フォルケホイスコーレに惚れて起業した安井早紀。「どんな凸凹も誰かの学びになる」

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第123回は株式会社Compath共同創業者の安井早紀さんです。 現在は拠点を北海道の東川町に移され、デンマークのフォルケホイスコーレにヒントを得た人生の学校の設立を準備中の安井さん。フォルケホイスコーレに惚れ込んだきっかけや、会社設立に至るまでのお話をお聞きしました!   北海道を拠点に株式会社Compathを設立 ーまずは簡単に現在のお仕事について教えてください。 4月に株式会社Compathを設立し、現在は北海道に拠点を置いて活動しています。3年前デンマークに旅行で訪れた際に人生のための学校「フォルケホイスコーレ」に出会い、それをモデルにした人生の学校作りに取り組んでいます。 ーということは学校を作られるということでしょうか。 学校自体は現在設立準備中で、校舎ができるのは2年後の予定です。現在は校舎設立と並行して、町全体をキャンパスに見立てたプログラムを行っています。昨年からショートプログラムを実施しており、徐々にこれから学校の形に育てていこうという段階に入っています。 ー北海道を拠点とされている理由は何かあったのですか。 2年前頃から周囲にフォルケホイスコーレを日本で広めたいという話をしていた所、たまたま「興味関心がとても合いそうな人がいるよ」と紹介された方が北海道の養鶏家、新田さんという方でした。新田さんは20年も前からフォルケホイスコーレを知っており、日本にも作るべきだと思われていたそうです。そんな縁もあり、この街の人たちと一緒に作っていきたいなと思ったんです。 ーそんなご縁で移住された東川町はいかがですか。 移住してまだ4ヶ月ですがここにしてよかったなと思っています。自然がとにかく綺麗なのと、あとはやっぱり東川町の魅力は人だなと思います。自分の幸せを大事にしながら、社会や地球の幸せに働きかけている人たちが多い、人生の学校づくりを一緒にしたい方々、そして生き方のロールモデルにしたい方々がたくさんいる素敵な町です。 自分の意思が消えていた小学生〜高校時代 ー少し過去のお話も聞かせてください。どのような幼少期を過ごされていましたか。 親の海外転勤で幼少期はロンドンで過ごしました。現地校に入学したのですが、英語が話せなかったのでコミュニケーションをとることができずクラスメイトが相手にしてくれない経験をしました。海外というと自由でフラットというイメージがあるかもしれませんが、肌の色で差別されるという分かりやすい人種差別も経験しました。 これがきっかけで周りの反応に敏感になり、人に気を遣うようにもなりました。でもこの時の経験があったからこそ、弱い立場にある人の気持ちや辛い時にどんな言葉をかけられたら嬉しいのかを知ることができました。私にとっては忘れられない、忘れてはいけない経験の1つになっています。 ーそのような経験もされていたんですね。その後日本に帰国されたのですか。 はい、小学校に入ってから日本に帰国しましたがまた異なる環境で苦労することとなりました。差別を超えるために頑張って身に付けた英語が、日本に帰れば外人みたいで気持ち悪いと差別される要因になることがショックでした。でも当時マンガ世界の偉人が好きでよく読んでいたのですが、偉人伝って困難な幼少期が描かれているので、きっとこの人たちと同じように今の辛い経験が今後に活きるはず、このやろーと思っていました。でも、まあ現実逃避ですよね(笑) ー中学・高校はどのような生活を送られていたのでしょうか。 小学校の頃はあまり友達がいなかったのもあり、中学は友達をたくさん作りたいと思い少し地元から離れた中学校に進学しました。どうやったら友達ができるかをずっと考えていましたね(笑)結果的に友達ができて楽しい中高生活が送ることができましたが、今振り返ると、自分の意志や個性よりも常に周りに溶け込むこと・角が立たないことを気にしていて、気付いたら「いつかわたしは本気を出す」という魔法の言葉をかけながら、いつまでも中途半端な自分だった気がします。 人の繋がりで社会を変えることができると知った ーそれは大学に進学して変わりましたか。 大学1年目は中高時代を引きずっていて、サークル選びも周りに合わせてなんとなく。でも「いつか本気出すっていつ出すんだろうな」と思う瞬間があり、サークルはやめました。そしてたまたま紹介してもらって入ったのがNPO法人 Teach For Japanでした。 ーもともと教育事業に興味があったのですか。 年が離れた弟と妹がいるのですが、勉強を教えることは私の役割でした。そこからバックグラウンドが多様な子供たちに英会話を教える機会を作り始めたんです。でもその事業がなかなかうまくいかなくって、弟子入りさせてくださいみたいなノリでTeach For Japanに関わってみることを決めました。そこで初めて真面目な話を話せる仲間、熱い思いを持って取り組む仲間に出会うことができて刺激を受けました。自分は今まで自分らしさや自分の力を温存してきたのではないかと思うようになったんです。 Teach For Japanでの経験は自分の卒業後のキャリアにも繋がりました。 1つはTeach For Japanに人がどんどん増えて大きく成長していくのをみることができ、1人の人が問いを持ったことを発信するとそれに共感した人やアイディアを持った人が集まり社会を変えていくことができると知ることができました。社会を作るのも変えるのもやっぱり「人」だなあと思いました。 もう1つはTeach For Japanにはプロボノで参画されている人がいたのですがその方々が色とりどりな人生を歩まれていて、私もそうありたいと思うようになりました。なので、いくつか内定をいただいた中でも「想像できない未来を描けそう」な会社にしようと思い、まずはリクルートでやっていこうと決めました。 ー入社してみていかがでしたか。 想像できない未来が来るのが早すぎました(笑)初期配属が想定外の総務だったんです。総務はどこの部署も管轄外の仕事が集まる場所だったので、入社1年くらいはどこにモチベーションを持てばいいか分からず過ごしていました。 くすぶっていた私を上司が見かねて「ファミリーデーって興味ある?」と声をかけてくれたところから総務人生が変わりました。企画書を物凄い勢いで作って、「はたらいぶ」という新しい社内制度立ち上げまでやりきりました。それ以降考え方が変わり、楽しい仕事と楽しくない仕事があるのではなくて、自分が楽しくするかしないかでしかないと思うようになりました。 2年半総務で働いたあとは、3年半は人事の部署にいました。この期間は私の弱みだと思っていたものが強みに転換した大事な時期でした。これまでは、人の気持ちに対して繊細なこと、感受性が豊かすぎることは、自分が素早く物事をこなすためには邪魔なものだと思っていました。でも、人事としてはとても大事な素養だったんですよね。天職だなと思っていました。 ー5年働いた後、転職を決められたきっかけは何だったのですか。 リクルート在籍時にデンマークを訪れ、自分の人生の目的「フォルケホイスコーレ」が見つかったのですが、そのまま起業する勇気がなかったんです。そこで、教育事業に関わっていくならば公教育の場を経験したいと思い、地域・教育魅力化プラットフォームに参画することを決めました。島根に移住し「地域みらい留学」の広報PR責任者を務めていたのですが、立ち上げフェーズだったのもあり、めちゃくちゃ楽しくてチャレンジングな日々でした。本気な自分と、本気な人たちに会う日々の中で、経験が足りない、知識が足りないからまだ起業できないと決めつけているのは自分だったと気付いて、起業を決意しました。 凸凹は誰かを豊かにするもの、自分らしさを大事に。 ーフォルケホイスコーレに惚れ込んだ理由は何だったのでしょうか。 フォルケホイスコーレは17歳半以上であれば誰でも通うことのできるデンマークの教育機関です。人生のどんな場面にいる人も、自分を見つめ直すことのできる時間を持つことができる場所になっています。空白の時間を持つことで自分らしさを取り戻して自分らしく生きることができるのだなと私は思いました。 人間ってみんな凸凹で、完璧じゃないと思うんです。そしてどの凸凹も誰かの学びになり、誰かを豊かにする材料になると思っています。今の日本はまだまだ、自分らしく生きるというのは”強い人に限る”という前提があるように感じます。フォルケホイスコーレのような人生の学校ができることで、少しずつそれが変わっていけばいいなと思っています。 ー教育を通して社会を変えていくということは難しいかと思いますが、そのあたりはどのように考えられていますか。 教育で社会を変えることは大変なことだと私自身も感じています。デンマークも175年かけてフォルケホイスコーレを定着させています。 とある尊敬している人が「私はゴッホでいいのよ」と言っていて、最近は私もそう考えるようにしています。ゴッホって死後に、自分の絵画の価値が世界に広まったんですよね。教育は成果を急ぐと本質から遠のく。自分の見える範囲での変化は小さいことしかないんだと思います。なので、もしかしたら自分が生きている間に成果が見えなくてもいいという気持ちで取り組めばいいと思っています。 遠くを見るために短期成果をモチベーションにしない分、プロセスが楽しくて幸せかどうかを大事にしています。自分も含めて、半径数メートルの人たちを全力で幸せにすること、その積み重ねが社会を変えるにつながっていると考えています。 ー起業されて4ヶ月、まだまだこれからかと思いますが最後に今後の展望についても教えてください。 日本の土壌にあった形でフォルケホイスコーレを作ること、そのプロセスを通じて「日本に余白の時間は必要か?」という問いを投げかけることです。自分が抱えている問いに周りの人を巻き込んでいきたいと思っています。価値観に共感してくれる人をたくさん見つけることができれば、社会を変えることができると思っています。 2年後、自分が予想できなかった未来にいつのまにか辿り着けてたらいいなと思っています。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)  

