府中の地域でまちとひとを編む。5つの顔を持つまちづくり仕掛け人、関谷昴

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第132回目のゲストは府中市のまちづくり仕掛け人、関谷昴(せきやすばる)さんです。 現在は府中市に拠点を構え、まちのいろいろな人の視点を大切にしながら働きかけている関谷さんは、現在、5つの肩書きを持って活動しています。パラレルキャリアの中で様々な人によりそい、まちづくりに向き合う関谷さんの半生を伺いました。   5つの顔をもつパラレルワーカー ー自己紹介をお願いします。 関谷昴と言います。東京都府中市を活動拠点に、5つのコミュニティを横断しながらまちづくりに関わって生活しています。シェアハウス「たまりば!」の運営、東京外国語大学の同窓会「東京外語会」の理事、中高生の学びの場「Co-study space Posse」の運営、まちづくり会社「一般社団法人まちづくり府中」の職員、市民活動やNPOを支援する施設「府中市市民活動センター プラッツ」の職員等を務めています。 ーパラレルなキャリアを歩んでいらっしゃることが分かります。それぞれの立場で活動しながら、「まちを豊かにする」という軸をお持ちなんですね。 まちづくりに関するニーズが暮らしの中にあったとして、それに1つの団体で向き合うのではなく、いろんな団体が携わっていったほうがいいと考えているんです。なぜなら、解決方法は複数分野にまたがるからです。 例えば、最近中国から日本に来日した中学生がいました。日本語はある程度できますが、授業の学習速度に追いつけません。そこで、授業中や放課後にに学習をサポートできる人を探したんです。すると、東京外国語大学で中国語ができる学生が手を挙げてくれました。その学生は中国語を日本で使う機会や中国と関わる活動をしたいと考えていたようで、「これはよいかも…」と思い、お互いのニーズや課題を知る僕が中学校と大学生をつないだんですよね。そのおかげで、子どもの学習をサポートできる環境が実現しました。 でもこれは対症療法で、同じようなニーズがあるのであれば制度を整えないといけません。そういった時に、多文化共生を目指す施設のコーディネーターとして働きかけたり、または市民活動センターのスタッフとして支援をする団体を探したり、という風にすることが出来る。複数のコミュニティを越境することで出来ることがあると思うんです。 多様で複雑な課題を解決するためには、1つの団体や組織に所属しているだけでは難しいことも出てきます。そのニーズに合わせて自分でアプローチできる幅を広げたら、結果的にパラレルワーカーになっていました。 部活が苦しくて、階段から落ちたいほどしんどかった中学生 ーパラレルワーカーとしてまちに住む人に寄り添う関谷さんが、どのような道を歩まれたのか気になります。中学時代のお話を教えてください。 中学生のときは、人生においての暗黒時代でした。バスケ部に所属していたのですが、顧問がなかなかに厳しい先生で、精神的にずっと委縮している日々でした。「学校の階段から落ちてケガをすれば、練習に行かなくて済む…」そんなことを思ってしまうくらい、追い込まれていました。学校が田舎にあり、授業が終わっても部活以外に行く場所は無かったので、逃げ場もなかったんですよね。 ー辛い3年間を過ごされたんですね。高校に進学してからの学生生活は順調だったのでしょうか。 高校は自由な校風の学校でした。「自主自律」を教育理念として掲げていて、自分で決断し、思考し、行動することを重視していました。中学校のせまい環境と比べて、のびのびと挑戦できる環境だったと思います。 ー自分らしくいられる高校時代を過ごし、その後、東京外国語大学へ進学されるんですね。進路はどのように決められましたか。 東京外国語大学は、高校3年間の3人の担任の出身校だったという縁もあり、また、英会話教室で5歳から英語を学習していて英語の言語としての面白さは幼い頃から感じていて、言語が異なる相手が持つ異なる価値観や視点を知りたいという思いがあり、選びました。 ー東京外国語大学に入学して、期待していたように新しい価値観や視点は増えていきましたか。 増えましたね。大学では、人生で初めて出会う人たちに囲まれていました。同じ大学に通う人も、学生団体で一緒になった他大の人も、留学生も、各国で出会った多くの人びとも、1人として同じ考えを持つ人は居ません。そういった1人1人の考えを聞いて行く中で、私の世界観も大きく広がっていったと思います。 ー大学時代はどんな活動をされていたのでしょうか。 いろんな学生団体や課外活動に参加していましたが、なかでもフィリピンで教育支援をする団体では、5年間活動していました。フィリピンと日本を往復し、学校の建設や授業やワークショップの提供を通して、文化や価値観の相互理解を深めました。社員2人とインターン6人のベンチャー企業での海外研修を企画する経験も印象的でした。 自分に嘘偽りのない人生を生きるために、世界一周へ ー大学時代に、世界一周へも挑戦されたそうですね。 大学1年の時に、世界一周に関するイベントに参加したことがあって、漠然といいなぁと思っていました。でも大学に入るときに、「留学に行く」と言っていた手前、それをひっくり返すのが単純に面倒臭くて、アメリカに留学するんだろうなと半ば勝手に諦めて居ました。 そんなときに、ブルーハーツの楽曲「月の爆撃機」を聞いたのがきっかけで、「これじゃいけないな」と気づいたんです。歌詞の一節に、「ここから一歩も通さない 理屈も法律も通さない 誰の声も届かない 友達も恋人も届かない」とあります。「自分が本当にやりたいことって何だろう。」と、自分に問い直し、他人の意見や期待に左右されず、自分の心に寄り添うようになった結果、世界一周の旅に出ることを決断しました。 ーそして一年間休学して、世界一周をはじめられたんですね。道中での印象的な出来事はありますか。 当時「グローバル人材とは何か?」がわからず、現地で働く日本人を取材して世界37カ国を回っていたんです。その過程で、「グローバル人材」というのは虚像だと気づきました。ローカルがつながりあったものがグローバルなのであり、「グローバル人材」を目指してもそこに具体的なものは何もないんです。大切なのは、目の前の人をしっかりと見て、そのつながりを世界へ広げていく事なんです。 そして僕は、自分の軸足をローカルなまちに置こうと決めました。じっくりを腰を据えてまちを見渡すと、人と人のつながりでまちは成り立っていることがわかります。例えばインドの商店街は、路上からビルに至るまで「人の関連性」が見える。ものを運ぶ配達人が商店街を歩く。いろんな人たちにものを渡して、商人はものを客に販売する。生産者、販売者、生活者の生活が成り立っているんです。まちの成り立ちを、小さな人間生活の連鎖だと考えるとまちづくりは面白いと考えるようになりました。 ーまちの成り立ちが小さな人間生活の連鎖というのは面白い視点ですね。帰国後はどのようにして過ごされたのでしょうか。 自分が見た世界を伝えたかったので、ルポライターになれたらと思い、文章を書く仕事を一年間していました。世界一周での体験を生かし、現地の様子をふんだんに盛り込んだ記事を書いていましたが、自分が心から書きたいと思うものが今はないなと思い、今は一旦やめています。 旅から帰ってきて2ヵ月後には、シェアハウス「たまりば!」をはじめました。フィリピンでは、夜に近所の住民がふらっと酒を持参して集まり、みんなで回し呑みする文化があります。都内ではそのような関係性は少なかったので、みんなが集まる場を作りたいと思っていました。シェアハウスであれば、リスクも少なく、いろんな人がふらっと気軽に立ちよれる場づくりができると考えたんです。 近所にいるそっと話せるお兄ちゃん。まちと多面的に向き合う ーNPO「府中市市民活動センター プラッツ」との出会いはどのタイミングだったのでしょうか。 世界一周の講演をいろいろなところでやっていたら、東京農工大のまちづくりサークルから声をかけられたことがきっかけで府中のまちに関わるようになりました。旅の中でまちの魅力に気づき、まちの中で活動したいと思っていたので、自然な成り行きで活動が始まっていきました。最初は多世代交流の場づくりのようなことをやっていましたね。そのうちに府中に新しく市民活動センターが出来るということで、職員募集の話を頂き、無事に採用されて今に至ります。 市民活動センターは、地域課題を解決したい、まちをより良くしたいという活動を応援する施設で、市内外の多様な団体と連携しながら活動をしています。今風の言葉でいうと、「ローカルプロジェクト」といわれる物も市民活動の一種かなと思っています。 ー2020年2月に立ち上げた「Co-study space Posse」の活動について教えてください。 「Co-study space Posse」は、中高生の第3の学びの場。中高生が自由に使うことの出来る場で、その中で大学生と話をしたり、一緒に活動をしてみたり、様々な出会いと学びが起こる場です。 立ち上げの背景には、まちのなかに中高生が行ける場所がなかったことがあります。中高生時代は、まちや人との関係性が希薄化する時期です。幼稚園生・小学生は、親と一緒にまちのイベントを訪れることがあっても、中高生となると思春期に突入し、そういった場から足が遠のいてしまう…。学校と塾と家だけが生活を構成している、という子は少なくありません。そこだけだと、出会う大人も限られます。そんな環境で、突然「将来の夢はなにか」「何を学びたいのか」って聞かれてもわかりませんよね。いろんな人と出会う場所があることで、将来を考えるきっかけも増えますし、ふらっと気軽に立ちよれる距離にあれば、安心感にもなります。 ー今後実現したいこと、成し遂げたいことはありますか。 有機的で持続可能な社会をつくりたいと考えています。便利さや効率性だけを追い求めるのではなく、人が居心地よく暮らし、人と人とがつながっていることで問題が随時解決していく世界・社会を作るのが僕の最終的な目標です。この目標を達成するために、小さなことから積み重ねていきたいなと思っています。それが空気を作り、文化になっていきます。人と人が有機的につながり合い、自然に問題が解決されていくまちを作っていきたいなと考えています。 ーまちづくりのプレーヤーとして、今後も活動を続けて行かれるのですね。ありがとうございました! 取材者:西村創一朗(Twitter) 編集者:野里のどか(ブログ/Twitter) 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

