経営者目線で「大学生×正社員」を両立させた増田稜の覚悟と情熱

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第17回目のゲストは、株式会社TBMで中途採用や組織開発など労務を除くHR領域を幅広く担う増田稜(ますだ・りょう)さんです。 同志社大学在学中に1年間休学、上京してサイバーエージェントで長期インターンを経験し、株式会社TBM(以下、TBM)と出会って「大学生 兼 正社員」という働き方をするという、異色のキャリアを歩んだ増田さん。 彼の大学生活から振り返っていただき、インターンのきっかけや週5日働く正社員と大学生をどのように両立させたのか、そしてキャリアを築くために大切にしている考え方などを伺いました。将来のキャリア像が描けず悩むU-29世代が、勇気をもらえるインタビューです。   インターンのきっかけは「稼がなくては」という焦燥感 ー 増田さんは大学生活後半にインターンをされていますが、前半はどのように過ごされていたんでしょう? 大学1年の終わりに、中学校の時からやりたかったヨーロッパ一周をしました。1ヶ月弱で6か国ほど、ひとりで旅したんです。その旅の最中に、自分の考え方や生き方について内省する機会があり、人生のターニングポイントになったなと感じています。 また、大学の近くに学生のみで経営している営業会社があり、そこで営業として働かせてもらっていました。学内活動では、勉強に力を入れているゼミに2年秋から所属していたので、その活動にも多くの時間を投じました。大学2年の時はこの2つがメインだったと思います。 ー 普通の学生生活を送っていた中で世界を旅してみた、と。そこから「インターンに行ってみよう」と思うに至ったプロセスを教えてください。 端的に言えば、「焦燥感」があったんです。このままでいいのかな、と。元々親は会社経営をしていて、比較的不自由なく過ごしてきた幼少期でしたが、中学生のときに親が離婚し、そこから「自分で稼がなくてはいけないな」という意識が芽生えたことと、短い人生の中で何も成し遂げず死にたくないという思いがあったんですね。 でも「このままの大学生活だったら凡人のまま終わってしまう」と焦る気持ちが出てきて、一方で当時関西には長期インターンシップの機会もほとんどなかったため、目の前にあったことに挑戦したという感じです。 ー 稼げる力が身につくなら、なんでもやるという感じだったわけですね。そこからサイバーエージェントに出会って休学をし、インターンをされたとのことですが、どういう経緯があったんでしょうか? もともと、中学生の頃からずっと海外が好きで「留学したい」という思いがあったんです。そして留学に行くなら大学2〜3年生が一番いいタイミングだろうと思っていたんですが、僕はゼミに入ってそこでやりがいも感じていた。ゼミを辞めて留学に行くのは、もったいないと思いました。 そこで「一度休学して、そのあと留学し、またゼミに戻ってくるのが一番だ」と考えたんです。ただ、留学するためにはお金が必要なので、どうせなら楽しく勉強しながら稼げたらいいな、と。そう考えているときに、サマーインターンでいろんな企業を見て、一番面白そうだったサイバーエージェントにインターンに行こうと決めました。 ー なるほど。そしてインターンでお金を稼いで留学に行くつもりだったわけですが、結局留学には行かなかったんですね。 そうなんです。サイバーエージェントでのインターンが想像以上に面白くて、3〜4ヶ月で終わるつもりが、気づけば9ヶ月にもなっていました。僕が働かせてもらっていたところで新事業の提案・企画をするように言われ、提案したら実際に採用されたんですよ。 それで事業の企画責任者をさせてもらうようになったら仕事が面白くて。このタイミングでインターンを辞めるのはもったいないなと思い、「留学は次の年でもいいかな」と考えるようになりました。学生期間が延長することにネガティブな感情は全くなかったですし。 ー 留学より面白いと思えるものを見つけたんですね。では、卒業後はサイバーエージェントへの就職も考えていたんでしょうか? ご縁があってサイバーエージェントに入らせてもらえるなら、それはひとつの選択肢だと思っていました。   初対面で一目惚れした企業へ就職を決意 ー しかし、2017年の夏にTBMとの衝撃的な出会いを果たした増田さん。TBMとはどのように出会ったんでしょうか? 僕には、中学生の頃から尊敬していた地元企業の経営者の方がいるんです。その方が実は、TBMの社長と繋がりがあったんですよね。それでTBMという会社を知り、自分の友人の繋がりもあり、現執行役員 CMOの笹木さんに会える機会を作ってもらったのが出会いのきっかけでした。 今考えると失礼ですが、カジュアル面談なんかよりもっとカジュアルに「目的もなく会ってみる」くらいの感覚で笹木さんに会いに行ったんです。その出会いが衝撃的でした。 ー 笹木さんとどういう会話をされて、TBMや笹木さんに衝撃を受けたんですか? 僕の好きなことを聞かれたりTBMの事業について話を聞いたりしていた中で、3つの魅力を感じたんです。 一つは、サイバーエージェントでインターンとして働いていた中で「IT業界で僕は地球規模の大きな挑戦ができるのか」というイメージを持つことができなかったのに対し、笹木さんからTBMの話を聞いたときには、「日本発のベンチャーで世界に挑戦できる数少ない会社だ」と直感的に思ったこと。 二つ目は、今のタイミングでTBMに入ったら、かつてのトヨタやソニーといったグローバルカンパニーの創成期に創り手として携わることができるのではないかという期待があったこと。今この会社と出会えたことは自分の人生にとって非常に幸運なことだと思いました。 そして三つ目が、笹木さんの人柄です。笹木さんはよく「右脳イン・左脳アウト」(=まずは感性を元ににインプットして、相手に伝わるようロジカルにアウトプットする)という言葉を使っているんですけど、初めて会ったときにも、「感性と論理のバランスが優れていて、人間性に深みがあるかっこいい人だな」と感じたんです。この人の下だったらがむしゃらに働けて、後悔もしないだろうなと感じました。実際、今は自分の人生の師匠です(笑) ー 事業内容、会社のフェーズ、そして人。この三つの魅力に惹かれたわけですね。初めて会ったその場で入社を希望したんですか? いえ、その時はまだTBMに新卒やインターンとしての入社の枠がなかったんです。ただ、会話の中で笹木さんがこれまでのサイバーでの経験や世のHRパーソンに求められる資質の変化を汲み取り、僕に可能性を見出してくれて。「今、採用や組織開発の専任者が一人もいなくて、組織づくりを戦略から実行まで一緒にできる人を探しているから、もし本当にうちで働く覚悟があるんだったら、検討してほしい」とパスを渡されたんですよね。 ー 向こうから機会を提供してもらった、ということですね。 そうです。それで僕は「やってみたいです」と伝えました。ただ、ベンチャーの中でも生きるか死ぬかのフェーズだったので「生半可なメンバーやインターンは求めていない、本気でこの会社に貢献できる人間が必要だ」と言われました。そして約一週間後、「大学を辞めるので選考を受けさせてください」と返事をしたんです。   経営者意識で「大学生×正社員」を両立 ー 「大学を辞める」と伝えて入社を決意したわけですが、結局大学は辞めなかったんですよね? はい。最初は覚悟を決め「辞める」と伝えて選考を進ませてもらったんですが、最終的に社長が僕のことをすごく考えてくれたんですよ。 社長は僕と同じ関西出身で、中卒で大工になって20歳で起業して…という異色のキャリアの人で。だからこそ、僕に「大学行ったのなら卒業しないと親も悲しむだろうし、将来を考えると卒業しておいたほうがいい」と考えてくれたんです。恐らくご自身が苦労された経験も踏まえてのことだと思います。僕がお世話になっている経営者の方とも、「大学を辞めさせてまでTBMに入るべきなのか」と相談してくれていて。 面接を進めている途中、その経営者にお時間を頂き相談をしました。彼から伝えられたことは「経営者というのは本来両立しえない2つのことを両立させるものだ」ということ。そこで僕も、正社員と学生を両立させることを考えました。そして社長に、卒業することを約束して正社員で入社することを認めてもらったんです。 ー ある意味、経営者的タスクを与えられたんですね。関西の大学に行きながら東京の会社で週5日働くというのは大変だと思うのですが、どのように両立したんですか? ゼミや言語の授業があったので2週間に一度は関西に戻ったり、卒論を書いたりしていました。実は僕、4年生の時点で取得しなければいけない単位がけっこう残ってたんですよ(笑)だから、夜遅くまで仕事をしたあと終電の新幹線で関西に戻って朝からテストを受け、そのまま東京に戻って出社…という日もありました。上司の理解があってできたことです。 ー 緊張感のある中で単位を取り切ったんですね。 そうなんです。しかも、大学の学費を最後の半年ぶん納入できておらず、3月中旬の卒業式のタイミングでも本当に卒業できているのかわからなくて卒業式には出席できませんでした(笑) 3月末頃に、社長の海外出張に同行させていただいたんですが、その出張の最中に親から「卒業通知が届いた」とLINEがあって、やっと安心できましたね。社長の思い出の場所でもあるインターコンチネンタルホテルのロビーでみんなで食事をしているときに卒業できたことを報告したら、社長が号泣して僕もみんなも泣いて……というメモリアルな出張になりました。   会社を自分ゴト化するから「甘っちょろいことは言ってられない」 ー 2019年に大学を卒業されていますが、2017年からTBMで働いていていらっしゃるので、現在3年目ですよね。入社したときと比べて会社のフェーズもだいぶ変わってきていると思うのですが。 僕が入った当時は製造工場のメンバーを含めて社員は70名程度だったんですが、今では約2倍の140名に近づき、日本経済新聞の「2019年 NEXTユニコーン調査」で企業価値ランキング2位、ユニコーン企業として紹介されるなど、驚くほど成長しています。1年で10年分くらいの密度の経験させていただいている感覚がありますね。 ー それはすごい。増田さん自身は、ビジネス経験のほとんどない状態で入社して、無力感に苛まれるようなことはありませんでしたか? それはありましたし、今でも感じていますよ。仕事ではかなり権限移譲してもらっているので、求められている結果に対する責任の大きさも感じています。笹木さんと普通に食事をしているときに、自分の不甲斐なさが悔しくなって泣いたこともありました。 ー しかし本当にパフォーマンスが低かったなら、会社はもうその仕事を任せなくなるはず。つまり増田さんは会社の期待に応え続けることができている、ということだと思うんです。期待に応えるために意識していることや実践していることはありますか? 求められている期待に対しては全く応えられておらず心苦しいですが、「会社を自分ゴト化する」ということは意識していますね。「自分ゴト化」というキーワードは会社でもすごく大切にされていて、役員も「会社の経費を使うときも自分の財布だと思え」とよく言っています。 会社と自分は一心同体だ、と思って日々の仕事に責任を持つように心掛けていますね。たとえば僕のメインミッションのひとつは採用なので、「株主や証券会社にコミットしている事業計画や売り上げがあり、それを達成するための人員計画を立案しなければ全社の成長機会損出につながる」というように、会社の全体像から自分のミッションを結びつけて考えています。 それに、国からの補助もいただいているので失敗は許されません。もう、やるしかないんです。だから「この仕事に対してはモチベーションが低い」とか、そういう甘っちょろいことは言ってられなくて。できることは全てやる、という気持ちで仕事をしています。 ー 「自分ゴト化する」ということ以外にも、意識されていることはありますか? あとは、真似ることも大事だと思っています。これも笹木さんからの教えですが、「パクリエーション」というものを大切にしています。パクって、そこからクリエーション(創造)する。新卒でスキルもリテラシーも全然ない中、いかに早く結果を出していくかと考えたら、結果を出している人のやり方を真似るのが一番早いんですよ。そして、真似るためには一次情報を取りに行くことと、教えてもらうときに最低限の礼儀礼節や感謝を持つことが大事ですね。 ー 今後チャレンジしていきたいことや、これからのビジョンを教えてください。 僕は、プランド・ハプンスタンス(個人のキャリアは予期しない偶然によって形成される、といったキャリア形成理論)という考え方にしっくりきているので、とにかく目の前のことを愚直にやっていった先にキャリアを積み上げていきたいですね。 なので、現時点で明確に「今後これをしたい!」と考えるよりも、TBMをサステナビリティ×グローバル×メガベンチャーの領域で想起されるような存在にしたいと思っています。デジタル情報革命の次はサステナビリティ革命が必ず起こるし、自分達がその革命を起こすプレーヤーにならなければいけないという思いで、120%の力を注ぎたいです。   (取材:西村創一朗、写真:ご本人提供、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