マイクロソフトを辞めて単身渡仏。感性を言語化する書家 小杉卓が語る「アートとビジネスの関係」

東京を拠点に活動されている書家 小杉卓さん。大学卒業後、大手IT企業に就職するも、「書の可能性に挑戦したい」という思いから、フランスへ渡り、アートとしての書の制作を始められました。 現在、個展はもとより、フランスでのマツダのモーターショーやオーケストラが演奏するクラシック音楽に合わせた舞台での書道パフォーマンスなど、枠にとらわれない取り組みをされています。 そんな小杉さんに、渡仏しようと思った経緯、またアートとビジネスの関係について深く聞いていきたいと思います。 ■ 原点は、子どものころ、褒められて伸びたこと ーまず、小杉さんの学生時代から今に至るストーリーを簡単にご紹介していただけますか。 小杉:大学は国際基督教大学、ICUで、日本文学を専攻していました。大学2年生のときに東日本大震災のボランティアに行き、マイクロソフトの社員の方と一緒に活動させてもらう中で、今まで趣味で続けていた「書」というものを、もっといろんな形で展開できるんじゃないかと思いました。それが、「マイクロソフトと書」っていうキャリアのきっかけになりました。 でも、やっぱり大学を出てすぐ書道だけで食べていくってことは難しかったので、2013年にマイクロソフトに入社して3年半勤務しました。そのあと1年間パリに行ったのですが、その理由は、もともとフランスのアートがすごく好きだったので、その作品が生まれたパリで自分も制作活動をやってみたかったからなんですね。その後帰ってきて、東京で今2年目なので、独立してちょうど3年くらいです。 ー今はプロの書家として活躍されている小杉さんですけれど、そもそも書道との出会いとはいつ頃だったんですか? 小杉:実は、私の祖母が書道教室をやっていたんです。小学校に上がるタイミングで、私も生徒の一人として習い始めたのがきっかけでしたね。 祖母は褒めて伸ばすタイプで、ちょっとうまく書けただけでも、すごく褒めてくれたんです。誰かと比べるのではなく、以前の自分よりうまく書けているねと。それが自分が書道を好きになった一番の理由でした。今まで書道を嫌いにならずに続けられた原点は、そこにあったのかなと思います。 ーとはいえ、まだ書道の道には進まないと思っていたそうですね。では、小中高校で、賞を受賞したなどの成功体験はありましたか? 小杉:はい。書くことが好きで、それなりに入賞を重ねて高校の時は全国大会にも行きました。自分にとっての書道は、きれいに書いて入賞していくことだったので、その時はそれが僕の成功体験だと思ってたんです。でも、大学に入ってその考え方は変わりました。 ■ 転換点は「誰かのために書く」「喜んでくれる人がいる」という体験  ーどんな時に、どういうふうに変わって行ったんですか? 小杉:それがまさに、震災の時のことで。その年の5月くらいに被災地に行かせてもらったんですが、家も家族も失った人たちを目の前にして、何も話しかけられなかった。そこでなんとなく、自分が今書道をやっているっていう話をした時に、ある被災者の方が、「せっかくだから、何か書いてもらえませんか」っていう話になったんですよ。それが、自分にとって初めて誰かのために書く書道だったんですよね。  ーエンターテイメントとしての書道、ですね。 小杉:そうですね、その時に一番悩んだのが、お手本がなかったことなんです。今までは書くものが決まっていて、入賞できる書き方が明確にわかっていた。だけど「書いてください」って頼まれた時に、何を書いたらその人が一番喜んでくれるのかっていうのが全く見えなかったんです。 たまたま、その方々が地域でお囃子をやっていて、それをすごく大事にされているのを目にしたんです。それで、お囃子のモチーフになっている「鹿」を一つの書の作品にして、次に行く時にお持ちしたんですよね。そうしたら「これは自分たちが考えた鹿そのものだ」ってすごく喜んでくれて。 書道って、それまでは賞をとったら自分が喜ぶものだったけど、誰かのために書いて誰かが喜んでくれるんだって、すごく揺さぶられました。書道でもっと書かなきゃいけないものがあるんだなとも強く感じました。 社会に対しての自分の考え方や、誰かが思っているけど言葉や形にできていないっていう状況を「書」を解決策として、僕にできることがあるんじゃないかと思い始めたんです。 ーそこからどんなふうに活動が変わっていったんですか? 小杉:その時すぐ、作品が仕事になったわけではありませんでした。でも、ふと周りを見た時に気づくようになったんです。例えば12月だと、ハロウィンが終わって、クリスマスとイルミネーションの季節になるわけですが、実はこの1ヵ月の中には、二十四節季という、もっと細かい季節があるんです。いまは小雪、大雪、もうすぐで冬至が来るっていうふうに。 自分たちが無意識に過ごしている季節も、毎日変わっているんだな、社会の変化の中で、今僕たちってどういう言葉を書かなきゃいけないんだろうなっていうところに目が向くようになりました。 そこで少しずつ、フェイスブックやホームページに作品を載せていったんですよ。そこから依頼が増えだして、これが仕事になるのかもしれないっていうのを大学最後の2年間で感じました。 ー何か大きな機会があったわけではなく、小さな出来事の積み重ねがきっかけだったということですね。いつかはプロになるぞという気持ちが芽生え始めたのは学生時代ですか? 小杉:そうですね。自分が表現をしたいと思った時に、パリコレという舞台でパフォーマンスをしたり、デザインとしての書を発表したりしたいなって、漠然と浮かんだんですよ。 でもそこまでのプロセスは全然見えてなくて。その一方で、ボランティアを通して出会ったマイクロソフトという会社に魅力を感じていたので、まずそこで働いてみようって思いました。 ■ マイクロソフトで刺激を得て、書家の道を選んだ ーいつかは、書家として、パリコレで自分の言葉をあしらった服が歩いているっていう状態をと、夢見ていたんですね。でも一旦は就職しようと思ったわけですが、マイクロソフトに決めたきっかけはなんだったんですか? 小杉:2つ大きな理由があって、一つは、ITの可能性を感じた部分です。自分の出身が栃木の田舎なんですけど、そこをITで変えられるかもしれないっていう。 もう一つは社員の人たちです。ボランティアってすごくエネルギーがいるんですけど、マイクロソフトの方はすごかったですね。ITが社会を変えるって確信を持ってやっていたと思うし、マイクロソフトで出会った方々が、自分のパッションの中で仕事を作っていたっていうことに魅力を感じました。 ーそのあと、2013年にマイクロソフトさんに入社されたのですが、社員の方の魅力についてはどうでしたか? 小杉:入社してからも、やっぱりすごい人はたくさんいました。そういう中で「自分はどうしたいのか」っていうのを強く考え始めるようになりましたね。 ー1年間はITコンサルタント、そのあと2年間セールスと、3年間マイクロソフトにいらっしゃったわけですよね。その3年間の中で、成功体験はありましたか? 小杉: 僕は失敗体験しかなかったように感じていたんですが、それはもっと書道に時間をかけたいという理由があったからなんですよね。このままでいいのか、今「書」を全力やらないでいいのかという思いが、じわじわと溜まっていて辛かった。 そして4年目、 26,7歳になった時に、まだ20代なら書がだめでも再就職できるぞと。 ー今なら独立できるという自信があって独立したわけではないんですね。 小杉 :はい。書道の仕事が増えていたとはいえ、絶対的な自信があったわけではなかった。収入も、マイクロソフトに勤めていた方が3倍くらい多いし、だけど今やらなかったら、書道が広がっていく可能性が少なくなっちゃうなと思ったんです。だからその時に、リスクを取るっていう選択をできたことは、良かったですね。 ーそういう意味では、副業が可能なマイクロソフトでよかったかもしれないですよね。会社の方の理解はあったんですか? 小杉:はい、上司の後押しもすごくありました。自分の心の中にやりたいことがあるんだったら、それをやったほうが絶対いいっていうアドバイスをくださって、すごくありがたかったですね。ただ、業務の中で大きな貢献をできなかったことが自分の中ではすごく心残りだった。だからこそ、今やらなきゃ、と思っています。 ■ パリで、アートとしての書を確立したい ー辞めて選んだ道を成功にしていかないと、と思っているわけですね。そこから2017年にマイクロソフトを辞めて、半年後にパリにいくわけですが、実際に行ってみてどうでした? 小杉:感じたことは2つありました。一つは、「いけるな」っていう可能性からくる自信と、もう一つはまだまだ時間がかかるっていう現実的な部分。 今、アニメの影響とかで、日本ってすごくフォーカスされてるんですよね。ラーメン屋さんもめちゃくちゃ増えてて、行列ができてるんです。そういう日本ブームの流れの一環で、書も興味を持たれることは多かったんですよ。でも、「日本的なもの」というふうに書がみられているうちは、書の価値って伝わってないんだろうなと。正直、本質的な書が全体に広がるのは時間がかかるっていうのを感じた部分がある。 一方で、アートや表現に対しての寛容さが違うところに、可能性を感じたんですよね。表現をする人への態度やリスペクトも全然違う。自分が何者で、何をしに来たのかっていうのをよく問われるんで、何十回も何百回も話しました。 それは日本だからとか書道だからとかではなくて、何かを感じようとしてくれる人が必ずいる。だからこそアートの文化が育ったんだろうなって思いました。そこで、伝えられる部分が確実にあったので、フランスでもっとやりたいとも思いましたし、東京でもきっとできるっていう自信にもなりました。 ■ みんなが持っている「書」のフレームを壊したい ー日本に戻られてから、少しずつお仕事いただけていたとはいえ、書家として営業も行うのは難しいと思います。どんなふうに仕事を取っていったんですか? 小杉:パリのときから、営業はずっとしています。パリには知り合いはゼロで、最初2、3ヵ月は仕事もゼロだったんですよ。行く前に、紹介してもらった人のリストを作っていたんですが、毎日人に会って、こういう作品書いてて、こういうことがやりたいんですって、ずっと言い続けて。ようやく書道を教えてほしいとか、イベントがあるからパフォーマンスしてみないとか、少しずつ仕事をいただけるようになりました。 今もそうなんですけど、例えばワークショップに来てくださった方から依頼を受けた時に、一回、その方の期待値を超えるものを用意したいっていうのがあって。 書道って、日本のほぼすべての方が体験しているがゆえに、すでに一つのフレームができていると思うんですよ。だけど、僕はもっとフレームは広い、なんだったらフレームはないって思ってるので、ファーストアタックの時にどれだけそのフレームを壊せるかだと思っています。そうなった時に、何かが生まれるなと思ってます。 ー書に対するフレームを壊すことで、アイデアを膨らますということですね。では、フレームを壊すためにどんなことをしていらっしゃいますか? 小杉:自分の中で変えちゃいけないところと、変わり続けなきゃいけないところを明確に分けています。変えちゃいけないところは、僕は書って言葉の表現の芸術だと思っているんで、それだけは書道の中でずらせないんですよね。 だけど一方で、言葉をどう表現するかっていう部分には線を設けたくない。例えば筆や紙、墨を使わなきゃいけないだとか、逆に色を使っちゃいけないとかっていうことを、僕は表現においては絶対考えたくない、と思っています。 誰かと話している時に、その人にとって一番いい表現はなんなのかっていうのは、いつもゼロから考えたいなと思っています。それが結果として、その方が持っている書のフレームとは全然違うところにいけるんじゃないかなと。だから言葉を描くっていうのは、書の真ん中にあるものだと思うんですけど、その周りの部分のフレームってあるようで何もなかったみたいなところに、ハッとしてもらえたらうれしいと思います。 ーそういうところから、気づきを書に表しましょうというワークショップをされたりしたんですね。マツダの発表会でも書を披露されてましたが、書家としての成功体験は、何かありますか。 小杉:そうですね。それはある特定のお仕事ではなくて、マツダも含めてですが、大きな舞台で人前で披露するっていうことに、大きな可能性があると思いました。 去年から、クラシック音楽と一緒に舞台を作ってるんですけど、ライブでショーを見てもらう、というのは自分の取り組み方を変えてくれたと思っています。 なぜならば、より共通体験としての書を提供できるなと思って。言葉って、もっと自分の内側から湧いてくるものだったりとか、それに触れて相手も新しい言葉が生まれてきたりとか、もっともっとライブなものだと思うんです。そのライブで書を披露するにあたって、書には時間があるっていうことを僕は気づいたんです。絵画と違って、書は、どこから書き始めてどこで書き終わるかっていうのがわかるわけですよ。そこに始まりと終わりがあるということは、そこの間の時間が存在するってことなんですよね。目の前でライブで書いていたら、なおさら、その字を書き終わっていく時間を共有できる。ということは、より深く言葉を生で感じてもらえているってことだと思うんですよね。そういう表現をこれからもっともっとやっていきたいと思っています。 ■ アートとビジネスの刺激しあえる関係とは ーアートとビジネスは分断されたものじゃなくて、アートにおける思考法っていうのはビジネスにいける、だからビジネスパーソンこそアートを学ぶべきだ、みたいな考えがあると思うんですけど、それに関して小杉さんはどう思いますか? 小杉:そこはすごく興味深いなと思っています。山口 周さんの本も何冊か読みましたし。そもそも人間が人間らしくいきていくためには、自分が頭で考えたことを、自分で決めないと幸せにはなれないと思っています。それをアート思考って言い換えているのかな。 例えば、ビジネスで数字的な答えって出せますよね。どういうデータをどういうふうに使うかっていうのは考えなきゃいけないけど。でもアートって自分の中から出さないと出てこない。そこにはどういう色をどういう割合で使ってとか、筆をどういう筆圧で入れるとか、すべて考えて出されているものだと思うんですよね。 むしろ、僕はアートの方にビジネスを持っていったら面白いと思っています。私たちみたいなアートに関わってる人こそ、ビジネスとして、お金や興味がどう動いているのかにもっと目を向けないと、表現って出てこないと思うし。お互いが刺激しあえる部分は、たくさんある気がします。そういう意味でのアートとビジネスの関係性っていうのはすごく考えています。 ー実際にマイクロソフトで働いていたからこそ、書家としてできたこともたくさんあるかと思うんですけど、例えばどんなことが生きたと思いますか? 小杉:ビジネスってお客さんがいることが大前提じゃないですか。それが今の自分の中でとても助けられている部分です。 僕は、書は究極のアートでありデザインでもあると思っているんですけど、何を、誰に、どう伝えたいのかを常に意識しなきゃいけない。それは究極的にはビジネスも一緒だと思っていて。この商品を、誰に、どういうふうに使って欲しいか、その答えを導いていくプロセスっていうのは全く同じだと思います。それを、マイクロソフトで猛烈に体験できてよかったです。 ■ アートを言語化することで感性を磨く ービジネスでも、フレームにハマった提案でなく、その人の独自性とか、感性を入れると面白い提案になることがあります。感性を磨く時間がないというビジネスマンのために、もっと仕事に生きるような感性を磨ける方法があれば聞きたいなと思います。 小杉:私は感性って究極の論理だと思っています。アーティストって、よく感性で書いてるとか、演奏してるって思われることがあるけど、少なくとも私はそうじゃなくて。紙の墨の吸い方はこれくらいだからこのくらいのスピードで筆を動かさなきゃいけないというように、すべて何かのロジック、論理を元に書いています。 ただ感性を磨きたいっていっても、つかみどころがなさすぎちゃう。音楽を聴く時も、感性で聴くってどうやって聴くんだろう、みたいな。でも、例えばこれって気持ち良さ数100あるうちの、95くらい気持ちいいんですとか、それってこういう理由があるんですって言った時に初めて、なるほどなって共感してくれると思うんですよね。そういうふうに、感性を数字で見る、言語化してみるっていうのはすごく大事なことだと思ってます だから、何か「あ、いいな」と思ったものを、きちんと言葉で説明してみることですね。いい音楽だなと思った時に、どういい音楽なのか。この音がすごく好きだと思ったら、どんな和音でできているのかを仕組みまで見ようとする。すると、きちんと理由や裏付けのある感性になるし、自分の感性はそういうものに響きやすいっていう自己認識にもなると思うんですよ。そうなった時に、それは武器になると思います。 ー感性っていうのは言語化してロジックに落として見ると、磨かれていく部分があるということなんですね。 小杉:そうだと思います。 ■ これからは、社会にたいして「書」でできることをやりたい ー最後にお伺いしたいのは、これから小杉さんが書家として、また書家という役割を超えてチャレンジしていきたいことはどんなことでしょうか。 小杉:もちろんパリコレを目指すっていうのはあるんですけれど、ここ1年で、社会に対して書で何ができるのかというのをすごく考えるようになって。 モデルにしてる考え方が、ベネズエラの「エル・システマ」っていうプロジェクトなんです。何十年か前に、ベネズエラで子供の貧困がすごく問題になったんですが、それを政府がクラシック音楽教育でなんとかしようとしたんですよ。 貧しくて教育も受けられないような子に、ただでクラリネットとかフルートとか楽器を配って音楽教育を始めたんですよ。音楽って一人でもできるけど、みんなで合わせることの楽しさも教えたんですね。面白いですよね。 今、そのベネズエラで音楽教育を受けた人が、ベルリン・フィルとか、世界のトップオケといわれるところで活躍する音楽家になって、どんどん輩出されているんですよ。そういうふうに、音楽で一つの社会問題を解決できることって、すごく面白いし、アートってそうあるべきだなって思ったんですよね。 これからの時代に起こりうる社会問題ってたくさんある。そして、書っていうものは日常から、だんだん離れていってしまっている。では社会と書はどんな関わり方をしたらよいか、例えば教育の中で書と関わっていったら、社会がどう前進するかとか考えています。これは中長期的に取り組んでいきたいなと思っています。

