになりましたね。私が提示した金額よりも多くお支払いしてくださって。数か月後、もう1枚追加のオーダーもいただけたんです……! ー心から満足していただけたんですね!そこから絵の活動は広がっていきましたか? はい、どんどん広がっていきました。WeWorkの香港の拠点にギャラリースペースがあるので、そこで個展を開催することになって。初めての個展だったので、どんな絵を描いているアーティストか知っていただくために、いろんなタイプの絵を描きました。 ギャラリーはガラス張りで道路に面していて。立ち止まって外から絵を見て、中に入ってくれる方もいたので、とても嬉しかったです。 ー反響が目に見えてわかったんですね。個展開催後はどのような活動をしていますか? 現在、オンラインストアでスマートフォンケースを販売中です。iPadで絵を描いて、その絵をスマートフォンケースに印刷しています。 ーインスピレーションはどこから沸くのか、教えてください。 実は描き始めは何も見えていないんです。下書きせずに描き始めているうちに、どんどん付け足したり、削ったりして。途中から、「こういう方向で行こう」と思い始めます。   色が持つ力を伝え続けていきたい ーホテルやWeWorkで働いたり、アーティスト活動をしたりと、いろんなご経験をされている入江さんが、日々大切にしている考えを教えてください。 目の前にいる一人ひとりと向き合うことですね。ホテルのお客様やWeWorkのメンバー様、絵をオーダーしてくれた方など、それぞれの方と向き合って、「自分が今お話しているのはこの人なんだ」という意識を持つようにしています。 ー入江さんは一貫してポジティブな印象を受けますが、落ち込むこともありますか? もちろん上手くいかなくて落ち込むこともたくさんあります。ただ、落ち込んだときは「これは別に悪いことじゃない。今は下がっているときじゃない」と思うようにしているんです。 人生のターニングポイントを、プラスやマイナスで表したりしますよね。私自身がマイナスだと思えばどこまででもマイナスになりますし、つらくてもプラスだと思えばプラスに転じていくと思うんです。人生は自分次第でどうにでもなると思っています。 ーその考えが、きっと自信にもつながっているんですね。今後、どのような活動を予定しているか教えてください。 2022年ごろ、また個展を開催する予定です。F40という、横1m・縦80.3㎝の大きなキャンバスで、10~15枚ほどの作品を作りたいと思っています。 ー1枚を完成させるのに、どれくらいの期間がかかりますか? 絵を描くこと以外にやらなければいけないことがあるときは、1か月ほどかかります。ただ完全にゾーンに入ると、3日で終わることもありますね。自分でも不思議です。 ゾーンに入っているときは食べることも寝ることも頭にないので、3日間ひたすら描き続けています。 ーすごい集中力ですね……!最後に、入江さんの今後の目標を教えてください。 目標は2つあって。1つは、もともと企業に勤めて仕事をすることが大好きなので、今勤めてる会社でキャリアアップすることです。 もう1つは、“Power of The Color”を会社として形にすることです。デザインやアートに関連するイベントやプロジェクトをどんどんやっていきたいですね。 ー「アート」をキーワードにいろんな活動を企画している入江さんの、今後のご活躍をお祈りしています!本日はありがとうございました。   取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

やりたいことがなくても大丈夫?やってみたいことを積み重ねてきた大門史果のこれまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第225回はZaPASS株式会社でインターン生としてご活躍中の大門史果(だいもん・ふみか)さんです。 今年アメリカのDePauw Universityを卒業された大門さん。教育やコーチングへの興味からZaPASS JAPAN株式会社でインターンをスタートされ、2021年4月からは新卒入社も決まっているそうです。ZaPASS Netherlandsの立ち上げに向け、今年の秋よりオランダにも移住をされた大門さんのこれまでについてお伺いしました! オランダからのリモートインターン中 ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします。 2020年にアメリカのインディアナ州にあるDePauw Universityを卒業しました、大門史果です。現在は2021年4月に入社することが決まっているZaPASS JAPAN株式会社でインターンとして働いています。また、先月から拠点をオランダに移し、現在はオランダでリモートで働いています。 ーこのコロナ禍ではありますが、オランダに移住されたのですね! はい。もともとZaPASS JAPANのメンバーの2人がオランダ在住でリモートで仕事されており、私も行ってみたいと相談したところ実現しました。ZaPASS JAPANではコーチング事業を行っているのですが、オランダではコーチングが様々な場面で取り入れられているんです。ちょうどZaPASS Netherlandsを立ち上げようとしているタイミングだったこともあり、オランダ移住が実現しました。 ーオランダでの生活はいかがですか。 日本との時差が8時間あり、常に時差でミーティングがあったりするのが日本での生活との大きな違いですかね。日本からメールが返ってこない時間が生まれるので逆に仕事に集中して取り組むことができ、心に余裕が確保できている気がします。 とはいっても、オランダもコロナで街がロックダウンしているので、まだまだオランダは体感できていないことに歯痒さも感じています。オランダの教育やコーチングの文化などをはやく外に出て自分の目で見たいです!   決断する時の判断軸は周りからどう見られるかだった ー少し過去に遡って大門さんについてもお聞かせください。どのような幼少期を過ごされていましたか。 千葉県で生まれ、高校卒業までは千葉県で育ちました。外では優等生キャラ、家族や仲の良い一部の友人には感情をすぐに出してしまうわがままな小学生でしたね。小学1年生の頃、仲の良かった友人によくわがままを言っていたので「そんなにわがままなことばっかり言ってたら友達いなくなるよ」と言われたのを覚えています。