創業84年の”ベンチャー風老舗”建設会社へ!「誰よりもクールで熱い男」西村組 西村幸志郎の夢

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第233回目のゲストは、株式会社西村組取締役・経営企画室長・採用担当の西村幸志郎さんです。 流氷の来る北海道の湧別町で、84年間建設業を営む株式会社西村組の長男として生まれた西村さんは、幼少期から跡取り息子として制約の多い生活を送っていました。 メンターとの出会いで、「死ななきゃ何をやってもいいんだ」と知った西村さんは、大学4年時日本一周を決意。その道中で50社以上から内定をもらうなど、一般的な就活とは異なる方法で「誰よりも真剣に就活をしない就活」をされたそう。 日本一周を経て、家業を継ごうと決意した西村さんのこれまでの人生に迫りました! 自分の色を出せずにいた幼少期 ーまずは自己紹介と、現在のお仕事について教えてください。 株式会社西村組4代目後継者として取締役・採用担当をしています。 北海道の日本で唯一流氷が来る場所に住んでいて、海と流氷と共存しながら海を守る「海洋土木」をメインに仕事をしています。 ー幼少期の印象的な体験はありますか? 2歳下の弟が生まれたときですね。 今までずっと一人で母の愛情を受け取っていたのですが、弟が生まれたことで唯一の理解者である母親をすべて持っていかれたような気持ちになりました。 弟が生まれてからは何かにつけて自分が怒られる。怒られる原因が喧嘩だったり、弟を叩いてしまったりとか今思えば母に見てもらいたくてやっていたのですが。 ある日、意を決して母に、「僕っていらない子なの?」と聞きました。 それを聞いた母が僕をぎゅっと抱きしめて、「そんなことないよ」と言ってくれたんです。そのときに自分は生きている価値があるんだと思えました。 3歳くらいのときにこの経験をしてからは、自ずと自己肯定感がなくなることはなかったように思えます。自分の生きている価値を教えてくれた経験になりました。 その後はあまり構ってもらえなくても、「自分は愛されている」と分かったので、不安になることは無くなりましたね。 ーその後、小学生の頃にはどのようなことがあったのでしょうか? 小学3年生のある日、体の大きいT君に多目的教室に呼び出されたんです。彼とは犬猿の仲でした。 当時の僕はスポーツが得意だったので、T君はそれが気に入らなかったんだと思います。 急に呼び出されて、「お前調子乗っててウゼーんだよ。ガリガリ!」と言われました。「お前の方がウゼーんだよ。デブ!」と言い返したら、次の日からT君が3日ほど学校に来なくなって。 相手の親から学校に電話があって、母とT君の家へ謝りに行くことになりました。 T君の親からは、「人の体の特徴について悪口を言うのは信じられない」と言われたんです。 先に言ったのはT君なので、理不尽だと思いましたが、それでも母が僕の頭をグッと持って「とりあえず謝りなさい」と。 田舎では大きな会社だったので、普段から「社長の息子だから我慢しなさい」という無言の圧力があったんです。この出来事でより自分の本心が言えなくなりましたね。 ー中学時代はどのようにして過ごしていましたか? 隣の隣の町にあるサッカーチームに所属していました。 サッカーは小学校3年生からしていたのですが、町にサッカーチームが無かったんです。親に送迎してもらって1時間半くらいかけて通っていました。 僕は選抜に選ばれていたのですが、その中にプロサッカー選手に兄をもつ子がいたんです。その子は別のポジションをやっていたのに、兄の影響で僕のポジションがやりたいと言い出して。 僕の方が圧倒的に経験も身長もあってポジションを確立していたのですが、僕がスタメンで出ると彼が嫉妬するんですよね。 そこから遠征に行くたびに、宿舎ではぶかれたりするいじめを経験して。今までいじめられたことが無かったので衝撃的でしたね。 ーそのような苦しい状況の中、3年間西村さんを支えたものは何だったのでしょうか? やはり「サッカーが好き」という気持ちですよね。 小学校中学校と学校が楽しくなかったのですが、サッカーだけは楽しくて。これだけは誰にも取られたくないと強く思っていました。 仕事においても同様で、人間関係の良さももちろん大事ですが、その仕事が好きか、今取り組んでいることに一生懸命になれるかどうかが最も重要だと感じています。 夢をもって高校へ進学するもキバを抜かれる ー現在にも繋がる価値観を形成されたのですね。そこから高校時代、さらにサッカーに没頭されたようですが、どのような出来事がありましたか? 高校はサッカー推薦で入学し、札幌へ飛び立ちました。 ようやく田舎を出られると思って乗り込んだのですが、サッカー部に入って3日目くらいで先輩から「お前の目つきなんか気に入らないな」と言われて。練習後に3時間正座をさせられたんです。 また、入ってすぐの練習試合では周りから高評価を得て、約100人の部員がいる中「次からBチームでは出られる」と言われていました。 しかし、うちのチームのディフェンスはヘディングができなければ評価されなくて。僕は今までヘディングをせずにディフェンスをこなしてきたので、ヘディングが苦手だったんです。そのため、「試合では使えない」という評価を下されました。 先輩からいじめを受け、さらに自分が一番苦手なヘディングができなければならないと知り、挫折を味わって。 希望を持って田舎から出てきたのですが、どん底状態で寮に一人暮らしをすることになりました。 「自分には生きている価値が無いのではないか」と考えて、部屋の窓から飛び降りたいとさえ思っていましたね。 つらかったのですが、親から背中を押されて札幌に出たので、「自分のためより親のために頑張りたい」と思って乗り切りました。 「幸志郎がサッカーをしている姿が好きだ」と言ってくれた親のために、自分を捨てて走り続けた3年間でしたね。 ー高校でも怒涛の3年間を過ごされたのですね。卒業する時に顧問の先生から言われた言葉が印象的だったと伺っていますが、どのような言葉だったのですか? 「お前はキバを抜きすぎたな」という言葉です。 今でこそ僕は変わった人だと思われがちですが、当時は本当に自分をゼロにしていました。高校の頃は、周りを立てるようなナンバーツーとしての働きしかしていなくて。 最初は自信満々で高校に入って、否定された瞬間ゼロになって。間のバランスが取れていなかったんですよね。先生の言葉を聞いて、「自分を出していいんだ」と気付き、今の人格が形成されたのだと思います。 型破りな方法で人生を切り開く ーそこから大学に入って、メンターとの出会いがあったようですが、詳しく聞かせてください。 バイト先のラーメン屋の社長なのですが、「かっこいい生き方」とはこのような生き方を指すのだと感じさせられる方でした。 その方から、「人様を傷つけたりしなければ、死ななきゃ何をやってもいいよ」と言われて。単純なのですが、すごく深いと感じました。人生何をやってもいいと思えるようになったんです。 そこからちょっとずつ自分がおかしくなっていって(笑) 大学3年生の冬にアメリカに行こうと思ったんです。バイト先のラーメン屋の社長が修行した店がアメリカにあるので、そこに行こうと。 でも、ちょうどアメリカの政権交代のタイミングで、外国人に就労ビザが出なくなって。じゃあほかに何をやったら面白いかと考え、日本一周を始めることになりました。 ー日本一周では「誰よりも真剣に就活をしない就活」をされたと思いますが、具体的にはどのようなものだったのでしょうか? 地元の人しか知らない優良企業から全国的に名の知れた企業まで、たくさんの方から「うちに来ないか」と声をかけていただきました。 最初は特に就活のことを考えずに旅に出たのですが、結果的に就活もできていましたね。 スーパーの駐車場で歯磨きをしていたら「お前いい顔してるな!うちで働くか!」と言ってもらえたりして。普段の生き方を大人は見ていると思いましたね。 普段の礼儀正しさとか楽しそうな雰囲気とかを評価してもらえることが多かったです。 ー日本一周で、様々な経験をされた後、北海道に戻って今のお仕事をしようと決心するまでどのような経緯がありましたか? 車で日本一周をしていたのですが、運転時間が長く1日10時間ほど運転している日もありました。そんな中、「自分の生きる意味」や、「自分は何者なのか」について考えたんです。 考えているうちに、自分の中で3つの夢が出てきて。 1つ目が「他人からカッコよく思われたい」 2つ目が「有名になりたい」 3つ目が「”人の幸せを志す男”という名前の由来通りに生きたい」と。 今までは社長の息子であることや、地元に対してネガティブな印象しかありませんでした。 しかし、「長男として生まれて家業を継げるチャンスがあるのに、逃げるのはカッコ悪い」と感じ、北海道へ帰ることを決めたんです。 日本一周から帰ってきて、父に気持ちを伝えた直後に会長だった祖父が亡くなって。 ちょうど家業継承のタイミングが来たと思えましたね。 ー西村さんの今後の展望を教えてください! 「誰もが知っている、誰も見たことがない建設会社」を目指しています。 ビジョンやミッションを再策定したばかりなのですが、84年間無借金で経営していて、土台・歴史・技術・ネームバリューもある中で再スタートするのを楽しみにしています。 「ベンチャー風老舗」と銘打っているのですが、そのようなビジョンにワクワクしてくれる仲間を募集しています! 個人としては、「カッコよく生きる」、「有名になる」、「幸せを志して生きる」の3つの軸で人生を送っていきたいです! ー本日はありがとうございました!西村さんの今後のさらなる活躍を期待しております! 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:五十嵐美穂(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

