キャッチに騙された僕がAV男優に。早稲田大学3年・篠塚康介さんに訊く!挫折から未来を始める方法

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第171回目のゲストは、株式会社BasicIncomeでインターン生として、働く篠塚康介(しのつかこうすけ)さんです。 池袋でキャッチに「AV女優とやれる」と騙された経験をブログに書いて、ネットでバズを起こし、一世風靡した早稲田生の風俗ブロガー篠塚さん。株式会社BasicIncomeから、月20万円のベーシックインカムをもらった第1号者。そして、大学生でありながらAV男優としてデビューを果たす。その後、株式会社BasicIncomeのインターン生になった篠塚さんに、不安の乗り越え方や現在に至るまでの過程を迫りました。   「人を信じてはいけない」と本気で思った小学生時代 ー篠塚さん本日はよろしくお願いします!それでは早速、簡単に自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか? 風俗ブロガー、AV男優、株式会社BasicIncomeでインターン生として働いている篠塚康介です。大学2年生の9月から風俗に通っていて、風俗の体験ブログを書いていたら、去年の6月に大学側に風俗ブログを書いていることがバレました。大学の教務課に呼び出されて、教務課に「君のブログは誰も傷つけていないし、それなりに文才もあるから気をつけながら頑張りなさい」と言われたんですよ(笑) その経験をTwitterで発信したらでバズって、週刊ポストに取材されたり、ライブドアブログに掲載されたこともあります。 でも、元々早稲田の風俗ブロガーではなく、AV男優になるつもりだったから、早稲田の風俗ブロガーからAV男優に転身して、2018年11月にAV男優としてデビューしました。コロナが始まる前は、AVに出ていて、現在は株式会社BasicIncomeでインターンをしています。 ー今日は様々な経歴をお持ちの篠塚さんの過去について迫りたいのですが、篠塚さんはどんな少年だったのですか? 小学生の頃はもうずっとゲームばかりしている少年でしたね。当時遊戯王にはまっていて、学校から帰っても宿題をせずに遊戯王ばっかりしてました。 誰にも負けたくなかったから、お年玉やお小遣いをぜんぶ遊戯王につぎ込んで、4,000円ぐらいするカードを買うほど本気でやってました。でも、4,000円で買ったカードを紛失してしまって、「いくらお金を費やしても、いつかは失われていく」という恐怖を小学生の時に味わったんです。 ー小学生の頃からもう文才の片鱗が見え始めていますね。大切なカードを紛失したのはなぜですか? たぶんカードゲーム屋さんで、友達とバトルしていた時に盗まれたのかもしれないですね。その時にひとつ気が付いたことは、「身の回りの人を信じてはいけない」ってこと。疑心暗鬼かもしれないんですけど、人間って本音はわからないじゃないですか。本当に信用できるかどうかって、例えば長年付き合っている友人でも裏切ることがあるから、僕は信用できないんですよ。 ー小学生ながら現実的ですね。ちなみに、篠塚さんは過去を振り返ったりするんですか? ええと、自分の過去のできごとを、小学生の頃からずっとブログに書いてましたね。今も「できっこないをやらなくちゃ」をテーマにブログを書いていて、過去の体験が、今にどんな影響をもたらしているのかを考えるのが好き。だから、自分の振り返りとして書くことが多いですね。 ーええ!小学生の頃からブログを書いてらっしゃるんですね。ちなみにどんなきっかけで、ブログを始めたのですか? 小学3年生ぐらいにブログを始めたんですけど、それは初めて好きになった女の子が毎日ブログを更新していたからなんです。好きな子は頭が良くて、クラスで人気のある女の子。好きな女の子が、ブログを更新しているとかめっちゃ見ちゃうし、毎日書いた文章を読めるなんて超幸せじゃないですか! 「お互いにブログを見せ合えば仲良くなれるんじゃないか」って、好きな女の子と仲良くなるために、始めたら自分がブログにはまっちゃいました...   高校受験の挫折が東大を目指すきっかけに ー大学受験の時に東大を目指していたとのことなんですけど、何がきっかけで東大を目指すことになったんですか? 高校受験した時に、地元の有名進学校に4人受けて、僕だけ落ちたんですよ。それがもうめちゃくちゃ悔しくて... 中学1,2年の時に勉強をサボって、中3から勉強を始めたんですけど、それでは遅すぎた。あと中学1,2年の時に、内申点が良くなかったのが原因で落ちました。高校で同じ思いをするのは嫌だと思ったし、大学受験の時に同じ挫折を味わいたくなかった。 高校に入る前の春休みの1ヶ月ってあるじゃないですか。その時にみんな遊んでると思うんですけど、僕は高校の勉強の予習を始めて、高校に入ってからいいスタートを切ろうと思って高校に入ったんですよ。入った高校は埼玉県の私立高校だったんですけど、部活をあんまりやらない高校で、1番上のコースは東大を目指すコース。高校に最初に入った時に、勉強合宿があって、そこで悪い意味で洗脳されちゃうんです(笑) でも、「お前らはいい大学に入るためにこの高校に入ったんだから高校受験の時に味わった挫折を糧に死ぬ気で勉強しろ」という先生の発言に、完全に火がつきましたね。高校受験の辛さを味わいたくなかったし、もう1番上のところを目指した方がいいと思ったのがきっかけですね。 中途半端な勉強をしたら、また同じような悔しさを味わうんじゃないかって恐怖から、圧倒的努力で大きな成果を残そうと考えていました。 ー圧倒的努力。今の篠塚さんに、ぴったりなお言葉ですね。勉強を頑張っていく中で、辛いなと思う体験はありましたか? うーん、なんだろう。高校に入ってからは予習復習もめっちゃしてたし、いろんなことに興味を持って勉強し始めたら、結果がどんどん出たんです。中学生の頃は勉強がダメだったけど、高校に入ってからは自分でもびっくりするぐらい模試の結果も良かったので、辛いとは感じませんでした。むしろ結果が出るのが楽しくて。 うちの高校は勉強第一の高校なので、その中で勝つっていうのが楽しい。クラスの中でもトップを取っていたし、みんなが勉強を頑張っている中で、結果を残すのはゲームみいな感覚でしたね。 ーすごいですね。受験の結果はどうだったんですか? 受験は明治大にセンター利用で受かって、早稲田は3つの学部に全部受かって、東大だけあと10点ぐらいで落ちてました。 東大は2日間受験があるんですけど、2日目の昼に早稲田の文学部の合格発表が出たんですよ。受験の最中に合格発表を見たらだめなんですけど、最後の東大の英語だったかな。昼休みの最後に早稲田に受かっているかを確認したら、安心してしまった。東大1日目で手応えもなかったし、正直きついかなと思っていたら、本当に落ちてました。 ーあと一歩だったんですね。浪人は考えなかったんですか? 周りに「あと1年頑張れば絶対行ける」って言われることもあったんですけど、僕の友達は部活をやったりしていて、その残された時間で受験をしてたわけなんですよ。でも僕は3年間勉強に費やして、ここまでやって受からないならもう受からないなと。きっぱり諦めて、大学に入ってから次の目標を見つけた方が人生楽しいかなと思って、第二志望の早稲田に入学しました。   池袋でキャッチに騙され、ぼったくり被害にあったことをブログにしたら超ウケた ー単刀直入に聞きますが、なんでSEXしたいと思うようになったんですか? 大学受験は割と成功したと、自分でも思っています。でも早稲田に入って、恋人ができず、童貞卒業もできない。地元のあまり勉強をしていなかった友人には彼女ができて、SEXしまくってるのが悔しくてたまらなかった。 死ぬほど勉強して早稲田に入ったのに、恋人ができず、SEXもできないなんて報われなさすぎじゃないですか? 悔しかった。めっちゃSEXしたかった! ー19歳の時に「池袋で童貞を卒業する」という目標を持たれるということなんですけど、何がきっかけだったんですか? さっきも言ったんですけど、僕はめちゃくちゃSEXがしたかったんですよ。友達がみんな童貞を卒業し、童貞卒業宣言をしていく中、自分は童貞を卒業できていない。「ああ、もしかしたらこのままSEXできずに死んでしまうかもしれない」と19歳の頃に思った。「将来彼女ができた時にSEXの仕方がわからなくて困らないようにSEXしておこう」と思って、2018年6月8日の金曜日に池袋の風俗に行きました。これが僕の人生のターニングポイントってやつですね。 池袋で「AV女優とやれるよ」とキャッチに声をかけられて、その時に持っていた全財産の12万円を騙し取られました(笑)SEXもできずに全財産を騙し取られて、「こんな情けない男は死んだ方がいいんじゃないか」って。「俺はこのままSEXができず、騙されて死んでいくんだ」と思ったら情けなくて、死にたくなりました... ー壮絶な体験ですね...そこからどうやって立ち直ったんですか? いつかぼったくりされた体験を、絶対笑い話にしてやろうって決めたんですよ。ずっと「俺何やってんだろう、だめだ」ってなっていたら人生つまんないし、ポジティブに考えていきたいから、去年の9月からブログを始めました。 初めての記事がぼったくられた体験を書いた記事です。ぼったくられてから3ヶ月後に記事を書いたんですけど、それまでぼったくれた経験が恥ずかしくて... でも、もう笑い話にしてやろうって。大学生には、僕みたいにぼったくられる人がいると思うんですよ。そういう人たちにエールを送りたいって思い始めたら、失敗をポジティブに捉えられるようになりました。「この12万円ぼったくられた経験が俺を変えた」と将来思うことができれば、報われるなと思ったんです。 ーブログを公開した後の反響はいかがでしたか? 地元や大学の友人からたくさんLINEがきて、「お前のブログめっちゃ面白いな」って言われましたね。高校の時は大学受験ブログを真面目に書いていたんですよ。でもその時は、自分の文章は全然うまくないなって。でも大学で文学部でたくさん本を読むようになり、「人生で初めてちょっとだけ文才があるかも」と思える文章が書けるようになっていた。 文才があるかもしれないと思ったら、自己肯定感が高まるし、自分の失敗や考えを語ったらみんな楽しんでくれるんじゃないかなと思って、そこから狂ったようにブログを書くようになりました。   ネガティブな過去でさえも未来に昇華。前を向く強さはどこからくるの?  ー自分の失敗談をブログに書くことで、いつか笑い話にしてやろうと方向性が決まったわけではなかったと思うんです。ブログを公開する前に、篠塚さんが日本中をひとり旅したとのことなんですけど、それはどんなきっかけがあってひとり旅に出ようと考えたのですか? ひとり旅に出たのは、大学2年の夏休みです。夏休みにひとり旅に出た理由は、ぼったくられてお金がなくなって、死ぬほど働いて暇だったから。あとは103万円の扶養を7月の段階で超えそうになっていて、お金も時間もあったからひとり旅をしようかなと。 青春18切符を買ったり、ヒッチハイクをしたり、とにかくいろんな場所に行きました、でもひとり旅に飽きちゃったから友達と合流して、東京から宮城の石巻に行って、岩手の陸前高田に行きました。陸前高田には震災の時に残った奇跡の一本松があって、そこに行けば、何かがあるかもしれないと。 道中はヒッチハイクをしたんですけど、その時に、NPO法人の方に出会った。「明日たこ焼きパーティをするから子供たちと遊んでほしい」って条件で、車に乗せてもらうことができたんですよ。 子供たちと遊んでいた時に、罰ゲーム付きのババ抜きをやって、僕は「なんでもやってやるよ」って子供たちに豪語しました。そしたら小学生の子供に、「千葉まで歩いて帰ってほしい」って言われたんですよ(笑) ーええ!もしかして本当に帰っちゃったんですか? あ、はい。