歌舞伎町の若者の政治関心を引き上げる。国際政治を伝わる言葉に分解するホスト・楽の生き様

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第99回目のゲストは歌舞伎町ホストの楽さんです。 幼少期は、尊敬できる大人とできない大人に囲まれました。大学時代は、アカペラを辞め、学外との交流を増やしました。現在は、ホストとして歌舞伎町で働きながら、若者に政治との結びつきを作るために奮闘しています。 人材系の内定を蹴って、ホストとして歌舞伎町で活動する楽さん。アウトサイダーとして挑戦し続ける理由には、人と向き合い続ける姿勢と、自身のルーツである中東が鍵を握っていました。 主観を鍛え、他者との関わりを考え抜いた学校生活 ー周囲の大人が考える力に大きく影響した? 僕の周りは、尊敬できる大人とそうでない大人の両方がいました。家庭では、父親は周囲から尊敬され、優秀だし、昔からモテました。母親は、暴力をふるい、一度説教を始めたら何時間でもしつこく続ける人でした。本人だけが悪い訳ではないと思います。おそらく発達障害を持っている上、うつを発症していたものと思われます。精神病院に入院することもありました。学校では、教員が軒並み問題を起こしていました。教員同士のいじめ、僕の同級生に別の教員がセクハラ。小学5、6年で学級崩壊しました。 一方で、ボーイスカウトのリーダーたちは立派でカッコ良かったです。茶道の先生は教養がありました。つまり大人は全員が従うべき存在という訳でもなく、一方で正しいと考えられる存在もいます。誰を信用すべきか・すべきじゃないのかを、自分で考える力が育ちました。 ーカウンセラーになりたいのはいつからだったか? 高校生。高校1年の終わりで震災を経験しました。僕は当時、部活に打ち込むあまり、数学を100点満点で7点を取りました。最後のテストが3月で、震災の影響で流れました。テストが流れた関係で、先生方が手を尽くして下さったこともあり、救われました。震災のおかげで助かってしまい最悪の気持ちでした。 罪滅ぼしをせねばと思いました。NPOを探し出し、連絡を取り、ボーイスカウトの仲間とボランティアに行きました。夏なので、仮設住宅環境がきつかったり。住宅の問題点を聞き回り行政に報告し、環境を改善するという建前ではありますがメインの目的は孤立して心の傷もうまく吐き出せない被災者の方に、会話のきっかけを作ることでした。ヒアリングで気づいたのは、ただ質問をすればいいのではなく、話し手の心理的安全を担保したり、話す内容を浮かびやすくさせるための仕掛けが何重にも必要だということです。家族を亡くした被災者にも会いました。重たい話を、抵抗なく引き出せるかは、カウンセリングに近いと思います。 ーアカペラ部で難攻不落の生物部を撃破? 僕は中学が公立で、高校が中高一貫の男子校でした。男子校なので、合唱コンクールの文化がありませんでした。共学出身者と合唱コンクールの思い出話をしたら、え、やらね?ってなって、うちの高校の先生に、ゴスペラーズの先輩に当たる人がいたので部活を立ち上げました。 文化祭で優勝した経験もあります。地道な票集めが優勝のカギでした。どうやって 2位を獲るかを戦略立てて臨みました。十数年間生物部が不動の王者でした。小学生たちに生き物を配っていました。小学生で票数は稼げません。したがって、保護者とナンパ待ちの女子高生を狙った選曲をしました。さらに、来場者の導線を読んでパフォーマンスをしました。 ー死にかけたことがある? 高校2年の夏、イラン最高峰のダマバンド山(頂上の標高5600m)に父と2人で挑戦しました。頂上が吹雪とのことで4200mくらいのところから引き返し下山したのですが、その途中でホワイトアウト(雪や霧で360°真っ白になり方向が分からなくなること)し、完全に広い山の中で孤立し遭難しました。自分はこうやってあっけなく17年の生涯を終えるのか...と絶望で目の前が真っ暗になりました。しかし登山経験が自分より浅いはずの父が冷静に振舞っている姿に勇気が奮い立ち、2人で知恵を絞ってどうにか方角の見当をつけました。結果奇跡的に目の前に登山口への道が現れ助かりました。 この経験から、「明日死ぬかも」論や「今(だけ)を生きる」思想には反対です。未来という概念を持ちそれに希望を抱けるのは唯一人間のみに許された特権です。希望があるから前に進める。第一、常に明日死んでも後悔がないように生きるなんて可能なのでしょうか。現在と未来の充実はトレードオフなのではなく、未来の希望を持って今を生きるから本当の意味で充実する。もし命に危険が迫ったら諦める前に最後まで最善を尽くすべきです。後悔しないよう生きるくらいなら、交通に注意を払い、防災グッズを揃え、余力があるなら護身術を習ってでも一度しかない命にしがみつくべきだと思うのです。 ージェンダーの違和感は共学から男子校への転換がきっかけ? 男子校の中身は見せられません。女性差別までとは言いませんが、「ブス、ビッチ」と多くの人が言います。そう言って強がりたいだけなのだろうと思いつつ、社会に出たら、無自覚に誰かを傷つけてしまいます。彼らだけが悪いわけではないのはそうなのですが、だからといって放置してよいものではないと思いました。人間をプロフィール情報ベースで物のように扱うのではなく、1人の人間として接するということに、まだ困難があるのだと感じます。 ー大学受験ではどんなことがあったか? 当初は心理学をやりたかったです。また歴史が好きで、幅広い学問として教養を中心に大学さがしをしました。数学で7点を取り、かつ世界史が得意だったにも関わらず、「数学は役に立つ学問なので僕は受験で数学を使います。」と言った僕に対し、先生方は爆笑しながらも温かい目で見守ってくださいました。1 年目は全落ちしましたが、浪人して、全部受かりました。浪人中に初めての恋愛を経験し、恥ずかしいですが毎日お互い結婚しようと話していました。夜8時ぐらいに、一緒に予備校を出ました。8時5分ぐらいに、新宿駅の改札前に到着しても、話が止まりません。気付いたら9時で、予備校の友人が横切り、「あいつらいるよ。」と笑われました。落ちたら一生後悔すると焦り、彼女を突き放しました。付き合いの経験が浅いゆえの愚行でした。 僕は合格しました。彼女は不合格でした。大学入学後2、3ヶ月は似た背格好をみて、彼女を思い出して振り返りました。抜けてる人だったので、受験番号見落とした〜。言ってきそうな気がして。 アカペラサークルを辞め、ホストの世界へ入り、自分のルーツの再発見に繋がる ー大学に入ってからどのように過ごされたか? 高校の先生と同じ早稲田に入ったということで、ゴスペラーズが出身のアカペラサークルに入りました。サークルの部員は音楽に対して真剣でストイックでした。音の正確さをヘルツで測ったり、音楽理論の難しい方式を持ち出したり、マニアックな洋楽を探したり。音楽への熱は本当にすごい方ばかりでしたが、一方で他大のアカペラサークルをミーハーであると見下し、他者との間に線を引くことで自尊心を保とうという気持ちが見え隠れしている人は一定数いたのも事実でした。 また軍隊的な組織でもあり、「あたしを含め4年生は天皇であり、象徴的存在だ。実際に動くことがあってはならない。3年は将軍、1年生はピクミンだ。」と先輩に言われました。あそこで言い返せなく、後輩にも苦しい思いをさせました。大学2年の途中で抜けました。 ーとある企業でインターンをされた? Huber.Incという会社です。訪日外国人観光客と日本人をマッチングするプラットフォームを提供してます。マッチングすると、日本人が外国人を案内する仕組みです。日本人は生活と観光に必要な知識を当たり前に持っています。具体的には、美味しいスポットや楽しい場所や電車の乗り方です。突然知らない国の空港に降り立った外国人はやはり不安な気持ちになります。海外生活における困難を考えながら、外国人をサポートしました。 卒業して作ったシェアハウスの考えもインターンから導き出きました。お互いの良さが見えるとコミュニケーションはプラスになります。食べ物は減る資産。食べ物は、人にあげる分減ります。しかし、シェアハウス空間は減りません。したがって、シェアハウスの人間関係は減りません。宿泊者と居住者の両方に開かれた空間なので、シェアハウスに関わる人は孤独感を軽減できます。例えば、田舎から上京し、よりどころがない人たちが宿泊します。簡単に手に入るので農作物を宿泊者がシェアハウスで受け取りました。価値交換で、空間のよさがより高まりました。 ーホストを始めたきっかけは? 直接の動機は先輩に金がないと相談したら、ホストを提案されたことです笑。しかしまた歌舞伎町は人間の欲が生々しく表れる空間で、人間の根源的な不満や苦悩を哲学するいい場所でもあります。ホストクラブに来るお客さんも働く人もそうです。その奥に貧困やジェンダー解決のヒントがあると思います。社会勉強の狙いもあり、飛び込むことにしました。 ー実は、就活もしていた? 大学卒業後は就職を考えていました。しかし、もやもやがありました。そのもやもやがはっきりしたのが卒業直前の旅行です。自分の原体験は中東です。現地の空気を思い出しに行こうとサウジアラビアに旅行し、中東に関わりたいと思いました。人材系は、中東と直接関われないので就職先じゃないと思いました。自分をごまかして就職するのはやめようと思いました。 ー中東にどんなルーツがあるの? 国際関係や世界平和を考える自分の根源は、湾岸戦争とイラク戦争です。湾岸戦争がなければ僕は生まれていませんでした。当時は父親が現地にに駐在していたのですが、戦争の影響で危険になり、外務省から通達があって、邦人が全員帰国しました。日本に帰国し父親が仕事が少ないので暇していたら、母親と出会いました。 2002年まで僕はUAEとカタールに住んでいました。帰国の翌年にイラク戦争が起きました。メディアから切り取られるイスラム像が僕の知る隣人の姿とかけ離れ、ショックを受けました。メディアは事実のまま伝えないと思いました。例えば近年でも、イスラム圏の人たちはラマダンで団結力を高めるとNHKが報道していました。しかし、ラマダンは断食を通じて貧しい人たちの思いを忘れないようにしようという習慣です。事実をあえて曲げるのは、裏で力が働いていると考えます。根本的な解決は外交の日本の交渉力を高め、海外の影響をしりぞけるしかありません。 ー具体的に中東とどのように関わりたい? 例えば、安全保障。メディアで軍事的な意味で多く使われます。安全保障は、生活の必要最低限だと僕は捉えます。自分たちが生きるために必要不可欠な安定供給が、広い意味での安全保障にあたります。よくニュースで言われる軍事的文脈での国土防衛も安全保障でありますが、その一部に過ぎません。具体的には、石油がなければ、食糧輸送や電力供給ができません。医療も安全保障の 1 つと言えます。日本は石油が取れないので、安全保障政策は海外に依存します。言い換えれば、日本は石油が弱点の1つになります。 外交の場面では、石油を止めると他国から圧力がかかれば、日本は譲らざるを得ません。今の世界は戦争はあまり起こりません。なぜなら、核兵器が溢れているからです。代わりに、貿易そのものやサイバー攻撃などが交渉の武器となりました。したがって、戦争状態と平和状態は境界が曖昧になります。例えば、日本が韓国に対し工業に必要な化学物質3 項目を輸出制限し韓国が大打撃を受けた。これも攻撃と捉えられます。 世界中の誰もが平和を願います。成し遂げられないのは、よりよい交渉を望むからです。自国の安全を守りたいが故に他国の安全を脅かします。これでは解決にならないので、僕はその根本を改善したいと考えています。しかし、外交は仕組み化できないため、都度交渉し続けることしか今はできません。なぜ仕組み化できないかというと、現代社会は、国家が百何十こあり世界が無秩序だからです。国家は一番強い権力を持っています。したがって、最終的な意思決定機関は国家です。 それゆえ、国家を超えた問題は対応できません。世界裁判所や世界立法機関が存在しないからです。したがって、罪を犯しても罰せられません。例えば、以前アメリカ大統領がイランの司令官を殺した事件がありました。しかし、仕組みがないので殺人罪に問われません。これが国際社会の現状です。300年後ぐらいに世界政府か国家を超えた機関の誕生を期待し、今は交渉で最悪の事態の回避を積み重ねるしかありません。その実現のために自分は外務省に入るか、試験などの関係で叶わなかった場合、大学に戻り研究をしようと考えています。 政治と歌舞伎町は、人間関係に置き換えると身近に感じる ー外交官になり、中東と日本の架け橋とホストの仕事は、一見リンクしない。どんな風に楽さんの中で繋がる? 外交で勝つためには国内のコミュニケーションが必要です。しかし、ほとんどの人は外交に興味がありません。海外から日本へのプレッシャーに気づかないからです。海外の要求に日本人が意思表示をすれば、海外からの要求に抵抗できます。まずは関心を持ってもらうために、外交に関心がない層に、外交に限らず政治を伝えることが必要です。興味がないと、人は遠ざかります。歌舞伎町的な視点と外交の背景の結びつきに関心を持ってもらうことが自分の目標です。そして、歌舞伎町には人間の欲求が最も生々しく現れている場所。権力、金、自己の弱さと正当化し隠したい気持ち。他者を特定の尺度で上回ることで自分を保ちたい本音。自分の所属する何かに名前をつけることで孤独から逃れようとする集団依存。支配と被支配という関係の構築により自分が受け入れられているという証を可視化する行動。実はこういった人間の本能は、社会や政治を見る上で大きく繋がって来るのです。たとえばこの前、ナイナイの岡村が風俗をめぐる発言で炎上しましたが、この時の荒れ方や問題のこじれは、戦争の原因となる外交問題のこじれに例えて分析することができます。長くなるので割愛しますが、これについては今文章を書いているところなので、どこか別の場所で紹介すると思います。 ーホストクラブは政治や外交を学ぶ場所ではない。関心のスイッチをどう入れる? テレビで名前は広まったので、自分自身に関心を持ってもらうのが一つ。もう一つは、面白く伝えることです。例えば、第一次世界大戦。きっかけはロシアとオーストリアの思惑の衝突でしたが、互いに味方を増やすため利害関係に基づき同盟を巡らせており、派閥対派閥の構図になっていました。自分の主張を守りたい思いがゆえに派閥を膨らませた結果悲惨な戦争に発展しました。国際関係は実生活の人間関係に応用できます。自分の主張を通したいときは自分一人よりも見方を作る性質があることがわかるため、問題の深刻化を防ぐには人間関係の構造を二極ではなく複雑にしておこうと行動の指針になります。 人間関係の悩みは誰でも抱えるので、国際関係をわかりやすく理屈っぽくない程度に伝えることを心がけています。海外の問題を身近な問題として少しずつ考えてもらえればと思います。 ー茶道とホストクラブ、茶道とセックスに共通点がある? 僕は売春に該当する行為はしていません。しかしながら、女性を理解し、そして少しでも満たされ幸せな気持ちにするために、セックスが重要なツールの1つなのは間違いありません(僕はヘテロセクシャルなので対象を仮に女性としていますが、どのような当事者であっても同じことが言えると思います。)。セックスほど、人を幸せにも不幸にもするものは存在しない。自分がモノにされている、消費されているような気持ちになれば、それはたとえパートナー間でも、性別を問わず自分の尊厳を危機に晒します。一方で、自分が本当の意味で大切にされている、リスペクトされていると感じてもらい、その人が自分自身をより好きになれるのもまたセックスの側面です。言葉で取り繕えないものを形として示すことができる。ありがたいことに今まで「料理もセックスも職人」「セックスしているだけでフェミニストなのが伝わる」「こんなことをされたら誰でも好きになってしまう」(さすがに大げさですが)といった評価を頂きました。しかし実はそこに至るためにヒントを与えてくれたのは、以外にも茶道でした。 ここに、コーヒーマグがあるとします。あなたはそれを、目の前の人に振る舞おうとしています。この時、渡し方は3通り。1つは、持ち手を相手の右(利き手)に向けない。2つめは、利き手の方にマグの持ち手が向かうように最初から持ち、そのまま置く。3つめは、持ち手を適当な方向に向けて置いた後、テーブルの上で回して向きを直す。2つめと3つめ、相手への心遣いで言えば一緒ですが、2つめは気持ちが形として伝わりません。一方3つめは、あえて回すことで「自分はもてなされている」と相手に感じさせることができます。「抹茶が出された時茶碗を回す」というのを知っている方も多いと思いますが、実はこんな意味があります。茶道にはこのように、相手を大切にする気持ちを形にするための様々な工夫が詰まっています。 ホストクラブも同様、お酒の配置からドリンクの作り方、灰皿の扱いに至るまで細かく作法が決まっており、それら全てにお客様をもてなす上での理由があります。これは全く茶道と一緒です。 ではセックスにおいては具体的にどんな行動になるか。たとえば「私今日肌ちょっと荒れてるんだよね...」という言葉が会話にあったとします。もしセックスの時その荒れた肌に、たくさんキスをされたら、きっと相手は嬉しいのではないでしょうか。なぜならそれが、肌の状態に関係なく相手を大切に思っているというメッセージになるからです。言葉以上に相手への肯定になります。他には、ふと相手の手足が流れの中で下敷きになりそうな時よけてあげる、「こんな反応をしたら引かれないかな?」と不安に思っていそうだったら手を握る、こういったことの積み重ねが重要です。もちろん一番は愛のあるセックスだとして、では2番目にいいセックスは何か?これは僕の考えですが、「礼のあるセックス」だと思います。あまり生々しい話をするのもあれなのでこれぐらいにしますが、とにかく、セックスはもっとも人間が無防備な状態になる瞬間の1つ。性別を問わず誰もが不安です。そしてその不安の正体は、反応や行動1つ1つで自身の内面が簡単に晒されてしまうことです。相手にもっと自分を必要とされたい、尽くされたい、支配したい、支配されたい、挑戦的な言動をしているが逆にその分跳ね返してかまってほしい、などなど。相手の性格を注意深く観察し、それを受け入れてゆく。その繰り返し。逆に何か困ったことがあった時にメッセージをもらえれば一緒に考えることもできます。 ー日本人の何を守りたいのか? 僕は他者をある程度は放置すればいいと考えてます。自分が理解もしておらず直接の利害もないのに関わるのは問題を複雑にします。日本の世間は他者を放っておけません。放任できない世間を変えたい。守りたいのは、個人の意思です。 例えば、この本ですね。(「同調圧力」を画面で紹介。)この作品は、 同調圧力に屈さず正義を貫いたジャーナリストと官僚3人が自身に起きたことについて語る本です。同調圧力が強いこの国では、官邸から無言電話がきたりすることもあります。圧力に負けず、自分の意見を主張し続けるのは、国で貴重な存在です。どのようにどのような課題が組織にあり、3人がどう対処したか、対処できた 3人の背景が書かれています。 同調圧力 (角川新書) | 望月 衣塑子, 前川 喜平, マーティン・ファクラー |本 世間を気にして生きると、人々の協力を促せます。集団として高いパフォーマンスが出せるのは事実です。一方で世間には実体がありません。責任はとらない。そして、世間は感情的です。日本以外の国では歴史的に、立場が上がると、自由が増える構造でした。ゆえに人は自由を求め高い地位に向かい競争するのが一般的な歴史の流れでした。しかし立場が上がっても、日本人は自由がありません。世間がいろいろ口出しをするからです。政治家や社長であっても、同じように相応の振る舞いを求められます。 東条英機であっても、世間を忖度した側面があるのは事実です。それゆえはっきりと戦争責任の原因を歴史は言及できず「開戦の空気が高まった」となってしまいます。結果、うやむやに物事が進んでしまう。世間が全ての意思決定をします。世間は文句を言うだけですが、世間は罰せられません。 最近のニュースでは、俳優がコロナの影響を心配し主役を降りました。コロナにかかったら世間は健康管理不足であると叩く。かといってコロナが理由で自分の役と仕事を放棄しても世間は攻撃します。そしてどうすればいいのかを示さないのが世間です。しかし、世間を壊すことはできません。渡り合いの精神が日本社会に浸透し、世の中が柔らかくなればいいと思います。 人間は誰しもが自由から逃れたいという本能を少なからず持っています。なぜなら判断するにはエネルギーを消費するからです。誰しもが自分の決定が正しいという根拠が欲しい。しかし1つ1つの行動について考え抜き自信を持つのは大変。ゆえに、何か大きな存在を拠り所にし、それに従うことで安心感を得ようとするのです。それは恋人かもしれない。国によっては宗教かもしれない。日本人の場合はその拠り所が「世間」になってしまいます。だから周囲から認められることをすることと、自己肯定感が直結してしまっているのです。 しかし、誰もが実は自分の意見を持っている。心の中のどこかで正しくないと思っていることを続けると、少しずつ自己嫌悪が溜まってゆく上、周囲と同じことをするだけの中で自分の存在意義を見失うこともあります。恐れずあなたが正しいと思ったことをすることで、あなたはより自分を好きになれるでしょう。 ー楽さんの実現したいビジョンは? 平和に生きていられればと思います。人が争わないのは結構難しい。人間は自分の命以上に自分の存在意義が大事です。自分の存在意義が危ぶまれると人間は死に向かったり、自分の存在意義を確かめるために人を傷つけます。 夜職の一部もアイデンティティの危機に晒され続けています。具体的には、風俗嬢は、風俗嬢として周りはみてくれません。風俗嬢に両親から満足な愛情を受けていない人が傾向として多いのは事実です。しかしそれとはまた別に、友達がいて、学校に通い、部活をしてたといった部分もまたその人の個性なのですが、そこがぼやけてしまう。しかし、風俗嬢となった瞬間、風俗嬢としかみられません。「風俗嬢」という言葉を使う裏にはしばしば、同じ人間として見るのではなく「風俗嬢とそうでない私たち」と線を引くニュアンスがあったりします。人は自分をはっきりさせるためにアイデンティティを作ったり、他者の主語を大きくしたりする。宗教?人種?性別?学校?職業?国籍?こういった本能がある限り、人間には常にどこでも争いの火種がくすぶっています。 人間同士の平和は構築が難しい。僕は治安のよさを後世に残せればいい。しかし僕の生きる時代で、平和の仕組み化は無理です。国家を超える意思決定機関ができるにはまだ数百年必要。だとしたら、そこに繋がるレンガの 1 ピースを乗せられればいいと思います。 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:津島菜摘(note/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる

