「挑戦をやめたら俺じゃない」中村義之が決断してきた“自分らしくいる”ための選択

26歳のとき、DeNAから分社化したみんなのウェディング取締役に就任し、29歳でマザーズ上場を果たすも、その後体調不良により退任。1年半の療養を経て、福岡への移住・転職支援を行うYOUTURNを創業。 まさにジェットコースターのような経歴。今回は激動の20代を過ごされた、株式会社YOUTURN代表取締役の中村義之さんにお話を伺いました。  意志のある選択をし続けている中村さんは、岐路に立ったとき、どのように考えて決断してきたのか。悩めるU29世代へのヒントとして、中村さんのこれまでの選択と信念を紐解いていきます。 妥協が嫌い。やりたいことをやりたかった ― 新卒でDeNAに入られたのは何年でしたっけ? 中村義之(以下、中村):2008年入社ですね。大学在学中から、将来起業したいと思っていて、Eコマースの会社で1年半くらいインターンしていたんです。ネットだと色々数字を取りながらPDCA回せますし、商売のキホンのキはものを売ることだと思っていたので。 就活のときは、インターンでやった経験を生かして働ける会社、かつ、すぐに起業ってイメージは持てなかったから、新規事業を若手に任せてくれる会社に行きたいと思っていましたね。ある意味、起業の疑似体験をしたいというか。 この二軸で考えたとき、これはDeNAだな、とピンときて。 ― もう一択だったんですか? 中村:一択でしたね。DeNAしか受けてないです。面接のときって「他にどこ受けてんの?」って訊かれるじゃないですか。そのときに「いや、御社だけです」って。 「いやいや…。え、本当に?」と言われたけど、僕としては「行きたい会社に行けないのなら進学や留学を選ぶし、行きたくないところに行くつもりはない」と思っていました。 ― 意志の強さがすごいですね…。決断の仕方は小さい頃から同じなんですか?  中村:そうですね。次善の策が嫌いというか、妥協が嫌いというか。やりたいことをやるのが一番良いと思っているから。大学もそうなんですよ。筑波大学の自分の学部しか受けていない。  あとは、意識的に周りと違う行動をとっていますね。高校の同級生が地元に残るなか筑波大学を選択したり、大学の同級生が大企業に就職するなかネットベンチャーを選んだり。進路を選択するときに「親が言うから」って人いるじゃないですか。そういう話聞くと、「いや、お前の人生を生きろよ」って思っちゃう。 「自分が選んだ選択を正解にする」覚悟を決めた夢への挑戦 ― DeNAではどういうお仕事をやられていたんですか?  中村:入社して2年間はEコマースの事業部で働かせてもらって、3年目に新規事業部の配属になりましたね。最初はEC経験を活かしながら働かせて欲しい、そこで実績や経験を積めたら、新規事業部の部署に配属して欲しい、と入社当初から言っていたんですよ。  ― まさに希望通り。新規事業に挑戦する機会を得られた理由はなんだったんでしょう?  中村:言い続けていたからかもしれませんね。DeNAには当時、半期に1回、自分のキャリア希望を書くシートがあったんです。そこに色々書いていましたね。海外事業部も出来たばかりだったので、海外行きたい、新規事業やりたい、と毎回書いていました。 実を言うと、僕は同期の中でそれほど結果を出していたわけではないんです。営業は2年間やっていましたけど、MVPとかとったことないし。表彰されて「アイツは優秀だ」と言われているやつが沢山いたなかで、自分が挑戦のチャンスをもらえるって本当にラッキーだなって。 ― そして新規事業部に配属されて、みんなのウェディングの事業に参加。26歳のときに分社化して、取締役として参加したんですよね。 中村:分社化が発表されたとき、DeNAにもたくさん子会社があったので「あ、これからは子会社に出向する形になるんだ」と思っていたら、「子会社でもグループでもなく、完全に独立した会社になる。だから、ジョインするとしたらDeNAを辞めて行ってもらうことになる」と言われたんですよ。 DeNAは大好きだったし、こんなに成長出来る会社はないなと思っていたので、辞めるという選択は一度も考えたことがなかったんです。でも、みんなのウェディングもとても楽しかった。「あ、両方取れねえんだ」と思いましたね。 それで1日考えたんですけど、元々起業したかったし、独立してVCから出資受けてIPOを目指すスキームだったので、このチャンスに挑戦しない手はないだろうって。宝くじ当たるよりも確率低いんじゃないかって思ったんですよね。 そして、翌日に「辞めます」と決断して、みんなのウェディングの設立に取締役として参加したんです。 ー 迷いはなかったんですか? 中村:なかったですね。みんなのウェディングって口コミサイトだったんですよ。当時、口コミサイトってユーザーの支持はあるけどビジネスとしては儲からないって言われていて、同期の数人からも「絶対上場とか出来ないからやめとけ」って言われたりもしたんですけど。  でも「いや俺好きだからやってるしさ」と思って。どんな選択にも正解ってないじゃないですか。だったら、自分が選んだ選択を正解にする。「俺はそういうスタンスでいくよ」と思って、選んだ決断でしたね。 挑戦は順調だった。だからこそ潰れてしまった ー 26歳で取締役になって、29歳のときにみんなのウェディングが上場。ジェットコースターのような3年間で、重圧に押し潰されずに結果を出し続けられたのは何が要因だったと思いますか?  中村:一番は「こんなに成長出来る機会って他にないよな」と、超楽しんでやっていたことだと思います。 色んな課題がどんどん変わってくるんですよ。社内の人間関係の問題はもちろんだし、競合が想定しなかった戦略を打ち出してきたとき、どう対抗するか考えるのもそうだし。局面局面でこれまでやったことがない領域の知識を得ていかなきゃいけない、って状況は面白かったですね。手探り状態だからとんでもない間違いをすることもあったけど、だからこそ想定してないようなフィードバックが返ってくることもあった。 ー 常に手探り状態の中で一番大変なことって何だったんです? 中村:一番は、自分たちで設定したストレッチな目標だったので、それをどう達成するかでしたね。まさにムーンショット。走りながら考えて、ダメだったら別の方法を考える。 大変でしたけど、目標も毎年達成して、当時の株主の方から「こんなに計画達成するベンチャーないよ」と言ってもらえたんです。最初はビクビクやっていたけど、むしろワクワク、どう乗り切るか考えるようになったからかもしれませんね。プレッシャーがありつつも超楽しんでやっていました。 ー そして、2014年にIPOした後、10月末に体調を崩して退任なさったんですよね。何かきっかけとかはあったんでしょうか? 中村:きっかけというよりは、リスクとかプレッシャーに対して麻痺していたんだと思います。「まだまだいける!もっと来い!」みたいに。 あとは、組織の拡大に伴ってアンコントローラブルな領域が増えていったことですね。IPO前までは、目標に対して下振れしても、顔が見える株主の方々に頭を下げればよかったんです。 でも、上場したら、目に見えない匿名の株主の方が何人もいるんですね。加えて、クライアントの数は増えますし、打たなきゃいけない戦略は高度なものになりますし、自分がやらないといけない明確な限度が分からなくなってきた。  「俺がここまでやんなきゃいけない」って限度が広がってしまって、結果、睡眠時間を削って何とか回していたんです。 ー 1日何時間くらい寝ていたんですか? 中村:病気になったな、と思ったときは1,2時間睡眠を1か月続けていましたね。上場の前の正念場を同じ1時間睡眠で乗り越えた経験があったから、俺は大丈夫、この働き方で難局を凌げるはずだと言い聞かせていました。 でも、当たり前ですけど、上場した後のプレッシャーって桁違いなので、そこで潰れましたね。 気付いたら、頭痛と吐き気と体の震えが止まらなくて。パソコンを開くだけで症状が出るようになってしまった。そんな状態になって「あぁこれはもうダメだ」と思って退任させてもらったんです。 挑戦をやめたら俺じゃない。再び、自分らしくいるために ー 取締役をご退任してから延べ1年半の療養期間、回復のきっかけとかあったんですか? 中村:具体的なきっかけはないんですけど、療養中、リハビリも兼ねて色んな所に旅行したんですよ。海外含めて、夫婦で様々出掛けていました。 ある地域を旅行しているとき、ふとフラッシュバックしてきたんです。楽しく働いていたときの思い出が。 病気になってからは、仕事って辛いもの、キツイものとしか捉えていなかったのに、「あぁ、俺って仕事好きだったなぁ。またやりてえなぁ」って急に思って、涙が止まらなくなったことがあったんです。それが精神的に回復した瞬間だったと思います。 ー そこから、どのようにYOUTURNの起業まで至ったんですか? 中村:精神的に回復して今後の人生を考えたとき、ここでチャレンジを諦めてしまったら俺じゃないなって思ったんです。骨壺入るとき絶対後悔するだろって。次もやっぱり挑戦し続けたかったんですよね。 だけど、もう病気にはなりたくない。チャレンジとQOLが両立するやり方ってなんだろうと考えた結果、自分のバランスがとれる環境の良いとこでやるってことなんじゃないか、って思ったんです。 旅行中も沖縄とか北海道で「こんな環境が良いところで仕事できたら最高だな」と思っていましたし。本来、インターネットって場所も関係ないですしね。 ー 東京じゃなくても仕事出来るじゃんって。 中村:そう。じゃあどこが良いかな、と考えていたときに地元の福岡があったんですよ。あ、地元があるじゃん!って。 この選択が良いか悪いかは分からなかったんですけど、根拠のないやりたい気持ちが膨れ上がったんです。直感的に面白いことになりそうって思って。 ー 何で地方だったんでしょうか? 中村:ここでも天の邪鬼なところが出たんでしょうね。金太郎飴にはなりたくない、ユニークな存在やオリジナリティのあるポジションを取りたい、という想いが根底にあるんだと思います。 東京ってスタートアップの雛形があるじゃないですか。プロダクトを作って資金調達すれば誰でも出来そうで、コモディティ化している。だったら違う軸で、東京じゃないところで面白いベンチャーを作れたら面白いんじゃないか、と。根拠なんてまったくなく、ただ自分がワクワクしたんです。 ー ここでも自分の意志を信じての選択だったんですね。 中村:さて、どこで起業するかは決まった、次はどの領域で起業するかを決めないと、と福岡で既に起業していたり、支援している人達から情報収集していたんです。そしたら、みんな採用に課題を抱えていたんですよ。「福岡はすごく起業しやすくなったけど、人がいない」って。 本当にみんな同じことを言っていたので、自分が起業して全く同じ課題に直面するんだったら、俺がこれ解決しよう!と思ったのがYOUTURNを起業したきっかけでしたね。今もまだまだこれからの会社ですけど、行政の方を初め、色んな方に「いいね!」と応援してもらえているのは嬉しいです。  『自分らしくいることは成長にも繋がる』悩めるU29読者へのメッセージ ー 中村さんは、人生において逆張りとも言えるような選択をしていますし、YOUTURNさんとしても地方へのUターンIターンなど、逆張りに思える選択を提案していますよね。そんな中村さんから20代の方々にメッセージを送るとしたら、どんなことを伝えますか? 中村:「人と比較しなくて済む生き方を選ぼう」ってことですかね。自分がニッチな逆張りの選択をしてきたのは「相対的な自己として社会にありたくない」って思っていたからなんですよ。人と比較する軸でキャリアを選んじゃうと、いつまでたってもハッピーじゃないと思うんです。上には上がいるし、他人の芝はいつまでたっても青いし。そういう人生って、あんまり面白くない。 ー 比較が必要なときもありますけど、疲れちゃいますしね。 中村:局地戦では必要だけど、大局観としては「人と比較しなかったとしても、自分自身はどうありたいんだ」を考えて欲しいです。 僕はその1つの選択として、福岡での起業を選んだんです。人と比較されないユニークなポジションを取っていくことって、結局生き抜いていく上での勝ち筋なんじゃないかって気もしますしね。 ー オリジナリティを自ら作っていくってことですね。 中村:その領域で自分しか知らないことが増えるから、結局ビジネスの引き合いも来るし、結果的にチャンスをもらえて成長機会になるんだと思います。 そういう意味でも、これからの時代、用意された環境でしか成長できない人って厳しくなってきます。だからこそ、自分の意志が大事になる。そのためにも、「自分らしくいるには、どういう環境に身を置いたら良いのか」を考えて欲しいですね。 (取材:西村創一朗、写真:鵜ノ澤直美、文:安久都智史、デザイン:矢野拓実)