生きづらい人を救いたい。パラレルキャリアを歩む藤島凌が目指す世界とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第181回目となる今回のゲストは、ウォンテッドリー株式会社セールス兼CSの藤島凌さんです。 本業のかたわら、インナーブランディング研究協会(IBRA)副会長兼ファシリテーターとして活動し、さらに個人事業として「Life Style Creation Company」を設立した藤島さん。そんな藤島さんが、パラレルキャリアを始めるに至った経緯を、幼少期からさかのぼってお話いただきました。 見てみぬふりができない、不器用だった幼少期 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 私は今、ウォンテッドリー株式会社でセールス兼CSとして働いています。具体的にはウォンテッドリーを使っていただいているお客様に対して、どうやったら採用がうまくいくのか、企業のブランディングができるのか、についてアドバイスさせていただいています。 その他にも副業でインナーブランディング研究協会、いわゆるインナーブランディング事業に対するオンラインのサロンを展開していますね。 さらに2020年8月7日に「Life Style Creation Company」を設立し、個人事業でオンラインのカウンセリング事業も展開しているので、三足の草鞋を履いて仕事をしている状況です。 ー3つのお仕事をするうえで共通する考えはありますか? 1つひとつ規模感は違うのですが、「輝きを見出す」という共通点がありますね。 例えばウォンテッドリーを通して会社や求職者の人を救ったり、インナーブランディング研究協会を通して社員が会社をもっと好きになるように支援したり、個人事業を通して個々人の生き方・働き方についてアドバイスをしたり……どれも貢献性の高い仕事なんです。 法人・個人問わず、一人ひとりの輝きを増すことによって、結果的に世の中に貢献することになると思っているので、どの仕事もやりがいを持って続けられています。 ー「輝きを見出す」というテーマを設定するに至った経緯を教えてください。 さかのぼると小学校2年生の頃からになりますね。当時5、6年生が、少し障害がある子をいじめている場面に遭遇したんです。 その時とっさに「どうしてそういう差別をするんだ。別に障害を持ちたくて持っているわけではないし、努力している人に対して何でそんなに辛辣な言葉を浴びせられるんだ」と、小学生ながらに反発しました。上級生と隔たりはできましたが、自分に嘘はつきたくないと思っていましたし、それが大事にしている価値観でもあったので。 その経験から、いろんなバックグラウンドがあってもすべて受け入れて、個が輝けたら世界はもっと美しくなるんじゃないか、と考えるようになりました。 ー幼い頃から信念が強いと、周りと感覚が合わない時はありませんでしたか? まさに生きづらさを感じていたことは多々ありました。 世の中と自分の考えていることに乖離があるなと感じていて、そのまま乖離がある状態が続いたら苦しいな、ともがいていましたね。実は生きていて唯一自殺を考えた時期でもあったんです。 何か支えがないと乗り切れないほど辛かったですが、家族と友人がそばにいてくれました。私がどんな個性を持っていても否定をしない家族と、私が行き過ぎた時に冷静に止めてくれる友人がいたからこそ、今こうして生きていけてます。   目標達成のために半年で20㎏減 ー小学校高学年になると環境は変わりましたか? 小学校6年生の時に30人31脚という競技に参加したことで、人生が好転していきました。 実は当時身長160㎝で、体重が110㎏ほどあったんですよ。30人の平均体重が仮に50㎏だとすると、私だけで2人分あるので実質31人32脚になってたんじゃないかな(笑) よくぽっちゃりりょうくんって呼ばれてました。いじられるのは嫌いではなかったんですけど、太っていると30人31脚の足手まといになってしまうので、どうにかしなきゃとは思ってましたね。 ー誰かに攻められたことは……? それが私たちのチームは、そうやって誰かを攻める人は1人もいなくて。運動のセンスがなかった私に対していちから教えてくれる同級生がたくさんいました。 どうしてもみんなと同じステージに立ちたいという想いから、涙を流しながら日々練習し、なんと110㎏あった体重は半年で90㎏まで落ちたんです。さらに支えてくれる友人も増え、30人31脚で全国3位になることができ、人生がプラスに転じていきました。 ビジョンやゴールに向かってみんなで歩幅を合わせて、試行錯誤しながら進んで行った経験は今の仕事にも活きています。人を信頼することって大切だな、1人でできることには限りがあるんだなという気づきがありましたね。   成績ビリから生徒会長に ー中学生時代についても教えていただきたいです。 中学生の頃はものごとの変動が激しかったです。当時の私は運動だけでなく勉強もまったくできなかったんですね。校内テストではビリだったんです。 ある日恩師が「藤島くんは勉強できなくないと思うよ。興味の範囲を広げてみれば、また違った世界が見えるんじゃない?」と言ってくれて。その言葉をきっかけに猛勉強し始めました。 小学校1年生のドリルからやり直して、1日8~10時間は勉強しましたね。徐々に勉強の楽しさを見出していき、最終的には校内成績トップ10を維持できるほどになったんです。 その成果もあり生徒会に推薦してもらえて、中学2~3年は生徒会長を務めることに。勉強ができない人の気持ちがわかるので、勉強が苦手な人や、部活で勉強の時間を確保できない人のために勉強会を主催したりしました。 ー部活動ではどうでしたか? バドミントン部に入ったのですが、勉強と同じくビリだったんです。ビリで悔しいという想いから、ビリから這い上がるためにはどうすればいいか必死で考えました。 1年生の頃はしんどい時もありましたが、努力を続けたことで2年生でレギュラーを取れるようになり、3年生で区内1位を取り続けるところまで行けました。 ちなみに体重は90㎏から55㎏まで落ちました。身長が178㎝まで伸びたので、むしろ痩せすぎでしたね。 こういった勉強と部活の成功体験が、やればできるという自信につながりました。   周りに流されないことでテクノカットを回避 ー高校生になって、何か壁にぶつかった経験はありましたか? 悩みしかなかったですね。 当時ファッションにまったく興味がなくて、毎日シェル(貝殻)が印刷された赤いTシャツを着ていて(笑)5年間好きだった初恋の子に5~6回告白したんですが、1回も振り向いてもらえず、最後は「シェルのTシャツを毎日着ている人とは付き合えない」とバッサリ振られました…… 振られたショックから毎日ファッション雑誌を読みあさった結果、調べすぎてファッション好きになりました。ところがやっとおしゃれに目覚めたタイミングで、ものすごく校則が厳しい高校に入ってしまったんです。 どれくらい厳しいかというと、前髪が眉毛に1mmでもかかったらアウト、耳に髪がかかったらアウト、襟足があったらアウト。坊主頭か、オードリーの春日さんのようなテクのカットしかできない状況まで追い詰められました。 そこで頭の中に「何でこの校則ができたんだっけ?」という考えが思い浮かんできて。先生方に「校則によって何を防げるのか」「生徒のためになるのか」「テクノカットと坊主であることが学校のブランディングにつながるのか」と詰め寄りました。校則やルールに逃げることは、思考停止していることとイコールだと考えていたんです。 ー先生たちの反応はどうでしたか? ものすごく苦い顔をされましたね(笑)「言っていることはわかるけど、私たちの力ではどうすることもできない」と言われたのをよく覚えています。 当時は離れていく友達もたくさんいたんです。目立つような行動をしても私にとって損だとアドバイスをしてくれる友達もいましたが、それでも主張し続けたことでクラスで浮いていました。 逆にその中でも慕ってくれる友達もいましたね。どうやったら私の主張が通るか一緒に考え、校則を変えたいという人の意見を集めてデータをもとに戦おうとしてくれたりもしました。 その時の経験から、周りに流されず、かつ周りの考えも大切にしながら事業を進めていく術を学べたのではないかと思います。   仕事にのめり込む人を増やしたい ー高校卒業後、進学や就職はどのように進めていったか教えてください。 進学と就職どちらも誰にも相談せず、自分で選択しました。まず進学は、附属大学へ行くか、他の大学へ行くか、それとも自分で会社を立ち上げるかなど、いろんな選択肢を考えていて。当時からビジネスには興味があったので商学部に進学することに決めました。 就職活動では大手企業を目指していたのですが、就職指導課の方や友人に「うちの大学じゃ無理だよ。そんな大手に受かるわけない」と止められて。止められると本当にそうなのか検証したくなりました。 周りができないと思っていることでも、努力をすれば成し遂げられることを証明するため、ゴール設定をしてひたすら努力しました。結果的に、金融業界の大手企業5社から内定をいただくことができたんです。 ー実際に大手企業で働いてみて、ギャップはありましたか? ギャップしかなかったですね。丸の内で働くことに憧れがあったので、転勤が少ないと聞いていた信託銀行に就職したのですが、最初の配属がまさかの高知県でした。 また当時から自分で会社をやってみたいという気持ちを抱いていたので、経営者の方々と密接に関われることを期待して入社したのですが、金融やファイナンスのお話はできても経営的な視点ではなかなか関わることができませんでした。 3年ほど働いて、ふと「この職業をずっと続けていけるかな?」と考えました。定年まで、生涯をかけて仕事をしたいと思っているのですが、1つの基点だけで生きていくのはリスクがあるなと思って。 金融の知識も活かして別のことにもチャレンジするというように、かけ算のキャリアを歩みたいと思い、転職を決意しました。 ーそこから現在されている3つの仕事と出会った経緯を教えてください。 まずウォンテッドリー株式会社は、実は元々ヘビーユーザーだったんです。信託銀行を退職してフリーランスとして働いている時に、ウォンテッドリーで転職先を探していました。 「個を輝かせる」という軸で30社ほどピックアップして面接も受けました。その中で「そもそもウォンテッドリーってそういう会社だな」と、一周回って気づいたんです(笑) ちょうどウォンテッドリー株式会社で社員を募集していたのですぐにエントリーして、面接開始から1週間で入社を決めました。社内では最速入社だったみたいです。 副業でジョインしているインナーブランディング研究協会は、フリーランス時代に参加したイベントがきっかけでした。参宮橋のBarで一日店長をやるイベントを見て、なんとなく参加した先で出会ったのが、現会長の鈴木 誠一郎さんです。本当に運命的な出会いでした。 個人事業の展開は、コロナがきっかけですね。友人がコロナの影響でタイ人の彼女と会えなくなり、さらに事業主として展開していた飲食業や不動産業が大きな打撃を受けました。友人のそういった環境を救いたいと思い、外的要因に左右されない環境を自ら作り出すことに決めたんです。 ー3足の草鞋を履いた働き方は、率直にどうですか? とても充実していますね。信託銀行で働いていた頃は、日曜日しんどくなったり、月曜日を迎えるのが怖く感じたり、いわゆる「サザエさん症候群」に悩まされました。その経験から、仕事に対する負の感情をプラスに変えられる人を増やしたいと思うようになったんです。 実際に今働いているウォンテッドリー株式会社や、インナーブランディング研究協会、個人事業での仕事では、一人ひとりに寄り添って、生き生き活躍するための支援をしているので、それぞれでシナジーを生み出せていると思います。 実は四足の草鞋も履こうとしている状況でして、大切な方がVR・AR特化型の動画配信プラットフォームを作るという話が出ていて、市場調査から事業計画書作成までがっつり飛びついて行ってます(笑)まだまだ挑戦し続けます。   生き方・働き方に正解はない   ー転職や起業をするには勇気が必要だと思います。藤島さんが行動を起こす原動力は、どこにあるんでしょうか? 私が大事にしているのは、自分で自分の限界を決めないことです。転職や起業をするときに、周りから「やめた方がいい」「ここまでしかできないんじゃないか」と言われるケースは多々あります。 私はメンタルがものすごく強いわけではありませんが、自分で限界を決めないという想いと、人のためという想いから、周りの意見を気にせず突っ切れていますね。自分のためだけでは限界を感じてしまうので、仕事を通して人を幸せにする、など「人のため」が根源にあります。 ー仕事にやりがいを持てていない人に、メッセージをお願いします。 副業ができる会社に勤めている場合であれば、パラレルキャリアを歩むことをおすすめします。ご飯を食べるためだけのライスワークに依存していると、限界値があると思っていて。 収入だけでなく、誰かを救いたいとか、スキルを活かしたいとか、社会に貢献したいとか、そういった目的をもってライフワークも行うことで、より人生が輝くのではないでしょうか。 副業ができない場合は、改めて自分がやりたいことを言語化することが大切だと思います。私がウォンテッドリー株式会社の「シゴトでココロオドルひとをふやす」というミッションに共感して転職を決めたように、ビジョンやミッションに共感できるかどうかは、やりがいにつながってくると思うんです。 転職や起業など、いろんな選択肢があると思いますし、みんな違ってみんないいので、焦らずにしっかりと自分と向き合って今後の働き方を決めて欲しいですね。 ー自分の信念を曲げずに行動を起こしてきた藤島さんのお言葉は、一歩踏み出せない方々の力になると思います。本日はありがとうございました!藤島さんのさらなる挑戦を応援しています! 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) 編集者:あおきくみこ(Twitter/note) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

無気力だった僕がオンラインカウンセリングサービスに没頭する理由ーcotree COO・平山和樹

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第134回目のゲストは、株式会社cotree(コトリー) COO・CN(note)O 平山和樹さんです。 ご自身がオーバーワークで体調を崩したことをきっかけに、メンタルヘルスケアの必要性を痛感。「もし友人が同じような境遇に立たされたときのために」と、カウンセリングサービスを仕事にしたいと考えた平山さん。現在は、オンラインカウンセリングサービス「cotree」でプロダクト設計の重役を担いながら、SNSを通じてカウンセリング文化を広めています。実は、事業に参画してまだ2年。短いスパンでPDCAを回し、仕事でもプライベートでも人を巻き込むエネルギーを発揮する平山さんの根源に迫りました。   cotreeで働く、密度の濃い時間 ー本日はよろしくお願いします!まずは、平山さんの自己紹介と、現在のお仕事を教えてください。 平山和樹です。オンラインで受けられるカウンセリングとコーチングのプラットフォームサービス「cotree」を提供する株式会社cotreeのCOOを務めています。cotreeは創業7年目の会社で、現在社員は5名ほど。マーケターやデザイナーのほかに、カウンセラーやコーチ(コーチングをする人)も所属しているところが特徴的です。ここ数年で一気に成長してきました。僕が入社して丸2年が経過したところで、COOとして、事業の意思決定やプロダクトの方針決めなどの役目を担っています。   ー少人数の企業だと、担う役割が変動的なことも多いかと思います。現在に至るまでに、業務の変遷はあったのでしょうか? 最初はマーケターとして動いていました。SEO記事を作成したり、流入数と登録者数を増やす施策を考えたり…。認知拡大するためのマーケティングを担当していたんです。そこから、マーケティング全体を見るようになり、広告運用やSNS運用も始めました。その後、事業をグロースするフェーズにはいったので、離脱率を下げてLTVを伸ばすことに注力していました。そうすると、根本のプロダクトを改善する必要性を感じ、UI・UXの見直しなどに関わるようになりました。 「今のcotreeの魅力はなにか?もっと良くなれる部分はどこか?」それを日々追求していくことで、気付けばプロダクトの意思決定を任されていた、という感じです。   ーcotreeというサービスに、様々な側面から向き合ってきていることが分かりました。ただ、まだ入社されて2年しか経っていないんですよね? はい。マーケティング全般を見るようになったのが入社して2か月、プロダクトに関わるようになったのが入社して4か月経った頃でした。2年目からは、メンバーのマネジメントもするようになり、徐々にCOOらしい仕事が増えてきたかな、と思います。   ーものすごいスピード感ですね。会社の体質なんでしょうか? cotreeは、私から見てもとてもピュアな会社だと思います。まだまだ規模としてはちいさい会社なので、社内政治などなく、気を遣うことや忖度を用いることがありません。それは、事業やプロダクトをよくするためのコミュニケーション以外がいらない、ということでもあります。純粋に事業に向き合う時間が長いんです。 8時間働き、8時間みっちりと事業のことを考えられる。働いている間、プロダクトをよくするためのディスカッションや、ビジョンの追及をずっと行っています。密度がかなり濃いんです。これが当たり前となっていますが、社外から見ればスピード感があるように思えるかもしれません。   コンテンツは、作ったからには届けたい ー平山さんはSNSでの発信も活発ですよね。前からそのような活動はされていたのでしょうか? いいえ、Twitterでの発信もここ2年ほどです。cotreeに入社する少し前に変化があったのかなと思います。それ以前は、ずっとひとつのことに注力し、休日の境もなくそればかりしていました。 その頃も自分が面白いと感じること、好きだと思うものを選んで集中していましたが、今は、もっと選択肢が増えました。会社としての仕事だけじゃなくて、SNSでの発信活動や、そこを土台にした企画など、様々なことに関わっています。SNSを通じて、友達が増えたんです。僕や、僕がしていることを面白がってくれる人と、いろんな遊びをしている感覚でいます。 GWだけど自粛生活でやることがなく始めた「#ひらやまラジオ」、カメラを買ったことをきっかけに毎日100枚の写真と3か月撮り続ける「#毎日100枚」など、SNS発の様々な企画を、やりながら練っています。大体、思いつきです。が、マーケター気質なので、コンテンツを作ったらきちんと届けたい。はじまりは些細なことでも、しっかりPDCAを回し、届けていきたいと思っています。   ー様々な企画をされていますが、共通して大事にしていることはありますか? 「僕とあなたでなにをしようか?」という姿勢を大事にしています。僕だけが得をしたり、相手に奉仕したり…そういうのには興味がないんです。共通のビジョンを持って、どんな面白いことができるのか。そういう企みができる場づくりがしたいです。   ー働く上で大事にしていることにも通じているのでしょうか? 働いているうえでも、周りへの目線というのは持っていますね。僕個人と、会社と、社会と、それぞれにとってよいことをする。「三方よし」と言えるような仕事をする、全部大事にすることを妥協しない。僕の周りにいるみんなにとってもいいし、世の中的にも喜ばれるし、僕がやりたいと思っていることを仕事にする。そういう想いを大事にしています。   競争の世界に身を置く ー平山さんが現在に至るまでの成長の過程を聞かせてほしいです。学生時代はどのように過ごされていましたか? 負けず嫌いの頑張り屋、そんな子どもでした。運動と読書が好きで、物心ついた頃から絵本を読んでいて、中学からはじめた軟式テニスはその後10年も継続していました。スポーツを始めたことで、勝ち負けの世界に染まっていきました。誰よりも練習をし、上達していくのが楽しくって…。振り返れば、あの頃からPDCAを回していくという習慣が身についていたのかもしれません。   ー大学では農学部に進学されたそうですね。現在のお仕事と全く異なる分野なので驚きです。 人間に興味があって、身体やこころのことを勉強したいと思っていたんです。それで、最初は医学部を志望していました。しかし、全く学力が及ばず…。実家が農家だったことや、高校の先輩が多く在学していたことから、茨城大学の農学部へ進学します。 大学でもテニス部に入り、ストイックな生活を3年間続けました。4年になって就活を始めたとき、農学部の進路が銀行、公務員、食品関係のほぼ三択であることを知り、あまりの選択肢の狭さに愕然としたんです。農業研究の道も考えたものの、農業は大体1年スパンで計画が進行するので、PDCAを多くても人生であと40回あまりしか回せません。農学部にはまったり、のんびりした空気が漂っていましたが、僕は「若いうちはもっといろんな経験をしたい」と考え、挑戦し、自分の可能性を拡げる環境としてベンチャー企業を視野に入れ始めました。   ー農学部生がベンチャー企業に。大きな方向転換ですね。 周りにそのような選択をする生徒はひとりもいませんでした。僕がその選択肢にこころ惹かれるようになったのは、『20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義』という本を読んだことがきっかけです。その本でイノベーションを起すことに対しての魅力を感じ、ビジョンやミッションを掲げて社会をよりよくしようと働きかける会社に関心を抱いたんです。 そして、株式会社クラウドワークスでインターンを始めました。当時、クラウドワークスはまだ15名ほどの会社。お問い合わせフォームから、「どうしても働きたいんです!」という思いの丈を綴った長文のラブコールを送りました。それが現在の副社長の目に留まって面談に進むことが叶い、インターン採用されたんです。当然、茨城在住だったので、朝の6時に家を出て、30分かけて車で駅まで行き、そこから電車で1時間半かけて渋谷のオフィスに…それを週4日の生活。相当忙しかったですね。   ークラウドワークスを選んだのはどうしてですか? 起きている時間の半分は仕事にあてますよね。そう考えると、仕事ってとても重要なものです。なるべくその時間をいいものにしたいと願うのは当然のこと。クラウドワークスは、いつでもどこでも働ける文化を作っていて、仕事を創出している会社。さらに、ビジョンとミッションに惹かれて、ここで働きたいと思うようになりました。    ークラウドワークスではどのような業務を行っていたのでしょうか? クラウドワークスにはインターンからそのまま就職し、計4年間在籍していました。最初は法人向けの制作進行ディレクター。それが2年ほど続き、その後、Webマーケティング、ディレクションもできる営業、新卒担当のマネージャー、新規事業の立ち上げ…と、半年ごとに業務が変化していきました。   メンタルヘルスケアをもっと手軽にしたい ー幅広い経験を積むことができ、現在の業務カバー力の高さにつながっているんですね。退職されたのはどうしてですか? 単純に、働き過ぎでした。やる気に身体がついてこれなくなってしまったんです。大きな違和感は、自分の気持ちが分からなくなったことでした。楽しい、や、嬉しい、といった感情が湧かなくなったんです。休職期間を経て、退職し、その後の半年間は仕事はなにもしていませんでした。 「まずは生きよう」と思って、ご飯を食べ、睡眠をとり、運動をして…。そういう原始的な行動を繰り返し、すこしずつ生きる気力を取り戻したんです。肉体的に回復をしてから、それまでやりたくてもできなかったことに着手しました。 海外旅行に行ったのがよかったですね。価値観の相対化を体感し、文化が変われば生活も変わるんだと気付いたことで選択肢が拡がりました。日本だと、退職をするとそれまで積み重ねてきたことが全否定されるような感覚を覚えます。しかし、海外へ出たことで「日本という国の、たまたま入社した一社で、たまたまうまくいかなかっただけ」と捉えなおすことができました。そのおかげで、ずいぶんと楽になりましたね。   ーご自身の回復期間をゆっくりと過ごし、そこから再び働き始める間には、どのような変化があったのでしょうか? 改めて、やりたいことを考えていたんですよね。部活時代の仲間や、身近な友人なども、頑張っている人がたくさんいて、見るからにオーバーワークでした。そういう人が困ったときに、なにかできる自分でありたいなと思ったんです。また、僕自身も再発を防止するために知識をつけ、対策を講じる必要性を感じていました。 メンタルヘルスケアの重要性を身をもって知った上で、「もっと手軽にカウンセリングが受けられるサービスがあればいいのに」と調べます。しかし、なかなかよいものに出会えず、「ないなら作ろう」と思い至りました。   ー最初はご自身でサービス作りをすることを視野に入れていたんですね。 まずはセラピストやカウンセラーの勉強をすることを考えました。しかし、その立場だと提供する数に限界があります。せっかくWebマーケティングのスキルを持っているのだし、1から臨床の勉強するよりも、既にある経験を活かして、必要なプロダクトをグロースするほうが適任だと思いました。 そんなときにcotreeを知りました。僕のやりたいことを抽象化すると、cotreeの事業と重なったんですよね。運営している人たちを信頼できるなと感じたこともあって、入社を決めます。   ー環境の変化はありましたか? スポーツをしているときや、前職で働いていたときは、勝ち負けの世界にいて、闘争心を燃やす必要がありました。いまは全く異なりますね。ひとりひとりがひとつの役職を担っていて、ひとりだけだと完結しない仕事をしています。みんなで同じプロダクトのことを考える。それゆえ、同じ方向を向けているな、と実感できていますし、これこそ仲間でありチームだなとも思えています。 この感覚は、働いてきた2年間で大事にしてきた価値観のひとつですね。会社だけではなく、友人とも、こういう関係性が作れれば嬉しいです。   カウンセリングやコーチングの枠を拡げる ー現在、精力的に活動している平山さん。今後の展望を教えてください。 プライベートではアドレスホッパーとして生活をしているんです。拠点をもっと増やしたいなと考えています。オンラインで働くことが加速したので、なおさら、場所に囚われずに全国各地に帰る場所を設けたいです。 cotreeとしては、使用してくれたユーザーさんの声を伝播させていくために「cotreeお茶会」などの活動をしています。カウンセリングやコーチングは、ユーザーの使用感がすべて。僕らの解釈を入れない形で、ユーザーさんからユーザーさんへ、感想が伝わる流れが生まれれば理想的だと考えています。 そのさきで、ブランドとして、カウンセリングやコーチングという枠が拡大するような存在になりたいです。偏見を持たれている方もいらっしゃると思いますが、そんな方にも「cotreeだったら使おうかな」と選ばれる存在になってほしい。そのためにも、cotreeのチームとしてのブランディングに注力していきます。   ー平山さん、そしてcotreeの、社会や周りの人々へのポジティブな影響を今後も見守りたいと思います。本日はありがとうございました! === 取材:高尾有沙(Facebook/note/Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