学校にいる意味を見失った少年が小学校の先生になるまでの軌跡!箸本知希の『自分らしく生きる』秘訣とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第89回目となる今回は、千葉県の公立小学校教諭として特別支援学級の担任を務めている箸本知希さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 石川県金沢市に生まれ、のどかな自然と伝統あふれる街で過ごした幼少期。中学受験をきっかけに「人を比べて評価すること」への違和感を感じ、人生で最も辛い時期を過ごします。 地元の大学に進学後、2016年に『一般社団法人LYHTY』を起業。LYHTY school -IRORI-というフリースクールのスタッフとして不登校支援に従事します。また、2017年に『トビタテ留学JAPAN』に採用され、フィンランド教育についての研究も行いました。 その後、2018年より公立小学校教諭としてのキャリアをスタートさせた箸本さん。2019年には特別支援学級の担任となりました。本業とは別に『世界青少年「志」プレゼンテーション副実行委員長』を務めるなど、教育を軸に新たな挑戦を続けています。 皆さんにとって「子どもと関わる」とはどのような意味を持ちますか?海外、日本、それぞれの教育のあり方を見つめた箸本さんだからこそ、今も大切にしている熱い想いがありました。   不慣れだった1年目から本業以外も手掛ける3年目へ ー本日はよろしくお願いします!まずは、現在のお仕事について教えてください。 千葉県の公立小学校教諭として勤務し、今年で3年目になります。通常学級の担任を1年間務め、2019年より特別支援学級の担任になりました。 実は、もともと千葉県に何か縁があったわけではないんです。生まれは石川県金沢市で、地元の大学に進学しました。就職のタイミングで千葉県に移住しました。東京は人が多いことに苦手意識を覚えて…(笑)   ー小学校教諭として勤めながら、本業とは別に様々な活動をされていらっしゃるんですよね。 『先生の学校』というイベントに登壇した経験があります。他にも様々なイベントの企画や運営を行なっています。また、この有事の状況だからこそ自分にもできることがあるのではないかと思い、先生や教育に興味がある学生同士が繋がれるようなオンラインサロンも主催しているんですよ。。本業以外にも様々な活動をしているので「本当に1日が24時間なの?箸本さんだけ30時間あるんじゃない?」と言われることもありますね(笑)   ーそれはすごい!活動をするために、どうやって時間を見つけているんですか? 学校がある平日は、基本的に6時に出勤し、18時には帰宅する生活をしています。仕事がある平日にも時間を確保し、週末を活動にあてることもあります。   ー本業である小学校教諭は現在3年目とのことですが、1年目と比べて子どもへの接し方に変化はありましたか? 1年目はあまり自分に余裕がなく、不慣れなことが多かったですね。 地元から離れた場所に就職したこともあり、学生の頃と比べて生活スタイルが一変しました。子ども達に関わることはもちろんですが、周りの先生方との繋がりに関しても未熟な側面が多かったです。自分に余裕がないと、子ども達と接する時にも余裕をもって接することができません。まずは自分自身に余裕をもつこと、その上で子ども達と接することが大切だと思っています。今は自分に余裕を残しながら仕事と向き合うことができるようになりました。仕事でもプライベートでも、『自分がやりたいことをしながら働く』ことで、心にゆとりが生まれると思います。 また、子ども達への声かけにも変化がありました。彼らと向き合う経験を重ねた結果、言葉を交わさなくても子ども達の感情や想いを推測し、一人ひとりに寄り添った言葉をかけられるようになったんです。   ー先生という仕事の魅力は増しましたか? 1年目から変わらず魅力を感じています。月日を重ねることによって、より「子どもの成長を共に見る」ことができ、先生という仕事の素晴らしさが増す思いです。先生の魅力は何より、子ども達の成長を側で見させてもらうことだと思いますね。   ー小学校教諭はいつ頃から目指すようになったのでしょうか。 大学生頃から意識するようになりました。幼い頃から先生を志していた訳ではありません。しかし、父が特別支援学校の教員をしていたので、頭の片隅には『先生』という選択肢がありました。   ー生まれ育った土地で教諭になる選択肢もある中で、箸本さんは千葉県で働くことを選んだんですね。 働く場所は特に気にしていなかったですね。先生になれるのであれば「地球上どこだっていいな」と思っていました。 そんな中で千葉県を選択したのは、「生まれ育った場所から出てみたい」という思いがあったからです。また、イベント運営などを通して知り合った友人が関東方面に多かったことも主な理由でした。当時は、面白そうだなと思う人や場所が東京に集まっていました。しかし、地元の大学に進学していたため、、なかなか東京まで足を運ぶ機会は作れなかったんです。。就職を機に人との繋がりやチャンスを掴むことができるのではないかと思い、移住を決意しました。   学校にいる意味を見失った中学時代   ー現在、非常に活動的な箸本さんですが、幼少期はどのような子どもだったのでしょうか? 自然が好きでよく木登りをしているような子どもでした。食べられるのかどうか確かめもせず、道端に生えていた小さい赤い実を取って食べたこともあります(笑)その実を鼻の穴に詰めて取れなくなり、病院へ行ったこともありましたね。とにかく何でもやってみたい、興味があることはは挑戦する性格でした。   ー活発な少年だったんですね!中学時代はどのように過ごされていましたか? これまでの人生で、1番どん底の時期でした。 小学校高学年になるにつれて勉強が難しくなり、自分の頭が追い付かなくなっていく感覚がありました。反面、親が受験を申し込んでいたため、あまり乗り気ではない状態で中学受験をすることになったんです。 結果、無事に合格。でも、いざ入学してみると周りの子達は全員エリートで、その雰囲気に飲まれていく自分がいました。「僕も勉強を頑張らなきゃ」と向き合おうとしたものの、だんだんしんどくなっていったんです。 その後、「なぜ自分はこの学校にいるんだろう?」「親が勝手に申し込んだせいだ」と思うようになっていきました。いわゆる反抗期でしたね。   ー辛い時期だったんですね。勉強以外の学校生活はどのように感じていましたか? 友人とはそれなりにいい関係を築けていました。しかし、周りの大人の評価軸はテストの成績やそれに基づく競争で、比べられる感覚があったんです。勝ち負けにこだわりたくないと思いながらも、その環境の中で生活し続けないといけないことが苦しかったですね。   ーそんな状況でも卒業まで出席し続けられたのは、どのような背景があったんでしょうか。 友人が支えてくれたことが大きかったです。また、「今の3年間を頑張り抜いたら、新しい3年間が始まるんだ!」と希望を持つことで、乗り切れたと感じています。ですが、僕が通っていたのは中高一貫校。実際には、環境面で何かが変わることはありませんでした。エスカレーター式で上がっていくので人の出入りがなく、高校生になっても中学生との境目がわかりませんでした。   『やりたいこと』はだんだん見つけていけばいい ー希望を持って迎えた高校生活も結局は変り映えがなかったんですね。この状況でどのように過ごされたのでしょうか? 幸いにもやりたいことを見つけ、テニス部に入部しました。もともと中学生の頃からテニスをやっていたので、高校では勉強そっちのけで部活動に没頭することで乗り越えることができました。   ーテニス部への入部がきっかけで生活が好転していったんですね! 先ほどもお伝えしましたが、父は特別支援学校教諭を務めています。幼い頃から職場について行っては、校庭でサッカーや野球をしていました。そのスポーツの中にテニスもあったんです。父親は石川県で車いすテニスを広める活動をしていて、大会の運営もしていました。僕も大会の手伝いをしたり、車いすの人と一緒に大会に参加したりすることもありました。 高校ではテニスに打ち込んでいたため、結果的に全国大会出場を果たすことができました。ですが、それより先の「プロの世界に挑戦しよう!」という思いや「もっとテニスをしたい!」という感情は生まれませんでした。スポーツ選手になるということはスポーツを仕事として極める事になりますよね。僕は「テニスを楽しむことで十分だな」と思いました。 ーその後の進路はどのような選択をされたんですか? 大学受験をすることに決めます。高校3年間は部活動に捧げすぎてしまったので、スタートは大変でした。AO入試などを利用してしまうと、否が応でも面接でテニスの話をすることになります。そうすると大学でもテニスをする流れになると思い、ゼロから勉強して大学に行くことにしました。ですが、「この大学に行きたい!」という明確なビジョンがあったわけではありませんでした。家から近距離で、偏差値があまり高くなく、教育学部がある地元の大学を受験することに決めました。   ーもともと特に行きたい大学があったわけではなかったんですね。大学でのやりたいことや学部に悩み、志望校選びに迷う方もいらっしゃる印象があります。 どの学部を選ぶとかいい大学に行くとか、あまり関係ないと思っています。僕自身は、大学に入ってから自分がやりたいことを見つけていこうと思っていました。そのため、特定の大学を目指して浪人するという選択は取りませんでした。何をするかは自分次第なので、入学してから自分がしたいことを見つけていければいいのではないかなと考えています。   『居場所のない子ども達』初海外で見た東南アジア教育のリアル ー中高一貫校時代から一転、いよいよ新しい環境での生活がスタートしたわけですが、大学生活で新しくチャレンジしたことはありましたか? これまで経験のなかった海外渡航に挑戦しました! 留学も行きましたし、大学生ならではの長期休暇を利用し、お金を貯めて一人旅に行くこともありましたね。僕は能天気な性格なので、誰かと一緒に行くと喧嘩になってしまうみたいなんです(笑)僕にとっては「海外へ行くなら一人で」が最も合っていました。   ー思い切ったチャンレンジですね!主にどこへ行かれることが多かったんですか? 1番よく行っていたのは、コスパのいい東南アジアです。特に、フィリピンとカンボジアは頻繁に訪れていました。 両国は、学校に通っていない子ども達が多いことが共通点です。これらの国では、孤児院などの教育現場に足を運ぶ機会に恵まれました。そこにいる子どもたちは、勉強をはじめとして日本の子ども達よりも頑張っている印象を持ちました。しかし、一部の子ども達しか学校に通うことはできず、路上やスラム街で生活している子ども達も多く見かけたんです。 この経験をきっかけに、「学校という居場所のない子ども達に何かしたい」と思うようになりましたね。   ー学校を『子ども達の居場所』と捉えるところに箸本さんらしさを感じます。日本に帰国してから、ご自身の思いを形にするために行動に起こしたことはありますか? 『 LYHTY school -IRORI-』というフリースクールを立ち上げに関わらせていただきました。 日本にも不登校などの理由で学校に通っていない子ども達や、学校に通っているけれど「自分の居場所はそこにはない」と感じている子ども達がたくさんいるんです。『 LYHTY(リュフト)』とは、フィンランド語で『灯籠』を意味します。団体の代表が名付けたのですが「突然この言葉が舞い降りてきた」と言っていました(笑) ーフィンランド語なんですね! そうなんです!地元の石川県では毎年の行事として灯籠流しを行っていました。そこで、立ち上げたフリースクールでは灯籠を教育に例えたんです。 『灯籠』は『子ども』に、『火』は『モチベーションやエネルギー』に例えました。風などから自らを守るために周りを『紙』で覆っている姿は、僕たち大人が子ども達と関わる時に彼らの火を消さないように心がける様子と似ています。また、紙を通して火の美しさが透けて見えるように、あくまでも子ども達の火を守り、美しく見せるための関わり方を大切にしていました。   ー運営スタッフの皆さんが教育にかけていた熱い想いを感じます。 LYHTYでは具体的にどのような活動をされていたんですか? 子ども達のやってみたい活動を子ども達と一緒に実現する活動を行なっていました。また、大人向けのイベントも開催していました。当時、フリースクールの認知はまだまだ狭く、学校の先生でさえも知らない人が多かったんです。学校の先生が知らない場所に子ども達が足を運ぶことはないので、まずは大人達にもフリースクールの存在をシェアしつつ、一緒に教育について考えるような合宿を開催しました。 東南アジアを一人で旅した時から、フリースクールを立ち上げるまでの期間で様々なことを感じました。そして、「自分が腑に落ちて理解していることでないと子ども達に教えることはできない」と気付きましたね。フリースクールという場所で、自分が学んだことを子ども達に伝えるということは、自分の言葉で子ども達に何かを伝えることと一致していたんです。だからこそ、子ども達との関りが楽しかったんだと思います。   フィンランド教育との出会いとカンボジア移住への挑戦 ーフィンランドへの留学もされていたんですね。 はい、もともとフィンランドに興味を持っていたんです。PISAという国際学力調査で上位に位置していることや、マリメッコのような北欧デザインに魅力を感じていました。しかし、僕が通っていた大学とフィンランドは留学提携を結んでいたわけではなかったので、なかなか実現は難しかったんです。 ちょうどそんな時に『トビタテ留学JAPAN』という留学促進キャンペーンに出会いました。この団体では、留学先も留学プログラムも自分で決めることができます。応募した結果、フィンランド留学の夢が叶いました。 現地では、フィンランド教育における特別支援教育について学びました。フィンランド教育自体はある程度自分で調べることができましたが、特別支援教育についてはほとんど情報がなかったんです。「これは実際に自分の目で見るしかない!」と思い、留学テーマに選びました。 『トビタテ留学JAPAN』というコミュニティがあることでいろいろな学生が集まってきます。団体の存在自体が『大学』のような場所でした。実際のキャンパスはありませんが、参加者がそれぞれに行きたい場所へ行き、また戻ってきてアウトプットをする、そんなコミュニティによさを感じる経験でしたね。   ー最後に、これからの箸本さんのやりたいことや夢があれば教えてください。 来年からカンボジアに移住しようと思っています! 現地でやろうとしていることは主に2つあります。1つ目は、カンボジアの学校づくりをしながら先生として教壇に立つこと。2つ目は、カンボジアにも*GTP(Global  Teacher  Program)の拠点を持つことです。 実は、大学時代の旅を契機に、カンボジア教育支援に継続して関わっていました。日本にいながら全国のプロフェッショナルな先生方と一緒にカリキュラム作りなどに参画していたんです。そのため、何年も前からカンボジア移住を誘われていたのですが、なかなか一歩を踏み出すことはできませんでした…。 *GTP(Global  Teacher  Program)とは 海外で語学留学をしながら現地の教育実習に参加することができるプログラム ー何がきっかけで今回の決断に至ったんですか? 『自分の道は自分で決めて、自分で進む生き方を体現していきたい』と思うようになったことですね。 僕にとって、目の前にいる子ども達はとても大切な存在です。だからこそ、きちんと『今』に区切りをつけてから前に進みたかった。自分自身への挑戦も込めて、自分がやりたい教育を海外で自由にデザインできる環境に身を置くために、今年度をもって公務員を卒業することに決めました。   ーかなり悩んだ末の決断だったんですね。 主催しているオンラインサロンも含め、今の僕は『自分がコミュニティや団体に所属してそれらのよさを伝えている』んです。次は、自分が主体となって周りを巻き込んでいきたいと考えています。これまでは、特に対象を絞ることなくいろいろな方と関わってきました。これからは少し対象を絞って、カンボジアに興味がある人や教育に熱量がある人に焦点を当てて共に活動してしていきたいと思っています。 僕は公務員なので、なかなか本業以外のことがしにくい状況にあります。正直、環境に縛られるのがあまり好きではありません。やるなら堂々とやりたい。そのためには、立場や環境を変える必要があると思いました。これといって特別なこだわりがないのであれば、自分のタイミングで変えればいいのかなと思うんです。 カンボジアへの渡航まで少し時間があるので、世界一周にもチャレンジしようかなと考えています!   ー本日はありがとうございました。箸本さんの挑戦がより多くの方に届くことを願っています!   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材・執筆:青木空美子(Twitter/note) 編集:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

