「monopoに出会ったから日本にいる」ー 若きクリエイターが語るmonopoというコミュニティと夢

monopoについて 東京を拠点のグローバルクリエーティブエージェンシーとして、国内外の様々なブランドにサービスを展開。"A BRAND OF COLLECTIVE CREATIVITY”をビジョンに掲げ、ブランディング・広告・PRを中心に様々な領域において、個人が持つアイデアや創造性を共に発揮できるようなコミュニティ作りを目指している。 2019年、ロンドンに子会社monopo London.Ltdを設立。自社プロジェクト『poweredby.tokyo』では、東京の知られざる魅力を世界に発信中。 Clara Blanc -プロジェクトマネージャー 1994年、フランス生まれ。 大学在学中より、モデル・フォトグラファーとして活動しながら、ラグジュアリーブランドにて広告・ブランディングのプロジェクトマネージメントに従事。自身が運営するブログ「Parisienne in Tokyo」を通して、フランス人目線で日本カルチャーを発信している。2019年、monopoに入社。ファッション・ライフスタイルブランドのブランド戦略・広告企画の仕事を行なっている。 Sumie Newell -デザイナー / イラストレーター 1997年、日本生まれ。 日本とアメリカのハーフとして生まれ、幼少期から日米両方で生活する。 高校卒業後、カリフォルニアの大学を休学しながら18か国を周るバックパックを経験。 世界を渡り歩くなかで、様々なデザインインターンシップを通しスキルを磨き、日本に帰国。 2019年、monopoに入社。持ち前のアートスキルと多国籍な感覚を強みとして様々なブランドのアートディレクション・広告制作などに従事。 「tokyo creative agency」と検索すれば、最上位に出てくるのは、優秀なクリエイターが集まる「monopo」という日本企業。2019年10月、そこに入社された二人の20代女性がいます。 日本とアメリカで暮らした経験から、多様な価値観を強みとするデザイナーのSumieさん。そして、フランス人でありながら日本が大好きで、ブランディングやディレクションの経験もあるClaraさん。 今回はそんなU-29世代のお二人にお話を伺いました。様々な選択肢がある中で、なぜmonopoという会社を選んだのか。また、それまでにどんな人生を歩み、これからどんな未来を描いているのか。 お二人が語ってくれたのは、monopoという企業の素晴らしいカルチャーと、世界を見据えたワクワクするような熱い夢でした。   ここでなら夢が叶う。入社に迷いはなかった 西村創一朗(以下、西村):お二人がmonopoに入社されるまでの経歴を教えてください。まずは、Sumieさんからお願いします。 Sumie:私は日本生まれで、今年22歳になります。父がアメリカ人なので、10歳からアメリカに引っ越し、4年ほど住んでいました。高校は日本で卒業したものの、大学に行きたくなくて世界中を旅して回ることに。そこで自分の世界の狭さに気付かされました。 西村:その旅では何ヶ国くらい回ったんですか? Sumie:18ヶ国くらいを、バックパック一つで回りました。ルーマニアから始まって最後はタイで終わり、再び日本に帰ってきたんです。帰国後、インターンができる企業を探していて、monopoに出会いました。 西村:なるほど。では次は、Claraさんの経歴を教えてください。 Clara:フランス出身の25歳です。日本に滞在するのは今回が3回目。最初は2015年に交換留学で1年間滞在し、2017年には日本のファッションブランドでインターンをしていました。今回は1ヶ月前から日本に滞在していて、monopoに入社しました。 西村:お二人がmonopoを知るキッカケは何だったんでしょう? Sumie:東京でデザイン関係のインターンシップができる企業を探していたところ、monopoが運営しているpoweredby.tokyoにすっかり魅せられてしまって。「こういうものをインハウスプロジェクトとしてやっているエージェンシーって素敵だな」と思ったんです。実は、その時はまだmonopoがどういう企業なのかもよく知らないまま応募しました。 西村:poweredby.tokyoはもともと知っていたんですか? Sumie:いえ、知りませんでした。インターネットで「東京 クリエイティブエージェンシー」と検索して、monopoに辿り着いたんです。 西村:そうだったんですね。Claraさんはどうでした? Clara:私の場合は、友人とmonopo nightというイベントに参加したのがキッカケです。そこでmonopoの雰囲気を知って「すごい会社だなぁ」と。それからmonopoが今までに作った作品などを調べました。国際的な社風でありつつも日本の心を持っている企業だなと感じ、すごく私に合っていると思ったんです。 大学を卒業したら絶対日本に戻りたいと思っていましたし、私は広告を作るようなクリエイティブな仕事をしたかったので、monopoなら私の夢も叶うな、と。 西村:なるほど。Sumieさんは、いろんな選択肢がある中で偶然monopoに出会い、poweredby.tokyoに魅力を感じて……とのことでしたが、他にもたくさん選択肢がある中で悩むことはなかったんでしょうか? Sumie:私はあまり悩みませんでした。世界を旅していた際に思ったのは、多様性のある環境で働きたいということ。そしてmonopoの面接でみなさんと一緒にランチを食べたとき、いろんな国のいろんな人種の方々が集まっていて、みなさん自分の好きなことに没頭しているということが感じられたんです。そういう企業がmonopoしかなかったので、迷いはなかったですね。いつもバックパッカーのような素の自分でいられる職場を探そうと思っていたので。 西村:毎日がバックパッカー。 Sumie:そうです。実際、刺激はめちゃめちゃありますね。学ぶことも多いですし、楽しいです。父がアメリカ人であることや、アメリカで生活した経験もあったので、このような多国籍な企業を見つけられてすごく嬉しかった。 西村:ちなみにmonopoにはどんな国籍の方がいらっしゃるんですか? Sumie:フランス人が多いですね。あとは、南アフリカやカナダ、アメリカ、ドイツの人もいます。日本人が半分くらいいるのですが、グローバルな人が半数もいる企業って、日本ではなかなかないですよね。 西村:それはmonopoのいいところだと思いますね。ですが、アメリカに暮らしていた経験をお持ちなのに、日本で働こうと思った理由は何でしょうか? Sumie:monopoに出会えたからですね。実は、昔から日本に対して「閉ざされた国」というイメージを持っていました。だからこそ世界を旅しようと思ったわけですし。もしmonopoに出会っていなかったら、海外に引っ越して就職していたと思います(笑)こういう環境の会社ってあまりないので、貴重です。   monopoは「会社というよりコミュニティ」 西村:働く環境としてのmonopoはどうですか? Sumie:最高です。やっぱりクリエイティブなお仕事なので、残業もあるし忙しいんですが、忙しさも含めてやりがいがあるなと感じています。とはいえ、仕事中の9割くらいは楽しいと感じています(笑) 西村:いいですね。Claraさんはどうですか? Clara:私も最高です。フランスから見ると、日本の企業は休みが少ないなどけっこうハードな環境なんですが、monopoはそんなフランスの企業より優しいですね。日本でこういう会社があるなんて、信じられないくらい。 例えばフレックス制度があるので、みんながそれぞれ自分のリズムに合わせて仕事ができていいなと感じます。また、他の会社だと担当させてもらえる業務も一つに限られると思うのですが、monopoではやりたい仕事をいろいろとやらせてもらえるのもいいところです。 Sumie:他にも、業務時間内に日本人が英語の授業を受けることができたり、逆に英語しか喋れない人は日本語の授業を受けることができたりするんです。それも、会社の経費で。 西村:へえ、それはすごい。 Clara:monopoでは、「一緒に仕事をする」というより、「一緒にmonopo人(じん)を育てる」という雰囲気があって。仕事以外の自分のプロジェクトも周囲の人がサポートしてくれたり、すごくいい環境ですね。会社というよりはコミュニティといった感じです。 西村:Sumieさんもそのように感じますか? Sumie:はい。いい意味で厳しくないというか。自分で自分のペースを決めることができるんです。だからこそ自分で育つことができる、そういうコミュニティだと思います。 西村:どんな時にコミュニティだと感じていますか? Sumie:まず、みんな仲がいい!めちゃめちゃ話しやすいし、先輩後輩もあまり関係なく学べる感じです。ギクシャクせず、気軽に話しかけられる感じなのがとても大きい。日本の会社だとそういう雰囲気ってあまりないと思うんです。だからこそコミュニティだと感じます。 Clara:例えば周りの人の手が空いていないときでも、私が自分のプロジェクトで悩むポイントがあったら、その部分だけ手伝ってもらえたり、逆に他の人の困りごとがあれば私もそのお手伝いをする。コミュニティの中でのsolidarity(=結束、連携)がすごく強いんですよね。 Sumie:チームメイトって感じですね。 Clara:普段はみんな自分のペースで仕事をしているんですが、一緒に話せる時間もちゃんと決めてあります。合宿もあるんですよ。 西村:合宿があるんですね!どんな感じでしたか? Clara:3日間のうち一泊がキャンプだったんですが、ケータリングがあったりバーテンダーがいたりして驚きました(笑)私は入社前に参加させてもらったんですが、この合宿で入社前に社員の方々とすごく仲良くなれたので良かったです。monopoって最高だなと思いました。 西村:それは楽しそう! Clara:monopoの中のコミュニティが魅力的なだけでなく、monopoの周りのコミュニティがすごく広いのもいいところだと感じます。 Sumie:月に一度開催されているmonopo nightも、世界中のクリエイティブコミュニティをローカライズする、東京に集める、という意図があります。 Clara:monopoは日本の会社ですし、日本のことをすごく理解していて日本文化のいいところもたくさん取り入れられているんですが、海外に対する意識もちゃんとあって。日本と海外との言葉の壁を越えて繋ぐ「架け橋」としての役割を担っていると思います。   自分のやりたい仕事が入社1ヶ月で実現 西村:ここまでmonopoの環境やカルチャーについてお伺いしたんですが、お二人が今どんなお仕事をされているのか、お聞きしたいです。Sumieさんはデザイナーをされていると思うのですが。 Sumie:最近は、ある企業の新製品のキービジュアルを作ったり、ソーシャルコンテンツを作ったりしています。私はイラストレーターでもあるので、企画の絵コンテを描いて提案することもあります。 西村:素晴らしいですね。Claraさんはどういった仕事をされているんですか? Clara:基本的にはプロジェクトマネージャーなんですが、今はファッション企業のクリスマスのキャンペーンを作っています。 西村:作る、というのは? Clara:コンペのためのピッチコンセプトを考えて発表し、実際にそのコンセプトを実現させるところまでやっています。そのキャンペーンのコンペは、monopoのメンバーとチームを組んで勝つことができたので、これからカメラマンさんとも協力して撮影を進めていく予定です。 私はファッションやコスメに関する広告の仕事をやりたいとずっと思っていたので、入社して一ヶ月で、こうして自分がやりたい仕事を実現させることができて幸せです。 西村:普通、入社して一ヶ月って辛いことが多かったり仕事が大変だったり、また逆に研修ばかりで仕事を任せてもらえないということもあると思うんですけど、お二人ともすぐ戦力になっていて、しかも仕事を楽しまれていて、すごく素敵だなと感じます。 Clara:こういう仕事をしたくてmonopoを選んだわけですし、仕事にはしっかり責任を持ちたいと思っています!   「チャレンジ」と「成長」ー 20代の二人が抱く夢 西村:monopoとの出会いのお話の中で「私の夢」という言葉が出てきましたが、クララさんの夢はどういったものなんでしょう? Clara:私にとっては、チャレンジしているときが人生でいちばん楽しいんです。アーティストさんと一緒に働くようなお仕事も、インスピレーションがすごく湧くしモチベーションも高いんですけど、アートのためだけだと、私にとってのチャレンジがあまりないように感じてしまって。それよりは、商品やそのブランドをうまく見せるために、いかにアーティストさんの才能を上手く使うかという戦略を考えるほうが楽しいです。 だから、今はクリエイティブディレクターを目指しています。 西村:なるほど、それで今はプロジェクトマネージャーをされているんですね。Sumieさんはいかがですか? Sumie:私はそんなに野心が強いほうではないんですが、第一に考えているのは「幸せになりたい」ということなんです。 西村:それは大切なことですね。 Sumie:そして、好きな人たちと一緒に自分の好きなことをやり続けて、その中で成長していくということが私にとっての幸せだと思っているので、そういう環境を見つけることが私の夢ですね。   monopoと一緒に世界中で活躍するクリエイターへ 西村:最後に、今後なにかチャレンジしたいことがあれば教えてください。 Clara:monopoと一緒に大きいプロジェクトをしたいです。ルイ・ヴィトンなどの仕事をゲットして、日本のマーケットだけでなく、世界中の広告を作りたい。また、趣味で日本についてのブログを書いているので、そのブログを広めて海外の人たちに日本をもっと知ってほしいなと思っています。 西村:素敵ですね。Sumieさんはどうですか? Sumie:私は、monopoのセールスポイントをひとつ増やしたいと思っています。今のmonopoはデジタルエージェンシー、クリエイティブエージェンシーとしてアピールしていますが、私自身イラストが好きなこともあって、イラストもセールスポイントにしたいんです。 今はポートフォリオにもイラスト系の作品が全くないので、そこから改造していって、イラストの仕事も発注してもらえるような状態に変えていきたいですね。 西村:素晴らしい。Sumieさん自身がmonopoのセールスポイントになる、というわけですね。 Sumie:そうですね。私もまだあまりビジネスのことをわかっていない部分もありますけど、そこはmonopoで学べますし、今は自分をどんどん世界中に押し出していきたいと思っています。個人としても、monopoの一員としても。 monopoにアクセス (取材、写真:西村創一朗、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

「あなたの幸せは何ですか?」世界一幸せな国・フィジーで、幸福な人たちと語り合った長瀬智寛が見た”幸せの秘訣”