帰りました(笑) 言われたことは「なんでもやる」って言っちゃったし、あと暇だったし... この話には続きがあって、陸前高田で奇跡の一本松を見た時に、震災で津波が来た時にそれでもなお立ち続けた奇跡の一本松みたいになりたいと思ったんです。岩手から千葉まで歩き切ったら奇跡だなと思ったんですよ(笑) 歩いて決めてからすぐに荷物を郵便で家に送ったんですけど、親には「お前何やってんだ。電車賃出すから電車で帰ってこい」と言われました。 でも、「俺は強くなりてぇんだ」と親の提案をはねのけて、11日間かけて440km歩きました(笑) ー11日間かけて440キロも歩いたんですか!すごすぎる...その経験で変わったことはありますか? 11日間も歩き続けたら頭がおかしくなるんですよ。頭も精神もおかしくなるし、ずっとブツブツひとりごとを喋ってました...でも歩いている時に、頭がおかしくなって、「俺は将来有名になるな」って。有名になった時に、自分の経験を面白おかしく語る人間になろうと思って、ブログを書こうと思った。 9月の頭に歩いて、千葉まで歩き切ることができたらブログを始めようって。 ブログでたくさん自分の経験を書いて、将来自分が読み返した時やいつか有名になった時に、「篠塚さんもこういう過去があったんだ「っていう記録を残しておきたかった。ひとり旅があったからブログを書きたいって気持ちになったし、もっとたくさん面白い経験をして、友達を笑わせたいって思ったんですよ! ー子どもたちの罰ゲームで生まれた旅ではあったものの、そこには大きな意味があったのですね。 子どもたちはまさか俺が千葉まで歩き切ったとは思ってないだろうし、俺のことなんか忘れてると思うけど、男に二言はないし、やると決めたことは最後までやり通したかった。 岩手から千葉まで歩くのは多分みんなができないこと。想像よりも辛いし、寝るところもない。でも自分は強くなりたかったから、歩道橋の下で寝たりしていました。あと夏の日中に歩くのは暑かったから夜中に歩いていたんです。誰もいないところで音楽をかけて歩くのが楽しかったし、昼間にご飯食べるために食堂とかに行きました。 ヒゲも生えてたし、清潔感がないからいろんな人に心配されて。事情を説明したらみんな笑ってくれて、携帯を充電させてくれたり、「ちょっと寝ていきなよ」って、布団を貸してくれたりとかその時に「周りの人が自分を助けてくれる」って気づきました。 ー株式会社BasicIncomeのベーシックインカム受給者の第1号になるとのことなんですけど、どんなきっかけでベーシックインカムを知ったのですか? 去年の3月にツイッターでたまたま「毎月20万円あげるから日常をドキュメンタリーで撮りたい」って企画がタイムラインに流れてきたのがきっかけですね。これに受かったら人生が面白くなるなと。毎月20万円をもらって自分の人生がドキュメンタリーになったら面白い。夏に一人旅をしていた時に思っていたことと繋がって、「俺はこの企画で有名になるんだな」と。神様が篠塚康介をベーシックインカムシネマズで有名になると仕向けたとその時は天命みたいな物を感じた。 それが大学3年生の時。もともと大学3年生の時に中国に留学に行くつもりだったんですよ。人生面白いことをしたいから、一人旅でたくさん歩いた後に、中国を歩きたいと思って。大学は中国文学を専攻しているので、中国の大学に留学の応募をしたら受かっちゃって。中国に行って、中国語をペラペラになるか、毎月20万円もらってAV男優になるならどっちが面白いかを考えた。そしたら「中国に留学に行くのは誰でもできるけど、毎月20万円もらってAV男優になるって誰もできないなって。 サンボマスターの「できっこないをやらなくちゃ」を聞きながら、僕はAV男優になる決意をしました。   不安がないとか嘘。僕は不安を抱えたまま乗り越えていく ーAV男優になるは今までのお話に出てこなかったんですが、いつ頃からAV男優になろうと思ったんですか? ブログを書いてる初期は、ずっと強さを履き違えている単なるバカやろうだったんです。バナナのコスプレを着て、大学でバナナを配る」、「夜中に山を登る」とか、強くなるためにとにかく変なことばっかやってましたた(笑) 去年の1月に友達と「沖縄の風俗に行って、どっちが面白いブログを書けるか勝負しようぜ」ってなったんですよ。えっと、風俗のレビューを実名顔出しのアカウントで書いたんですよ。男友達がいきなり実名顔出しで、風俗ブログの体験を書いたら怖くないですか? 「うわ、なんだこいつ」って思うと思うんですよ。大学のコースの女子には絶対全員から嫌われるのが確定していると思いながら、やるしかないと、そのブログがもうめちゃくちゃうけた。 去年の1月から3月ぐらいまでずっと風俗に通い詰めて、それをおもしろおかしくブログに書くことにハマってた時に、台湾に語学研修として3週間だけ行ったんです。 その合間に台湾の風俗に行って、風俗の体験を記事に書いてました。あと台湾のバスに乗っている時にゲイの人に痴漢にあって。ブログのネタのために、ずっとわざと痴漢されてたんですけど...その時に「男ともSEXできるな」と思っちゃった(笑) 自分の中で色々話が繋がって、「風俗ブログを書く」、「男とSEXができるかもしれない」という仮説、その時に自分はエロに特化した男になろうって。 AV女優という甘い言葉に騙された童貞の僕が、AV男優になってAV女優とSEXできたらこんなサクセスストーリーはないでしょ。これが僕の「サクセスSEXストーリー」。略して「3S」と呼んでるんですけど、漫画とか映画になりそうだなって。騙された童貞がAV男優になるなんてこんなに面白いことはないと思ってる時に、株式会社BasicIncomeの企画がTwitterで流れてきた。 ータイミングがばっちりだったんですね。 そうなんです。大学3年生のみんな就活や留学に行くのにふざけんなと。そんな既定路線に自分は乗りたくないって若気の至りってやつですかね。どうしても自分にしかできない、誰にもできないことをやりたかった。早稲田からAV男優になる夢をどんだけバカにされるんだろうか、そしてたくさん批判されるんだろうなって。でももう不安がある意味楽しくなってきて、11日間歩いたり、バナナのコスプレでバナナを売ったりして、メンタルがバケモノ級に強くなった。 どんな批判があっても、絶対やりきる人間になれると、思ってAV男優になることを決めた。その時に「俺は早稲田からAV男優になるから、有名になるんだ」って思ったんです。去年の3月に思いました。 ー篠塚さんの過去がすべて繋がったのですね。周りが就活や留学をする中で、不安はなかったのですか? うーん、不安がないことはないですね。早稲田に行くまでは、レールに乗っていた人生だったし、それこそ「東大に行きたいって行ってたやつがなんでAV男優?」ってなると思うんですよ。 僕は1人っ子なんですけど、親が学費をたくさん払ってくれて、そんな中でAVに出るってのがやりたかったんですけど、親を悲しませるんじゃないかとか、将来取り返しのつかないことになるんじゃないかと思った。「早稲田からAV男優になる」ってすごいリスクだと思うんです。 誰も選ばない道だけど、誰もやらないこと。そして、リスクを背負うから大きなチャンスなんじゃないかなと。誰かが決めた幸せでは自分は幸せになれないと思った。レールに乗った人生だと安定志向になってしまう。 早稲田の学生はみんな大企業を狙うんですよ。大企業に行く人を否定はしないんですけど、所属しているコミュニティを肩書きにするのはかっこ悪いと思った。僕は大企業の名前を看板にするのではなく、「篠塚康介」で勝負したかったんですよ。 不安がないとか嘘。俺だって怖いし、誰もやったこともないからアドバイスももらえないし、みんなにやめとけよって止められるからそりゃ不安しかないですよ。でも、有名になった人も不安がないわけがない。不安を乗り越えるからこそ有名になれるのかなと思ったからこそ、不安を抱えたままやってやろうと思った。 他人の誹謗中傷を、自分の原動力に変えていく ー昨年の11月に実際にAV男優になられたわけなんですけど、実際に強い気持ちを持てたのはなんでだったと思いますか? 応援してくれる人もたくさんいたんですけど、実は応援してくれる人が力になったわけじゃなくて、俺をバカにしてきた人が自分の原動力でした。 風俗ブログがバズった時に、2chでスレを立てられて、「こいつの人生終わったな」とか「早稲田まで入ったのに、AV男優とか頭悪すぎだろ」とか誹謗中傷を受けまくってたんです。それがめちゃくちゃ悔しくて、「お前らなめんなよ」って思いながら、毎日自分の悪口を見てました。 実はLINEのメモに、自分を誹謗中傷してきたやつの内容を全部残してあるんです。あ、訴えるつもりとかさらさらないですよ(笑)そんなことはどうでもよくて、泣けるぐらい悔しいからそれがエネルギーになるんです。 LINEのメモを見たら毎日泣くことができるし、朝から夜までずっと悔しい思いをしています。人間は、信念がないとすぐに怠けちゃうんですよね。でも、俺は絶対に有名になりたかったから、悔しさを原動力にするために、あえて毎日悔しさを味わってました。 ーなるほど。篠塚さんがAV男優として実現したいことや性に関して思うことはありますか? AV男優に関しては、コロナがきっかけで出演が減って、その中で恋人ができたんです。 恋人は僕の応援をしてくれてるんですけど、恋人がAV男優だったら嫉妬とかすると思うんですよ。AV男優はSEXもできるし、お金を稼げるいい職業だなと思ったんですけど、恋人を傷つけてまでやるのは違うなと。だから今はAV男優はやっていないんです。 ただAV男優をしている時に、意識していたことはSEXで人を動かすんじゃなくて、SEXの前後のストーリーで人を動かしたいと思っていました。ただAVに出るんじゃなくて、どういう気持ちで自分がAVに出たのか、 そして、見てくれる人がどうやったら楽しんでくれるかを意識しながら出演していた。自分にしかできない方法で人を楽しませたかった。例えばAVの出演が終わった後に、Twitterで「めっちゃ気持ちよかったわ」と言いながら、歌を歌う配信もしてました。とにかく人を楽しませることばかり考えてました。 ー最後に、篠塚さんの今後の方向性もしくはやりたいことを教えてください。 僕は「できっこないをやらなくちゃ」ってモットーに崩したくなくて、有名になりたいと思った2年前と比べてこうやって取材をしてもらえるぐらいには有名になったと思うんですよ。 でも常に自分は何も成し遂げていない、まだどん底だと自分を誹謗中傷してきた人の投稿を毎日見て、悔しさをバネに挑戦していきたいなと。挑戦をしなくなったら、人生がつまらなくなる。どれだけ失敗しようが、どんだけ笑われようが、挑戦しているやつはかっこいいと思っています。 「人生つまんないんだよね」って言ってる人と一緒にいてもつまらないし、それよりも「人生最高」って言っている人と一緒にいたいと思うから、「できっこないをやらなくちゃ」にずっと挑戦していきたい。 今の自分に「できっこないをやらなくちゃ」は、日本にベーシックインカムを導入すること。 大きな夢はあるけど、時間やお金がなくて挑戦できない若者。僕みたいに世間体を気にしている人がいると思うんですよ。でも、僕は株式会社BasicIncomeに20万円をもらって、アルバイトをやめて、自分のやりたいことを思う存分やれるようになった、 今はインターン生っていう肩書きなんですけど、肩書はどうでもよくて、自分が社長だと思っています。日本でベーシックインカムを広めるのは社長の池内慶ではなく篠塚康介だと。 「日本政府がやらないなら俺がやってやる」 自分のやりたいことに挑戦して、みんなに「人生は最高だ」って思ってほしい。 だから、ベーシックインカムの導入を日本に実現することが僕の今の目標です。  ー篠塚さんの、今後に活躍に期待しています。本日はありがとうございました! === 取材:あおきくみこ(note/Twitter) 執筆・編集:サトウリョウタ(note/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