『U-29 Career Conference』イベントレポート | 澤円、飯髙 悠太、三川夏代ー3人のビジネスマンのキャリア選択と価値観

ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ型メディア「U-29.com」が主催するイベント『U-29 Career Conference』がオンラインで開催されました。   変化の激しい現代、明確な正解と言えるものはなくなり、一人ひとりが「自分が納得できる」道を歩むことが大切になってきています。 今回の『U-29 Career Conference』では、様々な世代、様々な分野のトップランナーによるこれからの時代を生きていくうえで大切なこと、今に至るまでの経験や大切にしていた価値観などをお話いただきます。 自分なりの道を見つける為の、気づきや学び、新しい価値観に出会う時間を、ぜひお過ごしください。 ー代表・西村創一朗からのメッセージ   今回は、ユニークなキャリアを開拓してきた3名のゲストをお招きし、独自の仕事への姿勢と、その土台にある自分の人生との向き合い方についてトークを展開していただきました。   澤 円 株式会社圓窓 代表取締役 立教大学経済学部卒。生命保険のIT子会社勤務を経て、1997年、外資系大手IT企業に転職。 ITコンサルタントやプリセールスエンジニアとしてキャリアを積んだのち、2006年にマネジメントに職掌転換。幅広いテクノロジー領域の啓蒙活動を行うのと並行して、サイバー犯罪対応チームの日本サテライト責任者を兼任。現在は、数多くのスタートアップの顧問やアドバイザを兼任し、グローバル人材育成に注力している。 琉球大学客員教授。   飯髙 悠太 株式会社ホットリンク 執行役員CMO 2014年4月株式会社ベーシックに入社。ferretを立ち上げ、創刊編集長に就任。2017年 株式会社ベーシックの執行役員に就任。2019年1月に株式会社ホットリンクに入社し、4月より執行役員CMOに就任。 これまでに複数のWebサービスやメディアの立ち上げ・東証1部上場企業を含め100社以上のコンサルティングを経験。著書に「僕らはSNSでモノを買う(ディスカヴァー・トゥエンティワン)」。   三川 夏代 株式会社bosyu 複業でデジマ支援,事業開発 広告代理店にて8年間、SNSを中心としたデジタルマーケティング戦略や企画を立案・実行。同時にWebメディア「kakeru」の編集長も経験。 現在は株式会社bosyuで週3正社員をしながら複業でブランディング戦略や新規事業サポートなども務める。 NHKニュース番組「シブゴジ!」やフジテレビ「ノンストップ!」出演、Twitter Japan「#はじめてのTwitter動画広告」のモデレーターも務める。   強みを活かせなくても、得られるものがあればいい ーまずはじめに、それぞれのファーストキャリアの選択についてお聞きしたいです。 澤円さん(以下、澤):私は現在、50代です。就活していた頃なんて、まだインターネットが普及していませんでした。1990年代はバブルが弾ける前だったので、就活は楽勝。面接に行けば受かる、というレベルでした。なんの考えもなしに就活に臨んで、生命保険会社の内定をもらいます。でも、何かが違うな、と。それは就職ではなく「就社」だと感じたんです。     結局、大学4年の12月というぎりぎりの時期に内定を断りました。そして、「何かになりたい」「”職”に就きたい」という思いと、マイノリティ戦略で理系の就職先を大慌てで探します。文系の大学生だったのでコンピューターの知識もなかったのですが、SEを志し、第一生命の子会社で情報システムを扱う会社に就職しました。   ー当時はSEとしてご活躍されていたのでしょうか? 澤:ポンコツエンジニアでしたよ。適性診断を受けても、ことごとく向いていないと言われるくらい。それでも、得られるものがあればいいんです。私は、キャリアの上で、必ずしも自分の強みを活かす選択をしなくてもいい、ということを証明しています。苦労はするかもしれませんが、それが後々の仕事につながっていくんです。   ーその後、インターネットの普及が始まったんですね? 澤:就職したのが1993年、そして、1995年にWindows95が発売されました。それまで誰もインターネットに触れてきていませんでしたし、コンピューターを個人が持つなんて想像もされていませんでした。時代が、リセットされたんです。全人類がインターネット初心者になりました。時代が新しくなる、というのは、すなわちチャンスが溢れているということ。社内ではポンコツエンジニアでも、社会的に見ればSEは最先端の職業だったんです。   ー時代の変わり目というのは、今にも通ずる部分があると思います。     澤:そうですね、今まさに、時代の潮目がきているでしょう。誰も体験したことない時代が始まります。キャリアを変えたいという人には、ちょうどいいタイミングなのではないでしょうか。リセットというのは、誰かが決めるんじゃなくて、自分が決めるものです。   辛い経験があって、1件のアポのありがたさが分かる ー飯髙さんといえば、マーケティングという印象が強いかと思いますが、最初は営業職だったそうですね。 飯髙悠太さん(以下、飯髙):澤さんの就活のタイミングと違って、僕の就活時はリーマンショックと重なっていました。それでも、大学時代にはよく海外に行っていたので、その話をするととてもウケが良く、内定は複数いただいていましたね。     ずっとサッカーをやっていて、大学時代も遊んでいて、将来像はふわっとしか描けていなかったものの、漠然と「ITを仕事にしたい」とは思っていたんです。だけど結局、IT関連の会社の内定を断り、秋採用で人材紹介会社に就職しました。   ーそれはどうしてでしょうか? 飯髙:一番辛い選択をしよう、と思ったんです。「そこに1年、身を置いたらどうなるんだろう?」と考えていました。スタート地点は遅れてしまうかもしれませんが、「1日200件のテレアポ、100件の飛び込み」を経験した後の方が、仕事を知っているだろうという判断でした。 実際に、「駅前で名刺100枚配るまで、帰ってくるな!」と言われるような環境下で仕事をすることになり…。結局は半年でIT業界に転職します。   ー敢えてしんどい道を選ばれて、得たものはなんでしたか? 飯髙:200件のテレアポで1件のアポにつながればいい、というような世界に身を置いたことで、ひとつのリード、1件のアポのありがたみを今でも感じています。現在はネットを利用して、自動的にリードが獲得できますよね。そうなっているのには、誰かが作用しているはずなんです。そこへの感謝の気持ちは変わりません。それを忘れないように、メンバーにも大事さを伝えています。     また、非効率的な営業活動を重ねて、実際に仕事をとれた経験から、結局人なんだなということも感じています。BtoBマーケは基本的に分業制ですが、クライアント様から見たら一部を担う人が全体として捉えられているかもしれないと意識しています。   自分の裁量で時間を使いたい ー三川さんは、新卒からITの道に進まれたんですね。 三川夏代さん(以下、三川):広告代理店へ憧れがありました。関西の大学に通っていたのですが、そのときに謎解きゲームを提供する会社でアルバイトをしていたんです。業務内容は、謎作り(笑)そこで、自分が携わったゲームで、スーツを着た大人が大はしゃぎしている光景に心を奪われました。場所があり、空間を演出すると、人は物語に入れる…「これ、面白いじゃん!」って。そうして広告業界を志すようになったんです。 私が就活をしていたのは、FacebookやTwitterが台頭し出した時期でした。まだ企業アカウントという存在すらありませんでしたが、なんとなく「SNSを利用して、新しいビジネスが生まれるのでは?」というワクワク感のようなものがあって、チャンスに見えていたんです。ここで面白いことが仕掛けられれば、世界の創造主になれるかもしれないぞ、と。   ー澤さんはネット時代、そして三川さんはSNS時代の幕開けとファーストキャリアの選択が重なっていたんですね。その中で、どうやって会社を選びましたか?     三川:株式会社オプトの面接を受けたときに、人事の方が、私の履歴書を面白がって声を掛けてくださったんです。きちんと対話してくださったのが、印象的でした。そこで、「実は、ソーシャルメディアの部署を新設するんだ。社内選抜ではなく、いろんなところから特化した人材を集めるから、そこで一から一緒に考えてくれないか?」と聞かされたんです。面白いことが学べそう、という期待から就職を決めました。   ー心惹かれて就職したオプトで8年間勤務し、最近、株式会社bosyuに転職されましたよね。キャリアチェンジにはどういった背景があるのでしょうか? 三川:ネットの世界の中のコミュニケーションって、相手の顔が分からない場合も多いですよね。それでも、会話を通して、企業を好きになってもらうことがあります。この仕組みが、とても興味深いなと感じました。会話を通じて信頼関係が築かれるということを、ちゃんと研究したいと思うようになったんです。 現在、bosyuでは週3会社員という働き方を実施しています。仕事以外の大事なものと向き合う時間をしっかり確保したかったのがキャリアチェンジの要因です。   ーそうやってできた時間を、ご自身の興味関心分野に注いでいるんですね。 三川:「kareru」というメディアの編集長をやっていたのですが、そこでは「一次情報をとりに行く」ことを大事にしていました。5年ほど前、高校生たちのSNSやネットの使い方が注目を浴びだしましたが、大人では理解できない行動も多かったんです。自撮りや加工フィルターなど、自分たちの文化にはないものでした。だからこそ、ちゃんと当人たちと向き合って、分かり合おうとしました。そのために、メディアを立ち上げたんです。     一次情報をとりに行くって、とても面白いことで、おろそかにすべきではないもの。いくらネット上で情報収集をしていても、一次情報の発生源はいつでもリアルにあります。人に会って会話をする時間を持たないと、だめになっていくような感覚すらありました。 仕事上、パソコンが手放せなかったのですが、なんだかそれが馬鹿らしくなったんです。バランスを変えて、もっと人と向き合う時間を作りたい。そうして、自分の脚で人と会って、興味があることを深掘りしたい。bosyuはとてもフレキシブルな会社で、週3以外の時間は、自分で裁量権を持って活用しています。   澤:そもそも、副業を「許可する」という感覚が不思議ですよね。会社って、概念であり、仕組なのに、そこからどうやって許可するという動詞が発生するのか…。組織には、ある程度の規則は必要ですが、違和感があります。 シリコンバレーのミートアップに参加したことがあるんです。そこで、プロダクトやサービスの話をすると、「面白いね。あなたは週何時間、そのプロジェクトにコミットしているの?」と聞かれました。そこでは、日本と前提が違うんです。所属の話は出ません。副業という感覚すらないんです。有限な時間を、どのように割り当てるか、それがそこの人々にとっては働くということなんでしょう。     飯髙:「正社員」という考え方が、とても日本的だなと思います。そもそも雇用者に正も非もないじゃないですか。働く人を所有物と見なす文化が根強いんですよね。   外の世界が広がることで、見えるものが変わる ー澤さんは、マイクロソフト社に転職されていますが、どういったきっかけがあったのでしょうか? 澤:第一生命の子会社なので、仕事は確保されていたんですよね。つまり、外部との関りは必要ない。そう判断されて、名刺が持てないことも普通だったんです。私が配属された部署は、外販を伴っていたので、たまたま名刺も用意され、外部イベントへの参加も許されていました。     そして、イベントなどに参加して外の世界に触れると、絶望するんです。外の世界を知った上で、また社内に戻ると、あまりの内向的な会社の体質に嫌気が差しました。 会社として、離職者を出さないために内向きにさせようというカルチャーを持っているところは多いように感じます。私と同じ50代は、今、社内で部長や課長に昇進している年齢層ですが、あまりに社外との交流がなく、20代、30代の頃のマインドセットと変わらないまま年を重ねているケースもままあります。 優秀な人がそんな会社を選ぶでしょうか?会社が盤石であれば選択肢としてあり得るかもしれませんが、トヨタでさえ終身雇用を諦めているような時代です。会社は流動的であるべきだと考えています。   ーマイクロソフトと聞けば、誰もが知っているような大企業ですが、当時はどのような会社でしたか? 澤:たまたま転職エージェントの目に留まって、入社できたんですよね。その頃は外資系IT企業なんて、スタートアップの匂いがぷんぷんしていました(笑)マイクロソフト社も、ベンチャー企業のようなものでした。 ファーストキャリアでSEを選んだことも、その後マイクロソフト社に転職したことも、全て「Connecting The Dots(点と点がつながっていく)」だと感じられます。成功ばかりじゃなく、寧ろ転んだことが多かったのですが、それもあって「楽しい、面白い」と思える今がありますから。   キャリアを三次元的に考えると、可能性が拡大 ーキャリアの選択の先に、今の皆さんがいらっしゃるんですもんね。転んだ経験、失敗も、今につながっている、と。 澤:みんな、キャリアを直線的な右肩上がりにしよう、と考えすぎなんです。縦軸が地位、横軸が年齢のグラフで、ひたすら右上に伸びようとしている。キャリアチェンジに失敗して、その直線が折れてしまったら、成長率にギャップがでるから避けたい…と。     キャリアは、二次元ではなく、三次元で捉えましょう。やった職種、経験の分だけ点が打たれて、それがつながって球体になる。そうやってできた容積が、自分のキャリアなんです。 そして、打った点の位置によっては、自分のキャリアの球体が他の人と重なることもあるでしょう。そこで新しいコラボレーションが生まれます。線で捉えるより、面、そして球で見る方が楽しみが拡大しますよね。     三川:ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーが提唱した、「最近接発達領域」という考え方に惹かれています。人間には、自分ひとりでできる領域と、その外側に、他者の力を借りればできる領域がある、という考え方です。誰かの助けを得なければできない、と思えていたことが、誰かの助けがあればできること、に変わると、可能性が広がります。 そうすると、困難なことがあっても、それは困難ではなくなるんです。寧ろ、それが目の前にあると、私はめちゃくちゃテンションがあがりますね。分からなことなど、大人になるにつれてだんだん減っていくじゃないですか。どう捉えればいいんだろう、誰の手を借りたら乗り越えられるんだろう、と考えるとワクワクします。     飯髙:僕はずっとサッカーをしてきたので、90分のゲームで考えがちなんですけど、1試合の中で成功だと思われるプレーなんてほんの数回しかないんですよね。これから働く40年の中でも、楽しいと思える瞬間は創出していかないといけないと思うんです。でも、その手前には失敗があります。それを分析するからこそ、ポジティブな行動につながっていく。失敗はそうやって捉えればいいと思います。   ースポーツとして捉える。皆さん、捉え方を変えることによって、ネガティブな事象をポジティブに受け取っているんですね。 澤:スポーツをしていると、我慢と鍛錬の違いがよく分かりますよね。鍛錬はすべきだけど、我慢はすべきじゃないって思うんです。例えば、部活の先輩に殴られるのを耐えるのは、ただの我慢。同じ痛みでも、走り込みによる身体的負担は鍛錬です。 スポーツだと違いがはっきりしているのに、これが仕事となると非常に分かりづらい。鍛錬だと思って続けていたら、ただの我慢で、結果として鬱になるということも。自分が踏ん張ることを必要とするときは、「これは鍛錬か?それともただの我慢か?」と見極めるようにした方がいいと思います。   ー無理していることに気付かないと、取り返しのつかない状態になりかねません。 澤:コカ・コーラ社の元CEOであるブライアン・ダイソン氏が「人生は5つのボールをジャグリングしているようなものだ」と表わしていました。5つのボールというのは、家族、友人、健康、自分のこころ、そして仕事です。このうち、仕事だけがゴムボールで、それ以外はガラス玉なんです。つまり、仕事は落としてもまた取り戻せるけれど、それ以外は落とすと壊れて、元には戻りません。     仕事は替えが利くもの。もしなにかを手放さなければならないとしたら、真っ先に仕事を落とします。ぶっちゃけ、自分が楽しめる範囲で仕事をすればいいんです。自分で選び、楽しみ、嫌になったら投げ出す。そのくらいの気軽さが、日本人には必要ではないでしょうか。   目の前の人を幸せにすることが、次の幸せに連鎖する ー皆さんのキャリア観が浮き彫りになりましたが、人生の中で大事にしていることはありますか? 澤:”Being”ですね。「ありたい自分であること、あり続けること」。自分の人生を生きよう、と。その先に、最大多数の最大幸福を実現したいと考えています。     三川:キャリアにおいては、Beingではなく、Doingで考えている人が多そうですよね。働く自分はどうありたいかで考えると、クリアーになるかもしれません。   飯髙:どうありたいか、を常に考えることを僕も大事にしています。人生は選択の連続で、自分がなにをやりたいか決めていくだけです。他人のキャリアの話を聞いたり、アドバイスをもらったりすると、そっちに引っ張られるケースは多い。でも、参考程度に留めるべきだと思います。自分がどうしたいのか、将来にどう活きるのか、は常に仕事でもプライベートでも考え続けています。 澤さんが最大多数の最大幸福を、と言われましたが、僕もそれは叶えたいです。そのために、まずは手前にいる人たちをどれだけ幸せにできるかだと思うんです。   澤:半径5メートル以内にいる人を幸せにする行動って、実は結構な影響になりますよね。そもそも自分は動くから、必然的に半径5メートルという範囲も連動するじゃないですか。   飯髙:そうですね。僕、タクシーに乗ったときに必ず「まだ勤務時間続くと思いますが、頑張ってください」とお礼と一緒に運転手さんに伝えているんです。そうしたら、もし、次の乗客が酔っ払いだったとしても、運転手さんが僕の言葉を思い出して寛大でいてくれるかもしれないって。     もし、その言葉がなくて、運転手さんのイライラが募ったとします。そうすると、休憩中に訪れた店で、店員さんに嫌な態度をとってしまうかも…そんなふうに負の連鎖が起きるかもしれない。労いの言葉がどれだけ効くかは分かりませんが、幸せな方向へ好転させる行動は常にとっていきたいですね。   三川:幸せにできるって、素晴らしいことであると同時に、誰にでもできることなのが素敵です。例えば、新人の頃って、周りに迷惑を掛けがちで萎縮しちゃうじゃないですか。それで自分の存在理由を疑うことも…。 でも、「どれだけ幸せにできているか」で評価できれば、いろんな側面で自分が活きていることに気付けると思うんです。「同期に励ましの言葉を掛けた」とか「お礼をしっかり伝えられた」とか。一見、当たり前の行動に思えますが、「幸せにつながっている」と思うと、自分の可能性が一気に拡がったように感じますよね。   ーできることがある、と実感することは、自信になりますね。 澤:社会人1年目の心得として、仕事ができる人は、「機嫌よく挨拶」と「視る」ことができると言われています。「機嫌よく挨拶」すると、まずネガティブな反応が返ってくることはないですし、可愛がられる。可愛がられると情報が入ってきやすくなって、早く成長するんです。超コスパがいいんですよね。「視る」とは、周りをよく観察することです。観察した上で、相手になにをしたら喜んでもらえるのかを考えて行動すればいい。   飯髙:「視る」といえば、新人の頃に習慣化していたことがありました。社会人になって数年間は、その日に仕事で関わった3人の人の良いところを3つ、必ず毎日書き出していたんです。人間って、どうしても嫌なことが目についてしまいがちですよね。僕がそういう人間でした。でも、意図的に良いところを探しておくことで、もし嫌なことをされても「でも、この人にはこんな良い側面もあるしな」って寛大になれます。 適材適所だと思って、駄目だと決めつけるのではなく、別の活かし方を探るようになりました。この視点を継続したことで、人の良いところを探そうという姿勢が身に付きましたね。   ーそれは真似したい行動です。他に、皆さんの後輩にあたる世代にアドバイスはありますか? 澤:当たり前、常識、固定概念…そういうところに自分を押し込める必要はないよ、と伝えたいです。納得できないことは選ばなくてもいい。それは反抗ではなく、選択をしているだけです。   飯髙:固定概念って、結局は誰かが先に作ったもの、でしかないですもんね。   澤:最初からあるから、それに順応しちゃうけど、数年経てばなんでも古くて使い物にならなくなっているはず。それを置きっぱなしにしているほうが問題です。捨ててもいいし、解剖してもいい。それがあることに違和感をもって、何かしらアクションをとることをおすすめします。   三川:先ほど飯髙さんが、「自分がなにをやりたいか決めていく」と仰っていましたよね。若い世代は、影響力のある人にSNSを通じてたくさん触れていて、意見に左右され、不安がっているように見えます。インフルエンサーなどの言葉は、あくまで参考に捉えて欲しいです。ただ先に生きてきた大人の意見に過ぎません。     ここから新時代が始まろうとしていますし、それを担うのがいまの10代、20代。自分たちに誇りをもって、堂々と自分の感性で生きてほしいですね。   ー皆さんがご自身の体験を積み重ねてきたからこそのお話を聞くことができました!本日はありがとうございました。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === イベントモデレーター:西村創一朗(Twitter)/西舘聖哉(ブログ) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