Webメディア編集者からFemTech事業へ舵を切ったMEDERI株式会社CEO・坂梨亜里咲の胸の内 #私のU29時代

10代、20代にとって生き方の指針となるようなインタビューを掲載しているU-29ドットコム。今回は、「自分を愛でる」というコンセプトでFemTech領域に参入するMEDERI株式会社・CEOの坂梨 亜里咲(さかなし・ありさ)さんにお話を伺いました。 宮崎県で生まれ、大学入学までの18年間を地元で過ごした坂梨さん。大学卒業後は通販サイトの会社へ入社するものの、一年後には4MEEE株式会社にジョインして女性向けWebメディア「4MEEE」を立ち上げます。半年のフリーランス期間を挟んで4MEEEでCOO、CEOを経験し、現在は起業して妊娠に関するプロダクト作りの真っ只中。 Webメディアの編集者から社長まで上り詰めたのち、一転してFemTech領域に足を踏み入れた坂梨さんの胸にはどんな想いが秘められているのか……これまでの経歴を辿りながら、彼女が目指す世界に迫ります。 地元でオシャレな服が買えなかった経験から選んだ就職先 — 通販サイトに興味があってEC系の会社に新卒で入社。その前はどんな学生時代を送ってこられたんでしょう? 学生時代は読者モデルをやっていたんです。そして、なんとなく「卒業後はアナウンサーになりたい」と考えるように。兄も福岡でアナウンサーをしていますし、自分もなれるだろうと思っていたんですが、入社試験にはことごとく落ちてしまいました。 その頃ちょうど東日本大震災が起こって就活が一時停止。じっくり考える時間ができたことで自分自身を見つめ直してみたら、地元でオシャレな服が売っていなくて通販をよく使っていたことを思い出したんです。その原体験があったので、通販サイトの会社で働こうと思い、内定をもらいました。 でもそこでは、1つ上の先輩がインターンの私と同じ業務をしていたんですよ。それがあまり魅力的に思えなくて。悶々としているとき、友人が誘ってくれたイベントでルビー・グループ株式会社の社長さんに出会い、「通販サイトの会社に就職したいならうち来なよ」と言ってもらえたんです。話を聞きに行って魅力を感じ、こちらに就職することを決めました。 — 実際にルビー・グループに入社してみてどうでした? 同期はいなかったんですが毎日楽しくて、裁量の大きな仕事をたくさんさせてもらいました。だけどある時、新規事業立ち上げの一貫でラグジュアリーECサイトを担当させてもらったんですけど、新卒の私には、高級なものをどうやって売ったらいいのか分からなくて。 — 身近にターゲット層がいなくてイメージできなかったんですね。 そうなんですよ。だったら自分ごと化できるサービスができたらいいな、と思うようになったんです。その矢先、大学時代の友人から久々に連絡をもらって会ったところ、通販にも集客できるwebメディアをやろうとしているという話を聞きました。それで、今の会社を辞めてそちらにジョインすることにしたんです。   ベンチャー企業に転職し、メディア立ち上げを初経験 — ルビー・グループを辞めて、現在の4MEEE株式会社へ転職。坂梨さんは創業に携わっていたわけじゃないんですね。 大学時代の友人たち3人が創業した会社で、そこに私がジョインした感じですね。当時はまだ「4MEEE」はなくて、リスティング広告の最適化ツールを作っていました。社名も「ロケットベンチャー株式会社」でしたし。これからtoC向けにサービスをやる、というタイミングで声をかけてもらったんです。 最初はスタートアップにジョインすることに対して親からも反対されましたけど、一週間ほどで納得してもらえて、2014年に入社しました。 — ロケットベンチャーに入社し、4MEEEを立ち上げ。メディア立ち上げは人生初の経験だったと思いますが、どうでしたか? 立ち上げ時の仕事としてはひたすら記事を書いて更新するというルーティン作業だったんですが、そのときの社長が「どれだけこのサービスがイケてるか」を毎日説明してくれていたので、今振り返ってみればすごく楽しかったですね。いざ自分が起業してみると、そこまでのムードを作れていたのはすごいなと思います。 — 4MEEEにいる間、挫折経験やハードシングスはありました? いやもう、たくさんありましたよ。一番は、4MEEEをスタートさせて半年後くらいに存続の危機が訪れたことですね。SEOの効果もすぐには出なかったですし、いろいろあって1週間くらいメンバーそれぞれが自宅で仕事をしなきゃいけない状態になったりして。これから先がどうなるかわからない状態で1ヶ月半ほど過ごしていました。 — その危機はどうやって乗り越えたんですか? そんな状況でも当時の社長がカリスマ的な存在感を放ち、事業を諦めず、メンバーに希望を与え続けてくれたおかげで乗り越えられましたね。株式会社エニグモに自社をバイアウトし、エニグモグループに入った後も、うちの社長の意見を尊重してもらって自由にのびのび仕事をさせてもらっていました。   半年のフリーランス期間を経て役員、そしてCEOへ — 坂梨さんは、フリーランスだった時期が半年間あるそうですね。どういう経緯があってフリーランスに? 4MEEEの編集者として働いていた頃、何をもって給与交渉すればいいかわからなかったんですよ。給与は、可視化される評価なので上げ続けたい。でもスタートアップって給与体制もまだできていないし、社長に交渉することもできなくて。 だから、一度外に出てみて自分がどれくらい稼げるのかを知りたいと思ったんです。それが分かったら今のモヤモヤがなくなるような気がして。26歳になるタイミングでフリーランスになりました。 — フリーランスになってみて、実際どうでした? その頃はWebメディアバブルだったので、コンテンツ制作やコンサルティングの依頼がどんどん舞い込んできて、会社にいた頃よりずっと稼げるようになりました。でも、全て自分一人でやらなくちゃいけないから休む暇がないということに気付いたんです。 やればやるほど稼げることは分かったし、自分の仕事の相場感が掴めて数字には強くなりました。だけどこのまま一人でやっていくのはきついなと感じ、誰かと一緒に小さく起業するか、どこかに転職して再びインプットしたいと考えるようになったんですよね。 さまざまなメディアから声を掛けてもらったんですが、4MEEEの社長にその話をしたら「それならうちに戻ってきてよ」と言われ、一番いい待遇で迎えてくれることになったので戻ることに。 — 結果的には、フリーランスになってよかったということですね。そして4MEEEに戻り、COOという役職に就くことに。 そうですね。実はその時、社長はすでに違う会社を立ち上げて代表を務めていて、「ゆくゆくは4MEEEを渡したい」と言ってくれていたんですよ。だから、CEOという次のステップが見えていて、仕事も頑張れました。 — 編集者からCOO、そしてCEOヘ。一編集者には、なかなかない道ですよね。 4MEEEに戻るとき、社長から「フリーランスになって(お金やチームでやっていくということに対する)考えが現実的になったね」と言われました。視座が高くなったというか。フリーランスを経験して本当によかったです。   「自分の世界を作りたい」という想いからCEO退任を決意 — 再び4MEEEに戻って2年が経ち、約束通りCEOになったわけですね。 はい。でもそのタイミングで、二度目の4MEEE存続の危機がやってきたんです。親会社との方向性の違いで。いろいろと検討した結果、株式会社インタースペースに親会社になってもらうことになりました。 新たな親会社が決まるまでは他言できないので、社内には不穏な空気が流れていって社員もどんどん辞めてしまいました。私自身も社員を信じられなくなり、一時は代表を務める自信もなくなって……結局、インタースペースにバイアウトしたタイミングでは正社員数は以前の約5分の1という状態でした。 — それは辛かったですね……。インタースペースへのバイアウトが決まったタイミングで新体制になり、初めてのことの連続で大変だったんじゃないでしょうか? 私は大企業で働いたことがないから、体制が変わって3ヶ月くらいは、聞き慣れない言葉が多かったり仕事のやり方が違ったりして戸惑いましたね。しかも、だんだん掴めてきたところで、今度は物足りなく感じるようになってしまって。 自分でも経営について勉強しましたが、子会社社長のあり方やモチベーションセットって難しいんですよね。それでも、4MEEEを伸ばすために駆け抜けた日々でした。地方自治体とタイアップをしたりコラボ商品を作ったり、新たな収益源に挑戦させてもらって試行錯誤しながら黒字化できたのは良い経験です。 — では、いつ頃から退任して次のチャレンジをしようと思うようになったんですか? 2019年の7月です。私自身、「4MEEE」と「4yuuu!」どちらのターゲット層にも属していないから、その真ん中の世界を作りたいなと思って。それを今の会社で作るのか、私が新たに会社を立ち上げて作るのか……といったことを2018年の終わり頃から少し考えていました。 Webメディアって、投資がかかる割に先が読めない部分が大きいので、私が作りたい世界観をどういう形でアウトプットするのがベストなのかと悩んでいたんです。自分がお金も時間も費やしたことって何だっけ?と考えたら、不妊治療だったことに気付きました。それで2019年の8月には、親会社に「辞めたい」と伝えたんです。 ちょうどその頃、海外でもFemTechが話題になっていて。「これはまさしく私がやりたい領域だ」「今やらなきゃいけない」と思ったんですね。私の人生の成功体験に共通する点は、先行者優位を取ってきたこと。だから今立ち上げないと出遅れてしまう、と。 なので、任期満了の2019年12月に辞めさせてもらうことになりました。   コンプレックスをさらけ出して参入を決めたFemTech領域 — 2019年8月にCEOを辞めることを会社に伝え、同年12月に退任。時期は少し遅くなったものの、早い段階で前に進めたんじゃないでしょうか? 平日の夜や土日を返上して次の準備をしていましたが、私が参入しようとしているヘルスケア領域においては、プロダクトをリリースにこぎつけるのが思ったより大変で。私の行動力や突破力ですぐに実現できると思っていたけれど、なかなか進まなくて。 「想いだけじゃやっていけない」と洗礼を受けました。やりたいことはあるし、作りたいプロダクトもあるけど、Howがないという状態でした。 — どんなプロダクトを考えているんですか? サプリメントと妊よう力セルフチェックキットです。はじめはチェックキットだけをやろうと思っていたんです。私自身、自分の遺伝子で妊娠することができない可能性があるかもしれないんですよ。でもそれに気づくのが5年早ければ、状況は違ったかもしれない。だから、自分の妊孕力を知れるキットが欲しいなと思って。 だけどそれってあまりにメッセージが強いから、共同創業者に「もうちょっとマイルドに考えてみたら?」と言われ、日常に溶け込むプロダクトを……と考えた結果、治療中も服用していたサプリメントに辿り着いたんです。 もともとメディアを運営していたので、インターネットで販売するサプリメントに対するイメージに戸惑いがあったのも事実で。でも発想を転換させれば「サプリメントもメディアだな」と思ったんですね。私はただサプリメントを届けるのではなく、サプリメント通じて毎月自分と向き合う時間をユーザーに届けるんだ、と。 今までWebメディアという形で情報を発信してきましたけど、サプリメントを通じてFemTechの領域で生活に溶け込むような情報配信ができるんじゃないかと考えるようになったんです。 — ヘルスケア業界って法律の縛りやしがらみがあって、アイデアを形にするのにすごく長い期間を要することって多いじゃないですか。そんな中で、会社を作って2〜3ヶ月でプロダクトローンチまでこぎつけたのは本当にすごいと思います。 何事もスピード感が大事だなと思っているので。最近はFemTech領域もすごく優秀で活躍される方がどんどん出てきていていますし、引け目を感じる部分もあります。でも私には「自分の遺伝子で子供が生まれない可能性がある」という究極の原体験があるから、その想いでこだわったプロダクトを作っていきたいですし、いずれtoB向けサービスも展開したいと思っています。 — ファーストプロダクトは、坂梨さん自身が妊活を経て苦労されてきたということが原体験になっているということですが、コンプレックスを表に出そうと思ったのは何がきっかけだったんでしょう? 実は去年1年間、夫の仕事の都合で離れて暮らしていたことがあり、自分一人で考える時間が増えたんです。その時に、自分の中に引け目があることに気付いて。独身時代は子供が産まれたら仕事を辞めて家庭を支えたいって想いもあったりしたんですが、夫に養われるのは性分に合わないなと。 たとえば結果として子供ができなかった場合、どうやって夫に愛想を尽かされずに過ごせるのか考えた時に、「わたしは働くのが得意だから、20年後も働いて輝いていたいな」って。だから、生涯かけて働ける何かをしたいと考えたんですね。 常に自分がターゲット層となるようなサービスだったら楽しめるなと思い、まずは妊娠出産に関するサービスを。もしも子供を産むことができたり、何かしらの方法で子供を迎えることができたら、次は育児に関するサービスを提供できる。そんな会社を作りたいと思ったんです。 同情を買うようなエピソードは、できれば言いたくありません。でも、自分の中でコンプレックスだと感じていた部分を、「これも自分の人生だ」と受け入れられたのが一番大きな変化でした。生涯かけてやりたいことが見つかったことで、「誰かの幸せに繋がるなら会社をやろう」と腹が決まりました。 — それは本当にすごく覚悟がいることですよね。言いにくい話をしてくれてありがとうございます。不妊に悩んでいる多くの人たちに勇気を与えるエピソードだと思います。   女性たちが後悔しない人生を送るためのプロダクトを — 3月にリリースされるプロダクトは、いろんな人の救いになるサービスになっていくと思います。そのためのクラウドファンディングも始まるそうですね。 はい、CAMPFIREというクラウドファンディングのプラットフォームを使って3月3日にスタートします。今回はまずサプリメントから。 リターンとしては、サプリメントを通常時よりお得に買えるというものと、MEDERIの理念に共感して支援してくれる個人や企業に向けたリターンの大きく2種類を考えています。 — まだ若くて妊よう力を調べたいと思っている当事者の方々や、当事者ではないけれど応援したいと思っている未来の支援者に向けて、何かメッセージはありますか? 私と同じような状況の方々は、何より病院で自分の心と向き合いながら治療をしてもらうのが一番かなと思っているので、「共に頑張りましょう」という想いでいっぱいです。 まず私が作っていくプロダクトは、これから妊活をしようとしている人やタイミング法に挑む妊活中の人、まだパートナーはいないけど子供は産みたいという人向け。そういう方々には、早くから自分に問題意識を持つきっかけとなるようなプロダクトになればいいな、自分自身に目を向けて自分を愛でる時間を一緒に作っていけたらいいなと思っています。 サプリメントには、月ごとに、妊娠・出産にまつわる情報とコーチングカードを同梱します。独身女性には仕事、結婚、出産に関することを考えられるようなカードを。既婚女性には今後の出産や子育てについて、旦那さんと一緒に考えられるようにパートナーさん用のカードも送ります。 このカードを使うことで、妊活特有の孤独に悩む女性も減るんじゃないかと考えているんです。一人でも多くの女性に後悔のない人生を送ってほしいので、私はこのプロダクトに全力で向き合っていきます。これからもMEDERIのプロダクトに注目していてください。 — 記事メディアからサプリメントという形のメディアへ。日本初のFemTechの大本命として注目していきますので、クラウドファンディングも頑張ってください。応援しています! クラウドファンディングページはこちら   (取材:西村創一朗、写真:小林桜々、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

