自分と向き合う時間は朝しかない。早起きを徹底する理由

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第三回目のゲストは朝渋代表でありMorning Labo(モーニングラボ)取締役の井上皓史さんです。 「5時こーじ」の名でnoteでも発信している井上さん。その名の通り、子どもの頃から22時に寝て5時に起きるという生活を続けています。新卒で入社した会社では、遅寝遅起きカルチャーで成果が出せず、上司に朝型に変えさせてくださいと訴え、7時半に出社して20時ぐらいに帰るようにして成果を出すように。転職を重ねながら、複業として朝渋をスタート。2018年にこの朝渋を本業に。朝渋のパートナーだったMorning Labo代表の中村朝紗子さんと結婚し、会社も一緒になるという公私混同経営を始めました。 なぜ朝型なのかから、朝渋を始めるきっかけや井上さんのこれまで歩んで来たキャリアに付いてお聞きしました。 二次会には行かないキャラを徹底した大学時代  ー子どもの頃から5時起きだったそうですが、どういったご家庭だったんですか? 銀行員だった父が毎朝6時過ぎのバスで通勤していたので、5時には母が弁当を作り始め、5時半に朝ご飯食べないといけないような家庭で育ちました。朝飯を食うか、寝るかの選択肢で、飯食うを取ってたので。毎朝5時半には家族4人で朝ご飯を食べるというのを、小さい頃から大学になるまでずっと続けていました。  ー大学生ぐらいになると飲み会などで遅くなって、遅寝遅起きになりそうですが。 飲み会は2次会に行かないキャラで、「(途中で)帰るわ。おやすみー!」って。たまに2次会に参加すると「皓史が残るってよー」って、すごい重宝されていました。あまり人に合わせるということがありませんでしたね。 朝5時に起きて、そこからお昼ぐらいまでの7時間が、自分の中ではゴールデンタイム。だから10時頃に起きるともう絶望感というか、今日1日終わったなと。そういう何もできない日というのが続いたので、自分をブラさずに起きてましたね。  ー新卒で当時ヤフーのグループ会社だったインディバルさんに入社されていますが、志望動機は何だったのでしょうか?  もともと人材業界に行きたいという気持ちがありました。人と関わる仕事したいなという、ふわっとした理由なんですけが。リクルートとパーソル(当時インテリジェンス)とインディバルの3社で迷って。もともと競争が好きじゃなくて、トップになるといったモチベーションが一切なく、人と比べられるのが好きじゃなかったんで、インディバルに。新卒1人しか採用してなくて、のびのびやれる感じだったので。やってることはどの会社でもほぼ一緒だなっていうことで、一番、本質的に仕事と向き合えるというポイントで決めました。 新卒、スタートアップでも徹底した朝型 ―実際入ってみて1年目はどうでした? 入社前は、ヤフーのグループ会社で安定してるだろうし、マーケティング・営業・人事とローテーションみたいな感じでいろんな部署を試せると聞いて入社を決めていたのに、ヤフーから外れることが決定して実際に入社した時は営業からスタートで。OB訪問で会って憧れていた先輩のほとんどがヤフーに戻るか辞めるみたいな感じで、正直、動揺しました。 ーなるほど。しかも生活スタイルが遅寝遅起きで。 とてもしんどかったです。生活スタイルも自分と合わない、部署も選べない。とはいえ、今の環境で頑張ろうと、マインドを変えました。組織のなかで、いったん一番になりたい。というふわっとした目標はありました。皆先輩でしたが、先輩の業績を一回でも超えてみたい。そう思いました。そして一度だけ運もあって抜かすことができたので、次のステージに行こうと転職を決めました。  ー自分の中での目標達成したと。次に、TECH::CAMP(テックキャンプ)を運営されている株式会社divさんにしたのはなぜ? もともと大学3年からインターンをしてて、現在はYouTubeで有名な真子社長が可愛がってくれてて。ちょうど企業研修や人材紹介を始めるタイミングで、社員がエンジニアしかいなかったので、営業を1人募集してて、僕を誘ってくれたのがきっかけです。前職に入社して3カ月目くらいから誘いは受けていたんですが、気持ちよく送り出してくれてきたインターン時のメンバーに、「会社が辛い」というのも良くないと思って「楽しくやってるので、ちょっと待ってください」と伝えていました。そして、前職での目標が達成したので、新卒1年目の2月に転職、その時社員は10名もいませんでしたね。 自分としても、こんなに早く転職すると思っていなかったんですけど、タイミングとご縁が重なって、決めました。 ーそこでは最初から朝型生活ができたんですか? そうですね。もともと入る時に社長に「皓史、早起きなんだろう」と言われて、「好きにやってくれ。成果出せばいい」ってことだったので。当時のdivはは12時に来て深夜3時に帰るみたいな、ザ・スタートアップ。みんな渋谷界隈に住んでて歩いて帰れるから、終電という概念がありませんでした。でも僕は朝8時前に出社して、大学の時みたいに、みんなに「おやすみ」って言われながら帰るような生活を送っていました。 ある時、社長に「早起きよさそうだな。俺も頑張ってみるわ」って言われて、朝7時にスタバ集合をやるように。当時メンバーが15人ぐらいいたんですけど、社長が「3ヶ月やって分かったけど、皓史がやってるようにやっぱ朝は良いぞ」ということで、定時が9時になって、朝型が会社に根付いていきました。 人生の転機となる朝渋のスタート ー転職して半年ぐらいのタイミングで朝渋を始めるわけですけど、どんなきっかけだったんでしょうか? この「U-29.com」を運営している複業家の西村さんと一緒に仕事をする機会があって、メッセンジャーのやりとりで西村さんが23時ぐらいにメッセしてくるんですけど、僕は当然もう寝てるので翌朝5時過ぎに返してたら「朝まで働いてんですか?divさんってすごいブラックですね」って言われて(笑)。僕が朝型だって話したら、西村さんがこれから独立するので生活リズム整えるために早起きやってみたいってことで。 僕も教える立場ではないですけど、サポートぐらいならできますって感じで「起きたら報告してください」とか「一週間ごとに連絡ください」みたいな感じで、1カ月ちょっとやってたんですよね。  ー早起きコーチングですね。 そうですね。プチ早起きコーチング。そうしたら、西村さんが1カ月で5時起き生活に慣れて、その時「これはすごい発明だ。(当時)27年間、生きててすごい衝撃だったからこれはもっと広めた方がいいよ」っていうことを言ってくださって。僕としては社会人2年目でまだスタートアップの営業しかやってないので、人前で喋るとか誰かを巻き込むみたいなのはちょっといいですって断ったんですけど、「いや、やろう」って。 人前に出るのは西村さんで、裏の管理やコンテンツ開発を僕がやるということで、2人で立ち上げたのが3年前の9月。 ーそこからもう1回転職して、結婚された中村朝紗子さんとの出会いもあって「公私混同経営」となりますが、それまでの経緯は? 当時、divでとてもやりがいのある仕事をしていました。研修部隊の立ち上げ、人材紹介事業の立ち上げ。0→1の楽しさを学びました。ただ仕事をしていくにつれ、経営レイヤーで物事を考えたい。という思いが強くなりました。そんなタイミングで株式会社トピカっていう、今「GOHAN」っていう男性向け料理メディアをしているスタートアップがあるんですけど、その代表からナンバー2で入ってくれないかっていう話があり、これもご縁だと思って。数字(経営)を見たり、会社をどうグロースさせていったりというところに挑戦したくて、転職しました。 朝渋パートナーと公私混同経営へ ー中村朝紗子さんとの出会いは? もともと西村さんと朝渋を始めて1年ぐらい、うまく朝渋がグロースしなかった時ですね。コミュニティが20〜 30人はいたんですけど、ほぼ男性だけだったんで、グロースさせていくには女性の力も必要だということで、運営メンバーに女性入れようってことで。その時、朝活をしている女子を発見し、西村さんがTwitterで誘ったんですよね。 ―「朝紗子」って名前に朝入ってるし、Morning Laboの代表だし、これはもうこの人しかいないと。 そうですね。それが出会いですね。運営メンバーが3人でしたが、西村さんは3人の子供がいて、ミーティングに参加できないことが続いて、2人で打ち合わせしましょうってところから仲良くなって付き合うことになりました 。妻は自分に「朝渋はあなたの使命だから、どんなことがあっても続けるべきだし、応援する!」と毎日のように言ってくれました。 しばらく西村さんが体調を崩して、基本2人体制でやってたんですが、朝渋が伸びてきた時に彼女から「朝渋で独立した方がいい」って言われて。僕は、人生的にナンバー2ポジションなんで、あまり自分で独立って興味なかったんですが、彼女の起業家としての想いや働き方をみていて、考えが変わりました。株式会社MorninglaboのNO.2として彼女を支えたいと。2人で会社経営をしていくということは「結婚」も一つ重要な決断でしたので、このタイミングで覚悟を決めて、提案しました。  ―提案書もっていったんですよね。 そう。A4、2枚のWord で作って、事業提案書のごとく。それで OK もらいました。夫婦経営ですね。不安も多い中でスタートしましたが、毎日がエキサイティングです。今年4月から新卒が入社し、3人で会社を経営しています。 ―素晴らしいですね。最後にメッセージがあればお願いします 。 早起きしたいって人に、早起きして何したいですかっていつも聞くんですけど。「いや、ただ早起きしたくて」って人は特に早起きできずに終わります。「なぜ」がないから。例えば、再来月に TOEIC があるのでその勉強時間にあてたりとか、早起きプラス何か習慣にしたいっていうのがあったほうがいいと思っています。 あとは 特に20代の方に話す時に、時間がないっていう人が多いです。余暇の時間 Netflix とかSNSとか見たいし、どっか遊びに行きたいし、時間ないですよね。そこで、時間がない中の打開策として、自分と向き合う時間は朝しかないなと思ってます。やっぱり自分と向き合う時間をどう作るのかっていうのが大事。自分の意見が出たり、自分の直感を信じられたりすると思うので。まずは 日記書くとかでもいいですけども。誰かと繋がってる時間でなくて、自分と対話する時間を朝作るのがすごくいいんじゃないかなと思います。 それができるのが朝渋だと思っていて。朝渋は月に4回イベントやってます。朝早く起きてその場に行って外部の人からの言葉のシャワーを浴びて、それで自分の中に取り込むというのはめちゃくちゃ良い習慣だと思うので、ぜひ、毎回来いとは言わないですけど、2カ月に1回ぐらいは何かプロテイン飲むみたいなイメージで来てもらえたらなと思います! ーありがとうございました。 早起きの秘訣は前夜の過ごし方 Q.  朝渋を立ち上げて、くじけずに頑張れたのは何が支えになったのでしょうか? 社会人2年目で、5階級ぐらい上の人と話す機会が月に2回あるんですが、営業のことしか知らなかった自分がいろいろ外部から話を聞いて、それをすぐに実践できたりとか、自分のためになることが多かったから続けられたのだと思います。イベントに登壇してもらえるようにアプローチしたら、出てくれて、しかもスーパースターと思ってたけど案外人間だなとか、こんな苦労してたんだとか、自分が一番学んでるなと。だから続けられたのかもしれません。 Q 朝どうしても起きられません。どうしたら毎日同じ時間に起きられるのでしょうか。 今日もそうですけど朝に予定があると起きざるを得ないじゃないですか。僕今日とか奇跡的に朝空いてますけど、基本28日くらい朝埋まってます。朝7時から基本アポ入ってるんで。(笑) 毎日、朝7時から仕事をスタートして、18時ぐらいには必ず帰るようにしてます。労働時間でいったら、まあまあ働いてるんですね。そこからご飯作って寝るみたいな感じのリズムです。あと、夜の飲み会の付き合い方もすごい大事。基本、飲み会は断る。夜の飲み会テクニックはいろいろあるんですけど、二次会は必ず行かないとか、4人以上の飲み会行かないとか、20時以降の飲み会行かないとか、自分が幹事をやって、3時間飲み放題のコース絶対つけないとか、18時スタートにするとか。僕は近所での飲み会しか行かないって決めてて、それ以外の飲み会は断っています。相談あるから飲みに行こうよって言われた時は、朝どうですかって返します。そうやって飲み会を減らしていくと、早起きも難しくなくなる。早く起きるよりも早く寝ることが基礎ベースの話ですね。 とはいえ飲み会も好きなので行っちゃう時もあるんですよ。そういうときは24時までに寝るっていう「シンデレラルール」っていう恥ずかしい名前のがあります。月に1回までは OK してるんですね。そうすると今日はシンデレラだからいっかみたいな感じで。シンデレラを使う日は朝7時に起きる。7時間は寝る時間を確保しています。だからシンデレラ飲み会めっちゃ楽しみにしてます。 Q  これまで良いパートナーの方と繋がれた要素はなんだと思いますか? 選り好みせずにいったんは行動してみる。自分は直感を信じるタイプで、直感とタイミングとご縁をすごく大事にしています。だからその倍以上に失敗があるというか。直感を信じて失敗したことも沢山あります。 意識していることは「打算的ギブ」ですね。「モチベーション革命」を書いた尾原さんに学んだことです。これも朝渋の運営をしていたからこそ尾原さんともディスカッションができましたし、とても毎回のイベントを楽しみにしています。 「朝渋」を覗いてみる

