場所にとらわれない働き方を実験中! パラレルワーカー松岡 マイのこれまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第257回目となる今回のゲストは、フリーランスのパラレルワーカーの松岡マイさんです。高校時代から目指していた薬剤師になるも、ある出来事がきっかけで辞めざるを得なかった松岡さん。現在、薬剤師の資格を生かしながらWEBライターやWEBデザイン、講師としても活躍している松岡さんのこれまでの人生とこれから目指したいことをお聞きしました! 薬剤師は家族の影響で目指しはじめた ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 1991年生まれで愛知県出身の29歳です。 薬科大学にて6年間過ごし、正社員の薬剤師となりました。 しかし、体調を崩したことで派遣薬剤師に転向。沖縄で療養したのち、沖縄・北海道・静岡で働いていました。その後、元々旅好きだったこともあり、日本や海外問わず「どこにいても自分の力で働けるようになりたい」と思うようになりました。 WEBスキルを学び、医療・取材ライターやWEBデザイン、nocodeでのサイト制作や講師メンターなど、オンラインでの働きかたを確率し、ノマドワークをしています。 ーここから幼少期のお話を伺えればと思いますが、幼少期はどんな様子でしたか。 小さい時は活発でしたが、中学受験を経てからどんどん消極的で内向的になっていった気がします。 自分のやりたいことや意見があったとしても、それを伝えるのが上手くありませんでした。 私には姉と妹がいるのですが、真ん中のポジションは挟まれている感覚があり、空気を読まなければ…と感じながら過ごしていました。 ー薬剤師という仕事は幼い頃から興味があったのでしょうか。 職業の存在は知っていましたが、そこまで詳しくは知りませんでした。 また、理系科目が苦手だったので、心理学を学びたいという気持ちや、好きな絵を書いて過ごしたいという気持ちもありました。 高校2年生の時に両親が離婚をしたのですが、そのとき母が「女一人でも生きていける資格を持っておいたほうがいい」とアドバイスをしてくれました。姉が医学部に行くことになり、その影響から医療系がいいな、少しでも姉に近付きたいなという気持ちがありました。 当時は、医学部・看護学部・薬学部しか医療系の学部を知らなかったため、 結婚後に働きやすい働き方が出来たり、全国どこでも働ける薬剤師を目指そうと思いました。 ーその当時から目標としていた大学はあったのでしょうか。 一人暮らしをしたかったのと、 当時の自分が頑張ったら行ける大学を目指そうと思い志望校を決めました。 通っていた高校が文武両道を大切にしていたので、学問を頑張るのはもちろんですが、体育祭などの行事にも力を入れていました。体育祭にも力を入れつつ、web上の解説記事や姉の友人の力を借りて苦手科目の克服をし、6年分の志望校の赤本を理解して解けるまで10周するなど、繰り返して勉強を続けていました。 ー今振り返って、薬剤師という道を選んだことをどう思っていますか。 悔いはなく、母に感謝しています。 また、苦手な部分にも取り組んだことが自信になったので、選んで良かったと思っています。 6年間の勉強や国家試験でプレッシャーはたくさんありましたが、乗り越えた部分や国家資格を取れたこと、どれをみても自分の強みになりました。また、現在フリーランスとして色々なことに挑戦できるのも、資格があることで他人よりも仕事が取りやすくなっていると感じています。 旅をすることの楽しさに気づいたベトナム旅 ー大学時代、特に印象に残っている出来事はありますか。 大学3年生の時にボランティアサークルを立ち上げた友人に誘われ、ベトナムの孤児院に行きました。そこで、子どもたちに遊び感覚で化学の面白さを知ってもらいたいと思い、現地の食材を使って理科の実験をしたのですが、それがとても楽しかったんです。 大学時代は自分に自信がなく、頭の回転が速い周りの人たちを羨ましく思ったり、自分の意見なんてなくてもいいのでは、と思う場面もありましたが、海外のボランティアを楽しみながら孤児院の子どもたちと仲良くなったことで自信がつき、そこから海外旅行をして、現地の人と話すことが好きになりました。 ーベトナムの経験を生かして、行動に移したことはありますか。 ベトナムの孤児院に行った時に、すごく仲良しになった女の子がいたので、3年に1度ベトナムに行き、その子に会ったりしています。 あとは、大学5年生の時に病院実習と薬局実習がそれぞれ2ヶ月半あったのですが、その合間の1ヶ月半で研究室の先輩が留学していたことから、「私も留学に行ける!」と思い、英語の勉強をするためにイギリスのロンドンに単身で行きました。 元々好奇心は強い方だったので、「やってみたいことをしてみよう」「ワクワクすることがしたい!」と思い、安く語学学校へ行ける方法をネットで探しました。 ーロンドンへの単身留学が今に生きていると感じる部分はありますか。 はい、とても視野が広がったなと思います。 ロンドン留学した際は、様々な人種の方に囲まれていました。 メモを取り、誰よりも一生懸命学ぶロシア人のおばあちゃんや、なまりがあっても練習し続けるイタリア人の女性、簡単な内容でも分からないと思ったら積極的に質問するドイツの青年など、「日本だったら見ない光景」を目の当たりにしていました。 周りの目を気にしすぎず、目標に向かって努力するクラスメイトの姿にすごく刺激を受けたと思います。 世界の広さ・多様性から、「もし自分に合っていない環境にいたとしても、広い世界の中に過ごしやすい場所はいくらでもあるんだ」と感じました。 憧れの薬剤師になるも退職し、派遣薬剤師に転身 ーその後、就職のタイミングになると思いますが、薬剤師という夢は変わりませんでしたか。 「薬剤師の資格を取ったら薬剤師になる」というのが自分の中の基準だったので、臨床で働く薬剤師になるんだと思っていましたし、心理学や絵など小さかった頃やりたいと思っていたことは、薬剤師になってから自分でお金を稼いで楽しくやろうと思っていました。 しかし、初めての薬剤師国家試験は、あと2点足りず不合格になってしまいました。 周りから「頑張ってたし絶対大丈夫」と言われていたにも関わらず、プレッシャーや自信のなさから凡ミスを繰り返してしまいました。 2度目の国家試験は「どうせ凡ミスするなら凡ミスありきで受かろう」と思い、予備校の全国模試での1桁獲得や模範生に選ばれたことで、自信をつけて合格できました。 当時は合格できなかった不甲斐なさや母への申し訳なさで自分を1年間責め続けていたので、合格できたことが嬉しく、「学んだ知識を実戦で生かしたい、座学と現場の違いを学びたい。絶対臨床の薬剤師になりたい」と思っていました。 そして、内定をもらっていたドラッグストアの中にある調剤薬局の薬剤師となりました。 ー薬剤師になってから今のパラレルワーク的な働き方になるきっかけは、何でしたか。 耳鼻科の門前薬局へよくヘルプで入っていました。その頃は、業務や勉強会で疲れることも多く、免疫力が低下している時に、何らかのウイルスにかかってしまったんです。その結果、左側の顔面が全く動かなくなってしまいました。さらに、薬の副作用で味覚が消えたり、口の中の温度感覚がなくなってしまうなど色々な症状が出ました。 休職して休みたいと会社に話したものの、人手不足だから働けるなら働いてほしいと言われ、その状態で1ヶ月働き続けました。マスクやメガネをしながら働いていましたが、精神的にしんどく、患者さんと話しているときに泣いてしまう自分に気づいたときに、1回仕事を辞めて、派遣薬剤師になろうと思いました。 もともと、派遣薬剤師という働き方を知っていましたが、より知識を身につけてからでないといけない、正社員が1番の正解だ、と思っていたので正社員として3年勤めてから派遣薬剤師になろうかと考えていました。しかし、顔面麻痺をきっかけにして、週3~4日で自分のペースで働くことができる派遣薬剤師になることを決めました。 ー派遣薬剤師という新しい働き方に踏み出せたのは、どんな思いからでしたか。 今まで親の離婚や国家試験など、顔面麻痺よりも辛いことが多くあり、それを乗り越えてきたからいけるだろうという謎の自信がありました。 20代半ばくらいだったので、ずっと動かなければ精神面がやられたと思いますが、退職してすぐ沖縄に行き、1人で1ヶ月半のんびり過ごし、顔面麻痺の治りが早くなったので、そのまま沖縄で派遣薬剤師をしていました。 そうやって過ごす中で、どんどん生きやすい生き方になっていることに気付き、自分のやりたいことや直感をもっと大事にした方がいいなと思いました。 また、顔面麻痺にならなくても、私にとって正社員の薬剤師を続けることはしんどい選択だったのかな、とも思います。 元々私は理系の考え方が得意なわけではなかったので、苦手分野で何年も専門職にしている先輩方と一緒に頑張り続けることは、自分にとって大変な生き方でした。 シフトチェンジせざるを得ない環境になったことは、結局良いターニングポイントだったかなと思っています。 誰かの力になりたい ー現在やっているWEBライターは、派遣薬剤師として働き始めてから始めたのでしょうか。 20代女性で顔面麻痺の症状について書いている人がいなかったため、「自分でブログを書こう」と思いました。また、沖縄で派遣薬剤師として働いていた日常を書いていました。 すると、自分が書いた記事が読まれるようになり、ライターに興味を持ち始めました。 その後、Twitterで「沖縄での派遣薬剤師の体験談」を募集されている方を目にしたため、DMを送り体験談を書かせていただきました。 そして、もっと書けるようになりたいと思ったのが今の働き方につながる第一歩でした。 ーそこからWEBデザインはどのように習得されましたか。 一昨年の9月~10月に1ヶ月間合宿型でライティング・ブログ・WEB制作・WEBデザイン・写真の撮り方全般を学べる講座「いなフリ(田舎フリーランス養成講座)」に参加しました。 前から「いなフリ」の存在を知っていたものの、どこか自分ごとではなく「そんな生き方ができる人もいるんだ、いいな」という印象でした。 しかし、自分がTwitterをフォローしていた方々が講師で参加されることや、派遣薬剤師の契約がきれるタイミングが重なったこともあり、「今こそ行くタイミングだな」と思いました。 さらに、ライティングだけではなく、WEB全般のことを学べることが嬉しく、せっかく行くなら全部吸収したいと考え、参加してWEBスキル全般を教えてもらいました。 ーU-29世代(29歳以下の世代)で、医療関係に興味のある方や医療系の仕事に将来つきたいと考えている方にメッセージをお願いします。 資格は、自分を守ってくれる強みの一つになりうるので、 大変な時期もあると思いますが、自分の気持ちを大事にしながら諦めずに頑張って欲しいです。 私は国家試験に一度失敗しましたが、国家試験に失敗しても死ぬわけではありません。 失敗したときやうまくいかない時は、マイナスな感情で頭がいっぱいになったり、色々なプレッシャーに押し潰されそうになってしまう時もあるかもしれませんが、生きていれば大丈夫です。 遠回りしたとしても、遠回りしたからこそ見える景色があると思います。 どんな状況でも、そこから目線を変えることで学べることが出てくるはず。 「どんな薬剤師になりたいか?」 「自分はどんな風に生きていきたいのか?」考えながら、ひとつひとつ乗り越えていってください! ー今後やってみたいことや挑戦したいことを教えてください。 私が最初に「ライターになりたい」と思った時、どのように書けば良いのか・どこで学べば良いかなど、わからないことが沢山ありました。 なので、最近はその経験を踏まえて、医療ライターを育成するオンライン講座「医療ライターのはじめかた」を開催しています。 特に今は、医療従事者の方にとってオフラインで学ぶこと・行動することが難しい時代です。そんな中「自分の人生を見つめ直して働き方を考え直したい。一歩踏み出してみたい」と思う方々に、今度は自分が何か力になれることができたら良いなと思っています。 また、「自分の本を出したい」というのも一つの夢です。 今まで国内や海外、色んな場所に行ってきたので、その写真と合わせて文章を書けたらいいなと思っています。 取材者:あおき くみこ(Twitter/note) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