大学入学後にキッチンカー運営に挑戦! 自身が抱いた興味や違和感を原動力に行動し続ける 山田 璃々子の生き方とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第231回目となる今回のゲストは、慶應義塾大学に通いながら学内キッチンカーを運営されている山田 璃々子さんです。大学入学後にキッチンカーあったまるを立ち上げ、現在はお茶の販売や産地への訪問など多岐にわたり活躍されている山田さんにキッチンカーあったまるの誕生からコロナ禍での活動、さらには自身が大切にしている考えをお話しいただきました。 自分自身がほっとする場を欲していた ーまずは自己紹介をお願いします。 慶應義塾大学2年の山田 璃々子です。私は、大学でキッチンカーあったまるというキッチンカーを中心としたほっとする空間をつくっています。その他に自分でお茶について調べ、生産者さんに直接お話を聞きに行くなどお茶にまつわる活動をしています。 ー大学ではどういったことを学ばれていますか。 ランドスケープと呼ばれる分野の勉強をしています。主に、フィールドを調査し、建物や周辺のまちの在り方を提案しています。最近は、人々がまちについて語るアーバンデザインセンターを京都の宇治に作るということで、そのためのフィールドワークをしていて、そこでお茶農家さんにお話を伺いました。 ーアーバンデザインセンターでお茶農家さんに出会ったのですね。 あったまるで販売しているお茶とは別ですが、まちの方にお話を伺う一貫で出会ったお茶農家の方がもっとお茶を深めたいと思うきっかけを与えてくれました。ちなみに、元々このゼミを専攻しようと思ったのは、キッチンカーを中心とした空間をつくっていたこともあり、空間づくりについてしっかり学びたいからでした。 ーキッチンカーについてもお聞きしたいのですが、「あったまる」はどこから着想を得たのでしょうか。 大学に入学したときに、私は直感でほっとする場所が欲しいなと思いました。大学の特性上、ひとりひとりの時間割が異なっているため、授業から授業への移動は盛んにあるものの、何か立ち止まって休む時間を自分も含めて取れていないと新入生ながら感じていました。そこでどうすればよいのか考えたときに、夕方頃、大学構内に並ぶキッチンカーの周りで学生が4~5人立ち話している姿を見て、ここに椅子があったら人が来てほっとする空間になるのではないかと思ったのがきっかけで始めました。 始めるときに名前をつけようと一緒にキッチンカーを運営している子と話をしていて、心身が温まるほっとする空間を作りたいという意味、たまたまそこにいた人同士が話をして気付いたら輪(=丸)ができているという意味を込めて「あったまる」と名付けました。 直感を大切にして大学を選ぶ ーここから過去のお話を伺えればと思いますが、ご出身はどちらでしたか。 出身は兵庫です。 両親の仕事の都合上、福岡に一時住んだこともありますが、小学校の途中から家族全員で東京に暮らしています。 ー転勤が多いとその土地に慣れることは難しいと思いますが、その点はいかがでしたか。 大変ではあったものの、次第に適応能力がつき、どんな新しい場所でも自然体でいられるようになりました。結果的に3つの小学校に通うこととなったのですが、学校が変わった時は友人関係よりも新しい環境に慣れるまでに体を壊してしまうことがありました。 ー人間関係よりも住んでいた環境に影響されたのでしょうか。 それもありますし、幼かったのでなぜ私だけ転校するのか?という思いがありました。 毎日行っていた場所や会っていた人から離れるのは嫌で、せっかく生やした芽がすぐに飛んでいくことが繰り返されていました。 ーどんな学校生活を送っていましたか。 小中高一貫の学校に通っていて、中高時代はミュージカル部に入り、朝昼放課後は部活という生活をしていました。 ーその後、大学はどのような基準で選びましたか。 もともとは理系の科目が好きだったことから理系の大学に進もうかと漠然と思っていました。しかし、進路相談会の時に当時私が目指そうとしていた学部の先輩が急遽来れなくなり、高校時代の担任の先生が私を慶應の環境情報学部(以下、SFC)の枠に入れてくれたんです。その時に見たSFCのホームページの様子に一目惚れして、ここに行こうと決めました。 いつも直感を大事にしているのですが、幼少期から海外の映画を見ながらみどりに囲まれた大学に行きたいと両親に話していたので、SFCの環境にビビッと来たのだと思います。兵庫に住んでいた時の家の周りに川やみどりがあり、毎週末に父や兄弟と虫取りや川遊びをしたりとしていたことでいつのまにかみどりのある空間好きになっていました。 違和感がきっかけでキッチンカー「あったまる」がスタート ー大学入学前と実際に入ってからはどういった違いを感じましたか。 大学に入るまでの私のイメージはまさに大学のホームページで、原っぱで学生が会話をしたり、一人一人の強みを生かしあってどんどん新しいプロジェクトが生まれるイメージでした。しかし、実際に大学に入ると、入学前にイメージしていた学生像に自分自身がなれていなかったと実感しました。学校の授業が終わるとすぐに帰るだけの生活になっていて、大学は勉強するだけの場所でないという思いから、この環境を変えるには自分でやるしかないと思いました。 そこで、キッチンカーを活用した空間をつくりたいと様々な人に話をしていたところ、同じようにキッチンカーをやってみたいという子に繋いでもらい、一緒に活動をすることになりました。 私はサークルにも所属していましたが、何か共通項を持った人が出会う場所はサークルで補えるものの、偶発的な出会いは共通の場所でない方がいいのではないか、食べることは誰もが関心があるのではないかと思い、キッチンカーを用いました。 ー「共通項のない人たちが集まれる場所があったらいいのでは」という考えに至った経緯を教えてください。 SFC生がいろいろな活躍をしているのは大学前から知っていたので、いろいろな人を知りたいと思ってたのと、たまたまの出会いがきっかけでキッチンカーを始めたので、決められた出会いではなくたまたま今日ここにしかない空間を作りたかったんです。 ーキッチンカーを学内で立ち上げる上で、大変だったことを教えてください。 最初にどうすればいいのか分からなかったため、学校側に相談したところ、学内に出しているキッチンカーの人に話してみてくださいと伺い、キッチンカーを運営されている方に相談しました。すると、ありがたいことに協力するとお話しいただいたので、翌月からキッチンカー運営を始めようと思っていました。 しかし、学校内で食品を出すことにハードルがあったり、食中毒といった学生では責任を負いきれない問題もあり、学校側は難色を示していました。そこで、私は食品衛生責任者の資格を取得し、キッチンカーを運営されている方にご協力いただき、料理を作るところはキッチンカーの方にお願いし、料理提供や空間づくり・企画を私たちが行う形で役割を調整をし、学内でキッチンカーを運営できることになりました。 最初は、自分たちでキッチンカーを買って、料理を一から作るものだと想像していましたが、全て友人と二人で出来るわけではないと実感したことで、私たちに協力してくださった方々の存在が大きいなと思うし、何度も学校側に私たちの思いを伝えたことは貴重な経験だったと今振り返ると思います。 ー学校の学内発表をしたとお聞きしました。大学内でも活動が認められるようになったのではないでしょうか。 あったまるは、直感的に始めた活動で、徐々に育てていった活動でした。 大学入学直後は、休み時間という時間はあるものの移動するための休み時間でしかないと感じていまた。ホッとする空間でたまたま出会った人と話したり、学校に来て良かったと体感してほしかったんです。 どうやって進めていけばいいか手探りでしたが、やってきたことを言語化し、今年の11月の学会でアウトプットしたのは貴重な経験で、結果的に奨励賞をいただけたことはすごく嬉しかったです。 コロナ禍で「あったまる」を通してやりたいことを再考する ーコロナ禍で環境が変わったかと思いますが、どのように対応していきましたか。 キッチンカーあったまるという名称ながらキッチンカーを出せない状況となり、キッチンカーを通してやりたいことは何なのかを考え直す期間になりました。その時に、根本にあるのはほっとすることで、ほっとするための1つの方法がゆるい関わりをつくることだと思いました。 授業やプロジェクトでの人との関わりは、何かを成し遂げるという目的に向かう上での関わりですが、目的のないゆるく関わり合う空間を作ることがほっとする1つの要素で、ほっとする空間はどうしたら作れるのかということをずっと考えていたのだとわかりました。そこで、ほっとする場を作るためにオンラインでお茶を販売したり、SFC生限定で週末ストレッチ会を毎週末オンラインで行っていました。 ーキッチンカーでの関わり合いは副次的なもので、ほっとするというところにフォーカスをしてコロナ禍でも活動されていたのですね。 あったまるの活動は、コロナ禍になってからより必要性を感じる側面がありました。コロナによる自粛期間は、大学の授業もオンラインになり、意識的に休憩をとらないと休むことができないと感じていました。今までは学校へ通学している時間にぼーっとできたものの、コロナ禍では家の中で1日中過ごすことが多くなり、ぼーっとする時間を作りにくくなってしまったので、お茶を淹れている時間だけでもほっとできたらいいなと考えました。 さらに、一人一人がフランクに今日あったことを話せる空間が欲しいなと思い、週に一回ストレッチ会やお茶会も設けました。1週間頑張ろうとみんなで励まし合う風土が作れたらと思いながら活動していました。 ー先ほどのお話から出てきている、お茶との出会いについて教えてください。 茶道は、父の親戚がやっている姿を見て、憧れを持っていました。 私の性格上、何かに没頭するとほっとする時間や自分を整える時間を後回しにしてしまうので、大人になっても続けられる趣味をつくりたいなと思い、茶道部に入りました。 ーその後、茶葉の開発もされるかと思いますが、そのきっかけを教えてください。 茶道を始めてみると、茶道の精神だけでない1杯のお茶がつくりだす空間に感動し、その感想を知人に話した時にお茶で起業されている方と出会いました。 コロナ禍のタイミングでその方にお茶で何かしたいとお話ししたところ、一緒にやってみようということで農家さんを繋いでいただき、農家さんと一緒にお茶をプロデュースして販売することになりました。 ー茶葉を作ることは、具体的にどんなことを考えながら進んでいくのでしょうか。 静岡の農家さんと一緒に行なったのですが、地形的に育てやすいお茶の種類は決まっていて、それをどのようにして消費者に届けるかを私たちは考えました。 キッチンカーの活動が足止めになっていたこともあり、コロナ禍で出来る事がないかを探していたときに、家の中でほっとする空間や時間を作ることはできると考え、お茶の商品名や販売方法、購入用途などを友人と考え、実行しました。 お茶の名前を“環”と名付けましたが、そこには「輪」という意味が込められています。あったまるとお客さんの輪、生産者さんとお客さんの輪、さらにはお客さんが大切な人や今会えない人のための贈答用にこのお茶を通してその人との輪を作って欲しいという思いがあります。 自分のために気になることはまずやってみる ーあったまるの活動以外に司会業や執筆業など多方面でも活動されていますが、一貫して大切にしていることがあれば教えてください。 気になった事があったらやってみたいというのが根底にあり、これまでの人生を振り返るとやってみないと分からないことがたくさんあると感じました。中高時代に入部したミュージカル部も直感で入るなど、いつもワクワクする気持ちに従って過ごしていました。あとは、誰かのために何かがしたいという原動力よりも自分のためにやっている活動が多いです。 ほっとする空間は、今では誰か(学生)のためとなっている活動のようにも見えますが、最初は自分がそういった場が欲しくて始めましたし、司会のお仕事や声を使うお仕事も自分のワクワクが起点になっていて、好きを重ねていく方が私は過ごしやすいなと感じています。また、自分のことを大切にできれば自ずと他人のことも大切にできるのではないかと信じています。あったまるの活動も1人1人にほっとする時間を通して、自分を大切にすることを知って欲しく、つい頑張って自分をすり減らして頑張っている人に届けたいです。 ー最後に、山田さんの今後のビジョンを教えてください。 お茶の生産者さんと実際に会った時に、お茶にはそれぞれ個性があると感じたので、これからは研究として生産者さんにお話を聞いたり、どのようにしてこのお茶が生まれたかを調査していきたいと思っています。 あったまるの活動もコロナ禍に合わせて、学校でのほっとする空間よりも家でほっとする空間に変わっていくと友人とも話していますが、暮らしを探究する上で私はお茶という方面からあったまるに貢献できたらと考えています。 ー大学入学前と入学後のギャップや環境を自分で変えていく姿勢が素晴らしいと感じました。 今後の山田さんのご活躍を応援しています! 取材者:中原 瑞彩(Twitter) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

二度の休学を経てクラフトビールで起業!株式会社Story Agent代表取締役副社長・藤戸淳平

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第224回は大学入学後に世界一周を経験したことをきっかけに学生醸造家として活動されている藤戸淳平さんです。現在、横浜市立大学に在籍中の藤戸さんは実はすでに2回休学をされているそう。世界一周・海外インターンと2度の休学を経て、藤戸さんが何を感じ、どういった思いで起業を決意することとなったのか。これまでの経緯をお話いただきました。   他人の目を気にしていた中、世界一周を決意 ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします。 横浜市立大学に通いながら今年の7月にクラフトビールの製造・販売・Eコマース事業を中心とした株式会社Story Agentを立ち上げました、藤戸淳平です。現在、Travel Triggerというブランド名のクラフトビールをベトナムでインターンさせていただいた会社に製造委託し、日本での販売を目指して動いています。 その他にも千葉県の古民家をお借りし、20代前半のメンバーを中心に「地球ともっと生きることを楽しく」をテーマに半自給自足の古民家改修プロジェクトに取り組んでいたり、バンライフ事業に取り組まれているCarstay株式会社より業務委託を受け営業やカスタマーサクセスのお仕事をさせていただいたりしています。 ー様々なことに積極的に活動されていますが、昔からいろんなことにチャレンジされるのは得意だったのですか。 いいえ。今のようにいろんなことにチャレンジをするようになったのは大学に入ってからで、それまではどちらかというと周りの反応を気にして生きていました。小学生の頃はサッカーと少林寺拳法を、中高もサッカーを続けていたので所謂サッカー少年でした。また、進学した地元の中学校がヤンキーの多い中学校だったので周りの影響もあり授業に真面目に出席することはなく、優等生からは程遠い学生でした。 良い意味でも悪い意味でも転機となったのは中学2年次に先生になぜか勧められて学級委員をさせてもらったことでした。学級委員になったことでこれまで自分がどれだけ周りに迷惑をかけてきていたのかに気づくことができ、そこからは他人に迷惑をかけないように生きようと改心したんです。一方でそれ以来、必要以上に周囲の反応に注意をするようになり、常に他人の目を気にする性格になりました。 ーそこからどのように今の藤戸さんに変わっていかれたのでしょうか。 大学を休学して世界一周に行ったことが大きかったです。もともと英語が好きで大学へは指定校推薦で国際学部に進学することが決まっていたのですが、サッカー以外の何を大学でしたいか考えた中で見つけたのが世界一周でした。海外に行ったことがなかったので、漠然と大学では国際ボランティアか留学をすることを考えていたのですが、その中でたまたま見つけたのがNICEという団体がされているぼらいやーというプログラムでした。説明会で、「旅×ボランティア×あなたのやりたいことを実現する1年」という言葉を聞いて直感的にこれだと思いました。誰にも相談することなく休学して世界一周をしようと決め、応募をしました。   再度休学し、海外インターンを経験 ー実際に世界一周してみて、いかがでしたか。 約10ヶ月かけて35か国まわったのですが、国ごとにこんなにも人って違うということを知ることができて面白かったです。ぼらいやーの参加者の多くは目的やテーマを持って世界一周されていたのですが、私はただ違う世界がみたいという思いで世界一周を決めていたのでとにかくたくさんの国にまわっていました。 その中でも印象に残っているのは約4ヶ月滞在した中南米です。陽気な人が多く、毎日楽しそうに、遊ぶように暮らしている中南米の人を見て、せわしなく生きている日本人とのギャップを感じました。これから自分はどう生きていきたいかについて考えるきっかけとなりましたね。 ー帰国後、具体的に生き方を変えられたりしたのでしょうか。 そうですね。自分がワクワクする生き方を実現するにはどうするのかいいか考えた結果、とりあえずやってみたいと思うこと全て挑戦してみようと決めました。それからは日本一高い橋でバンジージャンプに挑戦したり、国内でヒッチハイクをしてみたり、クラウドファンディングに挑戦し企業協賛を得て日本縦断の旅をしてみたり。中高の頃はずっと周りの目を気にしていて挑戦することに対するハードルが高かったのですが、世界一周をきっかけに周りの目を気にするのではなく自分は何をしたいかを基準に動けるようになっていきました。 そうやってやってみたいと思ったことを順番にやっていく中で、次にやりたいことが見つかり、また挑戦するというサイクルが続いたのですが、その流れで次は海外で働いてみたいと思うようになりました。 ーそれも、挑戦されたのですか。 はい。すでに1年休学していたのでもう1年休学することに対して迷いもあったのですが、一度やっぱり海外で働いてみたいと思ったので休学を決め、トビタテ留学JAPANの奨学金制度を使用して再び海外へ行くことを決めました。 具体的には、自分の好きなことに関わる仕事をしたいと思ったので日本酒関係の仕事をしたいと思いインターンをさせてくれそうな海外の会社を探しました。初めはスペインで日本酒を作っているスペイン人の方を見つけて連絡を取ってみたのですがあいにくインターンは募集しておらず…時間もなかったのでとにかくお酒関係の海外インターン先を、と調べる中で見つけたのがベトナムのクラフトビール会社7Bridges Brewing Co.でした。   クラフトビールの魅力はそれぞれの醸造ストーリー ーそれがきっかけでクラフトビールでの起業を考えられたのですか。 はい。とはいっても初めは起業したいという思いは全くなかったんです。ダナン本拠地の会社だったのですが、インターン生にも関わらずたった2週間の研修の後ホーチミンの営業全てを任されることになり…。1人でホーチミンの営業、発注管理、イベントの企画運営を担当していました。 クラフトビールはアート職人が作る作品と同じように、職人の思いやストーリーが込められており、その醸造背景を伝えながら営業するのはとても面白かったです。クラフトビールにはそれぞれ異なった醸造ストーリーがあり、ビールとしてただ味を楽しむのではなく、そのストーリーを知った上で飲むと更に楽しむことができます。しかし販路を広げるための飛び込み営業をしていると、どうしてもストーリーを伝えることよりも売ることに意識がいってしまいました。その頃から少しずつ自分の思いを込めたクラフトビールを自分で作って売りたいなと思うようになったんです。 ー具体的にその後起業するまでにどのようなステップを取られたのですか。 インターン先の社長と副社長に、自分のブランドを立ち上げて自分のクラフトビールを作りたいというお話をさせていただき、残りのインターンは営業ではなく、ビールづくりを学ばせてほしいとお願いしました。快く承諾していただいたのですが、そのタイミングでコロナが流行してしまい…日本に帰国することとなってしまいました。 それでも何もしない訳にはいかないと思い、帰国後とりあえずブランドを作ることを決意。ビール作りは学べなかったので、インターン先に製造を業務委託する形で日本でオリジナルビールを販売することを決めました。 ーどのようなクラフトビールの製造・販売を決められたのでしょうか。 クラフトビールは現状、ビール好きにしか飲まれていないというのを感じていたので、ビールやアルコールが苦手な方でも飲める、アルコール度数1%以下のクラフトビールを作ることにしました。第一弾としてはベトナムらしさを出したパッションフルーツのラドラースタイルのビール発売に向けて今年7月にクラウドファンディングを行い、無事目標額を上回るご支援をいただきました。   理想の生き方・働き方を目指して ーすごいですね。クラフトビール以外にもいろいろと取り組まれていますが、これらに共通することは何かあるのでしょうか。 全て自分が面白そうだと思ったこと、ですかね。あとは、自分の目指すライフスタイルに合いそうなものというのが共通点です。30歳になった時にどんな働き方をしていたいかと考えた時に「旅をしながら生きたい!」と思いました。理想はバンライフをしながら、世界各地でビールを作り、DIYや農作業をしながら生活すること。そのために今所属している団体や会社を手放しても、個人で何かできるような人でありたいなと思って今かんばっています。 ー最後に、今後の目標などがあれば是非教えてください! 直近の目標としてはクラウドファンディングをご支援いただいた方に無事クラフトビールを届けること、そして完成したクラフトビールをより多くの人に知ってもらい、楽しんでもらうことです。また、第一弾はベトナムで醸造したクラフトビールにしましたが、「旅をするきっかけを作る」というコンセプトの元、今後も新しいクラフトビールの開発に取り組んでいきたいです。このクラフトビールで乾杯することで新たな友達が出来たり、このクラフトビールを飲んだ人が世界に出て、世界でまた新たな友達を作ってくれたら嬉しいです。そうやって友達の輪がどんどん広がることで、「他人」がどんどん減っていき、それぞれがそれぞれのことを思いやれる世界になっていってほしいなと思っています。 実は第二弾に向けてすでに動き出しており、次は台湾を舞台にしたクラフトビールを考えているところです。ぜひ楽しみにしていてください! 取材者:山崎貴大( Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)      