また、中学1年生の頃にも、仲の良かった友人に八つ当たりしてしまったことがあり、その後すごく反省したこともありました。いずれの出来事も、感情を自分できちんとコントロールできるようになろうと思ったきっかけになっています。 ー今の大門さんの落ち着きさからは想定できないですね…!そんな大門さんが海外大学に進学を決められたのは何がきっかけだったのでしょうか。 中学受験をして千葉県の中高一貫の私立に進学したのですが、身近な働く女性がほとんどいなかったので働くことに対するイメージが持てず、当時の夢は、大学を卒業したら丸の内OLになり、結婚を機に寿退社することでした(笑) そんな感じだったので高校2年の夏に進路について考える必要が出てきたときにどの学部にいきたいのか全く分からず…将来の夢が決まれば、行きたい学部も決まるかなと思い、自主的に「将来の夢を決めようキャンペーン」を開催して、様々な説明会に足を運んでみることにしました。 その中で留学や英語に興味があったので参加したのが海外進学説明会でした。本当は日本の大学での交換留学をイメージして説明会に参加したのですが、話を聞いてみると正規留学の説明会でした(笑)でもその説明会で話されている人たちがみんなかっこよくて。リベラルアーツという教育システムを採用している大学がアメリカにはあることや、入試のプロセスも全てオンラインで、自分でもできるんじゃないかと思い始め、海外進学を目指すようになりました。 ー思い切った決断をされたのですね。 正直なところ、日本の大学受験勉強が辛くて、勉強に対するモチベーションが保てず海外進学に逃げたという面もありました。アメリカの大学を受験するのであれば英語だけを勉強しておけばいいという気持ちがあり…アメリカの大学の入試プロセスでは高校の成績やエッセイ、推薦書などが中心なので日本の大学よりも受験勉強に対する気持ち的負担がすごく少なく済んだんです。 高校時代も私はずっと優等生であることを目指しており、周りからどう思われるか、どう見られるをまだまだ重視していました。アメリカの大学へ進学をするということは単純に周りから「すごいね」と言ってもらえるという期待もあったんだと思います。   アメリカとデンマークで過ごした大学時代 ーとはいえ、渡米することに対して不安はありませんでしたか。 今振り返ると、「何かを変えたい」という無意識的な感情が、拠点を変える原動力になっていたのだと思います。日本からアメリカに行った時も、自分で選んだ優等生というラベルに、窮屈さを感じて、優等生でいなくてもいい場所を求めていたのかな、と。一度大きく踏み切ったことで、移動することへの抵抗も少なくなって、デンマークに留学したり、オランダに移住を決めたりと、楽しめるようになりました。 周りからは大きな決断と思われることが多いですが、私の中では住む国を変えることはあまり大きな決断という感覚がなくなってきていていて。それは自分の強みだな、と最近気づくことができました。 ーアメリカの大学での生活はいかがでしたか。 大学で今まで出会ったことのないタイプの友人ができたことが今の自分に大きな影響を与えてくれました。その友人は音楽が好きな子だったのですが、自分で作曲し、ピアノを弾き、歌い、iTunesに曲を載せてしまうような子でした。私からしたら周りからどう思われるか分からないリスキーなことを、人の目を気にすることなく自分が面白いと思ったら行動できる力を持っていたんです。そんな友人を見て、自分は何がやりたいのだろう、やりたいことをやっていきたいと思うようになりました。 ーそんな中、デンマーク留学はなぜ決められたのでしょうか。 大学がすごい田舎で飽きた、というのが正直な理由です(笑)大学の周りにはトウモロコシ畑しかなく、車もなかったのでどこにも遊びに行けなかったんです。たまたま私の大学は留学制度が充実していたということもあり、デンマークに半年間留学することにしました。 デンマークではホームステイ先に恵まれ、勉強詰めで忙しいアメリカでの日々と違い、ゆとりのある生活を送ることができました。デンマークでは家族の時間を大切にする文化があり、ホームステイ先も家族全員でご飯を食べるなど家族団欒の時間を大切にしていました。デンマークでの日々は、もっと家族の時間を大切にしよう、もっと気持ち的にも時間的にもゆとりを持つようにしようと思うきっかけになりました。 ーその後、卒業後の進路について考える時期に入ったかと思いますが、進路についてはどのように考えられていましたか。 高校時代と違い、働くことに対してのイメージは持てるようになっていたのですが、大変なことをやるのが仕事だと思っていました。というのもパンが好きだったので高校卒業後にパン屋さんでバイトしたことがあったのですが、憧れの仕事だったものの、とても大変で仕事が楽しいとは思えなかったんです。 そういった経緯もあり、楽しい仕事はないと思っていたのですが、大学2年の時に滋賀県で行われた中高生向けの3泊4日のサマーキャンプにメンターとして参加したことで仕事に対するイメージが変わりました。「地域を知る・自分を知る」をテーマとしたキャンプだったのですが地元で働かれている方のお話を聞いたり、一緒にお仕事をさせていただく中で仕事に誇りを持っている方、地域や周囲の人たちのことを考えて行動されている方に出会うことができました。また、メンターとしてサマーキャンプの運営に夢中になっている自分に気づき、楽しいと思えることが仕事にもなるのだとわかったことが私の仕事観を変えてくれました。   コーチングの世界へ。ZaPaSS JAPANで描くこれから ーZaPaSS JAPANにはどのように出会われたのでしょうか。 大学の夏季休暇の間、日本に一時帰国しインターンをしていたのですが、そのインターン先の上司がたまたまZaPASS JAPANの創業者でした。大学で教育学を勉強したり、サマーキャンプでメンターをしたりする中でコーチングについて興味を持っていることをその方に話したところZaPASS JAPANのコーチ養成講座を勧めてもらいました。 ーコーチ養成講座はいかがでしたか。 コーチ養成講座を通して、私はそれまで聞き上手だと思っていたのですが、ただ聞き上手に見せるのがうまかったということに気づきました。というのも、本当に聞き上手な方は、ただ相槌をうったりするのではなく、相手に100%自分の意識を向けられるんです。