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第70回目のゲストはレタス農家で農業に従事している長瀬智寛さんです。 長瀬さん、農家のご出身で…というわけではないのです。名古屋に生まれ育ち、隣人の顔も知らないような都市部での生活しか体験してこなかった今、田舎暮らしを、自然との対話を享受しています。そこに至るまでには、フィジーに新卒入社と海外移住、内閣府プログラムへの参加、愛媛で教育事業に参画と、ユニークなキャリアの足跡がありました。   人間関係のもつれから、「深く考える」という行動に ー本日はよろしくお願いします。まずは自己紹介をお願いします。 長瀬智寛です。1993年に愛知県名古屋市に生まれ、大学は南山大学総合政策学部へ進学しました。新卒でフィジー島に移住すると共に語学学校に就職をし、3年間過ごします。その後、内閣府青年国際交流事業「世界青年の船」参加のために帰国しました。プログラムで34日間の船上生活を送り、今度は愛媛県に移住して教育事業に従事します。そして、現在、長野県でレタス農家で就農しています。ちなみに、今日は26連勤明けの休日です。   ー都市部、海外と生活環境を変えてきて、現在は田舎暮らしをされているんですね。農家生活はどうですか? いままで全く農業経験はなかったのですが、見事にのめり込んでいますね。人やパソコンと向き合っての仕事が多かったことから一転、現在は、日々、土、木々、天気と向き合っています。自然と共存している感覚があるのです。   ーこれまで農業に触れ合うきっかけはなかったそうですね。学生時代はどのように過ごされていたんですか? 父親も兄弟も野球をしていた、野球一家に生まれました。当然私も中学時代まで野球に打ち込んでいたのですが、高校入学とともに辞めてしまいました。進学した高校が家から遠くて、朝練に参加することが困難だったからです。 そのときは、その選択をしたことを得意に思っていました。子どもですから、それまでの人生は大体、他人に決めてもらっていたんですよね。それが「自分で選んだ」という気持ちになって…しかし、その後、野球部を辞めたことを後悔します。自分で好きなものを手放したのですから。 もしまたあのときに戻れるのなら、きっと練習に熱心になれる高校へ進学して、野球を続けて甲子園を目指していただろうと思います。あまり後悔はしない人生ですが、それはいまでも思っていますね。 部活を辞めた代わりに、なにか別のことに熱心になったわけでもなく、ただただ高校3年間がゆるゆると過ぎていったことも、後悔につながっていると思います。また、人間関係のもつれから「友達ってなんだろう?」と深く考えることもでてきました。   ー大学へ進学して、哲学に惹かれたのはそういった体験があってのことなのかもしれませんね。 大学では、幸福学を特に好んで学んでいました。さらに、死生観や人間関係や自分という存在を体系的に学ぶことができ、物事を理解する、よく考える手助けになっています。   きっかけは「あいのり」自分とかけ離れた生活を目にして   ーそして、初めての海外経験が18歳のときに訪れるんですね。 入学式で、サークルの勧誘チラシを歩いているだけで次々と手渡されました。その中に、「フィリピンで学校を建てませんか?」という見出しが目に留まったんです。それで、ある記憶が呼び起こされました。 小学校の頃、当時テレビで放映されていた『あいのり』が好きだったんです。男女6人がワゴン車に乗って、旅をしながら真実の愛を探すリアリティーショーです。その中で、「あおのり募金」という取り組みがあって、カンボジアとネパールに小学校を建てるためのプロジェクトが企画されていました。それを見て、初めて「世界には小学校に行けない子どもたちがいるんだ」ということに気付きました。日本に生まれ、毎日学校へ行って、好きな野球をやっている自分からは遠く離れた世界。子ども心に、現状に違和感を抱いていました。 その想いが再び胸に舞い戻ってきて、「よし、これでフィリピンに行くぞ!」と決めました。   ー小学生越しの想いを叶えるんですね。海外へ行ってみてどうでしたか? フィリピンの田舎に滞在し、小学校を建てるサポートをしました。ただ、水と油が身体に会わなくて、2週間はずっと腹痛に悩まされていましたね。トイレや下水も整備されておらず、あまりに日本とかけ離れた生活は、やはり慣れませんでした。 身体的にしんどかった一方で、幸せそうに暮らすフィリピンの人々が印象的でした。日本よりはるかに生活水準が低い中で暮らしているのに、皆、なぜかとても楽しそうなんです。日本のように嫌な顔をして会社へ向かう人はいませんでした。 国の発展と、人々の幸福は比例しないことにそのとき気付きました。   すでに手に入れたものに幸せを感じる ー海外経験が印象に残り、その後、海外へ就職までするんですね。フィジーを選ばれた理由はなんですか? 当時、幸福論に関する書籍をいろいろと読んでいました。「幸せ」というのは価値観なので、定義づけすることができない、というのが、様々な本を読んだ上での私の結論でした。そこで「幸せな人がたくさんいるところへ行って、それぞれの話を聞いてみたいな」と思います。そうして見つけたのがフィジー共和国です。ネット記事で「世界一幸せな国」として紹介されていました。 大学を1年休学し、9か月間、フィジー留学へ行きます。そして、現地で「あなたの幸せを教えてください」と書いた紙を持って歩き回ったんです。フィジーの方々はとっても気さくで、たくさんの人が話し掛けて、幸せについて語ってくれました。 ほとんどの人が、幸せを「家族」や「人とのつながり」と表現していました。ここで、日本との違いに気付きます。日本だと、結婚することや出世することを幸せだと考える人もいますよね。でも、フィジーでは、これを手に入れられらた幸せ、なのではなく、既に手に入れているものに幸せを感じるんです。 ーだからこそ、フィジーの方々は幸せだと思いやすいんでしょうか。 幸福の度合いを計る基準には、客観的幸福度と主観的幸福度があります。客観的幸福度は、社会インフラなどの生活の基盤が整っているかどうかです。先進国は軒並みこの数値は高くなります。主観的幸福度は、そこで暮らす人が実際にどのくらい幸せを感じているのか、を数値化したものです。フィジーはこの主観的幸福度が高い傾向にあります。 そんなふうに自分の興味関心を突き詰める活動をしている途中で、フィジーで働いている日本人と出会いました。その方は今も私の師匠のような存在で、慕っています。師匠は自分のやりたいことをするライフスタイルを実現していて、自分もそうありたいと思うようになりました。   なにをやりたいか、よりも、誰と働きたいか ー休学期間を終えて、一度は帰国されたかと思います。日本での就職活動はされなかったのですか? 就職活動はしたものの、行きたい企業と残念ながら出会うことができませんでした。そんなときに、師匠から「フィジーの語学学校に新卒入社をして、カウンセラーにならないか」と誘ってもらいました。 師匠のことを、お金を払ってでも一緒に働きたいと思えるくらい尊敬していたので、すぐにその誘いに乗ることにしました。働くということは、当然、自分の思い通りにならないことや、理不尽なことにぶつかると思います。だからこそ、一緒に働く人が重要です。嫌いな人と働いていても、素直に意見を聞くことができません。けれど、好きな人からなら助言として受け取ることができますよね。 なにをやりたいか、よりも、誰と働きたいか、で、フィジーでの就職を選択しました。   ー3年間勤めて、今度は内閣府のプログラムに参加されたそうですが、これはどういうきっかけで? 内閣府青年国際交流事業「世界青年の船」も、過去に師匠が参加していたことから興味を持ったんです。参加をするために、語学学校は退職することにしました。   世界11か国から240人もの若者が日本に集まって、同じ船に乗って34日間の船旅をするのが「世界青年の船」です。8もの文科会に分かれて、インドとスリランカの企業や研究機関を回りながらディスカッションを重ねました。 船の上ではネットが使えませんし、制約も多く、落ち込む方も多くいらっしゃいました。前職でカウンセリングを行っていたこともあって、そんな方たちの話を聞く活動にやりがいを感じていましたね。   人とのつながりを感じたい。田舎へ移住を選択   ーここまで海外経験を重ねてきて、帰国後は一転して愛媛での仕事を選ばれたんですね。その選択の理由はなんですか。 フィジーで人とのつながりの中に幸福の秘訣があることが見えてきました。しかし、私が生まれ育った地域は都市部で、人とのつながりが希薄でした。田舎での地域のつながりを体感すると共に、海外の人にも日本の田舎暮らしを紹介できるようになりたいと思ったんです。 また、仕事として参加したプロジェクトに関心を惹かれたのも大きな理由です。高校魅力化プロジェクトと言って、簡単に言えば、過疎が進む地域の教育事業の魅力を再開発して、人を呼び込むプロジェクトでした。 そこでは町営塾の運営をメインに活動していました。ほかにも、国内留学と言って、日本の別の地域から高校入学者を招致する活動を行っていました。そうしないと、あまりに人口が少なく、高校の合併化が進んでしまうのです。結果として目標だった41人を超える61人もの入学生を募ることができました。   ー素晴らしい功績ですね。常に面白く、わくわくするような選択を重ねているようにお見受けしますが、なにか方針はありますか? マイノリティ戦略をとっているので、選択肢があったときには「人が選ばなさそうなもの」に進むようにしています。誰でもできることをいくら極めても、自分の代わりの存在がでてきてしまいます。なので、敢えて人がとらない選択を重ねて、自分の市場価値を高めています。 また、単純に、私がそういった人の話を聞きたいと思うからです。50年間同じことを務めあげることは立派ですが、私は、10年間ずついろんな経験を積んだ人の話を聞きたいと思います。なので、私もそうありたいのです。   ー長瀬さんの今後の人生も、やりたいことで溢れていそうですね。本日はありがとうございました!     ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

【徹底した分析と集中】トップ就活チャンネルMC・長内孝平が、公務員志向から起業家になるまで 

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第51回目のゲストは人気YouTubeチャンネル「トップ就活チャンネル」”MCおさ”こと長内孝平さんです。  卒業後、伊藤忠商事で働く傍ら、YouTuberとして活躍。子どもができたことを契機に、退職・起業・移住を実施。現在はチャンネル登録者数33,000超えの「トップ就活チャンネル」、73,000人超えの日本最大級のExcel専門チャンネル「ベスト転職チャンネル(おさとエクセル)」を運営している。 動画プラットフォームを初期から開拓し、起業までした長内さん。一貫してブレない行動の裏には、大学時代からの分析力の成果と、そこから導き出された一極集中型の戦略がありました。 もともとは公務員志向だった。起業家精神が養われた留学 ー本日はよろしくお願いします!大学時代のお話からさかのぼって伺いたいのですが、どんな生活を送っていらっしゃったんですか? 大学は、神戸大学に通っていました。主に留学生支援のボランティアと、外交官になるための勉強に時間を割いていましたね。 父親が国家公務員だったことが影響して、ずっと国務に仕えることを考えていたんです。   ー国家公務員!いまとはずいぶん違う進路ですね。方向転換したのは明確なタイミングがあったのでしょうか?  これ、といったライフイベントがあったわけではなくて、自分の中でずっと考えていたことの先に「起業家」という選択があったという感覚ですね。 当時、自分なりにスティーブ・ジョブスや孫正義など、成功している人を分析していたんです。みんな共通して、一点突破しているんですよね。選択と集中がとにかくうまい。そのストーリーを自分に当てはめて考えてみたんです。 経済学部でファイナンシャルを勉強していて、数字の分析に強い。なおかつ、コミュニケーション能力が高いという自己評価をしています。この自分の強みを活かすとしたら、公務員よりも起業家のほうがスピーディーに社会にインパクトを与えられるなと思ったんです。   ーそれは大学時代のいつの頃のことでしょうか? 大学3年の冬から大学4年の春にかけてくらいでした。それで、もともとは外交官になるから留学はしなくても…と考えていたんですけど、起業家になるなら学生のうちに、と思って休学して大学4年の夏からワシントンへ留学をしました。 ー留学でどんな経験を得られましたか? 私費留学だったので、周りに日本人が多かったんです。その人たちが、起業家精神が強かったというか…自分でメディアを運営して、収入を得ているような働き方をしていました。それまで、僕、ワードプレスすら知らなかったんです。そこで「ビジネスってこうやって作るんだな」というのを見て学びました。 ライターとしてコンテンツ制作の仕事をもらいながら、手を動かして経験を積みました。実際に、現地でできた友人とメディアの立ち上げもして、留学についての情報発信もしていましたね。   ーそれは思わぬ収穫でしたね。ほかに学んだことはありますか? 1年弱留学をしていたんですけど、一番の収穫は「キャリアは流動的なもの」という考えを知れたことです。アメリカと日本だと、キャリアに対しての感覚が全く違うんですよね。転職は当たり前だし、フリーランス文化が強い。そういう環境に身を置いて、なおかつ留学先で起業家の講演に頻繁に触れられ、より強く「起業家になろう」という気持ちが高まりました。   就活は相手のニーズに合わせて自分をパッケージ化すること ーそんなふうに起業への意識が高まっている中、就職をしたのはどうしてですか? 帰国してさらに休学期間を延長し、1年間は学生起業に挑戦したり、ひたすら本を読んでインプットしたりする時間にあてることにしました。ビジネスも割とうまくいっていたんです。そのタイミングで、尊敬している先輩に「せっかくうまくいっているのなら、もっと哲学を深めたら?」とアドバイスをいただきました。 そこから、哲学書を100冊ほど、3か月かけてひたすら読む中で、精神的に病んでしまって…。ある哲学者の言葉に傾倒して、それまでの人生が、虚無なものに思えしまうように。いま振り返れば、人生を豊かにしてくれたとも捉えられますが、あの期間はどん底でしたね。   ーそんな時期があったんですね。どうやって乗り越えたんですか? その頃は盛岡に住んでいたんですけど、わざわざ同意者と話したいがために東京まで行くこともありました。そうやって人と会っていたのは、よかったんじゃないかなと思います。孤独になっていなかったことから、そのうち気持ちも回復してきて。 親に心配をこれ以上かけたらいけないな、と思って就職活動を始めました。   ー伊藤忠商事に就職したのはどうしてですか?総合商社に絞っての就職活動だったのでしょうか? いえ、そういうわけではなく、単純にあまり時間をかけていなかったので、ESを提出できたのが7社しかなかったんです。その中で、一番最初に内定をくださったのが伊藤忠商事でした。それが決め手ですね。 就職活動は、相手が求めているものを的確に把握し、そこに合わせて自分をうまくパッケージ化させることが大事です。総合商社の場合は、ガッツやリーダーシップを求めているので、それに合わせて自分の経験をうまく伝えることができたので、内定をいただけたと思っています。   保守的にならない。「今、やるべき」と思ったらチャンス ーExcelの使い方を分かりやすく伝えるYouTubeチャンネル「おさとエクセル(現:ベスト転職チャンネル)」はどのタイミングで始めたんですか? 卒業前から始めていました。伊藤忠商事は副業ができないので、収益化は全くしておらず、ただただ人の役に立てばいいなという気持ちでコンテンツ作りをスタートしましたね。 また、自分のそれまでの経験から、動画を通じて学ぶことの効率の良さを体感していたんです。それまでExcelを動画で学ぶというサービスがなかったので、マーケットとしてもこのコンテンツは伸びると確信をしていました。    ー会社員生活はどうでしたか? 関わったプロジェクトは様々でしたが、一貫して経理周りを担当していまいた。賢く、素敵な方々に囲まれての仕事は、順風満帆なものだったと思います。その一方で、やりがいを見出すことは困難でした。自分の中で、ライフワークという位置づけに留まっていたんです。 大学時代から、自分のミッションを「いい世の中を作る人を増やす」と掲げていました。けれど、実際は財務や経理、会計の仕事ばかり…。生きるための仕事でしたね。 ーYouTubeの方は、両立してどのくらい活動していたんですか? 3年4か月の会社員生活のなかで、公開できたコンテンツは20本ほどでした。仕事前に早起きをし撮影して、土日に編集…という時ももちろんあったものの、もっとやろうと思えば100本は作れたと思います。そこまで根詰めてやっていたわけではないですね。 それでも、YouTubeはストック性が高いプラットフォームなので、自然と影響力は伸びていきました。それが成熟したタイミングで独立しました。   ー独立したひとつの契機として、子どもが生まれたことも大きかったと聞いています。子どもができると多くの人は保守的な選択をしそうですが…。 逆に、子どもがどんどん大きくなるにつれて、リスキーなことはより避けるようになると思うんです。もちろん、「独立していいんだろうか…」と迷うときはありました。でも、「今やらずに、いつやるんだ」って。 YouTubeのマーケット環境を俯瞰しても、YouTuberとしてのポジショニングも確立していました。年齢的にも脂がのった時期で、「今だな」と確信して、会社を辞めてYouseful株式会社を創業するに至りました。   限られたリソースは、やるべきことに全投下せよ ー会社員としてずっと青山という都会で働かれていたのに、一転、活動の拠点を青森に移されたのはどうしてですか? プライベートとビジネスを両立させるための最適な選択が「青森に移住」だった、それだけです。 現在、青森で両親のサポートを受けながら子育てをしています。そうすることで、ビジネスの時間をしっかり確保することが叶っているんです。僕の仕事は動画を撮ることで、場所はどこだって構わないんですよね。 経営者って、やることを列挙するとキリがありません。でも、自分のリソースは限られている。どこに費やせばレバレッジをかけられるかを見極めて、そこに全リソースを投入できる人が成功を納めます。僕にとって、やるべきことは「動画を撮る」だけです。   ーなるほど。一極集中したことで、チャンネルを伸ばすことができたんですね。 この一極集中する場所は独立する際にとことん考えました。そして明確化されたことによって、人と会うことさえもノイズになったんです。東京にいれば刺激を与えてくれる人たちに出会うことは容易です。でも、いまの僕には必要ない。そうなると、東京に住み続けるメリットは消え、むしろ仕事の時間を増やすことができる青森での環境の方が魅力になったんです。 現在は、組織作りも完成していて、編集も、メディアのマネージャーも、演者も、複数人体制で回しています。そうすることで、純粋に僕は動画を撮ることだけに集中できる。これが他の追随を許さない要因となっています。   ー今後はどのようにビジネスを展開させていくご予定ですか? いままで、就活や転職といった働き方においての「点」を抑えるコンテンツを作ってきました。今後は、さらにスキルアップという軸を加えて、大量にコンテンツを作っていく計画です。 追っているのはチャンネル数でも、再生時間でもありません。視聴者に最高のUXを提供すること。そこを変わらず大事に、継続していきます。   ー本日はありがとうございました!   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる   === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