一度失ったからこそ「信頼」を大切にする ー 信頼研究家・北村勇気の目指す社会

信頼のベーシックインカムを作りたい ー そう話すのは、信頼の研究をしているというエール株式会社の北村勇気さん。 北村さんは、学生時代に茶道家として活躍したのち、株式会社ビズリーチとエール株式会社の創業期に参画。現在はオンラインコーチングサービス「YeLL」のマーケティングを担当されています。 茶道家として活躍する一方で、人間不信に陥っていたという学生時代。そこから「信頼」を取り戻すまで、どんなことがあったのか。また、どんな想いが北村さんを支えているのか。マーケティングのお話から苦労の乗り越え方まで、幅広くお話を伺いました。   茶道家×和空間デザインの仕事で稼ぐ学生時代 ー まず、学生時代からの略歴を教えてください。 学生時代は、青山学院大学に通いながら20歳から2~3年ほど茶道家として活動していました。物心がつく頃から、茶道と華道をずっとやっていたんです。それで、学生時代はいろんな人に茶道を教えたり、空間デザインに取り組んでいたりしていました。 大学を卒業したら茶道家として生きていこうと思っていたので、あまり就活というものを考えていませんでした。そんな中で、たまたまビズリーチの代表である南さんに会うタイミングがあって、2014年4月に新卒でビズリーチに入社することに。 ビズリーチにいたのは半年くらいで、その翌月からは、エール株式会社の前身となる会社に入社しました。その会社の立ち上げから携わり、それ以降は事業開発・マーケティングを中心に担当しています。 ー そもそも茶道にのめり込んだきっかけは何だったんですか? 大学で茶道部に入ったことですかね。茶道はもともと自分でやっていたので、大学で部活に入る気はなかったんです。だけど、たまたま茶道部に声をかけられて。とてもいい師匠に巡り会えたことからさらに茶道が楽しくなり、それからほぼ週7で茶道をやるようになりました。 茶道って、人によって解釈や語る歴史も違うし、昔やっていた流派と部活での流派も違っていたので、その違いを認識したからこそ、面白さと奥深さを感じられたんです。 ー 学生時代から茶道家として生計を立てていたそうですね。 学費を稼いでいた、という感じです。茶道教室みたいな形で、生徒さんに月謝をもらうというのが基本スタイルで、途中からは駄菓子屋さんとコラボして新しい商品を作ったり、百貨店の和に関する催事でフロア全体の空間デザインをやったりしていました。 ー どうやって茶道教室に生徒さんを集めたんですか? 最初は周りの友達に声をかけていったんですが、みんな学生でお金がなくて、1回のイベントで出せるのは2,000円くらいが精一杯。これじゃ難しいなと思ったので、和菓子さんとコラボしてワークショップなどを始めたんですよ。そうしたら私の知り合いじゃないところから、大人の人たちが来るようになって。 「日曜の朝に表参道で茶道やるのめっちゃいい!」といった感じの口コミで広がっていったんです。茶道はもともと日本の文化の1つですが、もはや日常とかけ離れているので、日本人であっても異文化のような感覚で捉える人が最近は特に多いんですね。多かったのは、20~30代の女性。主に社会人の方でした。多いときは20人くらいの生徒さんがいましたね。 ー 今でいうイベントマーケティングですね。だけど、学生が大人の方々に教えるっていうのは心理的なハードルも高いと思うし、ずっと通い続けてもらったり口コミで広げてもらったりするのは大変だと思うのですが。 もともと私自身、1対1〜3くらいの少人数で話して良い関係を築くことが得意だし、好きだったんです。茶道は少人数と接する場合が多いので、自然とみなさんと仲良くなれたんだと思います。逆に、大人数相手だと難しかったでしょうね。 ー 空間デザインのお仕事をするきっかけは何だったんでしょう? 「和空間」というものが小さい頃から大好きだったんですよね。秋田で日本建築を生業にする家に生まれたため、古い建物や空間をつくる現場をたくさん見て手伝ったりしていたんです。それが影響していると思います。 茶道では、和室の中に掛け軸お花など色々なものがあって一つの空間を成すんですけど、どうやったらもっと心地良い空間になるんだろう?ということを考えるのも好きでした。そうしたらあるとき、「そんなに好きだったら、畳の空間じゃなくてもできるんじゃない?うちのお店やってみない?」と言われたのがきっかけで、空間デザインのお仕事も始めることになったんです。   なりたい自分像を思い描き、ビズリーチへ入社 ー茶道教室や空間デザインのお仕事ですでに稼げていたと思うんですが、そんな中でビズリーチに就職された北村さん。そこまで方向性を変えたビズリーチの南さんとは、どのように出会ったんですか? 茶道以外にも、「働く目的について語り合う」というキャリア系の社団法人もやっていたんですよ。そのイベントでビズリーチの新卒採用の方と知り合って、後日、オフィスに遊びに行くことに。本当に遊びに行く感覚で、茶道帰りに着物で行ったんです(笑)だけど行ったら突然、代表の南さんと会うことになって、「茶道で食ってるやつ初めて見た。面白い!」と言われ、気がついたら採用されていました。 ー 茶道で生きて行くと考えていた中、その出会いで生きる道をピボットしたわけですね。なにか惹きつけるものがあったんでしょうか。 採用が決まってから、自分でいろいろと振り返りながら考えました。ビズリーチがいいなと思った理由は2つあって、ひとつは南さんの人柄です。人を惹きつける力がすごい。そんな力を持つ人は数多く存在すると思いますが、もうその力が圧倒的だったんですね。純粋に憧れました。そしてもうひとつは、茶道の家元の人間ではない自分が茶道をやり続けることに対して疑問を持っていたからです。 いわゆる家元のような昔から続く家の人たち、そしてその世界が好きで好きで仕方なくて芸を磨き続けるような方が、世界に対して発信できて広がっていくというほうがいい、と少し前から思っていたんです。自分より、広げる適任者がいるよなと。 だったらそういう人たちをサポートできる側の人間になったほうが、より茶道の世界を大きくできるんじゃないかな、と。アーティスト側ではなく、ビジネス側に回った方がいいかもしれない、と思ったのが大きな理由ですね。 他にも幅広くいくつかの企業から内定をもらっていたんですが、どこも新卒はまず地方営業から始まって、東京に戻るのが5~8年後だと聞いたんです。「茶道の世界を大きくしたい。でも、衰退するこの世界のことを考えると猶予も少ない」と思っている自分にとって、その期間は長すぎると感じたので、なりたい自分の姿を考えた結果、ビズリーチに入社を決めました。 ー そんな出会いがあったビズリーチを、入社半年で辞めた理由とは? どんどん環境が変わってしまったからです。誘われたときは数十人規模の企業だったんですが、入社したタイミングでは200人、辞める頃には400人くらいにまで成長。もともと、事業を大きくするというところを経験しながら、自分でもできるようになりたいと思っていたんです。でも、この規模だと自分がそっち側に行くのは時間がかかりそうだなと思いました。 そんなときに、今の会社(エール株式会社)の創業社長から「一人で会社をやり始めているところだから一緒にやらないか」と誘われたんです。 ー 創業社長から誘われて、そちらへ移ったわけですね。なぜ北村さんに白羽の矢が立ったんでしょう? 私が19歳のときに初めてエールの創業社長に会って、一緒に社団法人を立ち上げ、組織を大きくするというプロセスを共にしていました。その信頼関係があり、そして彼と同じような信念があったからじゃないかな、と思っています。   強い想いがあったから踏ん張れたスタートアップ創業期 ー 北村さん自身、スタートアップに飛び込むのは大変じゃなかったですか? しんどかったですね。最初は創業代表CEOとCTO、私の3人でやっていたんですが、私以外の2人は2016~2017年の間に辞めて、もういないんです。ほぼ総入れ替えですね。創業メンバーだと、私だけが残ったという状態でした。 ー そんな状況で、どうやって踏ん張っていったんですか? ビズリーチをすぐに辞めてしまったことが、エールを続ける覚悟に繋がっていました。辞めたのはもちろん考えてのことですが、自分の弱さも大きかった。好きな道を見つけたからといって、すぐにその職場を去るという判断をしたのは、人間として未熟だったなと。 会社という枠の中で愚直にやり続けるという道もあったにも関わらず、そこで辞める決断をしたのは、会社の皆さんへの誠実さに欠けていましたね。思い返すと。ベンチャーが新卒を採用するなんて、リスクだし投資じゃないですか。それを裏切ってしまったことにとても申し訳ないと思うと共に、だからこそせめて違う場所でも死に物狂いで社会に貢献しないとな、と思っていました。 そうしないと自分を仲間に入れてくれたビズリーチの皆さんの目を見ることができない。辞めたけど、「こうして誰かのためになる事業を作り続けている」ということが、せめてもの恩返しになると考えていました。 また、その上でエールは「信頼が循環する社会を作りたい」という想いがあってやっていたことなので、「しんどいけど本当に尽き果てるまで続けたい」という気持ちがあって踏ん張れたんだと思います。 ー 人ではなくミッションにコミットしていたからこそ、辞めずに続けられたということですね。エールの創業から5年経った今、北村さんの役割はどのようなものでしょうか? 基本的には、マーケティングと法務の統括をしています。たとえば、サポーターって今はだいたい400人くらいが世界中にいて、来年2000人に増える予定なんです。その母集団形成、そして採用や教育スキームをつくるというのはもちろんのこと、彼ら彼女らが楽しく自己実現に繋がる形でやるためにはどうしたらいいか……といったことを考えています。「働く楽しさがつながる世界」とビジョンを定義していますが、そのためには「どんな人にでも信頼が担保される社会をつくる」というのが大事だと思っているんですよね。その信頼を提供するのが、サポーターなんです。 エール株式会社とは 大企業や急成長ベンチャー企業に、クラウドコーチングサービス「YeLL」を提供。膨大な性格/会話データを元にAIで算出した最適な相性のサポーターが、1対1の会話を通して社員の強みや価値観を引き出し自己理解と行動変容を生み出す。また、そのデータから組織への最適なフィードバックを実施。サポーター登録者は世界中で400名を越える国内最大手企業。 https://www.yell4u.jp/ ー 海外だと一人ひとりに社外のメンターやコーチがつく、というのは当然の文化としてあると思うんですけど、日本には今まで全然なかった文化ですよね。 事業を始めた2015年頃は、たしかにそのような文化は全くなかったです。人事施策として最近よく行われている「1on1」も、2017年くらいから出始めました。コーチングやカウンセリングといった言葉も、数年前と比べたらたくさん聞くようになりましたよね。テクノロジーが発展するのと同時に、一対一の言語コミュニケーションや人間関係、そして幸福などの感情が大切だと言われるようになるのは嬉しい限りです。   「信頼を増やしたい」北村さんが大切にしている軸 ー お話を伺っていると、人に声をかけられて身構えることなくチャレンジした結果、いろいろなチャンスを引き寄せてこられたのかなと感じます。北村さんは行動されるとき、どんなことを大切にされているんでしょう? 私が根本的に大事にしているのが、「絶対的な信頼」です。信頼してくれる人がいる、頼る頼られるっている関係性が成立しているのが大事だなと思っています。 17歳のとき、関東圏の中高生が集まる学生団体の幹部をやっていました。だけどあるとき、他の幹部との意見のズレでクビになって一気に200人くらいの友達を失うことがあったんです。それがけっこう辛くて。大学生になってからも、「誰かに好かれたい」「信じて欲しい」と思いつつ、人間不信になってしまっている自分がいました。 ー その人間不信は今も続いているんですか? いえ、21歳の時に転換期があったんです。大学でいつも自分を遊びに誘ってくれたり話しかけてくれたりする同級生がいたんですよ。その同級生と飲みに行ったときに過去の話をして、「正直、人のこと信頼してないんだ。お前のことも信頼していない」って言ったんですよ。 そうしたら、彼は「別にそう思われるのはどうでもいいんだけど、過去のことだし、俺は俺でお前のこと信頼してるからそれでいいんじゃない。友達でいようよ」と言ってくれて。それを聞いた瞬間、大号泣したのを覚えていますね。その時に初めて信頼されてるという実感があって、救われたんです。そこから、誰かのために何かやろう、好きなことをやろうと思えるようになりました。 自分は、たまたま運良く信頼してくれる人がいたから救われた。でも「運が悪くて信頼してくれる人がいないという人もたくさんいるだろうな」とも思ったんです。だから、私が感じたような信頼がもっと増えていったらいいなと、そう思っています。 ー そのご友人のように、(自分を)信頼してくれたと思ったから信頼できるものなのか、自ら主体的に信頼を人に振り向けられるようになったのか、どちらでしょう? 最初は信頼を受けなきゃ返せないっていう人間だったと思います。ただ、この数年で改めて思ったのは、「されたからする」ではなく、どんな状態でも「自分からする」というのが大事だなということ。 見返りなんて考えず、信頼したい人や応援したい人に対して自ら目を向けGIVEすることが大事だなと思っています。でもそれは、おそらく自分に余白がないと難しいんですよね。人の状態によって、受けられたり受けられなかったりする。最低限の担保が難しい。だからこそ、必要な人に最低限の信頼を届けられるインフラを作りたいです。 ー 信頼されたいなら自分から、ということですね。そういう経緯があって、今のエールの事業につながっているわけですね。 今いろんな企業の中で、コミュニケーション不全がたくさん起きていると思うんです。「1on1」という言葉をよく耳にしますけど、それが上手くいくのは相当難しいです。上司というのは、コミュニケーションの専門家ではありませんから。 マネジメントには、業務やチームの生産性をあげるものと、チームメンバーのフォローをするような人間的マネジメントの2つがあると思っていて。後者は、やったことがない人、得意でない人が多いんです。そこで、「人間的マネジメントは外部に任せ、上司の皆さんは生産性向上に力を注いでくださいね、そんなマネジメントの役割分担をしましょう」」というのがエールの思想としてあります。 我々がやっているのは、社員の方一人ひとりに対して、外部のメンターをつけるというサービスです。どんな人にでも絶対的な信頼を届ける、という体制をエール側で構成すること。それを事業としてやっています。 ーこれから北村さんがやっていきたいことはありますか? 「信頼のベーシックインカム」のような社会インフラ作り続けたいなと思っています。どんな人にでも信頼が担保されている状態を構築する、ということですね。エールもその手段のひとつであるし、他にも私は伝統文化アーティストコミュニティを運営しているのですが、それもまた手段のひとつ。また、他にも自分には研究者的な側面もあるので、論文を書き発表するというのも取り組み続けたいことのひとつです。 信頼って、きっともっと幸福感と楽しさを感じ、自分なりに新たな挑戦をしていくきっかけになると思うんです。そういう新たな挑戦が増えれば増えるほど、さらに世の中に良い考えやサービスがつくられ広がっていく。それがまた誰かの信頼に繋がる。それが幸福感や楽しさに繋がる。そんな循環を、生み出していきたいですね。   (取材:西村創一朗、写真:山崎貴大、文:山本恭子、デザイン:矢野拓実)

