「官僚」の枠を超えて圧倒的に挑戦し続ける小田切未来が語る、20代が身につけておくべき3つの思考法

キャリアに大きな影響を与える、20代での働き方や仕事への向き合い方。チャレンジングな仕事をしたいと願う一方で、任せてもらえず思い悩んでしまう人も多いはず。そんなU-29世代こそ身につけておきたい思考法があります。 それを語ってくれるのは、小田切未来さん。東京大学大学院修了後、経済産業省に入省。5年目でクールジャパン政策の担当になったのち、内閣官房副長官補付、経済産業大臣政務官秘書官などを歴任。一般社団法人Public Meets Innovation を設立して理事となり、現在は米国ニューヨークにあるコロンビア大学国際公共政策大学院に在籍されています。 そんな非常に輝かしいキャリアをお持ちの小田切さんですが、はじめから国家公務員を目指していたわけではないんだそう。何が今の小田切さんを作ったのか、20代でどんなことを意識してキャリアを築いてきたのか。人生における3つのターニングポイントと、今のU-29世代に伝えたいメッセージを伺いました。   小田切未来の人生における3つのターニングポイント ー 小田切さんにとって、人生のターニングポイントは何だったんでしょうか? 私の場合、一つ目は就職活動、二つ目が海外留学、そして三つ目が一般社団法人Public Meets Innovationの立ち上げ。これらが、自分の中で大きなターニングポイントとなっていますね。 ー 一つ目のターニングポイントは、経済産業省に入省する前なんですね。 はい。私は、父親が体調不良などで仕事を早めに退職したこともあり、高校や大学には奨学金をもらいながら通ったんです。また当時、アルバイトで家庭教師や予備校講師をやっていたこともあって、人材育成や教育事業に興味があったんですよ。 そんなとき、兄が「人材育成や教育の仕事をやるのであれば、教育の制度を変えられるようになったほうがもっとダイナミックに仕事ができるんじゃないか」と助言してくれて、初めて早稲田セミナーという予備校に行ったんですね。そこにたまたま文部科学省、国土交通省、経済産業省などの方々が来ていて、「経済産業省は社会で活躍するための人材育成もやっている」と聞いたことで、方向転換しました。 大学院で経済、政治、法律など公共政策を勉強したほうが自分のためになるな、と考えて大学院に進むことにしたんです。だけど実は私、大学5年と大学院1年のときに官僚の試験に落ちてるんですよ。大学院2年でやっと合格。だけど、大学院の研究と並行して試験勉強をするのがものすごく大変で、その時はすごく忙しかったし、毎日12時間は勉強していたと思います。 ー 三度目の正直で、官僚になる道が開けた。 奨学金を借りて苦労していたので人材育成に関わることがやりたかったし、いつでも誰でも挑戦・再挑戦ができるような社会づくりができたらいいなと思っていた。だから官僚か、途中で公の仕事ができるような道に進んだほうがいいんじゃないかと考えていたんです。「数億円お金を稼いでそれを元手に政治家になれないかな」と、外資系金融企業にも就活していた時期もありましたが、今考えるとだいぶ尖っていましたよね(笑) それでも経済産業省に決めたのは、人ですね。魅力的な人が多かったからなのですが、その中でも面接で衝撃的な人に出会ったんです。その人は、今の三重県知事・鈴木英敬さん。面接の二言目には「俺、顔でかいやろ、ガハハハ」と笑ったんですよ。「こんな人が官僚にいるんだ(笑)」と衝撃的で、ここで働いてみたいという気持ちがすごく強まりました。 僕が一番大事にしていたのは「誰と一緒に働いた上で、自分の叶えたいことを実現できるか」ということだったので、最終的には人で決めたんです。これがまずターニングポイントになりました。 ー 二つ目のターニングポイントは? 海外留学ですね。留学するために、2010年頃にTOEFLの勉強をしていたんですけど、その時の点数が120点中27点だったんですよ。これじゃあ、どこの大学院も受からない。そこから2〜3年間勉強して60点台まで上がったんですが、2〜3年かけてこれだけしか上がらないのなら自分には向いていないな、と思って。ちょうど仕事も面白い時期だったので、諦めていたんです。 でも、経済産業大臣政務官の秘書官をしていた2018年3月にカナダ・モントリオールのG20に同行したんです。そこには通訳も付いていたんですが、夜の食事のとき、たまたま私が座るところには通訳がいない状態になってしまって。目の前にはアメリカ人やイギリス人、フランス人、ドイツ人というようなテーブルで、話に全くついていけないわけです。それが猛烈に悔しくて。 それで改めて、留学のチャレンジを再開し、そこからTOEFLやIELTSなど英語の試験を更に20回くらい受けて、ようやく今のコロンビア大学国際公共政策大学院(SIPA)に合格。SIPAには世界中から優秀な人材が集まっており、2019年のU.S. News & World Reportのランキングでも非常に高い評価も得ていて、日々刺激に満ち溢れています。これが二つ目のターニングポイントになりました。 ー 三つ目は、一般社団法人Public Meets Innovationの立ち上げですね。 実は2012年頃に、経営者や官僚、研究者、アーティストなどの友人と集まって、セミナーや勉強会をやるための法人の立ち上げようとしたことがあるんです。でも、事情により立ち上げが止まってしまったんですね。やりたいことだったから、私の中でずっと燻っていました。 そして2018年2月、シェアリングエコノミー協会の石山アンジュさんともう一人の現理事とで、「今の社会に何が足りていないのか」「どうなったら社会はもっと良くなるのか」といったことを議論していたところ、まさに3人の考えていることが一致していた。 パブリック側はイノベーションに関する知識が足りていなくて、イノベーター側はパブリックマインドが不足しがちです。だったら出会いの場を設けることが大事なんじゃないか、と。まずは、みんなで毎週集まってどういったことができるか考えよう、と議論しているうちに、だんだん人が集まってきた。そしてPublic Meets Innovationが立ち上がったのが、三つ目のターニングポイントです。 ー Public Meets Innovationでは、具体的にどんな活動をされているんでしょうか? 今は、パブリック側とイノベーター側が交流し、共通な課題意識を持つようなテーマをベースとしたイベントやセミナーなどを中心に実施しています。また、このコミュニティは1980年代以降生まれ、ミレニアル世代限定になっているという特徴もあって、次世代リーダーと呼ばれる人をここから輩出できればとも思っています。   「人、思考法、行動力」で働き方を変える ー 今は官僚にならなくても社会を変えられる時代ですが、だからこそ行政で働く醍醐味を聞きたい。20代の頃に「これは行政だからできた仕事だな」と思ったことはありますか? 行政は、法令・税・予算の3つの重要なツールを持っているんですが、特に私が重要視しているのが、機運作り。クールビズがわかりやすい例かと。企業の場合は、原則として、利益最大化が目的なので、国や社会の機運全体を上げていくというのは難しい部分があると思います。 私が入省5〜7年目のとき、クールジャパンという仕事に携わっていたんです。日本企業の海外展開がなかなか進まない中で「あの企業がやれたのなら、うちもやれるかもしれない」といった挑戦の連鎖を作ることが、クールジャパンの醍醐味でした。クールジャパン自体をみんなで推進することが、日本企業全体の海外展開に繋がっていく、と。 この仕事をやっていたほうが、国や社会全体の機運を作るのには向いていたなと思います。あと、私が担当していた兼業・複業促進の話も機運作りの典型例でして、パラレルキャリアを応援していくことは、一企業には難しい。それがこの仕事の面白さだなと思うし、まだまだできることはあるなと思っています。 ー 20代でチャレンジングな仕事ができず離職してしまう若者も多い中、小田切さん自身の経験を踏まえて、20代では働き方にどう向き合うべきだとお考えですか? 私の場合、入省して5年目でクールジャパンの仕事をしたわけで、大きな仕事を比較的早く任せてもらえたと思っています。それでもまだ長いと感じるようであれば、兼業・複業で、余った時間に違った活動をしてみるのがいいかもしれませんね。 あとは、異業種とのネットワーク作りも大切。私自身、経営者や起業家、投資家、弁護士など、同世代の仲間たちと交流していろんな意見を聞いていました。将来大きなことを仕掛けるときの準備として、人との繋がりを作っておくというのはいいと思います。 ー とは言え、ただ目の前の仕事をこなしていただけでは小田切さんがそのポジションに配属されることはなかっただろうなと思います。20代の頃、仕事を任せてもらえるためにやっていたことはありますか? 大事なのは、人と思考法と行動力だと思います。人というのは、仕事関係以外の人とも積極的に会ってネットワークを作ること。そして思考法は、他人から与えられた情報をそのまま鵜呑みにしないということ。 大学院時代に、元総理秘書官と会う機会があり、「新聞を見るときは、経済欄は80%、社会欄は50%、政治欄は20%くらいしか正確に書かれていないと思いながら批判的に読みなさい」と言われたんです。常に世の中の情報に対して、あえて批判的に考えることを努力しなさい、と。その結果、官庁の中にいる他の人より「前例を疑ってみる」ということができたんだと思います。 行動力としては、20代のうちに自己実現のためのコミュニティ立ち上げ経験をするのが良いのではないでしょうか。私も学生時代にバスケットボールのサークルを立ち上げた経験がありますが、サークルでもいいですし、NPOや社団法人、もし可能であれば、株式会社でもいい。自分でやりたいことに対してプロアクティブにコミュニティを立ち上げた経験が行動力に繋がり、最終的に仕事にも活きてきます。 あとは失敗をすることも大事です。私も国家試験に2回落ちたり、英語の試験を約40回も受けたりたくさん失敗してきました。だけど、成功と失敗って、決して二項対立の概念じゃないんですよ。失敗を繰り返した先に成功がある。周りになんと言われようが、繰り返し繰り返し、命を燃やすレベルでやり続けることが大事だと思っています。 ー 挑戦するから失敗するのであって、失敗を避けて挑戦しないことが本当の意味での失敗ですもんね。失敗を怖がらずにチャレンジし続けられる理由やエネルギーの源泉はどこにあるんでしょう? 私は「こういう人間になって、こういうことを実現したい」という使命感をものすごく持っているほうだと思います。そのために必要な要件だと思って、何度も挑戦しているんです。自分が目指す人材像に近づくために、諦めることができないんです。 ー 使命感があるからこそ、失敗してもチャレンジし続けられるんですね。   20代で身につけておきたい3つの思考法 ー オフィスにこもって仕事をするだけでなく、社外に出てネットワークを作ったり勉強の時間を確保するなど、自分の時間を生み出してその時間を自己投資に使うということは、官僚に限らず会社員にとっても大事なことだと思います。小田切さんは大変お忙しい中で、どのように時間を生み出していたんでしょうか? やらないことを決めましたね。具体的には、金曜日にみんなで飲みに行くとか、夏休みや冬休みになると旅行に行くといった、みんながデフォルトでやっていることを敢えてやらない。そして、その時間を自己実現のために使っていました。普通の人と真逆なことをするのは、時間の作り方のひとつだと思います。 ー 他にも、U-29世代に必要な考え方は何でしょうか? 3つの思考法が必要だと思います。一つ目は「オキシモロン・シンキング」、二つ目は「クリティカル・シンキング」、先ほどお話しした批判思考ですね。そして三つ目は、「クリエイティブ・シンキング」です。情報が満ち溢れた中で、AIでは代替されにくい「想像力」「統率力」「構想力」などがますます重要な時代になってきているので、そういうことを常に意識し、コミュニティ立ち上げなど0から1を作る経験をすることなどが大事だと思います。 私は特に「オキシモロン」という言葉をすごく大事にしていて。日本語で言うと「撞着語法」で、「急がば回れ」「賢明な愚者」など、矛盾していると考えられている複数の表現を含む表現のことです。 現在の世の中は、どうしてもAかBかの二元論で語られがちなんですけど、リアルの世界では二元論を超えて物事を解決しなければならないことがけっこう多いんですね。だから「AかBか」ではなく「AもBも」という考え方をどれだけ追求できるかというのが、U-29世代がこれから活躍するためのキーワードじゃないでしょうか。 ー 普通だったらORと考えてしまうことを、どうやったらANDで実現できるかを考えて日々仕事をしてこられたわけですね。 海外に留学しているのもオキシモロンの発想でして。海外のことをよく知らないのに、日本のことだけを良くしたいって、バランス感覚が欠けていると思ったんですよね。日本の文化や伝統、そして海外の文化も理解しながら、両方の意見を取り入れて政策を生み出して行くことが大事だな、と。 イギリスのノーベル文学賞を獲ったラドヤード・キプリングの有名な言葉に、「イギリスのことしか知らない人が、イギリスの何を知っているのか」というものがあって、要はイギリスを良くしたかったら、イギリスだけにいちゃだめだよということ。これは今の日本人にも同じことが言えます。だから20代のうちに、半年でもいいから海外の雰囲気を味わってほしいですね。 ー 小田切さんは、KPIが立てづらい官僚という仕事で確実にパフォーマンスを上げて評価され、信頼を積み重ねてこられたわけですよね。そのためには、どんなことが大切だったと思いますか? 私は誰よりも若いうちに失敗してきたから言えるのですが、与えられた仕事をまず精一杯やるということが、若いうちはすごく大事だと思います。何者でもない自分が何者かになれる瞬間は、愚直に努力をしないと与えられません。投資されない理由は信頼されていないからで、信頼というのは一歩一歩確実に努力して貢献して得られるもの。若いうちは、踏ん張って努力をするのが大事だと思いますね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる (取材:西村創一朗、写真:ご本人提供、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