公式TikToker・ガリレオが語る、意外な過去と40万フォロワー達成までの道のり

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第178回は公式TikTokerであるガリレオさんをお招きしTikTokerに至るまでの経緯などをお話いただきました。 現在40万人のフォロワーを持つガリレオさんですが、普段はあまりお話しされていない幼少期のお話や、大学・大学院時代はウナギの研究をされていた話、元々はYouTuberとしての活動を考えられていた話など、パーソナルなお話をたくさんお伺いしました! 本業を持ちつつ、TikTokを更新する日々 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 ガリレオという名前でTikTokを中心に教育系のコンテンツを発信しています。また、公式TikTokerを含むインフルエンサーとしての活動やTikTokerの育成も実施しております。実はTikTok関連に費やしている時間はそんなに多くなく、本業は東京のインフルエンサー広告会社で営業統括として働いています。個人でインフルエンサーをしており仕事でもインフルエンサーに関わらせていただいているので良い相互作用をうむことができていると思っています。 ーしっかり本業も持たれているんですね!なぜガリレオという名前をつけられたのでしょうか。 ガリレオ・ガリレイから取りました。ガリレオは地球は太陽の周りを回っているという地動説を主張した人ですが、天動説を唱えていた教会と対立したことによって宗教裁判にかけられました。そのため正しいことを発信しようとしたにも関わらず、教会という権力に負けて真実を世の中に発信できなかったんです。 今はTikTokをはじめ、多くのSNSで誰もが正しいと思ったことを発信できる時代です。ガリレオ・ガリレイが正しいと思ったことを世の中に発信したように、私自身も正しいことを発信し続けようと思いガリレオという名前にしました。 ー具体的にはどのような教育系コンテンツを発信されているのですか。 もともとはコロナが流行しはじめたころに、コロナ禍で今後どのような変化がでてくるかなどといったことを題材に発信することから始めました。今はコロナ関連に限らず、政治の話であったり、環境の話であったりと幅広い内容を発信しています。   実は昔はコミュ障だった ーガリレオさんがTikTokerになるまでの話についても教えてください。もともと話したりするのは得意だったのですか。 高校までは鹿児島で育ちました。小さい頃は人見知りで、クラスメイトからも静かな人と思われていたと思います。コミュニケーションをとるのが得意ではなかったので友達も少なかったですね。中学3年の時に「コミュ障」という単語と出会い、自分がコミュ障であることを受け入れたと同時に、人と話せないのは問題なのかもしれないと思うようになりました。これがきっかけでコミュニケーション能力を改善するようになったんです。 ーそうだったんですね。今のご様子からは想像できません…!具体的にはどのようにコミュ障を改善されていったのでしょうか。 ちょうど進学した高校が、中学時代までの自分を知っている人が少ない新しい環境だったのでチャンスだと思い、意識的にキャラを変えていきました(笑)自分の笑っている顔が嫌いだったので、それまでは人の話を聞いてもほとんど笑っていなかったのですが、とにかく笑うことを意識していました。 また、それまでチャラチャラしている人に対して苦手意識を持っていたのですが、笑顔を意識するようになったことが功を奏し、たまたま同じクラスになった彼らと話すことができ、仲良くなりました。チャラチャラしている人に対する偏見がこれによって変わり、視野が広くなったのでよかったです。 ー高校卒業後の進路についてはどのように考えられていたのですか。 幼少期の頃から魚が好きで飼っていたりもしていたので水産系の勉強を大学ではしたいと考えており、北里大学の海洋生命科学部に進学しました。大学1年目は神奈川のキャンパスで、2年目からは岩手県にあるキャンパスで勉強予定でしたが、ちょうど東日本大震災と重なったため4年間神奈川で過ごしました。   安定を求めて大学職員になるも、IT系営業職に転職 ー好きなことの勉強に費やす4年間だったんですね! それがいろんなことに興味を持ってしまうタイプかつ、あまりのめり込むと飽きてしまうタイプだったので、入学後は魚に対する興味は薄れてしまっていました(笑)それでも、大学内にある小さい水族館のスタッフをしたり、大学の勉強はしっかりしていたりと、なんだかんだ魚に関わることに時間を使っていた気がします。 また、たまたま受けた授業でウナギの話があったのですが、その先生のプレゼンが上手だったことと、ウナギの完全養殖を世界で初めて成功したのが自分の出身高校のある街だったということもあり、4年生はウナギの研究に打ち込みました。結果的に、ウナギの研究を続けるために大学院の進学も決めちゃいまいたね(笑) ー水産系から離れることなく大学院に進学されたのですね! はい。その後は博士課程に進むことも考えたのですが、大学の職員として就職することを選びました。これは両親が国家公務員で安定を好む家庭で育ったことが影響しました。仕事を通じて成長したいという思いはあったものの、リスクは取りたくないと思い、安定と考えられている大学職員を選んだんです。 ー実際に就職されてみてどうでしたか。 働き始めてすぐに、ここは成長できる職場ではないなと気づいてしまいました。ならば仕事をしながら勉強しようと思い、様々な本を読んでいた時に落合陽一さんの「AI時代の生存戦略」と落合陽一さんと堀江貴文さんの「10年後の仕事図鑑」と出会いました。この本には、事務職が現在AIに代替されていないのは、人件費がまだ比較的安くAIの導入費用の方が高くつくからだけであること、技術的には十分発達しているので今後人件費が上がれば事務職は全てAIに代替されるだろうといったことが書かれていました。この本を読んで、これからまだ35年程働くだろうという状況で、大学の職員は決して安定ではないということに気づき、退職を決めました。そして、これから生きていく中で本当の安定はスキルを身につけることだと思い、汎用性の高いスキルを身につけるためにIT系企業の営業職に転職しました。 ー大学の職員から営業に転職してみていかがでしたか。 テレアポで数をこなすのは思ったより得意で、社外のお客様とのやりとりも特に困りませんでしたが、社内で関係性を築くのには結構苦労しました。この頃から営業をやりながら自分で何か力をつけたいと思いYouTuberなどに挑戦しはじめたんです。   発信力を持つ人間を目指して ーTikTokの前にYouTubeにも挑戦されていたんですね! そうなんです。TikTokは踊っている動画をあげるSNSというイメージが強かったのですが、たまたまYouTubeの登録者数を増やす方法としてTikTokがあげられている記事を見つけたので初めてみることにしました。 初めは昨年の12月に恋愛のノウハウを語るアカウントからスタートしました。このアカウントのフォロワーが順調に増えていたので、次は美容・健康について発信するアカウントを作りました。このアカウントが初日で5000フォロワーを達成。TikTokの自分のやり方、ノウハウに再現性があるのを確信しました。そして将来的に長く発信できる分野での発信を考えた結果、現在の教育系コンテンツにシフトを決めたんです。 ーそういった経緯があったのですね。どんな戦略でたくさんのフォロワーを獲得されたのでしょうか。 参入時期がよかったというのは大きかったと思います。その他具体的にやっていたこととしては、恋愛ノウハウを発信している時は猫カフェにアポをとり、そこで猫と一緒にTikTok動画を撮っていました。猫の写真や動画はSNSでバズることが多いのでそこで他のTikTokerとの差別化をはかったんです。また、今であれば毎回同じ服を着て動画を発信するなど、動画の細部にまで気にかけています。何の服を着るかということもインフルエンサー要素に影響してくるんですよね。 ーTikTokでバズるためのコツなどがあればぜひ教えてください。 教育系コンテンツを発信しているので「論破しないこと」を意識しています。誰かを敵に回してしまう表現は避けたいですね。一人語りではなく、相手の視線に合わせた発信をすることで共感性が生まれ、自然とフォロワーさんが増えていくと思います。 フォロワーを増やす方法に関してはよくご質問いただくのですが、うまい人・目標としている人を真似して自分の目利きを磨くことが大切だと思います。真似をすることからはじめ、そこからどんどんオリジナリティを足していくといいのではないでしょうか。 ーちなみにTikTokでバズったことで何か変わったことはありますか。 人生が変わりましたね(笑)現状TikTokだけで生活ができるわけではないですが、いつかできるかもと思えるくらいになってきました。TikTokを通して一緒に仕事をしたいといった問い合わせをいただくことも増えてきて、新しい人との出会いがあることも嬉しいです。 ー素敵ですね。最後に今後の目標があれば教えていただけますでしょうか。 ウェブ業界で働く中で、発信力を持っている人間が強いと改めて感じているので、発信力をこれからどんどん磨いていきたいと思っています。フォロワーさんの数が全てではありませんが、発信力があるかの指標としてフォロワーさんの数があげられることが多いので、この点を伸ばすことは意識していきたいと思っています。 SNSのおかげで言いたいことが言える時代になりました。バズるかバズらないかで出す動画を決めるのではなく、例え炎上しやすい内容であっても伝えたいことを引き続き発信していきたいと思っています。 取材者:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