私は周りに良い人と思われたかったから話を聞くのが上手に見せていただけだったんですよね… 外に向けていた良い顔の自分に気づき、その自分の中にはもっと違う自分がいるのかもと初めて考えるようになる良い経験となりました。 ーそこからZaPASS JAPANに入社を決めた理由は何だったのでしょうか。 「ZaPASS JAPANらしさとは」について社員の方と話す機会があったのですが、その時に「未来が楽しみな子どもたちのために」というビジョン達成に向けて、将来的には教育事業をやりたいよねという話がありました。大学で教育学を学ぶ中で、様々な教育システムが世界にはあるものの、いろんな人がいる中で全員にとってぴったりな教育というものはないなと感じることが多くありました。じゃあ自分はどんな教育を実現させたいのかと考えるようになったのですが、理想の教育を探すためにも、少し教育から離れたところで経験を積みたいと思っていたんです。私はコーチングの「答えは自分の中にある」という考えに惹かれ、ZaPASS JAPANに関わっていましたが、今後ZaPASS JAPANで教育事業にも取り組めたら理想だなとその時思いました。 実は他の会社さんに内定もいただいていたのですが、ZaPASS JAPANであればやりたいことができると思い、ZaPASS JAPANに入社したいとお伝えしました。 ーそういった経緯があったのですね。来年4月に正式に入社されるとのことでまだまだこれからかと思いますが、最後に今後の目標などがあれば教えてください! 自分のやりたいことを諦めない強さを持ちたいなと思っています。ZaPaSS JAPANの社員の皆さんは「AかBどっち?」と聞かれても、「Cはないの?」や「AとB両方!」と答えるような方が多いんです。やりたいと思ったことに妥協せず、自分のやりたいことを実現しようとする強い思いをみなさん持たれているんですよね。 高校時代は周りからの目を気にして自分という軸で何かを決めたことがなく、やりたいことが何か分からず苦労しました。大学に進学してから少しずつやりたいことではなくやってみたいことを探すことで自分のハードルを下げることができ、やってみたいことを挑戦して経験を積み重ねていくようになりました。そうやって積み重ねてきた小さな決断のおかげで自分らしい決断をできるようになってきたと思います。自分らしさを大切に、やってみたいことに貪欲に、そしてやりたいと思ったことは諦めないということを自分の軸に、4月からも頑張っていきたいです。 取材者:あおきくみこ(note/Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

吃音と共に生き、コーチングで吃音者の就職支援を。大手通信会社人事・古川遼さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第220回目となる今回のゲストは、大手通信会社で人事として働いている古川遼さんです。 人事としての業務以外に、コーチングや吃音者への就業支援も行っている古川さん。そんな古川さんが、「キャリア支援」や「コーチング」に目を向けるようになった経緯について伺いました。 吃音と向き合い、共に生きることを決意 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 現在、通信会社で人事を担当していて、業務領域は大きく2つに分けられます。1つは人事ガバナンスの領域で、グループ会社の人事が働きやすくなる仕組みづくりをすることです。もう1つは、海外からグループ会社へ来る従業員の受け入れプロジェクトを担当しています。 その他にも、複業として若手に対するコーチングと、吃音者への就業支援を行っていて。「人事」や「就業支援」を軸に、日々生活を送っています。 ー今の生活に至るまでに、古川さんがどのような人生を歩んできたのかお聞かせください。子ども時代はどのように過ごしてきましたか? 私の人生では、「吃音」というキーワードがあって。小学生の頃から、吃音という障害に悩まされていました。 吃音のきっかけは、小学校1年生で童話の『大きなカブ』を音読しているときに、ワンフレーズが出てこなかったことです。それから吃音が始まって、友達からからかわれたり、周りの人と自分を比べたりしてしまって。 みんなが当たり前にできる「話す」という行為ができないことが、私の中ではコンプレックスになっていました。吃音と一緒に苦楽を共にした子供時代でしたね。 ー吃音は、一生付き合っていく障害なのでしょうか? 個人差はあると思いますが、それくらいの覚悟で過ごしています。何をするにしても人との会話は必要不可欠な中で、「伝えたい言葉が急に出なくなったらどうしよう」という不安は常に付きまとっていて。 特に学生の頃は日々のストレスが大きく、「毎日が来なければいいのに」と思った時期もありました。おそらく完治はしないだろうと思ってるので、今後どうやって吃音と上手く付き合っていくかにフォーカスしてます。 ー学生時代のストレスはどのように解消していましたか? 家族からすごく愛されていて。おじいちゃんやおばあちゃん、両親、妹に支えてもらい、勇気づけてもらいながら生きていました。 ーご家族にかけてもらった印象的な言葉はありますか? お母さんの「そんなに頑張らへんでもいいよ」という言葉が印象に残っています。その一言で、肩の荷が下りました。自分のできる範囲で頑張ろうという気持ちになれたんです。   シンガポールでのインターンを経て、学生団体を設立 ー学生時代、他に印象に残っている出来事はありますか? 大学時代にインターンをしたことが強く記憶に残っています。もともと吃音について研究したいと思って大学へ入学し、アイセックという学生団体に所属していて。そこで知り合った方にシンガポールのインターンプログラムを紹介していただいて、休学してシンガポールで働くことになったんです。 会社には社長と私の2名しかいなかったので、一からいろんな考え方を教えてもらいました。「もっとわがままに自分の人生を生きていいんだ」と気づかせてもらえたんです。シンガポールでのインターンは私にとって学びの連続でしたし、人生の転機となりました。 ーどうしてシンガポールでインターンをするという決断ができたのですか? 就職活動が始まる大学3年生の頃、今後について焦りが出始めたことがきっかけです。