「今の僕は“人の繋がり”があったから」縁を紡いできた甲斐雅之のキャリアの歩み方

外の世界に連れ出してくれた人。そこから繋がる不思議な縁で、自分のキャリアが拓かれていく。そんな経験をした人はいないでしょうか? 色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ第44回目は、新卒で株式会社ベーシックに入社し、現在はフォーム作成管理ツール「formrun」のプロダクトオーナーを務めている甲斐雅之さんにインタビュー。 オウンドメディアの編集や採用広報戦略も担当するなど、多岐に渡って活躍される甲斐さん。「人の繋がりがあったからこそ、今の僕がある」と、ご自身の経験談を語ってくださいました。 外の世界は刺激的なんだと初めて知った ― 新卒でベーシックさんに入社したのが2017年ですか? そうですね。でも、学生の頃からベーシックでインターンしたり、別の会社で業務委託で働いたりしていたので、キャリアのスタートはもう少し前になります。 ― 学生で業務委託として働いてるのは珍しい……!元々ビジネスには興味あったんですか? いや、もう全然です(笑)。大学入学後は塾講師のアルバイトに毎日精を出していて、あまり大学に行かず、趣味の音楽に没頭するっていう。よくいる普通の学生でした。 ― そこから、どんなきっかけでビジネスの道に? 一緒に働いていたアルバイトの先輩が、スタートアップ界隈でめちゃくちゃ活躍されている方だったんです。当時、株式会社SmartHRで採用責任者を務めていた勝股さん(現在は株式会社カンムにて人事を担当中)という人なんですけど。 勝股さんはSmartHRに入社する以前からスタートアップの方々が集まるイベントに顔を出していたみたいで、よくベンチャーや起業に関する情報を聞かせてもらっていて。こんな面白くて刺激的な世界があるんだ、ってそこで初めて知ったんです。 勝股さんがいなかったら、外の世界を何も知らないまま、塾講師を4年間やっていたかもしれないですね。 ― 面白そうと思っても、そこ止まりで次に繋がらない人も多いところ、甲斐さんはそこからどのように動いていったんですか?  ベンチャーやスタートアップに興味を抱き始めてからは、色んなイベントに顔を出していました。なんの知識も持っていなかった当時の僕を、そうした界隈へと連れ出してもらえたのは大きかったですね。 一歩目が踏み出せれば、その場で新しい繋がり生まれ、人伝てに世界が広がっていきますし。それこそ、勝股さんと一緒にベンチャー企業で働く機会をいただいて、少し業務のお手伝いをしたりとか。 外に連れ出してくれる存在と、自ら外に出てみようとする意気込みや行動が大切なんだ、って学びましたね。 Twitterのフォロワー数が1万人に。偶然気付いた自分の強み ー 色々な繋がりができていく中で、どのように業務委託として仕事を任されるまでになったんですか? 仕事をもらえたのは、僕がやっていた匿名のTwitterがきっかけですね。 ― 匿名アカウントからなんですね。 匿名なので詳細は言えないんですけど、とあるローカルエリアの情報を発信するTwitterのアカウントを運営していたんですよ。 そのエリアに住んでいる人に対して、興味を惹くような情報を発信していました。そこで「求めている情報を発信すれば、みんな見てくれるんだな」って学んで。 ― それがきっかけ? そうですね。発信しているうちにフォロワーが1万人超えまして。 ― え、1万人!すごい……。 イベントで繋がった人に「こういうことやってるんです」ってTwitterの話をしたら、「それマーケティングじゃん」って言われ始めて。自分では意識していなかったんですけど(笑)。 そこから、「ウチでも似たようなことやってよ」って声をかけてもらえるようになったんです。そうした経験を重ねるうちに「これって僕の得意なことなのかも」と思い始めるようになりました。 ― なるほど。自分の強みを認識して、そこから仕事になっていったんですね。  そもそも、僕は器用なタイプじゃないんですよ。苦手なものはとことん出来ない。そんな自分でも、意識しないうちにマーケティングのようなことをやって、数値も伴った成果を出せていた。 偶然のきっかけで始めたことでしたけど、自分の強みを認識することができましたね。 ― そのTwitterを運用し始めたのは何故だったんですか?  そのエリアで情報が欲しいと言っている声は結構あったのに、発信しているメディアがなかったんですよ。僕もその情報は欲しかったから、ないなら自分でやってみようって。 ― すごい。その発想がすでにマーケターでもあり、プロダクトマネージャーっぽい。  確かに(笑)。面白がって取り組んでいましたし、強みと興味が交差していたのは嬉しいことですね。 「話聞いてもらえませんか?」人の繋がりから始めた就活 ― それだけ数字出せていたら、そのままフリーランスでやっていこうと考えても良さそうですけど。 実際に考えていた時もありました。延長線上で続けていけば、稼ぎにも困らなさそうとは思っていましたし。 でも、自分のキャリアや、将来的にスケールのある仕事をやりたいという、長期的な視点の大切さに気づいて、就職することにしたんです。 ― どういうことを考えての決断だったんですか? やっぱり最初からフリーランスを選択しちゃうと、自分が当時持ち合わせていたスキルに合わせた仕事しか取り組めない。。このまま続けていても、今持っているスキルの切り売りで終わっちゃいそうだな、と。  ― 短期では稼げるけど、長期ではどうかなって。  そうですね。キャリアに幅を持たせるっていう意味でも、一旦は何でも吸収しますっていう立ち位置に身を置くのも大切だと考えました。 ― じゃあそこから就活を始めたんですね。  でも、就職するって決めて動き始めたのが大学4年生の7月だったんですよね(笑)。 ― どこも閉じちゃってるじゃないですか。  そうなんですよ(笑)。なので、普通に採用エントリーを申し込んでも上手くいかないと思い、採用媒体を使うことなく、元々繋がっていた社会人の方々にメッセージを送ることから始めました。 「就活しようと思ってるんですけど、話聞いてもらえませんか?」って。  ― その就活のやり方は斬新ですね……。会ってもらえるものなんですか?  ありがたいことに結構面白がってもらえて。ベンチャーの役員の方とも会わせてもらったり。 しかも、ベンチャー企業に務めている人事の場合、横の繋がりの強さから、互いに就活生を紹介し合っていることも多いですよね。なので、「ウチは合わないかもしれないけど、ここの会社は良いかもよ」って紹介してもらえたりもしたんです。  ― すごい。ここでも一歩目の力ですね。動いたら繋がっていった。  たしかに、そうかもしれないですね。行動したらどんどん繋がっていきましたし。ベーシックともそうやって出会えたんですよ。 ― 色んな会社が甲斐さんのことを面白いと思っていた中で、ベーシックさんに決めたのは何故だったんですか?  僕のパーソナルな部分を全部ひっくるめて見てくれたのが決め手ですね。 面白いと思ってくれただけじゃなく、「こういう部分ではつまづきそうだね」と苦手なことや不得意なことを理解してもらえたんです。そして、その上で一緒に働きたいと言ってもらえた。 それがとても嬉しかったし、飾らない自分自身を見てくれる良い会社だなと感じて決断しました。 ― マイナスなところも含めたコミュニケーション。ちゃんと自分を見てもらえる信頼を感じられますよね。  さっきもお話したように、僕は得意不得意がはっきりしているので。その凸凹を理解してもらえたのは、本当に恵まれている環境ですよね。  プロダクトオーナーがぶつかった壁。決める、って難しい ― ベーシックさんと出会い、インターンを経て2017年に入社。formrunのプロダクトオーナーになったのはいつ頃ですか?  1年目の終わりくらいからですね。それまでは、インサイドセールスやカスタマーサクセス、Webディレクターや商品の生産管理やイベント企画/運営、事例取材など、結構なんでも屋に近い役回りで動いてました(笑)。 ― そこから、どのような流れでプロダクトオーナーに抜擢されたんでしょうか?1年目の終わりとなると、かなり早いタイミングでの抜擢かと思います。  ベーシックがformrunの事業を買収したのが、ちょうど1年目の終わりだったんですよ。今の会社に入るときに、ずっとformrunを担当していた方が別部門に移ることが決まっていて、たまたま空席が出来たタイミングだったんです。  ― そこで甲斐さんに任せよう、と。 会社としても若い人に任せていきたい、という方針があったみたいで、「甲斐はなんでもやるから、やらせてみよう」という流れで抜擢してもらえました。 自分は割と調子に乗りがちな性格なんですが、出る杭を打つんじゃなく、「ほら、やってみ?」と、ポテンシャルを伸ばす機会をいただけたのは、本当にありがたい限りですね。 ― プロダクトオーナーという、責任も背負う立場になっていかがでしたか? いや、もう難しいなって。事業責任を担う立場になったら、決めないと本当に何も動かない。もちろんロードマップや基本方針はあるんですけど、どの道を走るか、の最終的なジャッジは、年齢差関係なく全員が自分に委ねてくるので。  何かを決めるってこんなに難しいんだ、って初めて実感しましたね。  ― 自分が決めないと何も動かない。 何をやっても不正解に見えるし、正解にも見える。でも、部署の人への説明責任もあるから、意志や根拠は必要になる。数え切れないほど至らないと感じた機会がありましたし、壁にぶつかりっぱなしでした。 人と環境への感謝を胸に。甲斐雅之の挑戦 ― その壁は、どのように乗り越えたんですか?  わからないものは、自分1人でくよくよ考えても、ずっとわからない、だったら人に聞こう、と割り切ったんです。そこで、初めて実名のTwitterアカウントを作って。  ― あ、それまで実名での発信はしていなかったんですね。  自社プロダクトのことも発信しながら、いろんな人の元へ会いに行くためのアカウントを作ったんです。社内の人にも話を聞いてはいましたが、、社外の人にもTwitter経由で連絡して、とにかく教えを請いに行っていました。 自分の実力だけじゃ絶対に繋がることのできなかった、第一人者のマーケターの方々や、プロダクトをスケールさせた経験を持ち合わせた方々とか。一番取り組んでいた時期は、毎日別の社外の人とランチしていましたね。 ― Twitterでフォローして、DM送って?  そうですね。実名でTwitterをやっておくと、そうやってお会いしたときでも、時間の密度が全然違うんですよ。 ― 時間の密度ですか?  実名で普段から発信していると、相手も僕がどういう人で、どういうことに悩んでいるかが事前に分かるじゃないですか。なので、ランチ1時間でも、すごく実のある話が出来るんです。 時間の密度を濃くできたことも相まって、必要な知識を身につけるための学習コストは、ものすごく下がりましたね。色んな人の経験や考えを吸収させてもらえて、振り返れば相談に乗ってくださった方々への感謝しかありません。 ― なるほど。人の繋がりを大事にされる甲斐さんらしさが出ていますね。そのように多くの人と繋がる中で、何か意識している点などはあるんですか? 意識はしていないんですけど、僕かなりのいじられキャラなんです(笑)。なので、集まりに顔を出していじられていると、周りにも気にかけてもらえるというか。その場では恥ずかしい反面、構ってもらえるという意味では、やっぱりありがたいなと思ってしまいますね。 でも、そのキャラで仕事が出来なかったら“ただの仕事ができないイジられている人”になってしまうので、危機感はあります。絡みやすいキャラではあるものの、仕事上のコミュニケーションはしっかりしている。そこのメリハリは意識しているかもしれません。  ― 確かに、そこで良い意味のギャップがあると信頼してもらえそうですね。  本当に周りの人や環境に恵まれているな、と思います。得意不得意の凸凹が大きい僕ですけど、強みの部分を受け入れてくださる人が多いから、今日まで生きてこられたと思っています。 苦手な部分と向き合うことも大切ですけど、やっぱりその人の一番得意なところを活かした方が良いんだろうな、って。 繋がりが増えてきて、いろんな方といろんな仕事をするようになって、より一層感じますよね。改めて、自分を伸ばしてくれたベーシックに感謝しかありませんし。 去年は不自由なく社内外で様々な経験を積める機会をいただけたので、今年はベーシックに全力投球したい。外資系のサービスでは、Slack や Zoom...

