入社3年目で編集長へ大抜擢。キャリアを掴み取るマイルールは「宣言すること」

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第6回目のゲストは、東洋経済新報社で「業界地図」の副編集長を務める中山一貴さんです。 東京外国語大学で中国語を専攻し、その知識を現在の仕事に活かして活躍されている一方、「志望していた大学に行けなかった」というコンプレックスもあったという中山さん。 しかし、そのコンプレックスをバネに第一希望の企業へ入社。記者という望んでいた仕事を経て、入社3年目で「業界地図」の編集長に抜擢されるという輝かしいキャリアを歩まれています。 これから就職を考えている学生や、激務と言われる業界で働くU-29世代向けに、エールや指針となるようなお話をたっぷり伺ってきました。   挫折を経験し、中国語にのめり込んだ大学時代 ー 中山さんのブログを拝見したところ、本当は東京大学の文科三類に行きたかったけれど合格できずに東京外国語大学に行かれた……ということを書かれていました。なぜ東京大学の文科三類を目指していたんでしょうか? 私には、中学生くらいから「国連で働きたい、英語が好きだから英語を使った仕事がしたい」という思いがありました。そこからひたすら英語の勉強をして、高校2〜3年生の頃に「もっと幅広く勉強してみたい」と考えるようになり、東京大学の教養学部を目指したんです。 ところが、前期試験はボロボロ。浪人も考えましたが、飽きっぽい性格だから一年も続かないだろうなと思い、後期試験を受けられるところを探しました。そこで東京外国語大学という大学があることを知り、受験したという流れですね。 ー 第一志望の大学に行けなかったというコンプレックスはありましたか? もうめちゃくちゃ大きかったですね(笑)大学一年のはじめの半年くらいは、友人たちと集まっても、経済学部や法学部に進学して自分のやりたかったことを勉強しているという話を聞いては落ち込む日々。外国語は好きでしたが、どちらかというと英語が好きだったわけで、大学に入って中国語を毎日やらなければいけないという状況に嫌気が差したんです。 ー その辛さを乗り越えられたキッカケは? 大学の中に、中国の友人ができたことです。中国語のいい教材を教えてもらったり、彼と会話をしていくうちに「中国人の考え方って面白いな」と思うようになって。もし自分がもっと中国語を使えたら、心を開いてもらえるんだろうなと思い、中国語の勉強を頑張るようになりました。 ー 日中交流サークルも立ち上げて活動されていましたよね。 ちょうど大学一年の秋頃に、学科の先輩が「北京外国語大学との交流プラットフォームを作ろう」と声を掛けてくださり、京英会というサークルを一緒に立ち上げました。 活動のメインは、10人くらいの中国人を東京に連れてきて、逆に私たち日本人も中国に一週間行くという交流イベント。ただ、このイベントにはお金がかかるため、企業や基金の協賛がないと成り立たないということで、いろんな会社に「何とか10万円お願いします」などと電話を掛けて営業していました。 ー 当時はまだ、今ほど中国への注目度は高くなかったでしょうから、協賛を集めるのは大変だったんじゃないですか? かなり大変でしたね。日中関係があまり良くなかったというのもありますし、そもそも出来立ての団体で実績がないので、企業もなかなか受けてくれません。しかし、もともと中国に関心のあった経営者の方が「仕方ないな」と半分同情でお金を出してくれるようになり、そこから何とか集まり始めたという感じです。 ー 京英会の活動を通じて、もともと全く興味がなかった中国、中国語にのめり込んでいった……という感じでしょうか。 そうなんです!やればやるほど楽しくて、大学二年が終わる頃には「休学して中国に留学しよう」と考えるようになりました。中国語もだいぶ好きになっていましたね。 ー 本当に何がキッカケになるかわからないですね。 中国の友人ができたり、京英会を始めたりしていなかったら、大学の授業も出ないでぷらぷらしていたかもしれません。本当に大学一年のときに良い縁に恵まれたなと思いますね。   メディアと現実の温度差を感じ、経済誌の記者へ ー サークル活動をされる中で、大学三年生のときにはどのような就職活動をされていたんですか? 就職活動の時点で、記者になりたいと考えていました。新聞やテレビ業界も考えましたが、規模が大きいゆえに、自分のやりたいことを実現させるまで時間がかかってしまうだろうと思ったので、もう少し規模の小さい出版社を探したんです。本屋に行って雑誌を読み比べたり、実際に先輩方にお会いしたりして、最終的にしっくりきたのが東洋経済でした。 ー そもそも、どうして記者になろうと思ったんですか? 2012年に中国へ留学したのですが、当時は尖閣諸島のことで反日デモが起こり、メディアでは両国がお互いに叩き合うような報道が多く見受けられました。私も実際、日本大使館のほうへ歩いていたらちょうどデモに遭遇し、”怒りの卵”というものを大使館に投げ込む中国人を目の当たりにしたんです。 しかし、中にはニヤニヤと笑いながら参加している中国人もいて、必ずしもみんな日本が嫌いでやっているわけじゃないんだなと感じました。中国での生活も、日本人だからといって苦労することはありませんでしたし、メディアと現実には温度差があるな、と。 その頃、私はすでに中国がかなり好きになっていましたし、日本のことももちろん好きで、文章やブログを書くことも好きだったので、「記者やジャーナリストになって日中関係に貢献できたらいいな」と思ったのが、記者を志す最初のキッカケでした。 ー それで記者という仕事を選ばれたんですね。しかし門戸の狭い第一志望の会社に受かるというのは、並大抵のことではないと思います。内定を勝ち得るために意識していたことや行動していたことありましたか? ひたすら情報収集ですね。OBOG訪問をしたり、企業のホームページを見たりと、最低限自分で調べられることは調べていました。そして、役員面接で「こいつを働かせてみよう」と思わせるよう、面接でいかに円滑にコミュニケーションとるかということに重点を置いていました。 ー 入社されてから、東洋経済での新人時代にはどんなお仕事をされていたんですか? 新人時代は、食品やお酒のメーカー、小売の業界担当をしていました。各企業を回って、決算や業績についての取材をしたり、社長が変わったときには新社長の抱負を聞いたりといった取材をし、いろんな媒体に記事を書くという仕事です。 ー 記者というのは、何を持って評価されるものなんでしょう? それは会社としても課題ではあるんですが、ひとつは記事の本数ですね。ノルマではないものの、目安にはなるかな。あと、大きなニュースや業界の変化が起こった際に、いいタイミングで記事をかけているかという点でも評価されます。記事の内容については評価軸がバラバラで、明確な基準がないので難しいです。 ー 紙の媒体だとPV(ページビュー)も見えないから、数字で測るのは難しいですよね。 たとえオンラインの記事であっても、たとえば食品業界や小売というのは読者の関心が高く、記事が面白くなくてもけっこう読まれてしまいます。しかし半導体や電子部品などの業界は、一般の読者からすると縁遠く感じられ、どんなに面白い記事でも読まれにくいという性質があります。記事を一律に比較するのは難しいですね。 ー 中山さんからの目から見て、優秀な記者とそうでない記者というのは何が違うものなんですか? 細かいところにどれだけこだわっているか、という点ですかね。固有名詞の間違いや事実関係のズレなど、心がけ次第で防げるミスってかなり多いんです。そこに気を遣えるかどうかは、優秀かそうでないかを大きく分けてる気がします。   「宣言してチャンスを呼び込む」入社3年目で雑誌の編集長へ ー 記者として入社され、第2ステップとして業界地図の編集長になられた中山さん。入社3年目で編集長に抜擢されたのは、どんな会社の意図があったのでしょうか? 就活生向けの雑誌だから若手にやらせよう、という意図はあったと思います。あとは、年に一度しか出さない媒体なので、他の雑誌の編集長と比べたら負担が軽いというのもありますね。もともと30代から40代前半の方達が編集長をやっている雑誌で、若手の登竜門でもありました。 ー その中でも26歳の編集長というのは、異例だったんじゃないですか? 当時はそうでした。まだ記者として働いて一年くらいで、編集の仕事も担当していなかったので驚きましたね。ですが、業界地図では170ほどある業界を全て見ることになるので、今までは違った業界を見られるのはありがたい機会だと感じました。 ー 業界地図の編集長をやってみて、大変だったことや苦しかったことなど、今の糧になっていると感じることはありますか? 業界地図を作るにあたっては、各業界のそれぞれの記者だけでなく、営業さんなど社内の各部署とのコミュニケーションを繰り返して意思決定していかなければならない難しさがありました。さらに、周りの人より私のほうが年下なので、毎回頭を下げ、疑いの目を受けながら、いかに信じて一緒に頑張ってもらうか、というところが大変だったなと感じます。 ー 編集長として記者さんたちの信頼を受けるため、特に意識していたことは? 記者の意見や考えを尊重するコミュニケーションを意識していましたね。まず構成(ページの割り振り)をしっかり記者と擦り合わせる。その上で、実際に原稿が上がってきたら勝手に変えるのではなく、なるべくコミュニケーションをとって改善提案し、記者のモチベーションを維持できるようにと心掛けていました。 ー 敬意を持って、気持ちよく書いてもらえるような関係づくりに腐心されていたんですね。業界地図の編集長を経て、その後『週刊東洋経済』の編集部に移られた中山さん。これもご自身で志願されたんですか? 飲み会の場などで先輩方になんとなく「行きたい」という話はしていました。ですが、明確に希望を出していたわけではありません。 ー 迷いはなかったですか? なかったですね。週刊東洋経済は、基本的に二人の編集者で6週間に一度、40ページほどの特集を作っています。その特集の出来栄えによって売り上げが変わるため責任は大きく、私にできるんだろうかという不安は当然ありました。それでも、やってみたいという好奇心のほうが勝っていたんです。 ー 自分のやりたいことをなかなか口にできない人もいる中で、中山さんはキャリアを宣言して勝ち取ってこられたんですね。 恥知らずなんです。人見知りな部分はあるのですが、恥はかいてもいいと思っています。後でお風呂に入って恥ずかしかったな、と考えればいいかなと。とにかく、思ったことはなるべく言う。 たとえば学生時代に「記者になりたい」と思っていたわけですが、そのときもメールの署名に「2020年までに日本と中国をつなげるフリージャーナリストになる」といったことをずっと書いていました。そこから中国系のイベントの話が舞い込んできたり、「記者になりたいんだよね」と紹介してもらえるようになったり。正直恥ずかしいんですが、やっぱり宣言しておくと機会を呼び込める気がします。 ー そこから念願叶って、今年から中国に関わる仕事をされていることかと思うんですけれど、それも周りに宣言し続けていたんですか? 入社した時に新入社員歓迎の場でスピーチをする機会がありまして、そのときに「中国といえば東洋経済の中山って言われるようになりたいです」って話していましたね。そうすると意外と覚えていらっしゃる方もいたので、言ってみるものだなと思います。 ー 実際のところ、中国に関わるお仕事はいかがですか? やっぱり楽しいです。日本企業の取材ももちろん楽しいんですが、大学で勉強してきた中国語を使えるというのがありがたくて。中国の優秀な方は英語もぺらぺらなんですけど、こちらが中国語で話せば喜んでもらえますし、友達感覚に近い感じで取材できるんですよ。あと、中国では信用がないと取材を受けてもらうこと自体が難しいんですが、仲良くなれればグイグイ中に入れるという面白さもあります。   「腕時計をつけ変える」激務とプライベートを両立させるマイルール ー 記者や編集者って、プライベートがほとんどないイメージがあります。仕事とプライベートの分け方で心がけていることや、激務の中で気をつけていることなどあれば教えてください。 プライベートと仕事の分け方でわかりやすい話をすれば、私は普段、腕時計を左手にするんですけど、オフの日は右手にするようにしています。夜の飲み会も、仕事絡みの会食だったら左手だけど、友人との飲み会だったら右手に変えるなど、意識的に切り替えていますね。 あと、1〜2年目の頃はなかなか有給を取りづらかったり、いつ休めるかわからなかったりするんですが、5年目にもなると繁忙期と閑散期が見えるようになってきたので、あらかじめ休みを確保するようになりました。 体調管理については、ジムに行くのが面倒くさいので、普段からよく歩くようにしています。お酒を飲むのも好きなので、飲んだ帰りは一駅分歩くようにしたり。 ー プライベートでの時間をいかに投資するかで人生の動きは変わると思うのですが、中山さんはプライベートの時間を何に投資されていますか? 学生の頃のように友達と飲み会やカラオケに行ったり、旅行したりもしているんですが、これもひとつの投資になっているかなと思っています。やっぱりリラックスする時間がないと企画するときにアイデアが浮かばないので。 たとえば、私はTwitterが大好きでよく見たりつぶやいたりしているんですけど、家の中にずっといると何もつぶやくことが思い浮かばない。そんなときは、散歩でもいいので外に出たり友人と遊んだりして、頭の中を整理しています。意識的に遊ぶ、外に出るっていうのが、発想やコンテンツにつながるかな、と。 ー 編集の仕事というのは、意識しなければならない対象も多く、気持ちが分散してしまいますよね。ひとりで没入して考える時間も必要だと思うんですが、どのようにバランスを取られていますか? 実は私も同じところで悩んでいて試行錯誤中なんですが、目の前のすぐやる仕事は終わったら消せるよう付箋にシャーペンで書き、少し先にやることはEvernoteに書いておいて締め切りが迫ったら紙の方に移す、などということをやってみています。 時間が明確なものはGoogle Calendarで通知が来るようにして、通知が来ると頑張る。明確な締め切りがない仕事は、どうしても後回しになりがちなので、自分にご褒美をあげながらするようにしてます。 ー そのような様々な工夫は、どこで学ばれているのですか? 明確にこれというのはないのですが、『わたし、定時で帰ります。』というドラマを参考にしていたことはありました。あとは、常に「セルフ働き方改革をしたい、早く帰りたい」という思いからいろんな手段を実践して、良さそうだったら続けてみて、というのを繰り返しています。   いつかは「好き」を仕事にしたい ー 今後のキャリアについては、どうお考えですか? 正直、悩んでいます。今は独身なのですが、仮に結婚して子供ができたときのことを考えると、今の働き方ではいいパパでいられる自信がありません。そのため、結婚や子供ができたタイミングで業界を変えることは考えてはいます。ただ、今のところはもうしばらくこの仕事をやってみようかな、と。 私には夢が2つあって、まずは取材経験を通して得た知識などを学生に還元したいということ。もうひとつは、旅行やご飯、お酒が好きなので、グルメ雑誌や旅行雑誌をやりたいなということです。取材が旅行になる、というのも楽しそうですよね。 ー いい意味での公私混同というか、「Work Life Balance」ではなく「Work As...