地元にパフォーマンスで恩返ししたい。高野璃奈のコウノキカクが始動するまで。

「いつかは埼玉県東秩父村に拠点を作りたい」と地元への愛を語ってくださった「コウノキカク」代表の高野璃奈さん。 日本大学藝術学部演劇学科を卒業後、女優・ヨガインストラクターなどとして幅広く活躍。現在は『カラダを動かすことでココロを動かし自身を表現する』というコンセプトのもと立ち上げたコウノキカクでイベントの企画・開催を行われています。 今回は身体で表現するを仕事にされている高野さんに芸術学校ならではのエピソードやコウノキカクへの意気込み、そして目標達成のためにやっていることをお伺いしました。 ダンスを始めたのは実は中学生 ーまずは簡単な略歴を教えていただけますか? 埼玉県東秩父村出身で日本大学藝術学部演劇学科を卒業しました。卒業後は女優を軸にモデルやダンサー、MC、フィットネスインストラクターをしています。 ー何がきっかけで芸術や演劇に興味を持つようになったんですか? 家族で見に行った劇団四季のファミリーミュージカルがきっかけでダンスとお芝居をしたいと思うようになりました。高校もダンスやお芝居の勉強をするために公立の芸術総合高校の舞台芸術科を受験しました。 ーということは小さい頃からダンスをされていたんですか? いえ、実はダンスをはじめたのは中学生です。中学の時にクラシックバレエを習いはじめたんですが、クラシックバレエは3歳とか小学生からはじめている人が圧倒的に多くて。私はスタートとしては遅かったと思います。でも、バレエを習い始めて音楽にあわせて体を動かすのが楽しいなと思いました。 ー芸術高校に進学されたということですが、やはり普通の高校受験とは違うんですか? 私が受験した時は、作文・身体表現の1分間(ダンス)・台本の音読・面接という内容でした。それに加えて中学の成績ですね。母が新体操の先生をしていたので、母と一緒に振り付けを考えて練習し受験に臨みました。 ー芸術高校はどのような高校でしたか? 公立なので普通の高校と同じように国語・数学などとありますが、芸術高校らしい所といえば演劇の授業がたくさんあること。日本舞踊やフラメンコ、民族舞踊などの授業が受けれたりしました。 ー部活動などもされていたんですか? 部活はダンス部に入っていました。モダンバレエやヒップポップ、ジャズ等いろんなダンスをやってきた人たちと一緒にやる創作ダンスでした。基礎から学ぶダンス部というよりは既にダンスをやったことのある人たちが揃っていたので毎年、全国大会を目指していました。実際私も全国大会に出場させてもらいました。 ー部活以外で何か思い出に残っているエピソードはありますか? 修学旅行はとても記憶に残っています。京都に行って授業で学んだ日本舞踊を皆で舞妓さんの格好をしてパフォーマンスしました。 ーとても芸術高校らしい修学旅行ですね。高校生の頃には将来芸術系の仕事に就きたいと考えていたんですか? 将来何がしたいか高校生の段階では正直分かっていなかったです。とにかくダンスが好きでお芝居をもっとやってみたいという気持ちはありました。でもどういう仕事につけばいいかわからなくて、自分に何ができるかわからなかったから、それを探すために芸術系の大学に進むことを決めました。 ミスコンに出て、地元に恩返ししたいと思った ー日本大学藝術学部といえば演劇界のエリートコースかと思いますが、受験は大変でしたか? 受験は大変というより楽しかったです。試験内容としては朗読・即興ダンス・歌唱審査・面接でしたが、緊張したものの楽しんで受けれました。 ー芸術系に進むことに対して親御さんの反応はどうでしたか? 昔から好きなことをやりなさいと言ってくれる両親だったので大学合格には喜んでくれました。もちろん、これからどうするんだろう、何になるんだろうとは思ってたと思います(笑) ーそうですよね。大学は入学してみてどうですか? 芸術高校を卒業していたので、できる子というイメージがつきやすかったのがプレッシャーでした。実際はお芝居よりもダンスがメインの高校生活だったので、お芝居の勉強をもっとしたくて演劇コースを選んだのに。 最初の2年間で実際演劇の基礎をしっかり学べたのでよかったです。もっと演劇をやりたいなと思えるようになりました。逆に最後の2年間はせっかっく大学にいるので、他の学科の授業を受けてみようと思い美術史や日本文芸誌など違う学科の授業をとって幅広く学べました。 ー大学でもダンス部に所属されていたんですか? 大学では部活やサークルには所属していませんでした。高校生の最後の方に埼玉から東京に引っ越した際にはじめたダンススクールの事務所に登録していたので事務所経由でバックダンサーや雑誌のモデルのお仕事などをしていました。 その他には4年生の時にミスコンに参加しました。埼玉の地方大会に参加したのですが、地元の地域の方がすごい応援してくださりました。地元にパフォーマンスで恩返ししたいという思いはその時以来ずっとあります。 またミスコンには軸をしっかり持った人が集まるので自分をとても高めてくれ、ミスコンで培った経験も仕事に生かしたいという思いが生まれました。 ー卒業後の進路として就職という選択肢はなかったんですか? 就職活動というものにチャレンジしてみたくて、テレビ局を受けたりはしていました。周りの友達も就活をしている子は映像系などの芸術関係の企業が多かったです。でもどこかの会社に入るというイメージがわきませんでした。 その後大学を卒業した際にたまたま、フィットネスインストラクターをやってみてないかと声をかけていただき大好きなダンスを人に教えるという経験をしてみたいと思いチャレンジすることにしました。 自分を表現するためのダンスvs健康のためのダンス ーインストラクターの仕事はどうでしたか? ダンススクールとフィットネスクラブのダンスクラスって全然ちがうんですよね。フィットネスクラブのダンスプログラムは健康目的で来ている人が多く年齢層も高めです。ダンススクールと教える時のアプローチが全然違うのでとても勉強になりました。 私にとってダンスは自分を表現するものであるのに対してダンスが健康になるため・汗をかくためのものというお客様とのギャップがあったのは事実で、それを埋めるのには苦労しました。なので自分のやりたいことと、相手が求めていることの差を埋めつつ、身体を動かしながら楽しんでもらえるエンターテイメント性のあるレッスンというのを目標にやっていました。 ーインストラクターの仕事はそれ以来ずっとやられているんですか? 気づいたら4年やっていますね(笑)ただ。初めはアルバイトでしたが今はフリーです。また今はダンスではなく、ヨガをメインとしたインストラクターをしています。いろんなレッスンを経験させてもらいましたが、その経験を元に自分のオリジナルのプログラムを作りたいと思いフリーになりました。 その中でもヨガは今一番需要があるというのもそうですが、私自身が大事にしている「呼吸」を大事にしているレッスンなのでヨガのインストラクターは続けています。ヨガのレッスンを通して今どんなプログラムに需要があるのかもリサーチしています。 コウノキカク始動、目標は1レッスン100人。 ー現在活動されている「コウノキカク」について教えていただけますか? コウノキカクでは、『カラダを動かすことでココロを動かし自身を表現する』というコンセプトをもとに埼玉、東京を中心に企画、イベントの開催を行なっています。2年前くらいからshow roomで自分のやりたいプログラムを配信しだしたのでがきっかけです。去年から月1回「りらくてぃぶ」という名前で開催しています。直近の目標としては1レッスン100人集めることです。 ー「りらくてぃぶ」では実際どのようなことを行っているんですか? 最後にヨガの要素が入っているんですが、それ以外は全力で自分の身体に向き合ってもらう自重トレーニングです。自分の身体・体重で自分でコントールして最後までやりきる70分のレッスンになっています。 ー現在はコロナの影響でオンライン開催ですか? はい。今はズームでやっています。せっかくオンラインでやっているので30分のショートレッスン×2に変更し、誰でも気軽に参加していただけるようにしました。オンラインだと雰囲気が掴みづらく試行錯誤していますが、これをきっかけにたくさんの方に知ってもらい楽しんでもらえたらなと思っています。 今はまだ最大20人規模程度で100人は遠い道のりですが、行く意味・参加する意味が見出される魅力があれば人がついてくると思うので、目標達成に向けて頑張っています! 今は面識がなくてもアプローチすれば会える時代 ーここまでのお話を聞いているととても順風満帆なイメージがありますが、挫折経験などはありましたか? 卒業して少ししてから全国公演の大きな舞台があったんですが稽古中に足を怪我して出れなくなりました。あの時はとても悔しかったです。どんなにやりたくても自分が健康じゃないと何もできないんだなと実感しました。それ以来自分の身体と心のメンテナンスは常に意識しています。今は特に外出自粛ムードで心の状態が不安定になりやすい時期なのでしっかりメンテナンスしたいと思っています。 ー具体的にどのように心のメンテナンスをするのがいいでしょうか? 1つはやっぱり楽しいことを考えたり気分転換になることをすること。私は自粛が終わったら女性向けに家でヨガやパーソナルトレーニングをしたいなとおもっているのでその準備も兼ねて家のレイアウトを変えたりしています。 また、「私の今の状態どう?」と周りの人に確認するのもいいと思います。身体のケアは1人でもできるかもしれませんが、心のメンテは1人だと難しいと思うので。 ーその他、この期間を利用してやっていることはありますか? これを機会に簿記の勉強をはじめたました。尊敬する方に、簿記の勉強をしといたら間違いないよって言われたので(笑)もともと数字は弱かったんですが、経営とかには数字が必要と感じたのもあります。 また、自分がこれから何をしたいのかを考える時間をたくさん持つようになりました。変化し続ける社会に自分がやりたいことと、皆さんが求めているところがどこでマッチするのかなと。周りの人にアドバイスをもらいながらこれからのことを考えています。 ーこれから何をしたいか既に考えていることはありますか? やっぱり「身体動かす=生きている・自分を表現する」というのを感じてもらえる拠点を作りたいです。ダンスなどだけではなく演劇の講師やミスコンの経験などを生かして歩き方や姿勢に繋がるレッスンなどもやりたいです。 都内だけではなく埼玉に拠点を持ち、自然が豊かな東秩父では合宿形式のものをしたいとも考えています。自然に囲まれたところで自分にとって必要なものを感じ取ってもらい、自分の内部から生まれるものを大切にしてほしいなと。 ー素敵ですね。その実現のために何か大切にしていることはありますか? 自分1人の時間を確保することと、迷った時は人に会ってアドバイスをもらうこととです。 1人になって何をやったらいいんだろうというのは常に考えています。また、1人になった時ほど気づきって多いと思うんです。例えば1人でいて、何をやるかを選択するかに何か自分の本当に好きなことや大切にしたいことが隠れていたりします。 その上で、話したい人・アドバイスをもらいたい人に自分からアプローチしてアドバイスをもらいます。尊敬している人とか、なかなか会えなさそうな人にもどうやったら会えるか考えて積極的にアプローチすることが大事だと思います。自分がどうなりたいかというのをしっかり言語化して伝えた上で、相談にのってほしいことを伝えてみてください。 ー実際にアプローチして会った方はいますか? 株式会社ミライロの垣内さんです。私に簿記の勉強を進めてくれたのも実は垣内さんです(笑)ずっとお会いしたくて、Facebookで探して面識もないのにメッセージを送った結果お会いすることができました。 ーすごいですね。SNSがあるからこそ、ですね。 会いたい人に会えるチャンスはたくさんあります。今は自分から発信して培っていく時代だと思うので、ぜひ自ら考えて、自分が実現したいことに向けて積極的に動いてみてください。 私もこれからまだまだ頑張ります! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる <取材:西村創一朗、執筆:松本佳恋、デザイン:矢野拓実>

Withコロナ時代の波に乗れ!ヤングカンヌ2020国内シルバー・高橋健太が語るリモート×クリエイティブなワークスタイル

東京発のグローバルクリエーティブエージェンシー・株式会社monopo。国内外の様々なブランドにサービスを展開し、ロンドンにも子会社「monopo London.Ltd」を設立するなど、世界中の優秀なクリエイターが集うコミュニティ作りを続けています。 ▶︎monopoホームページ 今回はそのmonopoで活躍しているメンバーの中で、2020年「ヤングライオンズコンペティション(通称:ヤングカンヌ)」メディア部門で国内シルバーを受賞するほど大活躍のプロデューサー・高橋健太(タカハシケンタ)さんをピックアップ! 高橋さんは、monopoに入社した4年前からリモートワークを実践している”リモートネイティブ”。今回のコンペでも、日本と海外をつないでプロジェクトを遂行していたとか。 現在、新型コロナウイルスの影響でリモートワークが増えているものの、まだまだテレワークやリモートワークに慣れない企業も多い中、いったいどのような工夫をしているのか?そのワークスタイルやキャリアに迫ります。 早稲田大学在学中に宿泊サービスを創業!その後、クリエイティブな仕事に出会うまで ー大活躍中の高橋さん、monopoとの出会いはどんなエピソードがあったのしょうか? 僕がmonopoに入社したのは2017年。でもその3年前くらいから代表の佐々木さんと、monopoの存在は知っていました! 少し過去の話になりますが、僕は早稲田大学に通っていました。でも当時は全然大学に行ってなかったんです。就職するイメージはなく、なんとなく自分でビジネスをやろうと思っていました。 漠然と、飲食業界でビジネスをやろうと思い、Barを立ち上げようかなと考えていた際に、リサーチを兼ねてフラっと行ったBarで、すでに事業を立ち上げたmonopo代表・佐々木さんと出会いました。 ビジネスを立ち上げたい、と起業家であり早稲田大学の先輩であった佐々木さんに相談したところ、“詰めの甘さ”を指摘され、「基本からやり直してこい」ということで、出会った翌日に大学近辺で購入したお弁当に利益を乗せて校内で売り歩いたんです。 「その差額がビジネスで生む価値だから、何でもいいから売ってみろ」と。当事のかろうじて生める価値はトークのみでしたが・・・(笑)それがある意味monopoとの最初の出会いでしたね。 ちなみにそのBarは学生と学生、学生と起業家をつなげるような有名なドレッドヘアのバーテンダーがいるところで、代表とはその縁で出会いました。ちなみに、紆余曲折があってそのお店にいた彼も現在monopoで働いています(笑) そこから2〜3年ほどmonopoに入るまで期間があくのですが、その間に僕も自分で会社を立ち上げたこともありました。 ー大学生で創業したんですね!どのような事業内容だったのでしょう? その時はWEBサービスの会社です。大学2・3年の時かな。若者・学生向けの起業支援プログラムのようなものに友人と挑戦したところ、見事合格して出資を受けて共同創業者として宿泊ビジネスをはじめました。 僕らが会社を立ち上げた2014年頃は、ちょうど日本にシェアリングエコノミーが流行りだした頃でした。「Airbnb」や「Uber」が急激に伸びており、まだ日本に来るには参入障壁があった。そこで建築に詳しいメンバーと共にシェアリングエコノミーに目をつけ、就活生向けの宿泊施設の運営を実施していました! 就活生が行きたい企業のリクルーターの家に泊まったり、都内に出てきた地方の方向けのコミュニティ施設のようなものを運営したり。今はもう無いですが、当時は3人でやっていて、僕はマーケティングから営業まで何でも屋として働いていました。 ーその経験から、何故クリエイティブの仕事にシフトチェンジを? その宿泊ビジネスをやっていて将来性を感じていたものの、僕は共同創業メンバーの1人でしかないし、人生をかけてやるのもちょっと違うのかな…と思いはじめたんです。結局その会社を辞め、休学していた早稲田大学に復学しました。 そこから1年くらい自分にしかできないことを模索していた時期にクリエイティブな仕事のおもしろさに出会ったキッカケは早稲田大学の講座でした。 早稲田のOBで起業家として活躍する方々が毎回講演に来るおもしろい内容なのですが、そこで偶然講師をしていたライゾマティクス 代表取締役社長の齋藤精一さんに出会ったんです。 齋藤さんからクリエイティブな仕事を学んだ際に、「これだ!」と感じました。 その講座のあとには毎回講師との飲み会も開催されるんですよ。毎回直帰していたけどその回だけは参加して。斎藤さんの目の前に座って、最後は「働かせて下さい!」と言っていましたね(笑) それほど何かビビッと来ちゃいました。 その出来事からクリエイティブな仕事をやりたいと考えるようになり、「そういえば佐々木さんがやっているmonopoっていう会社があったよな…」と調べて、オフィスまで会いに行きました。そしてmonopoのオープンな雰囲気とカルチャーに惹かれ、2016年くらいからインターンとしてジョインしました! ー最初はインターンだったのですね! そうなんです。そのまま3ヶ月後に入社し、それから3年半が経ちました。 エンジニアとして入社したのですが、そもそもそんなスキルも経験もなかったので、働きながらスキルを磨いていこうと思い、叩き上げていきました。 ー現在の仕事はどのような内容ですか? 入社後は開発だけをする人よりも、プロジェクトを仕切るディレクターのようなポジションにフィットしているとのことで、エンジニアからディレクターになり、そこから今のプロデューサーにまで発展しました。 現在はエンジニアリングと並行して、プロデューサーとして色々なプロジェクトを統括し、テクニカルディレクターとしてmonopoで働いています!   日本と海外をつないだリモートワークで臨んだヤングカンヌで、メディア部門で国内シルバーに輝く! ー2020年、なんとヤングカンヌの国内シルバーを受賞してましたね!すごいです! そうなんです!!!一緒に戦ってくれたmonopoの見目拓也と勝ち取りました! ーヤングカンヌとは、どんな大会なんですか? 広告業界のジュニアオリンピック、もっとわかりやすく言うと30歳以下が対象の、広告業界のM-1グランプリみたいなやつですね。 ヤングライオンズコンペティション(通称:ヤングカンヌ)は、全6部門でそれぞれお題に対して何かの課題解決をするコンペ形式になっています。僕はメディア部門で出場しました。 2020年のテーマは、”Create a media campaign to raise awareness of “Unstereotype” and organisation for CxOs in companies in Japan.”でした。日本における「Unstereotype」の認知を目指したメディアキャンペーンの作成ですね。 僕らの企画はまず、毎日流れてくるSNSやメディアを見て記事の内容は覚えているけど、”誰が”書いたかまでは覚えてないよね…という部分に目を付けたんです。 その記事を書いた人がどんな人なのか、性別も知らないしエビデンスも知らない。でも信じてしまっている。それが図らずして偏見やステレオタイプを生んでいるのでは…ということですね。 そこで、その記事を書いた人が男性なのか女性なのか、分かるようにするのです。具体的には、1つの記事にURLを2つ作り、MEN/WOMENと男女それぞれの観点で読める仕組みにしました。そうしてメディアが作り上げてしまうステレオタイプを、男女それぞれの観点でみることで、自分なりの解釈をしようと投げかけたんです。 その企画で、ヤングカンヌ2位であるシルバーを獲得しました。そしてシンガポールにて開催される予定だったアジア地域最大級の広告コミュニケーションフェスティバル「スパイクスアジア」の日本代表に選出されました!2020年大会は新型コロナウイルスの影響で中止になってしまいましたが、2021年大会の代表権繰り越しとなっています。 ー今回のコンペで、大変だったことは? 日本とロンドンでの2拠点でやり取りをしていたことですね。コンペは1週間ペアで取り組むのですが、見目は日本で僕はロンドンでそれぞれプロジェクトがあり、大会直前までリモートで国境と時差を乗り越えるカタチで完成まで持っていきました。 でも実際に会わないと不安だったので、大会の本番直前の日曜日にロンドンから帰国して、成田空港からオフィスに直行して打ち合わせしましたね。それが大変だったけどその分感慨深かったです。   リモートワークが当たり前の世界で、プロデューサーとして工夫していることは? ー基本はオンラインでのやり取りだと思います。リモートで信頼関係を築くコツは? チャットでのコミュニケーションは長文ではなく、短文で複数回がポイントですね。会話のようなキャッチボールをチャットでやっていくイメージです。だんだんやり取りが増えると、相手がどんな考え方をする人なのか掴めてくるので。 とはいえ「はじめまして」から関係を作るのはめちゃくちゃ難しいですよね。僕の場合は、チャットの回数を増やしたり、最初はオンラインでも顔を見て話すようにしています。 あと軽くオンライン飲み会をするなどもオススメですね。関係者を全員つなげて軽く飲む、というのはオンラインの方がやりやすいと感じるときもありますね。 プロデューサーの仕事は基本チームで仕事をするので、関わっているメンバーの情報が多いほうが思考の特徴も把握しやすい。そのため、リモートでやり取りをする時でも意識的に雑談タイムを作っています。 ーテキストのみのコミュニケーションで工夫していることは? ”上機嫌チャット”ですね。例えば「!」をあえて文末に付けるとか。詳細は恥ずかしいのでヒミツです(笑) コミュニケーションは、チャットでもオフラインでもすごい大事なのはいつも上機嫌でいること。言語化するのは難しいですけど…怒らない・ポジティブなコミュニケーションを常に意識しています。 あとはスタンプやイイネなど、意識して使っています。自分に関係するチャットが来たときは、必ず「読んでいるよ」という意味で必ずスタンプを押しています。返信をすぐ返せないときもこれは効果的だと思います。 ーオンラインMTGなどで工夫していることはありますか? 無駄なMTGも数多い中で意識しているのは、時間内に何を決めるのか・何をゴールにするのかわかった上で全員集まるということですね。MTG後にちゃんと着地点に到達するために、MTGをしています。時間もきっちり意識します。 クライアントとのMTGでは、トークルームに参加者が集まる際に軽くアイスブレイクや雑談をちょいちょい挟んでます。 トークルームに待合室がある場合は、参加者の集まり具合が分かるように覗いてみたりとか。本題に入る前に場をあたためるみたいな感じです。これはオンラインならではですよね。 ー自宅でも生産性を上げるコツを知りたいです! 家で仕事できる環境を作っています。家にはオフィスと全く同じイスとディスプレイを揃え、位置も再現しています。 最初はリモートだとずっと仕事できちゃうので疲れも溜まりやすかったです。そこで、生活リズムを朝型に変えました。これまでmonopoの始業時間の12時に仕事を開始して、夜遅くまで仕事をしていたのですが、午前中を自由時間にしようと実験したんです。 行き着いたのは、毎朝4時半に起きて21時に就寝する生活です!外食や飲み会もなくなり、朝を自由時間にしたら生活のサイクルが良くなったので続けています。 4時半〜12時の午前中は筋トレ・映画鑑賞・ギターの練習など…自由に贅沢に使っています。 ーすごい、オリジナルなワークスタイル!前と比べて変化はありましたか? 規則正しい生活をしているので、体調が良くなりました! monopoでは海外と仕事することも多いので時差を考慮して事前準備をして仕事に臨むのですが、始業前に自由時間を設けて仕事の準備をするのもそういった感覚に似ています。 日本にいながら“ひとり時差生活”をしていますね!朝を有効活用すると、仕事もすごく効率が良いです。   ーWith/Afterコロナ時代にぴったりな新サービスをリリースされましたね!実際にどういったサービスなんですか? 「Remote Natives」は、プレゼンから納品までの広告クリエティブ制作を100%リモートで行えるソリューションサービスです。 「STUDIO DISTANCE」は、monopoと東北新社が業務提携し、フルリモート映像専門チームを立ち上げ、リモートで映像制作ができるサービスです。 どちらのサービスも、これまで日本とロンドンを起点として世界中のクリエイター・企業とやり取りしてきたナレッジのある僕らだからこそ打ち出せたサービスだと思っています! ーフルリモートでクリエイティブ制作や撮影は可能でしょうか? 難しいと思います。でも、できると確信しています! 僕の担当プロジェクトはデジタルで行うものが多いので、基本的に全てオンラインで企画・進行・実施をしています。ただ撮影が必須なものや映像系などはどうしても集まってやらないといけないので、それはオンラインは物理的に難しいですよね。 今回のサービスはまさにそういった撮影のDX化…いわゆるデジタル化を目指した取り組みです。 例えば、映像を作成するのに、監督・演者・カメラマン・技師・音声…本当に色々な方が関わって作っていきますよね。それなのに、クライアントと関わるのは監督とかプロデューサーの人しかいなかった。 今回のサービスのようにオンラインで全員がつながれば、これまでのトップダウンだったものがフラットになり、現場のことをわかっているカメラマンや演者とも直接アイディアのやり取りができるんです。これはすごく画期的だと思います。 それに、全部リモートで作成できる映像はかなりおもしろいと思います!リモート化が進むと国や場所に関係なく仕事をするハードルが下がっていくと考えているので、もっとグローバルな仕事が増えていくと良いなと思っています。 ー今後のクリエイターの仕事はどうなっていくと考えますか? クリエイターとは、ものを創る人。今、このリモート化の波が来ているのは逆にチャンスではないでしょうか。クリエイターが自分で作って発信すれば、見てくれる人も増えます。何かを自分で作れる人はこれからますます強くなっていくと思います。 monopoでも毎週社内でやっているMTG後に、イラストレーターの子がMTGの様子をイラストにして発信してくれるんです。それがめちゃくちゃ良いんですよ。そういったアウトプットが今後増えていくとおもしろそうですよね! 今後リモートだからこそ新しいニーズが生まれるだろうし、オンラインでどこでも誰とでもつながれるので良い意味でオープンに、クリエイターが仕事を依頼したり受け入れたりする流れが活発になっていくと良いなと思っています。 ー最後にメッセージをお願いします! 今回、僕らの働き方をリモートネイティブとして取り上げてもらったのですが、こういった働き方が日本でもより広がっていくことを願っています。 僕はエンジニア・ディベロッパー・日本人…ってこのクリエイティブの業界で、まだ立場が弱いと思っていて、それを最大化したいです。
 また、デジタルやシステムがわかるアイディアマンや、クリエイティブはまだ珍しい存在です。アートディレクターはいるけどテクニカルディレクターはそんなにいない。ヤングカンヌでも、毎年勝ってる人たちはアートディレクターやプランナーがほとんどで、エンジニアがほとんどいないんですよ。優秀なエンジニアはこの業界を離れて、大手のテック企業やスタートアップに行っちゃいますし。 これからの時代、デジタルやテクノロジーがますます加速すると、課題を解決するクリエイティブ、アイデアも、テクノロジーとは切っても切り離せない関係になってくると思うんです。そこを僕がリードできるようになりたいですね。 テクノロジーをわかる人がアイディアも考えるっていうのは珍しいし、僕のユニークなところだと思っています。僕自身も引き続き、グローバルにクリエイティブでおもしろい世界を創っていきたいです。 ー非常にクリエイティブでおもしろいお話でした!ありがとうございました! 【過去のmonopoインタビューはこちら】 クリエイティブの総合商社を目指す『monopo』CEO・佐々木芳幸の今を作った人生のターニングポイント 「monopoに出会ったから日本にいる」ー 若きクリエイターが語るmonopoというコミュニティと夢 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 写真:高橋さん提供 デザイン:五十嵐有沙 文:Moe