「いい過程がいい成果を生む」ー 複業で月250万円稼ぐ國富竜也の成功の秘訣

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第27回目のゲストは、Webマーケティング会社にてWebメディアを運営されている國富 竜也(くにとみ・りゅうや)さんです。 新卒で銀行に就職するも、一年半で辞めてWebマーケティング会社へ転職。しかし、ハードな銀行員生活のかたわらで始めた複業が転職に活き、その転職先での学びを複業に活かすという好循環を生み出している國富さん。 「複業したいけど、どんな仕事をしたらいいか迷っている」「どうしたら毎日ワクワクしながら働けるかわからない」という方へ、國富さんご自身の経験を踏まえたアドバイスをいただきました。   長期インターンを経て、働く意味を見つけた ― 学生時代に長期インターンをされていたとのことですが、きっかけは何だったんでしょう? 小さい時から満員電車で生気のないサラリーマンを見てきて、「なぜ人生の大半を仕事というものに費やさなきゃいけないんだ」「なぜ働かなきゃいけないんだ」と、働く意味が見出せなかったんです。そこで、実際に自分で体験して意味を見つけようと思ったのが、長期インターンを探すきっかけでした。 ― なるほど、それでウォンテッドリー株式会社(以下、ウォンテッドリー)の長期インターンへ。この会社を選んだのはなぜですか? もともと、ウォンテッドリーのサイトでインターン先を探していたんですよ。その中で、たまたまウォンテッドリー自体の募集要項も見ていたら「シゴトでココロオドルひとをふやす」というビジョンが掲げられていて。それを本気で考えている人たちと一緒に働けば、何のために働くのか自分なりの答えが出せるかもしれない、と思い応募しました。 ― インターンでは、実際にどんな仕事をされたんですか? ウォンテッドリーのサービスを利用している法人顧客に対し、求人への応募数を増やすというインサイドセールスの仕事をしていました。ただ、すごく忙しかったし、自分に求められる価値も高くなっていったので、自主的に土日も仕事に関することをやるようにしていましたね。 ― 10ヶ月間インターンとして働いてみて、「何のために働くのか」という答えは出ましたか? 仕事って自分の義務だと思っていたんですが、人生の目的を達成するための手段として仕事を活かすべきなんだなということに気付けましたね。それまでは仕事=目的だと思っていたんですよ。 それに、二つの大きな学びを得ることもできました。一つ目は、「いい成果はいい過程を産む」ということ。結果は全て過程が生み出すもので、その過程に自分の本質的に好きなものがなければ仕事で心躍らせることは無理だし、いいパフォーマンスを出すこともできないんですよね。 二つ目は、「自由と自立のため」に仕事をするのだということ。とにかく自由に生きたいという人生の目的を達成するための手段として、仕事を活かすべきなんだと学ぶことができました。   ミスマッチに苦しみながらも複業のきっかけを得た銀行員時代 ― 大学生のときに長期インターンを経験した人は、卒業後もベンチャーに就職することが多いと思うのですが、國富さんが銀行への就職を選んだのはなぜですか? 自分の金融資産をプロ目線でコンサルティングできるようになりたかった、というのが大きな理由です。小さい頃から、お金に関するリテラシーを学ぶことが人生を左右するんじゃないかと漠然と思っていたんですよ。そこで、金融に関するあらゆる事を幅広く学ぶために、業務内容の幅が広い三井住友信託銀行に就職することにしました。 ― 実際に入社してみてどうでした? 人によって合う合わないもあると思いますが、かなりハードでした。通常勤務に加えて資格の勉強や飲み会、週末のボランティア活動など多忙で、金銭的な負担も大きかったんですよね。仕事を楽しめている人はほとんどいなかった気がします。同期400名のうち、恐らくですが、3年で3割くらいの人は辞めているかと思います。あくまで肌感ではありますが、辞めた人の話を同期から聞くとそんな感じですね。僕も1年半ほどで退職しましたし。 ― どんなタイミングで退職を決意したんでしょう? ブログという複業を見つけることができ、月5〜7万円くらいは稼げるようになっていたので「辞めても安心だな」と思えるタイミングでした。ブログは自分にとって好きだな、継続できるものだなと感じていて、ウォンテッドリーで学んだ「いい過程がいい成果を生む」という学びともマッチしているので結果も出せそうだと考えたんです。また、Webマーケティング会社に内定が出たタイミングでもありました。 ― 辞める前にいろいろと準備をされていたんですね。退職する少し前から複業を始めていたとのことですが、多忙な毎日の中でどうやって複業の時間を捻出したんですか? 最初は複業にあまり時間は割けなくて、ネットで調べて手探りで試していたという感じです。空いた時間で1ヶ月だけやってみる、ということを繰り返していました。はじめは複業にフルコミットしていませんでしたね。 ― 銀行で働く中で、複業をやろうと思うようになったきっかけは何かあったんでしょうか? 銀行員時代の経験を通して、「人生100年時代を生き抜くのはとても厳しい」ということをロジカルに学んだんです。人生100年生き抜くためには、最低でもおよそ2億円は必要になります。それに加えて自分のやりたいことや夢のために必要な金額を上乗せしていくと、もっともっとお金がかかる。税金や社会保険料もどんどん増えていくので2億どころじゃ済まなくなると思います。でも収入は逆に低くなっていく。 この事実を知って「これは月給25〜30万円どころじゃ生きられないな」という危機感を覚え、何とか稼がなきゃいけないと思ったのが複業を始めるきっかけでした。   人生の目的が明確だからこそワクワクして働ける ― 銀行を辞めたあとは、複業のブログを活かせるWebマーケティング会社に転職。まさに転職と複業の掛け算ですね。とはいえ、職務経歴書に書けるほどの複業の実績がない状態で内定がもらえるものなんでしょうか? 内定をもらえたのは、年齢が若かったこともあるかもしれませんが、複業でポートフォリオを作っていたのが良かったと思います。ブログ運営という実績があったので、ある程度の土台はあると評価してもらえました。 また、採用担当者に「業務とのミスマッチが起こらなそうだな」という判断材料を渡せたのが良かったかな、と。半年ほどブログを書いて月数万円稼げたという事実が、ブログが好きであることの根拠となりました。だから、大きな実績がなくても転職できたんだと思います。 ― 世の中にはいろいろなWebマーケティングの会社がありますが、その中でも今の会社を選んだのはどうしてだったんですか? 僕の人生の目的は「後悔しない人生を送りたい」というものなんですけど、この会社ならその目的を叶えるためのスキルを身につけられそうだなと思ったんです。 振り返ってみると、今まで後悔したのは、やりたくないことばかりしていたときだったんですよね。なので、後悔しないために「やりたくないことリスト」を作りました。じゃあそのリストを達成するために必要なスキルを洗い出してみると、ライティングスキルやWebマーケティングスキル、プログラミング、動画などのスキルだったんです。 それらのスキルを最も学べる会社、業界ってどこだろうと考えたとき、今の会社に行き着きました。ここにはGoogle出身者がたくさんいて、さらにマーケティングや広告運用に深く関わっていた人もいたので、その人たちと一緒に働けば、自分が求めているスキルを一番身につけられると考えたんです。 ― 「やりたくないことリスト」を考えるのは面白いですね。國富さんのリストには、具体的にどんなことが書かれているんですか? 例えば世界一周できない人生は嫌だ、満員電車に乗るのは嫌だ、自分で出社するペースを決められないのは嫌だ、場所に縛られる働き方は嫌だ……といったことを書いています。やりたいことももちろんありますが、やりたくないこともたくさんあるんですよね。 ― 人生の目的を決めるとき、先にやりたいことを決めるという考え方もありますが、その逆のアプローチもあるんですね。 地図を持った宝探しのイメージですね。宝は自分のやりたいことで、地図の一点にしか宝はない。 いきなりそれを探すよりは、やりたくないことを見つけていってバツ印をどんどん付けていくわけです。 やがてバツ印じゃない場所が小さくなって、自分が心からやりたいと思う選択肢しか地図に残らなくなるので、僕はそういう視点でやりたいことを見つけていきました。 ― なるほど、わかりやすい例えですね。今の会社に入社してからは、どんな業務を担当されているんですか? メディア運営です。この部署に配属させてほしいとしっかり伝えて配属してもらいましたし、複業で適正をチェックしていたので一切ミスマッチがなかったですね。毎日仕事に行くのが楽しみで、朝も早く起きれています。日曜日は、次の日が待ち遠しいくらいです。 ― 銀行員時代とは大違いですね。なぜ仕事がそこまで楽しいと思えるんでしょう? ひとつはなりたい自分を明確にしているからです。こういう人生にしたいと決めた瞬間に、全て逆算できるようになりましたね。目標やゴールを決めることで、熱中できる毎日を送れるんです。もうひとつは、好きなことをやってワクワクできていることかなと。この二つが日々ワクワクして生きていられる要因になっていると思います。   自分に合った複業探しのコツは、挑戦して好きかどうか確かめること ― 転職して1年が経ち、複業にも相当良いシナジーがあったんじゃないでしょうか。 本業全てが複業に活きていると思います。まずは会社で得た知識・スキルをそのまま複業に活かせていて、フリーランスとして働いていたら得られないようなものを、優秀な同僚から得られています。 また、本業を通して出会った人脈も活かせるんです。SNSに専門性を持っている人やエンジニアとして専門性を持っている人などいろんな専門家と繋がることができて、複業でお世話になるきっかけを作ることができました。 さらに、個人ブロガーだったら月10万PVくらいのWebサイト運営データしか手に入れられないところ、本業では月30〜100万PVのWebサイトを運営しているので、個人では入手できない規模のデータが得られるというのも大きいですね。 ― 1000人1000通りの複業がある中で、國富さんはブログを選んだわけですよね。自分に合った複業を見つけるための方法論はありますか? 一番大事なのは、とにかく色々なことに挑戦して色々な複業をやってみることですね。まず、複業の全体像を知ること。「複業やるならブログだ」と決めるのではなく、どんな複業があるのか範囲を広げてリストアップしてみるんです。 やりたいことって自分の知っている範囲からしか選べないので、まずはその範囲を広げるためにネットや人を通じて視野を広げること。次に、その中から興味があることをピックアップしてみる。そして最後は、とにかく挑戦してみる。この3つのステップが大事だと思います。 実際にやってみないと自分が好きかどうかわかりませんし、「いい過程がいい成果を生む」と思っているので、過程でミスマッチが起きていないか判断するためにもとにかく挑戦してみるんです。 ― まずはやってみて、ワクワク感や自分との相性を確かめてみるのは大事ですよね。自分のワクワクに気付くコツはあるんでしょうか? 僕の場合、気付けば毎日ブログを書けるようになっていて、一日中ブログを書いていることもあったんです。そのときに「自分はこれがすごく好きなんだ」とわかりました。そういう、日常が劇的に変わった瞬間を見逃さないことが大事ですね。 ― 國富さんが掲げる「後悔しない人生を送る」という人生の目的のために、チャレンジしたいと思っていることはありますか? 100個くらいあるんですが、まずは海外旅行に行きたいです。日本一周はしていたんですが海外旅行はなくて、次は世界中の全ての国に行こうと考えています。まず2020年中に4つ行きたい国があるので、それらは全部期限を決めているんです。あとは、複業で月700万円稼ぐことや親に仕送りするなど色々あります。 ― チャレンジに期限を決めているのは素晴らしいですね。最後に、U-29世代の人たちに伝えたいことはありますか? やはり、「いい過程がいい成果を生む」ということを伝えたいですね。本質的に好きなことが何かというのを明確に言語化して、その過程がある複業を選ぶことが重要だと思います。それが分かるまでは「どうしたら成果が出せるのか」といったことばかり求めていましたが、好きなことであれば全部後からついてくるんです。 仕事となると給与や条件をベースに探してしまいがちですが、僕は実際に好きだからこそ複業と合わせて月250万円稼げるようになったので、ぜひ「自分の本質的に好きなものを探す旅」に出てほしいなと思います。その旅でいろんなことに手を出して、いろんな事に挑戦してほしいですね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる ===== 取材:西村創一朗 写真:橋本岬 文:品田知美 編集:ユキガオ デザイン:矢野拓実

「メディアというプラットフォームで日本の未来を作る」株式会社MATCHA CPO 齋藤慎之介の野心

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第52回目のゲストは株式会社MATCHA CPO 齋藤慎之介さんです。 宮城県仙台市で生まれ育ち、明治大学商学部に進学。大学在学中にフィリピン留学、ニューヨーク留学と、海外とのつながりをもちます。そんななか、MATCHAの立ち上げから参加し、卒業後は博報堂へ入社。デジタルマーケティング領域で経験を積み、再びMATCHAへと参画しました。 大学での経験から、将来の方向性を決めていった齋藤さんのユニークキャリアに迫ります。   コロナショックの今だからこそ提供できるMATCHAのサービス  ー本日はよろしくお願いします!株式会社MATCHA CPOという立場で、どのようなお仕事をされていらっしゃるのでしょうか?   株式会社MATCHAは、インバウンド業界のベンチャー企業になります。訪日外国人観光客向けWebマガジン「MATCHA」の運営が主な事業です。多いときで月340万人ほどの読者が世界中からサイトにアクセスしてくれているんです。 僕はCPOとして、メディア全体や新規開発の統括を担っているプロダクトの責任者を務めています。   ーインバウンド業界のコロナショックの影響は大きなものだと思うのですが、MATCHAにおいての変化はありますか? そうですね…いまは観光客が日本にこれない状態なので、メディアのPV数も減っているのが現状です。ただ、そんななかでも増加している部分もあります。 MATCHAは訪日外国人向けに日本の魅力を文化や観光地など様々な角度で伝えています。より広い世界に発信するため、10の言語を使用しています。そのなかのひとつが「やさしい日本語」です。   やさしい日本語というのは、日本語能力認定試験のレベルN4~N5にあたる日本語(基本的な日本語をある程度理解することができる)になります。いま、日本でも「せっかく家にいるなら、英語学習をすすめよう」と思っている人がいるように、時間があるからこそ日本語を勉強しようと考えている外国の方が見てくれているのでしょう。   ー日本にやって来れなかったとしても、世界中の人の助けになっているんですね。素晴らしい取り組みです。   「もっと自由に生きていい」世界が開けた留学体験 ー明治大学に在学中の留学経験が、いまの齋藤さんのキャリアに大きく影響していることと思います。明治大学にはどうして進学されたんですか? 宮城県で生まれ育って、東京に行くなんて考えてもいませんでした。小学校からずっと熱心に野球をやっていて、生活は野球一色で。そんな中学生時代に、父親が「東京にはこんな学校があるんだよ」と慶應の付属高校の存在を教えてくれたんです。当時、名のある監督が慶應の野球部を指導していたこともあって、中学2年生の終りから「高校から慶應に行きたい」と受験に励むようになりました。 しかし、それまで野球ばかりだったため、受験は失敗し…結局、地元の進学校に進みます。大学進学時も慶應が第一志望だったものの、またも不合格に終わりました。その後、1年の浪人生活を経て、明治大学の商学部に進学をします。浪人生活の間、野球から離れていたため、大学では違うことに挑戦したいと思うようになっていました。   ー具体的に、大学ではどのようなことをされたんですか? これも父親からのすすめだったのですが、「海外留学を経験してみたら?」と言われ、それまで海外渡航経験は全くなかったのですが、1年生の夏休みを利用して2ヵ月間のフィリピン語学留学をしました。いまでこそ語学留学先としてフィリピンは人気ですが、当時はまだブームが始まってすぐの頃でした。  僕の「英語」と「世界」に対しての興味が加速していった契機になりました。   ーフィリピン留学ではどんなことを感じ取ったのでしょうか?   大学1年生だったので、それまでの僕の人生を構成するのは、地元の仙台の人たちと、大学で出会った友人だけだったんですよね。振り返ると限られたコミュニティだったことが分かります。でも、留学先には、年齢も職業もばらばらの日本人が集まります。大手企業で働きながら2週間だけ休みを作って英語を学びにきたエンジニアや、自分のブログで発信をしながら留学をするブロガーもいました。 そこに、さらに韓国人やロシア人が加わっていて…たくさんの魅力的な大人に出会うことができました。そして、みんなとても自由に生きているように見えたんです。「ああ、もっと自由に、もっと挑戦的に生きてもいいんだな」とそこで感じ取れたのは、大きな収穫だったと思います。   英語学習は英語に触れる環境づくりから ー人との出会いも留学の醍醐味ですよね。留学後に、ご自身のなかでの変化はありましたか? フットワークが軽くなったと思います。発信することにも興味をもって、ブログを立ち上げました。あとは、英語に対しての意欲が更に増して、交換留学をすることを目指して益々英語の勉強に力をいれましたね。   ー英語はどのように学んでいたんですか? 座学はもちろんですが、話して使うことが大事なので、Facebookで朝活グループを立ち上げました。カフェに希望者で集まって、英語でコミュニケーションをとる会です。結果的にそのグループは300人くらいの規模に成長しました。 また、外国人と触れ合う機会も大切にしたいと思い、カウチサーフィンのホストを積極的に行いました。せまい部屋だったのですが、そこに招き入れて宿として提供し、都内の観光の案内をしていました。やはり、英語を学ぶうえで、一番楽しかったのは外国人とのコミュニケーションですね。 英語の勉強を本気でするなら、自分の身の回りを英語にする、環境づくりが重要だと考えています。カウチサーフィンはそのための手段として適していたんです。   ーその頃から、外国と日本の架け橋を体現していたんですね。MATCHAは立ち上げ当時から関わっていたそうですが、どのような経緯で始まったのでしょうか? 1年生の留学で世界が開けて、2年生の夏には東南アジアをバックパッカーとして旅しようと情報収集をしていました。そのとき、強烈に惹かれるブログがあって、それを書いていたのが現株式会社MATCHA代表の青木でした。彼は世界一周をしながらブログで情報発信をしていて、僕はその読者だったんです。 あるとき、青木が「朝活をしましょう」とTwitterでイベントの呼びかけをしていて、ただ会いたい一心で応募しました。そこで関係ができて、その後も数回顔を合わせるうちに「実は訪日外国人向けメディアの立ち上げを考えている」とMATCHAの構想を聞かせてもらえたんです。そして、「よかったら一緒にやらない?」と誘われて、立ち上げメンバーに加わりました。 当時は、渋谷のシェアオフィスを拠点にしていて、メンバーも学生が多く、学校終わりに集まって記事を書いたり、SNSの更新をしたり…。その後、僕は念願かなって交換留学へ行くのですが、その間もメンバーとしての活動は続けました。   ーまさにMATCHAが誕生しようとする瞬間から立ち会っていたんですね。交換留学はどうでしたか? ニューヨーク州にある、ニューパルツという自然に囲まれた町の大学へ留学しました。「理想のキャンパスライフ!」という感じで、とても充実した1年間でしたね。 交換留学なので、明治大学での学部と同じ分野の授業をとることで単位を取得でます。しかし僕は「せっかくならアメリカでしか学べない授業を取りたい!」という気持ちで、グラフィックデザインやジャズの歴史など、自分の興味が惹かれるまま受講していました。おかげで単位はたったの3つしか取得できなかったものの、とてもいい経験でしたね。 また、アメリカという国でより多様性を意識することができるようになりました。インターナショナルコミュニティに所属し、自分が「日本人なんだ」ということを強く意識する一方で、あまりに多くの人種がいるため、「誰がアメリカ人なんだ」ということが分からなくなるような錯覚があったんです。そんな状況で「国籍って意味がないのかもしれない」「大事なのはいち個人として生きること」だと気付き始めました。   ー日本だと、普通に生活をしていると日本人がほとんどの環境なので国籍について想いを巡らせる機会はなかなか得られませんよね。 また、違った宗教や人種の人たちへの配慮を知りました。日本人として、いままで自覚なくおこなっていた行為が、相手にとっては不快なものや差別的なものに映るんだと知り、反省することも多々あったんです。 日本人の当たり前をそのまま世界に持ち出すと、恥をかく。それを知れたことはいまに活きています。   大手企業で学んだのは人間の基礎力 ーいろんなことを学び、帰国して、いよいよ就職活動となったとき、MATCHAではなく他の企業を選んだのはどうしてですか? 「大きな組織で働くって、どんなものだろう」という好奇心のようなものを抱いていました。一度は大企業で働きたいな、という気持ちがあったんです。それで博報堂から内定をいただいて入社しました。 きっかけは知人が働いていたことですが、もともと「誰かのきっかけになる働きかけって素敵だな」と思っていて、広告という仕事に惹かれていたんです。   ー博報堂ではどのようなお仕事をされていらっしゃったんでしょうか? 1年目から博報堂DYデジタルというグループ会社に出向して、デジタルマーケティングの部署に配属されました。戦略立案や運用のディレクション…デジタルマーケティングに関わることを全般的に経験しました。動きとしてはプロジェクトマネージャーに近かったかもしれませんね。 ー会社員として働きだし、どのようなことを学ばれましたか? なにより人間力を鍛えられたなと思っています。 1年目のときに、チームリーダーから「君は他者への想像力が足りない」と指摘されました。それがいまでも印象に残っています。代理店なので、とにかく相手の視点に立つことが大事なんです。プレゼンにおいてはクライアント目線に、作り上げるメッセージはクライアントのお客様目線に…「どう見えるか」「どう伝えるか」を考えるクセが身に付きました。 また、コミット力も鍛えられましたね。クライアントの成功を実現するためには、なんでもやる。その精神が叩き込まれました。これらは基礎力となって、いまの仕事の土台にもなってくれていると思います。   人生はチャレンジ。変化があったほうが面白い ーその後、博報堂を退職し、一転してベンチャー企業であるMATCHAに再び戻ったのはどうしてですか? 博報堂で働きながらも、ずっとMATCHAの存在は視界の中にあったような気がします。メディアとして成長を遂げていき、資金調達もし、認知度も段々とあがり…。そんな古巣のステップアップを見ながら、自分の中で、「大きな組織の中の、ひとつのチームの、一構成員としてこのまま続けていいのだろうか」という疑問とともに、「もっとダイナミックな仕事をしたい」という気持ちが膨らみました。 博報堂に入社してからも、代表の青木にはよく銭湯に誘われ、サウナで仕事の話をしたりしました。そのたびに、「いつ戻ってくるの?」と声をかけてくれていたんです。もともといつか戻って自分の力を試したいという思いがあったため、「よし、そろそろ」と気持ちが動いたのが2017年の冬でした。   ー大手企業からベンチャーへの転職は大きな決断だったのではないでしょうか? そうですね。給与面でも正直不安はありました。ただ、そのときはお金のことはそこまで気にならなかったんです。それよりも、チャレンジできる環境と、そこで得られるかもしれない成功に対しての野心のほうが勝っていました。 人生はチャレンジの連続で、変化が多い方が断然面白いなと思っています!なので、迷いはなかったですね。   ーその後、CPOに任命され、今年の4月には「The Forbes 30 Under 30 Asia 2020(アジアを代表する30歳未満の30人)」のコンシューマーテクノロジー部門に選出されたということで、目覚ましいご活躍ですね。 媒体資料作成など、泥臭いところからスタートして、メンバーとの信頼関係を築き、本来やりたかったプロダクトのマネジメントを任されるようになったのは嬉しかったですね。 今、コロナショックでインバウンド業界が苦しいときですから、「30 Under 30」に選ばれて注目していただけたのも有難いです。日本を背負ってこの状況を乗り越え、日本の魅力をもっと世界に発信していきたいと気持ちを新たにしています。   ー最後に、今後の展望をお聞かせください。 僕は、MATCHAのことを「日本の未来を作る会社だ」と思っています。日本は少子高齢化が進み、それに伴って地域の過疎化も深刻な課題となっています。これが進行することによって、世界に誇れる日本の伝統文化の後継人がいなくなり、その文化そのものが消滅してしまうかもしれません。MATCHAは、日本の伝統文化を、後世の人に、そして世界の人に伝える活動を続けます。 旅行は人生において新しいきっかけを与えてくれるもので、そのきっかけは、その後の人生を形作る可能性をもっています。外国人が日本で、期待を超える素晴らしい体験をすることで、地域や経済は盛り上がりをみせるでしょう。「日本に来てよかった」と思う外国人を増やす。そんな強いプラットフォームを提供することで、日本の未来につなげます。   ー本日はありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

