NEXTユニコーン企業、freeeに新卒0期生としてジョインした今岡柾のキャリア戦略。

様々なキャリアを持つ人たちが集まり、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うU-29 Career Lounge。   今回のゲストは、NEXTユニコーン企業として注目されているスタートアップ、freeeの今岡柾(まさき)さんです。   新卒採用がはじまる前に新卒0期生としてfreeeへ入社し、現在は新規事業開発の責任者として活躍されている今岡さん。なぜ、新卒でベンチャーだったのか? エリート達がぞろぞろと集まる環境の中で、いかにして責任者ポジションを勝ち取ったのか?    その背景にある想い、そしてキャリア戦略を聞きました。 “えげつない金持ち”に囲まれて気づいたこと ー最初に、簡単なプロフィールとfreeeに入社するまでの経歴をお願いします。 1991年生まれで、今年28歳になります。中高はずっとサッカーをやってまして、部長でした。東京都でベスト8くらいまで行ったんですよ。でもそこで燃え尽きて、大学は第一志望に行くことができませんでした(笑)。   ー第一志望はどこだったんですか。 慶応です。浪人することも考えたんですけど、人と違う大学を選んで、人と違う大学生活を送るのもよいなと思って、最終的には首都大学東京に行くことを決めました。 人と違うポジションを取るというのは、僕の中に一貫している姿勢かもしれません。大学在籍中に海外留学をする機会があったのですが、そこでもあえてアメリカやカナダではなく、タイを選びました。東南アジアはこれから成長していくだろうし、なによりタイに留学に行く人って少ないだろうなと思って。 ーチュラロンコーン大学っていう、タイの東大っていわれているところですよね? そうですね。「タイ ナンバーワン ユニバーシティー」ってググって、1番上に出てきたところにアプライしたら、なぜか通って(笑)。大学を1年休学して行きました。 ―タイに留学した経験は、今岡さんにとって大きかった? そうですね。月並みかもしれませんが、「貧富の格差」の大きさを思い知りました。タイは日本より貧しい国です。でも一方で、タイにいる本当の富裕層が、ほんとえげつなかったんですよ。 チュラロンコーン大学って、さっきも言った通りタイで1番いい大学なので、トップ大企業の息子や軍関係者の息子、「ベンツ、自分で10台で持っています」みたいなのがごろごろいる。大学に運転手さん付きの超高級車で通学していたり。 ―それはえげつないですね。 そういう貧富の格差を体験したことで、「機会の不平等をなくしていきたい」と思うようになりました。これは今も人生のテーマとして持っています。僕はこの日本で生まれて、何の不自由もなく暮らしてる。これは本当に恵まれていることなんだなって、タイで実感しました。その幸運を社会に還元したいと思うようになったんです。   オフィス選びからはじまった、福岡支社時代 ―大学卒業後には、新卒0期生としてfreeeに入社されています。きっかけは何だったのでしょうか? もともとは大学院に行こうかとも考えていたんですよ。「機会の不平等」をなくすために、行政系の大学院に入って、もう少し公共政策について自分で勉強してみたいなと思っていました。ビジネスの道に進むのも良いかなと思うようになったきっかけは、freeeのCEO佐々木の話を聞いたことですね。 IVS(Infinity Ventures Summit)というスタートアップのカンファレンスがあります。僕、そこで学生スタッフをやっていたんですよ。そこでたまたま佐々木の講演を聞いた。佐々木はそこで「ビジネスで社会を動かす」という話をしていて、そうか、公共政策だけじゃなく、ビジネスの観点からも社会を動かすことができるんだなと気がついたんです。 ありがたいことにインターンをしてみないかという話を頂いたので、そこから大学行かずに週5でインターンをはじめました。あれよあれよと、新卒で入らないかという話を受けて、じゃぁせっかくなのでということで入社。ですから、面接を受けたことも、合同説明会に参加したことすらもないんです。   ーなるほど。とはいえfreee以外にも、起業などさまざまな選択肢があったかと思います。なぜ最終的にfreeeを選んだのか、ぜひ聞きたいですね。 ありがちですけど、「人・事業・市場環境」の3つで選びました。 人でいうと、freeeはやっぱりGoogleの人が立ち上げた会社なので、役員もGoogleの出身の人が多くて優秀な人が揃っている。話す人、話す人が、みんなすごく面白い、ユニークな人ばかりだったことが大きかったですね。あと、外資系のフラットな組織ですし、人事評価もすごくクリアになっています。頑張ればそれだけ評価されることも魅力に感じました。 事業という面では、自分の持っているテーマと事業内容が一致したことが大きかった。freeeの事業って、非常に公共性が高いんです。中小企業のクラウド化によって日本の経済を活性化したいというビジョンが明確にある。それが、先ほど話した「機会の不平等をなくしたい」という自分の思いと合致したんです。 3つめの市場環境というのは、成長する産業や市場かどうかということです。そういう伸びしろのある環境に自分を置くことによって、結果的に自分の市場価値が上がっていくだろうと考えた。こういった要素から考えて、freeeに行くのが正解だろうなと判断しました。   ーなるほど。実際に入社した当時のfreeeは、どのような雰囲気だったのでしょうか 今でこそ700名規模の会社になっていますが、僕が入社した当時のfreeeはまだ30人ぐらい。すごくカオスな状況でした。どのくらいカオスかっていうと、支社立ち上げを僕に任せるくらいカオスだった。 2016年の9月ごろですかね。「ちょっと福岡に行ってみる?」みたいな感じで上司にいわれて「じゃぁ行ってきます」ってことで福岡に行きました。 ーゼロからの立ち上げですか? はい、もう完全にゼロから1人で。自分でオフィスを選ぶとことからはじめました。天神駅の近くのコワーキングですね。 ーすごいですね。それは入社何年目の頃ですか?  2015年4月に新卒入社しているので、入社1年半の頃、社会人2年目ですね。2年目にコレをやらせるって、結構カオスですよね(笑)。 最初の10ヶ月間は完全に1人、そこから人を採用して、3、4人。立ち上げから1年が経ったころに、もう僕いなくていいかなみたいな感じで東京に戻ってきました。   ―すごい経験を積んでいますね。東京に戻られてからは、どのような業務を担当されているんでしょうか? 今は新規事業開発兼PdM(プロダクトマネージャー)を担当しています。「freee」は会計ソフトなので、ソフトを使ってくださっているユーザーさんが資金繰りに困った時に金融サービスを提供して、彼らのビジネスを良くしていくみたいな事業です。融資とかファクタリングとかっていわれる領域ですね。   コンフォートゾーンを抜け出せ ー大学や留学先の選び方、新卒からのスタートアップ入社など、今岡さんは一貫して人とは違う道を選んできています。これはとても勇気がいることだと思いますが、そういった性格は昔からなのでしょうか? そうですね。結構、個人的な理由なんですけど、僕には4つ上の兄がいまして。彼は財務省の官僚やったりと、見栄えがいいキャリアを歩んでいるわけですよ。そこで僕が彼と同じような道を歩むのは、ちょっと面白くないなと思ったことが影響しているかもしれません。   ー人と違う道を選んで後悔したことってなかったですか? 「やっぱ慶応行っておけばよかったなあ」、みたいな。 学歴コンプレックスはありますけど、学歴に負けないユニークな人生を自分で作ってきたつもりです。 ある特定の分野、例えばロジカルシンキングだったり、コミュケーション力だったり、それこそ学歴だったり、そういったところで人と戦おうとしても、自分より優秀な、絶対勝てない人って5万人、100万人といますよね。 でも多分タイに行った経験があって、タイ人の友達がたくさんいる人とか、僕は今NPOの理事などもやってるんですけど、そういう本職以外の活動経験を持っている人とか。そういう要素を掛け合わせてみると、同じような人ってなかなかいない。あえて人とは違う選択して、「埋もれないようにしよう」と常に考えていましたね。   ーご自身をとても客観視されているんですね。そういった視点は、どうすれば得ることができるのでしょうか? やはり、自分で自分のことをよく知れるタイミングって、外に行ったときなんですよ。タイへ留学行ったときもそうですし、福岡支社に行ったときもそうでした。東京から離れてみて、はじめて自分をよく知ることができた。自分を相対化して見る習慣が身についたかなと思います。   ーコンフォートゾーンを出ることを通じて内省化するのが大事なんですかね。 そうですね。コンフォートゾーンを出るっていうのはおっしゃる通りだと思います。「福岡に行け」って言ってきた上司は、まさにそれを僕に課してきたわけですよ。「お前は今、コンフォートゾーンにいるぞ」って。   彼はGoogleのセールスでトップになって、マネージャーをやった後にfreeeに来た非常に優秀な人。そういうことを言ってくれる人が社内にいるのはすごくありがたかったなと感じています。   スタープレイヤーたちと戦うための「ジョーカー」 ー今はもうfreeeで5年目ですよね。3年目から5年目は、キャリアやライフステージについて考え出す時期かと思います。転職などを考えたことはありましたか。   ありましたね。5年目がはじまったくらいの時ですかね。30人規模の頃に新卒0期生として入社してから、500~600人規模になるまで、僕にはそれなりに成果を出してきたという自負がありました。でも、役職的になかなか上に行けなかったんです。   会社の規模が拡大していくとともに、30、40代の超優秀な人たちが外から入ってくる。IT業界のトッププレイヤーみたいな人たちが、僕の上にマネージャーとして入ってくるんです。正直、彼らには勝てません。もちろん、僕自身はすごい刺激になるし成長させてもらってるんですけど、いざ自分のキャリアを改めて振り返ってみると、本当にこれでいいのかなって。たとえば転職するにしても、「人を率いた経験はありますか」といわれたら、自分にはそれがないんですよ。   ―伸びているベンチャーゆえのジレンマですね。   そうですね。なので、自分の裁量が持てる、もう少し小さいスタートアップに行こうかなと考えたりしていました。でも結果的には、違う事業部に異動させてもらって、本当にド新規の事業開発を任せてもらえるようになったので、今はリーダーシップを持って仕事が出来ています。 ー外部から優秀なスタープレイヤーたちが集まっている中、「ぜひ今岡くんに任せたい」と思ってもらえた理由は何だったんですか。 「金融事業部に行って事業開発やりたいです」というふうに明確にポジションを言ったことも大きかったのではないでしょうか。   もちろん、言い方は悪いですけど、普段から根回しみたいなことはしていました。金融系をやりたいという思いはずっとあったので、金融事業部の人に積極的に話を聞きに行ったりはしていましたし、誰がどういう悩みを抱えていて、どういう事業があるのかなど、普段から好奇心に従っていろんな人に話を聞きに行っていた。その結果として、説得力のある交渉ができたのかなと思っています。   ーなるほど。最後に今後の展望、今後のキャリアのイメージみたいなものがあればお聞かせください。 どうしましょうかね。将来的にはアジアに行きたいと思っています。転職や起業など、方法は色々と考えられますが、「機会の不平等をなくす」というテーマのもとに、アジアでテクノロジーを使ってやっていきたいですね。 30歳手前ぐらいまでに東南アジアに拠点を構えて、30代後半ぐらいから社会的インパクトを打ち出すために動いていきたい。今はそこに向けて、準備していきたいなと思っています。  