レールのない令和時代に、僕らを導く「個人理念」の作り方

U-29ドットコムが運営するコミュニティ「ユニーク大学」メンバー限定の勉強会「ユニゼミ」にて、株式会社サインコサイン代表の加来幸樹さんに、「新時代を迷いなく生きるために必要なこと」をテーマに講義していただきました。タイトルは、「覚悟はシンクロしているか?」。 加来幸樹さんは、九州大学芸術工学部卒業後、2006年にインターネット広告事業を展開する株式会社セプテーニに入社。クリエイティブディレクターとして幅広い領域でご活躍された後に、2018年、株式会社サインコサインを設立され、代表取締役 CEO / Co-Creatorに就任されました。サインコサインは、『自分の言葉で語るとき、人はいい声で話す。』を理念に掲げ、ネーミングやステートメントなどの共創を通じて、人やブランドの覚悟のシンクロを支援しています。 「令和になり、僕たちは新時代にいます。迷いなく生きて働くために、必要なことはこれなんじゃないか。」 加来さんはそう前置きしてから講義をスタート。多くの企業の理念作りに尽力してきた加来さんだからこその、理念を軸としたこれからの働き方や企業とのマッチングに関する視点には、わたしたちがより心地よく働くためのヒントがつまっていました。 令和は、正解のレールがない時代 僕は、今の時代の課題を以下の3つのキーワードで表現しています。 コモディティ ダイバーシティ ボラティリティ コモディティは「技術革新に伴い、あらゆる差別化が困難に 」ということです。広告の仕事をしていたときにも、差がなくなってモノを売るのが困難になっていると感じていました。これは商品だけでなく、会社と会社、ヒトとヒト、様々な場面で言えることです。 ふたつめのダイバーシティは、文化や価値観の多様化 です。価値観、人種、性別、いろんな主義などに関して、「これはみんながある程度もっている価値観だよね」、「これが正しいから従っておこう」というような考え方が薄れてきました。それは同時に、「こういう人に向けてコミュニケーションすれば大丈夫」というやり方も通用しなくなってきているということです。 さらに、ボラティリティは、予測不可能な出来事が次々起こるということで、2020年も早速実感しています。「100年に1回あるかないか」という出来事が、自然災害、政治、金融…いろんな面で頻繁に起こっていますよね。かつ、これが起こることで、これまでのルールがガラッと変わってしまうことになります。 今までは、キャリアや人生やライフプランニングにおいて、正解と思われるレールがざっくりとではありますが見えていました。それが見えなくなり、いい意味でも悪い意味でも、それに従わないといけないというルールもなくなった、と感じています。 会社と社員の関係性の変化 このレールのない時代において、大きな変化がふたつあります。 ひとつめが、会社から社員、このベクトルの変化です。 会社が社員に期待する働き方のハードルが高くなっていると感じています。 昨今、多くの企業が「終身雇用ができない」という話をしています。技術革新によって、人に代わる労働力の確保が可能になり、いままでほどの社員数が必要ではなくなるという事態になっています。だからこそ、給料も年功序列で、昇給していくということが難しい。その代わり、新卒の給料を高くして、若い人を奪い合ったり、AIやディープラーニングなどの稼げるスキルを持った人にはいくらでも払ったり…新時代においても稼げる、そんなスキルにはどんどんお金を回そうという傾向が高まっています。 これは、働き方のハードルが高く、複雑になっていることのあらわれです。今までのように、入社できればずっと雇ってもらえる・どんどん給料は上がっていく、というシンプルな形ではなくなっています。 一方で、社員から会社、このベクトルにも変化があります。 社員側が会社に求めるものも、終身雇用や安定した給料だけに限らなくなり、形態や報酬の金額も多種多様になっています。副業や兼業が一般的になりつつあることが背景にあります。これまでは、会社からの給料と個人の収入がイコールだったと思うのですが、そうじゃなくなってきている。会社に依存しなくてもよくなってきました。 優秀な学生が転職を前提として、稼げる能力で会社選びをする。ワークライフバランスを思い通りにしたい。出世よりもプライベートを充実させたい。いろんな価値観があって、それぞれが会社に求めることが違う。よって、会社が社員に期待する部分がより行動に・複雑に、社員が会社に求める部分が多種多様に、という変化が起きています。 これまでの、お金と労働力による「価値と資源の交換関係」に会社と社員があったときは、お金を渡す方がイニシアチブを握りやすく、どうしても上下関係が生まれがちでした。 それが、ようやく会社と社員が対等な関係に位置づけるようになってきています。それぞれが求める価値、それぞれが求める資源を交換する、真のパートナー関係といえます。 ここで交換されるのは、お金・労働力だけではなく、会社からは機会や場所、社員からはスキルやアイディア、というように多様化していくでしょう。なので、今まで以上に、どの会社でもいい・誰でもいい、というわけにはいかなくなります。では、どのように選べばいいのか? パートナーシップの鍵は「理念」 どういう基準で選べばいいのか、つまり、よいパートナー関係を築くためにまずは必要なことのお話をしていきたいと思います。 ジム・ステンゲルとトム・ポストの共著書『会社は何度でも蘇る ビジネス・エコシステムを循環させた大企業たち』という本があります。この本の中で、P&Gの元グローバル・マーケティング責任者であるジムは、このように書いています。 成功しているパートナーシップの 88%は、パーパス(理念)の明確な一致がある場合である。 僕自身、この言葉を実感しています。これからの時代は、会社と会社・会社と個人・個人と個人…あらゆるパートナーシップにおいて、対等 にそれぞれが求める 「価値」 や 「リソース」 を交換するには、それぞれの 「理念(なぜ?)」 に明確な一致があることが必要になります。これができているパートナーシップの上で、会社も個人も成長し続けることが可能です。 企業やブランドの理念と、そこに属する個人それぞれの理念の 親和性が明らかとなり、認識・動機化・実行されている状態が理想的であると考えます。 個人理念が活動・選択の軸になる 企業理念とは、その企業の全ての活動や選択の動機・基準と僕は表現しています。企業理念はよく耳にするワードだと思いますが、個人理念はあまり聞きませんよね。でも、良いパートナーシップを築くためには個人理念も重要です。個人理念は、企業理念と同じく、個人の全ての活動や選択の動機・基準です。 個人も、自分という器を経営する経営者に変わりありません。今後は、副業という言葉すらなくなって、自分を主語にして様々な仕事や活動をすることが当たり前になっていくと思います。そのときの軸になるのが、個人理念です。 僕の場合は、以下のように掲げています。 ・個人ビジョン 一人からも全員からも、 注目される存在であり続ける。 ・個人ミッション それって本当?を問い続け、 みんなの人生をもっと面白くする。 僕の中では、ビジョンは「ありたい姿」、ミッションは「使命」や「存在意義」と定義づけしています。ミッションは自分の命をなんのために使うか、社会のためにどう価値を発揮するか、というところを反映しています。つまり、いつかは成し遂げたいことですね。ビジョンは、そのミッションの先にどうありたいのか、あるいはそのミッションを成す過程でどのような姿でありたいのかを表わします。 そして、この個人理念が、サインコサインの企業理念と親和性が高いからこそ、お互いにハッピーな状態でいることができています。みなさんにも、「個人理念はなんだろう?」、「いまいる会社(コミュニティ)との親和性はあるかな?」と確認し続けてほしいです。いろいろな選択肢がある中で、「あえて」そこを選ぶ理由になるのが、この親和性になると思います。 また、個人の成長のためにも、この個人理念が重要であると感じます。理念を掲げると、ありたい理想の自分と現実のギャップに悩むこともあるでしょう。理想に近づくためには、仕事の価値を高めるサイクルを回していくしかありません。 まずは仕事を選び、その質を高めて、そうすると仕事の価値が高まり、仕事が集まるようになり、また選んで…。そうすると段々と、理想に近づいていけると思います。選ぶときに取捨選択をする、そこで必要になるのが個人理念なので。個人理念をもつことは、なりたい自分に自力で近づく唯一にして最大の手段と言えます。 個人理念の作り方 僕が個人理念の作りを手伝うときに、どのような流れでしているかも紹介しておきたいと思います。 ちなみに、この個人理念は、変わることを前提としていて構いません。出会いや経験やライフステージによって、価値観は変化するものですから。僕自身も、多くの人の理念作りに伴走する過程で、自分の中の変化を実感して変更することがあります。 規模感にかかわらず、企業理念においても、5段階を経て作られていきます。僕はこれを、覚悟がデザインされていくプロセスととらえています。 理念の作り方 ステップ①自分の言葉で 「自由」 に自分を語る 具体的な質問に答えてもらったり、ヒアリングシートを基にしたり、ということはなく、とてもオープンに語ってもらいます。語りのはじまりになる質問だけ用意しておきますが、ポイントは、なるべく答えがない質問であることです。 「あなたは何者ですか?」、「長所と短所はどこですか?」、「大切にしていることって何なんでしょう?」…このような質問を相手にし、なるべくめちゃくちゃ共感していくことで、よりいろんなことを引き出していきます。 理念の作り方 ステップ②いい声で話せる自分の 「本質(コア)」 を探る ステップ①で返ってきた答えを、具体化していくのがこの段階です。「どうしてこれ選んだんですか?」、「この行動にタイトルつけるとしたら何でしょう」というような質問を重ねていきます。さきに抽象的な質問をし、つぎにより具体的な質問で本質を探るという流れですね。ここでは質問攻めにしていきます。「さきほど面白いという言葉を使いましたが、面白いってどういう意味ですか?」というくらい、深く聞いていきます。 その人の大事なことや、本質の話をする瞬間って、本当にいい声で話すところがあるんです。それが聞こえてきたら、再び深い共感を示して、そこに関してもっとしゃべってもらう。これを繰り返していきます。 理念の作り方 ステップ③考えすぎずに 「試作品」 をつくる その人の言葉から「いい声」が聞こえてきたら、あまり考えすぎずに試作品を作ります。そこに対して、どのような感想が返ってくるか、を大事にするからです。 自分で作る場合は、試作品を前にして、自分がどう感じるかを大事にしてください。そこに向き合って、工夫を加えて作り直して、また向き合って…このサイクルを納得いくまで繰り返していく。何度も何度も繰り返す中で、覚悟が醸成され、迷いがなくなっていくと感じます。 理念の作り方 ステップ④イメージの湧く 「具体例」 を想像する ある程度、正解が見えてきたら、その言葉の先にある未来を想像します。 会社の理念と並べて親和性を確かめてみる、Twitterのプロフィールに活用するならこんな肩書に言い換えられそう、こういう活動に展開しそうだな…そんな未来をイメージし、その言葉を掲げる覚悟をかためていきます。 理念の作り方 ステップ⑤自分が...