やりたいことがなかった学生時代。社会人になってできた目標は”エンジニアを幸せにする会社”

さまざまな経歴を持つ方々が集まり、これまでのキャリアや将来の展望などを語り合うU-29 Career Lounge。第40回目のゲストは株式会社アンチパターン・小笹佑京さんです。 学生の頃まで”やりたいこと”が分からず、悩んでいた小笹さん。 ただ、先輩に「やりたいことができた時に、挑戦できる人を目指そう」からヒントを得て、株式会社イノベーションにて5年間の修行を積みます。 そこから踏み出した、起業。 このインタビューの前半は「イノベーションに入社したきっかけ」をお伺いし、後半では「起業までの背景」についてお聞きしています。 “やりたいことが明確化した時に動ける人”になるために、イノベーションにて5年間の修行を積む ーー起業に踏み切った小笹さんですが、学生時代から”やりたいこと”は明確だったんですか? 小笹:就活当時は、自分のやりたいことなどが分からず悩んでいましたね。 とある先輩に相談したところ「別に、”今”やりたいことがなくても大丈夫。その代わり、やりたいことが見つかった時に挑戦できる人を目指してみれば?」と助言をいただき、すっと腑に落ちたんです。 すぐに挑戦できる人になるためには、スキルも実績も人脈も必要…。そう考えた時に、5年間で圧倒的な成長が必要だと思ったんです。 そこでタイムリミットを”5年”と設定し、一生懸命働くことを目指しました。 ーーおもしろい発想ですね。株式会社イノベーションをファーストキャリアにした背景は何でしたか? 小笹:たくさんあるのですが、5年で成長するために、若手の頃から様々な仕事を任せてもらえる環境が大切だな、と考えました。 そして、代表が元リクルート出身で、縁を感じましたね。 実は、経営者の父も母もリクルート出身なので、知らず知らずのうちに"リクルート"に惹かれていたのかもしれません。 ーーそんな縁があったんですね。他に会社選びの軸などはあったんですか?  小笹:当時から、僕はお金よりも「自己実現」や「社会貢献性」を大切な軸にしていました。幸い家が裕福ということもあり、お金に対する執着があまりなかったからだと思います。 イノベーションはBtoBの会社で、マーケティングを通して”日本の労働生産性を上げる”ことにコンセプトにしていて。 僕は、そのストーリー性に共感して、入社を決めましたね。 ーーそうだったんですね。イノベーションではどの職種からスタートしたんですか? 小笹:エンジニアとしてスタートしています。実は、内定者インターンではカスタマーサポートを担当していたんですが、開発に携わりたいと思って人事に「エンジニアに転向してほしい」とお願いして、エンジニアに配属してもらいました。 そこから5年間イノベーションで修行をし、子会社である”Anti-Pattern(アンチパターン)”を立ち上げました流れになります。 イノベーションの子会社から独立へ。やりたいことがわからなかった僕が、起業に踏み出せたわけ ーーエンジニアに特化したAnti-Patternを立ち上げられましたよね。起業したきっかけは何でしたか? 小笹:アンチパターンの前身は、元々イノベーションの子会社(エンジニア組織)として立ち上がっていました。 ただ、メンバーと今後の方向性などを話し合った時に、イノベーション社とアンチパターンの目指す方向性が、それぞれ違かったことに気づいたんです。 また、評価制度や勤務形態などの整合性を、「イノベーショングループ内で目指すのは難しいな…」と感じて。 であれば、アンチパターンが描きたかった”エンジニアを幸せにする会社”を追求するためには、別会社で運営した方が善だと判断し、起業という運びとなりました。 ーーそんな背景があったんですね。学生の頃までは、やりたいことが分からなかった小笹さんですが、起業に踏み切った。とても大きな変化だと思いますが、恐怖はありませんでしたか…? 小笹:起業することに、抵抗や恐怖などは特にありませんでしたね。実は、両親や叔父さんも起業していて、身内に起業家が多いんです。 そんな環境で育ったので、起業は”リスク”だけではなく、やりたいことを実現するための”手段”という印象があったので、偏見などもありませんでしたね。 こだわりの社名”Anti-Pattern(アンチパターン)”の由来 ーー社名の”アンチパターン”ってイメージ強烈ですよね。社名の由来をお聞きしたいです。 小笹:まず1番は、”エンジニアにしか理解されない名前”を作りたかったんです(笑)。 ”アンチ”と付いているので、メガティブなイメージを持たれる方が多いので少し残念です。エンジニア的に”アンチパターン”は、別に悪いイメージ・意味ではないんです。 エンジニアの世界では”アンチパターン”という言葉があって、「失敗から学びを得る」という意味が込められています。 何かを生み出す際に初めてのことだらけなので、失敗から避けられない。むしろ、失敗から学べるので財産になるんです。 なので、Anti-Patternは良い意味なんだよって伝えていけたらいいですね。 ーーたしかに、何かを生み出すのには失敗が付きものですよね。 小笹:そうですよね…。また実は、リトマス試験紙のような役目もあって。エンジニアとそうでない人を見分けることができるんです。 ”Anti-Pattern”と聞くと、反応が「お、いいじゃん!」と「え、アンチ?」の二択できれいに分かれるんです。前者は”生粋のエンジニア”で、後者は”エンジニアではない人”ですね(笑)。 弊社がエンジニアに特化した企業なので、「エンジニアっぽい社名」には人一倍こだわりました。 経営者の父の存在。そして今後強めていきたい”発信” ーーずっと気になっていることがあるのですが、経営者として成功されているお父様を持つ小笹さん。やはり日頃からアドバイスなどはいただいているのですか? 小笹:アドバイスはもらっていますね。何か相談事があれば、父に相談することもありますし、教わったこともたくさんあります。 起業するにあたり、オペレーション部分で結構アドバイスをくれて。メンバーの選定や経営方針など、助言をくれましたし、影響された部分も多いです。 “親子”でもありますが、僕にとって”メンター”に近い気がします。 ーー素敵な関係性ですね。ご自身の指針となっている、お父様の言葉は何かありますか? 小笹:直接くれた言葉よりも、父からは「どんなときも、やりたいことをやりなさい」という言葉にいつも助かっています。僕の背中を押してくれますからね。 小さい頃は”やりたいこと”がなかなか見つからず、正直、父の言葉が時には重荷になることもありました。 ただ、大人になってからやりたいことが見つかり、日々没頭できるのがとても幸せです。やりたいことを行うことが幸福感に繋がるのは、父の教えがあったからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいですね。 ーーでは最後に、直近で力を入れたいことを教えていただきたいです。 小笹:新規事業などに着手しているので、引き続き頑張りつつ、同時に”発信活動”にも力をいれたいです。 いくらすてきな事業をやっていたとしても、届いていないと、もったいないですからね…。 代表として、まずは僕の発信活動を頑張りつつ、Anti-Pattern Inc.の魅力を同時に伝えていけるように頑張っていきたいですね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗、執筆:ヌイ、撮影:山崎貴大、デザイン:矢野拓実

「選択肢を持って、もっと自由に」HOLIC代表・砂川星来が体現する“縛られない”生き方

「誰にも制約されずに、いつも自分の意志で決断したいんです」と、まっすぐな目で語ってくれたのは、株式会社HOLIC代表の砂川星来(すながわせーら)さん。 大学生時代にWEBメディアでインターンをしながら、大好きなInstagramで個人メディアの立ち上げも経験。現在は起業して、女性向けSNSマーケティングに携わっています。 社会人2年目で独立し、自ら同世代の女性にとってのロールモデルとなるような新しい働き方・生き方を体現されている彼女の、原動力と情熱に迫りました。 「沖縄には選択肢が少なかった」外の世界を見て芽生えた意識 -星来さんは沖縄県出身なんですよね。高校は進学校だったそうですが、もともと勉強は得意だったんですか? 勉強は正直得意じゃなかったですね。でも、母が教育熱心なタイプで、周りの子がみんな塾に通っているような意識高めの小学校に入れてもらったんですよ。小さい頃から負けず嫌いなタイプだったので、「みんなが行ってるなら、私も塾に通いたい!」みたいな(笑)。 で高校に進学したんですけど、県内の各中学校から成績のよい人たちが集まってるわけで、その中では落ちこぼれてしまいましたね。だから勉強の面ではダメだったんですが、野球部のマネージャーとして頑張っていました。 文武両道を掲げている学校だったので、部活動の時間が限られている中、野球も勉強も全力投球する部員のみんなにすごく影響を受けて。「これだけ頑張ってるみんなのために、私はマネージャーとして何ができるんだろうか」と常に考えて、授業が終わったら誰よりも先に部室に行っていましたね。 -めっちゃ意識高いじゃないですか! じゃあ高校生の頃は、部活に打ち込んでいたんですね。 高校2年生で行った留学も、自分の中で大きな経験です。県の留学制度に応募してオランダに行きました。モンテッソーリ教育法を取り入れた高校で、自分で受けたい授業を選択するのが当たり前。それにオランダの公用語はオランダ語なんですけど、みんな英語が得意で、ホームステイ先の小学生の子が私より英語が話せるんですよ。違う国の文化や教育に触れて、衝撃を受けましたね。 「外の世界に飛び込んでみる」「自分の視野を広げにいく」っていうのは、この頃から自分の人生の軸になってるかもしれないです。 -なるほど。その体験を経て、慶応義塾大学への進学を機に上京されたんですね。 大学に入ったら、さらに衝撃が待っていました。留学もしたし、部活も頑張ったし、慶応に入れた。「私の時代が来た!」って思ってたんですよ。 でも、周りの皆は高校生のころから課外活動として政治や環境の問題に取り組んでいる人も多く、スタート地点が完全に違いました。学校の枠を超えて何かを創造する、って発想が今まで自分になかったんですよ。衝撃、というかもう挫折でしたね。 でもせっかく沖縄から東京に出してもらったし、「どうすれば、この時間を最大限に有効活用できるんだろう」ってすごく考えて。そこから有意義に大学生活を過ごせたと思います。 大好きなメディアの世界へ飛び込んだインターン時代 -大学では具体的にどんなことを? 『NEXTWEEKEND』というライフスタイルメディアで、インターンとして3年間働きました。 当時、とある教育支援団体に入って活動していたんですが、まだ創立期だったので体制が整ってなくて、授業やバイト終わりの深夜に打ち合わせやるみたいな毎日だったんです。身も心もボロボロになってたときに、メディアが出していたYouTubeの動画にたどりついて。「次の週末を豊かに過ごすために、小さな工夫を取り入れる」ってコンセプトにすごく惹かれました。 当時は自分のことを全然大切にできてなかったし、豊かな暮らしとは程遠かったので、こんな素敵なことを発信する会社に入ってみたい! って思いましたね。で、「働かせてください」ってすぐに自分でメールを送りました。 -YouTubeがきっかけだったんですね。すごい行動力。 思えば、動画やメディアが私の人生に与えた影響ってすごく大きいなって。中学生の頃からずっとブログ書いてて、沖縄県内ではアクセス数ランキング1位をとったことがあるんです。 けど、やっぱり沖縄の中だけでは、行動範囲も選択肢も限られる。テレビや雑誌、動画を通して外の世界を身近に感じることができていました。私もこういう世界に行きたいなって思ってたんですよね。 -メールを送ってみた反応はどうでした? 当時、『NEXTWEEKEND』ではインターン募集をしてなかったみたいで。でも、熱意を込めてメールを送った甲斐があって、代表の村上萌さんから直接返信をいただけました。萌さんが直々に連絡するなんて後にも先にも私だけだったそうです。お会いできる機会をもらえたので、「どうしたら一緒に働かせてもらえるかな」と考えて、プレゼン資料を作っていきましたね。 -頼まれたわけでもなく、自発的に作られたんですね。 はい。「『NEXTWEEKEND』にはこういう記事があったらいいと思います」「こういう展開をしていきたいです」みたいなことを、自分なりにまとめてプレゼンしました。そのやる気を買ってもらえて、働けることになったんです。それが大学2年生の頃で、卒業までずっと働かせてもらいました。 -インターンでの学びはどんな点でしたか? 大きく2つあるんですけど、まずは「自分で仕事を探しにいく力」が身についたことですかね。 『NEXTWEEKEND』は、今でこそ9名の社員がいるんですけど、当時はまさに数人で立ち上げたばかりの状況。社員の定例会議に参加して意見を出したり、イベントの企画から運営まで任せてもらったり、何でもやらせてもらいました。用意された仕事の流れやルールがない中で「どうやって仕事を生み出していくか」ということを、本当にゼロから経験できましたね。 また、毎月のテーマに応じた記事や動画の制作もやっていたんですが、「メディアとしての効果的な見せ方・届け方」についてもたくさん学べました。どんな内容の記事がいいか? どういう体験を提供できればユーザーさんに満足してもらえるか? ってひたすら考えてましたね。「女性を喜ばせたい」という考えは、今でもずっと私の軸になっています。 新卒でサイバーエージェントへ入社。ロールモデルを超えたかったからこその「修業期間」 -『NEXTWEEKEND』のインターンに全力を注いでいた大学生活ののち、新卒でサイバーエージェントに入社されていますよね。どういう軸で就職活動をされていたんですか? とにかく私にとって『NEXWEEKEND』との出会いは運命的で、代表の萌さんにどうしても肩を並べる存在になりたいって思ってて。広告業界に絞り、内定をもらった中で最も影響力が大きくて、1年目から即戦力になれるような環境を選びました。 -星来さんにとって、萌さんはとてつもなく大きな存在なんですね。そのまま、『NEXTWEEKEND』で働くという選択肢もあったのでは? 当然ずっと働くつもりでしたし、今でも正直戻りたいくらいなんですけど……。でも、萌さんのような存在になるには、ずっと彼女の元で働いているだけではダメなんじゃないかと思ったんです。ずっと「萌さんの部下」のままで終わってしまうと。 -このままだと、永遠に並ぶことはできないと思ったんですね。 一方で、外の世界に出てみたいという好奇心もありました。『NEXTWEEKEND』は創業時期、予算も限られた中でやっていて。自分がめちゃくちゃやりたい事業内容ではあるんですけど、ほかの会社のビジネスモデルも知りたいなと。より多くの人に届けたり、もっとマネタイズできたりする方法を勉強したいなと思っていたんですよね。 -入社後、サイバーエージェントではどんなお仕事を? 入社が2017年4月で、ちょうどそのときインフルエンサー事業を行う子会社が立ち上がったところだったんです。SNSが好きだったので、そこに希望して行きました。私、学生時代にInstagramで地元沖縄のおすすめスポットを紹介する『OKINAWAHOLIC』というメディアを作ってたんですよ。広告なしでフォロワーを2万人くらいまで伸ばせていたので、その経験を生かせるかなと。そこでは、インフルエンサーの育成やリクルーティングをやったり、途中からは法人向けのSNSマーケティングの業務にも携わったりしていました。 プロモーションの設計からアウトプットまで一気通貫で任せてもらえて、勉強したかったお金の流れについて学ぶことができましたね。いわゆる企画営業みたいな職種だったので売り上げ目標もあったんですが、高めの数字を達成できたことが自信にもつながりました。 -そこから1年ちょっとで退職という決断をされたわけですけど、当時の心境はどんな感じだったのでしょうか? 修行期間だと思って社会に出て頑張ってみたものの、ハードな労働環境に体力の限界が来てしまったんです。当時、写真に写ったブスな自分を見て心を決めました(笑)。外見って、「自分のありたい姿になれているか」どうかの1つのバロメーターだと思ってて。髪の毛をケアしたり、メイクやファッションを楽しんだり、可愛くいたいと努力するのは私にとってすごく大事なことなんです。 だからこそ、「疲弊してまで会社にいるのは違うんじゃないか」「今の姿は、なりたい自分じゃないな」って感じたんですよね。 -この会社では、自分がなりたい姿になれない。退職は、自分が目指すものに正直になった結果だったんですね。 自由な生き方を体現することで、世の女性たちを応援したい -退職後のキャリアプランについては前々から考えていたんですか? いえ、まずは辞めることを先に決めたので、後先考えずでした。深夜まで働くのが当たり前の生活だったので、もう半分思考が停止していたんですよね。自分が何をしたいかとか、考える余裕がなかったです。 -少しリフレッシュ期間を経て、自分の会社を立ち上げたんですね。 はい。本当にゼロからのスタートだったんですが、『OKINAWAHOLIC』の運営経験を生かして何かやりたいな、と考えていました。そんなときに知人から「Instagram運用をやってほしい」と声をかけてもらえて。そこから紹介で依頼が繋がっていった感じです。制作にしっかりリソースを割きたかったので、自分からガンガン営業をかけていくというよりは、1つひとつの依頼を断らず、ありがたく受けさせてもらうことから始めていきましたね。 ある程度の売り上げが立ってきたところで、2018年9月に法人化しました。他の会社に転職する道もあったんですが、就職はまたいつでもできるけど、「たくさん失敗するのは今しかできない」と思ったんですよね。誰かとチームを組むよりも、まずは自分でゼロからやってみようと。現在は5名くらいのメンバーで、InstagramをメインとしたSNSコンサルティングのお仕事を法人企業から受けています。 -地道に1つずつ仕事と向き合うことで、お客さんを獲得していったんですね。成果を出せたナレッジをぜひ教えてほしいです。 クライアントの信頼を得るために、2つのことを意識していました。 1つ目は、「相手の期待を超えること」。まず「こんなことをやりたい」という要望を伺って、クライアントと完成イメージをすり合わせしますよね。そのあと、自分で新しい企画も考えて「うちなら、こういうことまで出来ます」と、必ずプラスアルファの提案をするんです。メッセージをいただいたら即レスするとか、小さなことも気を抜かずに心がけてますね。 2つ目は、「提案資料を内容もデザインもしっかりと作り込むこと」です。企業のデジタルマーケ担当者や決裁者ってほとんどが年上の方なので、小さい会社でやっている20代の私に「任せてみよう」と思ってもらえることが重要なんですよ。意外と資料をちゃんと作成しない会社って多いらしいので、クライアントごとにカスタマイズして“前提/現状/目指す未来”を落とし込んだ資料を持っていくと、断然差がつきます。サイバーエージェント時代にたくさん資料を作ってきた経験が生きているんですけど、今でもいろいろなメディアの媒体資料は定期的にチェックしていますね。 -すごく参考になるナレッジをありがとうございます。最後に、今後の展望についてお聞かせいただけますか? クライアントのSNS運用だけでなく、私自身も発信していきたいと自社メディアを立ち上げたところなんです。やっぱり一番やりたいのは「頑張って働く女性のライフスタイルを応援する」こと。もともと旅行が好きなので、場所や制約にとらわれずに働く生き方をまずは自ら模索して、発信していこうと思っています。具体的に言うと、今後は東京から海外に拠点を移すことも考えていて。 会社員でもフリーランスでも起業でも、日本でも海外でもなんでもいい。選択肢はたくさんあって、自由に生きられるんだよ、ということを伝えたいですね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 文:村尾唯 撮影:山崎貴大 デザイン:矢野拓実