広報、週末モデル、セラピスト ー 下田奈奈が複業できたのは「余白を持ったから」

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第23回目のゲストは、株式会社MONOKROM(以下MONOKROM)で広報室長をされている下田奈奈(しもだ・なな)さんです。 学生時代はモデルやタレントとして芸能の世界で活躍し、就職後はITベンチャーにて営業や広報として活躍。現職にて様々なキャリアの選択肢があることに気付き、週末モデルやセラピストとして複業をされている下田さん。 そんな下田さんから、「複業してみたいけど何をしていいか分からない」いう方に向けたメッセージや、今の仕事に出会うまでのストーリーを伺いました。 異なる価値観に触れる機会を残すため、普通校へ進学 ― 小学校から高校まで芸能活動をされていた下田さんですが、一度その活動を控えて大学進学を選んだのはなぜでしょう? 中学時代、学校と芸能の友達などコミュニティを行き来している中で、価値観の違う人はけっこういるんだなと感じていたんです。周りでは芸能系の高校へ進学する子が多かった中、ひとつの価値観に染まるのは怖いなと思い、違う価値観と関われる機会を残しておきたくて普通の高校に進学を決めました。 それまでは仕事で学校も休みがちだったんですけど、高校に入ってからは毎日学校に通うようになって。「普通に生活することってけっこう楽しいな」「毎日同じ場所に行くことで学ぶ事とか成長できることがけっこうあるんだな」と気付いたんです。それなら大学でもいろいろなことを学びたいと思い、大学へ進学することにしました。 ― 大学進学をしても芸能活動を続ける人もいる中、事務所も辞めたんですよね。 高校に入った時、本格的に芸能活動をしていこうという流れになったんです。でも、活動していく中で、「自分にはこれを生涯の仕事にする覚悟がないな、覚悟が足らないな」と思うようになって。それなら辞めようと思い、進学を考えているタイミングで事務所を辞めることにしました。 ― 芸能活動から一線を引いて、どんな大学生活を過ごされてきたんですか? これまで勉強ができてなかった分、ものすごく気合を入れて毎日勉強していました。ただ、根詰めすぎたのか、体調を崩してしまって。大学2年のときに、もうちょっと力を抜こうと思ったんです。 せっかくだから大学生らしいことにもチャレンジしてみようと思い、そこからアパレルブランドのプレスやテレビ番組のリポーター、ミスコンなど様々な活動をするようになりました。 ― 再び芸能活動に近しい仕事をやるようになったわけですね。 本当はやったことのない経験をしようと思っていたんですが、ついつい近くにある方を選んでしまったんですよね。リポーターなど学びの多い経験はできたものの、芸能活動以外の強みがないことが不安で自分に自信が持てず、将来に対してモヤモヤしていました。   自分を鍛えられる会社へ ー ITベンチャーへの就職 ― そういう中で就職活動の時期に突入したんですね。就職活動はどうでしたか? 就職活動の時はモヤモヤしていたので、「厳しい環境に身を置いて自分を鍛えられる会社に行こう」と思い、ベンチャー企業ばかり受けていました。最終的にはクラウドソーシング事業をやっているIT系の企業へ行くことに。 今は、甘やかされるよりも厳しくしてもらったほうがいい時期なんじゃないかと思って。人事の方含め、そういう価値観の方が多い会社だったので、ここで頑張ろうと思ったんですよね。 ― 最初の会社では営業に配属されて、毎日泣きながら働いてたんだとか。 最初のうちは本当に大変でしたね。パソコンのキーボードの打ち方もわからなくて、先輩の前でいつも泣いてました。入社して1ヶ月目の頃に先輩たちとランチに行ったとき、「何のために数字を追いかけるのかわかりません」と、急に涙が出てきたこともありました。 ― そんな中新人賞を獲得。そこまで成果を出せたのは、何が要因だったと思いますか? 一番は先輩方がものすごく親切だったからでしょうね。できない私に対しても諦めずに、丁寧に指導していただいたので。私自身、何も分からなかったからこそプライドが一切なくて、言われたことを全部やっていたんですよね。あと、自信がなかったので人よりも頑張らなきゃいけないと思っていて。 あとは、「成果を出さない限り次の仕事につながらない」という芸能活動での学びが活きたと思います。当時の私は、目標達成するのが当たり前だと思っていましたし。それで毎月目標達成できたというのがあるかな、と。 ― 1社目では、がむしゃらに働いていたわけですね。 はい、働くというのをどういうバランスでやったらいいのか、加減が分からなくてなってしまって。とにかく死ぬ気でやらなければと思い、時間コントロールもできず、体力的にも精神的にもギリギリになっていました。 当時はロールモデルがあまりいなくて、「こんな生き方や働き方をしたい」という人が見つけられなかったんです。そこで、起業する気もないのに女性起業家をロールモデルとして真似して、自分で自分にプレッシャーをかけてしまっていました。 ― その後、2年ほど働いて退職。そこから今の会社へ入るまではどのような変遷があったんでしょう? 次のステップに進みたいなという気持ちがあり、2017年のはじめに転職しました。2社目はゲーム会社だったんですが、そこでできるのが採用広報の仕事だということと、ちょうど新しいサービスをリリースするタイミングだということで、チャレンジしてみたいなと思ったんです。 2社目で1年弱ほど働いた後、学生時代から繋がりのあったMONOKROMへ転職。学生時代に代表から「ゆくゆくは女性を支援できるサービスをやりたい」と聞いていたので、いつか一緒にできたらいいな、と思っていたんです。そして「週末モデル」のサービスをリリースするタイミングでジョインすることにしました。 ― 転職後すぐにベンチャー企業でサービスの立ち上げ、というのは大変だったと思いますが。 大変ではありましたが、代表が「自分を大事にして働いてほしい」「自分のキャリアを大事にして、目標や叶えたいことのために仕事を活かしてほしい」という考え方なので、体力的にも精神的にも働きやすいと感じました。ベンチャー企業なんですが、「副業の時間を作ってもいいよ」という自由な社風で、今までの働き方とはかなり変わりましたね。 MONOKROMでは広報として働いているんですが、立ち上げたばかりのサービスなので最初は事例もユーザーもいない状態で。まずはイベントを開催したり、メディアで記事を書いたりといったことをやっていました。そうして少しずつ信頼関係を築いて事例を作り、広報活動に取り組んでいったんです。それが大変でしたね。   週末モデルから学んだキャリアの選択肢 ― 現在下田さんは複業されていますが、いつ頃から始めたんでしょう? 自社サービスである「週末モデル」のモデルとしての複業は、入社後3ヶ月ほどで始めたんですが、2018年末頃からはセラピストとしての複業も始めました。仕事で様々なモデルさんとお会いしているんですが、みなさんすごく向上心が高いんですよ。いろんな資格の勉強をされていたりして。「キャリアの選択肢ってこんなにたくさんあるんだ」と、いい影響を受けました。 私はマッサージが好きだったので、いつか仕事にできたらいいなと思って勉強していたんですが、ずっとチャレンジできなくて。でもあるとき仕事でご縁があったお店に誘ってもらい、働かせてもらうことにしたんです。 ― セラピストと本業の時間配分はどうされてたんですか? そもそもMONOKROMに入社する際に、週4勤務をお願いしていたんです。好きなものややりたいことが見つかったときのために、と思って。だから最初は週3日セラピストとして働いていたんですが、さすがに体からの黄色信号に気付き、シフトを減らしてもらいました。 ― それは大変そうですね。広報とセラピストという全然違ったお仕事を両立されていますが、やっていて感じるメリットやデメリットはありますか? 複業は自己管理が肝心なので、バランスがすごく難しいなと実感しています。自分の黄色信号に気付くのが大事ですね。ただ、広報の仕事で常に頭を使っている一方、セラピストの仕事では何も考えないことが重要なので、真逆の仕事をしているからこそバランスが取れている部分もあるなと思います。 それに、セラピストとして施術をしたお客さんが週末モデルに登録したいと言ってくださったり、逆に広報の仕事でお世話になっている方が施術に来てくださったりすることもあるのが嬉しいです。   複業のコツは余白を持つこと ― 複業したいという人に対してアドバイスはありますか? 「複業したい」というお話はよく聞くんですが、何をしていいかわからないという方が多いなと思っていて。そんな方は、自分の中に余白やバッファを持つのが大事だと思います。今やっていることももちろん大事ですが、一切余白がないとそこに新しい何かが入り込む隙間がないので。 それに、時間があることで自分が好きなものを探すことができますよね。私も週1日の休みの中で興味があることをいくつかやってみたんです。その中で「マッサージの仕事をしてみたい」と思うようになりました。まずは自分の好きなものを探す時間や、実際に好きなことをやっている人に会う時間を取ることが大事だと思います。 ―最後に、下田さんが今後チャレンジしたいことを教えてください。 いつか自分で開業するときのために、週末モデルで吸収しているものや様々な女性に出会って感じる課題と、セラピストという自分の好きなことを組み合わせて、何かのコンセプトとしてひとつの形にできたらいいなと思っています。 また私自身もそうでしたが、「こうならなきゃいけない」と型にはまったキャリアにとらわれている女性が多い気がしていて。そんな人たちに、「どんなキャリアでも正解だし、色んな生き方があるよ」と伝えるため、まずは週末モデルさんなど色々なキャリアを世の中に出していきたいです。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる (取材:西村創一朗、写真・デザイン:矢野拓実、文:品田知美)