【徹底した分析と集中】トップ就活チャンネルMC・長内孝平が、公務員志向から起業家になるまで 

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第51回目のゲストは人気YouTubeチャンネル「トップ就活チャンネル」”MCおさ”こと長内孝平さんです。  卒業後、伊藤忠商事で働く傍ら、YouTuberとして活躍。子どもができたことを契機に、退職・起業・移住を実施。現在はチャンネル登録者数33,000超えの「トップ就活チャンネル」、73,000人超えの日本最大級のExcel専門チャンネル「ベスト転職チャンネル(おさとエクセル)」を運営している。 動画プラットフォームを初期から開拓し、起業までした長内さん。一貫してブレない行動の裏には、大学時代からの分析力の成果と、そこから導き出された一極集中型の戦略がありました。 もともとは公務員志向だった。起業家精神が養われた留学 ー本日はよろしくお願いします!大学時代のお話からさかのぼって伺いたいのですが、どんな生活を送っていらっしゃったんですか? 大学は、神戸大学に通っていました。主に留学生支援のボランティアと、外交官になるための勉強に時間を割いていましたね。 父親が国家公務員だったことが影響して、ずっと国務に仕えることを考えていたんです。   ー国家公務員!いまとはずいぶん違う進路ですね。方向転換したのは明確なタイミングがあったのでしょうか?  これ、といったライフイベントがあったわけではなくて、自分の中でずっと考えていたことの先に「起業家」という選択があったという感覚ですね。 当時、自分なりにスティーブ・ジョブスや孫正義など、成功している人を分析していたんです。みんな共通して、一点突破しているんですよね。選択と集中がとにかくうまい。そのストーリーを自分に当てはめて考えてみたんです。 経済学部でファイナンシャルを勉強していて、数字の分析に強い。なおかつ、コミュニケーション能力が高いという自己評価をしています。この自分の強みを活かすとしたら、公務員よりも起業家のほうがスピーディーに社会にインパクトを与えられるなと思ったんです。   ーそれは大学時代のいつの頃のことでしょうか? 大学3年の冬から大学4年の春にかけてくらいでした。それで、もともとは外交官になるから留学はしなくても…と考えていたんですけど、起業家になるなら学生のうちに、と思って休学して大学4年の夏からワシントンへ留学をしました。 ー留学でどんな経験を得られましたか? 私費留学だったので、周りに日本人が多かったんです。その人たちが、起業家精神が強かったというか…自分でメディアを運営して、収入を得ているような働き方をしていました。それまで、僕、ワードプレスすら知らなかったんです。そこで「ビジネスってこうやって作るんだな」というのを見て学びました。 ライターとしてコンテンツ制作の仕事をもらいながら、手を動かして経験を積みました。実際に、現地でできた友人とメディアの立ち上げもして、留学についての情報発信もしていましたね。   ーそれは思わぬ収穫でしたね。ほかに学んだことはありますか? 1年弱留学をしていたんですけど、一番の収穫は「キャリアは流動的なもの」という考えを知れたことです。アメリカと日本だと、キャリアに対しての感覚が全く違うんですよね。転職は当たり前だし、フリーランス文化が強い。そういう環境に身を置いて、なおかつ留学先で起業家の講演に頻繁に触れられ、より強く「起業家になろう」という気持ちが高まりました。   就活は相手のニーズに合わせて自分をパッケージ化すること ーそんなふうに起業への意識が高まっている中、就職をしたのはどうしてですか? 帰国してさらに休学期間を延長し、1年間は学生起業に挑戦したり、ひたすら本を読んでインプットしたりする時間にあてることにしました。ビジネスも割とうまくいっていたんです。そのタイミングで、尊敬している先輩に「せっかくうまくいっているのなら、もっと哲学を深めたら?」とアドバイスをいただきました。 そこから、哲学書を100冊ほど、3か月かけてひたすら読む中で、精神的に病んでしまって…。ある哲学者の言葉に傾倒して、それまでの人生が、虚無なものに思えしまうように。いま振り返れば、人生を豊かにしてくれたとも捉えられますが、あの期間はどん底でしたね。   ーそんな時期があったんですね。どうやって乗り越えたんですか? その頃は盛岡に住んでいたんですけど、わざわざ同意者と話したいがために東京まで行くこともありました。そうやって人と会っていたのは、よかったんじゃないかなと思います。孤独になっていなかったことから、そのうち気持ちも回復してきて。 親に心配をこれ以上かけたらいけないな、と思って就職活動を始めました。   ー伊藤忠商事に就職したのはどうしてですか?総合商社に絞っての就職活動だったのでしょうか? いえ、そういうわけではなく、単純にあまり時間をかけていなかったので、ESを提出できたのが7社しかなかったんです。その中で、一番最初に内定をくださったのが伊藤忠商事でした。それが決め手ですね。 就職活動は、相手が求めているものを的確に把握し、そこに合わせて自分をうまくパッケージ化させることが大事です。総合商社の場合は、ガッツやリーダーシップを求めているので、それに合わせて自分の経験をうまく伝えることができたので、内定をいただけたと思っています。   保守的にならない。「今、やるべき」と思ったらチャンス ーExcelの使い方を分かりやすく伝えるYouTubeチャンネル「おさとエクセル(現:ベスト転職チャンネル)」はどのタイミングで始めたんですか? 卒業前から始めていました。伊藤忠商事は副業ができないので、収益化は全くしておらず、ただただ人の役に立てばいいなという気持ちでコンテンツ作りをスタートしましたね。 また、自分のそれまでの経験から、動画を通じて学ぶことの効率の良さを体感していたんです。それまでExcelを動画で学ぶというサービスがなかったので、マーケットとしてもこのコンテンツは伸びると確信をしていました。    ー会社員生活はどうでしたか? 関わったプロジェクトは様々でしたが、一貫して経理周りを担当していまいた。賢く、素敵な方々に囲まれての仕事は、順風満帆なものだったと思います。その一方で、やりがいを見出すことは困難でした。自分の中で、ライフワークという位置づけに留まっていたんです。 大学時代から、自分のミッションを「いい世の中を作る人を増やす」と掲げていました。けれど、実際は財務や経理、会計の仕事ばかり…。生きるための仕事でしたね。 ーYouTubeの方は、両立してどのくらい活動していたんですか? 3年4か月の会社員生活のなかで、公開できたコンテンツは20本ほどでした。仕事前に早起きをし撮影して、土日に編集…という時ももちろんあったものの、もっとやろうと思えば100本は作れたと思います。そこまで根詰めてやっていたわけではないですね。 それでも、YouTubeはストック性が高いプラットフォームなので、自然と影響力は伸びていきました。それが成熟したタイミングで独立しました。   ー独立したひとつの契機として、子どもが生まれたことも大きかったと聞いています。子どもができると多くの人は保守的な選択をしそうですが…。 逆に、子どもがどんどん大きくなるにつれて、リスキーなことはより避けるようになると思うんです。もちろん、「独立していいんだろうか…」と迷うときはありました。でも、「今やらずに、いつやるんだ」って。 YouTubeのマーケット環境を俯瞰しても、YouTuberとしてのポジショニングも確立していました。年齢的にも脂がのった時期で、「今だな」と確信して、会社を辞めてYouseful株式会社を創業するに至りました。   限られたリソースは、やるべきことに全投下せよ ー会社員としてずっと青山という都会で働かれていたのに、一転、活動の拠点を青森に移されたのはどうしてですか? プライベートとビジネスを両立させるための最適な選択が「青森に移住」だった、それだけです。 現在、青森で両親のサポートを受けながら子育てをしています。そうすることで、ビジネスの時間をしっかり確保することが叶っているんです。僕の仕事は動画を撮ることで、場所はどこだって構わないんですよね。 経営者って、やることを列挙するとキリがありません。でも、自分のリソースは限られている。どこに費やせばレバレッジをかけられるかを見極めて、そこに全リソースを投入できる人が成功を納めます。僕にとって、やるべきことは「動画を撮る」だけです。   ーなるほど。一極集中したことで、チャンネルを伸ばすことができたんですね。 この一極集中する場所は独立する際にとことん考えました。そして明確化されたことによって、人と会うことさえもノイズになったんです。東京にいれば刺激を与えてくれる人たちに出会うことは容易です。でも、いまの僕には必要ない。そうなると、東京に住み続けるメリットは消え、むしろ仕事の時間を増やすことができる青森での環境の方が魅力になったんです。 現在は、組織作りも完成していて、編集も、メディアのマネージャーも、演者も、複数人体制で回しています。そうすることで、純粋に僕は動画を撮ることだけに集中できる。これが他の追随を許さない要因となっています。   ー今後はどのようにビジネスを展開させていくご予定ですか? いままで、就活や転職といった働き方においての「点」を抑えるコンテンツを作ってきました。今後は、さらにスキルアップという軸を加えて、大量にコンテンツを作っていく計画です。 追っているのはチャンネル数でも、再生時間でもありません。視聴者に最高のUXを提供すること。そこを変わらず大事に、継続していきます。   ー本日はありがとうございました!   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる   === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