海外旅がきっかけで大転換! 工藤 美奈が人生で後悔しないために大切にしていること

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第235回目となる今回のゲストは、絵画アーティスト/デザイナーの工藤 美奈さんです。大学時代の海外旅、交通事故の経験が人生の転換期となった工藤さんに海外旅や交通事故のエピソード、さらには将来の夢についてお聞きしました。 表に出ることが苦手だった幼少期 ー簡単に自己紹介をお願いします。 フリーランスでデザイナーと絵画アーティストをしている工藤 美奈です。 2020年の3月に大学を卒業し、今は在学中からの仕事を続けています。 デザインは紙媒体中心で、ロゴやパッケージのデザインを作っていて、直近ではクッキーのパッケージを作っています。絵画アーティストとしては、絵を描いて展示したり、店舗に飾る大きい絵を描いたりしています。 ーデザインと絵描きを2年独学で学ばれたとお聞きしましたが、 新卒でフリーランスの道を選ばれたことは勇気がいる決断ではなかったですか。 周りのほとんどの人は、就活をして就職をする道を選ぶ中で、新卒でフリーランスの道を選ぶのは勇気が必要でしたし、周りからの様々な意見があり、すごく悩みました。 ただフリーランスという働き方がやっていて楽しかったですし、自由な性格である私に合っていると感じていました。また、在学中から少しずつお仕事を受けていたこともあり、このまま頑張ってみようと思いました。 ーここから少女時代のこともお伺いできたらと思います。幼少期はどう過ごされていましたか。 すごくシャイで物静かな女の子でした。 幼稚園の時も周りに馴染むことが苦手で、制服を着ていくことに抵抗したりしていました(笑) シャイな性格が中高時代まで続きました。表に出る事が苦手で、静かに生きていたいと思っていましたし、当時の流行にあまり興味がなく、静かに絵を描いたり、好きな小説を読んだりと自分の世界に没頭していました。   ー中高時代に熱中していたことは絵を描くことや小説を読むことだったのでしょうか。 絵を描くこと、赤毛のアンをはじめとする小説を読むこと、あとは学校の文化祭にハマっていました。高校の文化祭は、有志でチームを作って自分たちの好きなことを出来たので、とても楽しかったです。 ーどんな事が楽しかったのでしょうか。 お店を作るとなると、看板やロゴ・チケットが必要だとなり、その頃からデザインやロゴを作る事が楽しくて、Tシャツのデザインに自分から積極的に関わったりしていました。 ー美術部に入ろうとはならなかったのでしょうか。 一回見学に行きましたが、入りませんでした。絵を描いてはいましたが、絵を描き始めることは面倒だったりするので、絵を仕事にしようと当時は思っておらず、趣味の一つとして捉えていました。 自分が変わるきっかけとなった台湾旅 ー大学を選択するときの選択軸を教えてください。 将来やりたい事が全く分からなかったため、当時好きだった世界史が学ぶことのできる名古屋大学の地理学を選びました。 家庭の事情により、大学は地元という制限がある中で、名古屋大学の文学部であれば、入学後でも専攻を選べることもあり、選びました。 ーその後、海外への一人旅に行かれると思いますが、そのエピソードについて教えてください。 もともと海外に対する憧れがありました。 小学校の時に地元で愛・地球博が開催され、そこに何度も足を運んだり、クリスマスプレゼントに国旗図鑑が欲しいと言う女の子でした。国旗を眺めたり、いろんな国があることを知る事が楽しかったんです。 大学生になったら海外に行きたいとずっと思っていて、大学2年生の6月に初めての海外旅行となる台湾へ4日間行きました。パスポートを取得したり、自分で宿や航空券・保険を決めたり、親を説得したりといろいろな準備が必要で大変で、あれだけ憧れていた初海外にもかかわらず行く前は不安でいっぱいだったのですが、行ってみたらとても楽しかったんです。 自分で計画したプランを実行して、120%楽しんで日本に帰国できたことがすごく嬉しく、そこから旅にハマっていきました。 ー台湾への旅で具体的に思い出に残っているところを教えてください。 夜市です。台湾には多くの夜市があり、道の両側にいろいろな店がありました。 フルーツ、野菜、肉や魚、革製品、マッサージ屋などが広がり、匂いや熱気に圧倒されました。家族や友人と当たり前のように歩いて食べて楽しんでいる、現地の台湾人の様子を見て、私がこれを知らなかっただけで、台湾のこの場所では何十年何百年続いてきたのかと思うと、すごい事だなと感動しました。 ー台湾への旅がきっかけでご自身に変化があったのでしょうか。 自分にとって「やりたいけど、できるかな」と思っていたことを乗り越えた事で1つ自分の中で自信になり、そこからいろいろなことに挑戦していけるようになりました。 ー海外に行きたいと思われていた中で、なぜ一人旅を選んだのでしょうか。 もともと一人で行動するタイプであったのと、バックパッカーのバイブルと呼ばれている「深夜特急」という小説を台湾旅の前に読んだことが影響し、その小説と同じ旅のスタイルを自分もしてみたいと思い、一人旅を選びました。 レールに縛られずに自分のやりたいを大切にして良いのだと気づく ーその後はどういった国に行かれましたか。 東南アジアのタイ、カンボジア、ネパールに行きました。 長期休みのたびに、お金を全て旅行に費やしていました。 ーこの3ヵ国を旅した時のエピソードを教えてください。 印象に残っているのは、ネパールです。 ネパールには、1週間はボランティア、もう1週間は観光の合計2週間行きました。 2015年にネパールで大きな地震があったので、ボランティアでは瓦礫を撤去したり、子どもたちと遊んだりしました。その際、ネパール人の家族のところにホームステイしていたのですが、印象的だったのはネパールが停電が頻繁に起こり、1週間に1度しかシャワーを浴びれないほど水が貴重であること、首都のカトマンズにさえ信号がないことです。日本の生活レベルと比較すると格段に不便でショックを受けました。 しかし、そんな中でも彼らの暮らしをみているとどこかすごく幸せそうだったのです。家族や友達との繋がりが強く、頻繁に親戚の家に行って一緒にご飯を食べたりどこかへ出かけたりしていました。実際にネパール人は、何もない中で、何もないことを楽しんでいると話をしていて、幸せはお金から来るものではないのだと教えてもらった気がします。 ーその後、スペインに行かれたそうですが、その時のことを教えてください。 将来やりたい事が分からず、旅を満喫しきれなかったので、1年間休学をして、旅に出ました。 スペインにサンチャゴ=デ=コンポステーラというキリスト教の三代聖地のひとつがあるのですが、その聖地を目指して巡礼路を1ヶ月以上かけてひたすら歩く旅をしていました。 ここを選んだきっかけは、高校時代の世界史で学んでいた時から憧れを持っていたからです。 もう1つのきっかけは、小説「深夜特急」が時間をかけてゆっくり陸路で東から西に進んでいく旅で、旅をする過程で周りの文化や国、景色、人が移り変わっていく様子を肌で感じながら旅をするスタイルに憧れていました。ゆっくり西に向かっていく旅という意味でも、スペイン巡礼はいいなと思いトライしました。 ーこの旅の中で、一番感じたことを教えてください。 様々なバックグラウンドをもった世界中の人と知り合えたことです。彼らと語り合いながら、スペインの大自然や絶景の中を雨の日も雪の日もひたすら歩いた日々が強烈な印象に残っています。 ー色々なことを感じた中で、一番は「人」だったのですね。 大学の中に閉じこもっていたら出会えなかったような人や価値観、生き方にリアルな感覚で触れ合えたことで視野が広がりました。 皆同じゴールを目指して歩く仲間なので、励まし合ううちに家族のような絆が生まれました。言語の壁があっても語りあいたいことや伝えたいことが毎日溢れていたので、その気持ちが前に出て不思議とコミュニケーションが取れていたような感覚があります。 ー休学時は何がしたいか分からないということでしたが、旅の経験が工藤さんの生き方に影響を与えたのでしょうか。 旅を通していい意味でネジが外れ、思考が自由になりました。 そして何がやりたいかは当時まだわかりませんでしたが、レールに縛られずにゆっくりと自分がやりたいことを探していこうと考えるようになりました。同時に、就活をして就職をする道を必ず選ばないといけないわけではないのだと痛感しました。 ーその後に挑戦したのが、東京でのインターンだったんですね。 貧しいと呼ばれる国を旅する中で、恵まれない子どもたちの姿を見てきたことで、 将来は発展途上国の貧困を救うような仕事につきたいと当時は考え、そのような業種の会社でインターンをしていました。 ー当時はどんな関わりがしたいと考えていましたか。 ボランティアとしてではなく、ビジネスに関わりたいと考えていました。 ボランティアやNPO、NGOだと出来ることに限界がありますが、ビジネスだと持続的に地域に関わったり、支援を続けやすいと思い、バングラデシュで革製品を作っている会社のボーダレスジャパンの「ジョッゴ」をインターン先に選びました。 ただ、ボーダレスジャパンのインターンに応募したものの一度落とされてしまいました。 しかし、この会社に将来就職したいと当時は思っていたので、ダメ元で社長に直談判したところ、採用していただき、インターンすることになりました。 死を意識したとき、人生を後悔したくない気持ちが強まる ーインターンの最中に大きなターニングポイントを迎えるということですが、具体的に教えてください。 東京で3ヶ月のインターン中に交通事故に遭いました。 骨折はなかったものの、全身を打撲・捻挫してしまい、半年近く病院に通わなければいけませんでした。事故直後は、歩いたり、手をあげたり、シャワーを自分で浴びれなかったり、服を着替えるのに一苦労したりと大変で、気持ちも落ち込みました。 ー出来ることが限られてたからこそ、考える時間が多かったと思います。どんなことを感じたり、考えられていたりしていましたか。 事故にあった時点では、インターンを続けていたもの、自分がやりたいことが当初イメージしていたことと何か違うなと感じ始めていたので、なぜ違うのか考えたり、将来何がしたいのかを考えていました。 同じタイミングで、友人の知り合いが開催している個展に参加したのですが、その個展にとても感動しました。子育てをしながら画家をしているシングルマザーの方の個展でしたが、画家として生きるのが大変な中で、自分の夢を追い続けている生き方や作品に感動し、自分の中にあった「絵がやりたい」という気持ちを思い出しました。 事故に遭ったことで、1mでも1秒でも違っていたら轢かれて死んでいたかもしれず、人生はこんなにも簡単に終わってしまうのだとリアルな感覚を得たことで、絵をやらずには死ねないとその時に思いました。そして、本気で絵に向き合って追求してみたいと思い、絵を描くことに決めました。 ーその後、絵を独学で描き始めると思いますが、どのようにはじめましたか。 学校にいかなければいけないのではと思っていたので、ネットやSNSを使ってイラストレーターさんやデザイナーさんの経歴を調べ、そもそも独学で絵を学べるのか調べるところからスタートしました。 独学でもなれることが分かったので、ネットを使ったり本を購入して、勉強したりして、独学していきました。 ー趣味で絵を描くこと、仕事で絵を描くことにはギャップがあると思ったのですが、そこを楽しめた理由を教えてください。 作品を生み出す過程は苦しいのですが、お客さんが必要としているものを自分が好きなデザインや絵で力になれる感覚や実際にお客さんが喜んでいる様子や満足してくれる姿を見ると、すごく嬉しいです。 ー独学で絵を学ばれた中で、どのように仕事へと繋げたのでしょうか。 知り合いのご縁です。 最初に仕事をいただいたのが、東京のベンチャー企業で働いていた角田さんです。角田さんとは今でも一緒に仕事をしていますし、その会社のつながりで名古屋にあるコワーキングオフィス「ジユウノハコ」を紹介してもらい、現在はそこに所属しながら仕事をしています。 そこはデザイナーやクリエイターが多数所属してお仕事をしている場所で、いろいろな人やプロジェクトが集まっているので、そこからお仕事をもらうことも多くあります。 ーフリーランスという働き方はイメージできていましたか。 在学中にフリーランスとして実際に働いていたので、イメージしやすかったです。 当時は生計を立てる収入はなかったものの、卒業してからもこのまま続けていきたいと思っていました。 旅をする中で、人生の一番長い時間を占める「働く」時間を我慢したり、自分が好きになれないものに時間を費やすことはしたくないと思っていました。 そして、自分がやっていて心地良いものに時間を割きたいと思ったので、お金や不安定な要素よりも自分が何をやっていて楽しいのかを大事にしていました。 満足するまで絵を追求する ー交通事故で死を意識し、絵やデザインを再開されたと思います。 工藤さんはこの先どのように生きていきたいと考えていますか。 あまり長いスパンで人生を考えないのですが、 自分が好きな絵を満足するまで追求していきたいと思います。 もう一つの夢は、将来本を作ることです。もともと旅が好きなので、多くの旅を経験し、旅先で出会った人のイメージを絵にし、その人のストーリーを添え、それを集めた綺麗な絵と言葉の作品集を作りたいです。 ー最後に、工藤さんの今後のビジョンを教えてください。 直近だと、個展を開きたいです。 将来的には、自分の作品をただ展示するのではなく、異なる分野の方とコラボをして、来場者が絵だけではない要素も楽しめる空間づくりが出来たらと思っています。 ー人生で後悔しないように自分のやりたいことを追い求める、工藤さんの今後の活躍を応援しています! 取材者:吉永 里美(Twitter/note) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