学生映画を切り口に「固定概念」を壊す。 熊谷宏彰の学生生活を自粛させない「行動力」とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、群馬大学の4年生(21)熊谷宏彰さんです。 熊谷さんは、2020年8月16日に公開されたオムニバス長編映画「突然失礼致します!」で総監督及び製作総指揮を務めました。 この長編映画は、全国約120以上の大学の映画部を中心に、一団体1分以下の動画を集めて3時間14分の作品にしたもの。 コロナ禍でサークル活動も自粛される中、表現活動をしたい学生にとって「希望の光」となりました。 その裏には熊谷さんの「固定概念を壊したい」という強い思いが。 一体彼の原点は何なのか。どんな思いが学生映画の活動に結びついているのかを伺いました。 「普通じゃない人生がいい」幼少期で抱いた退屈さ —幼少期はどんな子でしたか? 人生の全盛期でした。思いついたことは全部やっていましたね。 途方もなく退屈だけど何をやっても許される時期でした。 僕はずっと「普通じゃない人生を歩みたい」と思っていて、小さいながらもやりたい事がやれる環境があったと思います。 —「普通じゃない人生を歩みたい」と幼稚園から抱くってすごいですね。なんでそう思ったんですか? きっかけは分からないのですが、ずっと周囲を見て「つまらないなあ」と思っていました。 僕は群馬県の片田舎に住んでいます。 その田舎の閉塞感がとても嫌だったんですよ。「普通」が賞賛され「普通」が好まれることにずっと違和感を抱いていました。 そんなことをずっと考えていたので、思考と行動が伴わない生きづらさでいっぱいでした。 中学の時は文字通り、鳴りを潜めていました。小学生のとき、僕の非常識さからか親が学校に呼ばれたりで、静かにした方が楽に生きられるんじゃないかなと思っていました。 中学3年間、自己主張しない主義で、むしろ人と話してはいけないとまで思ってましたね。 —なるほど。高校もそんな感じでした? いや、さすがに学びましたね。 意地を張って話さないことを辞め、普通の高校生時代を過ごしました。 高校3年生のころ、自分の人生に漠然と危機感を覚えて受験勉強に打ち込みました。 商業高校で進学率も殆ど皆無に等しかったんですけど、一念発起し毎日勉強を開始。 カリキュラムも普通高校と商業高校とは異なるので大変でしたね。 短期大学で世界が広がった。ヒッチハイクで日本一周へ —受験結果はどうでしたか? 東京の大学を一校だけを受験していました。 自信はあったんですけど見事落ちまして。 その後、教員に報告しにいくと短期大学を勧められました。 —短期大学!進学できたんですね。 無事に合格できました。 学費の問題が非常にネックでしたが、親に土下座してなんとか入学を許してもらえました。 短期大学は第二の人生です。 大河ドラマでいうならまさに「後半戦」で、ここから世界が大きく変わりました。 親元から離れて自由になれたし、何より短期大学には愉快な人がたくさんいました。 色々な価値観に触れることができたので退屈することはなかったですね。 —印象的だったことはあります? ヒッチハイクを始めたことです。2年生になる前の春休み、なんとなくインスタグラムを見ていたんです。そしたら友人の写真に変な人が写っていることを発見。 調べてみたらヒッチハイカーでした。春休みは暇をしていたので「これだ」と思い動きましたね。出発点はヒッチハイクで有名な東京の用賀にしました。 通りに向かって試しに「西へ」と紙を掲げたら、10分後に拾ってくれた時は嬉しかったです。 —10分でくるとは...! 気付けばその日のうちに神戸に到着していました。 最終的には福岡県の大宰府まで行きましたね。 「一歩動き出せば意外とうまくいく」と実感しましたし、車内では乗せてくれた人を楽しませようと話したので、良い意味でコミュニケーションの勉強になりました。 「何はともあれやってみる」という感覚は編入試験でも活かせたと思います —編入試験は難しかったですか? 大学の編入試験は特殊な形式で、特定の資格があれば試験を受験できるというものでした。 資格があったので編入試験にチャレンジすることにしました。 編入試験は試験前に事前に試験範囲として提示される二冊の教科書を丸暗記したら合格できます。 1週間だけですが、自転車で公園行ってハンドルの真ん中に教科書を挟み、1日10時間、文をひたすらぶつぶつ唱えるやり方をしました。 読んでいるだけだから飽きなかったですね。 それで合格できました。 モチベーションの一つにヒッチハイクがありました。 日本一周したくて早く進路を決めたかったのです。 —日本一周もされたんですね! 20才になる前にヒッチハイクで日本一周を決行しました。 朝起きた時に「(これは夢ではなくて)まだ続くのか」と思った瞬間は感慨深かったし、本当に本当に楽しかったですね。 そんな中、ある運転手さんから「海外でもヒッチハイクをやってみろ」と言われました。 それで海外でも同じことをやろうと思いました。 2週間ほどタイでもヒッチハイクをしましたね。すごく楽しかったです。 「何かやりたい」思いから映画サークル立ち上げへ。業界の地位も上げていきたい —ヒッチハイクにのめりこんだんですね。編入してからの大学生活はいかがでしたか? 大学は安定思考の方が多い印象でした。 編入ゆえのカリキュラム的に単位も多く取得しなければいけないので平日は授業の日々。休日はアルバイトと自動車教習で正直退屈で行き詰まりを感じましたね。 —確かに学生生活は何をすればいいか分からなくなると絶望するのは分かります...。 そうですね。 「何かやりたい」という思いは強かったのもあり、3年生の10月に自分が好きな映画に関するサークルを立ち上げました。 大学公認のサークルにしたかったので、部員を集めて顧問教員を見つけ、学校に活動内容をプレゼンして認めてもらいました。 —すごい行動力! 私は映画というメディアの持つ意義そのものに興味を持っています。 ですが、実際大学生が映画サークルで作る「学生映画」の既存の立ち位置には限界を感じていました。 サークルは表現活動として賞をもらえたら一区切り、みたいなルーティンを当たり前としています。 映画はもっと今後広がる産業であるから、その原動力となる学生映画の地位を向上させていく必要があると思いました。 —映画好きだけでなく、業界の地位も上げていこうと...。 はい。ですが、部員も集まり映画を撮ろうとした矢先にコロナで活動自粛で何もすることができなくなってしまいました。 その中で他の映画サークルは、どんな様子かとSNSで他大学の映画部の部員との交流を提案して繋がり始めました。そこで皆が共通して「何か作品を撮りたい」という気持ちを抱いていたことに気付いたのです。 —コロナで家にいることを強いられても活動自粛は強いられていない、と みんなが動き出すきっかけを僕は作っただけです。 全国の映画サークルを検索し「学生映画をオープンにし、皆でオムニバス形式の映画を撮らないか」と提案していきました。 これが8月に公開された長編映画『突然失礼致します!』の原型になります。 東日本から西日本まで連絡し、主要メンバーを集めて製作委員会として多くの人々を巻き込んでいきました。製作期間3ヶ月でそれぞれの大学で映画を制作してくださり、最終的に180本もの作品を集めることができました。 クラウドファンディングも成功したので、その映画をミニシアターで公開します。 より多くの人に学生の創作活動を観てもらいたいと思います。 —最後に今後の展望を教えてください! これからも「固定概念の破壊」を行っていきたいです。 普通じゃない人生がいいという思いも、普通に囚われる固定概念が強いと思ったことの裏返しです。映画産業を切り口にして、これを行っていくために制作した映画をきちんと広め、横に思いを繋げていきたいです。 またこの産業を営利的に支えられる職業につけられたら理想です。 ーコロナで大学生活がストップしてしまった人にとっても、励みになると思います! 熊谷さんの今後を応援しています。ありがとうございました!   ▼映画の本編映像はこちら (10月31日まで期間限定公開中!) https://youtu.be/tGx72Qv9-3Y ▼映画のホームページはこちら https://a.japaration.jp/ ▼熊谷さんのインスタグラムはこちら https://instagram.com/hialoki 取材者、執筆:三田理紗子(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

