幸せになる方法を発信したい!僕がTikTokerになるまで TikToker・ひろとさん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第265回目となる今回は、TikToker・ひろとさんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 現在、若くしてTikTokで大活躍されているひろとさん。そんなひろとさんがTikTokに出会うまで、そして半生について詳しくお伺いしました。 「雇われずにお金を稼ぐ」の第1歩を踏み出す ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 僕は現在22歳で2020年1月からTikTokを始めて、今50万フォロワーまでのばすことができました。また、YouTubeでも恋愛心理学の発信をしており、たくさんの方にみていただいています。 起業家メンタリストと名乗っていて、動画クリエイターとしてだけではなく、事業を立ち上げつつ、情報の発信もしています。現在は個人で経営をしていましたが、売り上げなどもあがってきているので2021年に法人化して経営をしたいと思っています。 ーTikTokやYouTubeを運営しながら、企業のSNS運用代行もしてるとのことでお忙しい日々だと思いますが、1日はどのようなスケジュールで生活されてるのですか? ほとんど家で仕事をしていますね。元々僕が家で働きたいと思っているのと家でできる仕事ばかりしているので、朝から晩まで動画の編集やYouTube、TikTokの運営をしています。 また、空いた時間でコンサルの事業をしているんです。週7勤務ですが、YouTubeやTikTokは半分趣味なのであまり負担にはなっていないですね。 ーそれではさっそくひろとさんの生い立ちや過去について詳しくお伺いしていきたいと思います。 学生時代は思ったことをすぐに口に出してしまったり友達と喧嘩してしまうことが原因で、先生に怒られることが多かったです。ただ、真面目な反面もあり、勉強や習い事をたくさんしてました。 その後、高校も大学も受験をしたので、半分くらいは受験勉強の学生生活でしたね。元々は名古屋の出身で、大学進学時に神奈川に上京していきました。 ー今、人前に出たり喋ったりすることが多いと思いますが、幼少期から人前に出ることは得意だったのでしょうか? いえ、逆に人前に出ることは苦手な方でした。TikTokを始めた当初も今からすると拙い動画で恥かしいなと思いますね(笑) また、高校入ってはじめてスマートフォンを持ったのですが、LINEしかやっておらず、YouTubeやSNSに疎かったです。大学進学してから、Twitterを始めてYouTubeやSNSに深く関わるようになりました。 ー大学に進学してから、今の分野に興味を持たれたのですね!今の大学を選んだきっかけや実際の大学生活について詳しくお伺いできますか? まず、大学選びの基準は得意だった理系の大学を選んだことと上京するために両親を説得させるために偏差値が高い大学を選んだことが今の大学を選んだきっかけですね。 大学進学してからはまずバイトをはじめました。高校生の時にアルバイトをしたことがなかったので1度経験してみたいと思っていました。元々、アルバイト自体が自分に合わないと感じていたこともあり2ヶ月くらいでやめてしまいましたね。その後、イベンターのような紹介をするとある程度自分にお金としてバックがあるような仕事をはじめました。イベンターの仕事が「雇われずにお金を稼ぐ」の第1歩だったと思います。 「雇われずにお金を稼ぐこと」を選んだ理由は、自分の時給の上がり具合です。アルバイトの場合は頑張っても1年で時給が50円ほどでしたが、イベンターの仕事をしてからは頑張った分だけ大きく時給が上がったことに魅力を感じたことです。 1年間で、アルバイトやイベンターの仕事、遊びなどを通して、次のステップに進みたいと思いました。大学1年生の時から明確にしたいことが決まっていたわけではありませんが、将来を見据えて行動してましたね。 初めての起業。ブログでのノウハウが今に繋がる ー大学2年生はどのような生活をされてたのでしょうか? イベント業ではなく、もっとビジネスよりな事業をして大きなお金を動かしたいと思っていたんです。大学2年生の夏頃から、受験生向けのブログの運営で初めての事業を始めました。 ブログの運営を通して、「物を売るとはどうゆうことか?」やマーケティング術を学ぶことができたので、現在のTikTokにつながってると思います。 受験生向けのブログから今のTikTokに事業を移行した理由は、今後の事業展開を考えてが大きかったです。将来、今している事業に需要がなくなってしまった時に他の事業に生かすことが難しく、自分の経験にしかならないと感じました。今後の今展開している事業の需要がなくなってしまったあとも「自分自身」に価値が出るような事業をしていきたいと思いました。その点を踏まえ、顔出しをしての活動に推移していきました。 ー将来を見据えての決断だったのですね。実際にTikTokを始めようと思った時にどのように活動スタイルを決めていったのでしょうか? 自分の得意なことと当時興味のあった心理学の分野で始めたいと思いました。恋愛系心理学を配信しているTikTokerはたくさんいたので、まわりとの差別化のために「恋愛系を配信しない心理学」の配信を始めました。 大学1年生の時に身につけたSNSのマーケティングの知識もあったので、ノウハウを生かすことができました。 その後、心理学系の配信をしている中で、試験的に恋愛心理学を配信したところすごく人気が出たので、世の中の需要に沿った「恋愛系心理学」の分野で配信をすることになったんです。 ーTikTokやYouTubeの運営、さらにコンサル業も大学に通いながら運営されていたとのことですが、休学をしようと思ったきっかけはありますか? 大学2年生の秋に休学をしたのですが、雇われずに稼ぐことは不可能ではないことに気づいたことが休学の決め手ですね。 両立もできる環境ではあったのですが、自分の時間の3割を学校の時間に当てていたため、将来学歴を使って就職をしないのであれば、学校の時間をビジネスに使いたいと思いました。 将来に必要なことだけ挑戦すればいい。幸せになるために必要なこと ーひろとさんが辛かった出来事や辛かった時期はありますか? TikTokを始めて軌道に乗るまでが1番辛かったです。TikTokのフォロワー数が増えてきたので、受験系のブログをやめてTikTok1本に絞って事業を展開していました。その後すぐに新型コロナウイルスの影響でなかなかTikTokの真似タイムが難しく、ブログの時に貯めた貯金を切り崩して生活をしていたんです。 ギリギリの生活になってしまっていた緊張感が辛かったですね。 自分が1つのことをやりはじめると没頭してしまうタイプなので、TikTokを始めてからはブログをすぐにやめてしまいましたが、今まで運営ししている事業を切るタイミングなど学ぶことはありました。 ーその後、YouTubeも始められたと思いますがなにかきっかけはあったのでしょうか? 1つはTikTokでつながれないような方との人脈を広げるためですね。あとは、このTikTokで万が一うまく行かなかった時のために他の道を用意しておきたいのも理由の1つでした。 新型コロナウイルスの影響もあったため、インターネット業界は後押しされた側ではありますが、働き方を考えるいい機会になっていたと思います。 ー現在はコンサルティングをされているようですが、始めたきっかけについてお伺いできますか? 2020年からコンサル業をはじめていました。コンサル業はTikTokを始めた時からしたいと思っていて、自分で運営だけではなく他の人のコンサルをすることでさらに事業を発展させることができると思いました。 コンサルの需要はとても高くて、現在月20人ペースでコンサルをしていますね。 ー今、将来に迷われてる方にかけたい言葉はありますか? 「したくないことから逃げちゃだめ」と言われることが多いと思いますが、自分の将来に必要ないことはしなくていいと僕は思っています。 誰かから、「やりなさい」と言われたことでも自分で将来に必要かどうか見極めて自分で決断することが大切だと思っています。 人が幸せになるためには、自分で小さな目標を決めて達成していくことが大切だと思っています。恋愛でも私生活でも小さな階段を登っていくことが重要なので、みなさんが幸せになれるような方法を発信していきたいと思っています。 「誰かに言われたことをする」「誰かに強制されたことをする」方が多いように思えて、誰かに強制されたことはなかなかやる気が出しにくいと思うんです。なので、自分で決めて行動することが大切だと思います。 また目標の決め方も「小さな目標」が大事で、例えば今人生が70点の方が、95点をめざすと目標までの道のりが辛く幸せではなくなってしまうことがあります。しかし71点を目指していくことで自分に負担なく目標を達成することができると思います。 ー今後のひろとさんの活動についてお伺いできますか? 20代で達成したいことは生活のためではなく、自分が好きなことをして生きていけるようになりたいと思っています。 直近の目標は2021年は2020年を超える年にしたいと思っているのでこれからも是非見ていただければと思います。 ー短い時間で濃いお話をありがとうございました。ひろとさんの今後のご活躍を楽しみにしています! 執筆:ゆず(Twitter) インタビュー:あおきくみこ(Twitter/note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