「キャリアシェアサービスCREEDOを通して志を持つ人を増やしたい」世界一周で都築 辰弥さんのソニーへの一途な思いが変わった訳

中学の頃から「ソニーで働く!」と決めていたという都築さん。そんな都築さんは現在、株式会社ブルーブレイズの代表として社会人向けOBサービスCREEDOを運営されています。 彼のソニーへの出会いと、その一途な思いが世界一周をきっかけにどう変わったのか。「世界に100億の志を」というビジョンを掲げる理由とは。志を持って働く都築さんにお話を伺いました。 高い志を持っている人と志を持てない人との出会い ーまずは簡単な自己紹介をお願いできますか? 都築 辰弥です。つづぽんと呼ばれています。2019年8月に株式会社ブルーブレイズを立ち上げました。CREEDO(クリード)という社会人向けOBサービスを中心に今後事業の拡大を予定しています。 ーCREEDOは現在国内最大級の利用者を誇ると伺いました。 2020年3月にオープンしてから2ヶ月程で社会人向けOB訪問サービスとしては国内最大級になりました。学生用のOB訪問サービスは実はたくさんありますが、社会人向けはあまりありません。そういう意味ではかなりかなりニッチな業界のトップにはなります(笑) 社会人が転職したいと思った時に、転職エージェントはたくさんありますが、経験者の声を聞く機会はあまりありません。友達づてでしかこれまで聞けなかった生の声を聞くことができるサービス、自分がこれまで歩んできたキャリアについて誰かにシェアできるサービスがCREEDOです。このキャリアシェアという文化がこれからどんどん広まればいいなと思っています。 ー起業し、キャリアシェアサービスを立ち上げたきっかけを教えてください。 大学時代の2つの経験が大きな影響を与えてくれました。 1つは大学で所属したアイセック(AIESEC)という学生団体での経験です。アイセックは海外インターンを運営しており、世界最大級の学生団体です。この団体を通して志の高い学生・社会人に出会うことができ刺激を受けました。高い志の持った人間になりたい、そういう人がもっと増えたらいいなと思ったのがCREEDOのビジョン「世界に100億の志を」につながりました。 もう1つは大学を休学して行った世界一周です。半年で30カ国くらい行ったのですがパレスチナ自治区に行った時のことが今でも忘れられません。たまたま現地で仲良くなったお父さんと女の子の親子がいたんですが、女の子の将来の夢を聞いたところそのお父さんが突然機嫌が悪くなって「あるわけない、ここは戦場だぞ」と言われたんです。不謹慎なことを聞いてしまったのかと思い、考えさせられました。その時、世の中の人が志を持ったり夢を語ることがまだまだ当たり前にできないことを理解しました。明日のことさえ不安な状況で夢を持つことは難しいと。 それ以来、世の中の人達が志を持てる社会にしたい・志を語れる社会にしたいというビジョンを持つようになりました。キャリア関連で起業したいと思っていたというよりかは、ビジョン達成にはキャリア事業でまずアプローチしてみようと思った次第です。 ーありそうでなかったキャリアシェアサービスをゼロから作ってみて反響はいかがでしたか? 正直いい反響しかなくて困惑しています(笑)。こんなサービスが欲しかったなどの感想をいただけて嬉しいです。ただ事業としてはありそうでなかった事業という訳ではなく、うまく行っている企業がなかったというのが現状かと思います。決して簡単な事業ではないのですが、国内最大級までのびたことでやっと土俵にたてたかなと思っています。 中学時代からのソニーへの憧れ ー現在は起業されていますが、前職はソニーで働いていたと伺いました。大学卒業後すぐに起業ではなくソニーへ就職されたのは理由があったんですか? それは中学の頃に遡るのですが、実は11歳の時に父親の仕事の都合でドイツのハノーファーという所に引っ越しました。ハノーファーは日本人の少ないエリアで日本人学校がなく私はインターナショナルスクールに通うことになりました。 当たり前ですが英語が全然話せず、とても苦労することに。また、日本ではお受験をする人が多い小学校に通っていたので、ドイツで同級生が第一志望の中学に合格したというニュースを聞いて日本社会から断絶されたような感覚に陥りました。 そんな中で言葉が通じない状況で友達を作るきっかけになったのがプレイステーション(PSP)でした。ゲームを通して友達を作ることができて、しかもそれがソニーという日本の商品でした。現地の友達が日本の商品=クールという認識がされていることも知りました。 ードイツでのソニーとの出会いが就職でも大きな影響を与えていたんですね! はい。またドイツにいた頃に父親がガジェット好きだったのもあり休日はよく家電量販店に連れて行ってもらっていました。そこに大きな黒を基調としたソニーのブースがありました。が、ある時を境にそのブース一面が青を基調としたサムスンに変わったんです。当時(2007年)、韓国メーカーが勢いを出してきている時期だった。中学2年生にして、これは結構ショックで、日本が終わってしまうと思ったんです。それ以来ソニーに愛着と危機感が湧いており、いつか就職してソニー復活に貢献したいと思っていました。 一途な思いは変わらず、無事内定を獲得 ードイツから帰国後もその思いは変わらず。 日本から断絶されている感覚ができてから、急にガリ勉になったんですが中3で帰国後の高校受験は失敗してしまいました。受験失敗の原因は我流で勉強していたことだとわかっていたので、大学受験でのリベンジを誓い、3年後実際に東京大学に合格しました。その時もソニー復活の貢献には経済学部で経営について学びたいと思い、文科2類を受けました。 ーソニーへの就職することを中心に進学先も考えられていたんですね。そして冒頭でお話のあったアイセックと世界一周の経験をすることになったんですか。 アイセックは高校時代から興味を持っていた団体でした。これは自分自身が帰国子女でグローバルなことに興味を持っていたからです。アイセックでは大学3年の時に東京大学委員会で代表として70人位のトップに立つ経験もさせてもらいました。しかしうまくリーダーシップをとることができずこの時の経験は高校受験失敗を上回る挫折経験をしました。アイセックでの経験と出会った人たちは今の自分に大きな影響を与えていますね。 ー大学ではそんな挫折経験もあったんですね。その後就職活動ではソニー一筋だったんですか? 本選考はソニーしか受けなかったです。ただ、経験は大事だと思いインターンはいろんな企業を受けていました。 ーリクルートのインターンでリクルートの方に「第一志望はソニーです」と言っていたとか(笑) はい。中学の時からの憧れは変わっていなかったので(笑)ソニーにはもちろんインターンから応募・参加し、コネクションを作ってから本選考に望み、無事合格をいただきました。が、16卒入社予定で内定をいただいたのですが、どうしても世界一周をしたかったので17卒入社に変更していただきました。 ーすごく柔軟な対応をしてくださったんですね!しかしその世界一周がきっかけでビジョンが? 世界一周前の自分のビジョンはソニーに入って、ソニーを復活させること・日本技術の凄さを知ってもらうことでした。それが世界一周をきっかけに、ソニーに入社してトップになれたとしても旅先で出会った人たちには1ミリも関係ないなと思ってしまったんです。 ーしかし世界一周から帰国後予定通りソニーに入社を決意した理由は? やっぱり人はそう簡単には変わりません。世界一周がきっかけで、これまでずっと描いていたビジョンに初めて「待った」がかかったわけですが、その時はまだ、小さな違和感でしかありませんでした。なんせ中学の頃から夢見ていたソニーですから。入社意思はやはり変わりませんでした。 世界一周で生まれたモヤモヤ、起業を決意 ーもし世界一周での出会いがなかったら今もソニーに働いていると思いますか? 思います。ソニーでは2年半働かせていただきましたが、仕事も楽しく充実していたので、だからこそ2年半働いてしまったというのが正直なところです。 ーどのような仕事を担当されていたんですか。 モバイル事業の商品企画の仕事を担当していました。市場調査をして商品コンセプトを作り、仕様をコストの範囲内で決めて、工場とコスト相談をして利益が最大化されるように開発プロジェクトをマネジメントする仕事でした。簡単にいうと商品に関わるプロダクトマネージャーになります。 ー入社前の違和感があったものの、仕事の楽しさにのめり込まれたんですね。 幸い、入社間もない頃からたくさんの仕事を任せていただき、恵まれた環境で働かせていただきました。フラグシップモデルの商品企画も入社2年目で担当させていただきました。それが昨年発売されたXperia 1です。 ー充実しており、辞める理由が見当たらない中でやはり心の中のモヤモヤはあったんですか? 世界一周で感じた実現したい社会とのズレは心のどこかで感じていて、段々とその気持ちに無視できなくなってきました。ちょうど担当商品の企画が一段落し、一緒にやってくれる仲間ができたタイミングで辞めることを決意しました。 ー退職を決意し、報告した時の上司の反応はいかがでしたか? 大変驚かれましたが、最後には「頑張れ」と送り出していただきました。大変なご迷惑をかけましたが、本当に感謝しています。起業することに不安がなかったといえば嘘になりますが、その時には仲間がいて、自分だけの物語では無くなっていたので迷いはありませんでした。昨年のGW頃に起業するに当たって誰と一緒にやりたいかと考えた時に思いついたのが、今の取締役の藤井です。彼女に話した所その場で即決してくれたのが、いい踏ん切りになったと思います。 志は「考えるもの」ではなく「決めるもの」 ー起業してまだ1年目、滑り出しは順調とのことですが、大事にされていることはありますか? 自分にとってはビジョン・志が大きな判断軸になっています。決断するときはそれがビジョンと一致するかどうかを大事にしています。 ービジョンや志を持っていない人たちもたくさんいると思うのですが、ビジョンの見つけ方や志の維持の仕方を教えて欲しいです。 私の場合、志を持っている自分が好きというのがあります。ビジョン・志があると意思決定がしやすいく、自分の人生に意味があると信じることができます。人生は暇つぶしだと私は常々思っていますが、その暇つぶしな人生にどう意味付けをしていくかと思った時に、志を追いかけるという物語を生きたいと思っています。 ビジョンや志、やりたいことは「考えるもの」というよりも「決めるもの」だと思います。とりあえず決めて、言ってみるのがファーストステップ。ビジョンや志を100回位繰り返し言っていると暗示にかかり、そうあるべきだと思うようになります。私自身、「世界に100億の志を」を言いすぎて、起業当時より強く思うようになりました。 ーそんなビジョンの元、今後の事業予定などがあれば教えてください。 CREEDOを通じて実現したいことは「納得のキャリア選択」です。仕事がつまらない・上司との関係が悪いなどといった状況では志を持つことはきっとできません。CREEDOを通じて正確な一次情報を流通させることで、納得のいくキャリア・志を持てる環境を作っていきたいです。それがきっとビジョン達成に繋がると信じています。今後もCREEDOを通した志を持つことのできる土壌作りを引き続き頑張りたいと思います。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)

「好きなことで生きていく」サッカー好き複業フリーランス、石川 奈那美

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第93回目のゲストは好きなことで生きる複業フリーランスの石川奈那美さんです。 Twitterではサッカー好きのイメージが強い石川さんの、意外な小さい頃の夢から、サッカーがモチベーションとなったイギリス留学、そして新卒で入社した企業を辞めてから今に至るまで。好きを仕事にした彼女らしい生き方に迫りました! ピアノではなくスポーツへ惹かれていった ーまずは簡単に現在されているお仕事について教えてください! 本業は愛知県のITシステムのベンチャー企業、株式会社ピアコネクトで営業をしています。今年で創業1年のまだ新しい会社で、自由に働かせてもらっています。副業として、女性支援イベント企画や動画編集、SNS運用、サッカーエージェントなどに携わっています。 ーTwitterを拝見するとサッカー好きという印象が強かったのですが、サッカー好きになったきっかけは何だったんですか? 両親の影響が大きいかなと思います。小さかったので覚えていませんが、日韓ワールドカップを現地で見に行ったこともあります。また、同級生にサッカー選手の道を進んだ友人もいました。 ーということは昔からスポーツまっしぐらだったんですか? 実は小さい頃の将来の夢はピアノの先生になることでした。3歳からピアノを習い、ショパンコンクールで賞をいただいたり、ヤマハ全国大会にでたりしていました。その結果音楽学校からも声がかかったりしていたんです。でも両親が女の子が生まれたらピアノをやらせると決めていたから習いはじめただけで、私自身がピアノにすごく惹かれたわけではありませんでした。 ーそうだったんですね。いつからピアノではなくスポーツに気持ちが向いて行ったんですか。 高校でハンドボール部に入り部活漬けの日々を送るようになったのが大きかったと思います。自分の中でピアノの優先順位が下がり、ピアノが本当に自分のやりたいことなのか、自分の将来に繋がることなのかと考えるようになりました。 ースポーツの何に惹かれたのでしょうか。 単純に身体を動かしているのが楽しかったのと、ピアノは個人戦で自分との戦いでしたが、スポーツはチームプレーだったところが自分に合ってたからかなと思います。入っていたハンドボール部は県大会の常連でしたが、同時に部員の半分以上がハンドボール初心者の部活でした。だからこそプレッシャーを感じながらも県大会に行ってやろうという意気込みを持ってみんなで頑張る過程がピアノではできなかった体験で、とても新鮮で楽しかったです。 香川選手がいるからマンチェスターに留学 ーその結果、その後の進路はどう決められたんですか? 当時はスポーツに関わる方法がスポーツトレーナーしか思いつかなかったので、スポーツトレーナーを目指して受験勉強に励みました。両親にピアノを辞めると伝えた時はお金と時間の無駄だったという話になり、喧嘩になりましたが最終的には自分のやりたいようにしなさいと折れてくれましたね。 第一志望は早稲田大学のスポーツ科学部でしたが受験に失敗し、地元の東海学園大学に進学を決めました。 ー大学に入ってみてどうでしたか。 大学に入ってから、スポーツトレーナーの大変さや給与面などを知ることになり、すぐにスポーツトレーナーになることは諦めました。それから大学で頑張るモチベーションもなくなってしまい、ゼミの先生に退学しようかと考えていることを相談しました。そうすると2週間のイギリス、アベリストゥイスへの留学プログラムを紹介してくださり、ちょうどロンドン五輪の年だったこともあり留学してみることに決めました。それがきっかけで自分の好きなサッカーをもっと追いたい、好きなことをやっていきたいと思うようになりました。 ーその後の学生生活はどう過ごされたんですか。 2週間の留学は短すぎたので大学3年でもう一度留学にいくことを決めました。ロンドンは物価が高かったので、他の場所を考えた時にマンチェスターに香川選手がいるのを思い出して、マンチェスターに3ヶ月留学することを決めました。結果的に週3で香川選手に会いにいっていましたね(笑) ー香川選手のファンだったんですか。 はい!J2にいた、セレッソ時代から香川選手のことは知っていました。でも海外に行かれてから、自分が好きなことを貫いて努力されているところや、チャレンジ精神があるところを知る中でどんどん好きになっていました。 ーそれでマンチェスターに留学を決めるのもすごいですね(笑)留学生活はいかがでしたか。 同じイギリス内でもアベリストゥイスとマンチェスターは全然違いました。 また、アベリストゥイスに留学した時は大学のプログラムだったので周りに日本人がいましたが、マンチェスターでは自分から話しかけないと一人の状況で…元々人見知りだったんですが、人見知りしている時間がもったいないと思うようになり積極的に自分から話しかけられるようになりました。同時に、サッカー選手と英語で話したいというのが良いモチベーションとなっていたので英語の勉強もはかどりました。 新卒で入社した会社を1ヶ月で退社 ー充実した留学生活だったんですね。留学から帰国後は就活をされたんでしょうか。 はい。実は両親や親戚も含めて私の周りは自営業の大人が多く、会社員になる意味がよく分かっていませんでした。会社員になると会社に縛られるのは?というイメージを持っていたんです。それでも世の中の企業のことを何も知らないのも、と思い業種を選ばずにできるだけたくさんの説明会に足を運び意外にもしっかりと就活をしていました。 ーその結果、新卒では就職を選ばれたんですか。 新卒では名古屋の広告代理店に入社しました。何かを作って世の中にその作品を出すのがかっこいいなと思って選んだのですが、思っていた以上に会社がブラックで1ヶ月で辞めてしまいました。 ー1ヶ月ですか! 今思うと本当に申し訳ない気持ちでいっぱいですが、自分のやりたいこと・好きなことに使う時間をないのは無理だと思いました。そこで次の仕事も決まっていなかったのですがとにかく辞めることにしました。 退職後はまずはパソコンスキルを身につけようと思い、残業なしで定時に上がれるという自分の条件に合うところを派遣会社に紹介してもらい事務の仕事をしていました。 ープライベートの時間が確保されて何に時間を費やされていたんですか。 趣味でやっていた動画編集などを手伝うなど、自分の好きなことに時間を使っていました。また、昔から応援していたサッカー選手と仲良くさせていただいていたんですが、その方が会社を設立する時にお声がけいただき、サッカーエージェントで手伝わせてもらうことになりました。 ーその後、派遣の定時上がり生活から今の働き方にシフトされたんですか。 はい。居酒屋で自分のこれからやりたいことを話していたら、たまたま隣に座っていた人が話を聞いていて、「それ、うちで一緒にやろう!」と声をかけられたのをきっかけに今の会社で働くことになりました。実際入社してみると、まだまだそんないろいろやれるフェーズまで行っている会社ではなかったのでとにかく営業をやることになったのですが…(笑) 夢と人を繋げるプラットフォームを作りたい ー今後やってみたいことなど決まっている事はありますか。 来年の2月頃を目処に会社を作ろうと思っています。自分自身がいろんな人との縁でこれまで仕事をしてきたので、夢を持っている人・夢を支援したい人をマッチングできる、やりたいことを発言できるプラットフォームを作りたいと考えています。コロナの影響でどうなるか分かりませんが、具体的には名古屋でカフェを開きそこをハブにしたいなと思っています。関わってくれる人がウィンウィンになる場を作りたいですね。 その他にもママ世代にも自分の人生を楽しんでもらいたいと思い、ママ会などの女性支援イベントを企画運営しています。今後はこれももっと展開できたらいいなと思っています。 ー素敵ですね。長期での目標も、もしあれば教えてください! あまり長期的な目標は立てず、かなりざっくりとした目標に対してその時々に小さい目標を見つけていくタイプですが…今の自分のざっくりとした目標は自分の周りにいる家族や友人を幸せにすることです。その目標を達成する中で、自分が楽しそうと感じることにいろいろとチャレンジしていきたいと思っています。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)