「なんとかなる」精神でハッタリをかまして成長し続ける、元・学生パパの人生観

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第14回目のゲストは、元・学生パパであり、現在は株式会社COUNTERWORKSで事業開発を行なっている竹信瑞基(たけのぶ・みずき)さんです。 海外でのインターン経験から「なんとかなる」という精神を身につけ、学生パパとなる決断から自分のやりたいことを見据えたキャリア選択まで、後悔しないための道を選んで成長を続けてきた竹信さん。 知識ゼロから自学自習でスキルを身につける方法や、さまざまな選択肢がある中でのキャリアの選び方など、大学生やU-29世代必見の話題が盛りだくさんです。また、2児のパパでありながら仕事で成果を出すための両立のコツも話していただきました。   「なんとかなる」精神を身につけた大学時代 ー 竹信さんの簡単な経歴を教えてください。 明治大学出身で、元学生パパです。大学1年の3月、当時付き合っていた彼女との間に子供ができ、大学2年の4月に結婚しました。 大学1年の夏には、1ヶ月半ほどインドで海外インターンを経験。その後、子供ができたことがわかって「稼がなくては」と思い、大学在学中に株式会社アイタンクジャパンが運営する『キャリアバイト』などでインターンとしてマーケティングに携わらせてもらいました。 そして、現在の株式会社COUNTERWORKS(以降、COUNTERWORKS)立ち上げのタイミングで代表の方に声をかけてもらい、第一号インターンに。ここまでが学生時代の仕事のお話です。 大学卒業後は株式会社リクルートホールディングス(以降、リクルート)に入社し、UXデザイナーやプロダクトオーナーの仕事を経て、HR領域のアナリストなどを経験。2019年4月からは、現在の職場であるCOUNTERWORKSに移りました。 ー インドへ海外インターンに行かれたのは、どんなきっかけがあったんでしょう? 大学に入ってすぐ、NPO法人アイセック・ジャパンという海外インターンシッププログラムを提供しているところでインターンとして働かせてもらったのがきっかけです。そこで営業の仕事を行いながら、インドに興味を持つようになり、実際に行ってみたいと思うようになりました。 ー 実際にインドへ行ってみてどうでした? 現地で仕事をするつもりで行ったんですが、いざ入国して現地のNGOの人たちと面接をしたところ「ここ(インド)に仕事はない」と言われてしまって。そこからインドでの仕事探しが始まりました。ただ、僕がいたところはヒンディー語圏だったため、必死で勉強した英語が通じないんですよ。 だから現地でヒンディー語を勉強して話せるようにしました。そして、インドの女性や子供たちに数学と英語、ヒンディー語の読み書きを教える仕事をすることになったんです。僕はヒンディー語のスピーキングを教えてもらいながら、教えてもらったヒンディー語を使ってヒンディー語の読み書きを教えていく、という。 ー 学びながら教えるということですね。1ヶ月半のインド滞在で、得られたものは多かったんじゃないでしょうか。 やりきれなかった部分も多かったですが、学べた部分もありました。僕が思っていた以上にインドでの識字率が低いことや、話せるけど字がわからない人がいるという現実を感じましたね。 また、本人の自学自習に頼ってしまうというNGOの体質に課題があるなとも思いました。NGOは非営利なので、利益も出ず、あまり人件費が割けないんです。その分、コンテンツを充実させようとか、意欲を持って教えようという雰囲気になりにくい。なので、NGOをより良くしていく活動ができたらいいな、と思うきっかけにもなりました。 それに、「なんとかなる」という精神が身についたのは大きいですね。インドで仕事がなかったり、現地の言葉が喋れなかったり、いろいろトラブルもありましたが、運やご縁で助けていただけて、「死ななければなんとかなるんだな」ということが分かった1ヶ月半でした。   「後悔する選択をしたくない」だから学生パパになる決断ができた ー 大学1年で子供ができたことがわかったのは、完全に青天の霹靂だったと思うのですが。 そうですね。でも、高校生の頃から付き合っていた彼女だったので、このまま結婚してもいいかなと考えていたんですよ。とはいえ、大学生で大した稼ぎもなかったので「これはいろいろと考えなくては」と思いました。ただ、堕ろすという選択肢はなかったですね。 ー 子供を産むのはお互いの決断だった、と。 ご縁だと思ったこともあり、少なくとも僕はそうでした。彼女からも、堕ろすつもりはなかったと聞いています。インドでの「死ぬ気になればなんとかなる」という経験もありましたし、あとは単純に堕ろすのが嫌だなと思ったんです。 責任を取らなかったと見られるのも嫌だし、後悔する選択をしたくなかったので。僕が頑張ればいいのなら、頑張れると思いました。 ー 授かったからにはなんとかしてやるぞ、という気持ちで決断されたんですね。それにしてもご両親の説得は大変だったんじゃないでしょうか? 僕も彼女も両親が授かり婚だったこともありましたが、ちゃんと責任持って真摯に向き合うということ、そして具体的にどうするのかという話をして交渉に臨みました。両親もはじめは難しい反応でしたが、僕たちの意志を尊重してくれて、結果的には金銭面で支えてもらえることになりましたね。   「ハッタリ」からの自学自習でスキルを増やしていく ー 学生パパになることを決断したあとから「稼がなくては」とマインドが変化されたそうですが、具体的な行動はどう変わったんでしょうか? どうやったら新卒で就職していいポジションが取れるだろうと考えるようになりました。そこで、当時はまだWebマーケティングを実際にやっている学生は多くないと思い、マーケティングの世界に踏み入れることにしたんです。 ー 当時はWebマーケティングのスキルはゼロだったわけですよね。それでもインターンとして採用してもらえたのはなぜだと思いますか? 「Webマーケティングをやっている」とハッタリをかましたからだと思います(笑)と言っても、実際にGoogleアナリティクス(Webサイトの解析ツール)などは使ったことがありましたし、海外インターンの営業の仕事もやった経験があるということもアピールしたのが効いたんじゃないかな、と。 ー その結果、なんとかなったんですね。 なんとかなりました。入社初日には「オウンドメディアにはこんな記事を書いたほうがいい」といった提案書を持っていったり、かなり頑張りましたけどね。マーケティングは僕のやりたいことだったので、ハッタリをかましても頑張れると思っていた部分はあります。 もちろん仕事ではトラブルもありましたが、「頑張ればなんとかなる」ということを実感しました。当時はWebメディアにいろんな記事が載っていたので、家でもそれを見て勉強しましたし、勉強会で詳しい人に教えてもらえる環境もあったので。 ー 知識がない状態から自学自習をしてスキルを身に付けていくスタンスや行動力は、竹信さんの強みだと思います。自学自習のコツはありますか? 誰に教えても理解できるような、第三者目線のノートを作ることですかね。紙のノートでもパソコン上でのドキュメントでも構いません。まず全体像を把握し、そこから情報を各パートに分けて、「どう書いたら伝わるか?」という視点で知識をまとめていくんです。セルフティーチングみたいな感じで、自分に教科書を作る感覚ですね。 あとは、そもそもの意味や目的をはじめに理解するよう意識しています。会社であれば、その事業の目的を理解し、それを自分の足元に置いておくイメージ。たくさんある情報の中から自分に必要なものを選ばないといけないので、今抱えている問題や勉強の目的をはっきりさせておくことが大切です。 ー おすすめの勉強法のステップがあれば教えてください。 僕の勉強ステップはこのような感じです。 ①なぜそれに興味を持っているのか言語化し、意義づけ ②自分のやりたいことと紐付けて、勉強するジャンルを絞る 僕の場合、マーケティングに興味を持った理由は「営業は苦手だからしたくないから」「効率よく人を集められる仕事だったら幅広く使えるから」という2点。次に、当時働いていたキャリアバイトでやりたかったのは「インターンをより広く知ってもらうこと」なので、そのためにはWebのSEOから勉強しよう、と考えました。 ここまで絞れたら、習得したい知識について詳しいWebメディアをいくつか探し、それを読み込んで勉強していくんです。 ー 書籍より、Webメディアの記事をベースに勉強されていたんですね。 最初は、ハードルを下げることを大事にしていたんです。書籍にお金をかけても、なかなか読めずにいると罪悪感が生まれて逆に動けなくなってしまうので、毎朝Web記事を読んでメモをするというところから始めました。 僕自身はサボり屋なので、三日坊主を防ぐために小さく重ねていく。そしてWeb記事が完全に理解できたと思ったら書籍で勉強して、また分からないものが出てきたらWeb記事読み返したり、それでも分からないものについては専門家の方に聞きに行ったりしていました。 ー 専門家の方には、すぐに会って教えてもらえたんでしょうか? いえ、ツテもなにもなかったので、直接メールを送って会ってもらえないか連絡していました。大学生であることや、自分が今やっていること、困りごとなどを伝えましたね。それでも見送られることは多かったです。 もし会ってもらえることになったら、ランチをご馳走していろいろな知識を教えてもらっていました。その人からまた専門家を紹介してもらえて、ツテができて……という感じでどんどん勉強していったんです。   「選んだ道を正解にしよう」と決めた就職先 ー いま働かれているCOUNTERWORKSには、大学在学中にインターンをされていたんですよね。どのようなきっかけがあったんでしょう? 大学3年で夏のインターンをしていたときに、ちょうど今のCOUNTERWORKSの社長がインターンを探していて、声をかけてもらったのがきっかけでした。 これまでやっていたWebマーケティングではなく、営業とプロジェクトマネージャーの仕事をさせてもらうことになったんですが、そこで営業に対する意識が変わりました。実はマーケティングも営業も、お客さんにサービスをお勧めし選んでもらう手段として、1対1なのか1対多なのかの違いがあるだけだな、と。 ー 営業への苦手意識が薄れたわけですね。COUNTERWORKSでは1年半もの間、インターンをされていたそうですが、長く続いた理由はなんですか? 僕がずっとやりたかった仕事に近いものができたからだと思います。会社の登記とほぼ同じタイミングでインターンとして入り、お客さんの声を聞きながらサービスの改善をするなど、自分でいろいろな策を講じることができる環境で、やりがいを感じていたんです。 今までのWebマーケティングだと、関われる範囲に限界があってサービスの中にまで踏み込めなかった。でもそれがCOUNTERWORKSではできたんですよね。 ー そのままCOUNTERWORKSに入社する選択肢もあった中で、リクルートへ就職されたのはなぜでしょうか? 就活では他の企業も受けていましたし、リクルートに就職するという選択肢もあるなと思いつつ、COUNTERWORKSが第一志望でした。ただ、僕には子供もいて、家族としては安定を求めて大企業に入ってほしいという気持ちもあるかな、と思ったんです。COUNTERWORKSはそのとき、まだ創業2期目でしたし。 それに、COUNTERWORKSで力になるには、今の自分のスキルレベルは不十分だなとも感じていました。だから、「リクルートで得られるものを100%得てからCOUNTERWORKSに戻ろう」「自分の選んだ道を正解にしよう」と心に決め、リクルートを新卒の就職先に選んだんです。 ー 戻るつもりとはいえ、苦渋の決断だったんですね。 はい。でもリクルートで過ごした3年間で、語りきれないほどの学びを得ることができました。たとえば、プロダクトの機能を作る上でのお客さんとの向き合い方や、改善をスピーディーに行うことで数字としてはどう返ってくるのか、また組織の運営に対する考え方や組織を活性化させる方法など、今の職場で活かせる知見を身につけられたと思います。   時間を区切ることが、子育てとキャリアを両立させるコツ ー 学生でパパになり、今は2人の子供がいらっしゃる中で、子育てとキャリアはどのように両立させてきたんでしょうか? それぞれの時間を区切ることで両立させています。平日の日中は仕事があるため、夜は妻の負担を減らせるように家事をしたり、土日の日中は基本的に子育てと家事をしようと決めているんです。そうすることで、心の余裕も保てています。 ワンオペ育児が大変なのもわかるし、かといって仕事は集中してやらないと成果が出せない。なので、妻には「平日は仕事のことだけ考えるし夜遅くなることもある」と言い切って、その代わりに細かな部分で妻が少しでも楽できるようにと配慮して動いています。土日も、家事は五分五分でやるようにしていますし。 ー 平日のスケジュールはどんな感じでしょうか? 日によるのですが、だいたい朝9時頃に子供と一緒に家を出て、幼稚園に送っています。帰る時間は早い日だと夜7〜8時くらいで一緒にご飯を食べることもできるんですが、仕事も忙しいため月の半分くらいは帰宅が夜9〜10時くらいになってしまいますね。理想は月の8割を早めに帰りたいんですが。 ー 会社の飲み会なんかもありますよね。それはどれくらいの頻度で行かれていますか? 月2回までに抑えるようにしています。そもそも飲むのがそんなに好きじゃないのと、夜はできるだけ仕事に充てたり早く帰ったりしたいので、本当に行きたい飲み会だけに絞るようにしているんです。 ー 家庭や子育ても大切にしつつ、仕事でも成果を出すために工夫されているんですね。   社会的意義まで見据えたプロダクトづくりがしたい ー 現在、COUNTERWORKSで新規事業に関わっているとのことですが。 はい。IoT(=Internet of Things)を利用して、お店や商業施設の中でどのように人が動いているのかを可視化し、「場」の収益性を改善できるようにする事業に取り組んでいます。もともと、「SHOPCOUNTER」というポップアップストアや展示会などが開ける空間のマーケットプレイスを運営しているんですが、データを使って空間を持っている方も使う方も更に場の活用・収益の改善ができる方法を見つけたいな、と思ってこの事業を始めました。 「なんとかする」という気持ちで、どうお店や施設を良くするのかという部分に向き合っていきたいです。 ー では、竹信さんの当面のミッションは、その事業を形にするということですか? 短期的にはそうなんですが、このシステムの社会的な意義は「まちづくり」にあると思っていて。街の企業や住む人たちの意見をちゃんと反映できるよう、まちづくりのOS(基幹システム)として機能させられるようにしていきたいんですよね。 従来のように、不動産開発業者が施設建設の計画を立ててテナントを誘致するというやり方だけではなく、街の人たちが「いいな」「使いやすいな」と思えるかどうかを主軸としてお店や施設を作る・運用するというやり方が実現できるようにしたい。事業としてしっかり利益を作っていくことはもちろんですが、その後の社会的意義まで考えてこの事業を形にしたいと考えています。   (取材:西村創一朗、写真:山崎貴大、編集:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