大学生でブランド立ち上げ!?湯浅遼太は、LEGITで藍染めを纏う

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第165回目のゲストは、LEGIT代表の湯浅遼太(ゆあさりょうた)さんです。 藍染めを活かした服飾品を製造するブランド「LEGIT」を立ち上げた湯浅さん。「生きた証はデニムの色落ちと経年変化で残せる」と話し、下駄や羽織りや巾着などの世界に1つだけの製品を販売。父親の暴言と、母親の動揺と、妹の泣き声の狭間で学生時代を過ごしますが、家族が頼りにしていたのはジーンズを通しての結びつき。人生をかけてやりたいことに答えを見つけた湯浅さんに、人生を自分色に染める秘訣を伺いました。 自分の変化を纏う。ブランドへの想い ー自己紹介をお願いします。 湯浅遼太です。琉球大学の学生ですが、現在は休学していて、岡山県倉敷市児島に住んでいます。コミュニティ型ブランド「LEGIT」を運営し、藍染めを中心に、下駄や羽織りなどの製品を企画・販売しています。僕が企画し、パートナーさんと一緒にパターンを組んで、生地屋さんに生地をおってもらい、縫製工場に仕様を依頼をして製品化するんです。7月に販売した藍染めの羽織りは生産中で、僕も生産者と一緒に爪が青くなるぐらい藍染めの工程に関わっています。今後は、LEGITの雑誌を制作し、メディアとしての役割も持たせていきたいなと考えています。 -ブランド名の由来を教えてください。 生デニムのことを、RIGIDデニムと呼ぶんです。また、LEGITには、アメリカ英語のスラングで「本物、かっこいい」という意味があります。沖縄で生活していたときに耳にしたアメリカのスラングと、デニムを追い続けている中で出会った言葉をうまく融合しました。僕はしょうもない駄洒落や言葉遊びが好きなんです(笑)。 -いろいろな洋服の型があるなかで、なぜ羽織りを選んだのでしょうか。 羽織りを着ると、心の感覚を研ぎ澄ます瞬間や感覚にぐっと寄り添っていけるんですよ。偽物と本物という二項対立で出てくるような本物なのではなく、あなたの心が「かっこいいな」「いいな」と感じた本物。その瞬間は人それぞれです。なぜそう思ったのかで、自分らしい羽織りの着こなし方ができる。藍染めの経年変化は、自分らしさを出せる手段の一つなんですよね。 -デニムで羽織りをつくる理由はなんでしょうか。 藍染めをよく観察していれば、「ここが変わってきたな」とわかるんです。目の前の1着を愛せたら、物や社会や世界に対して愛する眼差しを向けられるのではないかと思います。藍染めの羽織りは、経年変化を観察し、服に対峙する自分に意識的になって欲しいという想いを込めています。 経年変化を身に纏う意識があるだけで、僕は人生が楽しくなったんですよね。だから、羽織りを着ている人同士がコミュニケーションを取るコミュニティをつくりたい。着用した感触を、自由に語りたいんです。色落ちやシワをじっくり観察して、記憶や思い出を振り返り、明日の自分を思い描いて欲しいなあと思います。 「なぜ、父親は怒鳴るのだろう」悩む青春時代 -幼少期はどのような生活を送っていましたか。 僕が小学校高学年から高校2年生ぐらいまで、父親が精神的な病を患い、家族に激しい暴言を浴びせていました。通勤できない時期もあるぐらい、本人もコントロールできない様子でした。実家では、妹は泣き叫び、母親は必死になだめようとしていて…。 僕は反抗期だったので妹や母親に力を貸せず、自分勝手に振舞う父親に反抗的な態度をとっていました。悪いのは父親ではないんです。僕が病気を理解できずに、家族の仲をかき乱す父親に不満を抱いていて…。本当は、家族に優しく接したいのに、全然できないんですよ。「なんでできないだろう」と悩んでいました。 -家庭内で問題を抱えながら、学校での生活はどうでしたか。 家族の外、学校が自分の居場所でした。授業では積極的に発言し、特に好きな科目であった理科は担当教員と頻繁に授業内容について話をしていました。たまたまその先生が生徒会の顧問だったので、僕を生徒会長に推薦してくれたんです。お互いの性格が分かっていたから、信頼関係が構築されていたのかもしれないですね。 幼稚園から続けたサッカーでは、インターハイをかけた試合でベンチ入りメンバーに選ばれるほど活躍していました。メンバーはクラブチーム出身の生徒が多いので、プレーが秀逸な選手がばかりでした。持久力や雰囲気づくりに自信があり、僕は監督の声を拾って伝えることや、的確な判断を瞬時にすることで役割を果たしていました。選手として地元メディアで取り上げられた経験もあるんですよ。 -大学進学と共に沖縄県へ移住されたんですよね。 琉球大学がある沖縄では、米国文化が町中に浸透しています。僕はそこで、日本が敗戦国だったと実感しました。僕の家庭は争いの火種がくすぶっているので、戦時中の沖縄と重なるように思えたんです。そして、沖縄に駐留する米軍に関心を持ちました。 当時は米軍基地に入り、米軍の方とコミュニケーションをとる機会がありませんでした。そこで、米軍基地の内部について僕自身が知るためにも、米軍基地内でイベントを開いてみたいと考え、友人に相談しました。そして、米軍とつながりのある人を探し、僕とその友人で企画を進行しイベントを開催。米軍基地内で地元大学生との交流会を実施しました。参加者の方が一様に楽しかったという顔をしていて、やってよかったなあと嬉しかったです。 ジーンズと、家族と、友人と -その後も、米軍との交流会などの活動は続けられたのでしょうか。 米軍のヘリコプターが不時着した問題が起き、何もできない状況が続きました。沖縄県民の間で米軍に対する視線が冷たくなり、市民が米軍と関係を構築することに前向きではありませんでした。僕の活動団体では、焦って関係性を修復するための行動をとるには時期を見極めないといけないと考えていたんです。ある日、自己分析のイベントを仲間と一緒に主催します。そこで、米軍基地という、わかりやすいものに自分が飛びついていたと気づいたんです。そして、「自分が人生をかけてやりたいことってなんだろう」と思い悩みました。いろいろ活動していたものの、自分の中に最終的に何も残ってないんじゃないかと落ち込みます。 一深い悩みにはまり、そこからどうやっていまの「ジーンズ」というやりたいことにつながったのでしょうか。 成人式の時期に、5歳の自分からのタイムカプセルが自宅に届いたんです。そこには、理想の職業であった「サッカー選手と会社の社長」の文字が。残念ながら、その夢は叶っていません。しかし、一歩引いて考えてみると幼稚園の僕は、「その時かっこいいと思える自分になっていてね」と言いたかったと思ったんです。「過去の自分に誇れる、今の自分でいたい」と強く噛み締めました。 「5歳の自分にかっこいいと思える自分は、どんな姿をしているのか」と思い耽りました。そして、ジーンズが僕の人生にずっと同居していることに気づいたんです。僕は中学生で母親のジーンズを履いて、高校生で父親のジーンズを履いていました。父親とコミュニケーションが取りづらかったときも、ジーンズを使って会話ができました。古着屋さんやリサイクルショップに行き、一緒になってジーンズの研究。母親に内緒で父親とジーンズを購入して、母親にバレるなんてことも。男と男の関係を父親と作れたのが嬉しく、家族のコミュニケーションをジーンズに救われたんです。 同時期に、「Yume Wo Katare」という夢を語るための二郎系ラーメン店で手伝いをしていました。店主である平塚さんが、「湯浅から紹介されたジーンズを営業日に履くよ」と言ってくれて、一緒にお店に選びに行ったんです。僕が手伝いにいくたびに「ここがこう色落ちしてきて」と教えてくれました。その様子を見ていた他のメンバーも僕と一緒にジーンズを買いに行き、みんなで色落ちを楽しんだんです。誰かの消費体験を自分が変えたことで、僕はジーンズを仕事にしたいと思うようになりました。 そして、沖縄を拠点にジーンズを作る日本でも有名な職人の國吉さんに相談しました。「僕もジーンズで人生を勝負してみたい」と。すると、「絶対に辞めた方がいい。食っていくので精一杯なんだから絶対に辞めた方がいい」と言われました。國吉さんは生地からジーンズまでを一人で作り上げている人。國吉さんの言葉を前に、生半可な覚悟でジーンズと向き合うのは、真剣にジーンズと関わる人に失礼だと身震いしたんです。僕自身も、「やめた方がいいよ」と言えるぐらいジーンズに向き合いたいなと。 現在、LEGITとして活動しているときも、國吉さんのデニム作りに向かう姿勢が頭をよぎります。 -真剣に向き合うために、なにからはじめられたのでしょうか。 2019年4月に大学を休学し、ジーンズ修行を始めました。その過程で、地元大分県の下駄に感動したことがあり、デニム生地と藍染めの技術を活かし、自分で下駄を制作したいと思うようになりました。製造を一緒に進めていくための工場や計画の立て方は、「EVERY DENIM」のおふたりに助けていただきました。大学生のうちにデニムブランドを立ち上げられた方たちです。そして、資金は、クラウドファンディングで218名から約240万円を募りました。社会人経験が浅く、未熟な部分がたくさんありますが、周囲の人に支えられながら毎日勉強しています。 -今後の湯浅さんの展望についてお聞かせください。 現在の商品ラインナップは下駄と羽織りと巾着で、まだ大好きなジーンズを作れていません。正直、ジーンズにかける想いが強いので躊躇しています。これから、理想とするジーンズの製造に3〜5年かけて挑戦したいんです。 何かに熱中していたり、研究していたり、ある分野で確立したポジションがある人に憧れています。僕は、製品と購入者のつなぎ役というポジションで生きていたいんです。誰かの人生に多く関わっていけるようになりたい。ジーンズは色落ちし、経年変化していく。落ち込んでいた時の自分を勇気づけてもらえたジーンズは、もし死んだとしても、自分らしさを色落ちに出せるので、生きた証になるんじゃないかなあと思っています。 ーありがとうございました! 取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) 編集者:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)  

自信のなかった私がSNSで美文字を発信する理由ー書道師範・ふみか

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、Twitterで「美文字脳」の発信や講座を行うふみかさんです。 中学生で書道師範免許を取得するほどの実力を持っていたにもかかわらず、自分に自信が持てずに「書道を教える」という夢をあきらめたふみかさん。そんなふみかさんが再び美文字脳講座を始めるに至る経緯をお話いただきました。 書道のきっかけは祖母の絵手紙 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 私はいま書道師範の「ふみか」という名前で、Twitterで「美文字脳」の発信をしています。隔週で1時間くらいオンラインで美文字脳講座を行い、その後受講者さんの文字を添削する、という活動です。 講座はライブ形式で行い、コメントをもらいながら意見を出し合って、「この文字がどうやったらきれいになるか」などをみんなでディスカッションするような参加型の授業をしています。 ただ教えるだけではなく、みんなが楽しんで美文字がスッと身につくような講座を目指しています。そのため短時間でうまくなる、楽しめる方法を重点的にお伝えしていますね。 美文字脳講座は今年の4月から始めましたが、まだ始めて半年も経っていないのに「ふみかさんのおかげで楽しくできました!」という声をたくさんいただき……そんな声が活動を続ける活力になっています。 ー5歳のときに書道を始めたそうですが、書道を始めたきっかけは何でしたか。 理由のひとつは私の祖母でした。祖母はお習字とか習ってなかったのですが、きれいな字を書く人で。祖母の字を見て、幼いながらに「きれいな字っていいな」と思ったのが最初に文字に興味を持ったきっかけでした。 それで母に頼み込んで書き方教室に通い始めたんです。その体験教室に行ったときの体験も書道を始めるきっかけだったと思います。 私は自分に自信がないタイプの子供だったのですが、体験授業のなかでひらがなの「あいうえお」を書いたときに先生が「すごいね!」と褒めてくれたんです。その先生がモチベーションを上げるのが上手な先生だったんですよね。そこから習字に対してエンジンがかかって、高校生のときまでずっと書道と教室を続けました。 ひたすら書道に熱中した学生時代   ーそれから中学生で書道師範になったと。 毎月習字の検定に出すので、そこで飛び級などを繰り返していたら書道師範になってたんです。でも特に練習とかはしていなくて。書道自体は書き方教室の1時間だけでした。 字を書くことが好きだったので、普段ノートに書く文字とかは書き方教室で習ったことを活かすようにしていました。好きなことを続けて、気がついたら没頭していましたね。 ー高校時代はどう過ごされていたのですか。 高校卒業のタイミングで書き方教室の先生が引退なさるまで、ずっと書道漬けの毎日を過ごしてました。 書道科のある高校だったので、授業の前に書き方教室に行って授業でも書道について学び、部活で夜や土日まで部活と今の私では考えられないくらい書道中心の生活でした。ご飯を食べながら寝るくらい必死でしたね(笑) ーそんな熱中していた書道を辞めた理由は何だったのでしょうか。 書道をやりきったと思ったことや、私の高校卒業と同時くらいに書き方教室の先生が引退されたことなど、いくつか理由はあります。 実は高校の書道の先生になるために、教員になろうと思って教育学部の受験を考えていました。でも、元々自分に自信がない私はとても引っ込み思案な性格で。自分が人前に出ているのが想像できず、私は先生という仕事に向いていないと思ったんです。 それで教員という道を諦めて、書道とはまったく関係ない分野の短期大学に進みました。そこから社会人になって書道はぱったり辞めてしまいましたね。 「自分らしく働いて夫を支えたい」ふみかさんが一歩踏み出したきっかけ ー再び書道に関わろうと、Twitterで美文字脳を発信するまでどんな気持ちの変化があったのでしょうか。 それまでは書道と離れていたものの、字を書くことは好きで履歴書を手書きで書いたり、職場でもよく手書きをする機会がありました。人に手紙書くときって、手書きだと伝わるし喜んでくれるんですよね。そういう体験を通して、手書きの大切さを伝えられたらと思っていました。 そして去年、夫と結婚したことで気持ちの大きな変化がありました。毎日なんとなく過ごしていた私でしたが、結婚したときにいつか自分らしく働いてその仕事で夫を支えられる人になりたいと思うようになりました。 人生の中でどうしても仕事をセーブしなくてはいけないときがあっても、どこでも自分らしく働けるような、自分らしい軸があればいいなと。今の本業は書道とはまったく違う仕事ですが、本業とは別になにか自分らしい軸が欲しいと思ったんです。 夫は一緒になって夢を応援してくれていて、美文字脳講座の活動の話をするといつもワクワクしながら聞いてくれるんです。いまはそういう毎日をとても楽しく感じています。 ー美文字”脳”とはなんでしょうか。 ただの美文字ではなく、脳を活かした授業をしたいという想いから「美文字”脳”」の講座をしています。 人間は楽しいことや前向きになれることのほうが脳に定着しやすいんです。でも、今の大人向けの授業は堅いものが多いですよね。「脳にとっても、大人への楽しい授業が必要だ!」と思って、楽しく学べる講座を作ろうと思いました。 そのため、私の美文字脳講座は参加型の授業にしています。私が話すより、受講者みんなが自発的に意見を言ったほうが脳が活性化され、自分で考えるんです。自分で考えることによって脳を活かした授業になります。 また、文字の解説に絵を加えたりストーリーにすることで、より記憶に残りやすい授業にしています。字だけではなく絵や思い入れ、その時の場面も一緒に思い出せる。ただの美文字ではなく、脳を活かした授業をするのが「美文字”脳”」講座なんです。 自信のない人も美文字を通して前向きになってほしい ー好きなことがあっても長続きしないという方も多いと思いますが、ふみかさんのようにひとつのことを長く続けていく秘訣はありますか? 美文字脳講座の話にもあったのですが、苦しいことや辛いことって記憶が定着しにくいんですよね。一方、楽しいことは脳がどんどん吸収してくれて、すぐに成長できる。その結果、モチベーション高く結果を出せるんです。 だから何をするにも楽しむことが一番大事だと思います。 その楽しみ方も、日常の中で楽しいと思えることがいいですね。もちろんテキストに向かって勉強するのも大事ですが、会話をするとか洋楽を聞いてみるとか、自分が楽しいと思える方法が良いと思います。 楽しいと思って続けられて、また楽しいと思うから続けられる……そんなサイクルを作ることが継続できる秘訣です。 ーふみかさんは人と比べず、自分に向き合う生き方をされていますが人と自分を比べないコツなどはありますか? 何かひとつでも、自分の成長体験を目に見えることを残すことでしょうか。 私は習字の検定に出したものをファイリングして、定期的に見返しています。自分の結果や努力を見返すことで、賞に入らなかったことよりも先月の自分より成長していることを実感して、モチベーションに繋がるんです。 そうやって成功体験を積み上げていって、気がついたら書道に没頭していました。 ー自信がない人が自信を持つための方法を教えていただきたいです! 先ほどの成功体験の積み重ねに加えて、自信ない人ほど人と接することを持っておくといいと思います。 私も自分に自信がなく、なんでもマイナスに考えてしまう時期がありました。その時は人と接することを拒んでいて、何も楽しくないって思ってたんです。 Twitterで美文字脳の発信をする中で人と接することが増えて、自分では自信がなかった部分を褒めてもらえることが増えました。人から前向きな言葉がもらえて、自分の好きになれた部分も増えて。今はとても自分に自信が持てるようになりました。 だから、私はこれからもTwitterでの発信や交流は続けていきたいです。前向きになるために人とのつながりを持っていきたいですね。 ー今後、どんなことに挑戦したいですか。 かつての私みたいな、自信がない方や明日に希望が持てない方に美文字を通して前向きになってほしい。それが私の成し遂げたいことです。 いろんなところで私の想いを伝えて、そんな人たちが一歩を踏み出すきっかけになっていけたらな、と思っています。 ーステキなお話をありがとうございました!ふみかさんの今後の活動を楽しみにしています! 美文字脳を学んで自分に自信を持ちたい。そんな方はぜひふみかさんの美文字脳講座に参加してみてください。詳細はふみかさんのnoteをチェックしてみてくださいね。 執筆:えるも(Twitter/ブログ) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