「その道を選んだ自分を信じていこう」コンサルタント、マーケターから人事に転職した高尾有沙の分析、直感、その先の選択

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第72回目のゲストはナイル株式会社の人事・高尾有沙さんです。   慶應義塾大学で社会学を学び、2014年に株式会社ビービットに新卒入社。UXコンサルタントとして400人以上のユーザインタビューやマーケ戦略立案策定等を担当しました。2018年4月より株式会社OKANに参画。マーケターとして広告運用やサイト戦略策定・改善などを実施する傍ら、キャリアコンサルタントの資格取得や副業での転職サポートを始めます。そして、2019年11月から現在に至るまで、ナイル株式会社にて、事業部人事として採用や研修を担当。最近では採用やインバウンドのウェビナー開催も行っています。 社会人7年目で3社を経験し、その度に選択を重ねてきた高尾さん。大学入学までは「自分で選ぶことができなかった」と言います。今、人事、そして副業のキャリアアドバイザーとして人の選択に寄り添う彼女が、自分を信じて選べるようになるまでの過程に迫りました。   働くことを持続可能な生産活動に   ー本日はよろしくお願いします。現在の高尾さんのお仕事について教えてください。 ナイル株式会社のデジタルマーケティング事業部に所属しています。BtoBのSEOコンサルをしている事業部で、マーケティングコンサルタントやコンテンツ編集者の採用、育成がお仕事です。 人事をはじめて半年ほど経ちました。コンサルやマーケターのときと、職種は変わっているものの、頭の使い方はあまり変わっていない感覚です。毎日、楽しく仕事をしています。   ーそもそも、コンサルタントから人事へと関心が移ったのはどういった背景があるのでしょうか? 1社目のコンサルティング会社は、一言で言えば「激務」でした。納品前は深夜3時にミーティング…なんてことも。会社としての業績は好調だった反面、仲間が休職や、病気退職、ボタンの掛け違いで退職する現場を目にしてきました。  優秀な仲間たちの高いコミットメントに支えられて、顧客に対しての価値提供には自信がありました。クライアント企業様の成長にもお力添えできていたと思います。でも、そのことが、働く人の成長や心理的安全に繋がっていないんだとしたら?それって、人間の生産活動として正しいのだろうか?社会人としての成長実感はありつつ、そんな疑問を抱くようになりました。 「持続可能な生産活動をしながら、その人が居続けられる場づくりをする」。そんな働きがしたいなと思い始めました。それが、社会人になって3年目くらいのことです。「クライアントの売上貢献」以外の側面で会社や社会を良くしていきたいと考え、2社目にHR業界のスタートアップに、3社目に人事職に、と転職をしてきました。   理不尽がパワーの源   ー高尾さんのキャリアは、課題解決のために積み重ねられているように思われます。そのような思考は、いつから育まれたのかを知りたいです。どのような環境で育ってきたのでしょうか? 私は神奈川県の片田舎で生まれました。土地の9割が森林、というような場所でした。生活保護受給世帯が多く、大学まで進学する子は珍しかったように思います。親が勤めるメーカーの工場がそこにあり、住んでいたのですが、小学校の頃から「なんだか周囲と違う感じがする」という気持ちを抱えて過ごしていました。   その後、中学受験をして、家から離れた場所にある中高一貫の女子校へ進学します。学校は、親が決めたところで、いわゆるお嬢様学校でした。よくある話ですが、順繰りにいじめたり無視したりする環境がありました。部活でも居心地の悪さを感じていて、部活を続ける意味を見い出せず、正直、辞めたいなと思っていました。でも、中学は部活への所属が必須。行かないと親も教師も怒るし、同じ部活に2個下の妹がいたこともあり、「辞める」という選択肢を取ることは出来ませんでした。 そんな環境のなか、中学3年間は鬱屈とした気持ちのまま過ごします。「周りの人たちを見返してやりたい」という思いから、せめて勉強は、という気持ちで頑張っていました。     高校に進学すると、いじめのようなものは次第になくなっていきました。高校でも部活を続けていましたし、生徒会長も務めていたので、それも影響していたと思います。自分のポジションが明確化することで、周りとの人間関係も円滑に進むようになりました。   ーどうして生徒会長になったのですか?   私は高校入学以降ずっと生徒会の役員をしていたので、正直な話、立候補者情報を事前に知ることができる立場でした。そこに並ぶ顔ぶれから、明らかに「生徒会長になったら、大学の推薦入試で有利になる」という気持ちが透けて見えました。学校を良くしたいという人よりも、自分が大学入試を失敗しないように、という気持ちで生徒会に入る人ばかりが集まるようになっているように感じました。 そのとき、「生徒の代弁者でない人が、生徒会長になっていいのか」と腹が立ってしまい…。中学時代から生徒会に所属していた(中高一貫校のため)ことから、学校の課題は一定把握していたこともあり、「絶対に学校を良くできる」と確信し、立候補して選挙に出て生徒会長になりました。 熱中症対策のために自動販売機でスポーツドリンクを買えるようにしたり、学校指定鞄が重すぎて腰痛になる生徒が続出していたのでナイロン生地のサブバックを導入したり、生徒の「負」を改善していきました。   ーその頃から高尾さんの課題解決能力は発揮されていたんですね。 実施可能になるまで数年を要した案もありましたが、自分たちの行動から変わっていったことは嬉しかったです。学校や先生のことは嫌いになりましたけど(笑)   学校にはどうしても、様々な悪しき習慣があります。生徒が困っていて、それが解決されるべきものであるならば、積極的に変えていくべきです。でも、生徒会長になってみて、それらを継続させているのは先生たちの「ずっとこうやってきたから」「伝統だから」という本質的ではない理由付けであることに気付きました。学校に蔓延る理不尽さに、先生が加担しているのではないか…と。 思えば、今までの自分の行動を起す際のパワーの源は、「理不尽さへの抵抗」でした。   ーそのような理不尽さと戦いながら、中学校とは一転して、充実した3年間だったわけですね。大学は慶應義塾大学に進学されましたが、どうやって決められたんでしょうか? 正直、慶應に進学したことに対しては後悔があります。周りに流されて決めた選択の最たるものだったからです。 当時、親が慶應に合格したことをすごく喜んでくれたんです。ネームバリューがありますし、親も行きたかった大学だったからです。本当は別の大学を志望していたので、正直慶應に進学するつもりは毛頭ありませんでした。慶應を受験したのは、たまたま日程的に余裕があった、それだけでした。受験当日まで足を運んだこともありませんでした。 でも、他の大学に進学する道もあったにもかかわらず、親と学校の先生の後押しと、ネームバリューで決めてしまいました。   大学にもカルチャーがあります。あまりこの観点で大学選びはされないと思いますが、とても大事なことです。結局、あまり慶應では友達ができませんでした。一方で、私の第一志望だった大学に進学した子たちとは、Twitterなどを介して友達になっていました。きっと、都会的でキラキラしている大学よりも、すこし郊外に寄っていてリベラルな大学と、そこに集まる人々の方が自分に合っていたんだと、今では思います。   人生で初めての直感的意思決定 ー中高、大学と親のすすめた学校へ進学してきたわけですが、就活はご自身の意思で決められたんですよね。どうしてコンサルティング会社のビービットに入社されたのですか? 銀行などの定型業務はできないな、と感じていました。わたしは多動性が高く、思考することが好きです。なので、言われたことを正確にこなす、という働きが求められる場所では活躍できないと感じていました。 「思考することにバリューがあって、経済活動に踏み込める会社がいいな…」そう思って、人材紹介会社か、コンサルティングビジネスに絞って会社を選んでいました。   ビービットへの入社は、それまでの人生の中で、「初めて直感で下した」意思決定でした。ミッションへの共感、少数精鋭、一緒に働きたいと思える人がいる…理由は挙げようと思えば色々ありますが、最終的に自分を動かしたのは直感です。 当時の副社長に「内定です」と伝えられたとき、めちゃくちゃ嬉しかったんです。言語化できないような胸の高まりでした。いまでも覚えています。当時のビービットのオフィスの壁って、真っ白だったんですよね。その白さが目に突き刺さるように染みて、涙が込み上げてくるような感覚…。   私はこれまで、努めて論理的であろうとしてきたので、それまで直感はあまり信じてきませんでした。それなのに、あのときに湧きあがった感覚は、私の選択を決める上で決定的なものでした。   ー初めての人生の大きな決断が、いつもなら考えられない直感的なものだったんですね。迷いはなかったのでしょうか? 最終的なお返事をするまでに、かなりの時間を要したので、もちろん迷いはありました。もう一社、魅力的に映っていた外資系のコンサルティング会社があったんです。 その会社の内定者懇親会で、社員の方とお話する機会を持つことができました。そこで、私は、「仕事の後やお休みの日は何をされているんですか?」と聞いたんです。返ってきた答えは「行きたい部署があるから、そのために上司との飲みを頑張っているかな。それ以外は合コン」というもので…。私、ドン引きしちゃって。「私はこんな未来は歩みたくないぞ」と、その会社はお断りすることにしました。 ビービットは、お話していて面白いと感じる方が多かったのも印象的でした。「この人たちと仲間になれるのは、自分の人生を豊かにしてくれるだろうな」と感じていたんです。   ー実際に、ビービットで働いてみてどうでしたか? そうですね。人生で初めての挫折をたくさん経験しました。大学までの人生では、「自分がどうやっても勝てない」と思うような人と出会うことは、正直ありませんでした。けれど、ビービットは、ほとんどの人が東大か京大を卒業している圧倒的な高学歴で、頭の回転や理解力が圧倒的に上だと感じました。     また、同僚同士を比較するカルチャーがあり、批評者が多いとも感じていました。比べられるごとに「コンサルとして戦っていっても、自分はこの人達には勝てない」という気持ちが深まっていき、2年くらいはしんどい思いを持ちながら働いていました。   諦めの先で、自分の強みを理解できた ー非常にストレスの多い環境だったように聞こえますが、どのように乗り越えられたのでしょうか? 良い意味で諦めがついたから、だと思います。2年目までは、会社は自分が能力を発揮できるように最適な環境をお膳立てしてくれるものだ、と思っていました。でも、そうやって待っているだけだと、自分が「活きる」仕事はできないな、って。 「この人たちと単純に戦っても勝てない」と諦めてからは、自分が得意な部分に目を向けるようになりました。「BtoBよりもBtoCの商材の方が向いているぞ」「この業界は理解できる」「こういったインサイトを持つユーザーに働きかけたい」など、自分の強みを分析して、こういう案件ならバリューが出せる、ということを積極的にマネージャーに伝えていました。   また、苦手な部分は、無理してやるのではなく、アウトソースを有効活用していましたね。定量分析は優秀な学生インターンにお願いし、分からないことがあれば信頼する先輩や上司を頼りました。 圧倒的に出来る人がいる、そして、出来ないことをするのは辛い。そのことを知ったおかげで、ある種、身の程を知った状態で物事を考えられるようになり、得意なことを選択して戦うようになりました。   ー仕事も軌道に乗ってきた中で、転職を決意したのはどうしてなんでしょうか? 入社して3年目の9月、突発性難聴に見舞われました。ミーティング中に、飛行機の飛ぶ音がしたので「なんだか今日、たくさん飛行機飛んでますねえ」って言っていたら、メンバーに「今すぐに病院に行け」と。 もうすぐ丸4年のタイミングのことです。仕事には十分慣れていたし、方法論も確立されてきていました。そんな状態でも不調になってしまうということは、スキルの熟達度合いは関係なく、働きすぎてしまう構造があるんだろうな、と気付きました。働く、体を壊す、休んで治す、働く、また体を壊す…。そうやって限界まで働き、悪循環を繰り返す将来は、想像に容易いものでした。   会社を良くする働きがしたい、というのは、周りの仲間を見てきてずっと思っていたことでした。ただ、それができないもどかしさもあって…。ビービットで出会った人たちのことも、仕事内容も、会社のことも、大好きでしたが、HRの領域にいくことを決意しました。   どんな選択も、自分で意味を見出していく   ーそして株式会社OKANに転職されたんですね。入社の決め手はなんですか? ビービットのクライアントは大企業が多く、巨大な組織で働くとはどういうことなのかを見てきました。大企業で働くイメージは湧かず、Wantedlyを利用してスタートアップやベンチャーの求人を探すことにしたんです。   OKANは社食サービスや組織改善サービスを開発・提供している会社です。ミッションに「働く人のライフスタイルを豊かにする」を掲げていて、それに共鳴したのが決め手となりました。   ー実際に働いてみて、どうでしたか? 人事としての転職を望んでいたのですが、スタートアップなので状況の変化があり、実際にはマーケターとして働いていました。 ビービットとは事業構造やビジネスモデルが全く違う会社だったので、固定観念を破れたのが良かった部分だと思います。会社によって、人の価値は変わるんだ、という当たり前のことに気付かされました。     OKANは事業会社であるという特性上、あるいはミッションを最重要視した組織であることから、評価尺度や「良さ」の定義がビービットのそれとは大きく異なります。ビービットはマネージャーからの評判や資料のきれいさなど、アウトプットと獲得したスキルセットなど、成果が重要視されており、明確な成果指標がありました。支援会社から事業会社に移ったというのも大きかったのでしょう。「アウトプットや成果が最重要指標」の世界が当たり前、ではなかったんだな」と思いました。   ー現在は株式会社ナイルに転職されていますが、OKANではどのくらい働かれていたのですか?   1年半です。やはり、人事は経験がないと任されなくて…。自分でキャリアコンサルタントの資格を取得したり、副業で個人的に始めてみたりしたものの、社内での異動は実現出来ませんでした。入社前から人事の仕事がしたいという希望が強かったので、転職をすることにしました。 仲間との紐帯や情緒的評価が重視される会社と、成果が重視される会社、どちらも経験することによって、「自分に水があう」組織への解像度が上がりました。定量的かつ皆が共有できる評価基準の枠組みがある会社、あるいはプロフェッショナルが集まる職人気質の会社の方が働きやすいのではないか、と個人的に求める会社が明確化したんです。   ナイルには明確なランク設定や評価基準があって、みんな仕事が好きで、真面目に粛々と働いています。現在、働き始めて半年ほどになりますが、性に合っていると感じますね。   ービービットは直感で決めたの対し、ナイルはいままでの経験を鑑みて、分析的に選ばれたような印象です。どちらの選択の方が納得した道に進めると思いますか? ぶっちゃけ、どちらでもいいんじゃないかな、と思います。正直、今回の転職でナイルに決めたときは、やっぱり不安だったので、親しい友人やこれまでの先輩・上司など20人くらいにアンケートを取り、内定を頂いた各社のメリデメを書いたスプレッドシートに意見を書き込んでもらって、多数決で決めました(笑) 人間の意思決定って、後から振り返っての意味づけ如何、捉え方が変わるだけだと思います。正直、その瞬間に納得してようが、してまいが、後からその選択を正しくしていくしかない。なので、一瞬でも「この選択、いいな」と思った自分を信じてあげて、ちゃんと肯定し、進んでいく。どんな選択をしても自分で正解にしていければいい、そう考えています。 ー自分で考え、試行錯誤しながら選択を積み重ねてきた高尾さんだからこその捉え方ですね。本日は貴重なお話、ありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