「ときめき」を可視化する!? 14歳で起業すると決めた山本愛優美の目指す世界とは

  色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、慶應義塾大学の2年生でありながら、NexstarCEOとして活躍される山本愛優美(やまもと・あゆみ)さんです! 北海道の14歳の少女がナゼ起業家の道を志したのか…?「ときめき」の研究とは…?とてもユニークな山本さんの経歴と、魅力とエネルギーの源についてたっぷり伺いました! 山本さんのテーマ・「ときめき」を可視化する研究とは!? ー現在、大学2年生の山本さんは、どのような分野の学問を専攻しているのですか? 私は慶応義塾大学環境情報学部にて、「ときめき」の研究を行っています。私の行動軸である「ときめきで溢れる世界を作る」をビジョンに、ときめきを可視化する研究をしています! また、学業以外にビジネスの分野では、NexterのCEOとして活動しています。 メインの事業は教育×エンタメの分野の事業づくりで、2020年1月まで、学べる恋愛ゲーム「Smart Kiss」の制作をしたり、高校生の時には「超学校祭」というような学校の垣根を超えた学園祭イベントのプロデュースなどをしていました。 現在でも生まれ育った北海道にて、プログラミング教室を開催したり地元のラジオ番組に出演したりしています。 ー早速ですが、「ときめきの可視化」ってすごくユニークな研究テーマですね! ありがとうございます!私も、まだ分からないことだらけの領域なのですが、非常に面白いですし、やりがいがあります。「ときめき」という言葉は、実はすごく定義が曖昧な日本独自の言葉なんです。 辞書で調べると、未実現の事に関する憧れ・期待感という定義が広く使われています。1000年前の枕草子や源氏物語では、「時めく」とは、長く時間に乗って栄えるという定義があり、最近だと『人生がときめく片づけの魔法』の著者・こんまりさんが海外でも話題で、「spark joy」のような意味のときめきもあると思っています。 私は、ときめきの定義は、その人や瞬間によって移り変わっていくものと捉えています。そして、このときめきの違いを通じてどのような身体変化があるのか…?ここを解明して言語化し、ときめきの研究家になりたいです! ー面白そうですね!「ときめきの研究」では、どのようなことを取り組んでいますか? 何かテクノロジーを使って幸せ・喜びといったときめく瞬間を可視化できないかな…?と考え、現在は推理指標として心拍と表情を用いた可視化を目指しているところです。 近年は非常に簡単に計測できるキットのようなものがあり、小さなチップを手や耳たぶにあてたり、イヤリングのようなカタチで身につけられるもので心拍を計測しています。 また、表情はカメラで撮影して分析するプログラムを活用しています! ーときめきの研究だけでも面白そうですが、高校生で起業をした経歴もなかなか面白そうですよね!以前からリーダーシップを発揮する場面は多かったのですか? 過去に遡ると、中学2年生の頃に生徒会長をやっていました。ですが…実はこのときの出来事が、私の人生で初めて自己肯定感が下がった、挫折経験にもなっています。 ー中学生の山本さんに、一体何があったのでしょう? 当時の私は、「生徒会長になったからには、何かしら生徒が楽しい学校生活を送れるような工夫がしたい」と考え、色々なプロジェクトの企画を先生に提案をしていたのですが、ことごとくうまく行かず空回りしていました。 結局、自分がやりたいことは何ひとつ実現できないまま、次の時期の選挙に突入したんです。当然、選挙に出るつもりでした。 ですが、選挙に出るか・出ないかのタイミングで先生に突然呼び出され、「山本は、生徒会長の器じゃないから生徒会長の選挙には出ない方がいいんじゃないか? これまで、自分自身でちゃんと生徒会長をやれたという自覚はあるか?」と言われてしまったんです。 その一言で、自分が全力を注いでいたものを否定され、自信を失くしたのと同時に、学校内での居場所もなくなってしまったような感覚でした。非常に凹みましたし、毎日泣くほど辛かったです。結局、中学3年生では生徒会長にはならずに終わってしまいました。 ーなんと…。その後、中学3年生で起業をしたとのことですが、その時の悔しさが影響しているのでしょうか? 生徒会長になれなかったこと、器じゃないと言われたことが悔しくて悲しくて、自分の居場所が学校にないように感じてから、「何かしら自分のエネルギーをぶつけられる、学校以外の場所を探そう」と思うようになっていました。 でもそれだけがキッカケではないんです。もう1つの起業のキッカケは、中2〜中3になる春休みに、漫画『銀の匙 Silver Spoon』を読んだのが影響しています!   悔しさと漫画がキッカケで起業家の道へ!高校生起業家が北海道に爆誕した瞬間 ーまさか漫画が起業に影響しているとは!その理由を教えて下さい! この漫画は酪農高校の話なのですが、私の出身の北海道の帯広市が舞台でして、作中に出てくる風景が毎日使う通学路だったり、実生活と重なっている部分が非常に多く好きな作品なんです。 ちょうど生徒会の件で落ち込んでいたくらいの時期に、主人公が起業するエピソードが発売されたんです。なんとなく学校の外に居場所が欲しい気持ちと、いつか起業したいなという気持ちが、その主人公と重なって明確になりました! この2つのキッカケがあって、起業家の道に進むようになっていきました。それほど『銀の匙』は、人生を変えてくれた一冊に選ぶほど、影響を受けた漫画です! ー起業家になろう!と思った後は、どのような行動に出ましたか? 起業しよう!と思ってから、すごくラッキーなタイミングで、北海道の帯広信用金庫と野村総合研究所(NRI)が一緒になって、十勝の起業家人材を育成しようというプログラム「とかちイノベーションプログラム」の開催が発表されました。 私が中3の4月にそのリリースが地元の新聞に出ており、6月から参加しました。 当時は14歳。一番年齢が近い人でも22歳という、年齢や経験も圧倒的に上の方々に混ざって参加していました。非常に刺激的な影響を受けながら行動をしはじめました! ー14歳で起業家を目指すなんて、大人の方からすごく可愛がられそうですね! そうですね(笑)スーツの人に混ざって、1人だけ制服でした。すごく目立ってましたし、起業したい10代なんて地元にいなかったので、「14歳で起業なんて、期待の星だ!」という感じで注目を浴びました。 自分では、子供だからって舐められないようにちゃんとしよう…しなくちゃ…と頑張っていたものの、周囲の期待がどんどん大きくなる一方、自分自身が想定していた以上に期待され、求められてしまうことに苦しみました。 「山本さん、こんな事もできないの?」と思われてしまうことで自信を失くしましたし、期待に答えられないことも、事業が前に踏み出せないことも精神的にすごくしんどいなと思ってました。キラキラしながら話している自分と、実際に何も出来ない自分の虚像に苦しんだスタートでした。 ーその苦しい時期は、どう乗り越えたのですか? うんと年上の方々にやりたいことやビジョンに共感してもらえないことが辛かったので、 高校に入ってからは学生団体を立ち上げ、まずは身近な考えをもっているような同年代の仲間を集めようと思うようになりました。 結果、4つの学生団体の代表をすることになり、自然と共感してくれる仲間が増えていってくれ、乗り越えていきました。 ー高校生活では、学生起業家として注目されたのでは? そうですね。高校のクラスでも浮きました(笑)アウェーな感じがしたのを覚えています。 クラスの中で馴染めないこともあって、仲のいい子は数名いたのですが、距離を感じる場面もありました。学校の外で頑張ったら、学校の中で居づらくなってしまい、それがストレスで学校に行きたくないこともありましたね…。 しかし、転機があったのも、高校時代です。 学祭期間で授業などがなく、時間的に余裕があった時期に開業届を提出したところ、地元の新聞に大きく「高校生起業家・山本さん誕生!」と掲載され、メディアに出るようになってからクラスの中でも一目置かれるようになっていきました。そこから、北海道の中で自分のやりたいことをやるんだ!と無双していた気がします(笑) 注目され、メディアに出ることもしばしばありました。でも実は、起業した当初は全然うまく行かなかったんです。   クラス・学校・地元の枠を超えるムーブメントを実現!今後は日本一の「ときめき研究家」を目指す。 ー高校生の時はどのような事業を行っていたのですか? 最初は高校生の様々なデータを集め、高校生向けのマーケティングを行っている企業さんに活用いただけるように売り込んでいました。企業さん側も、高校生かつ起業家として活動する私に会ってくれるものの、実際の業務提携には結びつかない…ということが続きました。 このままでは良くないなと感じていた際に、学生団体に所属していた友人から、「私も学生団体を作りたいんだけど、どうしたら良い?」「私もアユみたいに起業したい!」相談を受け始めるようになっていました。 その量が、ただ友人と話す時間とかで収まらないほどに増えていった際に、「これはもしかしたら、事業になるかもしれない!」と考え、中学生・高校生の起業のコンサルティングとしての相談件数を実績として増やしていき、企業さんと育成プログラムを立ち上げるなど、事業提携が出来るようになっていきました。 そのキッカケもあって、BSジャパンで放送されていたTV番組、「14歳からのスタートアップ」にも、登壇させていただきました。それでさらに自分の知名度も上がったと思います。 ー学校の垣根を超えた取り組み「超学校祭」についても知りたいです! 中高生向けコンサルティング事業の立ち上げ当時の自分のビジョンは、「教育の機会格差を是正したい」というちょっと硬いテーマだったんです。 これは私が小中高と地元の学校に通う中で、日常生活だけでは学びの楽しさに触れる機会が全然ないな〜と考えはじめたのがキッカケでした。勉強だけではなく様々な学びが、世の中にはあることを、学校の外に作れないか?と思い、奮闘していました。 「超学校祭」は地元の商店街と、地域の色々な高校が集まってコラボし、文化祭のようなものを実施するというイベントです。 日常生活では、他校の生徒に会う機会なんてないけれど、面白い人に出会いたい!という気持ちが原動力になって、学校外の友人と繋がれる瞬間を文化祭というカタチにしました。 また、地元のシャッター商店街をなんとかしたいという思いもあったので、開催場所として地元の商店街を選び、活気を取り戻したい!という願いが多くの人を動かしたんだと思います。 ーやってみてどうでしたか? 反響はかなり大きく、大分県の高校生が「私も超学校祭を開催したいです!」という連絡をくれて、わざわざ東京まで会いに来てくれました。今年の秋に、オンラインで実施する予定になっています。 こういったカタチで、自分がやったことがムーブメントのように北海道以外に普及しているのはすごく嬉しいですし、やってよかった!と思える理由です。 また、メディアにも注目され、憧れだったTED×Sapporoで登壇でき、自分のことをアウトプットできたのもすごく大きな自信に繋がりました。 このイベントをやってみて、自分の好きなこと(自分のときめき)と、社会にとって意義があること(世界のときめき)…この2つが重なるポイントを見つけることが、自分は得意なのかもしれないという発見もありました。 ー中高生向けの支援事業から、「ときめき」がテーマになったのはいつから? 「超学校祭」が大盛況で終わった高校3年生の8月頃に、急に虚無感に襲われたんです。 それまで私が使ってきた”高校生起業家”という肩書きがアイデンティティになっていたけれど、高校を卒業すると、このアイデンティティも無くなってしまう…というのが急に怖くなったんです。 そこから、年齢に関係なくやりたいことをやろう。高校生の自分ではなく「山本愛優美」だから出来ることをやりたい!と考えた際に、たどり着いたのが「ときめき」だったんです。 これまで自分がやってきた行動軸を考えた時、ぱっと口に出た言葉が「ときめき」でした。すごくシンプルで、でも腑に落ちる言葉が直感的に出てきたという感じです! ーそこから東京の大学に進学するときにも、ドラマがあったんですよね。 そうです。かねてより東京大学の教育学部の推薦入試で合格することを目標に、自分なりに資料を作ったり合格者に話を聞いたりして、頑張って臨んだ結果…落ちてしまいました。 その時、実は「ときめきを追求したいのに、何で教育学部なんだろう」というちょっとしたモヤモヤはあったんですね。でも、ときめきを追求したい理由をうまく言語化出来ずに受験に臨んだので、もしかしたらその軸が揺れていたのが原因だったのかもしれません。 落ちた結果、本当に大学に行きたいのか?やりたいことは何か?ととことん自分に向き合う事ができ、結果、やっぱり「ときめきを研究したい!」と感じ、慶應義塾大学に進学することが出来ました。今では、あの時不合格になったからこそ、今の私がいるんだと思います。 当時の出来事は漫画にもなっているので、良かったら読んでみてください! ー大学に入学してから、事業の方は何か進展がありましたか? 高校を卒業して一緒に起業しようと誘っていた友人と、一緒に事業のアイディアを考えた時、「自分のときめきと、世界のときめきが重なる箇所ってどこだろう?」「世界をどうやったらときめかせることが出来るんだろう?」と考え、恋愛ゲームを考えました! これは自分が高校生だった頃に、知名度や偏差値を元に、地元の有名大学への進学しか決められない進路選択への疑問や違和感をなくしたい!辛そうな受験勉強を楽しくさせたい!という課題感から発案したものでした。 また、自分自身が知的なイケメンにときめいたり、少女漫画や恋愛ゲーム好きだったことも関係しています。 制作した「Smart Kiss」という恋愛ゲームは、大学を舞台に色々な分野を専攻しているイケメンと出会い、楽しく進路選択や大学生活をスタートさせていくゲーム。進路選択や将来を考える入り口となるようなエンタメとして、恋愛×教育ゲームというプロダクトでした! ー面白いテーマですよね!でもストップしてしまった背景は…? 10ヶ月ほどプロダクトに関わってβ版もリリースしていたのですが、中止した理由は、「本当に世界を幸せにできているのか?」という疑問を持ち始めたからです。 すごくありがたいことに、ゲームのファンもいてくれるのですが、数としてはまだまだ少ない状態でした。日常生活において、無くてはならないものではないですし、事業としてお金になるイメージもなかったんですね。 ずっと育ててきた我が子のようなプロダクトがストップすることも、周囲の関わってくれていた人のことを考えても、苦渋の決断でした。 今は、この決断があったからこその次の進展があるので、プラスに捉えています! ーときめきをベースに、山本さんが今後実現していきたいことは? 高校生として起業していたバックグラウンドと大学での研究を軸に、ビジネスとアカデミアの両面から「ときめきで溢れる世界を作る」というのが大きな目標です! 今後も、ビジネスの分野でときめくようなモノを生み出しつつ、学業の面でもときめきの追求・解明を続けていきたいと考えています。 現時点では、大学院への進学を考えていますが、私がときめきに関して日本で一番詳しくなったと感じたら、ときめきの研究や理論を元にした事業展開も考え挑戦していきたいです。 将来的には、地元の北海道に関わり続けながら、東京と、あとは海外や好きになった方の地元など、複数拠点を股に掛けて活躍していきたいと思っています。 ー最後に、山本さんにとっての「ときめき」とは? 一言で言うと、ときめきとは「人生のコンパス」です。 ときめきの研究を続けることで、他人に決められる幸せの定義ではなく、自分が感じる好きなものを追い求めていく人生を歩んで良いんだ!ということを伝えたいです。 ときめきとを軸に、皆がやりたいことを自分の力で実現できるような、そしてそんな人を周囲も理解し、応援できる…そんな社会になると良いなと思っています。 ー今後の活躍も非常に楽しみです。素敵なお話、ありがとうございました! 参考: 高校生起業家になった時の新聞記事 超学校祭Twitter TED×Sapporp登壇の様子 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材:西村創一朗(Twitter) 写真:山本さんご提供 執筆:Moe デザイン:五十嵐有沙