1週間でクラファン80万円達成!今村柚巴の真心でやりぬく人生の歩き方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第161回目のゲストは、青山学院大学教育人間科学部3年生の今村柚巴(いまむらゆずは)さんです。 「オンライン宿泊」というゲストとオーナーのつながりをオンラインでつくる活動をする今村さん。日本一周の旅を企画するほど外交的な印象を受ける今村さんですが、小中高ではKYで配慮が足りず、自分から新しい友達を作らなかったという意外な過去もあるそう。天真爛漫な笑顔と人並み外れた行動力とトーク力で、47都道府県を走り抜けた今村さんの「人生の歩み方」を取材しました。   おうちで47都道府県を感じよう。「オンライン宿泊」とは ー自己紹介をお願いします。 青山学院大学3年生の今村柚巴です。海外でゲストハウスの方々に助けられた経験があり、日本全国のゲストハウスを周遊する予定でしたが、コロナウイルス感染拡大の影響で中止しました。代わりにゲストハウスを紹介しようと思い立ち、2020年5月からインスタグラムのライブ配信機能「インスタライブ」を使い、全国47都道府県のゲストハウスを紹介しています。10月から全国のゲストハウスを訪れるためにクラウドファンディングで資金調達をし、1週間で達成。現在、ネクストゴールとして120万円を目指しています。 ー「オンライン宿泊」とは一体なんでしょうか。 写真やビデオで、ゲストハウスやまちを体験できる時間です。参加者は、オーナーさんの人柄やまちの様子を現地の視点で知ることができ、宿泊しているかのように参加者同士がゆるくコミュニケーションをとることも可能で、新しい旅の魅力になっています。 ー人力車でまちを歩く様子を拝見しましたが、あれはどのように実現したんですか。 人力車でまちを歩く様子をライブ配信したことも。こちらから企画書を提出したとき、オーナーさんから「宿泊すると人力車にも乗れるプランなので、オンラインでも同じようにやってみたらどう?」と積極的にご提案いただいたんです。オーナーさんがパソコンを持って、人力車に乗車し、ライブ配信の視聴者さんにまるで人力車に乗っているような体験を提供できました。 「ゆずはは、ここが魅力」焦る青春期に恩師の支え ー積極的に人との交流を行っていらっしゃるようですが、子どもの頃から人との出会いが好きだったのでしょうか。 小学校から大学まで一貫校で育ち、学外で知らない人と接点を持つことはありませんでした。学校では特定の仲の良いクラスメイトと過ごすのが普通で、新しい人脈をつくろうとは考えていなかったです。 ただ、話し好きで、先生にいっつも話しかけて、聞いてもらえないことがあったぐらい。周囲の反応や状況を先読みしたり、相手の思考を考えながら対話できなかったり…KYだったかなと思います。 ーそのような言動は、その後も生活に影響があったのでしょうか。 高校時代に、相手の立場への配慮が足りずに傷つけるような言動をしてしまい、ある友人と対立したことがありました。相手から仕返しを受ける事態につながってしまって…。その経験から、相手の気持ちを考えてからの言動を心がけようと学びました。 ー現在、青山学院大学に在学中ですが、進学先はどのように選ばれたのでしょうか。 真剣に話を聞いてくれない先生が多く、あまりいい評価をされていなかったのですが、ある先生が私のことを見守ってくれていました。「ゆずはここが魅力だから、伸ばしていこう」と背中を押してくれたんです。その先生は、場や相手に配慮が足りない発言をしていれば、ちゃんと教えてくれることもありました。相談も受け止めてくれて、親の前では褒めてくれて…。私にとっては、恩師です。そんな先生のようになりたいと思い、青山学院大学教育人間科学部に進学しました。 インスタライブを開けば、全国47種類のオーナーに出会える ー大学ではどんな活動をされていたんでしょうか。 貧困地域に住宅を建設を手伝うボランティアサークルに入り、タイへ渡航しました。帰国前の観光目的で立ち寄ったバンコクで、ある事件が起こったんです。 一日の市内観光を終え、観光ガイドの日本人の方と夕食することに。その人は、全員に飲酒を押し付けてきた上に、自ら泥酔し、私たちの日中の行動を揶揄し始めました。食事が終わると、今度は男子メンバーを連れ出して車でどこかへ行ってしまったんです。残ったメンバーで慌てふためきましたね。 ーそれは大変なことになりましたね。その後はどうされたんですか。 ボランティアでお世話になったサブコーディネーターさんに助けを求め、友人は無事に帰還。ホテルに戻りました。しかし、翌日以降の宿泊はキャンセル。ボランティア目的で渡航したので所持金に余裕があるはずもなく、困り果てました。すると、サブコーディネーターさんが、友人であるゲストハウスのオーナーに相談してくれて、宿泊料金を破格の価格で提供してくれたんです。3日間を異なるゲストハウスでお世話になりました。印象的だったのは、共同スペースでの交流ですね。日本語を話す北朝鮮の人や世界一周中の19才と話し、お互いの国籍や文化を越えて、新しい価値観を知るきっかけになりました。 ー帰国してから行動に変化はありましたか。 知らない人は「別世界で暮らす人」と決めつけてしまうのではなく、積極的に関わるようになりました。その考えから、興味がなかった日本の地方へも、訪れてみればなにか協力したいと思うかもしれない、と。そこで、島の活性化を目的とする団体を立ち上げた友人と一緒に島を訪れました。 また、世界各国の若者が約1ヶ月半の期間を船上で暮らす「世界青年の船」事業にも参加。より多くの人と出会って、大事にしたいと思える人が増えればと思ったんです。船上では、病気の友人のためにダンス動画を作成してプレゼントするなど、自主的な企画も行っていました。 ー「オンライン宿泊」はどのように思いついたのでしょうか。 大学3年生になって大学に行く時間も減り、前から考えていたゲストハウスめぐりを行動に移そうと計画していました。しかし、コロナウイルス感染拡大の影響で中止に。ヒマな時間にインスタグラムでゲストハウスを眺めているときに、オンライン宿泊での日本一周を企画しました。 ー今回のクラウドファンディングの目的はなんでしょうか。 全国47都道府県のゲストハウスを訪れ、オーナーの魅力を発信するためです。インスタグラムの配信機能「インスタライブ」で、宿からライブ配信を行い、現地から宿とオーナーを紹介します。さらに、紹介内容を一冊の本にまとめ、より深く支援者に紹介しようと考えています。面白いのは、オーナーの魅力が違うことなんです。世界青年の船事業の過去参加者や、チャリで日本一周した人など異色の経験を持つ人の発信を通じて、ゲストハウスの素晴らしさが広まれば嬉しいです。 ークラウドファンディング前の不安やわからないことはありましたか。 インフルエンサーではないですし、不安しかありません。やるしかないと気持ちを切り替えて、まず活動を知ってもらおうと、友人100人に電話をしました。いきなり「クラウドファンディングをはじめましたー」とDMしたりSNSで告知をしたりしても、時にマイナスな印象を与えることもあると思うんです。自分がされても嫌ですしね…。正直辛かったです。 そんなある日、ゲストハウスのオーナーに相談しました。すると、「ゆずちゃんは、自分のやりたいことに自信を持っているの?だったら、それを誠心誠意伝えればいいんじゃないかな」と背中を押してくれたんです。友人やゲストハウスのオーナーに、自分の活動をまず話し、電話で相手の近況を聞いた上で自分の想いを話しました。「真摯に人に向き合えば、きっと分かってくれる」。そう信じていました。 ー改めて、日本一周でゲストハウスを訪れる理由はなんだと思いますか。 月並みかもしれませんが、オーナーから頂いた優しさを返したいと思います。ライブ配信では出演料を1,000円しかお支払いしていないんです。引き受けて下さった人たちの想いを受け取り、ゲストハウスの魅力をいろいろな人に知ってもらいたいです。 ー今後の展望を教えてください。 現在、目標金額を120万円に増やしました。支援者に贈る本をよりよくしたいし、お世話になったオーナーさんに無料で配布することを計画しています。今後、私を知るなかでゲストハウスにたどり着いてくれればいいなって思うので、ゲストハウスに興味のある人に私のことを広めてもらえると嬉しいです。インスタグラムでは、引き続きオーナーさんの魅力をライブ配信で紹介するので、もしよろしければご覧ください! ーありがとうございました! ▼今村さんのクラウドファンディング紹介ページはこちら https://readyfor.jp/projects/44171 ▼今村さんのインスタグラムはこちら https://instagram.com/yuzu_milk_ice?igshid=fe3g4yxdkhsj ▼日本一周の様子はこちら https://note.com/yuzu_milk_ice 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) 編集者:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

周りと違う選択を積極的に取ってきた杉山愛奈が語る、「まずはその人の中の例外になれ」

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第154回は株式会社ディー・エヌ・エーで『逆転オセロニア』のコミュニティマーケティングを担当されている杉山愛奈さんです。高校では語学留学、大学時代にはRedBull学生インターン、レースクイーンの経験をした杉山さんがゲームアプリのコミュニティマネージャーを担当することになった経緯などを過去に遡ってお伺いしました。 中高一貫私立女子校・留学・レースクイーン…みなさんはこれらの単語でどんな女性を想像しましたか? 肩書きで周りから判断されることに向き合ってきたという一面も持つ杉山さんのライフストーリーをぜひお読みください!   ゲーム初心者がゲームアプリの担当に ーまずは簡単に現在のお仕事について教えてください! 新卒で2018年に入社した株式会社ディー・エヌ・エーで働いています。ゲームアプリ『逆転オセロニア』のコミュニティマーケティングを担当しており、コミュニティマネージャーとして、『逆転オセロニア』を遊び続けてもらう理由を作り出しつづけることを目指し、オンライン・オフライン関わらずイベントの企画やSNSの運用などを行っています。 ーゲームアプリ担当に配属、ということは、杉山さんご自身もゲーム好きなのですか。 小学校の頃、ニンテンドーDSにハマってしまったことで成績が落ち、ゲーム禁止の環境で育ってきたため私自身はソーシャルゲームの経験は全くない状態で配属となりました。なのでゲームに特別詳しくはなかったです。 配属面談の際には、"意思決定権があり、大きなお金が動く部署”への配属希望を伝えていたところゲームアプリの担当となりました。いい人といい事業を作ることができるのであれば、配属先に大きなこだわりはなかったんです。 ーではゲームについて知ることからのスタートだったんですね。 そうです。まずは膨大な時間をかけてゲームをやってみるところからはじまりました。同時に、毎週末のようにリアルイベントを開催し、年間数百人〜数千人のオセロニアン(『逆転オセロニア』のプレイヤー)の方とお会いし、何が楽しいと感じているのか、何がつまらないと感じているかをヒアリングすることで理解を深めるようにしていました。初めの1年弱くらいはゲームに詳しくないことや苦手なことを隠さず素直にオセロニアンの方々にも伝え、たくさん相談にも乗ってもらったりゲームを教えてもらったりしていましたね。   人と違うことをやると、自信につながった ー小学生の頃にゲーム禁止となったとのことでしたが、どのようなことを代わりにされていたのですか。 従姉妹がドバイに住んでいたので、夏休みはドバイに遊びにいき、現地のサマーキャンプに参加していました。日本では前に積極的に出て発言するタイプだったのですが、英語ができなかったので積極的に発言することができず初めての挫折を感じたのを覚えています。 勉強はあまり得意ではなかったのですが、母から「中学で、もし勉強以外のやりたいことが見つかった時に、そこにもちゃんと時間を使えるように」と言われ、高校受験をスキップできる中高一貫校にいくために受験勉強もしていました。 ドバイでキャンプにいったこともそうですが、この頃から他人と違うことに挑戦するのが好きで、その挑戦が自分の自信によくつながっていたなと今振り返ると思います。中学受験をする人がほとんどいない小学校に通っていたので、中学受験もまた、周りの人と違うことに挑戦できると思って取り組んでいました。 ー中学には無事、合格されたのでしょうか。 はい!無事合格し、愛知県の名古屋市内にある中高一貫女子校に通いはじめました。そして母の予想通り、勉強以外のことに時間を費やしました(笑)全然勉強しなかったので、成績は下から数えた方がはやかったですね。 ただ、学校では「勉強ができる子=すごい」と判断されていたので「何のために勉強をするのだろう?」と考えるようになりました。今では、勉強というものはいつかやってくるチャンスのために必要なものだと思うようになりましたが、当時はそれが分かりませんでした。将来のことではなく目の前のことに頑張るので精一杯だったんだなと思います。 ー高校生活はどのように過ごされたのですか。 高校でも相変わらず勉強は苦手だったのですが、そんな中、両親が留学を勧めてくれたのでシンガポールに長期休暇を活用し留学しました。本当はイギリスに留学してみたかったのですが、ちょうどロンドンオリンピックとかぶっていたため留学費用が高く断念。当時、シンガポールはまだまだ留学先としてはマイナーだったのですが、それも逆に他の人と違う挑戦ができるチャンスと思い、シンガポールに行きました。 ー留学を経験して何か変化はありましたか。 正直、短期の語学留学で得られるものは、多少の語学力の伸びくらいだろうと当初は思っていたのですが、お想像以上に刺激を受けることとなりました。シンガポールには東南アジアから覚悟や意思を持って勉強しにきている学生が多く集まっており、自分ももっと頑張らないと人生に差をつけられると危機感を感じたんです。自分にしかできないことを身に付けないと世界に取り残されると気づき、自分の強みを見つける必要性を実感しました。   その人にとっての例外になることを意識した大学時代 ー留学の経験はその後の進路にも影響を与えたのでしょうか。 留学の経験から海外大学への進学も検討しましたが、立命館大学の国際関係学部のグローバル・スタディーズ専攻であれば海外大学に近い経験ができるのではと思い、そこに進学を決めました。 授業が全部英語で行われるため1年目は苦労しましたが、日本人が半分弱しかいない学部で海外出身の同世代と一緒に勉強する中で、たくさんの価値観に触れることができたので選んでよかったなと思っています。 ーその他大学でチャレンジされたことなどはありましたか。 2年生になり、やっと勉強以外のことに目を向ける余裕がでてきたタイミングで何か自分の強みとなることや自分が頑張れることを見つけたいと思いました。そのタイミングでふと、高校生の時に、RedBullの学生マーケティングチームがあることを知っていたので、私自身もRedBullでインターンをしたいと思ったことを思い出しました。そして応募してみたところRedBull Japanの学生インターンチームで活動できることになりました。 また、展示会やイベントコンパニオンのお仕事もしていたのですが、当時所属していた事務所のマネージャーさんに、レースクイーンのオーディションを勧めていただいたので、挑戦してみることにしました。 ー以前からレースクイーンに興味をお持ちだったのですか。 母がエンジニアで、レースが好きだったこともあり、小さい頃からよくサーキットにレースを見に行っていました。「好きなことでお金を稼げるのか?」ということに興味があったのでモータースポーツという自分の好きなことに関われるお仕事を経験してみたいなと思っていたんです。オーディションの結果、国内メーカーのレースチームでレースクイーンやレポーター、MCとして活動させていただきました。 ーレースクイーンという新しいことに挑戦してみていかがでしたか。 レースクイーンは名前だけだと誤解を生みやすい仕事だなと思いましたね。レースクイーンというと、モデル志望の人が多いイメージが強いかと思いますが、車が好きでやっている人もたくさんいます。そのことをもっと知ってもらいたい、レースクイーンのイメージを変えたいと活動する中で強く思うようになりました。実際にレポーターやMCとしても活動させていただく機会をいただき、業界のイメージやレースクイーンのイメージを変えることを常に意識していました。 ーとはいいつつも、既存のイメージを変えるのは難しいかと思いますが… 確かに難しいですね。私は「その人の中での例外になる」ということを意識しています。まずは私のことを知ってもらい、「この子は違うんだな〜」と思ってもらうこと。私は人と違うことを好んで挑戦してきましたが、日本は異質な人やコトを排除する傾向は強いなと感じています。そういうときにも自分のことを知ってもらって相手の概念の中に例外を作ってもらうことがまずはスタートだと信じています。たくさんの人が例外を知ることによって、少しずつ既存のイメージが変わっていってほしいです。   これからは「個」だけではなく「チーム」の時代 ー就職活動ではやはり好きなことを仕事にするを目標にされていたのですか。 レースクイーンとして活動したことで、よりモータースポーツのことがより好きになりましたが、就職活動ではその道を選びませんでした。というのも就職活動の際に、モータースポーツに携わるのであれば、「モータースポーツをより多くの人に知ってもらう」お仕事をしたいなと考えていました。ただ、当時はまだ経験が浅く、モータースポーツをもっと有名にするだけの力が当時の私にはまだないと感じていました。そこで、違う業界で、メジャーではないものをメジャーにした経験を積んでから、モータースポーツの世界には戻ろうと決めました。 ーとなると就職活動はどのように進められたのでしょうか。 RedBullでインターンをすることになったきっかけでもあった西村さんが株式会社ディー・エヌ・エーで働くと聞き、面白い会社なのかもしれないと思い2ヶ月の長期インターンに参加しました。インターンにも関わらず、たくさんの仕事を任せてくれるだけではなく、見返りを求めないで全力でサポートしてくれる環境が株式会社ディー・エヌ・エーにはあると知ることができ、就職も決めました。 ーそして入社以来コミュニティマネージャーとして働かれているとのことですが、働く上で大事にしている考え方などがあれば教えてください。 働きはじめて感じていることの1つとしては、これからは「個」だけではなく「チーム」の力が大事な時代になりつつあるなということです。なので個人だけではなくチームとしてどう結果を出すかということを大事にしています。 ーいつかモータースポーツに戻るという大学時代の決意は今も変わらずあるのでしょうか。 コミュニティマネージャーとして働く中で、モータースポーツが好きなだけではなく、好きなものを一緒に共有する時間が好きだったんだなと気づくことができました。今の仕事でも、共通の好きなものを持った人たちが思い出や経験を得る場を提供できているのが嬉しいです。コミュニティマネージャーの仕事は人の人生を豊かにすることができる仕事だなとつくづく感じています。 今後また何か大事にしたいものが見つかった時には次のステップに進むことも考えるかもしれませんが、今はまず、目の前の『逆転オセロニア』のプレイヤーを1番に、関わる多くの人を幸せにできるように頑張りたいです。   取材者:西村創一朗(Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