どんな形でも、家族は家族。フォトグラファー天草晴菜が写真で伝えたいメッセージ

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第48回目のゲストは、家族写真などを撮影するフォトグラファー・天草晴菜(あまくさ はるな)さんです。 高校生の時、偶然出会ったとある写真をきっかけに日本大学芸術学部を目指し、卒業後は株式会社クッポグラフィーのフォトグラファー兼店長として活躍する天草さん。彼女を変えた家族とフォトスタジオという存在について迫ってみます。 写真は、自分の伝えたい感情を表現する手段になると気づいた高校時代 ーフォトグラファーというお仕事や、写真の道を志すキッカケは何があったのでしょうか? 高校1年生の頃、昔から絵を書くのが好きだったので美術の先生に進路相談をしたところ、日本大学芸術学部のオープンキャンパスを紹介してくれたんです。このオープンキャンパスに行ったことがきっかけで写真学科に出会い、展示を見て「写真がやりたい!」と志すようになりました。 また、どんなフォトグラファーになろうかなと色々な方にお会いしたりする中で「クッポグラフィー」のスタイルや撮影する写真が好きで、これだ!とビビッと来たんです。 ー「写真だ!」と思った一番のキッカケは? 当初は、写真=ワイワイ撮る記念写真というイメージしかありませんでした。たまたま、展示されたカンボジアの子供たちの写真を見た時に、「こんなにも人の感情を残し、伝達する手段があるんだ…」と思ったのが大きかったですね。そこから、私が残したいのは”泣けるような感動”だと思ったんです。それを伝える手段はこれだ!と感じたのが写真でした。 ー大学入学後は、どのような学生生活だったのでしょう? 憧れだった日芸の写真学科に入学が決まり、非常に幸せでした。でも入学後はあまりにもこれまでと違う環境で「挫折」をしたんです。 同級生は輝かしい功績を持っている人ばかりで、最初から評価されるメンバーも決まっていて悔しかった。それでも、私は努力で負けない!と思い自分にできることを考えてグループ展示なども挑戦しました。周りも、自分が好きなことを続けてきているメンバーが多かったので、これまでにない出会いも多く、刺激しあえる友人達に出会えました。挫折していながらも、大学生活は非常に楽しかったですね。   家族を愛せなかった自分を変えた転機は、17歳下の「妹」の写真だった ー大学時代、大きな転機として「妹さん」の存在があったということなのですが、聞いてもいいですか? そうですね。私の人生を語る上で欠かせないエピソードなのが、家族のことです。 母は20歳で私を生み、離婚を経て再婚しました。私が高校生で部活や進路のことでちょうど悩んでいた時期に、新しい家族が増えました。知らない他人が急に現れたという感覚に戸惑い、悩み、1人で抱えていました。子供が出来たと聞いたときには「もう自分の家庭ではない」と思いました。 妹が生まれてから3年くらいは、家庭内で引きこもり、子供を可愛がったり再婚相手の方とも関わることがありませんでした。そんなときに、憧れだったクッポグラフィーで、子供がいる家族向けのフォトスタジオが出来ると聞きました。それをキッカケに、撮影に行ってみよう!と言い出しました。それ以降、頑なに拒絶していた妹をテーマに撮ってみよう!と思えたんです。勇気を出して、撮影をはじめました。 妹と、再婚相手の方、母親…家族の姿を追っていくうちに、妹がだんだん心を開いてくれました。写真を通じて、妹が笑いかけてくれるようになったんです。これまで拒絶していたけれど、自分が無意識に敵対していただけなんだ…誰も悪くないんだな…と考えが変わっていきました。それを大学の展示会で、表に出してみようと「わたしの妹」という作品にしました。 ーそうやって「自己開示」の方法を選んだんですね。 そうですね、身近な人にも言ったことのない感情をあえて展示という形で出しました。教授の後押しもあって展示をしたところ、お客様からの反響も大きく、数ある出展者の中で受賞することが出来ました! 展示ブースに置いていた感想ノートには「感動しました」「泣きました」という言葉が書いてあり、ジーンと来ました。無名のただの学生の写真に感動してくれた人がいる。これが高校生のときに感じた、写真を通じたメッセージだ!と思えたので、それから自分の感情や考えていることを写真を介して出していこう!という気持ちが強くなったんです。 ーそれをキッカケに家族の関係性も変わったんですね。 写真があったからこそ、コミュニケーションが生まれ、愛情が生まれました。私の人生も、家族の人生も大きく変わったキッカケになったんだと思います。今では妹ともすっかり打ち解け、笑顔で過ごせるようになりました。   憧れと現実は違うことを知った。辛い時を乗り越えられた原動力とは? ークッポグラフィーは学生時代から参画したということなのですが、そのキッカケは? 19歳くらいのときにクッポグラフィーに出会って、感情が高ぶりすぎて社長の久保にすごい長文のメッセージを送りつけたんです。そしたら事務所に呼んでくださって。私の写真も見てくださって。いつか働かせてほしい!とお伝えして、その時は帰りました。 数年後、就活を始めたのをキッカケに改めてメッセージを送ったところ、また会ってくださったので、そこで働きたいです!という意思を伝えました。はじめはフォトスタジオのアルバイトとして採用していただき、いつかはウェディングフォトを撮りたい…と思っていたのですが、今でもそのフォトスタジオにいて、今では店長をしています(笑) ー他のキャリアや選択肢があった中で、そこまでクッポグラフィーにこだわった一番の要素は? クッポグラフィーの社長である久保の撮影する写真は何度見ても泣けるんです。 もともと紛争地で活躍していた久保が撮影したウェディングフォトは、どこか強いメッセージが込められているような気がして、ただきれいな写真ではない何かが感じられたんですよね。それを目指したいと思っていました。 ー憧れと異なる現実を感じたことあると思います…入社後のギャップはありましたか? そもそも、社長の久保がスタジオには居なかった…というのがギャップでしたね。(笑) 一方フォトスタジオは、メンバーそれぞれがお客様を思いやり、カッコつけないで残したい写真を残すのがモットー。ルールやテンプレートのないフォトスタジオなので、飽きない写真・いろんな個性を表現出来る写真が撮れたことはギャップではなかったです! アルバイトをしていた時から、撮影の仕方に関してその場で見て学ぶスタンスが肌に合っていたと思います。 ーそこまで「自分ごと化」して頑張れる原動力は? たとえ仕事で上手くいかないことがあっても、お客様のために頑張ること・成長することが、自分に出来る唯一のことだ!と思っていました。 まずは自分を認めてもらおう!と努力できたのが大きかったです。次第に認められ、今では店長を受け継ぎました。元店長だった方は沖縄店をオープンして離れてしまったのですが、今では自分の一番の理解者となっています。   写真を喜んでもらうのは当たり前!お客様の期待を超えて初めて「かけがえのない思い出」になる。 ーご自身が成長するために、何を強く意識していたのか教えて下さい。 お客様の1回の撮影で、1回は”挑戦”することを自分に課していました!その挑戦を喜んでもらえた瞬間に、また1つ成長したなと感じたんです。 スタジオに来てくれるお客様はクッポグラフィーの写真が好きで来てくれているので、喜んでいただけるのは当然のこと。その上で自分が挑戦することで更に喜んでもらいたい!期待を超えたい!と、お客様の涙や笑顔のために考え、努力できたのが大きかったですね。 ーすごく素敵なエピソードですね!具体的にどんなことに挑戦していましたか? 大学の時に学んだ撮影技法などを活かし、家族写真をあえて下からの構図で撮影してみたりとか。ただ正面で撮影するだけではない色々な視点や手法を取り入れました。また、走っている子を撮るために自分も一緒に走ってみたり。 毎回「こういう撮影方法もあるんだ!」と発見もあるし、「これじゃ納品出来ないから再撮影しなきゃ…」と失敗したこともあります。それくらい攻めた挑戦をしていました。 ーご自身で考えた企画の中で覚えているもの、何か1つ教えて下さい! 七五三フォトでは、着物を着用する子が多いのですが嫌がって着ない子もいますし、泣いてしまう子も多数います。私達は、そんな子が泣いているところから、お母さんの困り顔なども1つの家族のストーリーとして撮影し続け、形にしていきました。過程も残すことが、個性を撮影することに繋がっていると思います。その影響か客層もガラッと変わり、お店は順調に成長中です。 ー入社してから5年目。一番印象的だった出来事はありますか? 「きほのちゃん」という女の子との出会いですね。 きほのちゃんは先天性の疾患を持っている子で、3歳の七五三撮影で初めて来てくれました。その時、ママさんから事前にいただいた相談メッセージには「うちの子は座ることも出来ないし、寝ていることしか出来ない。それでも撮影出来ますか?大丈夫ですか?」と不安な思いがたくさん書かれていました。 その時、「必ず素敵に、どんな形でも撮影します!」と返答し、来店いただきました。その子が生まれてきたことへの感謝、家族が愛しているということ、その子が生きている証を残すことが私達の使命だと感じました。撮影後は非常に喜んでくださいました。 それからしばらく経って、きほのちゃんは誕生日に入院してしまいました。入院中の病院で撮影の依頼が来た時、出張撮影に駆けつけました。許された撮影時間は短くても、できるだけ良い写真を残そうと撮影を引き受けました。撮影後に、ご家族から「あなたはもう家族の一員です。ありがとう!」という言葉をいただいて本当に嬉しかったですね。今後もこの家族の未来を見守ろうと決めました。 きほのちゃんの撮影の様子を店長ブログで配信し、どんな家族のカタチでも歓迎して撮影するというメッセージを発信した結果、すごく反響がありました。「私達もフォトスタジオに行っても良いんだ…」と病気や障がいのあるお子様のいる家族が来店してくれる出来事になりました。私は、このためにフォトグラファーになったんだなって思っています。 ーついウルッと来てしまいました。そんな天草さんの、今後のキャリアは? 今は「見たことがない写真を撮りたい」、「自分の限界を超えたい」と感じて毎日撮影に奮闘しています。フォトグラファーとして独立などはまだ考えていないのですが、きほのちゃんとの出会いで「本当は写真を残したいと思っている家族が、フォトスタジオには来れない」と気づいたんです。もっと気軽に、本当は必要としている方々が写真を残したいと思えるような働きかけを続けたいです。 「どんな形でも、家族は家族。」病気でも、シングルマザーでも、完成された家族じゃなくても良いんです。私もそうだったから。フォトグラファーとして、フォトスタジオとして、色々な家族に愛される存在になりたいです。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 写真:山崎貴大 デザイン:矢野拓実 文:Moe