「今の僕は“人の繋がり”があったから」縁を紡いできた甲斐雅之のキャリアの歩み方

外の世界に連れ出してくれた人。そこから繋がる不思議な縁で、自分のキャリアが拓かれていく。そんな経験をした人はいないでしょうか? 色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ第44回目は、新卒で株式会社ベーシックに入社し、現在はフォーム作成管理ツール「formrun」のプロダクトオーナーを務めている甲斐雅之さんにインタビュー。 オウンドメディアの編集や採用広報戦略も担当するなど、多岐に渡って活躍される甲斐さん。「人の繋がりがあったからこそ、今の僕がある」と、ご自身の経験談を語ってくださいました。 外の世界は刺激的なんだと初めて知った ― 新卒でベーシックさんに入社したのが2017年ですか? そうですね。でも、学生の頃からベーシックでインターンしたり、別の会社で業務委託で働いたりしていたので、キャリアのスタートはもう少し前になります。 ― 学生で業務委託として働いてるのは珍しい……!元々ビジネスには興味あったんですか? いや、もう全然です(笑)。大学入学後は塾講師のアルバイトに毎日精を出していて、あまり大学に行かず、趣味の音楽に没頭するっていう。よくいる普通の学生でした。 ― そこから、どんなきっかけでビジネスの道に? 一緒に働いていたアルバイトの先輩が、スタートアップ界隈でめちゃくちゃ活躍されている方だったんです。当時、株式会社SmartHRで採用責任者を務めていた勝股さん(現在は株式会社カンムにて人事を担当中)という人なんですけど。 勝股さんはSmartHRに入社する以前からスタートアップの方々が集まるイベントに顔を出していたみたいで、よくベンチャーや起業に関する情報を聞かせてもらっていて。こんな面白くて刺激的な世界があるんだ、ってそこで初めて知ったんです。 勝股さんがいなかったら、外の世界を何も知らないまま、塾講師を4年間やっていたかもしれないですね。 ― 面白そうと思っても、そこ止まりで次に繋がらない人も多いところ、甲斐さんはそこからどのように動いていったんですか?  ベンチャーやスタートアップに興味を抱き始めてからは、色んなイベントに顔を出していました。なんの知識も持っていなかった当時の僕を、そうした界隈へと連れ出してもらえたのは大きかったですね。 一歩目が踏み出せれば、その場で新しい繋がり生まれ、人伝てに世界が広がっていきますし。それこそ、勝股さんと一緒にベンチャー企業で働く機会をいただいて、少し業務のお手伝いをしたりとか。 外に連れ出してくれる存在と、自ら外に出てみようとする意気込みや行動が大切なんだ、って学びましたね。 Twitterのフォロワー数が1万人に。偶然気付いた自分の強み ー 色々な繋がりができていく中で、どのように業務委託として仕事を任されるまでになったんですか? 仕事をもらえたのは、僕がやっていた匿名のTwitterがきっかけですね。 ― 匿名アカウントからなんですね。 匿名なので詳細は言えないんですけど、とあるローカルエリアの情報を発信するTwitterのアカウントを運営していたんですよ。 そのエリアに住んでいる人に対して、興味を惹くような情報を発信していました。そこで「求めている情報を発信すれば、みんな見てくれるんだな」って学んで。 ― それがきっかけ? そうですね。発信しているうちにフォロワーが1万人超えまして。 ― え、1万人!すごい……。 イベントで繋がった人に「こういうことやってるんです」ってTwitterの話をしたら、「それマーケティングじゃん」って言われ始めて。自分では意識していなかったんですけど(笑)。 そこから、「ウチでも似たようなことやってよ」って声をかけてもらえるようになったんです。そうした経験を重ねるうちに「これって僕の得意なことなのかも」と思い始めるようになりました。 ― なるほど。自分の強みを認識して、そこから仕事になっていったんですね。  そもそも、僕は器用なタイプじゃないんですよ。苦手なものはとことん出来ない。そんな自分でも、意識しないうちにマーケティングのようなことをやって、数値も伴った成果を出せていた。 偶然のきっかけで始めたことでしたけど、自分の強みを認識することができましたね。 ― そのTwitterを運用し始めたのは何故だったんですか?  そのエリアで情報が欲しいと言っている声は結構あったのに、発信しているメディアがなかったんですよ。僕もその情報は欲しかったから、ないなら自分でやってみようって。 ― すごい。その発想がすでにマーケターでもあり、プロダクトマネージャーっぽい。  確かに(笑)。面白がって取り組んでいましたし、強みと興味が交差していたのは嬉しいことですね。 「話聞いてもらえませんか?」人の繋がりから始めた就活 ― それだけ数字出せていたら、そのままフリーランスでやっていこうと考えても良さそうですけど。 実際に考えていた時もありました。延長線上で続けていけば、稼ぎにも困らなさそうとは思っていましたし。 でも、自分のキャリアや、将来的にスケールのある仕事をやりたいという、長期的な視点の大切さに気づいて、就職することにしたんです。 ― どういうことを考えての決断だったんですか? やっぱり最初からフリーランスを選択しちゃうと、自分が当時持ち合わせていたスキルに合わせた仕事しか取り組めない。。このまま続けていても、今持っているスキルの切り売りで終わっちゃいそうだな、と。  ― 短期では稼げるけど、長期ではどうかなって。  そうですね。キャリアに幅を持たせるっていう意味でも、一旦は何でも吸収しますっていう立ち位置に身を置くのも大切だと考えました。 ― じゃあそこから就活を始めたんですね。  でも、就職するって決めて動き始めたのが大学4年生の7月だったんですよね(笑)。 ― どこも閉じちゃってるじゃないですか。  そうなんですよ(笑)。なので、普通に採用エントリーを申し込んでも上手くいかないと思い、採用媒体を使うことなく、元々繋がっていた社会人の方々にメッセージを送ることから始めました。 「就活しようと思ってるんですけど、話聞いてもらえませんか?」って。  ― その就活のやり方は斬新ですね……。会ってもらえるものなんですか?  ありがたいことに結構面白がってもらえて。ベンチャーの役員の方とも会わせてもらったり。 しかも、ベンチャー企業に務めている人事の場合、横の繋がりの強さから、互いに就活生を紹介し合っていることも多いですよね。なので、「ウチは合わないかもしれないけど、ここの会社は良いかもよ」って紹介してもらえたりもしたんです。  ― すごい。ここでも一歩目の力ですね。動いたら繋がっていった。  たしかに、そうかもしれないですね。行動したらどんどん繋がっていきましたし。ベーシックともそうやって出会えたんですよ。 ― 色んな会社が甲斐さんのことを面白いと思っていた中で、ベーシックさんに決めたのは何故だったんですか?  僕のパーソナルな部分を全部ひっくるめて見てくれたのが決め手ですね。 面白いと思ってくれただけじゃなく、「こういう部分ではつまづきそうだね」と苦手なことや不得意なことを理解してもらえたんです。そして、その上で一緒に働きたいと言ってもらえた。 それがとても嬉しかったし、飾らない自分自身を見てくれる良い会社だなと感じて決断しました。 ― マイナスなところも含めたコミュニケーション。ちゃんと自分を見てもらえる信頼を感じられますよね。  さっきもお話したように、僕は得意不得意がはっきりしているので。その凸凹を理解してもらえたのは、本当に恵まれている環境ですよね。  プロダクトオーナーがぶつかった壁。決める、って難しい ― ベーシックさんと出会い、インターンを経て2017年に入社。formrunのプロダクトオーナーになったのはいつ頃ですか?  1年目の終わりくらいからですね。それまでは、インサイドセールスやカスタマーサクセス、Webディレクターや商品の生産管理やイベント企画/運営、事例取材など、結構なんでも屋に近い役回りで動いてました(笑)。 ― そこから、どのような流れでプロダクトオーナーに抜擢されたんでしょうか?1年目の終わりとなると、かなり早いタイミングでの抜擢かと思います。  ベーシックがformrunの事業を買収したのが、ちょうど1年目の終わりだったんですよ。今の会社に入るときに、ずっとformrunを担当していた方が別部門に移ることが決まっていて、たまたま空席が出来たタイミングだったんです。  ― そこで甲斐さんに任せよう、と。 会社としても若い人に任せていきたい、という方針があったみたいで、「甲斐はなんでもやるから、やらせてみよう」という流れで抜擢してもらえました。 自分は割と調子に乗りがちな性格なんですが、出る杭を打つんじゃなく、「ほら、やってみ?」と、ポテンシャルを伸ばす機会をいただけたのは、本当にありがたい限りですね。 ― プロダクトオーナーという、責任も背負う立場になっていかがでしたか? いや、もう難しいなって。事業責任を担う立場になったら、決めないと本当に何も動かない。もちろんロードマップや基本方針はあるんですけど、どの道を走るか、の最終的なジャッジは、年齢差関係なく全員が自分に委ねてくるので。  何かを決めるってこんなに難しいんだ、って初めて実感しましたね。  ― 自分が決めないと何も動かない。 何をやっても不正解に見えるし、正解にも見える。でも、部署の人への説明責任もあるから、意志や根拠は必要になる。数え切れないほど至らないと感じた機会がありましたし、壁にぶつかりっぱなしでした。 人と環境への感謝を胸に。甲斐雅之の挑戦 ― その壁は、どのように乗り越えたんですか?  わからないものは、自分1人でくよくよ考えても、ずっとわからない、だったら人に聞こう、と割り切ったんです。そこで、初めて実名のTwitterアカウントを作って。  ― あ、それまで実名での発信はしていなかったんですね。  自社プロダクトのことも発信しながら、いろんな人の元へ会いに行くためのアカウントを作ったんです。社内の人にも話を聞いてはいましたが、、社外の人にもTwitter経由で連絡して、とにかく教えを請いに行っていました。 自分の実力だけじゃ絶対に繋がることのできなかった、第一人者のマーケターの方々や、プロダクトをスケールさせた経験を持ち合わせた方々とか。一番取り組んでいた時期は、毎日別の社外の人とランチしていましたね。 ― Twitterでフォローして、DM送って?  そうですね。実名でTwitterをやっておくと、そうやってお会いしたときでも、時間の密度が全然違うんですよ。 ― 時間の密度ですか?  実名で普段から発信していると、相手も僕がどういう人で、どういうことに悩んでいるかが事前に分かるじゃないですか。なので、ランチ1時間でも、すごく実のある話が出来るんです。 時間の密度を濃くできたことも相まって、必要な知識を身につけるための学習コストは、ものすごく下がりましたね。色んな人の経験や考えを吸収させてもらえて、振り返れば相談に乗ってくださった方々への感謝しかありません。 ― なるほど。人の繋がりを大事にされる甲斐さんらしさが出ていますね。そのように多くの人と繋がる中で、何か意識している点などはあるんですか? 意識はしていないんですけど、僕かなりのいじられキャラなんです(笑)。なので、集まりに顔を出していじられていると、周りにも気にかけてもらえるというか。その場では恥ずかしい反面、構ってもらえるという意味では、やっぱりありがたいなと思ってしまいますね。 でも、そのキャラで仕事が出来なかったら“ただの仕事ができないイジられている人”になってしまうので、危機感はあります。絡みやすいキャラではあるものの、仕事上のコミュニケーションはしっかりしている。そこのメリハリは意識しているかもしれません。  ― 確かに、そこで良い意味のギャップがあると信頼してもらえそうですね。  本当に周りの人や環境に恵まれているな、と思います。得意不得意の凸凹が大きい僕ですけど、強みの部分を受け入れてくださる人が多いから、今日まで生きてこられたと思っています。 苦手な部分と向き合うことも大切ですけど、やっぱりその人の一番得意なところを活かした方が良いんだろうな、って。 繋がりが増えてきて、いろんな方といろんな仕事をするようになって、より一層感じますよね。改めて、自分を伸ばしてくれたベーシックに感謝しかありませんし。 去年は不自由なく社内外で様々な経験を積める機会をいただけたので、今年はベーシックに全力投球したい。外資系のサービスでは、Slack や Zoom...

若いうちにしかできない「手を挙げる訓練」をしろ –「不登校10年」の小幡和輝からU-29世代へのメッセージ #アンレールな私たち

キャリア選択が多様になる現代。これまで主流だった「大企業神話」は平成とともに周縁を告げ、意志ある選択をした若者が躍動する時代へと変化していきます。 連載「#アンレールな私たち」では、一見ユニークでありながら当たり前になっていくであろうU-29世代の活動を取り上げ紹介していきます。新しい「あたりまえ」がやってくる足音を、本メディア「U-29」がいち早く届けていきます。 今回は、約10年間の不登校を経験したしたのちに高校3年生で起業、地方創生を軸にさまざまなプロジェクトを手掛ける小幡和輝さんにインタビュー。不登校時代のエピソードや、アンレールなU-29に送る言葉をいただきました。 Text by なまっちゃ   知っているのにバカにされる。個性を受け入れない雰囲気に嫌気がさした なまっちゃ:小幡さんは約10年間不登校を経験していました。そもそも、なぜ学校に行かなくなったのでしょうか? 小幡和輝さん(以下、小幡):不登校になったきっかけは同年代の友達との価値観の違いからでした。小学生時代は、遊び相手が5つ年上の兄とその友達だったので、同年代の友達と趣味嗜好が合わなくなってきていることを感じていたんです。 中学生と遊んでいたほうが楽しいし勉強になるのになんで学校に行かなければいけないんだろうと思うようになっていきました。 なまっちゃ:身近にいる人によって価値観は変わってしまいますよね。 小幡:年上の影響を強く受けていたので、同年代の「ノリ」が理解できずに苦しかったのを覚えています。 小学2年生のとき、同じクラスの人が「”3‐5”はなんだ?」と意地悪で僕に聞いてきたことがありました。僕は中学生と勉強を一緒にしていたのでマイナスの概念を知っていて、「‐2だよね」と普通に答えたんです。 すると友達はバカにした口調で「何いってるの?マイナスなんかないよ」と。知っていることをひけらかすと受け止められたのか、しらけた雰囲気になってしまったんです。 正しい答えを言っただけでバカにされる。ショックを受け、少しずつ同年代とのコミュニケーションを避けるようになっていきました。そんなそんな小さなショックが重なり、少しずつ学校に行きたくないなという気持ちが強くなってきました。 なまっちゃ:そうだったんですね。 小幡:当時の僕は「価値観が違う」と言語化はできていませんでしたが、「なんかちがうな、楽しくない」と学校生活に対して思うようになっていきました。だんだんと学校を休みがちになり、クラスから居場所がなくなっていき…本格的に不登校になりましたね。   “学校にいく理由”を探すことが難しい時代になってきている なまっちゃ:時代が変化にしていくにつれ、学校の存在意義も変わってきたように思います。小幡さんは当時と現在の学校の在り方をどのように考えていますか? 小幡:僕が通っていた時代やそれ以前の学校は、とても大きな役割を担っていたと思います。知識は学校に行かないと学ぶことができないし、友達も学校でしか作ることが出来ませんでした。学校に行かないとできないことが、当時はたくさんあったんです。 しかし、ここ10年くらいでインターネットとSNSが急速に発展し、学校でしか出来ないことを探す方が難しくなってきました。勉強はオンラインスクールでパソコンがあればできますし、友達もSNSで作ることができますよね。同年代が集まる場としての学校の“価値”が、SNSに代替されているのだと思います。 なまっちゃ:なるほど。すると、もう学校に価値はないのでしょうか? 小幡:いえ、コミュニティとしての価値を失ったとしても、学校に通った方がいい理由は2つあります。 1つ目はコスパがいいこと。日本中どこに行っても、学校では統一されたレベルの教育をほぼ無料で受けることができます。クオリティが担保されている教育を無償で受けることができるのはかなりの価値があると思っています。 2つ目は視野が広がること。もし学校に行かずに独学で学んでも、自分の興味関心ばかりに取り組んでしまい知識に偏りが出てしまいます。さまざまな分野を網羅的に学べる学校に行き、いろいろな価値観に触れることは、大人になってから大きな財産となってくれるでしょう。 なまっちゃ:SNSには代替できない学校の価値があるんですね。しかし、小幡さんはさまざまなメディアで「学校に行きたくなければいかなくていい」と仰っています。 小幡:はい。学校以外にも学ぶ場はたくさんありますし、友達を作る機会もあります。学校に行きたくなければいかなければいい。ただ、そのときに親が子供に不登校をしてもいいんだよという雰囲気をだせるような関係を築くことが大事だと思っています。 なまっちゃ:なるほど。 小幡:不登校の子達がのびのびとできる居場所を模索するためには、親子の“信頼関係”が必要不可欠です。ある意味、子どもの将来のためには「不登校になれる環境」を作った方がいいのかもしれません。   学校に「有給休暇」を なまっちゃ:これから学校が子供たちにとって価値ある場所になるためには、どのような取り組みを行えば良いのでしょうか。 小幡:学校でも会社と同じように有給休暇を取り入れればいいと思っています。 なまっちゃ:有給休暇? 小幡:不登校の大きな課題1つに、1回不登校になってしまうと外に出にくくなってしまうことがあります。数日間学校を休むだけで周囲の目が気になり、欠席した子自身が劣等感をすごく感じてしまうんですよね。しかし、有給休暇があれば気負いなく休むことができるし、周りも休んだことを変に思いません。 なまっちゃ:なるほど。学校に有給休暇制度ができるだけで、子供たちの心はだいぶ軽くなる気がします。 小幡:友達と喧嘩してどうしても行きたくない日も、これまでは学校に行かない理由にはなりませんでした。しかし、体調に関わらず、本人が行きたくない日はある。そのときに有給休暇があれば「今日、有給を使ったから学校休むね」と親に気負いなく言えますよね。理由を周りから求められることがありません。とりあえず学校を休むことは、かなり心に余裕をもたらしてくれると思っています。   不登校の「先」をつくる なまっちゃ:「#不登校は不幸じゃない」というハッシュタグ活動をSNSで企画し、多くの注目を集めました。今後、小幡さん自身はどのような活動をしていきたいと思っていますか? 小幡:これからの活動のテーマは不登校の“先”を作ることです。現在、多くのひとにとって不登校は「避けたい」もの。世間的にネガティブなイメージが強く、将来の不安を感じてしまいがちです。 なまっちゃ:もし自分の子供が不登校になったら、社会復帰できるのか不安になる気持ちはわかる気がします。 小幡:しかし、不登校だった子供が自立して稼げるようになる未来が見えていれば、不登校でも許される。不登校の子供たちが学校に行かない時間を使って、クラウドワークスなどで仕事を取ってきたり、BASEでオンラインショップを展開していたり…。現代では不登校の子が仕事をこなすことはすごいことだと思われますが、それが当たり前になるように、僕は仕組みを作ろうと思っています。フリーランス的な働き方を、不登校の子にも選択肢として与えてあげられたらなと。 なまっちゃ:とても新しい考え方ですね。 小幡:今の時代は「個人」でも生きやすい時代。特に若者はノーリスクでチャレンジできる恵まれた環境にあります。不登校をきっかけに、学校とは違った楽しさを知ってほしいですね。   『手をあげる訓練をしよう』U-29世代へ贈る言葉 久保田:U-29世代に、小幡さんから何かお言葉を頂戴したいと思います。 小幡:多くの若者と対話していて感じることですが、最初の一歩を踏み出すことにすごいハードルを感じてしまう人が多いです。だけど、行動してみないと何も変わりません。とにかく20代のうちに色々とチャレンジして行動して欲しいと思います。 なまっちゃ:チャレンジといっても、最初はどうすればいいのかわからない人が多いと思うので、具体的なアクションとかあれば教えていただきたいです。 小幡:手を挙げる訓練を日頃からしておくことだと思います。自分の目の前にチャンスが転がっていたときに、条件反射的に飛びけるように習慣付けておくことが大事なのではないでしょうか。 そして、条件反射的に飛びついたとしても、その出会いを「チャンス」に変えられるとも限りません。例えば会いたい人がいてメッセージを送ったときに、そのひとが会いたくなるかどうか、魅力的だと感じるかどうかも大事です。相手のことを考えた、自分の「見せ方」を考えてほしいと思います。 なまっちゃ:素早く動きつつ、自分の「見せ方」を意識することも大切なんですね。最後に、現代の若者へメッセージをいただけますでしょうか。 小幡:僕は不登校のとき、学校に行かずにずっとカードゲームをやっていました。しかし、カードゲーム大会の主催をしたり、好きなことに対してアクティブに動いていったところ、自分に自信をつける訓練ができたと思っています。誰しもが最初は手をあげるのが怖いと思います。しかし、一歩踏み出した先にやって良かったなと思う出来事は必ずある。ぜひやりたいことがあったら、消費する側ではなく生産する側になってください。 失敗しても、そのあとにリカバリーができれば、それは成功のためのプラスの材料になります。しかし、失敗して諦めてしまった時に、失敗になってしまうのです。自分は他の人と違うから…とチャレンジをしないのではなく、どんどん手をあげ続けてチャレンジして行動して欲しいと思います。 不登校から立ち直させるのではなく、不登校でも生きれる方法を提示する小幡さん。そんな小幡さんの活動は、不登校な子供達の生きる選択肢をつくることにとどまらず、自分がアンレールかもしれないという不安や悩みを抱えている人にも一歩を踏み出す勇気を与えてくれるのではないかと、インタビューをしていて思いました。 そんな小幡さんが出版した「学校は行かなくてもいい」には、アンレールになってしまった人たちへ贈る言葉が詰まっています。ぜひ、読んでみてください。