この瞬間を生きる。75か国を旅した細見渉が贈る主体的な人生の選び方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第146回目のゲストは、旅好きITコンサルタント 細見渉(ほそみ わたる)さんです。 「No Day, But Today,(未来でも、過去でもなく、あるのは今、この瞬間なんだ。)」 ブロードウェイミュージカル映画「RENT」の劇中歌に強く影響を受けた細見さんは、学生時代に75カ国を一人旅した冒険家。大学入学をきっかけに主体的に人生を選択し、ドイツ留学、インドネシアで日本語教師、世界一人旅、世界青年の船事業を経て、「ワクワク」を見つける方法を確立しました。二年間の海外滞在を経験し、旅でさまざまな現場を目撃した細見さんに、世界に飛び出す勇気を取材しました。   幼いときから海外とのつながりをもつ ー自己紹介をお願いします。 細見渉です。現在社会人2年目で、外資系のIT企業でシステム導入のコンサルタントとして働いてます。具体的には、製造業のお客さんが使用するシステムの設計書を書いたり、プロジェクトマネジメントの支援をしたりすることが業務です。旅が好きで、いままで75カ国を旅してきました。 ー学生時代には75カ国も訪れたそうですね。記念すべき一カ国目はどこだったのでしょうか。 小学校のころのシンガポールへの家族旅行が、はじめての海外渡航でした。ナイトサファリが印象的で、暗闇の動物園が心底怖かったことを覚えていますが、小さかったのでほとんど記憶に残っていません。 ーその後、海外へ対する関心が増していったのでしょうか。 中学生のときにはイギリスへ行きましたが、海外への関心が高く、積極的に行きたがったわけではありませんでした。両親がチケットをとっていて、僕としては部活を優先したいなっていうのが本音だったくらい(笑)エマ・ワトソンみたいな容姿端麗な人が普通に街中を歩いていたり、当たり前ですけど、みんな英語を淀みなく流暢に話していたり…国の違いをまざまざと実感しました。当時の僕は、「ハンバーガー、フィッシュアンドチップス」などの食事の名前しか話せず(笑) 「宿題はいいから、ミュージカル見てこい」。RENTはモチベーションのスイッチを切り替えた ー国際関係の学部への進学を目指していた浪人生活の中でも、海外への関心は育まれていたのでしょうか。 大学の進路選択ではたまたまテレビでやってた神戸特集をみてこの街に住んでみたいと思い、神戸大学を第一志望に掲げていました。しかし、本格的に受験勉強をはじめたのが高校3年生の後半で…残念ながら不合格という結果に。 あるとき、予備校の講師に「お前ら、宿題はいいから、ミュージカルでも見てこい」と言われたんです。「浪人生なのに勉強しなくていいの?」と内心驚きつつ、息抜きとして鑑賞しました。そのときに観賞したのが、『RENT』と呼ばれるブロードウェイ発祥のミュージカルです。 若者がニューヨークで生活を送りながら、それぞれにさまざまな問題を抱えながらも前を向いて生きる様子を描いています。リアルなアメリカ文化を目にすることができて、英語を勉強したいという意欲は高まりました。 劇中で特に印象深かったのが、「No Day, But Today」というフレーズです。これは「彼らが生きているのは、過去でも未来でもなく今なんだ」という意味が込められた言葉。当時、僕は大学受験に失敗し、浪人生活をなんとなく過ごしていました。しかし、この言葉が受験に真剣に向き合うきっかけを与えてくれたんです。それを機にミュージカルというものの素晴らしさに気づき、英語や海外文化についてもっと学習したいと思うようになりました。 ー無事に東京外国語大学に合格し、それ以降たくさんの国へ渡航されていますが、最初のきっかけはなんだったのでしょうか。 上京した僕は学生寮に住んでいて、ルームメイトがインドネシア出身だったんです。僕に現地での暮らしをいろいろと話してくれました。僕が「インドネシアいいな、行きたい」と口に出したら、その日を境に彼が「いつくるの?」「ホテルとったの?」と質問をしてくるようになって(笑)それに答えていたら、知らないうちに旅行計画がどんどん決まっていたんです。そして、彼が帰省するタイミングで一緒にインドネシアに渡航しました。 ーその後、長期留学の経験も積まれていますね。 もともとはイギリスに留学したいと思っていましたが、私費留学では学費が高く、交換留学で行けるほど校内の成績がよくなかったため、断念。文部科学省の「トビタテ!留学JAPAN」という政府奨学金プログラムを利用して、ドイツに1年間留学するという道を選択しました。 ドイツに留学に行くので公用語も理解できた方が、現地での学びをより多く吸収できると思い、日本でドイツ語を学習していました。そしたら思いのほか勉強が楽しくなり、英語でも可能だった大学出願を、ドイツ語で書類提出し、現地の授業もドイツ語で受講しました。 ードイツに滞在している間も旅をされていたのでしょうか。 ドイツはヨーロッパの各国に足を運ぶのが簡単なので、留学中にヨーロッパ各国をほとんどめぐりました。イタリアなんて、公共交通機関を利用して片道3,000円で移動できちゃうんです。モロッコやトルコなど、合計で30〜40カ国は行きました。 現地では友人に案内してもらい、そこにしかない魅力を発見することを楽しみにしていたんです。観光地に加えて、地元民が通う場所に多く訪れていました。人との交流も旅の醍醐味でしたね。宿泊するときには、ホテルやアパートを借りるのではなく、ゲストハウスを選択し、そこでの出会いも旅の思い出となりました。 ー地元の人と近い体験や、人との出会い…さらに旅でこそ得られた経験はありますか。 大自然を体感したことですね。世界周遊の旅で、チリの砂漠で満天の星空を眺めたり、アイスランドで壮大な氷河に向かい合ったりしました。大自然に触れると、自分の五感すべてで目の前のことをでまるごと体感する感覚があり、身震いするくらいのワクワクを憶えました。 ー世界青年の船事業も、価値観の形成に強く影響を受けたそうですね。 10か国240人の青年と1ヶ月船上生活を過ごす中で様々な価値観や文化に触れて、色々なことを議論し、社会全体そして自分自身について深く考える機会を得られました。特に印象強かったのは、音楽が国境を超える実感を得たことです。船上では毎晩のようにパーティーがありました。音楽が鳴り始めると、みんなが歌ったり踊ったりするんですよね。言葉という共通言語を共有していなくとも、音楽や踊りで同じ気持ちを共有している感覚が最高に楽しかったですね。 乳搾りロボットや配車サービス、移動中の夜行バスが就職の選択軸を形成 ーITコンサルタントを選択された理由として、ITへの興味や考えることが好きだとありましたが、何がきっかけだったのでしょうか。 ドイツ留学中、僕はHofgut Oberfeldという牧場で1ヶ月の間、ファームステイをしていました。ドイツでのファームステイ以外でも、エストニアで2週間・アイスランドで2週間農場で働いたり、ドイツやオランダのいくつかの農場を訪問しましたが、そこで、、ロボットが乳牛の乳を自動で絞っているのを目の当たりにしました。「農業にも、ITが導入されてるんだ!」と衝撃を受けました。 大学4年生のときには、国際交流基金アジアセンターの日本語パートナーズ派遣事業に6ヶ月間参加し、インドネシアで日本語教師のアシスタントとして働いていたときには、ITが交通インフラを劇的に変える瞬間を目撃したんです。僕が滞在をはじめたばかりのときには、運賃が法外な値段のタクシーしか移動手段がありませんでした。しかし、その半年後、ITを利用した配車サービスが登場していました。運営の基準を満たした運転手のみ登録が許されているので、利用者は安心して乗車できます。さらに、既存タクシーよりも低価格で運賃を設定する運転手が多いので、利用者は既存タクシーよりも低価格でタクシーを利用することができるようになったんです。短期間で便利なサービスが一気にまちに普及し、人びとの生活を変える。IT分野の可能性を強く感じました。 また、旅は、僕に考える時間を多く与えてくれるものでもありました。夜行バスに乗車しているときには、その日めぐった場所を思い返しその国の時代背景や社会情勢について思いを巡らせていました。カンボジアの虐殺現場を訪れたときには、「なぜ虐殺が起きてしまったのか」と考え、3つの宗教の聖地であるエルサレムを訪れたときには、「もし3つの宗教が聖地として認定すれば、周辺諸国にどのような影響が及ぶのだろうか」と。そんな時間を過ごし、目の前の問題や課題に対して考えることが好きなのかもしれないと気付きました。そして、将来は、思考力を使う仕事をしたいと思ったんです。 ワクワクを発見するコツとは ー周りの方の助言を受け入れて一歩踏み出し、そこから世界が広がっているような印象を受けました。周囲に対しての柔軟性が高いのはどうしてですか。 いろいろなことに対しての好奇心が強く、新しいものを敏感に認知するからだと思います。通販番組を見かけると、つい買いたい衝動に駆られますよね。その衝動が、他の人よりも強い感覚があるんです。それは、ワクワクを主体的に選択する考えを根本に持っているからだと思います。自分の考えが人生の選択の軸にあるからこそ、他人の意見にも柔軟に耳を傾けられると思います。 ーワクワクを発見するコツはありますか。 自分の周辺をもっと注意深く見渡してみてください。FacebookやInstagramで友人が食事の写真を投稿していて、それを目にしたとき、なにに目がいきますか。店内の内装、一緒に写っている人、料理…どれに関心が引かれるかが、ワクワクの合図です。料理にワクワクしたのなら、提供するレストランの名前や料理の材料などを調べたり、自分でレストランに行って味を確かめたり、行動に移してみましょう。 旅も、ワクワクに触れるための一つの選択肢だと思います。旅は他者の日常を経験することができるんです。その土地で出会う人、建物、乗り物は地元の人にとっては日常。しかし、僕にとっては非日常です。非日常を体験し、自分の日常を振りかえると、新しい発見や価値に気づきます。そういうことにワクワクするんです。 ーいままでたくさんの挑戦を重ねてきた細見さん。今後の展望はありますか。 誰かの人生や生き方を後押しできたらいいなと思っています。人にきっかけを与えてもらい進んできた人生だったので、自分自身も誰かにきっかけを提供できたらと考えると、ワクワクしますね。そのためにはまず、僕自身がワクワクする生活を営むことが大切なので、日常生活を丁寧に送ることも心がけたいですね。 また、2022年から世界をめぐる旅を計画しています!ホームステイをして世界各国を転々としながら、それぞれの国の家族や生活のあり方を観察したいと考えています。そこで出会った価値観を、日本に暮らす人たちに発信する活動がしたいです。 ーとても楽しみな未来ですね!本日はありがとうございました。 取材者:山崎貴大(Twitter) 編集者:野里のどか(ブログ/Twitter) 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