「20代のうちは失敗しよう」第二新卒で転職、海外就職、フリーランス…挑戦した先にあった好転人生

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第45回目のゲストはフリーランスカメラマンでありライターの渡辺健太郎さんです。 未経験のままIT業界へ転職、英語が苦手だけど海外就職、独学で勉強しフリーランスに…と、とてもチャレンジングなキャリアを進まれてきた渡辺さん。現在は、「けんわた」という愛称で、メンズメイクをはじめとしたジェンダーレスな生き方を発信しています。 失敗を重ねながらも、前向きに、そして自分の気持ちに素直に歩んできた渡辺さんのユニークキャリアに迫ります。 夢を諦められずに、挑戦に踏み込んだ新社会人 ー渡辺さん、本日はよろしくお願いします。 よろしくお願いします。普段は取材する側なので、緊張しています(笑) ーフリーランスとしてお仕事をしているということですが、どのような業務内容ですか? 独立当初はライターがメインだったのですが、昔から趣味だったカメラがいまは仕事の大きな割合を占めています。インタビューと撮影の両方を担当することもあります。 ー現在は、カメラとパソコンでお仕事をしていらっしゃいますが、もともとは全く違う職種だったんですよね? はい。大学で経営学を学んだ後、地元の愛知県にあるスーパーに就職をしました。正直、就職活動がうまくいかず、第一志望の会社には落ちてしまって…。たまたま面接で話が盛り上がったところが、スーパーだったんです。 早く内定をもらって、残りの大学生活を満喫したい!という気持ちもあって、そこに決めた、という消極的な理由でした。 ーそして、4か月で辞めてしまったんですね。 はい。とにかく激務で、朝の7時から夜の10時まで働き、土日も必ずどちらかは出勤しなくてはいけません。そこにいても自分の将来が見えませんでした。順調にいけば店長としてお店を任されることになっていたのでしょうけれど、店長も楽しそうに見えなくて…。 なにより、就職前の卒業旅行で訪れたバリ島での思い出が、自分にとって印象深く、興味関心ががらりと変ったことが大きかったです。 ーバリ島で、価値観が変わったのですか? それまで海外渡航経験はほぼなく、東南アジアへは偏見を抱いていました。「不衛生」「治安が悪い」など…。当時付き合っていた彼女に連れられて、渋々行ったのがバリ島だったんです。 彼女は英語が堪能で、コミュニケーションは任せっきりでした。そんななかで、ホテル滞在中にスタッフの方と1対1でコミュニケーションをとる場面があっったんです。苦手ながらも一生懸命会話して、通じ合ったと思ったときの感動が、深くこころに残りました。 それまで、悪いイメージを勝手に持っていたことを反省しました。出会う人がみんな優しく、魅力的に思えました。そこから色んな海外へ行ってみたいという気持ちが大きくなって、調べるうちに夢は「海外就職」まで膨らんでいったんです。 ーすでに就職先が決まっていたとき、新たな夢ができたんですね。 もやもやしながらこのまま働いても…と思って、4か月で退職しました。すぐに海外就職に動き出したかったものの、大したスキルも、立派な英語力もない僕にはハードルが高く…。まずはITスキルを付けようと、IT業界での転職活動を始めました。もともとパソコンに関心を持っていたんですよね。 愛知は地元なので、ここにいては甘えてしまうという気持ちもあって、転職先は東京で探しました。4か月で退職した第二新卒という肩書きを背負っての転職は、なかなかしんどかったですね。 ーどのくらいかけて転職先を見つけたんですか? 結局、約1年もかかってしまいました。未経験でもオッケーというところに惹かれて受けたSESの派遣会社に、無事決まりました。プログラミングは自分には合っていて、環境も、業務内容も不満はありませんでしたね。 ただ、やっぱり海外就職に挑戦したいという気持ちがずっとあって…。 その会社も海外事業部をもっていたものの、運よく配属されたとしても、それまで最低でも5年はかかるだろうと言われていました。 あるとき、知人から海外就職を斡旋してくれる方を紹介してもらったんです。その人のすすめで面接を受けたカンボジアにある企業から内定をもらって…。 失敗は早いうちに積んだほうがいい ー夢の海外就職への切符を掴んだんですね? はい。当時、24歳。東京の生活にも慣れて、大好きなディズニーの年間パスポートも買って、仕事にも満足していて…正直、この生活を手放すのか、と思うのは怖くて堪りませんでした。 でも、失敗するなら早い方がいい、という気持ちもあったんです。たくさん悩んで、結果、会社を辞めてカンボジアに行くことにしました。 ーそして、今、日本にいるということは…。 カンボジアの会社は、試用期間が終わる3か月で辞めてしまいました(笑) ーあれだけ望んでいた海外就職がやっとできたのに、どうしてですか? 現地の日系企業に営業をかけて、カンボジアの人材をマッチングさせるのが仕事だったんです。ただ、早々にリストが尽きてしまって。さらに、現地の方を斡旋するので、当然ながら英語も必要になります。なかなかコミュニケーションがうまくいかず、文化の違いも手伝って、失敗することが多い日々でした。 高いノルマが課されていて、社長が高圧的だったこともストレスになりました。あの頃は、人生で一番と言っていいほど、どん底でしたね。「お前は、カンボジア人より高給取りなくせに、カンボジア人より仕事ができないな」なんて怒鳴られるのは日常茶飯事。 ー職場環境に恵まれなかったんですね…。そんな言葉を浴びていると、自信がなくなってしまいそうです。 3か月経って、続けられずに辞めて、帰国まではカンボジアで無職状態でした。なにもすることがなく、部屋から通りにでると、バイクの上でカンボジア人のおっちゃんが寝ているんですよね。それを見ながら、「僕はいま、この人より稼ぎがないんだなあ」なんて思って。 ちょうど、カンボジア渡航時に連絡先が消えてしまっていたというのもあるんですが、SNSも全部やめて、日本へはひっそりと帰りました。その後、しばらくは家族以外の誰とも連絡はとりませんでした。「海外で働くんだ!」と自分を奮い立たすためにも、周りに宣言していたんです。それで、すぐに帰ることになったのが恥ずかしかったのを覚えています。 フリーランスという存在が身近に ー鬱々としていたのが想像できます。そこからどうやって回復していったのでしょうか? 1年半しか東京にいれなかったので、また上京して転職活動をしました。そして、フリーランスの友人たちができました。 もともと、カンボジア渡航前に、「ブログで生計を立てている人がいるらしい」ということを知り、なんとなくフリーランスという働き方を意識するようになっていました。 何度も就職で失敗しているので、会社に縛られずに生きる道に強く惹かれたんです。 東京で再び働くようになって、前にブログで見ていた人が友達になったり、フリーランスの友人が増えたりして、いままでは遠い存在だったのが、急に現実味を帯びました。 ー案外、フリーランスって難しいことじゃないのかも、と感じるきっかけになったんですね。 新しい友人たちは僕の過去を知らないので、気楽で、段々と元気になっていきました。 また、友人をまねてブログを書くようになると、いままでの「新卒で入った会社を4か月で辞めた」も「夢だった海外就職に挫折した」も、単なるネガティブな出来事ではなく、誰かの参考になるコンテンツとして昇華できるなと捉え方が変りました。 ーそこから、フリーランスになったのはどういった経緯なんですか? ブログを書くうちに、知人から、「うちのメディアでライターをやらないか?」と誘っていただけるようになりました。当時は本業としてSESの仕事をしていたので、5時までは会社員、6時から11時までは副業のライターというような生活を送っていました。 ライティングは楽しくて、自分に合っているなと感じられたんです。1か月に30本ほど納品していました。結構、多いですよね。 ー1日に1本くらいのペースですか?副業としてそれをやれる、というのはすごい! そのうち書いている記事が上位表示されるようになってきて、「これはいける」と思って、他のメディアにも営業をするように。「ライター 募集」で検索をして、興味があるメディアに売り込みをしました。すると、5社くらいと仕事をすることになって。 「このボリュームは、もう副業の範囲ではできないな」と考えて、思い切ってフリーランスになることにしました。 ー個人事業主として独立することは、怖くはありませんでしたか? うーん…もちろん怖さはありましたが、カンボジアでの経験があまりに辛かったので、あれより酷いことにはならないだろう、という安心感がありました(笑) 早いうちに失敗を経験しておく、というのはやはりいいことなのかもしれません。 また、周りにフリーランスの友人が多かったので、相談もできましたし、イメージがしやすかったのも支えになったなと思います。 外見を変えると、内面に自信をもてるように ー現在、お仕事も順調で、ご結婚もされて…フリーランスになってから人生が好転していらっしゃいますね。 そうですね。パートナーと出会ったのも、フリーランス仲間との交流の中でした。かなりスピード婚で、付き合ってから2か月後には婚約したんです。 僕はいま、メンズメイクをしていて、ジェンダーレスな生き方について発進をしているのですが、メイクを始めたのはちょうど1年ほど前のことです。結婚式の前撮りのムービーを撮影するとき、パートナーがファンデーションを貸してくれたのがきっかけでした。 ーそこからメイクをするようになったのですか? はい、それが初めての経験で。めちゃくちゃ衝撃を受けました。もともと自分にコンプレックスを持っていて、ずっと肌で悩んでいたんです。それが、ファンデーションを塗っただけで、見違えて!なんでもっと早く試さなかったんだろう!と強く思いましたね。 それから、顔の色んな部分に気を配るようになって、隠すベースメイクなどはもちろん、綺麗に魅せるために女性と同じようにカラーメイクも取り入れています。 ー男性でも、外見の悩みを持っている方は当然いらっしゃいますよね。 そういう方たちに、メイクの良さを伝えたいなと思っています!僕は、いまは毎日の服を選ぶのと同じ感覚でメイクをしています。 いままでは鏡を見ると、自分の顔の嫌いな部分に視線がいき、どんよりした気分になっていました。それが、いまは鏡を見るのが楽しくてたまらないんです! 内面も変化して、自分に自信を持てるようになりました。筋トレと同じく、美容も、努力すればする分、きちんと自分に返ってきます。 この変化をもっとたくさんの人に味わってほしいですね。今後は、カメラ、ライターに加えて、美容関係のお仕事もしていきたいです。 ー渡辺さんの今後の挑戦が楽しみです。本日はありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる ==== 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter) 撮影:橋本岬 デザイン:矢野拓実(サイト)