嘘偽りない「そのままの自分でいよう」本音の先にある自由「そのまんま荘」オーナー・荒木孝文

ユニークな大人が集まり、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第173回のゲストは、一般社団法人zingzing代表でシェアハウス「そのまんま荘」を運営する荒木孝文さんです。 「そのまんま荘」は、多くの子供たちが笑顔になれる社会の実現をビジョンに掲げています。現在手掛けるのは、上京中の就活生を受け入れるシェアハウス事業。会員同士の密なコミュニケーション、視野を一気に広げる貴重な出会いを通して、自分らしさを見つめ直すことのできる環境作りを目指しています。 運営者である荒木さんの志の原点は、難病の子どもたちを笑顔にする米国のNPOの活動を知った小学校の授業でした。 「自分より辛い境遇にいる子供たちを幸せにしたい。そんな場所を僕が作らないといけない」 韓国にルーツを持つことを理由に受けた差別や偏見に苦しんできたからこそ、荒木さんの義憤や使命感の炎はこの時から燃え続けています。 「嘘偽りないそのままの自分を起点にしてほしいです!」 学生たちに日々語りかける荒木さんのこれまでの歩みを伺いました。 自分が欲しかった「居場所」が今日も誰かを支える ーご自身と活動の紹介をお願いします。 地方から上京して東京で就職活動をしている学生さんたちを対象とした、自分らしさを大事にできる居場所を提供するシェアハウス、「そのまんま荘」を運営しています。そのまんま荘は、就職活動中の学生さん以外に、僕を含む運営者や住人(ユニークな生き方をしている社会人)など、現役高校生から大学生、社会人まで多様なメンバーが集う場所です。就活生はメンバーとの対話や雑談を通して視野を広げ、自分自身を深く理解したり、楽しい時間を過ごすことができます。学生さんたちにとってそのまんま荘は「第二の実家」のような場所みたいですね。 2018年の4月に恵比寿の一室でシェアハウスを始め、早いものでもうすぐ3年になります。 ーそのまんま荘を始めたきっかけをおしえてください。 きっかけは、地方から上京して都内で就職活動をした頃、「上京す若者同士が繋がれて、情報交換できるような居場所」があったらいいな〜と思ったことでした。欲しくて仕方なかったことです。 東京に本社機能が集中していて、魅力的なインターンも都内に多いため、大学のある関西から夜行バスを使って上京し少しでもお金を節約するためにネットカフェやビジネスホテルに泊まっていたんですよね。夜行バスを使ったりただでさえ、地方から上京するためにお金めっちゃかかってお財布苦しいところに、自分でホテルを探したり、謎の合同説明会にでて疲れ果てたり、東京での就職活動は、地元での就活以外にやらなきゃいけないこと、考えなきゃいけないことが山のようにあり疲れ果てていました。 財布が苦しい中、大都会東京、馴染みのない土地で一人ぼっちの戦いを強いられる‥。めっちゃくちゃ心細いな‥と思ったんです。あと、東京に人材会社溢れているのですが、自社利益のために地方就活生を商売道具として見ている雑なところもあって、全然フラットじゃないし、情報の非対称性ヤベぇな・・と。 ー就職活動中に「シェアハウスを作ろう」と思い立ったのでしょうか。 「誰かのための居場所を作る」こちらは僕自身の原体験から生まれ出てきたものした。実は日本人と韓国人のハーフなんですけど、幼少期からクラスや放課後、言葉に言い表せられない疎外感を感じていました。 昔の自分のように孤独を感じている方々のための居場所を作りたい、という願いというか、決意みたいなモノをずっと温めてきました。 当初のイメージでは、夢の国「東京ディズニー・ランド」のような楽しくて素敵な場所を思い描いていました。小3の時に両親と訪れた際、サイッコーに最高で、もう絶対ここだな!と。その後、大学生になってからキャストとしてもアルバイトさせて頂きました。 何よりもみんなが本来持っている根っこの、魂の美しさを大切にできる場所を創りたかったんです。鋭い疎外感があった分、誰もが輝いて欲しいと強く思っていました。居場所がない不安定な状態だと、なかなかその人本来の輝きは放たれずらいです。誰しもがその人にしか持ち合わせていない超絶美しさがあって、それが引き立つのって等身大そのまんまの自分を受け入れ開花させていてる時だと思うんですよね。 昔の自分が喉から手が出るぐらい欲しくても絶対手に入らなかった「居場所」を通してで、関わるみんなが笑顔で安心しながら歩む姿に、過去の自分を救いたかったのかもしれません。 ー荒木さんの原体験にも繋がる幼少期について教えてください。 僕は韓国で生まれ、5歳の時、両親の転勤で日本に引っ越して来ました。 引っ込み思案だったのもあり、初めての日本でのコミュニケーションに漠然とした捉え所のない恐怖感にびびっていたのをよく覚えています。今振り返ると爆笑なのですが、幼いながらにちゃんと生きていけるか不安で仕方なくて、自分というをちっぽけな何かを守るため殻に閉じここもりがちになっていました。 ー小学校時代について教えてください。 漠然とした心の中の不安が目の前にガーーーんと「本物」になって苦しみまくった時期でした。自身の引っ込み思案に加え、日韓のハーフであることを理由に同級生に石を投げられたり、「韓国帰れ」「死ね」などドギツイ言葉を浴びせられてメンタルが死にまくっていました。「このまま死んだら、親悲しむだろうな〜」みたく。 周囲と仲良くしたいけど、「きっと無理なんだろうな〜」と諦めていた時期でしたが、今後の人生に大きな影響を与えた出来事がありました。10歳の頃、道徳の授業であるNPO(Give Kids The World)に関する教育ビデオを見せられた時でした。このNPOはコカ・コーラなどの大企業から70億円の寄付を受け、その資金で余命宣告を受けた子供達が家族とアメリカのDisneyやUSJで1週間のハッピーで安心で、最高なバケーションを過ごせる取り組みをしている団体でした。 晴れ間がないというか、人生に絶望する辛気臭い毎日を過ごしていたのですが、そんな自分よりも(おそらく)遥かに苦しんでいるであろう命さえ危うい子供が世界にいることを初めて知り、天地がひっくり返るような衝撃を受けました。死んだら、おしまいじゃないですか。 でも、一番嫌だったのは「欧米にはそういう場所があるけど、アジアにはない」という事実を知ったことでした。報われる機会も無いまま日本では年間およそ30万人の子供達が余命宣告や深刻な難病宣告を受けているそうです。なんだかチッポケな自分だけに悩むことが馬鹿らしくなりました。 自分がいじめられても、命は取られないけど、彼ら/彼女たちは命さえ危うい最悪の状況で、それでも必死に生きている同世代のたちが、アジアでも幸せになれる場所が絶対に必要だと思ったんです。枕に涙しながら「日本に絶対このNPO持って帰ったんねん」と自分自身に誓っていました。 ゲーム依存から一転、生徒会長に選ばれる ー中学時代についておしえてください。 周りとの人間関係に絶望していた地元から離れたくて中学受験の勉強に励み、晴れて自分のことを誰も知らない私立の中高一貫校に入学できました。 入学した当初は全然勉強ができなかったです。最初の定期試験ではクラスの40人中38位の成績でめちゃくちゃ焦りつつも、勉強を放置してしまいました。いや、勉強なんかじゃなくて安心できる場所を作らないかんし、自分自身安心したいんや・・・と。とにかく劣等感の塊でしたね。 ーどんな劣等感でしたか? 「この世界全員、僕を受け入れてくれやしない!!(涙)」という寂しすぎる固定概念を持っていました。地元を離れさえすれば人生が劇的に変わり、すぐにでも友達が増えると勘違いしていました。でも、全然そんなことなくて。中学デビューを期待していたのに、ダメな自分に対して劣等感ループで死にたいぐらい退屈な毎日ばかりでした。なかなか他人に心を開けなくて、みんなとの距離を縮められなかったです。 結果、学校生活がしんどくなり、ネットゲーム(以下、「ネトゲー」)に現実逃避しちゃいました。「メイプルストーリー」というキノコを倒し続けるオンラインゲームがあったのですが、そのゲームの中だけが僕にとっての安心できる場所でした。休みの日には15時間ぐらいやってて、朝始めたのに気づいたら深夜なこともしばしばでした。 ーいつまでその生活が続きましたか。 中学3年生くらいの頃までです。高校進学を前に、このままゲーム依存した状態が永遠に続くのは「流石にまずいだろうなぁ〜」と危機感が芽生え始めていました。 「周囲を見返してやりたい」「みんなに受け入れられる人になりたい」という募り募った気持ちが先走りまくった結果、なぜか生徒会長に立候補することにしました。ネトゲーに籠っていたオタクが一大決心から一歩外の世界へ踏み出すことができた奇跡的な瞬間でした。 対抗馬もいなかったので、なんなく生徒会長に選ばれました。すると、妙な自信がつき「俺は出来るんじゃないだろうか!?」という勘違いから成績も徐々に上がっていき、ネトゲーの沼からも抜け出て、「おっ、これはいい感じでは!?」という良い流れに乗っていくことができました。 ー高校時代についておしえてください。 好きだった世界史で学年10位以内取ったり生徒会で全校集会で喋ったりなど小さな成功体験を積み重ねるうちに、少しずつモチベーションが上がっていきました。気づけば、世界史を筆頭に文系組で校内で10番以内をキープ出来るまでになっていました。 それから「受け入れてくれない周りの奴らを見返してやりたい」「みんなに受け入れられる人になりたい」という承認欲求的パワーを原動力に、高校2年生の時に再度、生徒会長に立候補したんです。今回は対抗馬もいたのですが、なんとか勝利を収め、中学時代より周りを巻き込んでいけている感覚もあり自分なりの成長を実感していました。 ー大学受験はどんな選択をしましたか。 同志社と早稲田に合格して、内心、早稲田大学に行きたかったのですが同志社大学に進学することになりました。主な理由は、宗教上の理由でした。ちょっと特殊なのですが、同じ宗教の人としか交際してはいけないというルールがある厳格なキリスト教に入っていた関係で、誘惑の街、東京への進学を断固として許してもらえなかったんですよね。今となっては、それも宿命だと受け入れています。 「周りの奴らを見返してやりたい」マインドから社長になりたいと思っていたので、社長になるための最短ルートっぽい経済学部をすごく安直に選びました。 ー大学生活について教えてください。 中学デビューが上手くいかなかったのを後悔していたので華々しい大学デビューをしたかったのですが、全くもって思うようにいかなかったです。華やかなイメージのある軽音とダンスサークル(よさこい)に入ったのですが、なかなか上手く心のうちを話せず、かつ劣等感が根っこにあったので、スムーズに周りと馴染めずにいました。 当時は、心の中では「仲良くなれるかな?変に思われていないかな?」と不安で一杯なのに他人には悟られないよう武装しまくっていました。周りと壁があったりするのって空気になって伝わるじゃないですか、そのためなかなか気の許せる友達ができませんでした。 結局、軽音もダンスも長続きせず、大学外で「先生のいない修学旅行」という学生団体を立ち上げたりしていました。居場所に飢えていたんだと思います。 冒頭で少し触れましたが、USJとDisneyで1年間ほど働いていました。大学3年生で休学して東京ディズニーランドで働いていたのですが、浅草にある「トビタテハウス」というシェアハウスに住んでいました。この時に得られた共同生活の体験が今の事業にも活きていると思います。 大学4年生になって、トビタテ留学JAPANという奨学金を知り、小学生からの念願のNPO「Give Kids The World」に1年間留学することもできました。 ーどうしてそこまで行動力を発揮できたのでしょうか。 劣等感の塊で自分を受け入れてくれる人を死ぬ気で求めていたからだと思います。頑張ったら受け入れてくれるんじゃないだろうか、死ぬ気でやるしかない、と。 一人でいるときには、どうしても孤独感や虚無感が胸を侵食してきました。でも、挑戦している時って、応援してくれている誰かがいて、なんだか周りに受け入れられたと感じるし、シンプルに誰かに喜んでもらえると幸せで満たされた気持ちにもなります。 あと、キャストとして働いていた時、お客さんから「お兄さんに会えたからここまで来てよかった」と言われて存在意義を証明できた感じがして、死ぬほど嬉しかったです。 多分、劣等感から頑張りまくった結果、誰かが喜んでくれるようになって、それがめちゃくちゃ嬉しかったから、行動し続けているんだと思います。この頃は、とにかく「自分で」頑張るというのが究極の目的のようにありました。 あとこの頃は、なんだか何かに縛られている感じがずっとあって、とにかく自由になりたくて仕方なかったんです。抑圧されてきた心が弾けたがっていたんだと思います。 8ヶ月連続MVPも挫折感で終えたインターン ーアメリカのNPOではどんな活動をされましたか。 こちらのNPOの目的は、子供達に残されたわずかな命の時間を限りなく楽しいイベントを通して、最高のプレゼントとして家族の思い出として提供することです。いつ亡くなるか分からないため、毎週クリスマスやハロウィンといった季節イベントが開催されていました。 僕の担当は、子供さんとご家族の迎え入れや各部屋へのプレゼント配り、車椅子の子供への食事の配膳などをシフトで回っていました。。普段、病からクラスメートと隔離されたりしているような子供達がこの場所では「安心しながら笑顔でいれている」この事実に深い喜びと強いやりがいを感じていました。 またせっかくなので、日本文化も武器にしたく「折り紙マスター」として子供たちの英名を漢字にして折り紙に習字でプレゼントしていたのですが、両親含め、みな最高に喜んでくれました。最高に嬉しかったです。 ー印象的な出来事はありますか。 ボランティア7000人の中から10人が選ばれる月間MVPに、8ヶ月連続で選んで頂いたんですよね。日本人として初みたいでした。。大変名誉で誇らしかったのですが、けど、内心すごく落ち込んでいました。僕はインターン先のNPOを日本へ、アジアへ持ち帰りるのが夢だったんですよね。 インターン先で出会った子供たちにこの安心できるゆりかごで、少しでも笑顔になってほしい、楽しんでいってほしい、という思いが常にありました。1年間の活動の中で、その思いはどんどん強くなっていたんです。でも「究極に自分が頑張っても」自分1人の力ではそのような大きな施設を作ることなんて、とてもじゃないけど無理だと気付き、どうしようもない無力感から泣きながらホームステイ先に帰ったことを覚えています。  ーこの留学を通してどんな変化がありましたか。 まずは、子供達に安心できる場所を提供して喜んでもらいつつ、安心な雰囲気のNPOだったため、他人の基準で自分自身を評価しまくっていた自分が、ただ自分でいることにちょびっと安心出来るようになりました。 お互いの違いを認め合うアメリカならではの雰囲気のお陰で、居場所をずっと探していた僕が初めて「個性を受け入れてもらえている!」「そのまんまの自分でいいんだ!」と腹の底から感じることができました。 また、大学まで突き進んできた1人の力だけじゃ、どうしようもない挫折があったのも大きな学びでした。留学先で関わった人たちとは今でも連絡を取り合っています。コロナで心配ですが、帰ってこいよと今でも連絡が来るので恋しいです。 ー帰国後はどう過ごしましたか。 インターンを終えて帰国しても、先ほどの挫折感や無力感はなかなか消えませんでした。むしろ、これまであった自信が崩れてしまい、日に日に落ち込んでいってました。自分は何も成さずに帰って来てしまった…と暗雲たる気持ちで、自己嫌悪と自己卑下を繰り返していました。 いつまでもグジグジしてられず、NPOの立ち上げのための手段の一つとして、就職活動を始めたのですが、ふとしたキッカケで、気持ちが一気に晴れることになりました! 大人数がいる就活イベントで「質問がある人!」と言われ手を挙げた際、なぜか逆質問で「学生時代に何を一番頑張りましたか」という質問を受けました。面食らってしまい「留学のインターン先でMVPに選ばれはしたものの結局、自分の無力さに落ち込みまくっています」とバカ正直に答えてしまいました。 しかし面接官(社長)からの評価が下がるのでは!?とビビった僕は咄嗟に「無力さを感じましたたが、僕は仲間と取り組めばうまくできると思っています」と付け加えました。すると、面接官だった社長に「それは‥、君」「めちゃくちゃすごくいい経験を積んできたんだねぇ‥」とシミジミ深いいフィードバックを頂きました。 社長の言葉を聞いた後、会場のトイレで泣きました。結果、この一言をキッカケに「仲間を巻き込んで自分のしたいことを形にしていこう」と根本から意識が変わることになりました。 また、ある企業の最終面接で「君が入ると社風が壊れるから来ないでほしい」と強烈に言われてしまいました。この時に自分は組織に属すのが向いてないと痛感してから起業の道へと進むことになりました。その際、選んだテーマが冒頭に述べた「上京する若者同士で支え合い、情報交換が出来る居場所作り」でした。それが、現在1000名近くの若者に利用されている「そのまんま荘」になっています。 本音をかき消すのは「評論家の自分」 ーそのまんま荘に来る学生さんとどのように向き合っていますか。 僕自身は一人一人と本音で向き合うようにしています。中高の自分みたく殻に閉じこもっていても、人とは繋がれないので。 多くの就活生を見て思うのは、留学後の自分のように挫折したり、立ち止まる時期があっても、最終的に、何かのキッカケでみんなまた前に進んでいってるなーと。その姿を見て、人間って強くて美しいなと思います。また、そういうキッカケは「ふとした会話」の中に隠れていることが多く、そういう偶発性をコミュニティ内で大切にしています。 そのために、そのまんま荘には様々なバックグランドを持った方が住んでいて、学生さんの悩みや疑問1一つに対しても多様な角度、視点でフィードバックが返って来るのがポイントです。 ーこれから挑戦したいことを教えてください。 進路を模索するため上京している学生さんと、学生さんの滞在先として部屋を開放できる方々をマッチングするプラットフォームを作ることを目指しています。主なホストは、子供達が成人して家を出たため部屋が余っているご家庭です。学生さんは知らない土地で心細い思いをせず、、就職活動やインターンを経験することはもちろん、ホストとの交流を通じて人として大きく成長できる仕組みにしたいと考えています。 このサービスをアプリで展開し、オンラインサロンも設けてグランドルールなどを広めていきたいです。 ーご自身の事業を通じてどんな社会を作りたいですか。 全人類が自分の本音で生きられる社会を作りたいです。誰もが自分の中にもう1人の自分を持っていると思います。僕はこのもう1人の自分を「評論家の自分」と呼んでいます。「評論家の自分」は周りからどう見られるかを気にしていて、多くの人は本当にしたいことや進みたい方向性を押し殺してしまいます。就活生を例に挙げるなら「外資系企業に行けば周りが『すごいね』って言ってくれる。本当に進みたい道ではないけど選ぼう」という風にです。 弱い自分を守るために「評論家の自分」が必要な人もいるかもしれないです。でも、それで本音が分からなくなってしまうと結局苦しいのはその人自身だと思います。 自分の本音で生きることは、とても無防備で怖いことかもしれないです。厳しいフィードバックが飛んで来るかもしれないし、不安や焦りも付きものです。でも実は、自分の本心を取り繕っているよりも安心感を持って生きていけるはずです。 ー就職活動中の学生、就職活動を控える学生にメッセージはありますか? そのままの自分を大切にしてください。 これまで多くの就活生と話してきました。ほとんどの就活生は、自分じゃない自分、世間や周りの人が評価する人間になろうとして本音を押し殺しています。どうかそのままの自分を見失わないで欲しいです。 ありのままの自分を尊重できれば、周りと良い関係を築きながら、その人のバリューを社会に還元できると思うんです。他人の評価ばかり気にしていると、マウンティングして自分のエゴを満たすような、みっともない人になってしまいます。前者の生き方をした方が幸せになれると僕は思うんです。これは僕自身が身をもって体験してきたことで、これから進路を選ぶ方達には飾らないありのままのの自分を大事にして欲しいと伝え続けていきたいです。 ーあっという間でしたが、今日は心に響くお話を本当にありがとうございました。荒木さんの今後のご活躍を応援しています! 執筆:Yuka(Twitter) インタビュー:高尾有沙(Facebook/Twitter/note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)  