「いい過程がいい成果を生む」ー 複業で月250万円稼ぐ國富竜也の成功の秘訣

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第27回目のゲストは、Webマーケティング会社にてWebメディアを運営されている國富 竜也(くにとみ・りゅうや)さんです。 新卒で銀行に就職するも、一年半で辞めてWebマーケティング会社へ転職。しかし、ハードな銀行員生活のかたわらで始めた複業が転職に活き、その転職先での学びを複業に活かすという好循環を生み出している國富さん。 「複業したいけど、どんな仕事をしたらいいか迷っている」「どうしたら毎日ワクワクしながら働けるかわからない」という方へ、國富さんご自身の経験を踏まえたアドバイスをいただきました。   長期インターンを経て、働く意味を見つけた ― 学生時代に長期インターンをされていたとのことですが、きっかけは何だったんでしょう? 小さい時から満員電車で生気のないサラリーマンを見てきて、「なぜ人生の大半を仕事というものに費やさなきゃいけないんだ」「なぜ働かなきゃいけないんだ」と、働く意味が見出せなかったんです。そこで、実際に自分で体験して意味を見つけようと思ったのが、長期インターンを探すきっかけでした。 ― なるほど、それでウォンテッドリー株式会社(以下、ウォンテッドリー)の長期インターンへ。この会社を選んだのはなぜですか? もともと、ウォンテッドリーのサイトでインターン先を探していたんですよ。その中で、たまたまウォンテッドリー自体の募集要項も見ていたら「シゴトでココロオドルひとをふやす」というビジョンが掲げられていて。それを本気で考えている人たちと一緒に働けば、何のために働くのか自分なりの答えが出せるかもしれない、と思い応募しました。 ― インターンでは、実際にどんな仕事をされたんですか? ウォンテッドリーのサービスを利用している法人顧客に対し、求人への応募数を増やすというインサイドセールスの仕事をしていました。ただ、すごく忙しかったし、自分に求められる価値も高くなっていったので、自主的に土日も仕事に関することをやるようにしていましたね。 ― 10ヶ月間インターンとして働いてみて、「何のために働くのか」という答えは出ましたか? 仕事って自分の義務だと思っていたんですが、人生の目的を達成するための手段として仕事を活かすべきなんだなということに気付けましたね。それまでは仕事=目的だと思っていたんですよ。 それに、二つの大きな学びを得ることもできました。一つ目は、「いい成果はいい過程を産む」ということ。結果は全て過程が生み出すもので、その過程に自分の本質的に好きなものがなければ仕事で心躍らせることは無理だし、いいパフォーマンスを出すこともできないんですよね。 二つ目は、「自由と自立のため」に仕事をするのだということ。とにかく自由に生きたいという人生の目的を達成するための手段として、仕事を活かすべきなんだと学ぶことができました。   ミスマッチに苦しみながらも複業のきっかけを得た銀行員時代 ― 大学生のときに長期インターンを経験した人は、卒業後もベンチャーに就職することが多いと思うのですが、國富さんが銀行への就職を選んだのはなぜですか? 自分の金融資産をプロ目線でコンサルティングできるようになりたかった、というのが大きな理由です。小さい頃から、お金に関するリテラシーを学ぶことが人生を左右するんじゃないかと漠然と思っていたんですよ。そこで、金融に関するあらゆる事を幅広く学ぶために、業務内容の幅が広い三井住友信託銀行に就職することにしました。 ― 実際に入社してみてどうでした? 人によって合う合わないもあると思いますが、かなりハードでした。通常勤務に加えて資格の勉強や飲み会、週末のボランティア活動など多忙で、金銭的な負担も大きかったんですよね。仕事を楽しめている人はほとんどいなかった気がします。同期400名のうち、恐らくですが、3年で3割くらいの人は辞めているかと思います。あくまで肌感ではありますが、辞めた人の話を同期から聞くとそんな感じですね。僕も1年半ほどで退職しましたし。 ― どんなタイミングで退職を決意したんでしょう? ブログという複業を見つけることができ、月5〜7万円くらいは稼げるようになっていたので「辞めても安心だな」と思えるタイミングでした。ブログは自分にとって好きだな、継続できるものだなと感じていて、ウォンテッドリーで学んだ「いい過程がいい成果を生む」という学びともマッチしているので結果も出せそうだと考えたんです。また、Webマーケティング会社に内定が出たタイミングでもありました。 ― 辞める前にいろいろと準備をされていたんですね。退職する少し前から複業を始めていたとのことですが、多忙な毎日の中でどうやって複業の時間を捻出したんですか? 最初は複業にあまり時間は割けなくて、ネットで調べて手探りで試していたという感じです。空いた時間で1ヶ月だけやってみる、ということを繰り返していました。はじめは複業にフルコミットしていませんでしたね。 ― 銀行で働く中で、複業をやろうと思うようになったきっかけは何かあったんでしょうか? 銀行員時代の経験を通して、「人生100年時代を生き抜くのはとても厳しい」ということをロジカルに学んだんです。人生100年生き抜くためには、最低でもおよそ2億円は必要になります。それに加えて自分のやりたいことや夢のために必要な金額を上乗せしていくと、もっともっとお金がかかる。税金や社会保険料もどんどん増えていくので2億どころじゃ済まなくなると思います。でも収入は逆に低くなっていく。 この事実を知って「これは月給25〜30万円どころじゃ生きられないな」という危機感を覚え、何とか稼がなきゃいけないと思ったのが複業を始めるきっかけでした。   人生の目的が明確だからこそワクワクして働ける ― 銀行を辞めたあとは、複業のブログを活かせるWebマーケティング会社に転職。まさに転職と複業の掛け算ですね。とはいえ、職務経歴書に書けるほどの複業の実績がない状態で内定がもらえるものなんでしょうか? 内定をもらえたのは、年齢が若かったこともあるかもしれませんが、複業でポートフォリオを作っていたのが良かったと思います。ブログ運営という実績があったので、ある程度の土台はあると評価してもらえました。 また、採用担当者に「業務とのミスマッチが起こらなそうだな」という判断材料を渡せたのが良かったかな、と。半年ほどブログを書いて月数万円稼げたという事実が、ブログが好きであることの根拠となりました。だから、大きな実績がなくても転職できたんだと思います。 ― 世の中にはいろいろなWebマーケティングの会社がありますが、その中でも今の会社を選んだのはどうしてだったんですか? 僕の人生の目的は「後悔しない人生を送りたい」というものなんですけど、この会社ならその目的を叶えるためのスキルを身につけられそうだなと思ったんです。 振り返ってみると、今まで後悔したのは、やりたくないことばかりしていたときだったんですよね。なので、後悔しないために「やりたくないことリスト」を作りました。じゃあそのリストを達成するために必要なスキルを洗い出してみると、ライティングスキルやWebマーケティングスキル、プログラミング、動画などのスキルだったんです。 それらのスキルを最も学べる会社、業界ってどこだろうと考えたとき、今の会社に行き着きました。ここにはGoogle出身者がたくさんいて、さらにマーケティングや広告運用に深く関わっていた人もいたので、その人たちと一緒に働けば、自分が求めているスキルを一番身につけられると考えたんです。 ― 「やりたくないことリスト」を考えるのは面白いですね。國富さんのリストには、具体的にどんなことが書かれているんですか? 例えば世界一周できない人生は嫌だ、満員電車に乗るのは嫌だ、自分で出社するペースを決められないのは嫌だ、場所に縛られる働き方は嫌だ……といったことを書いています。やりたいことももちろんありますが、やりたくないこともたくさんあるんですよね。 ― 人生の目的を決めるとき、先にやりたいことを決めるという考え方もありますが、その逆のアプローチもあるんですね。 地図を持った宝探しのイメージですね。宝は自分のやりたいことで、地図の一点にしか宝はない。 いきなりそれを探すよりは、やりたくないことを見つけていってバツ印をどんどん付けていくわけです。 やがてバツ印じゃない場所が小さくなって、自分が心からやりたいと思う選択肢しか地図に残らなくなるので、僕はそういう視点でやりたいことを見つけていきました。 ― なるほど、わかりやすい例えですね。今の会社に入社してからは、どんな業務を担当されているんですか? メディア運営です。この部署に配属させてほしいとしっかり伝えて配属してもらいましたし、複業で適正をチェックしていたので一切ミスマッチがなかったですね。毎日仕事に行くのが楽しみで、朝も早く起きれています。日曜日は、次の日が待ち遠しいくらいです。 ― 銀行員時代とは大違いですね。なぜ仕事がそこまで楽しいと思えるんでしょう? ひとつはなりたい自分を明確にしているからです。こういう人生にしたいと決めた瞬間に、全て逆算できるようになりましたね。目標やゴールを決めることで、熱中できる毎日を送れるんです。もうひとつは、好きなことをやってワクワクできていることかなと。この二つが日々ワクワクして生きていられる要因になっていると思います。   自分に合った複業探しのコツは、挑戦して好きかどうか確かめること ― 転職して1年が経ち、複業にも相当良いシナジーがあったんじゃないでしょうか。 本業全てが複業に活きていると思います。まずは会社で得た知識・スキルをそのまま複業に活かせていて、フリーランスとして働いていたら得られないようなものを、優秀な同僚から得られています。 また、本業を通して出会った人脈も活かせるんです。SNSに専門性を持っている人やエンジニアとして専門性を持っている人などいろんな専門家と繋がることができて、複業でお世話になるきっかけを作ることができました。 さらに、個人ブロガーだったら月10万PVくらいのWebサイト運営データしか手に入れられないところ、本業では月30〜100万PVのWebサイトを運営しているので、個人では入手できない規模のデータが得られるというのも大きいですね。 ― 1000人1000通りの複業がある中で、國富さんはブログを選んだわけですよね。自分に合った複業を見つけるための方法論はありますか? 一番大事なのは、とにかく色々なことに挑戦して色々な複業をやってみることですね。まず、複業の全体像を知ること。「複業やるならブログだ」と決めるのではなく、どんな複業があるのか範囲を広げてリストアップしてみるんです。 やりたいことって自分の知っている範囲からしか選べないので、まずはその範囲を広げるためにネットや人を通じて視野を広げること。次に、その中から興味があることをピックアップしてみる。そして最後は、とにかく挑戦してみる。この3つのステップが大事だと思います。 実際にやってみないと自分が好きかどうかわかりませんし、「いい過程がいい成果を生む」と思っているので、過程でミスマッチが起きていないか判断するためにもとにかく挑戦してみるんです。 ― まずはやってみて、ワクワク感や自分との相性を確かめてみるのは大事ですよね。自分のワクワクに気付くコツはあるんでしょうか? 僕の場合、気付けば毎日ブログを書けるようになっていて、一日中ブログを書いていることもあったんです。そのときに「自分はこれがすごく好きなんだ」とわかりました。そういう、日常が劇的に変わった瞬間を見逃さないことが大事ですね。 ― 國富さんが掲げる「後悔しない人生を送る」という人生の目的のために、チャレンジしたいと思っていることはありますか? 100個くらいあるんですが、まずは海外旅行に行きたいです。日本一周はしていたんですが海外旅行はなくて、次は世界中の全ての国に行こうと考えています。まず2020年中に4つ行きたい国があるので、それらは全部期限を決めているんです。あとは、複業で月700万円稼ぐことや親に仕送りするなど色々あります。 ― チャレンジに期限を決めているのは素晴らしいですね。最後に、U-29世代の人たちに伝えたいことはありますか? やはり、「いい過程がいい成果を生む」ということを伝えたいですね。本質的に好きなことが何かというのを明確に言語化して、その過程がある複業を選ぶことが重要だと思います。それが分かるまでは「どうしたら成果が出せるのか」といったことばかり求めていましたが、好きなことであれば全部後からついてくるんです。 仕事となると給与や条件をベースに探してしまいがちですが、僕は実際に好きだからこそ複業と合わせて月250万円稼げるようになったので、ぜひ「自分の本質的に好きなものを探す旅」に出てほしいなと思います。その旅でいろんなことに手を出して、いろんな事に挑戦してほしいですね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる ===== 取材:西村創一朗 写真:橋本岬 文:品田知美 編集:ユキガオ デザイン:矢野拓実