人との出会いと直感を武器に挑戦し続ける!女性起業家・釜谷あすりの掲げる「若者の主張」とは

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第47回のゲストは、「ジパング協会」代表理事の釜谷あすり(かまたにあすり)さんです。 学生時代にお父様のお仕事の関係でドバイに移住したのをキッカケに自身の価値観の変化を感じ、常に新しいことに挑戦し続けてきた釜谷あすりさんが、どのようなキャリアを歩み独立をし、選挙に出馬するまでに至ったのか…赤裸々に語っていただきました! 挑戦し続けた幼少期〜学生時代。14歳の少女は、ドバイの砂漠で世界の広さを知った。 ー早速お話伺いたいのですが、まず「あすり」という名前が印象的ですね。 よく、芸名ですか?と聞かれますが本名なんです!名前の由来は”アスリート”から来ています。 「何事も恐れずに、チャレンジ精神旺盛に生きてほしい」という親の思いが詰まっている大好きな名前です。私自身、名前負けしないように、小さなころからスポーツはもちろん、様々なことに挑戦して来ました。 ー幼少期には芸能活動にも挑戦されたとのことですが、応募のキッカケはご両親? どちらかというと、自分の意思でした! 最初は習い事感覚で初めていたものですが、次第にメディア等に出ることが面白いと感じ、色々な大人の方に囲まれて、学校では得られない経験に魅力を感じていました。 ー芸能活動をやってみて、いかがでしたか? 小さなころから自分が頑張ったことが写真や映像などの形になっていくことを見て学び、「世の中に出るって面白いな」と感じていました! そこから、ダンスやフィギュアスケートなど、自分で自分を表現することが好きになりました。 特にダンスの活動は、今後も生涯を通して続けていきたいと考えています。 ーもう1つの転機、ドバイへの移住はどんな生活だったのでしょうか? 当時は父の仕事の関係でドバイに移住したのですが、ドバイは今でも第二の祖国として大切な場所です。ドバイは都市と砂漠が隣り合わせであったり、活気ある町ときれいな海があって…日本とは人も文化も違いますし、何もかも新鮮で面白かったです。特に面白かったのが砂漠です。父と耐久レースをした時は現地の新聞にも掲載されました(笑) ーそこでご自身の価値観が大きく変わったと? はい!当時、主に悩んでいたのは、友人関係・将来のこと・勉強の事などでした。漠然とした「自分はどうなるんだろう」という不安や悩みに押しつぶされていたんです。 そんな中、ドバイに来て何もない広大な砂漠にぽつんと立ってみると、何もない世界がひろがっていて、もしかしたらこのまま死ぬかもしれない…とさえ感じるんです。世界はこんなにも広く、自分はなんてちっぽけなことで悩んでいたんだろう…となにかが降りてきたんです。14歳、ドバイの砂漠での出来事は、言葉では言い表せられない経験でした。   1万人以上との出会いをつくり、つながりを活かして「パラレルキャリア」の道へ ー大学生時代には、なんと年間3,000もの人に会っていたとか! 大学1年生の入学直後から始め、様々な人の価値観に触れて感化されました。 人に会おう!と思うようになった背景は、私自身がこだわって自分のスタイルを貫こうと決めてしまっており、ちょっと頑固になっていると感じたからです。 色々な方に会ってインタビューをして、様々な価値観や考え方に触れないと成長出来ない!と思っていました。 年間3,000人、4年間で1万人以上の人に会いました!時間がない時は、「何時何分発の電車の◯号車で!」などもありました(笑) ー途中でくじけたり、諦めそうになった瞬間はありましたか? ないです!とにかく人に会うことが面白いのと、人が好きでお話することが好きで楽しかったです。だからこそ続けられたと思います。 ー非常に「ネアカ」なあすりさんらしいですね。1万人以上会って、気づいたことは? 人が違えば、当然十人十色の価値観があり、善悪の判断があること。 そうやって色々な方の価値観を知って、自分の価値観も広がったと感じます。 人の意見を取り入れ「自分だったらこう思うのにな。」という価値観のキャッチボールを、1万回ほど繰り返してきたことが出来ました。その時期にお会いした方とは、現在も仕事やプライベートで繋がっている方もいます!非常に大きな財産になりました。 ー人脈を活かすも殺すも自分次第。それだけ会って、繋いでいく上で気をつけていることは? 今でも自分でやっていることは、会った時に「〜といったらこの人」と定義(タグ)付けをしています。トマトに関してはこの人!みたいな感じで具体的に。 自分の中で1〜3つ、相手の方にタグ付をすると、困った時や情報を知りたい時に会いやすくなります。お相手も、自分の専門分野を活かせると感じてくださるので良いですよね。 ー新卒でワコール、転職でリクルートを経験し、なぜ独立に至ったのでしょうか。 ありがたいことに、ワコールでもリクルートでも自分のアイディアで企画を出したり、0から1を作る経験をたくさん積ませていただきました。 ただ、起業や独立など様々なキャリアを歩んでいる方との接点も多かったので、自分も挑戦してみたいと日に日に強く感じるようになったんです。 独立後は、若い女性の意見を取り入れたい企業さんのマーケティング活動をお手伝いしたり、5〜6個ほどプロデュース業を手掛けていました。 ーすごい、パラレルキャリアですね。他にはどんなお仕事をされてたんですか? 香りのマーケティングなどもしていました。アメリカや韓国で取り入れられているマーケティング手法なのですが、これは面白い!と思って。 香りの元となるディフューザーを使い、サロン・歯医者さん・イベントを行う企業などへ営業し、香りのコンサルティング業をしていましたね。 また、学生時代から続けていたダンスの、講師をしていました!ダンスの振付や構成はその当時からはじめ、現在もアイドルの振付などをしています。   独立、起業、そして選挙への出馬…20代の女性として今後目指していくこととは? ー独立されてから、経営者であるお父様の背中を見ていたとはいえ、苦労もありました? 当時23歳、社会人2年目。でも自信満々で何も怖くなかったんです!(笑) ただ、仕事が上手く行っても、1人でやれる事以上にはならないと気付き、そこで仲間を増やす重要さに気づきました。人を束ねること、やりがいやモチベーションを人にもたらしたい、と感じるようになりました。組織づくりは今でも勉強中です。 ー現在のメインのお仕事について教えて下さい! 2019年に設立した「ジパング協会」の活動がメインです!現在は代表理事をしています。 ー「ジパング協会」の由来や始めたキッカケは? 何かをプロデュースするお仕事をしたい、と感じた時に「株式会社」ではなく「協会」という形で、社会貢献をメインにしていきたいと感じ、「協会」という形を選びました。 それまでは自分のキャリアをメインに形にしていこうと思っていたのですが、人のために動くことをして、それが自分にも返ってくると信じて活動しています。 「ジパング」は、はるか昔まだ地図がない時に囁かれていた伝説「黄金の国ジパング」から取っています。日本の古き良きものを、新しくリノベーションする…「温故知新」という大好きな言葉を理念に込めました。今は注目されていないものでも、私たちが関わることで再度蘇らせるというプロデュースの方法が好きなので、その活動をしています。 ー自分軸から世のため人のため…という社会軸に移行したんですね。注目を浴びるキッカケが「選挙への出馬」だったと思います。政治の世界に行こうと感じたキッカケは? これまで26年間生きてきて、政治に関わる事ってほぼありませんでした。 ビジネスマンという軸でずっと生きてきて、今後は社会貢献を軸にしようと考えた際に、決意して出馬しました。 ー「渋谷区議会議員」には何かこだわりが? 私も住んでいる大好きな地域だからです。地方から出てきて何かを新たに挑戦する人もいれば、昔から長く住んでいる方も多い地域だと思います。 そんな渋谷区で、若手起業家や女性がもっと様々なことにチャレンジできるような支援がしたい…若者で女性である自分のプロデュースで、それが出来ると信じて選挙に臨みました。落選という結果でしたが、後悔はまったくありません。 今では若者の1人として、日本のことや経済のこと、現在の社会の情勢を捉え政治的観点ももって行動できるようになりました! ー選挙を通じて、新たに見えたこともありましたか? 今の時代、何でもSNSで顔も名前も出さずに匿名で発信できますよね。 だからこそ、世の中の理解をしつつ自尊心を持ちながら意見を言うことが大切だと感じています。今の若者はどこか受け身で、主張しない。それって、人生において非常にもったいないと思うんです。出馬をして、自信をもって主張をし続けてみて、そんな環境を作りたいと感じました。 ーこれまで様々なことに挑戦してきたあすりさん。今後の野望などありますか? 今後は地域での社会貢献活動を見据えて、ジパング協会の活動を強化していこうと思っています。 ジパング協会の“温故知新”を理念に、「ethical(エシカル)部門」「experience(体験型)部門」「renovation(再生/改革)部門」の3部門で日本の古き良きモノやコトを世界に向けて発信し、同世代や若い方々にも楽しくわかりやすく伝えていけるような協会を創り、生活に身近な社会貢献を提案していきたいと思います。 また、教育分野への挑戦を考えています!プロ野球球団のチア講師をアサインして、色々な教育をしていく「チアビューティスタイル」もその一環です。そういった活動を広めていきつつ、自分に自信を持てない人に発信すること、意見を主張することの意味を伝えていきたいです! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 写真:山崎貴大 デザイン:矢野拓実 文:Moe

こだわり抜いて開発した発酵エキスTHE ONE「大切な人に胸を張って贈りたい」

今回は発酵エキスTHE ONEを開発されている株式会社baamの三ツ井さやかさんにお話をお伺いしました。   新卒でITコンサルタントとして働いた後、独立まで至った経緯と彼女の事業に懸ける思いとは。また彼女が自信を持っておすすめするTHE ONEの魅力について語っていただきました。   新しい世界を求めて院進ではなく一般企業へ。  ーまずは簡単な略歴を教えてください。 岡山県出身で、浪人生活を経て東京理科大学に進学し化学を専攻していました。大学卒業後は新卒で2016年にNTTデータに入社しITコンサルとして3年弱働きましたが、心と体の健康に関する事業をしたくなり、昨年独立しました。 ー東京理科大学を進学先に選んだ理由は何かあったんですか。 実は高校時代は進学校にいたものの、遊んでばっかりでいつの間にか偏差値が43になってしまっていました。そんな中、すべり止めをなぜか受けなかったので大学受験を失敗し浪人することに。浪人時代はめちゃくちゃ勉強したんですが、理系科目しかできなかったので本当は経済学部に行きたかったものの断念。化学・数学・英語の3科目で行ける大学を、と考えた時に化学の偏差値が一番高かった東京理科大学を選びました。 ー得意科目で勝負されたんですね。入学後はどんな大学生活を送られていたんですか? 大学生活って華やかで旅行とかにもたくさん行けるというイメージを入学前は持っていましたが、大学時代は研究ばっかりで本当に忙しかったです。朝から晩まで実験や授業ばかりでした。その反動もあり新しいもの見たいなと思って長期休暇があるたびに語学留学するというのを繰り返していました。バンクーバーやロサンジェルス 、ニューヨーク、あとセブにも行きました。 ーその後一般企業への就職をされていますが理系だと大学院に進む人が大多数ですよね。なぜ一般企業への就職を選ばれたんですか。 お洋服が好きだったのでバイヤーになりたいと思ったのが初めのきっかけでした。でも調べていくうちバイヤーになるために百貨店に就職したとしても、まずは数年店舗で販売スタッフをしないといけないことを知りました。それは何か違うなと感じ、それから他の選択も考えるようになりました。留学がきっかけで新しい世界を見る楽しさのようなものを知っていたので化学以外の業界に行きたいと思い、それで安直ですがITかな、と。   働いて気づいた心の健康への興味 ーIT知識ゼロでIT業界に飛び込んでみてどうでしたか。 新卒入社の場合、本来なら2年近くかけて研修を受けて勉強するんですが私はなぜか入社2か月でお客様担当をすることになり大変でした。専門用語が多くお客さんが何を言っているのか分からなくて、知っているフリをしては家に帰って調べる、の繰り返しでした。 ー具体的にどんな仕事を担当されていたんですか。 主に2つの仕事をしていたのですが、1つはお客さん先で回線を使ったクラウドサービスというのを考えて提供するっていうもの。そしてもう1つは、最近だったらよくある仮想デスクトップ、 働き方改革の仮想端末をお客様がどういうものをほしいのかを提案して、それを形に落としていくというものでした。お客さん先がかなり大きくて全体像が見えなかったり、自分じゃなくてもできるんではないかと思ったりしながらも毎日必死で仕事をしていました。 ーそれで退職を考えるようになったんですか。 経営者の家庭で育っていたので、元々会社員になるということをあまり想像できていなかったんです。特にやりたいことがなかったし、社会のいろはを学べるし、と思い就職しましたがいつか辞めるだろうなと思っていました。入社2年目くらいからやっぱり自分で何かしたいなと思うようになり、3年目に担当していたプロジェクトが終わったタイミングで退職を決めました。 ーそこからTHE ONEの開発にはどうやってつながったんでしょうか。 何かやりたいという気持ちを周囲の人に伝えていくうちに、いろんなに声をかけてもらったんですが、そのうちの1つにニューヨークで流行っているメディテーションスタジオ(瞑想スタジオ)を日本に一緒に展開しないかというお話がありました。 私自身、毎日同じルーティンを繰り返しながら働くうちに幸せってなんだろうって思うことがよくありました。なので人の心を癒す場所が日本にもあればいいなと思ったので一緒にやりたい!と思ってんです。でも当時はまだ心の健康についての社会の関心は薄く、本格的に進めるのはまだ時期的にはやいなとも感じました。そこで心の健康に繋がる何か…と思っていた時に健康食品の会社からお声掛けいただいたんです。化学を勉強していたことが活かせると思い健康食品の開発に携わることになりました。 ーそれが結果的に健康食品の分野で独立するきっかけに? はい。健康食品ってどうしても原価との兼ね合いなどがあって妥協した商品ができてしまうんです。私はアドバイザリーという立場で関わっていたので決定権などがなかったんですが、やっぱり自分の大切な人に胸を張って贈れる商品を作りたいと思いました。 最近、ナチュラル志向・オーガニック志向の方が増えたことによって、そういった製品の需要が増え粗悪な商品も出回っちゃうようになりました。なのでもっと安心して使ってもらえる商品を世の中に提供してきたいという思いで独立を決めました。   自信を持って勧められるようこだわり抜いたTHE ONE  ーそんな中でTHE ONEが誕生したんですね。なぜ発酵エキスに注目されたんですか。 心と身体の健康という点に着目した時に両方に密接に関わりがあるのは腸だと思ったんです。免疫細胞の7割は腸にあるということと、幸せホルモンと呼ばれるセロトニンの9割が腸で作られていることから、腸を整えるということにアプローチしたいなと。 腸内環境を整えられる商品は代表的なものだとサプリメントかと思いますが、サプリメントは含有量が少なく、吸収率もあまりよくないんです。そこでドリンクタイプにこだわりたいと考えました。調べてみると、市場で売られているドリンクタイプの多くは水で薄めていたり人工甘味料や添加物が入っているものが多かったんです。添加物は消化するのにエネルギーが必要だったり、体内酵素を使ってしまったりします。 腸内環境に良いとうたっているけれど、実際は腸内環境に悪い影響を与えるものが含まれているので、天然のものしか使っていないものを作らないと!という使命感に駆られました。 ーそんな思いのこもったTHE ONEには82種類の成分が入っているとか。 はい。本当に腸内環境を整えるのに必要な良い物を探した結果82種類の素材になりました。素材の多くは私の地元である岡山県の契約農家さんから、スーパーフードなど日本で栽培できないものは海外から取り寄せています。化学物質を使わない、100%無添加にこだわってつくりました。 また、3年半発酵しているのでかなり低分子化されており消化吸収しやすいのが特徴です。  ー飲むとどのような変化が感じられるんですか? THE ONEは日々の健康の為に飲んでいただく場合とダイエットを目的としたファスティングの時に飲んでいただく場合を想定しています。ファスティングをする際、通常の酵素ドリンクなどを使用するとどうしても不純物が含まれていることが多いため便通が悪くなってしまいがちです。 THE ONEを飲みながらのファスティングの場合便通がよくなるのでただファスティングをする時より痩せるなどの効果が見られます。他の添加物が入っている商品だとどうしても体内の酵素を使ってしまうので、その分効果が出にくかったりしますが、THE ONEではそういう心配もありません。   地道な努力でファンを探す ー会社を退職して約1年でTHE ONEを完成させられていますね。やろうと思っても実際にやるまでのプロセスが全くイメージできない人が多いと思うんですけど、どういうふうに試行錯誤されたんですか。 私の場合、健康食品の分野でアドバイザリーをやっていたので基礎の工程が分かっていたこと、大学で化学を勉強していたので調合に関する知識があったことがスムーズに進められた要因になったと思います。「あ、このために理科大だったのか」と思いましたね。  また、私は作りたいものがこれと決まっていたので動き出したらはやかったんだと思います。 ービジネスをスタートさせるとなると初期費用もかかると思います。資金面ではどうされたんですか。 そうですね、受注生産ではないので初期費用はかなりかかっています。500万円くらいは借入しましたよ。  ー500万円を借入し、去年の10月に晴れて一般販売をスタートしてみて反響はどうでしたか。 「本物ってこういうものなんだ」とか「一週間しか経ってないのに効果を感じました」などの想像以上にうれしい反応をいただきました。100%無添加・原液を薄めていないというこだわりを貫いたからこそいただけた声だと思います。 と、同時にビジネスの大変さというのも日々感じています。私は見切り発車型なので(笑)作るのに必死で販路の事とかは商品ができるまで実はあんまり考えていなかったんです。 ー認知度ゼロからのスタートですもんね。どのようにお客さんにアピールされたんですか。 これまで携わってきた健康食品がうまくいっていたのは広告費をすごくかけていたからなんだなと気づきましたね。でも私は広告に膨大な費用は費やせないし、アフィリエイトは怪しい商品と思われたくないのでやりたくなかったので地道に売るしかないなという結論になりました。 スタートしてから4か月間ほどはセミナーとかに参加して登壇して、健康についてお話しする際に、THE ONEを配ったりしました。あとはジムに行って試食販売を実施したり、エステサロンさんに営業したりしていました。 ーいろいろやってみてどうでしたか。 結果、口コミが一番間違いないなと実感しました。 THE ONEは本当にこだわって作っているものなので、飲んでいただけたらその良さをわかっていただける自信があります。THE ONEの良さを知ってもらって、少しずつファンが増えていけばいいなと思っています。   THE ONEで自分と向き合う時間の確保を実現したい ー起業はやるもやらぬも自分次第だし、会社員と比べてもメンタル疾患になる人の割合が7倍多いとかっていうデータもあります。三ツ井さんはどうやって起業家としてモチベーションを維持したりパフォーマンスを維持しているんですか。 意識しているやっていることは2つあります。 1つは周りの信用できる経営者さんが何人かいるんですけど、その人達に壁を作らず、心配事や悩み事を全部相談するということです。元々自己開示は苦手だったんですが、見栄とかプライドを捨てて心配事や悩み事を相談した方が自分も楽になれるし、先輩方もアドバイスがしやすいんだと気づきました。 もう1つは毎朝20分瞑想することです。この時間を持つことによって物事を俯瞰して見ることができたり、客観的に今の状況を見たりすることができます。第三者の目線みたいなのを瞑想で養っているという感じですね。 ー尊敬できる、信頼できる経営者の先輩方の存在は貴重ですよね。どうやって出逢われましたか。 学生時代から人脈作りは結構意識していましたね。出会ったら終わりではなくて、こまめに連絡をしたり繋がりたい人には会う約束をこぎつけたり。あとは今月はもう誰からの誘いも断らない「三ツ井キャンペーン」を実施して新しい人に出逢える場所には積極的に足を運んでいました。 ー三ツ井キャンペーンを始めた理由とかはあったんですか。 気分ですね(笑)1年ぐらいキャンペーンしているときもあります。予定ない日の方が少ないみたいなことがずっと続いていたり。でも逆に1か月だけキャンペーンをお休みすることもあります。  ーそうやって人脈を増やされたんですね。逆に瞑想を続けて変わったことはありますか? そわそわするとか不安とかいう気持ちが全くなくなったというと語弊があるんですけど、かなり少なくなりましたね。しっかり自分と向き合うことができて基本的には落ち着いて物事をこなしていける感じになったと思います。 ー今はコロナの影響でこれから先行きが不透明な中、瞑想は心を落ち着けるのに役立ちそうですね。最後に今後の展望を聞かせてください! 今はTHE ONEをつかって腸内環境を整えることで心と身体を愛でましょうというアプローチをしていますが、今後はそれにプラスアルファして心と向き合う時間をTHE ONEと一緒にとっていただきたいなと思っています。 具体的にはチェックリスト等を付けることで自分自身と向き合う時間を確保していただき、自分の心と身体の変化に気づいてもらえないかと検討しています。ただ飲んでいただくのではなく、THE ONEと一緒に自分の心と向き合ってもらう習慣ができたらいいなと思っています。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる <取材:西村創一朗、撮影:小林 桜々、執筆:松本佳恋、デザイン:矢野拓実>

