若いうちにしかできない「手を挙げる訓練」をしろ –「不登校10年」の小幡和輝からU-29世代へのメッセージ #アンレールな私たち

キャリア選択が多様になる現代。これまで主流だった「大企業神話」は平成とともに周縁を告げ、意志ある選択をした若者が躍動する時代へと変化していきます。 連載「#アンレールな私たち」では、一見ユニークでありながら当たり前になっていくであろうU-29世代の活動を取り上げ紹介していきます。新しい「あたりまえ」がやってくる足音を、本メディア「U-29」がいち早く届けていきます。 今回は、約10年間の不登校を経験したしたのちに高校3年生で起業、地方創生を軸にさまざまなプロジェクトを手掛ける小幡和輝さんにインタビュー。不登校時代のエピソードや、アンレールなU-29に送る言葉をいただきました。 Text by なまっちゃ   知っているのにバカにされる。個性を受け入れない雰囲気に嫌気がさした なまっちゃ:小幡さんは約10年間不登校を経験していました。そもそも、なぜ学校に行かなくなったのでしょうか? 小幡和輝さん(以下、小幡):不登校になったきっかけは同年代の友達との価値観の違いからでした。小学生時代は、遊び相手が5つ年上の兄とその友達だったので、同年代の友達と趣味嗜好が合わなくなってきていることを感じていたんです。 中学生と遊んでいたほうが楽しいし勉強になるのになんで学校に行かなければいけないんだろうと思うようになっていきました。 なまっちゃ:身近にいる人によって価値観は変わってしまいますよね。 小幡:年上の影響を強く受けていたので、同年代の「ノリ」が理解できずに苦しかったのを覚えています。 小学2年生のとき、同じクラスの人が「”3‐5”はなんだ?」と意地悪で僕に聞いてきたことがありました。僕は中学生と勉強を一緒にしていたのでマイナスの概念を知っていて、「‐2だよね」と普通に答えたんです。 すると友達はバカにした口調で「何いってるの?マイナスなんかないよ」と。知っていることをひけらかすと受け止められたのか、しらけた雰囲気になってしまったんです。 正しい答えを言っただけでバカにされる。ショックを受け、少しずつ同年代とのコミュニケーションを避けるようになっていきました。そんなそんな小さなショックが重なり、少しずつ学校に行きたくないなという気持ちが強くなってきました。 なまっちゃ:そうだったんですね。 小幡:当時の僕は「価値観が違う」と言語化はできていませんでしたが、「なんかちがうな、楽しくない」と学校生活に対して思うようになっていきました。だんだんと学校を休みがちになり、クラスから居場所がなくなっていき…本格的に不登校になりましたね。   “学校にいく理由”を探すことが難しい時代になってきている なまっちゃ:時代が変化にしていくにつれ、学校の存在意義も変わってきたように思います。小幡さんは当時と現在の学校の在り方をどのように考えていますか? 小幡:僕が通っていた時代やそれ以前の学校は、とても大きな役割を担っていたと思います。知識は学校に行かないと学ぶことができないし、友達も学校でしか作ることが出来ませんでした。学校に行かないとできないことが、当時はたくさんあったんです。 しかし、ここ10年くらいでインターネットとSNSが急速に発展し、学校でしか出来ないことを探す方が難しくなってきました。勉強はオンラインスクールでパソコンがあればできますし、友達もSNSで作ることができますよね。同年代が集まる場としての学校の“価値”が、SNSに代替されているのだと思います。 なまっちゃ:なるほど。すると、もう学校に価値はないのでしょうか? 小幡:いえ、コミュニティとしての価値を失ったとしても、学校に通った方がいい理由は2つあります。 1つ目はコスパがいいこと。日本中どこに行っても、学校では統一されたレベルの教育をほぼ無料で受けることができます。クオリティが担保されている教育を無償で受けることができるのはかなりの価値があると思っています。 2つ目は視野が広がること。もし学校に行かずに独学で学んでも、自分の興味関心ばかりに取り組んでしまい知識に偏りが出てしまいます。さまざまな分野を網羅的に学べる学校に行き、いろいろな価値観に触れることは、大人になってから大きな財産となってくれるでしょう。 なまっちゃ:SNSには代替できない学校の価値があるんですね。しかし、小幡さんはさまざまなメディアで「学校に行きたくなければいかなくていい」と仰っています。 小幡:はい。学校以外にも学ぶ場はたくさんありますし、友達を作る機会もあります。学校に行きたくなければいかなければいい。ただ、そのときに親が子供に不登校をしてもいいんだよという雰囲気をだせるような関係を築くことが大事だと思っています。 なまっちゃ:なるほど。 小幡:不登校の子達がのびのびとできる居場所を模索するためには、親子の“信頼関係”が必要不可欠です。ある意味、子どもの将来のためには「不登校になれる環境」を作った方がいいのかもしれません。   学校に「有給休暇」を なまっちゃ:これから学校が子供たちにとって価値ある場所になるためには、どのような取り組みを行えば良いのでしょうか。 小幡:学校でも会社と同じように有給休暇を取り入れればいいと思っています。 なまっちゃ:有給休暇? 小幡:不登校の大きな課題1つに、1回不登校になってしまうと外に出にくくなってしまうことがあります。数日間学校を休むだけで周囲の目が気になり、欠席した子自身が劣等感をすごく感じてしまうんですよね。しかし、有給休暇があれば気負いなく休むことができるし、周りも休んだことを変に思いません。 なまっちゃ:なるほど。学校に有給休暇制度ができるだけで、子供たちの心はだいぶ軽くなる気がします。 小幡:友達と喧嘩してどうしても行きたくない日も、これまでは学校に行かない理由にはなりませんでした。しかし、体調に関わらず、本人が行きたくない日はある。そのときに有給休暇があれば「今日、有給を使ったから学校休むね」と親に気負いなく言えますよね。理由を周りから求められることがありません。とりあえず学校を休むことは、かなり心に余裕をもたらしてくれると思っています。   不登校の「先」をつくる なまっちゃ:「#不登校は不幸じゃない」というハッシュタグ活動をSNSで企画し、多くの注目を集めました。今後、小幡さん自身はどのような活動をしていきたいと思っていますか? 小幡:これからの活動のテーマは不登校の“先”を作ることです。現在、多くのひとにとって不登校は「避けたい」もの。世間的にネガティブなイメージが強く、将来の不安を感じてしまいがちです。 なまっちゃ:もし自分の子供が不登校になったら、社会復帰できるのか不安になる気持ちはわかる気がします。 小幡:しかし、不登校だった子供が自立して稼げるようになる未来が見えていれば、不登校でも許される。不登校の子供たちが学校に行かない時間を使って、クラウドワークスなどで仕事を取ってきたり、BASEでオンラインショップを展開していたり…。現代では不登校の子が仕事をこなすことはすごいことだと思われますが、それが当たり前になるように、僕は仕組みを作ろうと思っています。フリーランス的な働き方を、不登校の子にも選択肢として与えてあげられたらなと。 なまっちゃ:とても新しい考え方ですね。 小幡:今の時代は「個人」でも生きやすい時代。特に若者はノーリスクでチャレンジできる恵まれた環境にあります。不登校をきっかけに、学校とは違った楽しさを知ってほしいですね。   『手をあげる訓練をしよう』U-29世代へ贈る言葉 久保田:U-29世代に、小幡さんから何かお言葉を頂戴したいと思います。 小幡:多くの若者と対話していて感じることですが、最初の一歩を踏み出すことにすごいハードルを感じてしまう人が多いです。だけど、行動してみないと何も変わりません。とにかく20代のうちに色々とチャレンジして行動して欲しいと思います。 なまっちゃ:チャレンジといっても、最初はどうすればいいのかわからない人が多いと思うので、具体的なアクションとかあれば教えていただきたいです。 小幡:手を挙げる訓練を日頃からしておくことだと思います。自分の目の前にチャンスが転がっていたときに、条件反射的に飛びけるように習慣付けておくことが大事なのではないでしょうか。 そして、条件反射的に飛びついたとしても、その出会いを「チャンス」に変えられるとも限りません。例えば会いたい人がいてメッセージを送ったときに、そのひとが会いたくなるかどうか、魅力的だと感じるかどうかも大事です。相手のことを考えた、自分の「見せ方」を考えてほしいと思います。 なまっちゃ:素早く動きつつ、自分の「見せ方」を意識することも大切なんですね。最後に、現代の若者へメッセージをいただけますでしょうか。 小幡:僕は不登校のとき、学校に行かずにずっとカードゲームをやっていました。しかし、カードゲーム大会の主催をしたり、好きなことに対してアクティブに動いていったところ、自分に自信をつける訓練ができたと思っています。誰しもが最初は手をあげるのが怖いと思います。しかし、一歩踏み出した先にやって良かったなと思う出来事は必ずある。ぜひやりたいことがあったら、消費する側ではなく生産する側になってください。 失敗しても、そのあとにリカバリーができれば、それは成功のためのプラスの材料になります。しかし、失敗して諦めてしまった時に、失敗になってしまうのです。自分は他の人と違うから…とチャレンジをしないのではなく、どんどん手をあげ続けてチャレンジして行動して欲しいと思います。 不登校から立ち直させるのではなく、不登校でも生きれる方法を提示する小幡さん。そんな小幡さんの活動は、不登校な子供達の生きる選択肢をつくることにとどまらず、自分がアンレールかもしれないという不安や悩みを抱えている人にも一歩を踏み出す勇気を与えてくれるのではないかと、インタビューをしていて思いました。 そんな小幡さんが出版した「学校は行かなくてもいい」には、アンレールになってしまった人たちへ贈る言葉が詰まっています。ぜひ、読んでみてください。