過去5回の転職。ウルサス本著者・飯髙悠太が伝えたい20代で必要な心構えとは

通称「ウルサス本」で愛される、『僕らはSNSでモノを買う』‬の著者・飯髙悠太さん。過去には、有名Webマーケティングメディア「ferret」の創刊編集長で従事していました。 実は、現職のホットリンクに従事するまで、5回の転職を経験。その背景には、さまざまな意思決定や戦略が。 20代で圧倒的な結果を出し、30代から飛躍するためには何が必要なのか?今回はその必要要素を、飯髙さんにお伺いしてきました。 飯髙悠太(いいたかゆうた):株式会社ホットリンク CMO(ホットリンクでTwitterする人)これまでに複数のWebサービスやメディアの立ち上げ・東証1部上場企業を含め100社以上のコンサルティングを経験。自著は‪『僕らはSNSでモノを買う』‬は5刷(2019年12月時点)を突破。また12/28に『アスリートのためのソーシャルメディア活用術』を出版。   新卒入社半年で営業トップに。大切なのは、みんなと同じ選択をしないこと ーー飯髙さんのファーストキャリアと意思決定の背景をお聞きしたいです。 飯髙悠太(以下、飯髙):僕は最初、求人広告会社に入社しました。実はもともと、IT業界を目指していました。今でこそITの時代ですが、当時(2009年)は今と比べ市場が小さく、これから伸びる業界だと思っていたからです。 ただ、はじめに選んだのは「求人広告」。就活が終わり内定式の直前に、リーマンショックが起きました。僕なりに考えたのは、採用も減るしリストラも増えるからこそ、まずは「営業力」を磨きたいと思っていた僕にとっては一番過酷だからぴったりと思い選びました。 ーーそんな背景があったのですね...。在籍期間が半年と聞いたのですが、早くにジョブチェンジをした理由は何でしたか? 飯髙:僕はいつも、会社の在籍期間とそこで達成するミッションを予め決めています。 シンプルに早期達成できたんです。1年目でトップを取ることを目標にしていたのですが、半年で単月ではありますが達成できて。そして言葉は悪いですが、この会社で学ぶことはないなと思いまして...。 ーーすごい...新卒半年で達成できたんですね。しかも半年で。何か工夫はあったのですか? 飯髙:今でもベースにあるのですが、「みんなと同じことをしてはいけない」という考えがものすごく強かったです。当時の会社はゴリゴリの飛び込み営業をしていましたが、はじめから「なんか違うな...」と違和感を感じ、そこで自分なりのやり方を考えました。 たとえば、エリアを決めるとき「業界3番目以降の店舗のみに営業する」と決めていたんです。ほとんどの人が1、2位の会社に行くのですが、ライバルが多いため、競争も激しいので狙いを変えました。そうすることで結果も出やすかったですね。 王道パターンもいいですが、視点をずらし、自分なりの戦略を持つことで達成できたのかなと思っています。   飯髙さんの選ぶ基準は、迷ったらあえて茨の道に行くこと ーー飯髙さんが環境を選んだり変えるとき、いつも明確な基準や目的を持っている印象なんですね。ご自身の中でモットーはありますか? 飯髙:なりたい自分ややりたいことが決まっている時、設けている基準がありますね。「迷ったらあえて泥船に乗る」ということ。なのでいつも、辛い方に自分の身を置いちゃっていますね。 ーーなるほど。何かきっかけがあるんですか? 飯髙:僕は小学校に入ってから高校までサッカー漬けの毎日を送っていました。サッカーの恩師がいつも、「人生で岐路に立たされたら、あえてハードな道を選びなさい」と助言してくれて。 平坦な道は楽に進めるけど、茨の道を歩むことで経験値がぐんと上がる。「若いうちなら、あえて難しいことを選択して経験しておくと後で強くなるから」と口酸っぱく言われましたね。 正直辛いことのが多いですが、やっぱりその選択は間違っていませんでした。とても感謝しています。   2、3、4社目と意思決定の連続 ーー1社目を退職して、次からIT業界に入りましたよね。これまでのストーリーをお聞きしたいです。 飯髙:2社目は、とあるWebマーケティングの会社に入りました。在籍期間は2年ほど。直感的に、イケイケ感もあってかっこよかったんです。また、業務量も多くて今で言う「ブラック」でしたが、1度はそんな環境に身を置いてみたかったんです。そもそも、今でもずっと働いていられるし、そういう企業を僕はブラックだとは思っていません。 言葉のニュアンスが難しいですが、この不況の時代、負荷から逃げていたらまずいですし、やっぱり量をこなしてないとわからない・経験できないことって多いです。 そして、実は面接は落ちていたんです。ただどうしても入社したかったので、社長に電話をして「落ちた理由は何ですか?」と聞いてたら、僕の憶測ですが「コイツおもしろい」って思ってくれて呼んでいただけました。 ーー普通落とされたら「はい、次」と行きますもんね(笑) 飯髙:そうですよね(笑)当時の社長に「半年で営業部トップの成績を抜いたらリーダーにしてください。その分、最初の給与も最低金額で大丈夫です」と伝えました。そうしたら「全然いいよ」って言ってくれて。 そこからがむしゃらに頑張って、宣言通り、半年で達成できました。結果、希望はどうあれ社会人2年目でマネージャーになりましたね。 ーーすごい、有言実行ですね。成果も順調にでていた中で、どうして2年で辞めてしまったのですか? 飯髙:言葉を選ばずに言うと、学べることを全部学んだんです。また、今でもベースにある「自分の営業スタイル」が築けてきたなと。僕は常に「御社に合うから、本当にこれはやった方がいいですよ」「そんなにやりたいならやってみてもいいですが、失敗すると思いますよ?」というように、お金は大事だけどお客さんの立場で、成果を一緒に追いたいっていうスタンスなんです。 ーー引き営業っていうか、飯髙さんとしゃべっているそのままって感じですね(笑)。グイグイ取ってくるような営業スタンスではないと。 飯髙:そうですね。さっきもお伝えしましたが営業って、お客さんが幸せになることが1番だと思っているので。 また、ITでも「SNS」が急激に伸びてきて、SNSでトップになりたいという気持ちも芽生えました。 その後は、3社目にSNSに強いマーケティング会社(在籍期間1年4ヵ月)、4社目にスタートアップ企業(在籍期間9ヵ月)に移りました。 ーーなるほど。どのタイミングでベーシック(ferret運営会社)に移ったのですか? 飯髙:過去に仕事でメディアやブログ運営もしていたんですね。純粋にたのしかったですし、再現性やシナジー効果が高いなって思っていました。 で、あるタイミングで知り合いから面白い会社があるから、今から飲み屋に来てくれと呼ばれました。そこで「ferretをメディアにピポットしたい」と社長の秋山さんから言われました。他の会社に行くことが決まっていたのですが、「中小企業のマーケを良くしたい」という想いが僕とマッチしていたし、これから自分が考えているキャリアと合致しているなと シンプルに言うと濃い経験ができると思い、ベーシックへの入社を決めましたね。   ferret創刊編集長へ就任。ミッションドリブンで月間4000人以上が会員登録するメディアに ーーそこでferretの創刊編集長として、メディアを立ち上げたんですね。ベーシックでは、どんなキャリアを歩まれたんですか? 飯髙:一般社員で入社して3ヵ月後にマネージャーになりました。またその6ヵ月後に部長になって、その2年後に執行役員ですね。在籍期間は1番長く、気づけば4年半いましたね。 ーー今までずっと、ご自身で期間とミッションを決めていましたよね。ベーシックでは何を考えていたんですか? 飯髙:ベーシックでは、ミッションドリブンでしたね。目標はferretを他メディアの倍、読まれるメディアにすること。実際に立ち上げ1年半で達成できました。 ーー毎回有言実行されててすごい...。でもまだベーシックに在籍していたのは、なにか理由がありましたか? 飯髙:任務達成した後もいろいろと軌道にのせることができたので、「辞めようかな...」と思ったときに、代表から「経営者にコミットして、経営の難しさを経験したほうがいい」とおっしゃってくださって。当時、会社のことをほぼほぼ何も考えてなかったことを伝え、それでも大丈夫ですか?と聞いたら「大丈夫。そんな人が1人くらいいた方がおもしろいし、チームのことを考えてやってる以上それは組織のことも考えてる。それは見ている俺が一番わかっている」と返ってきました。 ーー懐深いですね。 飯髙:ほんと感謝しています。そんな流れがあって、30歳で最年少執行役員になりました。 ーーすごい...。実際執行役員になって、やはり大変でしたか? 飯髙:大変でしたね。中でも、思い入れある人たちが退職したときが大きかったですね。コアなメンバーが辞めていって...。他にも、意見の食いちがいによる衝突もありましたね。 「このままだとやばい」と思い、立て直そうと思ってもできなかったりして。ただ、社長や他メンバーとも議論をし、自分の選択に嫌々かもしれませんが納得してくれました。 それから今の、SNS・デジタルマーケティングに強いホットリンクに転じ、早1年が経ちました。この1年も激動でしたが、とても充実していました。それは前職で経営に関わらせてもらったこともあるし、これまで色々経験してきたからだと思います。 そして何より、ホットリンクのメンバーとの距離感はいい意味で近いし。仲良しこよしではなく、ちゃんとメリハリはあって、こういう組織やチームが好きだったよなって思いながら、やっています。 そしてご存知の通り、これから更に「SNS」が伸びると思うので、この畑でも結果を出していきたいですね。   もし、過去の自分にメッセージを送るなら。どんどん失敗して、強くなってほしい ーー今まで、相当な努力と数々の選択をされてきたじゃないですか。過去をふり返って、大学生の飯髙さんにメッセージを伝えるとしたら、なんと伝えたいですか? 飯髙:そうですね......。今パッと3つ思いついたので、順にお伝えしますね。 まずは、前提を疑ってほしいです。僕は今でもそのスタンスです。 世の中「これが当たり前」という人が多いですが、生意気ながら、僕は「誰が作ったの?」って思ってしまうんです。自分にとっての当たり前の基準は、自分にしか作れません。 もし、周囲の意見に流されてるな...と思ったら、一旦立ち止まって「自分はどうしたいんだろう?」と、内省するのをおすすめします。 つぎに、20代の過ごし方を大切にしてほしいですね。20代で形成されるキャリアってものすごく重要で、あなたのこれからのキャリアに大きく影響します。 20代って、正直遊びたいじゃないですか(笑)。でもグッと堪えて我慢をして、仕事にコミットし、結果を出す経験はのちに絶対に活きてきます。 人間に与えられたもので、唯一平等なのは「時間」だけです。限られた時間の中で、自分が何をやるかの棚卸しと整理をして、行動してほしいなと思います。 ーーたしかに、20代の過ごし方で30代以降のキャリアが変わりますよね。 飯髙:最後は、たくさん失敗してほしいと伝えたいです。ここでの失敗は、メールミスのような小さなミスではなく、ガチで怒られるってことです。 僕は、失敗から学ぶことが圧倒的に多かった...。サッカー少年だった頃、勝っているときは別に悩まないんですよね。仕事も然りで。 調子いいときはあまり悩まないけど、失敗することで、自分の改善点やダメなところが見えてきます。言われたまま働いても、失敗なんてできません。前提を疑って動かないといけませんし、多少の無理は付きものです。 ただ、本気でやりきって失敗したときに、人は超強くなります。20代という若手の貴重な時期だからこそ、本気でぶつかってほしいですね。 この3つを話ながら、今でも大事にしてるなあって思いました(笑) ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる 取材・編集:西村創一朗 執筆:ヌイ 写真・デザイン:矢野拓実

会社を選ぶ基準は「居場所があるか」ーーインターン漬けの私が気づいた就活で本当に大切な事

2013年10月にサイバーエージェントが始動したベンチャー・スタートアップへの投資を行う藤田ファンド。2014年に凍結し、4年近く動きがなかった藤田ファンドが2019年に再始動したというニュースはまだ記憶に新しいのではないでしょうか。 その藤田ファンドにおいて起業家たちと代表取締役社長の藤田晋氏をつなぐ架け橋となっているのが入社3年目の「はやまり」こと坡山里帆さん。  学生時代インターンで10社以上渡り歩いた結果、サイバーエージェントを就職先に選んだはやまりさんに現在のお仕事についてとそこに至るまでのお話をお伺いしました。 他人基準で、実は東大を目指していた。 ―まずは簡単な略歴を教えていただけますか。 愛知県の高校から東大を目指していましたが合格できず、浪人した結果、横浜国立大学の経営学部に入学しました。卒業後(株)サイバーエージェントに入社し、はじめはAbema TVの開発局に配属されました。その後社長室の投資事業本部に異動し藤田ファンドを担当しています。 ―東大を目指されていたのには理由があったんですか。 高校が進学校だったので同級生が医学部や東大を目指していたのを見て私もなんとなく東大を目指して頑張って勉強していました。当時は親や塾の期待とか、「周りがこうだから自分も」みたいな感じで勉強を頑張っていましたね。自分基準ではなく完全に他人基準で決めていた目標でした。 ―それでは当時は勉強漬けの毎日だったんですか。 そうですね。でも「なんで勉強しているんだろう」という気持ちに駆られて勉強を放置した時期もありました。その時は期末試験の成績が今まで上位10%とかにいたのに下から3位とかにまで落ちました。 ―そこから東大を目指すことになったのは何がきっかけだったんですか。 高校生の時に入っていたテニス部での成功体験がきっかけです。 少し話はずれてしまうんですが、テニス部の同期がめちゃくちゃ頑張っている姿をある日見た時に素直に「かっこいいな~」と思ったんです。それで引退まで真剣に部活に取り組もうと思ったんですが、どうせなら団体戦で県大会に行きたいと思って。 ―やるならとことんやる派、なんですね。 それから目標達成のために必死で練習し、結果的に猛練習の甲斐があって団体戦で県大会にでられたんです。その時に「目標を掲げて努力すれば達成することができる」ということを実感、それが勉強面においても東大を目指すことに繋がりました。   ―達成できなかったら、ということは考えなかったんですか。 仮にもしダメでも、その意識の高さや視座とかの高さが高ければ高いほどその後のふり幅も広くなるかな、と思っていました。上の方まで頑張ろうとするとピラミッドのようにその下の裾(=選択肢)も広がっていくイメージ。なので自然と東大を目指そうと思えましたね。 でも1年目は理系でチャレンジしたらだめで、浪人した2年目は文系でチャレンジした結果不合格。2年目は全然成績も上がらずむしろ1年目よりセンターの結果が悪かったので精神的にはあの時はすごくしんどかったです。 ―それで横浜国立大学に? はい。自分基準ではなく他人基準で目指していた東大だったので、モチベーションが続かなくなり最後にはもうどこでもいいやってというところまで開き直っていました。それで合格した横浜国立大学に進学することにしたんです。 バイト・サークル漬けからインターン漬けへ ―そこから横浜国立大学に入ってどうでしたか。 東大がダメだったことは吹っ切れていたと思っていましたが、落ちたくせにやっぱりちょっと学歴的に横浜国立大学を見下しているところはありましたね。 部活もテニスを続けようと思っていましたが親から仕送りをもらえなかった関係でテニス部は無理そうとなり、テニスサークルに入りました。入るまではテニスサークルなんて底辺だとか思っていましたよ(笑) ―入ってみたら変わりましたか。 底辺とか思っていたけれど入ってみたら楽しかったですね(笑)結局バイトとテニスサークルに明け暮れる大学生活を送っていました。いわゆる意識高い系からは遠かったです。 ―バイト・サークル漬けからインターン漬けへの変化はどこで? 大学でゲストが毎回きて講演してくれるような授業をとっていたのですが、たまたま来られていたカヤックの代表の柳澤さんの講義を聞いて感銘を受けて、講義後駆け寄って『インターンさせてください!』とお願いし、面接を受けに行ったのがきっかけです。 大学三年生の時に某IT会社ではじめてのインターンをさせてもらい、業界の話を聞いたりいろんな人に出会ったりしていくうちに、大学の同級生から聞くことのなかったフレーズや発想が飛び交っている環境が面白くて「もっと色んな業界を見たい!いろんな人の話を聞いてみたい!」と思って他のインターンも参加するようになりました。大学でとっていた採用学というゼミでサイバーエージェントの人事制度が取り上げられていたのが理由でサイバーエージェントのインターンにも参加しました。 また、インターンがきっかけでこの頃には自分の価値観・選択基準が他人基準のピラミッド型から自分の興味のあることや好きなことを選択しようというハイブリッド型に変化していました。   会社を選ぶ基準は「自分の居場所があるか」 ―様々なインターンを経験した結果、今の会社を選んだ理由は何でしたか。 人がどういう意思決定して、どういう人生歩んでいくんだろう、みたいなところに興味があったので人材や採用に強い会社に就職したいなと思っていました。 サイバーエージェントを就職先として選んだ理由としては、感覚的に会社の価値観と合うなと感じたことです。就職活動する中で「自分の居場所があると感じるか」はとても大事にしていて、サイバーエージェントは価値観もあっていたのでここなら自分の居場所があると思ったんです。   ―会社の価値観と合うかの判断は難しいと思いますがどう判断されていましたか。 社員の方々と徹底的に話して、少しずつすり合わせしていました。ただ、話す時に意識していたのは、仕事上で気になるであろうポイントをしっかり聞くこと。 嫌なことがあった時はどうしているか。失敗したときの立ち直り方と失敗を社員同士で共有しているか。失敗した時の周りの人の態度はどうだったか。社員の人はポジティブか。何が働く上でのモチベーションなのか。どういうときにモチベーションがあがるのか。 上記のようなことを社員の方々に確認していました。   ―新卒での配属は興味があると言われていた人事分野ではなかったんですね。 人事に行きたいという気持ちがあったものの、小さい頃から父親の影響もうっすらと起業したいという思いがあったので自分が成長できるところに行きたいという気持ちもありました。当時サイバーエージェントではAbema TVにちょうど力を入れようとしているところだったので、自分の成長幅を考えてAbema TV開発局でのキャリアスタートを決めました。   ―開発局での仕事はいかがでしたか。 やりがいをとても感じていたものの、自分の仕事のできなさ具合に落ち込み、次第に精神的にきつくなっていました。何もしてないのに涙を流しているみたいな状況にまで陥った時期もありました。頑張っている同期と自分を比べて落ち込んだり、自分の力不足を他人のせいにしたくなったり、自分の気持ちを押し殺したことで辛くなったり。 今のメンタル状態はやばいよとお姉ちゃんに指摘されて気づくことができてメンタルの改善に取り組んだことでそこから抜け出すことができました。 ―どのような取り組みをされたんですか。 病院に行くことも考えたんですが、まずは自分でできることをやってみようと思い客観的な意見やアドバイスをもらうべく社外の人たちに会いに行きました。 父親やテニス部時代のペアであり親友など自分が信頼している人たちに自分の状況を説明して、その人たちにアドバイスを求めました。そうしている中で、「この人たちがいるなら頑張れるかな」って前向きな気持ちを取り戻すことができたんです。最悪今の会社じゃなくても、この国じゃなくてもどこかで仕事はできるだろうって開き直ったら仕事がやりやすくなり、結果的にうまくいくことが増えました。   上を目指さないとそれ以上のものは得られない ―その後の異動は自ら希望したんですか。 はい。もし今後起業することを考えた時にここからステップアップしたい、もっといろんな事業を自分の目で見たい、起業家の人たちの実体験を聞ける仕事につきたいと思いサイバーエージェントキャピタルへの異動を希望しました。 が、ちょうどそのタイミングで藤田ファンドが復活することになり2018年の11月からそちらに異動することになりました。 ―全く異なる分野への異動で苦労はありませんでしたか。 投資経験はなかったので最初は知識を身につけようと本をたくさん読みました。「起業のファイナンス」等を読んで起業家が使う単語を勉強しましたね。でも実際に投資してみないと分からないこともあると言われていたので出資先を探してみようとなり、いろんな起業家と出会った中で出資先記念すべき一人目として決めたのがタイミーの小川さんです。 ―タイミーへの出資を決めた理由はなんだったんですか。 過去にサイバーエージェントベンチャーズが出資していたというのもありますが大きかったのは彼が大きな夢を描いていたから、です。 個人的に、高みを目指さないとそれ以上のものは得られないと思っています。だからどれだけ目標を高く設定できるか。小川さんは私が東大って思ったときに「いやいやスタンフォードでしょ!」と言ってくるような視座の高さを持ちつつ、同時に足元は実直に事業と向き合っている起業家だったのでだったので、我々としても応援したいと思い出資に至りました。   起業家と一緒に日本を盛り上げたい ―仕事に置いて結果を出すために実践していること等はありますか。 今の仕事において、結果を出すのって最後は経営者であって私ではないと思っています。なので私が気を付けていることは彼らが最短で結果を出すために私が何をできるかを考えることです。 問題が浮上してきたときに全部を助けることはできないけど、私ができることがあれば手伝う。そうすると私のできることも増えていくし、彼らも助かる。できないと分かっていることは断りますが、やったことがないならとりあえずやってみます精神でできるようになんとかしています。   -結果的にたくさんできない仕事を引き受けるということにはなりませんか。 そうならないようにきちんと対話することは大事にしていますね。 ここはできません、っていうのをまず明確にした上で、ここなら頑張ればできるかもっていうニュアンスを事前にちゃんと伝えます。あるいはここを求められているのはうれしいけどこの部分には自分は向いてなくて、この部分だったら貢献できるかもしれません、という感じ。大前提にあるのは自分でちゃんと何ができて何がしたいかを把握しているということです。 ―その頑張るモチベーションになっているものはなんですか。 起業家の人たちはリスクをとって大きな資金を動かしていてきっとプレッシャーもたくさんあるのに笑って前向きに仕事をしてらっしゃいます。期待されている分、すごいスピードでの成長が求められているはずなのに。そういう人達と一緒にいると私も自然と、成長しよう、やるしかないっていうメンタリティになります。それが今頑張る理由ですね。 ―最後にこれからの目標等があれば教えてください。 直近の目標は貢献できる範囲を増やすことです。日本を変えたいと言っている経営者の方たちが本気で向き合っているので彼らがスムーズに経営できるように自分ができることを増やしていきたいです。 これから若いうちからチャレンジしている起業家がどんどん出てきて日本を盛り上げてくれたらと思っています。そのお手伝いを引き続きやっていきたいです。   ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる <取材:西村創一朗、文:松本佳恋、写真・デザイン:山崎貴大>