22歳の世界平和活動家・金田菜々恵「世界平和は、ひとりひとりの心の中に」

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、世界平和活動家・金田菜々恵(かねだ ななえ)さんです。 金田さんは「天才バンク」という約1,200人が参加するオンラインコミュニティの運営メンバーとしても活躍しながら、『世界の平和は、1人1人の心の内側にある』をモットーに世界平和活動家として発信をし続けています。 世界発信向けのTwitterでは世界の52カ国以上、2,500以上のフォロワーと繋がっているんだとか!様々な活動をしている金田さんのこれまでの人生と今後の夢について語っていただきました。 19歳で函館に単身移住!「人生の岐路に立っている感覚がした。」 ー現在に至るまでを伺いたいのですが、どのような幼少期を過ごしてきましたか? 私は3人兄弟の真ん中として生まれ育ちました。上と下が男兄弟だったこともあり、外で遊び回ったり一緒にサッカーをしたりして過ごしていました。兄に食らいついていくガッツがあり、負けず嫌いで活発な女の子だったと思います。 その影響で、学校などでも男友達のほうが遊ぶことが多く、グラウンドでサッカーなどをして遊んでいました。好奇心旺盛なのは昔からですね。 私の祖母がテニスプレイヤーで、その影響でテニスをやっていました。中高ではテニス部でしたね。祖母は、日本代表のシニア選手として80歳になった今でも現役で活躍しています! ーおばあさん、すごい…!中高時代は部活熱心な子だったのでしょうか? 勉強の面でも上位をキープできるよう努力するタイプだったと思います。特に英語は頑張っていました。私の母は英語の先生をしており、私も英語が好きだったので、中高時代の英語のテストや予習復習も熱心に取り組んでいたのを覚えています。 友人の誘いで出場した英語のスピーチコンテストでは中学全体のうち2位に入賞したこともあります!誘ってくれた友人は結局落選してしまい出場できなかったのですが、ネイティブの先生の指導を受け、練習して発音がどんどん上達していくのを感じ、自分の成長を実感できたことが特に楽しかったのを覚えています。 ー素晴らしい経験ですね!その後、大学進学時には大きな転機があったとか…? 19歳の頃、大学受験を浪人生として控えていた夏休み中に弟から「函館に夏期講習を受けにいかない?」と誘われました。函館には父の高校時代の恩師がおり、77歳という高齢ではあるものの小さな塾を経営していたんです。 ちょうど勉強も少し行き詰まっていたタイミングで、ふと何かを変えたい…と思っていたタイミングだったように思います。弟に誘われて1度は断ったものの、行ってみよう!と感覚的に決めて出発しました。 結果、1週間の函館滞在後に東京の予備校を辞め、函館に移り住んで一人暮らしをスタートしながら通い続けることにしました!それほど影響を受けたのが函館の先生でした。 ーその決断をした決め手はどんな出来事だったのでしょうか? これまで学校や予備校ではあまり聞く機会がなかった、大人の方の話を聞けたことが面白かったからです!点数やマルバツのつく評価が自分の能力ではなく、自分自身の本来の能力の見つけ方を教えてくれた“メンター”のような存在でした。それが自分にとってはじめての経験・出会いでした。 その頃の私は、いつか人の役に立ちたい・人の幸せに貢献したい…という思いを持っていました。でも漠然としており、その手段などは見つかっていませんでした。 中高までは、友人と遊んでいるときやテニスをやっているときに能力の伸ばし方なんてそもそも考えていませんでしたし、自分を俯瞰して捉えることもなかったので、「どうしたら、私の能力はもっと伸びていくのか?」と考えるのは新鮮でした。 人の役に立てる人間になるため、まずは実力をつけよう、成長しよう、とはじめて自分の思いや成長することに向き合えた瞬間でした。人生経験を踏まえて様々なことを教えてくれた先生との出会いが、自分が成長する大きなキッカケになりました。 ー19歳で函館に行くことを決断したとき、周囲はどんな反応でしたか? これまでの私の人生において、函館に行くという決断は私が自分だけで決めた最初の大きな決断でした。ただその時、言葉では言い表せない“人生の岐路に立っている感覚”があったのを覚えています。ここで決めないと、選ばないと後悔するくらいなら挑戦してみたい!と思えたんですね。 この決断に、家族も友人も非常に驚いたと思います。父は自分の恩師の元に行く娘の背中を押してくれていましたけれど、母は不安そうでしたし、私が上手に思いを伝えられていない部分もあって反対されることもありました。それでも最終的には、背中を押して応援してくれました。   函館からアメリカへ留学。より厳しい環境を求めて行った先には… ー函館から日本ではなくアメリカの大学へ進学した経緯は? 函館の先生の元で勉強と人生観について学びながら、より多くの人の幸福に貢献できるよう、もっと実力をつけたい…という漠然とした目標はあったものの、明確な手段がまだわかっていませんでした。 そんなとき、先生から「海外という選択肢もあるよ」と言われたことが引っかかったんです。日本の大学よりも単位を取るために厳しいというイメージでしたので、自分自身が鍛えられるような厳しい環境が待ってるかもと感じました。 学問のみではなく、“実践的な学び”がしてみたい!という知的好奇心から、アメリカ・カリフォルニア州へ留学を決意しました。 ー実践的な学びを求めて渡米!アメリカでの生活はいかがでしたか? 日本語は通じないですし、異国の地なので厳しい環境ではあったかなと思います。 ただ、実践的な学びを体験したいという漠然とした期待を抱いてアメリカの大学に進学したものの、その期待を超えるようなものは無かったんです。 結局、成績を取るための学習がメインになってしまい、ふと振り返ると「これって自分がつけたかった能力じゃないよね?」という“これじゃない感”を感じてしまいました。 もっと他の人の役に立つ人間になるために実力をつける手段を見つけに来たのに、あまり自分が鍛えられている実感がせず、これでは違うと気づいてしまったので、渡米してちょうど1年経ったタイミングで日本に戻ろうと決意しました。 ーまた大きな決断ですね!戻ることに迷いはなかったですか? なぜその選択肢をするんだっけ…?という考えの揺れはありました。 ただ最終的に決断への迷いはなかったですね。自分の直感を信じて、“人生の岐路に立たされている感覚”を頼りに決断しました。 また、日本に帰ろうと思えたキッカケとなった「天才バンク」に出会ったのがアメリカで過ごして半年ほど経ったタイミングでした。 ー「天才バンク」とはどんな存在なのでしょう? 「天才バンク」は、”世の中をアップグレードする天才のプラットホーム”です。 私たちの団体は「天才=天から授かった才能」と再定義し、誰もが天才を持つとして活動しています。交流や遊びを通じ、1人1人のメンバーが持つ天才をシェアしていきながら、楽しく自分自身の天才を自覚していきます。 日本では自己肯定感が低い人がよく問題視されることがあると感じます。それはおそらく、何か1つの指標で人を比べてしまい、できない自分の価値を感じられずに悩むことで、自己肯定感が低くなってしまうのでしょう。 ですが、人は持っている才能や得意分野は1人1人違うはずです。それぞれが本来の能力に気づき、その能力を発揮できる場所で自分の価値を感じ、お互いが尊重できる場が大切です。 各自の天才を活かし、世の中を様々な分野からのアプローチでアップグレードしていく活動をしています。現在は10〜80代まで、本当に色々な価値観と天才にあふれる多様性のあるコミュニティになっています!   天才を認め自分の価値に気づけば、自己肯定感は自然と上がっていく! ー金田さんは「天才バンク」にどのように関わっていったのでしょう? アメリカ留学中にたまたまTwitterで存在を知り、「天才バンク寺子屋」という無料オンライン教育コミュニティで、無料でオンライン授業を受講してみることにしたんです。 その後も色々なイベントやコンテンツに触れ、天才バンクの方々とのコミュニケーションを通じて、次第に求めていたのはコレかも!?と感じていきました。 天才バンクの方々を通じて、自分の能力の伸ばし方の実践的な学びがあるとも感じました。 ちなみに、80代のメンバーは私の祖母なんです!私の活動に影響を受け「天才バンク」に入っています。コミュニティ内でニックネームで呼ばれたり、私の出演するニュースに登場したり親しまれている存在です。 ー「天才バンク」を通じて気づいた金田さんの天才とは? 私は、コミュニティ内外で誰かをサポートする姿勢だったり、抽象的なことをまとめることが得意、ということに気づきました。 それまでは息を吸うように自然にやっていたことでしたので、特に大した価値を見いだせておらず、私にとっては”当たり前のこと”でした。 ですが、他人からこの力を「金田さんにしかできないことだね。すごいね!」と言われ、これって誰もが当たり前のようにできることではなかったんだと気づいたのです。 コミュニティメンバーと関る中で、自分のことを知り、天才に気づいていくことができたと思います!すると、「私ってこんな能力がある価値のある存在なんだ」と、自己肯定感も自然と上がっていました! ー天才が見つかる瞬間というものはあるのですか? 一緒に遊んでいるときの何気ない瞬間や、オンラインで交流しているふとした自然体のとき、“その人らしさが出る瞬間”に、天才は見つかると思います。 他人を褒めるときって少し恥ずかしかったり、褒められたことを素直に認めるのも「そんなことないですよ〜」と、日本人は謙遜することが多い印象ですよね。ですが、天才バンクは自分以外の3人から「◯◯さんはココがすごい」と言われたら、その能力を天才として認めましょうとしています。 天才バンクは積極的に色々な能力を持つ天才たちを受け入れて認め合う、他己肯定の姿勢も非常に強いコミュニティなので、自分の天才も見つかる環境なのだと思います。 ー金田さんご自身は、普段から自分の天才をどのように発揮していますか? 現在22歳の私自身は、まだこの天才・能力がどのような場所で伸ばせるのか探している途中です。 そのため、You Tubeでの配信やコミュニティ運営、イベントの企画など色々な行動をする中で何かしらの学びがあるはずだと感じ、積極的に活動に関わるようにしています。 これが何のためになるのか?と頭で先に色々考えず、まずは何でも挑戦してみよう!というマインドですね。 ー天才バンクの活動をしながら、「世界平和」を意識したキッカケとは? 生きている中で、他人と考え方が違ったとき、価値観を否定されたときに喧嘩になったり、衝突して関係性が悪くなることってありますよね。 天才バンクでは1人1人の価値観の違いを受け入れる姿勢を「アート思考」と呼んでおり、世界中に違う人が生きていて、それぞれが違うものの捉え方があることが当然として活動しています。 それぞれの人の世界=“ユニークネス”があると考えたときに、私は「1人1人の持つ“心の世界”が平和だったら、もっと全世界が平和になるだろう」という考えに至りました。 ー金田さんが「心の世界平和」を活動のテーマにした理由は? 例えば、人は恋愛をすると昨日までの世界が明るくなり、失恋すると一気に世界が暗く見えたり人を妬ましく思えたり…同じ場所に暮らしているのに、心の状態で世界は違って見えることがあります。 私自身、自分の人生を振り返ったときに実感したのが、私の人生は喧嘩やネガティブな出来事も少なく、日常生活はすごく幸せなものだったということでした。 この私が心で感じた「平和感」をもっと色々な方に伝えてシェアできたら、人の心が平和だったら、もっと世界は平和になると信じています。そのため私は、『世界の平和は、1人1人の心の内側にある』をモットーに、ひとりひとりの方の心の中に平和を感じていただける活動をしていきたいのです。 ー今後、目指したい姿とは? 私は、まだ世界中に何かを伝えるには無力だと感じています。 心の世界平和を世界中にシェアするには、より多くの方に発信する必要があります。現代ではインターネットを用いれば、全世界に配信することが可能なので、まずは私の存在を知ってもらうことを目標にしています。具体的には、私の発言の影響力をつけていくため、“インフルエンサー”になることを決めています。 世界発信向けに運用開始したTwitterは、1ヶ月でフォロワー1,000人を超え、現在のフォロワーは2,500人以上。世界の52カ国以上の人々と繋がることができました! また、全世界で2億人ものユーザーが登録しているというライブ配信アプリ「BIGO LIVE」では、英語を用いて日本の事を配信しています。 無名な私がいきなり『世界平和活動家』として発信するよりも、まずは皆が関心をもっていることを発信していこうと考え、私の住む日本の文化やトレンドなどを発信しています。 アメリカ留学中もFROM JAPANというだけで興味を持ってくれる方が多く、アニメや漫画、食事のことなど聞かれることもあったくらい、日本は海外の方にとって興味深いようです。 そしてゆくゆくは私という存在をもっと知りたい・私の話を聞きたい!と思ってくれた方々へ、世界平和を感じてもらえるよう、影響力をつけていく活動をしていこうと考えています。 ー素敵な夢とエピソード、ありがとうございました!   取材:吉永里美(Twitter/note) 執筆:MOE デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