元ゼクシィ編集長が語るキャリアと子育てを両立する3つの思考法

「17時に帰る編集長」というコピーのもと、働く女性のロールモデルとして広く話題になった元ゼクシィ編集長、伊藤綾さん。 ゼクシィ編集長を退任された現在も、子育てをしながら3社で活躍する「パラレルママワ―カ―」というスタイルで、新しいロ―ルモデルとして大きな注目を集めています。 しかし現在に至るまでには、寿退社によるキャリアのリセット、専業主婦から契約社員への挑戦、育児休暇を経た職場復帰など、女性ならではのさまざまな苦労や葛藤があったといいます。 そんな伊藤さんに、女性の働き方、特に仕事と育児の両立について語っていただきました。 キャリアのスタートは、20代後半だった ―現在のお仕事などについて教えてください。 現在は小学校5年生の双子を子育てしながら、3社で パラレルワ―クを行なっています。リクル―ト、医療系企業の人事、教育、広報などを掛け持ちしています。 ―伊藤さんは専業主婦をされていた時期があったという、リクル―トの中ではかなり珍しいタイプの方です。 たしかに、すごく珍しかったと思います。リクル―トに入社する前は出版社に勤務していました。でも、24歳で結婚したことを機に退社。夫の転勤について行くために仕事を辞めて、専業主婦になったんです。 その後東京に戻ってから、リクル―トのゼクシィ編集部に契約社員で入りました。そういった経緯があるので、今のキャリアのスタ―トは27、8歳の頃なんですよね。 20代後半からのキャリアリスタ―トは、かなり大変だったのではないでしょうか? そうですね。やっぱり、毎日必死でした。スタ―トの遅れを取り戻すために、かなり忙しく働いていましたね。 ―しかし、苦労して築き上げたキャリアを、妊娠出産を機に「もういいかな」と手放そうとしたとか。 キャリアのスタ―トは遅かったのですが、30代になって子供を妊娠した時には編集長になっていました。編集長にまでなったし、キャリアはこれでもういいかな、って。 ―「キャリアはもういいかな」と考えた理由は何だったんですか? そんなに明確な意思を持っていたわけじゃないんです。「せっかく専業主婦から復帰したのにもったいないよ」という言葉もたくさんいただきましたが、単純に「私には子育てしながら仕事なんて無理! そんなス―パ―マンみたいにできない」と思ったんです。 かなり忙しく働いていたので、子育てをしながら出産前と同じ仕事をするイメ―ジがまったく持てなかったんですよね。 毎日残業が当たり前で、少なくとも保育園のお迎えに間に合うぐらいの時間に仕事が終わるなんて、当時はとてもイメ―ジできなかったです。 花嫁さんたちの「その後」を考えるようになった ―ご出産される際も、相当大変だったとおうかがいしています。 子供が生まれるときに、産褥性心筋症という心不全の病気になってしまったんです。ちょっと重い状態になっていて、CCUっていうICUみたいなところに入っていました。かなり体調が悪くて、電話にも出られないほどだったので、「自分はもう二度と仕事はできないだろうな」と感じました。 ―しかし、その後に再び職場復帰され、ゼクシィ編集長として再度ご活躍されています。二度目の職場復帰を思い立ったキッカケは何だったのでしょう? 出産後、育休生活に入ったんですが、やっぱり育児がすごく大変で。ある日、体調があまり良くない時のことです。子どもの夜泣きをあやしながら、朦朧とする意識の中で鏡か窓に映る疲れた自分の顔を見て、ハッとしたんですよ。今まで私がゼクシィ編集長として関わってきた花嫁さんたちって、今どうしてるんだろうなって。 もちろん育休に入る前も、いつも一生懸命、花嫁さんと花婿さんのことを考えていました。ゼクシィは結婚式について取り上げる媒体だったので、どういう結婚式なら喜んでもらえるだろうか、良い結婚式って何だろう、とか。でも、鏡で自分の顔を見た次の日から、結婚式の後のこと、「その後、花嫁さんや花婿さんは幸せにしているのかな?」ということが気になり始めたんです。 ―ご自身の育児経験をキッカケに、ゼクシィの捉え方が変わったんですね。 もちろんお子さんがいる人いない人など、結婚後のスタイルは様々です。でもどんなスタイルであっても、結婚式の後、花嫁さんや花婿さんがどうやって自分の人生を生きていくのか。そこまで考えた雑誌作りをしなければならないと、遅ればせながら気がついたんです。 そして同じように、今ここで赤ちゃんを抱いている私は、どういうふうに自分の生活をつくっていくのか、どんなふうに人の役に立てるのか。そんなことを真剣に考えているうちに、「もう一度やってみよう、現場に戻って育児との両立も挑戦しよう!」って思ったんです。 自分の時間を予約する意識を持とう ―そうして職場復帰されたわけですが、やはり最初は大変だったのではないでしょうか? 最初は3時退社の時短勤務からスタ―トしたんですが、それでもわたしには結構厳しかったですね。時短勤務って、もっとゆっくりできるかと思っていたんですが、全然そんなことはなかったです。 仕事が終わって家に帰っても当然、休まることはありません。トイレにゆっくり入りたい、朝までゆっくり寝てみたいと、何回思ったかわかりません。 ―時短勤務という、限られた時間で成果を出さなきゃいけないのはプレッシャ―だったと思います。短い時間のなかで成果を出すために、意識していたことや努力されていたことはありますか? 意識していたポイントが3つあります。1つは、いかに業務を効率化して、家事や働き方をコンパクトに変えていくかということです。 たとえば、朝の段取り。こっちの廊下でこの洗濯物出した帰りに、必ずこのブラシを取ってくるとか、そういうことを常に考えるようにしていました。 その際に参考にしていたのは、佐々木かをりさんから教わった「自分の時間を予約する」という考え方です。自分の時間は自分で確保する。そのために、まずは会議の時間を全部半分にするところからスタ―トしました。定例会議のように色々な人が入る会議は無理ですけど、私が主催の会議はできるかぎり時間を半分にするようにしたんです。 ―1時間やっていた会議を30分にするということですか。 はい、まずは原則会議時間を半分にしました。あと「予約する」という観点で言うと、色々なアポイントメントの40分前には自分の時間を予約するようにしていましたね。 ―なぜ40分なんですか? 約束の30分前に着くと、どうしてもバタバタしちゃうんですよね。でも40分あれば、たとえば隣のカフェとか公園に行っても、30分は時間を確保できるんですよ。30分あれば、本を読んだり、ぼ―っとしたり、プライベ―トなメッセージを返したりできる。そういう時間を確保できるようになるだけで、かなり働くのが楽になるんですよ。 時短に不可欠な「論理的思考」 ―非常に実践的なノウハウですね。他に意識されていたことには何があるのでしょう? 2つめのポイントは、効率化するだけではなく、仕事自体のスピードを上げること。仕事の「成果」を最短で最高のものにする道のりをいつも考えることです。そしてそのためには「論理的思考」をできるだけ高いレベルで習得すること。イシューは何か、その解は何かを順序立ててクリティカルに思考する癖をつけていくことが大切ではないかと思います。 出産するまでは、そういうことはあまり学ばなくてもよい、と思っていた節がありました。たとえば、何かの合意を取ったり、決めるたりする時には、感覚的に「こういうものなんです、今の花嫁さんは」とか、「これがヒットすると思います」みたいな説明をするのみ。今思えば本当にひどい(笑)。 でも限られた時間で働こうと思ったら、こういう勢いと熱意に任せた方法はなかなか使えないんですよね…。もちろんテクニック的な時短ノウハウも大事ですが、その根本に論理的思考が備わっていると、結果として生産性も高まる。これはトレ―ニングしなきゃいけないぞ、という思いが出てきて、大変遅ればせながら頑張りました。 ―具体的には何を頑張ったんですか。 研修を受けたり、勉強に行ったり、本も読みましたし、仕事の場で実践しては上司からフィードバックを受けたり。他の部署の、自分とは全く違う強みを持った方にメンターになってもらったり、あらゆることをしましたね。 ママは時間がないので、どうしても時短テクが気になります。でも本当に大事なのは、それだけじゃないよ、と今は思います。 出産や育児はハンディではない ―出産を経て、仕事に対する考え方がガラッと変わったんですね。 変わりましたね。でも一番大切なのは、3つめのポイント。「時間的はハンディを負った」という意識をとにかく捨て去るということです。  ―呪われた存在だって思わないことですね。 そうです。どうしても産休明けに働こうとすると、「昔の自分はもっと働けたのに、今は自由が利かない」とか、「これもやらなきゃ、あれもやらなきゃと」みたいに、色々とネガティブに考えてしまう。 でも、そういう考えにとらわれていると発想が豊かになりづらい。そうではなく、そうした状況にあることを1つの「機会」として捉えることが大切です。 ―具体的には、どのように考えれば良いのでしょうか? 私の場合は育児の経験を経て、結婚式だけでなく、花嫁さんたちの「その後」を考えるようになりました。結婚式当日が素敵なことも大事だけれど、「結婚式以降も素敵でいるためにはどのような式がよいのだろう」といったように、これまでとは違う視点で考えられるようになった。 もちろん、経験に関係なく多様な視点を持てることが大切だし、育児以外の経験もみんな、自分にとってきっと意味がありますよね。私も生活の変化によってそういう考えを得る機会を得たのだと考えました。 出産以前と全く同じ働き方はできないかもしれないけれども、代わりに得られるものも沢山ある。出産前から変わることは、決してハンディではないんです。 「自分の時間」が仕事にもプラスになる ―とはいえ、伊藤さんのような働き方は誰にでもできるものではない。そう感じてしまう人も多いのではないでしょうか? そう思われることがないように気をつけるようにしていましたね。当時は2010年ぐらい、今ほど多様な働き方に対する理解があるわけではありませんでした。 「(伊藤さんは)ス―パ―ウ―マンだからできる」というふうになってはいけない。色々な選択肢がある中で、こういう働き方もあっていいんだって思ってもらえるように意識していましたね。 ―具体的には、どのような取り組みをされていたのですか? 当時みんなとやっていたのは、「5時に帰る日」決めですね。ママ社員だけじゃなくて、編集部のあるチ―ムで、必ず5時に帰る日を作ることにしたんです。 「きっといいことあるから、強制はしないけどやってみるといいよ」ってアドバイスして。メンバ―が「じゃあ、ちょっとやってみます」と、予定をブロックして、5時に帰っていました。 ―おもしろいですね、「5時に帰る日」。 結果として、みんながそれぞれ自分の時間を作るようになったことで視野が広がり、色々なアイデアが出てくるようになりました。 すると、トライアルをしたチームだけではなくて、編集部全体の雰囲気が変わってくる。 当時ヒットした、しゃもじや婚姻届などを付録として付けるというアイデアは、こうやって色々な生活を見て、色々な人と話をする時間を設けるようになったからこそ生まれてきたアイデアなんだと思います。 それに、「5時に帰る日」を設けるようになってから、みんなでユーモアを大切にした雑談が増えたり、部内で優しくできるようになったようにも感じます。時間を使って色々な人に会うようになったことで、多様性を受け入れやすくなったのかもしれませんね。 ―自分の時間を持つことが、結果的に仕事にもプラスになる。 職種にもよりますけど、そう信じていました。時間が物を言う仕事もあるので一概には言えませんが、心持ちが変わることで成果が変わるということを実体験しましたね。 「働き方のバトン」をつなぐ ―そうしてゼクシィで活躍された伊藤さんですが、現在は一社だけの会社員として週5日働くという働き方をやめ、パラレルワ―クを実践されています。 40代になって、子どもが小学生になって大きくなって、私もすごく悩んだ。子育てしながら働くことに対する意識が、またちょっとずつ変わってきたんです。 ―よく、「子育ては3歳までが大変」と言われますけど、大変の質が変わっていくだけで、いくつになってもその都度の大変さがありますよね。小5は小5なりの大変さがある。お受験だとかなんとか。 そうですね。きっと中、高、大人になっても別の大変さが出てくるでしょうし、そのうち親の介護などの問題も出てきます。そうしたことを考えたときに、さらにもっと色々な選択肢があるといいよね、と思ったんです。 ここまでも頑張ってきたけど、もっと挑戦してみてみたいなって。さっきの3つめのポイントにつながりますけど、これも「機会」だと考えようと思いました。 ―ハンディじゃなくて機会。とてもいい言葉ですね。 今でこそ「働き方」の多様化が推し進められていますが、これって今までに多くの方が様々な挑戦をして、「働き方のバトン」を繋いでくれた結果だと思うんですよ。 特に女性の働き方に関しては、出産しても辞めない、管理職になるなどの挑戦を多くの方がしてくれた、本当にいろんなバトンが渡ってきた結果として、今がある。 なので私も、どんなバトンを渡せるかな、と考えるようにしています。実際にできているかわかりませんが、より良い形でバトンを渡せるようにしたいですね。 ―働き方のバトン、素晴らしいと思います。どんなバトンを渡したいかというイメ―ジはありますか? 私の今までの取り組みって、どちらかというと時間面のチャレンジだったんですよね。いかに時間を短縮して、育児と仕事を両立させるかという点からの挑戦だった。でもこれからは、もっと色々な仕事をするとか、時短以外の部分で選択肢をたくさん提案できるようになりたいなと考えています。 「早く帰る、早く帰らない」という選択以外の選択肢。すでに広がりつつありますが、これをもっと広げていきたい。私の「パラレルママワ―カー」というスタイルが、バトンとして誰かの役に立つと嬉しいなと考えながら働いています。 (取材:西村 創一朗、編集:大沼 楽)

中2から株式投資・高3でビジコン入賞!インプットの鬼・廣川 航のこれまで

様々な経歴を持つ方々が集まり、これまでのキャリアや将来の展望などを語り合うU-29 Career Lounge。第53回目のゲストはXTech株式会社・廣川航さんです。 大学在学中は学業と並行し、複数のITベンチャー企業や投資ファンド、監査法人子会社のベンチャー支援会社にてリサーチ業務を経験。 在学中の2018年8月からXTechに参画し、現在はM&Aの事業を立ち上げを行っています。 なんと、中学2年生にお年玉で”投資”をはじめ、高校3年生ではビジネスコンテストを通して”ベンチャーキャピタル”を知った、異色な経歴の持ち主です。 今回のインタビューでは、XTech入社までのストーリーから、情報収拾のコツまで幅広くお伺いしてきました。 中学2年の頃、今まで貯めてきたお年玉で投資をはじめる ーー早速よろしくお願いします。まずは、廣川さんが投資をはじめた理由からお聞きしたいです。 廣川:元々母と祖母が投資をしていて、投資は身近な存在でした。 ただ本格的に投資を知ったのは、小学生の時にたまたま見たテレビでした。2004年〜2006年でライブドアやフジテレビなどが連日報道されていて、その時に株式や会社、M&Aの存在を知ったんです。 母も祖母も株式投資をやっていたので、前から気にはなってはいて。大学まである付属校に入ったので、ある程度の大学に行けることはわかっていました。 せっかく時間と精神的なゆとりがあるので、「自分も株式投資をはじめたい」と中学2年生の時に母に相談したところ「やってみたら?」と背中を押してくれました。 ーーすごい、中学2年生……!元手はどうしたんですか? 廣川:お年玉などで貯めた数十万円を資金に、スタートしました。結果としては、ちょびっと増えたくらいです。 ただ、あの頃にチャレンジしてみてよかったです。「こんな世界があるんだ」と知れて勉強になりました。 高3のビジネスコンテストを機に、ベンチャーキャピタルに出会う 廣川:そして高校3年生の時、1つの転機が訪れました。友達に「ビジネスコンテストに出てみない?」と誘われたんです。 私は長らく、ITやベンチャー企業、起業についてなんとなく”うさんくささ”を感じていたのですが、「せっかくなら勉強になるかな」と思い、参加してみました。 その時に、みんなのお陰でベンチャーキャピタルの人から賞を頂いて。 高校の卒論で※1バイアウトファンドについて書いていたので”ベンチャーキャピタル”という存在は知っていましたが、実際にあったのは初めてでした。 ※1バイアウトファンド:複数の機関投資家や個人投資家から集めた資金で、事業会社、未公開会社あるいは業績不振の上場企業などに投資し、企業価値を高めたうえで、転売や株式を売却することで資金を回収し、投資家に利益配分することを目的としたファンドのこと。(引用:野村證券) ーーそこでベンチャーキャピタルを知ったんですね!先入観が変わった瞬間だ。 廣川:そうですね。それまで、本でしか触れたことのなかった投資ファンドについて、初めて生で触れられた瞬間でした。 また、どこか「胡散臭い」と思っていたIT企業や起業のイメージが、変わる瞬間でもありました。 大学時代は10社のインターンを経験。ファーストキャリアはXTechへ ーー今までの話を聞くと、「一般的な学生と違うな」と思ったんですが、大学生活はどう過ごしていましたか? 廣川:数々のインターンを経験しました。長期インターンで10社前後、短期インターンと業務委託を含めると、もっと経験しています。 ーーインターン10社はすごい……。参加してみてどうでした? 廣川:インターンを通して色んな経営者にお会いでき、刺激的でとても有意義でした。また、沢山の経営者とお話する中で、新たな発見がありました。 それまでバイアウトファンドに憧れがあり、どうやったらいけるかを考えてリサーチをしていました。すると、投資銀行やコンサル、MBA出身の方が多かったんです。とても衝撃的でしたね。 ーーそんな発見があったんですね。ここまで優秀だと、就活も順調だったのではないのでしょうか? 廣川:それが全然で、あまりうまくいきませんでした。 当時、投資銀行を受けていて面接中に”起業してた話”をしましたが、面接官に「生意気な奴」と思われていたと思います(笑)。 廣川:ただ就活をしていく中で、ぼんやりと「”事業”も”投資”もできる人を目指したい」と思うようになって。そこで縁あって、今の”XTech”に入社しました。内定後、インターンからはじまって、今に至ります。 ーーなるほど。入社して1年が経過していますが、インターンとは違いますか? 廣川:やはり学生の頃よりも、任されている量と責任の重さが違いますね。現在”M&A事業の立ち上げ”のミッションを頂いていて、暗中模索な中で奮闘しています。 ただ「社会人になったな……」という印象で、チャレンジングな毎日で刺激的です。早く一人前になれるよう、頑張りたいです。 アウトプットの鬼は、どのように情報収拾をしているのか ーー前からお聞きしたかったのですが、廣川さんはアウトプットの鬼じゃないですか。日頃どのようにインプットしているのか、情報収拾のコツをお聞きしたいです。 廣川:様々な業種やフェーズの会社でインターンとしてリサーチしていたので、インターン時に色んなソースに出会って。そこから情報収拾の習慣ができました。 日頃意識しているのは、様々な角度から調べたり考えることです。 例えば、「事業としてやるならどうやるか?」や「投資をするならどういうストーリーでどのくらい儲かりそうか?」、「コンサルをするならどういうコンサルをするか?」など、様々な観点でリサーチをして、アウトプットしてます。 ーーなるほど、多角的に見るということですね。 廣川:そうですね。また、沢山の情報に触れていると”各媒体の特性”が分かってきます。「この情報ならここで調べようかな」といったようにです。 とは言え、沢山の媒体でこまめにチェックしている訳ではなく、僕がいつも読むのは、日経・NewsPicks・Twitterです。毎日情報に触れながら、気になった内容をさらに深掘りします。 ーーそれは力が付きますね!ではさらにお聞きしたいのが、多くの人が基盤となる知識が欠如していると思っていて。廣川さんはどのようにして情報の基礎を取り入れましたか? 廣川:情報の基礎は、中学2年生からやっていた株式投資をきっかけに、業界地図などを読むようになったことで自然と基盤ができました。 その上で日々のニュースをインプットしていき、アウトプットをする。わからないことがあればその都度調べながら、情報を蓄積しています。その繰り返しで、基盤知識が身に付きました。 現在は、気になった企業の決算が発表されたりするとスプレッドシートにまとめています。その上で、数値に何か変化があるとプレスリリースなどをチェックして、スプレットシートにてデータをまとめています。 また、所感などがあれば、Twitterにて備忘録としてまとめていますね。シンプルに、このサイクルをずっと繰り返して感じです。 30代には”バイアウトファンド”の道に行きたい ーーでは最後に、今後の展望をお聞きしたいです。 廣川:最終的には、”バイアウトファンド”の道に行きつつ、友達と一緒に事業をやりたいですね。 これまで、色んな方とお話する機会がありました。そこで感じたのは、事業を作られている方と話すのと同じくらい、バイアウトファンドの方々と話している時が楽しい気がします。 いつか、バイアウトファンドの世界にいっても結果が出せるよう、20代のうちにXTechで経験を積んで結果を出していきたいです。 そのために、地道に頑張っていこうと思います。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗、執筆:ヌイ、撮影:山崎貴大、デザイン:矢野拓実