静岡のアナウンサーといったら「大久保結奈」になる。クリエイティブアナウンサーとして独立するまで。

静岡唯一のクリエイティブアナウンサーとして活動される大久保結奈さんに今回はお話をお伺いしました。大学卒業後、浜松ケーブルテレビで3年間番組制作に携わりカメラマンやディレクター、キャスターを経験。その後ミス浜松でのグランプリ受賞が後押しとなり、独立。 幼少期の頃からアナウンサーを目指していたという彼女がクリエイティブアナウンサーとなり、夢を実現するまでの道のりをお話いただきました。   小さい頃からあったアナウンサーへの憧れ ーまずは簡単な自己紹介をお願いします。 静岡県浜松市出身で静岡唯一のクリエイティブアナウンサーとして活動しています。南山大学外国語学部で英語・インドネシア語・中国語を勉強し、卒業後は浜松ケーブルテレビで3年働いた後、フリーランスになりました。 ー小さい頃からアナウンサーを目指されていたんですか? 元々モーニング娘。に憧れていて、人前に立つ仕事につきたいと思っていたんです。なので初めはアイドルになりたかったんですが、小学6年生の頃にアイドルは無理かもと思い出して…そこからアナウンサーになりたいと思うようになりました。当時よく見ていた「行列のできる法律相談所」の馬場紀子アナウンサーみたいになりたいと思っていましたね。 ーそうだったんですね。中高時代はどのように過ごしていたんですか? 浜松市の難関中学に進学し、勉強も部活も友人関係も順調で悩みがなかったです。人前に立つのが好きだったので学級委員をしたり、生徒会に入ったり、文化祭の実行委員をしたりとかなりアクティブに活動していました。 ーそして大学進学のタイミングで名古屋に行かれたんですね。なぜ南山大学だったんでしょうか? 関西の外国語大学が第一志望だったのですが合格することができず、たまたま調べていて見つけた南山大学に進学しました。英語が好きだったんですが、英語は独学でも続けられそうだったので他のアジア言語を勉強できる大学を調べていて見つけたのが南山大学でした。 キャバクラでのバイト経験も今に生きている ー大学生活はどのように過ごされていたんですか。 高校生の時から英語のスピーチコンテストに出場していたので、大学でもESSサークルに入りました。サークルの中もいくつかのセクションに分かれているんですが、スピーチセクションを自分で新たに作ってスピーチコンテストに出ていました。あとはバイトをしたり、ですかね。 ー何のバイトをされていたんですか? キャバクラで働いていました(笑)大学に入ってタバコがかっこいいと思って吸い始めたりする人などがいると思うんですが、私にとってはかっこいいと思ったのがキャバクラだったんです。友達から体験入店に誘われたのをきっかけに週3くらいでバイトしていました。 ーキャバクラで働いていたとはびっくりです!働いてみてどうでしたか? 世間的にはまだまだ偏見の多い職業かと思いますが、学ぶことは多かったのでやってよかったです。どうやったらまたお店に来てくださるかを考えながら営業メールを送り、返事が返ってこなくてもめげずに営業メールを送れるようになりました。 また大学ではあまり社会人の人に話す機会がありませんが、お店では社長さん等いろんな方が来られるのでコミュニケーション能力も身につき、誰にも物怖じせずに話せるようになったのは今の仕事にも活かされています。 ーその間もアナウンサーになりたいという夢はずっと変わっていなかったんですか? テレビ業界志望というのは変わっていませんでしたが、アナウンサーではなく、報道記者を目指していました。1つはアナウンサーになりたいなんておこがましくて無理だと思ったからです。アナウンサーには綺麗で知的な方が多いのでこの夢は現実的ではないかなと。 もう1つは中学3年生の時にタイに訪れたのがきっかけです。バンコクから6時間くらい離れた街に訪れたんですが、日本と違って道が整備されておらず、お湯も出ない地域でした。それを見て、私にとっては日本が当たり前になっていたけれど、現地の人にはこれが当たり前だということを気づきました。世界にはいろんな環境があり、いろんな暮らし方があり、いろんな人がいる。テレビを通してそんな世界の様子を伝えることができたらと思い、報道記者を目指すようになりました。 ーなるほど。報道記者志望での就職活動はいかがでしたか? 就活は全然うまくいかなかったです。地元が好きで離れたくないという気持ちがあったので地元企業を中心に就職活動をしていました。しかしやはりテレビ業界は狭き門で、ことごとく落ちていました。浜松ケーブルテレビは視聴者ではなかったのですが、あることは知っていたので受けたところ内定をいただき、入社を決めました。 ミス浜松グランプリ受賞が挑戦の後押しに ー浜松ケーブルテレビに入社しどのような仕事をされていたんですか? 番組をゼロから作り上げる仕事をしていました。企画構成を考え、取材に行ってカメラを回し、動画を編集して原稿を考え、ナレーションを吹き込むというところまで全て担当しました。全部の工程を経験できたのは勉強になりました。またニュース番組の記者もさせていただいたのでアナウンサー・報道記者の夢は少し違う形ではありましたが叶いました。 ーその中で独立を考え始めたのは何か理由があったのですか? 元々民間放送を志望していたのもあり、思い描いていた仕事との乖離がありました。ケーブルテレビで働いている人の中には、テレビ局を志望していた訳ではない方が多くいました。私は制作部に配属されましたが、コールセンターに配属されていた可能性ももちろんありました。いろんな部署がある中で、働いている方のテレビに対する思い入れは様々だったんです。 またこれはケーブルテレビの特性にはなりますが、家に帰ってテレビをつけた時に皆さんが見るのは民間放送の番組です。ケーブルテレビは加入者にしか見ていただけませんし、加入者の方もわざわざチャンネルをケーブルテレビまで回してくれるとは限りません。そのためケーブルテレビをみていただいている人は限られています。グルメ番組のディレクターを担当した際に視聴者プレゼント5名の枠に対して、応募がたったの2名だったことがありました。私は常に民間放送に負けない番組を作ることを目標としていましたが、こんなに見てくださっている人が少ないということを知りショックをうけました。 ー確かに民間放送を普段から自然と見ていますね。それが辞めるきっかけに? ちょうど在職中に地元のミス浜松に出場したのも、辞める後押しになりました。ケーブルテレビで働いてみて、浜松市内の取材をたくさんさせていただいた中で浜松の良いところたくさん知ることができました。それを会社外でも発信したいと思い応募しました。ミスコンというと水着審査やウォーキング審査のイメージが強いかと思いますが、ミス浜松は少し違い、浜松に関する質疑応答が特に重視されます。浜松愛は絶対に負けないと思い出場したところ、グランプリをいただくことができました。 ーグランプリ受賞すごいですね!それも後押しとなり、退職を決意されたんですね。 ミス浜松がきっかけで、自分がやりたいと思ったことはやろうという挑戦心が芽生えました。また、ミス浜松で得た人脈や繋がりも大事にしたいと思い、良い節目なので退職を決意しました。 クリエイティブアナウンサーとして独立 ー独立してみていかがでしたか? フリーランスは保証がないということもあり、独立当初は不安でしたが、独立してよかったなと今は思っています。独立直後はミス浜松関連で出会った方々にイベント等あったらお声掛けくださいと営業メールを送ったり、企業の新年会に参加させていただき手作りの名刺を渡して営業したりしてお仕事をいただいていました。1年目は会う人全員に名刺を渡して売り込んでいましたね。1年目は編集のバイトをしたり、カメラアシスタントをしたりとアナウンサー業ではない仕事もしていました。 ーフリーランスになり、もう2年とのことですが今のお仕事はどんな感じですか? イベントの司会業やラジオのMCを中心に動画制作やPRムービーの作成、商品紹介のお仕事などもさせていただいています。アナウンサー業だけではなく、クリエイティブ業もさせていただいているので、クリエイティブアナウンサーです! ークリエイティブ業もすることになったのは何かきっかけがあったんですか? 独立してすぐに、浜松市のゆるキャラ「うなも」との出会いがありました。「うなものアテンドのお姉さん」的ポジションをやらせていただくことになり、その流れで「うなものYouTubeチャンネルがあったらいいよね」となったんです。そこから遊び半分で週1.2本動画を上げるようになりました。その編集を面白いと言ってくださる方が出てきたのをきっかけに、動画編集スキルを仕事に活かしたいと思ったんです。 あ、うなもは本当に可愛いので、是非「うなぎいもチャンネル」を見てみてください(笑) カメラができて編集もできる人はいるけれど、ナレーションまでできる人は滅多にいないことにその時気づきました。動画にはナレーションが必ず必要になります。せっかくなら自分が持っているスキルを全部活かしたいと思いそれ以来クリエイティブアナウンサーとして活動しています。 静岡のアナウンサーといったら「大久保結奈」になる ーフリーランスで働いてみて大変だったことはありますか? 仕事が全くない月があり、収入が安定しなかったことですかね。収入が月10万円以下の時もありました。また、1年目はまだまだアナウンサーとして未熟で、毎回の仕事が精一杯で余裕がありませんでした。それでも期待を込めて、また仕事をくださった方には本当に感謝しています。今でも、ピッチイベントの司会はとても緊張します。噛まないように、登壇者の名前を間違えないようにと必死です。 ー今後挑戦してみたい仕事とかはありますか? いろんな企業で、話し方講座を担当したいと思っています。ピッチコンテストなどに司会として参加させていただく中で、コンテンツがよくても伝え方が今一つでもったいないなと思うことがあります。話し方や伝え方はいろんな場面で活用できるのでその指導をお仕事としてしていきたいなと考えています。 ー最後に今後の目標等があったら教えてください。 静岡のアナウンサーといったらと「大久保結奈」という知名度をつけることが目標です。静岡のただのアナウンサーではなく、動画制作もできる唯一のアナウンサーとして色んな人に知っていただきたいと思っています。そのためにもまずは、動画制作とアナウンスの精度をあげていきたいです。現状に満足することなく、もう1回仕事を頼みたいと思ってもらえるように成長しつづけたいと思います。 ー今後の活躍を応援しています!今日はありがとうございました。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)

CREEDOはキャリアを後押しできる場。藤井蓮が株式会社ブルーブレイズ共同創業者になるまで

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は株式会社ブルーブレイズ共同創業者の藤井蓮さんにお話をお伺いしました。 大学卒業後はWebディレクターとして働かれていた藤井さんが、株式会社ブルーブレイズにジョインを決めた経緯や、現在担当されているお仕事についてお話いただきました。株式会社ブルーブレイズ代表の都築さんの過去インタビュー記事もぜひ合わせてご覧ください! 熱いLINEが共同創業者になったきっかけ ー都築さんと共同で創業された株式会社ブルーブレイズについてまずは教えてください。 ブルーブレイズではCREEDOという社会人向けOB訪問サービスを提供しています。サービス名であるCREEDOはCREED(英語で信念・志という意味) と DO(する)を合体させた造語で、「世界に100億の志を」というミッションから生まれました。 現在は社員2人という状況なので柔軟に仕事を分担していますが、私は主にCREEDO のサービスデザイン・カスタマーサポートを担当している他、CREEDO Journalというキャリアに関する情報を発信するメディアのライターも担当しています。 ーかなり幅広い業務を担当されているんですね。元々起業したいという思いはあったのでしょうか。 起業したいという思いは特になく、正直共同創業者としてやってみないかと誘われたこと自体が予想外でしたね。ちょうど社会人3年目のタイミングで人の働き方に関する仕事に就きたいと思い、組織開発や人事への転職を考えていました。その中で転職したいと思っていた企業、サイボウズ株式会社の選考に落ちたことを大学時代の友人であった都築に伝えたら、一緒に自分の挑戦に加わって欲しいという熱い長文のLINEが届いたんです(笑) ーそんな経緯で共同創業者になられたんですね。その時点では今のようなサービスを提供しようと決まっていたんですか? 元々は学生向けに動画で発信するキャリアサービス案が上がっていましたが、議論する中で学生向けではなく若手社会人向けにターゲットが変わっていきました。 創業時すぐは若手社会人にキャリアのヒントを与えるきっかけになればと思い、キャリアインタビューからはじめました。インタビューをしていく中で、熱意を持っている方達の話をユーザーさんが直接聞けた方が元気や刺激をもらえるのでは?と思い、社会人向けOB訪問サービスが加わりました。 ーサービスの反響はいかがでしょうか。 未経験で転職したかった方や、周りに異業種の知り合いがいなかった方がCREEDOを見つけてくださることが多いなと感じています。普段だとなかなか出会えない人と繋がれるプラットフォームにCREEDOがなっていることがとても嬉しいです。 また私自身も自分の経験談をCREEDOに出しているので申し込んでくださる方がいるのですが、自分の経験談を話す中で振り返りができる良い機会になっているので手前味噌ではありますが、CREEDOは相互メリットのある良いサービスだなと思っています。   誰にとっても生きやすい社会にしたい ー現在に至るまでの経緯も少しお聞きできればと思うのですが、幼少期の話なども少しお話いただけますか。 私は京都出身で10歳から東京に引っ越してきたのですが、生まれ育った京都は在日コリアンの方が多い地域でした。私は日本人の両親の元に生まれた日本人ですが、通っていた保育園はむしろ在日コリアンの方が多くて、私の方が逆に異質な環境で過ごしました。当時は特に何も気にしていませんでしたが、大学生になってから色々調べていく中で在日外国人の方が日本ではどういう立ち位置なのかを知るようになりました。 また、父が精神疾患が原因で社会復帰できていない方をサポートする精神保健福祉士として働いてました。そのため精神病についてや、精神疾患を持っている方が社会でどのような扱いを受けているかを知る機会が多くありました。同時に2歳からは母と2人暮らしだったので、母子家庭=可哀想というレッテルを貼られることが多くありました。 これらの出来事から社会的にマイノリティとされている方や差別・偏見について考える機会が多くあり、誰にとっても生きやすい社会にしたいという思いを持つようになりました。 ーそのようなバックグランドをお持ちだったんですね。 とはいいつつも、そんなに活発に活動していた幼少期ではなく、何かを作ったりするのが好きでマイペースに自分のやりたいことを見つけるタイプでした。高校に入ってから弓道部に入部したのをきっかけに、静かな陽キャから少し陽キャに変わっていったという感じですかね(笑)何かを作るのが好きという当時の感覚が、今の新しいサービスを作り上げることや、サービスデザインをしたりすることにつながっているのかなと思います。   学外に目を向けた結果、アイセックと出会う ーなるほど!大学時代はどうでしたか? 実は大学受験の時に志望校を軒並み落ちまして、最後の最後に唯一受かった東洋大学に進学しました。希望していた大学には行けませんでしたが、だからこそ大学外の活動に参加して視野を広げようと思うことができ、母の紹介で知ったのがAIESEC(アイセック)でした。 ーお母さんの紹介で、ですか? はい。母の職場にアイセックの学生が来たことがあったらしく、母に勧められました。アイセックは海外インターンシップ事業を行っており、元々海外にいくのが好きだったのもあり、海外の学生たちと出会えるのは魅力的だなとと思いました。また、新歓に行った際にお話しした先輩たちが思いを持って活動されていおり、キラキラして見えました。東洋大学にはアイセックの委員会がなかったのですが、東京大学委員会はインカレになっていることを知り、そこに入って活動をすることになりました。 ーそしてそのアイセックで都築さんとも出会うんですね! そうです!大学2年生の時に都築と一緒のプロジェクトを担当しました。タイの学生さんを受け入れて研修内容を考えたり、身の回りのサポートを一緒にしていました。タイの学生さんに限らず、同じ日本人でも考え方の違いとかがあることを気づくことができ、そんな違いを楽しみながらプロジェクトを進めていくのが面白かったです。 また、アイセックでビラ作りなども担当する中で、本格的にデザインの勉強をしたくなりデザイン会社でアシスタントとしてバイトを始めました。これも今の仕事につながっているなと感じる大学生活の中の出来事でした。   ウェブの影響力に可能性を感じて就職 ーそして就活の時期がやってきたかと思いますが、就活はどのような軸を持ってされていたんですか? デザインの勉強をしたことや、アイセックのWebサイト更新やSNS運用を担当したことがきっかけでWebの影響力を感じる機会が多くありました。幼少期の影響から、誰にとっても生きやすい社会にしたいなという思いがあったこともあり、ITやウェブに関わる部分で社会的影響力を持っている会社に就職したいと思っていました。 その中で内定をいただいたWeb制作・運用会社の株式会社メンバーズは、大手BtoC企業のWebマーケティングを支援することでで社会問題を解決していこうという思いをもっている会社だったので入社を決めました。 大学受験時は何を勉強したいかが分かっておらず、とりあえず勉強していたので志望校に行けませんでしたが、就活時は進みたい方向性が決まっていたのでその中から自分にあった会社を見つけることができてよかったなと思います。 ー実際、新卒で入社してみてどうでしたか? 最初はアパレル系企業のWebディレクターを担当させてもらいました。ECサイトのリニューアル時のサイト機能設計やサイトの更新提案や運用をしていたのですが、最後に仕様を決めるのはお客様というところにジレンマを感じることが多かったです。 それでも2年目に差し掛かるタイミングでメインディレクターを務め、初めて独り立ちしたプロジェクトで無事お客様に喜んでいただくことができたのは、自信につながりましたしやりがいも感じることができました。 ーその中で社内の女性活躍推進プロジェクトにも関わっていたとお聞きしましたが。 はい。入社後に立ち上がった社内プロジェクトで、誰にとっても生きやすい社会にしたいという思いが変わらずあったので参画していました。退社するまでの4年間、パパさん社員が時短勤務を取りやすくするためにはどうしたらいいかなどの意見交換会を開催したり、ファミリーデーの開催を企画運営したりしていました。 入社直後は男女社員の比率がほぼ半々にも関わらず女性役員がいない現状に、会社が本当に女性管理職の比率をあげたいと思っているのかと疑問に思っていましたが、このプロジェクトに参加したことで女性の活躍を推進したいという会社の想いを知ることができ、また自分自身もそこに貢献できたことが嬉しかったです。   CREEDOを必要としている人に届けたい ーそんな中、転職活動を考えたきっかけはなんだったんですか。 働いていく中でもっと、本格的に誰もが楽しく働きやすい環境を作る仕事に就きたいと思うようになりました。そして先進的な人事制度を持っているサイボウズに惹かれ、未経験でしたが人事への転職を試みました。しかし、内定をいただくことができず…。 ーそして都築さんからのメッセージが届いたんですね。 はい。2019年の5月に誘ってもらい、メンバーズと複業というかたちで関わることになりました。そして2020年1月に株式会社メンバーズを退職し、正式に役員として働くことになりました。 ー創業から関わってみてどうでしたか。 ゼロから作っていく段階は正解がなく、タイミングや運によっても事業の成功性が変わっていきます。難しいなと思いながらも、それを察知して行動していくのが楽しいなとも感じることができました。 また都築は全体像を見るのが得意で、私は細かいところに注目してみるのが得意なタイプでした。正反対なパートナーなだけあって、最初は対立することもありましたが、お互いのタイプを理解してうまく役割分担ができるようになってきたんではないかなと思います。 ー起業を経験する中で何か他に気づきなどありましたか。 インタビューをしてそれを記事に起こす過程で、意外に人の言いたいことを汲み取ったりするのが得意だと気づくことができました。また、現在毎週キャリアイベントをオンラインで開催しているのですが、そこでも話をまとめていく作業が得意かもしれないと思うようになりました。 ーこれからの目標はやはりCREEDOを更に広めていくことでしょうか。 はい。CREEDOの可能性を感じているので、これからどんどん伸ばしていきたいなと思っています。私がそのためにできることは、使ってくださっているユーザーの心情を理解することかなと思っています。CREEDOのファンになってくれた方がどういう理由で使ってくれているのか、CREEDOがどういう変化をもたらしているのかを引き続きヒアリングして、事業拡大に役立てていきたいと思います。 特に女性やマイノリティの方が日本でロールモデルに出会える機会は多いとは言えません。CREEDOを、誰もが自分の進みたいキャリアの先を行く先輩と出会える場にしていきたいです。引き続きCREEDOが必要としている人に届くよう、少しでもキャリアの後押しとなる場になるよう、広めていきたいです! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)  