人生は楽しんだもん勝ち!ペイミーCS・人事の門野妹のターニングポイント

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、株式会社ペイミーにてカスタマーサクセス(CS)と人事を担う門野妹(かどの・まい)さんです! ”かどまい”の愛称で親しまれ、TwitterやnoteなどでCSや人事の仕事の発見や面白さを発信する門野さん。そんな門野さんがこれまであまり明かしてこなかった過去の転機や自分軸に気づいた背景などに迫っていきます。 青春真っ只中に、仲良しグループのギャルとバトルが勃発!? ーSNSなどの様子を見ていると、明るく誰とでも分け隔てなく交流している印象のかどまいさんですが、幼少期はどんな女の子だったのでしょうか? 幼少期は活発な子だったと思います。3歳のときに補助輪なしの自転車を乗り回し、幼稚園に通園する姉の後ろをついていくなど、周囲からも驚かれるほど元気な子供でした。 小学校の時は生徒会長をしていました。学校では目立っている方だったかもしれません。中学時代はバトントワリングをしていて、大学ではダンスをしていました。 運動が好きで、スポーツ大会に出たこともあります。友人に誘われて色々な環境に飛び込んでいき、楽しそう!と思えることは何でも挑戦するのが好きなタイプです! ーかどまいさんの人生において、唯一の”暗黒時代”と言われる出来事が高校生の時に起きたそうですね…。何があったのでしょうか? 私は三重県の四日市市出身で、地元の高校に進学していました。通っていた高校では、10人ぐらいのグループに属していて、”THE・女子高生”という生活を送っていました。 ある日、誰かが私に関する良くない噂を流したみたいで…グループ内で私に関するデマが広まってしまい、話しかけても無視されたり…友人が離れていき孤立する経験をしました。非常にショックを受けました。 結局、グループの子たちとは半年後くらいに和解して、今でもたまに集まったりするほど仲良くなったのですが、当時は周囲の友人や男子グループにも心配されるほど揉めました。 ー無視されるのは悲しいですよね…その経験が後の人生において役立っていますか? 人に好かれようと媚びることや、取り繕った人間関係の脆さ・醜さを実感しました…。 当時の自分を振り返ってみると、無理してグループの皆のテンションに合わせてたなと感じます。本当に良いと思っていないことでも「それ良いよね!」と取り繕ったり、目立つタイプの人に合わせて行動していた自分がいたと思います。 ただ、逆に私が辛いタイミングで「気にしない方が良いよ」と優しく声をかけてくれる方々もいて、本当に大切にすべきはこの人たちだと気付きました。その時に本質的に自分が良いと思える関係性を築いていこうと決意しましたね。私も辛い人や困っている人に優しい人であろう、と。 ーそんな高校時代を経て、東京に進学した経緯とは? 大学受験が大きな転機でした。地元の高校の進学組は、比較的近い都市の名古屋に行くか、大阪に行く方が多かったので、「東京に行く」と言うだけで周囲からは驚かれました。 東京にずっと行きたい!という強い気持ちがあったわけではなく、なんとなく大学受験を考える中で、実際に東京の大学に進学した知人からアドバイスをもらい、新しい環境が好きな自分に合っている気がしたので勢いで決めたという流れでした! ーかなり思い切った選択だったのですね!大学生活はいかがでしたか? 非常に充実していました! 昔から、「挑戦してみたら新しい自分に出会えるかもしれない。根拠はないけれどきっと上手く行くだろう!」と考え、様々なことに挑戦したいタイプだったので、色々な活動を同時進行でやっていました。 実は私が高校生になったタイミングで母子家庭になったこともあり、母と進学自体をどうするか悩み抜いた末に大学進学に踏み切ったので、あらゆる時間を楽しもう!という気持ちも強かったです。 学費は、奨学金を借りつつ自分で支払い、バイトを複数掛け持ちしながらダンスサークルで活動して文化祭なども出て…という感じです。また、大学で初めて海外留学やインターンシップも経験しました! 初海外はインド!カオスだらけの飛び込み営業インターンに挑戦! ー大学時代に海外留学に挑戦されたとのことですが、なぜインドを選んだのでしょうか? 私の母は英語が話せることもあり、自宅でホームステイの受け入れなども行っていて、幼い頃から海外への憧れがありました。大きくなったら、自分はいつか海外に行けるものだと思い込んでいたんです。実際には大学に入学してから、同年代の子が次々と海外に短期留学に行く中でもひたすらアルバイトをして自力でお金を貯めてから長期留学することになったので、時間がかかりました。 私にとっては人生初の海外だったので、どこにするのか非常に重要でしたし、悩みました。英語圏で、あまり費用がかからず長期滞在できるところを探し、フィリピンかマレーシアかインドが選択肢に残りました。 そんな時、インドから帰国した先輩から「インドで狂犬病の犬に追いかけられた」というエピソードを聞いて、「そんな経験ができる国って楽しそう!せっかく行くならユニークな経験が欲しい!」と思って、即決しちゃいました。 他の国は日本人留学生も多いけど、他の人があまり選ばない国を選びたかったのもあります。勉学よりは面白い経験を求め、インドのムンバイに半年間留学しました。 ーインドでは、どんな生活が待っていましたか? 初めての海外、初めての飛行機で緊張しながらインドにたどり着き、生活はなかなかカオスでした(笑)どんな生活だったかは、noteをぜひ読んでみて欲しいです。 留学先の大学のカリキュラムが少ないため、週に5時間くらいしか授業がないんです。空き時間を有効活用するため、なるべくフルコミットできるインターン先を探しました。 そこで巡り合ったインドの会社で、飛び込み営業のインターンを経験することになってから、インド留学が非常に充実して面白くなっていきました! ー初海外で初インターンってすごく勇気がいると思います!どんな経験でしたか? 内容は、広告の飛び込み営業です。日本人駐在員向けフリーペーパー事業をしている企業で、現地のインド企業向けに広告営業をするという内容でした。駐在員がよく利用するホテルや飲食店などにアポを取って、現地で交渉するお仕事でした。 約4ヶ月ほど営業インターンをしました。インド名物のドアのついていない満員電車に飛び乗って、揉みくちゃにされながら営業していました(笑) 幼少期から「かどまいはどこでも生活できそう」と言われていたのですが、インドで半年間生活してみて本当にそうだと言える自信が付きました! インターンを通じて、同じ日本人留学生の先輩方が非常に優秀で、そういった”戦友たち”と出会えたのも良かったですし、英語で営業をすることの難しさ・できない悔しさも感じました。インド留学は、成功も失敗も含め両方経験できた素晴らしいターニングポイントでした! ーもっとお聞きしたいほど濃いエピソードですね!インドから帰国後は日本でもインターンを経験されていますよね。 帰国後は、周囲からの勧めもあって日本の企業で長期インターンを探しました。当時まだベンチャーでの長期インターンは今ほどメジャーではなかったのですが、知人に教えてもらった”Wantedly”を使って、複数の企業と面接をしました。その中でたまたま、ご縁があったユニラボに決めました。 ーユニラボへの入社は、インターン経由だったんですね。入社の決め手になったものは? 就活では、インドの留学経験を活かして働いても良いかもと考えていたので、海外進出をしている企業や日本のベンチャー企業の説明会に行ったりしていました。 就活とインターンを両立していたのですが、ユニラボからも「新卒入社しないか?」とアプローチを受けていました。 役員の方々とご飯に行って色々な話をさせてもらい、インターンの自分のことを知ってくれている信頼や安心感もありました。また、背伸びして挑戦できるフィールドがあると感じたので、ユニラボへの入社を決めました。   カスタマーサクセスから社内初の人事に抜擢!新しいキャリアが見つかる ーユニラボに入社してからのお仕事はどんな内容でしたか? ユニラボは「アイミツ」というサービスを運営している企業で、事業部配属のカスタマーサクセスが私の最初の仕事でした。 入社したときは社員が15名ほどで、代表が片手間で人事もやっているというような状態でした。入社してしばらく経ったある時、新しい福利厚生制度とバリューの浸透を推進するコーポレート業務を行ってほしいと言われ、そのまま人事とカスタマーサクセスを兼務する流れになりました。 私は「そもそも人事って何をするの?」という状態で、最初は未経験の私と代表が一緒にすり合わせながらプロジェクトを立ち上げ、社内へのミッション・ビジョン・バリュー浸透や採用などを行っていきました。後に人事部長の方が入社し、さらに人事の仕事にコミットできる環境になっていきました。 ービジョンやミッションの浸透に共感を得るための、かどまいさんならではのポイントはありますか? モノを買う時にモノ自体の価値に加えて、職人さんや作り手さんのエピソードに感動・共感したことによって購入した!という体験をした方は多いのではないでしょうか。会社のビジョンも、創業時の紆余曲折や、事業立ち上げの思い、その時に代表が考えていたことなど、背景の感じられるエピソードに人は惹きつけられるのだと思います。 そういった創業時のエピソードと一緒にビジョンを伝える、”ストーリーテリング”が大事かなと思いますし、いろんな人がそのエピソードをいろんな人の視点で自分ごととして語れるようになれば、浸透していくと考えています。 ー1人目の人事になったという経験はすごく大きかったのでは? 当時、周囲と自分のビジネススキルを比べては落ち込んでしまうことが多々あり、仕事では少しくすぶっている状態でした。 自信を失いかけている時に、人事という社内では新しい領域を任せてもらえたことは、「自分にしかできない仕事がまだあるんだ!」と頑張ろうと思えるキッカケになりました。 途中から「自分には人事がすごく向いているのでは?」と思えるほど、自信をもって仕事ができるようになっていったので、すごく大きな転機でした。 ーユニラボの人事として活躍していたかどまいさんが、転職を考えたキッカケは? ユニラボの人事業務は楽しいし、周囲も必要としてくれました。周囲に期待されている業務をやることで、喜んでもらうことが自分の働き方に合っているなと感じていました。 ただ、採用の面接などで事業の面白さを語っていく中で、事業について「本当にこの事業が面白いと思えているか?」と少し違和感を覚え始めました。 上長からも「そういう時は、事業サイドと人事サイドをいったり来たりすることで、より事業の良さや内容に触れることで人事の仕事にも活かせるよ」とアドバイスを頂き、事業サイドに戻ることを視野に入れてみたんです。 ですが、ユニラボ内で事業サイドを経験するのではなく、思い切って違った企業の事業サイドを経験しても良いのでは?と考えたのが転職の最初のキッカケです。 ー人事ではない転職を考えていらしたんですね!ペイミーを選んだ理由とは? 株式会社ペイミーの運営している”Payme”というサービスは、給与日を待たずに働いた分の給与を受け取れるようにする、給与即日払いサービスです。 SNSで発信されている情報を以前から見ており、ユニラボ在籍中、ユニラボで勤務するアルバイトの方向けに導入をしていたんです。Paymeがどのようなサービスなのか、企業担当者の視点で良い点も課題点も見ていました。 また、「資金の偏りによる機会損失のない世界を創造する」というペイミーのビジョンに非常に共感できました。 私自身が母子家庭で学費を工面することの大変さを身を以て知りましたし、お金がない時でも人の出会いやご縁に恵まれ、色々な経験をしてきました。これまでの人生を振り返った時に、自分と重なる良いビジョンだなと思っていました。 転職活動中に「そんなに好きなサービスなら、面接受けてみたら?」という知人の何気ない一言に後押しされ、そのまま2020年の4月にペイミーのカスタマーサクセスとして新たなキャリアをスタートしました。 ー2020年入社ということは、ちょうどコロナ禍での転職だったのでは? そうです。ちょうど、コロナウイルスが大流行して1回目の緊急事態宣言中の入社でした。1回だけパソコンなどを貰いに行ったきり出社せず、入社後からフルリモートでした。最初は多少戸惑いました。 ーすごい大変なタイミングでの入社だったのですね。ペイミーでの今のお仕事とは? 入社時はPaymeの顧客対応を行うカスタマーサクセスとして入社しました。導入先の企業に対し、サービスの紹介や導入オンボーディングと、活用後の定期フォローなどを行っています。 また、2021年の1月からは人事を兼務しています。3割ほどの工数を費やし、エンジニア採用や社員との1on1などの業務を行っています。 ー事業サイドで入社したペイミーで、再び人事をやることになった経緯は? 2020年は会社もコロナウイルスの影響をかなり受けてしまいました。アルバイトをできない学生さんが増えたり、飲食店などが軒並み営業ストップしてしまったりと、サービス利用者に影響が出たことで売上にも非常に影響が出ました。また、会社の組織面の課題も大きく出てしまった1年でした。 そんな会社の状況下で、「会社の内側から組織を立て直すならば、自分が人事をやったほうがいいのでは」と思い立ったのが人事を兼務するようになった背景です。 ただ、人事業務にフルコミットするよりは、カスタマーサクセスに軸足を起きながら兼務する方が会社にとっても自分にとってもベストと考え、そのような形での兼務を提案しました。 前職は採用人事のポジションでしたので、人をどう採用するか?を考えて動いていたのですが、今はメンバーのケアや組織づくり、人員配置のことを考えることがメインです。これまでやってきた人事の領域とは、また違った業務を任されていますので、探りながらやっている状態です。 誰もが不安を感じる現在において、私が社内のメンバーの支えになれたら良いな…と頑張っています。 ー素敵な志ですね。最後に、読んでいる同世代の方々に向けてメッセージをお願いします! 適材適所という言葉があると思うのですが、スタートアップやベンチャー企業では、そもそもポジションがすごく少ない場合や、適した人材がすでに配置されている場合があります。 人事として社員のポテンシャルを加味して配置などを考えますが、思ったより活躍するほどハマってくれる場合もあれば、全然合わない場合もあります。私自身も、初めて人事のポジションに挑戦したときは、まさかここまで自分に合っているとは思いませんでした。 最近は世の中でも色々なことが起きていますし、正直予想がつかないところが多いと思います。ただ、物事を本質的に捉え、自分の心にまっすぐ従って目の前のことに一生懸命生きていけば自ずと”向いている仕事”に辿り着けると思います。 ”楽しく生きていく”が私の人生のコンセプトです。辛いことも人生のネタ作りだと捉えて楽しんだもん勝ち!あまり深刻に悩みすぎず、その時々の出来事を楽しんでいきましょう。 ーかどまいさんの知られざる一面と、仕事や人生へのポジティブな向き合い方を学んだインタビューになりました!ありがとうございました! ▼門野妹さんの魅力が詰まったSNSはこちら ・Twitter ・note   インタビュー:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆:MOE(Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