無名のアーティスト田沼真依が挑戦する舞台は、パリのルーブル美術館

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第158回目のゲストは、ARTRICCORE(アートリッコーレ)の田沼真依(たぬままい)さんです。 「俺の遺伝子入ってないと思うよ。まいちゃんに。」 これは、田沼さんが幼少期に父親から言われた一言。2021年にルーブル美術館で開催されるSalon Art Shopping Parisで書道アートを展示予定の気鋭のアーティスト、田沼さん。ヨーロッパ周遊、海外路上パフォーマンス、トロント留学という豊富な海外経験がある一方で、家庭では両親の教育方針に苦しみ、毎日、死がよぎるような生活を送っていたそうです。空虚な世界を飛び出し、その名を世界に轟かせようと羽ばたきつつあるアーティストの素顔に迫りました。   「モナリザの微笑み」と同じ舞台で展示をする ー自己紹介をお願いします。 田沼真依です。2020年9月末にリクルートを退職し、10月からフリーランスとして独立します。アーティスト活動を本格的に開始予定です。アーティスト名のARTRICCOREとは、「ART・TRICOLORE・CORE」を組み合わせた造語で、「CORE(核)を持ち、内に秘めた想いを内外に広め、その過程で感性を大切にする」という発想で考案しました。2021年はルーブル美術館、2022年はシンガポール国立美術館で書道アートの展示が決まっています。 ールーブル美術館とシンガポール国立美術館で書道アートの展示が決まった経緯をお聞かせください。 担当者からInstagramでDMをいただき、高校時代から海外の有名な美術館に展示することが夢だったわたしは2秒で即決しました。 Instagramでは、”その時”に感じたことを一文字の漢字で表現しています。遊び心を入れたアートにして。もちろん、何を表現したかったのかも補足してます。海外の方に注目していただきたいので、投稿は、英語、イタリア語、フランス語、日本語で書いてますし、フォロワーさんの4割は外国人の方です。 ー書道は、いつ頃始められたのでしょうか。 4歳からはじめました。我が家では華道や書道を年齢に合わせて必ず習うという慣習がありました。そのため、自分の意志で書道をはじめたのではなく、4歳になったら自動的に書道教室に連れて行かれたんです。 同時期に、3ヶ月に一度は宝塚や歌舞伎の舞台に足を運んでいました。当時はまだ幼かったために、その凄さが全然分からず、内容もちんぷんかんぷん。両親は、「この場にいることが貴重だから分からなくても大丈夫、まず感じて」と言っていました。観賞後、帰りの電車のなかで、「なんでこの人は、この表情で、このお洋服を着ていて、この発言で、ほかの人にこういう態度をとってるの?」と疑問を投げかけて説明してもらっていました。芸術としての探究心で考えていたというより、理由が分からなかったので聞いていましたね。 「これは、舞台なんだ」と言い聞かせた幼少期 ー習い事以外では、どのようなお子さんでしたか。 保育園では、頑張った人への表彰制度があり、その対象の常連でした。ピアノ、運動、勉強などいろいろなことが周りより得意で、相手の評価基準を考えて過ごしていたからだと思います。しかしある日、年長の時の担任の先生に「譲ってもらっていい?」と言われたんです。意味が分からず、「だったらその表彰を辞めちゃえば?」と言ったのを覚えています。自分の意見は小さい頃からはっきりと伝えていましたね。 ー小学生の頃はどのように過ごされていましたか。 習い事も勉強も沢山あって、忙しい日々を送っていました。平日の夜と土日は時間割表をつくって管理していたくらいです。平日は公文と家庭教師の先生からの指導があったので、宿題がいっぱいあって1日中勉強、加えて家事も私の担当でした。洗濯物を取り込んだり、お米を研いで炊飯したり、お風呂を洗ってお湯を溜めたり、親が帰宅するまでに、先ほどあげた家事と勉強が完璧になっていないと、怒られる生活です。そして、土日は習い事。何曜日はこれをやると決めて、当時からタスク管理をちゃんとしてました。 ー幼い頃からいろんなことに励まれていて、ご両親は田沼さんのことをさぞ褒められていたのではないでしょうか。 私、両親に一回も褒められたことがないんです。両親は勉強ができるので、「100点をとれない人の気持ちが分からないから教えて」と問われたこともあるぐらいでした。そんな両親からのプレッシャーはすさまじく、「まいちゃんに俺の遺伝子は入ってないと思うよ」「君の存在意義はない」と否定されたこともあります。 しかし、「また言ってる」と受け流してました。「感情を持つと生きていられない。心がキャパオーバーしてしまう」。そう考えて、感情に蓋をして生活する日々。夏でも冬でも構わず外に立たされたときは、「これは日常生活ではなく、舞台だ」と言い聞かせて過ごしていましたね。 その影響で、自発的に興味を持てることがなかったように思えます。毎日は生きるので精一杯なので、生まれたての小鹿みたいに生き抜く強さがありませんでした。「何かをやるなら絶対に100 点をとらないといけない。厳しいこと言われ、否定される」「それなら、何もしたくない」と始める前から悲観していました。 ーどのように気持ちを保っていたのでしょうか。 唯一、小学生のときに海外に興味が向いたことがありました。映画「タイタニック」のディカプリオを見た時に、「めちゃめちゃイケメンじゃないか!」と驚愕し、「わたし、がいこくじんとけっこんしたい!」と思ったんです。小学校のALTの先生に積極的に話しかけていました。その人だけは、私のバックグラウンドを知らず、対等に喋ってくれたので、心のオアシスでしたね。 「あなたは、意志を持っていいんだよ」はじめて自分を認めた人生16年目 ーその後、海外に行く機会はありましたか。 高校のときにニュージーランドにファームステイ、大学でトロントに留学しました。 印象に残っていることがあります。高校2年生の夏、ファームステイ先のホストマザーに「あなたは何が好きなの?」「何がしたいの?」と聞かれました。私、何も答えが出てこなくて…。正直に、「食べたい物や行きたい場所は親が決めるから、私の意志なんてない」と話しました。そしたら、ホストマザーは泣きながら「あなたは意志を持っていいんだよ」と言ってくれたんです。そしたら私まで泣けてきてしまって。「あ、私にも生きる場所や空間があるんだ…」と思いました。 あっというまにニュージーランドでの1ヶ月が経ち、帰国をするときに「親に打ち勝ち、大学生になったら必ず留学しよう」と心に誓いました。困ったら慰めてもらえる味方に出会えたんです。いままでの人生で、両親や周りの大人は私の敵だったので、「これからの人生は、自分の意志を持って生きよう」と決意しました。 ーそうやってご自身で決断されたトロント留学。どのような体験をされましたか。 大学2年の秋に語学学校に行き英語を勉強しました。英語のプレゼンが毎日あり、やるからには1位になりたかったので、先生に評価基準を確認して、プレゼンがうまくなりたくてTEDを何十回も見たり、プレゼンのネタ探しのために近くのトロント大学の大学生と交流し情報交換をしたりしていましたね。でも全うに対処しても「私ならでは感(=遊び心)」が出ないので、夜はパーティーをしまくり、そこでの気づきや出来事をプレゼンのネタにしていました。平日は語学の勉強に励み、週末は、毎週末、周辺地域への旅行にも。ニューヨーク、モントリオール、ケベック…。最高に楽しかったです。 ある日、語学学校が終わった後に散歩していたら、2人の男の子がつまらなそうに家の修復作業をしていました。表情が気になったので「なんでこれやってるの?楽しい?」と聞くと、「別に興味ない」というマイナスの答えしか返って来なかったんです。かわいそうとは思いませんでしたが、彼らを自分と照らし合わせたときに、「働くってなんだろう」「どうせやるんだったら楽しい方がいいな」と考えましたね。 そして、働くということを体験したいと考えました。自分で経験すれば、男の子たちの気持ちもすこしは分かるのかも、と。我が家はアルバイトが禁止だったので、働いた対価をもらうという経験がなかったんです。帰国後、両親に「アルバイトしたい!」と交渉しました。すると、「アルバイトは絶対だめだけど、社会貢献や自分の学びにつながるものだったらいいよ」と言われたので、不動産のベンチャー企業で1年間働きました。 ーその企業のどこに興味を惹かれたんでしょうか。 将来的にやりたいなと思い描いていたものを、その会社が体現していたんです。大学1年生の時のヨーロッパ周遊で、各地を転々としながらゲストハウスに宿泊していました。宿泊客は国籍も年齢も職業もバラバラだけどフラットな関係。ひとり一人が自然体で意志決定をする環境が素晴らしいと思っていたんです。そのときの体験が自分に根付いていて、日本人向けのゲストハウスを作れたらいいなと考えていました。 合コンを制する者は、就活を制する ー就職活動で意識されたポイントはありますか。 初対面の人にどのような印象を与えるかという観点を研究するために、知らない社会人と話す機会を増やそうと合コンをしまくりましたね(笑)。どんな言葉や行動であれば、相手に好印象を与えられるのかを観察し、エントリーシートの添削や面接対策を相談してたんです。結果、所謂就活人気ランキング上位の企業5社を受けて、全て最終面接までいきました。 さまざまなアドバイスを受け、日本の会社で働く限り、一社目の選択が重要なので、慎重に選び取ろうという結論に達しました。世間で人気のある有名企業に入社することが、今後の転職や独立でプラスになるだろう、と。嫌だったら辞めればいいぐらいの気持ちでいましたね。 「異文化理解、衝動、融合、ものがたり、可視化することで臨場感が生まれる、艶やかなアート」 ーそうして選んだ総合商社に就職し、リクルートに転職。そんな中でアーティスト活動を始めたきっかけはなんだったのでしょうか。 2014年に新卒入社した商社で1年間働き、転職して5年間リクルートで働いています。アーティスト活動は、2020年に入ってから考えはじめました。イタリア旅行中だった2020年1月1日の夜に体調を崩して、帰国してから4日間入院したんです。だんだんと体調が回復して暇を感じたので、「自分が死んだときに何が心残りになるか」を書き出しました。すると、全項目の主語が私ではなく他者であることに気づきます。現在の仕事も社会的意義の高い仕事ですが、「自分にしかできないことがあるんじゃないか?」と問いかけるようになりました。 ーなぜ他者のための活動がたくさん出てきたんでしょうか。 自由意志がないと思い込んでただけかもしれませんが、子どもの頃は毎日毎日辛くて…。不謹慎ですが、「誰か私を車で轢いてくれないかな、即死したい…」と思って、十何年も生きてきたんです。だから、自分の方向性が分からない人の心理に共感できる。おこがましいけれど、自分が関わって、人生に迷った人の羅針盤になれれば、わたしの生きた証になると思うんです。 ーなぜ書道をそこに掛け合わせようと思ったのですか。 習い事のなかでも世の中から一番評価を受けたのが書道でした。ピアノの場合、何百人ものお客さんが詰めかけるコンクール会場で演奏して、拍手と花をもらっても私の心には何も響きません。書道の場合は、伊勢神宮や全国各地で来場客が自分の作品の写真を撮ってくれたり、感動して目の前で泣いてくれたりしたのをみて、たまらなく嬉しかったんです。それに、見た目がギャルの私が地味な書道で1位を獲ると、「え、あの子が?」と、周りの大人は驚いた。既にあるイメージを破壊することが好きなので、快感があって、最高でした。 私の性格上、最初のインパクトがないと全く心が動かないんですよね。ここだけ空気・空間が違う!というような場所がとても好き。だから、自分も作品も、そのような雰囲気が出るのかもしれません。 小さいときに書道をどの展示会に出しても何百人、何千人という全体数の中で絶対トップ1で、最悪3位ぐらい。スキルはありましたが、職業にするのは無理だと諦めていました。「職業にしなくても表現し続けていれば、何か浮かんでくるかな〜」と思って、海外にいく度に路上パフォーマンスをしていました。名前の当て字や漢字1文字で表現した作品を売っていましたね。誰に要求される訳でもなく、無邪気に楽しいからただただやっていたので心底楽しかったです。 ーアーティスト活動をする上で、何を大切にされていますか。 大切なのは、「異文化理解、衝動、融合、ものがたり、可視化することで臨場感が生まれる、艶やか」。つまり、「異文化理解」は、違いを知った上で物事を進める。その上で私にしか創れないアートにし、人に「衝動」を与える何かを作りたい。そして、いろいろな視点を「融合」させ、それを「ものがたり」に仕立てて、「可視化することで臨場感を生み出す」。ついでに、艶やかさを付け加えて、味を整える表現をしたいと思うんです。表現は、ダイナミックでかつ繊細に。大胆に散らばった空間に、そっと何かを加えるんです。 ー今後はどのように活動を展開していきたいですか。 人があっと驚くような作品、問いを投げかけるような作品、意味を形成していく作品・・・などを産み出したいです。今インタビューなので「作品」と言ってますが、アーティスト100%の私の時は「作品」と言わず「彼/彼女」と呼んでいます。 アーティストは作品を作り販売し、販売した収益で次回の作品を作る、というプロセスを辿りますが、作品を作れば作るだけ正直赤字になっていきます。その構造を変えていきたいですね。今までの会社員時代に培ったスキルを元に、欧州と日本のモノづくりとか、アート要素を融合したインテリア・ファッションのマーケティング・ブランディング、企画・販売事業や、後継者採用などに着手していきたいと思います。 ーありがとうございました! 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) 編集者:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