自分の人生を生きる人を増やす。女性経営者・金井芽衣が描くキャリアカウンセリングの可能性

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第240回目となる今回は、ポジウィル株式会社・代表取締役の金井芽衣さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 「POSIWILL CAREER(ポジウィルキャリア)」でキャリアのパーソナルトレーニングという新しい概念を作り上げた金井さん。なぜ、ここまで真摯に人のキャリアに向き合うのでしょうか。金井さんの幼少期の原体験から、ポジウィルキャリアの着想までを語っていただきます。 キャリアカウンセリングに見出した、虐待解決の糸口 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 ポジウィル株式会社で代表取締役をしている金井と申します。現在は「ポジウィルキャリア(旧:ゲキサポ!)」という、キャリアのパーソナル・トレーニングサービスを運営しています。端的に言うと「キャリア版ライザップ」のようなサービスですね。 ー金井さんの子供時代について教えてください。 昔から人とあまり群れず、虫や雨の水滴を眺めているような子供でした。人に流されたりせず、自分の世界に閉じこもってずっと考えているような子供で(笑) ー学生時代はどんな勉強をされていましたか? 一度保育系の短大に入学し、2年通ってから4年制の大学に編入しています。編入先の大学では主にキャリアデザインについて学びました。 私自身が子供時代に両親の離婚で辛い思いをしてきたので、自分の子供にはそんな思いをさせたくないと思い、初めは保育について学ぼうと思っていました。当時は短大の授業と実習、さらに編入試験の勉強をしていたので正直とても大変で。1年間くらいは睡眠時間2時間くらいでした。 辛すぎて保育の免許は諦めようとも思っていたのですが、母に「自分で決めたことなのにやりきれないの?」と厳しい意見をもらって……。「そこまで言うならやってやる!」と母の言葉をバネに保育士免許を取得し切りました。 ーすごくハードな学生生活だったのですね……!短大から4年制大学に編入したのはなぜでしょうか? 保育園や養護施設での実習で、日本には虐待を受けていたりご飯さえ食べられなかったりする子供がいることを知って。私も辛い経験をした子供だと思っていたのですが、両親には大事にされていたし、恵まれていたんだと衝撃を受けました。 しかし、虐待は100%親が悪いわけではなく、虐待せざるをえないストレスや環境に問題があると思ったんです。だからこそ、ストレスや環境に問題がある社会構造を変えられる仕組みを作りたいと思うようになりました。 そこで初めて「キャリアカウンセリング」の存在を知りました。人生の大半を占める仕事での悩みが減れば、虐待に繋がるようなストレスが減るんじゃないかと。もっとキャリアを深く学びたいと思い、キャリアカウンセリングの日本の第一人者である宮城まり子先生先生がいる、法政大学のキャリアデザイン学部に編入を決めました。 「金井はリクルートに受からない」と言われ、無我夢中でしたOB訪問 ーそれで就職もキャリア関係の会社に進んだのですね。 はい。新卒では人材紹介事業を行う、リクルートエージェント(現:リクルートキャリア)に就職しました。キャリアに関わることがしたいと思いが強く、人の人生の分岐点に関われる人材系の会社だけを6社受けました。 周囲の方からは「金井は受からない」と思われていたんですよね。そこで元リクルート社員が経営しているバーで「お金はいらないので働かせてください!」と頼みました。バーにはリクルートの社員さんが多くいらっしゃったので、さまざまな方にOB訪問をしていました。 OBの方にも「金井さんじゃ受からないよ」など、厳しい言葉もいただいていました。本当に悔しくて。そんな悔しさをバネにして、リクルートに内定をもらいましたね! ー金井さんは人生で多くの厳しい言葉や批判を受けている印象を受けるのですが、どうやってやる気に変えているのでしょうか? 「信念を持つこと」が重要だと思います。 就活や起業の時にも「お前なんかにできるわけない」と厳しいお言葉をいただいてきました。でも結局、否定をしてくる人はその人の感情を満たしたいだけで、相手にうまくいってほしくないだけの人は多いです。私を応援してくれない人のために、脳の容量を使うこと自体がもったいないなって。 もちろん、真っ当な意見をくださる方は大切にしたほうがいいです。でも「応援してくれない人の言葉は自分の人生には必要ない」と割り切って、聞き流すことをおすすめします。 ーリクルート時代はどんな社会人でしたか? 最初の1年半くらいは売れたり売れなかったりを繰り返していて、正直、中途半端な社員でした。私自身もいままで自分でやり切ってきた自負があったので、今思えばとても生意気な、扱いにくい新人だったと思います(笑) 契約社員さんよりも売り上げていないのに給料が高く、「金井さんは全然仕事ができていない」なんて厳しい言葉もいただきました。今まで比較された経験が少なかったので、当時は非常に傷ついていましたね。 ーどんなきっかけで成績が上がったのでしょうか? 2年目で本気で私に向き合ってくれる上司との出会いです。上司に言われた「お客さんは営業を選べない」「中途半端な仕事しかしない金井さんが担当になったお客さんが可哀想」という言葉がきっかけで、「私はいままでお客さんや会社など他責にしていた」と気づいて。そこからもっと本気で仕事に向き合おうと思ったんです。 その後、また上司が変わったのですが、この方もまた私に本気で向き合ってくれて。「これだけやってもらっているのに成果出なかったら申し訳ない。3ヵ月で成果がでなかったら辞めよう」と腹を括りました。 その2つの出会いがきっかけで、周りの目を気にしない、他人と比較をしないようにしたら無双状態になってましたね。 ー当時、成果が出なかった理由は何だったのでしょうか? 「このまま頑張ってれば、いつかは勝手に報われるだろう」と思っていたことですね。でも、努力は自分で報いに行かないと報われませんから。 また、人の目を気にしていたことも要因でしょうか。今思うと「人の目を気にするくらいなら、自分のことを気にしたほうがいいよ!」とは思います(笑)当時はそのくらい余裕がなかったのかなと。 サービス成功のポイントは「誰へ何をするか」をわかりやすく伝えること ーどんな経緯で独立・起業をされたのでしょうか? はじめは「頑張りたくなかった」から独立しました。 もともと会社に長くいるつもりはなく、いつかキャリア関係での独立は考えていたんです。実際に26歳で独立を決めて、27歳で独立したのですが、当時は会社員を辞めた方が楽そうに見えたとか、人材紹介や研修でお金を稼げるアテがあったなど、甘い考えで独立を決めましたね。 独立したては、人材紹介や研修講師と、組織コンサル、単発のキャリアカウンセリングなどの仕事をしていました。でも、時間に余裕のある生活は私に合わなくて。頑張りたくないから独立したのに、頑張っていない自分が辛かったんです(笑) そんな時、少しずつスタートアップ業界の方とお会いしたり、Twitter経由で投資家の方からお声がけをいただける機会が増えました。 初めて投資をしていただいた投資家の方に「このままだと、適当に会社作って偉そうにしている人になるよ」と言われまして。悔しかったけど、その通りだと思ったんです。 ーそこからそうだんドットミーを作ったのですか? いいえ。そうだんドットミーの前身として30分500円でキャリア相談ができる「ミレニティ」というサービスを作ったのですが、課金ユーザーが1人しかいなくて。投資を受けてから本格的にそうだんドットミーを作りました。 ーミレニティとそうだんドットミーの違いはどんなところに? 正直に言って、ミレニティとそうだんドットミーのサービスの中身はほとんど同じなんです。同じことをしても見せ方次第で結果が変わるんですよね。 ミレニティのときは誰向けのどのようなサービスかがわからなかったので、そうだんドットミーではターゲットを明確にして、わかりやすくしただけなんです。例えば、「カウンセリング」や「コンサルティング」という言葉は敷居が高いので、日本でも浸透している「相談」という言葉を使いました。 サービスが多くの人に愛されるかどうかは、伝え方がとても大事だと実感しましたね。 「相談だけでは人生は変えられない」点を線へと変化させた『ポジウィルキャリア』 ーそうだんドットミーからポジウィルキャリア(旧:ゲキサポ!)に事業を転換した理由を教えてください。 単発のキャリアカウンセリングであるそうだんドットミーだと、ユーザーへ十分な価値提供ができないと思ったからです。 ある時そうだんドットミーのイベントで、サービスを5回も利用しているのに軸が決まらず、転職もうまくいかないユーザーさんに出会いました。どれだけキャリア相談しても「点ばかりで線になっていない」、今のサービスはまったくユーザーの価値に繋がっていないと痛感したんです。 そこで「5万円で、私がマンツーマンでキャリアのサポートします」と提案したんです。結局そのユーザーさんは希望の会社に転職することができて、変化するまで伴走するこの事業のほうが意味がある事業だと気が付きました。 キャリア相談にももちろん意味はあります。しかし、単発の相談だけでは人生が変わるところまでアプローチするのは難しいと気づいたことが転機でしたね。 ーその後、ポジウィルキャリアはいかがですか? ポジウィルキャリアのユーザーさんは「人間が変わる」と確信しています。 ポジウィルキャリアでは、今までの人生をすべて振り返る機会があります。怒りや恐怖、男性不信……そんな悩みの根本には両親や友達との関係があることがほとんどなんです。サービスの入り口はキャリアですが、カウンセリングを受ける中で自分の価値を認識でき、人生の意味を見出すことができるのがポジウィルキャリアです。 また、キャリアの悩みはもちろんですが、使ってくれたユーザーさんからはそれ以上に「自分を肯定できた」との声をいただいています。これまでの環境や経験で認知が歪むことで、自己肯定感が低くなってしまっている方もおられます。難しい問題ですが、結局はどう捉えるかが大事です。 今までの経験は変えることはできませんが、だからこそ捉え方を変えて人生の糧にすることが大切だと思います。 自分の人生を生きる人を増やす。ポジウィル代表・金井芽衣が描く ー金井さんが実現したいのはどんな世界でしょうか? 会社のミッションである「あるべき、こわそう。」の通り、固定観念を壊したいと思っています。 生きていると「いい会社に入らなきゃ」「いいお母さんでいなきゃ」など、縛られてるものが大きいんですよね。でも、自分が本当にいいと思って選んだらそれでいいと思うんです。自分の人生には誰も責任とってくれませんから。 自分の考えで自分の人生を生きる人を増やしたいと思っています。 ー金井さん自身のビジョンはありますか? 「家庭が幸せであるか」はとても大切だと思っています。 ただ、私自身人生をかけて叶えたいミッションもありますし、会社のメンバーやユーザーさんが大好きなので今はそこに集中して頑張りたいです。 仕事は極論「大事な人たちの役に立ちたい」という考えの延長線上にあると思っていて。また、その総量を増やし、少しでも誰かの人生にとっての意味のある存在になれたらいいなと。 公私共に後悔しない人生を送るべく、今やるべきことにコミットして成果を出していきたいです。 ー最後に、U-29世代へメッセージをお願いします! 私は20代で頑張ったことが人生の武器になるなと思っていて。20代の期間で自分の価値をどれだけ高められるかが30代、40代に影響します。 その期間をいかに悔いなく生きられるか。私も失敗はたくさんしましたが、すべてが今の私の糧になっていると思います。ぜひ皆さんにも20代を楽しんで、やりきって欲しいです! ーありがとうございました!金井さんの今後の活動を楽しみにしています! 金井さんが代表を務めるポジウィル株式会社が運営する、キャリアのパーソナルトレーニングサービス「POSIWILL CAREER」の詳細はこちら。 執筆・インタビュー:えるも(Twitter/ブログ) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