「政治はクリエイティブな仕事」渋谷区議会唯一の20代議員・橋本侑樹に迫る

今回は特別企画として、アイドルグループ「仮面女子」の元メンバーで、現在は渋谷区議会唯一の20代議員として活躍する橋本 侑樹(はしもと・ゆき)さんにインタビュー。 高校生でアイドルデビューしたのち東京大学へ合格し、東大生アイドルとして活動しながらも勉学に励んでいた橋本さんは、10〜20代の人たちに対し「こうあるべき、に縛られない将来の選択をしてほしい」と言います。 何の後ろ盾もない状態から議員になった彼女が語る政治の面白さや議員としての活動、またそれまでの経緯は、これまで政治に興味を持っていなかった人や、将来の道に迷っていた人にヒントを与えてくれること間違いなしです。   アイドルを経て、理想の社会を作るために政治家の道へ ー 今は渋谷区議会議員という肩書きを持つ橋本さんですが、これまでどのような道を歩んでこられたんでしょう? 私は小さい頃から歌を歌うのがすごく好きだったんです。小学生の頃には「歌を歌いたい」と、音楽の先生に掛け合って合唱団を作ってもらったほど。高校生のときには、NHKの東京児童合唱団のオーディションを受けて入団し、そこで歌を歌うようになりました。 高校3年生のときに合唱団を引退し、東京大学を受験することも決めていたんですが、音楽がすごく好きだったので物足りなくなってしまい、タレント事務所の門を叩くことにしたんです。そこで「東大受験生アイドル」としてデビューすることになりました。 一度は受験に失敗してすごく辛かったものの、一浪して合格。それからはステージにも立って毎日ライブ、毎日大学、という大学時代を送っていました。大学を卒業するとき、親からは就職するように言われていたんですが、私は芸能をやっていきたかったので、事務所から支給された衣装だけ持って家を出ることになったんです。 その頃来ていた仕事は「高学歴アイドル」としてのオファーが多くて。その仕事に向けた勉強はするものの、受け売りっぽいコメントしかできなかったんです。「これじゃあダメだ」と思い、自分で責任を持ってコメントできるタレントになるべく政治塾に通うようになりました。それが政治の最初の入り口だったかなと思います。 ー だけどそのときはまだ「政治家になるぞ」というスイッチは入っていなかったんですよね? そうですね。絶対に私たちの世代も政治に参加したほうがいいんですけど、みんな「面倒くさいから」「よく分からないから」と参加しようとしない現状は、なんとかしなきゃなと思っていました。でもそれは自分が政治家になるというよりは、想いを伝えることで役立てればいいなという感覚だったんですね。 だけどあるとき、所属していたアイドルグループのメンバーの一人が事故に遭って、突然車椅子生活になったんですよ。昨日まで一緒に踊っていたのに、もう一生歩けないと聞いたときは、本当にショックで。私は「彼女はグループを辞めるんだろう」と思っていたけど、その子は「辞めない」と言って、4ヶ月間のリハビリ生活を経て、車椅子に乗りながらステージ上でパフォーマンスできるまでに復活。 ー すごいメンタルですね。 今でも忘れられないのが、初めてお見舞いで病室に入ったときのこと。彼女はすごく普通で明るくて、今までと全然変わらない様子だったんです。私も気を遣うことなく接することができて、「障害を持っている人と接している」という壁を感じない空気感を味わいました。 そのとき、「障害やハードルを持つ人と接することは難しくないんだ」と学んだんです。この体験は社会全体に浸透して欲しいなと思ったし、自分の持っているハードルを理由にやりたいことを諦めてしまう人の壁をなくしていくお手伝いをしたいなって思ったんです。 そんな社会を作るキーパーソンとして、政治家というのは大きいなと考えました。今までは「当事者として政治に参加するべきだ」と同世代向けに言っていたわけですが、それならまず自分が率先すべきじゃないかな、と。さまざまなことが繋がって、「政治家になってみようかな」と思ったんです。   好奇心に従って議員への立候補を決意 ー 渋谷区議会議員に立候補しようと決めたのは、どんなトリガーがあってのことだったんでしょうか? 当時、音喜多駿議員の政治塾に通っていて、そこで議員の候補者を募集していることを知ったのが直接的なトリガーです。政治塾では「自分が『この問題なんとかしたい』と思ったときに、次の日からできることがあるというのが政治家の良さだよ」という話を聞いたんですよ。「なんとかならないかな」というレベルに止まらなくていいし、「何もしてあげられることがない」と思っていただけの状態から抜けられるのは魅力的だなと思いました。 特に、地方自治体って国会議員よりも人数が少ない分、フットワークが軽いんですよね。そして一つの自治体がやったことを他の自治体が真似してくれることもある。ボトムアップで社会を変えていくというやり方が、合理的だなと思いました。 なおかつ渋谷って、若い人がいっぱい集まるし企業もたくさんあるし、いろんなカルチャーが生まれている。影響力としても申し分ないなと思い、タイミングもよかったので渋谷区議会で出馬することを決めました。 ー 政治にチャレンジしようと思ったのは、いつくらいですか? 2018年の夏ですね。事務所の社長にも「選挙出たいので辞めます」と伝え、2019年の3月に卒業ライブをして3月31日で辞めて4月1日からは選挙活動に集中することにしました。でも、先輩議員から「最低半年は政治活動しないと当選しない」と言われていたので、このままじゃ時間が全然足りない、と焦りましたね。 そこで、2018年12月の生誕ライブでグループの卒業発表と政界進出表明をして、翌朝からは駅前で街頭演説をし、夜はライブをするという日々になったんです。 ー 即断即決というか、決めてからの動きがすごく早いですよね。 「やってみたらどうなるだろう」という好奇心が強すぎるんです。社会経験がないことは自覚していたんですが、全く違う世界に行くことはワクワクしていました。だから「政治家になりたくて仕方がない」というよりは、「やってみてどうなるか実験してみたい」という気持ちが大きいんですよ。 ずっと政治家でいたいというよりは、4年ある任期の中で自分のベストを尽くしてどれだけ社会を変えられるか見てみたい。もし4年でもっとやりたいことが見つかったら続けていきたいし、自分以外の人に席を譲ったほうがもっと広がると思ったなら辞める……という気持ちでいます。 ー なるほど。政界進出表明から選挙までは、どんなことをしていたんですか? 朝の演説以外にも、地域のお祭りやイベントを調べて顔を出しました。地域の人たちの顔を見たり、地域がどういう仕組みで回っているのか理解しようと思って。これまでは住んでいても素通りしていたようなあらゆる場所に、どんどん入っていくようにしました。 また、保育園児のママを集めて困りごとをヒヤリングしたり、同世代の友達にもさまざまな意見を聞いたりしましたね。それらの意見を考慮してマニフェストを作ったんです。チラシのポスティングのボランティアを募って、数ヶ月かけてみんなでポスティングして回ったりもしていました。 ー 地道に足を運んで活動していたんですね。競争の激しい渋谷区で勝つための、橋本さん流の戦略ってあったんですか? とりあえず「嫌われてもいいから目立て」と思っていました。嫌われるのは怖かったし、人に不快な思いをさせるのもすごく嫌だったんですけど、「記憶に残らないより目立ったほうがいいよ」と友人に言われて。そうでもしないとスタートラインにすら立てないんですよね。 現職の人は今までの実績で評価してもらえるけど、新人の場合は自分の素質を信じてもらうしかないわけじゃないですか。その中で、若さゆえの柔軟さや思想に偏りがないこと、勉強する体力があることや女性目線に立てることなど、自分が役に立てることアピールしていきました。 ー 選挙活動をやっている途中、大変だったことや衝撃的だった出来事はありました? 選挙が始まる前は、一人で駅に立っていて孤独を感じていたんですけど、一週間の選挙期間中はボランティアの方が一緒に立ってくれるので、辛いということはありませんでした。「これだけの人が応援してくれているのだから最後まで笑顔を絶やさずに頑張ろう」と、辛い顔を見せないとか、手伝ってくれている人に嫌な思いをさせないよう意識していましたね。 選挙活動中はみんな「やったもん勝ち精神」なので、押し負けると終わるということを実感しました。演説の場所も、はじめの頃はバッティングすることがなかったんですが、選挙期間中は多くの人がいい場所を取りたがるんですよ。みんな必死で、場所取りが地獄絵図みたいでしたね(笑) 一番のハプニングは、声帯にポリープができて声が出せない日があったことです。病院に行って薬をもらっていたものの、声を出さずニコニコしているしかできなくて、それがじれったかったです。 ー 選挙当日はドキドキだったと思います。当確が出た瞬間、どんな感じだったんでしょうか? その日は余裕がなくてナーバスになっていましたし、記者の方もたくさん来て待っていてくれたので、気が気じゃなかったですね。当選が分かったときは、ホッとしたのと嬉しいのと、予想以上の票に対する責任感とが合わさって「ビリビリ!」という感じでした。単純な「やった」という気持ちではなかったです。   橋本侑樹議員にとって政治は「クリエイティブな仕事」 ー 2019年5月1日から議員としての活動をスタートされたわけですが、実際に議員になってみてどうですか? 最初は会派(議会の中の派閥)を組むところから始まるんですけど、入った先で先輩議員を質問攻めにしてしまって「勘弁してくれ」と打ち切られるくらい、気になることだらけでした。 ただ、少年野球の始球式に出るという政務に私服で参加してしまって怒られたり、気になることを事務局通さず直接担当の人に質問していたら「勝手に動くな」と叱られたり。メディアの人を呼んではいけないところに呼んでしまって怒られたこともあります。 ー 新米議員だから分からないことだらけですよね。今は区議会議員としてどんなことをされているんですか? 委員会として審議をするという仕事があるので、区民の人が分かるようにその審議を議事録に起こしています。また全員参加の議会では、「代表質問」という自分の聞きたいことや提案したいことなどなんでも言える機会があるんです。だいたい年に一度順番が回ってくるので、それに向けて日々思っていることやいろんな人から聞いたことなどをぶつける準備をしています。 もちろん突然質問するのではなく、担当の課に話を聞いたりいろんな人と打ち合わせをして調整しながら提案を作っていきます。それが議員として、やっていて楽しいことですし、クリエイティブな仕事だなと思うんですよね。私は今回、35項目くらい質問しました。 ー 35項目も!代表質問に対する反応はどうでした? 他の先輩議員の方から「立派だった」って言ってもらえました。もともと、質問したいことを先輩に添削してもらって内容を調整するんですけど、「この段階でこんなクオリティで持ってくる新人はいない」と褒めてもらえたんですよ。質問にはその場で応答があって、答えが「YES」だったものは、すぐに動き出します。 ー そう考えると、政治ってすごくクリエイティブな仕事ですね。 そうなんですよ。国レベルでやるような大きなことじゃないけど、小さなストレス解消が全体を動かしていくことにも繋がるんです。こういった小さな積み重ねで社会を変えていけるのがいいなと思います。 政治家がやっているのは、遊び場作りみたいな感じなんですよ。社会を公園に例えるなら、政治家はそこに遊具やベンチを置いたりする役割。公園に入っていく人たちがどんな遊びをするかは分からないけど、必要なものを置いたり邪魔なものを排除したりしていくことを決める。政治の役割はそういうことかなと思っています。 ー 議員1年目で、自分の発言によって生活が変わっていく様子を目の当たりにしてどう感じられますか? 忖度しないで要望を言える人が増えるほどいいなと思っています。その要望が良くなければ却下されるだけなので、とにかく「言う」のが大事。何の後ろ盾もない私にもできるわけだから、共感を呼ぶような行政の姿を提言できるような人が渋谷区議会に限らずもっと増えればいいな、って。 議員勉強会などもあるんですけど、それって結局議員同士の頭の中の交換で終わってるんですよ。だから、実際にそこで暮らす人々の声を聞いて「こうしたらいいかもね」と考えるような議員が増えてほしいです。 ー ビジネスの世界でも「会社の中にこもってあれこれ議論しているよりオフィスから出てユーザーに話を聞くのが大事」だと言われるんですけど、政治家も同じなんですね。20代の議員を増やしたり、若い人が政治の世界に飛び込んでくるのを増やしたいという想いはありますか? それはありますね。長く議員をやり続けて流れを知っている人も重要だし、入れ替わってどんどん意見を言っていく人がいてもいいと思っていて、そこに参加する人が増えるといいなと。そしたら政治を身近に感じられて、意見も言いやすくなると思うので。 ー 最後に、残りの任期でこれから挑戦したいことや、やっていきたいことがあれば教えてください。 もうちょっといろんな区民の人たちと意見交換できる機会を持ちたいですね。今私が意見を聞いているのはまだ一部の人なので、私自身、もっといろんな人が話をしてくれるような政治家になりたい。そうすればいろんなアイデアが浮かぶだろうなと思います。あとは、渋谷の街を綺麗にしたいという思いがあるので、安全で綺麗な街づくりのために頑張りたいです。   (取材:西村創一朗、写真/デザイン:矢野拓実、文:ユキガオ)