「monopoに出会ったから日本にいる」ー 若きクリエイターが語るmonopoというコミュニティと夢

monopoについて 東京を拠点のグローバルクリエーティブエージェンシーとして、国内外の様々なブランドにサービスを展開。"A BRAND OF COLLECTIVE CREATIVITY”をビジョンに掲げ、ブランディング・広告・PRを中心に様々な領域において、個人が持つアイデアや創造性を共に発揮できるようなコミュニティ作りを目指している。 2019年、ロンドンに子会社monopo London.Ltdを設立。自社プロジェクト『poweredby.tokyo』では、東京の知られざる魅力を世界に発信中。 Clara Blanc -プロジェクトマネージャー 1994年、フランス生まれ。 大学在学中より、モデル・フォトグラファーとして活動しながら、ラグジュアリーブランドにて広告・ブランディングのプロジェクトマネージメントに従事。自身が運営するブログ「Parisienne in Tokyo」を通して、フランス人目線で日本カルチャーを発信している。2019年、monopoに入社。ファッション・ライフスタイルブランドのブランド戦略・広告企画の仕事を行なっている。 Sumie Newell -デザイナー / イラストレーター 1997年、日本生まれ。 日本とアメリカのハーフとして生まれ、幼少期から日米両方で生活する。 高校卒業後、カリフォルニアの大学を休学しながら18か国を周るバックパックを経験。 世界を渡り歩くなかで、様々なデザインインターンシップを通しスキルを磨き、日本に帰国。 2019年、monopoに入社。持ち前のアートスキルと多国籍な感覚を強みとして様々なブランドのアートディレクション・広告制作などに従事。 「tokyo creative agency」と検索すれば、最上位に出てくるのは、優秀なクリエイターが集まる「monopo」という日本企業。2019年10月、そこに入社された二人の20代女性がいます。 日本とアメリカで暮らした経験から、多様な価値観を強みとするデザイナーのSumieさん。そして、フランス人でありながら日本が大好きで、ブランディングやディレクションの経験もあるClaraさん。 今回はそんなU-29世代のお二人にお話を伺いました。様々な選択肢がある中で、なぜmonopoという会社を選んだのか。また、それまでにどんな人生を歩み、これからどんな未来を描いているのか。 お二人が語ってくれたのは、monopoという企業の素晴らしいカルチャーと、世界を見据えたワクワクするような熱い夢でした。   ここでなら夢が叶う。入社に迷いはなかった 西村創一朗(以下、西村):お二人がmonopoに入社されるまでの経歴を教えてください。まずは、Sumieさんからお願いします。 Sumie:私は日本生まれで、今年22歳になります。父がアメリカ人なので、10歳からアメリカに引っ越し、4年ほど住んでいました。高校は日本で卒業したものの、大学に行きたくなくて世界中を旅して回ることに。そこで自分の世界の狭さに気付かされました。 西村:その旅では何ヶ国くらい回ったんですか? Sumie:18ヶ国くらいを、バックパック一つで回りました。ルーマニアから始まって最後はタイで終わり、再び日本に帰ってきたんです。帰国後、インターンができる企業を探していて、monopoに出会いました。 西村:なるほど。では次は、Claraさんの経歴を教えてください。 Clara:フランス出身の25歳です。日本に滞在するのは今回が3回目。最初は2015年に交換留学で1年間滞在し、2017年には日本のファッションブランドでインターンをしていました。今回は1ヶ月前から日本に滞在していて、monopoに入社しました。 西村:お二人がmonopoを知るキッカケは何だったんでしょう? Sumie:東京でデザイン関係のインターンシップができる企業を探していたところ、monopoが運営しているpoweredby.tokyoにすっかり魅せられてしまって。「こういうものをインハウスプロジェクトとしてやっているエージェンシーって素敵だな」と思ったんです。実は、その時はまだmonopoがどういう企業なのかもよく知らないまま応募しました。 西村:poweredby.tokyoはもともと知っていたんですか? Sumie:いえ、知りませんでした。インターネットで「東京 クリエイティブエージェンシー」と検索して、monopoに辿り着いたんです。 西村:そうだったんですね。Claraさんはどうでした? Clara:私の場合は、友人とmonopo nightというイベントに参加したのがキッカケです。そこでmonopoの雰囲気を知って「すごい会社だなぁ」と。それからmonopoが今までに作った作品などを調べました。国際的な社風でありつつも日本の心を持っている企業だなと感じ、すごく私に合っていると思ったんです。 大学を卒業したら絶対日本に戻りたいと思っていましたし、私は広告を作るようなクリエイティブな仕事をしたかったので、monopoなら私の夢も叶うな、と。 西村:なるほど。Sumieさんは、いろんな選択肢がある中で偶然monopoに出会い、poweredby.tokyoに魅力を感じて……とのことでしたが、他にもたくさん選択肢がある中で悩むことはなかったんでしょうか? Sumie:私はあまり悩みませんでした。世界を旅していた際に思ったのは、多様性のある環境で働きたいということ。そしてmonopoの面接でみなさんと一緒にランチを食べたとき、いろんな国のいろんな人種の方々が集まっていて、みなさん自分の好きなことに没頭しているということが感じられたんです。そういう企業がmonopoしかなかったので、迷いはなかったですね。いつもバックパッカーのような素の自分でいられる職場を探そうと思っていたので。 西村:毎日がバックパッカー。 Sumie:そうです。実際、刺激はめちゃめちゃありますね。学ぶことも多いですし、楽しいです。父がアメリカ人であることや、アメリカで生活した経験もあったので、このような多国籍な企業を見つけられてすごく嬉しかった。 西村:ちなみにmonopoにはどんな国籍の方がいらっしゃるんですか? Sumie:フランス人が多いですね。あとは、南アフリカやカナダ、アメリカ、ドイツの人もいます。日本人が半分くらいいるのですが、グローバルな人が半数もいる企業って、日本ではなかなかないですよね。 西村:それはmonopoのいいところだと思いますね。ですが、アメリカに暮らしていた経験をお持ちなのに、日本で働こうと思った理由は何でしょうか? Sumie:monopoに出会えたからですね。実は、昔から日本に対して「閉ざされた国」というイメージを持っていました。だからこそ世界を旅しようと思ったわけですし。もしmonopoに出会っていなかったら、海外に引っ越して就職していたと思います(笑)こういう環境の会社ってあまりないので、貴重です。   monopoは「会社というよりコミュニティ」 西村:働く環境としてのmonopoはどうですか? Sumie:最高です。やっぱりクリエイティブなお仕事なので、残業もあるし忙しいんですが、忙しさも含めてやりがいがあるなと感じています。とはいえ、仕事中の9割くらいは楽しいと感じています(笑) 西村:いいですね。Claraさんはどうですか? Clara:私も最高です。フランスから見ると、日本の企業は休みが少ないなどけっこうハードな環境なんですが、monopoはそんなフランスの企業より優しいですね。日本でこういう会社があるなんて、信じられないくらい。 例えばフレックス制度があるので、みんながそれぞれ自分のリズムに合わせて仕事ができていいなと感じます。また、他の会社だと担当させてもらえる業務も一つに限られると思うのですが、monopoではやりたい仕事をいろいろとやらせてもらえるのもいいところです。 Sumie:他にも、業務時間内に日本人が英語の授業を受けることができたり、逆に英語しか喋れない人は日本語の授業を受けることができたりするんです。それも、会社の経費で。 西村:へえ、それはすごい。 Clara:monopoでは、「一緒に仕事をする」というより、「一緒にmonopo人(じん)を育てる」という雰囲気があって。仕事以外の自分のプロジェクトも周囲の人がサポートしてくれたり、すごくいい環境ですね。会社というよりはコミュニティといった感じです。 西村:Sumieさんもそのように感じますか? Sumie:はい。いい意味で厳しくないというか。自分で自分のペースを決めることができるんです。だからこそ自分で育つことができる、そういうコミュニティだと思います。 西村:どんな時にコミュニティだと感じていますか? Sumie:まず、みんな仲がいい!めちゃめちゃ話しやすいし、先輩後輩もあまり関係なく学べる感じです。ギクシャクせず、気軽に話しかけられる感じなのがとても大きい。日本の会社だとそういう雰囲気ってあまりないと思うんです。だからこそコミュニティだと感じます。 Clara:例えば周りの人の手が空いていないときでも、私が自分のプロジェクトで悩むポイントがあったら、その部分だけ手伝ってもらえたり、逆に他の人の困りごとがあれば私もそのお手伝いをする。コミュニティの中でのsolidarity(=結束、連携)がすごく強いんですよね。 Sumie:チームメイトって感じですね。 Clara:普段はみんな自分のペースで仕事をしているんですが、一緒に話せる時間もちゃんと決めてあります。合宿もあるんですよ。 西村:合宿があるんですね!どんな感じでしたか? Clara:3日間のうち一泊がキャンプだったんですが、ケータリングがあったりバーテンダーがいたりして驚きました(笑)私は入社前に参加させてもらったんですが、この合宿で入社前に社員の方々とすごく仲良くなれたので良かったです。monopoって最高だなと思いました。 西村:それは楽しそう! Clara:monopoの中のコミュニティが魅力的なだけでなく、monopoの周りのコミュニティがすごく広いのもいいところだと感じます。 Sumie:月に一度開催されているmonopo nightも、世界中のクリエイティブコミュニティをローカライズする、東京に集める、という意図があります。 Clara:monopoは日本の会社ですし、日本のことをすごく理解していて日本文化のいいところもたくさん取り入れられているんですが、海外に対する意識もちゃんとあって。日本と海外との言葉の壁を越えて繋ぐ「架け橋」としての役割を担っていると思います。   自分のやりたい仕事が入社1ヶ月で実現 西村:ここまでmonopoの環境やカルチャーについてお伺いしたんですが、お二人が今どんなお仕事をされているのか、お聞きしたいです。Sumieさんはデザイナーをされていると思うのですが。 Sumie:最近は、ある企業の新製品のキービジュアルを作ったり、ソーシャルコンテンツを作ったりしています。私はイラストレーターでもあるので、企画の絵コンテを描いて提案することもあります。 西村:素晴らしいですね。Claraさんはどういった仕事をされているんですか? Clara:基本的にはプロジェクトマネージャーなんですが、今はファッション企業のクリスマスのキャンペーンを作っています。 西村:作る、というのは? Clara:コンペのためのピッチコンセプトを考えて発表し、実際にそのコンセプトを実現させるところまでやっています。そのキャンペーンのコンペは、monopoのメンバーとチームを組んで勝つことができたので、これからカメラマンさんとも協力して撮影を進めていく予定です。 私はファッションやコスメに関する広告の仕事をやりたいとずっと思っていたので、入社して一ヶ月で、こうして自分がやりたい仕事を実現させることができて幸せです。 西村:普通、入社して一ヶ月って辛いことが多かったり仕事が大変だったり、また逆に研修ばかりで仕事を任せてもらえないということもあると思うんですけど、お二人ともすぐ戦力になっていて、しかも仕事を楽しまれていて、すごく素敵だなと感じます。 Clara:こういう仕事をしたくてmonopoを選んだわけですし、仕事にはしっかり責任を持ちたいと思っています!   「チャレンジ」と「成長」ー 20代の二人が抱く夢 西村:monopoとの出会いのお話の中で「私の夢」という言葉が出てきましたが、クララさんの夢はどういったものなんでしょう? Clara:私にとっては、チャレンジしているときが人生でいちばん楽しいんです。アーティストさんと一緒に働くようなお仕事も、インスピレーションがすごく湧くしモチベーションも高いんですけど、アートのためだけだと、私にとってのチャレンジがあまりないように感じてしまって。それよりは、商品やそのブランドをうまく見せるために、いかにアーティストさんの才能を上手く使うかという戦略を考えるほうが楽しいです。 だから、今はクリエイティブディレクターを目指しています。 西村:なるほど、それで今はプロジェクトマネージャーをされているんですね。Sumieさんはいかがですか? Sumie:私はそんなに野心が強いほうではないんですが、第一に考えているのは「幸せになりたい」ということなんです。 西村:それは大切なことですね。 Sumie:そして、好きな人たちと一緒に自分の好きなことをやり続けて、その中で成長していくということが私にとっての幸せだと思っているので、そういう環境を見つけることが私の夢ですね。   monopoと一緒に世界中で活躍するクリエイターへ 西村:最後に、今後なにかチャレンジしたいことがあれば教えてください。 Clara:monopoと一緒に大きいプロジェクトをしたいです。ルイ・ヴィトンなどの仕事をゲットして、日本のマーケットだけでなく、世界中の広告を作りたい。また、趣味で日本についてのブログを書いているので、そのブログを広めて海外の人たちに日本をもっと知ってほしいなと思っています。 西村:素敵ですね。Sumieさんはどうですか? Sumie:私は、monopoのセールスポイントをひとつ増やしたいと思っています。今のmonopoはデジタルエージェンシー、クリエイティブエージェンシーとしてアピールしていますが、私自身イラストが好きなこともあって、イラストもセールスポイントにしたいんです。 今はポートフォリオにもイラスト系の作品が全くないので、そこから改造していって、イラストの仕事も発注してもらえるような状態に変えていきたいですね。 西村:素晴らしい。Sumieさん自身がmonopoのセールスポイントになる、というわけですね。 Sumie:そうですね。私もまだあまりビジネスのことをわかっていない部分もありますけど、そこはmonopoで学べますし、今は自分をどんどん世界中に押し出していきたいと思っています。個人としても、monopoの一員としても。 monopoにアクセス (取材、写真:西村創一朗、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