「HRで目の前の人からハッピーに」—元パイロットが人事のスペシャリストに転身した秘話。

  色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第5回目のゲストは、非連続的なキャリアの末にパイロットから鞄製造会社の人事へと転身してこられた西島悠蔵さんです。 簡単にそのキャリアを振り返ると、新卒でANAにパイロットとして入社後、転職先のリクルートキャリアではキャリアアドバイザーと中途採用を担当。今では従業員規模100名程度にまで成長したベルフェイスがまだ10名弱だった頃には人事組織の立ち上げを牽引。そして現在は、創業50年を超える老舗・土屋鞄製造所で人事部人材開発課・課長。 今回はそんな独自のキャリアを歩んできた西島さんに、それぞれの転機における判断軸や決断の裏側を伺いました。   就職氷河期に7社8職種内定の内心。 -新卒の当時は今とは全く違う、「ANAでパイロット」というキャリアを選択されたと思うんですけど、学生時代はどんなことしてたんですか。 学生時代は何もやってなかったんです。本当に授業とか全然行ってなくて。朝~夕方まで麻雀を打って、学校行かずにそのまま部活(バスケ)に行って帰る、みたいな生活をずっとやってて・・・本当に底辺みたいな生活をしてましたよ(笑)。学生らしいといえば、学生らしい生活を送っていたのかな。 ただ、このままダラダラ過ごしていくのはやばいなと思ったので、一応アルバイトはちゃんとやってました。一番最初のバイト先はスターバックス、その後は朝日放送。それからCOACHで販売員をやっていました。大学3年生の時、販売員としてかなりの販売実績を残せたこととかは就活中の売りになりましたね。 自分で言うのも恥ずかしいけど、就活は超無双でした(笑)。当時は大手の7社8職種から内定を頂いて。   -就活は無双モード、と言っても当時就職氷河期でしたよね?   そうですね。当時はちょうどリーマンショックが起きて、急に内定を取り消された先輩の姿や採用活動縮小しますと宣言する企業が増えていたので、内心「やばいな」と不安を抱えながら就活を始めたのを覚えてます。 ただ、就活の話すると超ダサいやつになるんですが、僕はシンプルに大手に行きたかったんですよ。 というのも、僕、高校は進学校だったんですけど大学受験をしていなくて、受験せずに特待に近いような形で大学に入学してます。その当時、高校は周りが国公立ばかり目指しているところで、私立大学に行きますって言ったら周りから「お前妥協じゃね」みたいなことをすごい言われて。だから、なんか変な学歴コンプレックスみたいなのがあったんです。 そこで、就活は分かりやすい成功をおさめたいと思って、まずは就職人気ランキング100位までを調べてました(笑)。その後、最初リクナビを見てエントリーできそうなところを探し、片っ端から77社へエントリーシートを書いて、毎日4−5社面接受けて・・・というような就活をしてました。面接や試験では、テクニックを駆使しながら「いかにして就活というゲームを攻略するか」と考えてましたね。 今、自分が人事をしていてそんな学生が来たら絶対採りたくない(笑)。今はより就活が情報戦になっているし、企業に合わせて自分を偽っていると自分自身がわからなくなるので、同じやり方はあまりおすすめはしません。   -就活というゲームでは無双状態だったわけですけど、内定は何社くらいもらったんですか? 大手生命保険、大手銀行、全日空のパイロットと総合職など、7社8職種の内定を頂きました。4月17日、パイロットの内定が出たところで全日空のパイロット職として入社を決意し、就活を終えました。   自分を押し殺し続けられるか...。パイロットから人材キャリアへ -ファーストキャリアとして、なんでパイロット、ANAを選んだんですか? まず、母親がもともと全日空で客室乗務員をしていて、「全日空に戻りたいな」という話を聞いていたんです。親世代の人が働きたい環境って素敵だなと思っていたのと、一部恩返しみたいなところもありましたね。でも、これはあくまで1割。外向けの綺麗な、素敵な理由 。  残り9割は分かりやすく、お金もらえるし、女性が多いからモテるだろうし、タクシーの送り迎えもつくし、完璧やんみたいな。ステータス的に完璧だからそっち行こう、って選びましたね。極めてわかりやすい、大学生らしい意思決定の仕方でしょ。   -順調な就職活動を経て、ベストと言われる選択ができて、2010年にANAに就職するわけですけど、実際入社してみてどうでした? 正直、内定者研修の時に違和感を感じ、辞めようと思いました(笑)。 実際に入ってみると、みんな会社が好きで、飛行機が好きで、小さい頃からの憧れを抱えて入る人たちが多かった。それが、幅広く就活して、ステータス重視で入社を決めた僕にとっては、ちょっと熱狂的すぎたというか。すごい温度差を感じたんです。はじめはすごくきつくて、「僕にとっては一生やる仕事ではないな」と思っていたのはすごく覚えてますね。   -けれど、すぐには辞めなかったんですよね? パイロットとして入ったからにはちゃんと真っ当にやらないととは思っていたから、訓練2年を含めて結局4年弱はいたかな。 入社時から感じていた違和感は、どこかでずっとあって…航空法や会社の規定を守るからこそ空の安全は守られるのですが、どうしても自分の中でそれが面白くないと思ってしまっていた。 結局、入社してから、それからも違和感が消えることはなかった。「このままずっと自分を押し殺しながら続けるのか、自分らしく辞めるのかどっちかかな」と真剣に考えるようになり、退職へ。   -そして、転職活動をスタート。 はい。転職先として考えていたのは人材系。全日空時代に採用関連の業務に携わったこと、就活中に素敵な人事に出会っていたことから人材方面にキャリアを積みたいと考えていました。なかでも、目指していたのはリクルート。 当時リクルートエージェントで転職活動をしていたんですが、エージェントさんがくれる求人にはリクルートはなくて。「リクルートの会社で働くエージェントさんが出してくれないってことは、僕はリクルートにはいけないのかな」って思ってたんですが、思い切って「すみません、リクルートとか募集ないですよね?」って聞いたら、「ありますよ!」って。あの時一歩踏み出さなかったら、今のキャリアにめぐりあってなかったし、違う人生だったなって思いますね。   -その後リクルートキャリアへの転職を決めたわけですが、入社当時はすでに「いつか人事になるぞ」と意識してたんですか? 人事にはなりたいなと漠然と思ってたけど、入社してから配属されたキャリアアドバイザーの仕事が大変で。退社後に勉強したり他社の人の話を聞きに行ったり、成果を出せるように必死にやっていましたね。それだけ必死になって頑張った背景には、転職する際の最終面談の時に当時の人事部長に言われた一言が大きくて。 最終選考の面談の時、僕はキャリア4年目。「リクルートの4年目ってどれくらいのレベルか知ってるの?君の3倍は仕事できるね」ってはっきり言われました。「どれくらいで追いつくの?」って聞かれて、1年くらいですかねとか言ってたら、「そういうところがなんかぬるいよな。1年とか普通じゃん。半年って言えよ」って返されて(笑)。半年で本当に4年目に追いつけるのかなって思ったけど悔しかったから「3ヶ月で追いつきます!」って握手しちゃったから、もう焦りまくってたわけです。  とりあえず成果出さないと、成長しないと、って必死でしたね。仕事が終わってからは深夜2時まで空いてる大崎のスターバックスに行って、終電までいつもいろんな本読んだり勉強したりとかして。懐かしい。   待ってるだけでは、描いたキャリアを実現できない。 -そうだったんですね。成果を出すために最初はめちゃくちゃ努力されたと思うんですけど、ブレイクスルーしたタイミングとかあったんですか? 自分の中で明確に覚えてるのは、ちょっと慣れてきたタイミングの時のことです。あと一人内定決めれば全社のMVPになれるかもしれないって話が、僕のもとにちらっと舞い込んできていました。これは大きなチャンスだと思いましたね。 この人がその場で握手すれば完璧にMVPが決まるという時があって、僕は必死になってその人を4時間くらい面談してたんです。本人はずっと「自分は行きたいけど家族に話したい」って言っていたところ、僕は「わかりました、電話しましょうよ」って言って。その場では電話がなかなか繋がらなくて、本人もできれば土日で考えたいと途中から言い出して。 今では役員になられた当時の上司にその状況を相談したら、「あんたそのための4時間だったの!?」ってすごい怒られたんです。「早く帰しなさい!あんたの成績はそのお客さんの人生にとって何にも関係ないのよ。どこ向いて仕事してんの?」って言われて。うわーっ・・・て思ったんです。 もうその時は自分のことで精一杯だったし、自分の成果を出さなきゃって思ってたから、目の前の人の人生よりも自分の売り上げを追っかけていたんですよね。その時にすごく葛藤して。バランスっていうのは難しいんだけど、最終的に極のところっていうのは目の前の人に向き合うことなんじゃないかなって、その時にはっきり気づかされましたよね。 相談を終えた後、面談していた方にはすぐに帰っていただき、案の定MVPは取れず。まあ、その方が決まってても最終的には取れなかったけれど、本当に成果以上に良い気づきを与えてもらいました。   -MVPは逃したけど、仕事の本質、大切なところに気付かされた瞬間だったんですね。その後キャリアアドバイザーから、一時期転職活動されていた時期もあったじゃないですか。 ありました。キャリアアドバイザーをちょうど2年くらいやったタイミングで、飽きてしまって。というのも、どうしても個人の方しか向けないし、個人に向き合う大切さは学んだんだけど、じゃあその次の成長、ステップって何なのかというところが分からなかったんですよね。 そこで、やっぱりその先も見れる人事になりたいと思って人事のポジションを色々探し始めました。リクルートの中で異動できれば一番よかったんだけど、時期的にも少し先になりそうだったので転職活動を。 そしたら、まさかの大手・有名企業からHRポジションの内定をもらうことができて、これはいけるかもしれないと思いました。内定を持った状態で、当時のリクルートのマネージャーに話しに行ったんです。「僕人事いきたいんですけど、人事にいける道が手元にあって迷っていて。社内で異動ってできないですよね?」と相談したら、「まあ待て」って言われて。しめしめじゃないけど、戦略的にキャリアを積むってこういうことかもなっていうのを考えられたのかな、と。 総合職で入っている人とかは特にこの辺考えた方がいいなと思っています。待ってたら、そのキャリアが自分を連れてってくれる時代ではもうない。やりたい仕事に対しての準備っていうのは、ちゃんとしないといけないんです。 僕だったら、例えば人事と積極的に絡みに行きながら、「キャリアアドバイザーで頑張ってる奴がいる」っていう噂が立つくらい影響力を積み上げて、時期が来たら最後に切り札持ってるみたいな。もう完璧なシナリオでしょう。   ーそこから人事としてのキャリアがスタートしたわけですけど、その後にベルフェイスに行くわけじゃないですか。大手・リクルートからベンチャー・ベルフェイスに転職しようと思ったきっかけは? これは2つエピソードがあって。1つは5泊6日の新卒インターンシップにたまたま参加することになった時のこと。毎晩毎日学生と話をしていくうちに、今まで自分は人と向き合うのが上手だって思ってたんだけど、全然向き合えていなかったなと気づいてきて。 自分の姿勢がその学生たちに影響を与えるって言われていたんだけど、当たり障り無く周りの人とコミュニケーションを取れるけど本音を出さないっていう僕の姿勢が当時のグループにも表れていたんです。 2日目には学生との関係に限界がきて言い合いになった時、ある学生から「ユウゾウさんは泣きそう泣きそう言ってて絶対泣かないタイプですよね。そういうところが僕は嫌いです」って言われました。「学生には言う割に自分はそういうところ隠しますよね。だから今日は喋りましょうよ」とも言われて、そこから夜中の3時くらいまで号泣しながら語って。そこで初めて、人と向き合う仕事って面白いなと思ったし、ある種難しいなっていうのもすごく感じたんです。 ただ、その体験を味わってから職場に戻ってきた時のギャップがものすごくあって。大手の人事ってどうしてもオペレーションで回っちゃう。というよりも、回さないといけない。だから、このまま続けるのはちょっと違うなって思いました。 もう1つは、僕のリファラル採用で入社した人がいたんだけれど、入社2ヶ月後くらいにその人から電話がかかってきて。一緒にランチに行ったら、「私の同期みんな辞めちゃったんですよね」って言われて。ランチ中にその子がめっちゃ泣き出しちゃって、「ユウゾウさん、いい会社って言ったじゃないですか」って言われたんです。その子に申し訳ないっていう気持ちもあったけれど、何よりショックだったのはみんなが辞めた事実を知らなかったっていうこと。やっぱり大手で組織も細分化されていたから、「人事って何なんだろうな」って思いましたね。 その時、当時担当していた中途採用担当っていう狭い領域だけじゃなくて、もうちょっと広い、中途も新卒も、もっというと労務とか教育とか、入社後のところも見れるようなキャリアを積みたいなと思ったんです。 その2つがベンチャーに行こうと考え始めたきかっけでしたね。   HR文脈で目の前の人、日本で暮らす人をハッピーに。 -ベンチャーから老舗の鞄製造会社へ。このキャリアもまた、印象的ですよね。今はどのような働き方をされているんですか? 今は自由に色々やらせてもらっています。人事部人材開発課・課長をさせてもらいながらも、ふと気がついたら他に複業6社やっていて。 複業では、採用のコンサル、採用ブランディングみたいな文脈で関わっている企業が2社。人事として関わっている企業が2社。人事として関わっている企業では、僕が欲しいサービスを企画して作ろうとしています。具体的には、学生向けのオンライン説明会などをやっています。 他には大学の非常勤講師だったりエージェントとかもちょこっとやっていたりするんだけど、ベルフェイスでの人事組織立ち上げ経験をはじめとして、自分が今までやってきた経験をそれぞれそのまま活かしているって感じですね。新しいことを始めたっていうよりも、色々自分がやってきたことを広げていったら今6社にまで広がったって感じ。   -人事は天職だなって思うことはありますか? 天職っていうのは、なんだろう(笑)。わからないですけど、人事のように人と向き合える仕事っていうのは自分はどこまでやっても飽きなくて、どれだけ身体しんどくてもやれる。っていうことは、もしかしたら天職なのかなって思いますね。   -人事というところ、人と向き合える仕事を軸に、おそらく今の会社からまた違うところにいかれるってこともありますか? それ最近すごいいろんな学生に言われる(笑)。 いつまでいるんですか、みたいな。 端的に言うと、しばらくここで働いていくと思っています。 なぜここに入ったのかっていう話になるんですけど、製造業とかものづくりとかって、時代的には傾いていくイメージのある業界ですし、勢いもITとかに比べたら全然無い領域ですよね。 でも、僕はここ数年でこの業界を変えられるんじゃないか、中にいる人たちがよりハッピーに働けるようにできるんじゃないかって思ってるんです。HRの文脈でこの業界を変えられれば、大げさじゃなく日本を救えるとも思っています。 その背景にあるのは、これまでいろんな仕事を経験してきた中で気持ちが変わってきていることがあって。「目の前の人をハッピーにしたいな」っていうところから「より多くの人をハッピーにしたい」と。もうちょっといくと「日本で暮らす人たちとか、日本に関わる人たちがハッピーになってくれると、僕はすごく嬉しいな」って思うんです。 それが自分の人生をかけてやれることかもなっていうのを最近考え始めていて、今はそれを叶えられるのが土屋鞄。柔軟な働き方を許してくれてることもあるので、しばらくはいるのかなっていう感じはします。   -目の前の人から、広く日本を変えていきたいという思いはどういう風に出てきたのでしょう?どうしたらそんな風に変わっていくんだろうみたいなのが気になりました。 目の前の人を幸せにしていくっていう連続を続けていくことが、そこに繋がったのかな。ベースは一番そこが大きくて、ずっと目の前の人と向き合っていたら物足りなさを感じるようになっていくというか。 要は、同じ成功体験を味わっていると、人ってやっぱりもっと成長したいって感覚が強いので、「もうちょいやりたいな」っていう前のめりな気持ちが多分でてくるんです。そういう成功体験を続けているとだんだん見える範囲が大きくなってくるので、より上のレイヤーで物事を考えてみたいなっていう感情が湧いてきたっていうところが大きいですかね。 目の前のお客さんに向き合って、その人が結果的にどのようなベネフィットを得るのかというところをだんだん見るようになっていって、「そうしたらもっとここにも価値提供できそうだな」とか「もっとこういうことできそうだな」っていう風に感覚的に変わっていった感じですね。   これまでになかったIT・WEBとのコラボを -最後に、今後チャレンジしていきたいこととかをお話しいただけますか? 正直、他の業界に比べたらものすごく遅れている領域だと思っています。例えば、一番最初の面接で「この人の書類ってどこありますか」って聞いたら、めっちゃでかい倉庫がガチャンって開けられて、ファイリングされてるのをバーっと調べて、この人ですって差し出されて。「いや、やばいな! すごい状況だな」と思いました(笑)。 クラウドのクの字も出てこないような業界なんだけど、こういう会社が変わっていって、少しでもITとかWEBとかとコラボし始めると多分面白いイノベーションが起きるんじゃないのかなって思ってるんですよね。 その先に日本とか、今関わっている人たちがハッピーになっていけばいいなと思っているので、僕はそういった逆風吹き荒れる中、カオスな環境でも笑いながらやっています。それを続けていくのが直近のキャリアイメージかなっていう感じですね。 今は日本のために~とかって大きなことを言っているけど、結局は目の前の人と向き合いながら前向きな挑戦がしていければ良いなと思っています。    