学生ライターからの内定と2度の退職からわかった。自分のやりたいことのヒントは「外」ではなく自分の「内」にある。

一般的な就活は避け、学生ライターでキャリアをスタートした中野さん。26歳までに会社員、フリーランス、メディアの立ち上げなど、様々な意思決定をしてきました。 そんな彼女は、こう言いました。 自分のやりたいことやキャリアのヒントは、「外」ではなく自分の「内」にある。 決して、順風満帆なキャリアではなかった中野さん。でも、諦めずに取り組むことで、WEBメディアの編集長、フリーランスライターとして好きなことを仕事にしています。 中野笑里 / Emiri Nakano:大学3年次、WEBメディアのインターンをきっかけにフリーランスライターとしての活動開始。 卒業後はギフト系メディアの編集長として450万ユーザーのメディアに育てた後、社会人4年目の26歳でスタートアップ企業の事業部長となりメンズ美容メディアdanCe(ダンシー)を立ち上げる。社内での複業も実現し、11月からは社長室で戦略責任者も兼務。現在もフリーランス継続中で、美容ライターとして雑誌や大手サイトで執筆中。   バイトが時間の切り売りに感じ、虚無感を抱く。自己分析で書くことが好きなことに気づき、学生ライターへ ー中野さんが本格的にライターをはじめたのはいつ頃ですか?また、はじめたきっかけも知りたいです。 中野:大学3年生のときに、恋愛系メディアで2週間ほどインターンを経験しました。記事の書き方やGoogle Analyticsの使い方など基礎的なことを学びました。 ただ、単価が安かったので時給換算したら500円ほどで。もう少し条件がいいメディアで書きたいと思っていたときに、編集長からお声がけいただいて。はじめよりも好条件だったので、お世話になっていた恋愛系メディアで本格的にライターを始めました。 ー3年生になって、恋愛系のメディアでライターとして始めたわけじゃないですか。やろうと思ったのはどういうきっかけだったんですか? 中野:1、2年生で初めてレジ打ちのバイトを始めました。ただ、バイトの時間がすごく虚無で、時間の切り売りに感じたんです。 あるとき「私が今後したいことって何だろう?」と自己分析をしてみたんです。すると「書くことが好き」ということに気づいて。思えば、高校時代にブログ運営をしていましたし、小学校6年間は毎日日記を書いていました。 であれば、書くことを仕事にできたら幸せだなと思い、「ライター アルバイト」や「ライター インターン」で検索して、ライターインターンに辿り着きました。   自分が納得しないと動けない。一般的な就活への反骨心 ー3年生からライターを開始して、収益も出ていたんですよね。中野さんなら「新卒フリーランス」もありだったと思いますが、就職を選んだ理由はありますか? 中野:たしかに「フリーランスもありだな」とは思っていました。でもちょうど、たまたま登録していた逆求人サービスで企業からオファーが届いたんです。当時私が興味を持っていた保育事業を始めるということで、「それなら私も一緒にやりたいな」と思い入社しました。就活と言えないほど、完全に受け身でしたね。 ーすごい縁ですね。周りが就活モードの中、インターンや企業説明会からはじまる「ザ・就活」はしてなかったんですか? 中野:しませんでした。正直、一般的な就活が異様に思えてしまって。 3年の12月頃に就活が解禁されて、リクルートスーツで身をまとい、一斉に企業説明会に行きはじめますよね。それぞれのタイミングが必ずあるはずなのに、「何でみんな突然一斉に始めるんだろう?」と、疑問に思いました。 周りの友達も、本を読みながら「こう聞かれたらこう答える」と準備していて、内定を取るためのノウハウも、たくさん出回っていますよね。「丸暗記で内定獲得!」みたいな。 でも「それって本質的じゃないな」と感じてしまったんです。自分の将来やキャリアを話すのに、画一的な模範解答はないはずですよね。 今思えば、普通の就活をしなかったのは自分に向いていないのと、「既存の就活スタイルへの反抗心」があったのだと思います。 ー3年生から本質を捉えていてすごい......。周りの目がある中で、自分の意見を貫けた理由は何でしたか? 中野:昔から家族や学校に、何かを強いられるのがすごく苦手でした。自分で納得しないと、動けないんです。また、常に堂々としていて目立つこともあり、周りから浮くことがあっても、別に気にしないんです。 ー鋼のメンタルですね(笑) 中野:そうですね(笑)今、就職先を決める必要はない。私のタイミングで決めよう、と思っていましたね。   携わりたかった事業が白紙になり、新卒2ヶ月目で退社。フリーランスへの挑戦 大学4年12月から契約社員で入社したはいいものの、実はすぐに退社してしましました。 保育事業をすると聞いて入ったのですが結局白紙になってしまい、またスタートアップのベンチャーということもあって激務で。 ーそれは災難でしたね......。受け身で就活していたとのことでしたが、後悔はしていますか? 中野:大変なこともありましたが、あれはあれで必要な経験だったと思います。流されながら決めるのではなく、きちんと就職先を見定めるのが大事なんだな、と思いました。 ー急にフリーランスとなってしまいましたが、独立初月から稼げましたか? 中野:初月は打ち合わせが多かったのですが、Facebookで「これからフリーランス一本です!」と報告してから、いろんな縁や繋がりに恵まれました。 ちょうどメディアが流行り始めた時期ということもあり、だんだんライターの依頼も増えるようになりました。鉄板焼きでアルバイトも同時にしていたんですが、独立2、3ヶ月目からはライターの仕事も忙しくなり、ライター一本で仕事しました。   リスペクトフルなメンバーとの出会い。メディアの波が来ると確信 ーフリーライターの期間が半年でしたよね。何かきっかけがあったのですか? 中野:学生時代の繋がりから、ギフト専門のメディアが立ち上がったことを知ったんです。もともとお祝い事やプレゼントが大好きで、そこでたまたまライターの募集があったので、すぐに面談し、ライターアルバイトとして入社しました。 実は、はじめは社員として入社するまでの覚悟はありませんでした。単純に素敵なサービスに携われたらいいな、という気持ちでした。 ーなるほど。でも、そこから入社されたんですよね? 中野:そうなんです。ライターとして出社して記事を書いていたのですが、仕事が楽しくて、週2日出社だったのが気づいたら週5日も出社していました。 その間ずっと記事を書いていたのですが「このメディアで他の仕事もしてみたい、深く関わりたい」と思うようになり、ちょうどそのとき「社員になってみない?」とお声がけいただいたので、社員になることを決めました。 ーここも素敵なご縁でしたね。入社の決め手は何でしたか? 中野:一緒に働いている方へのリスペクトですね。「この人たちとこの先も働けたら楽しいし、絶対成長出来る」と確信できたのが、一番大きかったです。 また、当時私は雑誌をメインに仕事をしていたのですが、多くの出版社が少しずつWEBにシフトしていて。 そのとき、メディア運営やWEBにおける編集・ライティング力をつけるのは必須だなと確信しました。正社員としてメディア運営にコミットして力を付けることで、今後のキャリアにも役に立てようと思いました。   尊敬していた上司の退社による退社。メンズ美容メディア 『danCe』を立ち上げる ー中野さんが働かれていたギフトメディア、去年すごい伸びましたよね。累計利用3000万UU・月間利用480万UU。ライターのスキルと、編集や企画、WEBメディアのプロデューサースキルは、似て非なるものじゃないですか。成果出すためにどんなことを意識していましたか? 中野:メディアが伝えたいことを把握し、文章で表現するのがライターだと思っています。一方で編集は、メディアの企画や数値改善、ライター育成のコミュニケーション、マニュアル整備など、多種多様なスキルとそれらを俯瞰して見る視点が必要となります。 この編集のマルチタスクさはフリーランスの働き方とも似ていて、すんなり受け入れることができたんです。 最初は大変だと思うこともありましたが、日々の積み重ねで、結果的に編集やメディア運営のスキルを身につけていけたのだと思います。 ーなるほど。ギフトメディアでは編集長もされていましたよね。順調にキャリアを歩まれている中で、キャリアを変更したきっかけは何でしたか? 中野:色々あったのですが、一番大きいのは尊敬していた上司が退職したことですね。残った上層部と私の意向には決定的な違いもあったので、すぐに別の道を考えました。 ギフトメディアを退いてから、尊敬してた上司と私を含め3人で、新しいサービスを作りました。その後、もともとフリーランスで関わっていたスタートアップ企業位に入社し、メンズ美容のメディア 「danCe」を立ち上げました。 ー今回は今までとは違って、男性向けの美容メディア。どんなコンセプトなんですか? 中野:danCeの運営会社が、元々LIVE配信やタレントをしているかっこいい男性を囲っている企業と繋がりがありました。「その男性たちを活かして何か出来ないか」というお話があり、一つのアイデアとしてメディアが立ち上がりました。私は今まで美容全般について執筆や編集で携わってきたのですが、想像以上に「メンズ美容」の市場は大きく、スピード感があったんです。 danCeは編集長の私もライターもほとんどが女性で、「女性発信でカッコいいを語る」をコンセプトとしています。 ー面白いですね!あえて全員女性にしているんですか? 中野:そうですね。多くのメディアではかっこいい男性が出てきて「かっこよさ」を語ることが多いと思うのですが、時に上から感じたり、「自分にはできなさそう......」と思われることもあると思うんです。 女性目線でかっこいい男性を語ることで、その隔たりをなくしたいなと。上からではなく横からを意識し、男性美容に寄り添うメディアを展開したいですね。   自分がやっていきたい答えは、「”外”ではなく自分の”内”」にある ーここまでありがとうございました。今後の方向性や、やりたい仕事の軸ってありますか? 中野:今、二つ考えています。一つは「女性の働き方」に関わりたいです。卒論で食育をテーマに書いたのですが、子供の食の認識には家庭内の食事が大きく関わっていて。また、そこには母親の働き方もかなり密接に関わっていたんですよね。 もちろん十人十色の答えがありますが、「現代における最適な女性の働き方ってどうなんだろう?」と、フラットに考えつづけたいです。 もう一つは「子供」です。新卒の会社を辞めてフリーランスになったときに自己分析した結果、子供に関わる社会福祉に興味があることがわかったんです。子供の貧困に問題意識を持っているので「どうにかしたい」という気持ちがあって。 子供をきちんと自分事にしてから関わりたいので、タイミングとしては私が出産を経てからだなと思っています。 この二つは、今後のキャリアで必ず携わりたいです。もしかすると、美容よりも興味が強いかもしれないです。 ー意外な軸でした。いろいろとキャリアで模索した中野さんですが、U-29世代に伝えたいことってありますか? 中野:「答えは”外”ではなく、自分の”内”にある」と伝えたいですね。 たとえば、将来どんな仕事をしようかなと就活を考えたら、エージェントや就活本などがたくさんありますよね。でも、就活は自分の進路を決めることなので、答えは絶対外ではなく内(自分の中)にあると思っています。徹底的に自己分析をして、自分がやりたいことを探してほしいです。 また自分のやっていることに納得していないと、その仕事で成果を出すことは難しくなります。成果が出せないとやりがいも感じず、負のループになってしまう。自分が納得する道を歩むために自分の考えを深掘りして「何が好きか」や「何をやりたいか」を明確にしてほしいです。 もちろん、その場で見つからないこともあると思っています。それでも立ち止まらず、諦めずにやってほしいですね。数ヶ月や半年後では、見える世界が全然変わってくると思うので。   取材・編集:西村創一朗 執筆:ヌイ 撮影:山崎貴大