コミュ障のシステムエンジニアからイベントアクセラレーターに転身した西舘聖哉の原点とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第109回目となる今回は、システムエンジニアの経験を持ちながら、現在はイベントアクセラレーターとして活躍する西舘聖哉さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 東京のIT企業に就職すると決めて勉強に励んだ学生時代。システムエンジニアを目指して上京した西舘さんを待っていたのは、予想外の部署への配属でした。当初の希望とは異なる道に戸惑いながらも、業務に邁進する日々。そんなとき、社外イベントに参加したことをきっかけに、イベントの持つ魅力に気づきます。 今や月間10本以上のイベント運営を支援するほど、引っ張りだこな西舘さん。さまざまな経験を積んできた人生だからこそ伝えたい、熱い想いと今後の夢がありました。   イベントアクセラレーター 西舘聖哉の誕生 ー本日はよろしくお願いします!まずは、自己紹介をお願いします。 イベントアクセラレーターの西舘です。イベントを「加速」させることを目標として、支援する仕事をしています。僕を表す言葉を持った方がいいなと思い、自分で「イベントアクセラレーター」という肩書を付けました。 大学卒業後、システムエンジニアとして株式会社富士通ビー・エス・シーに新卒入社しました。ひょんなことから仕事でファシリテーターを務めたり、社外活動も増えたりしたことで、少しずつイベントに興味関心が向くようになったんです。転職を経て独立し、システムエンジニアとイベントの仕事を並行して行い、現在はイベントの仕事を主軸に、製品プロモーションのお手伝いなども取り組んでいます。最近は、ありがたいことに大手企業の方からも声をかけていただける機会が増え、特にイベントのオンライン化のサポートに力を入れています。   ーイベントアクセラレーターとして、具体的にはどのような業務をされているのでしょうか? 自分でイベントを主催する場合は、企画立案からクロージングまで、全工程を行います。具体的には、オフラインであれば会場の確保、スケジューリング、集客など、イベントの運営に関わること全てを含みます。イベント運営を手伝う場合は、困っている点を伺ってピンポイントにサポートをします。加えて、相談されなかったところも、相手が迷っていると判断したら首を突っ込んで、イベントの終了まで併走しています。   ー全工程を任せられるとなると、相談する側も安心して依頼できそうです。オンラインイベントが浸透する前後で、問い合わせ状況にも変化があったのでしょうか? 実は、オフラインでイベントを開催していた頃は、そこまで依頼数が多くなかったんです。主催イベントを月に1本やることは決めていましたが、軌道に乗ってきたときも、主催1本・外部サポート2本で、月に3本あれば多い方でした。それが、現在は10本以上。1日に3本のイベントをこなす日もあり、まさかこんな大きな変化が起きるとは驚きでした。 もともと僕は、比較的早い段階でオフラインからオンラインへ切り替えていました。その際に得たナレッジとしくじり談が溜まり、「イベント運営で気をつけた方がよいこと」をSNSで発信していたんです。5月中旬頃に世の中でもオンライン化が活発になったことが重なって、サポート依頼が多く寄せられるようにました。   ー3倍以上の本数に...!需要が急増した様子が伺えます。中には、これまで見られなかったような依頼もあったのではないでしょうか? 大手企業に対し、細部にわたってアドバイスをするようになったのは、オンライン化が進んで以降の出来事ですね。僕は以前から、前職の親会社にあたる富士通の会場を借りて、イベントを開催させていただいたりしていたのですが、今回のオンライン化で仕事として話をいただいた時は驚きました。 このように「社内でオンラインセミナーをしたい」というニーズが出てきたときに、イベント担当の方やゲストスピーカーが「イベントのプロに依頼しよう」と僕を呼んでくださる機会が増えていったんです。深い部分に入り込んだアドバイスをするようになるとは、これまでの自分であれば思ってもいませんでした。やはり誰しも、やるからにはできるだけ失敗したくないですよね。その安心材料として、僕という存在が、たまたまイベントのプロとしてのポジションにうまく入り込んだ感覚がありました。   ーイベントのオンライン化が進んだことで、依頼内容にも大きな変化があったんですね。 僕はもともとIT企業で働いていたので、以前から「オンライン化はやった方がいいんだろうな」と思っていました。最近は、無料または安価でライブ配信可能なツールがたくさんあります。そういったツールを、僕は常に自分で事前にトライしてから、「これは使える!」と確信を持った上でおすすめしてきました。 実は、オンライン化によって楽になることがたくさんあります。会場を抑える必要がなかったり、飲食物の準備がいらなかったり、終電時間を気にして時間設計をせずに済んだり...。なので、新型コロナウイルスが落ち着いて、オフラインイベントが無制限に開催できるようになったとしても、僕はオンラインイベントも継続していきたいと思っています。圧倒的に手間が少ないところは、やはり魅力的。オフラインのイベントをオンライン配信するなど、ハイブリッドなやり方にも挑戦してみたいですね!   「システムエンジニアになりたい!」追いかけ続けた夢 ー今やイベントのプロとして大活躍の西舘さんですが、以前は現在の仕事内容とは全く違うことに興味を持っていたと伺いました。 そうなんです。もともとはIT、テクノロジーの分野に惹かれていて、高校生の頃から「将来はIT企業に就職する」と決めていました。僕は北海道札幌市の出身なのですが、地元に情報系の専門学校があり、大学とのダブルスクール制度を利用してITについて学ぶことができたんです。当時、「ITの最先端は東京だ!」と思っていたので、最初から東京就職を目指していました。   ーITに興味を持っていたんですね! 今思えば安易だったなと思いますが、中学生の頃に学校へ来てくださっていた先輩が、「工業高校に入学すると就職先に困らない」と言っていたのをそのまま信じ、受験直前の進路相談で受験先を変更したんです(笑)親もこれにはびっくりしていました。最後は直感で工業高校の情報コースを選び、無事に合格することができました。 高校では、C言語などのプログラミング言語の触りのようなことに挑戦できる機会に恵まれました。「こういう仕事なら楽しくできるのでは」と思って調べていくうちに、システムエンジニアという職があることを知ったんです。進路担当の先生に相談したところ、高卒だと専門知識に乏しく、システムエンジニアになることは難しいだろうと...。 ちょうどその頃、のちに進学することになる専門学校の方が学校説明で高校に来る機会がありました。そこで話を伺って進学を決め、当初は専門学校だけに行こうと考えていました。ダブルスクールであれば大卒資格も取得可能だと知った親に、「大卒も取っておいたら?」と言われたことで方向転換し、ダブルスクールの道に進むことを決意。いずれ社会に出るのであれば、それなりに準備をしておいて損はないと思っていたので、就職ではなく進学を選ぶ抵抗感はありませんでした。   ー学校を卒業後、1社目の会社とはどのようにして出会ったのでしょうか? 就活時も東京で就職したい気持ちに変わりはなく、東京にある会社を主軸として受けていました。そうなると、僕の場合は北海道と東京の往来が必須。限りある滞在時間内に、可能な限りの選考を詰めていました。たとえば、1日目の朝に出発して4日目の夜に戻るとすると、4日間で7社受けて北海道へ帰る。このような生活を繰り返していましたね...。 システムエンジニアになりたかったので、SIerのポジションがある企業の選考を中心に受けていました。当時の僕は、どの業種の開発をしているか程度しかきちんと見おらず、会社そのものに対してのこだわりはあまりありませんでした。のちに入社することとなる富士通の子会社にあたる株式会社富士通ビー・エス・シーは、SI系の領域を担当していた会社だったため、企業を検索していたときに偶然出会ったんです。正直、まさか受かるとは思っていませんでした。ボーダーフリーの学校に通っていた僕が、富士通という名のある冠がついたメーカー企業に入社できるなど、想定外の出来事。入社後、同期から「その学校からよく受かったね(笑)」と少し馬鹿にされましたが、僕自身もそう感じるほど驚きました。 今でこそ言える話ですが、他社の選考日程上、たまたま富士通ビー・エスー・シーの近くに行く予定があり、記念受験のつもりで受けたんです。そんな気持ちだったのに、いざ参加してみるとすごくいい説明会で(笑)感銘を受けた僕は、その場で採用担当者に「僕、ここ受けます!」と言って話し込んだのを覚えています。その結果、まさかの内定。連絡をいただいたときは、本当に涙が出たほど嬉しかったです。   ー歓喜の想定外だったんですね。当時は、大手企業を中心に受けていていたのでしょうか? 東証1部に上場しているSIerばかり受けていましたね。でも、きちんと人や学力を見るような会社だと、お見送りになることも多く、それなりに多くの選考に挑んでは落ちてを繰り返していました。富士通ビー・エス・シーに内定をいただいて涙が出てきたのも、実はかなり就活に疲れていたからだったんです。北海道と東京を行き来しながら相当数の企業を受け続ける毎日。こんな生活が2〜3ヶ月続いていました。僕にとってトップクラスで働きたいと思える企業からの内定は、本当に救われる思いでしたね。   想定外の配属。でも、この経験なくして今の自分はいない ーいよいよ、憧れのシステムエンジニアに。そこで待っていたのは、西舘さんが想定していたものとは異なる業務だったそうですね。 当時の僕は、システムエンジニアの全ての仕事内容を把握していませんでした。プログラミングしか意識しておらず、それができる仕事だと思っていたんです。ちょうどその頃は、スマートフォンが流行っていたので「関連部署に行きたい」と伝えたところ、幸運にもスマートフォンの仕事を取り扱っている本部への配属が叶いました。その中でさらに3つの部署に分かれており、1つはプロモーション部署、もう2つが開発部署です。人員配置の結果、僕はプロモーション部署への配属が決定しました。この時点で、エンジニアルートからは外れたと言えます。加えて、配属から1ヶ月後には、そのプロモーション部署が、営業系の仕事を扱う本部に異動することになったんです。 「僕はこれからコードを書くんだ」とばかり思っていたので、衝撃的でした。資料作成をしたり、製品ブラッシュアップの会議ファシリテーションを任されたり...。本部長に話に伺うこともあり、「なぜ、新人の僕が偉い人のもとへ話をしにいかなければいけないのか」と思うこともありました。本当に怖かったです。一方で、難しいことも率先して新人に任せてくれるような環境に対する感謝もありましたね。   ー今の西舘さんにつながるファシリテーションとの出会いは、1社目にあったんですね...! 初仕事で、「まずは展示会に行ってこい!」と送り出してくれた上司の存在もあって、会社外の方、目上の方と話すという場においてのコミュニケーションの基本などを、1社目で経験させてもらいました。「ここにいなかったら今の自分はない」と、本当にそう思いますね。コードを書くだけの仕事だったら、きっと社内の出世競争に巻き込まれながら、ひたすら机に向かっていたでしょう。正直大変なこともありましたが、この経験をしていてよかったと感じています。   ーその後、社外イベントに足を運ぶようになったそうですが、何がきっかけだったのでしょうか? 上司のすすめで展示会に行けば行くほど、フットワークが軽くなっていったんです。その結果、「会社の外の世界にも楽しいことはたくさんあるんだ」と気づきはじめました。 もともと、プロモーション部署として他部署との連携も多いことか、社内イベントや飲み会の場では、「どこにでも現れる人」として認知されていました。活動範囲が広まることでだんだんと、自社内だけでなく富士通本体の社内イベントやセミナーにも顔を出すようになり、「どこにでもいるキャラ」はますます濃くなる一方(笑)親会社でコミュニティ運営をしている方と仲良くなっていくうちに、催し物に対する抵抗感が薄れていく感覚があったんです。大手企業ということもあり、社外の方や著名な方と関わる機会も増え、イベントに行くことそのものの楽しさを覚えていきました。   ー仕事柄、社内外の人と会う機会が増えていったんですね。 社会人2年目の終わり頃に、「同年代のすごいエンジニア」にまつわるIT系のニュースが目に留まりました。そこに掲載されていたエンジニアさんを見たとき「この人に会ってみたい!」と直観的に思ったんです。振り返ると、本格的に社外に出る大きなきっかけでした。僕の場合、人がトリガーだったんです。何かを学びたいというよりは、その人に会いに行こうとする気持ちが、一歩を踏み出す勇気に変わっていきました。 その方に実際に会うことが叶い、発想はすごく天才的なのに、人間臭いところに好印象を持ちました。「ネットで紹介されている有名人」が「人間」に変わった瞬間でした。そのイベントを通して、「有名人も意外と身近な世界にいるのかもしれない」「自分でもこういうところに来ていいのかな」と思うようになりました。もう一つ、大きな衝撃として、その人はすごく楽しそうにテクノロジーの話をする方で、周りに集まっている人も同じように楽しそうに話す人が多かったんです。やはり、人は似たような人の周りに集まるんだと思いました。 こういう経験を重ねるうちに、社内より社外に目が向くように...。社会人3年目のときには、終業後の時間を使って、年間100回程度のイベントに足を運ぶまでになりました。セミナー、ワークショップ、読書会などなど...休日も利用して積極的に顔を出していましたね(笑)   ー人に惹かれたことがはじまりだったとは。素敵な出会いですね。 そこからは、完全に人が起点となって、つながりが増えていきました。 イベントに何度も行って話をしていると、だんだんと顔を覚えてもらえるようになるんです。そうすると、「こういうのも面白いから行ってみたら?」と、次のイベントを紹介してもらうことも増えていきました。新しいコミュニティに足を運ぶ抵抗はなかったので、行ってみると「この子、最近よく来る子なんだよね」と、周りに紹介していただけるように。そのうち、話を聞きたい人も知りたい内容も、消化できないくらいに増えていきました。   ー順風満帆に見える当時の西舘さんですが、ちょうどこの頃1社目を退職。何がきっかけだったのでしょうか? 退職した理由は2つあります。1つは、最初に志したプログラミングを一度きちんと仕事にしたかったこと。それでずっとやっていくというよりは、一度経験しておきたかったんです。もう1つは、若いうちに外の世界を経験しておきたかったという理由です。  今思えば、当時はすごく斜に構えていたと思います。ネットで「今は積極的に動いた方がよい時代だ」という言葉が目に留まる一方で「3年間は同じ会社にいた方がよい」と言われ続けて育ちました。そういう社会の風潮も感じていた中で、「果たして本当に3年いるべきなのか?」と疑問を持つようになったんです。そして、約2年半で退職することに決めました。今思えば、調子に乗っていたなと思う部分もあります(笑)「世の中に逆らうんだ!」という意識があったので、3年経たないうちに辞める決断をしました。 当時から、将来的な独立を視野に入れつつ、転職活動をしていました。結果的に、プログラミングのできる会社への入社が決定。働きながら、その会社で自分を伸ばしていくか、独立するかを考えていこうと思っていました。   ー1社目と2社目で違いを感じる出来事はありましたか? まず、社員数が大きく変わりました。2000人を超える会社から100人以下の会社になったんです。そうすると、もちろん企業の充実度が違えば、お客さんとの関係性も異なります。大きい企業にも小さい企業にも、いいところもあればそれぞれの歪さもあるんだと気付きました。約1年間、エンジニアとして勤務しましたが、だんだんとこの会社で長く働くことは難しいと感じるようになりました。「この仕組みの中で、ずっと自分の活動を並行して継続し続けるのは厳しい」そう思い至り、独立に向けて本格的に動き始めます。   天職との出会い。イベント運営の醍醐味は「人間臭さ」にある ー少しずつ違和感を感じることが増えていったんですね。それまで数多くのイベントに参加されてきた西舘さんですが、運営側にまわったきっかけはなんだったのでしょうか? 知り合いが、Facebookでイベント運営メンバーを募集していたところに、僕が手を挙げたことです。その方は、もともと僕がトークを聞きに行ったことのある方で、Facebookを通して以前からつながりがありました。その頃、ちょうど僕自身も運営サイドにまわりたいと思っていたタイミングでした。名乗りをあげたところ、快く運営メンバーに招き入れてくださったんです。  正直、このお手伝いは単発で終わると思っていました。そのとき、出演者のひとりが、「第2回は自分がやります!」と宣言。すると、運営に非常に熱量高いメンバーが集まっていたこともあり、次回開催に乗り気になる人が何人も...!「西舘くんも手伝ってくれる?」と声をかけてくいただき、もちろんその場で即快諾。実は、次のイベント会場は長野県だったのですが、喜んで行く気持ちでした。その結果「こいつは長野まで来るやつなんだ」と思われたんだと思います(笑)  運営メンバーとして、東北や九州の開催にも立ち会わせていただきました。このとき僕が担当していたのは、会場の電子機器周りの全て。ITの勉強をしていたり、エンジニアだったりした経験が活きた瞬間でしたね。今思えば、この経験が今のオンラインイベント開催の仕事にもつながっていると感じています。   ー素敵な巡り合わせですね!参加者側から運営側に移ったことで、感じる楽しさに変化はありましたか? これは天職だと思いました。 昨年、3日間の合宿イベントに参加しました。そのとき、運営のみなさんが困っている様子を見て、助けたくてうずうずしている自分に気づいたんです。このときには、「運営をしたい」という気持ちの方が、参加を楽しむ気持ちより強くなっていたのでしょう。イベントの熱量が一番高いところにいれる感覚は、自分が主体的に入るからこそ味わえる感情です。一緒に準備して、一緒に回して、トラブルも解決し、やりきって、さらにそこから楽屋トークに移る...。あの、人間臭さが1番出る楽屋トークがたまらなく好きなんです。現在は参加者よりも運営者であることに強い魅力を感じます。参加者としてその場にいる時も、「このイベントはどのように運営しているんだろう」という目線で見ていることも多いです。   ー天職だと言い切るところに、西舘さんの熱い想いを感じます。今と昔の自分を比べて、変わったなと感じることはありますか? 昔は、会話の間合いや相手の感情をはかることが苦手だったんです。今でこそ言えますが、小学校と中学校は、友達がいない生活を送っていました。1社目でも同期から「コミュ障」と言われ、いつしか、自分はコミュニケーションが苦手なんだと思うように...。でも、1社目の経験から、少しずつ喋れるようになって。そこから、「コミュ障と言われ続けたけれど、きちんと喋れる自分もいるんだ」と、自己認識できるようになっていきました。学生時代に友達がいなかったことが嘘みたいに、今はとても多くの方に支えていただいています。ご縁を周りにどんどんつなぐようになったのも、大きな変化だなと感じますね。 ITを生活の一部に、もっと身近に ー最後に、西舘さんの今後について聞かせてください。 実は、僕はまだ特に大きな目標を持っていません。今はこの変化の激しい時代の中で、その場その場で起こることを楽しみながら、大切にしていきたいなと思っています。一つひとつを意識して、自分の日常に取り入れながら生きていきたい。また、いろいろなことを積み重ねてきた自分だからこそできるような何かを発信していきたいと思います。 最近、働き方改革やキャリアなどをテーマにしたイベントで、モデレーターを務める機会も増えてきました。そうした機会の中で自分が伝えたいことを考えてみたんです。それで思い至ったのは「デジタルをもう一歩身近に感じてほしい」という想いでした。僕は、自分の持ち合わせる知識をクローズにするつもりはありません。僕に相談してくれた結果、「このPC使ってみようかな」「デジタル化をやってみようかな」と思う人が一人でも増えてくれたら、それが何より嬉しいです。そして、そのような人がすこしずつ増え、世の中のITリテラシーが向上したら素敵だなと思います。そういう活動がもっと伸びていくようであれば、よりビジョンを明確にして会社も経営してみるのもありかなと考えていますね。 すっかりイベント屋になった今でも、テクノロジーが大好きなことに変わりはありません。最近だと、配信に使えそうなハードウェアを買いあさって、映像を合成したり、カメラで撮影してみたり、動画を編集したり...。今、自分の周りにあること、手の届きそうなことを吸収して、これからのオンラインイベントを作っていく一人になれたらいいなと思います。今足りないピースは、これからの挑戦でどんどん補っていきたいです。 ー今日はありがとうございました!西舘さんのさらなるご活躍が楽しみです! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材・執筆:青木空美子(Twitter/note) 編集:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