「まずは”ギバー”になれ!澤円が教える20代のキャリアのつくり方」

ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「U-29.com」が運営する月イチイベント『U-29 Career FES』。 第1回目のゲストは「プレゼンの神」と呼ばれる日本マイクロソフトの澤さんです。 これまで一流のキャリアを築いてきたように見えますが、業界未経験スタートで”ポンコツ”な20代だったそう。それでも心がけていたのは「人に”ギブ”すること」と語る澤さんに20代のキャリアのつくり方を伺いました。 ポンコツ時代から「プレゼンの神」になるまで ーIT業界のキャリアを歩まれてきた澤さんですが、どのような新人時代を送られていたのでしょうか? 僕は経済学部出身で、未経験でプログラマとしてキャリアをスタートさせました。実はその前に他業種で内定が決まっていましたが「何か違うなぁ」と悩み年末に内定を辞退し、年始から就活を再スタートさせたんです。 ーどうしてエンジニアの道を? 「何になりたいんだろうなぁ」って考えたとき、映画「007」で主人公ジェームズボンドのために武器を開発する”Q役”になりたいって思ったんです。 実際、僕は一流のエンジニアになれた訳ではないですが、IT業界の知識を使ったキャリアを築いてきました。1995年にWindows95が発売されPCが普及ししたとき、3年間のエンジニア経験が活きました。誰もがPC初心者の中、僕は世の中の人が知らないPCのことを知っている側の人間になったんです。運よく、みんなが知らないことを知っている状態になりました。 ーその後、転職もされましたが「プレゼンの神」と呼ばれるまではどのような経緯があったのでしょうか? 社会人5年目にヘッドハンティングでマイクロソフトにITコンサルタントとして転職し、カゴメのシステム構築を偶然担当しました。当時、カゴメで使用していたシステムを僕も前職で扱っていたいたからこその任命だったんです。そのシステムとマイクロソフトのシステムの両方をわかる人間が、当時の社内には僕くらいしかいなかったのでラッキーでした。 そのプロジェクトが、新聞に掲載されるくらいの成功例となりました。その頃から人に何かを伝えることが得意だと自覚するようになったんです。 「迷ったらやってみる」。 20代のキャリアのつくり方 ーご自身の強みに気づいたのはいつ頃なんでしょうか? ちゃんと実感するようになったのは30代ですね。マイクロソフトでは公式イベントの際にプレゼンに対する参加者のアンケート結果から出された全順位が発表されるのですが、何度も1位に選んでいただいたんです。 各界のトップの人たちの話は、地頭がいいが故に他の人にとってわかりづらいこともありますが、自分がIT未経験で右も左もわからなかったからこそ、説明力がつきました。皆にわかりやすいように喋れるんですよね。 ー引き寄せの法則とも言いますが、カゴメのプロジェクトの任務など、どうやったらその偶然を引き寄せられるのでしょうか? やる、やらないで迷ったらやることですね。20代、30代は体力があるので病気にならない程度に無理をしておくのはいいと思います(笑)。 「やりたいことがわからない」と嘆く学生もいるけど、何でもいいんです。自分の趣味でも、好きな人がやっていることのマネでもいい。とにかく興味範囲を広げておくことがオススメです。インターネットは僕の知的好奇心を強く刺激するものだったので、ローンでPCを購入していじり倒しながら知識を蓄えていきました。 ー20代からいいキャリアを築いていくコツはありますか? 3分野のキャリアを作ることですね。3点以上の立脚点があると安定します。僕の場合は、IT、プレゼンテーション、マネジメントですが、IT業界のことを知っているからこそ、IT×プレゼンなど掛け算ができるんですよね。 スタートはエンジニアでしたが、一流のITエンジニアとして道を極めるのではなくIT業界のその時々の最新テクノロジーのキーワードに乗っかる形でキャリアを歩んできました。 コンビニのお礼から!小さなことでも”ギブ”せよ ーキャリアを築く上でも、圓窓など新しく何かを立ち上げる場面でも、周りの人を巻き込む必要があると思うのですが、周りに人が集まる方の特徴は何かありますか? 人に何か貢献していることですね。ホリエモン(堀江貴文)さんがいい例で、彼って人にギブすることへのハードルが低く、抽象的な物事を具体化するのが上手いから、周りに人が集まるんですよね。 『GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代』で述べられているのですが、世の中には、ギバー(人に惜しみなく与える人)が15%、テイカー(真っ先に自分の利益を優先させる人)が15%・マッチャー(損得のバランスを考える人)が70%いると言われています。この中で成功者になり得るのは、ギバーなんですね。 ー成功するギバーと失敗するギバーの違いは何でしょうか? 自己犠牲があるかないかですね。自分を大切にせずに生きる人は、搾取される側になってしまいます。”ギブ”と言うと大げさに聞こえがちですが、「これ美味いんだけど、お前も食う?」って、自分が食べておいしいものを相手にシェアする感覚ですね。 プレゼンって「プレゼント」と同じ語源であるように、聞き手への贈り物なんです。GiveFirstで、まずは見返りを求めず何かを与えることがギバーになり成功するための近道です。 ーギブできる人の特徴はありますか? 小さくてもいいので、具体的なアクションがあるかどうかですね。皆さんは、いつもコンビニのレジで笑顔でお礼を言ってますか?もしくは、電車に乗った時に困っている人がいるかどうか見渡していますか? 僕は店員さんに笑顔で返すことと電車で困っている人がいたら助けることを習慣にしています。電車の降りるベビーカーの方がいたら、先に降りて手伝うんです。それを習慣にしていると、本当に何かにチャレンジしようと思って一歩目を踏み出すとき、躊躇がなくなります。誰かのために貢献することに常に心掛けていますね。 コンビニのお礼も、電車での気遣いも、ぜひ今日から実践してみてください。 ー澤さんのそのような習慣は、何かきっかけがあって始めたのでしょうか? はっきりとは覚えていないですね(笑)。おそらく、ベビーカーの電車の乗り降りを助けてたり、盲人の方をエスコートしたりしてすごく喜んでもらったことが、だんだんに積み重なったんだと思います。僕ってエポックメイキングな1つの大きい原体験がある訳ではなく、膨大な失敗と小さな成功体験の積み重ねが時間をかけて成り立っている人間なんです。小さな積み重ねで今の自分がありますね。 ー仕事でギバーになるためにできることは何かありますか? 「何か手伝おうか?」って聞くことですね。英語だとHow can I help you?ですが、まさにギバーの言葉です。強制的な意味合いが含まれる助け合い精神とは少し異なります。小さくてもいいので、相手に”与える”ことから始めてみてください。 失敗の話に付随しますが、仕事で失敗したとき「何でできないんだ」とWhyを尋ねるマネージャーがいますが、心理的安全性をなくすのであまりよくありません。それよりも、「何が原因だった?」「何が邪魔だった?」「なんか手伝えることある?」ってWhatで聞く方が重要です。 日本ってマネジメント後進国だと僕は思っています。マネジャーのことを管理職と日本では呼びますが、「管理」は英語では「アドミニストレーション」「オペレーション」の方がしっくりきます。つまり、個別のタスクを指してるんですよね。マネジメントの奥深さを表現する日本語の対訳がないと僕は感じています。 1つでもうまく行かないと全部失敗と捉えてしまう減点主義の思考から解放されて、打率3割くらいを狙えば十分です。のちに大きなリターンとして自分に返ってくるので、ぜひ小さな”ギブ”から始めてみてください。 澤さんのキャリアについての話をもっと知りたい方はこちら!著書『あたりまえを疑え。 自己実現できる働き方のヒント』 (取材:西村創一朗、写真・デザイン:矢野拓実、文:鳥井美沙)

人生で初めて、没頭できた。女子大生がスポンサーを獲得し、ドローンレーサーとして成長するまで

誰かに否定的なことを言われても、「一番のファンになってもらおう!」という姿勢で挑み、楽しんでます。 熱を持った眼差しで、現役の大学生でありながら、プロのドローンレーサーとして活躍中の中川絵梨さんはそう答えました。 まだまだマイナースポーツである「ドローンレース」を極めたいと宣言した時。周りからは応援を受けた一方で、親御さんからは猛反対を受け、心配されたと言います。 そんな彼女が、どのようにして多くの応援を募り、複数のスポンサーを獲得し、女性初となる国内リーグプロクラス昇格まで成長できたのか。そこには彼女なりの葛藤と努力が隠れていました。   熱中するものがなかった小中高時代 ー最初に、ドローンと出会う前の中川さんのことをお聞きしたいです。ご自身のnoteにも書かれてましたが、今のように没頭するものがなく、悩んでた時期もあったんですね。 中川絵梨(以下、中川):そうですね。ドローンに出会うまでは、熱中できたと胸を張って言えるものは何もありませんでした。 小中高時代は、周りの同級生がなにかに熱中している姿が眩しくみえて。自分だけ取り残されているような感覚に焦っていました。自分は、好きなことも夢中になれることもなくて。淡泊で情けないなって。 ーなるほど。部活など何か挑戦していたことはありましたか? 中川:友だちに誘われ中学の頃はダンス部に、高校は親の勧めで馬術部に一時所属していました。高校卒業前には、フランスの小さな村に1年間ホームステイで滞在したりも。 実は幼少期にフランスに9年間滞在していたのですが、その頃はとんでもない引っ込み思案で。更に、語学が身についてきたかな?という頃に日本に帰国してしまったんです。内気な性格のせいで語学スキルが中途半端になったのが悔しくて、明るくたくさん話す性格に無理やりシフトしてリベンジに行かせてもらったんです。 ただ、「好き」という感覚や「悔しくて頑張る」気持ちはあっても、熱中とは程遠くて。 辛いことや、怒られたり、不安なことがあると「あぁ、、辞めたいな」「自分で決めたのになんでこんなことしてるんだっけな」と思ってしまいましたね。で、辞めたいと感じるということは、「あれ、これ別に好きじゃないんだな」と思ってしまったんです。   大学でドローンに出会い、「空を飛ぶ」感覚に心奪われる ー今まで没頭できなかった中川さんは、ドローンに出会って変わったわけですよね。ドローンはどこで出会ったのですか? 中川:私は慶應義塾大学のSFCに通っているのですが、そこのドローンサークルで体験会がありました。そのとき、自由に空を飛ぶドローンをみて、雷に打たれたように一目惚れしてしまって。 ー数多いサークルの中でも、何故ドローンサークルに惹きつけられたのですか? 中川:魅力的だったのは、本当に楽しそうに教えながらドローンを飛ばしていた先輩たちの姿でした。楽しく取り組んでいる姿が魅力的に映ったんです。 そんな先輩方に教えてもらいながら、初めて空を自由に飛んだ。 湧き上がる感情がなんなのかもわからず「これだ!」って直感で思いました。ふり返ると、人生初の一目惚れで、そのときからずっと一直線で没頭モードに入っています。 ー本当に好きなんだなって伝わってきていますよ。ドローンのどんなところが魅力でしたか? 中川:ドローンをやっている人の多くが、「鳥になったような感覚が好き」とよく表現します。まさにその通りだと思っていて。自由に空を飛んで、新しい視点で景色が見える。普段の生活では体験できない楽しさに、手軽に触れられる。世界が広がって見えました。 その後さらにドローンの世界を知るためにドローンの研究室に入り、ドローンレースを始めました。レースとなると、さらにスポーツとしても空の旅を楽しめるんですよ。 ドローンレースは最高速だと時速180kmくらい出せるようなパワフルな機体を自作し、ゴーグルを装着してカメラの映像を見ながら操縦します。 https://twitter.com/eringorirappant/status/1197022508299374592?s=20 これが思った以上に没入感あって。動体視力も、反射神経も、練習を重ねることでどんどん磨かれていく感覚です。成長を感じられる、見る人にも感動を与えることができる。スポーツとして楽しめる要素は充分にあります。   ドローンの活動を広げるために、休学を決意 ー中川さんは、今年に9ヶ月間休学をしていますよね。きっかけはあるんですか? 中川:シンプルに、ドローンの活動の幅を広げ、まず国内の女性1位になりたい、そして世界進出にチャレンジしたいと考えて決断しました。 休学が始まってまずしたのは自分のチームを作ること。せっかくやるなら仲間と切磋琢磨し、スポンサードをつけて一丸となり大きく成長していく、ということを経験をしてみたく。なんだか面白そうじゃないですか! タイミングとしては、時間のゆとりがありつつ、休学という選択肢が前向きに受け入れられる学生期間のうちにした方がいいなって。周りの友達にも何人か休学している人はいたので、特に迷いはありませんでした。 ー思い切りましたね。仲間集めやチーム作りってどのように進めていましたか? 中川:自分はフィーリングがあう人とやりたいなと。他のレーシングチームは、能力や年齢、住んでいる地域などを軸とするチーム構成が多いですが、私のチームの場合は「頭にお花が咲いているかどうか」(笑)。 決して悪い意味ではなく、「一緒にいるだけで安心したり、楽しい気分になれる人」「この人となら辛いことがあっても、柔らかい気持ちを思い出して頑張れそう」など。チーム内の共通認識として、今でも大事にしている軸なんです。 RABBITS-FPV(中川さんが代表を務めるドローンレースチーム)への入会における、唯一の条件になっています。 ーなるほど。スポンサーの方はどんなところを見て、RABBITS-FPVを支援しているのですか? 中川:チームの立ち上げ当初は、実績もお金もなかったんです。そんな私がしたことはまず、今までにドローンイベントの共同運営や場所貸しをしてくださった方々、趣味のドローン撮影でお世話になっていた方々などに、チームを立ち上げたことをお伝えしました。 するとありがたいことに、チームの「パートナー様」としてこれからも関係性を深めていくことを受け入れてくださり。その後もイベントのコラボ運営を増やしたり、レースに必要な物品支援を頂いたりしました。 最も特殊だったのは、今年メインスポンサーになってくださったSkyDRONEショップの大岩社長でした。「自分がドローンレースを楽しむ時間を取れない代わりに、頑張ってる若い人を応援して活躍する夢を叶えたい」と。当初お会いたことがない中でのお願いにも関わらず、紹介を経て前向きにスポンサーシップの相談に乗っていただけました。全力で一緒に走りながら背中も強く押してくださっていて。感謝で溢れています。 そうしてたくさんの応援があり、レースでは一年足らずで全国リーグでプロクラス入り(国内の女性レーサー初)や、全国選手権で予選突破ができるほど成長できました。少しずつですが、ドローンレース界の外からも評価や応援をいただけるようになり、来年度からは金銭面の支援をいただけるスポンサー様が2社、新たにチームに付いていただけるようになりました! 来年は、海外の大会にたくさん出て学ぶ経験に集中、挑戦したいんです。交通費も今年の国内大会への出場に比べると倍以上かかってきます。 そして、自分だけでなく、遠方のレースに出れなかったチームメンバーのチャンスも、来年は広げたい。1年間チームを、リーダーである私を愛してくれたメンバーなんです。ここまで成長や挑戦をさせてくれたお礼がしたい。 機体パーツも世界のレーサーが使う機体に勝てる強さのあるものにどんどん更新して、メンバー全員で大きく成長していきたいのです。 交通費と機体パーツ費、活動費は、来年の年間を通じてしっかり全員に全額支援していきます。   スポンサーを獲得するまでの地道な努力 ードローンのスポンサーっていまいち想像ができず。サッカーだと所属契約やユニフォームなどがありますが、ドローンレースはどこがポイントとなってスポンサーがつくのですか? 中川:そこは日々頭を悩ませながら考えています。ドローンレースはまだまだマイナースポーツですから、自分たちがレースに出て活動するだけでは、もちろんスポンサー様の大きなリターンに直接繋がりにくいのが現状です。 ーなるほど、繋がりにくいんですね。 中川:なので、時間がかかってでもいただいた応援支援以上のものを返していくには、どうしたらいいか。自分たちになにがしたくてなにができるか、なにをミッションとしていきたい3人なのか。持てる疑問は日々、すぐに議題に出し、スポンサー様にも隠さず伝え、質問を投げかけています。なんでも「コミュニケーション不足」が失敗の原因だそうです。なので、深いコミュニケーションさえあれば、小さくでも成長し、いつかなにかの喜びに繋がると思っています。 目指すのは、会社のロゴマークを入れるだけの単純な広報リターンではなく、共に新たな価値をつくっていけるような「共創型のスポンサーシップ関係」です。   フリーランスではなく、あえて就活を選ぶ理由 ーフリーランスではなく就職を視野に入れている理由は何ですか? 中川:前から、会社員になると時間の制限は学生に比べて大きく、今のように自由な活動ができなくなるのではないかと懸念していました。そして、今年の夏頃にドローンを始めたい子どもたちの力になりたいと、大学のOBと一緒に教育系の会社を作り、いつかドローンレーススクールを運営したいという思いで動いていました。 ただ、自分の練習やレース出場の時間と、急速に成長させていきたい事業の時間。そのバランスが難しくなってしまいました。「好きを仕事にする」が、重なっているようで重なっていなかった。様々な方にお話やアドバイスをいただき、一旦ストップしました。 その後、就活相談を始めた頃にとある大企業の方との出会いがあり、「全国大会のような大きな大会イベントを運営する下積みを経験をすることで、今後のスポンサーリターンに活きるのではないか」という考えに、お話しているうちにたどり着きました。 もしかしたら、ドローンレーサーとして魅力を感じていただけた会社があれば、今のスポンサーシップ関係をそのまま仕事にできるかもしれない。また、大きな大会イベント運営をしている会社で働くことができれば、更に大きなドローンイベントが運営できるようになるスキルアップにも繋がるなと。 なので、共創型スポンサーシップの関係を分解し、そのまま就活で提案しています。実際、私も話しながらすごく震えるし勇気のいることですが(笑) でももしこれが叶えば、マイナースポーツを生活のメインに続けていきたい人が、夢や環境を諦めず、新しい就職活動のスタイルや仕事のスタイルを見つけるための、一例が生まれるのではないかと考えています。 諦める人をなくそう、これはチームのミッションでもあります。   アンチとファンは紙一重。マイナスなことを言われてもめげない ー中川さんの挑戦って、世間一般的には稀じゃないですか。前例もない。親御さんからの心配や反対はありませんでしたか? 中川:もちろん、最初はたくさん言い合いがありました。休学も猛反対されていましたし。それでもこの強い思いは止められないよなと思って、レーサー仲間に相談して泣いちゃったりしながらも、親を納得させられるまでのアドバイスと励ましを貰いました。 結果勢いではなく、具体的に「なにを目標としているのか。レースに出たりドローンを極めることで、どんなスキルが身につくのか。どう将来に役立てるのか」を伝えたら、ある日納得してくれて。今では一番の応援者です。 ーすごい。何かを挑戦する時、不安があるなかで一歩を踏み出すことって難しいじゃないですか。どうやってその一歩を踏み出していますか? 中川:ドローンレースのことを、または私の挑戦を口にした時に、マイナスなことを言われても、「おっ!?きたな〜!!なんなら味方につけて一番のファンになってもらうからな〜」という姿勢でやってます。 そんな姿勢で物事を進めていくと、意外とうまくいきます。逆にその姿勢を取れず、へこんでしまうこともあるのですが、そういう場合は本当にやりたいこととは違うことをしてしまっているのかもしれないと思うようにしています。 ーかっこいいですね。今までアンチをファンにさせた原体験ってありましたか? 中川:アンチと言うか、人の悪口はあまり言いたくないのですが、一番身近だと両親ですね。きついなと思う「縁を切ろうと思った」という言葉や、失敗したな、と思ったときの「だからこうしろといっただろう」は、愛して心配してくれていたがゆえに出てきた、とっさの言葉だったんだろうなと今では思います。 自分のやりたいことを伝えて、挑戦するってドローンレースが初めてだったのですが、こんなにやりたいことがたくさんがあるのに、言いなりになっているだけじゃダメだなって。 諦めたくないならやりたいことをはっきり伝え、行動に示す。両親との一時的な葛藤から1年が経過しましたが、心の底から成長に喜び、応援してくれています。   今後挑戦していきたいこと ーでは最後に、今後やっていきたいことを教えてください。 中川:チームで大きなミッションがあります。「ドローンレースを諦める人を無くすこと」です。私自身たくさんの方に応援支援をしていただいていたおかげで、心躍る方に向かっていくという選択肢を、あのとき選んでよかったと思えています。 新しいことに挑戦してみたい、あこがれを叶えたい。ステップを踏みながら、応援をもらいながら。誰もが葛藤の中、自分で環境を作り、成長を楽しんでいける可能性が、この国に世代にはあるということをロールモデルとなって伝えたい。例えば「頑張ってるけどお金ないから諦めようと思うんですよ」ってしょんぼりする学生仲間をみると、えっ待って諦めないで一緒に考えよ〜!?ってなっちゃいます(笑) スポンサーシップ関係や、現に数多くの社会人レーサーの方々がそうであるように、お仕事と並行しながらでももちろんやっていくことも可能です。他にも人それぞれに色々な選択肢が作れると思います。 私はいちドローンレーサーとして、「好きな人達と一緒に、深く繋がった応援者と一緒に、心躍ることに挑戦してみんなで成長する」ということの面白さを、今度こそ自分に諦めず、伝えていきたいです。   取材・編集:西村創一朗 執筆:ヌイ