市原万葉が子育ても仕事も楽しめる理由は「巻き込み力」と「グレーゾーン」

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、創業初期に参画したNEW STANDARD株式会社(旧名:TABI LABO)で広報として活躍し、1児のママとして子育ても楽しんでいる市原万葉(いちはら・まよ)さんです。 小学3年生の頃から「外交官になる」という夢を持ちながら、受験を通して挫折を経験。しかし前に進むたびに新しい価値観を得て、夢の抽象度を上げ、自分を変え続ける力も身についたそう。 また、子育てを楽しみ仕事と両立させるコツは「お母さんが一番楽しむこと」と「周囲を巻き込みコミュニティで育てる」ことだと語る市原さん。働く女性にとって大きな悩みである、出産・子育てとキャリアの両立について、彼女独自の育児論や両立方法を伺いました。   受験失敗という挫折を経て、夢の抽象度が上がった ー 小学校3年生にして「外交官になる」という夢に出会うというのは珍しいと思うんですが、その出会いは何だったんでしょうか? 幼いときから、正義感がすごく強かったんです。東ちづるさんの絵本の読み聞かせで難民キャンプのことを知って、自分の知らない世界に衝撃を受けました。同時に「私がこの子たちの力になりたい」と強い使命感に駆られました。親や学校の先生と相談していく中で、国連の職員になること、その手段として外交官になろうと考えたんです。そこから逆算して人生設計した結果、中学受験を決めました。 ― でも、第一志望の中学には行けなかった。 受験は大失敗。さらに同じ時期に姉妹のように育った従姉妹が突然亡くなり、小学校6年生にとっては精神的に辛い時期でした。「彼女の分まで人生を2倍生きる!」と自分を突き動かすエネルギーに変えることでしか当時の自分は乗り越えられなかった。進学した公立中学校では、勉強も部活も行事も全力で全部頑張りました。何事にもエネルギッシュに取り組むようになった原点はここにあると思います。 ― その結果、高校受験は成功したんですよね。どんな高校時代でしたか? 毎日が刺激的でとても面白かったです。高校には優秀でユニークな子や先生ばかりで、多様性に触れて過ごしました。校則はなく、生徒たちが自分たちで欲しいものやルールを作っていく。答えがある受験的な勉強ではなく、常に学び深め創る楽しさを教えてくれる学校でした。私は部活や行事に邁進し、個人的には外交の最前線で活躍するOB・OGの方々のもとに足を運んで現場の貴重なお話を伺う機会も多く得られました。 ― 大学は、国立大学の法学部を目指していたんですよね。だけど、受験は失敗。もともと厳しい状態だったんでしょうか? 過程は悪くなかったと思いますが、結果はダメでした。ただ、小学校3年生から一生懸命走り続けてきて、受験的勉強はやり切った気持ちがあったので、前に進んでできることをしようと思って。たとえ想定と違うルートや方法になったとしても、歩み続ければ違う景色が見えてくることを経験していたので、早稲田大学に入学しました。 ― それはなかなかの挫折経験ですね。早稲田大学ではどんな生活を送ったんですか? 受験という長い戦いから離れてみると、「自分って面白くない人間だな」と感じるようになりました。勉強・部活・行事の3本柱で邁進してきたので、これといった趣味もありませんでした。そこで外交官になる勉強と並行してはじめた2つのことがきっかけで、大きな価値観の変化を迎えることになります。 ひとつはスキューバダイビングを始めたこと。長期休暇のたびに島で暮らし、自然に囲まれ島の人達と触れあう中で、彼らの「自分をいかに幸せにするか」が軸にあるとても自然体でシンプルな生き方に触れました。私は「世界の子供たちの助けになりたい」と大きなことを言いつつ、身の回りの人も幸せにできていなければ、自分自身の満たし方すら知らないということに気づき情けなくなりました。今までの人生で交わることのなかった人たちの暮らしに触れたことで、もっと視野を広げて世界を知りたいと思うようになりました。 もうひとつのきっかけは、アメリカへの留学や、海外のNPOなどに学生を派遣する学生NPO団体の活動など海外で実際に活動してみるなかで、「他人は変えられない、自分しか変えることはできない」と痛感したことです。改めて夢を見つめ直すなかで、小学3年生のときに私が感じた違和感は、「不平等や理不尽な外的環境が理由で人の可能性が狭まっていること」に対してだったんだな、と抽象度を上げることができました。 ― 「世界の子供たちの助けになりたい」という夢から、どのように変わったんでしょうか? 「人の可能性を広げること、選択肢を増やす」ためにやりたいことや、向き合いたい課題はたくさんありました。ただ、自分にはそれらを変える力や術がない。まずは自分にできることを増やすために、メディアや広告業など社会的発信を行っている企業で仕事をしたいと思い、就活では広告代理店をはじめ複数企業から内定をもらっていました。   「安定」の定義を変えたTABILABOとの出会い ー 広告代理店に就職することが内定していた中、TABILABO(現・NEW STANDARD株式会社)でインターンとして働くことにした。その出会いは何だったんでしょう? 大学の友人に創業メンバーがいたので、TABILABOはもともと近い存在だったんです。彼から話を聞いているうちに、旅先で出会うような世界中の新しい価値観に触れることができるメディア「TABILABO」がやっていることは「人の可能性を広げる、選択肢を増やす」というアプローチとしてとても面白いと思い、卒業までの期間働くことにしました。 ー TABILABOでのインターンはどうでしたか? 会社になってまだ1年弱だったので、毎日忙しかったけれど刺激的でしたね。大企業に入ることが安定だとよく言われていましたが、TABILABOでのインターンを通じて「自分の能力やスキルを磨き続け、常に柔軟にアップデートし続けられることこそが安定だな」と、安定に対する定義が変わりました。 社員同様にフルタイムで働かせてもらうなかで着実にやりがいが伴っていったこと、そして最終的には「優秀なメンバーが人生の舵を切って高い熱量を持ち事業を立ち上げるという瞬間に、人生であと何回居合わせるんだろう」と考えたときに直感的にワクワクしたので、内定先ではなくTABILABOに入社することを決めました。 創業間もないスタートアップをファーストキャリアにするという決断をしたことで、社会のマジョリティの中で正解とされているルートから、スコーンと抜けた感覚がありました。 ー 「スコーンと抜けた感覚」というのは、具体的にどういうことでしょう? 他人との評価の中で自分の存在や位置を確認していたことに気付き、まずはそれを辞めました。当時はスタートアップに行くこと自体が稀でしたし、会社名など肩書きで語れない分、自分の実力を積み重ねていくことでしか実現できることは増やせない、と痛感する日々でした。自分がどれだけ大学名や肩書きによって機会を得ていたのかを知るきっかけになりました。 ー お話聞いていると、自分を変える力がすごく高いなと感じます。そのように自らを変えることができるのはなぜですか? 正解はないということに早々に気づけたことが大きいです。未熟な私から見えている世界なんてほんの小さな側面でしかなくて。社会から常識だとされていたり、自分の中で正解だと思っていたものを振り切ってみると、そこにはまた違う世界が広がっている。そう考えられるようになって、フットワークは軽くなったし、どんな状況や困難も柔軟に楽しめるようになったと思います。   親になってもっと自由になった ― 現在、1児のママでもある市原さん。スタートアップでのキャリアを歩み始めて3年目に、妊娠がわかったときはどう感じましたか? 高校生のときに妊娠しづらい身体だと診断されていたことや、20代はゴリゴリ働くぞ!と思っていたので、夫は喜んでいましたが私は正直驚きの気持ちの方が強くて戸惑いました。母になることへの不安ももちろんありましたが、「愛情深い家族や友人に囲まれて育つこの子は、絶対に幸せになるから大丈夫」という自信だけは強くありました。 ― 実際ママになってみてどうですか? とんでもなく楽しいです。子育てを通して、初めて知る世界や出会う感情がたくさんあり、こんなにも自分の視野や価値観を広げてくれるものだとは思わなかったです。 ― 子供がいる、家事育児があるということが制約になって、やりたいことを思うようにできない……ということに思い悩んでいる20代のママも多いと思うのですが、市原さんが子育てを楽しめている理由は何だと思いますか? 子育てを通じて知った世界や感情は、今しか味わえない貴重なものだと思うので、得たものに目を向けるようにして、これまでと同じ物差しで測ることはやめました。 確かに自分一人だったときの暮らしに比べれば制約は生まれていますが、制約があるからこそ自由がより自覚的なものになります。選択肢が無限大にあって大海原に放たれていたときよりも、視界がクリアで走りやすく、むしろ今の方が解放感を感じている瞬間が多いです。 あと、産んでみてわかったのが、はじめから授乳やおむつ替えなど完璧にできるママはいないということ。そして、子供の数だけ個性もあるので育て方も違っていていいし、他人と比較する必要もない。ママも子供と一緒に成長していくものなんだなと実感してからは、気負いすぎず心が穏やかになりました。 子育てにおいては、母親が一番楽しむということとと、コミュニティで育てるということの二つをすごく大事にしていて。今はその循環を回せていることが楽しめている一番の要因かなと思います。   子育て×仕事は「巻き込み力」と「グレーゾーン」で両立 ― 母親として楽しむことってすごく大事だと思うんですが、そうあろうと思ったきっかけは何かあったんでしょうか? 育休中、自分を含めて休むことに躊躇いがあるお母さんにたくさん出会ったことですかね。育児のために我慢を重ねていたら、いつか自分の不満を子供のせいにしてしまうかもしれないし、子供もそんなお母さんをみて「自分なんていなきゃよかった」と思ってしまうかもしれない。家族はチームであって、親子は主従関係ではない。ゆくゆくは一人の大人として育っていくので、私と娘の人生は切り分けて考えるように気をつけています。私は私の人生の主演女優で、娘の人生の助演女優という感覚です。 試行錯誤の日々ですが、特に子育てへの夫の巻き込み方は意識しています。よく大縄飛びの話に例えるんですけど、2人で200回まで飛ぶことが目標だったとしますよね。妊娠のつわりや出産を経て、母親はすでにひとりで100回飛んで息切れしている状態。でも目標を達成するためには夫に入ってきて飛んでもらわないいけない。 夫からしたら体感もなければ教えてもらう機会もない状況で、どう縄に入っていけばいいかわからないから、ずっと縄の前で待っている。そこで、「早く入ってよ!」と頭ごなしに怒るのではなく、自分も苦しいんだけど、一踏ん張りして入り方を教えて、さらに一緒に飛ぶことを楽しいと思ってもらいたい。短期的にはしんどいけれど、長期的にみると目標達成にむけて一番の近道になります。子育ても同じだと思うんです。 ― 旦那さんを子育てに巻き込むために、具体的にどんなことをやったんでしょう? 娘にとって初めてのことはできるだけ夫と共有し、授乳以外のことはお願いしていました。丁寧に教えて、とにかく褒める。どうしてもお母さんのほうが場数を踏むのでスムーズにできるんですけど、それを言ってしまうと、よく仕事でもあるように「自分でやったほうが早い」とお母さんが全て巻き取って疲弊してしまう。 とにかく楽しく巻き込んで褒めて、少しずつ任せることを増やしていく。あと、言語化して伝えることをすごく大事にしています。「このくらい言わなくてもわかってよ」というコミュニケーションは絶対にしない。余裕がないときこそ、してほしいことや自分の感情を言葉にします。そうすると夫も行動に移せるし、習得してPDCAも回し始めてくれるんです。 自分がいないとダメだというのは思い込みで、信じて任せてみれば意外とできちゃう。最初はうまくいかなくてもチームで補おうと努力して、全員が成長する。母親のやり方だけが正解じゃないし、手を抜ける箇所や新しい方法を見つけたりします。自分一人で100点をとるよりも、家族で力を合わせて80点の方がが幸福度は高いな、と感じるようになりました。 ー 素晴らしい巻き込み力。他にも子育てで意識していることはありますか? 友人や同僚などを巻き込んで、コミュニティで育てるということも大事にしています。人格が形成される頃に関わる大人の人数を増やすことで、子供の多様性や世界を広げられると思うんです。親や教師が言っていることを全てだと思って欲しくない。 これは、親だから言い出せないことも言えるような距離感の大人の友人を持つ意味でも重要だと思います。私もいつ死ぬかわかりませんが、子供には現金よりも、親の代わりに信頼・相談できる大人をできるだけ多く残してあげたいなと思っています。 ― コミュニティで育てるって大事なことですよね。親になってアップデートされて、仕事への向き合い方はどういう風に変わりました? ルーティーンを重視するようになりました。子供を産むまでは、時間も体力も全て投入して働くライフスタイルだったんですが、今は生産性意識して、優先順位をつけて捨てることを意識しています。全部やるのは無理なので、限られた時間の中でどう物事を進めていくか、ということはすごく考えています。 また「仕事の自分」と「ママとしての自分」「一人の人間としての自分」というように、役割がいくつかあるので、気持ちの切り替えも上手くできるようになりました。その結果、常に高いマインドセットで仕事に取り組めているので、良い相乗効果だなと思っています。 ― スイッチの切り替えってなかなか難しいと思うのですが、気をつけていることはあるんでしょうか? グレーゾーンは残すようにしています。家族にも仕事の話をするし、職場の人にも子供のことを話す、といったように、架け橋となるものやグレーゾーンは意識的に築いていますね。もし家でスイッチを切り替えられなくても、それを一人で抱えなくていい状態にするんです。 「仕事が忙しいよ〜」と言いながらママをやって、「夜泣きで全然寝れないんです」と弱音を吐きながら仕事は頑張る、といった具合に。複数の顔を持つと、自分しか全てを把握していない状況が苦しくなるときもある。一人のときの2倍以上のエネルギーを使っているのに、各方面で切り取ってみたときには全て60点くらいで不甲斐なさが募っていくと負のスパイラルに入ります。 かっこつけず堂々と弱音を吐きながら、全力でできることをやる。グレーゾーンは残してグラデーションにすると、精神的には楽かなと思います。 ー 適応力や意思決定力のある市原さんですが、生き方において大事にされていることはありますか? 自分で自分を満たすことを一番大切にしています。それを他人に求めてしまうとコントロールできなくなるので、常にモチベーションは自分の中に持っておこうと意識しています。そのために年に一回、家族の協力を経て、仕事や母親や妻という社会的役割から離れてひとりの人としての時間をつくる「母のお暇旅」をしていたりします。   将来の理想は「薬草を操る魔女」 ― 今後どういう人になっていきたいか、将来の理想を教えてください。 少し遠い将来像だと「薬草を操る魔女」になりたいんです(笑)。授乳中、自分の摂った栄養がそのまま子供に渡って大きくなっていくのを目の当たりにして、家族の体調に合わせたご飯を作れるようになりたいと思い、食養生の料理教室に通って学び始めました。庭にある薬草を煎じて『コレ飲んだら治るよ』って言えるような、生活の知己に富んだ魔女みたいなおばあちゃんになりたいんです。 あとはコミュニティで子供を育てるということを、自分の子育てを通して実験を繰り返して行きたいと思っています。私たちの時代に最適な子育てインフラって何だろう、というのが20代の一つの実践テーマです。 2020年から、友人たちと「TSUMUGI(つむぎ)」というコミュニティを始めました。自分にも地球にも「善い暮らし」を探求し、100年先の未来へつむぐ、食卓を中心とした「生活共同体」。農家さんとパートナーシップを組んで小田原で畑を始めたり、親子でリトリートしたり働くことができる自然に囲まれた暮らしの実験所を葉山で建設中です。 ― 仕事では、今後どんなことにチャレンジしていきたいですか? 繰り返しになりますが、20代は自分にできることを引き続き増やし続けていきたいと思います。創業期に参画したNEW STANDARD(旧名:TABI LABO)で、今は広報を担当しているのですが、スタートアップ企業という経営と近い距離で働いているからこそ、経営視点を持ち事業を推進し会社の成長を後押しできる広報になりたいと思っています。   取材:西村創一朗(Twitter) 写真:山崎貴大(Twitter)、ご本人提供 文:品田知美 編集:ユキガオ デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