UXリサーチャー・松薗美帆さんに聞く!社会人学生として「好き」を貫く選択

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第148回目のゲストは、株式会社メルペイのUXリサーチャーとして働きながら、現役大学院生という肩書を持つ松薗美帆さんです。 株式会社メルペイでUXリサーチャーとして働きながら、大学院に進学した松薗さん。「社会人学生」として、自分の「好き」を貫く人生を生きている松薗さんに、UXリサーチャーの魅力と「好き」を貫く人生の生き方についてお聞きしました。 UXリサーチってどんなお仕事? ー本日はよろしくお願いします。まずは松薗さん経歴についてを教えてください。 もともと地元は九州で、大学進学をきっかけに東京に来ました。ICUで文化人類学を専攻。卒業までユーザーインタビューや現地のフィールドに実際に入って調査をするみたいなことをやっていて、卒業後は新卒でリクルートに入社をしました。その後、 UXデザインの中のさらに専門職であるUXリサーチャーという職種で、株式会社メルペイに転職して、今年の4月から大学院に通っています。   ーありがとうございます。ちなみに現在されているUXリサーチャーという仕事はどんなお仕事なんですか? プロダクトとかサービスの企画にあたってUXデザインはよく重宝されるスキルですね。 企画の時の大事なの考え方とか、うまくいくやり方の体系的な方法論みたいなものでして、ユーザー中心に考えてサービスをもっと良くしていくための方法ですね。 ユーザー中心に考えるためには、ユーザーさんに実際にインタビューしてみたり、考えている途中の企画を、ユーザーさんに実際に触ってもらってフィードバックをもらうことも。 企画を作るためのアイデアをもらうためのリサーチ、アイデアをもっとよくしていくためのリサーチをやっています。   ーUXリサーチはユーザーさんから直接直接お声をいただいたものを元に、サービスを良くしていくのですね。ツールを使って調査するのがメインなのかなって思っていました! そうですね。ツールを使うこともあるんですけど、ユーザーインサイトみたいなものをとにかく定性的に、定量的にも集めるっていう感じです。   ーなるほど。あくまでユーザー目線が大切になるってことですね。実際にユーザーインタビューのどんなところに、面白さを感じたのか教えていただいてもよろしいですか? 私は普通の人は誰もいないと思っていて、すべての人や場所にユニークなストーリーがあると思っています。インタビューをするたびに、毎回いろんな発見があって、自分の人生の見方が豊かになっているような気がして、それをお給料が貰える仕事としてやれるのがすごい最高だなって。 いろんな視点を知っておくと、電車に乗っている時も、乗客の人にもそれぞれ面白いストーリーが絶対あるんだろうなって思えるんですよ。仕事だけでなく、日常のワクワクにもつながっているのも仕事の面白さでもありますね。   ーすごい!自分の仕事が日常のワクワクにもつながっているというのはまさに天職ですね。UXリサーチャーの方は、ユーザーさんの生の声などを分析して実際の業務に反映すると思うのですが、どんな判断軸で業務に反映されてるのでしょうか? ビジネス上結果につながらないと、UXリサーチャーの存在意義はないと考えています。現在の課題を見つけてその課題を解決することを優先度高くやっていくので、学術的なリサーチとは違うんですよね。ユーザーの多様な意見の中の似ているところを見つけたり、同じ価値観を見つけて、実際の業務に反映させることが多いです。 あとはビジネス的な視点に加えて、今までは見つけられなかった軸で挑戦もします。単純に自分的に面白い発見だったとしても、ビジネスで成果が出なければ意味がないので、あくまでビジネスで成果を出せそうなことですね。   自分の好きな英語がコンプレックスに ーちなみに大学で文化人類学を専攻されてたってことなんですけど、文化人類学に興味を持ったきっかけはなんですか? 実は大学を選んだときは、文化人類学を知りませんでした。私はもともと途上国開発とか仕事をしたかったので、開発学を学びたかったんです。でも、私の大学は2年ほど、いろんな授業を受講して、3年目から自分の選考を決めるリベラルアーツ教育をやっている大学だったので、とにかくいろんな授業を取りました。 その中のひとつに文化人類学の授業があって、授業中に教授が、「人類学ってのは相手の目から見た世界を知ること」って仰っているのを聞いたのがきっかけですね。教授の話を聞いて、途上国開発を知るよりも、その国に住んでる人のを見てる世界とかを知りたい方が強かったなと自分でも気づきました。 あんまり聞いたことない学問だし、親には「文化人類学なんて金にならないと思うよ」って言われたんですよね。でも「研究者になるわけじゃないし良いかな」って気持ちで文化人類学を専攻することにしました。   ーそうなんですね!中学に入学して、まず最初にアメリカにホームステイをされたっていうことなんですけれども、こちらはどんなきっかけがあったんでしょうか? 中学生ぐらいのすごい前の話なんですけど、小学生ぐらいからずっと英語を勉強していましました。海外はテーマとしてすごく興味があったんですけど、自分の住んでいた鹿児島市に交換留学制度みたいなのがあって、応募したら受かったって経緯ですね。 私の知っているアメリカのイメージと結構違って、ヒスパニックの感じというかちょっと怖そうなお兄ちゃんって感じの方がいました。最初は自分も気づかなかったんですけど、よく考えたらお母さんいない家庭だなぁって。 よく遊びに来るお母さんみたいな人がいたんですけど、英語が話せないので、事情はよく聞けなかった。お父さんは移住してきた方なので、英語がほとんど話せず、お兄ちゃんにあたる人だけが頼りみたいな感じの家庭でしたね。   ーそこから国連のNGOなどに興味を持ったとのことなんですけど、ホームステイとどういうつながりがあったんですか? 実際にホームステイに行ってみて、全然英語はやっぱ通じなかったのがすごい悔しかったんです。もっとしゃべれるようになりたかったですし、海外に行きたいと漠然にそう思っていました。 あとは中学生の時に「世界が100人の村だったら」って本がブームでして、それのワークショップをやる機会がありました。実際に100人の村人になって、自分の役割を作るワークショップをした経験がすごい印象に残っていて、世界中の困っている人たちと関わる仕事がしたいと思っていたのです。   ー「世界が100人の村だったら」は当時流行ってましたよね!そこから国連やNGOに行きたいと思われて、大学にICUを選んだ理由は、国連やNGOを見据えていたからですか? そうですね。でも第一志望は違う国立を目指していました。ICUは英語にかなり力を入れている大学で英語ができる前提の大学なんですよ。私は受験の時は英語が1番得意な科目だと思ってたし、テストで点数を取れる稼ぎ頭でした。でも大学には帰国子女や留学生の方が多くて、英語のテストで一番下のクラスだったんですよね。 海外経験のない日本人を「純ジャパ」って呼んでるんですけど、うちの大学では「純ジャパ」はどちらかというとマイノリティ。留学に行ってるか、子供の頃は海外で過ごしていた方ばかりでした。でも自分には受験英語しか経験がなくて「こんなにできないのか」て入学してすぐに、できない自分にコンプレックスを抱えるようになったのです。 大学は寮暮らしで、みんな日常的に英語コミュニケーションを滑らかに行っていました。でもその一方で、自分の思っていることをうまく伝えられない自分がいて、学校英語では会話がほとんどできないんだなってショックを受けた感じです。国連やNGOも、海外の大学院などに出なければ就職するのが難しい職種。バリバリ英語が話せる人たちと戦うと知って、ズタボロになりましたね。   ー英語を当たり前のように話せる方ばかりが周りにいると、劣等感を抱いてしまいますよね。今は英語ができないコンプレックスを克服できているのですか? 今も英語がそんなにできる方ではないと思っています。大学ではNPOで働くようにして、海外の途上国というテーマとはちょっと違うんですけど、引きこもりの支援というのを国内でやっていました。 英語がハンディキャップにならない環境の方が、自分の力が発揮しやすいって理由もあります。また思い描いていたテーマと違っても、自分が実際にやってみて、関心を持てるようになることならテーマってよりも、自分の働き方や仕事に打ち込めるかどうかの方が大切だなと。   ー英語を使わずに活動することで、自分のできることをどんどん見つけていったという感じですかね? そうですね。大学の途中から地方活性化みたいなテーマで論文を書くようになったんですけど、地域活性化と途上国開発は課題とか構造とかが似ているような所もあって、地域活性化にはまったっていう感じですね。   ー地域の活性っていうのは具体的にどんなことをされてたんですか? そうですね。島根県の津和野町という小さな町を拠点にしていました。津和野町は若い人を呼び寄せて地域おこしをやっている先進的な町でしたので、私はインターン生としてそこに携わるようになりました。 農業とや観光などいくつかのテーマごとに、学生たちがプロジェクトを作って、現地の人と協力して一緒にやっていく流れ。私は何かをやるというよりも、みんなの活動を観察して、こで得た知識や経験を論文にまとめていました。   リクルートで感じた仕事に対する違和感 ー地域おこしの活動を経て、リクルートに入社されたんですよね。なぜリクルートに入社しようと考えたのですか? 地域おこし協力隊の制度を使って町おこしを仕事にする道に進むか、リクルートを選ぶかの2択で、最後まで悩んでいました。会社に勤める選択肢だと、最初から自分がバリバリ仕事ができるいわゆるベンチャー的な企業が良かったんです。下積みが長いのは自分には合わないなと。だからすぐに活躍できるフラットな社風がいいなって考えていました。 インターンシップで島根に行っていた時にお世話になった方が、もともとリクルートの起業家の方で、当事者意識がすごくあってリクルートの社風そのままの人でした。 就活でリクルートと地域おこし協力隊の選択肢があって、最初は地域おこし協力隊にしようと、リクルートを断ったんです。でも当時のリクルートの人事の方に、「地域おこし協力隊を3年終えた後に自分ができるようになっていることを想像してほしい」と言われたのです。 地域おこし協力隊から中途でリクルートに入ろうと考えると、経歴が特殊なキャリアになるため、入れるかわからない不安もあります。さらに地域おこしを自分が生涯かけてやりたいテーマなのかどうかが確信を持てない自分がいること。そして、興味、関心がその時によって変わってしまうこと。 だからまずはリクルートに入社して、働いているうちに、地域おこしをやりたいと思ったら、そっち行けばいいと考え、リクルートに入社しました。   ー島根のインターンシップでの出会いがリクルートの入社に影響を与えていたんですね。新卒入社されて最初はどういったお仕事をしていたのですか? 最初は人材系のグループ会社で、タウンワークやとらばーゆをやっている企業のデジタルマーケティングをしていました。 最初は面白いと思っていたんですけど、億単位の予算の仕事を任されるので、ずっと数字を追うように仕事をしていたのです。あまりユーザー近くない仕事をずっとしていたため、なんのために仕事をしているのかがわからなくなってしまいました。   ー扱う金額が大きすぎると全体感として見れないっていう感覚はありますよね。仕事の意義が感じられないみたいな思い悩むところがあったと思うんですけど、そこから社内でジョブチェンジされたんですよね? デジタルマーケティングを勉強しているときは、新しいことを学ぶことは面白かった。でもしっくりこないと思っていた時に、「文化人類学を昔学校でやっていた」っていうのを社内で話す機会があったんですね。その時に上司に「UXデザインとかそっちの仕事が向いているんじゃない?」と言われました。その時はUXデザインをよく知らなかったし、開発に近い仕事はかなり専門性が高いので、経験のない自分は無理だろうなって。 でもいろんなタイミングが重なってUXデザインの部署に異動になったんですよね。   UXのキャリアの始まりと転職 ー部署異動から松薗さんのUXのキャリアが始まっていくと思うんですけど、最初はどんなお仕事から始められたんですか? 初めはエンジニアと一緒に開発の勉強をするところから始めました。UXをやりたいと言ってみたものの、やっぱり開発の知識プログラミングとかプロダクトは作れなかったので、まずは勉強し始めました。 でも勉強しているうちに「あれ?自分には合わないかも」と思うようになったのです。自分の運が良かったのか、WEBディレクターが足りないと社内でなりましてプロダクトマネージャーの方が合っていると感じ、少しずつシフトしていきました。 はじめはそのプロダクトの意思決定をするプロダクトマネージャーの見習いから入って、その中でUXの知識が必要だったので、少しずつ身につけていった感じですね。   ーなるほど。専門的な分野の知識習得って大変なイメージなんですけど、どうやって毎日学びを続けられたんですか? やはり、会社に教えてくれる人がいたのが大きいですね。あとは休みの日にウェブ上のサービスで学んだりしていました。専門的な知識をつけていくうちに、UXデザインが楽しくなりました。   ーそこから今の会社に転職されたのは、どういうきっかけがあったんでしょうか? そうですね。リクルートではプロダクトマネージャーにもいろんな業務があって、ディレクションや企画を作るなど本当に多岐にわたる業務があるんですね。業務の中で、プロダクトマネージャーとして突出した部分が必要だと思って、自分はそこには到達できないと感じました。 自分の強みがなければ、何でも中途半端にしかできない人でしかないと思うようになりまして。プロダクトマネージャーとして、自分が得意、好きだなと思えることを考えるようになりました。 ユーザー調査をしてから企画を考えることが大学でやってたことに近くて好きですし、他の人より得意かもしれないと思えたので、その分野でまずは突き抜けた方が、一本柱のあるプロダクトマネージャーになれるかなって思っていた。 ただリクルートにはユーザー調査だけの専門家の職種がなく、ジェネラリストであることの方が推奨される会社だったんですよね。自分がやりたいことは、UXデザインの中でも、UXリサーチと結構特殊な一業務のスペシャリストでした。 アメリカではUXリサーチの担当部署もあるんですけど、当時の日本ではUXリサーチ専門の人がいない状態。そんな時にメルペイが、UXリサーチをメイン業務としたい人を応募していたので、そこに飛びついたって感じですね!   ーこれからUXリサーチに挑戦してみたい人や、興味がある人に向けてアドバイスをお願いします! そうですね。UXデザインは企画やプロダクトに携わる人はみんな知っておいたほうがいいと思っています。プロダクトの企画に携わらなくても、セールスでプロダクトを売る相手をユーザーだと考えると、業界のリサーチは必ず行なっているはず。だからどんな人でも勉強しておいて、損はないかなって。   ー確かに業界のリサーチはどんなセールスでも行うため、必要なスキルになりますね。ちなみにどんな人がUXリサーチャーに向いている人だとお考えですか? リサーチのプロセスを楽しく感じられる人や、ユーザーインタビューを楽しんで続けられる人ですね。 UXリサーチは企画を作っていて、華やかなイメージを持たれがち。「UXリサーチャーになりたい」って声をよくいただくんですけど、思ったよりも泥臭くて、インタビューの為の日程調整やインタビューの文字起こしをして、分析をしています。だから、泥臭いことを楽しめる人が、向いているんじゃないかなと。 UXリサーチはスキルやものの考え方とかも書籍やインターネットで学べるので、実際に学んでみて、面白そうと思ったら自分は向いているかもと分かるかもしれないなと思います。   社会人学生という道を選んだ理由 ー松薗さんの個性というかあの形作るものをとしては社会人学生というところなのかなって思うんですけども、就職したまま学生になろうと思ったきっかけはなんですか? 自分が大学生の時は、自分が大学院に進むとは全く思ってなかったんです。でもUXデザインをやっていく中で、UXデザインを専門的にで学んでたわけじゃなかったので、そういう学部出身の方を見ると全然知識が足りないなぁって。 もちろん実戦経験はありますが、専門的な知識を深く知らなかったり、体系立てて深く理解しているわけじゃないので、たまたまうまくいっただけで再現性がないんじゃないかなとかそういういうところを考えた。 あとは海外に住んだり、学んだりしたいって気持ちがずっと残っていて、自分の英語力にコンプレックスもあったので、それを克服したいなと。   ー学生時代のコンプレックスを克服したいと考えられたんですね。いつ頃から社会人学生になろうと考えていたのですか? リクルートで働いていた時です。最初は海外のデザイン学校に行って、1,2年UXデザインを学ぼうといくつか海外の学校を調べていました。知り合いがデンマークにあるCIIDに行って「面白かったよ」って言ってくれたので、夏休みの2週間だけ授業を受けられるサマースクール期間に社会人5年目ぐらいの時に応募して行ってみました。   ー実際に短期留学をされていたんですね。留学という選択肢があった中で、留学を選ばなかった理由はなんですか? CIIDはいろんな国から来ている学生と1週間プロジェクトをやりながら授業をやるという感じでした。でも自分の英語力では、現地の人に英語でインタビューして深く聞けなくて。自分の強みとしていたUXリサーチが、海外に行くと逆に弱みになってしまいました。 言葉の壁が大きかったのと、インタビューひとつ取っても、現地の人をよく観察しないとわからないですし、文化背景が分からない、言葉もちょっと拙ないだと全然浅い感じになっちゃうなあっていうのが改めて思いました。実際に行ってみて、英語力がなければ、現地だと何もできないと感じてしまいました。 あとCIIDで学べることが自分のやりたいことと違ったっていう理由もあります。社会人でUXデザインについて学べる学校に行けるといいなぁと思ったので、今通っているJAISTっていう大学院と、武蔵野美術大学の社会人コースの2つを検討しました。その結果、JAISTに行くことに決めたのが去年の話ですね。   ーいろいろ検討して決められたと思うんですけど、両立が大変そうだなって思っていて、社会人学生になる決断を下す上で、迷ったことや悩んだことってありますか? そうですね。自分のキャリアやライフステージが変わったりとかを考えると、30歳ぐらいまでにどうしてもキャリアを積み切らないとって思っていました。 たとえば子供が欲しいと思った時に、実質的に距離的が離れて学校に行けなくなったりなどですね。そんなことを考えていると早く行かないといけないってずっと思い込んでいました。自分の中で焦りがあったため、社会人をやりながら大学に行く人を紹介してもらいました。   ーそうなんですね。お会いした方の中で印象的なお話はありましたか? はい。海外のデザインスクールに行く女性の方がいて、その方はお子様がまだ1歳ぐらいだったかな。その女性は子どもと夫を置いて、留学に行っていると知った時ですね。   「そういうやり方もあるんだ!」と年齢や環境は言い訳にしかならないと気づきました。やっぱり自分のやりたいことにチャレンジした方が悔いが残りませんし、自分の30代のキャリアにも絶対いいなと。いったん国内の大学院に行って、留学制度を使って海外に行くとかも無理ではないっていうのにいろんな人の話を聞いて気づけた。   ー松薗さんは社会人学生として、好きを貫く選択をしていると思うのですが、年齢が思い込みだったと気付いた後にいくつになっても大学院に行けると先延ばしする人も多くいます。自分の好きなことを今やろうと思った理由はありますか? そうですね。悩む暇があるならまずやってみるみたいなところはあります。実は、研究としてこういう領域をやるのが好きっていう自信はありません。それよりも早くやりたいことを試した方が、向き不向きを早く知ることができるのかなと。自分の好きなことを仕事にした方がいいのか。それとも学術的に極めた方がいいのかを早く判断したかったのが理由です。   ー松薗さんのこれからのビジョンについてお伺いできますか? 実は、正直先のことをあまり考えることがありません。っていうのもその時に、自分の興味ややりたいことが変わるからです。だから今はテーマを色々変えつつも、UXリサーチャーを極めたいと思っています。 業界を代表できるようなUXリサーチャーになりたい。もし学術的な方が面白ければ、博士課程も受けてみたいですね。とにかく今は先のことを考えず、UXリサーチャーを極めていく時期だと考えています。   ー今はプロフェッショナルを極めていきたいと考えつつも、先のことは気の向くままに進めていきたいということですね。本の執筆もされているとお伺いしたのですが、プロフェッショナルを極める中での一環というイメージでしょうか? UX デザインの本は結構出てるんですけど、海外発のものを訳したものが多いんです。知識を受け取るだけじゃなくて、自分が培ってきた知識を世の中に発信していきたいなとずっと思っていました。実際にUXリサーチャーを1年ほど経験し、知識や経験が溜まってきた自負があって、そこでとあるご縁で本の執筆の機会をいただけたという感じですね。   ー松薗さんの、今後の挑戦に期待しています。本日はありがとうございました! === 取材:中原瑞彩(Twitter) 執筆・編集:サトウリョウタ(Twitter/note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