好き!に正直に生きる。週末YouTuber兼OLぴろりの激動の半生

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第153回目のゲストは、IT企業OLで週末YouTuberのぴろりさんです。 チャンネル開設から約5ヶ月で登録者10,000人を超える週末YouTuber「ぴろりちゃんねる」のぴろりさんは、実はIT企業で働く会社員。自宅での作業をより快適にするためのアイテムを紹介した「【デスク環境】IT企業OLの自宅リモートワーク環境」では、驚異の30万回の再生回数を記録しました。現在は好きなこと、得意なことを軸に活動されていますが、大学時代は両親が敷いたレールを歩み、社会人時代で仕事の結果が出せないこともあったそう。両親の反対を押し切ったことを契機に、社会人になっても好きなことを諦めなかったぴろりさんの「好きなことを主体的に選択する人生」に迫りました。   週末YouTuberの現在と、原点 ー自己紹介をお願いします。 ぴろりという名前で活動する週末YouTuberです。本業では、IT企業の中のSaaS分野において、自社で扱うツールの事業企画、収支管理、プロジェクト管理をしています。具体的には、マーケティングに必要なツールを扱っているのですが、ユーザーさんが有料化したいと思うようなプロダクト作りをしています。 2020年4月から、休日を利用してYouTubeチャンネルの運用を始めました。「ぴろりちゃんねる」では、ライフスタイルや自分の好きなガジェットやダンス動画などを発信しています。 ーYouTubeが生活に取り入れられるようになったのはいつですか。 中学2年生のときです。友人の家へ遊びに行った時にパソコンでYouTubeを観せてくれたことがはじまりでした。私は小学生から女性アイドルが好きで当時はモー娘。にどハマりしていました。テレビを介してのみ観ることができたモー娘。いつでも観ることができるYouTubeを知って、全身に衝撃が走りました。「大好きなアイドルをいつでも観れるんだ…」、と。これ以降もいろんなWebサービスを使って感動しましたが、YouTubeを初めて知った時の衝撃はいまだに忘れられません。 その影響もあって、アイドルの踊ってみた動画を、実は中学生の時からYouTubeに投稿していたんです。高校生になってもアイドル好きは変わらず、文化祭や卒業式でダンスを披露していました。当時はAKB48が流行っていたので同学年の女子を集めてダンスを覚え、私がポージングやフォーメーションを考えて仕切ってましたね(笑)。そして現在も、YouTubeでK-POPアイドルの「踊ってみた」動画を投稿していているので、昔から好きなことは今でも変わらないなーとつくづく思います。 敷かれたレールの人生を歩んでいた暗黒の大学生活 ー学生時代からダンスが好きだったんですね。大学時代はどのように過ごされていましたか。 大学への進路選択は、自分の意志というより両親の意向に沿ったものでした。両親が医療系の仕事をしていて、公務員や薬剤師への道を薦められていました。進学したのは、地方国立大学の化学系の学部。本当はWebサービスに興味がある自分にとっては、大学生活は全く楽しくなくて…。それもあって、敷かれたレールを進んだ先に待ち受ける社会人生活にそのまま突入していいのかと悩むことが多かったです。とはいえ、Webサービスが仕事になることを知らない私は何も行動に移さず、単位を取るために適当にやり過ごしているだけの毎日。友人にも「大学を辞めたい」と漏らしていました。 就活時期に入り、化学系企業や他業界の企業を検討しましたが、ピンとくる企業に全く出会えないまま。「このまま社会人になったらだめだな」と思い立ち、大学4年生になる前に、1年間の休学を決めます。「これからの社会人生活は、いままでの大学生活のように中途半端な思いのまま過ごしたくない」と気づいたんです。大学選択は両親の意向をそのまま反映していたけど、人生は自分で選択したいって。 「このまま就職したら80歳の自分は、きっと後悔するだろう」両親の反対を押し切り、留学へ ーどうして留学という選択だったのでしょうか。 とにかく、今の状況から環境を大きく変えたいと思ったからです。また、小学生の頃から英語を勉強していたので、海外や英語に興味はありました。せっかく学ぶなら英語が公用語の国へ行き、そこでの生活も楽しみたいな、と。エージェントは使わずに、教授の伝手を頼り、自分で調べて留学計画を立てました。フィリピン・セブ島の語学学校と、アメリカ・シリコンバレーでのインターンを決めました。 語学留学だけではなく、インターンもすることにしたのは、Webサービスが好きな私にとって、シリコンバレーは外せない場所に思えたんです。「数多くの有名なサービスを生み出すシリコンバレーってどんな場所なんだろう?」という興味がありました。 ーそれまで両親の意見を尊重し、急に休学・留学を決定することに恐怖や不安はありませんでしたか。 ありました。両親には「フィリピンに1人で行くなんてありえない。そんなの危険だから許さない」と言われました。でもそこで、両親に説得させられたら、80歳になった時に「親に言われたから留学を諦めたけど、行けばよかった…」と後悔する自分がいるだろうと確信したんです。「どう転ぶかわからないけれども、やってみよう」と決断。両親の承諾を得るために資料をつくり、留学計画を話して、自分が本気なんだと理解してもらえるよう努力しました。 シリコンバレーで「やっぱり自分の好きなことはWebだ!」と確信 ー休学中はどんなことをされましたか。 「自分がやりたい!」と思ったことをひたすら行動していました。セブ島では1ヶ月で語学学校の基礎的な学習を習得したため、フィリピン人しかいないガイドボランティアに応募し、見事合格。現地の世界遺産で観光客と会話することで実践的な会話能力を身に付けようと頑張りましたね。 また、シリコンバレーでは、元々やりたかったシェアリングエコノミーのスタートアップを見つけて、「インターンしたいです!」と、直談判して仲間に入れてもらいました。家を決めずにアメリカに行ったのですが、Craigslistというサイトで見つけられたし、友達もいなかったのですがTinderというマッチングアプリで友達を作ることに成功。Webサービスの恩恵を受けて、Webがさらに大好きになりました。 ー帰国してからは、どのように過ごされていましたか。 ずっとやりたかったメディアの立ち上げをしました。シリコンバレーで働く社会人がキラキラしている様子を見て、自分も何かしたいという思いが芽生えていたんです。帰国前にインターン先のエンジニアに、Wordpressでサイトの立ち上げ方を教えてもらったので、帰国したら自分のサイトを立ち上げようと心に誓っていました。帰国後、同じ大学でエンジニアを2人見つけ、3人でWebメディアを立ち上げました。 そうやって立ち上げた鹿児島大学に特化したメディアは、月間20万PVを達成するまでの大きな成長を遂げ、その後は地元の企業から記事広告や協賛をいただけるようになりました。他の全国的な有名メディアと比較すれば大した数値ではありませんが、自分たちでゼロから実現させた達成感を噛み締めました。そこでの経験を経て「やっぱり自分が好きなのは、Webや情報発信だな」と感じたんです。 IT企業への就職。苦手を無理して克服しない働き方へ ー留学を転機に充実した大学生活となったようですが、社会人生活はどうでしたか。 Web企業だけに絞って就活をし、今の会社に入社しました。1年目はセールス部配属で、全社での年間準MVPを獲得し、満足感でいっぱいに。結果を出せていたため2年目は、新設されたカスタマーサクセス部に立ち上げ時期に配属されました。 慣れない分野の業務に、クライアントからお叱りを受ける場面もあり、どんどん自信がなくなっていきました。 ー結果を出せない仕事を、どう乗り越えていったのでしょうか。 最初は自分に足りないスキルを補おうと必死に勉強をしていました。ただいくら頑張ってもその仕事を好きだと思えなかったので、努力していても辛かったです。1年間をがむしゃらに働き、その結果、自分にはむいていないと感じたので部署を変えました。現在の部署では、6〜8人のチームでスピードを重視してサービス改善に打ち込めているので楽しいです。プロジェクトをマネジメントするのは得意なので、得意分野を活かしながら働けていますね。 ー自分の得意な仕事や役割を選択するのは大切ですよね。 苦手なことを克服するために頑張っても、正直、得意な人には勝てないと思うんです。「自分が向いてない」と思ったら、見切りをつけて、自分の得意を活かした仕事を選択すべきだと考えるようになりました。自分の得意なことなら、仕事がやりやすいし、気持ちも楽ですね。 自分の好きなことに正直に生きたい。Youtuberとしての活動開始  ーYouTubeはどのようなきっかけではじめられたんですか。 コロナウイルス感染拡大の影響で自宅に居る時間が増えたためです。漠然とやりたいな〜と思っていたYouTubeを始める絶好のチャンスだと思いました。以前は、休日も勉強や読書などに時間を割いていましたが、正直それに疲れてしまって…(笑)。自分の好きなことや得意なことに時間を当てようと思うようになりました。 最初はリモートワーク中におすすめのサービスをnote用に書き出していたんですが、「この内容なら、noteよりもYouTubeの方が視覚的に伝えられるから面白そう!」とひらめき、iPhoneを使ってすぐ撮影しました。 ーYouTubeをはじめてから心境の変化はありますか? Webでの情報発信は、自分の得意分野だと改めて実感できました。趣味の範囲で楽しくやっているだけなのですが、開始して1ヶ月でチャンネル登録者1,000人到達し、2ヶ月目には収益化を達成。結果がついてきたので自信にも繋がりましたね。 また、意識しなくてもネタをどんどん思いつくんです。それを動画にすると多くの人から反響があるので、情報発信が自分に向いているんだろうなと思います。 ー今後、YouTuberとして、IT企業OLとして、どんな挑戦や目標を見据えていらっしゃいますか。 YouTubeは、今後も趣味として好きなことを発信したいです。仕事では、自分が経験してきたように多くのユーザーに感動を与えられるサービスを提供する側になりたいと思っています。今までの人生で、iPhoneやWebサービスに出会い、驚きや発見の数々を経験したので、同じような体験をユーザーに提供できたら嬉しいです。 ーありがとうございました! 取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) 編集者:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