一度失ったからこそ「信頼」を大切にする ー 信頼研究家・北村勇気の目指す社会

信頼のベーシックインカムを作りたい ー そう話すのは、信頼の研究をしているというエール株式会社の北村勇気さん。 北村さんは、学生時代に茶道家として活躍したのち、株式会社ビズリーチとエール株式会社の創業期に参画。現在はオンラインコーチングサービス「YeLL」のマーケティングを担当されています。 茶道家として活躍する一方で、人間不信に陥っていたという学生時代。そこから「信頼」を取り戻すまで、どんなことがあったのか。また、どんな想いが北村さんを支えているのか。マーケティングのお話から苦労の乗り越え方まで、幅広くお話を伺いました。   茶道家×和空間デザインの仕事で稼ぐ学生時代 ー まず、学生時代からの略歴を教えてください。 学生時代は、青山学院大学に通いながら20歳から2~3年ほど茶道家として活動していました。物心がつく頃から、茶道と華道をずっとやっていたんです。それで、学生時代はいろんな人に茶道を教えたり、空間デザインに取り組んでいたりしていました。 大学を卒業したら茶道家として生きていこうと思っていたので、あまり就活というものを考えていませんでした。そんな中で、たまたまビズリーチの代表である南さんに会うタイミングがあって、2014年4月に新卒でビズリーチに入社することに。 ビズリーチにいたのは半年くらいで、その翌月からは、エール株式会社の前身となる会社に入社しました。その会社の立ち上げから携わり、それ以降は事業開発・マーケティングを中心に担当しています。 ー そもそも茶道にのめり込んだきっかけは何だったんですか? 大学で茶道部に入ったことですかね。茶道はもともと自分でやっていたので、大学で部活に入る気はなかったんです。だけど、たまたま茶道部に声をかけられて。とてもいい師匠に巡り会えたことからさらに茶道が楽しくなり、それからほぼ週7で茶道をやるようになりました。 茶道って、人によって解釈や語る歴史も違うし、昔やっていた流派と部活での流派も違っていたので、その違いを認識したからこそ、面白さと奥深さを感じられたんです。 ー 学生時代から茶道家として生計を立てていたそうですね。 学費を稼いでいた、という感じです。茶道教室みたいな形で、生徒さんに月謝をもらうというのが基本スタイルで、途中からは駄菓子屋さんとコラボして新しい商品を作ったり、百貨店の和に関する催事でフロア全体の空間デザインをやったりしていました。 ー どうやって茶道教室に生徒さんを集めたんですか? 最初は周りの友達に声をかけていったんですが、みんな学生でお金がなくて、1回のイベントで出せるのは2,000円くらいが精一杯。これじゃ難しいなと思ったので、和菓子さんとコラボしてワークショップなどを始めたんですよ。そうしたら私の知り合いじゃないところから、大人の人たちが来るようになって。 「日曜の朝に表参道で茶道やるのめっちゃいい!」といった感じの口コミで広がっていったんです。茶道はもともと日本の文化の1つですが、もはや日常とかけ離れているので、日本人であっても異文化のような感覚で捉える人が最近は特に多いんですね。多かったのは、20~30代の女性。主に社会人の方でした。多いときは20人くらいの生徒さんがいましたね。 ー 今でいうイベントマーケティングですね。だけど、学生が大人の方々に教えるっていうのは心理的なハードルも高いと思うし、ずっと通い続けてもらったり口コミで広げてもらったりするのは大変だと思うのですが。 もともと私自身、1対1〜3くらいの少人数で話して良い関係を築くことが得意だし、好きだったんです。茶道は少人数と接する場合が多いので、自然とみなさんと仲良くなれたんだと思います。逆に、大人数相手だと難しかったでしょうね。 ー 空間デザインのお仕事をするきっかけは何だったんでしょう? 「和空間」というものが小さい頃から大好きだったんですよね。秋田で日本建築を生業にする家に生まれたため、古い建物や空間をつくる現場をたくさん見て手伝ったりしていたんです。それが影響していると思います。 茶道では、和室の中に掛け軸お花など色々なものがあって一つの空間を成すんですけど、どうやったらもっと心地良い空間になるんだろう?ということを考えるのも好きでした。そうしたらあるとき、「そんなに好きだったら、畳の空間じゃなくてもできるんじゃない?うちのお店やってみない?」と言われたのがきっかけで、空間デザインのお仕事も始めることになったんです。   なりたい自分像を思い描き、ビズリーチへ入社 ー茶道教室や空間デザインのお仕事ですでに稼げていたと思うんですが、そんな中でビズリーチに就職された北村さん。そこまで方向性を変えたビズリーチの南さんとは、どのように出会ったんですか? 茶道以外にも、「働く目的について語り合う」というキャリア系の社団法人もやっていたんですよ。そのイベントでビズリーチの新卒採用の方と知り合って、後日、オフィスに遊びに行くことに。本当に遊びに行く感覚で、茶道帰りに着物で行ったんです(笑)だけど行ったら突然、代表の南さんと会うことになって、「茶道で食ってるやつ初めて見た。面白い!」と言われ、気がついたら採用されていました。 ー 茶道で生きて行くと考えていた中、その出会いで生きる道をピボットしたわけですね。なにか惹きつけるものがあったんでしょうか。 採用が決まってから、自分でいろいろと振り返りながら考えました。ビズリーチがいいなと思った理由は2つあって、ひとつは南さんの人柄です。人を惹きつける力がすごい。そんな力を持つ人は数多く存在すると思いますが、もうその力が圧倒的だったんですね。純粋に憧れました。そしてもうひとつは、茶道の家元の人間ではない自分が茶道をやり続けることに対して疑問を持っていたからです。 いわゆる家元のような昔から続く家の人たち、そしてその世界が好きで好きで仕方なくて芸を磨き続けるような方が、世界に対して発信できて広がっていくというほうがいい、と少し前から思っていたんです。自分より、広げる適任者がいるよなと。 だったらそういう人たちをサポートできる側の人間になったほうが、より茶道の世界を大きくできるんじゃないかな、と。アーティスト側ではなく、ビジネス側に回った方がいいかもしれない、と思ったのが大きな理由ですね。 他にも幅広くいくつかの企業から内定をもらっていたんですが、どこも新卒はまず地方営業から始まって、東京に戻るのが5~8年後だと聞いたんです。「茶道の世界を大きくしたい。でも、衰退するこの世界のことを考えると猶予も少ない」と思っている自分にとって、その期間は長すぎると感じたので、なりたい自分の姿を考えた結果、ビズリーチに入社を決めました。 ー そんな出会いがあったビズリーチを、入社半年で辞めた理由とは? どんどん環境が変わってしまったからです。誘われたときは数十人規模の企業だったんですが、入社したタイミングでは200人、辞める頃には400人くらいにまで成長。もともと、事業を大きくするというところを経験しながら、自分でもできるようになりたいと思っていたんです。でも、この規模だと自分がそっち側に行くのは時間がかかりそうだなと思いました。 そんなときに、今の会社(エール株式会社)の創業社長から「一人で会社をやり始めているところだから一緒にやらないか」と誘われたんです。 ー 創業社長から誘われて、そちらへ移ったわけですね。なぜ北村さんに白羽の矢が立ったんでしょう? 私が19歳のときに初めてエールの創業社長に会って、一緒に社団法人を立ち上げ、組織を大きくするというプロセスを共にしていました。その信頼関係があり、そして彼と同じような信念があったからじゃないかな、と思っています。   強い想いがあったから踏ん張れたスタートアップ創業期 ー 北村さん自身、スタートアップに飛び込むのは大変じゃなかったですか? しんどかったですね。最初は創業代表CEOとCTO、私の3人でやっていたんですが、私以外の2人は2016~2017年の間に辞めて、もういないんです。ほぼ総入れ替えですね。創業メンバーだと、私だけが残ったという状態でした。 ー そんな状況で、どうやって踏ん張っていったんですか? ビズリーチをすぐに辞めてしまったことが、エールを続ける覚悟に繋がっていました。辞めたのはもちろん考えてのことですが、自分の弱さも大きかった。好きな道を見つけたからといって、すぐにその職場を去るという判断をしたのは、人間として未熟だったなと。 会社という枠の中で愚直にやり続けるという道もあったにも関わらず、そこで辞める決断をしたのは、会社の皆さんへの誠実さに欠けていましたね。思い返すと。ベンチャーが新卒を採用するなんて、リスクだし投資じゃないですか。それを裏切ってしまったことにとても申し訳ないと思うと共に、だからこそせめて違う場所でも死に物狂いで社会に貢献しないとな、と思っていました。 そうしないと自分を仲間に入れてくれたビズリーチの皆さんの目を見ることができない。辞めたけど、「こうして誰かのためになる事業を作り続けている」ということが、せめてもの恩返しになると考えていました。 また、その上でエールは「信頼が循環する社会を作りたい」という想いがあってやっていたことなので、「しんどいけど本当に尽き果てるまで続けたい」という気持ちがあって踏ん張れたんだと思います。 ー 人ではなくミッションにコミットしていたからこそ、辞めずに続けられたということですね。エールの創業から5年経った今、北村さんの役割はどのようなものでしょうか? 基本的には、マーケティングと法務の統括をしています。たとえば、サポーターって今はだいたい400人くらいが世界中にいて、来年2000人に増える予定なんです。その母集団形成、そして採用や教育スキームをつくるというのはもちろんのこと、彼ら彼女らが楽しく自己実現に繋がる形でやるためにはどうしたらいいか……といったことを考えています。「働く楽しさがつながる世界」とビジョンを定義していますが、そのためには「どんな人にでも信頼が担保される社会をつくる」というのが大事だと思っているんですよね。その信頼を提供するのが、サポーターなんです。 エール株式会社とは 大企業や急成長ベンチャー企業に、クラウドコーチングサービス「YeLL」を提供。膨大な性格/会話データを元にAIで算出した最適な相性のサポーターが、1対1の会話を通して社員の強みや価値観を引き出し自己理解と行動変容を生み出す。また、そのデータから組織への最適なフィードバックを実施。サポーター登録者は世界中で400名を越える国内最大手企業。 https://www.yell4u.jp/ ー 海外だと一人ひとりに社外のメンターやコーチがつく、というのは当然の文化としてあると思うんですけど、日本には今まで全然なかった文化ですよね。 事業を始めた2015年頃は、たしかにそのような文化は全くなかったです。人事施策として最近よく行われている「1on1」も、2017年くらいから出始めました。コーチングやカウンセリングといった言葉も、数年前と比べたらたくさん聞くようになりましたよね。テクノロジーが発展するのと同時に、一対一の言語コミュニケーションや人間関係、そして幸福などの感情が大切だと言われるようになるのは嬉しい限りです。   「信頼を増やしたい」北村さんが大切にしている軸 ー お話を伺っていると、人に声をかけられて身構えることなくチャレンジした結果、いろいろなチャンスを引き寄せてこられたのかなと感じます。北村さんは行動されるとき、どんなことを大切にされているんでしょう? 私が根本的に大事にしているのが、「絶対的な信頼」です。信頼してくれる人がいる、頼る頼られるっている関係性が成立しているのが大事だなと思っています。 17歳のとき、関東圏の中高生が集まる学生団体の幹部をやっていました。だけどあるとき、他の幹部との意見のズレでクビになって一気に200人くらいの友達を失うことがあったんです。それがけっこう辛くて。大学生になってからも、「誰かに好かれたい」「信じて欲しい」と思いつつ、人間不信になってしまっている自分がいました。 ー その人間不信は今も続いているんですか? いえ、21歳の時に転換期があったんです。大学でいつも自分を遊びに誘ってくれたり話しかけてくれたりする同級生がいたんですよ。その同級生と飲みに行ったときに過去の話をして、「正直、人のこと信頼してないんだ。お前のことも信頼していない」って言ったんですよ。 そうしたら、彼は「別にそう思われるのはどうでもいいんだけど、過去のことだし、俺は俺でお前のこと信頼してるからそれでいいんじゃない。友達でいようよ」と言ってくれて。それを聞いた瞬間、大号泣したのを覚えていますね。その時に初めて信頼されてるという実感があって、救われたんです。そこから、誰かのために何かやろう、好きなことをやろうと思えるようになりました。 自分は、たまたま運良く信頼してくれる人がいたから救われた。でも「運が悪くて信頼してくれる人がいないという人もたくさんいるだろうな」とも思ったんです。だから、私が感じたような信頼がもっと増えていったらいいなと、そう思っています。 ー そのご友人のように、(自分を)信頼してくれたと思ったから信頼できるものなのか、自ら主体的に信頼を人に振り向けられるようになったのか、どちらでしょう? 最初は信頼を受けなきゃ返せないっていう人間だったと思います。ただ、この数年で改めて思ったのは、「されたからする」ではなく、どんな状態でも「自分からする」というのが大事だなということ。 見返りなんて考えず、信頼したい人や応援したい人に対して自ら目を向けGIVEすることが大事だなと思っています。でもそれは、おそらく自分に余白がないと難しいんですよね。人の状態によって、受けられたり受けられなかったりする。最低限の担保が難しい。だからこそ、必要な人に最低限の信頼を届けられるインフラを作りたいです。 ー 信頼されたいなら自分から、ということですね。そういう経緯があって、今のエールの事業につながっているわけですね。 今いろんな企業の中で、コミュニケーション不全がたくさん起きていると思うんです。「1on1」という言葉をよく耳にしますけど、それが上手くいくのは相当難しいです。上司というのは、コミュニケーションの専門家ではありませんから。 マネジメントには、業務やチームの生産性をあげるものと、チームメンバーのフォローをするような人間的マネジメントの2つがあると思っていて。後者は、やったことがない人、得意でない人が多いんです。そこで、「人間的マネジメントは外部に任せ、上司の皆さんは生産性向上に力を注いでくださいね、そんなマネジメントの役割分担をしましょう」」というのがエールの思想としてあります。 我々がやっているのは、社員の方一人ひとりに対して、外部のメンターをつけるというサービスです。どんな人にでも絶対的な信頼を届ける、という体制をエール側で構成すること。それを事業としてやっています。 ーこれから北村さんがやっていきたいことはありますか? 「信頼のベーシックインカム」のような社会インフラ作り続けたいなと思っています。どんな人にでも信頼が担保されている状態を構築する、ということですね。エールもその手段のひとつであるし、他にも私は伝統文化アーティストコミュニティを運営しているのですが、それもまた手段のひとつ。また、他にも自分には研究者的な側面もあるので、論文を書き発表するというのも取り組み続けたいことのひとつです。 信頼って、きっともっと幸福感と楽しさを感じ、自分なりに新たな挑戦をしていくきっかけになると思うんです。そういう新たな挑戦が増えれば増えるほど、さらに世の中に良い考えやサービスがつくられ広がっていく。それがまた誰かの信頼に繋がる。それが幸福感や楽しさに繋がる。そんな循環を、生み出していきたいですね。   (取材:西村創一朗、写真:山崎貴大、文:山本恭子、デザイン:矢野拓実)

「今を一番楽しめる選択をし続けたいんです」ゼロから“自分の好き“を見つけ、パラレルワーカーになるまで

「パラレルワークに興味はあるけど、学生の頃からビジネスに関わっている人じゃないと無理だよね…」と、不安に思う人は多いんじゃないでしょうか。  色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ第38回目は、ベンチャー企業の経営企画・マーケティングの担当者として活動しながら、複業で地域活性団体の共同代表を務める、など多岐に渡って活躍される吉田柾長(よしだまさなが)さんにインタビュー。 パラレルワーカーとして活躍され、この4月からは独立してフリーランスとなる吉田さん。意外にも、学生の頃は何がしたいのか全く分からなかったとのこと。そんな学生がどのように独立にまで至ったのか。熱意をつかみとった吉田さんにお話を伺います。  焦りから、行動してつかんだ飲食店への想い  ― ベンチャー企業の会社員・地域活性団体の共同代表・コミュニティバーの立ち上げ、と多方面に活動なさっていますが、活動の軸などはあるのでしょうか?  軸としては2つありまして。1つは「飲食店の可能性を広げる」、もう1つは「多様な働き方を体現する」です。 ― その想いは昔からあったんですか? 色々行動しながら見つけたものですね。そもそも就活を始めるときは、自分が何をしたいのか全く分からなかったので。 ― その状態から、どのように動いてぐるなびさんへの新卒入社に繋がったんですか? 私、本当に平凡な学生だったんです。ほどほどにサークル活動して、ほどほどにバイトして、ほどほどに勉強する。どこにでもいる学生だったんですけど、3年生になり就活をぼんやり意識し始めたとき、このままで良いのかな、と少し焦ったんです。  絶対何かを成し遂げたいという想いもなかったですし、興味のある業界とか分野も全然浮かばなくて。これはマズいな、と思って色んな会社のインターンに参加するようにしたんです。 ― 何社くらい参加したんですか? 1dayとかも含めてですけど、30社くらいは行ったと思いますね。 ― 30社はすごい…! すぐに軸や業界は定まりましたか? すぐには決まらなかったですね。インターンに参加する度に、感じたことや自分の頭の中を整理して、ようやく見つけた、というイメージです。新卒で入社したぐるなびも、ほぼ30社目くらいでしたしね。  毎週自己分析して、試行錯誤をし続けていました。 ― そうして動いてる中で、ぐるなびさんと運命的な出会いをしたわけですね。  そうですね。様々な企業を知り、自己分析もして「頑張る人を応援したい」という絶対的な軸を見つけることができました。 でも、出会えてラッキーだった、というよりは自分でその出会いをつかみとったんだ、と思うんです。本当に平凡な学生だった自覚はあったので、自分から情報を取りに行く姿勢だったり、分からないなら分かるまで探し続ける、だったり。 その結果、入りたいと思える会社に出会えたので、自分でつかんだ出会いだったと思います。   ― ぐるなびさんとは、どのような出会いだったんですか? まず、飲食業界に惹かれたんです。飲食業界って、労働環境や利益率がどうしても他業界よりも厳しくなってしまうんですけど、その中でも誇りを持って働いている方々がいて。単純に尊敬したんです。何で、ここまで情熱を持てるんだろう、自分もこんな大人になりたいと思うようになりました。 そう思っていたので、ぐるなびのインターンで「飲食店の想いをユーザーに届ける」という理念を聞いたときに、もう鳥肌が立つくらい感動したんです。「あ、ここに入りたい」と思えたのは初めてでしたね。 その後、早めに選考を受けさせてもらって。恐らく、同期で一番早くに内定をもらったと思います。 ― やっと見つけた出会いですもんね。熱意がすごい。 そこからは飲食店にどっぷりでした。就活が終わったので、勉強しようと思って、飲食店のバイトを2つ始めたんです。  ―次を見据えての勉強なんですね。伝えることになるお店側の想いを知ろう、と。 長津田というベッドタウンのイタリアンと、渋谷センター街のカフェの2店舗でバイトしていましたが、面白かったですね。  イタリアンのお店では、シェフが持つ料理のこだわりを、お客さんにどう伝えればよいか考えたり。カフェの方では、料理の美味しさももちろんですけど、場所としての役割が求められているんだ、と実感できたり。そういう違いを知れるのが面白かったです。 ― 実際に働いてみることで、より想いが強まったんですね。  そうですね。飲食店が持つ可能性を実感したのは、そのときが初めてかもしれません。色んな形態やジャンルがあって、変化も激しい。この業界は一生面白がれるな、と感じました。 「狂ってる」と言われるほどの熱意で動いた新卒時代 ― 同期で、そこまでの熱意を持っている人はいたんですか?  いなかったと思いますね。先輩から「狂ってるくらいの熱意」と言われたくらいなので(笑)。 ― 最初は営業配属?  そうです。ぐるなびって広告だけでなく、注文に使うタブレットなども扱っているんです。飲食店の課題をヒアリングして、どういう商品が良いのかを考えて、提案することは楽しかったですね。 お店の人からも「そこまで言ってくれるなら、賭けてみようと思う」と言ってもらえたり。熱意を持って仕事ができていたと思います。 ― 2年間営業をやって、企画に異動したんですよね。異動は希望していたんですか?  入社当時から言っていましたね。もっと上流でやりたいと思っていたので。上司との最初の面談で「企画行きたいんです」って伝えたり、意志を発信するのは意識していました。 ― その結果、希望通り異動してますもんね。言い続ける、って大事。企画のお仕事はどんなことを?  ぐるなびの広告を扱うのではなく、飲食店や料理人のネットワークを使って、企業や地方自治体のプロモーションをお手伝いする仕事でした。 意外なところで料理人のニーズがあることに気付いたりして、飲食店の可能性をより強く実感しましたね。 ― 印象的な企画ってあります? とある高級家具屋さんとの取り組みは、かなり衝撃的でした。そこの会員さん向けに、家具屋さんのショールームでイベントをする、という案件で、「お金を持っている人が応援したくなる料理人をアサインして欲しい」と言われたんです。 厨房の外にも料理人の活躍する場があるんだ、と思いましたね。しかも、厨房の外に出ることで、その人が持っている想いを広めることができる。飲食店の可能性を広げるヒントを感じられて、印象深いですね。 新しい可能性を感じる仕事が他にもいくつもあって、本当に楽しかったです。 きっかけは違和感。外の世界への興味からパラレルワークへ   仕事は充実していたんですけど、パラレルワークを始めたのもこの頃なんですよ。外の世界も知りたいな、と思って。 ― 希望していた部署で楽しくやっていた中で、なぜ外を知りたいと思ったんですか? 異動しても周りの環境が変わらなくて、少し違和感を感じたんです。営業部ほどは多くはなかったですけど、辛そうに働いている人が多い、という環境が営業部と変わらなかった。 企画部を理想化していたからかもしれませんが、少しだけがっかりしてしまったんです。そこからですね、外にはもっと色んな働き方をしている人がいるんじゃないか、と興味を持つようになりました。 ― 外に興味を持って、何から始めたんですか? 企画で地方自治体と関わることが多くて、地域活性って面白いな、と思っていたんです。なので、面白そうな地域活性系のイベントを見つけては、とにかく参加していましたね。 ここでも、週4回くらい狂ったようにイベントに参加する時期もありました(笑)。 ― 興味が溢れると、もう一直線なんですね。イベントへの参加から、どのようにパラレルワークに移っていったんでしょう? イベントに参加して、少しずつ知り合いが増えてきたところで、「うちのイベント手伝ってくれない?」とお誘いをもらうことが多くなったんです。 最初はもちろん無償でしたけど、元々興味でやっていることだし、お金よりも得るものが大きいと思って、そういうお誘いは受けるようにしていました。 ― 最初はGiveから始めたんですね。 いくつかお手伝いしていく中で、初めてお金をいただいたことがあったんです。参加費が投げ銭制のとあるイベントだったんですけど、かなり盛り上がって、結構な額が手元に残ったんです。 その残ったお金は打ち上げでほぼ消えてしまったんですけど、趣味としての活動でお金をもらえたのは初めてで。ものすごく嬉しかったんですよ、金額にしたら本当に少なかったのに。 そこからでしたね。この感覚が忘れられず、没頭するうちに共同代表に誘ってもらったりして、段々と趣味が仕事に近づいていきました。 フリーランスは、ぶれずに「今を楽しむ」ための選択   ー 外で活動の場を広げる中で、転職もなされました。この選択は、外で色んな働き方を見たことが大きかったんですか? それもありますが、飲食店の可能性を考えたとき、これからITとシェアリングが大きく関与してくるな、と確信じみた予感を持っていたんです。 その予感が大きくなるにつれ、より多角的に飲食店を見たいと思うようになり、転職を視野に入れはじめました。 ー アスラボさんは転職活動の中で出会ったんですか? アスラボは転職を考え始める前から知っていて。企画部で競合調査するときに、唯一興味を惹かれていた企業だったんです。ITとシェアリングをどっちも扱っていたので、ここだ、と思って一社だけ受けて転職を決めました。 ― そこから、何をきっかけに独立を決めたんでしょうか? 一つは、もっと飲食店のことを勉強したい、という想いです。飲食店の可能性を広げたいと言いながら、実際に飲食店の内部で働いたことは学生時代のアルバイトくらいしかないので、週1でもいいから飲食店で働いてみよう、と思ったんです。  近しい話で、1月からコミュニティバーの立ち上げに参加しているんですけど、やはり自分主体でお店と関わるのは勉強になります。 ― 内部にいないと分からないことはありますもんね。  もう一つは、お誘いしてもらった面白い仕事を「許可のない複業は会社的にNG」という理由でお断りしているのが、単純にもったいないと思ったからですね。せっかく一緒にやりたい、と思ってもらえるのなら可能な限りやってみたい。 そう考えると、独立してフリーランスという形が今は一番良いな、と。4月からは、いくつかの企業で業務委託として働きながら、飲食店の現場にも立ってみようと思っています。 ― 今は、ということは会社員に戻る可能性もあるんですか?  そうですね。今を一番楽しめるのがフリーランスだと考えているだけなので、会社員として所属した方が楽しめると思ったら戻ると思います。 ― 「今を楽しむためのフリーランス」という考えは素敵ですね。  私にとって、働くことは趣味に近いんだと思います。テレビを見たり音楽を聴くのとあまり変わらないんです。稼ぐ、というよりは、楽しい。この感覚は忘れないようにしたいですね。  ぶれないために、就活のときにやっていた自己分析を、今でも毎週やっているんです。今の方向性が合っているか、大切なものを見失っていないか、確認する時間をとっています。 今は失うものがないので、とにかく挑戦していきたいと思いますね。「頑張る人を応援する」という絶対的な軸だけはぶらさずに、今の自分を一番楽しめる方法を選択し続けたいです。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 写真:山崎貴大 文:安久都智史 デザイン:矢野拓実  