中2から株式投資・高3でビジコン入賞!インプットの鬼・廣川 航のこれまで

様々な経歴を持つ方々が集まり、これまでのキャリアや将来の展望などを語り合うU-29 Career Lounge。第53回目のゲストはXTech株式会社・廣川航さんです。 大学在学中は学業と並行し、複数のITベンチャー企業や投資ファンド、監査法人子会社のベンチャー支援会社にてリサーチ業務を経験。 在学中の2018年8月からXTechに参画し、現在はM&Aの事業を立ち上げを行っています。 なんと、中学2年生にお年玉で”投資”をはじめ、高校3年生ではビジネスコンテストを通して”ベンチャーキャピタル”を知った、異色な経歴の持ち主です。 今回のインタビューでは、XTech入社までのストーリーから、情報収拾のコツまで幅広くお伺いしてきました。 中学2年の頃、今まで貯めてきたお年玉で投資をはじめる ーー早速よろしくお願いします。まずは、廣川さんが投資をはじめた理由からお聞きしたいです。 廣川:元々母と祖母が投資をしていて、投資は身近な存在でした。 ただ本格的に投資を知ったのは、小学生の時にたまたま見たテレビでした。2004年〜2006年でライブドアやフジテレビなどが連日報道されていて、その時に株式や会社、M&Aの存在を知ったんです。 母も祖母も株式投資をやっていたので、前から気にはなってはいて。大学まである付属校に入ったので、ある程度の大学に行けることはわかっていました。 せっかく時間と精神的なゆとりがあるので、「自分も株式投資をはじめたい」と中学2年生の時に母に相談したところ「やってみたら?」と背中を押してくれました。 ーーすごい、中学2年生……!元手はどうしたんですか? 廣川:お年玉などで貯めた数十万円を資金に、スタートしました。結果としては、ちょびっと増えたくらいです。 ただ、あの頃にチャレンジしてみてよかったです。「こんな世界があるんだ」と知れて勉強になりました。 高3のビジネスコンテストを機に、ベンチャーキャピタルに出会う 廣川:そして高校3年生の時、1つの転機が訪れました。友達に「ビジネスコンテストに出てみない?」と誘われたんです。 私は長らく、ITやベンチャー企業、起業についてなんとなく”うさんくささ”を感じていたのですが、「せっかくなら勉強になるかな」と思い、参加してみました。 その時に、みんなのお陰でベンチャーキャピタルの人から賞を頂いて。 高校の卒論で※1バイアウトファンドについて書いていたので”ベンチャーキャピタル”という存在は知っていましたが、実際にあったのは初めてでした。 ※1バイアウトファンド:複数の機関投資家や個人投資家から集めた資金で、事業会社、未公開会社あるいは業績不振の上場企業などに投資し、企業価値を高めたうえで、転売や株式を売却することで資金を回収し、投資家に利益配分することを目的としたファンドのこと。(引用:野村證券) ーーそこでベンチャーキャピタルを知ったんですね!先入観が変わった瞬間だ。 廣川:そうですね。それまで、本でしか触れたことのなかった投資ファンドについて、初めて生で触れられた瞬間でした。 また、どこか「胡散臭い」と思っていたIT企業や起業のイメージが、変わる瞬間でもありました。 大学時代は10社のインターンを経験。ファーストキャリアはXTechへ ーー今までの話を聞くと、「一般的な学生と違うな」と思ったんですが、大学生活はどう過ごしていましたか? 廣川:数々のインターンを経験しました。長期インターンで10社前後、短期インターンと業務委託を含めると、もっと経験しています。 ーーインターン10社はすごい……。参加してみてどうでした? 廣川:インターンを通して色んな経営者にお会いでき、刺激的でとても有意義でした。また、沢山の経営者とお話する中で、新たな発見がありました。 それまでバイアウトファンドに憧れがあり、どうやったらいけるかを考えてリサーチをしていました。すると、投資銀行やコンサル、MBA出身の方が多かったんです。とても衝撃的でしたね。 ーーそんな発見があったんですね。ここまで優秀だと、就活も順調だったのではないのでしょうか? 廣川:それが全然で、あまりうまくいきませんでした。 当時、投資銀行を受けていて面接中に”起業してた話”をしましたが、面接官に「生意気な奴」と思われていたと思います(笑)。 廣川:ただ就活をしていく中で、ぼんやりと「”事業”も”投資”もできる人を目指したい」と思うようになって。そこで縁あって、今の”XTech”に入社しました。内定後、インターンからはじまって、今に至ります。 ーーなるほど。入社して1年が経過していますが、インターンとは違いますか? 廣川:やはり学生の頃よりも、任されている量と責任の重さが違いますね。現在”M&A事業の立ち上げ”のミッションを頂いていて、暗中模索な中で奮闘しています。 ただ「社会人になったな……」という印象で、チャレンジングな毎日で刺激的です。早く一人前になれるよう、頑張りたいです。 アウトプットの鬼は、どのように情報収拾をしているのか ーー前からお聞きしたかったのですが、廣川さんはアウトプットの鬼じゃないですか。日頃どのようにインプットしているのか、情報収拾のコツをお聞きしたいです。 廣川:様々な業種やフェーズの会社でインターンとしてリサーチしていたので、インターン時に色んなソースに出会って。そこから情報収拾の習慣ができました。 日頃意識しているのは、様々な角度から調べたり考えることです。 例えば、「事業としてやるならどうやるか?」や「投資をするならどういうストーリーでどのくらい儲かりそうか?」、「コンサルをするならどういうコンサルをするか?」など、様々な観点でリサーチをして、アウトプットしてます。 ーーなるほど、多角的に見るということですね。 廣川:そうですね。また、沢山の情報に触れていると”各媒体の特性”が分かってきます。「この情報ならここで調べようかな」といったようにです。 とは言え、沢山の媒体でこまめにチェックしている訳ではなく、僕がいつも読むのは、日経・NewsPicks・Twitterです。毎日情報に触れながら、気になった内容をさらに深掘りします。 ーーそれは力が付きますね!ではさらにお聞きしたいのが、多くの人が基盤となる知識が欠如していると思っていて。廣川さんはどのようにして情報の基礎を取り入れましたか? 廣川:情報の基礎は、中学2年生からやっていた株式投資をきっかけに、業界地図などを読むようになったことで自然と基盤ができました。 その上で日々のニュースをインプットしていき、アウトプットをする。わからないことがあればその都度調べながら、情報を蓄積しています。その繰り返しで、基盤知識が身に付きました。 現在は、気になった企業の決算が発表されたりするとスプレッドシートにまとめています。その上で、数値に何か変化があるとプレスリリースなどをチェックして、スプレットシートにてデータをまとめています。 また、所感などがあれば、Twitterにて備忘録としてまとめていますね。シンプルに、このサイクルをずっと繰り返して感じです。 30代には”バイアウトファンド”の道に行きたい ーーでは最後に、今後の展望をお聞きしたいです。 廣川:最終的には、”バイアウトファンド”の道に行きつつ、友達と一緒に事業をやりたいですね。 これまで、色んな方とお話する機会がありました。そこで感じたのは、事業を作られている方と話すのと同じくらい、バイアウトファンドの方々と話している時が楽しい気がします。 いつか、バイアウトファンドの世界にいっても結果が出せるよう、20代のうちにXTechで経験を積んで結果を出していきたいです。 そのために、地道に頑張っていこうと思います。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗、執筆:ヌイ、撮影:山崎貴大、デザイン:矢野拓実