キャリアの逆算で選んだ東大。僕の選択は「目標思考」ではなく「目的思考」

  入社3年目にし、すでに大手企業とベンチャー企業の両方を経験した薮さん。 現在勤めている「株式会社POL」では、未経験の営業で実績を積み上げ、2019年は営業責任者として営業部を率いるようになりました。今後は、新たな挑戦として人事責任者として採用/組織の基盤づくりに携わります。 また、志望校を東大にした決めては「将来のキャリアからの逆算」とのこと。 今回は薮さんの目的思考をベースに、これまでのキャリアや若手から成果を出すためのハックをお伺いしていきます。   薮大毅:1994年大阪生まれ。2017年新卒でNTTドコモに入社し、出向先のドコモ・ヘルスケアにてヘルスケアビジネスのプロダクトマネジメント及び新規事業の創出を行う。2018年12月に友人が創業したLabTech企業のPOLに転職し、2019年12月まで営業責任者として営業組織の立ち上げを行なったのち、現在は人事責任者として人事制度制定や中途採用、人材育成を担っている 東大を目指したきっかけは「経営コンサル」になるための逆算だった ーー東大を目指した背景が「キャリアからの逆算」と聞きましたが、詳しくお聞きしたいです。 薮:受験生の頃、当時就活生だった姉がいたこともあり「四季報」が転がっていました。それが、自分の将来や人生を考える機会になったんです。 「どんな職に就きたいか?」を考えながら四季報を読んでいたら、結果的に「経営コンサル」に辿り着きました。ワクワクしていましたね。 そこで「どの大学行ったら1番行ける可能性が高いのかな?」と考えたときに、東大だったので、志望校を東大にしました。 つまり、「東大に行く」を目的にするのではなく、「経営コンサルになるために東大に行く」にしていました。 ーー高校生でそこまで先を見据えられるってすごいですね。最終的に目指していたキャリアは変わったと思いますが、何かきっかけがあったのですか? 薮:大学生時代高校のOB会に参加したのですが、そこでベンチャー企業を知りました。 ベンチャー企業の方の講演を聞く機会があって、ビジョンなどを熱く語っていて。「おもしろそうだな...」と思ってインターンに参加して、そこからベンチャーの世界に飛びましたね。 実際にインターン先として、フォースバレー・コンシェルジュからはじまり、エス・エム・エス、楽天とお世話になりました。 ベンチャーでのインターンで閉じられた世界だと知り、大手のNTTドコモへ入社 ーーさまざまなインターンを経験し、ベンチャーの魅力も知っている中であえて大手を志望した理由は何でしたか? 薮:1番大きかったのは、「世の中を変えるには大手企業の変化が必要だな」と感じたからでした。ベンチャーは見方によっては、閉じられた世界のようにに思えて。よく、スタートアップ村と言われたりしますよね。 また、「大手の世界を知りたい」と思ったのもあります。なんとなく「大手=堅い」や「大手=変化を恐る」って認識がある中で、本当かどうかを一次情報で体感してみたかったんです。 ーーなるほど...!大手企業の中でNTTドコモの決めては何でしたか? 薮:当時から変わらないのですが、「人との出会い」を重要としていました。 ドコモは、人と人をつなげる文化を作りあげた会社なので、今後も「新しいコミュニケーション文化を創造する」というミッションを軸に掲げていた会社だったんです。 他にも、学生のフラットな社風が魅力的でした。学生の僕が「こんなことをやりたいのですが、一緒にやりませんか?」と言った時も「いいね、やろうよ!」と言ってくれて、すぐ動いてくださったり。 一般的な大手の印象と大きく異なった点も、魅力的に映りましたね。 ーー実際に入社してみて、自分の仮説はあたっていましたか? 薮:正直、正しかったこともそうでなかったこともあります。 すこし物足りなかったところは、上司がオープンマインドであるにも関わらず、それに対して貪欲に機会を取りに行く若手少なかった気がします。せっかくのチャンスを「若手だから」と遠慮してる人が多い印象でした。若手だけではなく、カルチャー全般にあったかなと思いますね。 ただ、つながりや人には恵まれていました。今でも、ドコモと仲良くさせてもらっていますし、ドコモと仲間は大好きです。 アフリカのサバンナで今後のキャリアに疑問を抱き、ベンチャーの「POL」へ転身 ーーそして、大手のドコモからベンチャーのPOLへの転身。どういったきっかけがあったんですか? 薮:ちょっとアホらしいかもしれませんが、夏休みにアフリカのサバンナにいて星を撮影していました。その時にふと、「20年後にどうなってるかな...」って考えてたら、ドコモでの20年後がなんとなく想像できたんです。 正直、20年後には「ドコモを上手く動かせる人間になっている」という所感はありました。ただ、僕がドコモに入った理由は「ドコモを動かす」というより「世の中にどう価値提供していくか」だったんです。 そういう自分にどうやったら近づけるんだろう、ってことを考えたのが1番のきっかけですね。 ーーなるほど。数多くのベンチャー企業がある中で「POL」を選んだ理由はなんでしたか? 薮:大きく2つあります。まずは「このメンバーと一緒に働きたい」と強烈に思ったことです。代表は学生からの知り合いで、メンバーにも何人か知り合いがいたんですが、「今のメンバーと本気で働くには今しかない」なって。 もう一つは、POLの事業や今後の展望が、世の中を確実に前に進めている事業だと確信を持てたことです。僕は「社会にどう貢献していけるか?」を常に考えていて、自分が携わっている会社と事業で世の中に価値提供したかったんです。 POLは自分の想いと環境が合致していて、「ここで自分の人生を投資したい」と思い、しました。まったく迷いがありませんでしたね。 大手企業とベンチャー企業のギャップに苦しむも、責任者まで登りつめた ーーその後、実際に入社してみてどうでしたか?入社前と後でギャップなどはありませんでしたか? 薮:正直、最初はしんどかったですね(笑)。やはり、大手とベンチャーでは仕事環境や任される量も大きく違いました。 例えば、大手は「信頼貯金」がありますよね。一方でベンチャーは全くないと言っても過言ではなく、1から基盤を作っていかないといけない。 また、僕は社員12人目で入社して、本当にカオスな状態でした。営業として入って、初日からテレアポ100件とかこなしていましたね。 大変でしたが、地道にコツコツと頑張ることで、最終的には営業責任者に就任できました。 ーーすごい...若くして責任者になったんですね。苦労もたくさんあった中で、成果を出すためにしていた工夫はありますか? 薮:実は営業がはじめてで、たくさんの方に助言をいただきながら、手探りで試行錯誤していました。僕自身「数値化して分析する」することで効果がでてきましたね。 電話してから受注するまでのプロセスごとに数字化し、誰がどこで上手くいっていて、誰がどこで未達なのかを可視化した上で、PDCAを回す。これをひたすら繰り返していました。 また、「数字必達の文化づくり」も意識していましたね。決められた電話数や訪問数などのノルマが未達だと恥ずかしいみたいな文化作りは第一にしてました。 実は、2020年1月から「営業責任者」から「人事責任者」へチェンジします。採用の土台づくりにまずは注力し、POLに貢献できるように努めていきたいです。 成果に貢献してくれたのは「人・環境の変化」と「目的意識」 ーー今まで結果を出し続けた薮さんですが、「成果を出すためのライフハック」ってありますか? 薮:僕は人に会いに行ったり、会う人を適度に変えることがとても重要だと考えています。 僕のこれまでの人生を振り返ると、誰かの助言だったりコミュニティでの出会いが、大きなターニングポイントになっていて。 例えば、僕は過去に自分で飲み会を主催していたこともありました。環境を自ら作ることもとても有意義な時間になるかと思います。 ーーなるほど...!あと、変化が激しい今だからこそ、学び続けるってとても大切だと思っていて。薮さんがおすすめする「学習ハック」ってありますか? 薮:常に意識しているのは「学ぶことを目的化しない」ことですかね。 「しないといけない」って駆られると、その反動で人ってやりたくなくなるんですよ。僕は過去に「営業を学ばなきゃ...」って思った瞬間、嫌になってしまいました(笑)。 なので、まずは「なんで学ぶ必要があるんだっけ?」と、常に目標と目的を視野に入れる。その後に「結果を出すために必要だから知りたいよね?」と好奇心を煽り、自然と取りに行けるようにマインドセットをしています。 将来は「可能性を広げられる人」でありたい ーーでは最後に、今後チャレンジしていきたいことがあれば教えてください。 薮:「可能性を広げられる人」でありたいですね。 せっかく世の中に生まれたからこそ、自分の枠組みを超えた人に会いに行ったり、自分が見たことないところに実際に赴いて記憶に残し、色んな人に伝えていきたいです。 プライベートの話になりますが、実は最近、結婚しました。身近な例で言えば、まずは自分の可能性と器を広げていって、ゆくゆくは奥さんや子供にも、可能性に富んだ人生を歩んでもらえるようにアシストできればと思っています。 そんな人生を歩んでいきたいですね。 取材:西村創一朗 文:ヌイ 写真:橋本岬 デザイン:矢野拓実

大手人材企業からヒントを得て起業!Another works CEO・大林尚朝が見据える次のビジョンとは?

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。 今回のゲストは、新卒で大手人材紹介会社に入社し数多くの記録を樹立した後、ビズリーチへの転職を経て、昨年の5月に業界初の成功報酬無料の総合型複業マーケットプレイス「Another works」を立ち上げた大林尚朝(おおばやし・なおとも)さんです。 大林さんの不思議な縁で繋がってきたこれまでのキャリアと、起業に至ったストーリーをご紹介します! 幼少期から早稲田大学を目指して合格!人生が変わるようなインターンに出会うまで ー現在は起業家として活躍されている大林さんの、幼少期の話を伺いたいです! 簡単に自己紹介をすると、僕は1992年に九州の大分県で生まれました。父は早稲田大学の社会科学部OBで、“THE・九州男児”。幼い頃から「早稲田大学以外の大学の学費は払わないぞ!」とまで言われるほどまっすぐな性格の人でした。 野球が好きだった父の影響で、僕も小学生から高校3年生までずっと野球部で、大学は物心ついた時から早稲田大学を目指していましたね。起業したのも父が経営者だったことも関係しています。 ー地元である大分県から、東京に上京するキッカケは? 目指していた早稲田大学に無事合格し、法学部に入学したのがキッカケです。 でも実は高校2年の時に、インターネット業界に目覚めるキッカケがあったんです。それは当時オラクルという会社が主催している高校生限定のWEB制作コンテストだったのですが、高校の先生が「こんなのあるけど出ないか」と教えてくれました。 そこで野球部とサッカー部のメンバーを募って5人チームを作り、HTMLやらJavaを勉強して九州大会を突破し、その時興味があった「平安時代」をテーマにしたゲームを制作して全国大会に臨みました。 全国大会では銀賞を受賞。今思えばそこがはじめての東京進出かつインターネットとの出会いでしたね。就活の時も、この出来事がキッカケとなってインターネット広告などの事業を展開しているIT企業などを受けていました。 ー早稲田大学に入学後は、どんな大学生活だったんですか? 僕が入学した法学部は試験で単位を取るのが結構大変で、比較的勉強に時間を割いていました。 大学1〜2年次に「緑法会」という日本最大級の早稲田大学公認法律サークルに入り、仲間と集まって法律の勉強をやったり、朝までカラオケやビリヤードに行ったりしていましたね。 ーインターンなどは挑戦しましたか? はい。株式会社リアライブで約2年間ほどインターンとして働いていました! 大学3年生になったばかりのタイミングで出会った企業なのですが、社長のTwitterから「就活塾」というセミナーイベントを開催していることを知り、参加したのがキッカケでした。 就活塾というイベントを入り口として、参加した学生と出資している企業のマッチングを促すビジネスモデルだったのですが、就活塾の集客をするインターンを探しているとのことだったので、面白そうだと感じてジョインすることにしたんです。 約2年間やってプレイヤーとしてMVPもいただきました。またマーケティングの責任者もやらせていただいたのですが、Twitterは200万フォロワーを獲得して就活関連アカウントのTOPになりましたし、Twitterだけで学生の集客No.1イベントになるまで成長させベストベンチャーに選出されたりしましたね。今思えば、これが僕の“第二の人生の始まり”でした。   新卒入社から退職まで、33ヶ月連続で目標更新できた理由とは!? ー新卒で「株式会社パソナ」を選んだ決め手を教えて下さい! 僕の就活の軸は「縁と運」だ、と決めていました。野球も大学進学も父の縁から始めたので、そういう決め方が自分らしいなと思いましたね。 就活では、先輩からの紹介とか繋がりといった特殊な縁を感じた企業に行きたいと決めて受けていました。パソナも、先輩の紹介経由で選考を受けた企業でした。選考に進む中で社長の掲げるクレドにも惹かれて決めました。 僕は人の中でも社長の方針や人柄などで決めるタイプなので、社長に惹かれたのは大きかった。あと圧倒的に内定が早めに出たのも決め手でした。 ーキッカケは「リファラル」だったんですね!内定も早めに出たのでは? 就活解禁とほぼ同時に、内定が出たので就活は終了していました。 僕自身、皆が前を向いている時に後ろを向いていることが大事と考えており、同級生が就活を頑張っている時期に早く終わらせてビジネスパーソンになるための準備をインターンでやってしまおう!と考えていましたね。 ーパソナに入社後はどのような仕事をしていたのですか? 僕の担当は、フリーランスや業務委託の方の紹介事業でした。それが2015年から始まったので、今風に言う「副業推進」みたいな感じですね。まだまだ副業が認知されていない時期でした。 とにかく朝から夜まで働き、全社員総会で最年少MVPを受賞したり、売上や目標33ヶ月連続達成するなどの記録も出すくらい頑張っていました! 営業の仕事を通じて僕が感じていたのは、正社員・派遣・インターンなどの雇用形態に関係なく良い人が1人でも入ると会社が変わる「企業は人なり」ということでした。 仕事で出会った企業さんに人材を紹介することで、そのことを感じる機会がすごく多かったのもあって、仕事にフルコミットしていましたしモチベーションも高く持ち続けられていました。 ー同期と比べても、なかなかそこまで頑張れる人っていないと思うのですが、なぜそこまで頑張れるモチベーションを持ち続けられたのでしょうか? 僕の場合、入社から退社するまで一度も目標を落としたことがないという記録があったので、落としたくないというプレッシャーもありました。 また、社内の人のみを見るのではなく社外の人をライバルとして意識したのも重要だったと思います。 当時僕がライバル視していたのは、同世代でビズリーチにて活躍されていた女性だったのですが、その方とたまたま紹介で繋がり、仕事の話などすることで意識して頑張るパワーをもらっていました。そのように社外に自分を啓発してくれる人を作れたのは大きいですね! ーそんな大活躍だった大林さんが、なぜ退職の道を選んだのでしょう? パソナのビジネスモデルもサービスもリスペクトしているのですが、副業や業務委託などのスポットの人材採用ニーズがあるのは、スタートアップやベンチャー企業だなと感じたんです。 けれどまだこれから伸びる会社や小さな企業には、多額の採用費用は払えない。 僕も成約手数料の高さで失注することが度々ありました。お客様のために良い人を紹介しても、成約手数料の高さや人材紹介といった仲介業の立ち位置としての限界のようなものを感じることが増えました。 もっとお客様である企業と求職者、そして紹介する事業者の“三方良しな事業”ができないのか…と思ったんです。この構造は今のAnother worksに繋がっているのですが、起業の前にパソナからビズリーチへと転職をしています。 ー起業を決意したのに、なぜビズリーチへ? 起業しよう!サービスを立ち上げるぞ!と思ったのは良かったのですが、営業経験しかなくデザイナーやエンジニアさんと一緒に働いた経験がなかったので、HRTechのプラットフォームを立ち上げる自信がまだ持てなかったんです。 そんな時、ビズリーチがM&Aの事業承継ビジネスのプラットフォームを作るという話を聞き、創業メンバーとして入社を決めました。 ビズリーチは、以前からライバル視していた同期をキッカケに色々な社員さんや社長を紹介してもらって縁を感じていましたし、僕自身がすごく大好きな会社だったんです。 僕のポジションはWEBマーケティングやインサイドセールス立ち上げなどマーケティングがメインではあったものの、誕生して間もないサービスなのでお客様の声をプロダクト開発側に伝えることも多かったです。ビズリーチで約1年はたらく中で、技術の積み上げ方や戦い方を学びました。   令和元年に起業!1周年を迎え、考える今後のビジョンとは…? ービズリーチを経て、満を持して起業!ここが大林さんの起業家人生のスタートだったんですね。 ビズリーチで起業に必要な経験を積み上げ、2019年の5月7日…元号が令和になった最初の営業日という記念すべき日に「株式会社Another works」を創業しました! ちょうど日本の社会でも副業マーケットが盛り上がっていくというタイミングで創業し、その後9月頃にSaaS型複業マッチングプラットフォーム「Another works」のベータ版をローンチできたのも良かったです。 ー「Another works」とは、どのようなサービス内容なのでしょうか? 副業したい求職者と、優秀な副業人材を採用したい企業をマッチングさせる成果報酬無しのサブスクリプションサービスです。 月額の固定費用の中であれば、何人採用しても費用がかからないという画期的なサービスで創業間もないスタートアップ企業やベンチャー企業に利用いただいています。 今では創業1年目で9,000名ほどのタレント(求職者)が登録してくれて、サービスは日々拡大中です! ー起業の仲間集めはどうやったのですか? すべて、縁です! これまでの自分の仕事での繋がりや知り合いの紹介経由で繋がった方をすべてリファラルで採用しています。時にはかつての仲間を口説いたり…仲間の奥さんにもデザイナーとして協力してもらったり…徐々に仲間を増やしていきました。 ー事業立ち上げへの反響はどうでしたか? 副業のブームに乗っていたのでタイミングはすごく良かったです! ただ、副業系のサービスがたくさんあるので創業当初は他のサービスと何がどう違うのか、差別化をしたり啓蒙活動を行ったりが忙しかったです。 ーちょうど創業1周年。起業してからこれまでで辛かったことはありますか? たくさんありますよ!でも、やはり一番は仲間が辞めていくことですかね。 色々な事情があったり会社のフェーズが変わったことが原因で抜けていく仲間が、辛そうな顔で「辞めたい」と言う瞬間は、何度聞いても辛いです。 僕からしたら感謝しかないのに、申し訳なさそうな顔で話す度に「これを無くしたいな」と思ってしまいます。この感覚は決して忘れてはいけないと思っています。 ーあっという間の1年だったと思います。「Another works」を通じて実現したいビジョンとは? 株式会社Another worksのビジョンは、「挑戦したいすべての人の機会を最大化する」というもの。何かに挑戦したい人や企業をAnother worksというインフラを通じて応援したいです。機会を最大化することが我々の存在意義であり、僕の夢でもあります。 個人的なビジョンは、これまで色々な方に支えられて来たので、これからは支えていく人になりたいと思っています。自分の器の成長が、会社の器の成長だと思っているので、自己研鑽も続けていきます。 幼い頃からずっと何かしらの目標を掲げて、それに向かって達成していくことが好きでした。今後は起業家・大林尚朝としての目標に向かって、行けるところまで仲間たちと進んでいきたいです! ーありがとうございました!常に目標に向かってまっすぐ進むエピソードが印象的な大林さんの今後のご活躍も楽しみです。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗 写真:大林さん提供 デザイン:渡辺梓 文:Moe