「その道を選んだ自分を信じていこう」コンサルタント、マーケターから人事に転職した高尾有沙の分析、直感、その先の選択

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第72回目のゲストはナイル株式会社の人事・高尾有沙さんです。   慶應義塾大学で社会学を学び、2014年に株式会社ビービットに新卒入社。UXコンサルタントとして400人以上のユーザインタビューやマーケ戦略立案策定等を担当しました。2018年4月より株式会社OKANに参画。マーケターとして広告運用やサイト戦略策定・改善などを実施する傍ら、キャリアコンサルタントの資格取得や副業での転職サポートを始めます。そして、2019年11月から現在に至るまで、ナイル株式会社にて、事業部人事として採用や研修を担当。最近では採用やインバウンドのウェビナー開催も行っています。 社会人7年目で3社を経験し、その度に選択を重ねてきた高尾さん。大学入学までは「自分で選ぶことができなかった」と言います。今、人事、そして副業のキャリアアドバイザーとして人の選択に寄り添う彼女が、自分を信じて選べるようになるまでの過程に迫りました。   働くことを持続可能な生産活動に   ー本日はよろしくお願いします。現在の高尾さんのお仕事について教えてください。 ナイル株式会社のデジタルマーケティング事業部に所属しています。BtoBのSEOコンサルをしている事業部で、マーケティングコンサルタントやコンテンツ編集者の採用、育成がお仕事です。 人事をはじめて半年ほど経ちました。コンサルやマーケターのときと、職種は変わっているものの、頭の使い方はあまり変わっていない感覚です。毎日、楽しく仕事をしています。   ーそもそも、コンサルタントから人事へと関心が移ったのはどういった背景があるのでしょうか? 1社目のコンサルティング会社は、一言で言えば「激務」でした。納品前は深夜3時にミーティング…なんてことも。会社としての業績は好調だった反面、仲間が休職や、病気退職、ボタンの掛け違いで退職する現場を目にしてきました。  優秀な仲間たちの高いコミットメントに支えられて、顧客に対しての価値提供には自信がありました。クライアント企業様の成長にもお力添えできていたと思います。でも、そのことが、働く人の成長や心理的安全に繋がっていないんだとしたら?それって、人間の生産活動として正しいのだろうか?社会人としての成長実感はありつつ、そんな疑問を抱くようになりました。 「持続可能な生産活動をしながら、その人が居続けられる場づくりをする」。そんな働きがしたいなと思い始めました。それが、社会人になって3年目くらいのことです。「クライアントの売上貢献」以外の側面で会社や社会を良くしていきたいと考え、2社目にHR業界のスタートアップに、3社目に人事職に、と転職をしてきました。   理不尽がパワーの源   ー高尾さんのキャリアは、課題解決のために積み重ねられているように思われます。そのような思考は、いつから育まれたのかを知りたいです。どのような環境で育ってきたのでしょうか? 私は神奈川県の片田舎で生まれました。土地の9割が森林、というような場所でした。生活保護受給世帯が多く、大学まで進学する子は珍しかったように思います。親が勤めるメーカーの工場がそこにあり、住んでいたのですが、小学校の頃から「なんだか周囲と違う感じがする」という気持ちを抱えて過ごしていました。   その後、中学受験をして、家から離れた場所にある中高一貫の女子校へ進学します。学校は、親が決めたところで、いわゆるお嬢様学校でした。よくある話ですが、順繰りにいじめたり無視したりする環境がありました。部活でも居心地の悪さを感じていて、部活を続ける意味を見い出せず、正直、辞めたいなと思っていました。でも、中学は部活への所属が必須。行かないと親も教師も怒るし、同じ部活に2個下の妹がいたこともあり、「辞める」という選択肢を取ることは出来ませんでした。 そんな環境のなか、中学3年間は鬱屈とした気持ちのまま過ごします。「周りの人たちを見返してやりたい」という思いから、せめて勉強は、という気持ちで頑張っていました。     高校に進学すると、いじめのようなものは次第になくなっていきました。高校でも部活を続けていましたし、生徒会長も務めていたので、それも影響していたと思います。自分のポジションが明確化することで、周りとの人間関係も円滑に進むようになりました。   ーどうして生徒会長になったのですか?   私は高校入学以降ずっと生徒会の役員をしていたので、正直な話、立候補者情報を事前に知ることができる立場でした。そこに並ぶ顔ぶれから、明らかに「生徒会長になったら、大学の推薦入試で有利になる」という気持ちが透けて見えました。学校を良くしたいという人よりも、自分が大学入試を失敗しないように、という気持ちで生徒会に入る人ばかりが集まるようになっているように感じました。 そのとき、「生徒の代弁者でない人が、生徒会長になっていいのか」と腹が立ってしまい…。中学時代から生徒会に所属していた(中高一貫校のため)ことから、学校の課題は一定把握していたこともあり、「絶対に学校を良くできる」と確信し、立候補して選挙に出て生徒会長になりました。 熱中症対策のために自動販売機でスポーツドリンクを買えるようにしたり、学校指定鞄が重すぎて腰痛になる生徒が続出していたのでナイロン生地のサブバックを導入したり、生徒の「負」を改善していきました。   ーその頃から高尾さんの課題解決能力は発揮されていたんですね。 実施可能になるまで数年を要した案もありましたが、自分たちの行動から変わっていったことは嬉しかったです。学校や先生のことは嫌いになりましたけど(笑)   学校にはどうしても、様々な悪しき習慣があります。生徒が困っていて、それが解決されるべきものであるならば、積極的に変えていくべきです。でも、生徒会長になってみて、それらを継続させているのは先生たちの「ずっとこうやってきたから」「伝統だから」という本質的ではない理由付けであることに気付きました。学校に蔓延る理不尽さに、先生が加担しているのではないか…と。 思えば、今までの自分の行動を起す際のパワーの源は、「理不尽さへの抵抗」でした。   ーそのような理不尽さと戦いながら、中学校とは一転して、充実した3年間だったわけですね。大学は慶應義塾大学に進学されましたが、どうやって決められたんでしょうか? 正直、慶應に進学したことに対しては後悔があります。周りに流されて決めた選択の最たるものだったからです。 当時、親が慶應に合格したことをすごく喜んでくれたんです。ネームバリューがありますし、親も行きたかった大学だったからです。本当は別の大学を志望していたので、正直慶應に進学するつもりは毛頭ありませんでした。慶應を受験したのは、たまたま日程的に余裕があった、それだけでした。受験当日まで足を運んだこともありませんでした。 でも、他の大学に進学する道もあったにもかかわらず、親と学校の先生の後押しと、ネームバリューで決めてしまいました。   大学にもカルチャーがあります。あまりこの観点で大学選びはされないと思いますが、とても大事なことです。結局、あまり慶應では友達ができませんでした。一方で、私の第一志望だった大学に進学した子たちとは、Twitterなどを介して友達になっていました。きっと、都会的でキラキラしている大学よりも、すこし郊外に寄っていてリベラルな大学と、そこに集まる人々の方が自分に合っていたんだと、今では思います。   人生で初めての直感的意思決定 ー中高、大学と親のすすめた学校へ進学してきたわけですが、就活はご自身の意思で決められたんですよね。どうしてコンサルティング会社のビービットに入社されたのですか? 銀行などの定型業務はできないな、と感じていました。わたしは多動性が高く、思考することが好きです。なので、言われたことを正確にこなす、という働きが求められる場所では活躍できないと感じていました。 「思考することにバリューがあって、経済活動に踏み込める会社がいいな…」そう思って、人材紹介会社か、コンサルティングビジネスに絞って会社を選んでいました。   ビービットへの入社は、それまでの人生の中で、「初めて直感で下した」意思決定でした。ミッションへの共感、少数精鋭、一緒に働きたいと思える人がいる…理由は挙げようと思えば色々ありますが、最終的に自分を動かしたのは直感です。 当時の副社長に「内定です」と伝えられたとき、めちゃくちゃ嬉しかったんです。言語化できないような胸の高まりでした。いまでも覚えています。当時のビービットのオフィスの壁って、真っ白だったんですよね。その白さが目に突き刺さるように染みて、涙が込み上げてくるような感覚…。   私はこれまで、努めて論理的であろうとしてきたので、それまで直感はあまり信じてきませんでした。それなのに、あのときに湧きあがった感覚は、私の選択を決める上で決定的なものでした。   ー初めての人生の大きな決断が、いつもなら考えられない直感的なものだったんですね。迷いはなかったのでしょうか? 最終的なお返事をするまでに、かなりの時間を要したので、もちろん迷いはありました。もう一社、魅力的に映っていた外資系のコンサルティング会社があったんです。 その会社の内定者懇親会で、社員の方とお話する機会を持つことができました。そこで、私は、「仕事の後やお休みの日は何をされているんですか?」と聞いたんです。返ってきた答えは「行きたい部署があるから、そのために上司との飲みを頑張っているかな。それ以外は合コン」というもので…。私、ドン引きしちゃって。「私はこんな未来は歩みたくないぞ」と、その会社はお断りすることにしました。 ビービットは、お話していて面白いと感じる方が多かったのも印象的でした。「この人たちと仲間になれるのは、自分の人生を豊かにしてくれるだろうな」と感じていたんです。   ー実際に、ビービットで働いてみてどうでしたか? そうですね。人生で初めての挫折をたくさん経験しました。大学までの人生では、「自分がどうやっても勝てない」と思うような人と出会うことは、正直ありませんでした。けれど、ビービットは、ほとんどの人が東大か京大を卒業している圧倒的な高学歴で、頭の回転や理解力が圧倒的に上だと感じました。     また、同僚同士を比較するカルチャーがあり、批評者が多いとも感じていました。比べられるごとに「コンサルとして戦っていっても、自分はこの人達には勝てない」という気持ちが深まっていき、2年くらいはしんどい思いを持ちながら働いていました。   諦めの先で、自分の強みを理解できた ー非常にストレスの多い環境だったように聞こえますが、どのように乗り越えられたのでしょうか? 良い意味で諦めがついたから、だと思います。2年目までは、会社は自分が能力を発揮できるように最適な環境をお膳立てしてくれるものだ、と思っていました。でも、そうやって待っているだけだと、自分が「活きる」仕事はできないな、って。 「この人たちと単純に戦っても勝てない」と諦めてからは、自分が得意な部分に目を向けるようになりました。「BtoBよりもBtoCの商材の方が向いているぞ」「この業界は理解できる」「こういったインサイトを持つユーザーに働きかけたい」など、自分の強みを分析して、こういう案件ならバリューが出せる、ということを積極的にマネージャーに伝えていました。   また、苦手な部分は、無理してやるのではなく、アウトソースを有効活用していましたね。定量分析は優秀な学生インターンにお願いし、分からないことがあれば信頼する先輩や上司を頼りました。 圧倒的に出来る人がいる、そして、出来ないことをするのは辛い。そのことを知ったおかげで、ある種、身の程を知った状態で物事を考えられるようになり、得意なことを選択して戦うようになりました。   ー仕事も軌道に乗ってきた中で、転職を決意したのはどうしてなんでしょうか? 入社して3年目の9月、突発性難聴に見舞われました。ミーティング中に、飛行機の飛ぶ音がしたので「なんだか今日、たくさん飛行機飛んでますねえ」って言っていたら、メンバーに「今すぐに病院に行け」と。 もうすぐ丸4年のタイミングのことです。仕事には十分慣れていたし、方法論も確立されてきていました。そんな状態でも不調になってしまうということは、スキルの熟達度合いは関係なく、働きすぎてしまう構造があるんだろうな、と気付きました。働く、体を壊す、休んで治す、働く、また体を壊す…。そうやって限界まで働き、悪循環を繰り返す将来は、想像に容易いものでした。   会社を良くする働きがしたい、というのは、周りの仲間を見てきてずっと思っていたことでした。ただ、それができないもどかしさもあって…。ビービットで出会った人たちのことも、仕事内容も、会社のことも、大好きでしたが、HRの領域にいくことを決意しました。   どんな選択も、自分で意味を見出していく   ーそして株式会社OKANに転職されたんですね。入社の決め手はなんですか? ビービットのクライアントは大企業が多く、巨大な組織で働くとはどういうことなのかを見てきました。大企業で働くイメージは湧かず、Wantedlyを利用してスタートアップやベンチャーの求人を探すことにしたんです。   OKANは社食サービスや組織改善サービスを開発・提供している会社です。ミッションに「働く人のライフスタイルを豊かにする」を掲げていて、それに共鳴したのが決め手となりました。   ー実際に働いてみて、どうでしたか? 人事としての転職を望んでいたのですが、スタートアップなので状況の変化があり、実際にはマーケターとして働いていました。 ビービットとは事業構造やビジネスモデルが全く違う会社だったので、固定観念を破れたのが良かった部分だと思います。会社によって、人の価値は変わるんだ、という当たり前のことに気付かされました。     OKANは事業会社であるという特性上、あるいはミッションを最重要視した組織であることから、評価尺度や「良さ」の定義がビービットのそれとは大きく異なります。ビービットはマネージャーからの評判や資料のきれいさなど、アウトプットと獲得したスキルセットなど、成果が重要視されており、明確な成果指標がありました。支援会社から事業会社に移ったというのも大きかったのでしょう。「アウトプットや成果が最重要指標」の世界が当たり前、ではなかったんだな」と思いました。   ー現在は株式会社ナイルに転職されていますが、OKANではどのくらい働かれていたのですか?   1年半です。やはり、人事は経験がないと任されなくて…。自分でキャリアコンサルタントの資格を取得したり、副業で個人的に始めてみたりしたものの、社内での異動は実現出来ませんでした。入社前から人事の仕事がしたいという希望が強かったので、転職をすることにしました。 仲間との紐帯や情緒的評価が重視される会社と、成果が重視される会社、どちらも経験することによって、「自分に水があう」組織への解像度が上がりました。定量的かつ皆が共有できる評価基準の枠組みがある会社、あるいはプロフェッショナルが集まる職人気質の会社の方が働きやすいのではないか、と個人的に求める会社が明確化したんです。   ナイルには明確なランク設定や評価基準があって、みんな仕事が好きで、真面目に粛々と働いています。現在、働き始めて半年ほどになりますが、性に合っていると感じますね。   ービービットは直感で決めたの対し、ナイルはいままでの経験を鑑みて、分析的に選ばれたような印象です。どちらの選択の方が納得した道に進めると思いますか? ぶっちゃけ、どちらでもいいんじゃないかな、と思います。正直、今回の転職でナイルに決めたときは、やっぱり不安だったので、親しい友人やこれまでの先輩・上司など20人くらいにアンケートを取り、内定を頂いた各社のメリデメを書いたスプレッドシートに意見を書き込んでもらって、多数決で決めました(笑) 人間の意思決定って、後から振り返っての意味づけ如何、捉え方が変わるだけだと思います。正直、その瞬間に納得してようが、してまいが、後からその選択を正しくしていくしかない。なので、一瞬でも「この選択、いいな」と思った自分を信じてあげて、ちゃんと肯定し、進んでいく。どんな選択をしても自分で正解にしていければいい、そう考えています。 ー自分で考え、試行錯誤しながら選択を積み重ねてきた高尾さんだからこその捉え方ですね。本日は貴重なお話、ありがとうございました! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