コロナの影響を受けても、前向きに今できることを。クリエイティブディレクターを目指す西村知将

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは関西学院大学総合政策部メディア情報学科3年の西村知将(にしむらかずま)さんです! トビタテ!留学JAPANの12期としてエストニアに留学予定だった西村さん。コロナの影響を受けながらも、前向きに切り替えて精力的に活動されている西村さんのこれまでの経験や今後の目標についてお話いただきました!   初めてのフルリモートインターン ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします。 関西学院大学総合政策学部メディア情報学科に通う大学3年生です。大学入学以来、株式会社CLO2 Labの長期インターン、株式会社TABIPPO学生スタッフを経験しました。現在は株式会社ANDARTで長期インターンをしています。また、趣味は音楽制作で、Maxyy名義で6/1にインストゥルメンタルアルバム「Bad Ending Movie」を各種ストリーミングサービスにリリースしました! ー現在インターンをされている株式会社ANDARTについてもう少し詳しく教えてください。 株式会社 ANDARTでは日本初の現代アート作品を共同保有できるプラットフォームを提供しています。アートを身近に感じてもらうことを目的にアートとテクノロジーを掛け合わせたサービスとなっています。 私は長期インターンとしてマーケティングとデザインを担当し、アーティスト情報のリサーチやSNSの運営、バナー制作等幅広い業務をさせていただいています。東京拠点の会社ですが、私は現在リモートで関西からジョインさせていただいています。そのためまだ社員さんとオフラインで会ったことはありませんが、まだ規模が小さい会社ということもあり特にコミュニケーションでの問題はなく良い環境で働かせてもらっています。 ーフルリモートで働かれているんですね…!そのインターンを始めた理由は何だったのですか。 実はこのコロナ禍でなくなってしまったのですが、本来であればトビタテ!留学JAPANの12期として4月から大学を休学し、エストニアに留学予定でした。エストニアで日系のベンチャー企業で海外インターンを経験する予定だったのがキャンセルとなったため、大学のオンライン授業を受けながらリモートでインターンをすることにしたんです。 留学がキャンセルになりそうな予感は3月頃からあったので、割とすぐに国内でできることを模索したのですがバイトでさえ見つからない状況でした。5月に現在のインターン先を見つけることができ、5月末から働かせていただいています。 ーなるほど…どのようにインターン先を見つけられたのでしょうか。 インターンを募集されているのをbosyuでたまたま見つけたのがきっかけです。もともとアートはそんなに詳しくなかったのですが、美術館に行ったりする程度には好きだったので興味を持ち応募させていただきました。   サッカー漬けの日々が広い世界を見るモチベーションに ー少し過去に遡ってお話を伺えたらと思います。どのような幼少期を過ごされていたのですか。 小さい頃からずっとサッカー少年でした。サッカーに熱中していたというよりかは他にやりたいことが特になかったからずっと続けていたというのが正しいかもしれません。当時の自分にとってサッカーが自分の世界の全てだと思っていたんです。この時から、もっと広い世界をみておけばよかったと振り返って思います。が、その後悔があるからこそ今の自分があるとも思っています。 ーそうだったんですね。高校時代もサッカー漬けの日々だったのですか。 高校でもサッカー部に入っていましたが、バンドも始めたことがきっかけに少しサッカー以外のことに時間を費やすことが増えていきました。中学の頃からロックミュージックが好きだったことと、母がベースをやっていたことがあり楽器が家にあったのが影響しています。中学で仲良かった友人と高校に入ってからも仲良くしたいという目的もあり、バンドを結成しました。 ーそんな中高生活を送られた後、進路はどのように選ばれたのですか。 自分の成績であれば、関関同立には行けそうだろうという感じだったので高校3年の時は関西圏の国公立を目指して勉強していました。残念ながら国公立は受かることができず、関西学院大学も元々は社会学部を志望していたのですが受からなかったため、総合政策学部に進学することになりました。   楽しいだけの大学生活に違和感を持つようになった ー大学に進学してみていかがでしたか。 初めは他の同級生と同じように新歓や飲み会に行き遊ぶ日々を過ごしていました。大学祭の実行委員会と軽音サークルに所属しており、それなりに楽しかったのですが、これで本当にいいのか?と徐々に思うようになりました。 ーその後現在のように積極的に活動するきっかけとなる出来事があったのですか。 たまたま図書館で見つけた「10年後の仕事図鑑」という本がきっかけとなりました。単調な日々を送っていた時にこの本を読んで、衝撃を受けたんです。内容としてはかなり極端なことが書いてあるのですが、これを読んで自分も何か始めないと!と思いました。まずはすぐにできることから、と思いなんとなくやっていたTwitterを発信する場に変えてみたり、ブログを初めてみたりしました。 ーその結果何か変化はありましたか。 Twitterを活用するようになってからこれまで出会うことのできなかった人たちとの繋がりが一気に増えました。特に関西圏の起業家さんが多かったですね。同じ大学の方で起業している人や、大学を辞めて起業されている方とも繋がることができ、いろんな選択肢・価値観を知ることができました。 またTwitterでの繋がりがきっかけで、スタートアップに興味を持つようになり大学では起業家さんが講義をされる授業などにも履修するようになりました。それがきっかけで実は初めてのインターン先が決まったんです!   コロナの影響を受け留学中止に ー初めてのインターン先はどんな会社だったのですか。 空間除菌剤を生産販売しているDtoC会社、株式会社CLO2 Labという会社でした。高校時代から数字に苦手意識があったので経済学部や商学部ではなく社会学部や総合政策学部を選んだ経緯があったのですがこの会社で初めてウェブマーケティングを経験させていただきました。 ーウェブマーケティングをされてみていかがでしたか。 結果的に、計算が苦手だっただけで数字を分析したりするのには抵抗がないことがわかりました。むしろ数字が上がっていくを追っていく感覚が楽しかったです。マーケティングは1つのスキルを集中して伸ばすというよりかは浅くても幅広い知識や経験があった方がそれが武器となる分野かもしれないと思いました。昔から狭く深くよりは広く浅くというタイプだったので様々なペルソナを意識して行うマーケティングは自分に向いているかもしれないという発見がありました。また、初めてインターンを経験したことで会社で働くイメージが湧いたのでとても良い経験になりましたね。 ーその後株式会社TABIPPO学生スタッフをすることになったのは何がきっかけだったのですか。 Twitterで見つけたTABIPPOのアカウントがきっかけで旅に出たいと思うようになったのがきっかけとなり、インターンで貯めたお金で大学2年生のゴールデンウィークに「タビイク」というバックパッカー育成プログラムに参加しました。タイの空港に現地集合し、1週間日本各地の若者と一緒に旅をするというプログラムだったのですが、これがきっかけでもっと広い世界を見てみたいと強く思うようになりました。また、そのプログラムで出会った人がTABIPPOでインターンをされていた方だったこともあり学生スタッフに応募してみることを決めました。 ーTABIPPOではどのような活動をされていたのですか。 全国に学生支部があるのですが、その中の大阪支部に所属し旅大学というイベントの運営スタッフとバナー制作などのクリエイティブ業務を担当していました。 旅大学は旅初心者に旅の魅力を伝えるイベントなのですが、毎回テーマ等から全て決めて企画運営していました。チーズ旅大学と題して、世界中のチーズを取り寄せて、チーズに詳しい旅人をゲストに呼びチーズを食べながら旅について話すイベントを企画したのはとても記憶に残っています。 ー面白そうですね!TABIPPOでの経験が更に海外に興味を持つきっかけになったのですか。 はい。大学2年になってからはアジアへバックパッカー旅に行くようになり、次第に欧州サッカーが好きだったのもありヨーロッパにも行きたいと思うようになりました。そして大学の交換留学制度に応募したのですが選考に落ちてしまい、他に何かないかと探していた時に見つけたのがトビタテ!留学JAPANでした。トビタテに応募するために海外インターンを探していたところエストニアでのインターンを見つけたんです。結局コロナで行けなくなってしまったのでとても残念です。   目標はクリエイティブディレクター ーそういう経緯があったんですね。留学が中止になってしまいましたが、残りの大学生活の予定は決まっていますか。 コロナがいつ終息するか予想がつかないのに加えて、これから就活も控えているので正直大学在籍中に留学に行くのは難しいかなと感じています。またこれまではイベントに参加したり、人に会うために頻繁に東京も訪れていましたが、それも今はなかなかできない状況なので正直どうしようかなというところです。 ー学生起業などは考えていないのでしょうか。 起業をすることは正直考えていません。いつかすることはあるかもしれませんが、今は起業を手段として自分が向き合いたい社会課題がないので、共感したビジョンを持つ会社で働くのがいいかなと思っています。 お金がモチベーションにはならないタイプなので、仕事をすることで誰かの役に立つ、あるいは誰かの課題を解決できるのが理想だなと考えています。就活でもそういう意味では会社のビジョンやどんな課題にアプローチしているかを基準に就職先を選びたいと思っています。 ー就職したい業界や仕事も含めて、今後の目標などがあれば教えてください。 クリエイティブが好きなので今は広告業界を考えています。具体的にはクリエイティブディレクターになることを目標にしています。社会課題を世の中に周知させたり、議論を巻き起こせるようなりたいと思っています。将来は社会に影響を与えられるような人になりたいです! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)