CREEDOはキャリアを後押しできる場。藤井蓮が株式会社ブルーブレイズ共同創業者になるまで

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は株式会社ブルーブレイズ共同創業者の藤井蓮さんにお話をお伺いしました。 大学卒業後はWebディレクターとして働かれていた藤井さんが、株式会社ブルーブレイズにジョインを決めた経緯や、現在担当されているお仕事についてお話いただきました。株式会社ブルーブレイズ代表の都築さんの過去インタビュー記事もぜひ合わせてご覧ください! 熱いLINEが共同創業者になったきっかけ ー都築さんと共同で創業された株式会社ブルーブレイズについてまずは教えてください。 ブルーブレイズではCREEDOという社会人向けOB訪問サービスを提供しています。サービス名であるCREEDOはCREED(英語で信念・志という意味) と DO(する)を合体させた造語で、「世界に100億の志を」というミッションから生まれました。 現在は社員2人という状況なので柔軟に仕事を分担していますが、私は主にCREEDO のサービスデザイン・カスタマーサポートを担当している他、CREEDO Journalというキャリアに関する情報を発信するメディアのライターも担当しています。 ーかなり幅広い業務を担当されているんですね。元々起業したいという思いはあったのでしょうか。 起業したいという思いは特になく、正直共同創業者としてやってみないかと誘われたこと自体が予想外でしたね。ちょうど社会人3年目のタイミングで人の働き方に関する仕事に就きたいと思い、組織開発や人事への転職を考えていました。その中で転職したいと思っていた企業、サイボウズ株式会社の選考に落ちたことを大学時代の友人であった都築に伝えたら、一緒に自分の挑戦に加わって欲しいという熱い長文のLINEが届いたんです(笑) ーそんな経緯で共同創業者になられたんですね。その時点では今のようなサービスを提供しようと決まっていたんですか? 元々は学生向けに動画で発信するキャリアサービス案が上がっていましたが、議論する中で学生向けではなく若手社会人向けにターゲットが変わっていきました。 創業時すぐは若手社会人にキャリアのヒントを与えるきっかけになればと思い、キャリアインタビューからはじめました。インタビューをしていく中で、熱意を持っている方達の話をユーザーさんが直接聞けた方が元気や刺激をもらえるのでは?と思い、社会人向けOB訪問サービスが加わりました。 ーサービスの反響はいかがでしょうか。 未経験で転職したかった方や、周りに異業種の知り合いがいなかった方がCREEDOを見つけてくださることが多いなと感じています。普段だとなかなか出会えない人と繋がれるプラットフォームにCREEDOがなっていることがとても嬉しいです。 また私自身も自分の経験談をCREEDOに出しているので申し込んでくださる方がいるのですが、自分の経験談を話す中で振り返りができる良い機会になっているので手前味噌ではありますが、CREEDOは相互メリットのある良いサービスだなと思っています。   誰にとっても生きやすい社会にしたい ー現在に至るまでの経緯も少しお聞きできればと思うのですが、幼少期の話なども少しお話いただけますか。 私は京都出身で10歳から東京に引っ越してきたのですが、生まれ育った京都は在日コリアンの方が多い地域でした。私は日本人の両親の元に生まれた日本人ですが、通っていた保育園はむしろ在日コリアンの方が多くて、私の方が逆に異質な環境で過ごしました。当時は特に何も気にしていませんでしたが、大学生になってから色々調べていく中で在日外国人の方が日本ではどういう立ち位置なのかを知るようになりました。 また、父が精神疾患が原因で社会復帰できていない方をサポートする精神保健福祉士として働いてました。そのため精神病についてや、精神疾患を持っている方が社会でどのような扱いを受けているかを知る機会が多くありました。同時に2歳からは母と2人暮らしだったので、母子家庭=可哀想というレッテルを貼られることが多くありました。 これらの出来事から社会的にマイノリティとされている方や差別・偏見について考える機会が多くあり、誰にとっても生きやすい社会にしたいという思いを持つようになりました。 ーそのようなバックグランドをお持ちだったんですね。 とはいいつつも、そんなに活発に活動していた幼少期ではなく、何かを作ったりするのが好きでマイペースに自分のやりたいことを見つけるタイプでした。高校に入ってから弓道部に入部したのをきっかけに、静かな陽キャから少し陽キャに変わっていったという感じですかね(笑)何かを作るのが好きという当時の感覚が、今の新しいサービスを作り上げることや、サービスデザインをしたりすることにつながっているのかなと思います。   学外に目を向けた結果、アイセックと出会う ーなるほど!大学時代はどうでしたか? 実は大学受験の時に志望校を軒並み落ちまして、最後の最後に唯一受かった東洋大学に進学しました。希望していた大学には行けませんでしたが、だからこそ大学外の活動に参加して視野を広げようと思うことができ、母の紹介で知ったのがAIESEC(アイセック)でした。 ーお母さんの紹介で、ですか? はい。母の職場にアイセックの学生が来たことがあったらしく、母に勧められました。アイセックは海外インターンシップ事業を行っており、元々海外にいくのが好きだったのもあり、海外の学生たちと出会えるのは魅力的だなとと思いました。また、新歓に行った際にお話しした先輩たちが思いを持って活動されていおり、キラキラして見えました。東洋大学にはアイセックの委員会がなかったのですが、東京大学委員会はインカレになっていることを知り、そこに入って活動をすることになりました。 ーそしてそのアイセックで都築さんとも出会うんですね! そうです!大学2年生の時に都築と一緒のプロジェクトを担当しました。タイの学生さんを受け入れて研修内容を考えたり、身の回りのサポートを一緒にしていました。タイの学生さんに限らず、同じ日本人でも考え方の違いとかがあることを気づくことができ、そんな違いを楽しみながらプロジェクトを進めていくのが面白かったです。 また、アイセックでビラ作りなども担当する中で、本格的にデザインの勉強をしたくなりデザイン会社でアシスタントとしてバイトを始めました。これも今の仕事につながっているなと感じる大学生活の中の出来事でした。   ウェブの影響力に可能性を感じて就職 ーそして就活の時期がやってきたかと思いますが、就活はどのような軸を持ってされていたんですか? デザインの勉強をしたことや、アイセックのWebサイト更新やSNS運用を担当したことがきっかけでWebの影響力を感じる機会が多くありました。幼少期の影響から、誰にとっても生きやすい社会にしたいなという思いがあったこともあり、ITやウェブに関わる部分で社会的影響力を持っている会社に就職したいと思っていました。 その中で内定をいただいたWeb制作・運用会社の株式会社メンバーズは、大手BtoC企業のWebマーケティングを支援することでで社会問題を解決していこうという思いをもっている会社だったので入社を決めました。 大学受験時は何を勉強したいかが分かっておらず、とりあえず勉強していたので志望校に行けませんでしたが、就活時は進みたい方向性が決まっていたのでその中から自分にあった会社を見つけることができてよかったなと思います。 ー実際、新卒で入社してみてどうでしたか? 最初はアパレル系企業のWebディレクターを担当させてもらいました。ECサイトのリニューアル時のサイト機能設計やサイトの更新提案や運用をしていたのですが、最後に仕様を決めるのはお客様というところにジレンマを感じることが多かったです。 それでも2年目に差し掛かるタイミングでメインディレクターを務め、初めて独り立ちしたプロジェクトで無事お客様に喜んでいただくことができたのは、自信につながりましたしやりがいも感じることができました。 ーその中で社内の女性活躍推進プロジェクトにも関わっていたとお聞きしましたが。 はい。入社後に立ち上がった社内プロジェクトで、誰にとっても生きやすい社会にしたいという思いが変わらずあったので参画していました。退社するまでの4年間、パパさん社員が時短勤務を取りやすくするためにはどうしたらいいかなどの意見交換会を開催したり、ファミリーデーの開催を企画運営したりしていました。 入社直後は男女社員の比率がほぼ半々にも関わらず女性役員がいない現状に、会社が本当に女性管理職の比率をあげたいと思っているのかと疑問に思っていましたが、このプロジェクトに参加したことで女性の活躍を推進したいという会社の想いを知ることができ、また自分自身もそこに貢献できたことが嬉しかったです。   CREEDOを必要としている人に届けたい ーそんな中、転職活動を考えたきっかけはなんだったんですか。 働いていく中でもっと、本格的に誰もが楽しく働きやすい環境を作る仕事に就きたいと思うようになりました。そして先進的な人事制度を持っているサイボウズに惹かれ、未経験でしたが人事への転職を試みました。しかし、内定をいただくことができず…。 ーそして都築さんからのメッセージが届いたんですね。 はい。2019年の5月に誘ってもらい、メンバーズと複業というかたちで関わることになりました。そして2020年1月に株式会社メンバーズを退職し、正式に役員として働くことになりました。 ー創業から関わってみてどうでしたか。 ゼロから作っていく段階は正解がなく、タイミングや運によっても事業の成功性が変わっていきます。難しいなと思いながらも、それを察知して行動していくのが楽しいなとも感じることができました。 また都築は全体像を見るのが得意で、私は細かいところに注目してみるのが得意なタイプでした。正反対なパートナーなだけあって、最初は対立することもありましたが、お互いのタイプを理解してうまく役割分担ができるようになってきたんではないかなと思います。 ー起業を経験する中で何か他に気づきなどありましたか。 インタビューをしてそれを記事に起こす過程で、意外に人の言いたいことを汲み取ったりするのが得意だと気づくことができました。また、現在毎週キャリアイベントをオンラインで開催しているのですが、そこでも話をまとめていく作業が得意かもしれないと思うようになりました。 ーこれからの目標はやはりCREEDOを更に広めていくことでしょうか。 はい。CREEDOの可能性を感じているので、これからどんどん伸ばしていきたいなと思っています。私がそのためにできることは、使ってくださっているユーザーの心情を理解することかなと思っています。CREEDOのファンになってくれた方がどういう理由で使ってくれているのか、CREEDOがどういう変化をもたらしているのかを引き続きヒアリングして、事業拡大に役立てていきたいと思います。 特に女性やマイノリティの方が日本でロールモデルに出会える機会は多いとは言えません。CREEDOを、誰もが自分の進みたいキャリアの先を行く先輩と出会える場にしていきたいです。引き続きCREEDOが必要としている人に届くよう、少しでもキャリアの後押しとなる場になるよう、広めていきたいです! ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗(Twitter) 執筆:松本佳恋(ブログ/Twitter)  