学生ライターからの内定と2度の退職からわかった。自分のやりたいことのヒントは「外」ではなく自分の「内」にある。

一般的な就活は避け、学生ライターでキャリアをスタートした中野さん。26歳までに会社員、フリーランス、メディアの立ち上げなど、様々な意思決定をしてきました。 そんな彼女は、こう言いました。 自分のやりたいことやキャリアのヒントは、「外」ではなく自分の「内」にある。 決して、順風満帆なキャリアではなかった中野さん。でも、諦めずに取り組むことで、WEBメディアの編集長、フリーランスライターとして好きなことを仕事にしています。 中野笑里 / Emiri Nakano:大学3年次、WEBメディアのインターンをきっかけにフリーランスライターとしての活動開始。 卒業後はギフト系メディアの編集長として450万ユーザーのメディアに育てた後、社会人4年目の26歳でスタートアップ企業の事業部長となりメンズ美容メディアdanCe(ダンシー)を立ち上げる。社内での複業も実現し、11月からは社長室で戦略責任者も兼務。現在もフリーランス継続中で、美容ライターとして雑誌や大手サイトで執筆中。   バイトが時間の切り売りに感じ、虚無感を抱く。自己分析で書くことが好きなことに気づき、学生ライターへ ー中野さんが本格的にライターをはじめたのはいつ頃ですか?また、はじめたきっかけも知りたいです。 中野:大学3年生のときに、恋愛系メディアで2週間ほどインターンを経験しました。記事の書き方やGoogle Analyticsの使い方など基礎的なことを学びました。 ただ、単価が安かったので時給換算したら500円ほどで。もう少し条件がいいメディアで書きたいと思っていたときに、編集長からお声がけいただいて。はじめよりも好条件だったので、お世話になっていた恋愛系メディアで本格的にライターを始めました。 ー3年生になって、恋愛系のメディアでライターとして始めたわけじゃないですか。やろうと思ったのはどういうきっかけだったんですか? 中野:1、2年生で初めてレジ打ちのバイトを始めました。ただ、バイトの時間がすごく虚無で、時間の切り売りに感じたんです。 あるとき「私が今後したいことって何だろう?」と自己分析をしてみたんです。すると「書くことが好き」ということに気づいて。思えば、高校時代にブログ運営をしていましたし、小学校6年間は毎日日記を書いていました。 であれば、書くことを仕事にできたら幸せだなと思い、「ライター アルバイト」や「ライター インターン」で検索して、ライターインターンに辿り着きました。   自分が納得しないと動けない。一般的な就活への反骨心 ー3年生からライターを開始して、収益も出ていたんですよね。中野さんなら「新卒フリーランス」もありだったと思いますが、就職を選んだ理由はありますか? 中野:たしかに「フリーランスもありだな」とは思っていました。でもちょうど、たまたま登録していた逆求人サービスで企業からオファーが届いたんです。当時私が興味を持っていた保育事業を始めるということで、「それなら私も一緒にやりたいな」と思い入社しました。就活と言えないほど、完全に受け身でしたね。 ーすごい縁ですね。周りが就活モードの中、インターンや企業説明会からはじまる「ザ・就活」はしてなかったんですか? 中野:しませんでした。正直、一般的な就活が異様に思えてしまって。 3年の12月頃に就活が解禁されて、リクルートスーツで身をまとい、一斉に企業説明会に行きはじめますよね。それぞれのタイミングが必ずあるはずなのに、「何でみんな突然一斉に始めるんだろう?」と、疑問に思いました。 周りの友達も、本を読みながら「こう聞かれたらこう答える」と準備していて、内定を取るためのノウハウも、たくさん出回っていますよね。「丸暗記で内定獲得!」みたいな。 でも「それって本質的じゃないな」と感じてしまったんです。自分の将来やキャリアを話すのに、画一的な模範解答はないはずですよね。 今思えば、普通の就活をしなかったのは自分に向いていないのと、「既存の就活スタイルへの反抗心」があったのだと思います。 ー3年生から本質を捉えていてすごい......。周りの目がある中で、自分の意見を貫けた理由は何でしたか? 中野:昔から家族や学校に、何かを強いられるのがすごく苦手でした。自分で納得しないと、動けないんです。また、常に堂々としていて目立つこともあり、周りから浮くことがあっても、別に気にしないんです。 ー鋼のメンタルですね(笑) 中野:そうですね(笑)今、就職先を決める必要はない。私のタイミングで決めよう、と思っていましたね。   携わりたかった事業が白紙になり、新卒2ヶ月目で退社。フリーランスへの挑戦 大学4年12月から契約社員で入社したはいいものの、実はすぐに退社してしましました。 保育事業をすると聞いて入ったのですが結局白紙になってしまい、またスタートアップのベンチャーということもあって激務で。 ーそれは災難でしたね......。受け身で就活していたとのことでしたが、後悔はしていますか? 中野:大変なこともありましたが、あれはあれで必要な経験だったと思います。流されながら決めるのではなく、きちんと就職先を見定めるのが大事なんだな、と思いました。 ー急にフリーランスとなってしまいましたが、独立初月から稼げましたか? 中野:初月は打ち合わせが多かったのですが、Facebookで「これからフリーランス一本です!」と報告してから、いろんな縁や繋がりに恵まれました。 ちょうどメディアが流行り始めた時期ということもあり、だんだんライターの依頼も増えるようになりました。鉄板焼きでアルバイトも同時にしていたんですが、独立2、3ヶ月目からはライターの仕事も忙しくなり、ライター一本で仕事しました。   リスペクトフルなメンバーとの出会い。メディアの波が来ると確信 ーフリーライターの期間が半年でしたよね。何かきっかけがあったのですか? 中野:学生時代の繋がりから、ギフト専門のメディアが立ち上がったことを知ったんです。もともとお祝い事やプレゼントが大好きで、そこでたまたまライターの募集があったので、すぐに面談し、ライターアルバイトとして入社しました。 実は、はじめは社員として入社するまでの覚悟はありませんでした。単純に素敵なサービスに携われたらいいな、という気持ちでした。 ーなるほど。でも、そこから入社されたんですよね? 中野:そうなんです。ライターとして出社して記事を書いていたのですが、仕事が楽しくて、週2日出社だったのが気づいたら週5日も出社していました。 その間ずっと記事を書いていたのですが「このメディアで他の仕事もしてみたい、深く関わりたい」と思うようになり、ちょうどそのとき「社員になってみない?」とお声がけいただいたので、社員になることを決めました。 ーここも素敵なご縁でしたね。入社の決め手は何でしたか? 中野:一緒に働いている方へのリスペクトですね。「この人たちとこの先も働けたら楽しいし、絶対成長出来る」と確信できたのが、一番大きかったです。 また、当時私は雑誌をメインに仕事をしていたのですが、多くの出版社が少しずつWEBにシフトしていて。 そのとき、メディア運営やWEBにおける編集・ライティング力をつけるのは必須だなと確信しました。正社員としてメディア運営にコミットして力を付けることで、今後のキャリアにも役に立てようと思いました。   尊敬していた上司の退社による退社。メンズ美容メディア 『danCe』を立ち上げる ー中野さんが働かれていたギフトメディア、去年すごい伸びましたよね。累計利用3000万UU・月間利用480万UU。ライターのスキルと、編集や企画、WEBメディアのプロデューサースキルは、似て非なるものじゃないですか。成果出すためにどんなことを意識していましたか? 中野:メディアが伝えたいことを把握し、文章で表現するのがライターだと思っています。一方で編集は、メディアの企画や数値改善、ライター育成のコミュニケーション、マニュアル整備など、多種多様なスキルとそれらを俯瞰して見る視点が必要となります。 この編集のマルチタスクさはフリーランスの働き方とも似ていて、すんなり受け入れることができたんです。 最初は大変だと思うこともありましたが、日々の積み重ねで、結果的に編集やメディア運営のスキルを身につけていけたのだと思います。 ーなるほど。ギフトメディアでは編集長もされていましたよね。順調にキャリアを歩まれている中で、キャリアを変更したきっかけは何でしたか? 中野:色々あったのですが、一番大きいのは尊敬していた上司が退職したことですね。残った上層部と私の意向には決定的な違いもあったので、すぐに別の道を考えました。 ギフトメディアを退いてから、尊敬してた上司と私を含め3人で、新しいサービスを作りました。その後、もともとフリーランスで関わっていたスタートアップ企業位に入社し、メンズ美容のメディア 「danCe」を立ち上げました。 ー今回は今までとは違って、男性向けの美容メディア。どんなコンセプトなんですか? 中野:danCeの運営会社が、元々LIVE配信やタレントをしているかっこいい男性を囲っている企業と繋がりがありました。「その男性たちを活かして何か出来ないか」というお話があり、一つのアイデアとしてメディアが立ち上がりました。私は今まで美容全般について執筆や編集で携わってきたのですが、想像以上に「メンズ美容」の市場は大きく、スピード感があったんです。 danCeは編集長の私もライターもほとんどが女性で、「女性発信でカッコいいを語る」をコンセプトとしています。 ー面白いですね!あえて全員女性にしているんですか? 中野:そうですね。多くのメディアではかっこいい男性が出てきて「かっこよさ」を語ることが多いと思うのですが、時に上から感じたり、「自分にはできなさそう......」と思われることもあると思うんです。 女性目線でかっこいい男性を語ることで、その隔たりをなくしたいなと。上からではなく横からを意識し、男性美容に寄り添うメディアを展開したいですね。   自分がやっていきたい答えは、「”外”ではなく自分の”内”」にある ーここまでありがとうございました。今後の方向性や、やりたい仕事の軸ってありますか? 中野:今、二つ考えています。一つは「女性の働き方」に関わりたいです。卒論で食育をテーマに書いたのですが、子供の食の認識には家庭内の食事が大きく関わっていて。また、そこには母親の働き方もかなり密接に関わっていたんですよね。 もちろん十人十色の答えがありますが、「現代における最適な女性の働き方ってどうなんだろう?」と、フラットに考えつづけたいです。 もう一つは「子供」です。新卒の会社を辞めてフリーランスになったときに自己分析した結果、子供に関わる社会福祉に興味があることがわかったんです。子供の貧困に問題意識を持っているので「どうにかしたい」という気持ちがあって。 子供をきちんと自分事にしてから関わりたいので、タイミングとしては私が出産を経てからだなと思っています。 この二つは、今後のキャリアで必ず携わりたいです。もしかすると、美容よりも興味が強いかもしれないです。 ー意外な軸でした。いろいろとキャリアで模索した中野さんですが、U-29世代に伝えたいことってありますか? 中野:「答えは”外”ではなく、自分の”内”にある」と伝えたいですね。 たとえば、将来どんな仕事をしようかなと就活を考えたら、エージェントや就活本などがたくさんありますよね。でも、就活は自分の進路を決めることなので、答えは絶対外ではなく内(自分の中)にあると思っています。徹底的に自己分析をして、自分がやりたいことを探してほしいです。 また自分のやっていることに納得していないと、その仕事で成果を出すことは難しくなります。成果が出せないとやりがいも感じず、負のループになってしまう。自分が納得する道を歩むために自分の考えを深掘りして「何が好きか」や「何をやりたいか」を明確にしてほしいです。 もちろん、その場で見つからないこともあると思っています。それでも立ち止まらず、諦めずにやってほしいですね。数ヶ月や半年後では、見える世界が全然変わってくると思うので。   取材・編集:西村創一朗 執筆:ヌイ 撮影:山崎貴大

過去5回の転職。ウルサス本著者・飯髙悠太が伝えたい20代で必要な心構えとは

通称「ウルサス本」で愛される、『僕らはSNSでモノを買う』‬の著者・飯髙悠太さん。過去には、有名Webマーケティングメディア「ferret」の創刊編集長で従事していました。 実は、現職のホットリンクに従事するまで、5回の転職を経験。その背景には、さまざまな意思決定や戦略が。 20代で圧倒的な結果を出し、30代から飛躍するためには何が必要なのか?今回はその必要要素を、飯髙さんにお伺いしてきました。 飯髙悠太(いいたかゆうた):株式会社ホットリンク CMO(ホットリンクでTwitterする人)これまでに複数のWebサービスやメディアの立ち上げ・東証1部上場企業を含め100社以上のコンサルティングを経験。自著は‪『僕らはSNSでモノを買う』‬は5刷(2019年12月時点)を突破。また12/28に『アスリートのためのソーシャルメディア活用術』を出版。   新卒入社半年で営業トップに。大切なのは、みんなと同じ選択をしないこと ーー飯髙さんのファーストキャリアと意思決定の背景をお聞きしたいです。 飯髙悠太(以下、飯髙):僕は最初、求人広告会社に入社しました。実はもともと、IT業界を目指していました。今でこそITの時代ですが、当時(2009年)は今と比べ市場が小さく、これから伸びる業界だと思っていたからです。 ただ、はじめに選んだのは「求人広告」。就活が終わり内定式の直前に、リーマンショックが起きました。僕なりに考えたのは、採用も減るしリストラも増えるからこそ、まずは「営業力」を磨きたいと思っていた僕にとっては一番過酷だからぴったりと思い選びました。 ーーそんな背景があったのですね...。在籍期間が半年と聞いたのですが、早くにジョブチェンジをした理由は何でしたか? 飯髙:僕はいつも、会社の在籍期間とそこで達成するミッションを予め決めています。 シンプルに早期達成できたんです。1年目でトップを取ることを目標にしていたのですが、半年で単月ではありますが達成できて。そして言葉は悪いですが、この会社で学ぶことはないなと思いまして...。 ーーすごい...新卒半年で達成できたんですね。しかも半年で。何か工夫はあったのですか? 飯髙:今でもベースにあるのですが、「みんなと同じことをしてはいけない」という考えがものすごく強かったです。当時の会社はゴリゴリの飛び込み営業をしていましたが、はじめから「なんか違うな...」と違和感を感じ、そこで自分なりのやり方を考えました。 たとえば、エリアを決めるとき「業界3番目以降の店舗のみに営業する」と決めていたんです。ほとんどの人が1、2位の会社に行くのですが、ライバルが多いため、競争も激しいので狙いを変えました。そうすることで結果も出やすかったですね。 王道パターンもいいですが、視点をずらし、自分なりの戦略を持つことで達成できたのかなと思っています。   飯髙さんの選ぶ基準は、迷ったらあえて茨の道に行くこと ーー飯髙さんが環境を選んだり変えるとき、いつも明確な基準や目的を持っている印象なんですね。ご自身の中でモットーはありますか? 飯髙:なりたい自分ややりたいことが決まっている時、設けている基準がありますね。「迷ったらあえて泥船に乗る」ということ。なのでいつも、辛い方に自分の身を置いちゃっていますね。 ーーなるほど。何かきっかけがあるんですか? 飯髙:僕は小学校に入ってから高校までサッカー漬けの毎日を送っていました。サッカーの恩師がいつも、「人生で岐路に立たされたら、あえてハードな道を選びなさい」と助言してくれて。 平坦な道は楽に進めるけど、茨の道を歩むことで経験値がぐんと上がる。「若いうちなら、あえて難しいことを選択して経験しておくと後で強くなるから」と口酸っぱく言われましたね。 正直辛いことのが多いですが、やっぱりその選択は間違っていませんでした。とても感謝しています。   2、3、4社目と意思決定の連続 ーー1社目を退職して、次からIT業界に入りましたよね。これまでのストーリーをお聞きしたいです。 飯髙:2社目は、とあるWebマーケティングの会社に入りました。在籍期間は2年ほど。直感的に、イケイケ感もあってかっこよかったんです。また、業務量も多くて今で言う「ブラック」でしたが、1度はそんな環境に身を置いてみたかったんです。そもそも、今でもずっと働いていられるし、そういう企業を僕はブラックだとは思っていません。 言葉のニュアンスが難しいですが、この不況の時代、負荷から逃げていたらまずいですし、やっぱり量をこなしてないとわからない・経験できないことって多いです。 そして、実は面接は落ちていたんです。ただどうしても入社したかったので、社長に電話をして「落ちた理由は何ですか?」と聞いてたら、僕の憶測ですが「コイツおもしろい」って思ってくれて呼んでいただけました。 ーー普通落とされたら「はい、次」と行きますもんね(笑) 飯髙:そうですよね(笑)当時の社長に「半年で営業部トップの成績を抜いたらリーダーにしてください。その分、最初の給与も最低金額で大丈夫です」と伝えました。そうしたら「全然いいよ」って言ってくれて。 そこからがむしゃらに頑張って、宣言通り、半年で達成できました。結果、希望はどうあれ社会人2年目でマネージャーになりましたね。 ーーすごい、有言実行ですね。成果も順調にでていた中で、どうして2年で辞めてしまったのですか? 飯髙:言葉を選ばずに言うと、学べることを全部学んだんです。また、今でもベースにある「自分の営業スタイル」が築けてきたなと。僕は常に「御社に合うから、本当にこれはやった方がいいですよ」「そんなにやりたいならやってみてもいいですが、失敗すると思いますよ?」というように、お金は大事だけどお客さんの立場で、成果を一緒に追いたいっていうスタンスなんです。 ーー引き営業っていうか、飯髙さんとしゃべっているそのままって感じですね(笑)。グイグイ取ってくるような営業スタンスではないと。 飯髙:そうですね。さっきもお伝えしましたが営業って、お客さんが幸せになることが1番だと思っているので。 また、ITでも「SNS」が急激に伸びてきて、SNSでトップになりたいという気持ちも芽生えました。 その後は、3社目にSNSに強いマーケティング会社(在籍期間1年4ヵ月)、4社目にスタートアップ企業(在籍期間9ヵ月)に移りました。 ーーなるほど。どのタイミングでベーシック(ferret運営会社)に移ったのですか? 飯髙:過去に仕事でメディアやブログ運営もしていたんですね。純粋にたのしかったですし、再現性やシナジー効果が高いなって思っていました。 で、あるタイミングで知り合いから面白い会社があるから、今から飲み屋に来てくれと呼ばれました。そこで「ferretをメディアにピポットしたい」と社長の秋山さんから言われました。他の会社に行くことが決まっていたのですが、「中小企業のマーケを良くしたい」という想いが僕とマッチしていたし、これから自分が考えているキャリアと合致しているなと シンプルに言うと濃い経験ができると思い、ベーシックへの入社を決めましたね。   ferret創刊編集長へ就任。ミッションドリブンで月間4000人以上が会員登録するメディアに ーーそこでferretの創刊編集長として、メディアを立ち上げたんですね。ベーシックでは、どんなキャリアを歩まれたんですか? 飯髙:一般社員で入社して3ヵ月後にマネージャーになりました。またその6ヵ月後に部長になって、その2年後に執行役員ですね。在籍期間は1番長く、気づけば4年半いましたね。 ーー今までずっと、ご自身で期間とミッションを決めていましたよね。ベーシックでは何を考えていたんですか? 飯髙:ベーシックでは、ミッションドリブンでしたね。目標はferretを他メディアの倍、読まれるメディアにすること。実際に立ち上げ1年半で達成できました。 ーー毎回有言実行されててすごい...。でもまだベーシックに在籍していたのは、なにか理由がありましたか? 飯髙:任務達成した後もいろいろと軌道にのせることができたので、「辞めようかな...」と思ったときに、代表から「経営者にコミットして、経営の難しさを経験したほうがいい」とおっしゃってくださって。当時、会社のことをほぼほぼ何も考えてなかったことを伝え、それでも大丈夫ですか?と聞いたら「大丈夫。そんな人が1人くらいいた方がおもしろいし、チームのことを考えてやってる以上それは組織のことも考えてる。それは見ている俺が一番わかっている」と返ってきました。 ーー懐深いですね。 飯髙:ほんと感謝しています。そんな流れがあって、30歳で最年少執行役員になりました。 ーーすごい...。実際執行役員になって、やはり大変でしたか? 飯髙:大変でしたね。中でも、思い入れある人たちが退職したときが大きかったですね。コアなメンバーが辞めていって...。他にも、意見の食いちがいによる衝突もありましたね。 「このままだとやばい」と思い、立て直そうと思ってもできなかったりして。ただ、社長や他メンバーとも議論をし、自分の選択に嫌々かもしれませんが納得してくれました。 それから今の、SNS・デジタルマーケティングに強いホットリンクに転じ、早1年が経ちました。この1年も激動でしたが、とても充実していました。それは前職で経営に関わらせてもらったこともあるし、これまで色々経験してきたからだと思います。 そして何より、ホットリンクのメンバーとの距離感はいい意味で近いし。仲良しこよしではなく、ちゃんとメリハリはあって、こういう組織やチームが好きだったよなって思いながら、やっています。 そしてご存知の通り、これから更に「SNS」が伸びると思うので、この畑でも結果を出していきたいですね。   もし、過去の自分にメッセージを送るなら。どんどん失敗して、強くなってほしい ーー今まで、相当な努力と数々の選択をされてきたじゃないですか。過去をふり返って、大学生の飯髙さんにメッセージを伝えるとしたら、なんと伝えたいですか? 飯髙:そうですね......。今パッと3つ思いついたので、順にお伝えしますね。 まずは、前提を疑ってほしいです。僕は今でもそのスタンスです。 世の中「これが当たり前」という人が多いですが、生意気ながら、僕は「誰が作ったの?」って思ってしまうんです。自分にとっての当たり前の基準は、自分にしか作れません。 もし、周囲の意見に流されてるな...と思ったら、一旦立ち止まって「自分はどうしたいんだろう?」と、内省するのをおすすめします。 つぎに、20代の過ごし方を大切にしてほしいですね。20代で形成されるキャリアってものすごく重要で、あなたのこれからのキャリアに大きく影響します。 20代って、正直遊びたいじゃないですか(笑)。でもグッと堪えて我慢をして、仕事にコミットし、結果を出す経験はのちに絶対に活きてきます。 人間に与えられたもので、唯一平等なのは「時間」だけです。限られた時間の中で、自分が何をやるかの棚卸しと整理をして、行動してほしいなと思います。 ーーたしかに、20代の過ごし方で30代以降のキャリアが変わりますよね。 飯髙:最後は、たくさん失敗してほしいと伝えたいです。ここでの失敗は、メールミスのような小さなミスではなく、ガチで怒られるってことです。 僕は、失敗から学ぶことが圧倒的に多かった...。サッカー少年だった頃、勝っているときは別に悩まないんですよね。仕事も然りで。 調子いいときはあまり悩まないけど、失敗することで、自分の改善点やダメなところが見えてきます。言われたまま働いても、失敗なんてできません。前提を疑って動かないといけませんし、多少の無理は付きものです。 ただ、本気でやりきって失敗したときに、人は超強くなります。20代という若手の貴重な時期だからこそ、本気でぶつかってほしいですね。 この3つを話ながら、今でも大事にしてるなあって思いました(笑) ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材・編集:西村創一朗 執筆:ヌイ 写真・デザイン:矢野拓実