面接中に言葉が出てこないことがあり、このままじゃやばい……という危機感が募りました。 何かに挑戦しないと、自分が思い描いている人生は歩めないんじゃないかな、という不安が大きかったんです。もともと海外にはずっと行きたいと思っていたのもあり、シンガポールへ行くことを決断しました。 ー帰国後はどのように過ごされていましたか? シンガポールで知り合った京都市の方と、帰国後も仲良くさせていただいていて。その方から、京都市の課題について相談されたことがきっかけで、学生団体を設立しました。 京都には留学生がたくさん来るけど、住み続ける人はいなくてみんな結局帰ってしまう、という課題がありました。「もっと京都に愛着を持ってもらえるように支援する団体を作らないか」と提案されたので、やってみようと思ったんです。 ー具体的にどんなことをされていましたか? 活動内容は大きく分けて2つありました。1つは、Facebookグループの運営です。京都へ来た留学生の方々のノウハウをどんどん蓄積してシェアしていました。 もう1つは、オフラインコミュニティの運営です。3か月に1回ペースで大きなイベントを開催していました。毎回ゲストを呼んで、留学生向けに京都の特徴をお話してもらい、逆に留学生からは意見をもらって、京都市の副市長に伝えていましたね。 私自身、シンガポールへ行ったときに知り合いが1人もいなくて、優秀な方とつながりたいけど、どのようにつながればいいかわからず困っていて。毎年留学生が来ているのであれば、現地のノウハウがもっと明文化されているべきじゃないかと思っていたんです。その経験をもとに、活動内容を決めました。   営業への配属希望が通らず、人事配属に ー大学卒業後のお話を聞かせてください。 卒業後は大手通信会社へ入社しました。その会社がちょうど新しいことを始めるタイミングで、若手にもチャンスが与えられる環境だったこともあり、入社を決めたんです。当時は営業職を希望していましたが、結果人事に配属されました。 ーどうして営業をしたかったのですか? 理由は2つあります。1つは、数字が作りやすく一番昇進しやすい部署だと思ったからです。数字で自分の成果がわかり、幸せにしたい人が明確な状況に魅力を感じました。 もう1つは、営業のスキルは将来活かせると思ったからです。当時なんとなく、吃音の仕組みを社会に伝えたいと考えていて。自社サービスを魅力的に伝える営業スキルは、吃音について相手に伝えるうえで役立つと思ったんです。 ー部署選びの際も、「吃音」がキーワードになっていたんですね。人事に配属されたときはどう思いましたか? 人事の業務内容が想像できなかったので、今後どうなるんだろうという不安が大きかったです。ただ、今振り返ると会社の裁量で適した部署を選んでもらい、自分の可能性を広げてもらえたので良かったなと思います。   吃音の理解者が1人でも増えるように ー働いている中で、人生の転機はありましたか? 去年の7~8月頃にコーチングと出会い、それから自分のやりたいことが明確になりました。 「人事としての業務に活かすことができて、かつ人生が豊かになるようなスキルはないかな?」と調べていたときに、たまたま大学時代の同期にコーチングを紹介してもらって。どんどん興味が湧いてきて、3か月間コーチングの講座を受けることになりました。 ーなぜコーチングに惹かれたのか、教えてください。 自分のゴールが明確になることが、コーチングの良いところだと思っていて。誰かに話をすることで考えが整理されるし、新しい自分と出会えることがコーチングの魅力だと思っています。 ー現在はコーチングをどのように活かしていますか? NPO法人どーもわーくで、コーチングを通じて吃音者の就業支援を行っています。社会に出ると、吃音という言葉自体が認知されていなことに気づいて。そんな社会を変えたいと思いつつ、今私ができることは障害を持った方々を支援することだと思ったので、就業支援を始めました。 コーチングとして質問をすることで、価値観や考えをどんどん変えていくことを重視していて。何かを教えるというよりは、自分の姿を再認識して自己内省してもらうよう意識しています。コーチングによって自分を認めてあげることができて、自己肯定感が高まると良いですよね。 ー吃音に限らず、自己肯定感が低い方はたくさんいると思います。古川さんがどのように自信をつけてきたのか教えてください。 京都大学に受かったことがきっかけで自信がつき、徐々にスラスラと話せるようになりました。成功体験を積むことで、「自分は吃音が出るけどこういう良いところがある」というポイントを1つでも見つけられてから、コミュニケーションが取りやすくなりましたね。 自己肯定感が低い方は、成功体験を積んで自信をつけるということが大事です。私は昔と比べると、日々話せているだけで成功していて。そういう些細な成功体験でも十分だと思います。 ー「キャリア支援」や「コーチング」という軸がある中で、古川さんが今後やっていきたいことはありますか? 社会に対して吃音の理解を深めていきたいです。また、個人が尊重され違いを活かして力を発揮できる社会になるよう、ダイバーシティ&インクルージョンを推進していきたいと思っています。 実は、社会や組織を変えるアプローチとして、イギリスの大学院で組織心理学を学び、組織コンサルタントとして働きたいと考えていて、今はその準備中です! ー最後に、アンダー29世代へのメッセージをいただきたいです! 日々5分でいいので、自分の良いところに目を向ける時間を取ってほしいな、と思います。自分という存在を認めてあげて、日々前を向いて生きていきたいですね。 ー一貫性のあるキャリアを築いてきた古川さんの、今後のご活躍を楽しみにしています!本日はありがとうございました。   取材者:えるも(Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

”夢は学者起業家”「東大生アイディアマン」connect space 五百籏頭アレンの挑戦