学生ライターからの内定と2度の退職からわかった。自分のやりたいことのヒントは「外」ではなく自分の「内」にある。

一般的な就活は避け、学生ライターでキャリアをスタートした中野さん。26歳までに会社員、フリーランス、メディアの立ち上げなど、様々な意思決定をしてきました。 そんな彼女は、こう言いました。 自分のやりたいことやキャリアのヒントは、「外」ではなく自分の「内」にある。 決して、順風満帆なキャリアではなかった中野さん。でも、諦めずに取り組むことで、WEBメディアの編集長、フリーランスライターとして好きなことを仕事にしています。 中野笑里 / Emiri Nakano:大学3年次、WEBメディアのインターンをきっかけにフリーランスライターとしての活動開始。 卒業後はギフト系メディアの編集長として450万ユーザーのメディアに育てた後、社会人4年目の26歳でスタートアップ企業の事業部長となりメンズ美容メディアdanCe(ダンシー)を立ち上げる。社内での複業も実現し、11月からは社長室で戦略責任者も兼務。現在もフリーランス継続中で、美容ライターとして雑誌や大手サイトで執筆中。   バイトが時間の切り売りに感じ、虚無感を抱く。自己分析で書くことが好きなことに気づき、学生ライターへ ー中野さんが本格的にライターをはじめたのはいつ頃ですか?また、はじめたきっかけも知りたいです。 中野:大学3年生のときに、恋愛系メディアで2週間ほどインターンを経験しました。記事の書き方やGoogle Analyticsの使い方など基礎的なことを学びました。 ただ、単価が安かったので時給換算したら500円ほどで。もう少し条件がいいメディアで書きたいと思っていたときに、編集長からお声がけいただいて。はじめよりも好条件だったので、お世話になっていた恋愛系メディアで本格的にライターを始めました。 ー3年生になって、恋愛系のメディアでライターとして始めたわけじゃないですか。やろうと思ったのはどういうきっかけだったんですか? 中野:1、2年生で初めてレジ打ちのバイトを始めました。ただ、バイトの時間がすごく虚無で、時間の切り売りに感じたんです。 あるとき「私が今後したいことって何だろう?」と自己分析をしてみたんです。すると「書くことが好き」ということに気づいて。思えば、高校時代にブログ運営をしていましたし、小学校6年間は毎日日記を書いていました。 であれば、書くことを仕事にできたら幸せだなと思い、「ライター アルバイト」や「ライター インターン」で検索して、ライターインターンに辿り着きました。   自分が納得しないと動けない。一般的な就活への反骨心 ー3年生からライターを開始して、収益も出ていたんですよね。中野さんなら「新卒フリーランス」もありだったと思いますが、就職を選んだ理由はありますか? 中野:たしかに「フリーランスもありだな」とは思っていました。でもちょうど、たまたま登録していた逆求人サービスで企業からオファーが届いたんです。当時私が興味を持っていた保育事業を始めるということで、「それなら私も一緒にやりたいな」と思い入社しました。就活と言えないほど、完全に受け身でしたね。 ーすごい縁ですね。周りが就活モードの中、インターンや企業説明会からはじまる「ザ・就活」はしてなかったんですか? 中野:しませんでした。正直、一般的な就活が異様に思えてしまって。 3年の12月頃に就活が解禁されて、リクルートスーツで身をまとい、一斉に企業説明会に行きはじめますよね。それぞれのタイミングが必ずあるはずなのに、「何でみんな突然一斉に始めるんだろう?」と、疑問に思いました。 周りの友達も、本を読みながら「こう聞かれたらこう答える」と準備していて、内定を取るためのノウハウも、たくさん出回っていますよね。「丸暗記で内定獲得!」みたいな。 でも「それって本質的じゃないな」と感じてしまったんです。自分の将来やキャリアを話すのに、画一的な模範解答はないはずですよね。 今思えば、普通の就活をしなかったのは自分に向いていないのと、「既存の就活スタイルへの反抗心」があったのだと思います。 ー3年生から本質を捉えていてすごい......。周りの目がある中で、自分の意見を貫けた理由は何でしたか? 中野:昔から家族や学校に、何かを強いられるのがすごく苦手でした。自分で納得しないと、動けないんです。また、常に堂々としていて目立つこともあり、周りから浮くことがあっても、別に気にしないんです。 ー鋼のメンタルですね(笑) 中野:そうですね(笑)今、就職先を決める必要はない。私のタイミングで決めよう、と思っていましたね。   携わりたかった事業が白紙になり、新卒2ヶ月目で退社。フリーランスへの挑戦 大学4年12月から契約社員で入社したはいいものの、実はすぐに退社してしましました。 保育事業をすると聞いて入ったのですが結局白紙になってしまい、またスタートアップのベンチャーということもあって激務で。 ーそれは災難でしたね......。受け身で就活していたとのことでしたが、後悔はしていますか? 中野:大変なこともありましたが、あれはあれで必要な経験だったと思います。流されながら決めるのではなく、きちんと就職先を見定めるのが大事なんだな、と思いました。 ー急にフリーランスとなってしまいましたが、独立初月から稼げましたか? 中野:初月は打ち合わせが多かったのですが、Facebookで「これからフリーランス一本です!」と報告してから、いろんな縁や繋がりに恵まれました。 ちょうどメディアが流行り始めた時期ということもあり、だんだんライターの依頼も増えるようになりました。鉄板焼きでアルバイトも同時にしていたんですが、独立2、3ヶ月目からはライターの仕事も忙しくなり、ライター一本で仕事しました。   リスペクトフルなメンバーとの出会い。メディアの波が来ると確信 ーフリーライターの期間が半年でしたよね。何かきっかけがあったのですか? 中野:学生時代の繋がりから、ギフト専門のメディアが立ち上がったことを知ったんです。もともとお祝い事やプレゼントが大好きで、そこでたまたまライターの募集があったので、すぐに面談し、ライターアルバイトとして入社しました。 実は、はじめは社員として入社するまでの覚悟はありませんでした。単純に素敵なサービスに携われたらいいな、という気持ちでした。 ーなるほど。でも、そこから入社されたんですよね? 中野:そうなんです。ライターとして出社して記事を書いていたのですが、仕事が楽しくて、週2日出社だったのが気づいたら週5日も出社していました。 その間ずっと記事を書いていたのですが「このメディアで他の仕事もしてみたい、深く関わりたい」と思うようになり、ちょうどそのとき「社員になってみない?」とお声がけいただいたので、社員になることを決めました。 ーここも素敵なご縁でしたね。入社の決め手は何でしたか? 中野:一緒に働いている方へのリスペクトですね。「この人たちとこの先も働けたら楽しいし、絶対成長出来る」と確信できたのが、一番大きかったです。 また、当時私は雑誌をメインに仕事をしていたのですが、多くの出版社が少しずつWEBにシフトしていて。 そのとき、メディア運営やWEBにおける編集・ライティング力をつけるのは必須だなと確信しました。正社員としてメディア運営にコミットして力を付けることで、今後のキャリアにも役に立てようと思いました。   尊敬していた上司の退社による退社。メンズ美容メディア 『danCe』を立ち上げる ー中野さんが働かれていたギフトメディア、去年すごい伸びましたよね。累計利用3000万UU・月間利用480万UU。ライターのスキルと、編集や企画、WEBメディアのプロデューサースキルは、似て非なるものじゃないですか。成果出すためにどんなことを意識していましたか? 中野:メディアが伝えたいことを把握し、文章で表現するのがライターだと思っています。一方で編集は、メディアの企画や数値改善、ライター育成のコミュニケーション、マニュアル整備など、多種多様なスキルとそれらを俯瞰して見る視点が必要となります。 この編集のマルチタスクさはフリーランスの働き方とも似ていて、すんなり受け入れることができたんです。 最初は大変だと思うこともありましたが、日々の積み重ねで、結果的に編集やメディア運営のスキルを身につけていけたのだと思います。 ーなるほど。ギフトメディアでは編集長もされていましたよね。順調にキャリアを歩まれている中で、キャリアを変更したきっかけは何でしたか? 中野:色々あったのですが、一番大きいのは尊敬していた上司が退職したことですね。残った上層部と私の意向には決定的な違いもあったので、すぐに別の道を考えました。 ギフトメディアを退いてから、尊敬してた上司と私を含め3人で、新しいサービスを作りました。その後、もともとフリーランスで関わっていたスタートアップ企業位に入社し、メンズ美容のメディア 「danCe」を立ち上げました。 ー今回は今までとは違って、男性向けの美容メディア。どんなコンセプトなんですか? 中野:danCeの運営会社が、元々LIVE配信やタレントをしているかっこいい男性を囲っている企業と繋がりがありました。「その男性たちを活かして何か出来ないか」というお話があり、一つのアイデアとしてメディアが立ち上がりました。私は今まで美容全般について執筆や編集で携わってきたのですが、想像以上に「メンズ美容」の市場は大きく、スピード感があったんです。 danCeは編集長の私もライターもほとんどが女性で、「女性発信でカッコいいを語る」をコンセプトとしています。 ー面白いですね!あえて全員女性にしているんですか? 中野:そうですね。多くのメディアではかっこいい男性が出てきて「かっこよさ」を語ることが多いと思うのですが、時に上から感じたり、「自分にはできなさそう......」と思われることもあると思うんです。 女性目線でかっこいい男性を語ることで、その隔たりをなくしたいなと。上からではなく横からを意識し、男性美容に寄り添うメディアを展開したいですね。   自分がやっていきたい答えは、「”外”ではなく自分の”内”」にある ーここまでありがとうございました。今後の方向性や、やりたい仕事の軸ってありますか? 中野:今、二つ考えています。一つは「女性の働き方」に関わりたいです。卒論で食育をテーマに書いたのですが、子供の食の認識には家庭内の食事が大きく関わっていて。また、そこには母親の働き方もかなり密接に関わっていたんですよね。 もちろん十人十色の答えがありますが、「現代における最適な女性の働き方ってどうなんだろう?」と、フラットに考えつづけたいです。 もう一つは「子供」です。新卒の会社を辞めてフリーランスになったときに自己分析した結果、子供に関わる社会福祉に興味があることがわかったんです。子供の貧困に問題意識を持っているので「どうにかしたい」という気持ちがあって。 子供をきちんと自分事にしてから関わりたいので、タイミングとしては私が出産を経てからだなと思っています。 この二つは、今後のキャリアで必ず携わりたいです。もしかすると、美容よりも興味が強いかもしれないです。 ー意外な軸でした。いろいろとキャリアで模索した中野さんですが、U-29世代に伝えたいことってありますか? 中野:「答えは”外”ではなく、自分の”内”にある」と伝えたいですね。 たとえば、将来どんな仕事をしようかなと就活を考えたら、エージェントや就活本などがたくさんありますよね。でも、就活は自分の進路を決めることなので、答えは絶対外ではなく内(自分の中)にあると思っています。徹底的に自己分析をして、自分がやりたいことを探してほしいです。 また自分のやっていることに納得していないと、その仕事で成果を出すことは難しくなります。成果が出せないとやりがいも感じず、負のループになってしまう。自分が納得する道を歩むために自分の考えを深掘りして「何が好きか」や「何をやりたいか」を明確にしてほしいです。 もちろん、その場で見つからないこともあると思っています。それでも立ち止まらず、諦めずにやってほしいですね。数ヶ月や半年後では、見える世界が全然変わってくると思うので。   取材・編集:西村創一朗 執筆:ヌイ 撮影:山崎貴大