普通のOLがブラジャーの悩みを解決して日商1000万円。24hブラ開発者・こじみく(小島未紅)の歩みとキャリア観

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第121回目のゲストは、株式会社ashlyn(アシュリン)代表取締役の小島未紅さんです。 Twitterで「こじみく」という愛称でブラジャーの正しい知識や自社ブランド「BELLE MACARON(ベルマカロン)」とノンワイヤーブラ「24hブラ」を発信している小島さん。日商1000万円を売り上げ、多くの女性の日常の悩みに寄り添う会社を運営していますが、意外にも創業前は「起業をしよう、売り上げを伸ばそう」という意識はなかったと言います。「ありそうなのに、なんでないの」という自分自身のブラジャーの悩みから生まれたプロダクトがここまで成長した軌跡を、小島さんの半生と共に辿りました。   「商品力」が日商1000万円の鍵 ー本日はよろしくお願いします!まずは、小島さんの自己紹介、現在のお仕事を教えてください。 小島未紅です。2016年5月に株式会社ashlynを設立しました。日本で初めてのノンワイヤーブラ専門のランジェリーブランド「BELLE MACARON」を立ち上げ、2018年11月からオンラインショップで「24hブラ」の販売を行っています。2019年には最高日商500万円、今年にはいり最高日商1000万円を記録しました。 昨年11月までは、複業でほかの仕事と並行して会社の経営とブラジャーの開発をしていたんです。株式会社ashlynはわたしひとりの会社なので、商品のプロデュース、サイトデザイン、商品写真のディレクション、マーケティング…ブラジャーのパターン作りやデザインはプロとタッグを組ながら、基本的にすべての工程をひとりで担っています。   ーランジェリー業界未経験で日商1000万円という実績から、起業家としても注目を集められていますが、ブランド立ち上げのきっかけはなんですか? 新卒で社員1万人規模の大手IT企業でシステムエンジニアとして働いていました。通勤時間がかかり、残業もあって勤務時間も長く…そうなると、ブラジャーの着用時間も学生のときより増えたんですよね。その上、デスクワークで長時間同じような姿勢で仕事をしていたため、ブラジャーを着けていることに大きなストレスを感じるようになったんです。 ストレスを軽減したくて、ノンワイヤーブラに変えようといろいろ探してみました。もともとランジェリーが好きだったので、可愛いものが欲しくって…でも、ノンワイヤーブラってシンプルなものやスポーティーなものばかりで、色もぱっとしないんです。ネットショップも、実店舗も、とにかく探しまくりました。けれど、満足いく「可愛くて、しかも快適」なノンワイヤーブラには出会うことができず…。 段々と、「作れそうなのに、どうして誰も作ってないの?」という疑問が湧き始めました。友人に相談をしても「そういえば、可愛いものってないね」という声ばかり。「可愛いノンワイヤーブラが欲しい!」とみんな言っていて、ニーズも感じたんです。確実に欲しがっている人がいる、ということが自信につながり、「自分でノンワイヤーブラを開発しよう」と一念発起しました。 ー24hブラはポジティブな口コミが多く、SNSで声が広がり、ブランド認知も向上しているイメージがあります。 実は、マーケティング費用は月に1万円ほどしかかかっていないんです。わたし自身の発信と、そして商品を手に取って気に入ってくださった方がSNSで発信し、2年近くかけてここまで成長していきました。 やはり、商品を本当にいいものだと感じてもらわないと口コミは生まれません。「商品力」の強さが成長要因だと考えています。24hブラは、2年半かけて開発しました。日本トップクラスのパタンナーとデザイナーとタッグを組み、そこにわたしが消費者目線を付け加え、1センチ単位の調整を重ね…妥協は決して許さず、とことん商品にこだわった結果として24hブラがあるんです。それを実際に着用してもらい、満足してもらえた…その結果が最高日商1000万にもつながっているのではないでしょうか。   起業がしたかったわけではなかった ー起業ってリスキーなイメージもあると思います。踏み切ることに勇気はいりませんでしたか? 正直、勇気はそんなに必要ではありませんでした。「人生賭けて起業をする!」みたいな熱いイメージを、学生の頃はわたしも抱いていたんです。でも、実際はそんなことなかったですね。わたしの場合、昨年までは会社員と兼任しての会社経営だったため、お給料を変わらず一定額もらいながら自分のスキルが上がっていく…むしろリスクではなくメリットが大きかったです。 大規模な目標を掲げていたわけではなかったことも、リスクが低い起業だったことにつながっているのではないでしょうか。わたしは別に、会社を大きくしようとは考えていませんでした。ただ、「理想とするものが欲しい」という想いの一心でしたし、好きなものの延長線上に起業があったんです。大きな目標があって、決断を要して…というより、理想的なノンワイヤーブラを世に出すために、ひとつずつ積み重ねていった。その結果、ここまで大きくなった。そう振り返っています。   ひとつのことに熱中する経験を積む ー積み重ねによって出来上がった小島さんのこれまでの歩みを、さらに遡ってお聞きしたいです。幼少期はどんな子どもだったのでしょうか? 活発で積極的、集団の中にいても目立つタイプだったと思います。ムードメーカーで、人を笑わせるのが好きでした。その一方で、ひとりで過ごす時間も大事にしていて、なにかに夢中になるとそればっかりしているような子どもだったんです。   ー学生時代に打ち込んでいたものはありますか? 小学校から高校まで、吹奏楽部に所属し、アルトサックスを吹いていました。進学した中学校は、賞とかも獲ったことがないいわゆる弱小校だったのですが、ちょうどわたしが入学したときから「もっと上を目指したいよね」という空気に変わりつつあったんです。それもあって、コンクールで銀賞を獲ることも叶いました。 ただ、多くの吹奏楽部生にとっては、金賞を獲ることが目標なんです。それまで賞をひとつも獲ったことがなかったなか、銀賞という成果を残せたのは快挙ではあったものの、やはり悔しさが残り…高校は100人以上部員がいて、金賞の実績も多くある強豪校の女子高へ進学しました。   ー相当練習も厳しかったのではないでしょうか? 吹奏楽部は文化部として認識されますが、ほとんど体育会系の部活でしたね。炎天下での練習もありました。合宿ともなれば朝の5時から夜の10時まで練習。サラリーマンよりも働いていたと思います。軍隊みたいに厳しく、大変でした。   ーそのような環境で鍛えられたんですね。部活動に打ち込みながらも、高校では大学選びも大事になってくるかと思います。 部活最優先でそんなに勉強をしていなかったので、成績は振るいませんでした。周囲からも「勉強が苦手な子」と認識されていたと思います。悔しかったですね。このままでいいのか、と考え、自分の当時の学力よりも高い目標を掲げて受験勉強に明け暮れました。お風呂も忘れてしまうほど集中して、1日10時間は机に向かっていたんです。 吹奏楽にも熱中していましたが、ひとりでこんなに何かに打ち込むという経験はそれが初めてでした。偏差値を20上げて憧れだった立教大学へ合格。大学生活が始まります。   iPhoneとの衝撃的な出会い ー自分を成長させるような大学選びをされたんですね。就職活動ではどのような選択をされたのでしょうか? 大学時代にいろんなバイトをしていました。回転すし店や、カウンターのおすし屋さんや、中国茶販売店、コンビニ、イベントスタッフなど…そのなかでも、一番楽しかったのが、レンタルビデオショップだったんです。映画が大好きで、それで、就職活動も最初は映画業界を目指していました。しかし、映画業界は狭き門で、思うように運ばず…。 大学の授業でプログラミングの経験があったのと、昔からPCを使ってHP作成や動画の処理などをしていたので、「パソコンにだったら1日10時間でも向き合っていられるな」という考えからIT業界も受けるようになりました。そして、NTTのグループ会社である大手IT企業にシステムエンジニアとしての内定をもらいます。   入社をする前に、とても印象深い出来事ありました。大学1年生のときにAppleがiPhoneを発売して、周りも一気にガラケーからスマホへの乗り換えの波が起こっていたんです。でも、わたしはたとえLINEが使えなくてもガラケーにこだわっていて、ずっとお気に入りの機種を使用していました。 それが、大学4年生の秋、22歳のときに愛用していたガラケーを紛失してしまったんです。せっかくだから、と、iPhoneを使用し始めました。そうしたら、生活が一気に変わるような感覚すら覚える衝撃を受けて…。新しい価値観が根付いたような気持ちでした。「ITや新しいサービスは、社会にこんなにもインパクトを与えられるんだ」と感じ、世の中に根差したサービスを生み出したい、という想いが、このときに芽生えたんです。   安泰と思われていても…大企業ゆえの悩み ー起業につながる情熱がそのときから灯っていたのかもしれませんね。大企業での社会人生活はどうでしたか? システムエンジニアとして、オンラインストレージサービスの開発プロジェクトに参加しました。200人近い人が関わる、大規模なプロジェクトです。正直、それだけ大きなプロジェクトだったため、自分の目の前の仕事が「何かを作っている」という感覚がありませんでした。   ー大企業ならではの悩みを抱えられていたんですね。 社会人2年目になり、不安や焦りが大きくなっていったのを感じました。世間では、入社できれば安泰だと思われるような会社です。大企業がゆえに、自分がやっている仕事が、自分自身のスキルとして身についているのか分からなくて…。転職は考えていなかったのですが、転職をしようと思ったところで、活かせる実績があるようにも思えず…。 その時期に、「ブラジャーの着用がストレス」「だけど理想のノンワイヤーブラがない」という身体の悩みも重なって、自分でプロダクトを作り、自分で売るということを考え始めたんです。 現在、D2C業界が盛り上がりを見せていますが、その当時はまだそんなに目立った例もなく、ネットで他のブランドの発信方法を調べたり、ヤフー知恵袋で経営や売れるネットショップに関しての質問への回答を読み込んだりしていました。 自分でプロダクト開発をして、ネットで発信して、オンラインショップで販売するーーこの経験は、確実に自分のスキルとして蓄積されます。サイト制作やマーケティング、経営の経験やお金の知識は、たとえブラジャーじゃなくなっても、転用して活かせるもの。大企業だと手に入れられなかったスキルが、起業を通して身になるだろうと思いました。   会社員、起業、複業…経験から後押しする「第三のキャリア」 ー起業してからはどのような生活を送られていたのでしょうか? 2017年に大手IT企業を辞めて、派遣社員として受発注業務に関する事務処理を行っていました。その勤務時間が14時から23時半。それ以外の時間や休日を、ノンワイヤーブラの開発にあてていました。 自分が納得できるものを作るために、1からです。「工場 ブラジャー」や「ブラジャー デザイナー」という検索ワードで提携先を探し、200件以上のリストにひたすら電話で問い合せをする日々。予算が合って、サンプルを送ってもらっても、質が悪く発注できないということも何度もありました。泥臭く、ひとつひとつ課題をクリアしていったんです。   ーシステムエンジニアから、ブラジャー開発というのは大きな方向転換だったのではないでしょうか? わたしは、あまり大きく変わらないな、と思っています。エンジニアも、仕様やデザインを決めて、課題を解決していく。ブラジャー作りも似ているなって。ひとつのことに熱中してやる、という幼いころからの気質も、活きたと思います。起業には、様々な側面がありますから、いままでの経験のいろんなことが役立っている感覚を覚えるんです。   ー今後の小島さんの展望を教えてください。 24hブラは、ブラジャーの悩みから女性を解放するプロダクトです。今度も広め、育てていきたいですし、別の商品開発にも注力したいと考えています。年内には、新しいプロダクトをリリース予定です。ぜひ楽しみにしておいてもらえると嬉しいです! また、わたしのこれまでの珍しいキャリアや実績を今後も発信しつづけ、挑戦しようとしている人の背中を押せれば嬉しいです。リスクの少ない起業を考えてきたからこそ、できる発信があると思います。就職や転職に並ぶ第三のキャリアとして、起業という道が確立された社会を推進していければと考えています。   ーこれからも小島さんのご活躍とBELLE MACARONの成長が楽しみです!本日はありがとうございました。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる   === 取材:高尾有沙(Facebook/note/Twitter) 執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter)