この瞬間を生きる。75か国を旅した細見渉が贈る主体的な人生の選び方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第146回目のゲストは、旅好きITコンサルタント 細見渉(ほそみ わたる)さんです。 「No Day, But Today,(未来でも、過去でもなく、あるのは今、この瞬間なんだ。)」 ブロードウェイミュージカル映画「RENT」の劇中歌に強く影響を受けた細見さんは、学生時代に75カ国を一人旅した冒険家。大学入学をきっかけに主体的に人生を選択し、ドイツ留学、インドネシアで日本語教師、世界一人旅、世界青年の船事業を経て、「ワクワク」を見つける方法を確立しました。二年間の海外滞在を経験し、旅でさまざまな現場を目撃した細見さんに、世界に飛び出す勇気を取材しました。   幼いときから海外とのつながりをもつ ー自己紹介をお願いします。 細見渉です。現在社会人2年目で、外資系のIT企業でシステム導入のコンサルタントとして働いてます。具体的には、製造業のお客さんが使用するシステムの設計書を書いたり、プロジェクトマネジメントの支援をしたりすることが業務です。旅が好きで、いままで75カ国を旅してきました。 ー学生時代には75カ国も訪れたそうですね。記念すべき一カ国目はどこだったのでしょうか。 小学校のころのシンガポールへの家族旅行が、はじめての海外渡航でした。ナイトサファリが印象的で、暗闇の動物園が心底怖かったことを覚えていますが、小さかったのでほとんど記憶に残っていません。 ーその後、海外へ対する関心が増していったのでしょうか。 中学生のときにはイギリスへ行きましたが、海外への関心が高く、積極的に行きたがったわけではありませんでした。両親がチケットをとっていて、僕としては部活を優先したいなっていうのが本音だったくらい(笑)エマ・ワトソンみたいな容姿端麗な人が普通に街中を歩いていたり、当たり前ですけど、みんな英語を淀みなく流暢に話していたり…国の違いをまざまざと実感しました。当時の僕は、「ハンバーガー、フィッシュアンドチップス」などの食事の名前しか話せず(笑) 「宿題はいいから、ミュージカル見てこい」。RENTはモチベーションのスイッチを切り替えた ー国際関係の学部への進学を目指していた浪人生活の中でも、海外への関心は育まれていたのでしょうか。 大学の進路選択ではたまたまテレビでやってた神戸特集をみてこの街に住んでみたいと思い、神戸大学を第一志望に掲げていました。しかし、本格的に受験勉強をはじめたのが高校3年生の後半で…残念ながら不合格という結果に。 あるとき、予備校の講師に「お前ら、宿題はいいから、ミュージカルでも見てこい」と言われたんです。「浪人生なのに勉強しなくていいの?」と内心驚きつつ、息抜きとして鑑賞しました。そのときに観賞したのが、『RENT』と呼ばれるブロードウェイ発祥のミュージカルです。 若者がニューヨークで生活を送りながら、それぞれにさまざまな問題を抱えながらも前を向いて生きる様子を描いています。リアルなアメリカ文化を目にすることができて、英語を勉強したいという意欲は高まりました。 劇中で特に印象深かったのが、「No Day, But Today」というフレーズです。これは「彼らが生きているのは、過去でも未来でもなく今なんだ」という意味が込められた言葉。当時、僕は大学受験に失敗し、浪人生活をなんとなく過ごしていました。しかし、この言葉が受験に真剣に向き合うきっかけを与えてくれたんです。それを機にミュージカルというものの素晴らしさに気づき、英語や海外文化についてもっと学習したいと思うようになりました。 ー無事に東京外国語大学に合格し、それ以降たくさんの国へ渡航されていますが、最初のきっかけはなんだったのでしょうか。 上京した僕は学生寮に住んでいて、ルームメイトがインドネシア出身だったんです。僕に現地での暮らしをいろいろと話してくれました。僕が「インドネシアいいな、行きたい」と口に出したら、その日を境に彼が「いつくるの?」「ホテルとったの?」と質問をしてくるようになって(笑)それに答えていたら、知らないうちに旅行計画がどんどん決まっていたんです。そして、彼が帰省するタイミングで一緒にインドネシアに渡航しました。 ーその後、長期留学の経験も積まれていますね。 もともとはイギリスに留学したいと思っていましたが、私費留学では学費が高く、交換留学で行けるほど校内の成績がよくなかったため、断念。文部科学省の「トビタテ!留学JAPAN」という政府奨学金プログラムを利用して、ドイツに1年間留学するという道を選択しました。 ドイツに留学に行くので公用語も理解できた方が、現地での学びをより多く吸収できると思い、日本でドイツ語を学習していました。そしたら思いのほか勉強が楽しくなり、英語でも可能だった大学出願を、ドイツ語で書類提出し、現地の授業もドイツ語で受講しました。 ードイツに滞在している間も旅をされていたのでしょうか。 ドイツはヨーロッパの各国に足を運ぶのが簡単なので、留学中にヨーロッパ各国をほとんどめぐりました。イタリアなんて、公共交通機関を利用して片道3,000円で移動できちゃうんです。モロッコやトルコなど、合計で30〜40カ国は行きました。 現地では友人に案内してもらい、そこにしかない魅力を発見することを楽しみにしていたんです。観光地に加えて、地元民が通う場所に多く訪れていました。人との交流も旅の醍醐味でしたね。宿泊するときには、ホテルやアパートを借りるのではなく、ゲストハウスを選択し、そこでの出会いも旅の思い出となりました。 ー地元の人と近い体験や、人との出会い…さらに旅でこそ得られた経験はありますか。 大自然を体感したことですね。世界周遊の旅で、チリの砂漠で満天の星空を眺めたり、アイスランドで壮大な氷河に向かい合ったりしました。大自然に触れると、自分の五感すべてで目の前のことをでまるごと体感する感覚があり、身震いするくらいのワクワクを憶えました。 ー世界青年の船事業も、価値観の形成に強く影響を受けたそうですね。 10か国240人の青年と1ヶ月船上生活を過ごす中で様々な価値観や文化に触れて、色々なことを議論し、社会全体そして自分自身について深く考える機会を得られました。特に印象強かったのは、音楽が国境を超える実感を得たことです。船上では毎晩のようにパーティーがありました。音楽が鳴り始めると、みんなが歌ったり踊ったりするんですよね。言葉という共通言語を共有していなくとも、音楽や踊りで同じ気持ちを共有している感覚が最高に楽しかったですね。 乳搾りロボットや配車サービス、移動中の夜行バスが就職の選択軸を形成 ーITコンサルタントを選択された理由として、ITへの興味や考えることが好きだとありましたが、何がきっかけだったのでしょうか。 ドイツ留学中、僕はHofgut Oberfeldという牧場で1ヶ月の間、ファームステイをしていました。ドイツでのファームステイ以外でも、エストニアで2週間・アイスランドで2週間農場で働いたり、ドイツやオランダのいくつかの農場を訪問しましたが、そこで、、ロボットが乳牛の乳を自動で絞っているのを目の当たりにしました。「農業にも、ITが導入されてるんだ!」と衝撃を受けました。 大学4年生のときには、国際交流基金アジアセンターの日本語パートナーズ派遣事業に6ヶ月間参加し、インドネシアで日本語教師のアシスタントとして働いていたときには、ITが交通インフラを劇的に変える瞬間を目撃したんです。僕が滞在をはじめたばかりのときには、運賃が法外な値段のタクシーしか移動手段がありませんでした。しかし、その半年後、ITを利用した配車サービスが登場していました。運営の基準を満たした運転手のみ登録が許されているので、利用者は安心して乗車できます。さらに、既存タクシーよりも低価格で運賃を設定する運転手が多いので、利用者は既存タクシーよりも低価格でタクシーを利用することができるようになったんです。短期間で便利なサービスが一気にまちに普及し、人びとの生活を変える。IT分野の可能性を強く感じました。 また、旅は、僕に考える時間を多く与えてくれるものでもありました。夜行バスに乗車しているときには、その日めぐった場所を思い返しその国の時代背景や社会情勢について思いを巡らせていました。カンボジアの虐殺現場を訪れたときには、「なぜ虐殺が起きてしまったのか」と考え、3つの宗教の聖地であるエルサレムを訪れたときには、「もし3つの宗教が聖地として認定すれば、周辺諸国にどのような影響が及ぶのだろうか」と。そんな時間を過ごし、目の前の問題や課題に対して考えることが好きなのかもしれないと気付きました。そして、将来は、思考力を使う仕事をしたいと思ったんです。 ワクワクを発見するコツとは ー周りの方の助言を受け入れて一歩踏み出し、そこから世界が広がっているような印象を受けました。周囲に対しての柔軟性が高いのはどうしてですか。 いろいろなことに対しての好奇心が強く、新しいものを敏感に認知するからだと思います。通販番組を見かけると、つい買いたい衝動に駆られますよね。その衝動が、他の人よりも強い感覚があるんです。それは、ワクワクを主体的に選択する考えを根本に持っているからだと思います。自分の考えが人生の選択の軸にあるからこそ、他人の意見にも柔軟に耳を傾けられると思います。 ーワクワクを発見するコツはありますか。 自分の周辺をもっと注意深く見渡してみてください。FacebookやInstagramで友人が食事の写真を投稿していて、それを目にしたとき、なにに目がいきますか。店内の内装、一緒に写っている人、料理…どれに関心が引かれるかが、ワクワクの合図です。料理にワクワクしたのなら、提供するレストランの名前や料理の材料などを調べたり、自分でレストランに行って味を確かめたり、行動に移してみましょう。 旅も、ワクワクに触れるための一つの選択肢だと思います。旅は他者の日常を経験することができるんです。その土地で出会う人、建物、乗り物は地元の人にとっては日常。しかし、僕にとっては非日常です。非日常を体験し、自分の日常を振りかえると、新しい発見や価値に気づきます。そういうことにワクワクするんです。 ーいままでたくさんの挑戦を重ねてきた細見さん。今後の展望はありますか。 誰かの人生や生き方を後押しできたらいいなと思っています。人にきっかけを与えてもらい進んできた人生だったので、自分自身も誰かにきっかけを提供できたらと考えると、ワクワクしますね。そのためにはまず、僕自身がワクワクする生活を営むことが大切なので、日常生活を丁寧に送ることも心がけたいですね。 また、2022年から世界をめぐる旅を計画しています!ホームステイをして世界各国を転々としながら、それぞれの国の家族や生活のあり方を観察したいと考えています。そこで出会った価値観を、日本に暮らす人たちに発信する活動がしたいです。 ーとても楽しみな未来ですね!本日はありがとうございました。 取材者:山崎貴大(Twitter) 編集者:野里のどか(ブログ/Twitter) 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