難病、高校中退。家の階段を登れなくなった少女が、期待を超えて走り続けるWEBプランナーになるまで【FREE WEB HOPE 黒須仁美】

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第77回目のゲストは、株式会社FREE WEB HOPE プランナー・黒須仁美さんです。 人材紹介事業会社を2社経験した後、Webマーケティング会社という畑違いの領域に挑戦した黒須さん。そもそも、大学時代までは教員になることを夢にしてきたそうです。「体力だけしか取り柄がないんです」と笑う彼女からは、決して体力だけではない様々な魅力が見えてきました。「20社以上から引き抜きの誘いがあった」黒須さんが、なぜそんなに企業からモテたのか、人生の分岐点の振り返りからその魅力に迫ります。   5歳で気付いた「マイノリティ戦略」 ー本日はよろしくお願いします。まずは黒須さんの経歴と、現在のお仕事を教えてください。 黒須仁美です。2017年に、外国人に特化した人材紹介会社に新卒入社しました。そこでは、営業の他に、新規事業開発や新卒採用の経験も積みました。退職した後に、教育系スタートアップ企業での社会人インターンを経て、2018年8月にスタートアップの採用支援をする株式会社ポテンシャライトに転職します。1年半の在籍期間で、20社以上の外部人事として働いていました。 現在は、「LPに鬼強い」会社のFREE WEB HOPEでプランナーを務めています。FREE WEB HOPEは9期目のベンチャー企業で、創業時からの事業であるランディングページ(=以下LP)制作をメインに、様々なマーケティング施策をクライアント企業に提案しています。その中で、プランナーはデザイン以外のLP制作にまつわる過程のすべてを行います。ウェブディレクターという職種がイメージとしては近いかもしれません。   ー黒須さんは、Twitterでの会社や仕事に関する発信が印象的です。すっかりプランナーとしての色が付いているように思えますが、学生時代は教員を目指し、教員免許も取得しているそうですね。現在に至るまで、幼少期から遡ってお聞きしたいです。 一番最初の人生の転機は、5歳で始めたサッカーでした。当時は今ほど女子サッカーがメジャーではなかったので、コーチから「このまま続けたら日本代表になれるよ」と言われていました。振り返ると、サッカー自体も当然好きだったのですがそれ以上に「サッカーやってる女の子がいる!」と言われることの方が好きだったんじゃないかと思います。 そのとき「人がやっていない選択をすると注目される」ということを知り、その後の人生において潜在的に市場価値が上がる選択をするようになりました。はじめてのマイノリティ戦略です(笑)   ー5歳からすでにご自分を客観視していたんですね。その後もサッカーを続けられるんですか? 小学校に入学して、勉強との両立が難しくなったことからサッカーは辞めてしまいます。しかし、その後、学内のマラソン大会でビリから二番目になってしまったんです。それがとても悔しくて「これ、本当のわたし?」と疑ってしまうほどでした。悔しさで泣き崩れる私を見かねた、母は「バスケをやったら一番がとれるよ」と言ってくれたんです。母も昔、バスケをしていて、娘にもやらせる口実が欲しかったんでしょう…感謝はしていますが、まんまとはめられました(笑) そういった経緯があって8歳からバスケを始めることになりました。「バスケをしている自分が好き」という感覚はあったのですが、純粋にバスケというスポーツに熱中していたのかと聞かれると、少し欠けていたかもしれません。地元茨城ではそれなりにネームバリューのあるチームで、キャプテンも務めましたが…地区選抜のセレクションに落選。そのときに「私に足りない部分って、熱意なのかもしれない」と気付かされたのです。   中学進学と当時に「もうこんな悔しい思いはしたくない、中学では全員見返す」と闘志が剥き出しになっているタイミングで、恩師と出会い、価値観が大きく変わります。 「The 熱血教師」という感じではなく諭す系の恩師だったのですが、とてもバスケに対して誠実な先生で「ちゃんとやりなさいよ」と諭されたんです。「私に足りないの熱意を振り立たせてくれる先生の期待に応えたい、圧倒的に成長したい」と思い、髪も坊主にしました。恋愛にも興味をもつ多感な時期だったので、バスケしかしないという決意表明でした。他人の3倍練習しご飯も1日6食とって、とにかくバスケ一筋で過ごしたのが中学時代です。   生きる理由を見失った闘病生活 ー女性で坊主頭にされるというのは、ものすごい熱意の現れですね。高校に進学してからも、もちろんバスケを続けられたのでしょうか? 私立高校のスポーツ科に、バスケの推薦で入学することにしました。「お前は大化けする。絶対大成させる」と顧問の先生から強く口説かれたことを今でも鮮明に覚えています。また、そんなに裕福な家庭ではなかったのですが、入学金と学費を免除してもらえるということにも惹かれました。 しかし、その前から身体に不調が表れ始めていました。受験勉強をしている間、突発的に体温の急上昇が起こったんです。これが1ヶ月に一回くらいのペースで発症していて「休みながらやっていかなきゃ」くらいにしか思っていなかったのですが、合格発表を聞いたその日に病院へ行き、そのまま緊急入院しました。 その後、検査を重ね、10万人に1人の割合で発症する国が指定している難病だと分かりました。ストレスで高熱が出て、関節が曲がってしまう、という病気です。当時、医者には「完治することはありません」と伝えられました。   ーバスケをすることを前提として高校進学が決まっていたタイミングで、ご病気になられたんですね…。 すぐに治療が始まり、1か月半入院をすることに。ステロイド剤を摂取して、副作用で驚くほど顔が腫れ上がりました。髪もちょっと抜けたりしてたかも…。逆に、ご飯が食べられずに身体はみるみる痩せ細っていきました。15キロ以上、体重が落ちました。身長が160センチなのに対して、当時は34キロ程しかなく…。 遂に家の階段を登れなくなったとき、「わたしは、人として生きられないのかな」と絶望しました。それまでの人生、ずっとバスケに集中してきました。でも、階段さえ登れない身体になって、「わたしは今後、何を頑張ればいいんだろう…」と、生きる理由を見失っていたんです。 とにかく熱心にバスケをやって、いつ死んでもいいくらい、自分自身をとことん追い込んでいました。でも、いざそういう局面に立つと、後悔がたくさん浮かぶんです。「あのとき先生にちゃんと返事をしたらよかったな」とか、試合や何気ない練習風景が、映像になって次々と襲い掛かってきます。気がおかしくなってしまうんじゃないか、そんなふうに思っていました。 私は「何者か」になりたくて必死に頑張っていたけど、結果的に普通の生活も送れなくなってしまったんですね。「普通に生きることが一番難しい」ということを学びました。    周囲の声を振り切り、自分の夢へ ー大病を患い、高校進学はどうなったのでしょうか? 入学はしましたが、結論ほとんど学校に行けてなかったですね。バスケ部は休部しながら、入退院を繰り返すリハビリの日々です。1年生の1月にプレイヤーとして復帰はできたのですが、本調子ではないので休むことも多く…2年生に上がるタイミングで自主退学しました。 辞めたときは、周囲が様々なことを言ってきましたね。陰湿な人や、冷たい人の多さに驚いた程です。「罰が当たった」「イキってただけじゃん」他人にそんなふうに言われるわたしの人生をどうやって肯定すればいいのかを考えた結果、出た答えは「自分を肯定できるのは自分だけだ」という答えにたどり着きました。   自分の人生を肯定できるのは自分だけだからこそ、人は孤独なんです。そして内発的な動機だけで自分を奮い立たせられるほど人はそんなに強くない。だからくすぶっている人たちを肯定して奮い立たせることが使命なんじゃないかと思いました。 また、わたしを変えてくれたのは、中学で出会った恩師でした。何度も恩師の言葉に救われました。そのとき、「教員になろう」と決めたんです。    ー高校から離れ、今後を考えていた黒須さんの方向性を導いたのが教員という夢だったんですね。 「大学へ進学して、教員になる」その夢が原動力になりました。高校中退後、3か月経った頃に、新薬が開発されたんです。そのおかげで、高校3年時には、普通の人と同じように動けるようになっていました。 それからは、朝に通信制の高校で学び、昼から夜までアルバイトをして、帰ってきてから衛生予備校の教材で勉強する…これの繰り返し。蓋を開けてみれば、勉強する時間よりもバイトしてる時間の方が長かったですね。金銭的にも学力的にもほぼマイナスからのスタートでしたが…お金がなくて大学に行けない方がダメージが大きい気がしたので、正しい判断だったと思います。「教師になる」と目標を掲げた以上、とにかく大学に行かないことには夢を叶えるための土俵にも立てないですからね。   そして、教師として希少性を高めたいと思っていたので日本語教師の免許も取得できる外国語系の大学に合格して…そのときも「馬鹿でも行けるところじゃん」と揶揄されましたね。 たしかに誰もが知っているような有名な大学ではないですが…自分の意志があって決めたことに対してとやかく言われるのが本当に許せなかったんです。どうしてこんなに他人の人生に干渉したがる人が多いのでしょうか?その頃には、「自分の人生を生きた方がいいのに…」と思っていました。   社会のことを見てきた大人として教員になりたい ー教員への夢に近づいたわけですね。大学生活はどうでしたか? 高校3年間、勉強だけをするということが叶わなかったので、とにかく勉強ができるというだけで楽しくてたまらなくて…日本語教師免許や教員免許をとっていたこともあり、卒業要件の124単位を上回る176単位も取得しました。「え、大学生ってそんなに学校行くの?w」ってよく言われていましたね(笑) また、バスケ部も創部して、千葉選抜メンバーにも選ばれました。いつか復活しよう、と、高校時代も社会人サークルの練習に混ぜてもらっていたので、嬉しかったです。   ーバスケもできるようになり、教員免許も取得し…入学時の目標が達成されたわけですが、なぜ、教員の道を歩まなかったのでしょうか?  就職という道は、教育実習がスタートする4年生の5月まで、すこしも考えていませんでした。その頃、周りの友人の内定が決まったという話を耳にするようになって、はじめてその選択肢が浮かんだんです。「もし、やっぱり教員じゃなかったと気付いたとき、わたしはどうするんだろう?」と考えました。また、社会人経験もない若手が、教育業界に行っても大きなインパクトは与えられないというのは、想像に容易いものでした。 教員免許は、10年間有効です。「わたしが学生の立場なら、社会のことなんにも分からない大人に、将来の話なんかされたくないな…」そう思って、就職活動をすることにしました。 ゆくゆくは教員になることを前提とした就活だったので、ただただ早く経験を積める会社を求めていました。内定を2,3社いただいていたタイミングで、たまたま外国人向けの人材紹介事業をしている会社と出会ったんです。「ここだ!」と感じて、受けると決めた段階で、他社の内定は辞退しました。   ー「この会社に入社するぞ」という気迫を感じますね。決め手はなんだったのでしょうか? わたしが受けていた時、創業2年目のタイミングでした。まだ外国人向けの人材紹介業界が飽和状態になかったため、第一想起を獲得できるチャンスがあったんです。業界で一番になる経験がしたい、と思い、決めました。   人の人生に触れる仕事だからこその苦難 ーそうして教員ではなく会社員としての新しい生活がスタートしたんですね。 実際に入社してみると、外国人の雇用問題に関する法律が大きな障壁としてありました。また、多くのHR業種に従事している方が抱く悩みだと思うのですが、売上と思想のバランスがとれなくなることに苦しみました。 人材紹介は、人の人生に関わる大事な仕事です。けれど、会社なので、月末になれば売上目標を達成するために、無理にでも斡旋しなければならない…。心がある人が、商材になっているというのは、時として苦難を感じる種になりました。 それで、あまり数字を上司から追求されないように、他の部分でバリューを出していこう、と動き出したんです。新規事業として外国人研修プログラムの開発や、新卒採用など、業務の幅を広げていきました。そうやって、営業で成果が出なくても怒られない口実を作っていたんです。自分なりに試行錯誤しましたが、営業は向いていなかったのかなと思います。今考えるとただただ実力不足で、できない言い訳をしていただけなんですけどね。   ー2社目の株式会社ポテンシャライトに転職したきっかけはなんですか? 1社目の人材紹介会社を辞めて、就職を前提として教育系スタートアップ企業で社会人インターンをしていました。そのときも営業で、テレアポもしながら、TwitterのDMでベンチャー企業の方にアポをとっていたんです。ポテンシャライトは、そうやって出会いました。 スタートアップの採用支援事業をしており、取引先企業がまさにターゲットとするようなベンチャー企業ばかりでした。コネクションを築ければ、複数社の紹介が見込めると思ったんです。そうして、代表の山根一城さんにDMをしました。   ーその結果、逆に黒須さんが引き抜かれた、というわけで。 そういうことになりますね(笑)夜の11時半くらいにDMを送って、「黒須さんって今、何をされているんですか?」「では、明日の朝7時に会いましょうか」とすぐに直接会う機会を設けてくださいました。朝にお話をして、その夜に再度会うことになったんです。私も営業臭を出さないように、そしてせっかくの機会なのでありがたいお話を聞こうとしていたのですが、気付いたらポテンシャライトと山根さんに魅了され…最後にはクロージングされてました。山根さんにとって、その時点ではわたしはなんの価値も発揮していませんでした。それなのに必要としてくださったことに胸を打たれて、決断しました。 事業内容も興味深かったですし、人事の仕事はキャリアステップとしても魅力的たっだので、即決でしたね。   ー入社してみて、前職との違いはどのような点にありましたか? 1社目は営業に強い会社で、どんどん新規開拓を行っていました。一方、ポテンシャライトは創業時から全く営業は行っていないのです。案件は、インバウンドで舞い込んできました。そんな中で、「自分の経験で活かせるものはなにもない…?」と痛感しました。ポテンシャライトは採用に関することは何でもやる会社です。なので、わたしも広い知識をつけるためにとにかく勉強して、活躍できるように精進しました。 山根さんは1の質問に対して、1000の答えを返してくださるような方だったので、環境にとても恵まれましたね。その頃に、Twitterアカウントをビジネス用に使用し始め、仕事のことをつぶやくようになっていきます。   一生続けられる「動詞」を仕事に ー複数の企業の外部人事としてご活躍なさっていて、順調なキャリアステップだったと思うのですが、どうして全く違う業界であるFREE WEB HOPEに転職されたのでしょうか? 在職中、「うちで人事をやりませんか?」と20社程お声がけしていただいていました。けれど、わたしはポテンシャライトの役員になって、骨を埋めるくらいの気持ちでいたんです。純粋に、他社へ移るイメージをしてもわくわくしませんでした。 2019年11月にFREE WEB HOPEの代表である相原と出会いました。出会う前に、わたしの採用広報に関するnoteを読んでいたみたいで、「うちにぜひ来てほしい」と考えていたようです。もし、相原からHRとして誘われていたとしたら、わたしは断っていたでしょう。でも、彼からの提案は、「プランナー」でした。   ポテンシャライトでの仕事に不満はありませんでした。業界で第一想起を取れているし、自分の知名度も少しずつ上がっていたし、何より仕事そのものがおもしろい。 ただ、自分の中では少し考える部分もありました。正直、他の会社で活躍できる自信がなかったんです。ポテンシャライトの仕事は難しいけどやりがいのある仕事ですが、ポテンシャライト以外で活躍しているイメージが沸かないことへの恐怖は常々感じていました。 年齢も20代半ばを迎えたところ。「全く違う業界、だけど、活かせるスキルはある。業態、業種、どちらも未経験での挑戦ができるのは、今が最後かもしれない」そういう思いで、全く考えていなかった転職という道を選びました。 ー相原さんからのオファーで、特に魅力的だったのはどこですか? 仕事内容に関する部分でいうと、「書くことが仕事になる」ということです。LP制作ならコピーライティングが要りますし、ホワイトペーパーの執筆も行っています。 これまでの経歴で、すべて自分の好きなことを仕事にしてきました。外国人に関わる事業、キャリア教育…ただ、そのためのテレアポの営業などの手段、それ自体は好きではありませんでした。「名詞」で仕事を選んで、「動詞」は考えていなかったんです。「わたしが一生できる、やりたい動詞ってなんだろう?」それが、書くことでした。昔から作文が得意で、大学の数あるレポート課題をクリアーした経験から、書く体力も十分にありました。 実際に、FREE WEB HOPEに入社して、苦しみながらも自分にフィットした仕事ができているなと感じています。   ー環境を大きく変える挑戦だったかと思いますが、今の黒須さんからその選択が良い方向に働いたことが感じられます。FREE WEB HOPEでの目標はありますか? マイルストーンを置くことはしていません。5年後、10年後、どうなっているか分からないからです。もしかしたら、いまの事業がなくなっている可能性だってあります。 ただ、わたしは目の前のやらないといけないことに対して、常に価値を発揮していきます。   先ほど「相原からのオファーで魅力だった点」について質問がありましたが、仕事内容以上に実はミッションに惹かれて入社を決めています。 FREE WEB HOPEの企業理念は「期待を超える」。なんの仕事をしていたとしても、要求された以上の価値を提供したとき、お客様も気持ちが良いし、わたしたちも気持ちが良い。わたしは、人の想いに共感し、一緒に走ることが得意です。なので、課題を解決して、期待を超え続けていきます。 あと、これはFREE WEB HOPEというより、わたし個人が成し遂げたいことになりますが、人々の「心の貧困」をなくしたいですね。「心の貧困」とは、物質的な貧富に関係なく幸せを感じられていない状態のことを指しています。 自分のことを肯定するのは自分だけという話にもつながるのですが、心が貧困だと想像力が乏しくなるんですよね。そして他人がうらやましくなり、嫉妬が生まれる。嫉妬から自己肯定感が下がり、最悪は誰かを攻撃する。ただ、これって自己肯定感の低さからくる現象なので、誰も悪くないんです。 本来、何で心満たされるのかは人それぞれで、学歴が高いことやお金持ちであることが一般的に「幸せ」と捉えられがちです。 わたしの場合、高校を中退していることはコンプレックスではありますが、自分の好きなことが仕事になり、自分のミッションに共感してくれる人たちに出会い、本当に楽しく生きています。   ずっと一つの夢を追い続け、叶える人は本当に素敵だと思いますし、尊敬しています。ただ、夢を軌道修正しながら頑張る人も同じくらい尊いと思うのです。 他のインタビューでも言っていますが、自分の幸せの尺度を他人に委ねずに自分で決めて、それに向かって人生の舵を切る人を一人でも増やしたいです。 何年後になるかはわからないですが、いずれは、人々の自己肯定感を上げられるような「心の貧困をなくすプラットフォーム」を作りたいですね。それは組織を作ることなのかプロダクトや空間を作ることなのか…まだ何も着想してないですが、そんなふうに思っています。   ー黒須さんの真っ直ぐな格好良さに、オファーをしたくなる気持ちが分かりました。本日はありがとうございました。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