大学2年で妊娠。学生ママを経験した吉永里美の、人生の可能性を広げる考え方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第188回目となる今回のゲストは、大学3年時に第一子を出産し、現在二児の母としてIT企業で会社員として勤めながらパラレルワークを邁進する吉永里美さんです。 学業も育児も就職も、すべて諦めなかった吉永さん。そんな吉永さんが、「人生の選択肢を増やす」という人生のテーマを確立するに至った経緯をお伺いしました。 ピンクのパーカーがきっかけで「転校生いじめ」にあう ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 現在二児の母として6歳の男の子、1歳の女の子を育てつつ、新卒で入ったIT系の会社に勤め続けています。本業以外でもオンライン司会やインタビュアー、宅録ナレーターを極めていきたいと思って実践中です。 本日は、「パラレルキャリア」や「学生出産」をキーワードにいろいろお話できたらと思っているので、よろしくお願いいたします! ー育児とパラレルキャリアを両立する中で、どのように時間を使っていますか? 基本的に土日はあまり仕事をせずに、子どもたちと過ごそうと決めています。 平日は、保育園に子どもたちを送ってから仕事が始まるまではパラレルキャリアの時間、朝9時~夕方の4時くらいまでは本業の時間、お昼休みの間はパラレルキャリアの時間、夕方子どもたちをお迎えに行ってからは家事・育児の時間、としっかり区切っているんです。 家事をひと通り終えると、子どもたちと一緒に寝落ちしちゃうことがほとんどですが、起きていられるときは自分のフリー時間として使っていますね。 ー空き時間がなく忙しそうですが、充実していそうですね。今の生活に至るまでに、吉永さんがどのような人生を歩んできたのかお聞かせください。 私の人生で最初の転機は、12歳の頃でした。もともと大田区に住んでいたのですが、横浜に住んでいた祖父母の家を立てなおして、二世帯住宅にした関係で、両親や兄弟と一緒に横浜へ引っ越したんです。 同時に転校もすることになり、転校先で初めていじめを経験しました。転校初日にロゴが入ったピンク色のパーカーを着ていたので、「活発そう」「ギャルっぽい」というイメージがついてしまったんです。 ただ私はとても真面目な性格だったのでそこでギャップが生まれてしまい、いじめへとつながりました。最初の期待値があった分、落差があったんでしょうね。 ーいじめにあったとき、どのように対処されましたか? クラスのみんなに無視され続けたときに、まず男子は置いておこうと思いました。女子に受け入れられれば、普段コミュニケーションを取ってくれる子や、一緒にグループを組んでくれる子ができるはずだから、まず女子にフォーカスして、女子と仲良くなるにはどうしたらいいかを考えたんです。 カースト上位・下位はどうなっていて、誰と誰が仲がいいのかじっくり観察するようになりました。あの子は誰かといつも一緒にいるわけではないから仲良くしてみようかな、とか頭を使って考えながら行動していましたね。 ーいつも周りを気にしているのは大変ではなかったですか? 当時は大変ですし、しんどかったですね。ただその経験があったからこそ、コミュニケーション力は鍛えられました。   チームプレイヤーだと気づいた学生時代 ー中学生になってもいじめは続きましたか? 中学校では同級生からのいじめはなくなりましたね。他の学校から入ってくる子たちもいて、人間関係が新しく構築されたのもありますし、マーチングバンド部に入ったことも影響しています。 マーチングバンド部は体育会系で、上下関係が厳しくて。同級生が一致団結して、上級生に対して意識を向けるという構図になったんです。 ーなぜマーチングバンド部に入ろうと思ったのですか? 私が通っていた中学校は、部活に対してとても厳しくて。帰宅部はなく、全員何かしらの部活に入ってくださいという規則だったんです。 もともと小学校5年生からクラブ活動で楽器はやっていましたし、部活をやるのであればしっかり結果を出したいと思い、全国レベルのマーチングバンド部に入りました。 ただ、私たちが入るまでは10年連続で全国大会に出場していましたが、私たちが中学1、2年生のときは出場できなかったんです。3年生になり、何とかして全国大会に出場しなければ、とかなり焦りました。 私は当時副部長だったので、部長や各パートのリーダーと団結して必死で練習を続けました。結果、最後の最後で全国大会に出場し、全国5位で金賞をいただけて。私は目標に向かってみんなで頑張ること、チームで何かすることが好きなんだなあ、と実感しましたね。 ーその頃の吉永さんは、クラスではどのような立ち位置でしたか? 小学校時代は真面目な性格ゆえにいじめられましたが、中学校ではその真面目な部分の活かし方に気づきました。 ある日、カースト上位にいる子が私のことをいじってきて。いじられるのはしんどくなかったですし、その子と私の掛け合いを見て、周りの人も笑ってくれていると気づいたんです。そこで私の「いじられキャラ」が確立されました。 ー高校ではどのような学校生活を送っていましたか? 高校でも、全国レベルの吹奏楽部に入部しました。入学前に吹奏楽部の顧問と話す機会があって、今後マーチングバンドも強化していきたいというお話だったので、入部を決めたんです。 ただ他の部員は、マーチングは高校1、2年の下積みでやるものだという感覚があって。マーチングは片手間で、本命は吹奏楽だという考えに共感できず、他の部員と一致団結もできず1年で退部しました。 私はやっぱりソロプレイヤーではないんだと実感しましたね。中学校でマーチングバンドを頑張れたのは仲間がいたからですし、みんなで同じ方向に向かって目標を達成することに魅力を感じていたのですが、1人で走り続けるのは楽しくない、続けられないと気づきました。   大学2年で妊娠発覚、学業と育児の両立を決意 ー大学に進学されて、環境は変わりましたか? 大きく変わりました。大学生になり、鳥貴族のフランチャイズ店でアルバイトを始めました。アルバイトに対しても熱い教育をしてくれる会社だったので魅了されて、学業よりもアルバイトの方が楽しいと思ったほどです。 大学2年の成人式が終わった頃、当時お付き合いしていた彼との間に子どもができたことがわかりました。お互い将来結婚できたらいいね、という話はしていたので、子どもを産むという選択肢以外考えていませんでした。 ー妊娠がわかった瞬間は、どのようなお気持ちでしたか? 最初は嬉しさよりも驚きの方が大きかったです。妊娠が判明し、当時の彼と一緒に産婦人科へ行ってエコー写真を見たときに、じんわりとしたものがこみ上げてきました。彼と2人で涙ぐんだことを鮮明に覚えています。 その時点で、驚きよりも喜びの方が大きくなりました。「あ、私今すごく喜んでる」と感じましたし、彼も同じように喜んでくれているのを感じたので、そこから子どもを産むという決断に関してはまったく迷いがなかったです。 ー産むことを決心した後の動きを教えてください。 まずは私の両親に挨拶をしに行きました。母は彼に会ったことがありましたが、いきなりスーツでやってきて「娘さんを僕にください。子どもができました。産もうと思っています。結婚させてください。」から始まったので、驚きを隠せていませんでしたね(笑) 今後どうしていくのか聞かれたときに、子どもは産もうと思っているけど大学は辞めようと思っていることを伝えました。すると父が、「子どもを産むのはいいけど、大学を辞めるのは待ったら。大学を卒業することにデメリットはないから、できるところまで続けてみたら。」と言ってくれて。 私の中では、子どもを産むという選択肢はあったけど、大学を続けるという選択肢は思い浮かばなかったんです。父の言葉を聞いて、「大学生と母親って両立できるんだ!」と目から鱗が落ちました。その一言がなければ、大学は続けられなかっただろうな、と今でも思います。 ー妊娠、出産、育児を経験した大学生活について、詳しく教えてください。 大学3年の9月が予定日だったので、夏休み前までの4月~9月までは大学に通って、それから半年間~1年間休学をした後に復学することを計画していましたが、そううまくはいきませんでした。 幸いつわりはあまりなかったのですが、ホルモンバランスが乱れて内向的になってしまって。4月~9月まで一度も授業に出席できず、単位も取れませんでした。 そのため子どもを産んで1年間休学して、子どもを保育園に入れてから私は大学へ通う生活が始まったんです。 ー出産後、気持ちの変化はありましたか? 出産後にずっと家にいると、社会から断絶されている気持ちになりました。旦那さんが仕事に行っている間、母ひとり子ひとりで生活している状況に、しんどくなる日もありました。同世代で共感してくれる人や、ママ友もいなかったので。 自分のための時間も確保しないと、心が壊れてしまいそうで、怖くなりました。なので復学することに関しては、割と前向きに考えていたんです。 ー実際に復学してみてどうでしたか? 今まで以上に真面目に大学へ通うようになりました。「子どもを預けてまで大学に行っている」という意識から、吸収できるものはすべて吸収しようというマインドに変わったんです。一番前の席で授業を受けたりもしました。 結果フルで単位を取ることができたんです。子どもの存在はとても大きく、母は強しとはこのことを言うんだなあ、としみじみ思いました。   子連れ就活のきっかけは、1つの記事との出会い ー就職活動について教えてください。 子どもがいる状況で、就職活動をするかどうか迷いましたが、ある記事との出会いをきっかけに就職活動することを決めました。普段から「子持ち 就活」というワードで検索していて、ある日学生ママで就職活動して、実際に企業で働かれている方の記事を見たんです。 その記事を紹介していたのがたまたまユニキャリ創業者の西村さんで。すぐに連絡してお会いしました。西村さん自身も学生パパの経験があり、子どもを産んでからも社会に出て自分らしいキャリアを築いていると知り、勇気が出たんです。 ー偶然の出会いから、視界がパッと広がったんですね。就職活動中、どのような基準で会社を選んでいましたか? 最初は理念に共感できるかどうかを基準に見ていましたが、途中からは現実的に考えるようになりました。当時は大学までの通学で片道2時間、往復で4時間もかかっていたので、通勤時間はできるだけ短い方がいいと考えていたんです。 「通勤の時間は仕事に充てたい」というように、育児を経験したことによって時間の使い方をよりシビアに考えられるようになりましたね。   第2子出産をきっかけに、パラレルワーカーに ー大学を卒業し、実際に働かれてからのお話をお聞かせください。 社会人2年目に突入した頃、2度目の妊娠が発覚しました。1人目のときは産むことに迷いがなかったのに、2人目のときはとても悩みました。 今まで内勤でしたが、自分の希望で営業へと異動するタイミングだったんです。これからもっと頑張らなければいけない中での育休・産休への不安とともに、会社からどう思われるんだろうという不安もありました。 夫婦でよく話し合い、やっぱり生みたいという結論に至ったうえで上司に相談すると、「もともと1人目がいる状態で入社してるし、若いうちに出産・育児のライフイベントを進めて、その後自分が仕事を頑張りたいと思うなら、いくらでも頑張れると思うよ。」と言ってくれたんです。とても安心感のある言葉で、支えられました。 ー入社されたときに、お子さんがいることは伝えていたんですね。 はい、すべて伝えていました。最初は、新卒で子持ちなんてどんな子なんだろう、と会社で噂になってたみたいです。 私も会社側も、「子持ちだからできない」という意識がなかったので、やりたいこと・やってほしいことをきちんとすり合わせできたのはよかったですね。1年目はまだ成果をあげられるレベルではないので、どういうマインドで仕事に取り組んでいるかを見てくれていたことも、私にとっては救いでした。 ー上司に妊娠を伝えてから、心境の変化はありましたか? 上司に話す前はとても不安でしたが、話してからは産休・育休がどんどん楽しみになっていって。普段仕事と育児を両立していると、自分の時間はまったく取れませんでしたが、これからは取れるんだ、と前向きな気持ちになったんです。育休に入る前から、あれしようこれしようとワクワクしながら計画を立てていました。 子どもを産む前は、子育ては子どもが大きくなればなるほど楽になると思っていたのですが、実際に産んでみて逆だと知ったんです。子どもが大きくなると目が離せなくなるし、自我が芽生えると寄り添ってあげる必要があるので、より体力的にも精神的にもハードになりました。 その経験から、月齢が低いうちにやりたいこと・できることをした方がいいと思えたので、1人目を産んだ経験は私にとって大きいですね。 ー育休中はどのように過ごしていましたか? 大学時代にデザインを学んでいて、ずっと興味は続いていたので、Webデザインを学びました。Webデザインは自走することが大事なのですが、1人で学んでいるだけでは楽しくないし続かないことがわかったんです。 その後、「マドレボニータ」という産後ケアを行っている団体でレッスンを受けつつ、広報やSNS周りのお手伝いを始めました。その他にも「育休コミュニティMIRAIS」という育休中のママが参加するコミュニティに入り、広報やプロモーションの活動をしていました。 ーまさにその時期に、パラレルキャリアを歩み始めたんですね。 そうですね。社外にも目を向けるようになったのは、2人目の育休がきっかけです。育休コミュニティMIRAISに所属していた頃、有意義な育休を過ごすために自分のテーマを設定する機会があって。そこで私は、「人生の選択肢を増やす」というテーマを設定したんです。 人生の棚卸しをしたときに、学生出産や子連れ就活の経験を思い出して。今までの選択が正しいかどうかはやってみないとわからないし、選んだ道を正しくしていこうと思っているのですが、選択肢を知らないと選べないし、目の前のことができないと決めつけちゃうと思うんですよね。 私自身、子どもがいることを理由に選択肢を狭めることはしたくないですし、自分や誰かの経験を発信することで他の人の選択肢が広げることが、私の人生のテーマです。   「人生の選択肢を増やす」言葉に込めた想いとは ー1人のワーママの立場から、就職活動を控えている学生さんや、現在働いている会社員の方に伝えたいことはありますか? 固定概念にとらわれないようにしてほしいです。例えば女性の就職活動について考えてみると、ひと昔前までは大手一般職がいいとされていましたし、今は20代のうちにスキルを上げておいて、30代で育児をするのが比較的ロールモデルになっていると思うんです。 確かにそれらも1つの選択肢ではありますが、それだけに縛られていると、「キャリアを考えると20代で子どもを産まない方がいい」という考えが生まれてしまうリスクがあります。 選択が正しいかどうかは誰にもわからないので、自分自身がどうしたいかをベースに選んでいくことが大切だと思います。世間一般的な考えに縛られるのではなく、あなた自身がどうしたいかをもっと柔軟に考えることが大切だということを伝えたいですね。 ー将来について考えていることはありますか? 「人生の選択肢を増やす」という軸をもとに、今後も本業、パラレルワーク、母親業を続けていきたいです。やっていることはどんどん変化していくと思いますが、ぶれない軸をもって突き進んでいきます! ー今後の働き方・生き方に悩んでいる方も、吉永さんのお話を聞くと選択肢が広がりそうですね。吉永さんの今後のご活躍、応援しています!本日はありがとうございました! 取材者:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