「法教育を通じたいじめ問題解決」をテーマに『こども六法』を出版した教育研究者・山崎聡一郎さんの人生史

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第221回のゲストは教育研究者の山崎聡一郎さんです。 「こども六法」という本を皆さんはご存知でしょうか? 2019年に発売された一冊で、日本国憲法・刑法・民法・商法・刑事訴訟法・民事訴訟法の6つの法律からなる「六法」を、子どもから大人まで誰でも読めるほどわかりやすく説明がされている本であり、その秀逸さから瞬く間に話題の図書となりました。今回のゲスト山崎さんはその本の著者でもあり、また他にもミュージカル俳優、社長、写真家という様々な肩書きを持ちながら活動をしています。 そんなマルチな分野で活躍をされている山崎さんですが、彼が実現したいことは一貫して「法教育を通じたいじめ問題解決」というものでした。山崎さんがこの想いに至った今日までのストーリーや、やりたいことを実現していくためのエッセンスなどを幼少期から振り返ります。 被害者・加害者の立場から「いじめ」に向き合った小学校・中学校時代 ー多彩な肩書きを持つ山崎さんですが、改めて今のお仕事について教えてください。 このインタビューも実は、今社員旅行で来ている箱根からお送りしてる、というところで一つは「Art&Arts」という会社を持っており、具体的には演奏会のマネジメントやコンサートの企画運営を行っています。あとは、「教育研究者」としていじめ問題に関する調査・研究・執筆を行っており、その中の一つの活動として2019年に「こども六法」を出版しました。その他にも、ライフワークとしてミュージカル俳優をしていたり、写真家としても活動を行っています。 ー盛り沢山の内容で、でまさに四足の草鞋を履いている状況ですね…すごい!さて、ここからはそんな今の山崎さんを作った過去の話を聞きたいのですが、幼少期はどんなお子さんだったんですか? 登下校中歌って踊りながら歩いているような子でしたよ(笑)とにかく変な子だったな、と思います。 そのせいで小学校の時にはいじめを受けていて、それが僕の「いじめ」と向き合う最初のきっかけとなりました。本当にその時は辛くて幼いながらに「死」というものを考えたこともありました。ですが、その時に生きる支えになったのが唯一、自分が勉強ができることだったんです。なので、いじめから逃れるためにも中学校受験を考え始め、地元から離れた中学校を選んで受験をしました。 両親も、昔ながらのいい学校に行っていい企業に勤めて安定した人生を送って欲しい、と思っていたので、中学校受験には賛成してくれたことも幸いでした。 幼いながらに、小学校時代は力が強い人が権力を持つという構造だったけど、将来的には勉強ができる人が社会的地位の上になる、世の中の仕組みを作る人は勉強をちゃんとしてきた人だ、と思っていたので、ひとまず受験に向けて勉強は頑張っていました。 ー小学校の大変それはそれは辛かったことと思います…。しかしその経験をバネに勉強に力を入れて中学校受験されたのはご自身の中でも大きな出来事になったのではないかと思いました!実際に中学校に入学されてどうでしたか? 人間関係はここでリセットされたので、いじめはなくなってたんですがやはり自分は浮いてましたね(笑)友達関係のパワーバランスも、以前と比べてあまり変わらないし、今度は先生から嫌われるということもありました。そんなことがありつつも、部活は3つくらい掛け持ちしたりしていて、いずれも積極的に活動も行っていました。 一つが写真部、二つ目が放送部、三つ目が自分で作った囲碁愛好会です。 写真は、小学校4年生の時に祖父のカメラコレクションを見て興味をもち、その一年後のクリスマスプレゼントには、コニカミノルタ製APSフィルム用コンパクトカメラをもらってからずっと写真は撮っていました。 放送部は、当時アナウンサーになりたいという気持ちがあったので入部し、中学二・三年生の時に放送コンクールに出場ました。 囲碁は、4歳で初めて出会ってからはかなりのめり込んでいき、小学生時には地元の大会で優勝したりするほどの熱中具合だったのですが、進学した中学校には部活がなかったんです。そこで愛好会を立ち上げて堂々と囲碁を楽しめる環境を自分で作ったというわけでした。 ー現在の仕事もそうですが、小さいことからいろいろなことを一変にやることが得意なんですね!部活にかなり忙しい日々を送っていたことと思いますが、何かそこで印象深い出来事はあったりしましたか? 中学でもまた「いじめ」と向き合う印象的な出来事がありました。小学校はいじめの被害者だったのですが、そこで辛い思いをしたはずの僕がまさかの中学ではいじめの加害者になってしまったんです。 きっかけは囲碁愛好会でのトラブルした。当時は全く自覚がなかったのですが、気がつけば自分が一番悪としていた加害者であると気がついた時は、本当にショックでしたし、そんな自分をなかなか受け入れることはできませんでした。 これからの進路を決定する現体験を経た高校生活 ーショッキングな出来事が続いた小学校・中学校でしたが、高校もまた新しい環境になり何か変わったことはありましたか? 通っていた中学校は中高一貫校ではあったものの、僕は公立高校を受験しました。それが本当に吉と出ましたね、今どの時代に戻りたいと聞かれたら真っ先に高校時代を選択します。 中学校は、私立ということもあって校則が非常に厳しかったでのですが、高校はその真逆で本当に自由な環境が与えられていました。ただ「自由」は保証される代わりに、今度は自分自身で何が良くて何がダメなのかの線引きを考えろ、と言われていたのでそういった意味でも自分に合った高校を選んだなと思いましたね。またここで、法的なものの見方やバランス感覚を身につけたことが、後の「こども六法」の出版に生きていきました。 ーなるほど!これって良い面も悪い面もあるなと思っていて、校則があることによって自由はないけど生活する上で生活の過ごし方を自身で考えることがないのですごく楽である、という捉え方もあると思うのですが、その中で山崎さんが自由な環境を楽しめた理由ってなんかあるんですか? 自由であるからこそ、やりたいことが全部できたのでそれが理由ですかね。縛りが厳しい学校だと、学問を極めることと、とことんまで遊ぶということが、遊びは遊び、勉強は勉強でどうしても別れてしまうと思うんですよね。でも高校は、だからこそ学問だけに止まらずなんでも自由にチャレンジできる場があったんです。むしろ、「勉強だけを頑張るなら誰でもできる。勉強以外のことと両方を極めることこそ大事だ」ということをずっと言われていました。「とにかくまずは勉強をしろ」と言われていた中学校とは、とことん真逆な環境だなと思いますね(笑) ー高校は、山崎さんの中でもこれまでとは全く違う環境に身を置いて、それがご自身にも非常にマッチしていたんですね!高校では、そんな環境でどんなことにチャレンジしていたのですか? メインの部活として「音楽部」いわゆる合唱部をやっていて、他にも生徒会執行部と社会科研究部と、その他二つの委員会に参加して、全部で5つの部活に入っていました。そのいずれも今の自分の活動に繋がっていますね。 「生徒会執行部」というのがこれまた特徴的で、うちの高校は生徒で三権分立が成り立っていて、生徒会長と副会長は選挙で選ばれます。ただ、その下で活動する執行部は部活になっていて誰でも入部することができるのです。 もう一つの「社会科研究部」は、「生徒は学校内外において政治的活動をしてはならない」というルールを廃止するという時代の産物のような目標を掲げて愉快な活動を行っていました。 「法教育」との出会いで自分の取り組む新しい道が拓ける ー高校での部活動は、どれも今の山崎さんの活動に生きているんですね。そんな濃密な高校生活を経て、大学進学はどのように決められたのですか? 高校一年生の終わりに失恋した時に「あなたは勉強はできるけど、人の気持ちがわからない」と言われて、これは人として致命的だなと考えさせられまして。そこで、もっと「普通の人間になりたい」と思うようになり、頑張って普通の人になろうと努力したんですけど無理だったんですよね(笑)その時、「もう僕には勉強しかない」と思い、東京大学一本に絞って、受験勉強に励みました。ただ、結果は東大不合格というもので、親や祖父に勧められた慶應義塾大学へ進学することになりました。 大学では、入学前から入部を決めていた100年以上歴史のある有名な合唱団に入ったり、ゼミにも2つ入ったりして相変わらず色々やっていましたね。一つは、「先端法学」というまだ法律の整備が追いついていない領域で新しい法制度を考えていくゼミ、もう一つは「学習環境デザイン」というストレスが少なく頭に残りやすい学習の環境作りを考えるというゼミに入っていました。 ー大学時代から法律や教育といった分野に軸足が置かれていたんですね。その決め手になった理由というのはあったんですか? 法律は元々興味関心がある分野だったので、勉強したいと受験の時から思っていました。そのきっかけとなったのが、まさに先ほどお話しした高校生活での生徒会の仕組みなどですね。ただ、法律は勉強したいけど果たして弁護士になるのか…?ということは受験時に考えていて、その職業選択は自分の中ではないという結論に至りました。法学部ではなく、総合政策学部に進学したのもそう言った経緯があってのことです。 もう一つの教育に関しては、自分の小学校や中学校時代のあまり良くない思い出がベースにあって、みんなが行かなければいけない学校つまり「義務教育」において、こういった良くない環境があるということはどうにかしなきゃいけないと想い、教育の分野に乗り出したというのはありました。 まずは法律の方から勉強を始めたのですが、そこで僕が今現在もテーマにしている「法教育」という自分のもう一つの興味のある分野でもある「教育」を掛け合わせた分野を知り、そこからはその分野を学部では学んでいきましたね。 ーなるほど、法教育というのは山崎さんの興味を掛け合わせた理想的な分野ですね。そこから研究者の道を歩み始めると思うのですが、最初からその道を決めていたんですか? 最初は、教育系シンクタンクや教育系企業に勤めるというのを考えていて、ただそう言ったところではマネタイズの兼ね合いで僕が研究したいと思っていた「いじめ問題」に関する取り扱いがないということが懸念点としてはありました。また、シンクタンクに進むには院卒であることがマスト条件でしたので、そこで大学院進学をすることに決めました。 ただ、学部の時に自分が作った「こども六法」を生かした研究が大学院では難しいという現実に直面したんです。研究というのは、本来積み重ねであり、先行研究で今まで積み上げられたものの上で成り立つんですよね。なので、まだまだ学問としで出来上がったばかりの「法教育」、前例のないこども六法、いじめと法教育を関連させていく研究も存在ない、という状況の中で上記のような研究の定義に当てはまらない、ということになってしまったんです。 僕の学校自体は、「誰もやっていないことを自分がやるのは面白い」という発想があるんですが、研究においては誰もやっていないだけが自分がやる理由にはならないんです。そもそも研究で「誰もやっていない」という事実がある場合には、一つはやる価値がない可能性がある、二つ目は不可能だから誰もやっていないという二つの理由が考えられます。また、教育実験ともなると対象者は人になり、倫理的に難しい場合もあるのでそこも障壁となっていました。 以上のことから、自分のやりたかった「法教育教育を通じていじめ問題に効果があるか」という実験を検証するのは不可能であるという結論に至りました。そこで、法教育ではなく「いじめ問題」にフォーカスして学びを深めていく方向に転換していきました。 「法教育を通じていじめ問題を解決する」を社会で体現していくために ーなるほど、そう言った経緯で大学院は社会学研究科なのですね。大学院後の進学をどのように捉えていったんですか? 自分が研究テーマにしていた「いじめ問題」については、人生的なミッションとして発信していくのが適切であろうと考えていました。研究の中で完成した成果の一つとして「こども六法」があるわけなんですが、これは全てのクラスに置かれることが最も大切なことだと学部の頃から思っていました。だからずっと紙媒体の本にすることにこだわったのです。しかしこれは非常に難航し、どこの出版社も取り合ってくれませんでした。そこで出版費用をクラウドファンディングで集め、ようやく弘文堂からの刊行が決まりました。 ーそういうわけで、教育研究者として今もその問題に向き合われているということなんですね。ちなみに冒頭にご両親は「良い学校に入り、良い企業に勤めることを理想としていて」と言った話があったかと思うのですが、企業への選択などは念頭にはなかったのですか? 「法教育を通じていじめ問題を解決する」という自分のやりたいことをできそうな会社を当初は探していましたが、結局見つかりませんでした。そこで僕の選択肢から就職は消えたんですよね。やりたいことができない未来は、自分にとって魅力的に映らなくて。また、やりたいことがあるのであれがその実現を優先すべきと考え、企業への就職ではない方を選択しました。 ずっと音楽をやっていたのですがアーティストになりたいと思ったことはなくて。実は音痴だったりもするので(笑)音楽で仕事をするというのは最も実感から遠いものがあったんですが、劇団四季のオーディション受けたら受かるという奇跡があったので、プロとして向き合うようになったのはそこからですね。受けたきっかけは、ずっと挑戦したかった演目を劇団四季がやることにやって、キャスティングは公募するというのをみて応募したことにありました。 ー応募して劇団四季に受かってしまうのがすごい…!最後に、これまでいろいろなことにチャレンジ、それを大成させてきた山崎さんですが、やり切るコツみたいなのはご自身の中でありますか? いかに飽きないようにできるかということですね。元々は飽きっぽい性格なのですが、色々なことに取り組むことによってそれぞれが自分にとって息抜きになっていて、ちょうど良いバランスなんです。 また、「できること」と「やりたいこと」を分けるようにしているのもポイントかと思います。最初からできないことにトライすると自分の中でも難しくなってしまうので、まずはできることから始めるというのにフォーカスしてみると良いかもしれませんね。すると気づいたときにはいつの間にかできることが増えていたりします。 ーなるほど。自分のできることにまずはフォーカスしてそこからつなげていくことが大切なのですね。今日は多岐に渡るお話本当にありがとうございました! 取材:高尾有沙(Facebook/Twitter/note) 執筆:後藤田眞季 デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

ASEAN HOUSE代表・佐々翔太郎がU-29世代に送るメッセージは「欲望に忠実に生きろ!」

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第237回は株式会社リクルートで働きながら、東南アジア人と日本人が一緒に暮らすシェアハウス「ASEAN HOUSE」を運営されている佐々翔太郎さんです。 「ド底辺からのスタートだった」とこれまでを振り返って語る佐々さんが、海外に目を向けることとなったきっかけや、起業経験を経て、就職・シェアハウス設立に至るまでのお話をお伺いしました。 一般企業で働きながら、シェアハウスを設立 ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします。 ASEAN HOUSEの代表として東南アジア人と日本人が一緒に住むシェアハウスを運営しています、佐々翔太郎です。本業は新卒で入社した株式会社リクルートで新規事業としてホテル・旅館向けの業務効率化システムの開発に携わっています。また、大学時代にはミャンマーの若者向けキャリア教育・進学情報メディアLive the Dream Co., Ltdを立ち上げ、代表として働いていました。 ーASEAN HOUSEについてもう少し詳しく教えていただけますか。 ASEAN HOUSEは外国人が暮らしやすい社会を創ることを目的にスタートさせたシェアハウスです。 私自身がミャンマー滞在時に、食事が合わなかったり、現地の方に騙されたりとミャンマーに対してネガティブな印象を持ちつつあったものの、一緒にシェアハウスをしていたミャンマー人の友人のおかげで結果的にはミャンマーを好きになることができました。現在日本では東南アジアからの移住労働者が増えていますが、その方達にできるだけ日本を好きになって欲しい、日本での生活をサポートしたいという思いからシェアハウスを運営しています。自分自身がシェアハウスの友人がきっかけでミャンマーを好きになったように、東南アジアの方が日本を好きになるきっかけを増やせたらと思っています。 中高時代、野球が心の支えだった ー佐々さんの過去についても教えてください。どのような幼少期・中高時代を過ごされていましたか。 父が転勤族だったため、幼少期は定期的に引っ越す生活を送っていました。内気な性格だったのですが、引っ越す度に新しい環境で友達を作らないといけないこともあり、嫌々ながらも話す力は鍛えられたのかなと思います。 人生の大きな転機となる出来事が起こったのは14歳の時でした。もともと喧嘩の多い家庭ではあったのですが、両親が突如離婚し、家を出て行った父と連絡が取れなくなりました。ドラマの世界での出来事だと思っていた離婚が現実に起こったことが衝撃だったのを覚えています。 そして離婚の結果、相対的貧困に陥りました。当時は裕福な家庭が多い中高一貫校に通っていたため、周りと比べて貧乏なことにコンプレックスを抱くようになりました。またそれがきっかけでいじめを経験し、「なんでこんな環境に生まれたのか」と考えるようになり、自分のアイデンティティについて考えるようになりました。 ーそんな中、何をモチベーションに頑張られていたのでしょうか。 母が自分を育てるために必死になっている姿を見て、少しでも母を喜ばせたいという気持ちがモチベーションになりました。当時は野球部に所属していたので、ひたすら野球に打ち込み、甲子園に行くことを目標としていました。母を喜ばせたいという思いもありましたが、テレビに映って父に自分の姿を見せたいという思いもありましたね。 ーその結果、甲子園には出られたのですか。 それがレギュラー落ちしてしまい…周りから「あいつは口だけ」と言われ、さらにコンプレックスが増えてしまいました。 野球では目標を達成することができなかったので、大学受験では成功してやろうと、東大を目指して勉強に取り組むようになりました。しかし野球にずっと打ち込んでいたのでとても東大を目指せるレベルの偏差値ではなく…周りを見返したいというネガティブな思いだけで取り組んだ受験は結果うまく行かず、浪人もしましたが、東大には受かることができず、中央大学の法学部に進学しました。   フィリピン留学がきっかけで喜怒哀楽が豊かに ー大学に進学してみていかがでしたか。 野球でも受験でも目標を達成できず、周りからは「口だけ野郎だ」と言われ、かなり落ち込んだ状態で大学に進学したので、初めは全然周りに馴染めませんでした。 そんな大学生活が変わるきっかけになったのはフィリピン留学でした。たまたまサークルの先輩がフィリピン留学に行っており、彼女との共通の話題を作りたいという思いだけで同じ奨学金プログラムに応募し合格。特に英語や海外に興味はなかったのですが、フィリピンに行くことになりました。 語学留学が目的ではあったのですが、休日はNPOのボランティアへの参加が必須となっていたため炊き出しや日本語を教えるお手伝いを行いました。フィリピン人と触れ合う中で、彼らがどんなに辛い状況でも常に明るく、笑顔で目の前のことに一生懸命に取り組んでいるのに対して、彼らより恵まれた環境にいる自分が下を向いて生きていていいのかと情けなくなりました。 今振り返ると、当時は甲子園に出場することや東大に合格するという名声を得ることが自分にとっての成功だったのですが、フィリピンでの生活がきっかけで人生を明るく楽しく生きることこそが人生における成功なのではないかというのがわかったのだと思います。 ー帰国後は具体的に何か行動をされたのですか。 自分は恵まれた環境にいるのだからもっと頑張らなければという気持ちと、フィリピンの現実を知ったからには何か行動しなければという勝手な義務感から国際協力について興味を持って調べるようになりました。 フィリピンに限らず、東南アジアに関する文献を読んだり、各国のスラム街を実際に訪れてみたりする中で出会ったのが貧困層から抜け出す人をサポートするための金融サービス、マイクロファイナンスでした。そしてその話を大学の教授にたまたま話したところ、ミャンマーでマイクロファイナンスに取り組まれている会社を紹介され、大学のプログラムを活用して初めてミャンマーに訪れました。 ーここで初めてミャンマーが出てくるんですね! はい。マイクロファイナンスを活用することはいいことなのですが、貧困層の方の多くは複数の会社からお金を借りてしまい、結果的に自分の首を閉めてしまうというこがあります。マイクロファイナンスに関連した手続きの多くは紙媒体で管理されていたため、そういった問題が起きやすい現状があったのですが、それをIT化することで防ごうという取り組みを株式会社リンクルージョンという会社が行っていることも現地で知りました。ITというアプローチからも貧困層を変えることができるということを知り、それからITや起業に興味を持つようになりました。   ミャンマーで雇用を生み出せた成功体験 ーその後またミャンマーに行くことになったきっかけは何だったのでしょうか。 NPO法人e-Educationで働くことが決まり、トビタテ留学JAPANの制度を活用して大学4年次に再びミャンマーに訪れました。 e-Educationは十分な教育を受けられる環境にいない途上国の子供たちに映像授業を届ける事業を行っています。その事業のミャンマー現地責任者としてミャンマーでも最貧困地域と言われているチン州に映像授業を届けるべく、現地政府と交渉や、カリキュラム開発を担当させていただきました。当時のミャンマーはまだインターネット環境が整っていなかったので、現地スタッフと一緒にUSBに入った映像授業をバスで30時間かけて届けていましたね。 ーそこから起業を決意した経緯について教えていただけますか。 映像授業を届けて、学生の教育環境を整えるという活動を行う中で、教育環境を整える前に学生の勉強に対するやる気をアップさせる必要があると感じるようになったのが起業を決意したきっかけです。 ミャンマーの学生の多くは、どんな大学があるのかや大学に進学するメリット、大学卒業後のキャリアへのイメージを持てておらず、それが勉強へのモチベーションにも影響を与えていました。そこでまずは大学情報やキャリアに関する情報を提供するべきだと思ったのですが、調べてみるとそういった情報を提供しているサイトは全て英語で、ミャンマーのほんの一部の学生にしか届いていないことが分かったんです。であれば、ビルマ語のキャリア教育・進学メディアを自分で立ち上げようと決意しました。 ーそのような経緯ではじめられたメディアLive the Dreamの反響はいかがでしたか。 ミャンマーで活躍されている方々の波乱万丈なサクセスストーリーをビルマ語で録画したロールモデルストーリーは多くの方にみていただくことができ、ユーザー100万人規模のメディアにまで成長しました。これが野球・受験と失敗続きだった自分にとっての初めての成功体験となりました。 もちろん、そこに至るまでには現地従業員にストライキされるなど大変なこともたくさんあったのですが、メディアに取り上げられるレベルにまで成長したことは自分の自信になりました。しかし何よりも嬉しかったのは、インターン生を新卒で採用したところ、「ここで働けているおかげで弟の大学の学費を出してあげることができた」と感謝されたことです。雇用を生み出すことがもしかしたら一番の長期的な国際協力なのかもしれないと思うようになりました。 また、フィリピンでボランティアした際に、訪れた地域の限られた人しか助けることができないことに違和感を感じていましたが、メディアであればより多くの人にアプローチできるという点からもビジネスとしての国際協力の可能性を感じました。   自分を鍛えるため就職。再び世界で勝負することが目標。 ーメディア事業が順調だった中、帰国後就職を選ばれた理由は何だったのでしょうか。 ミャンマーだけに留まらずもっと大きい会社を作って、世界中にたくさんの雇用を生みたいと思ったのですが、そのためにはまだまだスキルと経験が足りないという実感がありました。あえて就職を決意したのは自分を鍛えて、世界で勝負できる起業家になるためです。やっぱりやるからには上を目指したいので今はそれに向けてスキルを身に付け、経験を積んでいるところです。 ーなるほど。現在に至るまでの経験を通して、U-29世代に伝えたいメッセージなどがあればぜひお願いします。 やりたいことがなくて悩んでいる人も多いかと思いますが、そんな方には欲望に忠実に生きてみて欲しいなと思います。といのもコンプレックスだらけだった自分がここまでやってこられたのも、決してポジティブな要因だけではありませんでした。「周りを見返したい」という思いや「テレビに映りたい」、「サークルの先輩ともっと仲良くなりたい」などといった人間の本質的な欲望に対して素直に行動し続けた結果が今に繋がっていったんです。 やりたいことが思い浮かばなくても、好きなものは絶対にあると思うんです。その好きなものと向き合い、一生懸命欲望に対して貪欲に頑張り続ければ自ずと道が見えてくると思います。 ー最後に、今後の目標があれば教えてください。 今はコロナの影響もあり、正直足踏み状態ですが、これを絶好の充電期間と捉えてインプット量を増やし、30歳までに世界でもう一度勝負してたくさんの雇用を生み出せる企業を作りたいと思っています。目指すからにはとにかく大きな目標を持って、欲望に忠実に一生懸命これからも頑張りたいと思います。 取材者:あおきくみこ(note/Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