キャッチに騙された僕がAV男優に。早稲田大学3年・篠塚康介さんに訊く!挫折から未来を始める方法

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第171回目のゲストは、株式会社BasicIncomeでインターン生として、働く篠塚康介(しのつかこうすけ)さんです。 池袋でキャッチに「AV女優とやれる」と騙された経験をブログに書いて、ネットでバズを起こし、一世風靡した早稲田生の風俗ブロガー篠塚さん。株式会社BasicIncomeから、月20万円のベーシックインカムをもらった第1号者。そして、大学生でありながらAV男優としてデビューを果たす。その後、株式会社BasicIncomeのインターン生になった篠塚さんに、不安の乗り越え方や現在に至るまでの過程を迫りました。   「人を信じてはいけない」と本気で思った小学生時代 ー篠塚さん本日はよろしくお願いします!それでは早速、簡単に自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか? 風俗ブロガー、AV男優、株式会社BasicIncomeでインターン生として働いている篠塚康介です。大学2年生の9月から風俗に通っていて、風俗の体験ブログを書いていたら、去年の6月に大学側に風俗ブログを書いていることがバレました。大学の教務課に呼び出されて、教務課に「君のブログは誰も傷つけていないし、それなりに文才もあるから気をつけながら頑張りなさい」と言われたんですよ(笑) その経験をTwitterで発信したらでバズって、週刊ポストに取材されたり、ライブドアブログに掲載されたこともあります。 でも、元々早稲田の風俗ブロガーではなく、AV男優になるつもりだったから、早稲田の風俗ブロガーからAV男優に転身して、2018年11月にAV男優としてデビューしました。コロナが始まる前は、AVに出ていて、現在は株式会社BasicIncomeでインターンをしています。 ー今日は様々な経歴をお持ちの篠塚さんの過去について迫りたいのですが、篠塚さんはどんな少年だったのですか? 小学生の頃はもうずっとゲームばかりしている少年でしたね。当時遊戯王にはまっていて、学校から帰っても宿題をせずに遊戯王ばっかりしてました。 誰にも負けたくなかったから、お年玉やお小遣いをぜんぶ遊戯王につぎ込んで、4,000円ぐらいするカードを買うほど本気でやってました。でも、4,000円で買ったカードを紛失してしまって、「いくらお金を費やしても、いつかは失われていく」という恐怖を小学生の時に味わったんです。 ー小学生の頃からもう文才の片鱗が見え始めていますね。大切なカードを紛失したのはなぜですか? たぶんカードゲーム屋さんで、友達とバトルしていた時に盗まれたのかもしれないですね。その時にひとつ気が付いたことは、「身の回りの人を信じてはいけない」ってこと。疑心暗鬼かもしれないんですけど、人間って本音はわからないじゃないですか。本当に信用できるかどうかって、例えば長年付き合っている友人でも裏切ることがあるから、僕は信用できないんですよ。 ー小学生ながら現実的ですね。ちなみに、篠塚さんは過去を振り返ったりするんですか? ええと、自分の過去のできごとを、小学生の頃からずっとブログに書いてましたね。今も「できっこないをやらなくちゃ」をテーマにブログを書いていて、過去の体験が、今にどんな影響をもたらしているのかを考えるのが好き。だから、自分の振り返りとして書くことが多いですね。 ーええ!小学生の頃からブログを書いてらっしゃるんですね。ちなみにどんなきっかけで、ブログを始めたのですか? 小学3年生ぐらいにブログを始めたんですけど、それは初めて好きになった女の子が毎日ブログを更新していたからなんです。好きな子は頭が良くて、クラスで人気のある女の子。好きな女の子が、ブログを更新しているとかめっちゃ見ちゃうし、毎日書いた文章を読めるなんて超幸せじゃないですか! 「お互いにブログを見せ合えば仲良くなれるんじゃないか」って、好きな女の子と仲良くなるために、始めたら自分がブログにはまっちゃいました...   高校受験の挫折が東大を目指すきっかけに ー大学受験の時に東大を目指していたとのことなんですけど、何がきっかけで東大を目指すことになったんですか? 高校受験した時に、地元の有名進学校に4人受けて、僕だけ落ちたんですよ。それがもうめちゃくちゃ悔しくて... 中学1,2年の時に勉強をサボって、中3から勉強を始めたんですけど、それでは遅すぎた。あと中学1,2年の時に、内申点が良くなかったのが原因で落ちました。高校で同じ思いをするのは嫌だと思ったし、大学受験の時に同じ挫折を味わいたくなかった。 高校に入る前の春休みの1ヶ月ってあるじゃないですか。その時にみんな遊んでると思うんですけど、僕は高校の勉強の予習を始めて、高校に入ってからいいスタートを切ろうと思って高校に入ったんですよ。入った高校は埼玉県の私立高校だったんですけど、部活をあんまりやらない高校で、1番上のコースは東大を目指すコース。高校に最初に入った時に、勉強合宿があって、そこで悪い意味で洗脳されちゃうんです(笑) でも、「お前らはいい大学に入るためにこの高校に入ったんだから高校受験の時に味わった挫折を糧に死ぬ気で勉強しろ」という先生の発言に、完全に火がつきましたね。高校受験の辛さを味わいたくなかったし、もう1番上のところを目指した方がいいと思ったのがきっかけですね。 中途半端な勉強をしたら、また同じような悔しさを味わうんじゃないかって恐怖から、圧倒的努力で大きな成果を残そうと考えていました。 ー圧倒的努力。今の篠塚さんに、ぴったりなお言葉ですね。勉強を頑張っていく中で、辛いなと思う体験はありましたか? うーん、なんだろう。高校に入ってからは予習復習もめっちゃしてたし、いろんなことに興味を持って勉強し始めたら、結果がどんどん出たんです。中学生の頃は勉強がダメだったけど、高校に入ってからは自分でもびっくりするぐらい模試の結果も良かったので、辛いとは感じませんでした。むしろ結果が出るのが楽しくて。 うちの高校は勉強第一の高校なので、その中で勝つっていうのが楽しい。クラスの中でもトップを取っていたし、みんなが勉強を頑張っている中で、結果を残すのはゲームみいな感覚でしたね。 ーすごいですね。受験の結果はどうだったんですか? 受験は明治大にセンター利用で受かって、早稲田は3つの学部に全部受かって、東大だけあと10点ぐらいで落ちてました。 東大は2日間受験があるんですけど、2日目の昼に早稲田の文学部の合格発表が出たんですよ。受験の最中に合格発表を見たらだめなんですけど、最後の東大の英語だったかな。昼休みの最後に早稲田に受かっているかを確認したら、安心してしまった。東大1日目で手応えもなかったし、正直きついかなと思っていたら、本当に落ちてました。 ーあと一歩だったんですね。浪人は考えなかったんですか? 周りに「あと1年頑張れば絶対行ける」って言われることもあったんですけど、僕の友達は部活をやったりしていて、その残された時間で受験をしてたわけなんですよ。でも僕は3年間勉強に費やして、ここまでやって受からないならもう受からないなと。きっぱり諦めて、大学に入ってから次の目標を見つけた方が人生楽しいかなと思って、第二志望の早稲田に入学しました。   池袋でキャッチに騙され、ぼったくり被害にあったことをブログにしたら超ウケた ー単刀直入に聞きますが、なんでSEXしたいと思うようになったんですか? 大学受験は割と成功したと、自分でも思っています。でも早稲田に入って、恋人ができず、童貞卒業もできない。地元のあまり勉強をしていなかった友人には彼女ができて、SEXしまくってるのが悔しくてたまらなかった。 死ぬほど勉強して早稲田に入ったのに、恋人ができず、SEXもできないなんて報われなさすぎじゃないですか? 悔しかった。めっちゃSEXしたかった! ー19歳の時に「池袋で童貞を卒業する」という目標を持たれるということなんですけど、何がきっかけだったんですか? さっきも言ったんですけど、僕はめちゃくちゃSEXがしたかったんですよ。友達がみんな童貞を卒業し、童貞卒業宣言をしていく中、自分は童貞を卒業できていない。「ああ、もしかしたらこのままSEXできずに死んでしまうかもしれない」と19歳の頃に思った。「将来彼女ができた時にSEXの仕方がわからなくて困らないようにSEXしておこう」と思って、2018年6月8日の金曜日に池袋の風俗に行きました。これが僕の人生のターニングポイントってやつですね。 池袋で「AV女優とやれるよ」とキャッチに声をかけられて、その時に持っていた全財産の12万円を騙し取られました(笑)SEXもできずに全財産を騙し取られて、「こんな情けない男は死んだ方がいいんじゃないか」って。「俺はこのままSEXができず、騙されて死んでいくんだ」と思ったら情けなくて、死にたくなりました... ー壮絶な体験ですね...そこからどうやって立ち直ったんですか? いつかぼったくりされた体験を、絶対笑い話にしてやろうって決めたんですよ。ずっと「俺何やってんだろう、だめだ」ってなっていたら人生つまんないし、ポジティブに考えていきたいから、去年の9月からブログを始めました。 初めての記事がぼったくられた体験を書いた記事です。ぼったくられてから3ヶ月後に記事を書いたんですけど、それまでぼったくれた経験が恥ずかしくて... でも、もう笑い話にしてやろうって。大学生には、僕みたいにぼったくられる人がいると思うんですよ。そういう人たちにエールを送りたいって思い始めたら、失敗をポジティブに捉えられるようになりました。「この12万円ぼったくられた経験が俺を変えた」と将来思うことができれば、報われるなと思ったんです。 ーブログを公開した後の反響はいかがでしたか? 地元や大学の友人からたくさんLINEがきて、「お前のブログめっちゃ面白いな」って言われましたね。高校の時は大学受験ブログを真面目に書いていたんですよ。でもその時は、自分の文章は全然うまくないなって。でも大学で文学部でたくさん本を読むようになり、「人生で初めてちょっとだけ文才があるかも」と思える文章が書けるようになっていた。 文才があるかもしれないと思ったら、自己肯定感が高まるし、自分の失敗や考えを語ったらみんな楽しんでくれるんじゃないかなと思って、そこから狂ったようにブログを書くようになりました。   ネガティブな過去でさえも未来に昇華。前を向く強さはどこからくるの?  ー自分の失敗談をブログに書くことで、いつか笑い話にしてやろうと方向性が決まったわけではなかったと思うんです。ブログを公開する前に、篠塚さんが日本中をひとり旅したとのことなんですけど、それはどんなきっかけがあってひとり旅に出ようと考えたのですか? ひとり旅に出たのは、大学2年の夏休みです。夏休みにひとり旅に出た理由は、ぼったくられてお金がなくなって、死ぬほど働いて暇だったから。あとは103万円の扶養を7月の段階で超えそうになっていて、お金も時間もあったからひとり旅をしようかなと。 青春18切符を買ったり、ヒッチハイクをしたり、とにかくいろんな場所に行きました、でもひとり旅に飽きちゃったから友達と合流して、東京から宮城の石巻に行って、岩手の陸前高田に行きました。陸前高田には震災の時に残った奇跡の一本松があって、そこに行けば、何かがあるかもしれないと。 道中はヒッチハイクをしたんですけど、その時に、NPO法人の方に出会った。「明日たこ焼きパーティをするから子供たちと遊んでほしい」って条件で、車に乗せてもらうことができたんですよ。 子供たちと遊んでいた時に、罰ゲーム付きのババ抜きをやって、僕は「なんでもやってやるよ」って子供たちに豪語しました。そしたら小学生の子供に、「千葉まで歩いて帰ってほしい」って言われたんですよ(笑) ーええ!もしかして本当に帰っちゃったんですか? あ、はい。帰りました(笑) 言われたことは「なんでもやる」って言っちゃったし、あと暇だったし... この話には続きがあって、陸前高田で奇跡の一本松を見た時に、震災で津波が来た時にそれでもなお立ち続けた奇跡の一本松みたいになりたいと思ったんです。岩手から千葉まで歩き切ったら奇跡だなと思ったんですよ(笑) 歩いて決めてからすぐに荷物を郵便で家に送ったんですけど、親には「お前何やってんだ。電車賃出すから電車で帰ってこい」と言われました。 でも、「俺は強くなりてぇんだ」と親の提案をはねのけて、11日間かけて440km歩きました(笑) ー11日間かけて440キロも歩いたんですか!すごすぎる...その経験で変わったことはありますか? 11日間も歩き続けたら頭がおかしくなるんですよ。頭も精神もおかしくなるし、ずっとブツブツひとりごとを喋ってました...でも歩いている時に、頭がおかしくなって、「俺は将来有名になるな」って。有名になった時に、自分の経験を面白おかしく語る人間になろうと思って、ブログを書こうと思った。 9月の頭に歩いて、千葉まで歩き切ることができたらブログを始めようって。 ブログでたくさん自分の経験を書いて、将来自分が読み返した時やいつか有名になった時に、「篠塚さんもこういう過去があったんだ「っていう記録を残しておきたかった。ひとり旅があったからブログを書きたいって気持ちになったし、もっとたくさん面白い経験をして、友達を笑わせたいって思ったんですよ! ー子どもたちの罰ゲームで生まれた旅ではあったものの、そこには大きな意味があったのですね。 子どもたちはまさか俺が千葉まで歩き切ったとは思ってないだろうし、俺のことなんか忘れてると思うけど、男に二言はないし、やると決めたことは最後までやり通したかった。 岩手から千葉まで歩くのは多分みんなができないこと。想像よりも辛いし、寝るところもない。でも自分は強くなりたかったから、歩道橋の下で寝たりしていました。あと夏の日中に歩くのは暑かったから夜中に歩いていたんです。誰もいないところで音楽をかけて歩くのが楽しかったし、昼間にご飯食べるために食堂とかに行きました。 ヒゲも生えてたし、清潔感がないからいろんな人に心配されて。事情を説明したらみんな笑ってくれて、携帯を充電させてくれたり、「ちょっと寝ていきなよ」って、布団を貸してくれたりとかその時に「周りの人が自分を助けてくれる」って気づきました。 ー株式会社BasicIncomeのベーシックインカム受給者の第1号になるとのことなんですけど、どんなきっかけでベーシックインカムを知ったのですか? 去年の3月にツイッターでたまたま「毎月20万円あげるから日常をドキュメンタリーで撮りたい」って企画がタイムラインに流れてきたのがきっかけですね。これに受かったら人生が面白くなるなと。毎月20万円をもらって自分の人生がドキュメンタリーになったら面白い。夏に一人旅をしていた時に思っていたことと繋がって、「俺はこの企画で有名になるんだな」と。神様が篠塚康介をベーシックインカムシネマズで有名になると仕向けたとその時は天命みたいな物を感じた。 それが大学3年生の時。もともと大学3年生の時に中国に留学に行くつもりだったんですよ。人生面白いことをしたいから、一人旅でたくさん歩いた後に、中国を歩きたいと思って。大学は中国文学を専攻しているので、中国の大学に留学の応募をしたら受かっちゃって。中国に行って、中国語をペラペラになるか、毎月20万円もらってAV男優になるならどっちが面白いかを考えた。そしたら「中国に留学に行くのは誰でもできるけど、毎月20万円もらってAV男優になるって誰もできないなって。 サンボマスターの「できっこないをやらなくちゃ」を聞きながら、僕はAV男優になる決意をしました。   不安がないとか嘘。僕は不安を抱えたまま乗り越えていく ーAV男優になるは今までのお話に出てこなかったんですが、いつ頃からAV男優になろうと思ったんですか? ブログを書いてる初期は、ずっと強さを履き違えている単なるバカやろうだったんです。バナナのコスプレを着て、大学でバナナを配る」、「夜中に山を登る」とか、強くなるためにとにかく変なことばっかやってましたた(笑) 去年の1月に友達と「沖縄の風俗に行って、どっちが面白いブログを書けるか勝負しようぜ」ってなったんですよ。えっと、風俗のレビューを実名顔出しのアカウントで書いたんですよ。男友達がいきなり実名顔出しで、風俗ブログの体験を書いたら怖くないですか? 「うわ、なんだこいつ」って思うと思うんですよ。大学のコースの女子には絶対全員から嫌われるのが確定していると思いながら、やるしかないと、そのブログがもうめちゃくちゃうけた。 去年の1月から3月ぐらいまでずっと風俗に通い詰めて、それをおもしろおかしくブログに書くことにハマってた時に、台湾に語学研修として3週間だけ行ったんです。 その合間に台湾の風俗に行って、風俗の体験を記事に書いてました。あと台湾のバスに乗っている時にゲイの人に痴漢にあって。ブログのネタのために、ずっとわざと痴漢されてたんですけど...その時に「男ともSEXできるな」と思っちゃった(笑) 自分の中で色々話が繋がって、「風俗ブログを書く」、「男とSEXができるかもしれない」という仮説、その時に自分はエロに特化した男になろうって。 AV女優という甘い言葉に騙された童貞の僕が、AV男優になってAV女優とSEXできたらこんなサクセスストーリーはないでしょ。これが僕の「サクセスSEXストーリー」。略して「3S」と呼んでるんですけど、漫画とか映画になりそうだなって。騙された童貞がAV男優になるなんてこんなに面白いことはないと思ってる時に、株式会社BasicIncomeの企画がTwitterで流れてきた。 ータイミングがばっちりだったんですね。 そうなんです。大学3年生のみんな就活や留学に行くのにふざけんなと。そんな既定路線に自分は乗りたくないって若気の至りってやつですかね。どうしても自分にしかできない、誰にもできないことをやりたかった。早稲田からAV男優になる夢をどんだけバカにされるんだろうか、そしてたくさん批判されるんだろうなって。でももう不安がある意味楽しくなってきて、11日間歩いたり、バナナのコスプレでバナナを売ったりして、メンタルがバケモノ級に強くなった。 どんな批判があっても、絶対やりきる人間になれると、思ってAV男優になることを決めた。その時に「俺は早稲田からAV男優になるから、有名になるんだ」って思ったんです。去年の3月に思いました。 ー篠塚さんの過去がすべて繋がったのですね。周りが就活や留学をする中で、不安はなかったのですか? うーん、不安がないことはないですね。早稲田に行くまでは、レールに乗っていた人生だったし、それこそ「東大に行きたいって行ってたやつがなんでAV男優?」ってなると思うんですよ。 僕は1人っ子なんですけど、親が学費をたくさん払ってくれて、そんな中でAVに出るってのがやりたかったんですけど、親を悲しませるんじゃないかとか、将来取り返しのつかないことになるんじゃないかと思った。「早稲田からAV男優になる」ってすごいリスクだと思うんです。 誰も選ばない道だけど、誰もやらないこと。そして、リスクを背負うから大きなチャンスなんじゃないかなと。誰かが決めた幸せでは自分は幸せになれないと思った。レールに乗った人生だと安定志向になってしまう。 早稲田の学生はみんな大企業を狙うんですよ。大企業に行く人を否定はしないんですけど、所属しているコミュニティを肩書きにするのはかっこ悪いと思った。僕は大企業の名前を看板にするのではなく、「篠塚康介」で勝負したかったんですよ。 不安がないとか嘘。俺だって怖いし、誰もやったこともないからアドバイスももらえないし、みんなにやめとけよって止められるからそりゃ不安しかないですよ。でも、有名になった人も不安がないわけがない。不安を乗り越えるからこそ有名になれるのかなと思ったからこそ、不安を抱えたままやってやろうと思った。 他人の誹謗中傷を、自分の原動力に変えていく ー昨年の11月に実際にAV男優になられたわけなんですけど、実際に強い気持ちを持てたのはなんでだったと思いますか? 応援してくれる人もたくさんいたんですけど、実は応援してくれる人が力になったわけじゃなくて、俺をバカにしてきた人が自分の原動力でした。 風俗ブログがバズった時に、2chでスレを立てられて、「こいつの人生終わったな」とか「早稲田まで入ったのに、AV男優とか頭悪すぎだろ」とか誹謗中傷を受けまくってたんです。それがめちゃくちゃ悔しくて、「お前らなめんなよ」って思いながら、毎日自分の悪口を見てました。 実はLINEのメモに、自分を誹謗中傷してきたやつの内容を全部残してあるんです。あ、訴えるつもりとかさらさらないですよ(笑)そんなことはどうでもよくて、泣けるぐらい悔しいからそれがエネルギーになるんです。 LINEのメモを見たら毎日泣くことができるし、朝から夜までずっと悔しい思いをしています。人間は、信念がないとすぐに怠けちゃうんですよね。でも、俺は絶対に有名になりたかったから、悔しさを原動力にするために、あえて毎日悔しさを味わってました。 ーなるほど。篠塚さんがAV男優として実現したいことや性に関して思うことはありますか? AV男優に関しては、コロナがきっかけで出演が減って、その中で恋人ができたんです。 恋人は僕の応援をしてくれてるんですけど、恋人がAV男優だったら嫉妬とかすると思うんですよ。AV男優はSEXもできるし、お金を稼げるいい職業だなと思ったんですけど、恋人を傷つけてまでやるのは違うなと。だから今はAV男優はやっていないんです。 ただAV男優をしている時に、意識していたことはSEXで人を動かすんじゃなくて、SEXの前後のストーリーで人を動かしたいと思っていました。ただAVに出るんじゃなくて、どういう気持ちで自分がAVに出たのか、 そして、見てくれる人がどうやったら楽しんでくれるかを意識しながら出演していた。自分にしかできない方法で人を楽しませたかった。例えばAVの出演が終わった後に、Twitterで「めっちゃ気持ちよかったわ」と言いながら、歌を歌う配信もしてました。とにかく人を楽しませることばかり考えてました。 ー最後に、篠塚さんの今後の方向性もしくはやりたいことを教えてください。 僕は「できっこないをやらなくちゃ」ってモットーに崩したくなくて、有名になりたいと思った2年前と比べてこうやって取材をしてもらえるぐらいには有名になったと思うんですよ。 でも常に自分は何も成し遂げていない、まだどん底だと自分を誹謗中傷してきた人の投稿を毎日見て、悔しさをバネに挑戦していきたいなと。挑戦をしなくなったら、人生がつまらなくなる。どれだけ失敗しようが、どんだけ笑われようが、挑戦しているやつはかっこいいと思っています。 「人生つまんないんだよね」って言ってる人と一緒にいてもつまらないし、それよりも「人生最高」って言っている人と一緒にいたいと思うから、「できっこないをやらなくちゃ」にずっと挑戦していきたい。 今の自分に「できっこないをやらなくちゃ」は、日本にベーシックインカムを導入すること。 大きな夢はあるけど、時間やお金がなくて挑戦できない若者。僕みたいに世間体を気にしている人がいると思うんですよ。でも、僕は株式会社BasicIncomeに20万円をもらって、アルバイトをやめて、自分のやりたいことを思う存分やれるようになった、 今はインターン生っていう肩書きなんですけど、肩書はどうでもよくて、自分が社長だと思っています。日本でベーシックインカムを広めるのは社長の池内慶ではなく篠塚康介だと。 「日本政府がやらないなら俺がやってやる」 自分のやりたいことに挑戦して、みんなに「人生は最高だ」って思ってほしい。 だから、ベーシックインカムの導入を日本に実現することが僕の今の目標です。  ー篠塚さんの、今後に活躍に期待しています。本日はありがとうございました! === 取材:あおきくみこ(note/Twitter) 執筆・編集:サトウリョウタ(note/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