吃音と共に生き、コーチングで吃音者の就職支援を。大手通信会社人事・古川遼さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第220回目となる今回のゲストは、大手通信会社で人事として働いている古川遼さんです。 人事としての業務以外に、コーチングや吃音者への就業支援も行っている古川さん。そんな古川さんが、「キャリア支援」や「コーチング」に目を向けるようになった経緯について伺いました。 吃音と向き合い、共に生きることを決意 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 現在、通信会社で人事を担当していて、業務領域は大きく2つに分けられます。1つは人事ガバナンスの領域で、グループ会社の人事が働きやすくなる仕組みづくりをすることです。もう1つは、海外からグループ会社へ来る従業員の受け入れプロジェクトを担当しています。 その他にも、複業として若手に対するコーチングと、吃音者への就業支援を行っていて。「人事」や「就業支援」を軸に、日々生活を送っています。 ー今の生活に至るまでに、古川さんがどのような人生を歩んできたのかお聞かせください。子ども時代はどのように過ごしてきましたか? 私の人生では、「吃音」というキーワードがあって。小学生の頃から、吃音という障害に悩まされていました。 吃音のきっかけは、小学校1年生で童話の『大きなカブ』を音読しているときに、ワンフレーズが出てこなかったことです。それから吃音が始まって、友達からからかわれたり、周りの人と自分を比べたりしてしまって。 みんなが当たり前にできる「話す」という行為ができないことが、私の中ではコンプレックスになっていました。吃音と一緒に苦楽を共にした子供時代でしたね。 ー吃音は、一生付き合っていく障害なのでしょうか? 個人差はあると思いますが、それくらいの覚悟で過ごしています。何をするにしても人との会話は必要不可欠な中で、「伝えたい言葉が急に出なくなったらどうしよう」という不安は常に付きまとっていて。 特に学生の頃は日々のストレスが大きく、「毎日が来なければいいのに」と思った時期もありました。おそらく完治はしないだろうと思ってるので、今後どうやって吃音と上手く付き合っていくかにフォーカスしてます。 ー学生時代のストレスはどのように解消していましたか? 家族からすごく愛されていて。おじいちゃんやおばあちゃん、両親、妹に支えてもらい、勇気づけてもらいながら生きていました。 ーご家族にかけてもらった印象的な言葉はありますか? お母さんの「そんなに頑張らへんでもいいよ」という言葉が印象に残っています。その一言で、肩の荷が下りました。自分のできる範囲で頑張ろうという気持ちになれたんです。   シンガポールでのインターンを経て、学生団体を設立 ー学生時代、他に印象に残っている出来事はありますか? 大学時代にインターンをしたことが強く記憶に残っています。もともと吃音について研究したいと思って大学へ入学し、アイセックという学生団体に所属していて。そこで知り合った方にシンガポールのインターンプログラムを紹介していただいて、休学してシンガポールで働くことになったんです。 会社には社長と私の2名しかいなかったので、一からいろんな考え方を教えてもらいました。「もっとわがままに自分の人生を生きていいんだ」と気づかせてもらえたんです。シンガポールでのインターンは私にとって学びの連続でしたし、人生の転機となりました。 ーどうしてシンガポールでインターンをするという決断ができたのですか? 就職活動が始まる大学3年生の頃、今後について焦りが出始めたことがきっかけです。面接中に言葉が出てこないことがあり、このままじゃやばい……という危機感が募りました。 何かに挑戦しないと、自分が思い描いている人生は歩めないんじゃないかな、という不安が大きかったんです。もともと海外にはずっと行きたいと思っていたのもあり、シンガポールへ行くことを決断しました。 ー帰国後はどのように過ごされていましたか? シンガポールで知り合った京都市の方と、帰国後も仲良くさせていただいていて。その方から、京都市の課題について相談されたことがきっかけで、学生団体を設立しました。 京都には留学生がたくさん来るけど、住み続ける人はいなくてみんな結局帰ってしまう、という課題がありました。「もっと京都に愛着を持ってもらえるように支援する団体を作らないか」と提案されたので、やってみようと思ったんです。 ー具体的にどんなことをされていましたか? 活動内容は大きく分けて2つありました。1つは、Facebookグループの運営です。京都へ来た留学生の方々のノウハウをどんどん蓄積してシェアしていました。 もう1つは、オフラインコミュニティの運営です。3か月に1回ペースで大きなイベントを開催していました。毎回ゲストを呼んで、留学生向けに京都の特徴をお話してもらい、逆に留学生からは意見をもらって、京都市の副市長に伝えていましたね。 私自身、シンガポールへ行ったときに知り合いが1人もいなくて、優秀な方とつながりたいけど、どのようにつながればいいかわからず困っていて。毎年留学生が来ているのであれば、現地のノウハウがもっと明文化されているべきじゃないかと思っていたんです。その経験をもとに、活動内容を決めました。   営業への配属希望が通らず、人事配属に ー大学卒業後のお話を聞かせてください。 卒業後は大手通信会社へ入社しました。その会社がちょうど新しいことを始めるタイミングで、若手にもチャンスが与えられる環境だったこともあり、入社を決めたんです。当時は営業職を希望していましたが、結果人事に配属されました。 ーどうして営業をしたかったのですか? 理由は2つあります。1つは、数字が作りやすく一番昇進しやすい部署だと思ったからです。数字で自分の成果がわかり、幸せにしたい人が明確な状況に魅力を感じました。 もう1つは、営業のスキルは将来活かせると思ったからです。当時なんとなく、吃音の仕組みを社会に伝えたいと考えていて。自社サービスを魅力的に伝える営業スキルは、吃音について相手に伝えるうえで役立つと思ったんです。 ー部署選びの際も、「吃音」がキーワードになっていたんですね。人事に配属されたときはどう思いましたか? 人事の業務内容が想像できなかったので、今後どうなるんだろうという不安が大きかったです。ただ、今振り返ると会社の裁量で適した部署を選んでもらい、自分の可能性を広げてもらえたので良かったなと思います。   吃音の理解者が1人でも増えるように ー働いている中で、人生の転機はありましたか? 去年の7~8月頃にコーチングと出会い、それから自分のやりたいことが明確になりました。 「人事としての業務に活かすことができて、かつ人生が豊かになるようなスキルはないかな?」と調べていたときに、たまたま大学時代の同期にコーチングを紹介してもらって。どんどん興味が湧いてきて、3か月間コーチングの講座を受けることになりました。 ーなぜコーチングに惹かれたのか、教えてください。 自分のゴールが明確になることが、コーチングの良いところだと思っていて。誰かに話をすることで考えが整理されるし、新しい自分と出会えることがコーチングの魅力だと思っています。 ー現在はコーチングをどのように活かしていますか? NPO法人どーもわーくで、コーチングを通じて吃音者の就業支援を行っています。社会に出ると、吃音という言葉自体が認知されていなことに気づいて。そんな社会を変えたいと思いつつ、今私ができることは障害を持った方々を支援することだと思ったので、就業支援を始めました。 コーチングとして質問をすることで、価値観や考えをどんどん変えていくことを重視していて。何かを教えるというよりは、自分の姿を再認識して自己内省してもらうよう意識しています。コーチングによって自分を認めてあげることができて、自己肯定感が高まると良いですよね。 ー吃音に限らず、自己肯定感が低い方はたくさんいると思います。古川さんがどのように自信をつけてきたのか教えてください。 京都大学に受かったことがきっかけで自信がつき、徐々にスラスラと話せるようになりました。成功体験を積むことで、「自分は吃音が出るけどこういう良いところがある」というポイントを1つでも見つけられてから、コミュニケーションが取りやすくなりましたね。 自己肯定感が低い方は、成功体験を積んで自信をつけるということが大事です。私は昔と比べると、日々話せているだけで成功していて。そういう些細な成功体験でも十分だと思います。 ー「キャリア支援」や「コーチング」という軸がある中で、古川さんが今後やっていきたいことはありますか? 社会に対して吃音の理解を深めていきたいです。また、個人が尊重され違いを活かして力を発揮できる社会になるよう、ダイバーシティ&インクルージョンを推進していきたいと思っています。 実は、社会や組織を変えるアプローチとして、イギリスの大学院で組織心理学を学び、組織コンサルタントとして働きたいと考えていて、今はその準備中です! ー最後に、アンダー29世代へのメッセージをいただきたいです! 日々5分でいいので、自分の良いところに目を向ける時間を取ってほしいな、と思います。自分という存在を認めてあげて、日々前を向いて生きていきたいですね。 ー一貫性のあるキャリアを築いてきた古川さんの、今後のご活躍を楽しみにしています!本日はありがとうございました。   取材者:えるも(Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