弁護士として異例の「三足のわらじ」という働き方。数々の意思決定と今までの挑戦

弁護士として、スマートニュース株式会社、法律事務所ZeLo、NPO法人Mielka代表を務める徐東輝さん。 一般的な弁護士の働き方を超え、熱いビジョナリー精神で「幸福な情報空間」を目指しています。 「三足のわらじ」を履く彼は、スマートニュースに入社するまで、様々な意思決定をしてきました。 弁護士を目指したきっかけから、弁護士として描く今後のビジョンまでお伺いしてきました。 弁護士を目指したきっかけは、ある弁護士の言葉にあった ー弁護士を目指したきっかけを聞こうかなと。いつ頃からなろうと決心したんですか? 徐東輝(以下、徐):「将来は弁護士になろう」と思い始めたのは、小学校高学年くらいでした。 実は、僕の両親は韓国籍です。両親の世代って、日韓問題の問題意識がすごい強い世代でした。 傍から見ていると、日本人は韓国人のことを嫌っているし、韓国人は日本人のこと嫌っていて。「何で、どっちの属性も持つ僕がこんな風に生きていかなきゃいけないんだ」とずっと思っていました。自分のアイデンティティがすごく嫌いだったんです。 ーなるほど。辛かったですね。 徐:両親によく、戦後賠償問題に関するシンポジウムなどにも連れられて。「韓国人が傷の舐め合いをしているような場所だな」と思っていたら、そこら中に日本人も居たんです。しかも、弁護団も日本人なんですよ 日本人弁護団が韓国人のために動いているというのを知って、僕は意地悪に、「日本人は韓国人のこと嫌いなのに、何で助けようとするの?」と代表弁護士の人に聞いたんです。 そうしたら、「国籍関係なく自分が正しいと思ったことができるのが弁護士っていう仕事だよ」って言われて。めちゃくちゃ刺さったんです。 ーなにそれ、しびれる。そこからずっと弁護士の夢は、変わらなかったんですか? 徐:ぼんやりと弁護士という進路を視野に入れていました。法学部を志望した理由も、ぼんやりと「弁護士になるなら法学部だろうな」ぐらいの感覚でした。 そして高3の1年間、むちゃくちゃ受験勉強頑張って、京都大学法学部に入学しました。   大学時代は、とにかく自分ができることに全力を尽くした ーすごい。努力も実って現役で京大法学部へ。どんな学生時代を過ごしましたか? 徐:大学1年は、ザ・キャンパスライフでした。バイト三昧で授業はサボってばかりで。多分3回くらいしか授業を受けていなかったと思います。 そしてぼんやりと、留学に行きたいと思い、バイトで頑張ってお金を貯めて、ニュージーランドとカナダに、休学して1年間留学をしてきました。そこで、「僕はなにも世界を知らないんだ、空白なんだ」って思い知って。 その後は視野を広げるために、世界銀行のインターンに参加して「貧困」について考えたり、TEDにも関わったり。自分でやれることは、すべてやってきたって感じです。 ーかなりアグレッシブだったんだね。ivote関西(現:NPO法人Mielka)の活動は何がきっかけではじめたんですか? 徐:各国を周って日本に戻ってきてから、「日本の民主主義にコミットしたい」と思い始めました。数々の国を周って気づいたことは、政治に関心を持っている若者が多いのに、日本ではまだまだ意識が低いなって。そこから、今のMielkaへの活動に繋がりましたね。 日本の民主主義の課題は、大学院入った当初、政治参加の回路の少なさだと思いました。アクセスやアプローチ方法。それと意識ですね。投票意識が著しく低いので、選挙に同世代が全く行かない。 僕は在日だったので、投票権がないので、行きたくてもいけませんでした。 ーなるほど。 徐:当時、同世代に「どうして投票行かないんだろう?」と、すごい切ない思いをしました。この国やこの町の未来に意思決定ができるって素晴らしさを伝えたく、Mielkaの事業に携わっていましたね。 ですが、その後その問題意識は大きく変わることになります。2016年頃から、フェイクニュースやフィルターバブル、個人データの悪用などが民主主義の大きな脅威として認識され始め、僕自身も2016年大統領選挙のリサーチャーとして現地にいた際にその問題意識を強く持ちました。 それ以降は、とにかく「民主主義にとって最大の強みである自由な情報空間への介入によって、民主主義は最も脆弱なシステムに成り代わっている」と考え、良質な政治情報空間の設計を第一の課題として個人の思想も大きく変わっていきました。   ロースクール後はZeLoへ。就活時に大切にしていた3つの基準 ーロースクールを卒業後、ローファームに行きましたよね。ビックな企業などいろんな選択肢があった中で、ZeLoを選んだ理由は何でしたか? 徐:当時、企業選びの基準を自分の中で明確に決めていました。その中でも主に3つがピタッと当てはまったんです。 一つは「創業者がリスペクトフルなビジョナリーな人」。そもそもローファームでビジョナリーって、求められないんです。ただZeLoは変わっていて、印象的でした。そして二つ目は、「テクノロジーオリエンテッドなローファーム」でした。 そして最後は、「僕を暴れさせてくれる場所かどうか」です。 ーいきなり、面白い言葉がでてきましたね。カルチャーが合うかどうかでしょうか? 徐:そうですね… 。僕の体質的に、大手は合わないと思っていたんです。大きく裁量を認めてくれ、自由に案件に取り組むことができ、さらには組織設計にまで従事できるかなどが具体的な基準だったのですが、今までの条件が合う環境が、なかなか見つからなくて。そこで大手から独立して、しかもリーガルテックを推進する会社まで設立するというZeLoの話を聞いてみたら、「めちゃめちゃ面白いじゃん」ってなって。 駆け出しの事務所なので、当時まだメンバーは3人ほどしかいませんでしたが、創業2年半で20人を超える事務所に成長しています。 ー暴れ放題ってわけですね(笑) 徐:しかも、めちゃくちゃビジョナリーでしたし、独立する上司たちも圧倒的に優秀に感じたので、もうここしかないなと思って。就活を辞めて、ZeLoを選びました。   鈴木健との出会いとスマートニュース入社理由 ーZeLoにはどれくらいいたんですか? 徐:1年9ヶ月です。今も所属はしていて、プロジェクト単位で関わっています。 ーそこから、直近の意思決定に繋がると思うのですが、スマートニュースに入った経緯をお聞きしたく。鈴木健さんとの出会いが大きかったんですよね? 徐:そうですね。「スマートニュースの鈴木健」は、一方的に存じ上げていました。著書『なめらかな社会とその敵』を学生時代に読んで、「こんな風に社会を捉えられる人間がいるのか」と嫉妬していたので。実際に健さんと知り合ったのは、2016年の大統領選挙の時でしたね。 突然、Facebookから友達でもないのに、メッセージが届いたんです。「スマートニュースの鈴木健と申します。お会いできませんか」と。 ー唐突ですね。 徐:「え、あの?」ってフリーズしました(笑)で、実際にお会いしたんです。最初はスマートニュースの話はそんなになく、どちらかと言えば根底にある「なめらかな社会」をどう創るかをお互いで話し、意気投合しました。その後は弁護士になった時に、ランチに誘ってくださったり。 弁護士になった後も、ちょくちょく会って。健さんと会い話していくにつれ、一緒に働きたい想い、ここでなら自分が創りたい未来が創れるのではないかという想いが強まり、面談を受けることにしました。 ー実際に面談を受けてみてどうでしたか? 徐:先ほど、就活の3つの基準をお伝えしましたが、スマートニュースにも当てはまっていて。特に、ビジョナリーでリスペクトフルな人たちが、僕の中で圧倒的で。テックオリエンテッドも完璧だし、裁量権も持たせてくれる。行くしかないなって。 行くなら、顧問ではなく、フルコミットで入りたいというのもお伝えしました。 ー元々関係性もあったし、自分の基準が重なったんですね。 徐:そうですね。「何をするか」も大切ですが、僕にとっては「誰とやるか」が重要でした。他にも、上司で尊敬できる方が元々何人かいて、「この人達と世界を良くしていけるんだったら、行くしかないだろう」という想いです。   今後の目標は、幸福な情報空間を創っていくこと ーでは最後に、今後チャレンジしたいことを教えてください。 徐:個人としては繰り返しになるのですが、脆弱になっている情報空間を適正なものにしていき、皆さんの幸福な情報空間を創っていきたいです。 しんどくなくて、鬱陶しくもない。でも、みんなに必要な情報が届く世界が理想ですね。身体的、精神的、社会的に良好な「ウェルビーイング」な状態の情報空間を創りたいです。 ーウェルビーイング、すてきですね。 徐:情報の格差や非対称性の不幸せを無くしていきたいし、お互いにとって素晴らしい世界ってもっと創れると思っています。スマートニュースが僕のやっていきたいことを現にやっているので、メンバーの一員として「幸福な情報空間」を一緒に創っていきたいと思います。   取材・編集:西村創一朗 執筆:ヌイ 撮影・デザイン:矢野拓実