世界121位のジェンダー格差の是正に挑む Lean In Tokyo・二宮理沙子の挑戦

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第144回のゲストは、一般社団法人Lean In Tokyoの二宮理沙子さんです。 「ジェンダー格差は全ての人に関わる問題です」 ジェンダー格差の問題といえば、2019年4月、東京大学の入学式で同大学名誉教授の上野千鶴子さんの祝辞が大きな反響を呼びました。念願の大学生活の幕開けに期待を膨らませる新入生に向かって、「あなただけの努力でここまでこれたのではない」と、東大でのジェンダーギャップを指摘した上野さん。東京医科歯科大学の女性志願者への差別が明るみになり、#MeToo運動によってSNS上で是正が訴えられた時期でもありました。 世界経済フォーラム(WEF: World Economic Forum)が毎年発表する「ジェンダー・ギャップ指数」(the Global Gender Gap Report 2020)によれば、2019年に日本は前年の110位から121位(153カ国中)に甘んじた、先進国の中で最下位クラスの結果です。 「女性はこうあるべき」「男性はこうあるべき」といった環境要因のジェンダー・バイアスとその人の心が望む生き方にズレが生じると、幸福度や仕事への満足度も下がってしまうのでは、と二宮さんは説きます。 二宮さんが運営メンバーとして所属する、女性の野心を応援する一般社団法人「Lean In Tokyo」の米国本部「Lean In.Org」が大手コンサルティング会社、マッキンゼー・アンド・カンパニーと毎年実施している共同調査においても、キャリアに邁進したい女性が育児・出産を機に職場で昇進しにくい立場に置かれてしまうこと、本当は家庭で多くの時間を過ごしたい男性が職場で長時間働かざるを得なくなってしまうことなど、様々なケースが報告されています。 二宮さんが掲げるビジョンは、「女子学生たちが、自信を持って学び、挑戦することができる環境作り」というもの。そのために必要な手段の一つとして、Lean In Tokyoでは女性同士が助け合うコミュニティを作りを実践しています。日本では「存在しないもの」として扱われてきたジェンダー格差に取り組む二宮さんの揺ぎない信念に迫りました。 女子学生の背中を後押ししたい ーご自身と活動の紹介をお願いします。 二宮理沙子です。女性が一歩踏み出すことを後押しする一般社団法人「Lean In Tokyo」の運営メンバーです。ボランティアではありますが、今年のはじめまで代表を務めていました。最近は、教育現場のジェンダー問題に取り組む専門家の取り組みについてインタビューするなど、女子学生向けの教育を専門とした活動も進めています。 勤務先は、以前ユニキャリに出演された樋口亜希さんが経営する、株式会社Selanです。主軸の事業は「お迎えシスター」というサービスです。海外経験が豊富なバイリンガルの先生による、主に小学生の子供達の送迎と1対1の英会話レッスンを通して、英語力を伸ばすだけでなく、多様な文化や価値観に触れ国際性を育む機会を提供しています。私は教育コンテンツの企画に携わっており、どんな教材やレッスンを通して世界について楽しく学んでもらえるのか、子供達の目線で日々考えています。 今秋からアメリカの大学院の修士課程に進学予定でしたが、新型コロナウイルスの影響で来年に延期になりました。引き続きSelanで働きながら、Lean In Tokyoで活動しています。 ーLean In Tokyoについておしえていただけますか。 「Lean In」は、「一歩踏み出す」という意味です。Facebook社のCOO(最高執行責任者)、シェリル・サンドバーグ氏が執筆した本のタイトルです。この本では、どうすれば女性が野心を忘れずに挑戦し続けられるか、挑戦したいことに一歩踏み出せるのか、どのようにキャリアとプライベートを両立させていけるのか、データに基づいた緻密な分析、そしてシェリルの体験や考えがまとめられています。ジェンダー問わず、全ての方に読んでいただきたい本です。 この本が推奨する「女性が野心を持って挑戦できる社会を作る」ことを実現すべく、シェリルはLean Inサークルの本部Lean In.Orgがアメリカで立ち上げられました。Community、Circles、Educationの3方向から、ジェンダー格差やジェンダー・ステレオタイプの問題に取り組んでいます。 Lean In サークルの主な活動は、イベントやワークショップの開催、メディアを通じた啓蒙活動などです。私たちが大切にしているのは、女性が悩みを共有し、サポートし合えるコミュニティを作ることです。 Lean Inのグローバル調査でも、Lean Inのお互いを支えあうことを趣旨としたサークル活動を通じて、約8割以上の参加者が自信を手に入れて一歩踏み出すことが出来た、などのポジティブな変化を実感したと答えています。今では世界144カ国以上の国の都市、学校、企業でLean Inの姉妹サークルが活動しています。Lean In Tokyoは日本地域代表支部として、2016年から活動しています。 ー新卒でSelanに入社されたのですか。 新卒での就職先は、就労支援、幼児教室・学習塾などのサービスを展開する株式会社LITALICOでした。私は、発達障害のある子供達に向けた学習およびソーシャルスキル支援や、保護者や学校へのサポートに取り組んでいました。 Selanでは、大学生の頃にアルバイトをしていたんです。卒業後も代表の亜希さんにキャリア相談をさせていただいていたところ、ご縁があってSelanで副業をさせていただきました。学生の頃から考えていた大学院進学を本格的に検討し始めたこともあり、「今後の研究のテーマにより近い仕事もしていきたい」と思い、転職を決意しました。今ではLITALICOでの指導体験から得られた経験と知識も、フル活用できています。 ー大学院ではどんなことを勉強される予定でしょうか。 今も考えていますが、研究したいテーマはLean In Tokyoでの活動の延長にある、女子学生の自己肯定感を引き下げている要因を分析することです。自己肯定感が低いと、将来やりたいことや興味・関心に対して一歩踏み出すことが難しくなると考えています。。また、すでに様々な研究でも、日本、またアメリカの女子中高生の自己肯定感・自己効力感が低いというデータが示されています。 この背景には、男女の雇用形態の違いや賃金格差が未だに存在し、女性が職場でやりたいことに自信を持って挑戦できる仕組み・文化が全国で定着しているとは言い難いといった、日本社会が抱える課題が浮き彫りになります。その結果として、女性管理職の割合はこの数十年で増えたとはいえ、まだ30%にも満たない。このような環境では、進路選択を間近に控えた女子学生が自信を持って一歩踏み出すことは依然として難しいと感じます。 私がこの問題意識を抱いたきっかけは、就職活動をしていた時期、キャリアを含めその後の人生について私自身が重く悩み考えたことでした。私だけでなく、多くの女子大学生が、就職活動に差し掛かって初めてジェンダー・バイアスを身近なものと捉えるのだと思います。 女性はいずれ会社を辞めて家庭に入ることが、まだ一部では前提とされており、会社の仕組みや大人たちの言動、女性が出産を機に仕事を中断しても同じ役職に復帰することが難しい現状に触れ、ジェンダー・バイアスが目の前にある問題だったことに気付きました。 中高のハワイ留学中、スピーチで自信を得る ー二宮さんの中学・高校時代で印象的な出来事を教えてください。 中・高時代はハワイ島のインターナショナル・スクールに留学していました。全校生徒の半分以上が現地出身で、私のような海外出身者は少数派。 留学するきっかけは、小学校5、6年生の頃、教育熱心な両親の勧めで参加した短期留学でした。異文化に触れることを楽しんだ私を見た両親が、中学生から留学に行かせてくれました。ハワイを選んだのは、両親がハワイ好きだったり、治安の良さが安心だったり、親戚もその学校にいたり…そんな理由がありました。 ー中学生から一人での海外留学。孤独ではありませんか。 元々の楽観的な性格があってか、渡航前は親元を離れ異国の地で生活することに不安や緊張を感じませんでした。しかし、現地の学校に通い始め、英語での意思疎通がままならない私はカルチャーショックを経験しました。日本の小学校では優等生だった自分が授業に付いていくことができない、英語を母国語とするクラスメイトとの距離が縮まらない…思わぬ展開だったんです。 周りからは「話が通じない子」として見られていたように思います。英語をよく聞き取れなくても、周りの子たちが自分について何か言っているんだな、と察することはできました。そんなこんなで最初の1ヶ月はホームシックで憂鬱でしたが、寮が一緒だった友達が助けてくれ、持ち前の前向きさで乗り越えたことを覚えています。 ー英語を思うように操れなかったとのことですが、転機は訪れましたか。 高校1年生の頃、クラス全員の前でしたスピーチで大きな自信を持ちます。日本の小学校では発表には前向きな方でしたが、留学以来、英語でプレゼンテーションをすることに苦手意識を持っていました。 今も親友として仲良くしている一番最初のルームメイトが、何度も何度も練習に付き合ってくれたお陰で、本番の出来は予想を超えていました。最初はみんなの前で発表することが不安でしたが、「勇気を振り絞って挑戦してよかった」と自信を得ることができたんです。この体験は私にとって大きな影響を与えた、一歩踏み出した体験です。その後の留学生活や大学生活で自ら進んで挑戦できるようになったと思います。 ー大学はそのまま海外へ進学されましたか? 日本に戻ることにしました。元々、日本に貢献したいという思いが強かったからです。あとは、美味しい日本食が恋しかった、日本の就職活動は特殊と聞いていたので日本の大学に通った方が選択肢が広がると考えたことが理由です。 アメリカ本土の大学も受験しましたが、日本の大学から海外留学も学校に無事受かることできたので、帰国を決めました。 今に活きる大学時代の経験 ーどのような大学時代を過ごされましたか? 大学は、早稲田大学の国際教養学部でした。グローバル化した世界の課題を解決できる人材の育成を目指し、リベラルアーツ型のカリキュラム、熱心な語学教育、そして日本語が母国語の生徒に課せられた1年間の海外留学などのユニークな教育方針を掲げる学部です。生徒たちも、海外経験が豊富な学生や留学生が多く在籍していました。 それから、英語塾でアルバイトをしていました。これが本当に楽しかったですね。ハワイ留学中も先生の子供の面倒を見ていたんです。子供好きが興じて、この時に「仕事につながりそうだな」と思っていたら、今もこうして似たような仕事をしています。 ー大学生時代の留学についておしえてください。 アメリカの東海岸のイェール大学で1年間を過ごしました。 留学先を決める時、イェールに留学されていたとても素敵な先輩にお話を伺う機会があったのですが、彼女が私のロールモデルのような存在です。彼女から「留学先で作ったネットワークが卒業後も生きている」と聞いて、アメリカ留学に気持ちがさらに傾いて行きました。 留学前、早稲田大学の教育学の授業で興味深い話を聴きました。経済的格差などの社会課題は子供からその次の世代へと連鎖的に影響していく。そして留学先では日本とアメリカの保育政策について調べる機会があり、その中でも、ジェンダー格差が子供達への教育に大きな影響を及ぼしている、と考えるようになりましたこの学びもLean...