アナログとデジタル、大企業とスタートアップー”真逆”を経験した國井大地ならではの事業とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は株式会社リデルタで代表取締役を務めている國井大地さんにお話をお伺いしました。 2019年10月に起業し、フランチャイズ化とIT効率化によって会計事務所のポテンシャルを解放する事業を展開している國井さん。 起業する前は、会計士試験への挑戦や、監査法人での勤務経験、不動産テックのスタートアップでCFOを務めるなど、数多くの経験をされてきました。 公認会計士を目指したキッカケ、そしてどうして株式会社リデルタを創業したのか。國井さんのユニークなキャリアに迫ります。 部活への熱量を勉強にシフト。何かに打ち込みたくて公認会計士へ。 ー本日はよろしくお願いします。まずは國井さんの現在のお仕事についてお聞かせください。 國井大地です。株式会社リデルタの代表取締役をしています。 僕は公認会計士・税理士で、最初のキャリアは監査法人で大企業をクライアントに、3年間監査業務に従事しました。そのあと、不動産テックのスタートアップでCFOとしてIPO準備に携わりました。そこでは資金調達や内部統制を構築し、上場するための業務に2年間関与していましたね。 そして2019年10月に株式会社リデルタを創業しました。リデルタでは、アナログで後継者課題を抱える会計事務所にノウハウと人材を提供するフランチャイズ事業とIT効率化を促すプラットフォームを提供する事業を展開しています。会計事務所業界はかなりIT化が遅れていて、いまだに紙の伝票を使っているところもあるんです。そうした会計事務所のITインフラを構築しています。 またIT化の遅れに伴い、今は所長さんの頭の中に顧問先の情報が詰まっている状態なんです。それをデータベースに落とし込んで、お客様の事業承継までサポートするためのインフラを創ろうとしています。 ー会計事務所のデジタルトランスフォーメーション(DX)に留まらないお仕事をされてるんですね。こうした会計事務所の現状を変えていこうと考えたきっかけはどこにあったのですか? 実家が会計事務所というのが要因ですね。実は、それまで会計事務所業務に興味を持ったことはありませんでした。実家の事務所の事業承継に関与していく中で、まったくIT技術を使っていない業務が当たり前だという現状を知りました。 もともと不動産テックのスタートアップで勤めていたのもあり、アナログな業務が非常に衝撃的でした。同時に、こうした業界課題を目の当たりにして「このままだと業界が衰退する」という危機感を覚えました。 ー実家で会計士事務所をやられている一方で、最先端の業務推進にも携わるという両方を知っている國井さんならではのテーマですね。グッと時代を遡って、会計士試験を目指したのはいつ頃からなのですか? 大学2年生の頃からですね。 高校の頃は、ずっと部活動でテニスに打ち込んでいました。大学でもサークルに入ったのですが、やっぱりサークルはワイワイというか飲みがメインというか...(笑) 高校時代はテニスに熱量を注いでいたので、その落差に違和感を覚えたんです。運動は高校の時に完全燃焼していたので、何か勉強に打ち込みたいと考える始めるようになりました。そんな中、大学の図書館で友人が懸命に会計士試験の勉強をしている姿を見て、それが僕にはとても格好良く映りました。 こうした環境要因と、経済学部で勉強している領域が近かったことから会計士試験を目指すようになりました。難易度が高くて熱量を注げそうだったと言うのもあります。 自ら誘惑を消し、勉強にフルコミット ー周囲の影響もあって目指されたんですね。どれくらいで合格したのですか? 卒業した年の8月に合格したので、ちょうど丸3年かかりました。法人に入って、周りの平均新卒年齢が30歳手前の方が多かったことから、業界では若手であると感じましたね。 会計士試験に合格する年数は、人によって大きく差があるんです。僕のいた予備校は、高校時代に部活に熱量を注いでいた人が多かったように思えます。そういう人達は全力で打ち込む対象を運動から勉強に変えただけなので、2~3年で合格する人が多かったのではないでしょうか。 ー同級生が就活をしている姿を横目で見ながら会計士の勉強をし続けるのは、モチベーションを保つことが難しそうですね。 正直、それはキツかったですね。周りは4年生春になると就活を終えて、「○○に内定もらった」「同期飲みしてきた」といった話をしていて、とても華やかに見えました。そんな中、自分は受かるかどうかも分からない試験にフルコミットしてて、このままで大丈夫なのかと引け目に感じていました。 そんな状況なので、同じように勉強をしていた人の中には、そこで就活にシフトする人もいました。僕は退路があると逃げてしまう性格で...そのため、絶対に就活はしないと決めていました。 諦めてしまうと思い入れや人生の時間のかけ方、熱量も変わってしまいますよね。そう思って、勉強に打ち込んでいました。精神力が強くないことは自覚していたため、勉強に一直線になれるよう、誘惑を自ら消し、甘えを受けない環境を整えることを意識していました。それでも当時は辛かったですね。 社会人の基礎を積み、経営への道を目指す ー持ち前のストイックさが発揮されたんですね。試験合格後、最初のキャリアに就くまではどういう就活をしたのですか? 有難いことに、受けたところはすべて内定を貰えました。 業界的にコミュニケーションが苦手な方が多いという特徴があります。僕は、体育会出身で、それが有利に働いたように思っていますね。会計士の就活では、コミュニケーションが一番見られるんです。会計士試験で能力はある程度フィルタリングされているので、それ以外の部分、人間性や相性、ストレス耐性などが重視される傾向にあります。就活生にとっては、どの法人に勤めても業務内容は大きく変わらないんです。なので、僕は法人のカルチャーや国際色の強さを軸に選んでいました。最終的には、体育会気質な法人であり、4~5年ほどで海外に行ける部署に所属できるという点から、デロイトトーマツに入所しました。 仕事は忙しかったですが、社会人の基礎を築くことができました。優秀な人と働くことがとてもいい経験になりましたし、クライアントも要求水準が高く、自分の中の会計士としての土台が構築されましたね。 ーデロイトトーマツは3年ほどで辞められたんですよね。何がきっかけで転職しようと思ったのですか? 本音を言うと、ずっと監査法人にいる気は無かったんです。 実は、会計士試験が終わった翌日からボストンに留学に行き、ボストンキャリアフォーラムで就活をしていたんです。色々な企業を見ていた中で、外資系コンサルティングなどの経営領域が面白そうだと感じました。その時から、3年ほど勤めたら次は経営領域に行きたいと考えていたんです。 また、会計士協会の研修で経営共創基盤の冨山さんの研修を受ける中で、"経営とは何か?"というお話を伺ったことも後押しとなりましたね。その時に冨山さんは「経営は、意思決定と行動力のかけ算だ」とおっしゃっていました。「どれだけ意思決定が強くても、行動していなければ経営としては0になってしまう。」経営の第一線に立っている方がそう言うのであれば、とにかく行動しないと経営は分からないだろうと考え、経営の道に進もうと決意しました。 ー冨山さんのお話が強く背中を押してくれたんですね。どんな行動に移したのでしょうか? どうやったら経営に携われるかなと模索しました。選択肢としてコンサルも考えたのですが、コンサルは意思決定に関与はできても最終的に決めるのはクライアントというところが監査法人と同じで第三者目線だなと思い、やはり自分で経営したいな、と。それに、大企業だと自分で意思決定できる領域が少なくなります。そのため、自然とサイズの小さい企業、スタートアップに注目するようになりました。 自分の経歴を活かして経営に携われるポジションとなると、必然的にChief Financial Officer(CFO:最高財務責任者)になります。ただ、社会人経験3年ということで、企業によっては経験の浅さを指摘されることも。そんな中、不動産テックのスタートアップ企業の代表と出会いました。代表は、僕のポテンシャルと能力を買ってくれて、CFOに就任することになります。 真逆の文化で経験を積み、起業を決意する ー実際にジョインされて、印象的だったエピソードなどありますか? 前職の監査法人時代のクライアントはどの会社も当たり前のように利益が出ていたのですが、スタートアップだとまず資金繰りを考える必要があります。資金繰りを気にするという概念が無かったので、それが一番衝撃的でした。資金調達に走った時も「キャッシュが無くなってしまう...」とワナワナすることもありましたね(笑) また、チーム内で能力にバラツキがあるのも初めての経験でした。チームでの動き方の違いをはじめとしたカルチャーギャップが新鮮で面白かったです。 ーたしかに真逆の文化ですよね。忙しくも充実した日々を過ごされていたと思うのですが、起業を考えたきっかけはあったのですか? マーケティング業務に携わった経験から、起業を意識するようになりました。 マーケティングは営業と連携するため、事業のフロントに関与する機会が増えたのです。そこでマーケティングファネルの設計や顧客ヒアリングすることが楽しくなっていって、経験を積んでいく中で自分のビジネスを考えるようになりました。ビジネスのフロントもバックもやれるようになったことが、起業への具体性を増したんです。 0→1の大変さを知り、自分の見える景色が変わった ー既存の企業にジョインするのと、0から自分で起業するのとでは全く異なりますよね。実際に起業していかがでしたか? まずは純粋に起業している方々への尊敬の念が膨らみましたね。CFOだった頃は、どれだけCEOと意見が対立したとしても、最終的にはCEOの意思決定をサポートしていました。そこに不満を覚えていた時もあったんです。しかし、実際に自分がその立場に立つと、今まで僕が見えていなかったところが見えるようになりました。特に採用を加速してる期は、企業が「10→100」に成長するタイミングが多いですよね。そのため、「0→1」や「1→10」の大変さを理解している人は多くありません。僕もそのひとりでした。実際に自分が企業を成長させていくことで、大きくなっていく組織の苦しみ、それを乗り越えていく経験を重ね、新しい発見と日々出会っています。 起業して8ヵ月が経ちました。仮説検証を繰り返しながら顧客や1次情報に触れていく中で、手応えは感じ始めています。 ー会計士試験・転職・起業とそれぞれ大きな決断をされていますが、意思決定をする上で意識していることはありますか? 選択する前に、色々な可能性を考えるようにしています。会計士試験に挑んだ時には、資格がない状態で描ける将来のキャリアと、資格を取ることにより描けるキャリア像とで、どういう差が出るのかをシミュレーションしました。 何かを投じた後にどうなるのかをイメージした方が、意思決定の解像度が上がると思っています。そのため、イメージを膨らませるための情報を取ることを心がけているんです。それで「やる」と決めたら後は忠実に目指すだけ。また、僕は怠惰な人間で、退路があるとそれに甘んじてしまうんです。周りにいるメンバーから刺激を受けて、燃え尽きないようにモチベーションの維持を心がけています。 ー最後に、今後の展望について教えてください。 会計事務所業界は、AIによって専門的な経理能力が人から機械に置き換わり、提供できる付加価値が下がってきているという課題があります。しかし、業界全体の高齢化を背景にDXは進まず、事務所の後継者課題が加速して、業界全体が衰退の一途を辿っています。 まずは、しっかりと顧問先に付加価値を提供できる仕組みづくりに取り組みます。その仕組みをフランチャイズという形式で日本全国の会計事務所に展開することで、後継者課題の解決と、会計事務所業界のDXをしていくことで、業界を発展させていきたいです。 スタートアップへの就職人気があるように、会計事務所で働くことが魅力的な選択として映る世の中にしたいと思っています。 ー改善の余地がある業界だからこそポテンシャルは非常に大きいですよね。今後のご活躍を応援しています! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:みやっち(ブログ/Twitter) 編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

Withコロナ時代の波に乗れ!ヤングカンヌ2020国内シルバー・高橋健太が語るリモート×クリエイティブなワークスタイル

東京発のグローバルクリエーティブエージェンシー・株式会社monopo。国内外の様々なブランドにサービスを展開し、ロンドンにも子会社「monopo London.Ltd」を設立するなど、世界中の優秀なクリエイターが集うコミュニティ作りを続けています。 ▶︎monopoホームページ 今回はそのmonopoで活躍しているメンバーの中で、2020年「ヤングライオンズコンペティション(通称:ヤングカンヌ)」メディア部門で国内シルバーを受賞するほど大活躍のプロデューサー・高橋健太(タカハシケンタ)さんをピックアップ! 高橋さんは、monopoに入社した4年前からリモートワークを実践している”リモートネイティブ”。今回のコンペでも、日本と海外をつないでプロジェクトを遂行していたとか。 現在、新型コロナウイルスの影響でリモートワークが増えているものの、まだまだテレワークやリモートワークに慣れない企業も多い中、いったいどのような工夫をしているのか?そのワークスタイルやキャリアに迫ります。 早稲田大学在学中に宿泊サービスを創業!その後、クリエイティブな仕事に出会うまで ー大活躍中の高橋さん、monopoとの出会いはどんなエピソードがあったのしょうか? 僕がmonopoに入社したのは2017年。でもその3年前くらいから代表の佐々木さんと、monopoの存在は知っていました! 少し過去の話になりますが、僕は早稲田大学に通っていました。でも当時は全然大学に行ってなかったんです。就職するイメージはなく、なんとなく自分でビジネスをやろうと思っていました。 漠然と、飲食業界でビジネスをやろうと思い、Barを立ち上げようかなと考えていた際に、リサーチを兼ねてフラっと行ったBarで、すでに事業を立ち上げたmonopo代表・佐々木さんと出会いました。 ビジネスを立ち上げたい、と起業家であり早稲田大学の先輩であった佐々木さんに相談したところ、“詰めの甘さ”を指摘され、「基本からやり直してこい」ということで、出会った翌日に大学近辺で購入したお弁当に利益を乗せて校内で売り歩いたんです。 「その差額がビジネスで生む価値だから、何でもいいから売ってみろ」と。当事のかろうじて生める価値はトークのみでしたが・・・(笑)それがある意味monopoとの最初の出会いでしたね。 ちなみにそのBarは学生と学生、学生と起業家をつなげるような有名なドレッドヘアのバーテンダーがいるところで、代表とはその縁で出会いました。ちなみに、紆余曲折があってそのお店にいた彼も現在monopoで働いています(笑) そこから2〜3年ほどmonopoに入るまで期間があくのですが、その間に僕も自分で会社を立ち上げたこともありました。 ー大学生で創業したんですね!どのような事業内容だったのでしょう? その時はWEBサービスの会社です。大学2・3年の時かな。若者・学生向けの起業支援プログラムのようなものに友人と挑戦したところ、見事合格して出資を受けて共同創業者として宿泊ビジネスをはじめました。 僕らが会社を立ち上げた2014年頃は、ちょうど日本にシェアリングエコノミーが流行りだした頃でした。「Airbnb」や「Uber」が急激に伸びており、まだ日本に来るには参入障壁があった。そこで建築に詳しいメンバーと共にシェアリングエコノミーに目をつけ、就活生向けの宿泊施設の運営を実施していました! 就活生が行きたい企業のリクルーターの家に泊まったり、都内に出てきた地方の方向けのコミュニティ施設のようなものを運営したり。今はもう無いですが、当時は3人でやっていて、僕はマーケティングから営業まで何でも屋として働いていました。 ーその経験から、何故クリエイティブの仕事にシフトチェンジを? その宿泊ビジネスをやっていて将来性を感じていたものの、僕は共同創業メンバーの1人でしかないし、人生をかけてやるのもちょっと違うのかな…と思いはじめたんです。結局その会社を辞め、休学していた早稲田大学に復学しました。 そこから1年くらい自分にしかできないことを模索していた時期にクリエイティブな仕事のおもしろさに出会ったキッカケは早稲田大学の講座でした。 早稲田のOBで起業家として活躍する方々が毎回講演に来るおもしろい内容なのですが、そこで偶然講師をしていたライゾマティクス 代表取締役社長の齋藤精一さんに出会ったんです。 齋藤さんからクリエイティブな仕事を学んだ際に、「これだ!」と感じました。 その講座のあとには毎回講師との飲み会も開催されるんですよ。毎回直帰していたけどその回だけは参加して。斎藤さんの目の前に座って、最後は「働かせて下さい!」と言っていましたね(笑) それほど何かビビッと来ちゃいました。 その出来事からクリエイティブな仕事をやりたいと考えるようになり、「そういえば佐々木さんがやっているmonopoっていう会社があったよな…」と調べて、オフィスまで会いに行きました。そしてmonopoのオープンな雰囲気とカルチャーに惹かれ、2016年くらいからインターンとしてジョインしました! ー最初はインターンだったのですね! そうなんです。そのまま3ヶ月後に入社し、それから3年半が経ちました。 エンジニアとして入社したのですが、そもそもそんなスキルも経験もなかったので、働きながらスキルを磨いていこうと思い、叩き上げていきました。 ー現在の仕事はどのような内容ですか? 入社後は開発だけをする人よりも、プロジェクトを仕切るディレクターのようなポジションにフィットしているとのことで、エンジニアからディレクターになり、そこから今のプロデューサーにまで発展しました。 現在はエンジニアリングと並行して、プロデューサーとして色々なプロジェクトを統括し、テクニカルディレクターとしてmonopoで働いています!   日本と海外をつないだリモートワークで臨んだヤングカンヌで、メディア部門で国内シルバーに輝く! ー2020年、なんとヤングカンヌの国内シルバーを受賞してましたね!すごいです! そうなんです!!!一緒に戦ってくれたmonopoの見目拓也と勝ち取りました! ーヤングカンヌとは、どんな大会なんですか? 広告業界のジュニアオリンピック、もっとわかりやすく言うと30歳以下が対象の、広告業界のM-1グランプリみたいなやつですね。 ヤングライオンズコンペティション(通称:ヤングカンヌ)は、全6部門でそれぞれお題に対して何かの課題解決をするコンペ形式になっています。僕はメディア部門で出場しました。 2020年のテーマは、”Create a media campaign to raise awareness of “Unstereotype” and organisation for CxOs in companies in Japan.”でした。日本における「Unstereotype」の認知を目指したメディアキャンペーンの作成ですね。 僕らの企画はまず、毎日流れてくるSNSやメディアを見て記事の内容は覚えているけど、”誰が”書いたかまでは覚えてないよね…という部分に目を付けたんです。 その記事を書いた人がどんな人なのか、性別も知らないしエビデンスも知らない。でも信じてしまっている。それが図らずして偏見やステレオタイプを生んでいるのでは…ということですね。 そこで、その記事を書いた人が男性なのか女性なのか、分かるようにするのです。具体的には、1つの記事にURLを2つ作り、MEN/WOMENと男女それぞれの観点で読める仕組みにしました。そうしてメディアが作り上げてしまうステレオタイプを、男女それぞれの観点でみることで、自分なりの解釈をしようと投げかけたんです。 その企画で、ヤングカンヌ2位であるシルバーを獲得しました。そしてシンガポールにて開催される予定だったアジア地域最大級の広告コミュニケーションフェスティバル「スパイクスアジア」の日本代表に選出されました!2020年大会は新型コロナウイルスの影響で中止になってしまいましたが、2021年大会の代表権繰り越しとなっています。 ー今回のコンペで、大変だったことは? 日本とロンドンでの2拠点でやり取りをしていたことですね。コンペは1週間ペアで取り組むのですが、見目は日本で僕はロンドンでそれぞれプロジェクトがあり、大会直前までリモートで国境と時差を乗り越えるカタチで完成まで持っていきました。 でも実際に会わないと不安だったので、大会の本番直前の日曜日にロンドンから帰国して、成田空港からオフィスに直行して打ち合わせしましたね。それが大変だったけどその分感慨深かったです。   リモートワークが当たり前の世界で、プロデューサーとして工夫していることは? ー基本はオンラインでのやり取りだと思います。リモートで信頼関係を築くコツは? チャットでのコミュニケーションは長文ではなく、短文で複数回がポイントですね。会話のようなキャッチボールをチャットでやっていくイメージです。だんだんやり取りが増えると、相手がどんな考え方をする人なのか掴めてくるので。 とはいえ「はじめまして」から関係を作るのはめちゃくちゃ難しいですよね。僕の場合は、チャットの回数を増やしたり、最初はオンラインでも顔を見て話すようにしています。 あと軽くオンライン飲み会をするなどもオススメですね。関係者を全員つなげて軽く飲む、というのはオンラインの方がやりやすいと感じるときもありますね。 プロデューサーの仕事は基本チームで仕事をするので、関わっているメンバーの情報が多いほうが思考の特徴も把握しやすい。そのため、リモートでやり取りをする時でも意識的に雑談タイムを作っています。 ーテキストのみのコミュニケーションで工夫していることは? ”上機嫌チャット”ですね。例えば「!」をあえて文末に付けるとか。詳細は恥ずかしいのでヒミツです(笑) コミュニケーションは、チャットでもオフラインでもすごい大事なのはいつも上機嫌でいること。言語化するのは難しいですけど…怒らない・ポジティブなコミュニケーションを常に意識しています。 あとはスタンプやイイネなど、意識して使っています。自分に関係するチャットが来たときは、必ず「読んでいるよ」という意味で必ずスタンプを押しています。返信をすぐ返せないときもこれは効果的だと思います。 ーオンラインMTGなどで工夫していることはありますか? 無駄なMTGも数多い中で意識しているのは、時間内に何を決めるのか・何をゴールにするのかわかった上で全員集まるということですね。MTG後にちゃんと着地点に到達するために、MTGをしています。時間もきっちり意識します。 クライアントとのMTGでは、トークルームに参加者が集まる際に軽くアイスブレイクや雑談をちょいちょい挟んでます。 トークルームに待合室がある場合は、参加者の集まり具合が分かるように覗いてみたりとか。本題に入る前に場をあたためるみたいな感じです。これはオンラインならではですよね。 ー自宅でも生産性を上げるコツを知りたいです! 家で仕事できる環境を作っています。家にはオフィスと全く同じイスとディスプレイを揃え、位置も再現しています。 最初はリモートだとずっと仕事できちゃうので疲れも溜まりやすかったです。そこで、生活リズムを朝型に変えました。これまでmonopoの始業時間の12時に仕事を開始して、夜遅くまで仕事をしていたのですが、午前中を自由時間にしようと実験したんです。 行き着いたのは、毎朝4時半に起きて21時に就寝する生活です!外食や飲み会もなくなり、朝を自由時間にしたら生活のサイクルが良くなったので続けています。 4時半〜12時の午前中は筋トレ・映画鑑賞・ギターの練習など…自由に贅沢に使っています。 ーすごい、オリジナルなワークスタイル!前と比べて変化はありましたか? 規則正しい生活をしているので、体調が良くなりました! monopoでは海外と仕事することも多いので時差を考慮して事前準備をして仕事に臨むのですが、始業前に自由時間を設けて仕事の準備をするのもそういった感覚に似ています。 日本にいながら“ひとり時差生活”をしていますね!朝を有効活用すると、仕事もすごく効率が良いです。   ーWith/Afterコロナ時代にぴったりな新サービスをリリースされましたね!実際にどういったサービスなんですか? 「Remote Natives」は、プレゼンから納品までの広告クリエティブ制作を100%リモートで行えるソリューションサービスです。 「STUDIO DISTANCE」は、monopoと東北新社が業務提携し、フルリモート映像専門チームを立ち上げ、リモートで映像制作ができるサービスです。 どちらのサービスも、これまで日本とロンドンを起点として世界中のクリエイター・企業とやり取りしてきたナレッジのある僕らだからこそ打ち出せたサービスだと思っています! ーフルリモートでクリエイティブ制作や撮影は可能でしょうか? 難しいと思います。でも、できると確信しています! 僕の担当プロジェクトはデジタルで行うものが多いので、基本的に全てオンラインで企画・進行・実施をしています。ただ撮影が必須なものや映像系などはどうしても集まってやらないといけないので、それはオンラインは物理的に難しいですよね。 今回のサービスはまさにそういった撮影のDX化…いわゆるデジタル化を目指した取り組みです。 例えば、映像を作成するのに、監督・演者・カメラマン・技師・音声…本当に色々な方が関わって作っていきますよね。それなのに、クライアントと関わるのは監督とかプロデューサーの人しかいなかった。 今回のサービスのようにオンラインで全員がつながれば、これまでのトップダウンだったものがフラットになり、現場のことをわかっているカメラマンや演者とも直接アイディアのやり取りができるんです。これはすごく画期的だと思います。 それに、全部リモートで作成できる映像はかなりおもしろいと思います!リモート化が進むと国や場所に関係なく仕事をするハードルが下がっていくと考えているので、もっとグローバルな仕事が増えていくと良いなと思っています。 ー今後のクリエイターの仕事はどうなっていくと考えますか? クリエイターとは、ものを創る人。今、このリモート化の波が来ているのは逆にチャンスではないでしょうか。クリエイターが自分で作って発信すれば、見てくれる人も増えます。何かを自分で作れる人はこれからますます強くなっていくと思います。 monopoでも毎週社内でやっているMTG後に、イラストレーターの子がMTGの様子をイラストにして発信してくれるんです。それがめちゃくちゃ良いんですよ。そういったアウトプットが今後増えていくとおもしろそうですよね! 今後リモートだからこそ新しいニーズが生まれるだろうし、オンラインでどこでも誰とでもつながれるので良い意味でオープンに、クリエイターが仕事を依頼したり受け入れたりする流れが活発になっていくと良いなと思っています。 ー最後にメッセージをお願いします! 今回、僕らの働き方をリモートネイティブとして取り上げてもらったのですが、こういった働き方が日本でもより広がっていくことを願っています。 僕はエンジニア・ディベロッパー・日本人…ってこのクリエイティブの業界で、まだ立場が弱いと思っていて、それを最大化したいです。
 また、デジタルやシステムがわかるアイディアマンや、クリエイティブはまだ珍しい存在です。アートディレクターはいるけどテクニカルディレクターはそんなにいない。ヤングカンヌでも、毎年勝ってる人たちはアートディレクターやプランナーがほとんどで、エンジニアがほとんどいないんですよ。優秀なエンジニアはこの業界を離れて、大手のテック企業やスタートアップに行っちゃいますし。 これからの時代、デジタルやテクノロジーがますます加速すると、課題を解決するクリエイティブ、アイデアも、テクノロジーとは切っても切り離せない関係になってくると思うんです。そこを僕がリードできるようになりたいですね。 テクノロジーをわかる人がアイディアも考えるっていうのは珍しいし、僕のユニークなところだと思っています。僕自身も引き続き、グローバルにクリエイティブでおもしろい世界を創っていきたいです。 ー非常にクリエイティブでおもしろいお話でした!ありがとうございました! 【過去のmonopoインタビューはこちら】 クリエイティブの総合商社を目指す『monopo』CEO・佐々木芳幸の今を作った人生のターニングポイント 「monopoに出会ったから日本にいる」ー 若きクリエイターが語るmonopoというコミュニティと夢 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 写真:高橋さん提供 デザイン:五十嵐有沙 文:Moe