「HRで目の前の人からハッピーに」—元パイロットが人事のスペシャリストに転身した秘話。

  色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第5回目のゲストは、非連続的なキャリアの末にパイロットから鞄製造会社の人事へと転身してこられた西島悠蔵さんです。 簡単にそのキャリアを振り返ると、新卒でANAにパイロットとして入社後、転職先のリクルートキャリアではキャリアアドバイザーと中途採用を担当。今では従業員規模100名程度にまで成長したベルフェイスがまだ10名弱だった頃には人事組織の立ち上げを牽引。そして現在は、創業50年を超える老舗・土屋鞄製造所で人事部人材開発課・課長。 今回はそんな独自のキャリアを歩んできた西島さんに、それぞれの転機における判断軸や決断の裏側を伺いました。   就職氷河期に7社8職種内定の内心。 -新卒の当時は今とは全く違う、「ANAでパイロット」というキャリアを選択されたと思うんですけど、学生時代はどんなことしてたんですか。 学生時代は何もやってなかったんです。本当に授業とか全然行ってなくて。朝~夕方まで麻雀を打って、学校行かずにそのまま部活(バスケ)に行って帰る、みたいな生活をずっとやってて・・・本当に底辺みたいな生活をしてましたよ(笑)。学生らしいといえば、学生らしい生活を送っていたのかな。 ただ、このままダラダラ過ごしていくのはやばいなと思ったので、一応アルバイトはちゃんとやってました。一番最初のバイト先はスターバックス、その後は朝日放送。それからCOACHで販売員をやっていました。大学3年生の時、販売員としてかなりの販売実績を残せたこととかは就活中の売りになりましたね。 自分で言うのも恥ずかしいけど、就活は超無双でした(笑)。当時は大手の7社8職種から内定を頂いて。   -就活は無双モード、と言っても当時就職氷河期でしたよね?   そうですね。当時はちょうどリーマンショックが起きて、急に内定を取り消された先輩の姿や採用活動縮小しますと宣言する企業が増えていたので、内心「やばいな」と不安を抱えながら就活を始めたのを覚えてます。 ただ、就活の話すると超ダサいやつになるんですが、僕はシンプルに大手に行きたかったんですよ。 というのも、僕、高校は進学校だったんですけど大学受験をしていなくて、受験せずに特待に近いような形で大学に入学してます。その当時、高校は周りが国公立ばかり目指しているところで、私立大学に行きますって言ったら周りから「お前妥協じゃね」みたいなことをすごい言われて。だから、なんか変な学歴コンプレックスみたいなのがあったんです。 そこで、就活は分かりやすい成功をおさめたいと思って、まずは就職人気ランキング100位までを調べてました(笑)。その後、最初リクナビを見てエントリーできそうなところを探し、片っ端から77社へエントリーシートを書いて、毎日4−5社面接受けて・・・というような就活をしてました。面接や試験では、テクニックを駆使しながら「いかにして就活というゲームを攻略するか」と考えてましたね。 今、自分が人事をしていてそんな学生が来たら絶対採りたくない(笑)。今はより就活が情報戦になっているし、企業に合わせて自分を偽っていると自分自身がわからなくなるので、同じやり方はあまりおすすめはしません。   -就活というゲームでは無双状態だったわけですけど、内定は何社くらいもらったんですか? 大手生命保険、大手銀行、全日空のパイロットと総合職など、7社8職種の内定を頂きました。4月17日、パイロットの内定が出たところで全日空のパイロット職として入社を決意し、就活を終えました。   自分を押し殺し続けられるか...。パイロットから人材キャリアへ -ファーストキャリアとして、なんでパイロット、ANAを選んだんですか? まず、母親がもともと全日空で客室乗務員をしていて、「全日空に戻りたいな」という話を聞いていたんです。親世代の人が働きたい環境って素敵だなと思っていたのと、一部恩返しみたいなところもありましたね。でも、これはあくまで1割。外向けの綺麗な、素敵な理由 。  残り9割は分かりやすく、お金もらえるし、女性が多いからモテるだろうし、タクシーの送り迎えもつくし、完璧やんみたいな。ステータス的に完璧だからそっち行こう、って選びましたね。極めてわかりやすい、大学生らしい意思決定の仕方でしょ。   -順調な就職活動を経て、ベストと言われる選択ができて、2010年にANAに就職するわけですけど、実際入社してみてどうでした? 正直、内定者研修の時に違和感を感じ、辞めようと思いました(笑)。 実際に入ってみると、みんな会社が好きで、飛行機が好きで、小さい頃からの憧れを抱えて入る人たちが多かった。それが、幅広く就活して、ステータス重視で入社を決めた僕にとっては、ちょっと熱狂的すぎたというか。すごい温度差を感じたんです。はじめはすごくきつくて、「僕にとっては一生やる仕事ではないな」と思っていたのはすごく覚えてますね。   -けれど、すぐには辞めなかったんですよね? パイロットとして入ったからにはちゃんと真っ当にやらないととは思っていたから、訓練2年を含めて結局4年弱はいたかな。 入社時から感じていた違和感は、どこかでずっとあって…航空法や会社の規定を守るからこそ空の安全は守られるのですが、どうしても自分の中でそれが面白くないと思ってしまっていた。 結局、入社してから、それからも違和感が消えることはなかった。「このままずっと自分を押し殺しながら続けるのか、自分らしく辞めるのかどっちかかな」と真剣に考えるようになり、退職へ。   -そして、転職活動をスタート。 はい。転職先として考えていたのは人材系。全日空時代に採用関連の業務に携わったこと、就活中に素敵な人事に出会っていたことから人材方面にキャリアを積みたいと考えていました。なかでも、目指していたのはリクルート。 当時リクルートエージェントで転職活動をしていたんですが、エージェントさんがくれる求人にはリクルートはなくて。「リクルートの会社で働くエージェントさんが出してくれないってことは、僕はリクルートにはいけないのかな」って思ってたんですが、思い切って「すみません、リクルートとか募集ないですよね?」って聞いたら、「ありますよ!」って。あの時一歩踏み出さなかったら、今のキャリアにめぐりあってなかったし、違う人生だったなって思いますね。   -その後リクルートキャリアへの転職を決めたわけですが、入社当時はすでに「いつか人事になるぞ」と意識してたんですか? 人事にはなりたいなと漠然と思ってたけど、入社してから配属されたキャリアアドバイザーの仕事が大変で。退社後に勉強したり他社の人の話を聞きに行ったり、成果を出せるように必死にやっていましたね。それだけ必死になって頑張った背景には、転職する際の最終面談の時に当時の人事部長に言われた一言が大きくて。 最終選考の面談の時、僕はキャリア4年目。「リクルートの4年目ってどれくらいのレベルか知ってるの?君の3倍は仕事できるね」ってはっきり言われました。「どれくらいで追いつくの?」って聞かれて、1年くらいですかねとか言ってたら、「そういうところがなんかぬるいよな。1年とか普通じゃん。半年って言えよ」って返されて(笑)。半年で本当に4年目に追いつけるのかなって思ったけど悔しかったから「3ヶ月で追いつきます!」って握手しちゃったから、もう焦りまくってたわけです。  とりあえず成果出さないと、成長しないと、って必死でしたね。仕事が終わってからは深夜2時まで空いてる大崎のスターバックスに行って、終電までいつもいろんな本読んだり勉強したりとかして。懐かしい。   待ってるだけでは、描いたキャリアを実現できない。 -そうだったんですね。成果を出すために最初はめちゃくちゃ努力されたと思うんですけど、ブレイクスルーしたタイミングとかあったんですか? 自分の中で明確に覚えてるのは、ちょっと慣れてきたタイミングの時のことです。あと一人内定決めれば全社のMVPになれるかもしれないって話が、僕のもとにちらっと舞い込んできていました。これは大きなチャンスだと思いましたね。 この人がその場で握手すれば完璧にMVPが決まるという時があって、僕は必死になってその人を4時間くらい面談してたんです。本人はずっと「自分は行きたいけど家族に話したい」って言っていたところ、僕は「わかりました、電話しましょうよ」って言って。その場では電話がなかなか繋がらなくて、本人もできれば土日で考えたいと途中から言い出して。 今では役員になられた当時の上司にその状況を相談したら、「あんたそのための4時間だったの!?」ってすごい怒られたんです。「早く帰しなさい!あんたの成績はそのお客さんの人生にとって何にも関係ないのよ。どこ向いて仕事してんの?」って言われて。うわーっ・・・て思ったんです。 もうその時は自分のことで精一杯だったし、自分の成果を出さなきゃって思ってたから、目の前の人の人生よりも自分の売り上げを追っかけていたんですよね。その時にすごく葛藤して。バランスっていうのは難しいんだけど、最終的に極のところっていうのは目の前の人に向き合うことなんじゃないかなって、その時にはっきり気づかされましたよね。 相談を終えた後、面談していた方にはすぐに帰っていただき、案の定MVPは取れず。まあ、その方が決まってても最終的には取れなかったけれど、本当に成果以上に良い気づきを与えてもらいました。   -MVPは逃したけど、仕事の本質、大切なところに気付かされた瞬間だったんですね。その後キャリアアドバイザーから、一時期転職活動されていた時期もあったじゃないですか。 ありました。キャリアアドバイザーをちょうど2年くらいやったタイミングで、飽きてしまって。というのも、どうしても個人の方しか向けないし、個人に向き合う大切さは学んだんだけど、じゃあその次の成長、ステップって何なのかというところが分からなかったんですよね。 そこで、やっぱりその先も見れる人事になりたいと思って人事のポジションを色々探し始めました。リクルートの中で異動できれば一番よかったんだけど、時期的にも少し先になりそうだったので転職活動を。 そしたら、まさかの大手・有名企業からHRポジションの内定をもらうことができて、これはいけるかもしれないと思いました。内定を持った状態で、当時のリクルートのマネージャーに話しに行ったんです。「僕人事いきたいんですけど、人事にいける道が手元にあって迷っていて。社内で異動ってできないですよね?」と相談したら、「まあ待て」って言われて。しめしめじゃないけど、戦略的にキャリアを積むってこういうことかもなっていうのを考えられたのかな、と。 総合職で入っている人とかは特にこの辺考えた方がいいなと思っています。待ってたら、そのキャリアが自分を連れてってくれる時代ではもうない。やりたい仕事に対しての準備っていうのは、ちゃんとしないといけないんです。 僕だったら、例えば人事と積極的に絡みに行きながら、「キャリアアドバイザーで頑張ってる奴がいる」っていう噂が立つくらい影響力を積み上げて、時期が来たら最後に切り札持ってるみたいな。もう完璧なシナリオでしょう。   ーそこから人事としてのキャリアがスタートしたわけですけど、その後にベルフェイスに行くわけじゃないですか。大手・リクルートからベンチャー・ベルフェイスに転職しようと思ったきっかけは? これは2つエピソードがあって。1つは5泊6日の新卒インターンシップにたまたま参加することになった時のこと。毎晩毎日学生と話をしていくうちに、今まで自分は人と向き合うのが上手だって思ってたんだけど、全然向き合えていなかったなと気づいてきて。 自分の姿勢がその学生たちに影響を与えるって言われていたんだけど、当たり障り無く周りの人とコミュニケーションを取れるけど本音を出さないっていう僕の姿勢が当時のグループにも表れていたんです。 2日目には学生との関係に限界がきて言い合いになった時、ある学生から「ユウゾウさんは泣きそう泣きそう言ってて絶対泣かないタイプですよね。そういうところが僕は嫌いです」って言われました。「学生には言う割に自分はそういうところ隠しますよね。だから今日は喋りましょうよ」とも言われて、そこから夜中の3時くらいまで号泣しながら語って。そこで初めて、人と向き合う仕事って面白いなと思ったし、ある種難しいなっていうのもすごく感じたんです。 ただ、その体験を味わってから職場に戻ってきた時のギャップがものすごくあって。大手の人事ってどうしてもオペレーションで回っちゃう。というよりも、回さないといけない。だから、このまま続けるのはちょっと違うなって思いました。 もう1つは、僕のリファラル採用で入社した人がいたんだけれど、入社2ヶ月後くらいにその人から電話がかかってきて。一緒にランチに行ったら、「私の同期みんな辞めちゃったんですよね」って言われて。ランチ中にその子がめっちゃ泣き出しちゃって、「ユウゾウさん、いい会社って言ったじゃないですか」って言われたんです。その子に申し訳ないっていう気持ちもあったけれど、何よりショックだったのはみんなが辞めた事実を知らなかったっていうこと。やっぱり大手で組織も細分化されていたから、「人事って何なんだろうな」って思いましたね。 その時、当時担当していた中途採用担当っていう狭い領域だけじゃなくて、もうちょっと広い、中途も新卒も、もっというと労務とか教育とか、入社後のところも見れるようなキャリアを積みたいなと思ったんです。 その2つがベンチャーに行こうと考え始めたきかっけでしたね。   HR文脈で目の前の人、日本で暮らす人をハッピーに。 -ベンチャーから老舗の鞄製造会社へ。このキャリアもまた、印象的ですよね。今はどのような働き方をされているんですか? 今は自由に色々やらせてもらっています。人事部人材開発課・課長をさせてもらいながらも、ふと気がついたら他に複業6社やっていて。 複業では、採用のコンサル、採用ブランディングみたいな文脈で関わっている企業が2社。人事として関わっている企業が2社。人事として関わっている企業では、僕が欲しいサービスを企画して作ろうとしています。具体的には、学生向けのオンライン説明会などをやっています。 他には大学の非常勤講師だったりエージェントとかもちょこっとやっていたりするんだけど、ベルフェイスでの人事組織立ち上げ経験をはじめとして、自分が今までやってきた経験をそれぞれそのまま活かしているって感じですね。新しいことを始めたっていうよりも、色々自分がやってきたことを広げていったら今6社にまで広がったって感じ。   -人事は天職だなって思うことはありますか? 天職っていうのは、なんだろう(笑)。わからないですけど、人事のように人と向き合える仕事っていうのは自分はどこまでやっても飽きなくて、どれだけ身体しんどくてもやれる。っていうことは、もしかしたら天職なのかなって思いますね。   -人事というところ、人と向き合える仕事を軸に、おそらく今の会社からまた違うところにいかれるってこともありますか? それ最近すごいいろんな学生に言われる(笑)。 いつまでいるんですか、みたいな。 端的に言うと、しばらくここで働いていくと思っています。 なぜここに入ったのかっていう話になるんですけど、製造業とかものづくりとかって、時代的には傾いていくイメージのある業界ですし、勢いもITとかに比べたら全然無い領域ですよね。 でも、僕はここ数年でこの業界を変えられるんじゃないか、中にいる人たちがよりハッピーに働けるようにできるんじゃないかって思ってるんです。HRの文脈でこの業界を変えられれば、大げさじゃなく日本を救えるとも思っています。 その背景にあるのは、これまでいろんな仕事を経験してきた中で気持ちが変わってきていることがあって。「目の前の人をハッピーにしたいな」っていうところから「より多くの人をハッピーにしたい」と。もうちょっといくと「日本で暮らす人たちとか、日本に関わる人たちがハッピーになってくれると、僕はすごく嬉しいな」って思うんです。 それが自分の人生をかけてやれることかもなっていうのを最近考え始めていて、今はそれを叶えられるのが土屋鞄。柔軟な働き方を許してくれてることもあるので、しばらくはいるのかなっていう感じはします。   -目の前の人から、広く日本を変えていきたいという思いはどういう風に出てきたのでしょう?どうしたらそんな風に変わっていくんだろうみたいなのが気になりました。 目の前の人を幸せにしていくっていう連続を続けていくことが、そこに繋がったのかな。ベースは一番そこが大きくて、ずっと目の前の人と向き合っていたら物足りなさを感じるようになっていくというか。 要は、同じ成功体験を味わっていると、人ってやっぱりもっと成長したいって感覚が強いので、「もうちょいやりたいな」っていう前のめりな気持ちが多分でてくるんです。そういう成功体験を続けているとだんだん見える範囲が大きくなってくるので、より上のレイヤーで物事を考えてみたいなっていう感情が湧いてきたっていうところが大きいですかね。 目の前のお客さんに向き合って、その人が結果的にどのようなベネフィットを得るのかというところをだんだん見るようになっていって、「そうしたらもっとここにも価値提供できそうだな」とか「もっとこういうことできそうだな」っていう風に感覚的に変わっていった感じですね。   これまでになかったIT・WEBとのコラボを -最後に、今後チャレンジしていきたいこととかをお話しいただけますか? 正直、他の業界に比べたらものすごく遅れている領域だと思っています。例えば、一番最初の面接で「この人の書類ってどこありますか」って聞いたら、めっちゃでかい倉庫がガチャンって開けられて、ファイリングされてるのをバーっと調べて、この人ですって差し出されて。「いや、やばいな! すごい状況だな」と思いました(笑)。 クラウドのクの字も出てこないような業界なんだけど、こういう会社が変わっていって、少しでもITとかWEBとかとコラボし始めると多分面白いイノベーションが起きるんじゃないのかなって思ってるんですよね。 その先に日本とか、今関わっている人たちがハッピーになっていけばいいなと思っているので、僕はそういった逆風吹き荒れる中、カオスな環境でも笑いながらやっています。それを続けていくのが直近のキャリアイメージかなっていう感じですね。 今は日本のために~とかって大きなことを言っているけど、結局は目の前の人と向き合いながら前向きな挑戦がしていければ良いなと思っています。    