自分らしい生き方は何度でも選べる! 林 利生太から生き方に悩む若者へ送る言葉

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第294回目となる今回のゲストは、NPO法人ひとまき事務局長の林 利生太(はやし・りゅうた) さんです。 皆さんも一度は、生き方に悩んだ経験ありませんか。 今回の主人公である林さん、大学時代にこのままで良いのだろうかと違和感を感じ、2年間の休学を選択、休学中に生き方に悩む若者向けのNPO法人ひとまきを設立されました。 自身の生き方が変わった出来事に触れながら、ひとまきでの活動を通じた林さんの思いをお聞きしました。 ヤンチャでスポーツに打ち込んでいた少年時代 ーまずは自己紹介をお願いします。 NPO法人ひとまきの林です。 普段は高知県の山奥にある嶺北地域にて、古民家を活用した拠点で若者のキャリア支援を行っています。「何度でも生き方を選ぼう」をスローガンに掲げ、世の中に発信する中で「自分も生き方を変えていいんだ」と思う若者を増やすことを目的に活動しています。 ー幼少期から振り返られればと思いますが、小学校時代はどう過ごされていましたか。 小学校5年生まではヤンチャで、ある日の下校途中に選挙ポスターに落書きをしてしまったんです。 自分としては出来心で、鉛筆とポスターが近くにあったからやったことなのですが、その翌日見たことのない学年の先生たちに職員室で囲まれ、「君がやったのは選挙妨害という立派な犯罪だよ」と言われました。そこから、反省をして真面目に生きるようになりましたね。 ーその後の中学校での生活で、印象に残っている出来事はありますか。 中学校の時は、柔道とバスケットボールの二足の草鞋をはいて、スポーツに熱中していました。その時大きかった経験が、バスケを一切やったことがないものの、分からないなりにも必死にバスケを勉強していたバスケットボール部の先生との出会いでした。 先生は自分が教えるだけではなく、僕たちと一緒にぶっ倒れるまで汗を流していました。その姿を見て、全力を出すことのかっこよさを学んだんです。私が先生を目指す上で、その先生の存在は大きかったです。 瀕死の状態になって、生き方が変わる ー高校生活で印象に残っていることはありますか。 高校生活は、私の人生にとって大きな転機となっています。 それは部活でも勉強でもなく、高校一年生の時の事故ですね。 タイヤの大きさが1mあるようなクレーン車の下敷きになってしまったんです。部活に行くため、雨の中レインコートを着ながら自転車に乗っていたのですが、お店の駐車場から出てきたクレーン車に自転車と体ごと巻き込まれてしまいました。 幸いにもタイヤの下敷きにならなかったのですが、その時に「死んだな」と心の底から思ったのを今でも覚えています。この事故で足の皮がめくれ、手足の骨も見えそうな状態になったため、高校時代はずっと入院していました。 ー衝撃的な出来事でしたね。その事故がきっかけに変わったことはありますか。 私の座右の銘が「死ぬこと以外蕁麻疹」なんです。 なぜかといいますと、その事故の経験が大きく、生きていてよかったなという原体験になっているからです。つまり、生きているだけでいい、命が存在しているだけで自分は幸せだということです。 今まで勉強しようという気概はなく、高校の授業や小テストや模試も適当で、学年順位も下から10番目だったのですが、事故後は限られた時間の中でリハビリに行きながら、勉強もスポーツも全て全力で取り組むようになりました。 このままで良いのだろうかと違和感を感じ、休学を決意 ーその後、高校から大学へとステージが変わると思いますが、大学はどんな軸で選ばれましたか。 学校の先生になるために大学に行かなければいけなかったので、進学を選びました。 高校時代の私には、なりたい職業が4つあり、学校の先生・消防士・警察官・理学療法士でした。 柔道で体を鍛えた経験をいかしたいという思いや、事故でリハビリをしていた時に支えになった経験がなりたい職業に影響を与えたのですが、大学に行けば学校の先生や消防士・警察官になれると思い、大学進学を決めました。 ー大学ではどんなことを経験されましたか。 大学が高知大学だったこともあり、高知県に住むようになりました。 理科の先生になりたいと思い、理学部に進学をし、柔道に励みながら飲み会をしていた学生生活を3年生まで送っていました。 在学中の一番の転機は、休学という選択をしたことです。 休学をしたきっかけは、教員採用試験、大学最後のインカレ、卒業論文を控えた状況でこのまま世の中のことを知らずに学校の先生になってよいのだろうかという疑問が湧いてきて、一切採用試験の勉強をしなかった自分がいたことです。 今まで小中高では、やらなきゃいけない時に一気にブーストすることを繰り返してきたので、今そのタイミングのはずなのにブーストしない自分に違和感を感じました。 なぜその職業につきたいのかにフォーカスをした時に、全部自分の身近な大人の職業であることに気づきました。そして、その4つからしか選ばないのは、恐ろしいと感じたんです。このまま視野が狭いまま先生になって伝えられることは、理科以外はないなと感じ、より視野を広げた先に自分が本当になりたい人の姿が見つかれば、その方向に進みたいと思ったので休学を選びました。 ー休学の期間や休学中に経験された出来事について、教えてください。 休学は2年間しました。 休学中は海外も行ったのですが、島で環境教育をしたり、農家さんで朝から働いたりする中で、どんな仕事をするのかよりもどんな暮らしをするのかということが大事だとわかりました。そして、自然の中で暮らす田舎生活が楽しいと感じました。 そのため、田舎で何かをやっていこうと休学中に思いました。現在、ひとまきを通じて若者支援を行っていますが、私自身休学を決断した時は親に反対されたんです。早く社会で働くように促されたり、友人から就職を心配する声が聞こえ、高圧的に接する人がいたりしました。その時感じたのが、休学という何もしないことに対する周囲や世間の反応って何なのだろうかという違和感でした。フリーターやニートという何もしていない状況への偏見や差別が蔓延しているなと気づきました。 そして、今の若者がゆっくりと見つめ直せて、他人による定義ではなく自分で人生を定めていく場所が今の日本にはないため、その場所を作る。その上で、地方にある空き家の増加、産業の衰退などの現状課題を組み合わせて解決していくことに可能性を感じたので、やっていきたいと思うようになりました。 学校の先生になりたいと最初は思っていましたが、人の価値観が広がったり深まったりする瞬間に立ち会うことが一番のモチベーションにつながるのだと気づき、休学中に法人を立ち上げて活動をスタートさせました。 ーローカルで暮らすことの良さを感じたということですが、なぜ若者の課題と地域の課題を掛け合わせようと思ったのでしょうか。 休学中に島で暮らすときも、環境教育をやっているNPOにボランティアでもいいので活動させてほしいと飛び込みました。人手不足だったので、何もスキルがない自分が役立ったり、農家さんのところへ行ったときも力仕事で役立った経験があり、自分が田舎で役に立てるのだと実感しました。 田舎の人たちや仕事に触れる内に、地方には自分が入り込めるスペースがあり、そこに自分が入れたことが自分の価値を認める瞬間になりました。今の若い人は自己肯定感が低かったり、都市に集まるとパズルのピースが溢れ出している状況に近いと思いますが、地方はピースが当てはまっていないので、そこに自分を当てはめることで価値を感じ、そのフィールドで成長をしていく流れがありますね。 自分がやりたいことの本質を見極め、退学を決意 ー休学があける直前はどんなことを考え、休学が開けた直後はどんなステップを踏んでいきましたか。 今の仕事はNPO法人ひとまきの事務局長として働く中で、個人事業としてコーチングやメディア収入、地域の柔道の先生として地域に雇用されていたり、さらには不動産の大家をやっていたりと仕事は5つある状況です。 休学中に法人を立ち上げて、その後復学をする選択もあったのですが、そのタイミングで法人の財政状況が厳しくなりました。当時、委託事業として地域の人材不足や情報発信をメインで受けつつ、生き方に悩む若者から連絡が来たらいつでも受け入れを行っていました。その結果、休学中に立ち上げて2年が経ったときには延べ2000人くらいの若者を受け入れていく中で、目の前で人生が変わっていく人たちを何人も見てきました。 私たちはその姿を見て、日本にはこの場所が必要だと感じていたものの、お金をいただいている委託業務をしっかり行わなければならないことや設立期に莫大なリソースを割いていたことを踏まえた経営判断として、委託業務を全てやめ、若者支援にだけ集中することにしました。若者支援に集中するためには、私たちも生きていかないといけないので、寄付型のNPOに転換することになりました。 実は、そのタイミングが私が退学するのか復学をするかどうかの分岐点で、復学をするとしたら1年間という時間と50~60万の年間の学費を大学に使うわけですが、本当に自分がやりたいことは目の前にあってすでに始めていましたし、寄付を募ろうとしている状況を考えたときに、この学費も寄付したらいいのではと思いました。そのため、個人としてもひとまきとしても大学に戻るべきではないと考え、退学することを決めました。 生き方で悩む人の力に ー寄付型のNPOを運営する上でどんなことに取り組み、どんな課題を感じているのかを教えてください。 当時は連絡があれば泊まっていいよと話していたものの、受け入れ側も相当なリソースを使っていたこともあり、大変だと感じていました。そうした時に、生き方を選び直していく場を再現性を持ってどう実現できるのかを考えたのですが、今までは2泊3日の人もいれば半年の人もいて様々でした。 そこで、誰がどれぐらい変化したのかを、スタッフが今までの滞在者リストと向き合ったところ、スタッフと参加者の関わり合いだけではなく、同じように生き方に悩んでいる若者同士が高知の山奥に来て、お互いの状況を分かち合う瞬間があったとわかりました。 その結果、1週間のプログラムに変更することになり、最初は無料でやっていたのですが、財政的に厳しい状況になりました。ひとまきには、毎月67名の寄付者の方がいらっしゃるにもかかわらず、リソース不足な状況が続いていたため、どうすれば持続的に続けられるかを考えたときにお金の問題にぶち当たりました。 お金の問題を考えた時に、生き方に悩んでいる状況とお金がない問題は全く同一でないことに気づきました。今までは無料でやって、いつかその参加者が寄付者に回ればいいなと思っていましたが、それを待っているだけでは難しいので、プログラムの有料化をはじめました。参加するお金のハードルが高いという方には、寄付を財源として半額以下に下げてプログラムに参加してもらうという形にしました。 また、プログラムに参加する以前にキャリアについて悩んでいる方が参加できる「生き方相談所」を寄付を財源にしながら、事業展開しています。 ー最後に、今後のビジョンを教えてください。 普段、ひとまきでは1週間の滞在型コーチングプログラムをやっています。 今、自分の理想の生き方を選べない、あるいは選択肢すら知らないという方もいると思います。選択肢を知りたい方は、次世代生き方図鑑という色々な生き方を詰め合わせた本があるので、連絡いただければお送りします。 実際にオンラインで話したいという方は、無料でキャリア相談に乗ります。 さらには、実際に生き方を変えたいという方は、1週間滞在型のコーチングプログラム「若者エンパワーメントプログラム」に参加いただき、自分の中の価値観に向き合ったり、実際に生き方を変えていきます。このプログラムは、1週間の滞在型に加え、3ヶ月間オンラインでメンタリングサポートをさせていただき、一緒に生き方を変えていきましょう。 また、高知県で実際にチャレンジしたいという方は、私たちがシェアハウスの運営もしているので、1年間住んでいただきながらメンタリングサポートを毎月受けつつ、同じ思いで集った仲間と生き方を変えていく取り組みを年度毎に行っています。 現在、絶賛募集中なので、NPO法人ひとまきのホームページから応募していただければ嬉しいです。 何度でも生き方を選びましょう! 取材者:山崎 貴大(Twitter) 執筆者:大庭 周(Facebook / note / Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