「monopoに出会ったから日本にいる」ー 若きクリエイターが語るmonopoというコミュニティと夢

monopoについて 東京を拠点のグローバルクリエーティブエージェンシーとして、国内外の様々なブランドにサービスを展開。"A BRAND OF COLLECTIVE CREATIVITY”をビジョンに掲げ、ブランディング・広告・PRを中心に様々な領域において、個人が持つアイデアや創造性を共に発揮できるようなコミュニティ作りを目指している。 2019年、ロンドンに子会社monopo London.Ltdを設立。自社プロジェクト『poweredby.tokyo』では、東京の知られざる魅力を世界に発信中。 Clara Blanc -プロジェクトマネージャー 1994年、フランス生まれ。 大学在学中より、モデル・フォトグラファーとして活動しながら、ラグジュアリーブランドにて広告・ブランディングのプロジェクトマネージメントに従事。自身が運営するブログ「Parisienne in Tokyo」を通して、フランス人目線で日本カルチャーを発信している。2019年、monopoに入社。ファッション・ライフスタイルブランドのブランド戦略・広告企画の仕事を行なっている。 Sumie Newell -デザイナー / イラストレーター 1997年、日本生まれ。 日本とアメリカのハーフとして生まれ、幼少期から日米両方で生活する。 高校卒業後、カリフォルニアの大学を休学しながら18か国を周るバックパックを経験。 世界を渡り歩くなかで、様々なデザインインターンシップを通しスキルを磨き、日本に帰国。 2019年、monopoに入社。持ち前のアートスキルと多国籍な感覚を強みとして様々なブランドのアートディレクション・広告制作などに従事。 「tokyo creative agency」と検索すれば、最上位に出てくるのは、優秀なクリエイターが集まる「monopo」という日本企業。2019年10月、そこに入社された二人の20代女性がいます。 日本とアメリカで暮らした経験から、多様な価値観を強みとするデザイナーのSumieさん。そして、フランス人でありながら日本が大好きで、ブランディングやディレクションの経験もあるClaraさん。 今回はそんなU-29世代のお二人にお話を伺いました。様々な選択肢がある中で、なぜmonopoという会社を選んだのか。また、それまでにどんな人生を歩み、これからどんな未来を描いているのか。 お二人が語ってくれたのは、monopoという企業の素晴らしいカルチャーと、世界を見据えたワクワクするような熱い夢でした。   ここでなら夢が叶う。入社に迷いはなかった 西村創一朗(以下、西村):お二人がmonopoに入社されるまでの経歴を教えてください。まずは、Sumieさんからお願いします。 Sumie:私は日本生まれで、今年22歳になります。父がアメリカ人なので、10歳からアメリカに引っ越し、4年ほど住んでいました。高校は日本で卒業したものの、大学に行きたくなくて世界中を旅して回ることに。そこで自分の世界の狭さに気付かされました。 西村:その旅では何ヶ国くらい回ったんですか? Sumie:18ヶ国くらいを、バックパック一つで回りました。ルーマニアから始まって最後はタイで終わり、再び日本に帰ってきたんです。帰国後、インターンができる企業を探していて、monopoに出会いました。 西村:なるほど。では次は、Claraさんの経歴を教えてください。 Clara:フランス出身の25歳です。日本に滞在するのは今回が3回目。最初は2015年に交換留学で1年間滞在し、2017年には日本のファッションブランドでインターンをしていました。今回は1ヶ月前から日本に滞在していて、monopoに入社しました。 西村:お二人がmonopoを知るキッカケは何だったんでしょう? Sumie:東京でデザイン関係のインターンシップができる企業を探していたところ、monopoが運営しているpoweredby.tokyoにすっかり魅せられてしまって。「こういうものをインハウスプロジェクトとしてやっているエージェンシーって素敵だな」と思ったんです。実は、その時はまだmonopoがどういう企業なのかもよく知らないまま応募しました。 西村:poweredby.tokyoはもともと知っていたんですか? Sumie:いえ、知りませんでした。インターネットで「東京 クリエイティブエージェンシー」と検索して、monopoに辿り着いたんです。 西村:そうだったんですね。Claraさんはどうでした? Clara:私の場合は、友人とmonopo nightというイベントに参加したのがキッカケです。そこでmonopoの雰囲気を知って「すごい会社だなぁ」と。それからmonopoが今までに作った作品などを調べました。国際的な社風でありつつも日本の心を持っている企業だなと感じ、すごく私に合っていると思ったんです。 大学を卒業したら絶対日本に戻りたいと思っていましたし、私は広告を作るようなクリエイティブな仕事をしたかったので、monopoなら私の夢も叶うな、と。 西村:なるほど。Sumieさんは、いろんな選択肢がある中で偶然monopoに出会い、poweredby.tokyoに魅力を感じて……とのことでしたが、他にもたくさん選択肢がある中で悩むことはなかったんでしょうか? Sumie:私はあまり悩みませんでした。世界を旅していた際に思ったのは、多様性のある環境で働きたいということ。そしてmonopoの面接でみなさんと一緒にランチを食べたとき、いろんな国のいろんな人種の方々が集まっていて、みなさん自分の好きなことに没頭しているということが感じられたんです。そういう企業がmonopoしかなかったので、迷いはなかったですね。いつもバックパッカーのような素の自分でいられる職場を探そうと思っていたので。 西村:毎日がバックパッカー。 Sumie:そうです。実際、刺激はめちゃめちゃありますね。学ぶことも多いですし、楽しいです。父がアメリカ人であることや、アメリカで生活した経験もあったので、このような多国籍な企業を見つけられてすごく嬉しかった。 西村:ちなみにmonopoにはどんな国籍の方がいらっしゃるんですか? Sumie:フランス人が多いですね。あとは、南アフリカやカナダ、アメリカ、ドイツの人もいます。日本人が半分くらいいるのですが、グローバルな人が半数もいる企業って、日本ではなかなかないですよね。 西村:それはmonopoのいいところだと思いますね。ですが、アメリカに暮らしていた経験をお持ちなのに、日本で働こうと思った理由は何でしょうか? Sumie:monopoに出会えたからですね。実は、昔から日本に対して「閉ざされた国」というイメージを持っていました。だからこそ世界を旅しようと思ったわけですし。もしmonopoに出会っていなかったら、海外に引っ越して就職していたと思います(笑)こういう環境の会社ってあまりないので、貴重です。   monopoは「会社というよりコミュニティ」 西村:働く環境としてのmonopoはどうですか? Sumie:最高です。やっぱりクリエイティブなお仕事なので、残業もあるし忙しいんですが、忙しさも含めてやりがいがあるなと感じています。とはいえ、仕事中の9割くらいは楽しいと感じています(笑) 西村:いいですね。Claraさんはどうですか? Clara:私も最高です。フランスから見ると、日本の企業は休みが少ないなどけっこうハードな環境なんですが、monopoはそんなフランスの企業より優しいですね。日本でこういう会社があるなんて、信じられないくらい。 例えばフレックス制度があるので、みんながそれぞれ自分のリズムに合わせて仕事ができていいなと感じます。また、他の会社だと担当させてもらえる業務も一つに限られると思うのですが、monopoではやりたい仕事をいろいろとやらせてもらえるのもいいところです。 Sumie:他にも、業務時間内に日本人が英語の授業を受けることができたり、逆に英語しか喋れない人は日本語の授業を受けることができたりするんです。それも、会社の経費で。 西村:へえ、それはすごい。 Clara:monopoでは、「一緒に仕事をする」というより、「一緒にmonopo人(じん)を育てる」という雰囲気があって。仕事以外の自分のプロジェクトも周囲の人がサポートしてくれたり、すごくいい環境ですね。会社というよりはコミュニティといった感じです。 西村:Sumieさんもそのように感じますか? Sumie:はい。いい意味で厳しくないというか。自分で自分のペースを決めることができるんです。だからこそ自分で育つことができる、そういうコミュニティだと思います。 西村:どんな時にコミュニティだと感じていますか? Sumie:まず、みんな仲がいい!めちゃめちゃ話しやすいし、先輩後輩もあまり関係なく学べる感じです。ギクシャクせず、気軽に話しかけられる感じなのがとても大きい。日本の会社だとそういう雰囲気ってあまりないと思うんです。だからこそコミュニティだと感じます。 Clara:例えば周りの人の手が空いていないときでも、私が自分のプロジェクトで悩むポイントがあったら、その部分だけ手伝ってもらえたり、逆に他の人の困りごとがあれば私もそのお手伝いをする。コミュニティの中でのsolidarity(=結束、連携)がすごく強いんですよね。 Sumie:チームメイトって感じですね。 Clara:普段はみんな自分のペースで仕事をしているんですが、一緒に話せる時間もちゃんと決めてあります。合宿もあるんですよ。 西村:合宿があるんですね!どんな感じでしたか? Clara:3日間のうち一泊がキャンプだったんですが、ケータリングがあったりバーテンダーがいたりして驚きました(笑)私は入社前に参加させてもらったんですが、この合宿で入社前に社員の方々とすごく仲良くなれたので良かったです。monopoって最高だなと思いました。 西村:それは楽しそう! Clara:monopoの中のコミュニティが魅力的なだけでなく、monopoの周りのコミュニティがすごく広いのもいいところだと感じます。 Sumie:月に一度開催されているmonopo nightも、世界中のクリエイティブコミュニティをローカライズする、東京に集める、という意図があります。 Clara:monopoは日本の会社ですし、日本のことをすごく理解していて日本文化のいいところもたくさん取り入れられているんですが、海外に対する意識もちゃんとあって。日本と海外との言葉の壁を越えて繋ぐ「架け橋」としての役割を担っていると思います。   自分のやりたい仕事が入社1ヶ月で実現 西村:ここまでmonopoの環境やカルチャーについてお伺いしたんですが、お二人が今どんなお仕事をされているのか、お聞きしたいです。Sumieさんはデザイナーをされていると思うのですが。 Sumie:最近は、ある企業の新製品のキービジュアルを作ったり、ソーシャルコンテンツを作ったりしています。私はイラストレーターでもあるので、企画の絵コンテを描いて提案することもあります。 西村:素晴らしいですね。Claraさんはどういった仕事をされているんですか? Clara:基本的にはプロジェクトマネージャーなんですが、今はファッション企業のクリスマスのキャンペーンを作っています。 西村:作る、というのは? Clara:コンペのためのピッチコンセプトを考えて発表し、実際にそのコンセプトを実現させるところまでやっています。そのキャンペーンのコンペは、monopoのメンバーとチームを組んで勝つことができたので、これからカメラマンさんとも協力して撮影を進めていく予定です。 私はファッションやコスメに関する広告の仕事をやりたいとずっと思っていたので、入社して一ヶ月で、こうして自分がやりたい仕事を実現させることができて幸せです。 西村:普通、入社して一ヶ月って辛いことが多かったり仕事が大変だったり、また逆に研修ばかりで仕事を任せてもらえないということもあると思うんですけど、お二人ともすぐ戦力になっていて、しかも仕事を楽しまれていて、すごく素敵だなと感じます。 Clara:こういう仕事をしたくてmonopoを選んだわけですし、仕事にはしっかり責任を持ちたいと思っています!   「チャレンジ」と「成長」ー 20代の二人が抱く夢 西村:monopoとの出会いのお話の中で「私の夢」という言葉が出てきましたが、クララさんの夢はどういったものなんでしょう? Clara:私にとっては、チャレンジしているときが人生でいちばん楽しいんです。アーティストさんと一緒に働くようなお仕事も、インスピレーションがすごく湧くしモチベーションも高いんですけど、アートのためだけだと、私にとってのチャレンジがあまりないように感じてしまって。それよりは、商品やそのブランドをうまく見せるために、いかにアーティストさんの才能を上手く使うかという戦略を考えるほうが楽しいです。 だから、今はクリエイティブディレクターを目指しています。 西村:なるほど、それで今はプロジェクトマネージャーをされているんですね。Sumieさんはいかがですか? Sumie:私はそんなに野心が強いほうではないんですが、第一に考えているのは「幸せになりたい」ということなんです。 西村:それは大切なことですね。 Sumie:そして、好きな人たちと一緒に自分の好きなことをやり続けて、その中で成長していくということが私にとっての幸せだと思っているので、そういう環境を見つけることが私の夢ですね。   monopoと一緒に世界中で活躍するクリエイターへ 西村:最後に、今後なにかチャレンジしたいことがあれば教えてください。 Clara:monopoと一緒に大きいプロジェクトをしたいです。ルイ・ヴィトンなどの仕事をゲットして、日本のマーケットだけでなく、世界中の広告を作りたい。また、趣味で日本についてのブログを書いているので、そのブログを広めて海外の人たちに日本をもっと知ってほしいなと思っています。 西村:素敵ですね。Sumieさんはどうですか? Sumie:私は、monopoのセールスポイントをひとつ増やしたいと思っています。今のmonopoはデジタルエージェンシー、クリエイティブエージェンシーとしてアピールしていますが、私自身イラストが好きなこともあって、イラストもセールスポイントにしたいんです。 今はポートフォリオにもイラスト系の作品が全くないので、そこから改造していって、イラストの仕事も発注してもらえるような状態に変えていきたいですね。 西村:素晴らしい。Sumieさん自身がmonopoのセールスポイントになる、というわけですね。 Sumie:そうですね。私もまだあまりビジネスのことをわかっていない部分もありますけど、そこはmonopoで学べますし、今は自分をどんどん世界中に押し出していきたいと思っています。個人としても、monopoの一員としても。 monopoにアクセス (取材、写真:西村創一朗、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