ビジネスと研究を接続する。自学自習をテーマにした、博士課程CEOの挑戦

「ビジネスと研究は相容れないもの」そう思われる方は多いのではないでしょうか。しかし、ビジネスと研究の二足のわらじを履く方もいらっしゃるんです。  色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ第40回目は、修士1年で株式会社パラリアを設立し、博士課程として研究しながら、CEOとして働く浅見貴則(あさみたかのり)さんにインタビュー。 経営者でもありながら、博士課程の学生でもある浅見さん。どのように、異なる肩書きを持つようになったのか。起業までの紆余曲折と、研究・事業への想いをお聞きしました。  努力のやり方が下手だったからこそ、自学自習の大切さに気付いた ― 学習塾を経営しながら、博士課程で研究もなさっているんですよね。 そうですね、珍しい選択だと思います。少し特殊な環境だから出来ているキャリアですけどね。 大学では、学習環境に関する研究をしています。なので、経営している塾がそのまま研究対象になるといいますか。生徒がどんな風に勉強しているか観察して、仮説を立てて、少し環境を変えてみる。そして、また観察して分かったことを教授に見せに行く、というサイクルですね。 ― どのようなテーマの研究なんですか? 塾の方針も含めて、キーワードは「自学自習」です。どのような環境だったらストレスなく自ら勉強できるか、が大きなテーマになります。 その実験の一環で、高校生の勉強環境を網羅したいと思って、塾では3スペース用意しているんです。 ― 珍しいですね。3つも。 一つは、よくある個人ブースのような形で、無音で勉強できるスペース。二つ目は、カフェのようにBGMが流れていて、ある程度の音が許容される環境。三つ目は、完全にリラックスできるような環境です。冷蔵庫とかウォーキングマシンがあったり、休むためのスペースですね。  生徒はこの3つのスペースを自由に行き来できるようになっていて、そこでの過ごし方を研究しているような形です。 ― 塾が研究所のようになっているんですね。学習塾を経営しようと思ったのは、研究心からだったんですか? 元々は研究にも仕事にもする気はなくて、単純な興味だったんですよ。自分の大学受験の失敗が大元のきっかけです。 勉強って、やればある程度出来るものだと思っていたんですけど、全然上手くいかなくて。努力を成果につなげるには、正しい努力が必要なんだな、と実感したんです。そこから、「自分で考えること」に興味を持ち始めました。 ― 受験当時は間違った努力をしていたんですね。 当時は気付けなかったですけどね。僕、自他ともに認める真面目な生徒で、学校の成績は良かったんですよ。でも、模試の結果はいつも悪い。 今思えば、頑張り方がひどかっただけなんですけど、周りは励ましてくれるんですよ。「お前は真面目にやってるから大丈夫!」って。僕もやってきたことが間違っているとは認めたくないから、励ましを信じて頑張ったけど、結局成績は伸びなかった。 不合格の結果が出て初めて、自分のやり方は間違っていたんだ、と気付きましたね。 ― そこから、どうやって勉強法を学んでいったんですか? 浪人中に通っていた塾で、とある数学の先生と出会ったんです。かなりのおじいちゃん先生で、授業の仕方も昔ながらだったので、生徒受けは悪かったんですけど、めちゃくちゃ頭が良くて。「なんでこんな数式思いつくの!?」っていう解法で答えを出したり。 量で誤魔化していた僕とは正反対だ、この先生の考え方を知りたいと思って、その先生に弟子入りしたんです。そこで、何十年のキャリアの中から、教えてきたことや教え子の話を聞くにつれて、思考のレベルが一段上がった感じはありました。 ― これは本当にためになった、と思う教えとかってありました?  僕、計算ミスをしてしまうタイプだったんですけど、それを相談したときに「計算ミスをしないためには計算をしないことだ」って言われて。それしか言ってくれないので、もはや禅問答ですよね(笑)。 要は、計算ミスしがちな複雑な解法をしている時点で間違っている、ということだったんです。自分でそこに辿り着いたときは、視界がクリアになった感じでした。 ― その先生に視点を引き上げてもらったんですね。 しかも、思考のレベルが上がると、数学以外の教科の成績も上がるんですよ。面白いですよね、考え方一つでここまで変わるなんて。 この実体験で感じたことは、いま生徒と接する中でも大切にしていることかもしれません。 人生を変えられる人になりたい。偶然の出会いから、起業が自分ごとに 自学自習や大学受験に興味はありましたけど、別に仕事にしようとは思っていなかったんです。経営工学を専門に選んだのも、いつかやりたいことが見つかったときに役に立つ、という理由だったので、起業を考えてもいませんでした。 ― そこから、起業に傾いたきっかけはあったんですか?  本当に偶然なんですけど、SNSで知り合った人とご飯に行く機会があって、経営工学を選んだ理由を話していたんですね。そうしたら、その人が何を勘違いしたのか「あ、じゃあ社長やりたいんだね!」って捉えちゃって。 「知り合いに学生で社長やってる人いるから紹介するよ!」って、その場で電話し始めたんですよ。僕、コミュ障なので、電話を制することもできず、そのまま会う予定が決まっちゃうっていう(笑)。 ― おぉ、急展開ですね……。  ここで会わないのもな、と思って、その社長さんと会ったんですけど、その人が物静かな感じの人で僕と波長が似ていたんですよね。社長って、何となくタフでエネルギーに満ちている人、っていうイメージだったんですけど、こんな人でも出来るんだって、急に身近なものに感じたんです。 そこから起業に少し興味が湧き出して、つないでもらって色んな方とお話するようになりました。 ― 起業が一気に自分ごとになったわけですね。  でも、そうやって話しているうちに僕と同い年の人が出てきたんです。同い年で、会社持ってます、って。その人と話したときに、「俺、完全に遅れてるな」と焦りを覚えたんです。本当は、勝ち負けの話ではないんですけど。 そこで、人と会うのをパタっと止めて、自分は何がしたいんだ、ということをひたすら突き詰める時間にして。そこから2ヶ月ほど考えた末に、自学自習に関することを仕事にしたいと思ったんです。 ― そこで、勉強に関することに行き着いたのはなぜでしょう?  僕を変えてくれた先生が頭にあったから、だと思います。周りになんと言われていても、僕の人生を変えてくれましたから。地位とか名誉よりも、そういう人生を変えられる人がカッコイイ、そういう人になりたいと思いました。 まさかの借金100万円。試行錯誤を経て起業へ  ― 方向性が見えてからは、順風満帆だったんでしょうか? いや、もう全然です(笑)。起業しようと思ったものの、情報が全くないので、まずは勉強しようと思って色々調べたんです。  初めて知りましたけど、世の中には起業塾みたいなものがいっぱいあるんですね。そこの営業を受けて、「社長やるならお金の知識がないとダメだよね」「営業力もないといけないよね」と不安に煽られるように、講座をいっぱい受けるようになって。 今思えば、思考停止で動いていただけなんですけどね。そこで借金が膨らんじゃいまして。 ― どれくらいまで?  100万ちょいまでいきました。 ― 学生としてはかなりの高額借金ですね……。そこからどうしたんですか?  そんな状況だったので、友達の誘いを断り続けていたんですけど、ふと「あれ、俺なにやってるんだろう」って我に返ったんです。塾をやりたかったはずなのに、何で人間関係を犠牲にしてまで、飛び込み営業の訓練やってるんだ、また頑張り方間違えてるぞ、って。 我に返ってからは早かったですね。まず借金を返すため、今までの活動時間を全部バイトに充てて、半年くらいで返し終わりました。その後は、軸を見失ったことを反省して、すごいと思う人に僕から教えを請おうと。そこで、一番最初に会った社長に「お金は払うので、色々教えて下さい」と頼んで、受験ノウハウのブログを書き始めたりしました。 ブログからオフラインでのセミナーや、オリジナル教材の販売に繋がったりして、大学4年の頃から軌道に乗り始めましたね。 ―  軸が定まってからは一気に。  やっぱり心から反省したのは大きかったですね。バイト中も、借金返し終わってからやりたいことをずっと考えていたので、軸をブラさずに一気にシフトチェンジできましたし。 ― では、その活動が軌道に乗って起業に至ったんですか?  実は、もうひと山あるんです(笑)。ブログやセミナーで稼げるようにはなったんですけど、修士1年のときにやる気がなくなってしまって。 土台はできているので、あとはブログ発信などをやり続けるだけなんですけど、全然気が乗らず、「このままでいいのか…?」と悩み始めてしまったんです。 ― またもや見失ってしまったんですね。  今回は悩み抜いても答えが全然見つからなくて。それが修士1年の冬だったので、これは自分の挑戦はバッドエンドとして終わって、就活するしかないのかな、と思っていたんです。 でも、そんなときに紹介で、パラリア共同創業者の先生方とお会いして。「生徒にとって、ストレスフリーに勉強することが一番良い」という考え方が一緒だったんですよね。そこで盛り上がって、「新しく塾を開きたいと思っていたから、一緒にやらないか」と誘ってもらえたんです。 「俺の挑戦がバッドエンドで終わらずに済む!」とも思っていましたが、本当にやりたいことでもあったので、ぜひ、と。ようやく、経営者でもあり学生でもある、という肩書きの始まりですね。 ― 紆余曲折を経ての起業だったんですね。卒業後、経営者一本でやっていこうとはしなかったんですか?  博士課程への進学はかなり悩んだんですけど、修士卒でそのまま経営者になると「ただの経営者」でしかないんですよ。 それだったら、博士課程に進学して、とことん自学自習を深堀りしてやろうと思ったんです。博士課程と経営者を両立している人は少ないですからね。自分の挑戦としては申し分ないな、と。 ライバルは高校生なんです。博士課程CEOの挑戦 ― 実際、学生さんを見ていていかがですか?  やっぱり、主体的に勉強する姿は気持ちがいいですよね。そこでのストレスがないから、結果的に勉強以外でも活き活きしてくれますし。 ― 主体性や自主性に寄り添う塾なんて、なかなかないですもんね。  ただ教えるだけでは見つけられない、その子の想いを知れるのは良い点だと思います。例えば、なかなか成績が上がらず、個人塾を転々としていた学生さんがいたんですけど、その子、実はめちゃくちゃ魚が好きなんですよ。 ― 魚?  魚の学術書を図書館に自分で申請して、休み時間も読んでいるくらい。たまたまそれを知ったときに、その興味を応援したことがあって。知り合いの財団が、若い人に研究費あげたいけれど候補がいない、と困っていたので、「研究計画作って出してみようよ」って一緒に計画を作ったんです。 そうしたら、見事に研究費をとれまして。その子の家が水槽だらけになるっていう(笑)。 ― え、めちゃくちゃすごいじゃないですか!  普通に塾に行ってたら、そんな興味を知ることも後押ししてあげることもないですからね。しかも、結果的に勉強するんですよ、魚のことを知ろうとしたら。数字も知らないといけないし、論文を読むには英語を勉強しないといけないし。 受験勉強においても、「この研究室に入りたいから、受験勉強を頑張る」って思考のレベルが一個上がるというか。勉強が目的じゃなくて手段になっているので、主体的に勉強してくれるんです。 ― 良いサイクルですね。やらされ感がなくなりそう。  そうやって生き生きしている生徒を見ていると、どんな場面でも主体性って大事なんだな、と思いますね。  よく「どうやったら自分の興味が見つかりますか?」って社会人の方からも聞かれますけど、大抵の場合は興味を自分の手で殺しているだけなんですよ。 ― 興味を殺している?  どこかで「これが好きだけど仕事にならないし」とか「これで食ってはいけないし」とか、社会性にかこつけて諦めてしまっているんです。 それが悪いわけではないですけど、諦めていることに気付いてない人も多いですからね。答えは自分の中にあるのに、外に答えを求めて空回りしちゃう。 ― 確かに……。興味を探している人に限って、「現実的じゃない」と諦めている人は多いかもしれません。 こんな偉そうなこと言っていますが、僕も頑張らないと。僕、ライバルは高校生だと思っているんです。  ― 高校生がライバルなんですか?  大学受験って、今までしたことないくらいの努力をする時期だと思うんです。そういう子たちを見ているので、この子たちに負けないくらい頑張らないとな、って。 自学自習というテーマは永遠だと思っているので、その軸だけはもうブラさずに。毎年新しく入ってくる生徒たちに、「この人すげえ」って思われるような努力をしていきたいですね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる ===== 取材:山崎貴大 写真・文:安久都智史 デザイン:矢野拓実