アナログとデジタル、大企業とスタートアップー”真逆”を経験した國井大地ならではの事業とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は株式会社リデルタで代表取締役を務めている國井大地さんにお話をお伺いしました。 2019年10月に起業し、フランチャイズ化とIT効率化によって会計事務所のポテンシャルを解放する事業を展開している國井さん。 起業する前は、会計士試験への挑戦や、監査法人での勤務経験、不動産テックのスタートアップでCFOを務めるなど、数多くの経験をされてきました。 公認会計士を目指したキッカケ、そしてどうして株式会社リデルタを創業したのか。國井さんのユニークなキャリアに迫ります。 部活への熱量を勉強にシフト。何かに打ち込みたくて公認会計士へ。 ー本日はよろしくお願いします。まずは國井さんの現在のお仕事についてお聞かせください。 國井大地です。株式会社リデルタの代表取締役をしています。 僕は公認会計士・税理士で、最初のキャリアは監査法人で大企業をクライアントに、3年間監査業務に従事しました。そのあと、不動産テックのスタートアップでCFOとしてIPO準備に携わりました。そこでは資金調達や内部統制を構築し、上場するための業務に2年間関与していましたね。 そして2019年10月に株式会社リデルタを創業しました。リデルタでは、アナログで後継者課題を抱える会計事務所にノウハウと人材を提供するフランチャイズ事業とIT効率化を促すプラットフォームを提供する事業を展開しています。会計事務所業界はかなりIT化が遅れていて、いまだに紙の伝票を使っているところもあるんです。そうした会計事務所のITインフラを構築しています。 またIT化の遅れに伴い、今は所長さんの頭の中に顧問先の情報が詰まっている状態なんです。それをデータベースに落とし込んで、お客様の事業承継までサポートするためのインフラを創ろうとしています。 ー会計事務所のデジタルトランスフォーメーション(DX)に留まらないお仕事をされてるんですね。こうした会計事務所の現状を変えていこうと考えたきっかけはどこにあったのですか? 実家が会計事務所というのが要因ですね。実は、それまで会計事務所業務に興味を持ったことはありませんでした。実家の事務所の事業承継に関与していく中で、まったくIT技術を使っていない業務が当たり前だという現状を知りました。 もともと不動産テックのスタートアップで勤めていたのもあり、アナログな業務が非常に衝撃的でした。同時に、こうした業界課題を目の当たりにして「このままだと業界が衰退する」という危機感を覚えました。 ー実家で会計士事務所をやられている一方で、最先端の業務推進にも携わるという両方を知っている國井さんならではのテーマですね。グッと時代を遡って、会計士試験を目指したのはいつ頃からなのですか? 大学2年生の頃からですね。 高校の頃は、ずっと部活動でテニスに打ち込んでいました。大学でもサークルに入ったのですが、やっぱりサークルはワイワイというか飲みがメインというか...(笑) 高校時代はテニスに熱量を注いでいたので、その落差に違和感を覚えたんです。運動は高校の時に完全燃焼していたので、何か勉強に打ち込みたいと考える始めるようになりました。そんな中、大学の図書館で友人が懸命に会計士試験の勉強をしている姿を見て、それが僕にはとても格好良く映りました。 こうした環境要因と、経済学部で勉強している領域が近かったことから会計士試験を目指すようになりました。難易度が高くて熱量を注げそうだったと言うのもあります。 自ら誘惑を消し、勉強にフルコミット ー周囲の影響もあって目指されたんですね。どれくらいで合格したのですか? 卒業した年の8月に合格したので、ちょうど丸3年かかりました。法人に入って、周りの平均新卒年齢が30歳手前の方が多かったことから、業界では若手であると感じましたね。 会計士試験に合格する年数は、人によって大きく差があるんです。僕のいた予備校は、高校時代に部活に熱量を注いでいた人が多かったように思えます。そういう人達は全力で打ち込む対象を運動から勉強に変えただけなので、2~3年で合格する人が多かったのではないでしょうか。 ー同級生が就活をしている姿を横目で見ながら会計士の勉強をし続けるのは、モチベーションを保つことが難しそうですね。 正直、それはキツかったですね。周りは4年生春になると就活を終えて、「○○に内定もらった」「同期飲みしてきた」といった話をしていて、とても華やかに見えました。そんな中、自分は受かるかどうかも分からない試験にフルコミットしてて、このままで大丈夫なのかと引け目に感じていました。 そんな状況なので、同じように勉強をしていた人の中には、そこで就活にシフトする人もいました。僕は退路があると逃げてしまう性格で...そのため、絶対に就活はしないと決めていました。 諦めてしまうと思い入れや人生の時間のかけ方、熱量も変わってしまいますよね。そう思って、勉強に打ち込んでいました。精神力が強くないことは自覚していたため、勉強に一直線になれるよう、誘惑を自ら消し、甘えを受けない環境を整えることを意識していました。それでも当時は辛かったですね。 社会人の基礎を積み、経営への道を目指す ー持ち前のストイックさが発揮されたんですね。試験合格後、最初のキャリアに就くまではどういう就活をしたのですか? 有難いことに、受けたところはすべて内定を貰えました。 業界的にコミュニケーションが苦手な方が多いという特徴があります。僕は、体育会出身で、それが有利に働いたように思っていますね。会計士の就活では、コミュニケーションが一番見られるんです。会計士試験で能力はある程度フィルタリングされているので、それ以外の部分、人間性や相性、ストレス耐性などが重視される傾向にあります。就活生にとっては、どの法人に勤めても業務内容は大きく変わらないんです。なので、僕は法人のカルチャーや国際色の強さを軸に選んでいました。最終的には、体育会気質な法人であり、4~5年ほどで海外に行ける部署に所属できるという点から、デロイトトーマツに入所しました。 仕事は忙しかったですが、社会人の基礎を築くことができました。優秀な人と働くことがとてもいい経験になりましたし、クライアントも要求水準が高く、自分の中の会計士としての土台が構築されましたね。 ーデロイトトーマツは3年ほどで辞められたんですよね。何がきっかけで転職しようと思ったのですか? 本音を言うと、ずっと監査法人にいる気は無かったんです。 実は、会計士試験が終わった翌日からボストンに留学に行き、ボストンキャリアフォーラムで就活をしていたんです。色々な企業を見ていた中で、外資系コンサルティングなどの経営領域が面白そうだと感じました。その時から、3年ほど勤めたら次は経営領域に行きたいと考えていたんです。 また、会計士協会の研修で経営共創基盤の冨山さんの研修を受ける中で、"経営とは何か?"というお話を伺ったことも後押しとなりましたね。その時に冨山さんは「経営は、意思決定と行動力のかけ算だ」とおっしゃっていました。「どれだけ意思決定が強くても、行動していなければ経営としては0になってしまう。」経営の第一線に立っている方がそう言うのであれば、とにかく行動しないと経営は分からないだろうと考え、経営の道に進もうと決意しました。 ー冨山さんのお話が強く背中を押してくれたんですね。どんな行動に移したのでしょうか? どうやったら経営に携われるかなと模索しました。選択肢としてコンサルも考えたのですが、コンサルは意思決定に関与はできても最終的に決めるのはクライアントというところが監査法人と同じで第三者目線だなと思い、やはり自分で経営したいな、と。それに、大企業だと自分で意思決定できる領域が少なくなります。そのため、自然とサイズの小さい企業、スタートアップに注目するようになりました。 自分の経歴を活かして経営に携われるポジションとなると、必然的にChief Financial Officer(CFO:最高財務責任者)になります。ただ、社会人経験3年ということで、企業によっては経験の浅さを指摘されることも。そんな中、不動産テックのスタートアップ企業の代表と出会いました。代表は、僕のポテンシャルと能力を買ってくれて、CFOに就任することになります。 真逆の文化で経験を積み、起業を決意する ー実際にジョインされて、印象的だったエピソードなどありますか? 前職の監査法人時代のクライアントはどの会社も当たり前のように利益が出ていたのですが、スタートアップだとまず資金繰りを考える必要があります。資金繰りを気にするという概念が無かったので、それが一番衝撃的でした。資金調達に走った時も「キャッシュが無くなってしまう...」とワナワナすることもありましたね(笑) また、チーム内で能力にバラツキがあるのも初めての経験でした。チームでの動き方の違いをはじめとしたカルチャーギャップが新鮮で面白かったです。 ーたしかに真逆の文化ですよね。忙しくも充実した日々を過ごされていたと思うのですが、起業を考えたきっかけはあったのですか? マーケティング業務に携わった経験から、起業を意識するようになりました。 マーケティングは営業と連携するため、事業のフロントに関与する機会が増えたのです。そこでマーケティングファネルの設計や顧客ヒアリングすることが楽しくなっていって、経験を積んでいく中で自分のビジネスを考えるようになりました。ビジネスのフロントもバックもやれるようになったことが、起業への具体性を増したんです。 0→1の大変さを知り、自分の見える景色が変わった ー既存の企業にジョインするのと、0から自分で起業するのとでは全く異なりますよね。実際に起業していかがでしたか? まずは純粋に起業している方々への尊敬の念が膨らみましたね。CFOだった頃は、どれだけCEOと意見が対立したとしても、最終的にはCEOの意思決定をサポートしていました。そこに不満を覚えていた時もあったんです。しかし、実際に自分がその立場に立つと、今まで僕が見えていなかったところが見えるようになりました。特に採用を加速してる期は、企業が「10→100」に成長するタイミングが多いですよね。そのため、「0→1」や「1→10」の大変さを理解している人は多くありません。僕もそのひとりでした。実際に自分が企業を成長させていくことで、大きくなっていく組織の苦しみ、それを乗り越えていく経験を重ね、新しい発見と日々出会っています。 起業して8ヵ月が経ちました。仮説検証を繰り返しながら顧客や1次情報に触れていく中で、手応えは感じ始めています。 ー会計士試験・転職・起業とそれぞれ大きな決断をされていますが、意思決定をする上で意識していることはありますか? 選択する前に、色々な可能性を考えるようにしています。会計士試験に挑んだ時には、資格がない状態で描ける将来のキャリアと、資格を取ることにより描けるキャリア像とで、どういう差が出るのかをシミュレーションしました。 何かを投じた後にどうなるのかをイメージした方が、意思決定の解像度が上がると思っています。そのため、イメージを膨らませるための情報を取ることを心がけているんです。それで「やる」と決めたら後は忠実に目指すだけ。また、僕は怠惰な人間で、退路があるとそれに甘んじてしまうんです。周りにいるメンバーから刺激を受けて、燃え尽きないようにモチベーションの維持を心がけています。 ー最後に、今後の展望について教えてください。 会計事務所業界は、AIによって専門的な経理能力が人から機械に置き換わり、提供できる付加価値が下がってきているという課題があります。しかし、業界全体の高齢化を背景にDXは進まず、事務所の後継者課題が加速して、業界全体が衰退の一途を辿っています。 まずは、しっかりと顧問先に付加価値を提供できる仕組みづくりに取り組みます。その仕組みをフランチャイズという形式で日本全国の会計事務所に展開することで、後継者課題の解決と、会計事務所業界のDXをしていくことで、業界を発展させていきたいです。 スタートアップへの就職人気があるように、会計事務所で働くことが魅力的な選択として映る世の中にしたいと思っています。 ー改善の余地がある業界だからこそポテンシャルは非常に大きいですよね。今後のご活躍を応援しています! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:みやっち(ブログ/Twitter) 編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

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