SMAPになりたくて起業!? HeaR代表・大上諒が「青春」をミッションに掲げる理由

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、HeaR株式会社の代表取締役社長・大上諒(おおうえ・りょう)さんです! 「青春の大人を増やす」をミッションに掲げ、事業を展開するHeaR株式会社を起業するに至った背景はもちろん、学生時代や新卒時代のエピソードなど、大上さんのこれまでの人生についてに迫りました。 いつか起業したいと考えている方、これから社会人になろうとしている方にはもちろん、「最近、仕事が楽しくないな」「学生時代に戻りたいな」と悩んでいる方にも響く、大上さんの「働く」に関する考え方とは…? 人気アイドルグループ「SMAP」の姿に心を打たれ、起業家という選択肢を志す! ー大上さんの自己紹介と、現在のお仕事を聞かせてください! 僕の経歴は、新卒でサムライト株式会社に入社しまして、24歳の終わりに起業しました。今は26歳でHeaR株式会社を運営しています。 僕たちは社名も2回変わっており、事業内容も5回くらいピボットを繰り返して色々な変遷をしてきて、現在は企業の採用支援と、toC向けに転職支援サービスを最近立ち上げました。 ー事業を5回!すごいですね。それまではどのような事業を? 創業当初はeスポーツ+プラットフォームを組み合わせた「エスプラ」という社名で、その名の通りeスポーツ領域の事業をやっていました。 ただ、それがなかなかうまく行かず、事業内容をピボットしようと考え、とはいえ事業内容と社名は親しいほうが良いよねということで、次は「シニアル」という社名にしました。 こちらは高齢化社会の課題を解決したいという想いから、シニア(Senior)に可愛らしい雰囲気の“ル”をつけ、高齢者向け住宅のマッチングメディアを作っていました。 続いて、PRテックとしてメディアと企業のマッチングプラットフォームを作り、その次はオープンイノベーションで大企業とスタートアップ企業のマッチングサービスを作って、その間に「孫レンタル」という高齢者向けのシェアリングエコノミーサービスのようなものもやっていました。 しかし全てあまりうまく行かず、結果的に今のHeaRで行っている採用支援に行き着いたという感じですね。 ー高齢者サービスからオープン・イノベーションサービスまで、幅広いように感じますが事業コンセプト等はどのように考えるのですか? 僕個人は、起業家として「100年先の日本に責任を持つ」というミッションを軸にしています。その軸に沿って先述の事業はすべてチャレンジしました。 上記ミッションに加え、自分自身の心が燃えるものが事業になっていると良いと考えており、さらに今後伸びていく市場かどうか・これまでの自分の知見や経験が活かせるかどうかという点を重視しています。 ーユニークな発想でいいですね。そもそも起業家にはずっと憧れていたのでしょうか? 僕が起業した要因になったのは、17歳で経験した東日本大震災です。その当時は高校2年生で、学校にいたのを覚えています。 地震と津波で日本が大変なことになっている中、何もできない自分に悔しいと感じました。僕は、そこで当時活躍していた“SMAP”に心を打たれたんです。 ーあの、解散してしまった「SMAP」ですか? そうです。もともと、ジャニーズが好き!というわけではなかったのですが、SMAPの木村拓哉さんがすごく好きで、SMAPも好きだったんです。それまではただカッコいいな〜と思っていたSMAPへの憧れが、東日本大震災を経て尊敬の念に変わりました。 理由は2つ。1つ目は、当時放送していた「SMAP×SMAP(フジテレビにて約20年間放送された人気番組)」でずっと東日本大震災の義援金を呼びかけていたんです。グループを解散するまで、この一貫した行動が素晴らしいなと思いました。 もう1つは、福島の被災地でコンサートを開催したことですね。そこで、現地の人たちを元気にするためにうたった歌をすごく覚えています。それを聴いた福島の人たちの顔もすごく輝いていて…。高校生の僕は「あんな大変なことが起きたのに、こんなにも人を笑顔にする力ってすごいなぁ。SMAPになりたい!」と考えたんです。 ー「SMAP」になりたかったんですね!では事務所に…? まさか……(笑)ジャニーズになるためには色々足りません、言わせないでください……(笑)そこで「僕のやり方で、SMAPみたいになるにはどうしたら良いんだろう?」と考えたんです。その時の選択肢が医者か教師か起業家の3択でした。 起業家は、東日本大震災の際に、ソフトバンクの社長であった孫正義さんが多額の寄付をしたというニュースを見てなんとなく夢の選択肢に入っていました。そこで当時の担任の先生にこの3つのどれかになりたいと相談したいんです。 ーその先生はなんて…? まず、僕は当時文系を専攻していたので、医者になるのは難しい上に理系に変わったとしても医者になるのに何年もかかると言われて諦めました。 次に教師はどうだろう?と先生に尋ねたところ、「俺もお前くらいの年に起業家になるか、教師になるか悩んで、結局教師になったけど後悔しているんだ」と言ったんです。「なぜなら、目の前の生徒を幸せにする自信はあるけれど、教師は幸せにできる人数に上限があるからだ」と。 担当するクラスメート40人は幸せにできるけれど、それ以上の人間を幸せにする術がない教師になったことを後悔しているとその先生に聞かされ、「お前はここで教師ではなく、もっと多くの人を幸せにするSMAPのような存在になったほうが良いぞ」と言われ、起業家という選択肢が将来の夢になりました。 未だにその先生とは節目節目でやり取りが続いており、僕にとっての恩師ですね。   社会人として最も伸びる「ゴールデンエイジ」に、自ら負荷をかけられる環境へ新卒入社! ー高校生のときに進路を選択して、その後はどんな人生だったのでしょうか? SMAPのように多くの人を幸せにするため、起業家を目指すと決めてから、高校を卒業して大学に進学し、大学時代は様々な企業でインターンとして働いていました。 内定をもらった会社はちょうど上場準備に入っている時期だったので「将来起業する時のためにも、上場を間近で見れるのは面白そう」と思っていたんですね。そこで内定者としてインターンシップも行っており、週3〜4日ほどは働いていました。 しかし、上場準備に向けて勤怠管理も厳しくなるため、どんなに働きたくても20時には帰らないといけないんです。これは、僕が思い描いていたバリバリ働くスタートアップの姿とは少しズレているなと感じました。 ーズレているというのはどのような感覚ですか? 言葉を選ばずに言ってしまえば「このままでは僕自身の働き方が、ぬるくなってしまう」と感じたんですね。よくスポーツやトレーニングに例えて考えるのですが、最初に高負荷をかけるのか、低負荷をかけるのかによって、その後の“当たり前の基準”って変わると思うんです。 新卒で入社して働くのであれば、もっと高負荷を自分にかけられて、もっと働ける会社にいようと思いました。当時の僕は、労働時間が長いほど成長も早く、起業も早くできるだろうと捉えていたので、申し訳ないことに内定承諾した企業を入社直前の3月に辞退しました。 ーあと1ヶ月で入社なのに!その後はどうなったんですか? 1ヶ月で職探しをしないといけない!となってたまたま本屋に行ったところ、『未来を創るスゴいベンチャー101』という本が目に入ってきました。これは良いテレアポリストができた!と思って、片っ端から「就職したいのですが、空いている枠ありますか?」と電話したんです! そこで、運良く巡り会えたサムライト株式会社に新卒入社しました。 ーすごい(笑)100社もテレアポ…!それで新卒入社の会社に出会えたわけですね。 サムライトは「枠は空いているけれども選考を受けてほしい」という流れになり、選考で2日間実際の業務を行うプログラムに参加しました。 その時は選考だったので、定時で帰るルールではあるのですが、以前働いていた企業と比べると、1日が非常に濃くて体感時間が全く違いました。5秒で1日が終わると思えるほどだったんです。こんなに仕事が楽しく、濃い時間が過ごせるのか…!と感じたのが入社したいと思えた理由でした。 ー入社後はどうでしたか? 仕事はめちゃくちゃ楽しかったですね!優秀な先輩も多く、どうやったら追い抜けるのか・勝てるのかと考えながら日々働いていました。新人にも対等に接してくれ、周囲の方々に本当に恵まれた1社目でした。 先輩方とディスカッションしたり仕事をする上で、もちろんいつかは勝ちたいですし、仕事の知識や経験も足りなかったので、まずは働く時間・量で勝負しないと!と思ったんです。そこで、会社に泊まる許可を社長からもらい、12時まで働いて銭湯に行き、会社に泊まって仕事をするのが日常になりました。 ー大上さんは、なぜそこまで負荷をかけて働くことができたんですか? よく「なんで土日も働き続けるの?」と聞かれることがありますが、僕は仕事をスポーツや受験勉強と同様に捉えていますので「五輪出場を目指す選手は土日も練習はするし、受験勉強には土日も休みもないから」と回答しています。 これには、かつて僕自身がプロサッカー選手を目指していたことが関係しています。 僕にとっては、プロサッカー選手を諦めたことが結構なコンプレックスになっていたのですが、プロを目指して練習している人とはそもそも日常生活から違っていたんです。カードゲーム等で遊んでいた僕なんかより、何倍もの努力量をこなしていたんです。 子供の身体能力、運動能力が著しく発達する一生に一度のタイミング…いわゆる“ゴールデンエイジ”があるように、社会人にもそのゴールデンエイジはあると思っていました。 社会人としての基盤とその後成長する力をつけるのは、社会人1〜2年目なのではないかと考え、なるべく負荷をかけて働きたかったんです! ーたくさん働ける会社という点以外に、会社選びで大切にしていたことは? 伸びていく市場かどうかをチェックしていました。 内定はコンサルティングファームや他の企業からもいくつかもらっていたのですが、たしかに優秀な方が多いですし自己成長の場になるかもしれないけれど、毎年成長している市場か?と問われると少し違うなと感じていました。 市場が伸びていくのに応じて、会社や自分がこの先どう伸びていくんだろう?という好奇心に勝るものはなかったですね。   起業、そしてHeaR株式会社が誕生。「青春の大人を増やしたい」というミッションの理由 ー起業を決めたタイミングはいつだったのでしょう? 学生時代に起業することは決めていたので、あとはタイミングの問題だったのですが、最初は新卒入社してなんとなく30歳くらいで…と考えていました。 ですが様々なニュースやメディアにどんどん年下の起業家が登場するようになって、カッコいいと思う反面、悔しくなってしまって…。打席に立たなきゃ、ホームランは打てない事を悟った僕は、「早く起業したい!」と思うようになっていました。 そこで四捨五入して「20代で起業しました」と言うためには、25歳になる前に起業をしたいとなり、24歳10ヶ月目にして登記しました。起業のタイミングはそんな理由でした(笑) ー起業時、事業内容はどうやって決めていったんですか? サムライトに入社して1年半が経ち、起業を早くしたくなったので「辞めます」と言ったんです。すると「まだ全然力がないから、もう少し働いてから考えた方が良い」と言われ、働く期間を伸ばしました。 その期間に、1週間に1個は事業内容を考えて40個以上の事業アイディアを溜めて考えていました。サムライトの皆にはすでに起業したいことと、そのために辞めたいことは伝えていたにも関わらず、ありがたいことに作った40個ほどの事業内容の壁打ちに付き合ってくれました。 ーそして起業後しばらくは冒頭の事業内容の変遷に戻るわけですね。現在のHeaRでは、なぜミッションに「青春」を選んだのですか? 起業の大前提は、「100年先の日本に責任を持つ」ですが、これは日本の社会課題を解決したいという想いがあるからです。これを事業内容に紐付けて考えているのですが、現在の事業内容の“採用”に関しては、日本人の仕事満足度が世界35ヵ国中最下位という結果を見て考えたものでした。(※Indeed調べ) この課題を解決するために、どこが最も問題なのか?を考えた際に、まずは採用の時点で企業と候補者のミスマッチが原因なのではないかと考えたんです。なので採用に関わる事業をスタートしました。 なぜそこで”青春”なのか?というと、僕がずっとサッカーをやっていたので、割と身近な言葉だったという理由があります。 そして青春って、学生時代のものと捉えがち。社会人になった仲間と久しぶりに集まると「楽しかった学生の頃に戻りたい。青春時代に戻りたい。」という人も多いですよね。 しかし僕は、大人になってからも青春はできると思っています。それを伝えたいので、あえて「青春」というワードを使って証明したいと考えています。何歳になってもイキイキしている、大人になっても青春している。そんな社会を創りたいなと思います。 ▼大上さんが企業の想いを綴ったnoteはこちら ー「青春」とは目に見えないものですが、仲間同士でどう認識を合わせているのですか? 最初は、僕がトップダウンで青春の定義を決めていました。すると、仲間同士で青春の定義についてズレが生じてしまったんです。 「青春って、自分の心で実感するものだよな…」と気付き、トップダウンで決めるのではなく各々の青春の感じかたがあっても良いと考え、「仕事に恋をしている瞬間=青春」としました。 また、恋をしている瞬間や恋に落ちる瞬間も人によって異なりますよね。僕にとってはかつて流行った“脳内メーカー”のように、仕事のことで頭がいっぱいになっている状態だと捉えています! ーHeaRに欠かせない、一緒に働く仲間はどういった目線で採用しているのでしょうか? 大前提として、一緒に青春をしたいと思える仲間かどうか!ここは絶対にブレない基準ですね。 また、僕たちにとっては採用活動であり、求職者さんにとっての転職活動は、Win-Winになっているものだと考えています。僕たちが掲げる事業のミッションや事業で解決したい社会課題が複数あって、そのうち求職者さんが解決したい課題がマッチして、課題解決をするスキルがあるのであれば一緒に働きたいと採用をしています。 僕が人を採用する立場になって大事にしていることは、社名にもあるように「Hear=聞く」ことです。働く前に全部聞こう・言おうというコンセプトは大事にしています。なので僕たちの課題も考えていることも全部話しますし、求職者さんの想いも全部開示してほしいなと思っています。 ー大上さんが仕事に夢中だというのがすごく伝わってきます。起業してから今までずっとモチベーションを高く保ってきた秘訣とは? 辛いことや困難はたくさんあります。けれど、モチベーションが高い・低いという考え方は、HeaRの皆ともしないようにしています。 例えば、プロのサッカー選手が何かプライベートの問題が起きたとして、プレーで手を抜くなんて考えられないですよね。モチベーションの浮き沈みでパフォーマンスにも差が出てくるようなプロフェッショナルではダメだと考えています。 僕がそもそも設定した軸である「100年先の日本に責任を持つ」や「青春の大人を増やしたい」からブレていなければ、モチベーションはずっと100のまま推移していくと思います! 今後、5年…10年はHeaRの事業で青春の大人を増やすために尽力しながら、憧れのSMAPに近づけるように頑張りたいと思っています! ー働くって何だろう?と考える機会になりました。素敵なお話をありがとうございました!   ▼大上さんの想いをもっと知りたい場合はコチラ! ※note ※Twitter ※HeaR株式会社について 取材:増田 稜 執筆者:MOE デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