自己分析でキャリアの「モヤモヤ」をなくした久保田彩乃が語る3つの秘策

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第19回目のゲストは、株式会社LITALICO(以下、LITALICO)で中途・新卒採用を担当されている久保田彩乃(くぼた・あやの)さんです。 常に自らテーマ設定をし、情熱を持って動けるかどうかを軸にキャリア選択をしてきた久保田さん。仕事で成果が出せず苦労したどん底期も、自己分析をすることで乗り越えてきたそう。 もともと予防医療に関心を持ち、大学でヘルスケア領域を学んだ彼女が、どのように現在のキャリアを選んできたのか。自分の道を選ぶ基準や、キャリアにおける「モヤモヤ」をなくすための秘策など、キャリア選択に悩むU-29世代に役立つお話を伺いました。   奨学金制度で感じた社会の壁 ー 高校や大学での経験で、今のキャリアにつながっていると感じるものはありますか? 一番大きかったのは大学進学かなと思います。家族が中高時代に病気になった経験があったので、健康の重要性を感じて医療系の大学に進もうと考えたんです。でも、経済的に余裕がなかったので、返済不要の奨学金をいただいて通おうと思いました。 奨学生は学校の成績で選ばれるため、どれだけ想いがあったり人柄が素敵だったりしても、奨学金をもらえない人たちがいるんですよね。そんな中で自分が奨学生に選ばれたことを、ただ「運が良かった」で終わらせたくないなと感じたんです。やりたい事を実現したり才能を発揮したりするためには、機会に差が出るべきではないな、と。 だけど奨学金の制度を見ていると、努力を超えた先にある「社会の壁」を強く感じました。私はなんとなく選ばれたような気がして、そういう自分を恥じながら、ギャップを埋めていくことをしたいなと思ったのが大きかったです。 ー 課題意識を持って大学に進学したわけですね。どんな大学に通っていて、どんな学生生活を送っていましたか? 「保健師」という、病気の予防や健康の維持・増進を目的に活動する国家資格を取りたかったんです。そのためには看護師の資格が必須なので、保健学科のある大学に通っていました。ただ「看護師にはならないぞ」というマインドで過ごしていたので、学外の知見を自分で取りに行くことを楽しんでいましたね。 予防医療の「人が病気にならないようにするにはどうしたら良いか」というテーマを追って、東京に勉強しに行ったり海外の学会に出かけたり。そのつながりで医療系のスタートアップでお手伝いしたり、国会議員のところでインターンをしたりもしていました。   ファーストキャリアで「心の健康」の重要性に気付く ー 大学を卒業後、新卒としてリクルートキャリアを選んだ理由はなんですか? 当時、医療業界の外に出て、人が健康に生きるために自主的に健康を維持できるようなサービスや、それを利用し続けられる仕組みを世の中に作りたいなと漠然と思っていました。とはいえ、仕組み化して使ってもらうためには、対象者に自発的に行動してもらわないといけない。ただ、仕事がとても忙しいと健康を維持するために行動するのが難しいんですよね。 そこで働き方の事例をたくさん知れば、健康維持行動を阻害する要因を学べるんじゃないかと思ったんです。あと、感情を動かすテクニックをたくさん学べば、行動変容の一歩を踏み出せるんじゃないと思い、就職先を絞りました。大手企業なら数多くの事例がみれるだろうという考えもあって、リクルートキャリアを選んだんです。 ー それが2017年の4月ですね。入社後はどんなことをされていたんですか? 法人営業として、メーカーの新卒の人材紹介をしていました。入社したときに持っていたテーマは、働き方の事例を見ていくことで自分の専門性を絞っていくこと、そして人を動かす力を身に付けること。前者のほうは日常業務では満たされないだろうなと思っていたので、社内の資料を見たり研究所の社員に会いに行ったりして勉強していました。学会やフォーラムにも通っていましたね。 人を動かすという点は、通常業務の中で良い経験が得られたんです。たとえば、社内の立場によって主張が異なるので、それを取りまとめながら動かしたり。論理的な力や目標達成から逆算したときに何の数値を見ればいいのか、誰にどの順番で何を言ったらいいのか、といったことが学べました。 ただ、入社して3ヶ月目くらいの頃、周りで鬱や適応障害になる人がいて、人は案外しんどくなるものだし、これは深刻な課題だなと思うようになったんです。そこから、体の健康だけでなく心の健康や自己肯定感をテーマとしてサービスをつくりたいという気持ちが強くなっていきました。 ー 関心が体の健康から心の健康にシフトしていったんですね。そこから転職に至ったきっかけは何だったんでしょう? 仕事自体は面白かったんですけど、どこかで情熱を感じきれていない自分にも気付いていて。できないことができるようになっていくことや、立てた目標を達成していく喜びは確かに感じていたんですが、一方で学生時代のような情熱はないな、と。今の自分と、かつて情熱を持ってがむしゃらに動き回っていた自分とのギャップをずっと感じていました。「もう一度自分が情熱を持てるものを探したい」という気持ちが強くなっていたんですよね。 そんなとき、就活が全然上手くいかないという就活生の面接に、企業側として同席する機会がありました。就活が上手くいかずボロボロになっていて、発達の仕方にもデコボコがあるような方で、「採用は難しいな」と思うと同時に、奨学金制度で感じたことがフラッシュバックしたんです。 配置によっては活躍できるかもしれない人たちが、強烈なミスマッチによって活躍できていないこの状況を解消すること。そこになら、情熱を注げそうだなと思いました。ですが、今の会社の方向性や経営の方針と、自分がやりたい方向性とのミスマッチは感じていて。だったら、既にその事業をやっている場所に移ったほうがいいと思い、LITALICOに転職したんです。   自己分析することでどん底期を乗り越えた ー LITALICOでは採用担当として転職されたんですよね。なぜその職種を選んだんですか? 今の自分の能力と、LITALICOという会社において一番難しい点はどこなのかを考えたときに出た答えが「採用」だったんです。当時のLITALICOは、既存の店舗サービスから徐々にIT系の事業をつくり福祉業界全体にSaaSプロダクトを入れていくフェーズだったので、ここで活躍できる人材採用をしなければならないと聞いていて。これまでにない挑戦ができそうだと思ったんですよね。 ー なるほど。しかし、なかなか成果が出せずに苦しんだ時期があったんだとか。 そうなんです。入社した当初は良かったんですが、そのあと1年くらいはどん底で。期待していただいていて責任のある立場にいましたし、求めればなんでも教えてもらえるという、恵まれた環境にいることは間違いありませんでした。一方で、なにをやっても自分の手から勝手に物事が離れていって、ドライブしきれないと感じることがすごく多かったんです。 予算が限られていたりいろんな人から意見が出てきたり、外的な要因もありました。でも、これまで自分の手で何かを動かすという経験をしてきた分、自分でなにも動かせていないことで自己肯定感が落ちたり自分の存在意義を感じられなかったりすることが半年以上続いたんです。とても辛い時期でしたね。 ただ、動かなければ成果は出ないという思いが強かったので、行動することだけはやめませんでした。最近やっと乗り越えられた感じがしています。 ー どん底の時期をどうやって乗り越えてきたんでしょう? モチベーションについて自己分析をしました。これまでは、中長期的な自己成長や「社会を変える」というすぐには達成できなさそうな目標を追ってきたんです。一方、今日も会社に行って成果を出すといったことに対しては、中長期的な目標設定をしても意味がありませんよね。 だから、中長期的な目標の逆算ではなく「今日も楽しいと思える軸を探そう」と思ったんです。そのときに気付いたことが二つあって、ひとつは、今この仕事は意味付けをしなくても面白いと思えているということ。しんどい状況だけど、やる意義やワクワク感を毎日感じているし、自分じゃないとできない仕事だなとシンプルに思えていたんです。 もうひとつが、数値的に量を積み上げていく、あるいは削減していくということが楽しいということ。一日の全部のアクションを定量化して、とにかくやりきる。自分は達成感を満たしていくことにやりがいを感じられるんだな、ということに気づきました。この二つに気付いたあたりから、だんだん物事が上手くいくようになったんです。   自分のキャリアでモヤモヤしないための3つの秘策 ー 久保田さんは、自分のキャリアに対して「モヤモヤしない」ための仕組み化をしているそうですね。具体的にどんなことを心掛けているんですか? はい、実は三つの秘策があるんです。一つ目は、変に意味付けせず今自分がやりたいことに全力で向かっていくということ。「今はやりたくないけど、将来のために逆算すると価値がある」ということもあるとは思うのですが、やりたいことが目の前に来たときに掴んだほうがパフォーマンスは高くなるので、私は「目の前のやりたいことを全力で掴んでやりきる」ということを大事にしています。 二つ目が、モチベーションを長期と短期の2軸にわけ、短期目標を定量化すること。会社から出されているKPIが長期的だったら、モチベーションを維持するのが難しいんですよね。それをデイリーに落とし込んで数値化し、週次や月次でサイクルを回して達成感を満たすようにしています。 三つ目が、「社外の方の力を借りる」ということです。社内にいるとどこか偏ったものの見方をしてしまったり、ビジョンを共有しているからこそ見えない視野があったりすると思っていて。自分のメンターとなりうる方を社外に探して、相談する時間をいただくようにしています。 この三つを実行できれば、あとはどこへ行っても機会を掴んで成長できると思い、あまり悩まなくなりましたね。 ー 三つ目の秘策はすごく大切なことだと思うんですけど、メンターに出会えない人もいると思います。出会うためにはどうしたらいいでしょうか? 情報収集することと、そこに出向くことだと思います。私の場合は、まずテーマを決めて文献を読み、自分になさそうな知識を持っている人や、みんなが称賛している人たちを探すんです。そしてそういう人が登壇するイベントに行き、イベント終わりや帰りに声を掛けて、1分程度で自分のことを伝えています。 ー エレベーターピッチ(短時間でのプレゼン)をするわけですね。 はい、それが一番効果的でしたね。そういうことしている人は世の中に少ないらしいので、喜んでもらえます。さらに、エレベーターピッチの中で「○○という話をしたいので別で時間をもらえませんか」というところまで約束を取り付けるんです。相手が年配の方だと、だいたい快諾していただけますし、「若者が頑張っている」と応援してもらえますね。 ー 自己分析ができていない人は多いと思います。そういう人たちに、自分自身を振り返る習慣やもっと生きやすくなるためのコツを教えて下さい。 コツは二つあると思っていて、ひとつは「自分のwell-beingを保つ」ことですね。自分がホッとできる瞬間や安らげる瞬間を言語化しておき、定期的に繰り返すことが大切だと思います。 もうひとつは「他人に自分の状態を把握してもらう」ということ。自分だけだとしんどい状態に気づけず頑張り過ぎてしまいますが、周囲は気付いていることが多いんですよ。「ヤバそう」だと思われていたとしたら、その「ヤバそう」を何で評価してるのか聞きに行くといいんじゃないでしょうか。 ー 最後に、今後2〜3年でチャレンジしたいことを教えてください。 私は、みんな課題だとは思っているけど自分の手では解決できないと思っていたり、ポテンシャルを秘めているけど活躍できていなかったりする人たちが、それを自分の手で解決しようと思える社会にしていきたいし、そういう人を増やしていきたいんです。 LITALICOの「障害のない社会をつくる」というビジョンは、障害の有無ではなく、個人と環境の間に生じているズレそのものを極力社会と個人両方に働きかけてなくしていきたいというもの。それは、LGBTや女性活躍などいろんなテーマがあると思います。だから私はこの会社を通じて、人材市場を動かしていくようなことしたいと思っています。 自社の採用という視点以上に、日本社会において「これまで誰も解決してこなったような課題解決に自分の力を使っていくのがかっこいい」という社会にしていきたいですね。 ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。 ユニーク大学に参加してみる (取材:西村創一朗、写真:山崎貴大、文:品田知美、デザイン:矢野拓実)