2、3年後には図解を卒業します。「図解クリエイター」新垣才が語る、大学在学中から好きを仕事にした方法

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第110回目のゲストは合同会社ウェブデリの新垣才さんです。 新垣さんは、中学時代はバスケ、高校時代はアニメに熱狂したそう。その一方で不登校や勉強のやる気を喪失するなど、自分の人生にしっかりと向き合い、悩みながらも行動していく姿が魅力でした。現役路線とアニメイベントのある東京を優先し、東京工業大学に進学します。 大学院時代にTwitterで見つけた有名Youtuberのオンラインサロンで「図解」の世界を開拓した新垣さん。その背景には、好きを緻密に分析する力と方針に沿って行動する場がありました。 ーまずは自己紹介をお願いします。 図解クリエイターの新垣才です。「図解」とは、様々なモノゴトを整理整頓し、図形や文、アイコンなどを用いてわかりやすく説明したものです。図解を作ったり、図解の作り方を教えたりすることを仕事にしています。 また、合同会社ウェブデリを2020年4月に立ち上げました。ウェブデリでは、図解でコンテンツを視覚化する事業を展開しています。具体的には、スライド制作、スライド研修、SNSやWebメディア運営などです。「伝えたい想いが伝わる世の中を創る」を、企業ビジョンとして掲げています。 ー図解って、独特のポジションですよね。 そうですね。僕は、デザイナーではないので図解クリエイターと名乗るよう意識しています。デザイナーと名乗ると、WEBデザイナーやグラフィックデザイナーを思い浮かべると思いますが、図解はまた違ったアウトプットなんです。 バスケ少年の中学時代と根暗なアニメオタクの高校時代 ー図解クリエイターとなるまでの歩みを教えていただきたいです。学生時代はどのように過ごされていましたか? 中学受験をし、中高一貫校に入学しました。6年間を通してバスケ部に所属していました。部活自体の練習量が非常に多く、ほぼ毎日、バスケをしていました。あまり熱心な部員ではなくて、やる気がない方だったと思います…。もちろん、試合ではスタメンではなくベンチスタート。 ただ、それは中学生までの話で、高校1年生で、突然やる気が出たんです。朝の自主練もしましたし、本を何冊か読んで自分のポジションでの動きへの理解を深めました。一生懸命に練習を始めて2か月くらい経った頃に、腰に痛みを覚え…。医師の診断結果は「第五腰椎分離症」。過剰な練習が原因の疲労骨折でした。 ー振り返ってみて、どのような子どもでしたか? 小学生では学級委員長をやっていて、明るい性格でした。中学から突然静かになり、思春期で自分の容姿を気にするようになって、周りと全然話さなくなってしまったんです…。かなり根暗な性格でしたね。その上、腰の骨を悪くしたことが重なって精神的に病み不登校を経験しました。 ー思春期は人間関係で壁にぶつかったんですね。学業の方はどうでしたか? 中学生の時に、漫画「ドラゴン桜」の影響を受けて、「東大に入りたい!」と思うようになり、愛知県から両親に連れられて見学にまで行きました。しかし、不登校になると共に、勉強へのモチベーションも一気に下がってしまって…。高校3年生に進級するまでは、全く勉強をしていませんでした。 ーそのような状態から、大学進学とどのように向き合われたのでしょうか? 不登校になっている時、アニメを見ることが僕の楽しみでした。アニメのイベントは東京に集中しているので、それで、絶対東京には行きたかったんです。両親と相談し、資金のことも考えて国立大で理系の東京工業大学へ進学を決めます。 大学デビューとプログラミングの壁 ー大学生活はどうでしたか? ダンスサークルに入り、友達ができて、性格も明るくなりました。仲間たちと過ごす時間はとても楽しかったですね。他に、軽音サークルにも入っていて、バンドでボーカルをしていました。大学デビューというやつですね。 ー友人にも恵まれ、充実した大学生活を送られた後、大学院に進学したんですね。進路はどのように決められたのでしょうか? 大学では情報工学を勉強していました。これから伸びる分野であるという確信があったので選んだんです。東工大では9割程の学生がそのまま大学院への進学を選びます。「まだ働きたくないな」という気持ちもあり、僕も院に行くことにしました。大学では4年間、プログラミングを学んでいたんですが、大学院に入りようやく、プログラミングが好きじゃないことに気づいたんです。時間を無駄にしているような感覚さえ覚えていましたね。 5月には研究室も辞めてしまいます。教授との相性や失恋などでかなり落ち込みましたね。学業でのストレスがたまった状態で彼女と喧嘩し、振られてしまいました。当時は、かなり凹んだ記憶があります。 ー辛いことが一度に起きると、なかなか立ち上がるのも難しかったのでは? 数時間とにかく泣いて、「これからは好きなことをやろう」と気持ちを入れ替えられました。「ようやく解放された」そんな気分でした。経営や、人と関わること、事業立案などに関心があったので、もう一度大学院へ入学しなおして勉強を新たに開始することにしたんです。 5月には新たな進路を決め、8月の入試に備えて勉強の日々を送りました。無事に合格して翌年4月に経営工学部に入学できたんです。 ー入学までの期間はどのように過ごされていたんですか?また、入学後はどうでしたか? 他の学生は4年間経営を学んだ上で進学するので、そのレベルに追いつく必要があります。経営の国家資格を独学で勉強し、入学に備えました。大学院の修士課程は2年間です。1年目は就活に注力し、2年目はオンラインサロンで大学以外で出会える方たちとの交流を広くもちました。そこから、僕の現在の活動である図解クリエイターにつながっていきます。 はあちゅうサロンがきっかけで、図解の世界と出会う ーオンラインサロンに入られたきっかけはなんでしたか? はあちゅうさんの「自分を仕事にする生き方」という本を読んだところ、面白かったので、はあちゅうさんのツイッターをみたんです。Twitterを見ると、新しくオンラインサロンをはじめますとツイートしていたので、入ることに決めました。就活が終わりかけで、次の趣味を探していたタイミングでもあったんです。 ー好きを仕事にする発想はそこから強く持ったんですね。 僕の趣味は読書で、ロバート・キヨサキ著の「金持ち父さん貧乏父さん」という本に特に影響を受けています。本の中で会社員・自営業者・ビジネスオーナー・投資家という4つの働き方が紹介されているのですが、どれも自分でやってみたかったんです。オンラインサロンに入り、自分の商品やサービスを作って、稼ぐという経験を積みたいと考えていました。 ーそこから今のお仕事である図解へと繋がったんですね。 はあちゅうさんのサロンは、オープン3日後にはメンバー数が200人に到達していました。サロンのslackは、熱量が高く、24時間動いていたため、そこに流れる情報量も膨大でした。 そこで、サロンメンバーのことを考え、情報を簡素化して理解しやすくする取り組みを導入してはと考えたんです。図を用いて方向性の提案を投稿しました。すると、メンバーからポジティブな反応が次々と返ってきました。わかりやすい、どうやって図にしたのか、教えて欲しい…。その言葉を目にして、図にまとめることが誰にとっても得意なことだというわけじゃないと気づいたんです。 ー図解という切り口が導かれ、その後、どのように活動を発展させていったのでしょうか? まずは友人のカフェでサロンメンバーに向けて図解を教えるワークショップを開催しました。2回目からはTwitterで募集し、外部の方も参加できるように。そうやって、すこしずつ広げていったんです。そのような活動を通し、Twitterを経由していくつか仕事の依頼をいただけるようになりました。会社員になって3ヶ月経った頃には、長期的な業務委託契約の相談を2社からいただき、図解クリエイターとしての収入も増えていきましたね。 ーご自身のサービスの金額設定を行っていくのも、難しい工程だと思います。どのように決められましたか? 安売りしちゃだめというのは、周りの事業主の先輩や読んだ本から学んでいました。そのため、自分にとっては挑戦的な価格の1枚5,000円を設定しました。図解のサービス提供を行っている他の方の価格表も参考にしました。 ー1枚ごとではなく、中長期の業務委託契約となると、また金額感も違ってきますよね。 ご相談いただいた中長期の業務委託契約の請求では、図解枚数あたりの金額でも、月額報酬でもいいということでした。そこで、時給2,000円ほどで稼動工数を考え、月2万円の契約で提案したんです。しかし、「安すぎる」という理由で請求書が通りませんでした。その後、クライアントから4倍程の報酬をご提案いただきました。衝撃と同時に、とても嬉しかったですね。商品としての価値が認められたことで、学生感覚が完全になくなりました。自分の市場価値をしっかりと理解することができたんです。 ーそのまま複業ではなく、独立を選ばれていますね。 会社員生活は11ヶ月で終わりましたね。会社員の、月給制という給料体系が好きではありませんでした。月に160時間働き、定額をいただくという契約内容です。自分がお金を得るために会社に売るのは時間です。なので、言われたタスクを全部やらないといけません。納得しなくとも、やりたくなくとも、お金もらうためにやらなきゃいけないという感覚を個人的に感じていました。 一方で、社会人と同時並行で実践していたフリーランスの働き方では、成果に対し、対価であるお金をもらっています。やりたくないなら断れるし、値段交渉もできます。そのほうが僕は性に合っていました。 実家が近くにあって、お金に困った際には拠点を移せばいいというのも、精神的なセーフティーネットになっていたと思います。また、彼女と同棲をスタートさせることになったとき「いざとなったら、私が助けるから」と後押ししてくれたことも大きかったです。僕はきっと、今踏み出さなければ、この先もなにかと理由を付けては二の足を踏んでいたと思います。早いうちに行動に移したほうがいい、そう思って、独立、そして起業を選びました。 ー将来の展望はありますか? 2、3年で「図解の人」というイメージを卒業したいなと考えています。もうワンステージ先に進みたいですね。企業コンサルや、企画立案などに携わりたいです。図解を活かしつつ、別の領域に手を広げるイメージです。そのために、ブランド戦略やUXデザインを学びたいと考えています。 ー新垣さんは、図解に出会えて変わったと感じられます。まだ自分の道が定まっていない人にアドバイスはありますか? まずは、小さいことで構わないので「やりたい」「好きだな」という気持ちを大切にして欲しいです。例えば、食事のときにお店のメニューで「これが食べたい!」と感じるものを注文する。歩きながら、周囲を観察し、「あの店のデザインや見た目が好き、嫌い」と考える…そんなことでもいいんです。何が好き・嫌い、何がやりたい・やりたくない…その判断を小さいことでいいので日常から実践してみる。判断力というのはスキルだと思うので、やらないと感覚が鈍ります。育てていきましょう。 また、特にこれは学生に伝えたいのですが、学生は社会人経験の浅さから分からないことがたくさんあるので、すぐに自分の道を見つけようとすることを諦めるのもオススメです。就活においても、いきなり100点狙いで新卒入社しなくて大丈夫。1社目を決めることは人生の一大事だと感じる人もいるかもしれません。しかし、学生から社会人になる過程で、社会の見え方や自分が進みたい道は絶対に変わります。 最後に、様々なことに手を出してみることです。僕は好き嫌いあれど、いろいろなことに挑戦しました。FPの資格取得、中小企業診断士の勉強、会社員で広報と人事、業務委託契約ではWEBマーケティング…いろいろやっていく中で、僕自身、好きなことの輪郭をよりはっきりと掴めていくことができたので。 ー本日はありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材者:三田 理紗子 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) 編集者:野里和花(ブログ/Twitter)・三田 理紗子 デザイナー:五十嵐有沙  

クリエイティブの総合商社を目指す『monopo』CEO・佐々木芳幸の今を作った人生のターニングポイント

東京発のグローバルクリエーティブエージェンシー・monopo。国内外の様々なブランドにサービスを展開し、ロンドンにも子会社「monopo London.Ltd」を設立するなど、世界中の優秀なクリエイターが集うコミュニティ作りを続けています。 ▶︎monopoホームページ そんなmonopoのCEO・佐々木芳幸(ささき・よしゆき)さんは、かつて大学生兼プロベーシストとして活躍されていたという異色のキャリアの持ち主です。 プロミュージシャンから起業へ至るまでにどんなターニングポイントがあったのか、またどんなことで悩み苦しんできたのか。monopoの未来や今後の展望と合わせて、佐々木さんご自身のキャリアのきっかけについて伺いました。   クリエイティブな個性をひきだし、世界規模で混ぜ合わせるのがmonopoの役割 ー monopoという会社について紹介してもらっていいでしょうか。 monopoは、ClaraとSumieの記事にもあったように、”COLLECTIVE CREATIVITY” をビジョンに、誰しもがもつ個性やクリエイティビティの価値を世界規模で多用的に混ぜ合わせ、社会との接点をつくり、個の可能性を爆発させるコミュニティを目指しています。 ビジネス的にかっこつけて言い換えると、「クリエイティブの総合商社」。世界中の隠れた才能を見つけ出し、あらゆるプロジェクトでコラボレーションを生み、経済価値や本人の活動の幅を最大化させ、社会を前進させる場所だと考えています。言語と文化の壁を超えたコラボレーションこそが、もっともクリエイティビティが最大化されるということを信じて活動しています。 オフィスで毎月行っている、国内外のクリエーターが集うイベント「monopo night」は53回目を迎え、延べ3,000人くらい集客しているんです。monopoのPRイベントでもなく、みんなふわっとした目的で集まってくれてるんですけど、そこでmonopo関係なしにプロジェクトが生まれていたりして、コラボレーションが増えていくのは素直にうれしいです。 そして求人媒体使わずに、今では自社サイトに国内外から毎月150人以上の応募がきています。またビジネスサイドでも、世界でビジネスを展開したい様々なブランドからの相談がきているんです。業種もファッションやビューティー、ホテルや旅行、車、エネルギーやテクノロジー産業など多種多様です。11ヶ国のバックグラウンドをもつ個性あふれるメンバーが、東京/ロンドンの2拠点で世界中の企業にサービスを提供しています。 日本発で、これだけダイバースな窓口を持ちながら、ローカル・インターナショナル両面において対応できるクリエイティブ企業は他にはなかなかないのでは、とたまに自慢したくなるのですが、まだまだ始まったばかりだと自分に言いきかせて、日々もがいている最中です。 ー やはり案件の8〜9割がインバウンド系なんですか? いえ、まだ売り上げでいうと3分の1から4分の1程度ですね。ただ、2年前は0件だったので、インバウンドの比率はすごく伸びています。2020年には全体の半分くらいになると思いますよ。   monopo代表・佐々木芳幸の今を作った3つのターニングポイント ー ここからは佐々木さんご自身のお話を伺いたいと思います。これまでの人生の中で、三つターニングポイント絞るとしたら何がありますか? 一つは、プロベーシストになるために早稲田大学を受験したことですね。バックバンドやスタジオで演奏するようなスタジオミュージシャンになりたかったんですよ。そのためにはどうしたらいいのか調べたところ、早稲田大学の音楽サークル「THE NALEIO(ザ・ナレオ)」からミュージシャンが多く輩出されていることを知って。 「これは音大に行くよりもプロミュージシャンとして食べていける確率が高いな」と考えたんです。monopoの母体もこのサークル出身者が5人ほどいるので、早稲田で「THE NALEIO」に入ったことは、今の自分の一番の着火点だと思います。 ー そもそもプロミュージシャンになろうと思ったのはいつ頃から? 高校のときですね。2年生の頃、「俺はロックミュージシャンになる」と周囲に言っていました。でもやり方わからなくて。アーティストって、プランを立ててなれるようなものじゃない気がしていました。プランをたてて音楽で生計をたてる確率をあげるためには、自分がアーティストになるよりもアーティストをサポートするスタジオミュージシャンになったほうが良いのではと考えていました。 一方で、当時は文化祭のステージではプロデュースサイドにまわり、ゲストミュージシャンを呼んだり予算配分を考えたりしていたんですね。もともと誘われない恐怖を打ち消すために、自分から遊びを作って誘うような子供だったのもあって、もしかしたらプロデュースや裏方のほうが合ってるのかもしれないな、そっちの方が潰しがききそうだな、と子供ながらに思っていた気がします。 ー なるほど。では、二つ目ののターニングポイントは? 大学でサークルに入った後、サークル外での営業をしはじめ、プロベーシストの端くれとしてある程度稼げるようになっていたんですけど、それを辞めたことが二つ目のターニングポイントですね。 ー なぜ辞めることにしたんですか? ある程度音楽で稼げるようになった頃、ふと気付いたんです。「俺って大して才能なくないか?」って。冷静に考えたら、僕は営業を頑張って仕事をとっていただけで、僕より技術の高い人や天才って周りにたくさんいるなと気付いたんです。そういう人たちが仕事をとれずに、プロを諦めて就職するのを見ているとすごく悔しかった。 また、僕が持っていた仕事をそういう人たちに紹介して演奏を見ていたら、「プロデュースしてやったぞ」と、悪い気がしなくて。自分が演奏していなくても「俺が作った音楽だ」って思えるなって気付いたんです。 その頃、進路についていろいろ悩んでいて、プロデュース側に進んだ方がいいかなとも薄々考えていたんですよね。音楽の世界には、表現側とビジネス側のミドルマーケットが絶対あるなと思って。だから、エイベックスのようなエンタメ企業に就職してビジネスを学んで社長を目指すか独立するという経路と、一旦プロミュージシャンは卒業して他のビジネスを学びながら起業してみるという経路とで迷っていました。今思うと浅はかですが(笑) そこで「まずは営業を勉強しよう」と思ってリクルートにインターンに行ってみたら、それなりに成果が出たんですよ。「営業ができること」と、「ミュージシャンたちをプロデュースすること」の二つに、自分は喜びを感じることが分かってきた。 その後、一年間に200〜300人くらいの社長と名刺交換やアポイントを通して、直接お会いしていく状況を作っていきました。何もわからない学生なりに、ビジネスを学ぶといったら社長に会いにいくことが大事だと思ったからです。何もわからない小僧でしたが、意外にもいろいろな方々に可愛がっていただき、自信を獲得していったのが大学2〜3年生の頃でした。 ー 当時は会社員として上り詰めるルートと、起業していくというルートがあった中で、こっちだなとなったのはいつ頃からですか?就活もしていたんでしょうか? 就活はしていました。そのとき決めていたのは、「いずれ起業家になる」という軸。自分で起業をするか、就職後に起業をするか、社内起業をするかの、三つ選択肢がありました。 そこで当時、若い子会社社長を多く輩出しているネットベンチャーにインターンに行くことにしたんですが、初日から違和感を感じてしまったんです。子会社社長の話を聞いていても、マインドが自分の考える起業家像とは違うなと思うことが多くて。「これは違うな」と感じました。 ー 会社がどうこう、というよりサラリーマン自体が目指していた方向と違うと感じたわけですね。 そうですね。あと、キーパーソンが二人いて。一人は、安田周さんというポスティング会社の社長さん。元ベーシストという境遇が似ていて、毎週のように飲みに連れて行ってもらったんですけど、「佐々木くんは会社に入っても、すぐ辞めるだろうし合わないから起業しなさい。発注してあげるから」と言って、本当に最初のクライアントになってくれたんです。今でも定期的に飲みに連れて行ってくださる大好きな先輩です。 もう一人はヤフーのCOO・小澤隆生さん。学生のときに出会って、喋ってみるとレベルが違いすぎた。「こんなすごい人がいるのか」と驚きました。お忙しかったはずですが、当時偶然に小澤さんが作ったバンドのベーシストとして入れてもらえ、奇跡的に毎週のように会えていたんです。ビジネスのアドバイスをいただきながら、何もわからない学生が起業を志す大きなキッカケになりました。今でも困った時はアドバイスをいただく貴重な先輩です。 この二人がいたから、起業しようと思ったんですよ。この二人にメンタリングしてもらいながら一生懸命やれば、なんとかなるだろうな、と。 ー 時間を投資してもらえるというのは、本当にプライスレスですよね。 あともうひとつ、僕の1個上の先輩でプロベーシストだった岡田との出会いが大きかったです。最終的にはmonopoの共同創業者になったわけですが。入学した頃、「どうしたらプロになれますか?」と声をかけたら「営業すればいいんじゃないか」と言われて。いろんなミュージシャンとセッションできる場にも連れて行ってくれた。僕にミュージシャンになるきっかけをくれたのが彼でした。 だけど就職のタイミングで岡田は「プロになるのを辞める」と言い出した。それがとてもショックだったんですが、彼はネット業界へ進みECショップを作ったんですね。それがめちゃくちゃ売れていたので、「僕にもその仕組みを売らせてくれ」といって再会して作ったのがmonopoの原形なんですよ。 ー では、職業ミュージシャンを辞めて道を模索しmonopoを創業したのが、二つ目のターニングポイントですね。三つ目は何だったんでしょう? 英会話教室に通い始めたことかな。起業当初から付き合って支えてもらっていた彼女に突然振られたという出来事があって(笑)それがあまりにもショックだったので、彼女が僕に言っていた不満を全部乗り越えてやろうと思ったんですよ。英語もそのうちのひとつでした。 またその頃、「monopoはいずれ世界へ出ていくんだ」ということを、なんの根拠もなくメンバーに言ってました。でも英語は喋れない、と。それはさすがに英語に挑戦したほうがいいだろ、と思い英会話教室に通い始めたんです。 ちょうど会社のサイトのリニューアルを決めていたので、それなら英会話教室の先生と一緒に英語版サイトを作ろう、とも考えていました。そこで出会ったのが、poweredby.tokyoの発起人のチェイスです。 ー 英会話教室がきっかけで知り合ったんですね。 そうなんですよ。チェイスと仲良くなって彼の友人やコミュニティが集まる東京のいろいろな場所に連れ出してもらったんです。そこには様々な国籍の、素晴らしいはフォトグラファーやクリエイターがたくさんがいました。「クリエイティブ業界って狭いな」と思っていたんだけど、世界に目を向けたらこんなにも広いのか、と感じたんですね。 でもそのクリエイターたちは日本にいても仕事のチャンスがなかった。当時、日本の広告代理店やクライアントと彼らにつながりは少なく、仕事が生まれる機会が少なかったのです。僕は、その窓口としてmonopoがイニシアチブを取ろうと考えました。 チェイスが日本でやりたいと思っていたことと僕が考えていたことも合致していたので、「プロジェクトとして、世界のクリエイターで東京を紹介できる場所を作り、彼らをコミュニティ化していけば、新しいグローバルクリエイティブコミュニティができるかも」と直感。そこで生まれたのが、東京の知られざるカルチャーをグローバル発信する「poweredby.tokyo」というプロジェクトです。今のmonopoのビジョンやコミュニティ、ビジネスをドライブさせた大きなきっかけですね。 ー 英会話教室に通い始めて、喋れるようになるまでの期間ってどれくらいだったんですか? 数ヶ月じゃないですかね。そもそも高校まで行っていれば、みんな喋れるんですよ。あとは間違っていても会話に入っていくこと。だから、喋らないといけない環境に身を置けばいい。レベルは関係ありません。僕の文法や発音は正直今でもぐちゃぐちゃです(笑)でも実際に様々な国籍の人とコミュニケーションがとれるし、仕事ができています。 あとは、自分の伝えたいことがないと、伝え方を知っていても言語は生きない。 「How to speakよりWhat to sayだ」ってずっと言ってるんですけど、言いたいことがある人の話は、どれだけ言語が拙くても面白いんですよね。 継続すること、英語が必要な環境に身を置くことと、そしてお互いに話すトピックが面白いと思える状況を作り出すことが英語を習得するポイントかなと思います。 ー もしチェイスと出会ってなかったらpoweredby.tokyoは生まれていなかったし、グローバルエイジェンシーとしてのmonopoはなかった。そもそも英会話教室に行かなかったらチェイスと出会っていなかったわけだし……と全てが繋がって今に至るんですね。   「強烈なWhyがない」5年続いた自分自身との葛藤 ー 起業してから今に至るまでの、一番しんどかったエピソードを教えてください。 自分の中での葛藤が一番辛かったですね。会社をやることやビジネスをやることが目的化してしまっていて、事業自体に目的がなかったというか。気付いたらメンバーが10人になって会社っぽくなった状況に対して、「僕のビジョンって何だったっけ?」と思うようになったんです。 ー 強烈なWhyがなかった。 そうそう。こんなことやってていいんだっけ、とずっと考えていて。自分が「才能のある表現者と、世の中の接点を増やしたい」と強く言語化できるまでが辛かったですね。2011年の創業から2016年くらいまでずっとです。あとは、将来の不安もありました。この事業でこの先もやっていけるんだろうか、満たされることはあるけど本当にこれでいいんだろうか、と。 だけどあるとき友達と話していて、「Yoshiはコミュニティとか人があつまるブランドが作りたいんじゃない?」って言われたんですよ。「Yoshiのやってきたひととひとを繋がっていくこととか、誰かをプロデュースしたいという想いって、日本から世界規模でやったらすごいことになるかもしれないぞ」と。それで「なるほど、こういうことかもな」と腑に落ちた瞬間があったんです。 「誰しもがもっている個性をひきだし、多様的に混ぜ合わせていく。世界規模で」という発想のもと、「COLLECTIVE CREATIVITY」というビジョンを手に入れました。 そこからずっとコミュニティについて考えて試していったら、「才能や表現者たちを繋ぎ、輝いている瞬間を生み出すことが、僕は幸せなんだ」と気付けたんです。気付いたというか 再認識したのかもしれません。まさに音楽におけるベーシストの役割です。ベーシストは目立ちません。だけど、リズムとコードとメロディを繋ぎ、それぞれの個性を輝かせるブリッジのような役割ですから。 会社を経営していれば、人の悩みだったりお金の悩みだったり、辛いことの連続ですがそれでも人生をかけるほどの価値をビジョンに感じています。経営者として自信が持てるようになったのは、ビジョンができてそれがワークするようになってからですね。今は、”COLLECTIVE CREATIVITY” を合言葉にコミュニティが自発的に活性化していることが、本当に幸せです。 ー 生きてる実感を味わっていること、すごく伝わってきます。   少数精鋭で数億売りあげる会社や事業を、世界中にどんどん作るコミュニティファームへ ー 今後、東京オリンピックや大阪万博などで東京あるいは日本が世界に出ていく、もしくは世界の人々が日本にやってくる機会があると思うんですけど、その中でmonopoはどういう会社になっていきたいですか? 最初に話した通り、「クリエイティブの総合商社」ですね。ものがあふれて、で効率化された先に人間に残るものは、表現とアイデアじゃないですか。どんどん世の中が効率化していく中で、そういったものに価値がつく揺り戻しがあると思っています。でも世界は未だに分断されていて、ローカルで埋もれているアイデアや才能が、もっとグローバルで活用されていいと思っています。 ー 今どんどん、世界各国が閉鎖的になってきていますよね。 国単位でグローバルは語れないと思っています。グローバルな状態は、ニューヨークやロサンゼルス、パリ、ロンドンなど、ローカルにある。もっと言うと、都市自体も分断されているけど、そこにあるひとつのBarの中のコミュニティに多様的な世界が存在している。誰もが色んなカルチャー・言語の中でダイバーシティを持って交流ができる場所、というのがグローバルだと思うんですよ。その状況があるのはローカルしかない。「Local is global」です。 ローカルにグローバルなコミュニティを作れるかどうかが重要だと思ってます。分断のないコミュニティが色んなところに広がっていくようにしたいと、今は考えています。 そうなったときにクリエイター同士が繋がり、会社という小さなローカルコミュニティを作っていくことはひとつの武器になると思っています。 ー...