弁護士として異例の「三足のわらじ」という働き方。数々の意思決定と今までの挑戦

弁護士として、スマートニュース株式会社、法律事務所ZeLo、NPO法人Mielka代表を務める徐東輝さん。 一般的な弁護士の働き方を超え、熱いビジョナリー精神で「幸福な情報空間」を目指しています。 「三足のわらじ」を履く彼は、スマートニュースに入社するまで、様々な意思決定をしてきました。 弁護士を目指したきっかけから、弁護士として描く今後のビジョンまでお伺いしてきました。 弁護士を目指したきっかけは、ある弁護士の言葉にあった ー弁護士を目指したきっかけを聞こうかなと。いつ頃からなろうと決心したんですか? 徐東輝(以下、徐):「将来は弁護士になろう」と思い始めたのは、小学校高学年くらいでした。 実は、僕の両親は韓国籍です。両親の世代って、日韓問題の問題意識がすごい強い世代でした。 傍から見ていると、日本人は韓国人のことを嫌っているし、韓国人は日本人のこと嫌っていて。「何で、どっちの属性も持つ僕がこんな風に生きていかなきゃいけないんだ」とずっと思っていました。自分のアイデンティティがすごく嫌いだったんです。 ーなるほど。辛かったですね。 徐:両親によく、戦後賠償問題に関するシンポジウムなどにも連れられて。「韓国人が傷の舐め合いをしているような場所だな」と思っていたら、そこら中に日本人も居たんです。しかも、弁護団も日本人なんですよ 日本人弁護団が韓国人のために動いているというのを知って、僕は意地悪に、「日本人は韓国人のこと嫌いなのに、何で助けようとするの?」と代表弁護士の人に聞いたんです。 そうしたら、「国籍関係なく自分が正しいと思ったことができるのが弁護士っていう仕事だよ」って言われて。めちゃくちゃ刺さったんです。 ーなにそれ、しびれる。そこからずっと弁護士の夢は、変わらなかったんですか? 徐:ぼんやりと弁護士という進路を視野に入れていました。法学部を志望した理由も、ぼんやりと「弁護士になるなら法学部だろうな」ぐらいの感覚でした。 そして高3の1年間、むちゃくちゃ受験勉強頑張って、京都大学法学部に入学しました。   大学時代は、とにかく自分ができることに全力を尽くした ーすごい。努力も実って現役で京大法学部へ。どんな学生時代を過ごしましたか? 徐:大学1年は、ザ・キャンパスライフでした。バイト三昧で授業はサボってばかりで。多分3回くらいしか授業を受けていなかったと思います。 そしてぼんやりと、留学に行きたいと思い、バイトで頑張ってお金を貯めて、ニュージーランドとカナダに、休学して1年間留学をしてきました。そこで、「僕はなにも世界を知らないんだ、空白なんだ」って思い知って。 その後は視野を広げるために、世界銀行のインターンに参加して「貧困」について考えたり、TEDにも関わったり。自分でやれることは、すべてやってきたって感じです。 ーかなりアグレッシブだったんだね。ivote関西(現:NPO法人Mielka)の活動は何がきっかけではじめたんですか? 徐:各国を周って日本に戻ってきてから、「日本の民主主義にコミットしたい」と思い始めました。数々の国を周って気づいたことは、政治に関心を持っている若者が多いのに、日本ではまだまだ意識が低いなって。そこから、今のMielkaへの活動に繋がりましたね。 日本の民主主義の課題は、大学院入った当初、政治参加の回路の少なさだと思いました。アクセスやアプローチ方法。それと意識ですね。投票意識が著しく低いので、選挙に同世代が全く行かない。 僕は在日だったので、投票権がないので、行きたくてもいけませんでした。 ーなるほど。 徐:当時、同世代に「どうして投票行かないんだろう?」と、すごい切ない思いをしました。この国やこの町の未来に意思決定ができるって素晴らしさを伝えたく、Mielkaの事業に携わっていましたね。 ですが、その後その問題意識は大きく変わることになります。2016年頃から、フェイクニュースやフィルターバブル、個人データの悪用などが民主主義の大きな脅威として認識され始め、僕自身も2016年大統領選挙のリサーチャーとして現地にいた際にその問題意識を強く持ちました。 それ以降は、とにかく「民主主義にとって最大の強みである自由な情報空間への介入によって、民主主義は最も脆弱なシステムに成り代わっている」と考え、良質な政治情報空間の設計を第一の課題として個人の思想も大きく変わっていきました。   ロースクール後はZeLoへ。就活時に大切にしていた3つの基準 ーロースクールを卒業後、ローファームに行きましたよね。ビックな企業などいろんな選択肢があった中で、ZeLoを選んだ理由は何でしたか? 徐:当時、企業選びの基準を自分の中で明確に決めていました。その中でも主に3つがピタッと当てはまったんです。 一つは「創業者がリスペクトフルなビジョナリーな人」。そもそもローファームでビジョナリーって、求められないんです。ただZeLoは変わっていて、印象的でした。そして二つ目は、「テクノロジーオリエンテッドなローファーム」でした。 そして最後は、「僕を暴れさせてくれる場所かどうか」です。 ーいきなり、面白い言葉がでてきましたね。カルチャーが合うかどうかでしょうか? 徐:そうですね… 。僕の体質的に、大手は合わないと思っていたんです。大きく裁量を認めてくれ、自由に案件に取り組むことができ、さらには組織設計にまで従事できるかなどが具体的な基準だったのですが、今までの条件が合う環境が、なかなか見つからなくて。そこで大手から独立して、しかもリーガルテックを推進する会社まで設立するというZeLoの話を聞いてみたら、「めちゃめちゃ面白いじゃん」ってなって。 駆け出しの事務所なので、当時まだメンバーは3人ほどしかいませんでしたが、創業2年半で20人を超える事務所に成長しています。 ー暴れ放題ってわけですね(笑) 徐:しかも、めちゃくちゃビジョナリーでしたし、独立する上司たちも圧倒的に優秀に感じたので、もうここしかないなと思って。就活を辞めて、ZeLoを選びました。   鈴木健との出会いとスマートニュース入社理由 ーZeLoにはどれくらいいたんですか? 徐:1年9ヶ月です。今も所属はしていて、プロジェクト単位で関わっています。 ーそこから、直近の意思決定に繋がると思うのですが、スマートニュースに入った経緯をお聞きしたく。鈴木健さんとの出会いが大きかったんですよね? 徐:そうですね。「スマートニュースの鈴木健」は、一方的に存じ上げていました。著書『なめらかな社会とその敵』を学生時代に読んで、「こんな風に社会を捉えられる人間がいるのか」と嫉妬していたので。実際に健さんと知り合ったのは、2016年の大統領選挙の時でしたね。 突然、Facebookから友達でもないのに、メッセージが届いたんです。「スマートニュースの鈴木健と申します。お会いできませんか」と。 ー唐突ですね。 徐:「え、あの?」ってフリーズしました(笑)で、実際にお会いしたんです。最初はスマートニュースの話はそんなになく、どちらかと言えば根底にある「なめらかな社会」をどう創るかをお互いで話し、意気投合しました。その後は弁護士になった時に、ランチに誘ってくださったり。 弁護士になった後も、ちょくちょく会って。健さんと会い話していくにつれ、一緒に働きたい想い、ここでなら自分が創りたい未来が創れるのではないかという想いが強まり、面談を受けることにしました。 ー実際に面談を受けてみてどうでしたか? 徐:先ほど、就活の3つの基準をお伝えしましたが、スマートニュースにも当てはまっていて。特に、ビジョナリーでリスペクトフルな人たちが、僕の中で圧倒的で。テックオリエンテッドも完璧だし、裁量権も持たせてくれる。行くしかないなって。 行くなら、顧問ではなく、フルコミットで入りたいというのもお伝えしました。 ー元々関係性もあったし、自分の基準が重なったんですね。 徐:そうですね。「何をするか」も大切ですが、僕にとっては「誰とやるか」が重要でした。他にも、上司で尊敬できる方が元々何人かいて、「この人達と世界を良くしていけるんだったら、行くしかないだろう」という想いです。   今後の目標は、幸福な情報空間を創っていくこと ーでは最後に、今後チャレンジしたいことを教えてください。 徐:個人としては繰り返しになるのですが、脆弱になっている情報空間を適正なものにしていき、皆さんの幸福な情報空間を創っていきたいです。 しんどくなくて、鬱陶しくもない。でも、みんなに必要な情報が届く世界が理想ですね。身体的、精神的、社会的に良好な「ウェルビーイング」な状態の情報空間を創りたいです。 ーウェルビーイング、すてきですね。 徐:情報の格差や非対称性の不幸せを無くしていきたいし、お互いにとって素晴らしい世界ってもっと創れると思っています。スマートニュースが僕のやっていきたいことを現にやっているので、メンバーの一員として「幸福な情報空間」を一緒に創っていきたいと思います。   取材・編集:西村創一朗 執筆:ヌイ 撮影・デザイン:矢野拓実