大切なのは戦略性とEQの高さ ー フォーブス ジャパン副編集長・谷本有香が20代に伝えたいこと【U-29 Career FESレポ】

ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代のためのコミュニティ「U-29.com」が運営する『U-29 Career FES』の第2回目を、2019年12月16日に開催しました。 今回のゲストは、新卒で山一證券に就職して倒産を経験したのち、フリーランスの金融経済キャスターとして独立することを選んだ、フォーブス ジャパン副編集長の谷本有香(たにもと・ゆか)さんです。 世界のVIP3,000人以上に取材した実績をお持ちの谷本さんは、「20代のキャリアは戦略的に考える必要がある」と言います。彼女自身の20代のエピソードや、これまで取材したトップリーダーたちの話を交えて、今の20代がどんなことを心掛けてキャリアを描くべきか話していただきました。   求められるリーダー像は時代とともに変わっている 私のファーストキャリアは山一證券でした。これは20代の中でもビッグイベントで、今でも影響していることです。そこから20年近く、金融経済専門チャンネルでニュースキャスターやアンカー、コメンテーターをフリーランスとしてやらせていただいていました。そして4年前にフォーブス ジャパンにジョインさせてもらい、現在に至ります。 私の一番特徴的なところは、世界の著名人3,000人以上にインタビューさせていただいたこと。私の中では、リーダー研究がひとつのライフワークなんです。リーダーって時代の写し鏡だと思うんですよ。勢いのあるリーダーは、その時代が求めている形を代弁しているんです。 リーダーを間近で拝見させていただいて思うのは、求められるリーダーの姿は確実に変わってきているということ。いわゆるトップダウン型のリーダースタイルではなくなり、世界全体で協調型へと変わってきています。 世界一の起業家を決めるイベントの取材で印象的だったのは、4年くらい前から、世界ナンバーワンの起業家が「私は起業家じゃない、社会起業家だ」と言い出したことです。社会に還元するビジネスモデルであってしかもちゃんと稼ぐという形でなければ、今の時代は生きていけない、と。 1〜2年前からは「社会起業家だ」とさえ言わなくなりました。なぜなら、社会起業家であるのが当たり前だから。特に、今年優勝したグルーポン創設者で、Uptake TechnologiesのCEO ブラッド・キーウェルは「起業家だと思ったことすらない。ただ目の前に課題があったら解決せざるを得ないんだ」「私たちはアーティストのようなものなんだ」と言っていたんです。 アーティストが何かを見たときに表現したくてたまらないように、課題を見たときに何かアクションをとらずにはいられない……という人じゃないとリーダーとしては成功しないかもね、と。時代は変わってきているなと感じました。   トップオブザトップリーダーに共通するのは「EQの高さ」 さまざまなリーダーにお会いした中でも、トップオブザトップリーダーという層がいるんですよ。彼らって本当にEQが高い。普通のリーダーだと、どれだけ頭が良くて論理的でも「心の知能指数ゼロだよね」という人が少なからずいるような気がしていて。EQは、リーダーにとって重要な資質だと思いますね。 私自身もEQが高いとまでは言わないけれど、「行間を読む」といったことが得意だと思っていて。インタビュー時も「あなた、私の心がインストールされていませんか?」と言われることが多いんです。なぜなら、本当にインストールしているから。 その人のライフヒストリーを見て「なぜ他の人でなくあなたがこのプロダクトを思いついたのか」というところが面白いと思うから、そこにこだわっていたんです。フリーランスとして成果を出していくために、他の人と違うことをやって、他の人だったら絶対引き出せないアンサーを引き出すよう苦慮していた。 なぜこれができるようになったのかというと、私が幼少時代から10代にかけて、EQが高くならざるを得ないような境遇にいたからだと思います。今でこそ社交的だと言われることもあるんですけど、幼少期から小学校時代は、人の輪に入れなくて常に周りを見ている子でした。それも、ただ見ているだけじゃなくて分析しているんです。 また親戚が多く、常に様々な人たちの人間模様を間近で見ていると、当然そこにはいろんな軋轢が生まれているわけです。それをじっと見ているような子供だったんです。小さい頃から親戚や家族の中にいて、「こういう風に言ったら角が立つんだ」「あの人は表情は穏やかだけど、心の中ではこう思っているんだな」ということを考えていた。そんな環境下、人の心の機微であったりとか表情の動きとかを読むのが普通にできる子供になったような気がしています。 実は後天的にも、感性って豊かにすることができると思うんです。たとえば、自分で経験しなくても、想像力で補って感性を豊かにすることができる人もたくさんいる。でも私自身は自分の心を傷つけたり、苦しい立場や、その場に身をおいてみなければ理解したり、感じたりできない人間であるように思うんです。実際に見て、感じて、そういうことの積み重ねで、自身の思考や人間自体を育ててきたように思います。 また、今からでもEQを身に着けることってできると思うんです。たとえば、自分より大切な人や守るべき存在ができるということ。「もし大切な子供がいじめられたら」と考えるようになって初めて、いじめる側といじめられる側の気持ちがわかったりします。 あと、沢山の方にお会いして思うのは、「この人のことが大好き!」って他人に思わせる人って、相対的にEQが高い人だと思うんです。人の心を掴む方法って、様々な理由があるけれど、そこに共感を生み出すものって、波長であったり、相性であったりするところの、人間同士の親和性だと思うんですよね。 そのためには、まず自分から相手に対してニュートラルに心の状態を持っていきながら、きちんと向き合う。そういう姿勢ってできていそうで、なかなかできないものです。それは、自身の感情のゆらぎなども含め、特性を知るという前提があってこそできるもの。自己鍛錬が必要だからです。   谷本有香の人生を変えた波乱万丈な20代のキャリア 私が20代の頃、就職氷河期というのがあって就活にすごく苦労しました。そんな中で、山一證券を選んだんです。四大証券の一角と言われていた会社でした。ここに決めた理由は、一番感じのいい会社だったから。ここの方たちとだったら一緒に働きたいと思いました。入社したら営業企画部に配属されて、全社員向けに配信される経済ニュースのキャスターに任命されたわけですが、その後、会社は倒産。 山一證券不正がメディアに出て、取り付け騒ぎも起こりました。私は事務職だったので、このとき初めて店舗に手伝いに行くことになったんですけど、お店の前でおばあちゃんが私の膝にしがみついて「私の虎の子どうしてくれるの」って泣き崩れたり。それを見て初めて「私たちはなんてことをしてしまったんだ」と気づいたわけですよ。自分の預金残高がゼロになったことなんてどうでもよくなりました。 「この山一證券という大きな会社が、多くの人たちの人生をめちゃくちゃにしてしまった」と思ったんですよ。実際に何人もの社員が婚約破棄になりましたし、社員のお子さんは大学に行くのを諦めざるを得なくなった。「企業が持つの責任ってこういうことなんだ」と思いました。 そして当時、公平ではない情報を流しているメディアがたくさんあったんです。売れるから、と。そして更に騒ぎが大きくなるわけです。私はメディアというものも変えなきゃいけない、と強く思いました。これが、私のその後の使命を与えてくれたような気がします。 潰れたあとで決めたのは、「もう二度と企業だけに頼る人生はやめよう」ということ。そこからフリーランスの人生に切り替えたんです。そして、山一證券が何をやったのか、なぜ誰も救おうとしなかったのかということを詳しく知るまでは絶対死ねないと思った。そのためにはどうしても金融に携わっていく必要があるなと思いました。 ただ、私のような何も金融業界でやってきていない、顧客も持っていない、株を売ったこともないような人間を金融不況に陥った業界が取るわけないんですよね。であるなら、金融とキャスターを組み合わせて「経済キャスター」になれば、この世界で生きていけるかもしれないと思ったんです。 ただ、それを周りに話したら、みんなバカにして笑ったんですよ。だけど私は、なんと言われても絶対になってやると誓いました。たくさんの人が泣いたり、苦しんだのを見たから。私自身はそれをオロオロして見ているだけで、救うことができなかったけど、今後、そのような方たちが出てくるのを防いだり、何があったのか伝えていけたら彼らは救われるのではないかと僭越ながら思ったんです。そこから、その目標のために戦略的に動くようになったんです。 「金融経済の専門キャスターになるためにはどうしたらいいかな」と考えたたとき、金融系の資格はあったし勤務経験もあったので、あとはキャスター経験を積めばいいと思ったんですね。そこで、ありとあらゆるケーブルテレビ局に電話をしたんです、キャスター職が空いていないか、と。実際、1つの局からオファーを頂きました。 そしてさらに、当時の松下電工さんから「うちが持っている局でキャスターをやってもらえないか」と連絡を頂いたんです。そこから、週の半分大阪に行って週の半分東京で経済の勉強する、という生活をして、いわゆる「キャスター」として活動するようにになりました。 数年の経験を積んだ頃、ブルームバーグTVというアメリカの金融経済専門のチャンネルがアンカーを募集していたんです。そこで多くの応募があったと聞いています。そこで、幸運にも内定を頂きました。でも、幸運だと思う反面で、戦略的に動いてきたから当然だとも思っていました。なぜなら、日本で金融というフィールドにいたことがあって、キャスターやったことがある人間は私だけだったから。「経済」と「キャスター」というタグを繋ぐことによって唯一無二になれた。そこから私の「金融経済の専門キャスター」の人生が始まりました。   キーパーソンに出会うために200%のパフォーマンスで臨む フリーランスで長年働き続けられて、なおかつある程度お金を稼ぐってすごく難しいことだと思うんです。なぜなら常に時代に合わせて自己変革が必要だから。だから私は、今でも自分自身の成長と時代や環境などの動きを両軸で見るように心掛けています。20代の大きすぎるトラウマがあるから、今目の前にある「職」や「仕事」を失うのことに、いまだに恐怖感を持っているのです。だから、意識してインプットしています。 でもインプットしただけじゃダメで、アウトプットの質を高めること。それも、自分にしかできないアウトプットの仕方をしないと生き残れないと思います。特にフリーランスとして生きていくのなら。だから、20代で得た「常に自己分析と、実践をして反省する」というサイクルを回すことは、今でも役に立っているなと思います。 そして、アウトプットは手を抜かない。200%のパフォーマンスをするように心がけていると、あなたの人生を後に変えるキーパーソンに出会うことができるように思うんです。幸運の女神はいつ来るかわからない。けれど、ある人間が、何かのポジションの人間を探しているときに、真っ先に思い浮かぶ人に上がるためには、そういう努力が必要なんじゃないかと思います。私の周りにいるいかにも「幸運」を掴んだ人たちは、そういう水面下でのバタ足をものすごいやっている方たちばかりです。 キャスター時代にすごく頑張ったのは、ニュースに対して自分で仮説を立てて分析をするということ。そしたら「谷本の意見は面白い」と思ってくれる人たちが現れて、「コメンテーターにしてみたらどうだ」と、女性キャスターで初めてコメンテーターになれたんですよ。 出る杭だと思った人もたしかに沢山いました。実際に数えられない程の嫌がらせもされたし、きつくなかったと言えば嘘になるけれど、結果的にその出る杭だったおかげで、たくさんのお仕事をいただけるようになりました。なぜそれができたかというと、先に申し上げたような目標があったからです。それに対する、自身の役割があったから。その目標を達成するためなら、どんなことでも乗り越えられるという確信さえありました。 また、もうひとつ私自身をドライブしたのは、私は20代の前半で、全てを失ったということから生まれる、怖いもの知らずの感情です。会社、仕事場、お金……もう、失うものはない。だから、何をするのも怖くなくなったんです。今、すべてを持っている人はそういう熱い想いが生まれにくいかもしれない。じゃあ何を持ったらいいかというと「偏愛」なんです。そういう感情が大事になってくる。 教養も必要だけど、自分自身を際立てていくために必要なのは思考力であったり偏愛力というものが重要になる気がします。自分の偏愛は何なのか、考えてみるといいと思います。私の偏愛は「会社が潰れなければならなかった理由を知りたい」とか「メディアを変えたい」といったことでした。 覚悟のスイッチって、みんなにあると思うんですよ。そのスイッチが入るのは、早ければ早いほどいい。だから、何かあったときは「覚悟のスイッチ入ってるかな?」と自分で確認してみてほしいなと思います。   20代こそ戦略的に時間を使おう アメリカの心理学者メグ・ジェイさんがTEDで「Why 30 is not new 20」という話をされていたのをご存知ですか?「どうして20代が重要なのか」という話です。さまざまなデータを用いて「人生は20代でほぼできあがるから蔑ろにしちゃダメだよ」と伝えています。 キャリアを考えたとき、20代で遊んでばかりいたら相当難しいと私も思います。たくさんのリーダーにお会いしてきて共通しているのは、みなさん20代でものすごく働いてるということ。20代とか若いうちじゃないとチャレンジできないことや失敗できないこと、また20代の感性でしか脳に沁み入らないことってあると思うんですよね。 以前、若宮正子さんという方に取材させてもらったんですけど、彼女は70代でプログラミングを勉強し始めて、80代でアプリを完成させたんですね。彼女が言っていて印象的だったのは、「始めるのは何歳でもいいけど、『あなた、70歳からパソコン教室通うの?』という声が聞こえなくはない」ということ。 大事じゃない時期なんてひとつもない。でも、若い時期の脳のピークに自分のキャリアのピークを持っていく必要はある。だから20代のキャリアを戦略的に考えていく必要があるんじゃないかなと思います。特に私自身、20代を振り返ってみると「誰と会うか」「自分がどこに所属しているか」「どういった風に時間を使うか」が重要だったなと感じていますね。 私はありがたいことに、20代のときにキーパーソンに出会うことができました。その時はキーパーソンだなんて気づかなかったわけですが。だから所属も、今の私自身を形成するのにすごく重要だったなと思うんです。自分でコントロールできることだから、自分自身にプラスになるように変えていくことで、まったく違う明日が見えてくるかもしれませんね。 あとは、20代で社会構造を知ることができたのも大切なことだったなと思います。自分の小さな目線だけでなく、お金と企業のバランスなどの構造を計らずも見ることができたのは大きかった。そしてお金も会社もすべて失って、人生の最低ラインを知ることができた。そうすると、何も怖くないんです。なんでもできる。   (取材:西村創一朗、写真/デザイン:矢野拓実、文:ユキガオ)