広告代理店と事業会社、それぞれの立場でマーケティングを経験!神田美咲が考えるマーケターに必要な2つのコトとは?

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。 今回のゲストは、株式会社サイダスにて、ブランド戦略部 マーケティングチーム スペシャリストとして活躍中の神田美咲(かんだ・みさき)さんです。 新卒で総合広告代理店に入社し、データマーケティング会社でプランナーを経てサイダスに入社した神田さんがこれまでたどってきたマーケターとしての道のりと、マーケターに必要なコトについて感じることを語っていただきました! 広告代理店を目指したキッカケはTVドラマ!しかし配属先は別世界だった!? ーそれでは、まず自己紹介をお願いします! 神田美咲です。人事の方が使うようなタレントマネジメントシステムを開発している株式会社サイダスにて、マーケターとして働いています! 現在は社会人歴6年目で、新卒では総合広告代理店に入社しており、2社目はデータマーケティング会社でプランナーをやっていました。 これまではクライアントワークが主な業務でしたが、今後は事業会社にて自社の事業を伸ばすマーケティングの仕事がしたい!と考え、転職して1年が経過しました。 ーそもそも最初に広告代理店に決めた理由は? 2006年に放送していたフジテレビ系の月9ドラマ『サプリ』の影響です! 広告代理店を舞台に繰り広げられる仕事や恋愛を描いているドラマなのですが、それを観て「絶対、広告代理店で働きたい!」と感じたんです。それは大学に入ってからも変わらず、就活でも広告代理店に絞って活動していました。 ーそこまで『サプリ』に憧れたのは何故でしょう? そのドラマでは、ただ広告代理店のキラキラした部分のみではなく、リアルに辛い部分も描かれていましたし、プランナー・デザイナー・コピーライター・営業などと様々なキャラクターが”チーム”で色々な困難に立ち向かっていく姿を描いていたんです。 CMなんて、1つは15秒〜30秒で終わってしまう。でも1つの作品を作るのに、各部門のプロフェッショナルが集まってチームで動いている感じがすごく良かったです。 また、ドラマでは「広告とは何か?」と考えさせる要素もありました。たった数秒の作品が、人の行動や感情を変えるって凄い…!私もそんな作品を作るプロフェッショナルになりたい…!と、漠然と憧れたのを覚えています。 ー中学で目指すようになって、就活でもやっぱり目指したのでしょうか? キッカケは中学生の時ですが、その後は進学校で勉強熱心なただの女子高生でしたし、大学で上京をしてめいっぱい学生生活を謳歌していました! 就活は色々と受けた結果「やっぱり広告代理店が良いな」と感じ、絞っていきました。でも、総合広告代理店の面接の候補者はすごい人ばかりでしたし、なかなか受からないことも多くて、難しいと思うことも多かったです。 最終的に、社風や社員さんの雰囲気と相性がいいなと感じる総合広告代理店に入社できて良かったです。 ー入社して、『サプリ』の世界と差はありましたか? 総合広告代理店なので、働き方や会社そのものの雰囲気、やっている業務などはドラマの世界ではありました!ただ、私が配属されたデジタルマーケティングの部署は別世界でした(笑) ドラマでは屋外広告やTVCMなどのマス広告がメインですが、デジタルマーケティングは細かく数字を分析して成果を出す仕事です。 クリエイティブな仕事とは程遠く、数字とにらめっこして、リスティング広告をガンガン回してましたね…。新卒時代は不満も不安もありました。ただ、任された仕事は何でもやってみよう!と真剣に向き合ってみたらデジタルマーケティングも面白かったです。 当時、デジタルマーケティングの領域は一番盛り上がっており、新しい技術や手法が次々と生まれる環境だったので、飽き性な自分の性格にも合っていました。広告業界の中でも、特に最新の日々変化するデジタルマーケティングに取り組めたのは良かったですね。   転職先で”恩師”と出会うも2度目の転職を決意。20代で3社を経験! ー新卒で入社した広告代理店で、特に大変だったことは何ですか? 最も印象的だったのは、3年在籍したデジタルマーケティングの部署から営業に異動した直後、会社にとって過去最大規模のプロジェクトを担当したことです。予算は億単位で、準備期間がとても短い中でのプランニングが必要でした。 予算も多い分、お客様の求める基準も相当厳しく、初めて仕事をやっていて「死ぬかも」と感じましたね…(笑)毎日時間がとにかくなくて、1ヶ月の残業時間だけで200時間を超えたことも! プロジェクトが終わるまでの数ヶ月、体力と気力勝負でした。最終的にはお客様にも満足いただけて、本当にほっとしました。 ーこれまでのキャリアにおける、ターニングポイントは? その巨大プロジェクトが終わってしばらくして、2社目であるデータマーケティングの企業にプランナーとして転職しました。理由は、もっと幅広い視野をもって色々な企画を作れるようになりたい!と思ったからでした。 そこでとある優秀なマネージャーと出会いました!その会社のプランナーは皆優秀なのですが、彼は企画のセンスや実力がずば抜けているし、部下への指示出しや人を成長させるマネジメントスキルも高かったと思います。 入社してすぐ、仕事がデキる同僚に引け目を感じて自信が持てなかった私に、「自信がないなら、自信をつけなさい」とピシャっと言ってくれました。 何が自信が持てない原因なのかを細分化したり、要因を探るために多くの本を読んだり、ただがむしゃらに目の前の仕事をやっても自信がつかないなら、知識を付けなさいと教わったんです。 そこから、プライベートの時間をインプットする時間に充てたり、苦手だったビジネス書を読んだり…その一言で行動や生活がガラッと変わったし、次第に案件が取れたり仕事でも良い結果が出てきたんです。 今は私が転職してしまったので、疎遠になってしまいましたが変わらずリスペクトしています。今でも企画を考える時は、そのマネージャーが言っていた一言一句を思い出します。マネージャーというより、”恩師”という存在ですね。 ーそんな出会いがあったのに、転職したのはどんな理由が? その企業で大きな組織編成があり、その恩師の元で働けなくなったのがキッカケです。どうしても一緒に働きたくても、不可能だと分かったら働く意味をあまり見いだせなくなってしまって…。将来を悩んだ際に、かねてより行きたいと感じていた事業会社へ転職を決めました。 今では、ある意味そういうタイミングだったのかなあとも思います。   会社にマーケティング思考を浸透させたい!マーケターとして必要なコトとは!? ー3社目は株式会社サイダスさんですが、なぜHRTechの会社にしたのでしょう? 事業会社に行きたいと考えた際に、色々な会社が世の中にある中で、自分が好きになれる分野・夢中になれるものを探していました。社員の働き方や組織づくりと関わるHR系の企業は以前から興味があったので、サイダスに入社を決めました! ー入社して約1年…どんなお仕事をやっていますか? サイダスは100名ほどのまだ小さい会社なので、裁量権もありますし、色々な業務をやらせてもらっています。日々の仕事はWEBサイトの改善、広告の運用などマーケティング分野の業務ですね。 他にもイベント企画・広報・PRなども色々幅広くやっています!また、社員がもっと発信力を付けられるように「Twitterボーナス」を生み出しました! ーTwitterボーナス!?それはどんな内容なのでしょう?導入のキッカケは? Twitterをやってフォロワーを増やすと、ボーナスをもらえる仕組みの福利厚生です。人事ではなく、マーケティングメンバー発信で福利厚生制度を生み出しました。 サイダスは同じHR系の競合と比較してもまだ認知度は低いですし、ブランディングもまだ十分ではない状況が課題だと感じていました。 お金をかけて広告を打つのも良いのですが、どうせやるなら社員を巻き込み、インナーブランディングも兼ねてやりたいと思い、中の人が情報を発信できる仕組みを作りたかったんです。 最近では、他企業のTwitterをやっている方から「サイダスさんってTwitter頑張っているよね!」と言われるようになりましたし、クライアント企業様から「最近サイダスのTwitter見てるよ!」と言われるようになったんです。会社にとってもマーケティングの仕事としても、すごくいい効果が出ている実感があります! ー広告代理店から事業会社に転職してみて、一番の違いは何ですか? そうですね…。事業会社に来て感じたのは、「この施策やった方が良いよ」と言っても周囲に広告やプランニングのノウハウがないので、すぐには理解してもらえなかったりはしました。なので広告代理店にいた頃とのギャップはすごく感じますね。まだ試行錯誤中です。 一方、事業会社に入って、セールス・カスタマーサクセス・開発チームなど色々な仕事を見て最適なマーケティング施策を考えてみたかったので、今の環境はとても面白いです! マーケティングとは、会社全体を見ることだと思うんです。どうやってこの製品を作ろう?どう商談を持ってこよう?受注できたらどうやってアップセルを狙っていこう?など、常に最適な手法を考えていくことは、全部マーケティングだと思うんですね。 それを一貫して考えられる人になりたいので、事業会社は”やりたいことだらけ”という状況です! ーこれからマーケターを目指す人に、「マーケターに必要なコト」を教えて下さい! まずは視座を高く持つこと。続いて知識欲。この2つがマーケターに必要な資質だと思います! TVCMを流そう・デジタルマーケティングをやりたい!等というただの手法論ではなく、全体を俯瞰して最適な戦略を考えることができれば、最適な方法は自然と決まってくるんです。そのため、業界や手法に縛られず、視座だけは高い方が良いと思います! 知識欲に関しては、私も恩師から教わったように「自信をつけるために知識を付けなさい」ということですね。自分がインプットを通して変わっていったので、世の中に常にアンテナを張り続けることだけは常に続けて欲しいと思います。 私もまだ足りていないと思うので、今後もこの2つは大事にしていきたいです。 ー今後に関して、ビジョンを教えて下さい! サイダスはまだまだ成長途中の会社なので可能性は無限大だと思っています。そのためにインナーブランディングも注力しています。今後はもっと社員の1人1人が部署に関係なく、マーケティングに関心を持てるようにしたいです! 自分の人生においては、数年後に会社を立ち上げてみたいなあと思っているんです!0から会社を作り、事業を決め、案件をいただき、継続的に売上をたてるには…?と、全ての要素に欠かせないマーケティング思考をインストールした会社を、私の手で作ってみたいです! 会社の命運が自分にかかっている…というアドレナリン全開で取り組めるものを、一生に一度は体験してみたいなと夢見ています! ーワクワクするような神田さんの今後に期待です!ありがとうございました!