「政治はクリエイティブな仕事」渋谷区議会唯一の20代議員・橋本侑樹に迫る

今回は特別企画として、アイドルグループ「仮面女子」の元メンバーで、現在は渋谷区議会唯一の20代議員として活躍する橋本 侑樹(はしもと・ゆき)さんにインタビュー。 高校生でアイドルデビューしたのち東京大学へ合格し、東大生アイドルとして活動しながらも勉学に励んでいた橋本さんは、10〜20代の人たちに対し「こうあるべき、に縛られない将来の選択をしてほしい」と言います。 何の後ろ盾もない状態から議員になった彼女が語る政治の面白さや議員としての活動、またそれまでの経緯は、これまで政治に興味を持っていなかった人や、将来の道に迷っていた人にヒントを与えてくれること間違いなしです。   アイドルを経て、理想の社会を作るために政治家の道へ ー 今は渋谷区議会議員という肩書きを持つ橋本さんですが、これまでどのような道を歩んでこられたんでしょう? 私は小さい頃から歌を歌うのがすごく好きだったんです。小学生の頃には「歌を歌いたい」と、音楽の先生に掛け合って合唱団を作ってもらったほど。高校生のときには、NHKの東京児童合唱団のオーディションを受けて入団し、そこで歌を歌うようになりました。 高校3年生のときに合唱団を引退し、東京大学を受験することも決めていたんですが、音楽がすごく好きだったので物足りなくなってしまい、タレント事務所の門を叩くことにしたんです。そこで「東大受験生アイドル」としてデビューすることになりました。 一度は受験に失敗してすごく辛かったものの、一浪して合格。それからはステージにも立って毎日ライブ、毎日大学、という大学時代を送っていました。大学を卒業するとき、親からは就職するように言われていたんですが、私は芸能をやっていきたかったので、事務所から支給された衣装だけ持って家を出ることになったんです。 その頃来ていた仕事は「高学歴アイドル」としてのオファーが多くて。その仕事に向けた勉強はするものの、受け売りっぽいコメントしかできなかったんです。「これじゃあダメだ」と思い、自分で責任を持ってコメントできるタレントになるべく政治塾に通うようになりました。それが政治の最初の入り口だったかなと思います。 ー だけどそのときはまだ「政治家になるぞ」というスイッチは入っていなかったんですよね? そうですね。絶対に私たちの世代も政治に参加したほうがいいんですけど、みんな「面倒くさいから」「よく分からないから」と参加しようとしない現状は、なんとかしなきゃなと思っていました。でもそれは自分が政治家になるというよりは、想いを伝えることで役立てればいいなという感覚だったんですね。 だけどあるとき、所属していたアイドルグループのメンバーの一人が事故に遭って、突然車椅子生活になったんですよ。昨日まで一緒に踊っていたのに、もう一生歩けないと聞いたときは、本当にショックで。私は「彼女はグループを辞めるんだろう」と思っていたけど、その子は「辞めない」と言って、4ヶ月間のリハビリ生活を経て、車椅子に乗りながらステージ上でパフォーマンスできるまでに復活。 ー すごいメンタルですね。 今でも忘れられないのが、初めてお見舞いで病室に入ったときのこと。彼女はすごく普通で明るくて、今までと全然変わらない様子だったんです。私も気を遣うことなく接することができて、「障害を持っている人と接している」という壁を感じない空気感を味わいました。 そのとき、「障害やハードルを持つ人と接することは難しくないんだ」と学んだんです。この体験は社会全体に浸透して欲しいなと思ったし、自分の持っているハードルを理由にやりたいことを諦めてしまう人の壁をなくしていくお手伝いをしたいなって思ったんです。 そんな社会を作るキーパーソンとして、政治家というのは大きいなと考えました。今までは「当事者として政治に参加するべきだ」と同世代向けに言っていたわけですが、それならまず自分が率先すべきじゃないかな、と。さまざまなことが繋がって、「政治家になってみようかな」と思ったんです。   好奇心に従って議員への立候補を決意 ー 渋谷区議会議員に立候補しようと決めたのは、どんなトリガーがあってのことだったんでしょうか? 当時、音喜多駿議員の政治塾に通っていて、そこで議員の候補者を募集していることを知ったのが直接的なトリガーです。政治塾では「自分が『この問題なんとかしたい』と思ったときに、次の日からできることがあるというのが政治家の良さだよ」という話を聞いたんですよ。「なんとかならないかな」というレベルに止まらなくていいし、「何もしてあげられることがない」と思っていただけの状態から抜けられるのは魅力的だなと思いました。 特に、地方自治体って国会議員よりも人数が少ない分、フットワークが軽いんですよね。そして一つの自治体がやったことを他の自治体が真似してくれることもある。ボトムアップで社会を変えていくというやり方が、合理的だなと思いました。 なおかつ渋谷って、若い人がいっぱい集まるし企業もたくさんあるし、いろんなカルチャーが生まれている。影響力としても申し分ないなと思い、タイミングもよかったので渋谷区議会で出馬することを決めました。 ー 政治にチャレンジしようと思ったのは、いつくらいですか? 2018年の夏ですね。事務所の社長にも「選挙出たいので辞めます」と伝え、2019年の3月に卒業ライブをして3月31日で辞めて4月1日からは選挙活動に集中することにしました。でも、先輩議員から「最低半年は政治活動しないと当選しない」と言われていたので、このままじゃ時間が全然足りない、と焦りましたね。 そこで、2018年12月の生誕ライブでグループの卒業発表と政界進出表明をして、翌朝からは駅前で街頭演説をし、夜はライブをするという日々になったんです。 ー 即断即決というか、決めてからの動きがすごく早いですよね。 「やってみたらどうなるだろう」という好奇心が強すぎるんです。社会経験がないことは自覚していたんですが、全く違う世界に行くことはワクワクしていました。だから「政治家になりたくて仕方がない」というよりは、「やってみてどうなるか実験してみたい」という気持ちが大きいんですよ。 ずっと政治家でいたいというよりは、4年ある任期の中で自分のベストを尽くしてどれだけ社会を変えられるか見てみたい。もし4年でもっとやりたいことが見つかったら続けていきたいし、自分以外の人に席を譲ったほうがもっと広がると思ったなら辞める……という気持ちでいます。 ー なるほど。政界進出表明から選挙までは、どんなことをしていたんですか? 朝の演説以外にも、地域のお祭りやイベントを調べて顔を出しました。地域の人たちの顔を見たり、地域がどういう仕組みで回っているのか理解しようと思って。これまでは住んでいても素通りしていたようなあらゆる場所に、どんどん入っていくようにしました。 また、保育園児のママを集めて困りごとをヒヤリングしたり、同世代の友達にもさまざまな意見を聞いたりしましたね。それらの意見を考慮してマニフェストを作ったんです。チラシのポスティングのボランティアを募って、数ヶ月かけてみんなでポスティングして回ったりもしていました。 ー 地道に足を運んで活動していたんですね。競争の激しい渋谷区で勝つための、橋本さん流の戦略ってあったんですか? とりあえず「嫌われてもいいから目立て」と思っていました。嫌われるのは怖かったし、人に不快な思いをさせるのもすごく嫌だったんですけど、「記憶に残らないより目立ったほうがいいよ」と友人に言われて。そうでもしないとスタートラインにすら立てないんですよね。 現職の人は今までの実績で評価してもらえるけど、新人の場合は自分の素質を信じてもらうしかないわけじゃないですか。その中で、若さゆえの柔軟さや思想に偏りがないこと、勉強する体力があることや女性目線に立てることなど、自分が役に立てることアピールしていきました。 ー 選挙活動をやっている途中、大変だったことや衝撃的だった出来事はありました? 選挙が始まる前は、一人で駅に立っていて孤独を感じていたんですけど、一週間の選挙期間中はボランティアの方が一緒に立ってくれるので、辛いということはありませんでした。「これだけの人が応援してくれているのだから最後まで笑顔を絶やさずに頑張ろう」と、辛い顔を見せないとか、手伝ってくれている人に嫌な思いをさせないよう意識していましたね。 選挙活動中はみんな「やったもん勝ち精神」なので、押し負けると終わるということを実感しました。演説の場所も、はじめの頃はバッティングすることがなかったんですが、選挙期間中は多くの人がいい場所を取りたがるんですよ。みんな必死で、場所取りが地獄絵図みたいでしたね(笑) 一番のハプニングは、声帯にポリープができて声が出せない日があったことです。病院に行って薬をもらっていたものの、声を出さずニコニコしているしかできなくて、それがじれったかったです。 ー 選挙当日はドキドキだったと思います。当確が出た瞬間、どんな感じだったんでしょうか? その日は余裕がなくてナーバスになっていましたし、記者の方もたくさん来て待っていてくれたので、気が気じゃなかったですね。当選が分かったときは、ホッとしたのと嬉しいのと、予想以上の票に対する責任感とが合わさって「ビリビリ!」という感じでした。単純な「やった」という気持ちではなかったです。   橋本侑樹議員にとって政治は「クリエイティブな仕事」 ー 2019年5月1日から議員としての活動をスタートされたわけですが、実際に議員になってみてどうですか? 最初は会派(議会の中の派閥)を組むところから始まるんですけど、入った先で先輩議員を質問攻めにしてしまって「勘弁してくれ」と打ち切られるくらい、気になることだらけでした。 ただ、少年野球の始球式に出るという政務に私服で参加してしまって怒られたり、気になることを事務局通さず直接担当の人に質問していたら「勝手に動くな」と叱られたり。メディアの人を呼んではいけないところに呼んでしまって怒られたこともあります。 ー 新米議員だから分からないことだらけですよね。今は区議会議員としてどんなことをされているんですか? 委員会として審議をするという仕事があるので、区民の人が分かるようにその審議を議事録に起こしています。また全員参加の議会では、「代表質問」という自分の聞きたいことや提案したいことなどなんでも言える機会があるんです。だいたい年に一度順番が回ってくるので、それに向けて日々思っていることやいろんな人から聞いたことなどをぶつける準備をしています。 もちろん突然質問するのではなく、担当の課に話を聞いたりいろんな人と打ち合わせをして調整しながら提案を作っていきます。それが議員として、やっていて楽しいことですし、クリエイティブな仕事だなと思うんですよね。私は今回、35項目くらい質問しました。 ー 35項目も!代表質問に対する反応はどうでした? 他の先輩議員の方から「立派だった」って言ってもらえました。もともと、質問したいことを先輩に添削してもらって内容を調整するんですけど、「この段階でこんなクオリティで持ってくる新人はいない」と褒めてもらえたんですよ。質問にはその場で応答があって、答えが「YES」だったものは、すぐに動き出します。 ー そう考えると、政治ってすごくクリエイティブな仕事ですね。 そうなんですよ。国レベルでやるような大きなことじゃないけど、小さなストレス解消が全体を動かしていくことにも繋がるんです。こういった小さな積み重ねで社会を変えていけるのがいいなと思います。 政治家がやっているのは、遊び場作りみたいな感じなんですよ。社会を公園に例えるなら、政治家はそこに遊具やベンチを置いたりする役割。公園に入っていく人たちがどんな遊びをするかは分からないけど、必要なものを置いたり邪魔なものを排除したりしていくことを決める。政治の役割はそういうことかなと思っています。 ー 議員1年目で、自分の発言によって生活が変わっていく様子を目の当たりにしてどう感じられますか? 忖度しないで要望を言える人が増えるほどいいなと思っています。その要望が良くなければ却下されるだけなので、とにかく「言う」のが大事。何の後ろ盾もない私にもできるわけだから、共感を呼ぶような行政の姿を提言できるような人が渋谷区議会に限らずもっと増えればいいな、って。 議員勉強会などもあるんですけど、それって結局議員同士の頭の中の交換で終わってるんですよ。だから、実際にそこで暮らす人々の声を聞いて「こうしたらいいかもね」と考えるような議員が増えてほしいです。 ー ビジネスの世界でも「会社の中にこもってあれこれ議論しているよりオフィスから出てユーザーに話を聞くのが大事」だと言われるんですけど、政治家も同じなんですね。20代の議員を増やしたり、若い人が政治の世界に飛び込んでくるのを増やしたいという想いはありますか? それはありますね。長く議員をやり続けて流れを知っている人も重要だし、入れ替わってどんどん意見を言っていく人がいてもいいと思っていて、そこに参加する人が増えるといいなと。そしたら政治を身近に感じられて、意見も言いやすくなると思うので。 ー 最後に、残りの任期でこれから挑戦したいことや、やっていきたいことがあれば教えてください。 もうちょっといろんな区民の人たちと意見交換できる機会を持ちたいですね。今私が意見を聞いているのはまだ一部の人なので、私自身、もっといろんな人が話をしてくれるような政治家になりたい。そうすればいろんなアイデアが浮かぶだろうなと思います。あとは、渋谷の街を綺麗にしたいという思いがあるので、安全で綺麗な街づくりのために頑張りたいです。   (取材:西村創一朗、写真/デザイン:矢野拓実、文:ユキガオ)