「官僚」の枠を超えて圧倒的に挑戦し続ける小田切未来が語る、20代が身につけておくべき3つの思考法

キャリアに大きな影響を与える、20代での働き方や仕事への向き合い方。チャレンジングな仕事をしたいと願う一方で、任せてもらえず思い悩んでしまう人も多いはず。そんなU-29世代こそ身につけておきたい思考法があります。 それを語ってくれるのは、小田切未来さん。東京大学大学院修了後、経済産業省に入省。5年目でクールジャパン政策の担当になったのち、内閣官房副長官補付、経済産業大臣政務官秘書官などを歴任。一般社団法人Public Meets Innovation を設立して理事となり、現在は米国ニューヨークにあるコロンビア大学国際公共政策大学院に在籍されています。 そんな非常に輝かしいキャリアをお持ちの小田切さんですが、はじめから国家公務員を目指していたわけではないんだそう。何が今の小田切さんを作ったのか、20代でどんなことを意識してキャリアを築いてきたのか。人生における3つのターニングポイントと、今のU-29世代に伝えたいメッセージを伺いました。   小田切未来の人生における3つのターニングポイント ー 小田切さんにとって、人生のターニングポイントは何だったんでしょうか? 私の場合、一つ目は就職活動、二つ目が海外留学、そして三つ目が一般社団法人Public Meets Innovationの立ち上げ。これらが、自分の中で大きなターニングポイントとなっていますね。 ー 一つ目のターニングポイントは、経済産業省に入省する前なんですね。 はい。私は、父親が体調不良などで仕事を早めに退職したこともあり、高校や大学には奨学金をもらいながら通ったんです。また当時、アルバイトで家庭教師や予備校講師をやっていたこともあって、人材育成や教育事業に興味があったんですよ。 そんなとき、兄が「人材育成や教育の仕事をやるのであれば、教育の制度を変えられるようになったほうがもっとダイナミックに仕事ができるんじゃないか」と助言してくれて、初めて早稲田セミナーという予備校に行ったんですね。そこにたまたま文部科学省、国土交通省、経済産業省などの方々が来ていて、「経済産業省は社会で活躍するための人材育成もやっている」と聞いたことで、方向転換しました。 大学院で経済、政治、法律など公共政策を勉強したほうが自分のためになるな、と考えて大学院に進むことにしたんです。だけど実は私、大学5年と大学院1年のときに官僚の試験に落ちてるんですよ。大学院2年でやっと合格。だけど、大学院の研究と並行して試験勉強をするのがものすごく大変で、その時はすごく忙しかったし、毎日12時間は勉強していたと思います。 ー 三度目の正直で、官僚になる道が開けた。 奨学金を借りて苦労していたので人材育成に関わることがやりたかったし、いつでも誰でも挑戦・再挑戦ができるような社会づくりができたらいいなと思っていた。だから官僚か、途中で公の仕事ができるような道に進んだほうがいいんじゃないかと考えていたんです。「数億円お金を稼いでそれを元手に政治家になれないかな」と、外資系金融企業にも就活していた時期もありましたが、今考えるとだいぶ尖っていましたよね(笑) それでも経済産業省に決めたのは、人ですね。魅力的な人が多かったからなのですが、その中でも面接で衝撃的な人に出会ったんです。その人は、今の三重県知事・鈴木英敬さん。面接の二言目には「俺、顔でかいやろ、ガハハハ」と笑ったんですよ。「こんな人が官僚にいるんだ(笑)」と衝撃的で、ここで働いてみたいという気持ちがすごく強まりました。 僕が一番大事にしていたのは「誰と一緒に働いた上で、自分の叶えたいことを実現できるか」ということだったので、最終的には人で決めたんです。これがまずターニングポイントになりました。 ー 二つ目のターニングポイントは? 海外留学ですね。留学するために、2010年頃にTOEFLの勉強をしていたんですけど、その時の点数が120点中27点だったんですよ。これじゃあ、どこの大学院も受からない。そこから2〜3年間勉強して60点台まで上がったんですが、2〜3年かけてこれだけしか上がらないのなら自分には向いていないな、と思って。ちょうど仕事も面白い時期だったので、諦めていたんです。 でも、経済産業大臣政務官の秘書官をしていた2018年3月にカナダ・モントリオールのG7に同行したんです。そこには通訳も付いていたんですが、夜の食事のとき、たまたま私が座るところには通訳がいない状態になってしまって。目の前にはアメリカ人やイギリス人、フランス人、ドイツ人というようなテーブルで、話に全くついていけないわけです。それが猛烈に悔しくて。 それで改めて、留学のチャレンジを再開し、そこからTOEFLやIELTSなど英語の試験を更に20回くらい受けて、ようやく今のコロンビア大学国際公共政策大学院(SIPA)に合格。SIPAには世界中から優秀な人材が集まっており、2019年のU.S. News & World Reportのランキングでも非常に高い評価も得ていて、日々刺激に満ち溢れています。これが二つ目のターニングポイントになりました。 ー 三つ目は、一般社団法人Public Meets Innovationの立ち上げですね。 実は2012年頃に、経営者や官僚、研究者、アーティストなどの友人と集まって、セミナーや勉強会をやるための法人の立ち上げようとしたことがあるんです。でも、事情により立ち上げが止まってしまったんですね。やりたいことだったから、私の中でずっと燻っていました。 そして2018年2月、シェアリングエコノミー協会の石山アンジュさんともう一人の現理事とで、「今の社会に何が足りていないのか」「どうなったら社会はもっと良くなるのか」といったことを議論していたところ、まさに3人の考えていることが一致していた。 パブリック側はイノベーションに関する知識が足りていなくて、イノベーター側はパブリックマインドが不足しがちです。だったら出会いの場を設けることが大事なんじゃないか、と。まずは、みんなで毎週集まってどういったことができるか考えよう、と議論しているうちに、だんだん人が集まってきた。そしてPublic Meets Innovationが立ち上がったのが、三つ目のターニングポイントです。 ー Public Meets Innovationでは、具体的にどんな活動をされているんでしょうか? 今は、パブリック側とイノベーター側が交流し、共通な課題意識を持つようなテーマをベースとしたイベントやセミナーなどを中心に実施しています。また、このコミュニティは1980年代以降生まれ、ミレニアル世代限定になっているという特徴もあって、次世代リーダーと呼ばれる人をここから輩出できればとも思っています。   「人、思考法、行動力」で働き方を変える ー 今は官僚にならなくても社会を変えられる時代ですが、だからこそ行政で働く醍醐味を聞きたい。20代の頃に「これは行政だからできた仕事だな」と思ったことはありますか? 行政は、法令・税・予算の3つの重要なツールを持っているんですが、特に私が重要視しているのが、機運作り。クールビズがわかりやすい例かと。企業の場合は、原則として、利益最大化が目的なので、国や社会の機運全体を上げていくというのは難しい部分があると思います。 私が入省5〜7年目のとき、クールジャパンという仕事に携わっていたんです。日本企業の海外展開がなかなか進まない中で「あの企業がやれたのなら、うちもやれるかもしれない」といった挑戦の連鎖を作ることが、クールジャパンの醍醐味でした。クールジャパン自体をみんなで推進することが、日本企業全体の海外展開に繋がっていく、と。 この仕事をやっていたほうが、国や社会全体の機運を作るのには向いていたなと思います。あと、私が担当していた兼業・複業促進の話も機運作りの典型例でして、パラレルキャリアを応援していくことは、一企業には難しい。それがこの仕事の面白さだなと思うし、まだまだできることはあるなと思っています。 ー 20代でチャレンジングな仕事ができず離職してしまう若者も多い中、小田切さん自身の経験を踏まえて、20代では働き方にどう向き合うべきだとお考えですか? 私の場合、入省して5年目でクールジャパンの仕事をしたわけで、大きな仕事を比較的早く任せてもらえたと思っています。それでもまだ長いと感じるようであれば、兼業・複業で、余った時間に違った活動をしてみるのがいいかもしれませんね。 あとは、異業種とのネットワーク作りも大切。私自身、経営者や起業家、投資家、弁護士など、同世代の仲間たちと交流していろんな意見を聞いていました。将来大きなことを仕掛けるときの準備として、人との繋がりを作っておくというのはいいと思います。 ー とは言え、ただ目の前の仕事をこなしていただけでは小田切さんがそのポジションに配属されることはなかっただろうなと思います。20代の頃、仕事を任せてもらえるためにやっていたことはありますか? 大事なのは、人と思考法と行動力だと思います。人というのは、仕事関係以外の人とも積極的に会ってネットワークを作ること。そして思考法は、他人から与えられた情報をそのまま鵜呑みにしないということ。 大学院時代に、元総理秘書官と会う機会があり、「新聞を見るときは、経済欄は80%、社会欄は50%、政治欄は20%くらいしか正確に書かれていないと思いながら批判的に読みなさい」と言われたんです。常に世の中の情報に対して、あえて批判的に考えることを努力しなさい、と。その結果、官庁の中にいる他の人より「前例を疑ってみる」ということができたんだと思います。 行動力としては、20代のうちに自己実現のためのコミュニティ立ち上げ経験をするのが良いのではないでしょうか。私も学生時代にバスケットボールのサークルを立ち上げた経験がありますが、サークルでもいいですし、NPOや社団法人、もし可能であれば、株式会社でもいい。自分でやりたいことに対してプロアクティブにコミュニティを立ち上げた経験が行動力に繋がり、最終的に仕事にも活きてきます。 あとは失敗をすることも大事です。私も国家試験に2回落ちたり、英語の試験を約40回も受けたりたくさん失敗してきました。だけど、成功と失敗って、決して二項対立の概念じゃないんですよ。失敗を繰り返した先に成功がある。周りになんと言われようが、繰り返し繰り返し、命を燃やすレベルでやり続けることが大事だと思っています。 ー 挑戦するから失敗するのであって、失敗を避けて挑戦しないことが本当の意味での失敗ですもんね。失敗を怖がらずにチャレンジし続けられる理由やエネルギーの源泉はどこにあるんでしょう? 私は「こういう人間になって、こういうことを実現したい」という使命感をものすごく持っているほうだと思います。そのために必要な要件だと思って、何度も挑戦しているんです。自分が目指す人材像に近づくために、諦めることができないんです。 ー 使命感があるからこそ、失敗してもチャレンジし続けられるんですね。   20代で身につけておきたい3つの思考法 ー オフィスにこもって仕事をするだけでなく、社外に出てネットワークを作ったり勉強の時間を確保するなど、自分の時間を生み出してその時間を自己投資に使うということは、官僚に限らず会社員にとっても大事なことだと思います。小田切さんは大変お忙しい中で、どのように時間を生み出していたんでしょうか? やらないことを決めましたね。具体的には、金曜日にみんなで飲みに行くとか、夏休みや冬休みになると旅行に行くといった、みんながデフォルトでやっていることを敢えてやらない。そして、その時間を自己実現のために使っていました。普通の人と真逆なことをするのは、時間の作り方のひとつだと思います。 ー 他にも、U-29世代に必要な考え方は何でしょうか? 3つの思考法が必要だと思います。一つ目は「オキシモロン・シンキング」、二つ目は「クリティカル・シンキング」、先ほどお話しした批判思考ですね。そして三つ目は、「クリエイティブ・シンキング」です。情報が満ち溢れた中で、AIでは代替されにくい「想像力」「統率力」「構想力」などがますます重要な時代になってきているので、そういうことを常に意識し、コミュニティ立ち上げなど0から1を作る経験をすることなどが大事だと思います。 私は特に「オキシモロン」という言葉をすごく大事にしていて。日本語で言うと「撞着語法」で、「急がば回れ」「賢明な愚者」など、矛盾していると考えられている複数の表現を含む表現のことです。 現在の世の中は、どうしてもAかBかの二元論で語られがちなんですけど、リアルの世界では二元論を超えて物事を解決しなければならないことがけっこう多いんですね。だから「AかBか」ではなく「AもBも」という考え方をどれだけ追求できるかというのが、U-29世代がこれから活躍するためのキーワードじゃないでしょうか。 ー 普通だったらORと考えてしまうことを、どうやったらANDで実現できるかを考えて日々仕事をしてこられたわけですね。 海外に留学しているのもオキシモロンの発想でして。海外のことをよく知らないのに、日本のことだけを良くしたいって、バランス感覚が欠けていると思ったんですよね。日本の文化や伝統、そして海外の文化も理解しながら、両方の意見を取り入れて政策を生み出して行くことが大事だな、と。 イギリスのノーベル文学賞を獲ったラドヤード・キプリングの有名な言葉に、「イギリスのことしか知らない人が、イギリスの何を知っているのか」というものがあって、要はイギリスを良くしたかったら、イギリスだけにいちゃだめだよということ。これは今の日本人にも同じことが言えます。だから20代のうちに、半年でもいいから海外の雰囲気を味わってほしいですね。 ー 小田切さんは、KPIが立てづらい官僚という仕事で確実にパフォーマンスを上げて評価され、信頼を積み重ねてこられたわけですよね。そのためには、どんなことが大切だったと思いますか? 私は誰よりも若いうちに失敗してきたから言えるのですが、与えられた仕事をまず精一杯やるということが、若いうちはすごく大事だと思います。何者でもない自分が何者かになれる瞬間は、愚直に努力をしないと与えられません。投資されない理由は信頼されていないからで、信頼というのは一歩一歩確実に努力して貢献して得られるもの。若いうちは、踏ん張って努力をするのが大事だと思いますね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる (取材:西村創一朗、写真:ご本人提供、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