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第234回目のゲストは、connect space代表の五百籏頭アレン(いおきべあれん)さんです。 現在東京大学2年生の五百籏頭さんは、コロナによる自粛生活中、友人と参加したビジネスコンテストでYJcapital賞を受賞。その後もビジネスアイディアがSONYとの共同開発プロジェクトに採択され援助を受けることとなり、起業を決意。 天性のひらめきとリーダーシップで「connect space」をまとめる五百籏頭アレンさんの根源に迫りました。 誰よりも自由を謳歌した麻布高校時代 ー本日はよろしくお願いします。まずは自己紹介と、代表を務めるconnect spaceについて教えてください! 東京大学経済学部の2年生で、将来は学問と実践の場を繋ぐ学者起業家を目指しています。 connect spaceの活動は8月の終わりから始め、今はEdTech(エドテック)と呼ばれる教育とテクノロジーを組み合わせた分野で、塾向けの事業を行っているところです。 提供しているサービスの内容は、生徒一人ひとりをAIで診断し、それぞれの学習スタイルや精神状況を分析して最適な指導法を提案するもの。 初めて塾で指導するアルバイトでもconnect spaceを見れば生徒にマッチした指導ができるようになります。講師と生徒の信頼関係を作ることから指導まで一貫してサポートできるサービスです。 ーそんな五百籏頭さんは幼少期どのような子どもだったのでしょうか? 早生まれで同級生に比べて成長が遅く、運動も勉強もできない子どもでした。 自分に自信がなくていつも部屋の隅っこにいましたね。小学校3年生くらいまで引っ込み思案な性格でした。 ーそこから自信をつけたきっかけは? 今まで何もできなかったのですが、スキーをやってみたら意外とできたことですね。 初めて「自分にも何かできるものがあるんだ」と思えた瞬間でしたね!勉強も継続したらだんだんできるようになって。中学受験でも第一志望の麻布中学校に合格できました! ーすごい!超進学校ですね!その後の中学・高校時代はどのように過ごしていたのですか? 基本的に中学・高校は部活動漬けでした。3つの部活動に所属していましたね。テニスとオーケストラとスキーの3つ。日替わりで好きなところに行っていました。 テニスとかオーケストラは結構練習がハードだったので兼部は反対されていたのですが、両立していました。高校2年生くらいまでは部活動に専念する日々でしたね。 ー部活動に集中していたとのことですが、麻布高校は進学校ですよね?勉強はどのような感じだったのでしょうか? 麻布は進学校なのですが、ただのガリ勉はスクールカースト内での評価が低いんです。 今思えば自分でも本当にしょうもないなと思うのですが、麻布生独特のノリで、試験3日前くらいにみんなで六本木に行くんですよ。遊んでいるのに勉強もできるのがかっこいいと思っている人たちなんです(笑) だから、家に帰ったら一夜漬けで試験範囲を仕上げていました。いかに勉強で友達を出し抜くかみたいな文化がありましたね。 やると決めたらとことんやり切る ーそこから2年間部活動をして、東京大学に合格したわけですよね。部活動が終わってからは受験勉強に集中していたのでしょうか? そうですね。1年くらいは腰を据えて勉強しました。 僕に限らず、大抵部活動の後はだらけてしまう人が多いと思うのですが、僕の場合は受験の1年程前からしっかりと勉強を始められましたね。塾に通ってコツコツと正攻法で受験勉強を行ないました! ー切り替えが上手なんですね!そこからスムーズに学力は上がったのでしょうか? 実はそうではなくて.....。12月の終わりくらいにE判定を出してしまって。これではまずいと思って勉強法を全て見直したんです。 暗記法や集中法を調べまくり、どうすれば暗記力や集中力が上がるのかを知って、ルーティンを作ったりしましたね。 暗記もただ教科書を読むだけではなく、人に授業をする形に変えました。そのようにして根本的に勉強法を見直し、なんとか受験に間に合わせたんです。 ー無事に大学に合格し、起業するまではどのような大学生活を送っていたのでしょうか? ぶっちゃけると、1年生の頃は何も考えずに遊んでいましたね(笑) コロナが流行し始めてからは自粛することになり、遊びの予定が全て無くなって暇になったんです。 暇になったので、いろいろな本を読んでいたら、「インプットの能力が最も高い年齢が18歳」だと知りました。その事実に「あーもう俺は終わってるんだ」と思いましたね......。 そこで、「インプットする能力が落ちないうちに学んでおかなければ」と強い危機感を感じました。 また、コロナのような誰しもが時間を持て余す時期に能力の差がつくとも思いましたね。 今この時期に頑張らないと周りから置いていかれる。逆に、ここで効率よく頑張れば、自分の強みができるのではないかと。 そこからインプットが始まりました。インプットだけではダメだから、友達3人で学びの共有を始めたんです。各人が本やネットで得た学びをアウトプットし、それに対してフィードバックをし合いました。 ピンチをチャンスに。起業家への道を歩む ーコロナ期間に成長しようと思われたのですね!そこから起業に向かったきっかけは? 麻布時代の友達とビジネスコンテストに出場したのですが、そこで受賞して投資家の人と知り合うことができました。 その後学校で、プロジェクトアイディアを出すだけで単位がもらえる授業があって。1年生の頃遊んでいて単位が足りていなかったので迷わず履修しました(笑)そこでアイディアを出したら採択されて。プロジェクトとして開発資金を援助してもらえることになり、本格的に事業を行なうことになったんです。 実際に塾で導入したいと言ってもらえるようになり、契約するのは個人ではなく法人でなければいけないので、起業することになりました! ー実際にサービスを導入したいという声が上がったようですが、アイディアからスタートし、導入に至るまでのプロセスはどのようなものだったのでしょうか? アイディアしかない状態だったので、まずは顧客の声を聞かなければと思いました。ビジネスで一番大事なことは「誰のどのような課題を解決するか」。 顧客インタビューをしようと思い、知り合いから塾の先生を紹介してもらい、そこからまた紹介をしてもらってと数珠つなぎで人脈が広がり、その中で出会った人に導入したいと言ってもらえたのが最初です。 ーまさに今回のサービスは誰のどのような課題を解決するものなのでしょうか? 「大学生のコーチングの質が悪い」という課題です。塾の大学生アルバイトの採用は結構適当で、学歴採用が多いんです。講師不足でしっかりとした基準で採用ができておらず、生徒のモチベーションの低下や退塾に繋がるんですよね。 