NEXTユニコーン企業、freeeに新卒0期生としてジョインした今岡柾のキャリア戦略。

様々なキャリアを持つ人たちが集まり、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うU-29 Career Lounge。   今回のゲストは、NEXTユニコーン企業として注目されているスタートアップ、freeeの今岡柾(まさき)さんです。   新卒採用がはじまる前に新卒0期生としてfreeeへ入社し、現在は新規事業開発の責任者として活躍されている今岡さん。なぜ、新卒でベンチャーだったのか? エリート達がぞろぞろと集まる環境の中で、いかにして責任者ポジションを勝ち取ったのか?    その背景にある想い、そしてキャリア戦略を聞きました。 “えげつない金持ち”に囲まれて気づいたこと ー最初に、簡単なプロフィールとfreeeに入社するまでの経歴をお願いします。 1991年生まれで、今年28歳になります。中高はずっとサッカーをやってまして、部長でした。東京都でベスト8くらいまで行ったんですよ。でもそこで燃え尽きて、大学は第一志望に行くことができませんでした(笑)。   ー第一志望はどこだったんですか。 慶応です。浪人することも考えたんですけど、人と違う大学を選んで、人と違う大学生活を送るのもよいなと思って、最終的には首都大学東京に行くことを決めました。 人と違うポジションを取るというのは、僕の中に一貫している姿勢かもしれません。大学在籍中に海外留学をする機会があったのですが、そこでもあえてアメリカやカナダではなく、タイを選びました。東南アジアはこれから成長していくだろうし、なによりタイに留学に行く人って少ないだろうなと思って。 ーチュラロンコーン大学っていう、タイの東大っていわれているところですよね? そうですね。「タイ ナンバーワン ユニバーシティー」ってググって、1番上に出てきたところにアプライしたら、なぜか通って(笑)。大学を1年休学して行きました。 ―タイに留学した経験は、今岡さんにとって大きかった? そうですね。月並みかもしれませんが、「貧富の格差」の大きさを思い知りました。タイは日本より貧しい国です。でも一方で、タイにいる本当の富裕層が、ほんとえげつなかったんですよ。 チュラロンコーン大学って、さっきも言った通りタイで1番いい大学なので、トップ大企業の息子や軍関係者の息子、「ベンツ、自分で10台で持っています」みたいなのがごろごろいる。大学に運転手さん付きの超高級車で通学していたり。 ―それはえげつないですね。 そういう貧富の格差を体験したことで、「機会の不平等をなくしていきたい」と思うようになりました。これは今も人生のテーマとして持っています。僕はこの日本で生まれて、何の不自由もなく暮らしてる。これは本当に恵まれていることなんだなって、タイで実感しました。その幸運を社会に還元したいと思うようになったんです。   オフィス選びからはじまった、福岡支社時代 ―大学卒業後には、新卒0期生としてfreeeに入社されています。きっかけは何だったのでしょうか? もともとは大学院に行こうかとも考えていたんですよ。「機会の不平等」をなくすために、行政系の大学院に入って、もう少し公共政策について自分で勉強してみたいなと思っていました。ビジネスの道に進むのも良いかなと思うようになったきっかけは、freeeのCEO佐々木の話を聞いたことですね。 IVS(Infinity Ventures Summit)というスタートアップのカンファレンスがあります。僕、そこで学生スタッフをやっていたんですよ。そこでたまたま佐々木の講演を聞いた。佐々木はそこで「ビジネスで社会を動かす」という話をしていて、そうか、公共政策だけじゃなく、ビジネスの観点からも社会を動かすことができるんだなと気がついたんです。 ありがたいことにインターンをしてみないかという話を頂いたので、そこから大学行かずに週5でインターンをはじめました。あれよあれよと、新卒で入らないかという話を受けて、じゃぁせっかくなのでということで入社。ですから、面接を受けたことも、合同説明会に参加したことすらもないんです。   ーなるほど。とはいえfreee以外にも、起業などさまざまな選択肢があったかと思います。なぜ最終的にfreeeを選んだのか、ぜひ聞きたいですね。 ありがちですけど、「人・事業・市場環境」の3つで選びました。 人でいうと、freeeはやっぱりGoogleの人が立ち上げた会社なので、役員もGoogleの出身の人が多くて優秀な人が揃っている。話す人、話す人が、みんなすごく面白い、ユニークな人ばかりだったことが大きかったですね。あと、外資系のフラットな組織ですし、人事評価もすごくクリアになっています。頑張ればそれだけ評価されることも魅力に感じました。 事業という面では、自分の持っているテーマと事業内容が一致したことが大きかった。freeeの事業って、非常に公共性が高いんです。中小企業のクラウド化によって日本の経済を活性化したいというビジョンが明確にある。それが、先ほど話した「機会の不平等をなくしたい」という自分の思いと合致したんです。 3つめの市場環境というのは、成長する産業や市場かどうかということです。そういう伸びしろのある環境に自分を置くことによって、結果的に自分の市場価値が上がっていくだろうと考えた。こういった要素から考えて、freeeに行くのが正解だろうなと判断しました。   ーなるほど。実際に入社した当時のfreeeは、どのような雰囲気だったのでしょうか 今でこそ700名規模の会社になっていますが、僕が入社した当時のfreeeはまだ30人ぐらい。すごくカオスな状況でした。どのくらいカオスかっていうと、支社立ち上げを僕に任せるくらいカオスだった。 2016年の9月ごろですかね。「ちょっと福岡に行ってみる?」みたいな感じで上司にいわれて「じゃぁ行ってきます」ってことで福岡に行きました。 ーゼロからの立ち上げですか? はい、もう完全にゼロから1人で。自分でオフィスを選ぶとことからはじめました。天神駅の近くのコワーキングですね。 ーすごいですね。それは入社何年目の頃ですか?  2015年4月に新卒入社しているので、入社1年半の頃、社会人2年目ですね。2年目にコレをやらせるって、結構カオスですよね(笑)。 最初の10ヶ月間は完全に1人、そこから人を採用して、3、4人。立ち上げから1年が経ったころに、もう僕いなくていいかなみたいな感じで東京に戻ってきました。   ―すごい経験を積んでいますね。東京に戻られてからは、どのような業務を担当されているんでしょうか? 今は新規事業開発兼PdM(プロダクトマネージャー)を担当しています。「freee」は会計ソフトなので、ソフトを使ってくださっているユーザーさんが資金繰りに困った時に金融サービスを提供して、彼らのビジネスを良くしていくみたいな事業です。融資とかファクタリングとかっていわれる領域ですね。   コンフォートゾーンを抜け出せ ー大学や留学先の選び方、新卒からのスタートアップ入社など、今岡さんは一貫して人とは違う道を選んできています。これはとても勇気がいることだと思いますが、そういった性格は昔からなのでしょうか? そうですね。結構、個人的な理由なんですけど、僕には4つ上の兄がいまして。彼は財務省の官僚やったりと、見栄えがいいキャリアを歩んでいるわけですよ。そこで僕が彼と同じような道を歩むのは、ちょっと面白くないなと思ったことが影響しているかもしれません。   ー人と違う道を選んで後悔したことってなかったですか? 「やっぱ慶応行っておけばよかったなあ」、みたいな。 学歴コンプレックスはありますけど、学歴に負けないユニークな人生を自分で作ってきたつもりです。 ある特定の分野、例えばロジカルシンキングだったり、コミュケーション力だったり、それこそ学歴だったり、そういったところで人と戦おうとしても、自分より優秀な、絶対勝てない人って5万人、100万人といますよね。 でも多分タイに行った経験があって、タイ人の友達がたくさんいる人とか、僕は今NPOの理事などもやってるんですけど、そういう本職以外の活動経験を持っている人とか。そういう要素を掛け合わせてみると、同じような人ってなかなかいない。あえて人とは違う選択して、「埋もれないようにしよう」と常に考えていましたね。   ーご自身をとても客観視されているんですね。そういった視点は、どうすれば得ることができるのでしょうか? やはり、自分で自分のことをよく知れるタイミングって、外に行ったときなんですよ。タイへ留学行ったときもそうですし、福岡支社に行ったときもそうでした。東京から離れてみて、はじめて自分をよく知ることができた。自分を相対化して見る習慣が身についたかなと思います。   ーコンフォートゾーンを出ることを通じて内省化するのが大事なんですかね。 そうですね。コンフォートゾーンを出るっていうのはおっしゃる通りだと思います。「福岡に行け」って言ってきた上司は、まさにそれを僕に課してきたわけですよ。「お前は今、コンフォートゾーンにいるぞ」って。   彼はGoogleのセールスでトップになって、マネージャーをやった後にfreeeに来た非常に優秀な人。そういうことを言ってくれる人が社内にいるのはすごくありがたかったなと感じています。   スタープレイヤーたちと戦うための「ジョーカー」 ー今はもうfreeeで5年目ですよね。3年目から5年目は、キャリアやライフステージについて考え出す時期かと思います。転職などを考えたことはありましたか。   ありましたね。5年目がはじまったくらいの時ですかね。30人規模の頃に新卒0期生として入社してから、500~600人規模になるまで、僕にはそれなりに成果を出してきたという自負がありました。でも、役職的になかなか上に行けなかったんです。   会社の規模が拡大していくとともに、30、40代の超優秀な人たちが外から入ってくる。IT業界のトッププレイヤーみたいな人たちが、僕の上にマネージャーとして入ってくるんです。正直、彼らには勝てません。もちろん、僕自身はすごい刺激になるし成長させてもらってるんですけど、いざ自分のキャリアを改めて振り返ってみると、本当にこれでいいのかなって。たとえば転職するにしても、「人を率いた経験はありますか」といわれたら、自分にはそれがないんですよ。   ―伸びているベンチャーゆえのジレンマですね。   そうですね。なので、自分の裁量が持てる、もう少し小さいスタートアップに行こうかなと考えたりしていました。でも結果的には、違う事業部に異動させてもらって、本当にド新規の事業開発を任せてもらえるようになったので、今はリーダーシップを持って仕事が出来ています。 ー外部から優秀なスタープレイヤーたちが集まっている中、「ぜひ今岡くんに任せたい」と思ってもらえた理由は何だったんですか。 「金融事業部に行って事業開発やりたいです」というふうに明確にポジションを言ったことも大きかったのではないでしょうか。   もちろん、言い方は悪いですけど、普段から根回しみたいなことはしていました。金融系をやりたいという思いはずっとあったので、金融事業部の人に積極的に話を聞きに行ったりはしていましたし、誰がどういう悩みを抱えていて、どういう事業があるのかなど、普段から好奇心に従っていろんな人に話を聞きに行っていた。その結果として、説得力のある交渉ができたのかなと思っています。   ーなるほど。最後に今後の展望、今後のキャリアのイメージみたいなものがあればお聞かせください。 どうしましょうかね。将来的にはアジアに行きたいと思っています。転職や起業など、方法は色々と考えられますが、「機会の不平等をなくす」というテーマのもとに、アジアでテクノロジーを使ってやっていきたいですね。 30歳手前ぐらいまでに東南アジアに拠点を構えて、30代後半ぐらいから社会的インパクトを打ち出すために動いていきたい。今はそこに向けて、準備していきたいなと思っています。  

就職活動挫折組だった私が脱「片想い就活」を経て内定をもらうまで

出版社の面接に落ちまくった私が脱「片想い就活」で掴んだ営業職 学生時代、「何がやりたいかわからない」、「働きたい業界や職種がない」、「どの企業も同じように感じる」、「自分に何ができるかわからない」、など就職活動中に悩んだ方も多いかもしれません。実際、会社という組織に属して働いたことがないのに、入社後の自分を想像するのは難しいでしょう。 一方の企業もせっかく人を採用しても、新卒3年以内に会社を辞めてしまう人が多いと嘆いています。この理由として、企業と就活生の間に「ミスマッチ」が生まれていることが挙げられます。 初めての就職活動ではもちろん、転職活動においても「自分の選んだ方向はあっているのか」と不安はつきものです。そんなときに、時には厳しく、時には優しく寄り添って自分の進路について考えてくれる人がいると心強いですよね。 現在、株式会社UZUZでキャリアカウンセラーとして活躍中の望月奈津美さん。彼女も実は学生時代、就職活動が全くうまくいかず、落ち込んで悩んでいた一人です。そんな経験があるからこそ、現在キャリアカウンセラーとして求職者の気持ちを理解し、サポートできます。 望月さんの就職活動と現在のお仕事についてお話を伺いました。記事は二部構成で、第一部のこの記事では、望月さんの大学時代の過ごし方と初めての就職活動について、第二部では転職活動と現在のお仕事について焦点をあてていきます。 好きなことをやって過ごした学生時代と「片想い就活」 ー学生時代はどんなことをやられていたんですか。 3つのサークルを掛け持ちしていました。音楽系サークル、地域の自然について考え、地域の人とともに行動するサークル。そして一番力を入れていた、地域の中・高生を対象に、学校の枠に囚われずやりたいと思っていることを応援し、それをサポートするサークルです。サークルが楽しくて、正直、仕事や就職についてあまり考えていませんでした。 ーでは、就職活動はどうされたんですか。 自分は何が好きなんだろうというのを最初に考えましたね。漫画やアニメ、写真集などがとても好きだったこともあって、お恥ずかしながら、なんとなく出版業界に目が向くようになりました。しかし目指してみてわかったのは、出版業界はそんな甘いものじゃないということ。熱意があって、出版業界に強い思い入れを持っている人が多かったですし、当然、地頭や経験値も自分より高い人ばかりでした。当時の私は全く歯が立たなくて、ことごとく「お見送り」が続いていました。 ー今の自分が、当時の自分にアドバイスするとしたら、何と言いますか。 「好き」だけで選ぶ一方通行な「片想い就活」はうまくいかない、ということですね。何もマーケット(市場)のことを知らずに、気持ちだけで走ってしまっていたところがありました。そうではなくて、もう少し業界のことを調べて、「どんな人材が求められるのか」、「どんな経験をしていたらそこに行けるのか」、といったところを長期的にしっかり、もっと前から準備して臨むべきだったなと思います。 第一志望の会社に最終選考で落ちてしまい、落ち込んだ日々 ー第一志望の会社に4次選考で落ちてしまったと伺いましたが、詳しくお聞きしてもよろしいですか。 はい、出版社の営業職で、最終選考まで残れたので頑張ろうと思っていました。一次選考から三次選考では筆記や面接試験などをおこない、最終選考は社長と役員が4〜5人ずらっと並んでいる面接でした。しかし、結果はダメでしたね。そこの出版社が出している出版物がビジネスマン向けのものだったんですが、「まだまだ読み込みが甘い」と社長から人事の方へ指摘があったようで、会社への愛着がないと思われたのかもしれません。 第一志望の会社だっただけに、受かったら行きたいなと思っていたのですが……。最終選考の5日後くらいに人事の方から「落ちた」という連絡を電話でもらいました。ちょうど他社の面接帰りで、そのときは悲しすぎて、思わず電車の中で泣いてしまいましたね。 この会社に落ちてから、出版業界だけを見るのはやめました。 ーその後の就職活動は? うまくいかず、結構落ち続けていました。もちろん出版業界だけではなく、他も受けたのですが、書類で落ちたり、面接がうまくいかなかったりという時期が続きましたね。就職活動へのモチベーションが落ちて、とても悲観的になっていました。「私は社会で必要とされていないんだなぁ」って。 ー何社くらい落ちたんですか。 見ていた業界が自分にあっていなかったのかな、ちょっと高望みしすぎたかなと思い、40〜50社程チャレンジしたんですが……。結局どれも上手くいかなかった記憶です。 ーなんでも望月さんは、とある本で気持ちを奮い立たせたそうですが... はい。先ほど、第一志望の会社に落ちてしまった話をしたかと思うんですが、この会社の人事の方から、電話でこんなことを言われたんです。 「ウチがだめだったからといって、就活自体がダメだったというわけではないですよ。次のフィールドでどこかに入社して、うまくいくことを祈っていますね」と。 「お祈り電話」ではあったのですが、他にもたくさんフィードバックをいただきました。私はその電話に救われた部分があって、とても嬉しかったので、後日、手紙を書いたんです。その後日返信がありまして、本が同封されていました。 その本は人事担当の男性社員の方が自費出版されたもので、その中に「後悔(後で悔いる)」ではなくて、「考えを改める」という「考改(こうかい)」と捉えよう、みたいな話があって。これを読んだとき、もう一回就職活動頑張ろう!と思いましたね。 就職活動を再開して、ついにOA機器会社の内定をもらう ー就職活動は一旦休まれたんですか? はい、一週間くらい休憩して、すぐ再開しました。そこから業界を変えていき、内定をもらえるようになりました。その一社が前職のOA機器会社の新規開拓営業です。 ーそこに決めたポイントは? 商材の幅広さですね。OA機器と複合機だけではなかったので、自分で営業して、売れたら面白いだろうなと思いました。 地道な営業活動の開始 ー新規開拓営業ではどんな風に働かれていたんですか。 行動あるのみ、「新人は質より数だ!」と思って働いていました。日々飛び込み訪問をして、会社の中に部署も色々あるので、組織図を探り、ここに行ったら、次こっちに行って、どんどん横に展開していくというようなことをやっていました。関係性を築くことを一番意識して、一人だけでも窓口になってくれる人が出来て仲良くなったら、「他部署の責任者と繋げてもらおう」という感じで行動していました。 ーお客様との関係はゼロからですものね。実際、関係性作りや新規開拓営業はいかがでしたか。 そうですね、とりあえずは、行く→電話する→行く→会う→話す→メールとハガキでお礼→次回も会う、というようにひたすら“行動”でした。小さなことでも良いので接点を作ることを意識していましたから、下調べして、相手が興味を持ちそうな商材カタログを片手に訪問して……を繰り返しましたね。泥臭い営業を続けて、段々と「じゃあ、ちょっと話聞いてあげるよ」となり、そこから徐々にお客様との関係性を築いていった感じです。 楽しかった大学時代、希望の出版業界に入れなかった就職活動前半戦。落ち込み悩んだ後、業界を変えて就職活動を再開し、内定をもらえるようになった就職活動後半戦。 望月さんは、OA機器会社に入社し、新規開拓営業の仕事に一生懸命がむしゃらに取り組みました。その努力の甲斐あって、お客様との関係もゼロから築き、話を聞いてもらえるようになります。自社の商材を購入してくれるお客さんも増え、順風満帆のように見えた彼女の営業キャリア。 しかし、OA機器会社に入社して2年半くらい経った頃、彼女の心境に変化が訪れます。キャリアカウンセラーになるまでのストーリーは2部に続きます。 UZUZにキャリア相談してみる