防災グッズ専門カタログを開発!KOKUA代表・泉勇作さんに訊く!根拠のない自信が自信に変わるまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第189回目となる今回は、泉勇作さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。   幼いころに阪神淡路大震災を経験し、物心ついた頃から地震に対する意識が人一倍強かったという泉さん。「防災」というフィールドでビジネスをする現在に至るまでに、いったいどんな経験をされてきたのか、取材しました。   防災グッズ専門カタログってなに? ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。  はい。株式会社KOKUAで代表をしている泉と申します。元々、防災・災害救援に関する活動を個人として続けておりました。現在は、それに加えて、防災をよりポジティブな形で一般の方々に考えていただけるように、と「防災×ギフトのライフギフト」というサービスを作っている真っ最中です。 ーライフギフトとは?  防災ってとっつきづらい・何から手をつけて良いか分からない・堅いなど、とても大事なことなのに簡単に手をつけられないのが現状ですよね。そういった自分で防災グッズを買い付けるのが難しい中でも、自分の大切な人の大切な日(例えば、誕生日や父の日・母の日など)に1冊のカタログギフトとして、防災グッズをまとまって見ることができるものがライフギフトです。自分たちで言うのもあれですが、とってもお洒落でスタイリッシュなカタログになっています!(笑)  僕たちは、「あなたのことを大切に思っています」「あなたの無事が何よりです」という思いが伝わるようなカタログギフトを作っています。先日2ヶ月ほど行っていたクラウドファンディングが終わりまして、現在は印刷や紙の質感の調整などの作業真っ最中ですね。 ースタイリッシュなカタログ、がポイントかと思うのですが、デザインをお洒落にすることにはどういった想いがあってデザインを考えられたのでしょうか。  防災が大事だ、と自発的に認識して防災を始めていくことがベストだとは思うのですが、それは難しいなと思っていて。防災を何と馴染ませていくかが大切だなと僕らは思っています。そのため今回は、防災グッズとしてではなくてまずは「ギフト」として喜ばれるものであることが大前提としてあります。贈り物をする体験として喜んでもらえるように、ということでデザインにはこだわりました。   防災にかかわるようになったきっかけは? ー大学受験の失敗があったとお伺いしています。  はい。森見登美彦さんという作家さんが好きで、その作品に登場する京都出身のこじらせた大学生に憧れを抱きすぎて京都の大学を受験して進学しました。正直、今まで自分で思い描いた目標は達成することが多かったので「自分ならまあ、何とかなるだろう」といった自信がありました。その延長で、受験も何とかなるだろうと思っていたのですが、見事に大学受験で打ち砕かれましたね。 ーその、いわゆる根拠のない自信をもつきっかけは何だったのでしょう。  高校生の頃に、ある大学の教授を招いて自分のビジネスを発表する、という機会がありました。当時、地元の有馬サイダーを他県の人に知ってほしいと思ったことをきっかけに社長さんの元へノーアポで伺って「(有馬サイダーを)800本、僕に預けてください!どうにかしてみせます」と伝えたことがありました。優しい社長の心遣いでその時は800本頂き、それを使って、地域の夏祭りで有馬サイダーの無料試飲をやってみたんです。この時の効果測定として、その場でオンラインから有馬サイダーを購入してくれるひとが増えることでトータルの販売数がアップするという仮説を立てていました。結果は、全くだめでした。無料で提供して終わりでしたね。ですが、この研究を1000人程度が集まって発表する場で審査してもらって優勝できたんです。この成功体験が、根拠のない自信が植えつけられて勘違いするというきっかけになる事件ですね。(笑) ーなるほど...。その後の大学入学後に、東日本大震災を経験されたのですね。  厳密にいうと、入学式の直前ですね。在学していた大学と被災地は、地理的に離れていたのですがボランティア活動を始めました。僕が1歳半の時に阪神淡路大震災を経験しているんです。ほぼ記憶には無いですが身の回りの環境がそこで大きく変わったという経験があり、物心ついた時から年の離れた兄姉や親戚から地震の話を聞いたり、震災学習を熱心に学ぶ機会があったりと地震に対して人よりも敏感だったというのが前提の背景にあります。なのでボランティアというか、特別なことを何かしたとは思っていません。あの当時って、日本中の誰もが「なんとかしたい」と思っていたと思いますし、初めて募金をしたひともいるかと思います。僕もそういった感覚でボランティアに参加しました。 ーボランティアに参加してみて、内面の変化などはありましたか?  いわゆる何も起きていない安全圏から遠く離れた非日常の現場に行って感じるギャップに対してとても思うところがありましたね。その後も、東日本大震災に限らず災害支援は基本的に参加するようにしていて、学生時代は1軒でも多くの家の役に立てるならと思って活動していました。  我々は土日やお休みの期間に活動をするんですが、平日に日常へ戻るととんでもなくギャップがあるんですよね。自分自身に対して、無力とまでは行かなくても微力だな、と感じることも多々ありました。1週間と経てば関心の低い友人たちは「台風なんてあったけ?」といった様子で、そういった人たちにとって災害を自分事として考えてもらうためにはどうしたらいいのかと考えるようになりましたね。 ーその後、ボランティア団体に入られたのですね。  インカレのような形で各大学に支部があって、当時1000名程度、現在は3000名程度の団体に入っていました。当初、僕の大学の支部には3名しか人がいなかったので「人数を増やして欲しい」という依頼を受け、支部長として「仲間を増やして出来ることを増やしたい」というマインドで活動していました。  共に生きる共生社会をつくることをミッションに掲げる団体で、当時から共感して活動していました。僕が在学中には1年半ほどで200名くらいに増えましたね。メンバーを増やすために泥臭く、新歓の時期に色んなひとに「とりあえず説明会だけ来て!」と走り回っていました。自分に酔いしれまくった演説をして(笑)それに共感してくれた下級生が加入してくれ、そこからは口コミで広がって、という感じで人が増えていきました。 「なんでもできる」「なんとかなる」と思っていた過去。どうにもならない現実を経験して感じたこととは ー学生時代は色々と活動されている中で、留年を経験されたんですね。  そうなんです。当時、ボランティアするか遊ぶか、あと学費・生活費を稼ぐために沢山働いて、という生活だったので本末転倒で留年してしまいました。ボランティア団体は規模が大きく、一緒に活動する中で横の繋がりが強かったです。周囲が自身の成長や社会への貢献という意識が強かった分、当時の自分は1年遅れになることに対して取り残されてしまった感覚に苛まれていましたね。 ーなるほど...。その悩みを乗り越えて、就職活動はどういった形でされていたのでしょうか。  とにかく、成長したい!と思っていたので、いちばん過酷で実力が試される環境にいこうと思い、人材会社に営業として入りました。当時、200-300名いた同期の中で1位をとることが自分の価値の証明になると思っていたので、入社後は時間を惜しまず努力していましたね。  当時、NPOへの就職も選択肢としてあったのですが、少し違った切り口から自分がやってきた防災というフィールドで持続可能なサービスを作りたいというか、社会起業家のような存在にぼんやりと憧れがありました。そのために、モノを売って、お客様に価値の対価としてお金をもらうという経験をしたいという思いで一般企業に就職しました。将来を視野に入れた選択でしたね。 ー当時、ガンガン営業を極めて成果も出されていたかと思うのですが、しんどくはなかったですか?  そうですね。1年目で経営企画室に配属後、表彰されてから、新たなシステムの作成・販売担当となりました。出来たばかりのサービスだったので、誰も売ったことのない商品を扱っていました。作りたてのサービスはバグが起こりがちなこともあり、リアルに週に3日は朝の7時まで一睡もせず働く日々でしたね。近くの満喫でシャワーを浴びて8:30にはまた出社、という生活を仕事を辞めるまでの最後の8か月は続けていました。そんな生活を続けていたので、体重は57kgから80kgにまで増えました。当時娯楽が本当に無くて、帰宅時にご飯をどか食いすることしか楽しみがなかったんです。今思えば病的で、ストレス解消で食事に走り、見事にブクブクと太っていきましたね。 ーそんな中、退職を考え始めたきっかけとは?  新卒入社時からお世話になっていたメンターの方が、ご自身のお父様の会社を継ぐということで僕が辞める3,4か月前に辞められたんです。僕としては、起業したい・新規事業を自分でつくりたいという思いが強かったので、先輩に自ら頼み込んで「(先輩が担当していた)-2000万の赤字を黒字にすることができたら、僕に好きなビジネス何でもやらせてください」と言って承諾を得て先輩(の会社)についていきました。その後、1年半ほどで黒字化に成功しました。その時もめちゃめちゃ働きましたね。   根拠のない自信がいつからか根拠のある自信に。その過程にあった努力と葛藤とは? ー防災をキーワードとしたビジネスをしたい、という想いが強くなっていったきっかけなどありますか?  はい。社会人になってからも当時に起きた災害時にはボランティアへ行ったりなど活動を続けていたのですが、その中で自分はまだまだだなと思いつつもこれまで経験してきた自分を試してみたいと思うようになりました。「防災をいろんな人に広めるためのビジネスが何かあるのではないか」と、当時いた会社に自分の想いを伝えたことがきっかけです。最初は会社の中での一事業という形でスタートしましたが、そこから続けていく中でしっかりビジネスとして考えてみてと言われた時がありました。ちょうどその時が「防災ガール」という団体の解散のタイミングで、アクセラレータープログラムがあってそこから思わぬ方へ展開が進んでいくという感じですね。防災ガールからは、防災をどうやって伝えるか、社会に馴染ませるか、とそもそもの防災のあるべき姿を突き詰めていくこと、そしてそれを実際に行動することの難しさを学びましたね。 ーアクセラレータープログラムではどんな経験をされたのでしょうか。  個人として、友人と2人で参加しました。プログラムを通して改めて、防災を事業化することの難易度の高さを感じましたね。半年で2回ほどビジネスモデルを変えたり、と僕らはとても出来の悪い方だったかと思います。最終的な着地点として、企業研修という形に落ち着きました。僕らがBtoBの営業にはそれなりの自信があったので、企業様にとって役に立てるように新人教育などの研修に防災教育を組み込んで「防災を学びながら企業様のチームビルディングができる」ような防災×企業研修を提案しました。 ーそこから、独立へと踏み切ったのはどうしてでしょう。  そうですね。僕の場合、どちらの方が心地よい人生かと思った時に、自分が力になりたいと思う場所で努力することを心地よいと感じたので、独立することを選びました。  当時の上司からは、「困ったら戻ってこればいいし1度やってみたら?潰れても死にやしないよ!」と温かい言葉で背中を押してもらいました。保険というか、そう言ってくれる人がいるというのは大きかったですし、僕個人の深い部分での気持ちを見透かされたようでした。 ー独立を決めてから、心境の変化はありましたか?  決して今の自分が根拠のある自信を持っているというわけではないんです。ですが、自分が求めればリアクションをくれる、知恵をくれたり手を貸してくれる、時には支援をしてくれたりする方々の存在に気付けたということが大きかったですね。頼っていい、与えてもらってもいいんだ、という感覚です。多くのひとのリソースを合わせて生かすことが大事だと気付けました。自分は何でもできるぜ、という感覚から、自分はまだまだだなと思いつつも頑張れば何とかなるという感覚に変わった感じがしますね。   防災を通して実現したい世界とは ーこれから、どんな世界を実現したいとお考えですか?  防災に関わらず、気候変動に関することなども手広くやっていきたいという思いがあります。いま、防災は多くの人にとって不自然な、敷居の高い行為だと思うんです。それをもっとナチュラルに取り組めるような仕組み、商品やサービスを作り出すというのが僕らのミッションです。  たとえば「防犯」って日頃から「あの角を曲がったら刺されるかも...」とは思わないとしても、夜道の帰り道に誰かを迎えに行ったりするじゃないですか。無意識に。大事な誰かがいるから自然と迎えにいく、といったような無意識にできることが防災にも必要だと思っています。 ー泉さんの思う今後の展望について、お聞かせください。  まずはライフギフトをひとりでも多くの方に手に取ってもらえるよう広めることが直近の目標としてあります。ですが一方で、ライフギフト1冊が手元に届いたからといってその方の防災意識が上がっていくわけではなく、きっかけにすぎません。取り組んでみようかしら、と思ってほしいという想いの込もった商品なので、その先で「防災を取り揃えたい」「どういったことから出来るのだろうか」と考えた時に、情報が整っているような、そういったサイトや場所なども合わせて作っているところです。  最終的には災害救援にまで手を出したいと思っていて、「自然災害の事前から事後まで」自然と付き合って生きていく中で、世の中の人のお役に立てるような会社を作っていきたいなと思っています。   ー本日はありがとうございました。泉さんのこれからを応援しています!   取材者:中原瑞彩(Twitter) 執筆者:たるちゃん デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

複業を経て看護師からマーケターに転身した半田恵清良が一貫して追い続けている夢とは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第208回目となる今回のゲストは、HeaR株式会社マーケターの「きなこ」こと半田恵清良(はんだえずら)さんです。 半田さんは看護師とアフィリエイト運営や営業代行の複業をし、現在はマーケティングのあれこれを発信する「きなこ」としてTwitterフォロワー1.3万人のインフルエンサーに。一貫して「より多くの人のために」「結果が出るまで粘る」という姿勢を貫いてきたパワフルな半田さんにその姿勢のルーツをお伺いしました。   看護師と個人ビジネスの複業を経てマーケターに   ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 HeaR株式会社でマーケティングを担当している「きなこ」こと半田です。ファーストキャリアは看護師なのですが、看護学生の頃からブログやアフィリエイトなどの個人ビジネスに携わってきました。きなこはTwitterでの名前で、現在フォロワーが1万人以上になっています。今年の5月に今までやってきたマーケティングの話を書いたnoteがバズったのがきっかけでフォロワーが急増しました。 ーHeaR株式会社さんでは現在何をされているんですか? HeaRの新規事業で未経験からでも異業種に転職できるようなキャリア支援を行うサービスを提供していて、そちらのマーケティングやマーケター育成を担当してます。 原点はクリスチャンの両親から学んだ「自分の命は自分だけのものではないこと」 ー半田さんのこれまでをお聞きしていきたいと思います。まず看護系の道に進もうと思った背景をお聞かせください。 敬虔なクリスチャンの両親に影響を受けて、幼い頃から「人を助ける」ことには興味がありました。医療系の道に進もうと思ったのは幼稚園頃だったと思います。人を助ける手段はたくさんありますが、物心ついてから私が特に関心を持ったのが、医療の仕事です。 幼稚園生の時から海外のボランティアなど、貧しい国の人たちを助けることに興味があって、何ができるんだろうと考えたときにパッと思いついたのがお医者さんになることだったんです。結局、医者になるのは諦めましたが、代わりに看護師を目指しました。看護師として人の命を助ける現場に行こうと決めたんです。 ー人を助けることにすごく熱くなれるのには何か理由があるのですか? 両親の影響が大きいと思います。小さい頃から海外でボランティアをされている方の話を聴く機会も多く、途上国の貧しい方達の生活を追ったドキュメンタリーを観ながら「どうしたら力になれるだろう?」という会話もよくしていました。 また、私が生まれる前の1995年の冬に、両親は阪神淡路大震災で被災しています。朝の礼拝に行くため家を出た直後に地震が発生。立っていられないほどの激しい揺れの後、振り返ると家は倒壊していたそうです。 あの時1分でも家を出る時間が遅かったら、私は生まれていませんでした。この話と共に、両親からは常に「自分の命は自分だけのものではない」と教わってきました。 看護師の限界を感じ、複業を始める ーなぜ看護師をしながらビジネスにも挑戦しようと思われたのですか? 看護学校3年生の頃、就職を前にして、看護師の給料や現実を知るようになりました。「このまま看護師になったとしても、やりたいことができるのだろうか?多くの人を助けるにはもっと稼ぐ力、人を集める力が必要なのでは?」と思い、ビジネスの世界に興味を持つようになりました。看護師だけでは救える人数に上限があると感じたんです。 自分で調べたり、お金をかけて失敗したりもしつつ辿り着いたのがアフィリエイトブログの運営です。最初は上手くいかず、鬱っぽくなっている時期もありました。それでもなんとか続け、看護学校を卒業する頃には月10万円くらいは稼げるようになっていました。 看護学校卒業後は看護師として病院に就職しましたが、アフィリエイト運営も続けていました。一時期は、いずれビジネスの世界でやっていくためにもと、営業代行の仕事もしていて死ぬほど忙しかったです。とはいえ、ビジネスは頑張った分だけ成果が上がるものだったので楽しめていました。看護師の世界は、頑張ったらその分報われるものではなかったので。 ーどうしてそれだけストイックに働くことができたんですか? 看護師以外での繋がりが大きかったと思います。副業でビジネスをされている方やフリーランスの方と話をしていると、早く自分もそちら側に行きたいという気持ちになりモチベーションを強く保てました。 ーその繋がりの中からビジネスに誘われたりもあったんですよね。 そうですね。社会人2年目の時に看護師の仕事を週1.5日に減らして、知り合いの起業された方の下で働くことにしました。実は社会人1年目の時から「一緒に働かないか?」誘われていて。 しかし会社は順調とは言えず、入ってみるといきなりの倒産の危機。私は苦手な営業の仕事も頑張って、動き回って、やっと倒産の危機を脱しました。倒産の危機は入る前からわかっていたのですが、ビジネスが軌道に乗ってきた時に、社長が「このままでいい」というマインドになってしまったのが一番ショックでした。 私としてはもっと会社を大きくしたかったし、より多くの人のためになりたかったんです。そこで生まれたすれ違いで、仕事へのモチベーションが下がって鬱々としていました。だんだん細かい憤りが溜まっていって、できただろうことをやらなかったということで社長にキレてしまったこともあります(笑)。 看護師でも複業を始められた理由 ーそれで、会社を辞めてフリーランスになられたんですよね? そうですね。転職を希望していたんですけど、週1.5日看護師をしながら企業で働く形を認めてくれるところがなかなかなくて。「それなら自分で働き方を決めてやる」と思い切ってフリーランスなりました。アフィリエイトや営業代行、前社に新しく入った社員への営業指導などをしていました。 ーそもそも看護師って週1.5日で働けるものなんですか? 前例がないと言われました。社会人1年目でしたし、珍しかったようです。しかし職場も人手不足でしたし、結局、ある程度業務のわかっている人がパートで入ってくれるならいいんじゃないかと認めていただきました。交渉はしてみるものですね。 ーパラレルワークはやっぱり大変ですか? いろんな方がそうおっしゃられるのですが、私としては息抜きになっていいなと思っています。毎日毎日営業とかキュレーションサイトの立ち上げをやっている中、使う脳みそが違う看護の仕事をすることは休息になるんですよね。何かに没頭するのに疲れた時は、別のことに没頭するのが案外良かったりします。 会社を大きくしてより多くの人に貢献したい ーHeaRに入社された理由とどんな経緯で出会われたのかを教えてください。 先ほど前の会社の後輩たちに営業指導をしていたと言いましたが、私が海外に行っている間に彼らが一斉に心を病んでしまって、会社を辞めてしまったんです。 自分に力があれば救えたんじゃないかと思うとすごくショックでした。その出来事がきっかけで自分が稼いで終わるのではなく、大切な人たちを守れるくらい強くなりたいと思うようになりました。 それで自分が成長できる環境に行こうと、Wantedlyを利用してスタートアップで働く場所を探して、その中にHeaRもありました。応募してから面接までの間に送られてきた採用ピッチ資料がきっかけで、面接を受ける前にもう「この会社で働きたい」と強く思うようになっていましたね。 もちろん他の会社の面接も受けたのですが「なんか違うな」と思うところばかりで。HeaRに関しては面接の前からすでに働きたくて仕方がなかったですね。 採用ピッチ資料には、社長が会社を設立した思いやメンバーがHeaRに入社した理由などが書いてありました。それが当時の私には新鮮で、会う前からこんなにオープンにしてくれる会社って初めてだなあと惹きつけられました。極め付けは「アツくても浮かない」というキラーワードです。これには感動しました。当時はずっと熱量の高い仲間と働きたいと思っていたんです。 そして、待ちに待ったカジュアル面談の日が来て社長と話したのですが、とにかくピュアな人なのが第一印象でした。私はこの人のためなら頑張れるという気持ちになったのを覚えています。 ー本当に一貫して人のために頑張れる方なんですね。どうしてそこまで頑張ることができるのでしょうか? 私は、お金を稼いで自分のために使いたいという気持ちはそんなに強くなく、一番の喜びは人が喜ぶのを見ることなんです。これってすごくいいように聞こえるかもしれませんが、結局は自己満足なんですよね。自分の良い行いで他の人が喜んでくれないとちょっと落ち込んだりすることもあるので、傲慢だなと時々思います。幼い頃友達が少なかったり、家庭でも妹の方が可愛がられていたいすることもあって、承認欲求が強くなったのかもしれません。目に見える成果をあげれば私でも認めてもらえる意識は根底にある気がしています。自分が死んでも誰かの心の中に残っていられたらいいなとよく考えますね。 ー半田さんが今後成し遂げたいことを教えてください。 1つは小さい頃からの夢である海外のボランティアです。自分が現地に行ってお手伝いもしてみたいですし、いずれは自分の力で人を派遣して少しでも多くの命を救う手助けがしたいです。 近い未来で言うと、自分のマーケティングスキルをさらに磨き上げて、もっともっとHeaRを大きくしていきたいと考えています。 ただ、ここまで来ると次に起こることが予想できなくて、計画が計画じゃなくなってくるので、自分の想いや感情を大切にしながらその時にビビッと来た道を進みたいです。 ーステキなお話をありがとうございました。半田さんの今後の活躍を楽しみにしています! 取材者:山崎貴大( Twitter) 執筆者:久高諒也(note) デザイナー:五十嵐有沙 :(Twitter)      