コーチングの質の低さには「生徒の学習状況や精神状況を把握できていないこと」が考えられるので、それを解決するのがこのサービスです。 ーこのサービスに至るまでどのような過程があったのでしょうか? 実は事業の内容を3回ほど変えているんです。 1つ目は学生向けのオンライン自習室。しかし、継続して使われなくて。最初は面白がって来てくれるんですが。「人が来ない」、「お金が発生しない」という問題が生じてやめました。みんなオンラインの自習室にお金を払わないんです。それではビジネスとして成り立たないですよね。 2つ目は社会人の資格試験のサポート。学生はお金を払わないけれど、社会人ならお金を払ってくれるのではないかと思ったんです。ですが、大人だから集まらなくても自分なりに勉強できるため、このサービスもダメでした。 その後は、ゲームの要素を取り入れることになり、勉強時間の合計をチームでバトルするサービスを作ましたが、結局頓挫してしまいましたね。 ー紆余曲折を経て現在に至ったと思いますが、起業してから挫折したことはありますか? たくさんありますよ!やはりアイディアが潰れたときはショックでした。 ビジネスコンテストでは「オンライン自習室」のアイディアで賞を取ったので、「やったー!これでビジネスができる!」と思っていたんです。中国でもオンライン自習室で成功している企業があったので。 しかし、やってみてうまくいかないことが発覚しました。そのときはとてもショックでしたね。真実に目を向けられなかった......。今となってはアイディアが潰れることには慣れたのですが。 ー期待が大きかっただけに、ショックですよね......。そこから立ち上がったきっかけは? 確かにショックだったのですが、たくさん学びがあったのでなんとか立ち上がれました。 「大学生はお金を払わない」ことや、「継続的に使い続けてもらうための仕組みが死ぬほど大事」ということが学べたので、その学びを次に生かしたいと思えましたね。 その学びを生かしてまたアウトプットしたいと感じ、新しいアイディアが生まれました。失敗するときに大事なのが、学んでいる実感があるかどうか。それが少しでもあればまた立ち上がれると思います。 ーとっても前向きですね!現在サービスを仮説検証中だと思いますが、サービスを通じて最終的にどのようなことを実現したいと考えているのでしょうか? 生徒が主体的に学べるようになることを望んでいます。自ら学びを楽しんでもらうことがコンセプトです。そのためにはアダプティブラーニングを進める必要があると思っています。 生徒によって学習状況や理解度が全然違うのに、学校や塾では一斉の画一的な授業が行われている。本当は1人ひとりの生徒に特化した最適な教育を提供することが大事なんです。AIやアルゴリズムでアダプティブラーニングを可能にし、誰もが最高のコーチに出会える社会を実現していきたいです。 誰よりも思考し、個と向き合うリーダーへ ー壮大な目標ですね!事業を行なう中でチームビルディングが不可欠だと思いますが、どのようにして行なっているのですか? 元々メンバー全員が知り合いというわけではなかったので、まずは1on1で僕と仲良くなり、その後はチーム全体で信頼関係を作れるようにしました。 実際にミーティングの終わりに「この中で僕の好きなタイプはどれでしょう?」といったお互いに関するクイズを出し合ったりしました。答えられなかった人には罰ゲームを科したり。 あとは各分野に責任者を置いて、1つの分野を任せて裁量を持たせる。 具体的な指示を出さず、達成したい目標だけを伝えて、試行錯誤してもらうのです。それに対して僕がフィードバックをします。1つの分野をまるごと任せることで、担当者に責任感が生まれるんですよね。 ー大学生は単調な毎日を過ごしがちですが、五百籏頭さんのように高い意識を持つにはどうすれば良いのでしょうか? 意識の高い友達を「インプットはただインプットするだけでなく、アウトプットすることでよりインプットできるんだ」と説得して巻き込み、学びの共有を始めるなど意識を高く保つ仕組みを作りました。 あとは寝る前のルーティンで日記を書いてるのですが、何も書くことがないとショックなんですよね。「あれ?俺今日1日何してたの?」みたいな。 1日が1つの人生だと思っているので、何も書くことがないとその日1日を生きていない感覚になるんです。そんな日があると、明日は頑張ろうという気持ちになりますね。毎日3行くらいしか書きませんが、自分を振り返る時間があることが大事だと思います! ー今日から私もやってみますね!最後にU-29世代に何かメッセージをお願いします! とにかくユニークに生きましょう!(笑)遊び心が人生を豊かにすると思っているので、遊び心を持ってユニークに生きる人が増えたら楽しい社会になると思います。 だからみんな自分が楽しいと思うことをどんどんやって、何かしらの形でアウトプットしてほしいなと思います! ー本日はありがとうございました!五百籏頭さんのさらなる活躍を期待しております! 取材者:えるも(Twitter) 執筆者:五十嵐美穂(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

公務員志望から学生フリーランスに!島内未来が描く数奇なミライ

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第230回目となる今回のゲストは、ライター・グラフィックレコーダー・イラストレーターなど学生フリーランスとして幅広く活躍する島内未来(しまうちみく)さんです。 秋田県出身、現在は山形大学に通う島内さん。元々は公務員志望だったところ、静岡県下田市での偶然の出会いをきっかけに、学生フリーランスとしての道を歩むことに。そんな「数奇なミライ」を描く今の島内さんがあるのは、紛れもなく「出会い」を大切にしているからでした。 人の「在り方」の違いを知った幼少期 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 山形大学3年(取材当時)の島内未来です。学業の傍ら、学生フリーランスとしてライター・グラフィックレコーダー・イラストレーターなどの仕事をしています。 ー幅広く活動されているんですね!新型コロナウイルス感染拡大の影響はありましたか? ありましたね。授業もオンラインで、居酒屋のバイトもしばらくお休みになっていました。