ビジネスと研究を接続する。自学自習をテーマにした、博士課程CEOの挑戦

「ビジネスと研究は相容れないもの」そう思われる方は多いのではないでしょうか。しかし、ビジネスと研究の二足のわらじを履く方もいらっしゃるんです。  色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ第40回目は、修士1年で株式会社パラリアを設立し、博士課程として研究しながら、CEOとして働く浅見貴則(あさみたかのり)さんにインタビュー。 経営者でもありながら、博士課程の学生でもある浅見さん。どのように、異なる肩書きを持つようになったのか。起業までの紆余曲折と、研究・事業への想いをお聞きしました。  努力のやり方が下手だったからこそ、自学自習の大切さに気付いた ― 学習塾を経営しながら、博士課程で研究もなさっているんですよね。 そうですね、珍しい選択だと思います。少し特殊な環境だから出来ているキャリアですけどね。 大学では、学習環境に関する研究をしています。なので、経営している塾がそのまま研究対象になるといいますか。生徒がどんな風に勉強しているか観察して、仮説を立てて、少し環境を変えてみる。そして、また観察して分かったことを教授に見せに行く、というサイクルですね。 ― どのようなテーマの研究なんですか? 塾の方針も含めて、キーワードは「自学自習」です。どのような環境だったらストレスなく自ら勉強できるか、が大きなテーマになります。 その実験の一環で、高校生の勉強環境を網羅したいと思って、塾では3スペース用意しているんです。 ― 珍しいですね。3つも。 一つは、よくある個人ブースのような形で、無音で勉強できるスペース。二つ目は、カフェのようにBGMが流れていて、ある程度の音が許容される環境。三つ目は、完全にリラックスできるような環境です。冷蔵庫とかウォーキングマシンがあったり、休むためのスペースですね。  生徒はこの3つのスペースを自由に行き来できるようになっていて、そこでの過ごし方を研究しているような形です。 ― 塾が研究所のようになっているんですね。学習塾を経営しようと思ったのは、研究心からだったんですか? 元々は研究にも仕事にもする気はなくて、単純な興味だったんですよ。自分の大学受験の失敗が大元のきっかけです。 勉強って、やればある程度出来るものだと思っていたんですけど、全然上手くいかなくて。努力を成果につなげるには、正しい努力が必要なんだな、と実感したんです。そこから、「自分で考えること」に興味を持ち始めました。 ― 受験当時は間違った努力をしていたんですね。 当時は気付けなかったですけどね。僕、自他ともに認める真面目な生徒で、学校の成績は良かったんですよ。でも、模試の結果はいつも悪い。 今思えば、頑張り方がひどかっただけなんですけど、周りは励ましてくれるんですよ。「お前は真面目にやってるから大丈夫!」って。僕もやってきたことが間違っているとは認めたくないから、励ましを信じて頑張ったけど、結局成績は伸びなかった。 不合格の結果が出て初めて、自分のやり方は間違っていたんだ、と気付きましたね。 ― そこから、どうやって勉強法を学んでいったんですか? 浪人中に通っていた塾で、とある数学の先生と出会ったんです。かなりのおじいちゃん先生で、授業の仕方も昔ながらだったので、生徒受けは悪かったんですけど、めちゃくちゃ頭が良くて。「なんでこんな数式思いつくの!?」っていう解法で答えを出したり。 量で誤魔化していた僕とは正反対だ、この先生の考え方を知りたいと思って、その先生に弟子入りしたんです。そこで、何十年のキャリアの中から、教えてきたことや教え子の話を聞くにつれて、思考のレベルが一段上がった感じはありました。 ― これは本当にためになった、と思う教えとかってありました?  僕、計算ミスをしてしまうタイプだったんですけど、それを相談したときに「計算ミスをしないためには計算をしないことだ」って言われて。それしか言ってくれないので、もはや禅問答ですよね(笑)。 要は、計算ミスしがちな複雑な解法をしている時点で間違っている、ということだったんです。自分でそこに辿り着いたときは、視界がクリアになった感じでした。 ― その先生に視点を引き上げてもらったんですね。 しかも、思考のレベルが上がると、数学以外の教科の成績も上がるんですよ。面白いですよね、考え方一つでここまで変わるなんて。 この実体験で感じたことは、いま生徒と接する中でも大切にしていることかもしれません。 人生を変えられる人になりたい。偶然の出会いから、起業が自分ごとに 自学自習や大学受験に興味はありましたけど、別に仕事にしようとは思っていなかったんです。経営工学を専門に選んだのも、いつかやりたいことが見つかったときに役に立つ、という理由だったので、起業を考えてもいませんでした。 ― そこから、起業に傾いたきっかけはあったんですか?  本当に偶然なんですけど、SNSで知り合った人とご飯に行く機会があって、経営工学を選んだ理由を話していたんですね。そうしたら、その人が何を勘違いしたのか「あ、じゃあ社長やりたいんだね!」って捉えちゃって。 「知り合いに学生で社長やってる人いるから紹介するよ!」って、その場で電話し始めたんですよ。僕、コミュ障なので、電話を制することもできず、そのまま会う予定が決まっちゃうっていう(笑)。 ― おぉ、急展開ですね……。  ここで会わないのもな、と思って、その社長さんと会ったんですけど、その人が物静かな感じの人で僕と波長が似ていたんですよね。社長って、何となくタフでエネルギーに満ちている人、っていうイメージだったんですけど、こんな人でも出来るんだって、急に身近なものに感じたんです。 そこから起業に少し興味が湧き出して、つないでもらって色んな方とお話するようになりました。 ― 起業が一気に自分ごとになったわけですね。  でも、そうやって話しているうちに僕と同い年の人が出てきたんです。同い年で、会社持ってます、って。その人と話したときに、「俺、完全に遅れてるな」と焦りを覚えたんです。本当は、勝ち負けの話ではないんですけど。 そこで、人と会うのをパタっと止めて、自分は何がしたいんだ、ということをひたすら突き詰める時間にして。そこから2ヶ月ほど考えた末に、自学自習に関することを仕事にしたいと思ったんです。 ― そこで、勉強に関することに行き着いたのはなぜでしょう?  僕を変えてくれた先生が頭にあったから、だと思います。周りになんと言われていても、僕の人生を変えてくれましたから。地位とか名誉よりも、そういう人生を変えられる人がカッコイイ、そういう人になりたいと思いました。 まさかの借金100万円。試行錯誤を経て起業へ  ― 方向性が見えてからは、順風満帆だったんでしょうか? いや、もう全然です(笑)。起業しようと思ったものの、情報が全くないので、まずは勉強しようと思って色々調べたんです。  初めて知りましたけど、世の中には起業塾みたいなものがいっぱいあるんですね。そこの営業を受けて、「社長やるならお金の知識がないとダメだよね」「営業力もないといけないよね」と不安に煽られるように、講座をいっぱい受けるようになって。 今思えば、思考停止で動いていただけなんですけどね。そこで借金が膨らんじゃいまして。 ― どれくらいまで?  100万ちょいまでいきました。 ― 学生としてはかなりの高額借金ですね……。そこからどうしたんですか?  そんな状況だったので、友達の誘いを断り続けていたんですけど、ふと「あれ、俺なにやってるんだろう」って我に返ったんです。塾をやりたかったはずなのに、何で人間関係を犠牲にしてまで、飛び込み営業の訓練やってるんだ、また頑張り方間違えてるぞ、って。 我に返ってからは早かったですね。まず借金を返すため、今までの活動時間を全部バイトに充てて、半年くらいで返し終わりました。その後は、軸を見失ったことを反省して、すごいと思う人に僕から教えを請おうと。そこで、一番最初に会った社長に「お金は払うので、色々教えて下さい」と頼んで、受験ノウハウのブログを書き始めたりしました。 ブログからオフラインでのセミナーや、オリジナル教材の販売に繋がったりして、大学4年の頃から軌道に乗り始めましたね。 ―  軸が定まってからは一気に。  やっぱり心から反省したのは大きかったですね。バイト中も、借金返し終わってからやりたいことをずっと考えていたので、軸をブラさずに一気にシフトチェンジできましたし。 ― では、その活動が軌道に乗って起業に至ったんですか?  実は、もうひと山あるんです(笑)。ブログやセミナーで稼げるようにはなったんですけど、修士1年のときにやる気がなくなってしまって。 土台はできているので、あとはブログ発信などをやり続けるだけなんですけど、全然気が乗らず、「このままでいいのか…?」と悩み始めてしまったんです。 ― またもや見失ってしまったんですね。  今回は悩み抜いても答えが全然見つからなくて。それが修士1年の冬だったので、これは自分の挑戦はバッドエンドとして終わって、就活するしかないのかな、と思っていたんです。 でも、そんなときに紹介で、パラリア共同創業者の先生方とお会いして。「生徒にとって、ストレスフリーに勉強することが一番良い」という考え方が一緒だったんですよね。そこで盛り上がって、「新しく塾を開きたいと思っていたから、一緒にやらないか」と誘ってもらえたんです。 「俺の挑戦がバッドエンドで終わらずに済む!」とも思っていましたが、本当にやりたいことでもあったので、ぜひ、と。ようやく、経営者でもあり学生でもある、という肩書きの始まりですね。 ― 紆余曲折を経ての起業だったんですね。卒業後、経営者一本でやっていこうとはしなかったんですか?  博士課程への進学はかなり悩んだんですけど、修士卒でそのまま経営者になると「ただの経営者」でしかないんですよ。 それだったら、博士課程に進学して、とことん自学自習を深堀りしてやろうと思ったんです。博士課程と経営者を両立している人は少ないですからね。自分の挑戦としては申し分ないな、と。 ライバルは高校生なんです。博士課程CEOの挑戦 ― 実際、学生さんを見ていていかがですか?  やっぱり、主体的に勉強する姿は気持ちがいいですよね。そこでのストレスがないから、結果的に勉強以外でも活き活きしてくれますし。 ― 主体性や自主性に寄り添う塾なんて、なかなかないですもんね。  ただ教えるだけでは見つけられない、その子の想いを知れるのは良い点だと思います。例えば、なかなか成績が上がらず、個人塾を転々としていた学生さんがいたんですけど、その子、実はめちゃくちゃ魚が好きなんですよ。 ― 魚?  魚の学術書を図書館に自分で申請して、休み時間も読んでいるくらい。たまたまそれを知ったときに、その興味を応援したことがあって。知り合いの財団が、若い人に研究費あげたいけれど候補がいない、と困っていたので、「研究計画作って出してみようよ」って一緒に計画を作ったんです。 そうしたら、見事に研究費をとれまして。その子の家が水槽だらけになるっていう(笑)。 ― え、めちゃくちゃすごいじゃないですか!  普通に塾に行ってたら、そんな興味を知ることも後押ししてあげることもないですからね。しかも、結果的に勉強するんですよ、魚のことを知ろうとしたら。数字も知らないといけないし、論文を読むには英語を勉強しないといけないし。 受験勉強においても、「この研究室に入りたいから、受験勉強を頑張る」って思考のレベルが一個上がるというか。勉強が目的じゃなくて手段になっているので、主体的に勉強してくれるんです。 ― 良いサイクルですね。やらされ感がなくなりそう。  そうやって生き生きしている生徒を見ていると、どんな場面でも主体性って大事なんだな、と思いますね。  よく「どうやったら自分の興味が見つかりますか?」って社会人の方からも聞かれますけど、大抵の場合は興味を自分の手で殺しているだけなんですよ。 ― 興味を殺している?  どこかで「これが好きだけど仕事にならないし」とか「これで食ってはいけないし」とか、社会性にかこつけて諦めてしまっているんです。 それが悪いわけではないですけど、諦めていることに気付いてない人も多いですからね。答えは自分の中にあるのに、外に答えを求めて空回りしちゃう。 ― 確かに……。興味を探している人に限って、「現実的じゃない」と諦めている人は多いかもしれません。 こんな偉そうなこと言っていますが、僕も頑張らないと。僕、ライバルは高校生だと思っているんです。  ― 高校生がライバルなんですか?  大学受験って、今までしたことないくらいの努力をする時期だと思うんです。そういう子たちを見ているので、この子たちに負けないくらい頑張らないとな、って。 自学自習というテーマは永遠だと思っているので、その軸だけはもうブラさずに。毎年新しく入ってくる生徒たちに、「この人すげえ」って思われるような努力をしていきたいですね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる ===== 取材:山崎貴大 写真・文:安久都智史 デザイン:矢野拓実