マイクロソフトを辞めて単身渡仏。感性を言語化する書家 小杉卓が語る「アートとビジネスの関係」

東京を拠点に活動されている書家 小杉卓さん。大学卒業後、大手IT企業に就職するも、「書の可能性に挑戦したい」という思いから、フランスへ渡り、アートとしての書の制作を始められました。 現在、個展はもとより、フランスでのマツダのモーターショーやオーケストラが演奏するクラシック音楽に合わせた舞台での書道パフォーマンスなど、枠にとらわれない取り組みをされています。 そんな小杉さんに、渡仏しようと思った経緯、またアートとビジネスの関係について深く聞いていきたいと思います。 ■ 原点は、子どものころ、褒められて伸びたこと ーまず、小杉さんの学生時代から今に至るストーリーを簡単にご紹介していただけますか。 小杉:大学は国際基督教大学、ICUで、日本文学を専攻していました。大学2年生のときに東日本大震災のボランティアに行き、マイクロソフトの社員の方と一緒に活動させてもらう中で、今まで趣味で続けていた「書」というものを、もっといろんな形で展開できるんじゃないかと思いました。それが、「マイクロソフトと書」っていうキャリアのきっかけになりました。 でも、やっぱり大学を出てすぐ書道だけで食べていくってことは難しかったので、2013年にマイクロソフトに入社して3年半勤務しました。そのあと1年間パリに行ったのですが、その理由は、もともとフランスのアートがすごく好きだったので、その作品が生まれたパリで自分も制作活動をやってみたかったからなんですね。その後帰ってきて、東京で今2年目なので、独立してちょうど3年くらいです。 ー今はプロの書家として活躍されている小杉さんですけれど、そもそも書道との出会いとはいつ頃だったんですか? 小杉:実は、私の祖母が書道教室をやっていたんです。小学校に上がるタイミングで、私も生徒の一人として習い始めたのがきっかけでしたね。 祖母は褒めて伸ばすタイプで、ちょっとうまく書けただけでも、すごく褒めてくれたんです。誰かと比べるのではなく、以前の自分よりうまく書けているねと。それが自分が書道を好きになった一番の理由でした。今まで書道を嫌いにならずに続けられた原点は、そこにあったのかなと思います。 ーとはいえ、まだ書道の道には進まないと思っていたそうですね。では、小中高校で、賞を受賞したなどの成功体験はありましたか? 小杉:はい。書くことが好きで、それなりに入賞を重ねて高校の時は全国大会にも行きました。自分にとっての書道は、きれいに書いて入賞していくことだったので、その時はそれが僕の成功体験だと思ってたんです。でも、大学に入ってその考え方は変わりました。 ■ 転換点は「誰かのために書く」「喜んでくれる人がいる」という体験  ーどんな時に、どういうふうに変わって行ったんですか? 小杉:それがまさに、震災の時のことで。その年の5月くらいに被災地に行かせてもらったんですが、家も家族も失った人たちを目の前にして、何も話しかけられなかった。そこでなんとなく、自分が今書道をやっているっていう話をした時に、ある被災者の方が、「せっかくだから、何か書いてもらえませんか」っていう話になったんですよ。それが、自分にとって初めて誰かのために書く書道だったんですよね。  ーエンターテイメントとしての書道、ですね。 小杉:そうですね、その時に一番悩んだのが、お手本がなかったことなんです。今までは書くものが決まっていて、入賞できる書き方が明確にわかっていた。だけど「書いてください」って頼まれた時に、何を書いたらその人が一番喜んでくれるのかっていうのが全く見えなかったんです。 たまたま、その方々が地域でお囃子をやっていて、それをすごく大事にされているのを目にしたんです。それで、お囃子のモチーフになっている「鹿」を一つの書の作品にして、次に行く時にお持ちしたんですよね。そうしたら「これは自分たちが考えた鹿そのものだ」ってすごく喜んでくれて。 書道って、それまでは賞をとったら自分が喜ぶものだったけど、誰かのために書いて誰かが喜んでくれるんだって、すごく揺さぶられました。書道でもっと書かなきゃいけないものがあるんだなとも強く感じました。 社会に対しての自分の考え方や、誰かが思っているけど言葉や形にできていないっていう状況を「書」を解決策として、僕にできることがあるんじゃないかと思い始めたんです。 ーそこからどんなふうに活動が変わっていったんですか? 小杉:その時すぐ、作品が仕事になったわけではありませんでした。でも、ふと周りを見た時に気づくようになったんです。例えば12月だと、ハロウィンが終わって、クリスマスとイルミネーションの季節になるわけですが、実はこの1ヵ月の中には、二十四節季という、もっと細かい季節があるんです。いまは小雪、大雪、もうすぐで冬至が来るっていうふうに。 自分たちが無意識に過ごしている季節も、毎日変わっているんだな、社会の変化の中で、今僕たちってどういう言葉を書かなきゃいけないんだろうなっていうところに目が向くようになりました。 そこで少しずつ、フェイスブックやホームページに作品を載せていったんですよ。そこから依頼が増えだして、これが仕事になるのかもしれないっていうのを大学最後の2年間で感じました。 ー何か大きな機会があったわけではなく、小さな出来事の積み重ねがきっかけだったということですね。いつかはプロになるぞという気持ちが芽生え始めたのは学生時代ですか? 小杉:そうですね。自分が表現をしたいと思った時に、パリコレという舞台でパフォーマンスをしたり、デザインとしての書を発表したりしたいなって、漠然と浮かんだんですよ。 でもそこまでのプロセスは全然見えてなくて。その一方で、ボランティアを通して出会ったマイクロソフトという会社に魅力を感じていたので、まずそこで働いてみようって思いました。 ■ マイクロソフトで刺激を得て、書家の道を選んだ ーいつかは、書家として、パリコレで自分の言葉をあしらった服が歩いているっていう状態をと、夢見ていたんですね。でも一旦は就職しようと思ったわけですが、マイクロソフトに決めたきっかけはなんだったんですか? 小杉:2つ大きな理由があって、一つは、ITの可能性を感じた部分です。自分の出身が栃木の田舎なんですけど、そこをITで変えられるかもしれないっていう。 もう一つは社員の人たちです。ボランティアってすごくエネルギーがいるんですけど、マイクロソフトの方はすごかったですね。ITが社会を変えるって確信を持ってやっていたと思うし、マイクロソフトで出会った方々が、自分のパッションの中で仕事を作っていたっていうことに魅力を感じました。 ーそのあと、2013年にマイクロソフトさんに入社されたのですが、社員の方の魅力についてはどうでしたか? 小杉:入社してからも、やっぱりすごい人はたくさんいました。そういう中で「自分はどうしたいのか」っていうのを強く考え始めるようになりましたね。 ー1年間はITコンサルタント、そのあと2年間セールスと、3年間マイクロソフトにいらっしゃったわけですよね。その3年間の中で、成功体験はありましたか? 小杉: 僕は失敗体験しかなかったように感じていたんですが、それはもっと書道に時間をかけたいという理由があったからなんですよね。このままでいいのか、今「書」を全力やらないでいいのかという思いが、じわじわと溜まっていて辛かった。 そして4年目、 26,7歳になった時に、まだ20代なら書がだめでも再就職できるぞと。 ー今なら独立できるという自信があって独立したわけではないんですね。 小杉 :はい。書道の仕事が増えていたとはいえ、絶対的な自信があったわけではなかった。収入も、マイクロソフトに勤めていた方が3倍くらい多いし、だけど今やらなかったら、書道が広がっていく可能性が少なくなっちゃうなと思ったんです。だからその時に、リスクを取るっていう選択をできたことは、良かったですね。 ーそういう意味では、副業が可能なマイクロソフトでよかったかもしれないですよね。会社の方の理解はあったんですか? 小杉:はい、上司の後押しもすごくありました。自分の心の中にやりたいことがあるんだったら、それをやったほうが絶対いいっていうアドバイスをくださって、すごくありがたかったですね。ただ、業務の中で大きな貢献をできなかったことが自分の中ではすごく心残りだった。だからこそ、今やらなきゃ、と思っています。 ■ パリで、アートとしての書を確立したい ー辞めて選んだ道を成功にしていかないと、と思っているわけですね。そこから2017年にマイクロソフトを辞めて、半年後にパリにいくわけですが、実際に行ってみてどうでした? 小杉:感じたことは2つありました。一つは、「いけるな」っていう可能性からくる自信と、もう一つはまだまだ時間がかかるっていう現実的な部分。 今、アニメの影響とかで、日本ってすごくフォーカスされてるんですよね。ラーメン屋さんもめちゃくちゃ増えてて、行列ができてるんです。そういう日本ブームの流れの一環で、書も興味を持たれることは多かったんですよ。でも、「日本的なもの」というふうに書がみられているうちは、書の価値って伝わってないんだろうなと。正直、本質的な書が全体に広がるのは時間がかかるっていうのを感じた部分がある。 一方で、アートや表現に対しての寛容さが違うところに、可能性を感じたんですよね。表現をする人への態度やリスペクトも全然違う。自分が何者で、何をしに来たのかっていうのをよく問われるんで、何十回も何百回も話しました。 それは日本だからとか書道だからとかではなくて、何かを感じようとしてくれる人が必ずいる。だからこそアートの文化が育ったんだろうなって思いました。そこで、伝えられる部分が確実にあったので、フランスでもっとやりたいとも思いましたし、東京でもきっとできるっていう自信にもなりました。 ■ みんなが持っている「書」のフレームを壊したい ー日本に戻られてから、少しずつお仕事いただけていたとはいえ、書家として営業も行うのは難しいと思います。どんなふうに仕事を取っていったんですか? 小杉:パリのときから、営業はずっとしています。パリには知り合いはゼロで、最初2、3ヵ月は仕事もゼロだったんですよ。行く前に、紹介してもらった人のリストを作っていたんですが、毎日人に会って、こういう作品書いてて、こういうことがやりたいんですって、ずっと言い続けて。ようやく書道を教えてほしいとか、イベントがあるからパフォーマンスしてみないとか、少しずつ仕事をいただけるようになりました。 今もそうなんですけど、例えばワークショップに来てくださった方から依頼を受けた時に、一回、その方の期待値を超えるものを用意したいっていうのがあって。 書道って、日本のほぼすべての方が体験しているがゆえに、すでに一つのフレームができていると思うんですよ。だけど、僕はもっとフレームは広い、なんだったらフレームはないって思ってるので、ファーストアタックの時にどれだけそのフレームを壊せるかだと思っています。そうなった時に、何かが生まれるなと思ってます。 ー書に対するフレームを壊すことで、アイデアを膨らますということですね。では、フレームを壊すためにどんなことをしていらっしゃいますか? 小杉:自分の中で変えちゃいけないところと、変わり続けなきゃいけないところを明確に分けています。変えちゃいけないところは、僕は書って言葉の表現の芸術だと思っているんで、それだけは書道の中でずらせないんですよね。 だけど一方で、言葉をどう表現するかっていう部分には線を設けたくない。例えば筆や紙、墨を使わなきゃいけないだとか、逆に色を使っちゃいけないとかっていうことを、僕は表現においては絶対考えたくない、と思っています。 誰かと話している時に、その人にとって一番いい表現はなんなのかっていうのは、いつもゼロから考えたいなと思っています。それが結果として、その方が持っている書のフレームとは全然違うところにいけるんじゃないかなと。だから言葉を描くっていうのは、書の真ん中にあるものだと思うんですけど、その周りの部分のフレームってあるようで何もなかったみたいなところに、ハッとしてもらえたらうれしいと思います。 ーそういうところから、気づきを書に表しましょうというワークショップをされたりしたんですね。マツダの発表会でも書を披露されてましたが、書家としての成功体験は、何かありますか。 小杉:そうですね。それはある特定のお仕事ではなくて、マツダも含めてですが、大きな舞台で人前で披露するっていうことに、大きな可能性があると思いました。 去年から、クラシック音楽と一緒に舞台を作ってるんですけど、ライブでショーを見てもらう、というのは自分の取り組み方を変えてくれたと思っています。 なぜならば、より共通体験としての書を提供できるなと思って。言葉って、もっと自分の内側から湧いてくるものだったりとか、それに触れて相手も新しい言葉が生まれてきたりとか、もっともっとライブなものだと思うんです。そのライブで書を披露するにあたって、書には時間があるっていうことを僕は気づいたんです。絵画と違って、書は、どこから書き始めてどこで書き終わるかっていうのがわかるわけですよ。そこに始まりと終わりがあるということは、そこの間の時間が存在するってことなんですよね。目の前でライブで書いていたら、なおさら、その字を書き終わっていく時間を共有できる。ということは、より深く言葉を生で感じてもらえているってことだと思うんですよね。そういう表現をこれからもっともっとやっていきたいと思っています。 ■ アートとビジネスの刺激しあえる関係とは ーアートとビジネスは分断されたものじゃなくて、アートにおける思考法っていうのはビジネスにいける、だからビジネスパーソンこそアートを学ぶべきだ、みたいな考えがあると思うんですけど、それに関して小杉さんはどう思いますか? 小杉:そこはすごく興味深いなと思っています。山口 周さんの本も何冊か読みましたし。そもそも人間が人間らしくいきていくためには、自分が頭で考えたことを、自分で決めないと幸せにはなれないと思っています。それをアート思考って言い換えているのかな。 例えば、ビジネスで数字的な答えって出せますよね。どういうデータをどういうふうに使うかっていうのは考えなきゃいけないけど。でもアートって自分の中から出さないと出てこない。そこにはどういう色をどういう割合で使ってとか、筆をどういう筆圧で入れるとか、すべて考えて出されているものだと思うんですよね。 むしろ、僕はアートの方にビジネスを持っていったら面白いと思っています。私たちみたいなアートに関わってる人こそ、ビジネスとして、お金や興味がどう動いているのかにもっと目を向けないと、表現って出てこないと思うし。お互いが刺激しあえる部分は、たくさんある気がします。そういう意味でのアートとビジネスの関係性っていうのはすごく考えています。 ー実際にマイクロソフトで働いていたからこそ、書家としてできたこともたくさんあるかと思うんですけど、例えばどんなことが生きたと思いますか? 小杉:ビジネスってお客さんがいることが大前提じゃないですか。それが今の自分の中でとても助けられている部分です。 僕は、書は究極のアートでありデザインでもあると思っているんですけど、何を、誰に、どう伝えたいのかを常に意識しなきゃいけない。それは究極的にはビジネスも一緒だと思っていて。この商品を、誰に、どういうふうに使って欲しいか、その答えを導いていくプロセスっていうのは全く同じだと思います。それを、マイクロソフトで猛烈に体験できてよかったです。 ■ アートを言語化することで感性を磨く ービジネスでも、フレームにハマった提案でなく、その人の独自性とか、感性を入れると面白い提案になることがあります。感性を磨く時間がないというビジネスマンのために、もっと仕事に生きるような感性を磨ける方法があれば聞きたいなと思います。 小杉:私は感性って究極の論理だと思っています。アーティストって、よく感性で書いてるとか、演奏してるって思われることがあるけど、少なくとも私はそうじゃなくて。紙の墨の吸い方はこれくらいだからこのくらいのスピードで筆を動かさなきゃいけないというように、すべて何かのロジック、論理を元に書いています。 ただ感性を磨きたいっていっても、つかみどころがなさすぎちゃう。音楽を聴く時も、感性で聴くってどうやって聴くんだろう、みたいな。でも、例えばこれって気持ち良さ数100あるうちの、95くらい気持ちいいんですとか、それってこういう理由があるんですって言った時に初めて、なるほどなって共感してくれると思うんですよね。そういうふうに、感性を数字で見る、言語化してみるっていうのはすごく大事なことだと思ってます だから、何か「あ、いいな」と思ったものを、きちんと言葉で説明してみることですね。いい音楽だなと思った時に、どういい音楽なのか。この音がすごく好きだと思ったら、どんな和音でできているのかを仕組みまで見ようとする。すると、きちんと理由や裏付けのある感性になるし、自分の感性はそういうものに響きやすいっていう自己認識にもなると思うんですよ。そうなった時に、それは武器になると思います。 ー感性っていうのは言語化してロジックに落として見ると、磨かれていく部分があるということなんですね。 小杉:そうだと思います。 ■ これからは、社会にたいして「書」でできることをやりたい ー最後にお伺いしたいのは、これから小杉さんが書家として、また書家という役割を超えてチャレンジしていきたいことはどんなことでしょうか。 小杉:もちろんパリコレを目指すっていうのはあるんですけれど、ここ1年で、社会に対して書で何ができるのかというのをすごく考えるようになって。 モデルにしてる考え方が、ベネズエラの「エル・システマ」っていうプロジェクトなんです。何十年か前に、ベネズエラで子供の貧困がすごく問題になったんですが、それを政府がクラシック音楽教育でなんとかしようとしたんですよ。 貧しくて教育も受けられないような子に、ただでクラリネットとかフルートとか楽器を配って音楽教育を始めたんですよ。音楽って一人でもできるけど、みんなで合わせることの楽しさも教えたんですね。面白いですよね。 今、そのベネズエラで音楽教育を受けた人が、ベルリン・フィルとか、世界のトップオケといわれるところで活躍する音楽家になって、どんどん輩出されているんですよ。そういうふうに、音楽で一つの社会問題を解決できることって、すごく面白いし、アートってそうあるべきだなって思ったんですよね。 これからの時代に起こりうる社会問題ってたくさんある。そして、書っていうものは日常から、だんだん離れていってしまっている。では社会と書はどんな関わり方をしたらよいか、例えば教育の中で書と関わっていったら、社会がどう前進するかとか考えています。これは中長期的に取り組んでいきたいなと思っています。