「すべてが人との縁から始まっている」 Amazake Lab.代表 山本茜がパッチワークキャリアの中で甘酒と出会うまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第205回目となる今回のゲストは、合同会社Amazake Lab. 代表の山本茜さんです。 部活動や留学、バックパッカーでの旅行など、充実した大学生活を送られていた山本さん。ですが、就職活動時には、終身雇用に疑問を抱き、「東南アジア青年の船」に参加して自由なキャリア選択への想いを強めます。迷いながらも、内定していたメーカーへ就職。退職後は、複数の仕事を同時に手掛ける「パッチワークキャリア」を体現され、現在は合同会社Amazake Lab. の代表をされています。 様々な場所や人と関わりながらキャリアを築き上げてこられた山本さん。リモートワークなど働き方が大きく変わってきた昨今、いち早く新しい働き方を模索され、工夫されてきた山本さんのお話は必見です! 多様な価値観に触れた大学生活 ―簡単に自己紹介をお願いします。 こうじあまざけの専門ブランド「Amazake Lab.」を今年の8月に立ち上げ、オンラインで9月から発売を始めました。大学卒業後は、新卒で京都のメーカーに就職をしました。メーカー退職後は、個人事業主として、ベンチャー企業などで様々な仕事を経験し、起業しました。  ―山本さんはどんな大学生だったんでしょう? 大学時代は、フラメンコの部活動や、休学して留学に行ったり長期休みにバックパッカーで旅行に行ったりしていました。 せっかく大学に入ったので、変わったことをやりたいと思っていて、様々なサークルの新歓に行くなかで、フラメンコの歌や踊りを見せてくださった先輩の熱量に感動して、やってみようと決めました。 海外は10ヵ国くらい行きました。最初にバックパッカーとして旅行に行ったのが、タイとラオスで、最初から最後までひとりでリュックを担いで行った先がインドです。かなり世界観を壊されて、色々と強烈な思い出を体験することができました。  ―凄い行動力! 昔から活動的だったんですか?  高校までは狭い世界で生きていたと思います。海外も行ったことがなく、自分の枠を出たことがない高校生活でした。そういう世界に触れたのは大学に入ってからですね。ユニークな先輩が多く、在学期間を延ばしている方もいらっしゃって、個人個人ってもっと多様でもいいんだ、と思うようになりました。   腹落ちのしない向き合い方をしていた就職活動  ―就職活動では、当時どんなことをお考えだったのでしょうか? 就職活動を本格的に考えるようになったきっかけが、1年間休学をして、アメリカに半年留学と旅をして帰ってきた3回生のタイミングでした。このまま就職先を決めていくことに違和感を覚えながらも、周りと同じように合同説明会に行き、なんとなく興味がある会社の話を聞き、普段から名前を聞くようなメーカーにエントリーをして、腹落ちのしないキャリアとの向き合い方をしていました。 ある会社の説明を聞いたときに、「何十年もずっと所属をする」という話に、ものすごくひっかかりを覚えたんです。お互いを知ったばかりの個人と組織なのに、なんで何十年もいるということを最初から決められるんだろう、というところが腑に落ちませんでした。面接では上辺だけの言葉をつくりつつ、内面はそうではないなと感じながら就職活動をやっていたので、ずれや矛盾が生じていたと思います。  ―そのズレを解消できないまま、就活を続けてしまったんですね。 就職活動のダメなパターンをやっていたと思います。地元の会社や小さいころから名前を知っているという理由で会社を受けていました。当然、自分のやりたいことで選んでいないので、いくつかステップは進むんですけれど、最終面接に進んでいったときに落ちるんですよね。 今振り返ると、私は候補者のなかで「なんとなく残しておいてもいいけれど選びたいという人ではなかった」んだなと思います。    東南アジアの青年たちとの関わりで変化していったキャリア観  ―就職される前に「東南アジア青年の船」に参加されています。 就職活動が終わって、卒業する前のタイミングでした。ASEAN10ヵ国の青年と日本の青年が、一つの船で50日間ほど寝食をともにするという事業です。 バックパッカーでタイとラオスに初めていったこともあり、なんとなく東南アジアの人に親近感を持っていたんです。なので、10ヵ国の青年たちと濃いつながりができるのであれば、これは行くしかないと思い、ずっと応募したいと思っていました。50日間休みをとるとなると、休学するか大学と交渉するしかないのですが、一番授業が少なく、融通がききやすい4回生のタイミングを狙って、応募しました。 日本人は学生の方が多いのですが、海外の青年はギャップイヤーをつかって就職前に来ている方や転職のタイミングで来られている方がいて、彼らとテーマに沿ったディスカッションや自国の文化を紹介しあう活動を行っていました。  ―事業に参加された前後でどんな変化がありましたか? 当時は、どこか有名なところや大きなところに就職を決めて、安定した社会人生活を送るのがいいのかなと思っていたんです。 でも、海外の青年はもっと仕事や人生設計について柔軟な考え方をもっている人が多く、キャリアアップをしたいから転職を決めて、その間にこの事業に参加している人もいたんです。休職をしたり、転職をしたりすることって、別にやってもいいんだ、という感覚を覚えました。 事業から戻ってきたのが2月末だったのですが、そのときに就職先を辞退しようか真剣に迷いました。ただ、その勇気がなかったのと、そこで就職をやめて何をしたいかということが全く定まっていなかったので、ご縁のある会社ということもあり、内定先だった京都本社のメーカーに就職をしました。  ―迷いもある中で入った一社目での仕事は、どうでしたか? 仕事は面白かったですし、環境も良く、上司や先輩にもすごく恵まれていました。でも、入社当時から3年間を一つの区切りにしようという気持ちがあったので、3年経って次に進む道を変えたいと思うのであれば辞めようと思っていました。ちょうどシェアハウスの運営をする会社を立ち上げるから一緒にやらないかという声がかかったこともあり、退職をしました。 これから生活の保証のない働き方になるんだという不安はありました。ただ、もしここで辞めていなければ辞めるタイミングをどんどん失ってしまって、今ある人生とは全く違う人生を歩んでいたと思います。  ―一社目を辞めてからは、個人事業主として様々な仕事をされています。一体どのように仕事を見つけているのでしょう? 今やっていることの全てといってもいいくらい、人とのご縁から始まっています。 会社員の時から、コワーキングスペースでのイベントや交流会によく顔を出していました。2017年4月から関わっている、梅田にあるコミュニティ・バー『Learning Bar』の立ち上げも、たまたま交流会で出会ったから人からつないでいただいたお話から始まっていますし、今の甘酒の会社もそこに集った4人で立ち上げることになったり。人との出会いなしでは今の自分はなかったと思います。  ―個人事業主としてやっていこうと決めたのは、どうしてなんでしょう? まず一つは、場所と時間に制約を受けたくなかったからです。月曜から金曜まで9時から17時半まで一つの場所に通う、というのがどうしてもダメだったんですね。今でこそ、リモートワークや在宅勤務などもできるようになりましたけど、当時はそんなことが全くできませんでした。 もう一つが、複数のことを一度に手がけたい、関わりたいと思ったからです。どこかに転職をするよりは、個人事業主で業務委託のような関わり方で色々なことを同時に進めたいと思っていました。 個人事業主になって初めに感じたのが、時間の使い方を全部自分で組んでいかなくてはいけないというところですね。仕事は、作り出せばいくらでも業務が出てきてしまうので、優先順位をつけないといけない。それぞれの仕事で関わっている方は、相手にとっては私一人なので、業務でなにかを依頼されたときに、他の業務があるから忙しいとか、そういうのが分からないわけですよね。レスポンスや提出が遅かったりすると信頼関係も壊れたりしかねないと思っていたので、優先順位の付け方と、いくつかいろんな仕事をしているという自分の状況をシェアしたりなど、気を配っていました。 高校生くらいまでは、周りに合わせることが正しいと思っていましたし、そういう風に過ごしていました。一方で、なんで周りが言っているからそうしないといけないんだろう、と思うこともあって、そういう自分を肯定してあげてもいいんだと気づけるようになったのが、大学以降ですね。特に社会人以降は、いろんな働き方や仕事をしている人たちと出会うようになってから、カテゴライズできないような働き方をしてもいいんじゃないかと思えるようになりました。 今しかできない選択が目の前にあれば、リスクを考えながらも、選んでいけるようにしたいと。その結果、今の自分があるんじゃないかなと思っています。   海外を向いてきたからこそ気づいた、甘酒との出会い  ―山本さんが今特に力を入れているのが、甘酒のブランド立ち上げだそうです。 私は、これまで結構海外を向いてきましたし、今も、日本にずっといるのではなくて海外に出ていくライフスタイルに変えたりしたいとも思っています。 でも、日本の食生活って素晴らしいなということに気づかされるきっかけが、今年に入ってから何回かあったんです。日本の食の要になっているのはなにかというと発酵なんですね。いろんな「食」があるなかで、自分が一番びっくりしたのがこうじ甘酒だったんです。 古風なものと思っていたんですが、そうではなくて、砂糖が全く入っていないのにとても甘く、お洒落なドリンクやスイーツにもなるし、私の思っていたものと全然違うと気づかされました。同じように思っていた人の意識を変えて、身近に健康を取り入れることを提案したいと思い、甘酒のブランドを作ろうと決めました。  ―当初はネガティブなイメージだったんですね。  飲まず嫌いというか、見向きもしなかったですね(笑)  ―お正月に神社や屋台で出していたりしますよね。 9割がたのイメージがそういう感じだと思うんですけれど、そうではないよと、常識を覆すことに挑戦したいと思っています。 甘酒は大きく分けると2種類あって、酒かすにお砂糖を加えてお水で溶いているものと、お米を発酵させてつくっているものがあります。発酵させてつくっているものはこうじあまざけと言って、飲みやすい甘いおかゆのイメージです。なので、小さいお子さんも飲めますし、甘味料やお砂糖替わりとして、シェイクを作るときに入れてもらったり、いろんな使い方ができる食品、という感じです。 ただ、そのままだとお米っぽさに抵抗がある人もいたりするので、抹茶やレモンのフレーバーをつけたタイプやお料理向けの新商品を12月に発売したところで、甘酒の世界をもっと広げたいと思っています。  ―ローマ字で、「amazake」と書いてあるだけでもだいぶ印象が変わりますね。   「人とのつながりを残していく」キャリアへの活かし方 ―人のつながりをキャリアにつなげてきた山本さん。その極意を教えてください!  薄いつながりから、すぐではなく半年後、1年後に発展することが多かったなという感覚があります。 仕事が忙しい時期であっても、時々全く新しい人に触れる場に顔を出したり、信頼できる人に誘われた場所には出来るだけ行ってみたりと意識していました。フェイスブックを交換するくらいでもいいんですけれど、その後何かにつながる可能性があるので、あまり期待をしすぎず、でもなんとなく期待をして、つながりを残していっているというのはあります。 いま、こういうことをしていますとか、こういうことを考えていますというのを、SNSで発信したり、周りに口に出していくと、自然と前に進む力になっていただける方が現れることがあると思います。  ―多拠点生活やご自分でライフデザインをできるような働き方を選ばれてから、この生き方を選んでよかったと思うことはありますか? 一つのコミュニティや一つの場所だけにいたときに比べると、格段に出会う人や情報の数、幅が増えたと思います。良くも悪くも、全部自分でコントロールをしないといけない部分もあるのですが、私自身は土の人や風の人という分け方でいうと風のタイプなので、移動して新しいものに触れたほうが、アイディアが湧いたり、刺激を受けたりと、プラスに転じることが多いと思っています。  ―今後は、どんなことをされていこうとお考えですか?  今は、甘酒の事業を中心にやっていますが、今後は海外展開や、甘酒だけではなく幅を広げた事業展開もしたいなと、3年、5年の構想で考えているところです。 とはいえ、まずは甘酒の概念を変えることに注力したいです。特に若い人たちに、発酵食品って身近だよね、とか、美味しいし体にもいいよね、と知ってもらえたらと思っています。取っ付きにくいなという方に向けて、保存版レシピと、飽きずに楽しく継続できる「あまざけ生活ログ」シートを付けた、こうじあまざけ生活2週間セットを発売中です!最初の切り口として一回試してもらえるとうれしいです。 ―本日はありがとうございました!山本さんのこれからを応援しています! 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:小林菜々 編集:杉山大樹(Facebook/note) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