幼少期からの関心をファーストキャリアに。日本赤十字社で人道支援に関わる藤井理緒

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第250回目のゲストは日本赤十字社で人道支援に取り組む藤井理緒さんです。初めて国際協力に興味を持ったのは小学6年生だったという藤井さん。国際協力に興味を持ったきっかけや、ファーストキャリアとして日本赤十字社を選ばれた理由などお聞きしました! ファーストキャリアで国際協力・人道支援を選択 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 今年の4月より日本赤十字社で人道支援の仕事をしています、藤井理緒です。外資のIT企業にも内定をいただいていましたが、昔から国際協力に興味があったのでそのキャリアに進むべく、赤十字社への入社を決めました。 ー具体的にはどのようなお仕事をされているのでしょうか。 日本では赤十字社というと献血や病院のイメージを持っている方が多いかと思いますが、実は様々な事業に取り組んでいるグローバルな機関です。紛争や地震などがあった地域に人道支援を届ける団体と思っていただくのがいいかと思います。 私は青少年ボランティア課に所属しており、日本国内の青少年に対して教育面での活動を行う部署にいます。その中で私は日本国内の教育機関と連携し、ネパールの青少年と日本の青少年の交流を目指す共同プロジェクトを担当しています。 ー4月に入社されたところとのことですが、働いてみていかがですか。 国際協力に関わる方法はいろいろあるかと思いますが、日本赤十字社で国際協力に関わる良さは、地元に密着したプロジェクトが多いことだと思います。必要としている支援はその国ごとに違うので赤十字社ではその国の赤十字社に独自性が求められているんです。国によって柔軟に対応し、現地の人と一緒に取り組むことができているので日々気づきも多く、充実しています。   国際協力への興味のきっかけはマイケルジャクソン ー国際協力には昔から興味があったとのことですが、過去を振り返って、その経緯やきっかけについて教えていただけますか。 海外への憧れは幼少期からありました。好奇心旺盛な子供で、家の近くに図書館があったことや家にパソコンがあったこともあり、情報に囲まれて育ったことが影響していると思います。国際協力に関心を持ち始めたのは小学校6年の時です。マイケルジャクソンの大ファンだったのですが、当時好きだった曲はWe Are The Worldがエチオピア大飢饉の救済が目的で作られたことを知ったのがきっかけです。 ー小学生の頃から国際協力に関心が向いていたのですね! はい。We Are The Worldは国際協力への関心だけではなく多様性についても考える良いきっかけをくれました。私はみんなで仲良くしたいと考えるタイプだったのですが、やぱり小学校にはいろいろな子がいて、全員で仲良くするのって難しいのかなと思うようになっていたのですが、この曲を聞いて「みんな違うからこそ一緒にできることがあって、違っても仲良くなることができるんだ」と思えるようになりました。 ーその後の進路選択、中高生活は国際協力や海外に重きを置かれたのでしょうか。 中学ではオーストラリアに短期留学を経験しましたが、高校の志望校は海外と特に関係なく、ただ当時憧れていた夏目漱石が通っていたと言われる日比谷高校を目指して勉強していました。模試では合格判定をもらっていたので合格できると思っていたのですが結果はまさかの不合格…これまでコツコツと努力することで何事も乗り越えてきていたので、この時が初めての大きな挫折経験となりました。 それでも第二志望だった高校に進学したことで、たまたま赤十字が主催している韓国と中国との国際交流プログラムに参加する機会に恵まれ、楽しい高校生活を過ごすことができました。当時は私も「赤十字=献血」のイメージが強かったので、まさか将来自分が日本赤十字社で働くことになるとは思っていませんでしたが…(笑) ー高校で赤十字社との出会いがあったんですね!高校卒業後はお茶の水女子大学に進学されたとのことですが、どのような基準で志望校は選ばれたのですか。 両親からは国公立の家から通える大学に行って欲しいと言われていたのでその条件を満たしつつ、国際協力に関連した勉強ができる大学を調べた結果、お茶の水女子大学を第一志望に決めました。高校受験の失敗経験を活かして、大学受験ではしっかりと過去問対策をした他、得意な科目が活かせる傾斜配分の制度を利用して受験した結果、無事お茶の水女子大学に合格することができました。   大学院進学・一般企業就職ではなく国際支援を選んだ ーそうだったんですね!大学生活はいかがでしたか。 女子大に進学したからこそのチャンスに恵まれた大学生活だったなと振り返って思います。また、友人が教えてくれた平澤奨学生に応募したところ選ばれ、念願だったアメリカ留学も実現しました。留学するならマイケルジャクソンの祖国、アメリカと決めていたんです(笑)アメリカのベイツ大学に留学し、国際関係学を勉強したのですが、多様性を肌で感じられた留学生活でした。 ー留学経験を経て、国際協力に関連したキャリアを考えるようになったのですか。 大学院に進学してもっと勉強したいという思いも、国際機関で働きたいという思いもありました。同時に、ITの力で様々な課題を解決できることも知ったので留学後は情報技術の社会応用に興味を持ち、エンジニアの勉強を始めたりもしました。就職活動においてもIT系企業を受けていたのには、ITスキルが普及することで途上国の課題が解決できるのでないかという思いがあったからです。 ーなるほど。それでも日本赤十字社に就職を決めた理由は何だったのですか。 脳内お花畑で夢みがちな私に教授が「現実を見ろ」と言ってくれたことが大きかったと思います。あとはいつ死ぬか分からないのでとにかく今国際協力に携わりたいと思っているならやるべきだと思ったからです。 振り返って良い経験だったなと思えるかどうかを基準に何事も選択することを心掛けているのですが、日本赤十字社での経験はたとえ将来的に国際協力の仕事から離れることを選んだとしても良い経験だったと思えると考えたからこそ入社を決めました。   自分の可能性を狭めず、やりたいことを今、やる ー小さい頃からの興味がキャリアへとつながったのはすごいですね。好きなことややりたいことがなくて悩んでいる人もいるかと思いますが、そんなU-29世代に何かメッセージをいただけますか。 好きなことがない人はいないんじゃないかなと個人的には思っています。きっと好きが隠れているだけか、なぜか好きでいたらダメだと思い込んでしまっているか。好きなものはあるけどお金にならないとか、やりたい仕事はあるけど家業を継がないといけないなどの制限がもちろんあると思いますが、今は何が仕事になるか分からない時代で、働き方も様々で自由です。 過去の体験を振り返って好きなものを今一度探してみて欲しいなと思います。それでも見つからなければ、とりあえず何かやってみて、続いたものがきっと好きなものなんではないでしょうか。また、何が勉強したいか分からなくても、学問は究極全てつながっていると思うのでとりあえず何かを勉強してみたらきっと自分の興味関心にどこかでぶちあたると思います。 私自身も、国際協力だけに今後もフォーカスしようと思っているわけではありません。今はそれが一番の関心事で、やりたいことでもありますが、常に視野を広く、自分の可能性を狭めないようにしようと心掛けています。 ーその通りかもしれませんね…!最後になりますが、今後の藤井さんの目標を教えてください。 今の目標は国際赤十字・赤新月社連盟に出向し、海外の赤十字社で働くことです。日本の赤十字社での経験や知見をいかして、より大きな機関、多様性のある環境に自分を置きたいなと思っています。まだ社会人生活をスタートさせたところですが、日々楽しみながら仕事に取り組んでいきたいです。 取材:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

ケニア在住者が語る、コロナ禍だからこそ心と身体の健康を最優先する生き方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第301回目のゲストは現在ケニアを拠点に、心と身体の健康を追求されているFumikaさんです。Fumikaさんが見たアフリカの現状や、このコロナ禍でFumikaさんがケニアに暮らし続けることを選択した理由などをお話いただきました。 広い世界を見に行って、心の健康を意識するように ーまずは現在アフリカにいらっしゃるとのことですが、どこに住まれているのか教えていただけますか。 現在、東アフリカにあるケニアのコースト地域に住んでいます。日本で言うと沖縄に似た雰囲気の地域で、マングローブがしっかりと残っていたりと自然豊かな地域です。私が現在住んでいる海岸沿いの地域は暖かくて心地よい気候です。首都のナイロビは赤道直下にも関わらず標高が高いため、昼間はとても暖かく朝晩は涼しい気候です。 ーケニアとの出会いに至るまでのお話をぜひ聞かせていただきたのですが、まずは初めて海外にでるきっかけとなった出来事について教えてください。 初めての海外生活は17歳の時に行ったアメリカのケンタッキー州への交換留学でした。一般的な進学校に進学したのですが、高校の雰囲気と合わず、課外活動に積極的に参加していた中で、東日本大震災のボランティアに参加。それがきっかけで今まで小さい世界で生きてきたことを実感し、もっと広い世界をみたいと思ったことが交換留学へ行くきっかけとなりました。 ー初めての海外生活はいかがでしたか。 ケンタッキー州はアメリカの中でもかなり保守的な州として有名ということを後から知ったのですが、登校初日からアジア人というだけで異なる扱いを受け、衝撃を受けました。どうしたらいいかと考えた結果、勉強を頑張り成績を上げ、チアリーダーとして踊り、アカペラグループで歌うことで周りの人に自分を魅せ、存在を知ってもらうことに注力しました。何かをしないと人に認められない、ただ自分で在るだけでは受け入れられないこともあると知った経験でしたね。 学校生活はハードモードでしたが、一方でホストファミリーとの暮らしはとても平穏で心温まる時間でした。家では学校であったことを一歩引いてみることができ、自分を見つめる良い内省の時間を持つことができました。心の健康を意識する様になったのはこの頃からだと思います。   「問うて学ぶ」をモットーに行動、一人旅でアフリカへ ー留学経験を経て、高校卒業後の進路は何か考えに変化はありましたか。 都心の高校に通っていたこともあり、大学にお邪魔する機会などもありましたが、なんとなく違うなという思いがあったので、大学進学が当たり前な高校ではありましたが、まだ学びたいことが分からなかったので、このタイミングで大学進学をしないことを決意しました。 高校卒業後は、やりたいことを見つけるため、「問うて学ぶ」をモットーに様々なお仕事にチャレンジ。イベントのMCや、皿洗い、ハイエンド向けの接客、大企業に属して営業などしてみたり、ハンディキャップを持った子供達の施設で働いてみたり、人に誘われて、興味を惹かれたものには片っ端から挑戦してみました。その仕事を実際に経験し、分からない言葉や情報を、専門家に聞いたり、ネットで調べたりする習慣をつけ学ぶようにしています。 21歳の頃友人に紹介された本「エスノグラフィー入門<現場>を質的研究する」をきっかけに、文化人類学の考え方に大きな影響を受けたのですが、その時に初めて18歳からの人生はこういうことだったのではないか言語化されたような感覚を受けました。文化人類学は仕事や旅を通してもっと様々な文化や社会階級に触れたいと思うきっかけとなっていると思います。 ーそこからアフリカへはどのように繋がったのでしょうか。 21歳の時に家族で「自分達らしい暮らし」を考えた結果、東京と長野の二拠点生活をすることになりました。もともと家族の仲はよかったのですが、本音で話し合える家族関係になったことで自己理解も深まり、人生に一区切りがついたような感覚になりました。その結果もっと違う景色をみてみたい、もっと違う生き方をしている人に出会いたいという思いが強くなったんです。そして日本で一人旅をした後、大自然がみたくなってアフリカ大陸に一人旅に出ることにしました。   住み始めて知ったリアルなアフリカ ー初めてのアフリカはいかがでしたか。 日本ではアフリカというと治安が悪いイメージが強いですが、日本が治安が良いだけで、特別治安が悪いとは感じませんでした。また、ケニアは発展途上国に分類されますが、想像以上に盛り上がっていることに驚きました。欧米諸国や中国から若手のエリートや起業家が集まり、新しいビジネスを展開していたり、ケニア発のキャッシュレスサービスがあったり、UBERやUber Eatsも充実しています。なにより会社に養ってもらうという文化がないので、国民みんなが個人事業主の意識を持っている印象です。SNSを使ったインフルエンサーはめちゃくちゃセンスがよくて憧れとしてフォローしています。 見たかった大自然も堪能することができました。ナミビアの壮大な砂漠で自分がどこにいるか分からない感覚に陥ったこと、ケニアで野生動物を見て動物が檻に入っているのではなく自分が檻に入ってる感覚を味わったこと。どの景色も美しかったのですが、ケニアに深い縁を感じて旅をやめてケニアで生活をすることを決めました。 ー逆にアフリカでのネガティブな発見もあったのでしょうか。 そうですね。貧しいイメージが一般的に強いですが、お金をものすごく持っている人も一定数います。政治の腐敗や難民問題、環境問題など、世界全体で起こっている様々な社会課題がアフリカに流れてきてしわ寄せを受けていると感じることが多かったのはネガティブな発見でした。 ーケニアではどのようなことをされていたのですか。 自分が見た景色を記録したいという思いから写真を撮り始め、世界で活躍する方々にアート・社会問題について習いながら、表現活動を始めました。切り取り方ひとつで毎日見えているものが高貴なものに見える感覚がとても新鮮に感じたんです。実験的にではありますが、2019年にはドイツで、2020年には日本で写真展も開催することができました。   全ては場所と身体が教えてくれる ーそれ以来、ずっとケニアで過ごされているのですか。 いえ、コロナの影響を受けて一時期は日本に帰国していました。コロナ禍であってもケニアに残ると初めは決めていたのですが、周囲から見ると私は23歳のアジア人女性。パンデミックの状況下で私が海外にいることは逆に周囲の人に迷惑をかけることとなると指摘され、空港が閉鎖される前日にパニック状態で帰国しました。 コロナをきっかけに、パートナーや子どもと国籍が違うことから離れ離れになっている方々をみたり、国によって感染症対策のルールやワクチン接種のルールが異なることから、自分が日本人であること、そして国籍というものをより意識するようになりました。 ー日本帰国時はどのような生活を過ごされていたのですか。 日本に自分の家がなかったため神奈川県の秋谷海岸周辺にAirbnbで家を借りて生活していました。ケニアから自分は逃げてきたという感覚、ケニアと日本の環境のギャップから生まれる罪悪感、現地の友人は大丈夫だろうかという心配の気持ち、なによりこれから自分はどうしていくのだろうという未来への不安に向き合う日々でした。とにかく健康を第一に考えて生活し、心の健康はある程度取り戻すことができましたが、やはりこのまま日本にいたら身体がダメになると感じたので再びケニアの自然の近くで過ごすことを選択し多くの外国人たちがケニアに戻ったタイミングで戻ってきました。 ケニアに戻ってきて、再び本来感じていることを感じられる様になってきたという実感があります。体をよく動かして、しっかり食べて、しっかり寝たら、自分の体がまた敏感になってきました。今は心理学者、カウンセラーの方にもサポートいただき、日々の出来事とその時に体のどの部分が反応したかを記録に残して毎週振り返りの時間を持つ様にしています。 人ってみんな、楽になりたくて努力をしているかと思いますが、私にとっては自分の身体が健康であることが楽になるということ。健康であるための努力をして、もっとスムーズに生きていきたいと思っています。先のことはわかりませんが、今の私にとってはケニアのコースト地域が1番心と身体が健康でいられる場所なのでここで自分と向き合う時間を大切にしたいと思っています。 取材者:山崎貴大( Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