全ては思い出作り?新卒フリーランス・石田一眞が選んだ働き方

色々なキャリアの人たちが集まり、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。本日は新卒フリーランスとして組織コーチングをされている石田一眞さんにお話を伺いました。 京都大学を卒業後、就職ではなくフリーランスを選んだ理由は「旅」だったという石田さん。新卒1年目は借金を抱え苦労しながらも、現在は仕事もプライベートも全力で楽しまれている石田さんにそこまでに至る経緯や原動力についてお聞きしました! フリーランスか風俗店経営者か船長か ーまずは新卒からフリーランスを選ばれた理由を教えてください。 旅が好きだったので、仕事をしながら月1回は1週間くらいどこかに旅に行きたいと思っていました。企業に就職したらさすがにそれは難しいかなと思ったんです。フリーランスであれば場所も時間も問わずに働くことができるのでぴったりだと思いました。 ーその他の選択肢は考えなかったんでしょうか。 仕事をしながら旅ができる職種という点では風俗店の経営と船長も選択肢に上がっていました。経営者でもよかったんですが社長が遊んでばっかりだとダメかなと思い、風俗店の社長なら多少遊んでも文句を言われないかな…というところがありました。また、船長の場合、数ヶ月海の上で働いたら1ヶ月丸々お休みという働き方なので旅にいけるなと考えました。普通に就職も選択肢の1つとしては一応あったので就活もしていて、内定もいただいていました。 ーその中でフリーランスを選んだ決め手は何だったんですか。 旅するように生きる“とは自分の中で①時間②お金③人間関係④やりがいの4ジャンルにおいてストレスなく自己決定できることにありました。この4つの領域において最も理想的な生き方がフリーランスであり、今のすごい会議という仕事でした。 ーすごい会議についても教えていただけますか。 すごい会議はフランチャイズビジネスになります。ビジネス内容としては組織コンサルティングです。企業の経営会議に入り、ファシリテーションをして企業が持つ課題の解決をサポートします。組織はこうあるべきというのを頭では分かってはいても、それが実際に全て実践されている組織は多くありません。それを確実に実行できるように仕組みを作り、サポートするのが主な仕事内容です。 ーすごい会議はどのように知ったんですか。 代表の本を読んだのがきっかけです。大学生の時に学生団体を運営していたんですがメンバーのモチベーションをあげたり、うまくまとめるのに苦労していた時に代表の本に出会いました。その後、知り合いのツテで代表に会わせていただきました。 すごい会議は人を変えていくすごい力を持っています。短期間で人の可能性が広がるのをみて、人の成長を目の当たりにできるとてもやりがいのある仕事だと思いジョインしました。 人生のゴールは笑って死ぬこと ー社会人4年目にしてすでに順風満帆という感じがしますが、いかがでしょうか。 そうですね…自分の人生のゴールは笑って死ぬことだと思っています。よく言われる「人生は暇つぶし」ですね。なので例え失敗してもそれは笑って死ぬまでのプロセスでしかないと考えるようにしています。 ーということはこれまで挫折も多くあったんでしょうか。 小さい頃は勉強もできてスポーツもできたので自分は最強だと思ってました(笑)でも大学受験の時に、上には上がいるということ、努力では到底敵わない人が世の中にはいることを知りました。 ー大学受験は挫折経験になったんですか。 結果的に志望校であった京都大学に受かったので大学受験自体は挫折経験という訳ではありませんが、合格までの道のりはかなり辛く自分の中では挫折かなと思います。友達と3人で京都大学を目指していたんですが、自分だけずっと模試がE判定でそれまでめちゃくちゃ高かった自己肯定感がその時にどん底に下がりました。 ーその中でどのようにモチベーションを維持されたんですか。 「模試の結果が悪いということはできない問題にたくさん出会えているということだからむしろラッキーだよ」と三者面談の時に先生に言われた言葉がモチベーションになりました。その言葉で、模試の点数が悪いということは得しているのか!と切り替えることができました。 結局センター試験も失敗してしまったんですがその時も「センターでうまくいってたらこの後油断してしまうところだったからちょうどよかった〜」と思いながら1ヶ月で過去問を38年分解きました。結果的に合格最低点+3点で合格し、無事友達と一緒に京都大学に入学することができました。 ーものすごいポジティブ変換ですね…!大学生活はいかがでしたか。 入学してすぐはバーンアウト状態でした。高校時代は陸上部に所属していたので陸上と勉強を常に全力で取り組んでいたのが、大学に入ってからは何を頑張っていいのか分からなくなったんです。これまで人に負けたくないというのがモチベーションになっていたんですがサークルとかには勝ち負けもなかったので… 幸せは物ではなく経験で決まる ー受験勉強に全力だった人によくある傾向なのかもしれませんね。そこからどうやって切り替えられたんですか。 安直ではありますが、海外に行ったら何か見つかるかなと思い旅に出るようになりました。その中で出会った日本人が、今まで出会ったことのないような社会人でその人みたいに人の目を気にせず好きに生きていこうとまた前向きに考えられるようになりました。 ーその出会った日本人はどんな方だったんですか。 音楽で食べていきたい!と言ってギターを持って訪れたニューヨークは寒すぎて帰国。暑い国と思って訪れたカンボジアではクメール語を習得し、その後訪れたオーストラリアでは着いてすぐにギターを盗まれてしまい代わりに現地の弦楽器をもらって路上パフォーマンスで生活。日本に帰国後は代々木公園でホームレスをしながら路上パフォーマンスをして生活したという面白い方でした。 ーそれはなかなか強烈ですね。そこから働きながら旅をしたいと思うくらい旅好きに? はい。大学時代は南極以外の全大陸を制覇し、30か国くらい旅しました。特にカンボジアは好きで何度も行っています。カンボジアは引越しする際、家を持ち上げて運び家ごと引越しする面白い文化がある国なんです。また、たまたまカンボジアで会ったNPOの方に老朽化した学校を立て直して欲しいと言われ、1年で200万円ほどお金を集めてカンボジアに学校を建てたりもしました。 ーその200万円はどうやって集められたんですか? いろんなイベントを企画してビジネスとして利益をだしました。島起こしイベントとして島で水鉄砲を使ったサバイバルゲームイベントを企画したり、欧米で当時流行っていたバブルサッカーを持ってきてイベントを開催したりしました。やりたいなと思ったこと、面白そうと思ったことをイベント化して企画運営していました。 その過程で自分にとって幸せは物ではなく経験で決まるなということがわかりました。カンボジアに学校を建てれて幸せだと感じましたが、それは同じ目的を持った人と一緒に何かをできたからだったんです。それ以来、思い出の数が人生の質を決めると思うようになりました。 仕事もプライベートも思い出作り ーその後、大学を卒業しフリーランスになられていかがでしたか。 初めの半年は全然売れず260万円くらいの借金を抱えてしまいました。自分のやり方でやろうとしても売れなかったので、売れている人の営業トークを真似してみたところ初めて契約をもらうことができ、だんだんと成果がでてくるようになりました。 ー借金ができてしまうと諦めて就職も考えたりしてしまうと思うんですが、それでもなぜ頑張り続けられたんでしょうか。 実は73回目の営業で初めて契約をもらえたんですが、100回営業してもだめだったら心が折れていたかもしれません(笑)万が一、無職になっても地元に帰って塾を開こうとくらいに思っていましたね。 ー旅をするためにフリーランスを選ばれたとのことですが実際旅には行けていますか? 初めの2年は休まず働いていたので旅には行けなかったです。軌道にのってからは休みも取れるようになったので旅にも行くようになりました。旅先での出会いが仕事に繋がったこともあって嬉しかったです。仕事が好きで全く仕事をしない日は正直ありません。なのである意味毎日働いているような感覚ですが、自分でスケジュールを決めることができるので今の働き方は自分にとても合っています。 ーそれではプライベートも充実させられているんですね。 はい。アフリカにある世界一暑い国、ジプチへ行ってダウンジャケットを100着販売するチャレンジをしたり、トライアスロンをしたり、プレゼン合コン(自分をプレゼンする合コン)などのイベントを開催したり、とプライベートも充実しています。 ー面白いことにいろいろ取り組まれていますね! 好きな人たちと一緒に共通の目的を持って試行錯誤するのが楽しくて幸せなので! それをネタに飲み会で楽しく盛り上がれるかどうかを基準に面白そうなことはなんでも思い出作りだと思ってやっています。 ーこれから思い出作りとして挑戦したいことや、仕事での展望などはありますか? プライベートでは砂漠のサバイバルレースと言われているサハラマラソンに挑戦したいです。あとは南極マラソンにもいつか挑戦したいと思っています。仕事に関していうと、すごい会議はこれからもずっと続けていきたいと思っています。長期的な目標でいうと教育期間やNPOの生産性をあげるサポートをしていきたいです。 ーありがとうございます。今後の石田さんのご活躍を応援しています!   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)

『U-29 Career Conference』イベントレポート | 澤円、飯髙 悠太、三川夏代ー3人のビジネスマンのキャリア選択と価値観

ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ型メディア「U-29.com」が主催するイベント『U-29 Career Conference』がオンラインで開催されました。   変化の激しい現代、明確な正解と言えるものはなくなり、一人ひとりが「自分が納得できる」道を歩むことが大切になってきています。 今回の『U-29 Career Conference』では、様々な世代、様々な分野のトップランナーによるこれからの時代を生きていくうえで大切なこと、今に至るまでの経験や大切にしていた価値観などをお話いただきます。 自分なりの道を見つける為の、気づきや学び、新しい価値観に出会う時間を、ぜひお過ごしください。 ー代表・西村創一朗からのメッセージ   今回は、ユニークなキャリアを開拓してきた3名のゲストをお招きし、独自の仕事への姿勢と、その土台にある自分の人生との向き合い方についてトークを展開していただきました。   澤 円 株式会社圓窓 代表取締役 立教大学経済学部卒。生命保険のIT子会社勤務を経て、1997年、外資系大手IT企業に転職。 ITコンサルタントやプリセールスエンジニアとしてキャリアを積んだのち、2006年にマネジメントに職掌転換。幅広いテクノロジー領域の啓蒙活動を行うのと並行して、サイバー犯罪対応チームの日本サテライト責任者を兼任。現在は、数多くのスタートアップの顧問やアドバイザを兼任し、グローバル人材育成に注力している。 琉球大学客員教授。   飯髙 悠太 株式会社ホットリンク 執行役員CMO 2014年4月株式会社ベーシックに入社。ferretを立ち上げ、創刊編集長に就任。2017年 株式会社ベーシックの執行役員に就任。2019年1月に株式会社ホットリンクに入社し、4月より執行役員CMOに就任。 これまでに複数のWebサービスやメディアの立ち上げ・東証1部上場企業を含め100社以上のコンサルティングを経験。著書に「僕らはSNSでモノを買う(ディスカヴァー・トゥエンティワン)」。   三川 夏代 株式会社bosyu 複業でデジマ支援,事業開発 広告代理店にて8年間、SNSを中心としたデジタルマーケティング戦略や企画を立案・実行。同時にWebメディア「kakeru」の編集長も経験。 現在は株式会社bosyuで週3正社員をしながら複業でブランディング戦略や新規事業サポートなども務める。 NHKニュース番組「シブゴジ!」やフジテレビ「ノンストップ!」出演、Twitter Japan「#はじめてのTwitter動画広告」のモデレーターも務める。   強みを活かせなくても、得られるものがあればいい ーまずはじめに、それぞれのファーストキャリアの選択についてお聞きしたいです。 澤円さん(以下、澤):私は現在、50代です。就活していた頃なんて、まだインターネットが普及していませんでした。1990年代はバブルが弾ける前だったので、就活は楽勝。面接に行けば受かる、というレベルでした。なんの考えもなしに就活に臨んで、生命保険会社の内定をもらいます。でも、何かが違うな、と。それは就職ではなく「就社」だと感じたんです。     結局、大学4年の12月というぎりぎりの時期に内定を断りました。そして、「何かになりたい」「”職”に就きたい」という思いと、マイノリティ戦略で理系の就職先を大慌てで探します。文系の大学生だったのでコンピューターの知識もなかったのですが、SEを志し、第一生命の子会社で情報システムを扱う会社に就職しました。   ー当時はSEとしてご活躍されていたのでしょうか? 澤:ポンコツエンジニアでしたよ。適性診断を受けても、ことごとく向いていないと言われるくらい。それでも、得られるものがあればいいんです。私は、キャリアの上で、必ずしも自分の強みを活かす選択をしなくてもいい、ということを証明しています。苦労はするかもしれませんが、それが後々の仕事につながっていくんです。   ーその後、インターネットの普及が始まったんですね? 澤:就職したのが1993年、そして、1995年にWindows95が発売されました。それまで誰もインターネットに触れてきていませんでしたし、コンピューターを個人が持つなんて想像もされていませんでした。時代が、リセットされたんです。全人類がインターネット初心者になりました。時代が新しくなる、というのは、すなわちチャンスが溢れているということ。社内ではポンコツエンジニアでも、社会的に見ればSEは最先端の職業だったんです。   ー時代の変わり目というのは、今にも通ずる部分があると思います。     澤:そうですね、今まさに、時代の潮目がきているでしょう。誰も体験したことない時代が始まります。キャリアを変えたいという人には、ちょうどいいタイミングなのではないでしょうか。リセットというのは、誰かが決めるんじゃなくて、自分が決めるものです。   辛い経験があって、1件のアポのありがたさが分かる ー飯髙さんといえば、マーケティングという印象が強いかと思いますが、最初は営業職だったそうですね。 飯髙悠太さん(以下、飯髙):澤さんの就活のタイミングと違って、僕の就活時はリーマンショックと重なっていました。それでも、大学時代にはよく海外に行っていたので、その話をするととてもウケが良く、内定は複数いただいていましたね。     ずっとサッカーをやっていて、大学時代も遊んでいて、将来像はふわっとしか描けていなかったものの、漠然と「ITを仕事にしたい」とは思っていたんです。だけど結局、IT関連の会社の内定を断り、秋採用で人材紹介会社に就職しました。   ーそれはどうしてでしょうか? 飯髙:一番辛い選択をしよう、と思ったんです。「そこに1年、身を置いたらどうなるんだろう?」と考えていました。スタート地点は遅れてしまうかもしれませんが、「1日200件のテレアポ、100件の飛び込み」を経験した後の方が、仕事を知っているだろうという判断でした。 実際に、「駅前で名刺100枚配るまで、帰ってくるな!」と言われるような環境下で仕事をすることになり…。結局は半年でIT業界に転職します。   ー敢えてしんどい道を選ばれて、得たものはなんでしたか? 飯髙:200件のテレアポで1件のアポにつながればいい、というような世界に身を置いたことで、ひとつのリード、1件のアポのありがたみを今でも感じています。現在はネットを利用して、自動的にリードが獲得できますよね。そうなっているのには、誰かが作用しているはずなんです。そこへの感謝の気持ちは変わりません。それを忘れないように、メンバーにも大事さを伝えています。     また、非効率的な営業活動を重ねて、実際に仕事をとれた経験から、結局人なんだなということも感じています。BtoBマーケは基本的に分業制ですが、クライアント様から見たら一部を担う人が全体として捉えられているかもしれないと意識しています。   自分の裁量で時間を使いたい ー三川さんは、新卒からITの道に進まれたんですね。 三川夏代さん(以下、三川):広告代理店へ憧れがありました。関西の大学に通っていたのですが、そのときに謎解きゲームを提供する会社でアルバイトをしていたんです。業務内容は、謎作り(笑)そこで、自分が携わったゲームで、スーツを着た大人が大はしゃぎしている光景に心を奪われました。場所があり、空間を演出すると、人は物語に入れる…「これ、面白いじゃん!」って。そうして広告業界を志すようになったんです。 私が就活をしていたのは、FacebookやTwitterが台頭し出した時期でした。まだ企業アカウントという存在すらありませんでしたが、なんとなく「SNSを利用して、新しいビジネスが生まれるのでは?」というワクワク感のようなものがあって、チャンスに見えていたんです。ここで面白いことが仕掛けられれば、世界の創造主になれるかもしれないぞ、と。   ー澤さんはネット時代、そして三川さんはSNS時代の幕開けとファーストキャリアの選択が重なっていたんですね。その中で、どうやって会社を選びましたか?     三川:株式会社オプトの面接を受けたときに、人事の方が、私の履歴書を面白がって声を掛けてくださったんです。きちんと対話してくださったのが、印象的でした。そこで、「実は、ソーシャルメディアの部署を新設するんだ。社内選抜ではなく、いろんなところから特化した人材を集めるから、そこで一から一緒に考えてくれないか?」と聞かされたんです。面白いことが学べそう、という期待から就職を決めました。   ー心惹かれて就職したオプトで8年間勤務し、最近、株式会社bosyuに転職されましたよね。キャリアチェンジにはどういった背景があるのでしょうか? 三川:ネットの世界の中のコミュニケーションって、相手の顔が分からない場合も多いですよね。それでも、会話を通して、企業を好きになってもらうことがあります。この仕組みが、とても興味深いなと感じました。会話を通じて信頼関係が築かれるということを、ちゃんと研究したいと思うようになったんです。 現在、bosyuでは週3会社員という働き方を実施しています。仕事以外の大事なものと向き合う時間をしっかり確保したかったのがキャリアチェンジの要因です。   ーそうやってできた時間を、ご自身の興味関心分野に注いでいるんですね。 三川:「kareru」というメディアの編集長をやっていたのですが、そこでは「一次情報をとりに行く」ことを大事にしていました。5年ほど前、高校生たちのSNSやネットの使い方が注目を浴びだしましたが、大人では理解できない行動も多かったんです。自撮りや加工フィルターなど、自分たちの文化にはないものでした。だからこそ、ちゃんと当人たちと向き合って、分かり合おうとしました。そのために、メディアを立ち上げたんです。     一次情報をとりに行くって、とても面白いことで、おろそかにすべきではないもの。いくらネット上で情報収集をしていても、一次情報の発生源はいつでもリアルにあります。人に会って会話をする時間を持たないと、だめになっていくような感覚すらありました。 仕事上、パソコンが手放せなかったのですが、なんだかそれが馬鹿らしくなったんです。バランスを変えて、もっと人と向き合う時間を作りたい。そうして、自分の脚で人と会って、興味があることを深掘りしたい。bosyuはとてもフレキシブルな会社で、週3以外の時間は、自分で裁量権を持って活用しています。   澤:そもそも、副業を「許可する」という感覚が不思議ですよね。会社って、概念であり、仕組なのに、そこからどうやって許可するという動詞が発生するのか…。組織には、ある程度の規則は必要ですが、違和感があります。 シリコンバレーのミートアップに参加したことがあるんです。そこで、プロダクトやサービスの話をすると、「面白いね。あなたは週何時間、そのプロジェクトにコミットしているの?」と聞かれました。そこでは、日本と前提が違うんです。所属の話は出ません。副業という感覚すらないんです。有限な時間を、どのように割り当てるか、それがそこの人々にとっては働くということなんでしょう。     飯髙:「正社員」という考え方が、とても日本的だなと思います。そもそも雇用者に正も非もないじゃないですか。働く人を所有物と見なす文化が根強いんですよね。   外の世界が広がることで、見えるものが変わる ー澤さんは、マイクロソフト社に転職されていますが、どういったきっかけがあったのでしょうか? 澤:第一生命の子会社なので、仕事は確保されていたんですよね。つまり、外部との関りは必要ない。そう判断されて、名刺が持てないことも普通だったんです。私が配属された部署は、外販を伴っていたので、たまたま名刺も用意され、外部イベントへの参加も許されていました。     そして、イベントなどに参加して外の世界に触れると、絶望するんです。外の世界を知った上で、また社内に戻ると、あまりの内向的な会社の体質に嫌気が差しました。 会社として、離職者を出さないために内向きにさせようというカルチャーを持っているところは多いように感じます。私と同じ50代は、今、社内で部長や課長に昇進している年齢層ですが、あまりに社外との交流がなく、20代、30代の頃のマインドセットと変わらないまま年を重ねているケースもままあります。 優秀な人がそんな会社を選ぶでしょうか?会社が盤石であれば選択肢としてあり得るかもしれませんが、トヨタでさえ終身雇用を諦めているような時代です。会社は流動的であるべきだと考えています。   ーマイクロソフトと聞けば、誰もが知っているような大企業ですが、当時はどのような会社でしたか? 澤:たまたま転職エージェントの目に留まって、入社できたんですよね。その頃は外資系IT企業なんて、スタートアップの匂いがぷんぷんしていました(笑)マイクロソフト社も、ベンチャー企業のようなものでした。 ファーストキャリアでSEを選んだことも、その後マイクロソフト社に転職したことも、全て「Connecting The Dots(点と点がつながっていく)」だと感じられます。成功ばかりじゃなく、寧ろ転んだことが多かったのですが、それもあって「楽しい、面白い」と思える今がありますから。   キャリアを三次元的に考えると、可能性が拡大 ーキャリアの選択の先に、今の皆さんがいらっしゃるんですもんね。転んだ経験、失敗も、今につながっている、と。 澤:みんな、キャリアを直線的な右肩上がりにしよう、と考えすぎなんです。縦軸が地位、横軸が年齢のグラフで、ひたすら右上に伸びようとしている。キャリアチェンジに失敗して、その直線が折れてしまったら、成長率にギャップがでるから避けたい…と。     キャリアは、二次元ではなく、三次元で捉えましょう。やった職種、経験の分だけ点が打たれて、それがつながって球体になる。そうやってできた容積が、自分のキャリアなんです。 そして、打った点の位置によっては、自分のキャリアの球体が他の人と重なることもあるでしょう。そこで新しいコラボレーションが生まれます。線で捉えるより、面、そして球で見る方が楽しみが拡大しますよね。     三川:ロシアの心理学者レフ・ヴィゴツキーが提唱した、「最近接発達領域」という考え方に惹かれています。人間には、自分ひとりでできる領域と、その外側に、他者の力を借りればできる領域がある、という考え方です。誰かの助けを得なければできない、と思えていたことが、誰かの助けがあればできること、に変わると、可能性が広がります。 そうすると、困難なことがあっても、それは困難ではなくなるんです。寧ろ、それが目の前にあると、私はめちゃくちゃテンションがあがりますね。分からなことなど、大人になるにつれてだんだん減っていくじゃないですか。どう捉えればいいんだろう、誰の手を借りたら乗り越えられるんだろう、と考えるとワクワクします。     飯髙:僕はずっとサッカーをしてきたので、90分のゲームで考えがちなんですけど、1試合の中で成功だと思われるプレーなんてほんの数回しかないんですよね。これから働く40年の中でも、楽しいと思える瞬間は創出していかないといけないと思うんです。でも、その手前には失敗があります。それを分析するからこそ、ポジティブな行動につながっていく。失敗はそうやって捉えればいいと思います。   ースポーツとして捉える。皆さん、捉え方を変えることによって、ネガティブな事象をポジティブに受け取っているんですね。 澤:スポーツをしていると、我慢と鍛錬の違いがよく分かりますよね。鍛錬はすべきだけど、我慢はすべきじゃないって思うんです。例えば、部活の先輩に殴られるのを耐えるのは、ただの我慢。同じ痛みでも、走り込みによる身体的負担は鍛錬です。 スポーツだと違いがはっきりしているのに、これが仕事となると非常に分かりづらい。鍛錬だと思って続けていたら、ただの我慢で、結果として鬱になるということも。自分が踏ん張ることを必要とするときは、「これは鍛錬か?それともただの我慢か?」と見極めるようにした方がいいと思います。   ー無理していることに気付かないと、取り返しのつかない状態になりかねません。 澤:コカ・コーラ社の元CEOであるブライアン・ダイソン氏が「人生は5つのボールをジャグリングしているようなものだ」と表わしていました。5つのボールというのは、家族、友人、健康、自分のこころ、そして仕事です。このうち、仕事だけがゴムボールで、それ以外はガラス玉なんです。つまり、仕事は落としてもまた取り戻せるけれど、それ以外は落とすと壊れて、元には戻りません。     仕事は替えが利くもの。もしなにかを手放さなければならないとしたら、真っ先に仕事を落とします。ぶっちゃけ、自分が楽しめる範囲で仕事をすればいいんです。自分で選び、楽しみ、嫌になったら投げ出す。そのくらいの気軽さが、日本人には必要ではないでしょうか。   目の前の人を幸せにすることが、次の幸せに連鎖する ー皆さんのキャリア観が浮き彫りになりましたが、人生の中で大事にしていることはありますか? 澤:”Being”ですね。「ありたい自分であること、あり続けること」。自分の人生を生きよう、と。その先に、最大多数の最大幸福を実現したいと考えています。     三川:キャリアにおいては、Beingではなく、Doingで考えている人が多そうですよね。働く自分はどうありたいかで考えると、クリアーになるかもしれません。   飯髙:どうありたいか、を常に考えることを僕も大事にしています。人生は選択の連続で、自分がなにをやりたいか決めていくだけです。他人のキャリアの話を聞いたり、アドバイスをもらったりすると、そっちに引っ張られるケースは多い。でも、参考程度に留めるべきだと思います。自分がどうしたいのか、将来にどう活きるのか、は常に仕事でもプライベートでも考え続けています。 澤さんが最大多数の最大幸福を、と言われましたが、僕もそれは叶えたいです。そのために、まずは手前にいる人たちをどれだけ幸せにできるかだと思うんです。   澤:半径5メートル以内にいる人を幸せにする行動って、実は結構な影響になりますよね。そもそも自分は動くから、必然的に半径5メートルという範囲も連動するじゃないですか。   飯髙:そうですね。僕、タクシーに乗ったときに必ず「まだ勤務時間続くと思いますが、頑張ってください」とお礼と一緒に運転手さんに伝えているんです。そうしたら、もし、次の乗客が酔っ払いだったとしても、運転手さんが僕の言葉を思い出して寛大でいてくれるかもしれないって。     もし、その言葉がなくて、運転手さんのイライラが募ったとします。そうすると、休憩中に訪れた店で、店員さんに嫌な態度をとってしまうかも…そんなふうに負の連鎖が起きるかもしれない。労いの言葉がどれだけ効くかは分かりませんが、幸せな方向へ好転させる行動は常にとっていきたいですね。   三川:幸せにできるって、素晴らしいことであると同時に、誰にでもできることなのが素敵です。例えば、新人の頃って、周りに迷惑を掛けがちで萎縮しちゃうじゃないですか。それで自分の存在理由を疑うことも…。 でも、「どれだけ幸せにできているか」で評価できれば、いろんな側面で自分が活きていることに気付けると思うんです。「同期に励ましの言葉を掛けた」とか「お礼をしっかり伝えられた」とか。一見、当たり前の行動に思えますが、「幸せにつながっている」と思うと、自分の可能性が一気に拡がったように感じますよね。   ーできることがある、と実感することは、自信になりますね。 澤:社会人1年目の心得として、仕事ができる人は、「機嫌よく挨拶」と「視る」ことができると言われています。「機嫌よく挨拶」すると、まずネガティブな反応が返ってくることはないですし、可愛がられる。可愛がられると情報が入ってきやすくなって、早く成長するんです。超コスパがいいんですよね。「視る」とは、周りをよく観察することです。観察した上で、相手になにをしたら喜んでもらえるのかを考えて行動すればいい。   飯髙:「視る」といえば、新人の頃に習慣化していたことがありました。社会人になって数年間は、その日に仕事で関わった3人の人の良いところを3つ、必ず毎日書き出していたんです。人間って、どうしても嫌なことが目についてしまいがちですよね。僕がそういう人間でした。でも、意図的に良いところを探しておくことで、もし嫌なことをされても「でも、この人にはこんな良い側面もあるしな」って寛大になれます。 適材適所だと思って、駄目だと決めつけるのではなく、別の活かし方を探るようになりました。この視点を継続したことで、人の良いところを探そうという姿勢が身に付きましたね。   ーそれは真似したい行動です。他に、皆さんの後輩にあたる世代にアドバイスはありますか? 澤:当たり前、常識、固定概念…そういうところに自分を押し込める必要はないよ、と伝えたいです。納得できないことは選ばなくてもいい。それは反抗ではなく、選択をしているだけです。   飯髙:固定概念って、結局は誰かが先に作ったもの、でしかないですもんね。   澤:最初からあるから、それに順応しちゃうけど、数年経てばなんでも古くて使い物にならなくなっているはず。それを置きっぱなしにしているほうが問題です。捨ててもいいし、解剖してもいい。それがあることに違和感をもって、何かしらアクションをとることをおすすめします。   三川:先ほど飯髙さんが、「自分がなにをやりたいか決めていく」と仰っていましたよね。若い世代は、影響力のある人にSNSを通じてたくさん触れていて、意見に左右され、不安がっているように見えます。インフルエンサーなどの言葉は、あくまで参考に捉えて欲しいです。ただ先に生きてきた大人の意見に過ぎません。     ここから新時代が始まろうとしていますし、それを担うのがいまの10代、20代。自分たちに誇りをもって、堂々と自分の感性で生きてほしいですね。   ー皆さんがご自身の体験を積み重ねてきたからこそのお話を聞くことができました!本日はありがとうございました。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる === イベントモデレーター:西村創一朗(Twitter)/西舘聖哉(ブログ) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