私は誰かと話すことで気分が乗る人なので、会話が少ない日々は辛かったですね。 ー「話すこと」が島内さんのキーワードなのかもしれませんね。では過去に遡って伺いますが、幼少期に印象に残った出来事などあれば教えてください。 幼稚園の頃、いつも女の子3人で過ごしていて、すごく仲が良かったんです。でもある日、私以外の2人が仲良くなりすぎて、私だけがハブられるようになりました。でも不思議と、そのことに対して何とも思わなかったんですよね。 ーどうしてですか? 「新しい友達を探せばいい」と思ったからです。人とは関わっていたいと思う一方で、気を遣いながら付き合うくらいなら離れた方がいい。だったら、”今”一人になることを恐れず、”次の”友達を探した方がいいと考えたわけです。今思うと、自由を好むのは昔からだったのかもしれません。 ー幼稚園の頃から、人間関係に対して自分の考えを持っていたのはすごいですね。そんな島内さんが、「人間関係」を強く意識するようになったのはいつですか? 小学生のときですね。当時の友達と未だに関係性が続いており、仲良くなった経緯がとても印象的でした。 ー詳しく教えてください。 陸上部に所属していて、キャプテンも務めていました。そうなると、自分にもチームメイトにも結果を求めてしまうわけですよ。幸い私は100m×4リレーのメンバーに選ばれ、一方で選出されなかったメンバーも当然いるわけです。「なんで皆頑張らないんだろう?」と思ってしまったのですが、ある時「陸上部に入っている動機はそれぞれ違う」と気付かされたんです。私みたいに結果を求める人もいれば、運動への苦手意識を克服するために入った人もいる。それ以降、目の前の人の気持ちや想いに気を配れるようになり、陸上の実力は抜きにしてチームメイトと仲良くなっていきました。 ー「人それぞれ」ということを、その時実感されたのですね。 はい。それをきっかけに、いい意味で人を見る目が変わったような気がします。 周囲との差を痛感し、種目を変えて地区優勝 ーそれだけ人間関係を大事にされていたなら、他にも色んなことを任されていたんじゃないですか? ちょうど同じ時期に学級委員も務めていましたが、その役割を果たしきれず、自分自身が情けなくなってしました。仲良しとはいえ陸上部のキャプテンも大変でしたし、キャプテンと学級委員両方の重圧で、大泣きしてしまったこともありましたね。 ー必要以上のものを背負ってしまっていたのですね。 はい。友達には相談することができず、一人で抱え込んでいたのですが、思い切って先生に相談してみると一気に気持ちが晴れていきました。 ー先生はどんなことを言ってくれたのですか? 「思ったことを口にする前に、一度文章として紙に書いてみなさい」と言ってくれました。そうすることで、私自身も気持ちの整理ができたし、先生にも本当の気持ちを伝えることができた気がします。また、先生も私の心情を理解してくれたようで、「コップ(自分の器)から水(やるべきことや責任)が溢れてしまってるんだね」と、私が無理をしていることに気付かせてくれました。それを機に、自分のペース配分やリソース配分を考えるようになり、今にもつながっている気がしますね。 ー先生は島内さんにとって大きな存在だったのですね。 本当にそう思います。 さらに、先生が私と同学年の子を紹介してくれたんですね。それも、私と性格が正反対な子を。最初は乗り気じゃなかったのですが、「信頼している先生が紹介してくれるなら」と話してみることにしたんです。すると、正反対だったからか、お互いの悩みを察することができたり、気兼ねなく相談しあえたりと、一気に距離が縮まりました。その子とは、今でも帰省するたびに連絡を取っています。 ー先生の目は本当にすごいですね。陸上はその後も続けられたのですか? 中学まで続けましたが、小学校のときとは状況が一変しました。 ーと言いますと? 正直、中学でも陸上をやろうとは思っていなかったのですが、入りたい部活が他になく、「体力づくりにもなるしまたやってもいいかな」くらいの気持ちで入部しました。また、私の中学校が陸上の強豪で、リレーメンバーには私よりもずば抜けて早い人が揃っていたので、いわゆる控えメンバーという立ち位置だったんです。この状況、小学校の時と真逆なんですよね。 ー確かに…。 結果を自分にも他人にも求めるメンバーと、別のモチベーションがある自分と。最初はあまり気にしないようにしていたのですが、次第に上位メンバーとの溝が大きくなり、ついには陰口を言われるようになってしまいました。 ー小学校時代に島内さんが作ったチームとは逆の雰囲気ですね…。その状況をどのように乗り越えたのですか? 自分が活躍できる種目を探そうとしていた時に、試しに走り幅跳びをやってみたら面白かったんですよ。ある程度飛べるのがわかったし、選手も少なかったので走り幅跳びに種目を変えることにしました。同じタイミングで、スポーツジムのオーナーを務める父の友人が指導してくれることになって、そこから一年間は休みなくトレーニングに励みました。その結果、地区大会で優勝できるまでになりました。 ー種目変更の決断も、たゆまぬ努力も素晴らしいです! リレーで活躍できていない時は、正直陸上を辞めることも考えていましたが、諦めずに挑戦して良かったですね。余談ですが、地区優勝した後に「枠が空いてるぞ」とリレーメンバーの一人が走り幅跳びに参入してきて、結局同じ種目で競うことになりました(笑)。 偶然の出会いを経て気付いた「幸福の尺度」 ー地元秋田を離れ、山形大学に進学。これは志望通りの選択だったのですか? いえ、大学も専攻も元々の志望とは違っていました。受験勉強にあまり熱が入らず、結果的にランクを落としての進学だったので、最初は正直コンプレックスはありましたね。 ー3年生が終わりに近づく今、その気持ちに変化はありますか? 今は「これはこれでアリだな」と感じています。かつ、自分が色んなことにトライできているので、「大学の知名度などは特に気にしなくてもよかったな」とも思いますね。 ーでは、その「トライ」のきっかけとなった出来事について聞かせてください。2019~2020年の年末年始に、静岡県下田市に行かれたんですよね。 はい、大学に下田出身の友達がいて、その縁で下田の旅館でリゾートバイトをすることになったんです。初めての下田であり、初めて家族と離れて過ごすお正月でした。 ー初めて尽くしの年末年始ですね。 そうですね。