ルワンダ産豆の大学生起業家・山田果凜。救えなかったアルソンくんのために

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第217回目のゲストは、大阪大学在学中の起業家、山田果凜(やまだかりん)さんです。 小学4年生で、日本からタイのバイリンガルスクールに転校。小学校卒業時点で、通う目的のない学校に葛藤を覚え、入学からわずか3週間で不登校に。インドで救えなかった男の子との別れ、バイリンガルスクールの退学、沖縄への移住、両親の離婚、自殺未遂、新型コロナウイルス感染症の影響を受けても人生を諦めなかった、山田さんの強い精神力に迫りました。 母と私と弟のタイ生活 ー自己紹介をお願いします。 大阪大学人間科学部1年生で、株式会社Familicの代表を務める山田果凜です。小学校4年生からタイに移住しました。現在は沖縄県読谷村波平に在住し、カフェ「Tobira Cafe(トビラカフェ)」を経営しています。大学の授業をリモートで受講し、大学とカフェを両立しているんです。 ー忙しそうですね…小学生で海外移住は、めずらしいですよね。 そうかもしれません。私と母と弟3人で移住したんですよ。「世界で活躍する子どもたちに育ってほしい」という親の願いがあって。英語を学べる環境づくりをしたかったそうで、タイのバイリンガルスクールに入学しました。アメリカに家族6人で移住するか、日本のインターナショナルスクールに入学するかも候補だったそうですが、経済的に難しかったみたいなんです。 小学校4年生の私は、「世界中の人たちが日本語を話せて、日本語でコミュニケーションがとれる」と思っていました。私と出会う人たちは、私の出身国をよく知っているとさえ考えていましたね。しかし、英語の授業で、ガラッと価値観が変わりました。「Where are you from?」と聞かれ、答えに行き詰まっていると、もう一度「Where?」と先生から質問が。日本を指さそうと世界地図をパッと見ると、日本がない。日本は、他国から眺めると、こんなにちいさな国なのか…と、驚きました。 英語って、何のために学ぶの? ー世界における日本の位置付けを、タイで実感されたんですね。日本とタイの文化の違いで驚かれたことはありましたか。 ありましたね。 私の将来の夢は、「小学校の先生」だったんです。自分のロッカーの扉に、自己紹介として書き出していました。 すると、隣の男の子が、「That’s so normal.」と、ニヤニヤしながら話すんです。どれだけすごい夢なんだ、と疑問に思い、彼の夢を見せてもらうと、「アメリカ合衆国大統領」の文字が。「ん?タイ人なのに、アメリカの大統領なのか…?」といぶかしげに彼を眺めていても、彼は表情を変えません。書き終わったみんなの夢を見せてもらうと、びっくり。「世界のアイドル」「ハリウッドのスター」「プロサッカー選手」など、どれも大きな夢ばかり。 そこで、ハッと気づきました。日本で生活していたときは、夢が大きければ大きいほど、言えなかったんだ。自分の夢を、大きな声で周りに伝えるクラスメイトはかっこよかったなあ。 ー生徒一人ひとりの夢を、のびのびと語る場所があったんですね。 そうですね。そして必死に勉強して、住んでいた地域で一番の進学校である公立中学校に合格しました。 でも、私は学校への興味を失ってしまったんです。 「学校の中に、自分が求めている“世界への貢献”のヒントはあるのか?」に悩みましたね。2〜3週間だけ通学して、学校に通わなくなりました。 インドのアルソンくん ー学校に行かないとすぐに決めるのは、凄い決断力ですよね。それからどうなって行ったんでしょう!? 人生を変える出会いがありました。中学校2年生の夏のことです。父親がインドに出張に行きがてら、タイの家で引きこもっていた私を連れ出したんですよ。「嫌だ!」と、抵抗したのですが、あっけなく無視されました。 しかも、父親は仕事。私は観光ツアーのバスに送り込まれ、タイムスケジュール通りに観光地めぐり。到着したタージ・マハルを物珍しそうに眺める他の参加者から離れ、もやもやした気持ちで、フラフラと歩いていました。しかし敷地の外に出ると、ストリートチルドレンに囲まれたんです。「まずい、どうしよう…」と困っていると、「ほらほら、お姉さんが困ってるだろ?」と、救いの声が。その声の主は、子どもたちのまとめ役である、7歳のアルソンくん。「ごめんね、鉛筆を売らないと、今日のご飯をもらえないんだ。お姉ちゃん、日本人でしょ?」と、流暢な日本語で話しかけられました。5ヶ国語を話せる彼に、私は魅了されたんです。 「今日、学校はないの?」と尋ねると、「行きたいけど、行けないんだ」と答えるアルソンくん。「なぜ、学校に行きたくない私が行けていて、学校に行きたいアルソンくんが行けていないの?」と同情は募るばかり。ここで生活する理由も、ギャングにさらわれて、帰る家がわからないから。後ろ髪を引かれつつも、「バイバイ」と別れを告げると、「お姉ちゃん、僕を連れ出して!」と、最後にまっすぐな瞳で遠慮がちに話すアルソンくん。助けてもらったのに、助けられない私。何も言えず、その場を立ち去りました。 必死に訴える目が頭を離れず、数日間、タージ・マハルに訪れ、周辺を探しました。しかし、彼を見つけられませんでした。それでも諦めたくない。そこで、父親に「アルソン君を養子にしてほしい」と頼むことに。熱弁する娘に困り果てたのか、父親は国連に勤務していた経験のある友人に相談します。私は、アルソン君が置かれた環境と、才覚について、声を荒立てながら懸命に話しました。しかし、父親の友人は、目の前の私に、こう言ったんです。 「アルソン君が、100人いたらどうするの?もし、アルソン君を1人だけ連れ出して、彼は本当に幸せだと思う?」と。 私は、「違う!そうじゃない。アルソン君を助けたいんだ!」と思いました。 だけど、その次の瞬間、タージ・マハルの周辺で生活していた他の子どもたちの姿が頭をよぎりました。あの子たちは、どうなるのだろう?教育も収入も十分に受けられず、年老いていくのだろうか… それは、ダメだ!と思い、「子どもたちを助けたいけど、どうしたらいいの?」と、想いを打ち明けました。 その友人は、「父親の力を借りるのではなくて、あなたが力をつけなさい。そのために、ボランティアを紹介するからインドにもう一回行ってみたら?」と提案してくれたんです。 「そうします!」と答えた3ヶ月後。中学校2年生の私は、インドを再訪しました。 孤児が教えてくれた「勉強する意味」 ー子どもたちを助けるために、自分に力をつけようと思われたのですね。 1ヶ月間、500人の孤児が生活する孤児院で、ボランティア活動をしました。私は、日本語の先生でしたが、子どもたちから教わることが多かったです。孤児は、インド政府に名前を登録されていません。そのため、どんなに勉強を頑張っても、公立学校に入れないし、ワクチンがあっても、病院で受付してもらえない。しかし、子どもはエネルギーをたくさん持っているんです。 ある日の授業で、「幸せ?」と尋ねると、小学校2年生の女の子は、「うん!だって、勉強ができるんだもん!」と答えました。私が、「なぜ、勉強ができると幸せなのか」を聞くと、「私の村は、学校に行きたいけど行けない子どもが、たくさんいたんだよ。私は、勉強をできるチャンスをもらってるんだ。だから、幸せなの!」と話していたんです。 愕然としました。学校に行けることを、当たり前だと思っていた私。しかし、両親のいない、この少女は、感謝している。「自分の村に戻って、私が学校を創るんだ。この人生で、頑張るんだ!」と、目をキラキラと輝かせながら夢を語る姿に、胸を打たれました。 そして、決意しました。私は学校に行ける。行かなければならない、と。 売春婦の少女、食料探しの少年 ー孤児に出会ったことで、学校に行ける価値を教わったんですね。 しかし実は、一般の学校に通っていても、問題を抱えている子も多かったのです。家庭環境で、学校に来れない子どももいましたね。 私が所属していたバレーボール部の先輩を最近見かけないなあと、心配になって友人に相談すると、家を追い出されて学校に通えなかったそうで。大きな会社が、彼女の家がある土地を購入したんです。収入源の農園を失い、住む家を追い出されて。物乞いでは生活していけないから、先輩は売春婦として働くことに。女子中学生が、家を失い、お金に困り、家族のために働く世界があるのか…と悲しくなりました。 同級生の男の子も、急に学校に来なくなったので、「どうして、学校に来ないの?」と聞いてみました。「家族に、ご飯を持ってくるためだよ。僕が学校でご飯をもらっても、おじいちゃんとおばあちゃんは、ご飯を満足に食べていないんだ。僕は、賢くないから、収入が高い仕事に就けない。そしたら、今の家族にご飯を持ってくることの方が、大切なんだ」と。 自分ができることで、家族に貢献する男の子。家族の食事が心配で、学校で勉強することを諦めてしまうのか…と、胸がキュッと苦しくなりました。 ータイの公立学校でも、学校に行ける価値を再認識するようになったんですね… 母親の責任は、引きこもりだった自分にある しかし、私も学校に行けない環境に追い込まれてしまったんです。いつものように学校に登校した朝、校長先生に呼び出されました。「あなた、転校するの?」と問いかけられたんです。はじめは、意味がわからなくて、頭にクエスチョンマークが浮かびました。話をよく聞くと、母親が数日前に退学届を提出したそうなんです。校長先生と別れ、すぐにバスで自宅に帰りました。 子どもの学費を抑えたいと話す、ネグレクトの母親。日本で暮らす父親に相談し、「お母さんなんて、もういらない!」と言い切りました。 でも、押し寄せてきたのは罪悪感。 「もし、私が引きこもりにならなかったら…? 学校に通えていたら?」 私は、責任を感じ、母親を受け入れ、母と弟3人で別の地域に移住。そして、学校も転校しました。父親は、家族の生活費を稼ぐために日本に留まることを決断します。 ところが、転校先の学校で、三男がいじめに遭い、私の同級生が違法ドラッグを使用しているのを目撃。登校初日で、学校を退学しました。さらに、母親に借金があることが発覚。日本に帰国せざるを得ない状況でした。 それでも、勉強は諦めたくない!と強く願い、日本のインターナショナルスクールに直談判しました。一本一本、電話をして、支払える学費を伝え、入学を交渉したんです。 よく相談に乗っていただいた沖縄のインターナショナルスクールが入学を許可し、私と家族は、沖縄に移住することになりました。 15歳だから、家族だけで生活はできないんだよ? ようやく勉強ができる。私はホッとしました。 しかし、沖縄に移住しても、状況は悪化していったのです。 育児放棄の状態が続き、父親との離婚が決まり、母親はどこかに行ってしまいました。 自宅が静かになると思った矢先、今度は里親保護団体の職員が、毎日訪れるようになりました。「果凜ちゃんは15歳だから、家の責任者にはなれない。弟3人を含めて、保護する必要があるんだよ」と、説明を受けました。しかし、ドアの鍵を閉めて、息を潜めて、ビクビクしてましたね。保護されたら、里親に引き取られる。弟たちを引き裂かないで…と、四六時中、心が落ち着きませんでした。私たちの状況を聞きつけた父の姉が、沖縄に移住を決断。弟たちを守ることができて、ほっとしました。 同時に、頑張るのに疲れてしまって、生きる気力を失っていました。 インターナショナルスクールに通っていましたが、自殺したいと考えていたんです。沖縄の毒へびに噛まれて自殺しようと、通学前や放課後に、ハブを探し歩いていました。 それくらい私は、追い詰められていたんです。 たくましい長男の一言 ー張り詰めていた緊張が解けて、すでに精神は崩壊していたんですね… 父親と離れ、異国の地で4人の子どもの未来のために奮闘していた母親の後ろ姿。やっぱり母親は、世界にひとりだけなんですよね。「大好きな母親がいないと、3人の弟が不幸になる」と思ったので、悲しかった。でも、母親は戻ってこないんですよ。周囲の大人やインドの子どもたちの言葉を思い出して、母親のいない弟たちの苦しみを補おうとしましたが、やっぱり気持ちは前向きになれなくて。すると、長男が声をかけてくれたんです。 「果凜がお母さんと話しているときに、何も言わなくてごめんね。でも、俺らもお兄ちゃんになったよ。だから、お姉ちゃんが思っているよりも、俺らの心配をしなくていいよ」と。私は、一気に解放された気持ちになりました。「母親がいなくなったから不幸になったんじゃない。タイから沖縄に移住して、家族がバラバラになったけど、幸せになれた!と言える生き方をしよう」と、心に決めたんです。 ーご兄弟が、果凜さんを支えてくださったんですね…。波乱を越えて、またポジティブさを取り戻せる果凜さんの強さ、尋常ではないです。 前向きになれたからこそ、インドの孤児院で、二度目のインターンをすることにしました。2019年、18歳の夏です。前回と同様に、日本語の先生として訪れた学校。また、キラキラと輝く子どもの瞳からは想像できない衝撃の事実が発覚します。「ここに来れなかったら、餓死してたの」。私は、いてもたってもいられません。すぐに、学校経営者に相談に行きました。 「1ヶ月の食費は、いくらですか?」。逆算すると、1食で15円が必要でした。「だったら、私が働こう」。そう思って、学校創設者に、話に行ったんです。 「日本で、義務教育を終えたら、ここで就職して働きます!」 しかし、拒否されたんです。 「何を言っているの?あなたは、日本に生まれたことを自覚しなさい。私たちが、一生欲しいと思うものを、あなたは持っているのよ。それを活かして、一回りも二回りも成長して帰ってきなさい」 そこで、気づいたんです。私は、目の前の人を助けるのに必死で、持続的に助ける方法を知らない。私ともうひとりが孤児院にご飯を届ける役割を担っていました。しかし、私たちが現地に半永久的に滞在しなければ、明日の子どものご飯はないんです。問題は、一時的に解決していくのではだめで、継続的にご飯を食べられるためにはどうすればいいのか、ということ。 しかし、当時の私は、解決できる手段を持ち合わせてはいませんでした。孤児院にご飯をとどけるためのお金を、稼げなかったんです。子どもたちが継続的にご飯を食べるためには、稼ぐ仕組みを作るをしかない。そう考えて、インターネットの広告で見かけた、アフリカ起業プログラムである「KOBE STARTUP AFRICA in Rwanda」に応募。19歳の夏に参加しました。 ー自分で、子どもたちのために資金を稼ごうと思われたんですね。 私は、ボランティア活動を継続することで、子どもたちに食料を届けようと考えていました。プログラムの参加者にも、「お金を稼いで海外で生活したい。そうすれば、空いた時間で、ボランティア活動ができる」と伝えていました。私は、慈善活動でお金をもらってはいけないと考えていたんです。 しかし、「ボランティア活動ではなく、事業として仕組みを考えてはどうか」と、ある参加者からソーシャルビジネスという考え方を聞きました。 ビジネスの手法を用いて、地域社会の課題解決を目指すのが、ソーシャルビジネス。インドの孤児院に、ソーシャルビジネスを立ち上げられれば、子どもたちを救える。私は、仕組みを考えられる人になりたいなと、強く思うようになりました。 ソーシャルビジネスの作り手になるために、19歳で始めたクラウドファンディングは、ルワンダの伝統工芸の技術を活かして、アクセサリーを作るというものでした。アクセサリーは日本で販売して、販売利益はシングルマザーが得る。仕事の無いシングルマザーの生活を支える仕組みを作ったんです。目標金額が116万円に対して、支援総額が160万円。 ーその年齢でクラウドファンディング、しかも160万円を集めきるって、新世代の申し子って感じですね。 「このビジネスは、成功させられる!」と自信を持ちました。 しかしその矢先、新型コロナウイルス感染症が世界規模で流行。アクセサリーを生産するための技術を伝えるためには、私ともう1人のプロジェクトマネージャーが現地に渡航する必要がありました。さらに、販売体制を整えるためには、新しい作り手を探す必要もあったんです。 アクセサリーの販売は、一旦、中断しました。 ーそこまでの準備が水の泡。きっと辛かったでしょう。 正直、悔しかったですね。 でも、それをバネに他のソーシャルビジネスを考えました。 ー本当に立ち直りが早い! 考えたのは、アフリカ産のコーヒー豆を、日本に輸入し、カフェで得た収入を、現地の農家に還元する仕組みです。 きっかけは、アフリカの起業プログラムで大学病院の看護師、ビアに出会ったことです。彼女は、農園の食料をシングルマザーの子どもに無料で配布していたんです。アフリカの子どもの致死率が下がらないのは、栄養不足。栄養価の高い農作物を家庭に供給することで、子どもの健康を支えていたんです。 しかし、新型コロナウイルス感染症の流行が拡大し、農園を経済的に支えていた国からの支援が打ち切りに。彼女は、農園の運営に困っていました。そこで、私は彼女にお金をとどける仕組みを考えました。 「困窮した農園を、経済的に支えてほしい!」と、寄付をただ呼びかけるだけではだめだ。なぜなら、支援者がお金を渡す仕組みでは、農園を継続的に支えられないからです。私が抜けたら、インドの孤児院で暮らす子どもに明日のご飯を届けられないのと同じように、支援金が継続的に集まらなければ、根本的な解決にはならないんです。 ー継続的な支援の仕組みが、カフェの経営につながるんですね。 「支援者が、お金を出してでもほしいと思う価値はどこにあるのか?」と考えたときに、ピン!と思いついたのは、コーヒー豆でした。コーヒー農園の経営者と、アフリカの起業プログラムで出会っていたんです。 ルワンダは内陸国なので、輸出入が盛んではない。そのため、年間何百トンも捨てられている。しかし、コーヒー豆の品質は、他国の豆と比較しても香りが香ばしく、味もスッキリとしています。そこに目をつけました。 コーヒー農園の言い値で、豆を買い付けし、日本のカフェでコーヒーを販売。売り上げの5%をビアの農園に寄付しています。 ー今後、果凜さんがやりたいことを教えてください。 得意なことで、好きなことで、さらに社会貢献につながることがしたいです。それこそが私にとって幸せなんです。具体的には、世界中の子どもたちが、自由に自分の未来を描ける社会をつくることなんです。 子どもたちが、目的意識を持って、課題解決に取り組める社会を実現したい。私自身がインドで見つけたように、学校の勉強にどんな価値をあるのかがわかると、自分でどんどん行動していけると思うんですよね。 ーこれからも行動力を武器に活躍される姿を楽しみにしています! ありがとうございました! 取材者:えるも(Twitter/ブログ) 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) 編集者:杉山大樹(note/Facebook) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