運動少女だった角島瑞希が、5万リツイートの人気シュークリーム専門店を育てるまで

  様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第147回目のゲストはchou à la crème Capri(シューアラクレームカプリ)オーナーパティシエ・角島瑞希(かどしまみずき)さんです。 24時間365日をスポーツに捧げる学生生活を過ごしたものの、ある出来事がきっかけで高校中退。進路を断たれた絶望の縁にいた角島さんを救ったのは、おかしづくりでした。製菓専門学校に進学、朝昼晩とおかしづくりに奔走し、「自分の店を持ちたい」と独立を決断。大阪で初出店したシュークリーム専門店は、オープンから2ヶ月で5万リツイートを記録する大人気店に。ピンチをチャンスに変えた角島さんの『危機を成功に導くレシピ』を伺いました。 できたてにこだわるシュークリーム専門店 ー自己紹介をお願い致します。 chou à la crème Capri(シューアラクレームカプリ)オーナーパティシエの角島瑞希です。現在23歳で、2年前に製菓の専門学校を卒業しシュークリーム専門店を開業しました。2018年5月に大阪府河内長野市に千代田店を、2店舗目として2019年12月に藤井寺市に藤井寺店を立ち上げ、22歳の誕生日に法人化し、株式会社Ciel CoCo(シエルココ)を設立しました。 ーシュークリームのこだわりを教えてください。 できたてにこだわっています。そのため、当日朝に藤井寺店でイチからつくり、千代田店に配送するという手順を踏んでいるんです。11時の開店時間に合わせて朝6:30から開店準備をしています。定番のカスタード、抹茶、チョコレートに加えて、季節によりさまざまな新作を交えた常時8〜12種類ほどのシュークリームを展開しています。やさしい空色を彷彿とさせるテーマカラーの水色で彩られたパッケージに包まれたシューは、自分用のご褒美や大切な人への贈り物としてご利用頂けると思います。 スイーツ少女は、24時間365日のスポーツ少女だった ー幼い頃は本当にスポーツ少女だったと伺いましたが、どんなスポーツされていたんですか。 水泳に力を入れていて、小学生ではスイミングスクールに週6回通いました。水泳をはじめたきっかけは、0歳で母に連れられて、ベビーコースに参加したことです。その後、育成コース、選手コースに進級しました。それから、小学校の5、6年生ぐらいで陸上に転向。どうも校内マラソン大会で注目してくれていたようで、陸上クラブから声をかけて頂いたんです。水泳のおかげで肺活量が強かったため長距離が得意だったことと、進学予定の中学校に水泳部がなかったので、陸上を選びました。 志望校へは、スポーツ推薦で入学。もちろん陸上を続けました。授業のカリキュラムや講義内容から、高校卒業後は、栄養学について学べる大学へのスポーツ推薦での入学を考えていました。 ー当時は、製菓に携わる道は考えていらっしゃらなかったんですね。 進路ははっきり決めていませんでしたが、スポーツ選手として食事管理や食事制限に気をつけていたんです。日頃から自分で勉強していたので、栄養の知識が役立つ方向性を考えていました。 大好きだった陸上を断念せざるを得なかった高校生活 ー高校生活で、角島さんに特に影響を与えた出来事を教えてください。 高校1年生の終わりに、頻繁にものを紛失し、違和感を抱えていました。2年生ではそれが特定の男子生徒によるものだと分かり恐怖を感じるように。それが原因となってストレスで過呼吸を起こすようになりました。 ー周囲の助けは受けられなかったのでしょうか。 最初は、周りの人に話すことはありませんでした。はっきりとした証拠が出てきてから学校側に相談しましたが納得できるような方向に話は進みませんでした。当時は、もう、どうしたらいいかわからなくて…。悩んで悩んで、泣いてしまうような日々。日々弱っていく自分が悪いような気さえしました。影響は、身体的にも現れだしました。そしてだんだん体調を崩し、ついには走れなくなったんです。 そして、部活を辞めました。心配をしてくれた友人からも、学校側にかけあってくれましたが、私はひどく疲れてしまっていたんです。結局、高校を辞めることを選びました。陸上、さらには未来も失い…自分の手足を削がれたような感覚でした。 スイーツに関わる事で第二の夢を見つける ー当時、描いていた将来像まで消え、重ねて辛いお気持ちだったかと思います。どうやって状況を変化させていったのでしょうか。 はじめは落ち込んで何もできない状況でしたが、母と新しい目標を一緒に探しました。もともとおかしづくりが好きだったんです。「辛いときに励ましてくれた人たちに、スイーツを作れるようになった自分の姿を見てもらいたい」そんな想いを抱き、パティシエになるという目標ができました。同学年が3年生へ進級するタイミングで、わたしは専門学校へ再入学。新しい夢を見つけたことが、元気を取り戻すきっかけになってくれました。 ー入学するときに緊張や不安はありましたか。 専門学校は中学校を卒業して入学できるので、多くの同級生が2学年下の子たちになります。仲良くなれるかな、と緊張しました。しかし、学校がはじまると、その緊張は消えましたね。とても楽しかったんです。友達に恵まれ、陸上の次に打ち込むものに出会い、すごく充実した3年間を過ごしました。 一日中、自分がやりたいことができるような生活。朝に自分でつくったケーキを食べて、学校で自分がしたいことを授業で実習し、バイト先で学びたいことを学んでいました。卵やバターや粉が、製菓の工程を経て、綺麗な商品に出来上がっていく様子を見ているだけで楽しくって。毎日同じ作業のように見えても、材料や天候などのわずかな変化にも影響を受けることが奥深いなと思っていました。 最先端のキカイを見て、開業のキカイを考える ー開業を考え始めたのはいつですか。 19歳で参加したモバックショーがきっかけとなりました。モバックショーは、製菓・製パンで使う機械や材料、包材などが展示される展示会です。そこで最先端の機械を見て、圧倒されたんです。将来的に開業することを漠然と考えていたんですが、色んな展示物を見て、具体的なイメージに変わりました。就職という道もあるので、ホテル、レストラン、結婚式場、街のケーキ屋さん、カフェなど、たくさんの現場で働き、体験しました。そこでの経験を経て、より自分の心がわくわくする選択が、「自分でお店をやること」だったんですよね。 ー当時は開業について誰かに相談をしていましたか。 母や専門学校の友達ですね。はじめは家族にすごく反対されました。「一回は就職し、修行してから独立するのが筋ではないか」と両親に諭されたんです。しかし、私が将来、出産と結婚を経験したいことや、お店の計画を両親に説明しました。最後は、「サポートするね」と背中を押してくれました。 ー開業を決めて、最初の行動はなんでしたか。 お金を借りることですね。祖父母の洋服店を改装し、洋菓子のお店を作るには多額の費用を集める必要があったんです。日本政策金融公庫に相談するため、事業計画書を作成しました。友人の父親に、工事計画と見積もりをお願いして改装費用を知り、事業計画書に落としていきました。今思ったらあれでよく通ったなと思うんですけど、手書きで書いた事業計画書を当時19歳で日本政策金融公庫に持っていきましたね。お店をオープンする直前は、「今までの準備で十分かな」「お客さんはきてくれるかな」と、不安がすごく大きかったんです。だけど、自分がつくったものを、「できたよ!」と話せる誇らしさも感じていました。 1日で5万リツイートを記録し、遠方のファンも来店するように ー一歩踏み出すのが怖いと不安になった時は、どうやって乗り越えていらっしゃるんですか。 不安なときは、成功したときのイメージを強く持つんです。これが成功したら、これとこれがよくなると、たくさん思い描いて、心配よりも成功のイメージを強く持てるようにして、進みます。 ーオープンして、どのくらいで軌道に乗ったのでしょうか。 おかげさまで、初日からお店は大盛況だったんです。開店前の店頭にはズラーっと列が連なり、開店時間を過ぎても行列が途切れませんでした。並ぶお客様がいるにも関わらず完売して閉店したこともありましたね。 ーそのときは、残念がられませんでしたか。 Twitterでお店が拡散した翌日が特に大変でした。オープンしてから2ヶ月ぐらいに、私のお酒馴染みのツイートが1日で5万リツイートを記録し、東京、愛知、愛媛などの大阪府外のお客さんが増えたんです。愛知から車で来た方が昼すぎに到着されましたが、完売のため商品をお渡しできませんでした。すごい心苦しかったですね。 ーお店を開店されて約2年が経ちましたが、一番嬉しかった経験を教えてください。 嬉しかったことはたくさんありますが、中でも、昔パティシエをされていた女性との会話が印象に残っています。彼女は「おかしづくりが好きだけど、出産や結婚で、パティシエを辞めてしまった」とおっしゃっていました。そして私に、「若いのに挑戦する姿にすごく感動した。私もまだまだできることがあるんじゃないかと勇気づけられた。私も頑張ります。」と目に涙をためながら話してくださって、最後に握手をしてくださいました。 私の行動で勇気が出ると言ってくださる方がいることが、すごく嬉しかったんですよね。同時に、パティシエをしたいけど、いろんな事情でできない女性も一緒に働ける環境づくりへの思いが自分の中で芽生えた貴重な思い出です。 ー最後に、今後の展望を教えてください。 現在、千代田店と藤井寺店の2店舗を経営しています。ありがたいことに、「ここに作って欲しい!」という声をたくさん頂いています。皆さんの声に応えられるように、お店を他の地域に広げられたらいいな、と思っています。そして、たくさんの方に愛されるお店づくりを頑張っていきたいです。 ー是非、東京にも出店していただきたいです。ありがとうございました! 取材者:青木空美子(Twitter/note) 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) 編集者:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)  

学生起業→2度の転職、レールを外れた元優等生・青木優の「幸せな時間の使い方」

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第162回のゲストは株式会社LITALICOでアライアンス営業を担当されている青木優さんです。 学生に向けたライフキャリア教育プログラム事業を展開する株式会社の取締役副社長も務められた青木さんが、現在株式会社LITALICOに務める理由や、学生起業を経て社会人3年目にして2度の転職を決めた理由など、これまでの経歴を含めてお話をお伺いしました。 学生起業・リクルートを経て社会人3年目にして3社目に突入 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 現在社会人3年目で、今月より障害のない社会をつくるをビジョンに掲げる株式会社LITALICOで企業アライアンスの企画営業をしています。また、副業として大企業の若手社員が集まる共同組織、一般社団法人ONE Xでも活動しています。先月までは株式会社リクルートキャリアで約2年、法人営業をしており、その前は友人と学生時代に子育てや仕事といったライフキャリアプランについて考える教育事業の立ち上げ会社経営をしていました。 ー具体的に現在のお仕事ではどのようなことをされているのでしょうか。 発達障害など苦手なことを抱えるお子さんのための学習商材を見つけて自社メディアで紹介したり、世の中にすでにある商品が使いやすいかのリサーチをしたり、企業と共同で商品やコンテンツの開発をしたりしています。   優等生だった幼少期〜大学受験の失敗 ーどのような幼少期を過ごされていたのですか。 千葉で生まれ、幼稚園からは静岡で育ちました。勉強が好きだったのを見た教育熱心だった母が中学受験という選択肢があることを教えてくれ、中学受験しました。周りに中学受験する友達がいない中だったことと受験勉強をはじめたのが小学6年の夏とスタートが遅かったこともあり、受験勉強は大変でした。地元には中学受験対策に特化した塾もなかったため、半年間は横浜の塾まで週末は通って勉強。結果的に学習院という中高一貫の女子校に合格し、中学から家族で東京に引っ越しました。 ーわざわざ横浜まで通って受験勉強されたんですね…!中高生活はいかがでしたか。 静岡にいた頃は何をしても1番でしたが、東京にきて上には上がいることを実感しました。世の中は広いんだなと思いましたね。当時は先生のいうことに従うのは当然だと思っていたので真剣に学校行事にも取り組み、勉強をする優等生でした。結果的に首席で高校を卒業することができました。 ー卒業後の進路はどのように決められたのでしょうか。 小さい頃から母の影響を受けて飛行機を見るのが好きだったので、東京大学の工学部航空宇宙工学科を目指して受験勉強をしていました。学習院女子高等科は7割が学習院大学に進学する環境で、一般受験をするのは学年の1割程。そのため、受験勉強のために塾に通っていました。残念ながら、受験には失敗し第二志望だったお茶の水女子大学に進学しました。 ーやはり受験を失敗して落ち込まれましたか。 入学してしばらくは挫折感が消えなかったです。そもそも航空宇宙を勉強するために理系を選択していたのですが、お茶の水女子大学には航空宇宙がなく、建築を専攻していました。何のために理系を選択したのだろうと考え、文転も検討しましたね。   留学は私の人生の革命期 ーその後どのように切り替えられ、大学生活をどのように過ごされたのでしょうか。 とにかく何か打ち込めるものがほしかったのでテニスサークルに入り、テニス漬けの日々を大学1年、2年と過ごしました。そして授業を受けている中で女性のキャリアについて興味を持つようになりました。私の母は教育熱心だったことと、父の転勤が多かったこともあり、子育てを中心に生きていました。その母の姿を見て育ったこともあり、私は自然と働きたいから結婚や出産はしなくてもいいと考えていました。また、周りを見ていると夢があるにも関わらず、子供が欲しいから子供がいても働きやすい会社を優先的に探している友人がたくさんいました。でも本来であれば、仕事と家庭やキャリアと子育てが両立できないのが前提にあるべきではないと思うようになったんです。 ーそこから女性のキャリアにフォーカスがいくようになったんですね。 はい。もともと大学で留学に行きたいと考えていたのですが、ちょうど大学2年の時にトビタテ!留学JAPANに出会い、留学先では女性のキャリアや子育てに関する勉強をしようと決めました。そしてたまたまフィンランドが男女平等国家であるということを知ったことと、台湾では子育て世代が1番働いているということを知ったことが重なり、フィンランドと台湾に留学。事前に日本で女子学生に仕事と子育ての両立への不安や仕事選びに重視していることなどを調査し、同様のインタビュー調査を現地でも行いました。 ー調査の結果はいかがでしたか。 フィンランドは税率が高いからこそ制度が充実しており、それが女性の活躍につながっているなと実感しました。逆に台湾にM字カーブ(労働分野において女性の年齢階級別の労働力を示す指標)がない理由としては多くの家庭が祖父母世代と住んでおり、コミュニティで育ているという風習が残っていることが理由だとわかりました。 インタビュー調査を含め、留学で1番考えることとなったことは「人々の価値観がどう醸成されるのか?」ということでした。フィンランドで女性に「どんな人生を送りたいか?」と質問したところ「ノーマルライフを送りたい」という回答があったので、彼女が思うノーマルライフについて聞いてみたんです。そうすると、自分のやりたい仕事をしつつ家庭を持ち、子供を育てることと言われました。フィンランドではそれがノーマルライフとして受け入れられているということ、それぞれの選択が尊重される価値観が存在していることに驚きました。これを日本でも当たり前にするにはどうしたらいいのか、どうすれば人々の価値観にアプローチできるのかということを帰国後も考えるようになりました。   就職ではなく起業を選択 ーそれが結果的にライフキャリア教育事業での活動につながったのですね。 実は留学前から少しずつライフキャリア教育関連で友人と活動をはじめていました。帰国後就職活動をしはじめていたのですが、ちょうどその活動で法人化する話が上がり、迷った結果会社設立にフルコミットすることを決めました。 ーやはり就活をどうするかは迷われましたか。 これまで周りからの見え方の良い選択を選んできたのですごく迷いました。でも留学を通して無名の大学出身でも面白いことに取り組んでいる人、ユニークな人に出会ったことで、他人からどう見えるかが全てじゃないということに気づかされました。人の評価軸で生きてきた自分を変えるなら今かもしれない、今しかできないことに挑戦するべきではないかと思い、就活を中断する決断をしました。そういう意味でも、留学は私の人生の中での革命期です(笑) ー0からの事業立ち上げ、やってみていかがでしたか。 メンバー全員、起業経験はなかったので大変でしたが多くの人に助けてもらいなんとか法人化できました。無知だったからこそできたんだと今振り返ると思います。目指す共通の社会をビジョンに掲げてそれに向かってみんなで取り組むプロセスは難しいながらもとても楽しく充実していました。   幸せな時間の使い方を。 ーそんな中、経営していた会社を離れ一般企業に就職をされた理由は何だったのでしょうか。 自分が目指す社会の実現を目標に大学を卒業してからも約半年間その会社で働いていたのですが、だんだんと今私がしていることは、本当に目の前の人の課題解決に繋がっているのだろうかという疑問が湧くようになりました。社会を変えたいと思ったら、まずは目の前の人が何に困っているのかを知らなければならないと思うようになったんです。 これがきっかけで、人材領域で求められていることに適切な価値を提供しているからこそ大きなお金が動いているリクルートキャリアに転職し、ビジネスの基準値を学ぼうと決めました。求人広告の法人営業を2年間担当し、これまで自分が関わってきた社会と、大企業から見える社会との違いを知ることとなりました。大企業に所属したことで、たくさんのリソースがありフィードバックを経験者からもらえる環境で働ける良さを感じました。逆に、あくまで大企業の中の1個人であることから社会に影響を与えている実感は薄れましたね。 ーその後、再び転職を選ばれたのですね。 自分がこれから何をしたいかと考えた時に、私は社会にないサービスを新しく生み出すことに興味があると思いました。今の仕事では新しい何かを作れるポジションではなかったので、転職を決意。LITALICOであれば困りごとに対する解決策を作るところから取り組むことができると思いました。また留学後から考えるようになった「世の中の価値観をどうやって変えていくか?」ということにもLITALICOであれば同時にアプローチできるなと考えたんです。 ーこれからLITALICOで活躍されていかれることかと思いますが、ぜひ最後に今後の目標や展望を教えてください! すでにある世の中の企業と一緒に、困りごとを解決するために新しいものを生み出すということに全力で取り組みたいなと思っています。と同時に今後もずっと大事にしていきたいと思っていることは「その時々で幸せな時間の使い方をする」ということです。自分が幸せだと感じられることをどの都度選択し、向き不向きではなく、やりたいか好きかを基準に選んでいきたいです。 正直、やりたいことはこれからもどんどん変わっていくと思うので将来何をしているかはわかりませんが、20代はやりたいことに貪欲に挑戦して自分の幅を広げていきたいです。   取材者:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

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