「官僚」の枠を超えて圧倒的に挑戦し続ける小田切未来が語る、20代が身につけておくべき3つの思考法

キャリアに大きな影響を与える、20代での働き方や仕事への向き合い方。チャレンジングな仕事をしたいと願う一方で、任せてもらえず思い悩んでしまう人も多いはず。そんなU-29世代こそ身につけておきたい思考法があります。 それを語ってくれるのは、小田切未来さん。東京大学大学院修了後、経済産業省に入省。5年目でクールジャパン政策の担当になったのち、内閣官房副長官補付、経済産業大臣政務官秘書官などを歴任。一般社団法人Public Meets Innovation を設立して理事となり、現在は米国ニューヨークにあるコロンビア大学国際公共政策大学院に在籍されています。 そんな非常に輝かしいキャリアをお持ちの小田切さんですが、はじめから国家公務員を目指していたわけではないんだそう。何が今の小田切さんを作ったのか、20代でどんなことを意識してキャリアを築いてきたのか。人生における3つのターニングポイントと、今のU-29世代に伝えたいメッセージを伺いました。   小田切未来の人生における3つのターニングポイント ー 小田切さんにとって、人生のターニングポイントは何だったんでしょうか? 私の場合、一つ目は就職活動、二つ目が海外留学、そして三つ目が一般社団法人Public Meets Innovationの立ち上げ。これらが、自分の中で大きなターニングポイントとなっていますね。 ー 一つ目のターニングポイントは、経済産業省に入省する前なんですね。 はい。私は、父親が体調不良などで仕事を早めに退職したこともあり、高校や大学には奨学金をもらいながら通ったんです。また当時、アルバイトで家庭教師や予備校講師をやっていたこともあって、人材育成や教育事業に興味があったんですよ。 そんなとき、兄が「人材育成や教育の仕事をやるのであれば、教育の制度を変えられるようになったほうがもっとダイナミックに仕事ができるんじゃないか」と助言してくれて、初めて早稲田セミナーという予備校に行ったんですね。そこにたまたま文部科学省、国土交通省、経済産業省などの方々が来ていて、「経済産業省は社会で活躍するための人材育成もやっている」と聞いたことで、方向転換しました。 大学院で経済、政治、法律など公共政策を勉強したほうが自分のためになるな、と考えて大学院に進むことにしたんです。だけど実は私、大学5年と大学院1年のときに官僚の試験に落ちてるんですよ。大学院2年でやっと合格。だけど、大学院の研究と並行して試験勉強をするのがものすごく大変で、その時はすごく忙しかったし、毎日12時間は勉強していたと思います。 ー 三度目の正直で、官僚になる道が開けた。 奨学金を借りて苦労していたので人材育成に関わることがやりたかったし、いつでも誰でも挑戦・再挑戦ができるような社会づくりができたらいいなと思っていた。だから官僚か、途中で公の仕事ができるような道に進んだほうがいいんじゃないかと考えていたんです。「数億円お金を稼いでそれを元手に政治家になれないかな」と、外資系金融企業にも就活していた時期もありましたが、今考えるとだいぶ尖っていましたよね(笑) それでも経済産業省に決めたのは、人ですね。魅力的な人が多かったからなのですが、その中でも面接で衝撃的な人に出会ったんです。その人は、今の三重県知事・鈴木英敬さん。面接の二言目には「俺、顔でかいやろ、ガハハハ」と笑ったんですよ。「こんな人が官僚にいるんだ(笑)」と衝撃的で、ここで働いてみたいという気持ちがすごく強まりました。 僕が一番大事にしていたのは「誰と一緒に働いた上で、自分の叶えたいことを実現できるか」ということだったので、最終的には人で決めたんです。これがまずターニングポイントになりました。 ー 二つ目のターニングポイントは? 海外留学ですね。留学するために、2010年頃にTOEFLの勉強をしていたんですけど、その時の点数が120点中27点だったんですよ。これじゃあ、どこの大学院も受からない。そこから2〜3年間勉強して60点台まで上がったんですが、2〜3年かけてこれだけしか上がらないのなら自分には向いていないな、と思って。ちょうど仕事も面白い時期だったので、諦めていたんです。 でも、経済産業大臣政務官の秘書官をしていた2018年3月にカナダ・モントリオールのG20に同行したんです。そこには通訳も付いていたんですが、夜の食事のとき、たまたま私が座るところには通訳がいない状態になってしまって。目の前にはアメリカ人やイギリス人、フランス人、ドイツ人というようなテーブルで、話に全くついていけないわけです。それが猛烈に悔しくて。 それで改めて、留学のチャレンジを再開し、そこからTOEFLやIELTSなど英語の試験を更に20回くらい受けて、ようやく今のコロンビア大学国際公共政策大学院(SIPA)に合格。SIPAには世界中から優秀な人材が集まっており、2019年のU.S. News & World Reportのランキングでも非常に高い評価も得ていて、日々刺激に満ち溢れています。これが二つ目のターニングポイントになりました。 ー 三つ目は、一般社団法人Public Meets Innovationの立ち上げですね。 実は2012年頃に、経営者や官僚、研究者、アーティストなどの友人と集まって、セミナーや勉強会をやるための法人の立ち上げようとしたことがあるんです。でも、事情により立ち上げが止まってしまったんですね。やりたいことだったから、私の中でずっと燻っていました。 そして2018年2月、シェアリングエコノミー協会の石山アンジュさんともう一人の現理事とで、「今の社会に何が足りていないのか」「どうなったら社会はもっと良くなるのか」といったことを議論していたところ、まさに3人の考えていることが一致していた。 パブリック側はイノベーションに関する知識が足りていなくて、イノベーター側はパブリックマインドが不足しがちです。だったら出会いの場を設けることが大事なんじゃないか、と。まずは、みんなで毎週集まってどういったことができるか考えよう、と議論しているうちに、だんだん人が集まってきた。そしてPublic Meets Innovationが立ち上がったのが、三つ目のターニングポイントです。 ー Public Meets Innovationでは、具体的にどんな活動をされているんでしょうか? 今は、パブリック側とイノベーター側が交流し、共通な課題意識を持つようなテーマをベースとしたイベントやセミナーなどを中心に実施しています。また、このコミュニティは1980年代以降生まれ、ミレニアル世代限定になっているという特徴もあって、次世代リーダーと呼ばれる人をここから輩出できればとも思っています。   「人、思考法、行動力」で働き方を変える ー 今は官僚にならなくても社会を変えられる時代ですが、だからこそ行政で働く醍醐味を聞きたい。20代の頃に「これは行政だからできた仕事だな」と思ったことはありますか? 行政は、法令・税・予算の3つの重要なツールを持っているんですが、特に私が重要視しているのが、機運作り。クールビズがわかりやすい例かと。企業の場合は、原則として、利益最大化が目的なので、国や社会の機運全体を上げていくというのは難しい部分があると思います。 私が入省5〜7年目のとき、クールジャパンという仕事に携わっていたんです。日本企業の海外展開がなかなか進まない中で「あの企業がやれたのなら、うちもやれるかもしれない」といった挑戦の連鎖を作ることが、クールジャパンの醍醐味でした。クールジャパン自体をみんなで推進することが、日本企業全体の海外展開に繋がっていく、と。 この仕事をやっていたほうが、国や社会全体の機運を作るのには向いていたなと思います。あと、私が担当していた兼業・複業促進の話も機運作りの典型例でして、パラレルキャリアを応援していくことは、一企業には難しい。それがこの仕事の面白さだなと思うし、まだまだできることはあるなと思っています。 ー 20代でチャレンジングな仕事ができず離職してしまう若者も多い中、小田切さん自身の経験を踏まえて、20代では働き方にどう向き合うべきだとお考えですか? 私の場合、入省して5年目でクールジャパンの仕事をしたわけで、大きな仕事を比較的早く任せてもらえたと思っています。それでもまだ長いと感じるようであれば、兼業・複業で、余った時間に違った活動をしてみるのがいいかもしれませんね。 あとは、異業種とのネットワーク作りも大切。私自身、経営者や起業家、投資家、弁護士など、同世代の仲間たちと交流していろんな意見を聞いていました。将来大きなことを仕掛けるときの準備として、人との繋がりを作っておくというのはいいと思います。 ー とは言え、ただ目の前の仕事をこなしていただけでは小田切さんがそのポジションに配属されることはなかっただろうなと思います。20代の頃、仕事を任せてもらえるためにやっていたことはありますか? 大事なのは、人と思考法と行動力だと思います。人というのは、仕事関係以外の人とも積極的に会ってネットワークを作ること。そして思考法は、他人から与えられた情報をそのまま鵜呑みにしないということ。 大学院時代に、元総理秘書官と会う機会があり、「新聞を見るときは、経済欄は80%、社会欄は50%、政治欄は20%くらいしか正確に書かれていないと思いながら批判的に読みなさい」と言われたんです。常に世の中の情報に対して、あえて批判的に考えることを努力しなさい、と。その結果、官庁の中にいる他の人より「前例を疑ってみる」ということができたんだと思います。 行動力としては、20代のうちに自己実現のためのコミュニティ立ち上げ経験をするのが良いのではないでしょうか。私も学生時代にバスケットボールのサークルを立ち上げた経験がありますが、サークルでもいいですし、NPOや社団法人、もし可能であれば、株式会社でもいい。自分でやりたいことに対してプロアクティブにコミュニティを立ち上げた経験が行動力に繋がり、最終的に仕事にも活きてきます。 あとは失敗をすることも大事です。私も国家試験に2回落ちたり、英語の試験を約40回も受けたりたくさん失敗してきました。だけど、成功と失敗って、決して二項対立の概念じゃないんですよ。失敗を繰り返した先に成功がある。周りになんと言われようが、繰り返し繰り返し、命を燃やすレベルでやり続けることが大事だと思っています。 ー 挑戦するから失敗するのであって、失敗を避けて挑戦しないことが本当の意味での失敗ですもんね。失敗を怖がらずにチャレンジし続けられる理由やエネルギーの源泉はどこにあるんでしょう? 私は「こういう人間になって、こういうことを実現したい」という使命感をものすごく持っているほうだと思います。そのために必要な要件だと思って、何度も挑戦しているんです。自分が目指す人材像に近づくために、諦めることができないんです。 ー 使命感があるからこそ、失敗してもチャレンジし続けられるんですね。   20代で身につけておきたい3つの思考法 ー オフィスにこもって仕事をするだけでなく、社外に出てネットワークを作ったり勉強の時間を確保するなど、自分の時間を生み出してその時間を自己投資に使うということは、官僚に限らず会社員にとっても大事なことだと思います。小田切さんは大変お忙しい中で、どのように時間を生み出していたんでしょうか? やらないことを決めましたね。具体的には、金曜日にみんなで飲みに行くとか、夏休みや冬休みになると旅行に行くといった、みんながデフォルトでやっていることを敢えてやらない。そして、その時間を自己実現のために使っていました。普通の人と真逆なことをするのは、時間の作り方のひとつだと思います。 ー 他にも、U-29世代に必要な考え方は何でしょうか? 3つの思考法が必要だと思います。一つ目は「オキシモロン・シンキング」、二つ目は「クリティカル・シンキング」、先ほどお話しした批判思考ですね。そして三つ目は、「クリエイティブ・シンキング」です。情報が満ち溢れた中で、AIでは代替されにくい「想像力」「統率力」「構想力」などがますます重要な時代になってきているので、そういうことを常に意識し、コミュニティ立ち上げなど0から1を作る経験をすることなどが大事だと思います。 私は特に「オキシモロン」という言葉をすごく大事にしていて。日本語で言うと「撞着語法」で、「急がば回れ」「賢明な愚者」など、矛盾していると考えられている複数の表現を含む表現のことです。 現在の世の中は、どうしてもAかBかの二元論で語られがちなんですけど、リアルの世界では二元論を超えて物事を解決しなければならないことがけっこう多いんですね。だから「AかBか」ではなく「AもBも」という考え方をどれだけ追求できるかというのが、U-29世代がこれから活躍するためのキーワードじゃないでしょうか。 ー 普通だったらORと考えてしまうことを、どうやったらANDで実現できるかを考えて日々仕事をしてこられたわけですね。 海外に留学しているのもオキシモロンの発想でして。海外のことをよく知らないのに、日本のことだけを良くしたいって、バランス感覚が欠けていると思ったんですよね。日本の文化や伝統、そして海外の文化も理解しながら、両方の意見を取り入れて政策を生み出して行くことが大事だな、と。 イギリスのノーベル文学賞を獲ったラドヤード・キプリングの有名な言葉に、「イギリスのことしか知らない人が、イギリスの何を知っているのか」というものがあって、要はイギリスを良くしたかったら、イギリスだけにいちゃだめだよということ。これは今の日本人にも同じことが言えます。だから20代のうちに、半年でもいいから海外の雰囲気を味わってほしいですね。 ー 小田切さんは、KPIが立てづらい官僚という仕事で確実にパフォーマンスを上げて評価され、信頼を積み重ねてこられたわけですよね。そのためには、どんなことが大切だったと思いますか? 私は誰よりも若いうちに失敗してきたから言えるのですが、与えられた仕事をまず精一杯やるということが、若いうちはすごく大事だと思います。何者でもない自分が何者かになれる瞬間は、愚直に努力をしないと与えられません。投資されない理由は信頼されていないからで、信頼というのは一歩一歩確実に努力して貢献して得られるもの。若いうちは、踏ん張って努力をするのが大事だと思いますね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる (取材:西村創一朗、写真:ご本人提供、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