「きつい方を選ぶと人生は面白くなる」気候変動と向き合う19歳の環境アクティビスト酒井功雄

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第213回はFridays For Future Japanオーガナイザーの酒井功雄さんにお話をうかがいました。 現在はアメリカの大学に日本からオンラインで通われる酒井さんは現地時間の昼間、つまり日本時間では夜中の時間に授業を受けている大学生。今回は酒井さんにとっては深夜の時間帯ということですが、快くインタビューを引き受けてくださいました! 知的好奇心の強い幼少期 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 酒井功雄と申します。19歳で、今はEarlham Collegeという大学に通っています。高校2年生のときにアメリカに留学したことがきっかけで、気候変動や環境問題の深刻さに気づき、日本に帰国してからはFridays For Future Tokyoという団体に所属しています。Fridays For Future Tokyoは世界中で気候変動に対して危機を感じて声をあげている学生たちの運動の一部として、日本でも東京都や日本政府に気候変動に対しての対策を求める運動を行う団体で、1年半ほど、オーガナイザーとして関わってきました。 ーFridays For Future Japanのオーガナイザーとしてご紹介させていただきましたが、そこだけに止まらず環境アクティビストとして活動されているんですよね? もともとは350.orgというNGOに所属していました。350.orgはダイベストメントという環境課題へのアクションを広めている団体です。日本の銀行の多くはCO2を多く排出する石炭火力に多額のお金を投資をしています。さらに輸出するためのお金に私たちの預金が使われているという事態が起きているのですが、預金をできるだけやめて引き出すことをダイベストメントと呼びます。 350.orgでのボランティア中にFridays For Future Tokyoが立ち上がりました。現在は350.orgから抜けて、Fridays For Future Tokyo/Japanをメインに活動していますが、個人として環境問題を解決するために何をすべきか、大学で学ぶなどしています。 ー多岐に渡ってご活躍されていますが、どのような幼少期を過ごされたのか教えていただけますか? 鉄道が好きで、保育園の頃から駅名や車両の番号を暗記していました。知的好奇心が強い方で、小学生の頃には何を思ったのか、内閣の人事名簿を覚えることにハマりました。(笑)「俺、歴代の総理大臣言えるんだよ」というように、覚えている自分が好きだったり、「このポストにいた大臣がここに動いたぞ!」といった、戦隊モノのヒーローのオールスターを覚えるような感覚でやっていました。 スポーツなどはあまり得意ではなくて、中学から高校の頃にスポーツにも挑戦したのですが、小学生の頃はやや大人しく、クラスでも誰と付き合うか気にせずに自分の好きにしていました。 何か選択肢があったらきつい方を選ぶと人生は面白くなる ーそして、10歳くらいの頃に、ご自身のターニングポイントのひとつである書籍「20歳のときに知っておきたかったこと」に出会ったんですよね。 はい。夜眠れなかったときに、親に本の読み聞かせを頼んだのがきっかけでした。普段は絵本など、子ども向けのものを読んでくれていたのですが、その時はストックがなかったのか親がその時読んでいたスタンフォード大学の集中講義の内容が収録された「20歳のときに知っておきたかったこと」の一説を読んでもらいました。学生がスタンフォード大の起業家精神の講座でどのような問題にぶつかって、どう解決するかというストーリーです。 5ドルが入った封筒を渡されて、2時間以内にこの金額をできるだけ増やしなさいという課題が学生に与えられます。5ドルでレモネードスタンドをやろうと考える学生もいるのですが、最終的には650ドルまで増やせたチームが1番で、最後の授業で行うプレゼンの時間を企業広告として売って、稼ぐというものでした。内容もそうですが、こんな授業をやっている場所があるのかということに衝撃を受けて、アメリカの大学に行きたいなと思うようになりました。 ーお母さまがどのような思いでそんな本を読んでくれたのか、今思うことはありますか? いまだに偶然読んでくれたのだろうなとは思っているのですが、母親は僕が興味がありそうなことや、知的好奇心が強いことには気づいていたと思うので、僕が何が好きなんだろうかということを考えた上で合ったものを意図的に読み聞かせてくれたのかなと思いますね。 子どもの頃からずっと、「何か選択肢があったら、よりきついことを選ぶと人生は面白くなるぞ」と言われていたので、中学高校を受験する時にも、大変そうだけれど飛び込んだ方が絶対面白いと思い、挑戦しました。実際にきつい道を選んだら人生が面白くなりましたし、チャレンジングな選択肢を選ぶ中でこの言葉を実感できています。 ー中学受験をされて、一旦は中高一貫校に入られるんですよね。 入る前は、アメリカの様にゆったりとした学びができる学校というイメージを持っていました。実際は詰め込み教育で、年間にテストが10回くらいあるような学校で、テストや模試がない月はなく、宿題の量もものすごく多かったです。 入試方法は作文で僕は入れてしまったので、この学び方についていけるか最初はとても不安でした。しかし知識を入れまくる勉強の面白さに気付き、中学の時は勉強すればするだけ点が取れる、点取ゲームとしての勉強に目覚めていました。(笑) ゴリゴリ勉強していると繋がりが見えてくるものもあり、もっと詳しくなりたいなと思いましたし、政治や社会の分野に興味があったので、国際条約の部分で条文を覚える部分も内閣を覚えるように楽しめました。 ー高校受験では志望校を1校に絞って、背水の陣で挑まれるということですが、それに至った理由を教えてください。 今思うと馬鹿だったなと思います。(笑)母子家庭で、私立にいく経済的余裕はありませんでしたし、学習スタイルとしても、都立国際高校以外に行きたいところはないと思っていました。 体験授業に行ったときに、自分たちで調べたことを英語でプレゼンし、ディスカッションをするという授業を受けました。すべてが英語で全くついていけず、同じグループの生徒にとりあえずこれを読んでくださいと言われて、読むけれど、結局見当違いな文章を読んでいたりしました。 中学のときのような詰め込み教育と違う勉強ができるなと思ったのと同時に、きつい方を選んで挑戦すれば面白いことを実感していたので、これだけついていけないということは、ここで自分は伸び代があるぞと気づき、ここで絶対に学びたいと思いました。落ちたら浪人して受け直せばいいし、逆に高校浪人する方が面白いのではないかくらいに思っていました。(笑) 人生最大の挫折を味わった高校留学 ー都立国際高校であればアメリカの大学に行けそうだなという道筋が見えたんでしょうか? そうですね。まずは中学の詰め込み教育のままだと英語が話せないことに不安がありました。英会話教室に通うなどしていましたが、大学に行けるほどの英語力がある自信はありませんでした。 具体的にどうやったらアメリカの大学に行けるのか道筋も見えていませんでしたし、単純に勉強が楽しい環境というだけで3年間中学に通ったので、ここの環境は使えるだけ使い倒したし、ここにもう3年間いても得られることは同じだろうなと感じ、ここにいる必要はないと思いました。 都立国際高校にはバカロレアのコースがあったのが一番大きかったです。結局バカロレアのコースには受からなかったので普通のコースに通ったのですが、具体的に海外留学に進学するというビジョンを持って入ってきている生徒がいる環境なら、より近づくかなと考え、進学を決めました。 ーアメリカの大学に入る前に、高校時代に留学を経験されるんですよね。 バカロレアのコースに入れなかったので、留学をして学ぶことにしました。いわゆる留学のイメージって海外の人たちと楽しい学校生活を送るものだと思っていたら、全然友達ができませんでした。文化が違うこと以外にも、何を話せば良いのかわからない、友達になるのにどう話しかければ良いのかわからない状態で、話しかけることすら怖くなっていきました。 日本だと高校に友人がいたので、そのギャップで孤独を感じて、余計に話しかける勇気が出ず、自分がつまらないやつだと思われたらどうしようとか、周囲からどうみられるのかに意識が向いてしまいました。人生最大の挫折を味わった留学でした。孤独ってこんなにきついのかと感じましたね。 初めて自分がマイノリティであるという意識を持った経験でした。深層心理を深めていくと、自分はこの人たちと違うんだとか、彼らと同じにはなれないという思いを自分が持ってしまっていたと思います。日本では自分がアジア人だという意識さえ持ったこともなかったので、アジア人としての自覚の芽生えもありました。 ーその留学での経験が活きているなと感じることは、今ありますか? 自分の意見が必ずしも成り立つとは限らない前提意識を持つということですね。Fridays For Future Japanの活動をしていても、日本国内の運動なので気をつけないと井の中の蛙になってしまうと思いました。マイノリティの人から見えている世界は違うんだということを留学を通して強く実感したので、キャンペーンやアクションを考える時にも、できるだけ自分と違う意見の人がこのアクションをどう考えるんだろうかとか、どう見えてくるのかを意識して考えるようにしています。 ー環境問題について興味を持ったきっかけについて教えてください。 高校の環境化学の授業の中で、「次のどれが環境問題を促進させるでしょうか」という問いの答えが「永久凍土が溶けること」でした。永久凍土が溶けると、中の有機物が分解されて、溜まっているメタンが放出され、温室ガスが増えて、気温が上がります。気温が上がるとさらに永久凍土が溶けます。つまり、どんどん悪くなっていくということに気がつきました。あれ?何かおかしいぞ?と感じ、それがはじめて温暖化や気候変動の問題の違和感に気づいた瞬間でした。 ーまず、アクションとして1番はじめにされたことはなんだったんでしょうか? 高校留学を終えて、日本に帰ってきてから、友達から350.orgを紹介してもらいました。ボランティアをしに行こうと思ったのですが、こんな自分が行っていいのかと悩んで、半年くらいアクションが起こせずにいる自分がいました。受験期が近づき、もう時間がない!とりあえず行ってみよう!っていう風に思って、参加を決めました。 参加してみると、ものすごく魅力的なアクティブな人たちに出会えました。経験も知識もない自分が行ってしまっていいのだろうかという漠然として不安がありました。馬鹿にされるとか、おかど違いだよって言われるんじゃないかなと思っていました。でも全然そんなことはなくて、知識とかよりも一歩最初起こして、やりたいんだっていうことの方が大事だということを教えてもらいました。今でも自分が誘う立場だったら、絶対に伝えると思います。 そこで、自分でもアクションが起こせるんだと気がつきました。その経験がきっかけとなり、高校生のチャレンジの場であるCUE TOKYOを立ち上げました。 今の私たちは自然や地球を使っては廃棄するだけ ーグレタさんのスピーチは、どこで聞かれましたか? 350.orgのボランティアになった直後くらいに聞きました。スピーチを見て、僕よりも年下の子が国連の気候変動の会議で話していることにびっくりしました。「未来の子供達に、なぜ時間がある時に何もしなかったんだと言われるでしょう」という言葉が一番刺さり、ハッとしました。自分は子どもに安心して生きられる場所をつくれているんだろうかと疑問を感じたのと同時に、怒りが湧きました。今までの世代は何も考えずに家族を持ってきたけど、自分たちは安心できる地球を自分たちの子どもに届けられない不平等さに怒りが湧いて、余計に自分の気候変動という問題への熱がヒートアップしました。 この問題に気づいていない人はものすごく多いでしょうし、多くの人の目を覚まさなきゃいけないと思いました。 ー色々な活動をする中で、活動のひとつであった学生気候サミットはどのような存在でしたか? かなり大きな節目でした。学生気候サミットが行われたのがFridays For Future Tokyoの活動を始めてから、ちょうど1年後だったのですが、Fridays For Future Tokyoで活動していた後しばらくしてから燃え尽きてしまった期間がありました。国会の前でアクションをしている中で、メディアがものすごくたくさんきていて、アクションをしている人よりもメディアの数の方が多いほどでした。一気に自分がやっていることの規模が大きくなったと感じた瞬間でした。 怒り続けてしっかり声を上げられる人間じゃなきゃいけないと思っていたら、だんだん前みたいに怒りが持続しませんでした。だんだん怒りきれない自分への違和感みたいなものも強くなっていきました。CUE TOKYOに力を入れている時間に、アクションへのモチベーションが減っていき、無気力になってしまいました。 ちょうど受験の時期と重なったんですけど、大学でも気候変動のことをうやりたいと思っていたので、面接とかで聞かれる対策のために、できるだけ気候変動に関する知識を色んなところで入れたり、アルゴア元副大統領が日本に来て開催したプログラムに参加したりして、科学だけではなくビジネスや社会として、どう気候変動の解決に取り組んでいけるのかということを学びました。 学んで行くうちに、これはものすごい危機だけどチャンスかもしれないと感じました。実際にESG投資という環境に配慮した投資などが進み始めているように、危機だけれどもものすごく世界が変わり始める最先端なのかもしれないということに気づきました。怒りからモチベーションが希望や自己効力感にに変わっていきました。 ちょうどそのタイミングでNO YOUTH NO JAPANという団体の代表の方と出会い、日本のアクティビリストを盛り上げていかなきゃいけないぞという話にになりました。全国のアクティビストを集めて、知識を深めて繋がる場を作ろうということで、全国から約100名のアクティビストが集まる学生気候サミットを開催しました。それをきっかけに、名古屋や九州など日本各地で別々に活動していたFridays...