3,500人のフォロワーで月商500万円。Instagramで大切なコンセプトメイキングとコミュニティ意識

株式会社リクシィで働く傍ら、DtoCやマーケティングコンサルを行うハピラフ合同会社(以下、ハピラフ)を経営する、富田竜介(とみた りゅうすけ)さん。 社会人3年の中で、計5社を経験。確実にキャリアを築き上げ、今ではご自身が運営するInstagramのアカウント(メンズアパレル関連)で、月商500万円を売り上げています。 そんな富田さんに、前半では「入社1年目から圧倒的な結果を出す方法」をお伺いし、後半では「Instagramの運営のコツ」や「ハピラフの展望」についてお聞きしてきました。 法人化をしたのは節税がきっかけ。ハピラフの主な事業とは? ー では早速よろしくお願いします。まず、ハピラフを立ち上げた背景をお伺いしたいです。 富田 竜介(以下、富田):よろしくお願いします。何でも聞いてください。 立ち上げたのは、現職のリクシィに入社する前で、複業としてはじめていました。法人化するつもりはなかったのですが、公認会計士だった幼馴染が「法人にした方が節税になるよ」って教えてくれて。 ー 最初は節税対策だったんですね。 富田:そうですね。そしてIPOは考えていなかったので、合同会社で作りました。 ただ、事業をやっていく中で「もっと会社を大きくしたい」「もっといいサービスを作っていきたい」と思うようになり、今では様々なサービスを展開・準備をしています。 ー ハピラフでは、具体的にどんな事業を行なっているのでしょうか? 富田:最初は複業でいろんな企業の「マーケティングアドバイザー」としてお手伝いしていました。受託系の仕事が多かったですね。 そこから展開し、今では「DtoC事業」「SNS支援事業」「インハウス支援事業」「ECコンサル事業」「メディア事業」「マーケティングコンサル事業」と拡大しています。 大学4年の2月に早期入社。半年後にはクォーターで1.1億円の受注。結果を出せた理由とは? ー 富田さんは社会人3年目で、5社経験しているんですよね。ファーストキャリアはどこを選ばれたのでしょうか? 富田:最初は、株式会社マイクロアドという広告代理店を選びました。 僕は学生時代、資生堂のアルバイトで美容部員をしていました。元々化粧品のマーケティングに興味があって社員さんに相談したところ、「新卒からマーケをしたいなら代理店に行った方がいいよ」とアドバイスをくれて。 たくさんの広告代理店がある中、マイクロアドを選んだのは、人・裁量権・環境の3つが、僕の就活の軸とぴったりだったからです。また、僕は「下克上精神」があって、ナンバーワンの企業ではなく、これから出てくるような会社で働きたかったんですよね。 ー なるほど。実際に入社されて、どうでしたか? 富田:有意義な時間を過ごせました。ただ僕の場合少し特殊で、大学4年の6月から週5でインターン生として働いていて、その間(約6ヶ月)、すでに広告運用に携わっていました。 ある一定の成果が出たので「早く社員として働きたいです」と伝えたらOKをいただき、2月には早期入社をさせてもらいました。営業をしていましたね。 がむしゃらに頑張りました。その甲斐あって、早期入社した3ヶ月後には、僕が担当していた会社初のコンペで受注することができ達成率が700%を達成し、そこからクォーターで1.1億円分を受注しました。 また自分のミッションが「バイネームで受注する」でそれを2年目の頭に達成することができました。 そこで「自分のミッションを達成できた気がする。別の環境で学んでいきたいな」と思い、転職しました。 ー すごい、1年目から成果が出たんですね…。新人の頃はどんなことを意識されていただんですか? 富田:いくつかあるんですが…。まずは、誰よりも早くオフィスに行っていましたね(笑)。毎日6〜7時には到着していて、本を読んだり、尊敬する上司や先輩に、話を聞きにいったりしていましたね。 営業が得意な上司や、資料作りが上手な先輩、ロジカルシンキングが凄まじい先輩など、たくさんいらしゃって。積極的に自分からコミュニケーションを取って、教えを請いに行きました。 ー それはめちゃくちゃ伸びますね…!そこからいくつかの会社を渡り歩いたんですよね? 富田:はい。広告代理店や広告主内のマーケティングを主に担当していました。5社目の今は、株式会社リクシィというウエディング企業で働いています。 フォロワー3,500人で月商500万円達成! ー では話を戻して、現在のハピラフについて再度お聞きしたいです。最初は企業のマーケティングアドバイザーとして受託の仕事が多かったとのことですが、DtoCをメインにしてきた理由はなんでしたか? 富田:僕自身、元々美容が好きなんです。大学時代は、美容部員としてアルバイトをしていたくらいなので。「ライフスタイルに関わるものをDtoCにしていきたいな」という想いも強く、色々と準備をしてきました。 今は、メンズのリユースなどを手がけていて、中古で仕入れたものを販売しています。 ー Twitterで宣伝されていたのを拝見しました。かなりハイペースで売上が伸びたとの事ですが、どれくらいか聞いてもいいですか…? 富田:立ち上げて4ヶ月が経ったんですが、今はフォロワー3,500人前後なのですが、単月で500万円前後売り上げました。 初月は2万で、そこから11万、60万、500万と順調に伸びています。来月は1,000万円で着手しそうです。今はInstagramだけで運営しています。 ー 凄まじい伸び率ですね…! 富田:他にも「節約チャンネル」というアカウントをInstagramで運営していて、4ヶ月で5万フォロワー、5ヶ月で10万、8ヶ月で20万フォロワー、10ヶ月で25万フォロワーまで伸ばせましたね。 Instagramで大切な「コンセプトメイキング」と「双方向のコミュニケーション」 ー 先ほど3,500人のフォロワーで単月500万円、1,000万円の売上を作れた→そうとのことでしたが、具体的にどんな運営を意識しているんですか? 富田:1番はやっぱり「コンセプトメイキング」だと感じています。 スマートニュースの西口さんがよく、独自性・便益・オリジナリティが大切と伝えているのですが、まさにその通りだと思っていて。 インスタは基本的にはワンコンセプトが大事なので、コンセプトをずらさずに「ひとつの世界観」を創り上げることが、本当に肝なんです。その点を徹底的に考えています。 ー なるほど…。他社さんを見ていて「損しているな…」と思うことはありますか? 富田:どうしても「セールはじめました」「新商品でました」といった情報ばかりで、コミュニケーションが一方通行な気がします。非常にもったいないですね…。 Instagramは「双方向のコミュニケーション」が重要と言われています。コミュニティに近いので、「どんな商品が欲しいですか?」と投げかけると、フォロワーさんからコメントをいただけるんです。 フォロワーの要望を取り入れることで「このお店は私たちの想いを汲み取ってくれる」と思ってもらえるので、積極的に意見を頂けるんです。 たった3,500人のフォロワーと思われるかもしれませんが、コミュニケーションを活発化することで「熱量の高いコミュニティ」になります。 ー インスタがコミュニティになる、という発想がなかったです。アカウントは非公開なんですか? 富田:もう少し大きくなってから出したいので、今は公にしていないですね。 夏ぐらいに3,000万円の売上になりそうで、そのタイミングで店舗を出し、アカウントも公開する予定です。もう少し気長にお待ちいただけるとうれしいです! ハピラフの展望。”ジョーカー”になれるような集団でありたい ー では最後に、ハピラフの展望についてお伺いしたいです。 富田:大きく2つあります。1つは、今のサブスクリプションの概念を変えていきたいです。正直、僕は今のサブスクに面白みを感じていないんです。 ほとんどのサブスクが定期購入をさせて、いかにユーザーに長く使ってもらうかに重きを置いているんですよね。 ただ、本当にいい商品を購入する時って、”サブスク”ではなく”都度買い”だと思っていて。例えば、僕は鼻炎持ちなのですが、6歳から20年くらいずっと同じ鼻スプレーを使っています。 わざわざサブスクにはしないんですよね。なのであえて、都度買いだけのサービスを運営してみたいです。 富田:もう一つは、メンバーがハピラフを「自分のライフスタイルの中で”活躍できる場所”」として、うまく活用してほしいなと願っています。 実は、ハピラフは「JOKER〜切り札をあなたに〜」というコンセプトを掲げているんです。 僕はいろんなスタートアップで経験・支援をしてきたんですが、「ピースがないから事業が伸びない」という事例をたくさん見てきました。 そこでハピラフでは、クライアントに「ジョーカーになれるような切り札を提供するんで、この人材と一緒に事業をグロースさせますよ」と伝えたいです。また、そんな集団でありたい。そうすることで、ハピラフのメンバーは自分がやりたいことをハピラフで叶えられる。 メンバーとクライアントの双方がWin-Winとなれる環境を作りたいですね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗、執筆:ヌイ、撮影・デザイン:矢野拓実