経営者目線で「大学生×正社員」を両立させた増田稜の覚悟と情熱

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第17回目のゲストは、株式会社TBMで中途採用や組織開発など労務を除くHR領域を幅広く担う増田稜(ますだ・りょう)さんです。 同志社大学在学中に1年間休学、上京してサイバーエージェントで長期インターンを経験し、株式会社TBM(以下、TBM)と出会って「大学生 兼 正社員」という働き方をするという、異色のキャリアを歩んだ増田さん。 彼の大学生活から振り返っていただき、インターンのきっかけや週5日働く正社員と大学生をどのように両立させたのか、そしてキャリアを築くために大切にしている考え方などを伺いました。将来のキャリア像が描けず悩むU-29世代が、勇気をもらえるインタビューです。   インターンのきっかけは「稼がなくては」という焦燥感 ー 増田さんは大学生活後半にインターンをされていますが、前半はどのように過ごされていたんでしょう? 大学1年の終わりに、中学校の時からやりたかったヨーロッパ一周をしました。1ヶ月弱で6か国ほど、ひとりで旅したんです。その旅の最中に、自分の考え方や生き方について内省する機会があり、人生のターニングポイントになったなと感じています。 また、大学の近くに学生のみで経営している営業会社があり、そこで営業として働かせてもらっていました。学内活動では、勉強に力を入れているゼミに2年秋から所属していたので、その活動にも多くの時間を投じました。大学2年の時はこの2つがメインだったと思います。 ー 普通の学生生活を送っていた中で世界を旅してみた、と。そこから「インターンに行ってみよう」と思うに至ったプロセスを教えてください。 端的に言えば、「焦燥感」があったんです。このままでいいのかな、と。元々親は会社経営をしていて、比較的不自由なく過ごしてきた幼少期でしたが、中学生のときに親が離婚し、そこから「自分で稼がなくてはいけないな」という意識が芽生えたことと、短い人生の中で何も成し遂げず死にたくないという思いがあったんですね。 でも「このままの大学生活だったら凡人のまま終わってしまう」と焦る気持ちが出てきて、一方で当時関西には長期インターンシップの機会もほとんどなかったため、目の前にあったことに挑戦したという感じです。 ー 稼げる力が身につくなら、なんでもやるという感じだったわけですね。そこからサイバーエージェントに出会って休学をし、インターンをされたとのことですが、どういう経緯があったんでしょうか? もともと、中学生の頃からずっと海外が好きで「留学したい」という思いがあったんです。そして留学に行くなら大学2〜3年生が一番いいタイミングだろうと思っていたんですが、僕はゼミに入ってそこでやりがいも感じていた。ゼミを辞めて留学に行くのは、もったいないと思いました。 そこで「一度休学して、そのあと留学し、またゼミに戻ってくるのが一番だ」と考えたんです。ただ、留学するためにはお金が必要なので、どうせなら楽しく勉強しながら稼げたらいいな、と。そう考えているときに、サマーインターンでいろんな企業を見て、一番面白そうだったサイバーエージェントにインターンに行こうと決めました。 ー なるほど。そしてインターンでお金を稼いで留学に行くつもりだったわけですが、結局留学には行かなかったんですね。 そうなんです。サイバーエージェントでのインターンが想像以上に面白くて、3〜4ヶ月で終わるつもりが、気づけば9ヶ月にもなっていました。僕が働かせてもらっていたところで新事業の提案・企画をするように言われ、提案したら実際に採用されたんですよ。 それで事業の企画責任者をさせてもらうようになったら仕事が面白くて。このタイミングでインターンを辞めるのはもったいないなと思い、「留学は次の年でもいいかな」と考えるようになりました。学生期間が延長することにネガティブな感情は全くなかったですし。 ー 留学より面白いと思えるものを見つけたんですね。では、卒業後はサイバーエージェントへの就職も考えていたんでしょうか? ご縁があってサイバーエージェントに入らせてもらえるなら、それはひとつの選択肢だと思っていました。   初対面で一目惚れした企業へ就職を決意 ー しかし、2017年の夏にTBMとの衝撃的な出会いを果たした増田さん。TBMとはどのように出会ったんでしょうか? 僕には、中学生の頃から尊敬していた地元企業の経営者の方がいるんです。その方が実は、TBMの社長と繋がりがあったんですよね。それでTBMという会社を知り、自分の友人の繋がりもあり、現執行役員 CMOの笹木さんに会える機会を作ってもらったのが出会いのきっかけでした。 今考えると失礼ですが、カジュアル面談なんかよりもっとカジュアルに「目的もなく会ってみる」くらいの感覚で笹木さんに会いに行ったんです。その出会いが衝撃的でした。 ー 笹木さんとどういう会話をされて、TBMや笹木さんに衝撃を受けたんですか? 僕の好きなことを聞かれたりTBMの事業について話を聞いたりしていた中で、3つの魅力を感じたんです。 一つは、サイバーエージェントでインターンとして働いていた中で「IT業界で僕は地球規模の大きな挑戦ができるのか」というイメージを持つことができなかったのに対し、笹木さんからTBMの話を聞いたときには、「日本発のベンチャーで世界に挑戦できる数少ない会社だ」と直感的に思ったこと。 二つ目は、今のタイミングでTBMに入ったら、かつてのトヨタやソニーといったグローバルカンパニーの創成期に創り手として携わることができるのではないかという期待があったこと。今この会社と出会えたことは自分の人生にとって非常に幸運なことだと思いました。 そして三つ目が、笹木さんの人柄です。笹木さんはよく「右脳イン・左脳アウト」(=まずは感性を元ににインプットして、相手に伝わるようロジカルにアウトプットする)という言葉を使っているんですけど、初めて会ったときにも、「感性と論理のバランスが優れていて、人間性に深みがあるかっこいい人だな」と感じたんです。この人の下だったらがむしゃらに働けて、後悔もしないだろうなと感じました。実際、今は自分の人生の師匠です(笑) ー 事業内容、会社のフェーズ、そして人。この三つの魅力に惹かれたわけですね。初めて会ったその場で入社を希望したんですか? いえ、その時はまだTBMに新卒やインターンとしての入社の枠がなかったんです。ただ、会話の中で笹木さんがこれまでのサイバーでの経験や世のHRパーソンに求められる資質の変化を汲み取り、僕に可能性を見出してくれて。「今、採用や組織開発の専任者が一人もいなくて、組織づくりを戦略から実行まで一緒にできる人を探しているから、もし本当にうちで働く覚悟があるんだったら、検討してほしい」とパスを渡されたんですよね。 ー 向こうから機会を提供してもらった、ということですね。 そうです。それで僕は「やってみたいです」と伝えました。ただ、ベンチャーの中でも生きるか死ぬかのフェーズだったので「生半可なメンバーやインターンは求めていない、本気でこの会社に貢献できる人間が必要だ」と言われました。そして約一週間後、「大学を辞めるので選考を受けさせてください」と返事をしたんです。   経営者意識で「大学生×正社員」を両立 ー 「大学を辞める」と伝えて入社を決意したわけですが、結局大学は辞めなかったんですよね? はい。最初は覚悟を決め「辞める」と伝えて選考を進ませてもらったんですが、最終的に社長が僕のことをすごく考えてくれたんですよ。 社長は僕と同じ関西出身で、中卒で大工になって20歳で起業して…という異色のキャリアの人で。だからこそ、僕に「大学行ったのなら卒業しないと親も悲しむだろうし、将来を考えると卒業しておいたほうがいい」と考えてくれたんです。恐らくご自身が苦労された経験も踏まえてのことだと思います。僕がお世話になっている経営者の方とも、「大学を辞めさせてまでTBMに入るべきなのか」と相談してくれていて。 面接を進めている途中、その経営者にお時間を頂き相談をしました。彼から伝えられたことは「経営者というのは本来両立しえない2つのことを両立させるものだ」ということ。そこで僕も、正社員と学生を両立させることを考えました。そして社長に、卒業することを約束して正社員で入社することを認めてもらったんです。 ー ある意味、経営者的タスクを与えられたんですね。関西の大学に行きながら東京の会社で週5日働くというのは大変だと思うのですが、どのように両立したんですか? ゼミや言語の授業があったので2週間に一度は関西に戻ったり、卒論を書いたりしていました。実は僕、4年生の時点で取得しなければいけない単位がけっこう残ってたんですよ(笑)だから、夜遅くまで仕事をしたあと終電の新幹線で関西に戻って朝からテストを受け、そのまま東京に戻って出社…という日もありました。上司の理解があってできたことです。 ー 緊張感のある中で単位を取り切ったんですね。 そうなんです。しかも、大学の学費を最後の半年ぶん納入できておらず、3月中旬の卒業式のタイミングでも本当に卒業できているのかわからなくて卒業式には出席できませんでした(笑) 3月末頃に、社長の海外出張に同行させていただいたんですが、その出張の最中に親から「卒業通知が届いた」とLINEがあって、やっと安心できましたね。社長の思い出の場所でもあるインターコンチネンタルホテルのロビーでみんなで食事をしているときに卒業できたことを報告したら、社長が号泣して僕もみんなも泣いて……というメモリアルな出張になりました。   会社を自分ゴト化するから「甘っちょろいことは言ってられない」 ー 2019年に大学を卒業されていますが、2017年からTBMで働いていていらっしゃるので、現在3年目ですよね。入社したときと比べて会社のフェーズもだいぶ変わってきていると思うのですが。 僕が入った当時は製造工場のメンバーを含めて社員は70名程度だったんですが、今では約2倍の140名に近づき、日本経済新聞の「2019年 NEXTユニコーン調査」で企業価値ランキング2位、ユニコーン企業として紹介されるなど、驚くほど成長しています。1年で10年分くらいの密度の経験させていただいている感覚がありますね。 ー それはすごい。増田さん自身は、ビジネス経験のほとんどない状態で入社して、無力感に苛まれるようなことはありませんでしたか? それはありましたし、今でも感じていますよ。仕事ではかなり権限移譲してもらっているので、求められている結果に対する責任の大きさも感じています。笹木さんと普通に食事をしているときに、自分の不甲斐なさが悔しくなって泣いたこともありました。 ー しかし本当にパフォーマンスが低かったなら、会社はもうその仕事を任せなくなるはず。つまり増田さんは会社の期待に応え続けることができている、ということだと思うんです。期待に応えるために意識していることや実践していることはありますか? 求められている期待に対しては全く応えられておらず心苦しいですが、「会社を自分ゴト化する」ということは意識していますね。「自分ゴト化」というキーワードは会社でもすごく大切にされていて、役員も「会社の経費を使うときも自分の財布だと思え」とよく言っています。 会社と自分は一心同体だ、と思って日々の仕事に責任を持つように心掛けていますね。たとえば僕のメインミッションのひとつは採用なので、「株主や証券会社にコミットしている事業計画や売り上げがあり、それを達成するための人員計画を立案しなければ全社の成長機会損出につながる」というように、会社の全体像から自分のミッションを結びつけて考えています。 それに、国からの補助もいただいているので失敗は許されません。もう、やるしかないんです。だから「この仕事に対してはモチベーションが低い」とか、そういう甘っちょろいことは言ってられなくて。できることは全てやる、という気持ちで仕事をしています。 ー 「自分ゴト化する」ということ以外にも、意識されていることはありますか? あとは、真似ることも大事だと思っています。これも笹木さんからの教えですが、「パクリエーション」というものを大切にしています。パクって、そこからクリエーション(創造)する。新卒でスキルもリテラシーも全然ない中、いかに早く結果を出していくかと考えたら、結果を出している人のやり方を真似るのが一番早いんですよ。そして、真似るためには一次情報を取りに行くことと、教えてもらうときに最低限の礼儀礼節や感謝を持つことが大事ですね。 ー 今後チャレンジしていきたいことや、これからのビジョンを教えてください。 僕は、プランド・ハプンスタンス(個人のキャリアは予期しない偶然によって形成される、といったキャリア形成理論)という考え方にしっくりきているので、とにかく目の前のことを愚直にやっていった先にキャリアを積み上げていきたいですね。 なので、現時点で明確に「今後これをしたい!」と考えるよりも、TBMをサステナビリティ×グローバル×メガベンチャーの領域で想起されるような存在にしたいと思っています。デジタル情報革命の次はサステナビリティ革命が必ず起こるし、自分達がその革命を起こすプレーヤーにならなければいけないという思いで、120%の力を注ぎたいです。   (取材:西村創一朗、写真:ご本人提供、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

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