サッカーと仕事を通じて自己成長を求め続ける 籾木 結花の「自分だからできる」を大切にする生き方とは。

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第227回目となる今回のゲストは、プロサッカー選手としてアメリカでプレーしながら、日本で会社員をされている籾木 結花さんです。なでしこジャパンにも選ばれるなどサッカー選手としてのキャリアを歩む一方で、株式会社クリアソンに所属しながら自分にしかできない仕事を行っている籾木さんにこれまでの人生や今後の展望についてお聞きしました。 サッカーに夢中になっていた幼少期 ー現在のお仕事について教えてください。 アメリカのサッカーチームに所属をしながら、日本では株式会社クリアソンに就職をしています。仕事では、先週オンラインサロンを開始することを発表し、今はそれに向けて準備をしています。  ーサッカーはいつ頃から始めたのでしょうか。 きっかけはあまり覚えていませんが、幼稚園生の頃から始めていました。父がサッカーをやっていたこともありますが、幼稚園の頃はずっと男子と一緒にサッカーなど外遊びをしていて、自分が目立ちたいと思っていました。  ー小学生時代に印象に残っている出来事はありますか。 小学校のサッカーチームで男子に混ざりながらサッカーをしていました。しかし、小学校2年生くらいの時に小学校のチームでは物足りないと感じ、お父さんの会社のフットサルチームについていった時にクラブチームの募集を見つけ、電話したところが次に所属した「バディフットボールクラブ」でした。そのチームの男子チームに入ろうとしたものの、選手数の関係で女子チームで体験することになりました。実は、そのチームはその年の日本一だったのですが、その事実を知らずに電話をかけていました。 そこでサッカーに打ち込みながら、学校ではバスケットボールや野球などいろいろなスポーツをしていた小学生時代でした。 自分の意思で入団を決める ー小学校から中学校にあがるタイミングで印象に残っている出来事はありますか。 小学校6年生の時が中学校でどのチームに入るのかを考えていた時期で、当時、福島県にあった「JFAアカデミー福島」や私が入団した「日テレ・メニーナ」のセレクションを受けていました。 この2チームは最終試験まで残っていましたが、JFAアカデミー福島の最終試験前に日テレ・メニーナから合格をいただきました。その後、両親と監督との面談があり、自分の意思でこのチームに入りたいと即答したのを今でも覚えています。狭き門をくぐり、名門に入れるワクワク感や自分が目指す選手の近くでプレーができるワクワク感に浸っていました。  ー中学生のときに印象に残っている出来事はありますか。 中学校に入ってからは、一歩引いて見るようなタイプに変わりました。自分の性格が変わった出来事の1つに東日本大震災、そしてなでしこジャパンが世界一を獲得したことがあります。私は下部組織の一員としてトップチームの運営の手伝いをしていたのですが、ワールドカップ(以下、W杯)優勝前は入場料無料で試合を行う中で、観客の呼び込みをしていましたが、優勝後は有料チケットでも会場が満員になっているというのが衝撃的でした。 ー中学から高校になるタイミングで印象に残っている出来事を教えて下さい。 私は中学3年生の時にトップチームにデビューし、高校1年生から下部組織とトップチームの二種登録という形でした。トップチームである「日テレ・ベレーザ」は、日本女子サッカー会では圧倒的な女王で優勝をし続けるのが最低限という強豪でした。トップチームに昇格した時は、澤選手をはじめとするなでしこジャパンの主力メンバーが他チームに移籍し、人数やチーム編成が変わるなど世代交代の一歩目のタイミングでした。 そこで、トップチームのレベルに達していないながらも試合に出なければいけなかった状況は、今振り返るとサッカー人生の中で苦しい時間だったと思います。なかなか優勝できなかったり、チームも歯車がうまく噛み合わない経験をしてきたので、当時は大変だなと思いながら無我夢中にサッカーをしていました。 レベルの高い環境でもっと成長したい ー高校卒業後の進路はどう考えていましたか。 男子サッカーは、高卒と大卒の2つのタイミングでプロサッカー選手になれるのが明確になっている一方で、女子サッカーは下部組織から上がってきた選手がそのままトップチームでプレーすることが主でありながらも、仕事や大学に通いながらプレーしている選手がほとんどなので、プロサッカー選手になるタイミングは色々ありました。 わたしは関東圏のチームだったので、大学に行ける可能性があり、漠然と大学に行っておいた方がいいのかな、スポーツのことを学んでおけばいいかなと思っていました。しかし、スポーツを軸に大学を探す中で、推薦入試を選ぶとその大学の体育会部活に所属することを前提とする受験要項があり、どうしようか考えていました。そんなときに、周囲から慶應義塾大学の総合政策学科(以下、SFC)を受けてみないかと薦められました。慶應に行ける学力が自分にはないと思っていたのですが、色々な学問を組み合わせて自分のやりたいことにつなげていこうとする人たちが集まっているというSFCの魅力を聞いた時に、自分よりもレベルの高い人たちが集まる場所に身を置くことでより成長できるという思いがありました。そのため、SFCを自己推薦入試で受けようと決め、合格へと繋がりました。  ー大学生になってからは、どのような時間を過ごしましたか。 サッカーの練習時間に合わせながら履修科目数を稼ぐために、週3~4日でほぼ1限から3限まで授業を入れ、そこからサッカーの練習に向かう生活を大学4年生まで続けていました。 その生活を続けられた理由は、自分が決めたことを疎かにしたくないという思いに加え、SFCの体育会に属している人たちに負けたくないという反骨心でした。やることをきっちりやることで、応援してもらえると感じていたので、地道に大学に行って勉強をしてという生活を過ごしていました。  ーSFCで学んでいく中で、どういったことに興味を持ちましたか。 入学前に書いた論文では、自分にしかできない経験と自分にしかできない世界の実現をテーマに学ぼうと考えていました。アジアの親交を女子サッカーを通して深めることを考え、入学前はアジアの文化とスポーツビジネスを掛け合わせて勉強したいと思っていました。 しかし、実際には入学前のプランとは異なる過ごし方になりました。楽に単位を取れる授業を履修しつつも、語学の授業は必要最低限以上に単位を取得しました。海外でプレーしたいという思いがあり、将来自分が行きたい国の言語であるドイツ語やスペイン語、英語を継続的に勉強していました。 自分にしかできないことをやりたい ー職業選択の際は、どういったことを考えていましたか。 大学3年生の頃から周囲が就職活動をし始める中、私は違う道を進むと感じていました。 仕事をしながらサッカーをする際、日本の女子サッカーの多くはスポンサー企業で働いていること大半でした。その理由は、試合や代表合宿といったイレギュラーな出来事が起きた時に理解してくれるのはスポンサー企業の場合が多いからです。スポンサー企業が雇用を用意してくれることは光栄だと思いつつも、その仕事は私にとっては誰にでもできる仕事だという感覚があり、果たして仕事と言えるのかと違和感を持つようになりました。 昨年の就職前に、自分がどういった仕事がしたいのか考えたときに自分にしかできないことと自分がやりたいことがかけ合わさっているものが仕事になると、仕事が楽しくなると思いました。そのため、私はスポンサー企業で働きながらプロに進むという道やプロ選手としてサッカーでお金をいただく道でもなく、自分がこれまで足を置いていなかった領域に足をいれ、自分を雇用してくれる会社で働きながらプレーする道を選びました。  ー周りの人が選んでいないことを選ぶのは難しいと思うのですが、自分で考えて動くことができた要因は何だったのでしょうか。 幼稚園や小学校のときに男子とサッカーをしたり、中学校では一人だけ学校が終わってすぐに駅に行き、サッカーの練習を夜まで行う生活をしていたので、自分は他人と違うなという認識をしながら人生を歩んできたと思っています。その環境があったからこそ、いつの間にか人と違うという認識から人と同じになりたくないという価値観に変わり、その価値観が今でも自分お根底にあると感じています。  ー大学卒業後はどういった進路を選んだのでしょうか。 今の企業に就職をする時に、社長さんとお話をする中で、選手としてトップを極めながらもしっかりとビジネスに足を置いて結果を残していきたいという思いに理解をしてださり、それを成し遂げるために会社としてどうすればよいのかを前向きに考えてくれました。 トレーニングやトレーニングに合わせてのケアの時間、チーム練習に加えて個人でのトレーニング時間、さらには平日にオフの時間を設けることを考えたときに、自分のコンディションを第一としながら空いた時間で仕事をする仕組みを柔軟に対応してくれました。入社してすぐにW杯に出場して、2ヶ月日本にいないこともありましたが、その時からオンラインを使って柔軟に対応してくれたことは、自分にとってかなりありがたく、社会人1年目からそういった環境でやらせてもらえるのはなかなかない環境だと思いました。 ー周りの選手と時間の使い方や働き方が異なる中で、ギャップはありませんでしたか。 自分で時間をコントロールすることができましたが、オフの時間に仕事をしていたのもあり、周りの選手とは違うと感じていました。しかし、仕事を始めて1年間経ち、いただいた名刺の数を振り返ると、スポンサー企業に就職をするだけでは出会えなかった方々に出会えたと思います。社会人として社会に出るという道は大きなところでは一緒ですが、スポンサー企業かスポンサー企業ではないかで違いが出ると思うと、自分はこの道を選んで良かったと思いますし、出会った人たちから学ぶことが多くあると同時に自分の思いや存在を自分で伝えて応援してもらえるところまで持っていけたと思うと、新たに応援してくれる人に出会えたと実感するところはあります。 成長できる環境を求め、海外クラブへの移籍を決断 ー仕事とサッカーを両立させていく中で、新たなクラブへの移籍を決断した背景を教えてください。 海外のチームにはチャンスがあれば行きたいと思っていました。 昨年にW杯があり、ベスト16の試合で最後の15分出場して負けてしまったのですが、その15分が自分のサッカー人生の中で一番濃密だったと思えるくらい、楽しくて悔しい15分でした。試合に負けた瞬間、日本に残っていたら勝てないなと感じ、そこから海外に行きたいという思いを実現させるために代理人と契約をし、海外のクラブとコンタクトを取れる環境を整えていきました。最初はヨーロッパに行きたいという思いが強くありましたが、今年に入ってから新型コロナウイルス(以下、コロナ)の影響をヨーロッパが先に受け、いろいろなものがストップしてしまいました。 そのタイミングで、日本代表の選手としてアメリカ遠征でアメリカ・スペイン・イングランドの3ヵ国と試合をする大会が2月下旬から3月上旬にかけてありました。その大会ではオフでの取り組みなどが合わさり、かなりコンディションが良く試合に臨むことができました。結果は3敗だったものの、結果以上に楽しい3試合だったので、もっとレベルの高い相手と日常的にやっていきたいと感じていました。  ただ、日本も普通ではない状況が6月まで続いた時に、アメリカ遠征を見ていたアメリカのクラブの方からオファーをいただきました。私の中では、自分のプレースタイルと正反対のサッカーだったこともあり、アメリカという選択肢は下の方でした。しかし、オファーをいただいたチームにミーガン・ラピノー選手というアメリカ女子サッカーでキャプテンを務める選手がいました。ラピノー選手は昨年のW杯優勝時に人種差別に対するメッセージとして、「私たちは1つなんだ」と発信しました。そんなラピノー選手に私は憧れを抱いていたこともあり、オファーがあったことを聞いた時にそのチームへ行きたいと考えていました。  しかし、私が所属していた日本のチームは世界一うまいチームだと思いますし、このチームで世界一を目指せる環境があるのであれば、自分を育ててくれたクラブであり、一緒に頑張ってきた仲間がいるので、ここで世界一を目指せればいいなと思っていました。  それと同時に、自分が長年知っている仲間とサッカーをやり続けるということは、居心地がだんだんよくなっているだけで、自分に刺激が与えられていないと感じていました。成長することを考えた時に、日本にいては自分はもう一段階上に成長できないと思っていたので、日本ではサッカーができていない状況でしたが、思い切って決断をして、アメリカに行くことを決めました。 ー実際に移籍してみて、どうでしたか。 家族と離れることを一度も経験していなかったですし、クラブを変えることも初めての経験でした。この2つの大きな変化をアメリカでやるということは、自分にとって大きな挑戦で、渡米する日が近づくにつれて怖さが出てきました。しかし、実際にアメリカに行くと、周りのメンバーが温かく迎えてくれたこともあり、かなり楽しく過ごせていました。 ーアメリカのクラブへの移籍後に、スウェーデンでも新しい挑戦をしたそうですね。 アメリカがコロナの影響を受けていたため、シーズンを通常通りにできないことを渡米前から分かっていて、5試合で終わってしまうかもしれないと言われていたため、残りのシーズンをレンタル移籍という形でどこでプレーするか考えていました。 日本に戻ってプレーする選択肢もありましたが、レンタル移籍をする目的として試合をしたいというのがあり、その目的はどこの国でも達成できると考えました。日本という選択肢はただ自分が日本に帰りたいという思いがあるだけで、そこに意味づけをして日本に帰ろうとしているのではないかと気づいた時に、また新たな挑戦をするときかもしれないと思い、代理人の方が探してくださったのがスウェーデンのチームでした。そのチームはその時点でリーグ4位だったのですが、3位以内に入るとチャンピオンズリーグというヨーロッパで一番大きい大会への出場権を獲得できる状況だったので、レベルが高い環境で戦えるのは面白いなと思い、スウェーデンのクラブへ挑戦しました。 しかし、怪我をしてしまい、日本に帰ってきてしまったのですが、2つ大きな挑戦ができたのは今までの自分にとって一番人間的に成長できたと思うので、後悔はないですし、怪我をしたからといって落ち込むこともなく、今はこの時間を有効に使って楽しもうと日々過ごしています。 ー最後に、今後籾木さんが挑戦したいことを教えてください。 抱えている悩みに対して立ち向かっているときは、自分がちっぽけな存在に思えて、悩みが大きすぎて立ち向かっていけないことがあるので、153cmという身長ながらも世界で戦う自分のプレーを通じて何か届けたいという思いがあります。 それが伝わりやすい方法が日本代表でW杯やオリンピックでプレーして優勝することだと思うので、そこを目指してやっていきたいです。そして、アメリカとスウェーデンで今年経験したことは自分の固定概念や当たり前を覆す良い経験だったので、それを日本の人たちに伝えていく手段としてオンラインサロンを使っていこうと思います。日本の中でも性別や肩書きで判断するような世界ではなく、一人一人が自分らしさを見つけ、それが受け入れられる社会を実現していきたいと思っているので、選手として一人の女性としてそういう社会に繋げられるように頑張ります。 取材者:高尾 有沙(Facebook/Twitter/note) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙(Twitter)

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