「悩みを解決して、幸せを増やしたい」ゴリゴリの営業マンだった梅本匠が、サービス開発に向き合うワケ

  様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第94回目のゲストは結婚指輪のオーダーメイドサービス「memoring」CEOであり、株式会社LIVESTAR経営戦略室室長の梅本匠さんです。 現在、事業主と業務委託という働き方のミックスで、プロダクト開発・事業グロースの両側面にチャレンジしている梅本さん。経歴を見ると、「ゴリゴリのビジネスマン」に見えますが、彼が働く意味の先には、「世の中に幸せを増やしたい」というシンプルな優しさがありました。   結婚の悩みが、サービス「memoring」の誕生に ー本日はよろしくお願いします。まずは、現在の梅本さんのお仕事を教えてください。 梅本匠です。海外インターン、株式会社メタップス、ライブ配信プラットフォームを提供する株式会社17 Media Japan、そしてスタートアップと4社を経験した後、フリーランスになりました。 現在は、ライバー事務所を展開する株式会社LIVESTARの経営戦略室室長を務めています。LIVESTARはエンターテインメント事業のエイベックス株式会社の子会社で、プロダクション事業を有する会社です。簡単に言うと、ライブ配信プラットフォームに、配信者を輩出しています。私の仕事は経営企画です。実際のところは「何でも屋」で、事業の足りない部分を網羅的に担っています。 また、事業主として「memoring」というサービスも提供しています。memoringは、オンラインでヒアリングを行い、オーダーメイドの結婚指輪デザインを制作できるサービスです。結婚指輪を作りたい人と、ジュエリーデザイナーのマッチングが可能、とイメージしてもらえれば分かりやすいのではないでしょうか。   ーライブ配信ビジネスと、ジュエリー事業。全く別の二軸が梅本さんの現在の柱となっているのですね。どのようなバランスで働かれているのでしょうか? LIVESTARが6割、memoringが4割、という配分で働いています。memoringは事業フェーズとして、100%コミットして動くようなフェーズにないことも起因しています。   ー梅本さんは26歳のときにご結婚されたそうですが、そのときの体験などがサービスの誕生につながっていますか?   そうですね。結婚指輪を作ろう、となったときに、全く身につけたいと思える指輪と出会えなかったんです。そこで、ジュエリーデザイナーに依頼したところ、自分好みの指輪を手に入れることが叶いました。しかも、既製品を購入するよりもずっとリーズナブルでした。自分が抱えた悩み、そしてそれが解決した体験からサービスの構想が始まりまったんです。 memoringの創業に至るまで、プロダクト開発に携わったことはありませんでした。そのため、日々勉強しながらサービスと向き合っています。結婚指輪は大きな買い物ですから、知らないブランドから購入するということがお客様には高いハードルに感じられるようです。なかなか難しいですね。それでも、「memoringはいいサービスですね」という声もいただいています。   「困っている人を助けたい」被災地で感じたこと ーご自身の悩みが、新しいサービスの誕生を促したんですね。他のお仕事もそのようなきっかけで関わっていらっしゃるのでしょうか? 自分の悩みにとどまらず、私の仕事に対する姿勢の根本には「困っている人を助けたい」という気持ちがあります。大学時代のボランティア経験が、その土台にあるんです。   地元にある神戸大学へ進学したのですが、志望していた経営学部への入学が叶わず、あまり興味が湧かない国際文化学部の学生になりました。やりたいことと全く違う環境に、かなり迷走していましたね。 大学には同じようにくすぶっている人もいて、友人になりました。その人が、「東日本大震災のボランティアに参加しないか?」と誘ってくれたんです。私が入学した年は2011年。東日本大震災発生直後でした。東北でのボランティア活動が活発化しており、また、もともと神戸は阪神淡路大震災を経験していることからボランティア精神が熱い土地なんです。   ー被災地へ足を運んでみて、どのように感じられましたか? テレビ越しでの感じ方とは、全く異なりましたね。「被災者」と一言で紹介されてしまいますが、そのひとりひとりと言葉を交わし、改めて、被災地が直面している課題の大きさを実感しました。それが分かっても、なにかができるわけでもありません。ただただ、被災された方々のお話を聞くだけでも、価値になればと活動していました。   その中で、ボランティアを行う学生団体の組織の弱さの方が気になるようになりました。ボランティアをしたい生徒を募って被災地へ送り込んでいたのですが、そのオペレーションがそのうち崩壊しそうだと危機感を抱いていたんです。 学生団体といっても、神戸大学自体も運営に関わっていて、国から助成金をいただいてのボランティア活動が可能でした。大学単体でやるよりも、学生と提携しているプロジェクトだと見せることが、大学にとっても助成金を申請しやすいというメリットがあったんです。そういうこともあって、担当の先生が「梅本、お前の名前を代表にしておいたぞ」と。   ーえっ、勝手に代表にされていたんですか? はい(笑)そういったことに推されて、2年生のときからボランティア団体の代表として活動することになりました。最初は大変でしたね。私はゴリゴリやるタイプなので、ウマが合わないと判断されたのか、一気にメンバーも辞めてしまって(笑) そうでなくても、大学内の団体は必ず4年周期で人が入れ替わりますよね。そういった部分で、大学も運営に関わっていたのはプラスに作用しました。先生などが継続的に関わっていることで、文化の継承がスムーズになったと思います。 のべ、1,500人以上を岩手県の陸前高田市に派遣することができました。   ー1,500人!素晴らしい功績ですね。代表就任時には離れたメンバーもいらっしゃったのに、結果として成果を収めた要因はなんでしょうか? ゆるく関わるメンバーも歓迎したところでしょうか。年に1回、会議に出席するだけでもメンバーだと認識していました。関係者を増やす、ということは意識していましたね。 また、一度被災地へ足を運ぶと、その人の胸の内に熱量が芽生えて、「また行きたい」と思ってくれるんです。その気持ちは「ボランティアがしたい」というよりも、「あのプレハブに住む人とまた会いたい」とか「あのおじいちゃんと、またお茶が飲みたい」という、「会いたい誰かの存在」が被災地にできるという体験が大きな影響でした。 そういった印象的な体験や、被災地で目にした強烈な風景は、大学へ帰ってきても絶対に誰かにシェアしたくなる。そして「今度は一緒に行こうよ」と自然に巻き込んでくれました。この巻き込み力の強さが、ボランティア団体の強みであり、多くの人が参加するプロジェクトとなった要因です。   過酷な海外インターン ー大学生活を捧げてボランティア団体の活動に情熱を注がれたようですが、4年次には休学をしているそうですね? 休学をして、フィリピンへ行きました。事の発端は、就活中のメンターに、「金を生み出せる匂いが全くしない」と言われたことです。それがショックで、でも、反論できる証拠をひとつも持っていませんでした。ちょうどその頃、本を読んで「海外インターンをし、その経験で就活をハックしろ!」という考え方に出会いました。「これだ!」と思って、休学をして海外インターンをすることにしたんです。   ーどのような会社で海外インターンをご経験されたのでしょうか? 日系人材紹介企業のフィリピンマニラ支社に入ることができました。職種は営業です。企業の開拓をしていたのですが…とにかくしんどかったです。そもそも、フィリピンに進出している日系企業は1,000社程しかなく、母数が小さい。その上、すでに先輩社員が使い回したリストが渡されるので…。テレアポの件数が足りなければ、飛び込みでの営業もしていましたね。 そこで、半年ほどインターン経験を積みます。当時はお金もなかったので、スラム街のようなところで暮らしていました。現地の子ども達が、家の周りを鉄パイプもって走り回っているのが日常風景でしたね(笑)過酷でしたが、振り返っていい経験だったなと思います。 いきなりITや仕組化を考える職種ではなく、個人でどうにかして戦わないといけない、しかも逃げられないという環境下にいたことで、相当鍛えられました。   「最後は営業」先輩社員に学んだこと  ー新卒入社でメタップスを選ばれましたが、この選択はどうしてでしょうか? 個人の力で戦う、という経験が糧になったのもの、実際のマーケットのトレンドとは逆行していると感じていました。連続的な成長が可能な環境へ身を置かないと、キャリアを伸ばしていけないと思ったんです。 メタップスはちょうど上場をしたタイミングで、勢いもあったことから、「この会社だ!」と惹かれて、すでにいただいていた内定を辞退して入社しました。   ー実際に入社をしてみて、どうでしたか? 上場したての会社は大変でしたね。それまでは売上を伸ばす部分に注力していたのが、組織体制や利益率の改善も求められていました。私が配属された部署は、マーケティング部だったのですが、先輩社員は全員、大手企業の営業経験者。「どこまでいっても、最後は営業」ということをそこで学びました。 先輩たちがあまりに優秀だったので、海外インターン経験でついた自信はすぐに潰れてしまいましたね。コンサルティング能力を要しますし、事前知識の量も膨大なため、最初は全く売れませんでした。入社して3か月は苦しんで、そこから受注、手順が見えてきたことで突破していきました。   トレンドに乗って、キャリアを伸ばす ー1年半の在籍期間を経て、その後、2社目に転職されていますね。どういったきっかけですか? ハードワークで体調を崩していたこともあって、元上司でヘッドハンティングをされている方に転職の相談をしました。「伸びる業界へ行くべきだ」というアドバイスと、「ライブ配信プラットフォームの17LIVEが日本に上陸するから、そこへ行け!」と言われて、株式会社17 Media Japanへ転職しました。 IT業界の最前線で活躍されている方って、総じて「トレンドに乗って、キャリアを伸ばした」という特徴がありました。「前の波に乗っていた人が、今のトップ層にいる。次に上へ向かうには、今、どの波に乗るべきか?」と考えたとき、それがライブ配信でした。   ー17LIVEでは、どのようなお仕事をされていたのでしょうか? 業務としては営業に近く、ライブ配信者の開拓です。芸能プロダクションと組んで、ライブ配信者の育成も行っていました。売上をのばすためのフローを構築し、どのように教育していくべきかを提案して…前職のコンサルティング要素が活きましたね。ドアノックからクロージングまで、営業のフォーマットを作り上げられたことは、成果として挙げられるのではと思います。 在籍期間の1年で、売上は約60倍になりました。ものすごい成長速度ですよね。マーケットの拡大が、スタートアップの成長には不可欠なんだと実感しました。   悩みを解決して、幸せを増やしたい ーその後、スタートアップ1社での経験をはさんで、独立にすすまれますが、どのような心境の変化があったのでしょうか? その会社では、プロダクトに関わりたくて転職したのですが、そのプロダクトがユーザーと向き合っていないことに違和感を抱いていました。マーケットを支配しているのは、消費者です。そこにどれだけ寄り添えるか。ユーザーの方を向いていないサービスは伸びません。 そのことで、社長とよく議論に発展していました。結婚をするまで、私は鉄砲玉のような性格で、とにかく思ったことは口に出さないと気が済まなかったんです。それでメンバーとぶつかることは、それまでの会社でもままあることでした。 一見して対等に意見を言い合っているようですが、社長と私だと、とっているリスクが違います。私はリスクもなく、文句を言っているだけだったな、と。「リスクをとることで、あの時の彼らの気持ちを理解できるかもしれない」と考え、独立を決めました。   ー梅本さんは一貫して、体験から語ろうとする誠実さがありますね。フリーランスを経験してみて、どのように感じていますか? 気が楽だな、というのが、正直なところです。自分の方針と違う案件は断っています。被雇用者だとそうはいきませんよね。収入がやや安定しない部分はあるものの、自分のやりたいことを貫けることに、やりがいを感じています。 有名なシリコンバレーの投資家のポール・グレアムの言葉に「Make Something People Want」というものがあります。実際は、人が求めているものを世に送り出すって、めちゃくちゃ難しい。それを痛感していて、だからこそ、周りの働く人々や会社へのリスペクトは増していますね。   ー梅本さんの今後の展望を教えてください。 困っている人がいたら助けたいと思いますし、自分になにができるのかを考えます。「どうすれば人の悩みを解決できるだろうか」その視点が、サービス作りに活きています。いつか、みんなが使うサービスを世に送り出し、幸せになったよねと言ってくれる人を増やしたいです。   ー梅本さんのユーザー目線の仕事姿勢は、参考になります。本日はありがとうございました!   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

”夢は学者起業家”「東大生アイディアマン」connect space 五百籏頭アレンの挑戦

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第234回目のゲストは、connect space代表の五百籏頭アレン(いおきべあれん)さんです。 現在東京大学2年生の五百籏頭さんは、コロナによる自粛生活中、友人と参加したビジネスコンテストでYJcapital賞を受賞。その後もビジネスアイディアがSONYとの共同開発プロジェクトに採択され援助を受けることとなり、起業を決意。 天性のひらめきとリーダーシップで「connect space」をまとめる五百籏頭アレンさんの根源に迫りました。 誰よりも自由を謳歌した麻布高校時代 ー本日はよろしくお願いします。まずは自己紹介と、代表を務めるconnect spaceについて教えてください! 東京大学経済学部の2年生で、将来は学問と実践の場を繋ぐ学者起業家を目指しています。 connect spaceの活動は8月の終わりから始め、今はEdTech(エドテック)と呼ばれる教育とテクノロジーを組み合わせた分野で、塾向けの事業を行っているところです。 提供しているサービスの内容は、生徒一人ひとりをAIで診断し、それぞれの学習スタイルや精神状況を分析して最適な指導法を提案するもの。 初めて塾で指導するアルバイトでもconnect spaceを見れば生徒にマッチした指導ができるようになります。講師と生徒の信頼関係を作ることから指導まで一貫してサポートできるサービスです。 ーそんな五百籏頭さんは幼少期どのような子どもだったのでしょうか? 早生まれで同級生に比べて成長が遅く、運動も勉強もできない子どもでした。 自分に自信がなくていつも部屋の隅っこにいましたね。小学校3年生くらいまで引っ込み思案な性格でした。 ーそこから自信をつけたきっかけは? 今まで何もできなかったのですが、スキーをやってみたら意外とできたことですね。 初めて「自分にも何かできるものがあるんだ」と思えた瞬間でしたね!勉強も継続したらだんだんできるようになって。中学受験でも第一志望の麻布中学校に合格できました! ーすごい!超進学校ですね!その後の中学・高校時代はどのように過ごしていたのですか? 基本的に中学・高校は部活動漬けでした。3つの部活動に所属していましたね。テニスとオーケストラとスキーの3つ。日替わりで好きなところに行っていました。 テニスとかオーケストラは結構練習がハードだったので兼部は反対されていたのですが、両立していました。高校2年生くらいまでは部活動に専念する日々でしたね。 ー部活動に集中していたとのことですが、麻布高校は進学校ですよね?勉強はどのような感じだったのでしょうか? 麻布は進学校なのですが、ただのガリ勉はスクールカースト内での評価が低いんです。 今思えば自分でも本当にしょうもないなと思うのですが、麻布生独特のノリで、試験3日前くらいにみんなで六本木に行くんですよ。遊んでいるのに勉強もできるのがかっこいいと思っている人たちなんです(笑) だから、家に帰ったら一夜漬けで試験範囲を仕上げていました。いかに勉強で友達を出し抜くかみたいな文化がありましたね。 やると決めたらとことんやり切る ーそこから2年間部活動をして、東京大学に合格したわけですよね。部活動が終わってからは受験勉強に集中していたのでしょうか? そうですね。1年くらいは腰を据えて勉強しました。 僕に限らず、大抵部活動の後はだらけてしまう人が多いと思うのですが、僕の場合は受験の1年程前からしっかりと勉強を始められましたね。塾に通ってコツコツと正攻法で受験勉強を行ないました! ー切り替えが上手なんですね!そこからスムーズに学力は上がったのでしょうか? 実はそうではなくて.....。12月の終わりくらいにE判定を出してしまって。これではまずいと思って勉強法を全て見直したんです。 暗記法や集中法を調べまくり、どうすれば暗記力や集中力が上がるのかを知って、ルーティンを作ったりしましたね。 暗記もただ教科書を読むだけではなく、人に授業をする形に変えました。そのようにして根本的に勉強法を見直し、なんとか受験に間に合わせたんです。 ー無事に大学に合格し、起業するまではどのような大学生活を送っていたのでしょうか? ぶっちゃけると、1年生の頃は何も考えずに遊んでいましたね(笑) コロナが流行し始めてからは自粛することになり、遊びの予定が全て無くなって暇になったんです。 暇になったので、いろいろな本を読んでいたら、「インプットの能力が最も高い年齢が18歳」だと知りました。その事実に「あーもう俺は終わってるんだ」と思いましたね......。 そこで、「インプットする能力が落ちないうちに学んでおかなければ」と強い危機感を感じました。 また、コロナのような誰しもが時間を持て余す時期に能力の差がつくとも思いましたね。 今この時期に頑張らないと周りから置いていかれる。逆に、ここで効率よく頑張れば、自分の強みができるのではないかと。 そこからインプットが始まりました。インプットだけではダメだから、友達3人で学びの共有を始めたんです。各人が本やネットで得た学びをアウトプットし、それに対してフィードバックをし合いました。 ピンチをチャンスに。起業家への道を歩む ーコロナ期間に成長しようと思われたのですね!そこから起業に向かったきっかけは? 麻布時代の友達とビジネスコンテストに出場したのですが、そこで受賞して投資家の人と知り合うことができました。 その後学校で、プロジェクトアイディアを出すだけで単位がもらえる授業があって。1年生の頃遊んでいて単位が足りていなかったので迷わず履修しました(笑)そこでアイディアを出したら採択されて。プロジェクトとして開発資金を援助してもらえることになり、本格的に事業を行なうことになったんです。 実際に塾で導入したいと言ってもらえるようになり、契約するのは個人ではなく法人でなければいけないので、起業することになりました! ー実際にサービスを導入したいという声が上がったようですが、アイディアからスタートし、導入に至るまでのプロセスはどのようなものだったのでしょうか? アイディアしかない状態だったので、まずは顧客の声を聞かなければと思いました。ビジネスで一番大事なことは「誰のどのような課題を解決するか」。 顧客インタビューをしようと思い、知り合いから塾の先生を紹介してもらい、そこからまた紹介をしてもらってと数珠つなぎで人脈が広がり、その中で出会った人に導入したいと言ってもらえたのが最初です。 ーまさに今回のサービスは誰のどのような課題を解決するものなのでしょうか? 「大学生のコーチングの質が悪い」という課題です。塾の大学生アルバイトの採用は結構適当で、学歴採用が多いんです。講師不足でしっかりとした基準で採用ができておらず、生徒のモチベーションの低下や退塾に繋がるんですよね。 コーチングの質の低さには「生徒の学習状況や精神状況を把握できていないこと」が考えられるので、それを解決するのがこのサービスです。 ーこのサービスに至るまでどのような過程があったのでしょうか? 実は事業の内容を3回ほど変えているんです。 1つ目は学生向けのオンライン自習室。しかし、継続して使われなくて。最初は面白がって来てくれるんですが。「人が来ない」、「お金が発生しない」という問題が生じてやめました。みんなオンラインの自習室にお金を払わないんです。それではビジネスとして成り立たないですよね。 2つ目は社会人の資格試験のサポート。学生はお金を払わないけれど、社会人ならお金を払ってくれるのではないかと思ったんです。ですが、大人だから集まらなくても自分なりに勉強できるため、このサービスもダメでした。 その後は、ゲームの要素を取り入れることになり、勉強時間の合計をチームでバトルするサービスを作ましたが、結局頓挫してしまいましたね。 ー紆余曲折を経て現在に至ったと思いますが、起業してから挫折したことはありますか? たくさんありますよ!やはりアイディアが潰れたときはショックでした。 ビジネスコンテストでは「オンライン自習室」のアイディアで賞を取ったので、「やったー!これでビジネスができる!」と思っていたんです。中国でもオンライン自習室で成功している企業があったので。 しかし、やってみてうまくいかないことが発覚しました。そのときはとてもショックでしたね。真実に目を向けられなかった......。今となってはアイディアが潰れることには慣れたのですが。 ー期待が大きかっただけに、ショックですよね......。そこから立ち上がったきっかけは? 確かにショックだったのですが、たくさん学びがあったのでなんとか立ち上がれました。 「大学生はお金を払わない」ことや、「継続的に使い続けてもらうための仕組みが死ぬほど大事」ということが学べたので、その学びを次に生かしたいと思えましたね。 その学びを生かしてまたアウトプットしたいと感じ、新しいアイディアが生まれました。失敗するときに大事なのが、学んでいる実感があるかどうか。それが少しでもあればまた立ち上がれると思います。 ーとっても前向きですね!現在サービスを仮説検証中だと思いますが、サービスを通じて最終的にどのようなことを実現したいと考えているのでしょうか? 生徒が主体的に学べるようになることを望んでいます。自ら学びを楽しんでもらうことがコンセプトです。そのためにはアダプティブラーニングを進める必要があると思っています。 生徒によって学習状況や理解度が全然違うのに、学校や塾では一斉の画一的な授業が行われている。本当は1人ひとりの生徒に特化した最適な教育を提供することが大事なんです。AIやアルゴリズムでアダプティブラーニングを可能にし、誰もが最高のコーチに出会える社会を実現していきたいです。 誰よりも思考し、個と向き合うリーダーへ ー壮大な目標ですね!事業を行なう中でチームビルディングが不可欠だと思いますが、どのようにして行なっているのですか? 元々メンバー全員が知り合いというわけではなかったので、まずは1on1で僕と仲良くなり、その後はチーム全体で信頼関係を作れるようにしました。 実際にミーティングの終わりに「この中で僕の好きなタイプはどれでしょう?」といったお互いに関するクイズを出し合ったりしました。答えられなかった人には罰ゲームを科したり。 あとは各分野に責任者を置いて、1つの分野を任せて裁量を持たせる。 具体的な指示を出さず、達成したい目標だけを伝えて、試行錯誤してもらうのです。それに対して僕がフィードバックをします。1つの分野をまるごと任せることで、担当者に責任感が生まれるんですよね。 ー大学生は単調な毎日を過ごしがちですが、五百籏頭さんのように高い意識を持つにはどうすれば良いのでしょうか? 意識の高い友達を「インプットはただインプットするだけでなく、アウトプットすることでよりインプットできるんだ」と説得して巻き込み、学びの共有を始めるなど意識を高く保つ仕組みを作りました。 あとは寝る前のルーティンで日記を書いてるのですが、何も書くことがないとショックなんですよね。「あれ?俺今日1日何してたの?」みたいな。 1日が1つの人生だと思っているので、何も書くことがないとその日1日を生きていない感覚になるんです。そんな日があると、明日は頑張ろうという気持ちになりますね。毎日3行くらいしか書きませんが、自分を振り返る時間があることが大事だと思います! ー今日から私もやってみますね!最後にU-29世代に何かメッセージをお願いします! とにかくユニークに生きましょう!(笑)遊び心が人生を豊かにすると思っているので、遊び心を持ってユニークに生きる人が増えたら楽しい社会になると思います。 だからみんな自分が楽しいと思うことをどんどんやって、何かしらの形でアウトプットしてほしいなと思います! ー本日はありがとうございました!五百籏頭さんのさらなる活躍を期待しております! 取材者:えるも(Twitter) 執筆者:五十嵐美穂(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