「悩みを解決して、幸せを増やしたい」ゴリゴリの営業マンだった梅本匠が、サービス開発に向き合うワケ

  様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第94回目のゲストは結婚指輪のオーダーメイドサービス「memoring」CEOであり、株式会社LIVESTAR経営戦略室室長の梅本匠さんです。 現在、事業主と業務委託という働き方のミックスで、プロダクト開発・事業グロースの両側面にチャレンジしている梅本さん。経歴を見ると、「ゴリゴリのビジネスマン」に見えますが、彼が働く意味の先には、「世の中に幸せを増やしたい」というシンプルな優しさがありました。   結婚の悩みが、サービス「memoring」の誕生に ー本日はよろしくお願いします。まずは、現在の梅本さんのお仕事を教えてください。 梅本匠です。海外インターン、株式会社メタップス、ライブ配信プラットフォームを提供する株式会社17 Media Japan、そしてスタートアップと4社を経験した後、フリーランスになりました。 現在は、ライバー事務所を展開する株式会社LIVESTARの経営戦略室室長を務めています。LIVESTARはエンターテインメント事業のエイベックス株式会社の子会社で、プロダクション事業を有する会社です。簡単に言うと、ライブ配信プラットフォームに、配信者を輩出しています。私の仕事は経営企画です。実際のところは「何でも屋」で、事業の足りない部分を網羅的に担っています。 また、事業主として「memoring」というサービスも提供しています。memoringは、オンラインでヒアリングを行い、オーダーメイドの結婚指輪デザインを制作できるサービスです。結婚指輪を作りたい人と、ジュエリーデザイナーのマッチングが可能、とイメージしてもらえれば分かりやすいのではないでしょうか。   ーライブ配信ビジネスと、ジュエリー事業。全く別の二軸が梅本さんの現在の柱となっているのですね。どのようなバランスで働かれているのでしょうか? LIVESTARが6割、memoringが4割、という配分で働いています。memoringは事業フェーズとして、100%コミットして動くようなフェーズにないことも起因しています。   ー梅本さんは26歳のときにご結婚されたそうですが、そのときの体験などがサービスの誕生につながっていますか?   そうですね。結婚指輪を作ろう、となったときに、全く身につけたいと思える指輪と出会えなかったんです。そこで、ジュエリーデザイナーに依頼したところ、自分好みの指輪を手に入れることが叶いました。しかも、既製品を購入するよりもずっとリーズナブルでした。自分が抱えた悩み、そしてそれが解決した体験からサービスの構想が始まりまったんです。 memoringの創業に至るまで、プロダクト開発に携わったことはありませんでした。そのため、日々勉強しながらサービスと向き合っています。結婚指輪は大きな買い物ですから、知らないブランドから購入するということがお客様には高いハードルに感じられるようです。なかなか難しいですね。それでも、「memoringはいいサービスですね」という声もいただいています。   「困っている人を助けたい」被災地で感じたこと ーご自身の悩みが、新しいサービスの誕生を促したんですね。他のお仕事もそのようなきっかけで関わっていらっしゃるのでしょうか? 自分の悩みにとどまらず、私の仕事に対する姿勢の根本には「困っている人を助けたい」という気持ちがあります。大学時代のボランティア経験が、その土台にあるんです。   地元にある神戸大学へ進学したのですが、志望していた経営学部への入学が叶わず、あまり興味が湧かない国際文化学部の学生になりました。やりたいことと全く違う環境に、かなり迷走していましたね。 大学には同じようにくすぶっている人もいて、友人になりました。その人が、「東日本大震災のボランティアに参加しないか?」と誘ってくれたんです。私が入学した年は2011年。東日本大震災発生直後でした。東北でのボランティア活動が活発化しており、また、もともと神戸は阪神淡路大震災を経験していることからボランティア精神が熱い土地なんです。   ー被災地へ足を運んでみて、どのように感じられましたか? テレビ越しでの感じ方とは、全く異なりましたね。「被災者」と一言で紹介されてしまいますが、そのひとりひとりと言葉を交わし、改めて、被災地が直面している課題の大きさを実感しました。それが分かっても、なにかができるわけでもありません。ただただ、被災された方々のお話を聞くだけでも、価値になればと活動していました。   その中で、ボランティアを行う学生団体の組織の弱さの方が気になるようになりました。ボランティアをしたい生徒を募って被災地へ送り込んでいたのですが、そのオペレーションがそのうち崩壊しそうだと危機感を抱いていたんです。 学生団体といっても、神戸大学自体も運営に関わっていて、国から助成金をいただいてのボランティア活動が可能でした。大学単体でやるよりも、学生と提携しているプロジェクトだと見せることが、大学にとっても助成金を申請しやすいというメリットがあったんです。そういうこともあって、担当の先生が「梅本、お前の名前を代表にしておいたぞ」と。   ーえっ、勝手に代表にされていたんですか? はい(笑)そういったことに推されて、2年生のときからボランティア団体の代表として活動することになりました。最初は大変でしたね。私はゴリゴリやるタイプなので、ウマが合わないと判断されたのか、一気にメンバーも辞めてしまって(笑) そうでなくても、大学内の団体は必ず4年周期で人が入れ替わりますよね。そういった部分で、大学も運営に関わっていたのはプラスに作用しました。先生などが継続的に関わっていることで、文化の継承がスムーズになったと思います。 のべ、1,500人以上を岩手県の陸前高田市に派遣することができました。   ー1,500人!素晴らしい功績ですね。代表就任時には離れたメンバーもいらっしゃったのに、結果として成果を収めた要因はなんでしょうか? ゆるく関わるメンバーも歓迎したところでしょうか。年に1回、会議に出席するだけでもメンバーだと認識していました。関係者を増やす、ということは意識していましたね。 また、一度被災地へ足を運ぶと、その人の胸の内に熱量が芽生えて、「また行きたい」と思ってくれるんです。その気持ちは「ボランティアがしたい」というよりも、「あのプレハブに住む人とまた会いたい」とか「あのおじいちゃんと、またお茶が飲みたい」という、「会いたい誰かの存在」が被災地にできるという体験が大きな影響でした。 そういった印象的な体験や、被災地で目にした強烈な風景は、大学へ帰ってきても絶対に誰かにシェアしたくなる。そして「今度は一緒に行こうよ」と自然に巻き込んでくれました。この巻き込み力の強さが、ボランティア団体の強みであり、多くの人が参加するプロジェクトとなった要因です。   過酷な海外インターン ー大学生活を捧げてボランティア団体の活動に情熱を注がれたようですが、4年次には休学をしているそうですね? 休学をして、フィリピンへ行きました。事の発端は、就活中のメンターに、「金を生み出せる匂いが全くしない」と言われたことです。それがショックで、でも、反論できる証拠をひとつも持っていませんでした。ちょうどその頃、本を読んで「海外インターンをし、その経験で就活をハックしろ!」という考え方に出会いました。「これだ!」と思って、休学をして海外インターンをすることにしたんです。   ーどのような会社で海外インターンをご経験されたのでしょうか? 日系人材紹介企業のフィリピンマニラ支社に入ることができました。職種は営業です。企業の開拓をしていたのですが…とにかくしんどかったです。そもそも、フィリピンに進出している日系企業は1,000社程しかなく、母数が小さい。その上、すでに先輩社員が使い回したリストが渡されるので…。テレアポの件数が足りなければ、飛び込みでの営業もしていましたね。 そこで、半年ほどインターン経験を積みます。当時はお金もなかったので、スラム街のようなところで暮らしていました。現地の子ども達が、家の周りを鉄パイプもって走り回っているのが日常風景でしたね(笑)過酷でしたが、振り返っていい経験だったなと思います。 いきなりITや仕組化を考える職種ではなく、個人でどうにかして戦わないといけない、しかも逃げられないという環境下にいたことで、相当鍛えられました。   「最後は営業」先輩社員に学んだこと  ー新卒入社でメタップスを選ばれましたが、この選択はどうしてでしょうか? 個人の力で戦う、という経験が糧になったのもの、実際のマーケットのトレンドとは逆行していると感じていました。連続的な成長が可能な環境へ身を置かないと、キャリアを伸ばしていけないと思ったんです。 メタップスはちょうど上場をしたタイミングで、勢いもあったことから、「この会社だ!」と惹かれて、すでにいただいていた内定を辞退して入社しました。   ー実際に入社をしてみて、どうでしたか? 上場したての会社は大変でしたね。それまでは売上を伸ばす部分に注力していたのが、組織体制や利益率の改善も求められていました。私が配属された部署は、マーケティング部だったのですが、先輩社員は全員、大手企業の営業経験者。「どこまでいっても、最後は営業」ということをそこで学びました。 先輩たちがあまりに優秀だったので、海外インターン経験でついた自信はすぐに潰れてしまいましたね。コンサルティング能力を要しますし、事前知識の量も膨大なため、最初は全く売れませんでした。入社して3か月は苦しんで、そこから受注、手順が見えてきたことで突破していきました。   トレンドに乗って、キャリアを伸ばす ー1年半の在籍期間を経て、その後、2社目に転職されていますね。どういったきっかけですか? ハードワークで体調を崩していたこともあって、元上司でヘッドハンティングをされている方に転職の相談をしました。「伸びる業界へ行くべきだ」というアドバイスと、「ライブ配信プラットフォームの17LIVEが日本に上陸するから、そこへ行け!」と言われて、株式会社17 Media Japanへ転職しました。 IT業界の最前線で活躍されている方って、総じて「トレンドに乗って、キャリアを伸ばした」という特徴がありました。「前の波に乗っていた人が、今のトップ層にいる。次に上へ向かうには、今、どの波に乗るべきか?」と考えたとき、それがライブ配信でした。   ー17LIVEでは、どのようなお仕事をされていたのでしょうか? 業務としては営業に近く、ライブ配信者の開拓です。芸能プロダクションと組んで、ライブ配信者の育成も行っていました。売上をのばすためのフローを構築し、どのように教育していくべきかを提案して…前職のコンサルティング要素が活きましたね。ドアノックからクロージングまで、営業のフォーマットを作り上げられたことは、成果として挙げられるのではと思います。 在籍期間の1年で、売上は約60倍になりました。ものすごい成長速度ですよね。マーケットの拡大が、スタートアップの成長には不可欠なんだと実感しました。   悩みを解決して、幸せを増やしたい ーその後、スタートアップ1社での経験をはさんで、独立にすすまれますが、どのような心境の変化があったのでしょうか? その会社では、プロダクトに関わりたくて転職したのですが、そのプロダクトがユーザーと向き合っていないことに違和感を抱いていました。マーケットを支配しているのは、消費者です。そこにどれだけ寄り添えるか。ユーザーの方を向いていないサービスは伸びません。 そのことで、社長とよく議論に発展していました。結婚をするまで、私は鉄砲玉のような性格で、とにかく思ったことは口に出さないと気が済まなかったんです。それでメンバーとぶつかることは、それまでの会社でもままあることでした。 一見して対等に意見を言い合っているようですが、社長と私だと、とっているリスクが違います。私はリスクもなく、文句を言っているだけだったな、と。「リスクをとることで、あの時の彼らの気持ちを理解できるかもしれない」と考え、独立を決めました。   ー梅本さんは一貫して、体験から語ろうとする誠実さがありますね。フリーランスを経験してみて、どのように感じていますか? 気が楽だな、というのが、正直なところです。自分の方針と違う案件は断っています。被雇用者だとそうはいきませんよね。収入がやや安定しない部分はあるものの、自分のやりたいことを貫けることに、やりがいを感じています。 有名なシリコンバレーの投資家のポール・グレアムの言葉に「Make Something People Want」というものがあります。実際は、人が求めているものを世に送り出すって、めちゃくちゃ難しい。それを痛感していて、だからこそ、周りの働く人々や会社へのリスペクトは増していますね。   ー梅本さんの今後の展望を教えてください。 困っている人がいたら助けたいと思いますし、自分になにができるのかを考えます。「どうすれば人の悩みを解決できるだろうか」その視点が、サービス作りに活きています。いつか、みんなが使うサービスを世に送り出し、幸せになったよねと言ってくれる人を増やしたいです。   ー梅本さんのユーザー目線の仕事姿勢は、参考になります。本日はありがとうございました!   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