「自由を自由につくる」私がエシカルファッションでパラレルワークを決意するまで 一般社団法人TSUNAGU理事 小澤茉莉さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第267回目となる今回は、一般社団法人TSUNAGU理事 小澤茉莉さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 「TSUNAGU」、ライター、立ち上げた団体の運営という3つの草鞋で自由に生きることを決めた小澤さん。その決断の経緯やこれまでの経験について詳しくお伺いしました。 タイのスタディツアーでエシカルファッションに出会う ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 エシカルファッションに関する活動をしている一般社団法人TSUNAGU理事の小澤茉莉です。 一般社団法人TSUNAGUでは、日本の伝統技術である徳島県の藍染めとコラボレーションした商品開発や草木染めのワークショップ、エシカルファッションに関する講演などを中心に活動しています。 ーまず、学生時代のお話を詳しくお伺いできますか? 高校は女子校に通っていて、合唱に熱心に取り組んでいました。高校は女子校に通っていて合唱部に入部し、大会を目標に日々練習をしていました。 大学進学に関しては、当時具体的にしたいことが決まっていなかったのですごく悩みました。ただ、もともと海外に関心があったので、国際関係の大学に進みたいと思っていましたね。 その後入学し国際関係の勉強をする中で、徐々に女性のエンパワメントに関心を持つようになりました。その中で、女性起業家のコミュニティをきっかけに、大学2年生の時にタイへのスタディツアーに参加しました。そのスタディツアーの訪問先は、ナチュラルコットンを使用したアパレルブランドで、そのツアーをきっかけに「エシカルファッション」に興味を持ちました。 ー実際、タイに行ってみて感じたことは何ですか? ツアーで訪問したところはコットンの生産を行っている地域でした。現地でコットンがどのように育てられているかを知ると同時に、ファッション産業全体としてコットンを大量生産する過程で農薬などが原因で環境破壊に繋がっていることを知りました。また、タイ国内でも地域によって経済格差が大きいという状況を知りました。そうした環境問題や労働格差といった社会問題への解決に向けた「エシカルファッション」に興味を持つようになりました。また、実際に生産者さん達と交流する中で、生産者・消費者を超えたコミュニティとしてのファッションの形がとても心地良いなと感じました。 ーそれでは今の活動の軸でもある「TSUNAGU」とはどういった出会いだったのでしょうか? 日本に帰国し、実際に日本におけるエシカルファッションの現状に関心を持ち、調べてみたところ、草木染めランジェリーブランド「Liv:ra(リブラ)」の存在を知りました。エシカルファッションに対して熱意を持って活動されているのを見て、代表と話したい気持ちになりました。その後実際に代表とお話をする機会をいただき、日本の若者にエシカルファッションを広めていくために「TSUNAGU」を構想されていたことを知り、共感しました。私自身も、多様な「エシカル」のアプローチの中でも特に「地域のものづくり」や「伝統技術」に関心があったので、TSUNAGUに参画させていただくことになりました。 ー「TSUNAGU」での活動を詳しくお伺いできますか? まず初めにクラウドファンディングを用いて、徳島県の藍染めとコラボレーションしたワンピースやTシャツなどを受注生産しました。どこで・誰が・どのように作っているのかという生産背景や、価格の内訳を公表するなど、情報の透明性を大切にしています。 ※クラウドファンディング…インターネットを通して自分の活動や夢を発信することで、想いに共感した人や活動を応援したいと思ってくれる人から資金を募るサービス。 また、身近に草木染めを体験できるようなワークショップを実施したり、学校でエシカルファッションに関する講演をさせていただきました。 「世界青年の船」への参加がきっかけで「前向き」な休学を決意 ー大学時代1年間休学をしていたそうですが、休学をした経緯をお伺いできますか? 休学を決めた1番のきっかけは、内閣府の「世界青年の船」という国際交流のプログラムに参加したことです。 「世界青年の船」は世界各国から集まったメンバーと船で共同生活をし、世界各国を回る国際交流プログラムです。その当時、私自身エシカルファッションを本格的に探究したいという気持ちはありましたが、明確に休学を考えていたわけではありませんでした。そうした中で、「世界青年の船」に参加していた友人の中に休学をしてアクティブに活動する方がたくさんいて、その方々のパッションに影響を受けました。同時に、私ももっとエシカルを突き詰めていきたいと思い、大学3年生と4年生の間の1年間休学をすることを決めました。 ー大学3年生で休学を選択しエシカルファッションを学ぶことで、小澤さんはどんな考えに至っているのですか? デザイナーさんや生産者さんなど直接製品に触れて生産している方々と関わることで、「エシカル」を文化的に考えていくことが大切だと思うようになりました。 今まで私自身「どうしたら社会課題がもっと広く認知されるのか?」というように、自分の「外」にある社会課題に対して行動を起こしたいという気持ちが強くありました。ですが、エシカルファッションを実践する方々と交流する中で、そもそも自分がワクワクすることを見つめることの大切さを実感しました。 「社会課題」というのは誰が見るかによって「課題」になるかが変わってくると思っています。つまり、「自分の経験」というレンズを通して「課題」になっていく、というか 。実は、社会課題と呼ばれるものは、自分の内側の鏡のような、そんなものだと思っています。なので、自分の「外」にある社会課題に向き合うには、自分の「内」にある感情と向き合う必要があるのではないかな、と気づくようになりました。 「社会」に対して自分は何ができるかを考えることも大切だとは思いますが、そればかり考えてしまうと、自然と自分自身がバーンアウトしてしまうと思います。私自身もそう感じることが多々ありました。自分が消耗しては元も子もないので、もっと自分がワクワクすることをしていくことがすごく大切だと気がつきました。 それと同時に、自分が卒業したらどうするかを考えた時、新型コロナウイルスの影響で留学できないこともあり、大学院への進学や就職は自分の中でしっくりこなかったんです。 そして、休学をしたことで自分が本当に探究したいことを軸に活動する楽しさを実感し、卒業後は「TSUNAGU」、ライター、そして立ち上げた団体の運営という3つの領域でパラレルに活動すると決めました。 ライターとしては、自身が興味のある「日本発サステナビリティ」の形を探究するべくライティングや映像などを通して発信していく予定です。 また、団体の運営に関して、昨年一般社団法人Social Good Nativesを立ち上げており、サステナビリティに関心がある方や実際にその領域で活動をされている方のコミュニティを作っています。 同時に、私自身も今後の「働き方」や「生き方」を考えていきたいと思っています。今って、受験=> 大学進学=> 就職、のような一本道が主流ですが、一人一人の生き方はもっと多様ですよね。大学も行きたかったら行く、起業もしたいタイミングでするなど、人生はもっと「自由」でいいと思っているので、そうしたライフスタイルについても発信していきたいと思っています。 「エシカルでメシを食べる」ために、「自由」を自由に作る。 ーずばり、「エシカルでメシは食べられるか?」について詳しくお伺いできますか? エシカルで「メシを食べる」のは「どう食べるか」「どんな物を食べるか」が重要になると思っています。なので、自分が大切にしたいことによって活動内容や働き方が変わっていくと思っています。 私はそもそも、自分の感性を磨く時間を大切にしているので、例えると、「まずは自分が本当に美味しいと思える物を食べたい」イメージです。自分で「素材」を選んで、さらに自分で「料理」をするのが今のイメージを叶えられる手段だと思っています。 ー最後に小澤さんの今後のビジョンをお願いします! 自分が感じる「自由」を自分でつくっていこうと思っています。「自由になりたい」という言葉がありますが、私は自由というものは「なる」ものでなく「つくる」ものだと思っています。私自身、そうした自由な環境をつくり感性を深めていくことに楽しさを見出しているので、そういった自分の働き方・生き方の部分も今後発信していきたいですね。自由を作るためには、自分の心が自由であることが大切。だからこそ、自由に「自由」をつくることをこれからもしていきたいと思います。 ー短い時間で濃いお話をありがとうございました。小澤さんの今後のご活躍を楽しみにしています! エシカルファッションを広める活動をする小澤さんには、この記事には書き切れないお話もたくさんあります。もっと知りたい方はぜひ小澤さんのnoteをご覧ください! 小澤さんnoteはこちら 執筆:ゆず(Twitter) インタビュー:増田稜(Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

大学中退。2度の起業。岡野亮義の個人の信用をアップデートする方法

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。 第285回目となる今回のゲストは、株式会社Parame代表の岡野 亮義さんです。 大学を中退後、1度目の起業。そして、大手企業への転職。株式会社Parameを創業した岡野さん。岡野さんが2度目の創業に至った経緯やこれまでの道のりを、過去の原体験からお聞きしました。 ものづくりに没頭した幼少期 ーそれでは早速ですが、自己紹介をお願いします。 株式会社Parame会社の代表の岡野亮義です。会社としては目指すべきビジョンミッション、個人の信用のアップデートといって、具体的には、テクノロジーの力で学歴や職歴、資格に相当するような新しい個人の信用指標を作るというようなところを目指しています。 具体的なサービスとしては、Parame(パラミー)というビジネスSNS領域のサービス展開をしていて、第三者からの推薦状を自分のParameアカウントにストックしておくと、たとえば推薦状が自分が仕事を受けるときや、転職するときのじぶんの信用指標になるイメージです。サービスに合わせて指定企業に、Parameアカウントと連動していて、簡単にオンラインでリファレンスチェックができるサービスを運営しております。 ー既存のリファレンスチェックとParameのリファレンスチェックのちがいを教えていただけますか? 既存のリファレンスチェックは、今まではリファレンスチェックのデータは基本的に1回限りの使い捨てデータになっていたんです。でも、我々のサービスは、1度受け取った良いリファレンスに関しては、登録者自身のParameアカウントに情報がストックされていくので、何度でも活用が可能なんです。 そのため、人事課に応募が来た時点で、応募者のある程度のリファレンスがたまっていて、足りないとこだけちょっと聞けるみたいな世界観を作ることを中期的な目標にしています。 ーParameのサービスで、工夫されている点はありますか? 企業が実施したリファレンスチェックの結果は、受け取った登録者自身のParameアカウントへストックされていくのですが、例えば「この人の弱みは何か?」「ハラスメントがないか?」等のちょっとリスク面やネガティブな点について聞いた質問の回答まで、本人に開示されてしまうと、記載者が遠慮して、正直に書けないといった課題もあります。 なので、基本的に弱みやネガティブな点について聞くような質問への回答は本人に開示されず、企業担当のみが見れるようになっており、基本的に強みや長所などポジティブなリファレンスの記載が、登録者自身のParameアカウントへストックされる仕組みになっています。 ー幼少期はどんなお子さんだったのですか? 今も習性としてずっと残っているんですけど、ゼロから物を作るっていうことに対するモチベーションが生まれたときから高かったようです。 エジソンみたいな発明家になりたいと思っていました。ものづくりが好きで、レゴを昼から夜までずっとやってるような感じの子どもでした。 ーなるほど。ものづくりに幼い頃から関心が高かったと思うんですけど、小学生の頃の印象に残っている出来事はありますか? 小学校は規則を全然守っていませんでした。0歳から小学6年生まで大阪にいて、中学から親の仕事の都合で関東に引っ越しをしました。 小学生のときに、中学校受験のために、塾に通っていたんです。塾で小学校の基本的な勉強は塾で学んでいたので、なにもしなくても成績は良かったです。 印象に残っている出来事は、毛玉の糸を学校の柱に結びつけて走ったことや、夜の学校に入って怒られたことですね。毛糸の玉を持って校内を毛糸まみれにしたときは、こっぴどく怒られちゃいました(笑) ーええー!それは破天荒すぎます!岡野さんってキャラ的に結構真面目な方だと思っていたのに、意外すぎます(笑) 面白担当だったのかもしれないです。小学校では勉強ができたし、テストも準備なしで良い成績を取れていたので、小学生のときが社会的地位が1番高かったような気がします スクールカーストのトップからの転落 ー先ほどの話でいうと小学校までは大阪に在住されていて、中学から中学受験を機に東京に出てきたんですか? そうですね。もともと親が東京出身で、大阪で父親が働いていたから大阪に住んでいました。でも、僕が中学に上がるタイミングで東京に戻ることが決まってたらしくて。 親には「公立の中学に行ってもどうせ友達がいない状態から始まるから受験したほうが良い」と親に乗せられというロジックの元、受験勉強をして、東京の私立の男子校に入学しました。 実は小学校時代からサッカーをしていまして、中高の6年間も部活のサッカーに明け暮れていました。勉強は元からそんなに好きじゃなくて、ずっとサッカーのことばかり考えていたような気がします。 ーなるほど。部活を主軸に学校生活を営まれてたと思うんですけど、部活以外の部分で、自分のパーソナリティー的には何か変化はありましたか? 小学校は、学校の人気者みたいな位置付けだったんですけど、中高時代に6年間ずっと週6日本気でサッカーをしてましたが、一度もトップチームの試合に出れず、ずっとベンチだった。 努力しても思うように結果が出ない。そして、レギュラーになれないという苦悩がずっとありました。小学校時代は、学校に行かずとも好成績でスクールカースト上位のような感じでしたが、中高時代は練習してもしても結果がついてこず、弱者の気持ちが分かるようになった気がします(笑) ー部活動を6年間やり続けられるのはすごいですね。ちなみに部活以外の学校生活で印象に残ってることはありますか。 男子校だったので、すごい楽しかったですね。やんちゃな奴もいるし。女の子はいないから自由なんです。学年には400人程度同級生がいたんですけど、全員顔見知りで、全員友達みたいな感じでした。 でも、大学受験に差し掛かったときに、高校サッカーは引退が遅いという問題に直面しました。うちの学校は進学校っぽい側面もあったので、部活のメンバーの半分ぐらいは最後まで残らず、受験勉強に専念します。 僕は最後まで部活をしながら勉強も両立していました。理系を専攻していたので、早稲田の理系を志望していたんです。でも、部活を引退して、いざやるぞとなったときに、推薦指定校推薦の一覧がきたんです。 指定校の一覧に上智大学の理工部があったのに応募者が0。僕は第2志望に上智を入れていて、応募の条件を満たしていたんです。「俺は今上智に立候補しただけで、受験が終わるんだ」と部活を引退して1週間後ぐらいに思って、受験勉強すんの嫌だし、この推薦もらおうかなと思って、受けたらひょいって受かった。指定校推薦で決まって、みんなが受験勉強をする中、ボーッと終わりましたね。 大学中退、1回目の起業 ー大学では、どんな大学生活を送っていたのですか? 上智の理工の物質生命理工学部の科学料は、受験勉強で前提知識がある程で、授業が進むんです。 でも、僕は受験勉強をしていなかったので、なにを言っているのかがまったくわからなくて、単位を落としまくってました。単位は取れない状態が続くと、大学が楽しくないと感じるようになって。大学に行く意味がわからなくなって、だんだんと大学に行かなくなりました。 ー思うように勉強が進められなかったりなどの難しさを大学に入学して感じられたと思うんですけど、勉学以外はどういう時間の使い方をされていたのですか? 最初は学内のサッカーサークルに入ったのですが、サッカーは10年以上やったし、大学についていけなくて、つまんねえなと思っていたので、サッカーサークルも辞めて学外で色々やるようになっていきました。 発展途上国を支援する学生団体に入って、ラオスの村で運動会を開催して、チャリティーを寄付したりもしましたね。 1番印象に残ってるのは「Life is Tech!」っていう企業で、中高生にプログラミングを教える企業の学生スタッフとして、中高生にプログラミングの指導をしたり、自分自身もプログラミングを覚えたりもしました。 プログラミングのコードを書いていたら、仕事がいっぱい来るようになったので、受託してアプリを作ったりもしましたね。 ーなるほど。プログラミングにはもともと興味を持たれていたんですか? 2011年に大学に入学してるんですけど、当時はスマホができた瞬間で、アプリとか作りたいみたいな漠然な思いはあって。そもそもプログラムに関しては無知でした。大学の先輩が割とゼロベースでプログラミングを教えてくれたり、「Life is Tech!」も紹介してもらいました。 最初は研修を受けて、その後に中高生に教える現場に入るっていう。プログラミングを教わっていて、もともとゼロから物を作るのが好きだったので、自分で思い描いたものを作れるプログラミングってすげえって思って。大学はプログラミングに1番はまりました。 ープログラミングとの出会いが大きな変化をもたらしたんですね。ちなみにその後の大学生活について教えていただけますか? 大学3年生ぐらいから大学を休学して、4年生になったときに、2年ほど卒業が遅れることがわかっていました。 大学は行ってないけど、同期の友達は多くて。同期の友達がたくさんいるのに、単位が取れない。 同期がいなくなったらもっと単位が取れなくなってしまうと卒業のビジョンが見えなくなって、もう卒業できないかもなって思って。 みんなが卒業するタイミングで、大学を辞めて、じぶんで会社を作りました。 起業までの道のり ー大学を中退して起業されたとのことなんですけど、起業にはもともと興味があったんですか。 大学1,2年のときに興味を持ち始めて、プログラミング学習するようになってから、アプリの最先端どこなんだって調べるようになりました。 シリコンバレーあたりの起業家に強い関心を抱くようになって、調べていくにつれて、起業をしてみようかなと思いまして。学生時代から新卒の給与ぐらいは受託で稼げていたので、やめてもなんとかなると思って、起業しました。 ー受託の仕事を学生時代していたとのことなんですけど、どうやって案件を獲得していったのですか? 本当に友達が通っていた高校の先生に、個人的なWebサイトを作ってほしいと言わtれたのが最初の案件です。Webサイトを3万円ぐらいで作って。最初は作ること自体が勉強だったので、受注金額にかかわらずちゃんと作っていると、紹介ベースでいろんな案件が入ってくるようになりました。 ー岡野さんは友達が多かったり、周りにたくさん応援してくれる人がいる印象なんですけど、信頼を得るために意識していたことはありますか? 僕は根底に友達を増やしたり、作りたいって価値感が強いんです。それに対して、幸福度を感じる。無意識的なんですけど、ありがたいことに友達がいっぱいいる人生を歩ませてもらってるみたいな感じです。 ー人徳と愛される部分が融合して、結果たくさんの人が集まる。仕事で信用を得るために、こだわりや意識されていることはありますか? 割とそのあたりは真面目な方だったのかラッキーだったのかなと。 中高生時代は、体育会の中で揉まれていたので、常識には非常に厳しい環境でした。仕事もお金をもらっているからちゃんとやらないとって感じです。あとは仕事でいいものを作ること自体が楽しみでもありました。 大きな組織の中を、じぶんの目で見たい ー起業して「個人の信用をアップデートする」をミッションに起用されていたと思うんですけど、会社自体はどのような変遷を遂げていったんですか。 大学時代からテクノロジーの力で、新しい個人の信用指標を作れるだろうと思っていて、その考えがいまの会社のミッションになっていきました。 人間には発想力やプレゼン能力など、いろんな能力があると思うんですよ。 でも、それって明確に計測することできないじゃないですか。いろんな能力を定量的に偏差値で出して、その結果が登録者の信用補完に繋がるみたいなコンセプトです。 ただグロースとユーザーのニーズを見れていなかったため、事業として伸ばせなくて... 受諾案件があったので、生計を立てれていたんですが、学生の延長線上でしかなかったので、2年弱で、会社を1回閉じて、1回大きな組織を見ていきたいと思うようになりました。 ー会社を閉じて、アクセンチュアに入社を決めたきっかけはなんだったのですか? じぶんで会社を運営してみて、日本のスタートアップのシステムを知れたので、逆に超大きい組織を見てみたいと思って、いろんなところを見ていたら、コンサルティングファームのアクセンチュアが、入っていいよと言ってくれたので、入社することにしました。 ーなるほど。アクセンチュアではどんなお仕事をされていたのですか? アクセンチュアでは、前職の起業経験が見られたのかわかんないんですけど、基本的に社内でもめずらしい新規事業の立ち上げの専門部隊に配属になりました。 アクセンチュアでは顧客のほとんどが、大企業になりますが、大企業が新規事業を立ち上げたいってなったときに、なにをやればいいかわからないみたいな課題を抱えるクライアントに対して相談役になって、います。たとえば御社が持っているアセットとブロックチェーンやAI、VRなどを組み合わせて使うと、こういう事業が立ち上げられるんじゃないでしょうかみたいな提案をするんです。 提案後は実際に、事業のプロトタイプを作って、半年ぐらい回してみてそれが本当に事業として成立するかを検証していました。 ーなるほど。0から1を生み出す体験を幼少期からされていた岡野さん的には強みが発揮できそうなお仕事ですね。 おっしゃる通りで、仕事はとても楽しかったですし、社内で0から1を作るコンテストであるデジタルハッカソンの優勝もして、その辺りは幼少期からずっと親和性のあることをやらせてもらってたかもしれないですね。 ーなるほど。アクセンチュアに入社して2年で再度起業の道を選択した理由はなんだったのですか? アクセンチュアに入る1日目からMAX2年にしてまた起業しようと思っていて、面接時にも伝えていました。でも、本当は1年ぐらいでやめようと思っていた。プロジェクトが2年ぐらいずっと続いて、プロジェクトの区切りが一旦ついたタイミングで、また起業しようと決意しました。 ーちなみに2年にこだわっていた理由はなんだったんですか? 最初は半年ぐらいで退職しようと思っていたんですけど、途中でプロジェクトを投げ出すのは大人として無責任かなと思っていて、一旦そのプロジェクトの区切りがいいとこまではやろうと思って、それがだいたい2年ぐらい続いた感じですね。 あとは大きい会社を見ることで、大きい会社の仕組みが少し見えたような気がして、それでもやっぱりスタートアップの方が好きだなって強く思いました。 個人の信用をアップデートしていく ー2回目の起業は、以前の起業とどう変わりましたか? 変わったことといえば、1度目の起業は大学中退して、身元不詳人みたいな感じで起業してたんですけど、アクセンチュアを出た後は前職アクセンチュアなら最低限ちゃんとしてるだろうみたいな感じで、見てもらえるのがなんかすごい感じましたね。 アクセンチュアでもらっていた給料は、入社時から全部資本金に回そうと思っていたので、1度目の起業よりもちょっとだけ資本金は増えていますね。 ー「個人の信用のアップデート」を目指す観点は変わらない部分もあると思うのですが、サービスややりかたについて、大きく変わった部分はありますか? ゼロベースで、事業案を作ってやってるので、サービス内容はもうガラッと変わってます。 僕が会社を辞めた時は、具体的な事業案を持っていなくて、やりたいゴールだけあったんです。世界中の信用スコアをリサーチしていく中で、色々なものが見えてきて。 色んな世界中の「信用スコア」のような事業を調べる中で、例えば中国などだと信用スコアの元データとなっているものが大きく分けて2種類あります。1つは人の金銭支払データで、もう1つが人のパーソナリティーデータ。 中国のアリババなどはQRコード決裁データなどから金銭支払い能力がある程度可視化されるので、このユーザーはどれくらい信用レベルがあるかといったような履歴が残っています。 それに加え、他ベンチャーなどが持っているパーソナリティ面のデータ、例えばSNSの情報やチャット履歴などのデータと連携し、更に強固な信用スコアを算出できるようにしています。 日本でも、LINE PayやPayPay、メルペイなどが、QRコード決済データから、信用スコアリングすると発表をしていました。 そこで、日本でも同じようなマーケット構造になるかもという仮説を持って、金銭支払データではなく、パーソナリティーデータからの信用スコアリングの構築であれば、我々みたいなスタートアップでも、戦える道はあるんじゃないかと考えました。 そうした仮説をもとに、Parameは個人ユーザーは、第3者からの自分宛てへの推薦データをParameアカウントへストックができて、企業ユーザー側からは、そのデータを元にリファレンスチェックが出来るというサービスを提供するというコンセプトに至っています。 ーなるほど。現在は実際に会社を作っていく仲間集めに取り組まれてるとお聞きしたのですが、組織づくりで変わった点はありますか? 組織に関しては、まさにこれから作っていくことがぼくの大きなタスクです。昨年末に資金調達をして、これから組織を作っていかないとなと思って、いろんな人といろんなお話をしつつ、事業とチーム拡大に向けて組織を作っていってるみたいな状況ですね。 ー今の事業を作られたり、組織を作られたりする上で、自分の支えになっているものはありますか? もとから個人の信用指標を作りたいみたいな気持ちがあったので、それを作りたいって思ってるので、それを作る努力をしてるみたいな感じですかね ー人間は一般的にモチベーションをずっと持ち続けたり、志を持って続けるのって結構難しいんじゃないかなっていうのを自分も含めて思ったりするんですけど。そういう強い思いを持ち続けられるのはどうしてなんでしょうか? 何か特別な何かをしているとかではないです。特にモチベーション保とうという努力はしてないけど、自分のやりたいことをやっているので、別にモチベーションが下がることはないって感じです。 ーでは最後に、岡野さんの今後の展望について教えてください 我々の事業は繰り返しになっちゃうんですけど、個人の信用をアップデートしていきたいと思っています。 現在Parameは、リファレンスチェックという形式からその人のリファレンスデータを集約するプラットフォームになっています。 でもあくまでリファレンスデータはその人の信用データを構成するデータの1つという位置づけで、中長期的には例えばユーザーのリファレンスデータのみならず、そのユーザーの金銭支払履歴や生活データからより精緻な個人の信用レベルが可視化出来る信用スコアのようなデータ作りに取り組みたいと思っています。 企業側の利用ニーズもリファレンスチェックのみならず、Parameアカウントの信用情報がローンの与信審査の補完材料になったり、はたまた婚活や恋愛時に役に立ったりと、色んな利用法のアイディアは持っています。 Parameが目指す世界観は、「学歴や職歴、資格に相当するような新しい個人の信用指標を作ること」だと思っています。 たとえば初対面の人を会って数分で、その人がどんな人間か判断するってなった時、判断が難しくて学歴や職歴、資格などで判断するしかないじゃないですか。 でも、その時に「人を判断する時に、学歴や職歴も大事だけど、同じくらいParameアカウントの信用スコアも大事だよね」といった世界観を作っていきたいと思っています。 ーこれまでは履歴書の中で判断するしかなかったものが、Parameのサービスが発展し、個人を深く知ることができるようになれば、良いなと思いました。岡野さん、本日は貴重なお時間ありがとうございました! リファレンスチェックにご興味ある法人の方はこちら→https://parame.jp/recruit Parame個人アカウントの無料作成はこちら→https://parame.jp/lp 執筆:サトウリョウタ(Twitter) インタビュー:高尾有沙(Facebook/Twitter/note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