新人での活躍から一転、どん底へ。そしてキャリア復活の先に見えてきたものとは。

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジを開催いたしました。 第一回目のゲストは月岡愛里(つきおか あいり)さんです。メガベンチャー企業での経験を経て、現在は広告代理店にてプランナーとして活躍されています。今回のキャリアラウンジのメンバーは人事の仕事をしている社会人2年目のKさん、人材サービス会社やレースクイーン、ライターなど様々な仕事を同時進行でこなしているHさん、メディア編集をおこなっているSさんです。 業種、職種の異なるメンバーでどのような話が飛び出したのか、キャリアラウンジ第一回目のレポートです。第一部では月岡さんへのキャリアインタビュー、第二部では参加者から月岡さんへの質問を中心にご紹介します。 色々な経験を積んだ学生時代 月岡さんはどんな学生時代を過ごしていましたか。 大学時代はフリーペーパーを作ったり、テレビ局カメラアシスタントのアルバイトをしていました。フリーペーパーは大学の外の組織で、大学生が集まって、私はライターなどをやっていました。 最初の会社は某ITメガベンチャーということですが、なぜそこを選ばれたんですか。 コンテンツ制作に興味があって、最初はマスコミも考えましたが、テレビ局は企画の仕事ができるようになるまで下積みが長いと聞いていました。バイトでTV局の厳しさを知っていたのもあり、十数年の下積み時代は私には耐えられないなと思って、就活では若いうちから様々なことを任せてもらえそうなIT系の会社を中心に受けることにしました。そして、ご縁があり、某ITメガベンチャーに入社しました。 入社後、話題作と関わる!しかし、その働き方は… 某ITメガベンチャーではどのような仕事をしていましたか。 入社一年目はメディア事業部に配属され、ライターや編集などの仕事をやっていました。 入社2年目の秋に、ネット配信のTV局に異動になり、番組の企画制作を担当しました。前述のように元々マスメディアに興味がありましたが、地上波の局よりも比較的早い段階から企画に携われたり、裁量を任せてもらえる部分が大きいのではと感じましたね。同世代のなかで一番早く自分の企画で番組を作りたかったので通常の業務の合間を縫って積極的に企画を出しました。 ネット配信のTV局では、どんな感じで仕事をしていましたか。 あるヒット番組のチームに入ることになり、社内外ともに優秀なメンバーのなかで働くことになりました。 その時の自分は、会社の最前線の部署にいるという充実感、番組のヒット、視聴者からたくさんの反響がある喜び、業界の雰囲気などでランナーズハイのような状態になっていたと思います。 言ってみれば、スターマリオ状態です。その時は、「一回休むと休みに慣れてしまうから、土日も働いていたほうが仕事モードを継続できていい」という謎理論のもとに働いていました。 なるほど、実際、その理論で働いている20代は多いですね。 結構いると思います。そういう働き方をすることで、「自分は頑張っているぞ」という自己肯定感が湧いてきちゃうんですよね。 業界的にどうしても土日に仕事が入ることも多く、休みになった日は家で死んだように寝る、というような生活でした。まだ自分にとってちょうどいい働き方と休み方をわかっていなかったのだと思います。 そして、ある日身体に異変が。 ある日、突然どん底がやってきたと伺いました。どんなことがあったんですか。 そんな働き方を続けていたある時、朝起きたら突然背中が痛くなって、息ができない状態になってしまったんです。「これ、やばいやつだ」と思って病院に行ったら案の定働きすぎだったようで、「仕事を休んだ方がいい状態」だと言われ、会社を2ヶ月休職することになりました。気づいたらコンビニで店員さんに「レシートいらないです」って言う気力もなくなっていて、そんな自分にかなりショックを受けました。いわゆる「お暇」なので旅行した方がいいのかなぁと思って旅行代理店にも行ったんですけど、店員さんと喋れなくて帰ってきてしまう、というようなこともありました。もともと話すのが好きな方なのですが、休職して最初の1~2週間くらいは文字通り「どん底」って感じでした。 自分がそんな風になるなんて信じられなかったのですが、幸い周りの色々な人が助けてくれたこともあり、ちゃんとご飯食べて、寝て、規則正しい生活をしたら、どんどん体調も良くなっていきました。2ヶ月の休職期間のうちの後半1ヶ月は国内外に旅行しまくるくらい元気に過ごしていました(笑) 2ヶ月で完全に元に戻りましたか? しっかり休んだので、自然と「働きたいな」という気持ちが湧いてきました。もともと仕事は好きだったので、働くのが完全に嫌になったというわけではなく、まとまった休息が必要だったんだと思います。ちょうど休む前に出していた企画が通って、番組にできそうな段階まで来ていたのもあって、それを担当するために仕事に復帰しました。 その番組はいま第三弾まで続いています。自分の成果物として企画、制作できて本当に良かったと思っています。 2ヶ月で復帰、自分の働き方を冷静に見つめる 復帰後の働き方はどんな感じでしたか。 私は一回休んで同じ部署に戻り、運よくそれなりの成果も残せました。しかしスターマリオ状態が終わって、2ヶ月間冷静に自分に立ち返る時間を持った結果、自分にとって一番働きやすいやり方や業界は何か?と考え直すようになりました。この仕事自体は好きでしたが、長く社会人として働き続けるのであれば、好きな仕事をしつつも自分に合った仕事と生活のリズムを保てるやり方を模索していくべきだと思ったんです。そんな考えから、次の職場を探すようになりました。 転職活動の主なツールはTwitter 転職活動はどのように進めましたか。 メディアの編集長やベンチャー企業の社長など絞って3~4社ぐらい話を聞きました。ほぼTwitterのDMで連絡をとっていたと思います。転職エージェントに登録することも考えましたが、DMの方が話が早いかなと思ってそういう手段をとりました。業界にもよると思いますが、こういう手段もありだと思っています。 次の目標は、社会問題を知るきっかけとなるコンテンツを作ること ロールモデルや理想とする形といったものはありますか。 「この人みたいになりたい」というロールモデルはいませんが、周りに男女問わずかっこいい生き方をしている先輩や友達がたくさんいるので、良いところを参考にしながら自分に合った働き方を探しているところです。 これまで記事や番組などの企画の仕事をしてきたので、自分も痛感した働き方の問題や、女性の生き方にまつわる問題について知るきっかけになるコンテンツを作っていきたいと思っています。そのためにいまジェンダーやフェミニズムについて勉強中で、本を読んだり勉強会に参加したりしています。 最後に、学生就活生の時代を振り返って、某ITメガベンチャーに入社してよかったなと思うことや、当時の自分へのアドバイスはありますか? 完璧な職場はないと思いますが、キャリアの第一歩として、某ITメガベンチャーはとてもいい職場だったなぁと思います。社会人として大切な考え方をたくさん教えてもらいました。 例えば、『信頼残高』=信頼は貯金であるという考え方は大切にしている教えの一つです。メールや依頼ごとの返信を早くする、時間を守る、頼まれたことにちょっとプラスアルファして返す、というようなことの積み重ねで、自分の信頼残高が貯まっていきます。残高が増えれば、大きい仕事が来たときに「その子に任せてみようかな」と思ってもらいやすくなりますよね。誠実な対応の積み重ねがチャンスを呼び寄せるという素敵な教えだと思います。会社は変わっても、そういう教えは自分の財産になっています。