25歳で社会人。遅咲きだった私が株式会社PATHREEを創るまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第201回は株式会社PATHREE代表の木田奈苗さんです。幼少期から特にやりたいことがなかったという木田さん。大学でも好きなことを見つけられないまま卒業し、周りに遅れをとっているという焦りを感じていたそうです。そんな木田さんが広報という仕事に巡り合い、少し遅めのキャリアスタートをきるまでのお話をお伺いしました。 陸上に取り組む内気な少女だった ―まずは現在のお仕事について簡単に教えてください。 2019年11月に設立しました株式会社PATHREEの代表を務めています、木田奈苗です。株式会社PATHREEでは副業・フリーランスのPRパーソンと企業のマッチングプラットフォームサービスをSTART PRを運営しています。また、直近では現役の広報担当者が1本1万円でプレスリリースを添削する「プレスリリース添削くん」というサービスも提供しています。  ―少し子供時代のお話もお聞かせください。どのような幼少期を過ごされていましたか。 人前に出るのが嫌いで、授業中に手を挙げて発言するのも苦手な、いわゆる内気な子供でした。周りの意識が自分1人に集中するのがとにかく嫌だったんですよね。それゆえに、勝負事も自ら率先して飛び込むタイプでもありませんでした。中学・高校と陸上の短距離に取り組んでいたのですが、試合のたびに緊張していたのを覚えています。 ―陸上はどのようなきっかけではじめられたのですか。 小学校の頃からもともと足は速い方でした。多分幼稚園の時に男の子から毎日スカートめくりされていて、逃げ回ってるうちに鍛えられていたんだと思います(笑) それを知っていた先輩が中学に入学したときに陸上部に入らないかと誘ってくださり…特にやりたいことがなかったのでやってみることにしたのがはじまりでした。なので陸上が好きではじめたというよりも、「周りも期待してくれているし…」という受け身なスタンスで陸上の世界に入っていきました。ですが、やると決めたことに対してはストイックなタイプだったのと負けず嫌いな性格もあり、練習には全力で取り組んでいました。推薦で高校・大学に進学できるレベルまで自分を追い込んで練習していました。 ―それでは大学でも陸上中心の生活を送られていたのですか。 大学でも陸上を続けるのか悩んだのですが、中高と真剣に陸上に取り組んだことで精神的にしんどいと感じることが増えていました。 例えば毎日食べたものなどをきちんとメモして体重測定したり、日頃から歩き方一つとっても常に「陸上」を意識したり…ストイックが故に細かいところに神経質になってしまっていて、いつの間にか勝負を心から楽しめなくなっていったんです。 また、中高では陸上中心の生活を送っていたため、陸上以外のことに目を向ける余裕がなく、ずっと習っていたピアノも陸上を理由に辞めてしまったりしていました。そんな理由からも、最後の学生生活では自分がやりたいことをやってみたいと思い、大学では陸上から離れることを決めました。   気づいたら何がしたいのか分からないまま大学を卒業 ―大学ではどのようなことに取り組まれたのですか。 とはいっても、明確にやりたいことがあった訳ではなかったので、比較的就職先を見つけやすそうなイメージのあった経営学部のある大学に進学しました。千葉出身だったのですが、大学進学を機に東京で1人暮らしもはじめ、結果想像していた100倍くらい楽しい大学生活を送っていました。 ―やりたいことは大学生活で見つかりましたか。 それが特に見つからず…周りが就職活動をしはじめていく中でも、何がやりたいのか、どこで働きたいのかがまったく分からず、就職活動もほとんどしませんでした。 みんなができていることをなぜ自分はできないのだろうという気持ちと、同じ大学生活を過ごしていたはずなのにいつの間にみんなはやりたいことを見つけていたのだろうという焦りの気持ちで当時はいっぱいでしたね。 ―その結果、大学卒業後はどうされたのですか。 まずは働かなくてはと、美容系の受付のアルバイトをはじめました。でもアルバイトはルーチンワークが多く、「もっと自分でバリバリと仕事をこなしていきたい」と思っていたタイミングで、たまたま大学時代の友人から「広報に興味ない?」と一本の電話がありました。友人の知り合いのWebコンサル企業で広報部を立ち上げるとのことで、当時の私はパソコンさえまともに使ったことがなく、広報って何?という状態だったのですが、すぐに面接を受け、広報として入社することが決まりました。   Webコンサル会社の広報職から独立まで ―経験のない業界・職種での入社に不安などはありませんでしたか。 同年代はその頃すでに社会人3年目なのに私はまだ正社員でもなく遅れを取っているということに焦りを感じていたんですよね。また、Web業界も広報職についてもほとんど知りませんでしたが、無知すぎてむしろ不安はありませんでした。(笑)逆に中途半端に知識があったら自分にできるのだろうかと心配になっていたのかもしれません。 また、昔から漠然と「自分だったらできるかもしれない」という若い頃によくあるような、根拠のない自信を持っていたのも影響したのではないかなと思います。(笑)キャリアをスタートさせる上でも、Web業界に携わることは今後に必ずいきてくるだろうという確信もあったのでとにかく挑戦してみようと思い、入社を決めました。 ―入社してみていかがでしたか。 Webについても、広報についてもほとんど無知だったので、勉強と実践を繰り返しながら覚えていく日々でした。初の広報部ということもあり、広報については外部の広報コンサルの方に教えていただきながら、Webの知識については社内の業務の実践や、SEOを意識したブログの更新などを行い基礎を覚えていきました。 そんな中、1人で広報業務をするのはあまりにも悩みが多く、気軽に相談しあえる仲間がいればと思ったことをきっかけに、Twitterをはじめました。もともとビジネス界隈の方たちがSNSをやっているのは知っていたのですが、私自身は他人に自分の事を見られるのが嫌だったので正直SNSは苦手だったんです。でもTwitterをはじめたおかげで似た悩みを持った人と繋がることができたり、広報関係の情報交換ができるようになったりと、本当に世界が開けましたね。結果的に、Twitterをはじめたことがフリーランスとして独立するきっかけにもなりました。 ―そうだったのですね。具体的には何がきっかけになったのですか。 Twitterで発信を続ける中で、だんだんと企業の方から広報に関する相談をいただくようになりました。また、同じ広報として働く方が同じような悩みを持ちながら働いていることも知りました。そこから、「私で力になれることがあるなら、少しでもいいので力になりたい」と思うようになり、当時働いていた会社は副業ができなかったのでフリーランスとして独立することを決めました。 同時に、広報の方や企業の方の参考になる広報お役立ちメディア「広報ラボ」の運営も開始しました。  ―フリーランスになることに不安はありませんでしたか。 もちろん不安はありました。特に今回は自分の知っている分野での独立であったのと、周りにまだフリーランス広報として仕事をしている知人も少なかったり、不安も大きかったです。でも、やるかやらないかで迷っているときって、自分の中で不安材料をかき集めて悩んでいるだけで、本心ではやりたいと思っているんですよね。だから、これだけ悩んでいるならまずはやってみよう。と決め、個人事業主として開業しました。この時も「何か自分にできるのではないか」という漠然としているけど前向きな気持ちが変わらずありました。 ここまで読んでいただいてお分かりかもしれませんが、私は昔から「これが好きだ」「世の中をもっとこうしたい」「世界を変えたい」といった強い気持ちを抱くことってほとんどなかったんです。だから28歳の今、起業しているなんて当時の私には想像もしていなかったこと。じゃあなぜ今広報という領域で起業するまでに至ったかというと、自分が好きだと感じることで、人の役に立てているという実感を得られているからなんです。 よく、「起業したいけど何をしたらいいか分からない」「自分が将来どうなりたいか分からない」という悩みを聞くことがあります。私もずっとずっとその悩みを抱えていました。悩んだ中で、やっと自分なりの一つの答えが出たんです。 それは、自分の心が動く強く動くことに挑戦してみるということ。初めは社会の何かを変えたいという具体的にやりたいことや好きなことがなくても、何をしている時に自分が楽しいと感じるか、どんな時に嬉しいと思ったかなど、自分の感情がポジティブに動く瞬間をまずはひたすら見つけるんです。自分が好きなことややりたいことを見つけることってとても難しいですが、「楽しい」とか「嬉しい」とか、自分の感情が動くシーンは毎日必ずある。それが私の場合は誰かの役に立てている時、そして誰かが喜んでくれている瞬間に立ち会っている時でした。自分のできることでやりがいを感じられる、だからやってみようと思えたんです。 「全ての企業に広報を」を掲げて起業 ―そこからどういった経緯で会社設立に至ったのでしょうか。 フリーランスの時にとある企業のSNS運用をさせてもらったことがきっかけです。当時担当させていただいた企業さんは、世界にある様々なサービスを紹介しているサイトを運営されていました。その時に、世の中にはこんなにも多くの便利なサービスがあることに驚いたと共に、例え便利なサービスでもユーザーが少ないなどの理由でたくさんのサービスが消えていっている現状を知り、自分のことのように悲しくなりました。良いサービスを少しでもたくさんの人に届けることができるのは、やっぱり広報という仕事だなとその時に改めて思いました。 ―それで広報に特化した会社の設立を考えられたのですね。 はい。そこから少しでも多くの企業に広報PR活動にと組んでほしいという思いが会社設立に繋がりました。また、そのタイミングで、風潮的に広報の重要性を多くの企業が認識してきている時期でもあったのでニーズがあると思ったんです。 ー確かに最近、広報部署を新しく立ち上げる企業も増えているように感じます。新しく広報担当となる方に何かアドバイスなどはありますか。 社内のキーマンを抑え、広報の必要性を社員全体が意識するように仕向けるのが大事だと思います。「広報をしたことによってこんな影響があったよ」と些細な変化であっても報告し、広報に協力した方がいいのではないかという空気感を作っていくと仕事が進めやすくなります。  ―木田さんの思う、広報の魅力はなんでしょうか。 自分の好きなものや良いと思っているものを様々な魅せ方で発信し、誰かにも好きになってもらったり、共感してもらうことができるのは広報の魅力だと思います。色々な職種がありますが、その中でも広報は共感を生み、人の感情を動かすことができる仕事だと思っています。 私は小さい頃から周囲に注目されるのが苦手なので、正直はじめは、「広報に向かないのではないか」と思っていました。でも人からの見られ方を常に気にしているということは逆に企業がどう見られたいかを考え、分析するのに向いているということでもあるんですよね。 自分のそういった性格を活かすことができていることも、広報の仕事が好きな理由の1つです。 ー自分の苦手なことが広報という仕事では活きているは素敵ですね。最後に今後の目標を教えてください! 株式会社PATHREEのミッションでもある「全ての企業に広報を」を達成することが長期的目標です。一社でも多くの企業さんに広報PR活動に取り組んでもらいたいですね。広報PRをまだされていない企業さんにSTART PRやプレスリリース添削くんなどのサービスを活用していただき、最終的には自社で自走できるようにサポートしていきたいと思っています。株式会社PATHREEのサービスが広報PRを始める第一歩となり、企業さんに広報の視点を感じてもらう体験機会を作っていきたいです。 現在もまた、新しいPRサービスのローンチに向けて実は動いています。今後のPATHREEにもぜひ注目していてください!   取材者:山崎貴大( Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

AINOW編集長・小澤健祐はスキルの相互作用でキャリアを築く

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第264回目のゲストはAI専門メディア「AINOW」・SDGsと社会を繋ぐ専門メディア「SDGs CONNECT」編集長を務める他、日本大学文理学部大沢研究室のPRチームリーダーとしても活躍中の小澤健祐さんです。これまでAI関連記事を1000本以上執筆してきたという小澤さんですが、実は当初AIに特別興味があった訳ではなかったとか。小澤さんのこれまでの人生を振り返り、選択をする上で大事にされている価値観や今後の目標についてもお話いただきました。 好奇心の塊は昔も今も変わらず。 ーまずは現在のお仕事について簡単に教えてください。 「人間とAIが共存する社会を作る」というビジョンのもと、AIに関する情報発信を行うAI専門メディア「AINOW」の編集長を務めています。大学時代、ディップ株式会社にインターン生として入社して以来、ずっとAIやDXなどの最先端技術トレンドに関する発信を行っていました。 現在はその他にも日本大学文理学部でAIの研究を行っている大澤研究室のPRチームにプロボノとして参画している他、フリーでカメラマンのお仕事もさせていただいています。 ーAIを中心としたお仕事をされているとのことですが、もともとAIに関して勉強をしていたり、興味を持たれていたのでしょうか。 いいえ。AIについて勉強したことはなかったのですが、たまたまディップ株式会社の次世代事業統括部という新規事業を作っている部署でAIに関するメディアを担当しないかとお話をもらったことがきっかけでAIに関わることになりました。 幼少期の頃からとにかく好奇心の強い性格でした。それもあって、AIに関しても知識はなかったものの、やってみようと思えたのだと思います。 ーそうだったのですね。他にも幼少期の頃のお話があればぜひ聞かせてください。 好奇心の塊だったこと以外でいうと、落ち着きがなくて授業中ずっと座っていられないタイプの子供でした。小学生の頃はよく廊下に立たされたりしていましたね(笑) 周りの評価などを気にすることなく、他人と違うことを常にやっていましたが、中学生になってからは、少しは社会性を身に付けるようになりました。地元の公立中学に進学したのですが、子供が多い地域だったので小学校から中学で顔ぶれが大きく変わったのでそれをチャンスと思い、学級委員を務めたりもしました。   発信に興味を持つようになったのは交通事故がきっかけだった。 ー高校時代はどのような海外進学を過ごされましたか。 高校では初めテニス部に所属したのですが、入学直後すぐに交通事故に遭いテニスが3ヶ月ほどできなくなりました。それがきっかけで放送部に入部することになり、生徒会にも所属することになったので、交通事故に遭っていなかったらどんな高校生活を過ごし、何に興味を持っていたのかなと思うことがあります。 放送部ではドキュメント番組を作ることに注力しており、取材撮影や動画制作などに取り組んでいました。修学旅行や文化祭、体育祭など学校行事全ての撮影を行い、行事内容をビデオにまとめたりもしていたので学校行事を楽しむ余裕は正直なく、時には終電まで部活をしていることもありました。同時に孤独死をテーマにしたドキュメント番組で全国大会への出場も経験し、取材活動や発信するという活動を通して自分の好奇心が満たされていると感じることが多い高校生活でした。 ーそれがその後の進路にも影響したのでしょうか。 そうですね。放送部での経験から発信や情報に関する勉強をしたいと考え、日本大学法学部の新聞学科に進学を決めました。とはいっても、大学の初めの2年間は地元の居酒屋でバイトが中心の生活を送っていました。毎月140時間近く働いていたのですが、店長代理として売上管理やスタッフのマネージメント業務などを経験させていただき、社会人として必要な対人能力はこの時に身につけました。 ー140時間はすごいですね…!バイトにそこまで打ち込めた理由は何だったのでしょうか。 客単価を上げるや常連を作るといった目標に対して自分なりに工夫して取り組むのにやりがいを感じられたから、だと思います。目標を達成するためにコミュニケーションの細部にまでこだわったりしました。例えば通常お客様に「お待たせしてすみません」と声をかけるタイミングでも「お待ちいただきありがとうございます」とポジティブな表現で伝えること。そういった少しの工夫の積み重ねでお客様が増え、客単価が上がっていくのが見えていくのは楽しかったです。   インターン漬けの日々からそのまま就職へ。 ー残りの大学生活2年間はどのように過ごされたのですか。 2年間バイトに時間を注ぎ込んだのですがこれ以上バイトで成長を感じるのは難しいと思い、無料のオンライン生放送授業を開催しているSchooで当時興味のあったウェブマーケを学びはじめました。そしてバイトの代わりに何か新しい挑戦をしたいと思い、Schooで働かせてほしいと直接連絡した結果インターンとして雇っていただけることに。初めはリハーサルの進行などといった業務から始まり、その後企画やマーケティングの仕事もさせていただくようになりました。 また、Schoo以外にもC Channelという会社と、その後入社することとなったディップでもインターンとして働かせていただくことになり3社のインターンを掛け持ちする忙しい日々を再び送ることになりました。 ーC Channelではどのような業務を担当されていたのでしょうか。 C Channelでは動画編集のお仕事を担当していました。放送部時代に動画制作はしていましたが、仕事としてやってみたいという思いが実現した形です。SNSに載せる動画を編集していたので、これがきっかけでSNSにも少し詳しくなりました。 ーそしてディップでもインターンを始められたとのことですが、何かきっかけなどがあったのですか。 Schooの生放送授業に現在の上司がゲストとして来てくださり知り合ったのをきっかけに一緒に働かないかとお声がけいただきました。大学4年に入ってからはディップで昼間は働き、夜はSchooの生放送にいくといった感じで9:30-23:00で働いていました。 そしてそのまま、ディップに就職させていただいた形になります。新卒一括採用の就活に対して抵抗があったので、就活をせずに就職先が見つかったのはとても有り難かったですし、嬉しかったです。   スキルの相互作用を活かして、挑戦し続ける。 ーとても充実した大学生活を送られていたのですね。小澤さんのそのモチベーションはどこから来ているのでしょうか。 大前提として、好奇心旺盛というのは大きいと思います。やっていることに飽きてしまったら、飽きたことを認めて次の挑戦をすることで好奇心を満たしているんですよね。 そして挑戦したことに対しては「8割の法則」を大事にしています。8割に到達するまでは全力で頑張ること。合っていないと思っても、どんな仕事であっても、そこで8割に到達するまで頑張れば何らかのスキルが身につくと思っています。そしてスキルには必ず相互作用が働くのでそのスキルが身につくことで結果的に違うスキルが違う場面で伸びたりするんです。 ー確かにスキルの相互作用ってありますね!入社後、スキルの相互作用があったと感じる場面はありましたか。 はい。もともとAIについては全く知識がありませんでしたが、AI専門メディアの編集長を務めることができたのもスキルの相互作用があったからだと思います。1つはバイト経験から得た対人能力。そして放送部時代・インターン経験から得たメディアへの最低限の知識や取材経験はメディアの運営に必須のスキルでした。 また昨年からはディップの経営中期計画を考えるメンバーに抜擢いただいたり、社員総会の運営チームにも所属していますが、どちらも8割の法則に則ってスキルの相互活用を活かしてきたから任せていただけたと思っています。 ーそんな小澤さんが今現在、ディップ以外で新たに挑戦していることなどはありますか。 AIに関連した取材活動の中で知り合った大澤研究室のPRチームリーダーを務めていることでしょうか。研究室にPRチームがあるのはとても珍しいのですが、一緒に研究とPRの新境地を開きたいとお話をいただき、現在学生と一緒にウェブサイトの管理や取材対応、動画撮影などを行っています。これまでは自分が動くことが多かったですが、PRチームリーダーとして次世代人材を育成するという新たな立場での関わりになります。 またディップでの新しい挑戦にはなりますが、2021年2月からスタートする新メディア「 SDGs CONNECT」の編集長も務めさせていただくことになりました! ーそれはおめでとうございます!ぜひ最後に今後の目標や展望についてもお聞かせください。 これまでウェブメディアの運営に注力してきましたが、今年は広報という視点を大事にしていきたいなと思っています。引き続きウェブメディアの編集長として会社・メディアのビジョンのもと自分のスキルをうまく活用して頑張っていきたいです。 直近の課題としては新しいことを考えられる時間を確保すること。どうしても自分で何でもやってしまう性格なのですが、今年は「極力仕事をしない」をモットーにうまく周りの人を頼って仕事を任していきたいなと思っています。 取材:高尾 有沙(Facebook/Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)  

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