「好きなことを仕事にするために」編集者、レースクイーン、広報と変化したフリーライター・橋本岬の戦略的転身

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第86回目のゲストは、ライター・広報として活躍するフリーランスの橋本岬さんです。  憧れだった出版業界に入るも、あまりの激務で半年で退職。突然のフリーランス生活が始まり、橋本さんが選んだのは「自分の希少性を高めること」でした。そうしてレースクイーン×ライターという異色のポジショニングをとった橋本さんのユニーク過ぎるキャリアに迫ります。   「ピチレモン」が夢の扉を開いた ー本日はよろしくお願いします!まずは、現在の橋本さんのお仕事についてお聞かせください。 橋本岬です。フリーランスでライターと広報を仕事にしています。私には、3つの肩書きがあります。まず、ライターです。女性の働き方などに関しての記事執筆を複数のメディアで行っています。 2つ目が、シューマツワーカーの広報です。シューマツワーカーは複業人材のマッチングサイトになっており、もともとはこちらで会社員として広報を勤めていました。退職後も、継続して業務を行っている形です。 そして3つ目が、東大発サイバーセキュリティ企業・株式会社Flatt Security の広報です。   この3つの軸をバランスよく組み合わせて働いています。複業をしている人で、同じ悩みを抱えている方もいらっしゃるかと思うのですが、どれかを頑張ると、他の部分で粗が出てしまうんです。わたしにもそういった経験があります。なので、どのお仕事も、同じバランスで、同じ姿勢で向き合うようにしています。   ー橋本さんが選んで今のスタイルに行き着いたと思われますが、もともとやりたいお仕事だったのでしょうか? フリーランスになりたい、と思っていたわけではありませんでした。むしろ昔から、やりたいことが言語化できなかったんです。私はバブル崩壊後に生まれて、大学受験の時にリーマンショックが起きていました。刻々と変化していく経済を目の当たりにし、「なにになりたい?」なんて聞かれても、変わるのだから決められないと思っていたんです。 そんな中でも、夢がありました。それは、「ピチレモンの中に入りたい!」というものです。ピチレモンというのはローティーン向けのファッション雑誌です。小学生の頃、私は友達が少なくて、暗い子で、遊びといえば公園で虫を眺めていました。そんなとき、ピチレモンと出会って、世界が広がったんです。 雑誌のたった1ページだけで、きらきら輝く情報がいっぱい手に入る。可愛さ、お洒落さ、カラフルさ。可愛い空間に触れられることに感動し、この中に入りたいと思いました。スタッフクレジットまでチェックして、そのとき「こういう雑誌を作る仕事があるんだな」ということを知りました。   仕事の面白さを肌で感じる ー橋本さんのご経歴は、一社目が出版業界とうかがっていますが、小学生のときの原体験がつながっているんですね。 ただ、出版業界やマスコミ業界は、狭き門で、親や先生にはずっと反対されていました。大学時代はネットで出版社などのインターンやアルバイトを探し回り、結局、編集プロダクションも含めて3社を経験します。 とにかく人に会って、「出版業界で働きたいんです!」ということを伝えていたら、知人から「大手出版社で新しくマンガ雑誌の編集部が立ち上がり、人を探しているらしい」と聞きつけ、とりあえず履歴書を送付しました。 その会社では、規則として学生のバイトを受け付けていません。しかし、「現在、3年生で、単位も取り終わっていて時間がある。大学院へ進学するから就活もしない。いつでも呼ばれれば駆けつけます!」と訴えて、採用してもらいました。   ー素晴らしい熱意ですね…! とは言いつつ、実は単位がめちゃくちゃ残っていたんです。それ以前は、ライターの勉強のためにセミナーなど通っていたので、大学にはあまり行っていませんでした。そこから必死で大学に通います。平日と土曜日の1限から5限まで、単位がとりやすいと言われている講義を詰めて、学校に居座り、なんとか単位を取得しました。もちろん、その間、編集部に呼ばれれば飛んでいきます。 所属していた編集部は、集英社の名物編集者と呼ばれる方々が集まっていて、そのような環境で働けたことは、大きな分岐点になったと思います。「メディアの仕事って、やっぱりすごく楽しいんだ」「絶対、この業界で働きたい!」そういった想いが募りました。また、自分が携わった作品が、世に出て、反響が起きることも嬉しかったですね。社会へのインパクトを埋めている、と高揚しました。   ー充実した経験を積めたのですね。ところで、面接を受けた時点で、大学院進学を決められていたようですが、どうしてですか? 皆さんが知っているような出版社に採用される人は、高学歴な上に、エピソードトークまでうまい、強烈な個性を持った人ばかりです。そうじゃなきゃ入れない、狭き門。大学院へ行ったのは、出版社に就職したい気持ちと、採用への高いハードルのギャップから「どうやったら入社できるのか、好きなことを仕事にできるか」を考えるモラトリアム期間が欲しかったからです。 また、出版業界では、出身校を話題の切り口にして仲間意識を高めていることに気付かされました。私は埼玉県の獨協大学で学んでいましたが、業界の方々との共通言語欲しさに法政大学の大学院へと進学しました。   憧れの会社はブラック企業だった ー進学の選択も、出版業界への憧れが源だったんですね。せっかく進学した大学院を中退されたそうですが、それはなぜですか? 大学1年の後半に、編集プロダクションから内定をいただいたので、中退をして働くことにしました。その編プロ、ずっと憧れていたローティーン向けのファッション誌の編集も行っていたんです!一社目で夢が叶うなんて、思ってもみませんでしたね。   ーすごい、小学生の頃の夢が叶って…さぞかし素晴らしい社会人のスタートがきれたのでは? それが…小さな編プロで、絵に描いたようなブラック企業だったんです。月30日勤務が当たり前、帰ったらメールが鳴りやまず、結局、会社に逆戻りする日々。そのうち、会社で寝ることが当たり前になりました。ソファは先輩が寝るかもしれなかったので、私の定位置は会議室の床です。2~3時間だけ寝て、働く。その繰り返しでした。 それだけ働いても、お給料は15万円。家に帰れないので出費がかさみ、貯金はほぼできないままでした。そんな毎日を送っていると、すこしずつおかしくなってくるんです。無意識にここから逃げたいと身体が思っていたのでしょう、オフィスがあるビルの7階の窓から、外へと引っ張られるような感覚がついてまわるようになりました。 退職する前、最後に家に帰ったときに、外がとても寒いことに驚きました。季節が夏から秋になっていたことにも気づく暇がなかったんです。家に帰らないから洋服もずっと夏服のままでした。今後もこの生活が続くと思いととても怖くなり、退職を選びます。半年の会社員生活でした。   ー憧れの会社に入社できたのに、そのような大変な環境だったとは…。 先輩に、「この業界も辞めちゃうの?」と退職時に聞かれたことが深く印象に残っています。「出版業界にはいたいです」と伝えると、先輩は「この仕事の面白さだけでも伝わってくれていたら良かった」と言ってくれました。 そうしてフリーランスになったんです。転職も考えましたが、たった半年しかいなかったので、大した経験があるわけではなく、どうせ転職できても同じような規模の会社だろうと考えていました。そうしてまた、激務な上に怒鳴られるような生活に戻ることが怖かったんです。   営業活動のためレースクイーンを選ぶ ーフリーランスとして働き始めて、仕事は順調でしたか? あるメディアに送った企画書が通り、お仕事をいただけることになりました。出版社でバイトをしていたときに、企画書を作っては先輩にアドバイスをいただいて、ストックを作っていたんです。そこでの経験が活きました。ただ、それでも月10万程の収入で、これからどうしていくのか悩んでいたんです。 ちょうどその頃、「女子アナブーム」がきていました。中でもミスコンで優勝した人には肩書きがあって、実力は変わらなくても注目を得ていることに気付きます。「肩書きがあれば知ってもらえる、営業につながる」そう考え、タレント業をすることにしました。タレントと一言で言っても様々ですよね。私ができることで、なおかつ、イメージの良いものを考えて…私はレースクイーンになることにしました。   ーライターで、レースクイーン!希少性としては抜群ですね。 比較的自由に活動させてくれそうな芸能事務所を選んで、履歴書を送り、面接に行きました。そして、鈴鹿サーキットでレースクイーンデビューをします。それをFacebookでも報告して…反響はありましたね。そのうち1割ほどの方が、ライターとしての仕事も相談してくださいました。 ただ、レースクイーンのお仕事はそこまで給料は高くないので、相変わらずお金はありませんでした。そんな中でも、飲み会に呼ばれれば必ず参加しました。多い時で、1晩で5つの飲み会をハシゴしたこともあります(笑)そうやって人と会って、すこしずつお仕事が増えていきました。 レースクイーンとしてトップを狙うことは難しいです。ライターとしては、他にももっと才能がある人がいます。でも、レースクイーンライターであれば私は1番になれる、そう思って必死に行動していました。   自分の可能性を広げるため、すすめられたら挑戦 ーフリーランスとして、営業活動を続けた先で、再びご就職されたんですね? はい。シューマツワーカーCEO・松村とは、彼が前職で働いていたころに出会いました。「起業をするから、うちで広報として働かないか?」と誘ってくれたんです。 それまで、広報という職業になることを考えたことはありませんでした。ただ、松村が「記事作成ができるし、メディアとのつながりもあるし、表に出ることも向いているから、広報はきっと合っているよ」と背中を押してくれました。   客観的な意見を取り入れることで、自分の世界は広がります。なので、人から「向いているよ」とすすめられたことは、とりあえずチャレンジするようにしているんです。そうやって広報職に就くことになりました。 広報も未経験ですし、IT業界だって未経験です。打ち合わせの度に分からないことが生まれて、とにかくググっていました(笑)そして、分からないことは分からないと公言して、「ご飯を奢るから、教えてよ!」と、周りの人を頼りながら勉強しましたね。   ー橋本さんの恐れずどんどん進む姿には驚かされます。 たとえどんなに失敗したとしても、怒られたとしても、1か月後には忘れてしまうじゃないですか。私だってもちろん落ち込みはします。でも、1か月後には元気にしているって思えたら、いまがどんなに馬鹿したって、大丈夫だなと思えるんです。   ー現在は、ライターと広報の二軸でお仕事をされていらっしゃいますが、それぞれの利点はなんですか? ライターの仕事は記事を書くだけではありません。アイデア出し、企画、メディアとのコミュニケーションなど、様々なスキルが育ちます。そしてそれらは他の仕事に活きるんです。実際に、広報になって、ライターとしての経験が活きる場面が大いにありました。 ライターも広報も、どちらも世に何かを発信できることがメリットですね。その発信で誰かの背中を押せたら嬉しいなと思います。   ーこれからも橋本さんのご活躍が楽しみです!本日はありがとうございました。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる   === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

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