退学処分になった偏差値30の高校生が、人生のルートを無視し続け、自分を強みで押し上げ”社長”になるまでー濱名亮太インタビュー

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第96回目のゲストは株式会社Potential Eight 代表の濱名亮太さんです。 高校退学、大学中退。正義感と真っ直ぐさゆえに破天荒なルートを歩まれてきた濱名さんですが、強みである営業力で圧倒的な成果を上げてきました。社会の理不尽さも、世間が用意したステップも飛び越えて、今、「社長になる」という夢を叶えた濱名さんの、まだまだ続くであろうユニークキャリアの現在地までの歩みに迫りました。   教師からの反感から、不当な退学処分に ー本日はよろしくお願いします。まずは、代表を務める株式会社Potential Eightについて教えてください。 株式会社Potential Eightを、2020年2月10日に起業しました。社名には、「人の可能性は無限大だ」という僕の考えを込めています。 主に、3つの事業の柱があります。1つ目が、インターネット広告。デジタルマーケティングの領域ですね。2つ目が、YouTubeチャンネルのプロデュース。3つ目が、中卒・高卒人材に特化した人材紹介業です。 ー中卒・高卒人材に特化しているというのは、濱名さんのご経歴の影響でしょうか? そうですね。僕は、高校時代に2度の停学の末、退学処分になりました。やんちゃだった、というのもあります。ただ、2度目の停学は、ある教師に目を付けられていて、腹いせによるものでした。 クラスに内向的な友人がいたんです。正義感が強い僕は、その子に仲間にはいってほしくて、頻繁に交流を持とうとします。そのコミュニケーションの仕方を、「いじめだ」と決めつけられ、停学処分になりました。クラスメイト達は僕の味方で、署名活動までしてくれたのですが、教師の判断は覆りませんでした。また、同じように2度の停学になった友人は複数いたのに、なぜか僕だけが退学にまで追い込まれてしまったんです。   ーなんという理不尽な…。 いつか見返してやりたい、と思って今まで過ごしてきましたが、昨年、その教師が問題行動を起して逮捕されたと知りました。やっぱり、どこか悪い部分があったのでしょうね。今はこうやってネタとして話して面白がられるので、美味しいな、と思う面もありますが、やっぱり許せなかった出来事ではあります。   ー退学となり、その後の進路はどうされたのでしょうか? 通信制の高校へ通います。そこには、優秀な人も、不良も、風俗嬢も、アスリートも、セクシャルマイノリティの人も、内向的な人も、皆いました。多様性、という言葉が似合うような空間だったんです。色んな人と触れ合ったおかげで、寛容な人間になれたと思います。 そこでも、やはりやんちゃなグループの人たちと仲良くなって過ごしていました。学校へはあまり通わず、すすきのの街で遊び惚けていましたね。そんな中で、過去に一緒にサッカーをしていたの同級生たちが、推薦で有名大学への進学が次々と決まっていたんです。ずっとサッカーをしてきて、サッカーだけは真面目に取り組んできました。それなのに今は、仲間が次のステージに進むのを横目に、自分は遊んでばかり。「俺、なにやってんだ?」という気持ちが募りました。 停学、退学に直面しても、いつも母はどっしりとした存在感で僕のことを受け止めてくれていました。なので、母に恩返しがしたいと思ったんです。「ずっとサッカーばっかりだったから、サッカーで全国大会に進出した姿を見せたい」その想いが芽生えて、大学受験をすることにしました。 高校を卒業後、それまでの友人との連絡も全て断って、勉強に専念します。そうして、偏差値30の高校にいた僕が、偏差値55の高知大学に合格することができました。偏差値でいうと60まで上がっていて、関西大学にも合格していました。   母に恩返しがしたくて、大学進学 ー濱名さんはずっと札幌で過ごされてきたんですよね。高知大学を選ばれた理由はなんでしょうか? 高知大学はサッカーの強豪校なんです。地方の国立大にもかかわらず、数年前は全国大会決勝の常連でした。プロ選手も輩出しています。また、自分のプレースタイルと、高知大学のプレースタイルが近かったことも要因です。 結論、全国大会でのプレーを母に見せるという夢は叶いました。サッカー部は全体で約150人程いて、その中のレギュラーを勝ち取るということは、難しいこと。11人に選ばれなかった生徒たちは、サッカー部内にあるビーチサッカーチームやフットサルチームに所属するんです。そして、僕はフットサルの選手として全国大会出場が叶いました。 2年生の頃には、「プロになるのは無理だ」というのが見えてきていたんですよね。じゃあ、自分の将来をどうするかと考えたときに、「社長になりたい」と漠然と思いました。高級スナックでボーイの仕事をしていた経験から大きな影響を受けていると感じます。 いままで色んなバイトをしましたが、どれもすぐにクビになっていて…そんな中でも、ボーイの仕事だけは続きました。そこで、社長として働いている方々を多く目にしたんです。「お金持ちで、綺麗な女性を携えていて、社長ってすごいな」と、インパクトがありました。また、周りからずっと、「亮太は社長以外無理だよ」と冗談交じりに言われていたこともあって、社長を目指すことにしたんです。3年の後半にはサッカー部も辞め、休学して上京をすることにしました。   ー高知から東京へ出て、インターンに挑戦するんですね。どうやってインターン先は見つけたのでしょうか? どうやれば社長になれるのか分からなかったので、素直に「社長 なり方」でググりました(笑)そうしたら、ちょうど、プログラミングスクールのテックキャンプがリスティング広告を出稿していたんです。ここに行けばいいのか、と、鵜呑みにして(笑) 都内のベンチャー界隈で働く知人に連絡をとって、「テックキャンプってところで働きたいんだけど!」と、内部の人につないでもらい、半年間のインターンが決まりました。   営業で開いた才能 ーインターンをしている中で印象的だったことはありますか? テックキャンプは、株式会社div社が運営しています。divは、YouTuberとして活躍する代表取締役のマコなり社長こと真子就有さんを通じて知っている方もいるのではないでしょうか。テックキャンプはtoCの商材になりますが、それ以外にも、企業内でエンジニア人材を育成するtoBのプログラムの提供も行っています。 最初の2か月間、僕は法人営業を担当していたんです。その結果が、壊滅的で…。マナーすら身についていないので、売れないのは当然でした。その様子を、真子さんと、事業責任者の安井遼太朗さんが見てくれていて…結果が伴っていなかったにもかかわらず、「ビジネスマンとしては駄目だけど、可能性はあるな」と思ってくださっていたらしいんです。 あるとき、toC向けのテックキャンプの説明会を見学する機会がありました。説明会を行い、カウンセリングに進み、受講するというのが一般的な流れです。その説明会での営業の立ち振る舞いが「イケてないな、俺ならできるのに」と思えて、その場で真子さんに直談判をしました。「俺だったら全員に受講を選んでもらえます」「この営業、俺に任せてください!」って。   ーものすごい大胆な言動ですね…! 真子さんはその姿勢を面白がってくれて、toCで挑戦してみろよと背中を押してくれました。その結果、ミラクルが起きて、2週間で個人営業を担当した23人、全員が受講してくれたんです。   ー成約率100%ではないですか!すごい成果を残されたんですね。その要因は? 第一に商品が良かったからですね。テックキャンプは僕自身も受講していたので、商品の良さはしっかりと理解できていました。お客様は、説明会に足を運んでいる時点で商品への興味関心は高く、背中を押して欲しがっているだけなんです。僕は、人の感情を乗せるという部分を得意としているようで、そこに振り切りました。馬鹿なので、巧みな営業トークとかは別にしてないんですよ(笑)   ーそのような結果を残されて、「半年といわずずっとうちで働いてほしい!」とはならなかったのでしょうか? その後、「マネージャーとして、育成に携わらないか?」と有難い打診をいただき、育成に携わることになりました。ただ、実際にやってみてこれは違うな、と。もっと正直に言えば「つまんねえな」って思っちゃったんです。インターンごときで、教えることもなにもないですしね。 それより、もっと上に行って、もっと違う景色を見たいと感じました。営業スキルがどうやら活かせるらしいぞ、というのは分かってきていたので、営業をもっと活用できる環境にいこうと考えました。   正規ルートが苦手でも、自信と熱意で突破 ーそこで、2社目のインターンとしてサイバーエージェントグループの子会社である株式会社サイバーブルに行かれるんですね。この選択のきっかけは? サイバーエージェントの渡邊大介さんに、直接メッセをしました(笑)正規ルートだと、面接を5段階くらい突破しなければいけません。でも、ほら、僕、面接とか苦手なので…(笑) 実際に自分が営業となり、その成果を見せることができれば、採用してもらえるという自信はあったんです。なので、直接渡邊さんにメッセージでその自信と熱意をぶつけました。渡邊さんは面白がって、人事の方につなげてくださいました。 その後、2,3箇所、部署の面接を受けたのですが、どこも採用してくれませんでした。案の定、やっぱり面接受けてなくてよかったな、と(笑)その過程でも、僕を信じてくれていた人事の武内美香さんにはとても感謝しています。面接で「モラルがなさそう」なんて言われることもありましたが、サイバーブルは僕を採ってくれました。   ーサイバーブルでは、なにをされていだんですか? 広告営業ですね。目標は、新規案件で1件成約させること「これ達成したら、内定ください!」と言ってましたが、新人ですし、期間は2ヵ月だし、他の正社員も同じ目標を掲げているような高いもので…。それが、なんと結果として2件成約させ、本当に内定をいただくことになりました。 目標を達成するためには、他の人と同じことをしていてはだめだ、そう思って行動に移していたんです。東京ゲームショウに他の人が遊びに行っている中、僕は担当者とつながるために名刺を配りまくっていました。そこでの出会いから、気に入ってくださる方とご縁があり、成約をいただけたんです。   ーインターンどころか、正社員の採用も面接を通過せずに勝ち取ったんですね。濱名さんにしか切り拓けない展開に思えます…。 サイバーエージェントの取締役である曽山哲人さんとの最終面談はありましたが、特例のことだったと思います。2019年に卒業して新卒入社をする予定で話が進んでいたものの、大学を卒業する意味は特になかったため、高知大学を中退して2018年卒の大学生と一緒にサイバーエージェントに入社しました。僕にとって、大学はサッカーのプロになる通過点だったので、戻る意味がなかったんですよね。 入社してからは、AbemaTVの営業部に配属され、代理店に対してCMや番組制作を提案していました。それまでは、販路が大手広告代理店しかなく限られていたところを、もっと範囲を拡げて他代理店販路の新規立ち上げを任されたことで、1年目で一気に成果を伸ばすことができました。 僕の夢はずっと社長になること。そこに変りはなかったので、入社時から「新人賞を獲得して、箔をつけて独立しよう」と考えていたんですよね。そのために、それに見合う営業成績も収めていました。新人賞は、約150人の同期の中から、5人にだけ与えられます。獲れる、そう思っていました。しかし、僕は6位だったんです。新人賞を逃しました。   周りが見えていなかった。悔しさの先で学んだこと ーそれは相当、悔しい思いだったのではないでしょうか…。 あまりにショックで、その後、3日間は会社にいけませんでした。悔しくて堪らなかったんです。直属の上司にも、不満のメッセージをしまくりました。「成果は確実に出していたのに、なんでだ?」と、納得がいきませんでした。そんな時、上司が「悔しいのはお前だけじゃないんだぞ」と言ってくれました。後から知ったのですが、上司は最後まで、僕が新人賞を獲れるようにと強く推してくれていたらしいんです。 僕は、個人の成果を上げることばかりを考えて、チームを底上げするという視点が欠落していました。自分が社長になった今、ワンマンプレーでやる人よりも、チーム全体を引っ張る存在の方が、組織として欲しいということが分かります。当時は、全くその視点がなかったんです。周りの人の応援が身に沁みましたし、自分のことしか考えていなかったと反省もしました。 そういう経験があって、今のままではいけないと気付けましたね。上司には本当に感謝していますし、退職した今でも、サイバーエージェントという会社が大好きです。生まれ変わっても、もう一回入社したいですね(笑)   ーとっても愛されているのが伝わります。今後、やりたいことはありますか? 母に恩返しをしたい、という気持ちは今も続いています。ずっと破天荒な道を歩んできましたが、見捨てず、変に盛り立てることも、叱りつけることもせず、ただ見守ってくれていました。 母の言葉で、印象的なものがあります。母は僕に「凛とした人でありなさい」と言っていました。「人は寂しいときや挫折したとき、群れたくなる生き物なんだよ。でも、ひとりの時間で経験を落とし込まないと、成長につながらない。孤独を前提に考えなさい」って。 母には、いつかグランドピアノをプレゼントしたいですね。変らない存在がいてくれる、その安心感が、僕がずっと大胆な行動をとれてきた土台にあるんです。   ーお母様の愛に支えられた濱名さんの、今後の躍進も楽しみです。ありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

科学に知見があるかは関係ない?!株式会社キュライオ代表・中井基樹の飽くなき挑戦心

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第102回目のゲストは株式会社キュライオ代表の中井基樹さんです! 浪人生活中に海外大学へ進路変更しイギリスのマンチェスター大学で経営学を学んだ中井さん。在学中は紅茶の輸出ビジネスを手掛け1度目の起業を経験し、大学卒業後は異なる業界の3社を経験した後2019年に株式会社キュライオを起業されました。常に新しいことへ前向きにチャレンジし続ける中井さんに今日に至るまでの経緯をお話いただきました! 経営学専攻にも関わらず科学分野で起業 ーまずは現在のお仕事についてお聞かせください。 バイオベンチャーである株式会社キュライオの代表取締役を務めています。株式会社キュライオでは2017年にノーベル化学賞も受賞したクライオ電子顕微鏡を用いたビジネスを行っています。簡単に説明しますと、クライオ電子顕微鏡でこれまで主にX線でしか解析ができなかったタンパク質の構造を解析できるようになり、新しい薬の開発の可能性が高まっているんです。 ー社名キュライオには何か由来があるのですか。 コア技術であるクライオ(cryo)という単語を使った社名を初めは考えていました。クライオは英語では低温という意味を持つのですが、クライという音は英語のcry(泣く)や暗いという言葉を連想させてしまい縁起が悪いかなと思ったんです。そこで新しい薬の開発可能性があることから、英語で治癒するという意味のcureをcryoと掛け合わせてキュライオ(curreio)という社名に決めました。 ーなるほど…!中井さん自身はこれまで理系の分野で活躍されてきたのでしょうか。 大学では経営を学んでいたので科学のバックグランドはなく、バイオの分野には株式会社キュライオで初めて飛び込んだことになります。2019年1月に前職を退職し、転職するか起業をするか迷っていた際に、転職エージェントを通して出会ったバイオベンチャーの社長さんに起業を勧められました。そしてその方が紹介してくださったのが現在一緒に株式会社キュライオをさせていただいている東京大学理学部の濡木教授です。濡木先生とお話させていただく中で意気投合し、起業を決意しました。 日本には面白くて画期的な技術がたくさんありますが、研究者の方の多くは経営への知識や興味が不十分なためきちんと事業化されるケースは少なく、良い技術であるにも関わらず日の目を見ないことが多くあります。だからこそ、経営に得意な人・研究に長けている人がうまく役割分担をすることがITの分野に限らずバイオの分野でも必要だと感じました。ITの分野でも、ITサービスを作れるエンジニアだけで組織が成り立っているわけではないので。 ーそれでは濡木教授が技術・研究をメインに進められているんですね。 はい。私自身は技術の事業化や中長期でのビジョン作り、資金の確保、採用、組織作り等といった業務を担当しています。特にバイオベンチャーでは研究のための資金は必要不可欠なので資金面での計画を立てて遂行していくのはとても重要な仕事だと認識しています。研究の方に集中していただけるように研究以外の面でサポートをしていくのが私の役割です。   野球漬けの日々を送った中高生活 ー少し過去に遡ってお話を聞けたらと思いますが、どのような中高生活を送られていたのでしょうか。 中学時代は野球漬けの日々を送っていました。高校に進学後は、硬式野球部がない高校だったため、入団テストを受け社会人球団に入りました。そのため普通であれば甲子園を目指している予定でしたが、東京ドームで行われる都市対抗を目指して練習に取り組んでいました。 ー大学生や社会人に混ざって野球をされていたということですか。 そうです!プロを目指している人もいれば、仕事の合間に時間を作って野球をしている人もいるチームでした。それぞれ描いている将来プランは違ったものの、全員共通して野球が大好きという人たちに囲まれて野球ができたのはとてもラッキーだったと今振り返って思います。おかげで普通に高校生活を送っていたらみることのできなかった世界を見ることができ、新しい生き方や人生観を知ることができました。好きなことに対して一生懸命で、自分で考えてやりたいことに取り組んでいる人たちと一緒に過ごせたことは貴重な経験となりました。 ーその後どのような進路選択をされたのでしょうか。 当時2つ上の代にハンカチ王子で話題となっていた早稲田大学の斎藤佑樹選手がいました。単純ではありますが、彼と投げ合いたいなという気持ちから受験は東京大学を目指すことに決めました。ただ、野球漬けの日々を送っていたので受験勉強をはじめるのが遅く、現役で合格は難しい状況だったので浪人をすることに決めました。 ーそして1年後、東京大学に受験されたのですか。 実は浪人中に、現役で東京大学に進学した友達と話す機会がありました。その時に彼らが飲み会やサークルに時間を費やしているのを知り、自分が思い描いていた大学生活とは違うなと感じたんです。果たして1年間浪人生活を送ってまで本当に東京大学に行きたいのかと考え、違う進路を考えるようになりました。元々は野球のためにと思って目指した大学への進学でしたが、浪人期間を経たことで、一度立ち止まって自分の人生を冷静に見つめる時間を作れたことは今考えるとラッキーだったと思います。   海外大学への進学、初めての起業経験 ーその違う進路とは具体的には何だったのでしょうか。 海外大学への進学です。留学エージェントを何社か訪問し、話を聞く中でイギリスのマンチェスター大学ビジネススクールを知り、そこを目指そうと決めました。イギリスの大学は日本の高校から直接入学できないのですが、まずはファウンデーションコースに入りそこで1年間英語はもちろん、その他のイギリスの高校で勉強するレベルまでの科目を勉強し、そこの成績で大学に入学できるという仕組みになっています。祖父が経営者だったこともあり、高校時代から経営を勉強したいと考えていたので、ファウンデーションコース卒業後はマンチェスター大学で経営学を勉強することにしました。 ーイギリスでの大学生活はいかがでしたか。 海外に行くのはその時が初めてだったので何もかもが新しく感じました。ポジティブなこともネガティブなことも色々とありましたが、交換留学等といった形ではなく正規留学を選んでよかったなと思います。たまたま日本人が少ない環境だったので現地で会う人にとって自分が日本のイメージになるいうことと、退路を絶ってイギリスに行ったことで責任感が芽生えました。日本にいた時は周りに合わせて行動することが多かったのですが、イギリスに行ってからは周りを意識しつつも自分できちんと考えて行動する癖がつきました。 ー大学時代は勉強以外に何か取り組まれていたのですか。 イギリスの紅茶がおいしくて感動し、イギリスの紅茶を日本に輸出してネット販売を行っていました。留学1年目の終わり頃からまだまだ英語が拙いにも関わらず1人でお気に入りの紅茶屋さんに出向き英語で交渉して買い付けていましたね。 これが初めての起業経験となりました。約2年程続けましたが、紅茶の販売はお小遣い稼ぎ程度のビジネスだったので、きちんとビジネスとしてやるにはもっと資金を貯めて違うビジネスアイディアで勝負したいと思うようになりました。 ー卒業後の進路はその後どうされたのでしょうか。 資金集めのために手っ取り早くお金を稼げるのはどこかと考えた結果、投資銀行を就職先に選びました。そしてリクルーターと会う中で、人柄や温度感が自分にあっていたJPモルガン証券の投資銀行本部に入社しました。 ー入社してみていかがしたか。 噂に聞いていた通り激務でしたね(笑)2年間でクロスボーダーM&A、IPO、資金調達に関する業務を担当させていただき、社会人としての基本やビジネスの基本を学ぶことができたのでとても良い経験となりました。   起業、就職、転職を経験して辿り着いた今 ーそして退職後は予定通り起業されたんですか。 はい。イギリスから日本に帰国し、引越しした際におしゃれな家具をまとめて買える場所がなかった経験から家具・インテリアの送客メディアで起業しました。高い家具は実物を見ずにネットで買うには抵抗ある人が多いと考え、オンラインショッピングとは違う買い物の仕方を提案しようと思ったんです。おしゃれなインテリアをオンラインカタログで見てもらい、実際にお店で現物を見てもらい買っていただく仕組みを作りました。 しかし当時メディアを運営する中で、お洒落なインテリアを作られる職人さんを含め、業界全体としてあまりネットに対しての友好的ではなく感じられたこともあり、また自分の力不足も非常に感じ、この事業は成長させることができませんでした。 ーそこで再び就職という道を選ばれたんですか。 一度リセットして、事業会社で経験を積みたいと考えDeNAに入社しました。結果的にDeNAは1年程で退職し、当時友人が執行役員を務めていたITスタートアップであるジラフにCFOとして転職しました。当時は10人も社員がいない会社だったのですが、資金調達や上場も視野に入れた成長計画を担当させてもらいました。ジラフでは2年働かせていただき、取締役も務めさせていただきました。 投資銀行・メガベンチャー・スタートアップと異なる企業形態で様々な業界を見れたことはとても良い経験になりました。所属している人の考え方や人生において大事にしていることが違うことも知れてよかったです。 ーそして現在の株式会社キュライオを創業されたんですね。 はい。3度目の起業ということもあり、やるからには他の人がまだやっていない、チャレンジングなことをしたいと思っていたので挑戦してみてよかったと思っています。理系バックグランドはないので苦労することもありますが、知らないことを知れる面白さを噛み締めながら働いています。技術が日進月歩で進んでいる分野でもあるのでこれからどう会社として成長していくかも含めてとても楽しみです。 ー最後になりますが、中井さんの今後の展望やビジョンがあれば教えてください。 キュライオとしてはこれから事業を拡大していくフェーズに入ります。資金調達はもちろんのこと、製薬会社や大学との共同研究もどんどん進めていきたいと思っています。新しい価値を創出することで創薬に挑戦し、様々な疾患に苦しんでいる方に少しでも早く新たな医薬品を届けられることを目標にして頑張っていきます。。 と同時に、長い将来を考えた時にはまた新たなチャレンジを続けていると思っています。どんな仕事をしていても、何歳になっても、何かを理由に諦めることなく、どんどん新しい挑戦をしていくつもりです!   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:青木空美子(Twitter/note) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)

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