「いい過程がいい成果を生む」ー 複業で月250万円稼ぐ國富竜也の成功の秘訣

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第27回目のゲストは、Webマーケティング会社にてWebメディアを運営されている國富 竜也(くにとみ・りゅうや)さんです。 新卒で銀行に就職するも、一年半で辞めてWebマーケティング会社へ転職。しかし、ハードな銀行員生活のかたわらで始めた複業が転職に活き、その転職先での学びを複業に活かすという好循環を生み出している國富さん。 「複業したいけど、どんな仕事をしたらいいか迷っている」「どうしたら毎日ワクワクしながら働けるかわからない」という方へ、國富さんご自身の経験を踏まえたアドバイスをいただきました。   長期インターンを経て、働く意味を見つけた ― 学生時代に長期インターンをされていたとのことですが、きっかけは何だったんでしょう? 小さい時から満員電車で生気のないサラリーマンを見てきて、「なぜ人生の大半を仕事というものに費やさなきゃいけないんだ」「なぜ働かなきゃいけないんだ」と、働く意味が見出せなかったんです。そこで、実際に自分で体験して意味を見つけようと思ったのが、長期インターンを探すきっかけでした。 ― なるほど、それでウォンテッドリー株式会社(以下、ウォンテッドリー)の長期インターンへ。この会社を選んだのはなぜですか? もともと、ウォンテッドリーのサイトでインターン先を探していたんですよ。その中で、たまたまウォンテッドリー自体の募集要項も見ていたら「シゴトでココロオドルひとをふやす」というビジョンが掲げられていて。それを本気で考えている人たちと一緒に働けば、何のために働くのか自分なりの答えが出せるかもしれない、と思い応募しました。 ― インターンでは、実際にどんな仕事をされたんですか? ウォンテッドリーのサービスを利用している法人顧客に対し、求人への応募数を増やすというインサイドセールスの仕事をしていました。ただ、すごく忙しかったし、自分に求められる価値も高くなっていったので、自主的に土日も仕事に関することをやるようにしていましたね。 ― 10ヶ月間インターンとして働いてみて、「何のために働くのか」という答えは出ましたか? 仕事って自分の義務だと思っていたんですが、人生の目的を達成するための手段として仕事を活かすべきなんだなということに気付けましたね。それまでは仕事=目的だと思っていたんですよ。 それに、二つの大きな学びを得ることもできました。一つ目は、「いい成果はいい過程を産む」ということ。結果は全て過程が生み出すもので、その過程に自分の本質的に好きなものがなければ仕事で心躍らせることは無理だし、いいパフォーマンスを出すこともできないんですよね。 二つ目は、「自由と自立のため」に仕事をするのだということ。とにかく自由に生きたいという人生の目的を達成するための手段として、仕事を活かすべきなんだと学ぶことができました。   ミスマッチに苦しみながらも複業のきっかけを得た銀行員時代 ― 大学生のときに長期インターンを経験した人は、卒業後もベンチャーに就職することが多いと思うのですが、國富さんが銀行への就職を選んだのはなぜですか? 自分の金融資産をプロ目線でコンサルティングできるようになりたかった、というのが大きな理由です。小さい頃から、お金に関するリテラシーを学ぶことが人生を左右するんじゃないかと漠然と思っていたんですよ。そこで、金融に関するあらゆる事を幅広く学ぶために、業務内容の幅が広い三井住友信託銀行に就職することにしました。 ― 実際に入社してみてどうでした? 人によって合う合わないもあると思いますが、かなりハードでした。通常勤務に加えて資格の勉強や飲み会、週末のボランティア活動など多忙で、金銭的な負担も大きかったんですよね。仕事を楽しめている人はほとんどいなかった気がします。同期400名のうち、恐らくですが、3年で3割くらいの人は辞めているかと思います。あくまで肌感ではありますが、辞めた人の話を同期から聞くとそんな感じですね。僕も1年半ほどで退職しましたし。 ― どんなタイミングで退職を決意したんでしょう? ブログという複業を見つけることができ、月5〜7万円くらいは稼げるようになっていたので「辞めても安心だな」と思えるタイミングでした。ブログは自分にとって好きだな、継続できるものだなと感じていて、ウォンテッドリーで学んだ「いい過程がいい成果を生む」という学びともマッチしているので結果も出せそうだと考えたんです。また、Webマーケティング会社に内定が出たタイミングでもありました。 ― 辞める前にいろいろと準備をされていたんですね。退職する少し前から複業を始めていたとのことですが、多忙な毎日の中でどうやって複業の時間を捻出したんですか? 最初は複業にあまり時間は割けなくて、ネットで調べて手探りで試していたという感じです。空いた時間で1ヶ月だけやってみる、ということを繰り返していました。はじめは複業にフルコミットしていませんでしたね。 ― 銀行で働く中で、複業をやろうと思うようになったきっかけは何かあったんでしょうか? 銀行員時代の経験を通して、「人生100年時代を生き抜くのはとても厳しい」ということをロジカルに学んだんです。人生100年生き抜くためには、最低でもおよそ2億円は必要になります。それに加えて自分のやりたいことや夢のために必要な金額を上乗せしていくと、もっともっとお金がかかる。税金や社会保険料もどんどん増えていくので2億どころじゃ済まなくなると思います。でも収入は逆に低くなっていく。 この事実を知って「これは月給25〜30万円どころじゃ生きられないな」という危機感を覚え、何とか稼がなきゃいけないと思ったのが複業を始めるきっかけでした。   人生の目的が明確だからこそワクワクして働ける ― 銀行を辞めたあとは、複業のブログを活かせるWebマーケティング会社に転職。まさに転職と複業の掛け算ですね。とはいえ、職務経歴書に書けるほどの複業の実績がない状態で内定がもらえるものなんでしょうか? 内定をもらえたのは、年齢が若かったこともあるかもしれませんが、複業でポートフォリオを作っていたのが良かったと思います。ブログ運営という実績があったので、ある程度の土台はあると評価してもらえました。 また、採用担当者に「業務とのミスマッチが起こらなそうだな」という判断材料を渡せたのが良かったかな、と。半年ほどブログを書いて月数万円稼げたという事実が、ブログが好きであることの根拠となりました。だから、大きな実績がなくても転職できたんだと思います。 ― 世の中にはいろいろなWebマーケティングの会社がありますが、その中でも今の会社を選んだのはどうしてだったんですか? 僕の人生の目的は「後悔しない人生を送りたい」というものなんですけど、この会社ならその目的を叶えるためのスキルを身につけられそうだなと思ったんです。 振り返ってみると、今まで後悔したのは、やりたくないことばかりしていたときだったんですよね。なので、後悔しないために「やりたくないことリスト」を作りました。じゃあそのリストを達成するために必要なスキルを洗い出してみると、ライティングスキルやWebマーケティングスキル、プログラミング、動画などのスキルだったんです。 それらのスキルを最も学べる会社、業界ってどこだろうと考えたとき、今の会社に行き着きました。ここにはGoogle出身者がたくさんいて、さらにマーケティングや広告運用に深く関わっていた人もいたので、その人たちと一緒に働けば、自分が求めているスキルを一番身につけられると考えたんです。 ― 「やりたくないことリスト」を考えるのは面白いですね。國富さんのリストには、具体的にどんなことが書かれているんですか? 例えば世界一周できない人生は嫌だ、満員電車に乗るのは嫌だ、自分で出社するペースを決められないのは嫌だ、場所に縛られる働き方は嫌だ……といったことを書いています。やりたいことももちろんありますが、やりたくないこともたくさんあるんですよね。 ― 人生の目的を決めるとき、先にやりたいことを決めるという考え方もありますが、その逆のアプローチもあるんですね。 地図を持った宝探しのイメージですね。宝は自分のやりたいことで、地図の一点にしか宝はない。 いきなりそれを探すよりは、やりたくないことを見つけていってバツ印をどんどん付けていくわけです。 やがてバツ印じゃない場所が小さくなって、自分が心からやりたいと思う選択肢しか地図に残らなくなるので、僕はそういう視点でやりたいことを見つけていきました。 ― なるほど、わかりやすい例えですね。今の会社に入社してからは、どんな業務を担当されているんですか? メディア運営です。この部署に配属させてほしいとしっかり伝えて配属してもらいましたし、複業で適正をチェックしていたので一切ミスマッチがなかったですね。毎日仕事に行くのが楽しみで、朝も早く起きれています。日曜日は、次の日が待ち遠しいくらいです。 ― 銀行員時代とは大違いですね。なぜ仕事がそこまで楽しいと思えるんでしょう? ひとつはなりたい自分を明確にしているからです。こういう人生にしたいと決めた瞬間に、全て逆算できるようになりましたね。目標やゴールを決めることで、熱中できる毎日を送れるんです。もうひとつは、好きなことをやってワクワクできていることかなと。この二つが日々ワクワクして生きていられる要因になっていると思います。   自分に合った複業探しのコツは、挑戦して好きかどうか確かめること ― 転職して1年が経ち、複業にも相当良いシナジーがあったんじゃないでしょうか。 本業全てが複業に活きていると思います。まずは会社で得た知識・スキルをそのまま複業に活かせていて、フリーランスとして働いていたら得られないようなものを、優秀な同僚から得られています。 また、本業を通して出会った人脈も活かせるんです。SNSに専門性を持っている人やエンジニアとして専門性を持っている人などいろんな専門家と繋がることができて、複業でお世話になるきっかけを作ることができました。 さらに、個人ブロガーだったら月10万PVくらいのWebサイト運営データしか手に入れられないところ、本業では月30〜100万PVのWebサイトを運営しているので、個人では入手できない規模のデータが得られるというのも大きいですね。 ― 1000人1000通りの複業がある中で、國富さんはブログを選んだわけですよね。自分に合った複業を見つけるための方法論はありますか? 一番大事なのは、とにかく色々なことに挑戦して色々な複業をやってみることですね。まず、複業の全体像を知ること。「複業やるならブログだ」と決めるのではなく、どんな複業があるのか範囲を広げてリストアップしてみるんです。 やりたいことって自分の知っている範囲からしか選べないので、まずはその範囲を広げるためにネットや人を通じて視野を広げること。次に、その中から興味があることをピックアップしてみる。そして最後は、とにかく挑戦してみる。この3つのステップが大事だと思います。 実際にやってみないと自分が好きかどうかわかりませんし、「いい過程がいい成果を生む」と思っているので、過程でミスマッチが起きていないか判断するためにもとにかく挑戦してみるんです。 ― まずはやってみて、ワクワク感や自分との相性を確かめてみるのは大事ですよね。自分のワクワクに気付くコツはあるんでしょうか? 僕の場合、気付けば毎日ブログを書けるようになっていて、一日中ブログを書いていることもあったんです。そのときに「自分はこれがすごく好きなんだ」とわかりました。そういう、日常が劇的に変わった瞬間を見逃さないことが大事ですね。 ― 國富さんが掲げる「後悔しない人生を送る」という人生の目的のために、チャレンジしたいと思っていることはありますか? 100個くらいあるんですが、まずは海外旅行に行きたいです。日本一周はしていたんですが海外旅行はなくて、次は世界中の全ての国に行こうと考えています。まず2020年中に4つ行きたい国があるので、それらは全部期限を決めているんです。あとは、複業で月700万円稼ぐことや親に仕送りするなど色々あります。 ― チャレンジに期限を決めているのは素晴らしいですね。最後に、U-29世代の人たちに伝えたいことはありますか? やはり、「いい過程がいい成果を生む」ということを伝えたいですね。本質的に好きなことが何かというのを明確に言語化して、その過程がある複業を選ぶことが重要だと思います。それが分かるまでは「どうしたら成果が出せるのか」といったことばかり求めていましたが、好きなことであれば全部後からついてくるんです。 仕事となると給与や条件をベースに探してしまいがちですが、僕は実際に好きだからこそ複業と合わせて月250万円稼げるようになったので、ぜひ「自分の本質的に好きなものを探す旅」に出てほしいなと思います。その旅でいろんなことに手を出して、いろんな事に挑戦してほしいですね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる ===== 取材:西村創一朗 写真:橋本岬 文:品田知美 編集:ユキガオ デザイン:矢野拓実

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