「どうなりたいか」を突き詰めた笹本康貴が目指すのは、華僑のようなコミュニティづくり

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第25回目のゲストは、マーケティングのフリーランスとして活動されている笹本 康貴(ささもと・こうき)さんです。 大学生のときのカナダ留学をきっかけに「もっと自分のやりたいことをやろう」と考えるようになり、やがて会社員となったのちにフリーランスという働き方を選択した笹本さん。大切にしているのは、「何をするか」より「どうなりたいか」だと言います。 現在はフリーランスで年収3,000万円を稼ぐという目標に向かって邁進し、将来的には「華僑のようなコミュニティを作りたい」と語る笹本さんの、これまでの人生における様々な選択について伺いました。 視野が広がるきっかけとなった留学とインターン ― 笹本さんの学生時代のお話から伺ってもいいでしょうか。 高校まではあまり勉強が好きではなくて、大学もその付属高校に通っていたから進学したという感じでした。でも、大学2年のときにカナダのトロントに4ヶ月間留学したことが、大きな転機になったんです。そこでいろんな方との出会いがあって、すごく視野が広がりました。もっと自由に大学生活送っていいんだな、もっと自分のやりたいことをやっていいんだなと気付かせてもらったんです。 ― 留学のきっかけと、留学先にトロントを選んだ理由は何だったんでしょう? 母親が住宅のコンシェルジュをやっている影響で、日本のサービス、いわゆる「おもてなし」に興味があり、ホテルマンになりたいと思っていたんですよ。海外で通用する人材になるには英語は必須だと思い、留学は高校生の頃から考えていました。 カナダのトロントを選んだのは、先輩から「学校が大変だ」と聞いていたから。お金をかけて留学に行くのだから、厳しい環境に身をおいたほうが勉強するかなと思って決めました。 ― あえて厳しい環境を選び、自分を追い込んだわけですね。留学から帰国した後は何をされたんですか? 帰国後は一年間休学をして、その間に今後何をしようか考えようと思っていました。結局休学直前まで何をやるか決まらなかったんですが、ご縁がありまして株式会社ビズリーチ(以下、ビズリーチ)の方からLinkedInのアカウント経由でメッセージをもらい、インターンをさせていただくことになったんです。 はじめは「週2〜3日アルバイトをしてみないか」と言われたんですが、休学することを決めていたので「週5日やります」と大見得を切ったのが、また転機となります。そこから13ヶ月間、大学4年の4月まで週5でお世話になりました。 ― ビズリーチではどんな仕事をされていたんですか?そこで得られた学びなどもあれば教えてください。 カスタマーサポートの部署の立ち上げや、マーケティングの部署で広告運用などを担当させてもらいました。毎日刺激的で、本当に優秀な方が多かったです。楽しんでハードワークしている社員の方々を見て、がむしゃらに仕事をするということを教えていただいたのが大きな学びです。 ― 新卒でビズリーチに入ることは選択肢になかったんでしょうか? ありませんでした。当時のビズリーチは新卒を積極的に採用しているタイミングで、一度に100人ほど採用していました。その中で自分が価値を発揮できるか考えたとき、もう少し採用人数が少ない企業で、自分自身のバリューを発揮したいなと考えたんです。 ― では、復学後に就活をされたんですね。 はい、ウォンテッドリー株式会社でインターンをしながら、同時に就職活動を行なっていました。就活は株式会社フリークアウト・ホールディングスと株式会社マイクロアド(以下、マイクロアド)2社のみに絞っていて、最終的にはマイクロアドに新卒で入社したんです。 ― 就活を2社に絞った理由は? 当時、仕事を通じて人を幸せにしたいという気持ちがあったんです。それは日本のおもてなしやサービスを通じて実現できると思っていて、ビズリーチなどでインターンをさせていただいていました。ただ、マッチングサービスという性質上、中々サービスを提供する側と受ける側が100%幸せになる状態は難しいということに気付いたんです。 そして「人の一瞬を幸せにしたい」という風にビジョンを変えました。良いきっかけを与えれば、人って自走していくんじゃないかなと思ったんですよね。それができるのはデジタル広告だなと思い、その分野でこれからの時代を切り開いていきそうな2社に絞りました。 ― ターゲットをデジタル広告に置くなど、仮説を立てて人生の選択ができれば良いキャリア選択ができると思うのですが、その力はどうやって身についたんですか? 失敗したくない欲が高いからだと思います。とりあえず走って行き着いたところで楽しみたいというタイプと、目標を決めてその目標に辿り着きたいというタイプがあるとしたら、僕は後者で。目指したものを手に入れたほうがハッピーだと感じるので、そういう思考で物事をみていたんだと思いますね。   「何をするか」より「どうなりたいか」が大切だと気付いた会社員時代 ― 新卒で入ったマイクロアドでは、新規事業部に配属されたんだとか。 新規事業部の中で、ブランドコミュニケーション事業部というのがあって、お客様が大手企業中心のために、新卒を取らない部署だったんです。だけど断られると燃えるタイプだったので、必死にプレゼンして入れないか頼み込んで見ました。そしたら「内定者バイトとして半月がむしゃらに働いたらその部署に入れる」と言われ、なんとかその部署で初めての新卒入社にこぎつけました。 ― 希望する部署に配属を勝ち取ったものの、配属されてからの半年間は正直役立たずだったと。それはどうやって乗り越えていったんですか? そこでは電話でアポイントが取れて初めて仕事がある所で、入社後半年間はアポが取れず苦労しました。アポが取れないと仕事にならないので、とにかくテレアポのスキルを極めるしかないなと思い、テレアポが上手い上司にコツを教えてもらったんです。そしたら、アポ取得率が4割くらいに上がって。普通は取得率1%程度なので、かなりスキルがついたと思います。 ― アポが取れるようになり、その後はどう変わっていったんですか? 入社2年目のときに会社の組織変更があり、自分が担当する業界もより厳しい業界に変わったんです。それでもどうにかアポを獲得していましたが、これから先、自分のキャリアを磨くためにどうしたら良いのかなとモヤモヤしはじめていました。 それがちょうど25歳の時で、30歳までの残りの5年間どうしようかなと。理想の人物像を考え出した結果、30歳である程度稼いでいる人になりたいなと思ったんです。 ― 稼ぐというのが一つのマイルストーンだったんですね。 今の時代色んな事ができるので、いろんな選択肢があるとは思うのですが、好きなことをやっていても貧しかったら意味がないなと思っていて。なので1,000万円くらい稼げるような男でありたいと思っていました。 そこでまずは自社に新卒で入った30歳くらいの先輩がどれくらい稼いでいるのか知りたくて、飲みに誘ってリサーチすることに。そこで、30歳で年収1,000万円を超えている人がいないということがわかったんです。だったらここは自分がいるフィールドじゃないなと。方向チェンジしないといけないと思い、社外に目を向けて、色んな方々に会うようになりました。 その中で自分は「何をするか」より「どうなりたいか」に重きを置いたほうがワクワクするなと気付いたんです。なので、30歳で1,000万円稼ぐようになるために、会社で働きつつ将来に向けて準備を始めました。 ― そこで複業を始められたんですね。 はい。だけど将来の準備を進めていくうちに、複業の比重が大きくなっていき、仕事へのモチベーションが下がってしまったんですよね。何か変えないといけないなと思い、役員に「営業からアナリストに職種転換したい」と打診したところ、認められず。「だったら辞めます」と言って、一週間で辞めることになりました。   フリーランスに転身したことで年収3倍へ ― フリーランスになろうと決めて会社を辞めたわけでなく、結果的にそうなってしまった、と。 次の会社も決まっていない状態だったので、急にニートになった感じですね。結局フリーランスになったんですが、最初からフリーランスを目指していたわけではありませんでした。だから、辞めて一週間くらいは昼過ぎまで寝ているという生活で。このままじゃ家賃が払えないことに気付き、転職活動を始めることにしたんです。 ― すぐフリーランスになったのではなく、転職活動もされたんですね。 そうなんです。これからは動画の時代だなと思い、動画やライブ配信関係の企業を10社ほどピックアップして転職活動をし、数社から内定をもらいました。提示された給与も、前職に比べれば上がるのでいいなと思ったんですが、時間的な拘束が激しく、ハードワークしてもらいたいということだったので無理だな、と。 「30歳では時間的な自由も欲しいな」というのがあったんですよね。金銭的な自由も欲しいけど、時間的な自由も欲しい。そう思ったときに、両方取るのに会社員では厳しいと気付いたんです。そこでフリーランスという働き方が明確になって、内定をもらったところは全て辞退しました。 ― なるほど。フリーランスになろうと決めてからはどのように行動されたんでしょう? 周りに起業家や事業やられている方が多かったので、その方々に相談したんです。その中で「将来的にはビジネスオーナーになりたい」と思うようになりました。会社を作ったり社長になったりするよりは、時間的自由や金銭的自由を生み出したくて。そのためにはお金貯める必要があったので、自分の強みであるマーケティングでフリーランスになろうと決めました。 ― 仕事はどのように取っていったんですか? 片っ端から繋がりを頼って「フリーランスになりましたが仕事がないです。仕事をください」とお願いして回りました。色々とご紹介いただいた中で着地したのが、今の株式会社NTTドコモの仕事です。今はそこで週5日働いている他、ライティングの仕事や広告運用のコンサルをしています。 ― 週5日働くというのは、あまり時間的な自由がないように思えますが。 お世話になっている方から「成果を出すためには一回沈む時があって、急に上がるタイミングがあるんだよ」と教わったんです。であれば、30歳までは浮上するためにしゃがむ期間だなと。もっと時間的な負荷も金銭的な負荷も自分にかけようと、自己投資をして負荷をかけているところです。 ― 自己投資は具体的にどんなことをされているんですか? 人に会うためにお金をどんどん使っています。お金も限られていますが、交際費が7〜8割を占めるくらいに投資をしていて。今まで人に助けてもらう人生だったので、将来自分が人を助ける側にいくための勉強だと思っています。 ― フリーランスになって1年弱、30歳まではあと3年という中で、目標としていた年収1,000万円への進捗度はどうですか? フリーランスになって年収が3倍になり、30歳で1,000万円というのは達成できました。今は目標を上方修正して、30歳で年収3,000万円稼ぎたいと思っています。そこへの道は見えているので、後はやるだけですね。   いつかは華僑のようなコミュニティを作りたい ― 今後は具体的にどんなことをやっていこうとお考えですか? 将来、華僑のようなコミュニティ作りたいと思っています。どこの国に行ってもチャイナタウンがあって、そこにいる中国人は儲かっていないけど、お互い支え合っているから生きていけている、というコミュニティで。それはすごく本質的だなと思うんです。 僕自身、知り合いにお金を使いたいというのがずっと昔からあって。例えば知り合いがお店をオープンしたら、今まではフランチャイズに行っていた所を、その人のお店に行ってお金を使うような。それは華僑に近いんじゃないかなと思うんです。そのために、リアルな店舗を構える小売業に参入しようと準備をしています。 今まではデジタル領域でやっていましたが、リアルなコミュニティやつながりを大事にしながら小売を作れば、目標の年収3,000万円はいくと考えています。 ― たしかに年商で考えれば3,000万円は難しくないかもしれませんが、年収ベースではハードルが高いような…… ハードルは高いんですが、成果を出すことがこれからの時代すごく大事ですし、人としてのあり方を考えたときに「稼ぐ」ということは大事だと思うんです。今まではお金はあまりいらないなと考えるタイプでしたが、将来的に結婚や子供を考えたら、お金はかかるよなと。だからまず稼ぐモデルとなれればいいなと思って、30歳で年収3,000万円を目標にしています。 ― 小売業へのチャレンジはいつごろされる予定ですか? 今27歳なので、29歳までには店舗を構えてビジネスオーナーとしてステップを踏まないと目標に間に合わないと思っていて。なので、あと1〜2年くらいは仕込み期間として考えています。ただ小売で何を売るかは、あえて決めていません。世の中の流れが早すぎて予測が難しいので。 何を売るかより「笹本がお店やるなら行く」と言ってもらえる関係性をまず作ろうと思っています。それは将来的な華僑に繋がるんですが、まず自分自身のつながりやファンを増やして、タピオカをやろうがパンケーキをやろうがとりあえず来てもらう、という状態を設計をしている感じです。 ― 最後にU-29世代に向けて、伝えたいメッセージがあれば教えてください。 今の時代、選択肢が無限にあって何でもできます。時代としてもありがたいなと思う一方、何をやるかより「どうなりたいか、どうありたいか」というような、自分の長いキャリアや人生を考えた上で、色んな選択をしてほしいなと思います。自分なりに考えて進むことはすごく楽しいんですが、それが目標につながっているかどうかをきちんと見極めながら選択した方が良いかなと思っています。 また、周りの大人のアドバイスに素直に耳を傾けることも大事ですね。僕は師と出会うために、いいなと思った人が「いいな」と思う人を紹介してもらうようにしています。いい人の周りにはいい人がいるというか、連鎖が生まれている気がするので。この人自分に合うなと思ったら、その人に「いい人いませんか」と聞いて回るのもいい方法だと思います。 ▼笹本さんのTwitter https://twitter.com/sasamoman ▼笹本さんのnote https://note.com/sasamoman ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 写真:橋本岬 文:品田知美 編集:ユキガオ デザイン:矢野拓実

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