日本のキャリア教育をアップデートする!全ての若者に人生を夢中になれるキッカケを与える株式会社Beyond Cafe CEO・伊藤朗誠

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第246回目となる今回は、株式会社Beyond Cafe CEO 伊藤朗誠さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 「日本の教育界を変えたい」そう語る伊藤さん。伊藤さんがそう決断するまでのエピソードや半生について詳しくお伺いしました。 「言葉は魔法だ」恩師の一言で人生が変わる ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 株式会社Beyond Cafeの伊藤朗誠と申します。 「日本のキャリア教育をアップデートし、全ての若者が働くを通じて人生に夢中になれるキッカケを創出する」をビジョンに掲げ、主に大学生向けにキャリア教育支援を展開しています。現在、ユーザー登録数は累計6万人、約200社の企業様に利用いただいています。 元々は、実店舗を保有する「BEYOND CAFE」を運営していました。大学生向けに無料で使えるフリースペースを運営し、社会人や経営者の方と学生が自由に交流できる場を提供していたんです。 現在は新型コロナウイルスの影響で対面の場に足を運びにくいため、実店舗でオープンしていたオフラインの場からオンラインの場に切り替えました。オンラインに切り替えたことで日本全国、海外の大学からの利用者も増え、サービスの幅が広がりましたね。 また、「教育」については小学校時代の経験をきっかけにいろいろと考えるようになり、以前から興味を持っていた分野です。小学校以降も様々な経験や人との出会いがあり、現在のビジョンにたどり着きました。 ーここからは過去に遡って伊藤さんの人生をお伺いしたいと思います。小学生の頃はどのような子どもだったのでしょうか。また、当時印象的だったエピソードを教えていただけますか? 小さい頃からとにかく背が高く、小学6年生で170cmを超えていました。身長が大きかったことと1人っ子だったことから兄貴分な性格で、同じマンションに住んでいた子たちを連れて、よく遊びに出かけていましたね。 印象的な出来事としては、父との思い出が記憶に残っています。 小学生だったある日の早朝、父に「社会科見学に行くぞ」と連れ出されたのは「西成」。西成はホームレスの方が多いことでもよく知られているのですが、その日も朝から食料配給で長蛇の列ができていました。その様子を見ていた僕に、父がいきなり「悪いことしたらここに捨てるからな!」と言ってきたんです......!驚きました(笑)。 父はとても厳しい人で僕のことを褒めることがなかったので、小学生の頃は褒めてほしい気持ちが大きく、承認欲求が強かったですね。 また、小学生の時の恩師との出会いも僕のその後の人生に大きく影響しました。 身長が大きかったこともあり、当時の僕は喧嘩に強かったんです。あの頃は幼かったこともあり、僕にちょっかいを出してくる子に対して暴力で解決しようとして先生に怒られたことがありました。ですが、僕はちょっかいを出してくる人が悪いと思っていたので、僕だけを叱る先生の指導に強い違和感を感じていました。 そんな時、僕の話をしっかり聞いて向き合ってくれる一人の先生と出会ったんです。その先生が僕に「言葉は魔法だ」「言葉があるから人は分かり合える。あなたの『暴力』という問題を私は言葉で解決してみせる」と伝えてくれて......。先生の言葉を受けてからの僕は喧嘩をしなくなり、その分余ったエネルギーをバスケットボールの練習に向けることができました。   ー恩師や厳格なお父様と過ごされてきた小学生時代を経て、中学生時代は部活に熱中されようですが、部活動の中で印象的なことはありますか? 中学校では、高身長を活かしてひたすらバスケットボールに打ち込んでいましたね! 学校生活のほとんどをバスケットボールに捧げていたため、地区選抜メンバーに選ばれるまでにはなることができました。しかし、身長の高さだけでは勝てない現実にぶち当たったんです。通っていた中学校の部活内では高身長を活かして戦うことができたのですが、地区選抜ともなると周りの技術レベルが圧倒的に高く......。これまで僕のいた世界がいかに狭かったのか、思い知らされましたね。   ーバスケットボールをとても頑張っていたのですね。スポーツ以外でも頑張っていたことはありますか? バスケットボールと並行しながら、僕なりに勉強も頑張っていましたね......!父に褒められたい気持ちは引き続き強く、小学校の時は勉強で1番を取りたいと思っていました。猛勉強の末中学校を受験し、大学付属の中高一貫校に進学したんです。 入試の時にいい成績をとることができたため、入学時の成績から順位を下げたくないと思っていました。現状をキープするために勉強も頑張っていましたね。 また、バスケットボールに関しては身長だけでは勝てない環境に身を置いたことで、改めて身長以外の武器を身につけるにはどうしたらいいのか、試行錯誤しながら探しました。結果的に、バスケットボールは大学まで続けていましたね。   「ゴールをわからずして目標を達成できる?」僕のルーツになた考えとの出会い ー高校でもバスケットボールを続けていらっしゃったそうですが、大学進学はどのような受験勉強をされていのでしょうか? 高校時代は、全10クラスの中で唯一の特進クラスに在籍していました。しかし、同じクラスには頭のいい人が多いため、部活に夢中になっていた僕はいつの間にかクラスの中で下位の成績になっていたんです。 部活を引退し、いざ受験勉強に集中しようと思った直後のセンター試験の過去問では、200点中82点の成績。この結果に衝撃を受けた僕は、本腰を入れて受験勉強をスタートするために予備校へ通うことにしました。 そして、この予備校である先生と出会ったことが、僕の人生のターニングポイントになったんです。   ーどんな出来事があったんですか? ある日の授業前、予備校の先生が「なぜ大学へ行きたいのか、なぜこれから英語の授業を受けるのかこの紙に書いて」と、僕たち生徒に白い紙を配布したんです。そして、こう言われました。 「何も書かれへんやつは、想いがない。そんなやつは大学に受からへん。俺が担当した生徒の進学率が下がるだけやから、俺の授業受けるの辞めてくれ」と......。 とても驚きました(笑)。生徒の中には先生の発言に反感を抱き、授業を辞退する人もちらほらいたほど。 一方、僕は先生にそこまで言われたことで逆に悔しくなり、自分自身の過去を振り返りながら、渡された白い紙を一心不乱に埋めていきました。   ーどのようなことを書かれたのでしょうか? 父が自営業だったこともあり、幼い頃から起業や経営に漠然とした興味を持っていました。僕もいつか起業にチャレンジしてみたいと思っていることや小学校の先生との出会いをきっかけに「教育」分野に興味関心があることを綴りました。 すると、僕が提出した紙を読んだ先生から「君の志望大学に合格するためにはどうしたらいいと思う?」と問われ、僕は正直に「英単語を覚えて…...」と、その時考えていた対策を一つひとつ答えました。すると、先生から「志望大学の入試過去問題集は解いたことがあるのか?ゴールをわからずして目標が達成できると思うか?」と言われたのです。 今思えば当たり前のことなのですが、当時の僕には先生の言葉が真正面から突き刺さり、物凄く腑に落ちました。この瞬間からエンジンがかかり、一気に10年分の入試過去問題集を解きました。 すると、だんだん勉強がRPGゲームのように思えてきて、すごく楽しくなってきたんです。RPGゲームは自分のレベルを上げることで敵を倒すことができるのですが、同じように勉強もやればやるほど知識が豊富になり、それまで解けなかった問題がどんどん解けるようになっていくんですよね。 勉強を楽しめるようになったことで主体的に勉強に取り組むことができ、自立にも繋がったと感じています。センター試験の過去問を初めて解いた時には82点だった僕が、最終的には191点を取ることができました。   ー82点からの191点!物凄い飛躍ですね!そしてその先生との素敵な出会いは、おそらく伊藤さんの中でも一生の出会いになったと思うのですが、目標としていた志望大学への合格は達成されたんですか? いえ、実は志望大学には届かなかったんです。この経験は僕にとって大きな挫折でした......。 ですが、予備校の先生のおかげで「新しいことに取り組むときは、最初に人生のゴールを考える」ことを学ぶことができたので、「ゴールを達成する手段は一つではなく、志望大学へ行くことができなくても別の選択肢から同じゴールを目指せる」と思い、気持ちを切り替えることができました。 予備校の先生との出会いが、志望校に落ちてしまっても前向きになれたきっかけだったので、先生には本当に感謝しています。 また、僕たちが提供するBEYOND CAFEのブランドコンセプトは「Meet Yourself 〜意義に出会い、本当のあなたに出逢う。 〜」です。これも「なぜ働くのか」というゴール設定なしに仕事をするのはそもそもナンセンス、という僕のマインドが影響しており、過去の経験が活きています。   大学生にして、厳しい営業マンの道へ。熱量に溢れたキャリア変遷とは ー大学受験期はご自身の大きな転換期にもなったと思うのですが、受験を乗り越えて入学した大学での生活はいかがでしたか? 必死の受験を経て大学へ入学したものの、学業というよりはサークルやインターンに勤しんだ毎日でした。 1年生の頃は、いわゆる「大学生らしい遊び」を満喫しました。ですが、次第に「このままではあかん」と考えるように。何の能力も持たない僕が世の中でどこまでチャレンジできるのか試してみたい、と思ったんです。   ー具体的には、どのようなことに挑戦されたんですか? 2年生の夏休みに、タイ・マレーシア・シンガポールを1人で縦断しました。しかし、1人旅初日に乗った飛行機で『地球の歩き方』という旅行本を忘れてしまい、早々に冒険の地図をなくすという失態を犯しました(笑)。 手持ちで唯一の冒険の地図を失い、英語も受験勉強で学んだ程度だったため不安でしたが、なんとか自分が納得できるところまでやり切ることができました。 現地ではお金を稼ぐことに挑戦したいと思っていたため、白い無地のTシャツを購入し筆ペンで購入者のお名前を漢字で書くパフォーマンスに挑戦してみることに。すると、想像以上に評判がよかったんです!この時の成功経験は、僕にとって大きな自信に繋がりましたね。 帰国後は、経営者の方へ直接会いに行き、様々なお話を伺いました。そこで「社会では営業力が大事」とフィードバックをいただいたんです。「なるほど」と思った僕はTwitterを開きいろいろ調べていたところ、『学生営業組織』というなんだか怪しいアカウントを見つけまして(笑)。ここから僕の人生史における次章が始まりました。   ーここからが新しい章の始まりとは、具体的にどんな活動をされたんですか? 大学在学中からKDDI社のauひかりネット回線の営業をしました。個人宅へお伺いし「ネット回線のご契約はいかがですか?」と営業するのですが、お客様に何度も怒られて、この時は本当に辛かったですね。 そして、1人の同僚との出会いが僕の仕事のスタイルに大きく影響を及ぼします。 その日もあるマンションのお宅を1件ずつ訪問していたのですが、ふと下の階を見ると、マンションの敷地内を歩く住人のお母さんが。その姿を見つけたその子が、「お母さ〜ん!!」と叫びながら上から下へ階段を駆け下りていったんですよ。そしてなんとその場で受注。それまで見たこともない営業スタイルを目の当たりにして、本当に衝撃的でした。 僕は「なりたい人を思い描きその人になりきって演技をすれば、次第に自分にもその人のマインドセットが根付いてくる」という「俳優理論」が存在すると思っています。当時、僕も彼になりきって営業したことでどんどんと営業成績が伸び、最短でリーダーに昇格、そして組織として関西で一番、日本で一番の成績を残すことができました。   ー大学生でこんな経験ができるんですね!この営業経験から学んだことはありましたか? 「やりきることの大切さ」ですね。かなり辛い仕事でしたので、正直途中で辞める人も多かったんです。その状況で心折れずに2年間やりきったことが自信に繋がりました。 僕は、人が変わるためには「教師」「教材」「教室」の3要素が大切だと思っています。 「教師」は能力を引き揚げるメンターのような存在、「教材」は自分が解く問題、そして「教室」はそこにいる仲間を指します。この3つが揃うことで自分が成長できると感じていました。 当時の職場には成長できる要素が揃っていたと感じています。教えてくれる先輩方の存在、そして営業を通して成績を残すという難問があり、一緒に働く仲間がいる。だからこそ、僕はこの経験を経て能力を向上させることができたと思っています。   ー本当にすごく貴重な経験をされたんですね。その後、就活ではどのような方向性で就職したいというのは決まっていたんですか? これまでの先生方との出会いから得た経験、そして経営者になる夢も諦めていませんでしたので、「教育」と「IT」を軸に就活を進めました。 当時は、ちょうど社会的に教育分野におけるIT化が進み始めようとしていたタイミングでもあったんですよね。そして、社員数50名ほどのITベンチャー企業に入社を決めました。   ー入社後の社会人生活はいかがでしたか? 学生時代に培った営業経験はあったものの、その頃とは扱う商材も働く環境も異なっていため、最初は苦戦しましたね。 同期の中で「1番最初に受注したい」「結果を残したい」と思っていたのですがそれも叶いませんでした。これがものすごく悔しかったのを覚えています。結果的に悔しさがバネとなり、「絶対に成果を出すんだ」と奮起して土日も関係なく働いていました。 当時実践していたことは、僕の営業トークを録音し、夜な夜な文字起こしして課題となる点がないか上司にフィードバックを求めていました。すると、行動が実を結び、その後は順調に成績を伸ばすことができました。 また、内定式で代表に伝えた宣言も入社後の僕の行動を支えていたかもしれません。新入社員から代表へ挨拶をさせていただくタイミングで、「僕社長になります」と代表に伝えたんです。大きいことを口にすることで、僕自身のマインドセットとなり、「自ら言い出したにもかかわらず結果を出していないのはみっともない」と思ったことが原動力になりましたね。   ー言葉にすることで、その言葉に自分が背中を押されるということはありますよね。しかし努力の方法やその熱量が本当にすごいと思います!その後、実際に起業することとなったと思うのですが、どういったきっかけがあったのでしょうか? 新卒2年目で会社を退職し、友人3人と営業代行の会社を起業しました。まずは設立した会社で売り上げを立て、軌道に乗ってきたら自分たちが実現したいことをやろう、という目的で最初の会社を設立したのですが、実際には非常に厳しいものがありました。そんなとき思いついたのが「BEYOND CAFE」だったんです。やはり教育分野に関わりたい気持ちは、僕の中にずっとあったんですよね。 「日本の教育を変えたい」と思い起業した僕も、最初は少し大きいことを言いすぎたかな、と思ったこともありました。ですが、当時の気持ちに迷いはありません。新卒の内定式で口にした「僕社長になります」ではないですが、言ったからには実現したい、そう思っています。 これからも掲げるビジョンを実現するために行動していきたいと思います。   ー伊藤さんの話はエネルギーに溢れていて本当に素敵でした!今日は貴重なお話ありがとうございました! 執筆:ゆず(Twitter) インタビュー:高尾有沙(Facebook/Twitter/note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