普通のOLがブラジャーの悩みを解決して日商1000万円。24hブラ開発者・こじみく(小島未紅)の歩みとキャリア観

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第121回目のゲストは、株式会社ashlyn(アシュリン)代表取締役の小島未紅さんです。 Twitterで「こじみく」という愛称でブラジャーの正しい知識や自社ブランド「BELLE MACARON(ベルマカロン)」とノンワイヤーブラ「24hブラ」を発信している小島さん。日商1000万円を売り上げ、多くの女性の日常の悩みに寄り添う会社を運営していますが、意外にも創業前は「起業をしよう、売り上げを伸ばそう」という意識はなかったと言います。「ありそうなのに、なんでないの」という自分自身のブラジャーの悩みから生まれたプロダクトがここまで成長した軌跡を、小島さんの半生と共に辿りました。   「商品力」が日商1000万円の鍵 ー本日はよろしくお願いします!まずは、小島さんの自己紹介、現在のお仕事を教えてください。 小島未紅です。2016年5月に株式会社ashlynを設立しました。日本で初めてのノンワイヤーブラ専門のランジェリーブランド「BELLE MACARON」を立ち上げ、2018年11月からオンラインショップで「24hブラ」の販売を行っています。2019年には最高日商500万円、今年にはいり最高日商1000万円を記録しました。 昨年11月までは、複業でほかの仕事と並行して会社の経営とブラジャーの開発をしていたんです。株式会社ashlynはわたしひとりの会社なので、商品のプロデュース、サイトデザイン、商品写真のディレクション、マーケティング…ブラジャーのパターン作りやデザインはプロとタッグを組ながら、基本的にすべての工程をひとりで担っています。   ーランジェリー業界未経験で日商1000万円という実績から、起業家としても注目を集められていますが、ブランド立ち上げのきっかけはなんですか? 新卒で社員1万人規模の大手IT企業でシステムエンジニアとして働いていました。通勤時間がかかり、残業もあって勤務時間も長く…そうなると、ブラジャーの着用時間も学生のときより増えたんですよね。その上、デスクワークで長時間同じような姿勢で仕事をしていたため、ブラジャーを着けていることに大きなストレスを感じるようになったんです。 ストレスを軽減したくて、ノンワイヤーブラに変えようといろいろ探してみました。もともとランジェリーが好きだったので、可愛いものが欲しくって…でも、ノンワイヤーブラってシンプルなものやスポーティーなものばかりで、色もぱっとしないんです。ネットショップも、実店舗も、とにかく探しまくりました。けれど、満足いく「可愛くて、しかも快適」なノンワイヤーブラには出会うことができず…。 段々と、「作れそうなのに、どうして誰も作ってないの?」という疑問が湧き始めました。友人に相談をしても「そういえば、可愛いものってないね」という声ばかり。「可愛いノンワイヤーブラが欲しい!」とみんな言っていて、ニーズも感じたんです。確実に欲しがっている人がいる、ということが自信につながり、「自分でノンワイヤーブラを開発しよう」と一念発起しました。 ー24hブラはポジティブな口コミが多く、SNSで声が広がり、ブランド認知も向上しているイメージがあります。 実は、マーケティング費用は月に1万円ほどしかかかっていないんです。わたし自身の発信と、そして商品を手に取って気に入ってくださった方がSNSで発信し、2年近くかけてここまで成長していきました。 やはり、商品を本当にいいものだと感じてもらわないと口コミは生まれません。「商品力」の強さが成長要因だと考えています。24hブラは、2年半かけて開発しました。日本トップクラスのパタンナーとデザイナーとタッグを組み、そこにわたしが消費者目線を付け加え、1センチ単位の調整を重ね…妥協は決して許さず、とことん商品にこだわった結果として24hブラがあるんです。それを実際に着用してもらい、満足してもらえた…その結果が最高日商1000万にもつながっているのではないでしょうか。   起業がしたかったわけではなかった ー起業ってリスキーなイメージもあると思います。踏み切ることに勇気はいりませんでしたか? 正直、勇気はそんなに必要ではありませんでした。「人生賭けて起業をする!」みたいな熱いイメージを、学生の頃はわたしも抱いていたんです。でも、実際はそんなことなかったですね。わたしの場合、昨年までは会社員と兼任しての会社経営だったため、お給料を変わらず一定額もらいながら自分のスキルが上がっていく…むしろリスクではなくメリットが大きかったです。 大規模な目標を掲げていたわけではなかったことも、リスクが低い起業だったことにつながっているのではないでしょうか。わたしは別に、会社を大きくしようとは考えていませんでした。ただ、「理想とするものが欲しい」という想いの一心でしたし、好きなものの延長線上に起業があったんです。大きな目標があって、決断を要して…というより、理想的なノンワイヤーブラを世に出すために、ひとつずつ積み重ねていった。その結果、ここまで大きくなった。そう振り返っています。   ひとつのことに熱中する経験を積む ー積み重ねによって出来上がった小島さんのこれまでの歩みを、さらに遡ってお聞きしたいです。幼少期はどんな子どもだったのでしょうか? 活発で積極的、集団の中にいても目立つタイプだったと思います。ムードメーカーで、人を笑わせるのが好きでした。その一方で、ひとりで過ごす時間も大事にしていて、なにかに夢中になるとそればっかりしているような子どもだったんです。   ー学生時代に打ち込んでいたものはありますか? 小学校から高校まで、吹奏楽部に所属し、アルトサックスを吹いていました。進学した中学校は、賞とかも獲ったことがないいわゆる弱小校だったのですが、ちょうどわたしが入学したときから「もっと上を目指したいよね」という空気に変わりつつあったんです。それもあって、コンクールで銀賞を獲ることも叶いました。 ただ、多くの吹奏楽部生にとっては、金賞を獲ることが目標なんです。それまで賞をひとつも獲ったことがなかったなか、銀賞という成果を残せたのは快挙ではあったものの、やはり悔しさが残り…高校は100人以上部員がいて、金賞の実績も多くある強豪校の女子高へ進学しました。   ー相当練習も厳しかったのではないでしょうか? 吹奏楽部は文化部として認識されますが、ほとんど体育会系の部活でしたね。炎天下での練習もありました。合宿ともなれば朝の5時から夜の10時まで練習。サラリーマンよりも働いていたと思います。軍隊みたいに厳しく、大変でした。   ーそのような環境で鍛えられたんですね。部活動に打ち込みながらも、高校では大学選びも大事になってくるかと思います。 部活最優先でそんなに勉強をしていなかったので、成績は振るいませんでした。周囲からも「勉強が苦手な子」と認識されていたと思います。悔しかったですね。このままでいいのか、と考え、自分の当時の学力よりも高い目標を掲げて受験勉強に明け暮れました。お風呂も忘れてしまうほど集中して、1日10時間は机に向かっていたんです。 吹奏楽にも熱中していましたが、ひとりでこんなに何かに打ち込むという経験はそれが初めてでした。偏差値を20上げて憧れだった立教大学へ合格。大学生活が始まります。   iPhoneとの衝撃的な出会い ー自分を成長させるような大学選びをされたんですね。就職活動ではどのような選択をされたのでしょうか? 大学時代にいろんなバイトをしていました。回転すし店や、カウンターのおすし屋さんや、中国茶販売店、コンビニ、イベントスタッフなど…そのなかでも、一番楽しかったのが、レンタルビデオショップだったんです。映画が大好きで、それで、就職活動も最初は映画業界を目指していました。しかし、映画業界は狭き門で、思うように運ばず…。 大学の授業でプログラミングの経験があったのと、昔からPCを使ってHP作成や動画の処理などをしていたので、「パソコンにだったら1日10時間でも向き合っていられるな」という考えからIT業界も受けるようになりました。そして、NTTのグループ会社である大手IT企業にシステムエンジニアとしての内定をもらいます。   入社をする前に、とても印象深い出来事ありました。大学1年生のときにAppleがiPhoneを発売して、周りも一気にガラケーからスマホへの乗り換えの波が起こっていたんです。でも、わたしはたとえLINEが使えなくてもガラケーにこだわっていて、ずっとお気に入りの機種を使用していました。 それが、大学4年生の秋、22歳のときに愛用していたガラケーを紛失してしまったんです。せっかくだから、と、iPhoneを使用し始めました。そうしたら、生活が一気に変わるような感覚すら覚える衝撃を受けて…。新しい価値観が根付いたような気持ちでした。「ITや新しいサービスは、社会にこんなにもインパクトを与えられるんだ」と感じ、世の中に根差したサービスを生み出したい、という想いが、このときに芽生えたんです。   安泰と思われていても…大企業ゆえの悩み ー起業につながる情熱がそのときから灯っていたのかもしれませんね。大企業での社会人生活はどうでしたか? システムエンジニアとして、オンラインストレージサービスの開発プロジェクトに参加しました。200人近い人が関わる、大規模なプロジェクトです。正直、それだけ大きなプロジェクトだったため、自分の目の前の仕事が「何かを作っている」という感覚がありませんでした。   ー大企業ならではの悩みを抱えられていたんですね。 社会人2年目になり、不安や焦りが大きくなっていったのを感じました。世間では、入社できれば安泰だと思われるような会社です。大企業がゆえに、自分がやっている仕事が、自分自身のスキルとして身についているのか分からなくて…。転職は考えていなかったのですが、転職をしようと思ったところで、活かせる実績があるようにも思えず…。 その時期に、「ブラジャーの着用がストレス」「だけど理想のノンワイヤーブラがない」という身体の悩みも重なって、自分でプロダクトを作り、自分で売るということを考え始めたんです。 現在、D2C業界が盛り上がりを見せていますが、その当時はまだそんなに目立った例もなく、ネットで他のブランドの発信方法を調べたり、ヤフー知恵袋で経営や売れるネットショップに関しての質問への回答を読み込んだりしていました。 自分でプロダクト開発をして、ネットで発信して、オンラインショップで販売するーーこの経験は、確実に自分のスキルとして蓄積されます。サイト制作やマーケティング、経営の経験やお金の知識は、たとえブラジャーじゃなくなっても、転用して活かせるもの。大企業だと手に入れられなかったスキルが、起業を通して身になるだろうと思いました。   会社員、起業、複業…経験から後押しする「第三のキャリア」 ー起業してからはどのような生活を送られていたのでしょうか? 2017年に大手IT企業を辞めて、派遣社員として受発注業務に関する事務処理を行っていました。その勤務時間が14時から23時半。それ以外の時間や休日を、ノンワイヤーブラの開発にあてていました。 自分が納得できるものを作るために、1からです。「工場 ブラジャー」や「ブラジャー デザイナー」という検索ワードで提携先を探し、200件以上のリストにひたすら電話で問い合せをする日々。予算が合って、サンプルを送ってもらっても、質が悪く発注できないということも何度もありました。泥臭く、ひとつひとつ課題をクリアしていったんです。   ーシステムエンジニアから、ブラジャー開発というのは大きな方向転換だったのではないでしょうか? わたしは、あまり大きく変わらないな、と思っています。エンジニアも、仕様やデザインを決めて、課題を解決していく。ブラジャー作りも似ているなって。ひとつのことに熱中してやる、という幼いころからの気質も、活きたと思います。起業には、様々な側面がありますから、いままでの経験のいろんなことが役立っている感覚を覚えるんです。   ー今後の小島さんの展望を教えてください。 24hブラは、ブラジャーの悩みから女性を解放するプロダクトです。今度も広め、育てていきたいですし、別の商品開発にも注力したいと考えています。年内には、新しいプロダクトをリリース予定です。ぜひ楽しみにしておいてもらえると嬉しいです! また、わたしのこれまでの珍しいキャリアや実績を今後も発信しつづけ、挑戦しようとしている人の背中を押せれば嬉しいです。リスクの少ない起業を考えてきたからこそ、できる発信があると思います。就職や転職に並ぶ第三のキャリアとして、起業という道が確立された社会を推進していければと考えています。   ーこれからも小島さんのご活躍とBELLE MACARONの成長が楽しみです!本日はありがとうございました。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる   === 取材:高尾有沙(Facebook/note/Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

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