静岡のアナウンサーといったら「大久保結奈」になる。クリエイティブアナウンサーとして独立するまで。

静岡唯一のクリエイティブアナウンサーとして活動される大久保結奈さんに今回はお話をお伺いしました。大学卒業後、浜松ケーブルテレビで3年間番組制作に携わりカメラマンやディレクター、キャスターを経験。その後ミス浜松でのグランプリ受賞が後押しとなり、独立。 幼少期の頃からアナウンサーを目指していたという彼女がクリエイティブアナウンサーとなり、夢を実現するまでの道のりをお話いただきました。   小さい頃からあったアナウンサーへの憧れ ーまずは簡単な自己紹介をお願いします。 静岡県浜松市出身で静岡唯一のクリエイティブアナウンサーとして活動しています。南山大学外国語学部で英語・インドネシア語・中国語を勉強し、卒業後は浜松ケーブルテレビで3年働いた後、フリーランスになりました。 ー小さい頃からアナウンサーを目指されていたんですか? 元々モーニング娘。に憧れていて、人前に立つ仕事につきたいと思っていたんです。なので初めはアイドルになりたかったんですが、小学6年生の頃にアイドルは無理かもと思い出して…そこからアナウンサーになりたいと思うようになりました。当時よく見ていた「行列のできる法律相談所」の馬場紀子アナウンサーみたいになりたいと思っていましたね。 ーそうだったんですね。中高時代はどのように過ごしていたんですか? 浜松市の難関中学に進学し、勉強も部活も友人関係も順調で悩みがなかったです。人前に立つのが好きだったので学級委員をしたり、生徒会に入ったり、文化祭の実行委員をしたりとかなりアクティブに活動していました。 ーそして大学進学のタイミングで名古屋に行かれたんですね。なぜ南山大学だったんでしょうか? 関西の外国語大学が第一志望だったのですが合格することができず、たまたま調べていて見つけた南山大学に進学しました。英語が好きだったんですが、英語は独学でも続けられそうだったので他のアジア言語を勉強できる大学を調べていて見つけたのが南山大学でした。 キャバクラでのバイト経験も今に生きている ー大学生活はどのように過ごされていたんですか。 高校生の時から英語のスピーチコンテストに出場していたので、大学でもESSサークルに入りました。サークルの中もいくつかのセクションに分かれているんですが、スピーチセクションを自分で新たに作ってスピーチコンテストに出ていました。あとはバイトをしたり、ですかね。 ー何のバイトをされていたんですか? キャバクラで働いていました(笑)大学に入ってタバコがかっこいいと思って吸い始めたりする人などがいると思うんですが、私にとってはかっこいいと思ったのがキャバクラだったんです。友達から体験入店に誘われたのをきっかけに週3くらいでバイトしていました。 ーキャバクラで働いていたとはびっくりです!働いてみてどうでしたか? 世間的にはまだまだ偏見の多い職業かと思いますが、学ぶことは多かったのでやってよかったです。どうやったらまたお店に来てくださるかを考えながら営業メールを送り、返事が返ってこなくてもめげずに営業メールを送れるようになりました。 また大学ではあまり社会人の人に話す機会がありませんが、お店では社長さん等いろんな方が来られるのでコミュニケーション能力も身につき、誰にも物怖じせずに話せるようになったのは今の仕事にも活かされています。 ーその間もアナウンサーになりたいという夢はずっと変わっていなかったんですか? テレビ業界志望というのは変わっていませんでしたが、アナウンサーではなく、報道記者を目指していました。1つはアナウンサーになりたいなんておこがましくて無理だと思ったからです。アナウンサーには綺麗で知的な方が多いのでこの夢は現実的ではないかなと。 もう1つは中学3年生の時にタイに訪れたのがきっかけです。バンコクから6時間くらい離れた街に訪れたんですが、日本と違って道が整備されておらず、お湯も出ない地域でした。それを見て、私にとっては日本が当たり前になっていたけれど、現地の人にはこれが当たり前だということを気づきました。世界にはいろんな環境があり、いろんな暮らし方があり、いろんな人がいる。テレビを通してそんな世界の様子を伝えることができたらと思い、報道記者を目指すようになりました。 ーなるほど。報道記者志望での就職活動はいかがでしたか? 就活は全然うまくいかなかったです。地元が好きで離れたくないという気持ちがあったので地元企業を中心に就職活動をしていました。しかしやはりテレビ業界は狭き門で、ことごとく落ちていました。浜松ケーブルテレビは視聴者ではなかったのですが、あることは知っていたので受けたところ内定をいただき、入社を決めました。 ミス浜松グランプリ受賞が挑戦の後押しに ー浜松ケーブルテレビに入社しどのような仕事をされていたんですか? 番組をゼロから作り上げる仕事をしていました。企画構成を考え、取材に行ってカメラを回し、動画を編集して原稿を考え、ナレーションを吹き込むというところまで全て担当しました。全部の工程を経験できたのは勉強になりました。またニュース番組の記者もさせていただいたのでアナウンサー・報道記者の夢は少し違う形ではありましたが叶いました。 ーその中で独立を考え始めたのは何か理由があったのですか? 元々民間放送を志望していたのもあり、思い描いていた仕事との乖離がありました。ケーブルテレビで働いている人の中には、テレビ局を志望していた訳ではない方が多くいました。私は制作部に配属されましたが、コールセンターに配属されていた可能性ももちろんありました。いろんな部署がある中で、働いている方のテレビに対する思い入れは様々だったんです。 またこれはケーブルテレビの特性にはなりますが、家に帰ってテレビをつけた時に皆さんが見るのは民間放送の番組です。ケーブルテレビは加入者にしか見ていただけませんし、加入者の方もわざわざチャンネルをケーブルテレビまで回してくれるとは限りません。そのためケーブルテレビをみていただいている人は限られています。グルメ番組のディレクターを担当した際に視聴者プレゼント5名の枠に対して、応募がたったの2名だったことがありました。私は常に民間放送に負けない番組を作ることを目標としていましたが、こんなに見てくださっている人が少ないということを知りショックをうけました。 ー確かに民間放送を普段から自然と見ていますね。それが辞めるきっかけに? ちょうど在職中に地元のミス浜松に出場したのも、辞める後押しになりました。ケーブルテレビで働いてみて、浜松市内の取材をたくさんさせていただいた中で浜松の良いところたくさん知ることができました。それを会社外でも発信したいと思い応募しました。ミスコンというと水着審査やウォーキング審査のイメージが強いかと思いますが、ミス浜松は少し違い、浜松に関する質疑応答が特に重視されます。浜松愛は絶対に負けないと思い出場したところ、グランプリをいただくことができました。 ーグランプリ受賞すごいですね!それも後押しとなり、退職を決意されたんですね。 ミス浜松がきっかけで、自分がやりたいと思ったことはやろうという挑戦心が芽生えました。また、ミス浜松で得た人脈や繋がりも大事にしたいと思い、良い節目なので退職を決意しました。 クリエイティブアナウンサーとして独立 ー独立してみていかがでしたか? フリーランスは保証がないということもあり、独立当初は不安でしたが、独立してよかったなと今は思っています。独立直後はミス浜松関連で出会った方々にイベント等あったらお声掛けくださいと営業メールを送ったり、企業の新年会に参加させていただき手作りの名刺を渡して営業したりしてお仕事をいただいていました。1年目は会う人全員に名刺を渡して売り込んでいましたね。1年目は編集のバイトをしたり、カメラアシスタントをしたりとアナウンサー業ではない仕事もしていました。 ーフリーランスになり、もう2年とのことですが今のお仕事はどんな感じですか? イベントの司会業やラジオのMCを中心に動画制作やPRムービーの作成、商品紹介のお仕事などもさせていただいています。アナウンサー業だけではなく、クリエイティブ業もさせていただいているので、クリエイティブアナウンサーです! ークリエイティブ業もすることになったのは何かきっかけがあったんですか? 独立してすぐに、浜松市のゆるキャラ「うなも」との出会いがありました。「うなものアテンドのお姉さん」的ポジションをやらせていただくことになり、その流れで「うなものYouTubeチャンネルがあったらいいよね」となったんです。そこから遊び半分で週1.2本動画を上げるようになりました。その編集を面白いと言ってくださる方が出てきたのをきっかけに、動画編集スキルを仕事に活かしたいと思ったんです。 あ、うなもは本当に可愛いので、是非「うなぎいもチャンネル」を見てみてください(笑) カメラができて編集もできる人はいるけれど、ナレーションまでできる人は滅多にいないことにその時気づきました。動画にはナレーションが必ず必要になります。せっかくなら自分が持っているスキルを全部活かしたいと思いそれ以来クリエイティブアナウンサーとして活動しています。 静岡のアナウンサーといったら「大久保結奈」になる ーフリーランスで働いてみて大変だったことはありますか? 仕事が全くない月があり、収入が安定しなかったことですかね。収入が月10万円以下の時もありました。また、1年目はまだまだアナウンサーとして未熟で、毎回の仕事が精一杯で余裕がありませんでした。それでも期待を込めて、また仕事をくださった方には本当に感謝しています。今でも、ピッチイベントの司会はとても緊張します。噛まないように、登壇者の名前を間違えないようにと必死です。 ー今後挑戦してみたい仕事とかはありますか? いろんな企業で、話し方講座を担当したいと思っています。ピッチコンテストなどに司会として参加させていただく中で、コンテンツがよくても伝え方が今一つでもったいないなと思うことがあります。話し方や伝え方はいろんな場面で活用できるのでその指導をお仕事としてしていきたいなと考えています。 ー最後に今後の目標等があったら教えてください。 静岡のアナウンサーといったらと「大久保結奈」という知名度をつけることが目標です。静岡のただのアナウンサーではなく、動画制作もできる唯一のアナウンサーとして色んな人に知っていただきたいと思っています。そのためにもまずは、動画制作とアナウンスの精度をあげていきたいです。現状に満足することなく、もう1回仕事を頼みたいと思ってもらえるように成長しつづけたいと思います。 ー今後の活躍を応援しています!今日はありがとうございました。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)

「20代のうちは失敗しよう」第二新卒で転職、海外就職、フリーランス…挑戦した先にあった好転人生

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第45回目のゲストはフリーランスカメラマンでありライターの渡辺健太郎さんです。 未経験のままIT業界へ転職、英語が苦手だけど海外就職、独学で勉強しフリーランスに…と、とてもチャレンジングなキャリアを進まれてきた渡辺さん。現在は、「けんわた」という愛称で、メンズメイクをはじめとしたジェンダーレスな生き方を発信しています。 失敗を重ねながらも、前向きに、そして自分の気持ちに素直に歩んできた渡辺さんのユニークキャリアに迫ります。 夢を諦められずに、挑戦に踏み込んだ新社会人 ー渡辺さん、本日はよろしくお願いします。 よろしくお願いします。普段は取材する側なので、緊張しています(笑) ーフリーランスとしてお仕事をしているということですが、どのような業務内容ですか? 独立当初はライターがメインだったのですが、昔から趣味だったカメラがいまは仕事の大きな割合を占めています。インタビューと撮影の両方を担当することもあります。 ー現在は、カメラとパソコンでお仕事をしていらっしゃいますが、もともとは全く違う職種だったんですよね? はい。大学で経営学を学んだ後、地元の愛知県にあるスーパーに就職をしました。正直、就職活動がうまくいかず、第一志望の会社には落ちてしまって…。たまたま面接で話が盛り上がったところが、スーパーだったんです。 早く内定をもらって、残りの大学生活を満喫したい!という気持ちもあって、そこに決めた、という消極的な理由でした。 ーそして、4か月で辞めてしまったんですね。 はい。とにかく激務で、朝の7時から夜の10時まで働き、土日も必ずどちらかは出勤しなくてはいけません。そこにいても自分の将来が見えませんでした。順調にいけば店長としてお店を任されることになっていたのでしょうけれど、店長も楽しそうに見えなくて…。 なにより、就職前の卒業旅行で訪れたバリ島での思い出が、自分にとって印象深く、興味関心ががらりと変ったことが大きかったです。 ーバリ島で、価値観が変わったのですか? それまで海外渡航経験はほぼなく、東南アジアへは偏見を抱いていました。「不衛生」「治安が悪い」など…。当時付き合っていた彼女に連れられて、渋々行ったのがバリ島だったんです。 彼女は英語が堪能で、コミュニケーションは任せっきりでした。そんななかで、ホテル滞在中にスタッフの方と1対1でコミュニケーションをとる場面があっったんです。苦手ながらも一生懸命会話して、通じ合ったと思ったときの感動が、深くこころに残りました。 それまで、悪いイメージを勝手に持っていたことを反省しました。出会う人がみんな優しく、魅力的に思えました。そこから色んな海外へ行ってみたいという気持ちが大きくなって、調べるうちに夢は「海外就職」まで膨らんでいったんです。 ーすでに就職先が決まっていたとき、新たな夢ができたんですね。 もやもやしながらこのまま働いても…と思って、4か月で退職しました。すぐに海外就職に動き出したかったものの、大したスキルも、立派な英語力もない僕にはハードルが高く…。まずはITスキルを付けようと、IT業界での転職活動を始めました。もともとパソコンに関心を持っていたんですよね。 愛知は地元なので、ここにいては甘えてしまうという気持ちもあって、転職先は東京で探しました。4か月で退職した第二新卒という肩書きを背負っての転職は、なかなかしんどかったですね。 ーどのくらいかけて転職先を見つけたんですか? 結局、約1年もかかってしまいました。未経験でもオッケーというところに惹かれて受けたSESの派遣会社に、無事決まりました。プログラミングは自分には合っていて、環境も、業務内容も不満はありませんでしたね。 ただ、やっぱり海外就職に挑戦したいという気持ちがずっとあって…。 その会社も海外事業部をもっていたものの、運よく配属されたとしても、それまで最低でも5年はかかるだろうと言われていました。 あるとき、知人から海外就職を斡旋してくれる方を紹介してもらったんです。その人のすすめで面接を受けたカンボジアにある企業から内定をもらって…。 失敗は早いうちに積んだほうがいい ー夢の海外就職への切符を掴んだんですね? はい。当時、24歳。東京の生活にも慣れて、大好きなディズニーの年間パスポートも買って、仕事にも満足していて…正直、この生活を手放すのか、と思うのは怖くて堪りませんでした。 でも、失敗するなら早い方がいい、という気持ちもあったんです。たくさん悩んで、結果、会社を辞めてカンボジアに行くことにしました。 ーそして、今、日本にいるということは…。 カンボジアの会社は、試用期間が終わる3か月で辞めてしまいました(笑) ーあれだけ望んでいた海外就職がやっとできたのに、どうしてですか? 現地の日系企業に営業をかけて、カンボジアの人材をマッチングさせるのが仕事だったんです。ただ、早々にリストが尽きてしまって。さらに、現地の方を斡旋するので、当然ながら英語も必要になります。なかなかコミュニケーションがうまくいかず、文化の違いも手伝って、失敗することが多い日々でした。 高いノルマが課されていて、社長が高圧的だったこともストレスになりました。あの頃は、人生で一番と言っていいほど、どん底でしたね。「お前は、カンボジア人より高給取りなくせに、カンボジア人より仕事ができないな」なんて怒鳴られるのは日常茶飯事。 ー職場環境に恵まれなかったんですね…。そんな言葉を浴びていると、自信がなくなってしまいそうです。 3か月経って、続けられずに辞めて、帰国まではカンボジアで無職状態でした。なにもすることがなく、部屋から通りにでると、バイクの上でカンボジア人のおっちゃんが寝ているんですよね。それを見ながら、「僕はいま、この人より稼ぎがないんだなあ」なんて思って。 ちょうど、カンボジア渡航時に連絡先が消えてしまっていたというのもあるんですが、SNSも全部やめて、日本へはひっそりと帰りました。その後、しばらくは家族以外の誰とも連絡はとりませんでした。「海外で働くんだ!」と自分を奮い立たすためにも、周りに宣言していたんです。それで、すぐに帰ることになったのが恥ずかしかったのを覚えています。 フリーランスという存在が身近に ー鬱々としていたのが想像できます。そこからどうやって回復していったのでしょうか? 1年半しか東京にいれなかったので、また上京して転職活動をしました。そして、フリーランスの友人たちができました。 もともと、カンボジア渡航前に、「ブログで生計を立てている人がいるらしい」ということを知り、なんとなくフリーランスという働き方を意識するようになっていました。 何度も就職で失敗しているので、会社に縛られずに生きる道に強く惹かれたんです。 東京で再び働くようになって、前にブログで見ていた人が友達になったり、フリーランスの友人が増えたりして、いままでは遠い存在だったのが、急に現実味を帯びました。 ー案外、フリーランスって難しいことじゃないのかも、と感じるきっかけになったんですね。 新しい友人たちは僕の過去を知らないので、気楽で、段々と元気になっていきました。 また、友人をまねてブログを書くようになると、いままでの「新卒で入った会社を4か月で辞めた」も「夢だった海外就職に挫折した」も、単なるネガティブな出来事ではなく、誰かの参考になるコンテンツとして昇華できるなと捉え方が変りました。 ーそこから、フリーランスになったのはどういった経緯なんですか? ブログを書くうちに、知人から、「うちのメディアでライターをやらないか?」と誘っていただけるようになりました。当時は本業としてSESの仕事をしていたので、5時までは会社員、6時から11時までは副業のライターというような生活を送っていました。 ライティングは楽しくて、自分に合っているなと感じられたんです。1か月に30本ほど納品していました。結構、多いですよね。 ー1日に1本くらいのペースですか?副業としてそれをやれる、というのはすごい! そのうち書いている記事が上位表示されるようになってきて、「これはいける」と思って、他のメディアにも営業をするように。「ライター 募集」で検索をして、興味があるメディアに売り込みをしました。すると、5社くらいと仕事をすることになって。 「このボリュームは、もう副業の範囲ではできないな」と考えて、思い切ってフリーランスになることにしました。 ー個人事業主として独立することは、怖くはありませんでしたか? うーん…もちろん怖さはありましたが、カンボジアでの経験があまりに辛かったので、あれより酷いことにはならないだろう、という安心感がありました(笑) 早いうちに失敗を経験しておく、というのはやはりいいことなのかもしれません。 また、周りにフリーランスの友人が多かったので、相談もできましたし、イメージがしやすかったのも支えになったなと思います。 外見を変えると、内面に自信をもてるように ー現在、お仕事も順調で、ご結婚もされて…フリーランスになってから人生が好転していらっしゃいますね。 そうですね。パートナーと出会ったのも、フリーランス仲間との交流の中でした。かなりスピード婚で、付き合ってから2か月後には婚約したんです。 僕はいま、メンズメイクをしていて、ジェンダーレスな生き方について発進をしているのですが、メイクを始めたのはちょうど1年ほど前のことです。結婚式の前撮りのムービーを撮影するとき、パートナーがファンデーションを貸してくれたのがきっかけでした。 ーそこからメイクをするようになったのですか? はい、それが初めての経験で。めちゃくちゃ衝撃を受けました。もともと自分にコンプレックスを持っていて、ずっと肌で悩んでいたんです。それが、ファンデーションを塗っただけで、見違えて!なんでもっと早く試さなかったんだろう!と強く思いましたね。 それから、顔の色んな部分に気を配るようになって、隠すベースメイクなどはもちろん、綺麗に魅せるために女性と同じようにカラーメイクも取り入れています。 ー男性でも、外見の悩みを持っている方は当然いらっしゃいますよね。 そういう方たちに、メイクの良さを伝えたいなと思っています!僕は、いまは毎日の服を選ぶのと同じ感覚でメイクをしています。 いままでは鏡を見ると、自分の顔の嫌いな部分に視線がいき、どんよりした気分になっていました。それが、いまは鏡を見るのが楽しくてたまらないんです! 内面も変化して、自分に自信を持てるようになりました。筋トレと同じく、美容も、努力すればする分、きちんと自分に返ってきます。 この変化をもっとたくさんの人に味わってほしいですね。今後は、カメラ、ライターに加えて、美容関係のお仕事もしていきたいです。 ー渡辺さんの今後の挑戦が楽しみです。本日はありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる ==== 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter) 撮影:橋本岬 デザイン:矢野拓実(サイト)