26歳でガイアックス 最年少事業部長。次はオランダへ。独自のキャリアをいく軸と視点とは。

今回お話を伺うのは、株式会社ガイアックスの管 大輔さん。26歳という若さで最年少事業部長になり、現在は世界の中でももっとも環境意識が進んでいる国の1つであるオランダでリモートワークスタイルで業務にあたっています。 一見すると、順調に思い通りのキャリアを積み重ねているように見える管さん。しかし、学生時代は優秀な同級生に劣等感を抱いていた、何者でもない1人の学生だったといいます。 そのような学生時代から26歳の若さで事業部長というポジションを獲得するまで、どのように何を考え、どのように過ごしていたのか。 過去から遡ってお話を伺っていくと、冷静に人と自分を比べながら着実にキャリアアップしていった管さんの姿と独自の仕事術 が浮かび上がってきました。   会社名に依存せず、情熱を持って働くベンチャーに惹かれた ー最年少事業部長。リモートワーク。管さんを語る上で多くのキーワードがあるかと思うんですが、まずはどのような学生だったのかが気になるところ。ご自身の就活中は、どのようなキャリアプランを描いていましたか? 管大輔(以下、管):最初は、商社や金融を見ていましたね。就活生の多くは「大手企業orベンチャー企業」という二択で考える人が多いと思うんですが、当時の僕もそうで。商社や金融、そして、大手企業への就職を考えていました。 加えて、学生時代は「会社の名前に頼らず、自分の名前で仕事が取れるようになりたい」「自分の名前を世間に知らせるためには、まずは社内で目立たないといけない」と考えていました。 ー「個の成長」を意識されていたということですね。でも、現在のイメージからはベンチャー志向が強い方だと感じていたので、大手企業への就職を目指していたというのは意外です。最終的には、ベンチャー企業に入社していますよね? 管:そうですね。ベンチャー企業を意識するようになったのは、僕が立命館大学から早稲田大学に編入したことがきっかけでした。 早稲田大学に通い始めると周りには優秀な同期がたくさんいて、みんな大手企業を志望し、その後実際に大手へ進む人も多かったんです。 「大企業には、こんな(優秀な)人たちがゴロゴロいるのか」 そう思うと、全く勝つ自信が湧かなかった…。 ーそこから、ベンチャー企業も意識されるようになったんですね。 管:はい。はじめはそのようなきっかけでベンチャーに興味を持ちました。ただ、実際に話を聞いてみないとわからないことも多いと思い、約60名の方にOB訪問したんです。大企業ベンチャー問わず、若手の社会人の方に直接お話を伺ったのですが、そこで確信しました。自分はベンチャー企業が合っている、と。キャリアの考え方や今取り組んでいる仕事の魅力など、語っていただいた内容もそうですが、何よりもその語り口調が素敵で。自分もこんな20代を過ごしたいなと強く思いました。 そのような姿を見て、「結局、働きがいは会社名、会社規模から作られるものではないんだな」と思い、ベンチャーへの就職を目指すようになりました。   優秀な人と働ける環境ではなく、自分が挑戦・成長できる環境へ ーその後、管さんがガイアックスに入社された経緯もお聞きしたいですね。当時は、他の企業にも内定を貰っていましたか? 管:はい、いただきました。もう1つ、同じくベンチャー企業から内定をいただいていました。 ーガイアックスへの入社を決めた理由は何でしたか? 管:事業部の数や部署あたりの社員数等を比較した際、ガイアックスの方が自分が関わることができるフィールドが広く、チャンスが多くありそうだと感じたところですね。ガイアックスの方が事業部の数が多く、部署あたりの人数も少なかったと思います。 加えて、一見するともう1社の方がすでに優秀な方が集まっていて、「これは勝てないな…」と感じたこともガイアックスを選んだ理由の1つです。 ー管さんは「優秀なこの人と一緒に働きたい!」と思うのではなく、「勝てないな」って見方だったんですね。優秀な人をみると、憧れたり教わりたいと思ったりする就活生が多いと思いますが。 管:先ほども触れましたが、就活をしていた時に僕が大切にしていたことは、「会社の名前に頼らず、自分の名前で仕事が取れるようになること」。なので、「いかに社外で認知されるか」がとても重要でした。 そのためには、まずは社内で1番になる必要がある。そう考えると、僕にとってチャンスがある環境かどうかが重要だったんです。社外でのチャレンジで失敗するならまだしも、社内競争に敗れてチャンスすら得られない、みたいな状態は避けたかった。 ー実際に入社してみて、どうでしたか?考えていたこととギャップはありましたか? 管:実際には、イメージしていた環境とズレはありませんでした。 というのも、当時、僕はソーシャルメディア事業部に配属されたんですが、2013年のソーシャルメディアって、まだ市場ができて2〜3年ほど。Facebookブームが始まったのが、2010〜11年頃だったので。 ー確かに、そういう時期でしたね。まだ市場としては、これからというところ。 管:はい。その上、ソーシャルメディアは若者向けのものが多く、僕らのような若者にこそチャンスがあると思いましたね。配属後は、事業部の人数が少なく、最初から最前線で働くことができました。   周りが避ける仕事×自分がやりたい仕事のセット販売 ーチャンスが多いとはいえ、すぐにやりたい仕事をできるわけではなかったと思います。新人時代は、どんなことを意識して仕事をしていたんですか? 管:いくつかあるのですが、「周りが嫌がる仕事と自分のやりたいことの提案」を一緒にしていましたね。 例えば、テレアポや資料作成など、周りを見渡していると、上司や先輩があまりやりたがらい仕事ってあるんですよね。そういった仕事はまだスキルがない新人の仕事になるわけですが、僕は積極的に周りがやりたがらない仕事をしていました。とはいえ、ただ言われた通りにやるのではなく、同時に自分のやりたいことを一緒にセット販売していくんです。 ーセット販売、ですか。 管:新人の頃って、「やりたいことはあるけどやらせてもらえない」という悩みってあるじゃないですか。そういう時、やりたいことがあるなら、周りがやってほしいことを積極的にやりながら、さりげなく提案していくことが大切です。 こうした考えにいたった背景としては、結果を出すまでには2つのステップがあると思っているんです。 ー具体的に、その2つのステップとはどんなものですか? 管:まず、結果を出すためにはチャンスが必要じゃないですか。野球であれば、打席に立たないと結果は出せないですよね。さらに、そのチャンスを得るためには、信頼が必要だと思っています。この「信頼」と「チャンス」の2ステップがあって、初めて結果が生み出せる。 そこで僕が最初に考えたのは、「いかに信頼されるか」です。「あいつにチャンスを渡したい!」と思ってもらえるように、様々なことを考えていました。 やりたくなさそうな仕事や後回しにされそうな仕事を観察して率先して巻きとったり、上司の癖を把握してコミュニケーションを工夫したりして…。 ーすごく貪欲な姿勢ですね。観察をしていると、どのようなことに気づくんですか? 管:例えば、当時の上司はアポイント先の地図を毎回コピーする癖がありました(笑)そこで、僕は毎週日曜に翌週のアポ先の地図を全部コピーして、月曜の朝に机に置いていました。他にも、福岡出張に行く人を見つけたら、僕が福岡出身であることを活かして、現地の会食用のレストランとおひとり様におすすめなレストランをエクセルでまとめて送ったり。先輩におすすめの本を紹介されたら、必ず一週間以内に感想文を送るなんてこともしていましたね。 ーす、すごい。 管:こんなことを地道にやっていくと、社内で新人の話になった時に「管」の名前が出てきやすくなるんですよね。「この前、管がさ、こんなエクセル送ってきて。おもしろい新人だよね」や「この前、本を勧めたらA4・2枚で感想送ってきたよ」といった感じで。 こうしてコツコツと信頼残高を積み重ねていき、結果を出す上で必要な機会を手にする。新人時代はそんなことを意識しながら、仕事に取り組んでいましたね。   26歳、最年少部長の悩み。未熟さが招いた、同僚の退職。 ーそういった新人時代を経て、管さんは入社3年目の26歳で最年少部長に。ロールモデルがいないなか、管理職として働くことはけっこう大変だったんじゃないですか? 管:大変でしたね。本当、未だに失敗していますよ。いま振り返ってみると、基本すべての要因は一緒で、結局「人間としての未熟さ」なんですよね。 そういったことが原因で、一緒に働いていた人がやめてしまったり。 ー人が辞めてしまうことってショックが大きいと思うんですが、そのような経験からどのようにしてマネージャーとしての成長を遂げてこられたんですか? 管:マネージャー職になってみて、新人時代で話したような「テクニック」では解決できないものもあると感じ、コーチングを学ぶようになりました。 コーチングの基礎である「傾聴」は、テクニックだけではできないんですよ。傾聴するには、目の前の人と真摯に向き合わなければいけないし、そもそも相手を信じられなければ成り立たない。このことに気づいたのは、僕自身がコーチングを受けたことがきっかけでした。 ーどのような気づきがあったんですか? 管:僕がコーチングを受けていてふと思ったのは、昔からの知り合いでもないコーチにすぐに心を開いて、たくさん自分の話をしていたんです。それって、(コーチが)自分のことを信じてくれていると分かっているからなんですよね。 その後、冷静に振り返ってみると、過去の僕は部下の成長機会を奪っていたことに気づきました。何かミスをすると「何でミスしたと思う?」って僕から聞くんですが、沈黙を待てず、最後まで相手の話を聞かずに僕から原因を言ってしまうこともありましたし。 コーチングを受けていた僕の気持ちを思い返すと、「メンバーはこうして話して欲しかったのかな?」って気づいて。 今ではきちんと相手の話を聞こうと意識しているんですが、その原点とも言える大きな変化だったなと思っています。   オランダでリモートワークに挑戦する2つの理由 ー最年少部長を経て、管さんがいま目指しているものは何ですか? 管:僕自身の経験を通して、会社員の働き方を変えることに貢献できるんじゃないかなと思っています。これは、オランダでリモートワークに取り組み始めた動機でもあります。 僕はこの3年で、色々な働き方にチャレンジしてきました。その結果、全然知らない方からメッセージをいただくことも増えてきました。「社内でリモートワークを提案して働きやすくなった」「部下の残業時間が減って満足度も向上した」と。 ーそれはうれしいですね。 管:サラリーマンは時間と場所の制限が強い働き方ですが、僕自身の働き方を通してこの時間と場所の制限を取り払い、「サラリーマンでもリモートワークでこんなに成果あげられるんだよ」って伝えたい。 ー管さんがファーストペンギンとなって、道を切り拓きたいわけですね。 管:そうです。一方で、他の理由もあります。最近、「オランダは世界最先端だな」とより強く感じています。 この前現地の研修に参加したんですが、彼らって自分ごとの範囲が「人」だけではなく「地球環境」にまで及ぶんですよ。ベジタリアンの高校生がいたのですが、その理由がダイエットや健康ではなく、「牛を食べると二酸化炭素を排出しちゃうから、嫌なんです」って(笑) レジ袋も全然ないですし、ストローはほぼ紙ストロー。「自分ごとってここまで広げられるんだ」って思いましたね。 ー視点がすごい。なかなか日本では触れない地球規模な視点ですね。 管:そういったことを目の当たりにし、「この最先端の、成熟した人たちが集まる環境にいたいな」って思ったこともまた、オランダを訪れた大きな理由でした。   30代は、サーキュラーエコノミーの世界へ ー最後に、管さんの30代で掲げる目標をお聞きしたいです。どんな30代でいたいか。具体的にイメージをされていますか? 管:オランダに来てから、徐々に新しい分野に興味が湧いてきまして。30代は「再生エネルギー」や「サーキュラーエコノミー」の世界に関わりたいなって考えています。 ーなぜ、環境に興味を持ったのですか? 管:元々教育に関心が強かったのですが、「たとえ教育がうまくいっても、安心して生活できる基盤がなければ意味がない」と感じたんです。自分たちの生活環境を持続可能な状態にすることに、少しずつ貢献していきたいという気持ちがあります。 ーなるほど。今後は、ガイアックスでそのような事業を立ち上げてやっていくのですか? 管:ガイアックスでやるか、複業の会社でやるか、転職するか、はまだ何も考えていません。ですが、ガイアックスの「ガイア」は「ガイア理論」が由来となっていて、このガイア理論から照らし合わせると方向性は重なっていると思うので、社内の新規事業として立ち上げるのも良いかもしれませんね。 とはいえ、思いが明確になっていけば自然と形は整っていくものだと思うので、あまり形にはこだわらず、まずは自分が貢献できそうな領域を探求していければと考えています。 編集部より:ちょうどタイムリーに管さんが複業で立ち上げられたオンラインコーチ養成スクール「ZaPass Coach Academy」の2期の募集が開始しています。編集長の西村も1期に参加しましたが、非常に満足度高く、コーチングを学びたい方にはオススメです。 詳しくはこちら 地球と生物が相互に関係し合い環境を作り上げていることを、ある種の「巨大な生命体」と見なす仮説。(ガイア理論 - Wikipedia) 取材:西村創一朗 執筆:ヌイ 編集:山崎貴大

「SNS×アート」で世界に挑む現代アーティスト・池田真優

  今回は現代アーティストとして活躍されている池田真優さんにお話をお伺いしました。池田さんはFacebookページに投稿した絵画「花」が100万いいねを突破し話題となったアーティスト。と同時に、日経新聞COMEMOにてアートのコラムを寄稿されており、13回も日経新聞電子版トップページに掲載されるキーオピニオンリーダー(KOL)です。 そんな池田さんの意外にもあまり語られていないアートとの出会いやアートとSNSとの関連性について語っていただきました。   人の感情を動かしたいという思いからアートの世界へ ―まずは池田さんとアートの関係について教えてください。そもそも昔からアートが好きだったんですか? 元々アートは好きでしたが、中学校の時は吹奏楽部で部活漬けの毎日でしたし、高校は勉強メインの生活。数学が得意だったので大学は中央大学の経済学部、とアートの世界からはどちらかというと遠かったですね。 でもこういった経験がむしろアートにつながったんだと思います。 中学では全国大会を目指すレベルの吹奏楽部に入っていたので上下関係も厳しく練習もハードでした。団体行動が求められた分、自由さがなくて、個性は求められていなかった。高校時代は京都大学を目指して予備校に通って受験勉強していたんですが、みんなが同じレールの乗っていることや競争社会で頑張ることに疑問を持つようになりました。 もっと個性を生かした生き方をしたい、他にもっと違う世界があるんじゃないかという思いがあったんです。大学に入って、いろんなサークルに所属して面白い人たちにで会っていく中でSNSでの発信活動を始めたのがアートにつながっています。 ―元々アートの世界にどっぷりではなかった中でアートのどこに魅力を感じられたんですか。 小学校のイベントでお化け屋敷をしたり、高校の文化祭で廊下装飾をやったりしたときに人がびっくりしたりする反応を見た時に楽しいなと思ったのが原点になっているかと思います。私、人の感情を動かすのが好きなんです。そしてアートだとそれができる。なので「上手な絵」じゃなくて「これ何?」って見た人がザワザワするような作品を作りたいと常に思っています。 人の意表を突くのが好きなんですね。私がSNSのアクティブユーザーなのもそこに繋がっているんだと思っています。SNSもアートと似ていて人の感情を動かしたり、人の感情に働きかけたりすることができるんですよね。 SNSとアートの共通項 ―池田さんといえば「SNS×アート」というイメージがあります。SNSとの出会いはどんな感じだったんですか? 最初は趣味ではじめたツイッターが、実は友達と繋がるだけではなく外部とも繋がれるツールだと気づき2016年からツイッターで匿名の美容アカウントをはじめました。ここで個性が武器になるんだということを知りました。これもアートに通じるところがありますね。 このアカウントが短期間で3000人フォローもいただいたので2017年からはInstagram、Facebookもはじめてみました。Instagramは文章ではなく写真の世界だと思ったので写真を加工したデジタルアート作品を載せていました。これが現代アーティストとしての活動の原点になっていると思います。   ―Facebookはどのような形で活用していたんですか? Facebookでは面識のない方にもメッセージ付きで友達リクエストを送らせていただいたりして、自分の出会ったことのない価値観を持った人と出会う場所として使っていました。   ―Facebookは特にリアルな友達と繋がる場という認識があるのでかなりレアな活用方法ですね。 そうですね。でもそれがきっかけでたくさんの出会いや気づきがありました。今やらせていただいている日経新聞のCOMEMOも実はFacebookで繋がった人が実はきっかけなんです。 それとは別に、2018 年からはフェイスブックページの運営もスタートさせました。花を中心とした作品を投稿していたんですが、フェイスブック広告をだして投稿に100万いいねをもらえるかというチャレンジをやってみたんです。これはInstagramで投稿したアートに対して海外の方からリアクションがあったのをみてFacebookならさらに多くの海外の人たちと繋がれるんではないかと思ったのがきっかけです。 実際このチャレンジを通して世界各国からコメントをもらうことができて多様性が見ることができたのが面白かったしアートの重要性も確認できました。   ―100万いいねはすごいですね。そのチャレンジの発想はどこから得たんですか? Facebookで繋がっていた起業家の方ですね。その方もフェイスブックページを運用されていたんですが、同じようなことをアートでやってみたらどうなるんだろう?って。 こうやって振り返るとSNSがきっかけで人脈も活動の幅も大きく広がりました。 自分らしい働き方と活動 ―池田さんは大学時代にSNSを活用した発信を行って今に至るとのことですが企業への就職などは考えなかったんですか? 万博の開催が決まってそれに関わりたいと思ったことや決まった所に長くいるということや、決められた時間に出社するといったことが自分に合わないなと思ったので就職は考えませんでした。 私はアーティストっていわゆる起業家だと思っています。どこかの会社に属するというよりかは、日本各地で個人として活動しながらいろんな企業さんのいろんな事業に関わらせていただく感じで忙しくさせていただいています。2019年3月に大学を卒業したのでまだ卒業して1年経っていませんが、いろんな人との出会いがあっていろんなプロジェクトに関わらせていただく働き方が自分らしいなと思っています。   ―そんな多忙スケジュールの中、意識していることはなんですか? 無理しすぎないことですかね。ついつい頑張りすぎたくなるし、ちょっとくらいは無理してでもやりたいと思ってしまう。これは学生の頃から変わりません。バランスが難しいので自分の中でもまだ試行錯誤しています。時間に余裕がなくなると厳しいのでスケジュールには余白を持たせて詰めすぎないようにはしています。 忙しくなりすぎて目の前のことしか見えなくなってしまうとアート活動も目先の利益ばかりになってしまうんです。それは良くないなって。アーティスト活動というのは本来10年とか50年単位で考えるべきだと私は思っています。だから先のことを考えられる余裕を持つためにもスケジュールに余裕を持つように意識しています。   ―先のことを考える機会ってあまりなくありませんか? そうですね。意識的に時間を作らないとなかなか考える機会を持てないですね。 なのでこの前「シンギュラリティ後のアート」というイベントを開催したんです。今の技術を踏まえつつ、2045年とかの未来がどうなっているのかを考えてみる、みたいな。未来について話すことができる人達、世の中を俯瞰できる人達が集まるコミュニティがあれば未来に向けて何か意味ある活動ができるのではないかと思いました。 それを経て、「シンギュラリティ後のアートのあり方」というフェイスブックページを作ったところ一週間で100人くらいの方が興味を持ってくださったんです。すごく先の未来について考えるイベントに対して100人も興味を持ってくれる人がいると知りこういったテーマに需要があることを知れました。今後定期的にこういったテーマでのイベントを企画したら面白いなと思っているので企画していく予定です。 ―他にも最近取り組まれていることはありますか。 最近はなんで心が揺らぐのか?などといったこと、心理学や脳科学とか、哲学とかに興味を持つようになりました。そこでこれまで学んでこなかった学問を勉強したいと思い、Nサロンという日経新聞のサロンにアート哲学部を立ち上げさせてもらったんです。簡単に言うとみんなでアート哲学の知見を深めていこうというコミュニティですね。 似たような形でNサロンで発信研究部というのもスタートさせました。どうすればSNSで人の心に影響を与えることができるのかといったことを研究する部活ですね。 あと個人的にやっていることとしてはnoteをこまめに更新しており、フォロワーがついに7000人を超えました。 ―noteではどんなことを発信されているのですか? いろいろ書いていますが、日本のアート市場、世界のアート市場の現状などやはりアートの話が中心です。 実は世界のアート市場は7兆円と言われている中、実は日本のアート市場は300億円にしか満たないんです。これってすごく少ないし残念だしもったいないなと思ってその現状について書いたりしています。日本のアート市場を広げて、アート市場の活性化を目指したいという思いの詰まったnoteもぜひ読んでみていただきたいです。 新しいアートの世界を作りたい ―果敢にチャレンジされ続けている印象を受けていますが、これからやりたいことはありますか? まずはやはり大阪万博をきっかけにアートでムーブメントを起こしたいです。 大阪には岡本太郎さんの作品、太陽の塔がありますがあれって世界での知名度が低いんですよね。でも岡本太郎さんみたいに哲学的な考え方にアーティストとして正面からぶつかっている人って実はあまりいないので、その魅力・すごさを世界に知ってほしいなと思います。そして日本の芸術も捨てたもんじゃないぞ!って伝えたいです。 また、岡本太郎さんの太陽の塔を超える創作をしたいと思っています。岡本太郎さんが不在の世の中で今こそ、岡本太郎さんの代わりになる人達の存在が必要じゃないかと思うんです。そのためのアイディアを今は色々インプットしているという状況ですね。   ―作品を作るだけではなく、発信して、さらに繋がりも増やすということを続けて、ムーブメントを作っていかれるんですね。 はい。日本人のアーティスト無しに世界のアートマーケットが成り立っている所が現状では正直あります。なので、日本のアーティストもいいんだぞ!という所をしっかりPRしていきたいし、他のアーティストにとっても意味のあるムーブメントを起こしていきたいと思っています。 最近は2020年とか2025年に向けて何かやりたいっていう人がたくさんいるので、そんな人たちとうまく繋がってコラボレーションしながら徐々に熱を高めていって日本のアート世界を盛り上げていきたいなと思っています。 <取材:西村創一朗、文:松本かれん、写真・デザイン:矢野拓実>