3,500人のフォロワーで月商500万円。Instagramで大切なコンセプトメイキングとコミュニティ意識

株式会社リクシィで働く傍ら、DtoCやマーケティングコンサルを行うハピラフ合同会社(以下、ハピラフ)を経営する、富田竜介(とみた りゅうすけ)さん。 社会人3年の中で、計5社を経験。確実にキャリアを築き上げ、今ではご自身が運営するInstagramのアカウント(メンズアパレル関連)で、月商500万円を売り上げています。 そんな富田さんに、前半では「入社1年目から圧倒的な結果を出す方法」をお伺いし、後半では「Instagramの運営のコツ」や「ハピラフの展望」についてお聞きしてきました。 法人化をしたのは節税がきっかけ。ハピラフの主な事業とは? ー では早速よろしくお願いします。まず、ハピラフを立ち上げた背景をお伺いしたいです。 富田 竜介(以下、富田):よろしくお願いします。何でも聞いてください。 立ち上げたのは、現職のリクシィに入社する前で、複業としてはじめていました。法人化するつもりはなかったのですが、公認会計士だった幼馴染が「法人にした方が節税になるよ」って教えてくれて。 ー 最初は節税対策だったんですね。 富田:そうですね。そしてIPOは考えていなかったので、合同会社で作りました。 ただ、事業をやっていく中で「もっと会社を大きくしたい」「もっといいサービスを作っていきたい」と思うようになり、今では様々なサービスを展開・準備をしています。 ー ハピラフでは、具体的にどんな事業を行なっているのでしょうか? 富田:最初は複業でいろんな企業の「マーケティングアドバイザー」としてお手伝いしていました。受託系の仕事が多かったですね。 そこから展開し、今では「DtoC事業」「SNS支援事業」「インハウス支援事業」「ECコンサル事業」「メディア事業」「マーケティングコンサル事業」と拡大しています。 大学4年の2月に早期入社。半年後にはクォーターで1.1億円の受注。結果を出せた理由とは? ー 富田さんは社会人3年目で、5社経験しているんですよね。ファーストキャリアはどこを選ばれたのでしょうか? 富田:最初は、株式会社マイクロアドという広告代理店を選びました。 僕は学生時代、資生堂のアルバイトで美容部員をしていました。元々化粧品のマーケティングに興味があって社員さんに相談したところ、「新卒からマーケをしたいなら代理店に行った方がいいよ」とアドバイスをくれて。 たくさんの広告代理店がある中、マイクロアドを選んだのは、人・裁量権・環境の3つが、僕の就活の軸とぴったりだったからです。また、僕は「下克上精神」があって、ナンバーワンの企業ではなく、これから出てくるような会社で働きたかったんですよね。 ー なるほど。実際に入社されて、どうでしたか? 富田:有意義な時間を過ごせました。ただ僕の場合少し特殊で、大学4年の6月から週5でインターン生として働いていて、その間(約6ヶ月)、すでに広告運用に携わっていました。 ある一定の成果が出たので「早く社員として働きたいです」と伝えたらOKをいただき、2月には早期入社をさせてもらいました。営業をしていましたね。 がむしゃらに頑張りました。その甲斐あって、早期入社した3ヶ月後には、僕が担当していた会社初のコンペで受注することができ達成率が700%を達成し、そこからクォーターで1.1億円分を受注しました。 また自分のミッションが「バイネームで受注する」でそれを2年目の頭に達成することができました。 そこで「自分のミッションを達成できた気がする。別の環境で学んでいきたいな」と思い、転職しました。 ー すごい、1年目から成果が出たんですね…。新人の頃はどんなことを意識されていただんですか? 富田:いくつかあるんですが…。まずは、誰よりも早くオフィスに行っていましたね(笑)。毎日6〜7時には到着していて、本を読んだり、尊敬する上司や先輩に、話を聞きにいったりしていましたね。 営業が得意な上司や、資料作りが上手な先輩、ロジカルシンキングが凄まじい先輩など、たくさんいらしゃって。積極的に自分からコミュニケーションを取って、教えを請いに行きました。 ー それはめちゃくちゃ伸びますね…!そこからいくつかの会社を渡り歩いたんですよね? 富田:はい。広告代理店や広告主内のマーケティングを主に担当していました。5社目の今は、株式会社リクシィというウエディング企業で働いています。 フォロワー3,500人で月商500万円達成! ー では話を戻して、現在のハピラフについて再度お聞きしたいです。最初は企業のマーケティングアドバイザーとして受託の仕事が多かったとのことですが、DtoCをメインにしてきた理由はなんでしたか? 富田:僕自身、元々美容が好きなんです。大学時代は、美容部員としてアルバイトをしていたくらいなので。「ライフスタイルに関わるものをDtoCにしていきたいな」という想いも強く、色々と準備をしてきました。 今は、メンズのリユースなどを手がけていて、中古で仕入れたものを販売しています。 ー Twitterで宣伝されていたのを拝見しました。かなりハイペースで売上が伸びたとの事ですが、どれくらいか聞いてもいいですか…? 富田:立ち上げて4ヶ月が経ったんですが、今はフォロワー3,500人前後なのですが、単月で500万円前後売り上げました。 初月は2万で、そこから11万、60万、500万と順調に伸びています。来月は1,000万円で着手しそうです。今はInstagramだけで運営しています。 ー 凄まじい伸び率ですね…! 富田:他にも「節約チャンネル」というアカウントをInstagramで運営していて、4ヶ月で5万フォロワー、5ヶ月で10万、8ヶ月で20万フォロワー、10ヶ月で25万フォロワーまで伸ばせましたね。 Instagramで大切な「コンセプトメイキング」と「双方向のコミュニケーション」 ー 先ほど3,500人のフォロワーで単月500万円、1,000万円の売上を作れた→そうとのことでしたが、具体的にどんな運営を意識しているんですか? 富田:1番はやっぱり「コンセプトメイキング」だと感じています。 スマートニュースの西口さんがよく、独自性・便益・オリジナリティが大切と伝えているのですが、まさにその通りだと思っていて。 インスタは基本的にはワンコンセプトが大事なので、コンセプトをずらさずに「ひとつの世界観」を創り上げることが、本当に肝なんです。その点を徹底的に考えています。 ー なるほど…。他社さんを見ていて「損しているな…」と思うことはありますか? 富田:どうしても「セールはじめました」「新商品でました」といった情報ばかりで、コミュニケーションが一方通行な気がします。非常にもったいないですね…。 Instagramは「双方向のコミュニケーション」が重要と言われています。コミュニティに近いので、「どんな商品が欲しいですか?」と投げかけると、フォロワーさんからコメントをいただけるんです。 フォロワーの要望を取り入れることで「このお店は私たちの想いを汲み取ってくれる」と思ってもらえるので、積極的に意見を頂けるんです。 たった3,500人のフォロワーと思われるかもしれませんが、コミュニケーションを活発化することで「熱量の高いコミュニティ」になります。 ー インスタがコミュニティになる、という発想がなかったです。アカウントは非公開なんですか? 富田:もう少し大きくなってから出したいので、今は公にしていないですね。 夏ぐらいに3,000万円の売上になりそうで、そのタイミングで店舗を出し、アカウントも公開する予定です。もう少し気長にお待ちいただけるとうれしいです! ハピラフの展望。”ジョーカー”になれるような集団でありたい ー では最後に、ハピラフの展望についてお伺いしたいです。 富田:大きく2つあります。1つは、今のサブスクリプションの概念を変えていきたいです。正直、僕は今のサブスクに面白みを感じていないんです。 ほとんどのサブスクが定期購入をさせて、いかにユーザーに長く使ってもらうかに重きを置いているんですよね。 ただ、本当にいい商品を購入する時って、”サブスク”ではなく”都度買い”だと思っていて。例えば、僕は鼻炎持ちなのですが、6歳から20年くらいずっと同じ鼻スプレーを使っています。 わざわざサブスクにはしないんですよね。なのであえて、都度買いだけのサービスを運営してみたいです。 富田:もう一つは、メンバーがハピラフを「自分のライフスタイルの中で”活躍できる場所”」として、うまく活用してほしいなと願っています。 実は、ハピラフは「JOKER〜切り札をあなたに〜」というコンセプトを掲げているんです。 僕はいろんなスタートアップで経験・支援をしてきたんですが、「ピースがないから事業が伸びない」という事例をたくさん見てきました。 そこでハピラフでは、クライアントに「ジョーカーになれるような切り札を提供するんで、この人材と一緒に事業をグロースさせますよ」と伝えたいです。また、そんな集団でありたい。そうすることで、ハピラフのメンバーは自分がやりたいことをハピラフで叶えられる。 メンバーとクライアントの双方がWin-Winとなれる環境を作りたいですね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材:西村創一朗、執筆:ヌイ、撮影・デザイン:矢野拓実

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