ハンカチ王子に憧れ、名門・早実へ。「スポーツで”好きを仕事に”を広めたい」ソクスポ代表・吉田 将来

様々な経歴を持つ方々が集まり、これまでのキャリアや将来の展望などを語り合うU-29 Career Lounge。今回のゲストは株式会社ソクスポ代表・吉田 将来(よしだ まさき)さんです。 吉田さんは生粋の野球少年。ハンカチ王子に憧れ、必死に勉強をし、無事に早稲田実業学校に入学。ただ、選手時代は葛藤だらけだったそうです。 現在は代表として”株式会社ソクスポを経営する傍ら、”’週3社員”として一般社団法人次世代smile協会(元プロテニス選手 杉山愛さんのお母様・杉山芙沙子さんが運営する協会)でも勤めています。 今回のインタビューは、野球少年時代から遡り、株式会社ソクスポを立ち上げるまでをお伺いしてきました。 ハンカチ王子に憧れて、名門・早実へ。選手の優秀さに圧巻される ーー吉田さんの学生時代は、野球一筋だったみたいですね。名門”早稲田実業学校(以下、早実)”を目指した理由は何でしたか? 吉田:小中高生までは、ずっと野球漬けの毎日でした。 早実を目指した理由は、”ハンカチ王子”こと斎藤佑樹さんに憧れていたからです。「斎藤選手みたいになりたいな……」と思っていました。 中学生の頃、早稲田アカデミーのCMが流れていたんですよ。直感的に「ここだ!」と思い、すぐに入塾をして受験勉強に励みました。中学3年生の頃は、狂ったように勉強していましたね(笑)。 ーー瞬発力がすごいですね!実際に早実に入学してみていかがでしたか? 吉田:早実は野球の名門校ということは十分にわかってはいたのですが、野球部に入部し、改めて選手のレベルの高さに驚きました。 部員は1学年で20人前後なのですが、推薦で中学時代に日本代表を経験したようなメンバーが毎年9人入部してきます。淡々に練習をこなすだけでは選手に選ばれるのもむずかしいので、「自分は何ができるかな?」と、日々模索しながら練習をしていました。 この頃から、自然と”チームを俯瞰して、戦略的に思考する力”が身についたと思います。 選手から”マネージャー兼助監督”へ転身 吉田:実は、選手から”マネージャー兼助監督”のポジションに転身しました。 ーーマネージャー兼助監督、ですか。何が起こったんですか? 吉田:元々早実では、マネージャーを募集する文化がなく、毎年選手の中から2人選出されるんです。 何度か同じの代のメンバーでミーティングをしながら「誰がいいか?」と話し合ったんですが、なんとなく「吉田がやってほしいオーラ」を感じたんですよ(笑)。 ーーすごい期待されていたんですね。 吉田:そうだとうれしいですね(笑)。この頃から「僕がやるべきなんじゃないか……」「僕がマネージャーになったらどうサポートできるかな?」と考えるようになりました。 そして決定打となったのは、1つ上の先輩マネージャーの”サポート力”がすごかったんですよ。 その先輩から「サポートが強くなればチームが強くなる」ということを学びました。 ーーなるほど、深い。 吉田:沢山悩みましたが、ベンチに入るよりも「もう一度甲子園に行きたい」「人とは違う高校野球生活を送りたい」と思うようになり、マネージャー兼助監督に転身しました。 大学1年からはじまった株式会社ギガスリートでのインターン。そして後に入社へ ーー早稲田大学に入学された吉田さんですが、野球を続けようとは思わなかったんですか? 吉田:入学当初は野球サークルに入っていたのですが、雰囲気が合わず、中学の同期と草野球チームを立ち上げました。ただ野球漬けの毎日だったのでその反動で、他のスポーツに挑戦したくて。ラフティングやボルダリングなどをやっていましたね。 また、”働き方”に興味があったので、1年生の冬頃からからスポーツビジネスを事業にしている”株式会社ギガスリート”でインターンをはじめました。 ーー1年生からインターンはすごい。なぜギガスリートだったんですか? 吉田:たまたまTwitterのタイムラインで、「草野球のスコアを書ける人を募集します!」と流れていたんですよ。僕は草野球チームで書いていたので、「こんな簡単なアルバイトがあるんだ!」と思って応募しましたね(笑)。 最初はアルバイトのつもりで面接を受けたのですが、「営業やマーケティングのインターンもやってるよ」と誘われ、スポーツの仕事に興味があった僕は、長期インターンを始めました。 ーーインターンから入社をされましたよね。他の企業に行く選択もあったと思いますが、ギガスリートを選んだ理由は何でしたか? 吉田:シンプルに仕事にハマりました。インターン中に”飛び込み営業”や”マーケティング戦略”、”動画・記事制作”をしていたのですが、どの仕事も楽しかったんです。 24時間仕事のことを考えていても、苦ではありませんでした。「これを仕事にすれば楽しいな……」と思い、入社を決意しました。 今は退職をしましたが、営業や資料作り、動画制作やプロジェクトマネジメントなど、様々な経験をギガスリートでさせてもらい、学びの毎日でした。とてもチャレンジングな2年間でしたね。 オンラインサロンで仕事を獲得するために、ポジションを作ろう ーー退職を尻込みしちゃう人が多い中、不安はありませんでしたか? 吉田:そこまで不安には感じていませんでした。ありがたいことに前職の上司から「引き続き仕事を手伝ってほしい」と言ってもらえていたので、退職後も仕事をいただいていました。 また、僕は会社員時代から、いくつかのオンラインサロンに入っていたので、「プロジェクトを手伝って欲しい!」と声をかけてもらうことが、少しずつ増えてたんですよ。 退職が不安な方は”予防線”を張っておくと安心だと思います。僕の場合、会社員とは別に収入源があって。たとえフリーランスで躓いたとしても「転職すればいいや」と考えていました。退職前に仕事を獲得しておけば、安心感に繋がると思います。 ーーオンラインサロンではどのように仕事を獲得したんですか? 吉田:僕は”みんなでスポーツをするイベント”を企画することが大好きなので、企画しては、SNSやオンラインサロン内で発信をしていました。すると自然と「スポーツ=吉田」という認識が広まってきて。 また、僕のTwitterを見ていた早実時代の同期から「女子野球の企画をはじめたい子がいるんだけど、教えてくれない?」と声がかかりました。「面白そう!」と思ったので、前職の経験を活かし、女子野球YouTubeの動画撮影・編集を担当することになりました ーー発信と行動をした結果、「スポーツのことなら”吉田”」となっていったんですね。 吉田:そうですね。人脈が広がることもオンラインサロンの魅力で、自然と仕事のオファーも増えてきましたね。 ソクスポを法人化へ。自分を通して”好きを仕事に”ができることを証明したい ーー吉田さんは”ソクスポ”という活動をしていますよね。具体的にどんなことをされていますか? 吉田:ソクスポは去年の1月から5月頭にかけて、Twitter上でやりたいスポーツを「ラクロスやりたい #ソクスポ」というようにハッシュタグをつけてツイートしてもらい、それを片っ端から企画化していく、という遊びのようなプロジェクトです。 スポーツをしたくても施設予約や人員集めなど、色んな障壁により気軽にできないんですよね。その課題を解決していくための、実験をしていました。特に具体的な戦略はなく(笑) ーーユニークなプロジェクトですね!今は法人化をしてソクスポを運営されていますよね。決めては何でしたか? 吉田:目標の「とりあえず100イベント」を達成する間際から、ソクスポの活動の継続と認知拡大を意識し始め、同時に「何かマネタイズできないか?」と考えるようになって。 いろんな人に相談、アドバイスをした結果、法人の部活動やスポーツイベントのコンサルティングでいくつか仕事がいただけるようになりました。 そして最近、きちんと事業化しようと株式会社unnameと共同で、法人向け部活動支援サービス「As plAy,」を立ち上げたんです。 これから”対企業”として事業を拡大していく中で、「個人事業主よりも法人化した方が”信用度”が増すのではないか?」と考え、法人化をする運びとなりました。 ーー確かに”法人化”は信用度が増しますよね。最後に、今後の展望を教えてください。 吉田:”As plAy,”を新規事業として立ち上げているので、まずは認知度を広めていきたいです。そして多くの企業に試していただき、身体を動かすことの大切さやおもしろさを、体験してもらいたいですね。 また、僕が独立する前に”自由”について書かれている記事を読みました。そこには「自由とは、あなたを見ている人や周りにいる人の心を自由にすることだ」と書かれていて、とても共感しました。 少しずつ、楽しくスポーツができる機会を提供することや、その経験や知識から仕事を新しく作れるようになってきました。僕の場合は”スポーツを楽しむ場作り”が好きなこと。今の仕事や活動を広げていくことで、1人でも多くの方に「そんな働き方、生き方もあるんだ!」と思ってもらえたら幸せですね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:ヌイ(Twitter)

最近読まれた記事