林業スタートアップkonoki代表・内山浩輝さんが斜陽産業に見出す壮大な希望

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第279回目となる今回は、林業スタートアップ「konoki」を運営する内山浩輝さんをゲストにお迎えし、現在に至るまでの経緯を伺いました。 林業の業界変革を目指し、活動されている内山さん。しかし、ある人物と出会うまでは森に入ったこともなかったのだとか。内山さんを虜にする木の魅力、そして「konoki」というプロジェクトを通して成し遂げたいこととは、一体何なのでしょうか。斜陽産業の課題にもがきながらも、立ち向かい続けるその姿に迫りました。   ー内山さんの自己紹介をお願いいたします。 立命館アジア太平洋大学(以下、APU)4年生の内山浩輝です。林業スタートアップのkonokiというブランドを立ち上げ、福岡発のベンチャーとして運営しています。 現在、「おうちでヒノキ風呂(取材当時、4月から一般販売予定)」というアイテムでクラウドファンディングを行っています。 コロナ禍の自粛生活でストレスが溜まっている人が多いと思うのですが、旅行先でヒノキ風呂に入っているような気分が自宅で簡単に味わっていただける商品です。 天然木材100%なので、癒し効果の高い木の香りで存分にくつろいでもらえるようになっています。 人と木の接点を増やしたいという思いで始めました。日常のなかで身近に木を感じられるというところから、この商品を着想しました。   ー確かに、現代はなかなか木に触れる機会がないですよね。 僕も元々は森に入ったこともなければ、虫嫌いなのでどちらかというと自然とは距離をとりたがる人間でした。 しかし、あるきっかけで出会った林業家から、木の魅力や森の歴史、衰退している林業の実態についてお聞きした時に、これほど大きな魅力を生かせていないのはもったいないなと。 人類の共通資本である森を残していくことが自分たちの使命だと感じ、現在の活動を始めました。   ー森のプロとの出会いが大きな転機となったのですね。起業について深堀りする前に、まずは前提となる、内山さんのこれまでについてお聞きできればと思います!   留学、受験勉強...視野を広げた中高生時代 ー幼少期はどんなお子さんでしたか? 小学生の頃はサッカーをずっと熱心にやっていて、プロになりたいという思いも持っていました。 ですが、中学1年の時に怪我で辞めることになりました。サッカーと距離を置いた時に、プロになるのは一握りだということ、プロへの道は狭き門だということに、初めて気づきました。   ー怪我でプロの道を諦めることになってしまったのは辛いですね...。 むしろ良かったと思っています。 「ワクワクする生き方は他にもある」ということに気づけたからです。 サッカーの次は何をやろうか考えていた時に、県のイギリス留学プログラムに参加する機会を掴みました。 世界十何カ国から同年代の学生が集まり、寮で共同生活を送るというものでした。いろんな国の人と関わることで、それまでの狭かった視野はぐっと広がりましたね。   ーそれまでのめり込んでいたサッカーとは異なる世界へ、扉を開いたんですね! その後、中学生活はどんな風に過ごされたんですか? イギリス留学では、良い環境は自分の視座を高めるということを実感しました。 そこで、自分の成長できる環境が整っている高校に行きたいと思うようになりました。 自分が理想だと思う学校は見つかったのですが、それまでほぼ勉強をしてこなかった自分にとって、とても難易度が高かったので、その日から猛勉強を始めました。   ーイギリスでの経験から高校選びに繋がったんですね。結果はどうだったんでしょうか? 志望校には入れました! 受験勉強での学びは、「努力を重ねれば実現できる」ということでした。 人生で一番といっても過言ではないくらい努力して、それで合格を勝ち取れたので、実感は大きかったです。 また、愚直に努力を重ねられるという、自分の強みにも気づくことができました。明確な目的や目標がある時に、我を忘れて没頭できる。このことに気づいてから、明確なゴールを敷いて生きるようになりました。   ーこの上ないくらいに努力したからこそ、人生において大きな気付きがあったんですね。 念願叶っての高校生活はどうでしたか? キリスト教系の学校だったんですが、隣人愛についての教えは特に染み付いていて、自分の礎となっているなと感じます。 また、外部の招聘講師による授業が多かったので、ここでもいろんな人の人生や価値観について学ぶことができました。一つの志に愚直に努力されている、いろんな方に出会えたことで、人として成長できた3年間でした。   がむしゃらに突き進んだ末、起業という目標へ ー大学はどのように選ばれましたか? 進学先はAPU(立命館アジア太平洋大学)だったんですが、当初は東京の大学を志望していました。 実は、APUに進学するまでは、国際貧困に興味を持っていたんです。 小学校6年の時に行ったエジプトで初めてスラム街を見て、日本でぬくぬくと育ってきた自分はとても衝撃を受けました。それから高校3年まで、人道支援や国際貧困に携わっている人に、個人的に会いに行って話を聞いたりしていたので、大学でもその分野に取り組みたいと思っていました。 ところが、自分が国際貧困の解決を謳うのはエゴなのでは、とふと気付いてしまったんです。 自分は本当に、解決したいと思っているのだろうか。単なる押し付けなんじゃないかと。 その気付き以降、それまで掲げていた目的や価値を見失ってしまいました。結果、AO入試で受けた志望校にも落ちてしまって。 軸を失って以降、とにかく視野を広げられる環境が必要だと感じ、APUに決めました。   ー貧困問題について自主的に活動されていたんですね!内山さんの行動力に驚きです。 進学先に選んだAPUはどんな大学なんですか? 僕はよくAPUをビュッフェに例えます。 まず自分というお皿をもってAPUというビュッフェ会場に入りますよね。すると、会場には多くの留学提携校が用意されていたり、90カ国からきた留学生がいたり、外国人の講師や外国語での授業、学長でライフネット生命創業者でもある出口さん直轄の起業部があったり。 その中からどれを選ぶかは、自分次第なんです。 このような「料理」が日本で一番多いのがAPUだと思っています。 志をなくした自分にとって、新たな志に磨きをかけるのに、ぴったりの環境だと感じました。 理想の環境の中で、まずは自分にできることをやってみようと思い、1年目はいろんな活動に挑戦しました。   ービュッフェとは面白い表現ですね...!どんな活動をされていたんですか? 学生団体に所属して、大学と大分県内の企業をつなぐ活動や、学内の学生が国を超えて交流できる場を作ったりしました。 また、APUには体育の授業がないので、留学生も交えた運動会をやろうと企画したこともありました。地元の小学校から道具を借りてきて、国別対抗で開催しました。30数ヶ国の学生が集まり、とても盛り上がりましたね。   ーすごく楽しそうですね!まさに留学生が多いAPUでしかできない経験です。その後はどんな活動をされたんでしょうか? 入学してちょうど1年が経つ頃に、一般社団法人G1が主催するG1カレッジというコミュニティに参加しました。日本各地のユニークな大学生が集まるイベントで年に1度開催されていました(現在終了しています)。 しかし、この時に出会った他大学の学生に、大きな力の差を感じたんです。 これまで自分がやってきたことは正しかったんだろうかと思うようになってしまいました。   ー立ち止まってしまったんですね...。それまで順風満帆に見えていましたが、何があったんでしょうか? それまでの僕は、とにかく自分のできることをガムシャラにやっていたんですよね。 東京の志望校に落ちてしまったことに対する反骨心もあり、東京の学生よりもいろんな経験を大分で積んでやる、と。 でも、そこで出会った学生はそれぞれの目標に向かって努力していたんです。 みんな意味のある人生を送っているような気がして、生きていて楽しそうだな、羨ましいなという気持ちを感じました。 また、高校受験の時に「明確なゴールがあれば突き進める」と分かっていたにも関わらず、その時の自分は具体的なゴールを持っていませんでした。ふと我に返って、受験から得た教訓と、大学での自らの行動との矛盾にも気付かされ、それまでの自分の歩みに迷いが生じました。 何か一つ自分にも大きな目標を作ろうということで、起業に向けて動き出しました。   ー自分の中でも矛盾を起こしていたことに、その場で気付かされたんですね...。 起業を目標にしたのは、どうしてだったんですか? 迷ってからいろんな人に相談する中で、起業という選択がピンと来たからです。 僕は、身の回りで起きる物事はすべてご縁だ、という風に感じています。 大学に落ちてAPUに入学したのも、G1カレッジで劣等感を抱くようになったのもご縁。自分が起業を志すようになったのも、親身になって話を聞いてくれた方々のおかげだと思っています。   林業家・三浦との出会い ーたくさん行動するからこそ良い縁が巡ってくるんだろうなと感じますね。 起業のテーマが定まったきっかけが、林業家である三浦さんとの出会い、なんですよね。 起業という目標を決めたものの、何を自分のテーマにしようか悩み続けていました。 出口学長のお繋がりで林業家の三浦に会ったのは、そんな時でした。   ー出口学長を通じて知り合ったんですね。三浦さんはどんな方なんですか? 三浦は木を愛している変人ですね。 木が好きすぎて「声が聞こえる」と言ったり、自分が切った木を舐めたり(笑)。 その時に話してくれたのは、木の種類や木目の色、香り、その効果など、木の魅力についてでした。織田信長とともに生きた木の逸話についても話してくれました。   ーそれは引き込まれますね...!起業のテーマで悩まれていたところから、何かご自身のなかで変化はありましたか? 林業には生かしきれていないものがたくさんあり、そのことによって林業が衰退している。そして、その問題は林業家だけでは解決できない。 そうした課題を知り、社会にとって良いものを作り続けたいと漠然と考えていた自分は、これだ!と思いました。自分がビジネスとして林業に関わることで、これまでにない社会的インパクトを起こせるかもしれない、と。 そのポテンシャルや魅力に気付いた時から、どんどん林業の虜になっていきましたね。   ーkonokiのプロダクト第一弾は、木の幹でつくったお茶なんですよね。これはどんな経緯で生まれたんでしょうか?木を飲むなんてなかなか思いつかないですよね...? これは、木は種類によって味が違うという三浦の知見から製品化に至りました。木を舐めてそのことに気付いた三浦は、7年前から個人的にお茶にして飲んでいたようです。 従来の木の販売方法といえば、建材用の丸太が主流でした。でも、日本では国産の木が余っていて、木材の価値も大幅に下落している。 そこで、新しい消費方法を開発し、木の消費を増やしていこうとしています。お茶やバスアイテムは、日常のなかで木を使えるようにと考えた商品ですね。 このように、それまでとは異なる価値が付加された木の製品を生み出すことによって、林業を儲かる業界にしたいと考えています。従来の林業を背負ってきた人々には思いつかないような手法を構築することで、業界に革命を起こしたいです。   林業の抱える課題、そこに立ち向かう面白さ ー林業というのは斜陽産業ですよね。そもそもどのような課題を抱えているのか、お伺いできますか? 日本の林業は、「儲からない」「担い手がいない」「森林が管理されない」という3つの課題を抱えています。 森林伐採というのは世界的に良くないこととされていますが、日本では逆に木が余っているんです。 理由としては、高度経済成長の際に政府主導の植林が大規模に実施されたこと、木が育つまでの期間に外国製の材木を入手できる流通システムが確立されたこと、木材建築などの需要が減ったことなどがあります。 国産の木が余ってしまったため、木の価値は40年間で4分の1まで落ちました。 このように儲からない事業であるために、林業家の数も40年間で3分の1の5万人にまで減少しました。国土の70%を占める森林を5万人で管理するのは到底難しく、森林も荒廃し始めています。土砂崩れなど実社会にも影響が起きている。 こうして負の循環が起きているのが林業なんです。   ー根が深い問題ですね...。 これまで何十年もかけて形成された問題を一気に解決するのは難しいですね。 また、日本の林業の実情がよく知られていないことも課題です。 三浦と出会う前の自分もそうでしたが、そもそも日本に木が余ってることすら知らないですよね。そこの認識を深めることと、木を身近に感じてもらうことが大事だなと感じています。 日常的に森や木に興味をもってもらう仕組みづくりは難しいけれど、誰かがやらなければいけないことですよね。将来に美しい森を維持するためには、興味を持って関わってくれる人も増やさなければならない。課題は山積みですね。   ーそこに立ち向かうことの難しさや壁って相当大きいですよね...。それでも林業に向き合い続ける理由って何ですか? 課題だらけではあるものの、やっぱり面白いんですよね。森には無限に可能性は落ちています。 イノベーションが進んでいない業界なので、手付かずのものがとても多い。知れば知るほど、まだまだやれることがたくさんあると希望を感じます。 また、森と離れて暮らすようになったのは、人類の歴史から考えるとほんの僅かな時間だと思うんです。その一方で、近年ではキャンプブームや自然セラピーが流行っている。 やはり、人間が遺伝子レベルで森を欲していて、現代社会でも木の需要があるんだと思うんです。長期的に取り組んでいきたいと考えています。   ーこれからの内山さんのビジョンについて教えてください! 一つは、林業でやりきりたいということですね。数十年、それこそ人生をかけて取り組みたい課題です。そうした覚悟をもって、林業という業界にイノベーションを起こしたいです。 もう一方で、社会の歪みが起きているのは林業だけではないということも感じています。自らのテーマとして、社会により良いものを作り続けるということを掲げているので、業界問わずそのような動きをとっていければと思っています。   ー内山さん、お話ありがとうございました!   取材・執筆:中原瑞彩(Twitter) 編集:杉山大樹(note/Facebook) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