「monopoに出会ったから日本にいる」ー 若きクリエイターが語るmonopoというコミュニティと夢

monopoについて 東京を拠点のグローバルクリエーティブエージェンシーとして、国内外の様々なブランドにサービスを展開。"A BRAND OF COLLECTIVE CREATIVITY”をビジョンに掲げ、ブランディング・広告・PRを中心に様々な領域において、個人が持つアイデアや創造性を共に発揮できるようなコミュニティ作りを目指している。 2019年、ロンドンに子会社monopo London.Ltdを設立。自社プロジェクト『poweredby.tokyo』では、東京の知られざる魅力を世界に発信中。 Clara Blanc -プロジェクトマネージャー 1994年、フランス生まれ。 大学在学中より、モデル・フォトグラファーとして活動しながら、ラグジュアリーブランドにて広告・ブランディングのプロジェクトマネージメントに従事。自身が運営するブログ「Parisienne in Tokyo」を通して、フランス人目線で日本カルチャーを発信している。2019年、monopoに入社。ファッション・ライフスタイルブランドのブランド戦略・広告企画の仕事を行なっている。 Sumie Newell -デザイナー / イラストレーター 1997年、日本生まれ。 日本とアメリカのハーフとして生まれ、幼少期から日米両方で生活する。 高校卒業後、カリフォルニアの大学を休学しながら18か国を周るバックパックを経験。 世界を渡り歩くなかで、様々なデザインインターンシップを通しスキルを磨き、日本に帰国。 2019年、monopoに入社。持ち前のアートスキルと多国籍な感覚を強みとして様々なブランドのアートディレクション・広告制作などに従事。 「tokyo creative agency」と検索すれば、最上位に出てくるのは、優秀なクリエイターが集まる「monopo」という日本企業。2019年10月、そこに入社された二人の20代女性がいます。 日本とアメリカで暮らした経験から、多様な価値観を強みとするデザイナーのSumieさん。そして、フランス人でありながら日本が大好きで、ブランディングやディレクションの経験もあるClaraさん。 今回はそんなU-29世代のお二人にお話を伺いました。様々な選択肢がある中で、なぜmonopoという会社を選んだのか。また、それまでにどんな人生を歩み、これからどんな未来を描いているのか。 お二人が語ってくれたのは、monopoという企業の素晴らしいカルチャーと、世界を見据えたワクワクするような熱い夢でした。   ここでなら夢が叶う。入社に迷いはなかった 西村創一朗(以下、西村):お二人がmonopoに入社されるまでの経歴を教えてください。まずは、Sumieさんからお願いします。 Sumie:私は日本生まれで、今年22歳になります。父がアメリカ人なので、10歳からアメリカに引っ越し、4年ほど住んでいました。高校は日本で卒業したものの、大学に行きたくなくて世界中を旅して回ることに。そこで自分の世界の狭さに気付かされました。 西村:その旅では何ヶ国くらい回ったんですか? Sumie:18ヶ国くらいを、バックパック一つで回りました。ルーマニアから始まって最後はタイで終わり、再び日本に帰ってきたんです。帰国後、インターンができる企業を探していて、monopoに出会いました。 西村:なるほど。では次は、Claraさんの経歴を教えてください。 Clara:フランス出身の25歳です。日本に滞在するのは今回が3回目。最初は2015年に交換留学で1年間滞在し、2017年には日本のファッションブランドでインターンをしていました。今回は1ヶ月前から日本に滞在していて、monopoに入社しました。 西村:お二人がmonopoを知るキッカケは何だったんでしょう? Sumie:東京でデザイン関係のインターンシップができる企業を探していたところ、monopoが運営しているpoweredby.tokyoにすっかり魅せられてしまって。「こういうものをインハウスプロジェクトとしてやっているエージェンシーって素敵だな」と思ったんです。実は、その時はまだmonopoがどういう企業なのかもよく知らないまま応募しました。 西村:poweredby.tokyoはもともと知っていたんですか? Sumie:いえ、知りませんでした。インターネットで「東京 クリエイティブエージェンシー」と検索して、monopoに辿り着いたんです。 西村:そうだったんですね。Claraさんはどうでした? Clara:私の場合は、友人とmonopo nightというイベントに参加したのがキッカケです。そこでmonopoの雰囲気を知って「すごい会社だなぁ」と。それからmonopoが今までに作った作品などを調べました。国際的な社風でありつつも日本の心を持っている企業だなと感じ、すごく私に合っていると思ったんです。 大学を卒業したら絶対日本に戻りたいと思っていましたし、私は広告を作るようなクリエイティブな仕事をしたかったので、monopoなら私の夢も叶うな、と。 西村:なるほど。Sumieさんは、いろんな選択肢がある中で偶然monopoに出会い、poweredby.tokyoに魅力を感じて……とのことでしたが、他にもたくさん選択肢がある中で悩むことはなかったんでしょうか? Sumie:私はあまり悩みませんでした。世界を旅していた際に思ったのは、多様性のある環境で働きたいということ。そしてmonopoの面接でみなさんと一緒にランチを食べたとき、いろんな国のいろんな人種の方々が集まっていて、みなさん自分の好きなことに没頭しているということが感じられたんです。そういう企業がmonopoしかなかったので、迷いはなかったですね。いつもバックパッカーのような素の自分でいられる職場を探そうと思っていたので。 西村:毎日がバックパッカー。 Sumie:そうです。実際、刺激はめちゃめちゃありますね。学ぶことも多いですし、楽しいです。父がアメリカ人であることや、アメリカで生活した経験もあったので、このような多国籍な企業を見つけられてすごく嬉しかった。 西村:ちなみにmonopoにはどんな国籍の方がいらっしゃるんですか? Sumie:フランス人が多いですね。あとは、南アフリカやカナダ、アメリカ、ドイツの人もいます。日本人が半分くらいいるのですが、グローバルな人が半数もいる企業って、日本ではなかなかないですよね。 西村:それはmonopoのいいところだと思いますね。ですが、アメリカに暮らしていた経験をお持ちなのに、日本で働こうと思った理由は何でしょうか? Sumie:monopoに出会えたからですね。実は、昔から日本に対して「閉ざされた国」というイメージを持っていました。だからこそ世界を旅しようと思ったわけですし。もしmonopoに出会っていなかったら、海外に引っ越して就職していたと思います(笑)こういう環境の会社ってあまりないので、貴重です。   monopoは「会社というよりコミュニティ」 西村:働く環境としてのmonopoはどうですか? Sumie:最高です。やっぱりクリエイティブなお仕事なので、残業もあるし忙しいんですが、忙しさも含めてやりがいがあるなと感じています。とはいえ、仕事中の9割くらいは楽しいと感じています(笑) 西村:いいですね。Claraさんはどうですか? Clara:私も最高です。フランスから見ると、日本の企業は休みが少ないなどけっこうハードな環境なんですが、monopoはそんなフランスの企業より優しいですね。日本でこういう会社があるなんて、信じられないくらい。 例えばフレックス制度があるので、みんながそれぞれ自分のリズムに合わせて仕事ができていいなと感じます。また、他の会社だと担当させてもらえる業務も一つに限られると思うのですが、monopoではやりたい仕事をいろいろとやらせてもらえるのもいいところです。 Sumie:他にも、業務時間内に日本人が英語の授業を受けることができたり、逆に英語しか喋れない人は日本語の授業を受けることができたりするんです。それも、会社の経費で。 西村:へえ、それはすごい。 Clara:monopoでは、「一緒に仕事をする」というより、「一緒にmonopo人(じん)を育てる」という雰囲気があって。仕事以外の自分のプロジェクトも周囲の人がサポートしてくれたり、すごくいい環境ですね。会社というよりはコミュニティといった感じです。 西村:Sumieさんもそのように感じますか? Sumie:はい。いい意味で厳しくないというか。自分で自分のペースを決めることができるんです。だからこそ自分で育つことができる、そういうコミュニティだと思います。 西村:どんな時にコミュニティだと感じていますか? Sumie:まず、みんな仲がいい!めちゃめちゃ話しやすいし、先輩後輩もあまり関係なく学べる感じです。ギクシャクせず、気軽に話しかけられる感じなのがとても大きい。日本の会社だとそういう雰囲気ってあまりないと思うんです。だからこそコミュニティだと感じます。 Clara:例えば周りの人の手が空いていないときでも、私が自分のプロジェクトで悩むポイントがあったら、その部分だけ手伝ってもらえたり、逆に他の人の困りごとがあれば私もそのお手伝いをする。コミュニティの中でのsolidarity(=結束、連携)がすごく強いんですよね。 Sumie:チームメイトって感じですね。 Clara:普段はみんな自分のペースで仕事をしているんですが、一緒に話せる時間もちゃんと決めてあります。合宿もあるんですよ。 西村:合宿があるんですね!どんな感じでしたか? Clara:3日間のうち一泊がキャンプだったんですが、ケータリングがあったりバーテンダーがいたりして驚きました(笑)私は入社前に参加させてもらったんですが、この合宿で入社前に社員の方々とすごく仲良くなれたので良かったです。monopoって最高だなと思いました。 西村:それは楽しそう! Clara:monopoの中のコミュニティが魅力的なだけでなく、monopoの周りのコミュニティがすごく広いのもいいところだと感じます。 Sumie:月に一度開催されているmonopo nightも、世界中のクリエイティブコミュニティをローカライズする、東京に集める、という意図があります。 Clara:monopoは日本の会社ですし、日本のことをすごく理解していて日本文化のいいところもたくさん取り入れられているんですが、海外に対する意識もちゃんとあって。日本と海外との言葉の壁を越えて繋ぐ「架け橋」としての役割を担っていると思います。   自分のやりたい仕事が入社1ヶ月で実現 西村:ここまでmonopoの環境やカルチャーについてお伺いしたんですが、お二人が今どんなお仕事をされているのか、お聞きしたいです。Sumieさんはデザイナーをされていると思うのですが。 Sumie:最近は、ある企業の新製品のキービジュアルを作ったり、ソーシャルコンテンツを作ったりしています。私はイラストレーターでもあるので、企画の絵コンテを描いて提案することもあります。 西村:素晴らしいですね。Claraさんはどういった仕事をされているんですか? Clara:基本的にはプロジェクトマネージャーなんですが、今はファッション企業のクリスマスのキャンペーンを作っています。 西村:作る、というのは? Clara:コンペのためのピッチコンセプトを考えて発表し、実際にそのコンセプトを実現させるところまでやっています。そのキャンペーンのコンペは、monopoのメンバーとチームを組んで勝つことができたので、これからカメラマンさんとも協力して撮影を進めていく予定です。 私はファッションやコスメに関する広告の仕事をやりたいとずっと思っていたので、入社して一ヶ月で、こうして自分がやりたい仕事を実現させることができて幸せです。 西村:普通、入社して一ヶ月って辛いことが多かったり仕事が大変だったり、また逆に研修ばかりで仕事を任せてもらえないということもあると思うんですけど、お二人ともすぐ戦力になっていて、しかも仕事を楽しまれていて、すごく素敵だなと感じます。 Clara:こういう仕事をしたくてmonopoを選んだわけですし、仕事にはしっかり責任を持ちたいと思っています!   「チャレンジ」と「成長」ー 20代の二人が抱く夢 西村:monopoとの出会いのお話の中で「私の夢」という言葉が出てきましたが、クララさんの夢はどういったものなんでしょう? Clara:私にとっては、チャレンジしているときが人生でいちばん楽しいんです。アーティストさんと一緒に働くようなお仕事も、インスピレーションがすごく湧くしモチベーションも高いんですけど、アートのためだけだと、私にとってのチャレンジがあまりないように感じてしまって。それよりは、商品やそのブランドをうまく見せるために、いかにアーティストさんの才能を上手く使うかという戦略を考えるほうが楽しいです。 だから、今はクリエイティブディレクターを目指しています。 西村:なるほど、それで今はプロジェクトマネージャーをされているんですね。Sumieさんはいかがですか? Sumie:私はそんなに野心が強いほうではないんですが、第一に考えているのは「幸せになりたい」ということなんです。 西村:それは大切なことですね。 Sumie:そして、好きな人たちと一緒に自分の好きなことをやり続けて、その中で成長していくということが私にとっての幸せだと思っているので、そういう環境を見つけることが私の夢ですね。   monopoと一緒に世界中で活躍するクリエイターへ 西村:最後に、今後なにかチャレンジしたいことがあれば教えてください。 Clara:monopoと一緒に大きいプロジェクトをしたいです。ルイ・ヴィトンなどの仕事をゲットして、日本のマーケットだけでなく、世界中の広告を作りたい。また、趣味で日本についてのブログを書いているので、そのブログを広めて海外の人たちに日本をもっと知ってほしいなと思っています。 西村:素敵ですね。Sumieさんはどうですか? Sumie:私は、monopoのセールスポイントをひとつ増やしたいと思っています。今のmonopoはデジタルエージェンシー、クリエイティブエージェンシーとしてアピールしていますが、私自身イラストが好きなこともあって、イラストもセールスポイントにしたいんです。 今はポートフォリオにもイラスト系の作品が全くないので、そこから改造していって、イラストの仕事も発注してもらえるような状態に変えていきたいですね。 西村:素晴らしい。Sumieさん自身がmonopoのセールスポイントになる、というわけですね。 Sumie:そうですね。私もまだあまりビジネスのことをわかっていない部分もありますけど、そこはmonopoで学べますし、今は自分をどんどん世界中に押し出していきたいと思っています。個人としても、monopoの一員としても。 monopoにアクセス (取材、写真:西村創一朗、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

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