「僕は勝手にCEOです」おせっかいな起業家が生み出すのは、守るためのビジネスモデル

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第38回目のゲストは株式会社MIKKE代表取締役の井上拓美さんです。 日本初の“吸うお茶”のブランド「OCHILL(オチル)」共同創業者、日本全国でシェアハウスを展開する株式会社リバ邸取締役、シーシャカフェ「いわしくらぶ」取締役、コワーキングスペース「ChatBase」やWebマガジン「KOMOREBI」、ラジオ番組「ハミダシミッケ」などのプロデューサー…井上さんが関わるプロジェクト、そしてポジションを並べると止まらないほど、たくさんの事業に参画されています。 ただ、そんな彼に「肩書きは?」と尋ねると、先に整列させた言葉はでてきません。 起業家、だけど、その型に嵌め込むにはあまりに変幻自在で大きな輪をもった井上さんに、これまでの歩みと、その先で芽生えたビジネス観について取材しました。 ビジネスのはじまりは「もう一回、会いたいから」という気持ち ー井上さん、本日はどうぞよろしくお願いします。多くのプロジェクトに関り、肩書きもその数だけ増えているかと思いますが…ご自分をどう他人に紹介していますか。 よろしくお願いします。 自分を紹介する肩書きは、相手によって変えるようにしています。誰かと会ったときに僕が一番強く思うことは「この人と友達になりたい!」ということなんです。僕、とても寂しがりやなんですよね(笑) 人と会ったときに「もう一回、この人と会えないかなあ」という気持ちが沸き上がるんです。「僕の肩書きはこれです!」と言ってしまうと、その人のなかで関係性に対するバイアスが出来上がってしまうように思います。なので「僕はこういう者です」って差し出すのではなく、その人の話を聞き、自分がその人のために出来ることを探して伝えます。 ー井上さんは少し変ったデザインの名刺を持っていらっしゃっていますよね。 この名刺のデザインにしたのも、そういった理由からです。やっていること、好きなこと、やりたいことなどをいっぱい並べて、相手に興味があるものを言ってもらうんです。そこからどんどん深く話を進めていくと、仲良くなれることが多いです。 色んなプロジェクトに携わっていますが、肩書きは決めないようにしています。出会ったその人がその人なりに解釈して、その人の言葉で僕を表現してくれたほうが仲良くなれるし、嬉しいよなあ、って。最近だと、「何をやっているか分からないけど、MIKKEの井上拓美という人がいるらしい」って声も聞こえるようになってきました。それが面白い。 使うつもりはありませんが、もし無理やり肩書きを自分に付けるとしたら、「勝手にCEO」かな(笑) そういう感覚でプロジェクトに関わっています。 ー「勝手にCEO」、なるほど。様々なプロジェクトを並行して進めていると思いますが、どのようなきっかけで井上さんが参加することになっているのでしょうか。 日本発の“吸うお茶”のブランド「OCHILL」の場合は、完全にただのおせっかいからスタートしましたね。 もともと、僕がプロデュースしたコワーキングスペース「ChatBase」のクラウドファンディングに支援してくれていたのが、シーシャカフェ「いわしくらぶ」の店主である磯川大地さんだったんです。それからいわしくらぶに通うようになって、シーシャにももちろんハマったんですが、何より空間全体に惚れていきました。もともとChatBaseで実現したかった空間が、いわしくらぶにあったんです。もう「ここでいいじゃん!」って思って、週に3,4回は行くようになりました。 ー週に3,4回!?かなりの頻度ですね。 そのうち、自然な流れで磯川さんから相談を受けるようになり、「どうやら意外と大変な状態みたいだぞ」というのが見えてきました。そこで、勝手にCEOをやりだしたんです(笑) 収支計画書がなかったので作ったり、そもそも何がやりたいのか、何が大切なのかを一緒に言語化していったり、お客さんをどうやったら巻き込んでいけるかを考えたり、なんならお客さんを呼びまくったりしていました(笑) ーとてもありがたいおせっかいですね。 いろいろやるなかで、「いわしくらぶを今後どういう形で続けていくのがいいのか」まで考えるようになり、フランチャイズ化もありなのではないかと検討しました。その道を模索するうちに、いわしくらぶの想いをまとったシーシャのモノがあれば、場所はどこでもいわしくらぶ的な空間になるのではないか、ということに気付いたんです。そこで今度は、「OCHILL」というシーシャの構造を応用した、“吸うお茶”のブランドの立ち上げをすることになりました。 高校を卒業して起業へ。「ただの見栄だった」 ー高校卒業後に、大学へ進学をしなかったのはどうしてですか? 僕は自分のことを、かなりスタンダードな「ゆとり世代」だと認識しています。漫画に憧れて、ドラマの主人公を真似た格好をして育ち、インターネットに出会った。高校3年生の時です。僕が暮らしていた札幌でもインターネットが広がり始めていました。。インターネット上の有名人がすこしずつ現れるようになり、「俺もきっと何者かになれるはずだ」って思えてくる。ただ、何になれるかは分からない、何をしたいのかも別に分からない。そんな中で、大学受験で落ちてしまいました。 ー受験はしたけれど、行けなかった。浪人という選択肢はなかったのでしょうか? そもそもテストという一般化された評価軸で測られることが苦手でした。そのときに知っていた選択肢は、大学進学のための浪人か、専門学校進学か、アルバイト。根拠の全くない思い込みで「何者かになれるんだ!」とプライドだけは高かったので、どれも選びたくなかった。でも結果、実家でゴロゴロしていました(笑) ーそこから起業へと行動が移ったのにはどういったきっかけがあったのでしょうか? 母親に「自立しなさい!」と言われて、そのとき思いついたのが「お金を借りよう」だったんです。そこから銀行に通い詰めるようになりました。門前払いを受けたんですけど、毎日通ううちに、銀行員さんと仲良くなって…18歳が銀行に通うなんて、きっとないですから、可愛く見えたんでしょうね。 でも結局お金は借りられなくて。そこで、日本政策金融公庫の存在を教えてくれたんですよ。「ここは何かを始めたい人のためにお金を貸してくれるところだよ」って。そこで「何か」を始める必要性ができて、高校生のときに飲食店でアルバイトをしていたので「お店ならなんとなくわかるんじゃないか」って飲食の事業を始めようと決めました。 ー日本政策金融公庫からの元手で飲食店を始めたんですね。 いえ、実は借りられなくて…。ただ、事業計画も作って、物件も契約して、お店を始める準備は整っていたので、もう、やるしかなかったんです。最終的には、約6年ぶりに会った父親から借りることに。そしてイタリアンのお店をオープンさせました。 いま思い返すと、頭が悪かったなあって(笑)別の選択肢を全く考えられなかった、知らなかった。学校は、学ぶ内容は教えてくれますけど、学び方は教えてくれないじゃないですか。学び方が分からないから、何を知れば自分の選択肢が広がるのかも分からなかった。そんな状態がずっと続いていたような気がします。 ーそんな状態でも、開業まで辿り着いたんですね。イタリアンは、井上さんが作りたかったんですか? お金を借りた段階では、どんな飲食を提供するか決まっていませんでしたね。そもそも僕は料理を振舞いたかったわけでもなかったし、振る舞うほどのスキルもなかったので、シェフが必要で、料理ができる人と出会うために飲食店を回って聞きまくったんです。「余っている人、いないですか?」って。 ーそんなこと聞く人いますか?(笑) いないと思います(笑)当然、余っている人なんていなくて。ただ、あるお店で、「うちの店と合わないんだよね」と言われている60代の料理人と出会いました。その人はイタリアンをやりたがっていて、独立を考えていたんです。ただ、どうやればいいか分からない。そもそも、その料理人も経営に興味はなくて。対して僕はお店のコンセプトなんかは考えていない。なので「経営に関することは僕がやるので、好きな料理を提供していいですよ」と言ったら、その人がシェフになりました。それで、イタリアンのお店に。 ーコンセプトもなく、料理人任せでイタリアンのお店をスタートして、うまくいったのでしょうか? 1年半ほどで黒字になり、2年を過ぎた頃には借金の返済もできました。 今の時代は、まず最初にコンセプトを作ってから何かを始めることが多いですよね。当時の僕は、まず始めて、やっていきながら「このお店は、こんなお店かもしれない」って気付いていく過程を面白がっていました。 もちろん、最初から順調だったわけではありません。国道沿いのお店だったのですが、車がまったく止まらず、いつまで経ってもお客がこなかった。そこで、周辺に住んでいる人たちに注目したんです。この人たちが来てくれるようになったら「食っていけるぞ」と思って。とりあえず話すことから始めてみようと挨拶をするようになりました。そうすることで、そこにどんな人たちが住んでいるのかを把握していきました。ご年配の方が多く、昼間からスナックやパチンコに行っているんですよね。 ーそんな人たちをどうやって自分のお店に引き込んだのでしょう? 町を散歩してひたすら挨拶をしたり、スナックに通うようにもなりました。未成年だったのでお酒は飲めませんでしたが、ビートルズや玉置浩二さんの歌を歌えたので、仲良くなっていけて(笑) その人たちは、別に昼間からお酒を飲みたいわけじゃなかったんですよね。寂しくて、人と触れたがっていたんです。スナックのオーナーさんもご年配で、昼間からお店を開けることに負担を感じていました。なので、「うちの店で無料のコーヒーを出しますよ」って提案をしました。そうしたら、昼間はうちでコーヒー、夜はスナック、というルーティンができてきました。最初は、本当に無料のコーヒーしか飲まなくて(笑)でも、続けていくうちに彼らにも申し訳なさが芽生えてきたのか、料理も注文してくれるようになって…そこからは早かったですね。それまで食べなかった人が食べるわけですから、売り上げが倍以上になりました。 この経験から、まずは行動によってコンセプトが生まれると強く感じました。自分が起したアクションが、外からどう見えるかによってコンセプトは変るんです。この感覚は、今のプロダクト作りにも活きていますね。 上京、起業。「好きなこと」が分からなくなる ー北海道で飲食店を経営し、その後、20歳の時に上京をされますよね。どうして活動の拠点を東京にうつしたのでしょうか? 2年半飲食店をやって、飽きてきたっていうのが正直な気持ちでした。そんなときにビジネスコンテストに誘われて、「交通費はでるし、参加費はいらないし、行くか」という軽い気持ちで参加したのですが、そこで優勝してしまったんです。主催者の上場企業が、出資すると言ってくれたので、上京して起業することになりました。少し酔っているときに返事をしてしまったので、結構ノリでした(笑)そのときはまだ、飲食店の方はどうするかなんて考えていなくて…。 ー上京をして、新規事業に参入するのは大きなハードルに思えますが…。 そもそも、何かを始めるときに大きな意識や行動を自分自身がもつ必要があるとは思っていません。そういったものが必要なタイミングは訪れることはあるでしょうけど「それまで待ってよう」くらいの姿勢でいます。 ー上場企業から出資をうけての企業。全く違う業界になったわけですが、苦労はしましたか? Webサービスの開発にあたったんですけど、その頃、エンジニアっていう存在すら知らずにいたので…。とにかく難しかったです。ただ、サービスの完成から逆算して考えて、進めて、大きな失敗とかはありませんでした。ユーザーも増えて、うまくいっているように思えていましたね。でも「僕、誰のためにやっているんだろう」って問いが生まれてきたんです。 Webサービスがどんどん誕生していて、その波にのって東京の真ん中で開発をして…何も考えていなかったんですよね。その先の、単純な「自分は何がしたいんだろう」という問いへの答えが分からなくなった。 そうなってからは、友達に「何が好きなんだと思う?」ってひたすら聞いていました。そのタイミングで、出資してくれた社長から今後の話を聞かれて、サービスとしても天井が見えていたので「もっと勉強したいです」と伝え、入社することにしました。 辛いからこそ分かった、自分の感情が向うところ ー初めての会社員生活ですね。しかし、その企業は入社して数カ月で退職されたようですが…。 本当に小さなストレス積み重ねです。朝の電車が辛い、とか。だってドアから人がはみ出しているんですもん。そんなのに乗れない、ってホームに引き返したこともあります。 上場企業だったので、優秀な人が集まっていて、そういう人たちのことを知れたのは学びでした。自分で起業、経営をしてきたので天狗になっていたんですよね。優秀な、仕事が出来る人を前にして、自分が出来ない奴のように感じました。ただ、そのことについて考えれば考えるほど、そもそも彼らとは世界線が違うんじゃないかな、という違和感が芽生えたんです。 「この気持ちはなんだろう」と考え抜いた先に、株式会社の構造そのものに疑問が生まれました。会社の中の一部署で仕事をするってどういうことかというと、「なぜ」が決まっていて、それに対してのビジネスモデルの仮説が決まっていて、事業があって、行動が決まっていて、目指す先まで…ある程度、経営会議で決定済みの事項なんです。その固まってしまった中で、僕らに「具体的にどんな方法でやると良いのか、クリエイティブに考えろ」って託されるんですよね。 「『具体的にどうやるか』から始めたら、クリエイティブに考えられるんだろうか?」それが、僕が抱いた違和感でした。だって、もう枝まできてしまっているんです。クリエイティブを発揮するのであれば、本来、根っこから解決しないと出来ないよ、と思って。大企業だと仕方がないと思うんですけど、その構造を受け入れられず、1ヵ月で辞めてしまいました。 ー1ヵ月で!もうすこしいれば変わるかも、とは思わなかったのですか? 蕁麻疹が出るようになってしまって…。ただ、あの会社員生活がなかったら今の僕はいなかったので、無くてはならない経験でした。辛かったからこそ、自分の役割やポジションを模索し続けて、その結果として好きなことや得意に気付けました。 ナチュラルな状態を大事に。守るためのビジネスモデル ー会社員を辞め、再び起業家に。 辛すぎて、やりたいことがいっぱいでてきて、それを解放するために株式会社MIKKEを立ち上げました。ただ、明確に、この事業を、とか、こういう会社にするぞ、というビジョンが定まっていたわけではありませんでした。 「友達と仲良く楽しく飲んでいて、そしたらいつの間にか一緒に始まっていた」みたいな流れを面白がりたい。「自分の感覚に純粋でいられる状態を作りたい」という想いで活動しています。僕のプロジェクトや仕事は、必然性や偶然性をとても大事にしています。ナチュラルな状態であることが心地いいんです。「何かをするために何かを捨てなきゃいけない」とか「こうしなきゃいけない」とか、そういうのが嫌なんです。いつの間にか自然と「こうなってしまった」という状態を大事にしたいと思っています。 ー先ほどの「なぜ」から始まる体系的なビジネス思考とは違いますね。 決して、循環させるための構造やお金の必要性が先にくることはありません。縁起として繋がる偶発性や、言語化しきれない感情…そういうものを大事にしていきたくて、それを守るためにビジネスモデルを作ろうと日々あらゆるプロジェクトや事業を生み出しています。 ー本日はありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter) 撮影:橋本岬

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