バイトが休みの日に、観光がてら色んなお店に入ったり街歩きをしていたのですが、途中で疲れちゃったんですね。そこで、座れる場所を探していたら、たまたまLivingAnywhere Commons伊豆下田(以下、LAC伊豆下田)という施設が目に入り、「ご自由にどうぞ」と書かれていたので中に入ってみることに。そこに座っていたのが、U-29メンバーでもある角田尭史(すみだたかし)さんでした。 ーなんという出会い方! 角田さんは機材をガチャガチャいじっていて、その時は「この人YouTuberなのかな?」と思っていました(笑)。私も、遠慮なく話しかけてたり、たまたま持っていたどら焼きをあげたりしたので、お互いに「なんだコイツ?」と思っていたでしょうね(笑)。 ー想像するだけで面白いですね(笑)。 そこから、私の専攻や下田に来た理由、今後やりたいことなどを聞いてくれて、次の日にLAC伊豆下田のコミュニティマネージャーを務める梅田直樹さんに会わせてもらうことになりました。 ー急展開!そこではどんな話をしたんですか? その時すでに一週間くらい滞在して、下田のことを少しだけ理解し始めていた頃でした。そこで、「こんな課題がある気がします」「下田でこんなことをやれたらいいな」ということを話してみると、「じゃあやってみようよ」と言ってくれたんです。とんとん拍子で進みすぎて最初は理解が追い付きませんでしたが、そこで「また来たい」と思わせてくれました。 ー初めて会ったにもかかわらず、挑戦を後押ししてくれたんですね! はい。まず、大学の春休みのうち2週間を使って、梅田さんが勤めるVILLAGE INC.という会社でインターンをすることに。社員さんや地域の方から話を聞き、インタビュー記事を作成するという、いわゆる発信活動をさせてもらいました。 ーその2週間を経て、下田のどのようなところに魅力を感じましたか? 「人」ですね。飲食店に一人で行ったりもしたのですが、店主さんが積極的に話しかけてくれるんです。街の歴史や魅力、その人自身のプライベートなことなど、本当にたくさん話してくれて。また、隣にいるお客さんのことも紹介してくれたりして、アットホームな雰囲気に魅了されました。 ー素敵な出会いに恵まれていますね。 ありがたい限りです。そうやって、人と交流することで「共有」できることがたくさん生まれ、それを近くの人に話すことで自分も温かい気持ちになれる。下田で過ごした中での大きな発見でしたね。   発信活動で全国各地に「出会い」をもたらす ー下田で2週間過ごした後は、山形に戻られたんですよね。 戻りはしたのですが、下田からお土産を持って帰ることになりました。 ーお土産? はい。角田さんが当時務めていたFromToという会社で、オンラインでインターンをやることになったんです。移住支援サービスを運営する会社で、「地域で活動したい」という私のやりたいことともマッチしたので、角田さんから誘ってもらって実現しました。 ーインターン中に次のインターンが決まったんですね! そういうことです!後から聞いた話ですが、先にインターンをしたVILLAGE INC.の社員さんが、「みくちゃんのやりたいことは、FromToさんの方が実現しやすい」と角田さんに進言してくださったそうです。 ー裏で先輩たちが動いてくださったのですね。ライターから始まり、今ではグラフィックレコーダー、イラストレーターと幅広く活動されていますが、学生フリーランスとして印象に残っている出来事があれば教えてください。 再び下田を訪れた2020年9月末のこと。それはたまたまU-29メンバー数名が同じタイミングで下田に居て、かつ下田で知り合った人とまた会いたいと思ったためで、最初はほぼ遊び目的でした。でも、せっかく下田に行くにしても、何か理由が欲しいと思い、「下田でイラストワークショップをやろう」と決めたんです。 ー思い切った行動ですね!どうしてそういう発想に至ったのですか? まずワークショップを選んだ理由から。私自身、「LivingAnywhere Commonsなどのワーケーション施設を回りながら仕事をする」という目標があるのですが、そのためには人を巻き込んでいく必要があると考えました。かつ、人をつなげてもらって今の私がいるので、今度は「つながりを求めている人に機会提供する立場になりたい」と思ったんです。その練習として「下田でワークショップを開催する」という選択に至りました。 ーつながりを作る側に回りたい、ということですね。 そうですね。また、イラストを選択したのも、参加者の共通言語になりえると思ったからです。「はじめまして」だけだとなかなか打ち解けられないけど、イラストがあれば「そんな風に書くんだ」「面白い感性をしているね」など会話が膨らむじゃないですか。人をつなげるという目的があったため、その会話の入口になるようにと選びましたね。 ー確かに、イラストは人の内面が表れるし、会話も盛り上がりそうですね。開催してみてどうでしたか? 私自身がすごく楽しめました。皆さんが楽しそうに描いていたので安心しましたし、会話も弾んで仲良くなっていたので、「イラストをやっててよかったな」と思わせてもらいました。 ーイラストを通じて「人をつなげる」という目的が達成されたのですね。最後に、今後の目標などを教えてください。 全国のワーケーション施設を回りながら、「人」の魅力を発信するような活動をしたいと考えています。地域の魅力を知るには、まずは「人」の魅力を知ることからだとわかったので、そこを私が担えたらいいなと思います。その手段として文章やイラストなどがありますが、様々な方法で発信活動にトライしたいですね。 島内さんのSNSはこちら Twitter https://twitter.com/mm_shimachan Instagram https://www.instagram.com/foodart_mm/    https://www.instagram.com/graphicrecording_mm/ note https://note.com/gumi3939/ ______________ 取材者:吉永里美(Twitter/note) 執筆者:角田尭史(Twitter/note/Instagram) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

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