横澤拓海がバスケ生活から学んだ、置かれた環境で結果を出すために意識している2つのポイント

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第313回目はウォンテッドリー株式会社で働かれている横澤拓海さんです。新卒で大手メーカー、コクヨ株式会社に入社したものの2年半でウォンテッドリー株式会社に転職することを選んだ横澤さん。新しい環境で愚直に努力し成功経験を積んできた横澤さんに働く上で意識していることや成功体験を作るにあたって取り組んでいることなどを教えていただきました! バスケ漬けの日々は小学4年生から ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 現在ウォンテッドリー株式会社というHRベンチャー企業でカスタマーサクセス・セールス担当として働いています、横澤拓海と申します。ウォンテッドリー株式会社に入社する前はキャンパスノートで有名なコクヨ株式会社で2年半、オフィス家具の営業をしていました。 現在は、本業と同時に副業として新規事業のお手伝いや採用コンサルティング、学生時代のバスケ経験を生かしてバスケコーチなどもさせて頂いております。 ー学生時代はバスケに打ち込まれていたとのことですが、バスケを始められたきっかけを教えていただけますか。 姉がバスケをやっていたので、小学4年生の頃、母に連れられてクラブチームの見学に行ったのがきっかけです。小学1年では水泳を、小学2年からは父の影響もありサッカーをやっていたので、元から体を動かすのは好きでした。 身長が高いほうだったのでサッカーではずっとゴールキーパーをやっていたのですが、ずっとゴール前にいるのであまりサッカーをやっているという感覚がなかったんです(笑)その点、バスケには自分の身長を活かして活躍出来るポジションがあり、やっていて面白かったので魅力に感じました。 ーバスケはいつまで続けられていたのですか。 中学、高校、大学とずっとです。中学ではキャプテンを務め、中学3年生の夏の最後の大会で京都府で優勝をすることができました。地元の中学だったのでメンバー全員がクラブチーム出身の強豪という訳ではなく、初心者のメンバーもいる部活だったのですが、自分たちの現状を把握し、練習内容を自分たちでしっかり考えたりと主体的に動いた結果、優勝できたのはとても嬉しかったです。 高校進学時は、複数の高校からスポーツ推薦枠でお声がけ頂いたのですが、あえて京都で一番強い洛南高校ではなく、洛南高校に勝つことを目標に京都2位の東山高校に進学しました。高校では自分よりも圧倒的に実力のある先輩が多くいました。上手な人たちと一緒に練習できることにワクワクした反面、入学当初は実力差が大きくて危機感もありましたが、3年生時にはキャプテンを務めて、全国大会に出場出来たので、選択は間違っていなかったなと思いました。 チーム視点を身に付け、組織づくりに興味を持つように ー大学もスポーツ推薦で進まれたのでしょうか。 正直高校時代はバスケ漬けの日々であまり勉強はしていなかったので、スポーツ推薦以外での大学進学は考えていませんでした(笑) 関東の方がバスケレベルの高い大学は多かったのですが、この時もあえて二番手の環境である関西の大学に進学しようと思いました。例年、東山高校から関西学院大学に進学する先輩が多かったこともあり、関西学院大学の経済学部に入学を決めました。 大学では入学して1年生の後半頃からスターティングメンバーに選んで頂き、2年までは割と順調なバスケ生活を送っていたのですが、3年に入ってからイップス(精神的な原因などを理由に突然思い通りのプレーができなくなること)に近い状態に陥ってしまい、半年ほど試合で一切活躍出来ず、試合に出れない時期も続きました。 その時は初めてバスケを嫌いになって、退部することも考えました。 ーその所謂スランプ状態からどのように抜け出されたのですか。 それまでは自分が試合に出て活躍するということばかりを考えていたのですが、どうすればチームに貢献できるかなどと、自分にではなくチームに視点を向けたことで徐々に自分のプレーも戻ってきて、活躍出来るようになっていきました。 自分がキャプテンだったらどうするか、メンバーの強みをどうすれば最大限に活かせるか、メンバーのポテンシャルをどうすれば引き出し、全員で同じ目標に向かえるのか、を真剣に考えたんです。同時期にサッカー部が全国4冠を達成していたのですが、その背景には組織づくりに力をいれていたキャプテンがいたので、サッカー部の取り組みを教えてもらいバスケ部にも取り入れたりしていましたね。 ー卒業後の進路はどのように決められたのでしょうか。 大学在籍中インターンなどをしていなかったので働くということに対して正直イメージがわいていませんでした。ただ、バスケを通して組織づくりや成果を出すためのアプローチ方法を考える事に興味を持っていたので、HR企業や組織経営に注力している会社を中心に就活をしていました。 その中でコクヨ株式会社がオフィス家具事業部ではオフィス作りを通して働きやすさを実現させること、理想の組織づくりを空間に落とし込むことで実現させることにフォーカスしているところに興味を持ち入社を決めました。   より厳しい環境で成功経験を積むことが成長に繋がる ー入社してみていかがでしたか。 是件一般の大手メーカーのイメージでいうと、スーツを毎日着て、上司にお伺いを立てて、営業であれば人間関係をベースに受注するというイメージを持っていたのですが、実際はイメージと異なり、想像以上に働きやすい環境でした。 服装も割とカジュアルで、コアタイムもなくスーパーフレックスという制度も導入していて、大手企業の中でも進んだ制度導入と新しい働き方にチャレンジしていたので、お客様に新しい働き方を提案出来ることも魅力に感じていました。 ーそんな中、転職を決められた理由は何だったのですか。 大事にしているマインドとして、常に自分より優秀な人をベンチマークにして努力することがあります。コクヨの場合、社内には優秀な人はいたものの、なりたい優秀さとは少し違いました。それは活躍のベクトルが社内か社外かという点だったんです。勿論コクヨでの活躍も魅力的ではあったのですが、自分は社内外問わずどんな環境でも通ずるスキルや経験を元に、活躍の場を多方面に広げている人たちのようになりたいと次第に思うようになりました。 そのような思いを持つようになって、社外の人と話すことを増やしていると、ベンチャー、で働く人達の優秀さと熱意に驚き、「こんな人たちから多くの学びを得たい」と思い、より成長できる環境を求めて転職を決意しました。 ー転職したことで優秀な方々に出会えた、成長できたという実感はありますか。 正直優秀な人しかいなかったですね。みなさん思考の幅と深さと速さが尋常ではなく、短時間かつ少人数でどんどんPDCAサイクルを回すのは凄いなと思いました。転職して1年半になりますが、社内外問わず常に優秀な方々と対峙する時間が多く、負けず劣らないように努力もしているので、常に成長しているという感覚もあります。 入社直後はインサイドセールスの部署に配属となり、初めての電話営業に挑戦することとなりました。どうすればサービスに興味をもっていただけるか、商談につなげることができるか、初めの1ヶ月は悪戦苦闘しましたが、2ヶ月目以降結果が出てきて目標達成出来たことで入社して初めて自分の成長を感じることができました。 その後現在所属しているエンタープライズという部署に異動となり、Wantedlyを使って頂いている企業様に対してオプションサービスを販売する仕事をすることになりました。今まで以上に採用や人材業界の知識が求められる分野のため、異動当初はなかなか結果を出すことができなかったのですが半年後から直近まで毎月売上目標を達成することができました。 ーすでに2つの成功経験を持たれていますが、いずれも働く中で意識して行っていたことや努力していたことなどはあったのでしょうか。 どんな目標であっても、大事にしていることは2つあります。 1つは圧倒的に優秀な人をベンチマークにして愚直に頑張ること。圧倒的に優秀な人とのギャップを把握し、そのギャップを埋める為には何をすればいいか分析するんです。すると闇雲な努力ではなくなり、最短で成果を出せると思っています。 もう1つはその分野に長けている人の話を聞きまくり、その上で自分にとって最適な知識や手段を取捨選択してPDCAを回していくこと。電話営業の時も、結果を出している人の話を聞いて、それを元に自分にあっているやり方を確立していきましたし、オプションサービスの販売でも直属の先輩だけではなく他部署の方にも話を聞いてベストなアクション方法を模索しました。自分より詳しい人に聞いた方が早いし正確というのは間違いないので。 これら2つは実はバスケ時代からずっと意識してやっていることなんです。 目標としたい身近な上手な選手を見つけ、その人を超えるためにはどうするべきか分析して徹底的に練習を積むこと。様々な人にヒアリングして練習内容を少し変えてみたり、部の意識改革を行うこと。全てバスケ時代からやってきたことが、今仕事でも活きています。 ー置かれた環境で結果を出せる理由はバスケ生活での経験があるからこそなんですね! そうですね。他にも量を一定数こなさないと質に転化しないと思っているので、何か新しいことにチャレンジする時は量をとにかくこなすことも大事にしています。量をこなす中で次第に自分に不足している点が見えてくるので、それさえ把握できればあとは不足点を埋める方法を知っている人に聞いたり、確認したりして、最後はPDCAに取り入れていくだけです。 行動量を増やすときはとにかく無心で、時にはゲーム感覚で取り組んでいます!   本業×副業で経験を積み、成長し続ける ー横澤さんの結果がでるまで継続して頑張るモチベーションはどこからきているのでしょうか。 モチベーションではないですが、結果がでない時にメンタル状態を維持するために、1日の終わりに3 good thingsといってその日良かったことや上手くいったことを3つ書くようにしています。そうすることで今やっていることは決して間違っていないから継続して頑張ろうと思うことができています。自分を褒めてあげて自己肯定感をあげることはモチベーションをあげるには必須ですね(笑) また、自分の成長を客観的に見ることは難しいので、適切なメンターを見つけ、メンターに相談したり成長率を確認するようにしています。一人で悩んで内省するのではなく、身近な人の意見や評価を聞くことでまた一歩前に進めるかと思います。 結果が出るまで努力し続けるのは確かに大変で、苦労もしましたが、一度成功体験を得るとまたその成功を味わいたいと思いますし、努力した分だけ将来自分に必ず返ってくると思って、日々頑張っています! ー現在は副業にも積極的に取り組まれているようですが、副業を始められたきっかけは何だったのですか。 副業を始めたきっかけは、シンプルにお金でした(笑)転職後、思った以上に出費がかさんでしまって人事の方に相談して副業先を紹介してもらいました。給与を補填する目的で始めた副業でしたが、今はお金目的ではなく、自分の成長のためにやっています。自社以外の成長感環境に自分の身を置き、新しい気づきや学びを得るのに副業はぴったりだなと思ったんです。社外で新たに優秀な人に出会えたり、時には、副業先のノウハウが本業に活きたりと、多角的なインプットを自分に与えることもできるのでおすすめです! ー最後に今後の目標などがあれば教えてください。 起業をして世の中に価値提供をしていくことを直近の目標にしています。起業という厳しい環境に自分を置くことは成長を必ずもたらしてくれると思うので、引き続き自分が成長できるかどうかを基準に次の選択は選んでいきたいと思っています。今、周囲にいる社外の優秀な人を思い浮かべると、有り難いことにに起業家や経営者の方が多いので、そういった方々から多くを学びながら圧倒的に成長したいです。組織づくりに関する事業で起業するのか、大好きなスポーツの領域で起業するのかは分かりませんが、今はその時に備えてたくさん本業と副業で経験を積みたいです。 取材者:山崎貴大( Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)  

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