個性と才能が活きる社会にー Natee代表・小島領剣の「長い助走」

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第20回目のゲストはTikTokに特化したクリエイター事務所・Natee代表取締役・小島領剣さんです。 小島さんは、早稲田大学国際教養学部に在学中、高校生向け教育メディアで起業しますが失敗。新卒で株式会社ビズリーチに入社後、エンジニアとして新規事業の開発に従事し2年目で全社アワードを受賞しました。退社し、「上級ニート期間」を経験したことから再び起業。会社は2期目にはいり、順調な伸びをみせていますが、「まだ助走期間」と話す小島さん。 常に「個性と才能」というワードに突き動かされ、長い助走期間で経営以外のことも学びとりながら進んできた小島さんには、「ありのままで生きていい」ワクワクするような未来の社会が見えていました。 「人類をタレントに」個性が活きる世界を目指し、二度の起業 ーTikTokに特化したクリエイター事務所・株式会社Nateeを創業した理由を教えてください。 理由はふたつあります。ひとつは、動画領域の勢いに惹かれたこと。もうひとつは、僕自身が個性と才能が生きる世界にしたいと思っていたことです。そこで、TikTokに特化したクリエイター事務所の創業に至りました。 会社のミッションは「人類をタレントに」です。僕が定義する”タレント”は、テレビで見るタレントさんではなく、才能です。なので、生まれ持った色や形を、そのまま表現してお金になる世界が素晴らしいと思い、そうなることを目指しています。 個人が自己表現をする世界を作る、という想いが一番強い動機になっています。最初はエンジニアやデザイナーなど、手に職をつけている人たちのサービスも考えていたのですが、より個が活きて、個の名前で仕事をする世界にしたいな、と。 既に事務所としても先駆者がいるYouTubeではなく、次のプラットフォームとしてTikTokに魅力を感じました。 父親が創業社長だったこともあり、子どもの時から「経営者になる」という意識があったことも、起因していると思いますね。   ー株式会社Nateeの起業は、小島さんにとって二度目の起業かと思います。一度目の起業はどうでしたか? 大学5年生のときに、高校生向けのキュレーションメディア事業で起業しました。個性を発揮するために、学生がもっと自由なキャリアを築いて欲しいと思っていたことから、キャリア教育に関する事業がしたかったのです。それを意識するのは早い方がいいので、ターゲットは大学生ではなく高校生にしました。 このときから、「人類をタレントに」というコンセプトが自分の中にありましたね。     マーケットではなく、僕がやりたいと思って始めたキャリア教育のメディアでした。 予備校や大学からの広告収入を想定していたのですが…キャリアって高校生からするとあまりなじみがなく、それだけにこだわるとユーザーの幅が狭まってしまう。なので、スケールさせるために部活や恋愛などの、高校生が好きなコンテンツを作る必要を感じました。 ただ、そちらに寄せれば寄せるほど、「僕は何をやっているんだろう?」という気持ちが膨らむ一方でした。ビジネスとしてやらなくちゃいけないことと、自分がやりたいことが乖離していき、最終的にはクローズさせることになります。   ロールモデルになる人間の存在が進路の指標に ー休学しての起業だったということですが、大学4年時に就職活動はされていたのでしょうか? 就職活動はしていて、外資系のコンサルティング会社から内定をいただいていました。ただ、正直「この人みたいになりたい」と思う方を社内で見つけることができなかったのが、就職にいたらなかった理由です。 実力がつく上に、給与もいいので魅力的ではあったのですが、「本当に自分はこれをやりたいのか?」と自問すると、休学しての起業の道になりました。   ー大学を卒業して、株式会社ビズリーチに入社したのはどうしてですか? ニクリーチという就活サービスを利用したことがきっかけで、ビズリーチにエントリーすることになりました。採用プロセスの最後に、代表の南壮一郎さんにお会いしました。その時、生意気にも、「会社やっているので、入社するか分からないですね」って言っていましたね(笑)。 そんな僕に対して、南さんは「経営者としてやるということは、同じフィールドに立つということだよね」と、対等な目線でアドバイス…というかダメ出しを徹底的にしてくださいました。   ー南さんの言葉が、その後の小島さんの進路を決定づけたんですね。 自分の会社をしながら、限界を感じていました。そして、本当に尊敬する経営者の下で働きたいな、という気持ちが大きくなったのです。南さんは、僕が「こうなりたい」という経営者像でした。 また、エンジニアリングをもっとちゃんとやりたいと思っていたのも要因の一つです。ビジネスとエンジニアリングを両方ちゃんと学べる会社として、ビズリーチは最高の環境だと思って入社しました。   自分が自分でなくなる恐怖。「逃げ」からはじまった起業への道   ーエンジニアとして現場に入ってみて、どうでしたか? 配属されて1週間で、あるサービスのAndroidアプリ開発を1人で担うことになって…周りの人に助けられながら、なんとか形に。Androidアプリ開発なんて、未経験だったんですけど…。   ー初めてのことに挑む時は誰でも怖いかと思いますが、どうやって仕事に向きあったのでしょうか。 月並みですが、目先の成功ではなく長期的な視野に立つことを、基本の考え方として大事にしています。 本田圭佑さんがよくおっしゃっていることが根付いています。このプロジェクトを成功させる、となるとスキルがないからやれない、とかって考えてしまうんです。そこで、「善かれ悪しかれ、これはやった方が活きるな」というロジックで意思決定ができると前に進めます。 5年後振り返ったときに「あのとき失敗してよかったな」と思える経験になっているんだったら、失敗はリスクではありません。失敗しても死にませんしね。   ー失敗されも成長の糧にするマインドをもっていたんですね。実際にどのような作業に取り組んでいたのでしょうか。 当時、上司と約束していたのは、プライベートでアプリを3個リリースするということでしたね。 会社は業務が決まっているので、やりやすい面がある半面、学べない面も。なので、ちゃんとゼロからリリースまでを経験しておくと、一連のプロセスや開発の仕組みが分かります。アプリの出来の良し悪しではなく、リリースまでする、ということにコミットしました。 当時は、土日はもちろん、会社が終わると趣味のボクシングに行き、その後は深夜2時までコーディング…なんて生活を送っていました。自分でも、よくやったよなあ、と思います(笑)。 ビズリーチには、優秀で面倒見が良いエンジニアがたくさんいたので、分からないことは先輩にどんどん聞いていました。そのおかげで、かなり学習スピードは速かったと思います。     ーエンジニアとして素晴らしい環境に恵まれていたんですね。全社アワードに輝くなど、ご活躍なさっていたのに、退職を選択したのはどうしてですか? アプリ開発から部署移動をして、toB向けのサービス開発を担当することになりました。どうしてもB向けのサービスはニーズが先行するものになります。カルチャーも堅いものになって、違和感が芽生えるようになりました。 「大企業にいるんだなあ」と、そのときに実感をして、退職が頭をチラつくようになったんです。 その後、南さんが二回ほど面談の機会を設けてくださいました。そこで、「まだ何もしてなくない?」と言われて、「このまま辞めて、何が残るんだろう」と疑問が浮かんだんです。そこで、南さんと上長の役員に「全社アワードを獲ります!」と宣言しました。 多数からの賞賛で承認欲求が満たされるタイプではないので、もともと興味がなかったのですが、宣言してそこにコミットし、達成する、という成功体験を積めたのはよかったです。     2年目には綺麗にコードが書けるようになり、秋くらいには全体像と自分の担当箇所の把握ができて、意見を伝えられるようになりました。そこでやっと一人前になったように思います。そして、2年目の終わりにアワードをいただいて…。 ただ、そういった区切りがあってポジティブに起業に舵をきったわけではなく、「自分が自分でいられなくなる」という恐怖のようなものを感じていました。 ここにこのままいたら駄目だ、と思い、逃げるように退職しました。なので、当時は次に何をするかとかも全くの白紙状態で。上司にも「お前は大丈夫なのか?」と心配されましたね。   ー白紙の状態で名乗ったのが、「上級ニート」ですね。実際には、起業までの空白の4か月で何をしていたのでしょうか? ビットコインのトレードや、金融の勉強をしました。でも、才能なかったですね(笑) あとは、呼ばれるがままに日本全国いろんなところへ行って、そこでお手伝いやアルバイトをしていました。脈絡なく動き回って…暇だなと思って学校を貸し切ったイベントを行ったこともあるんですよ。 集客など苦労も多かったのですが、楽しかったですね。そこで、会社のバリューを「ワクワクドリブンカンパニー」と掲げることを決めました。ワクワクが、原点になっています。 ニート生活の2か月目くらいで、「がむしゃらに働きたい」という欲がむくむくと湧いてきて。そこで、二度目の起業を決意しました。   まだ助走期間。「個性と才能」が活きる社会にするために   ー株式会社Nateeを起業して1年が経過したかと思うのですが、順調に事業は伸びているのでしょうか? 「順調だね」と言っていただけることは多いのですが、自分としてはまだ始まっていない意識でいます。何かを成すのはまだ遠いような感覚で。いまは助走期間で、来年の春から一気にアクセルを踏んで行ければと思っています。 ふたりで始めた会社なのですが、現在は業務委託も含めると20人もの方がメンバーになっています。長い目でみて、もっと大きな会社にしていきます。   ーまだ始まってすらいない、と。スタートを切って、会社をどこまでもっていこうとお考えですか? YouTubeといえば、UUUMさんが有名ですよね。それと同じく、「TikTokといえばNateeだよね」と、広く認知されるように成長させます。 また、グローバルカンパニーとして育てたいです。4年後に上場することを計画に進めているのですが、そのときには7割を海外売り上げにしたいな、と。国内でのポジションも大事ですが、日本と中国、日本とインドネシアなど、アジアを中心とした他国との架け橋にしていきます。 3,4年後には、きっと今と全く違う会社になっているんじゃないでしょうか。     ーすでに上場を見据えて動いている小島さんは、どんな人と働きたいと思っていますか。 人を育てること、SNS、動画が好きで、動画マーケットに可能性を感じている人であれば、大歓迎です。マネージャーとプロデューサーを兼務できる人にはぜひ、経験問わずうちに来てほしいなと思っています。 僕は経営者である前に思想家です。「個性と才能」という言葉をなにより大事にしています。 ありのまま生きていい社会、自己表現をしていい社会。それを作りたい。そのために本気でコミットしたい、そう思ってくれる人と一緒に働きたいです!   ==== 執筆・編集:野里のどか(Twitter / ブログ) 取材:西村創一朗 写真:橋本岬

マイクロソフトを辞めて単身渡仏。感性を言語化する書家 小杉卓が語る「アートとビジネスの関係」

東京を拠点に活動されている書家 小杉卓さん。大学卒業後、大手IT企業に就職するも、「書の可能性に挑戦したい」という思いから、フランスへ渡り、アートとしての書の制作を始められました。 現在、個展はもとより、フランスでのマツダのモーターショーやオーケストラが演奏するクラシック音楽に合わせた舞台での書道パフォーマンスなど、枠にとらわれない取り組みをされています。 そんな小杉さんに、渡仏しようと思った経緯、またアートとビジネスの関係について深く聞いていきたいと思います。 ■ 原点は、子どものころ、褒められて伸びたこと ーまず、小杉さんの学生時代から今に至るストーリーを簡単にご紹介していただけますか。 小杉:大学は国際基督教大学、ICUで、日本文学を専攻していました。大学2年生のときに東日本大震災のボランティアに行き、マイクロソフトの社員の方と一緒に活動させてもらう中で、今まで趣味で続けていた「書」というものを、もっといろんな形で展開できるんじゃないかと思いました。それが、「マイクロソフトと書」っていうキャリアのきっかけになりました。 でも、やっぱり大学を出てすぐ書道だけで食べていくってことは難しかったので、2013年にマイクロソフトに入社して3年半勤務しました。そのあと1年間パリに行ったのですが、その理由は、もともとフランスのアートがすごく好きだったので、その作品が生まれたパリで自分も制作活動をやってみたかったからなんですね。その後帰ってきて、東京で今2年目なので、独立してちょうど3年くらいです。 ー今はプロの書家として活躍されている小杉さんですけれど、そもそも書道との出会いとはいつ頃だったんですか? 小杉:実は、私の祖母が書道教室をやっていたんです。小学校に上がるタイミングで、私も生徒の一人として習い始めたのがきっかけでしたね。 祖母は褒めて伸ばすタイプで、ちょっとうまく書けただけでも、すごく褒めてくれたんです。誰かと比べるのではなく、以前の自分よりうまく書けているねと。それが自分が書道を好きになった一番の理由でした。今まで書道を嫌いにならずに続けられた原点は、そこにあったのかなと思います。 ーとはいえ、まだ書道の道には進まないと思っていたそうですね。では、小中高校で、賞を受賞したなどの成功体験はありましたか? 小杉:はい。書くことが好きで、それなりに入賞を重ねて高校の時は全国大会にも行きました。自分にとっての書道は、きれいに書いて入賞していくことだったので、その時はそれが僕の成功体験だと思ってたんです。でも、大学に入ってその考え方は変わりました。 ■ 転換点は「誰かのために書く」「喜んでくれる人がいる」という体験  ーどんな時に、どういうふうに変わって行ったんですか? 小杉:それがまさに、震災の時のことで。その年の5月くらいに被災地に行かせてもらったんですが、家も家族も失った人たちを目の前にして、何も話しかけられなかった。そこでなんとなく、自分が今書道をやっているっていう話をした時に、ある被災者の方が、「せっかくだから、何か書いてもらえませんか」っていう話になったんですよ。それが、自分にとって初めて誰かのために書く書道だったんですよね。  ーエンターテイメントとしての書道、ですね。 小杉:そうですね、その時に一番悩んだのが、お手本がなかったことなんです。今までは書くものが決まっていて、入賞できる書き方が明確にわかっていた。だけど「書いてください」って頼まれた時に、何を書いたらその人が一番喜んでくれるのかっていうのが全く見えなかったんです。 たまたま、その方々が地域でお囃子をやっていて、それをすごく大事にされているのを目にしたんです。それで、お囃子のモチーフになっている「鹿」を一つの書の作品にして、次に行く時にお持ちしたんですよね。そうしたら「これは自分たちが考えた鹿そのものだ」ってすごく喜んでくれて。 書道って、それまでは賞をとったら自分が喜ぶものだったけど、誰かのために書いて誰かが喜んでくれるんだって、すごく揺さぶられました。書道でもっと書かなきゃいけないものがあるんだなとも強く感じました。 社会に対しての自分の考え方や、誰かが思っているけど言葉や形にできていないっていう状況を「書」を解決策として、僕にできることがあるんじゃないかと思い始めたんです。 ーそこからどんなふうに活動が変わっていったんですか? 小杉:その時すぐ、作品が仕事になったわけではありませんでした。でも、ふと周りを見た時に気づくようになったんです。例えば12月だと、ハロウィンが終わって、クリスマスとイルミネーションの季節になるわけですが、実はこの1ヵ月の中には、二十四節季という、もっと細かい季節があるんです。いまは小雪、大雪、もうすぐで冬至が来るっていうふうに。 自分たちが無意識に過ごしている季節も、毎日変わっているんだな、社会の変化の中で、今僕たちってどういう言葉を書かなきゃいけないんだろうなっていうところに目が向くようになりました。 そこで少しずつ、フェイスブックやホームページに作品を載せていったんですよ。そこから依頼が増えだして、これが仕事になるのかもしれないっていうのを大学最後の2年間で感じました。 ー何か大きな機会があったわけではなく、小さな出来事の積み重ねがきっかけだったということですね。いつかはプロになるぞという気持ちが芽生え始めたのは学生時代ですか? 小杉:そうですね。自分が表現をしたいと思った時に、パリコレという舞台でパフォーマンスをしたり、デザインとしての書を発表したりしたいなって、漠然と浮かんだんですよ。 でもそこまでのプロセスは全然見えてなくて。その一方で、ボランティアを通して出会ったマイクロソフトという会社に魅力を感じていたので、まずそこで働いてみようって思いました。 ■ マイクロソフトで刺激を得て、書家の道を選んだ ーいつかは、書家として、パリコレで自分の言葉をあしらった服が歩いているっていう状態をと、夢見ていたんですね。でも一旦は就職しようと思ったわけですが、マイクロソフトに決めたきっかけはなんだったんですか? 小杉:2つ大きな理由があって、一つは、ITの可能性を感じた部分です。自分の出身が栃木の田舎なんですけど、そこをITで変えられるかもしれないっていう。 もう一つは社員の人たちです。ボランティアってすごくエネルギーがいるんですけど、マイクロソフトの方はすごかったですね。ITが社会を変えるって確信を持ってやっていたと思うし、マイクロソフトで出会った方々が、自分のパッションの中で仕事を作っていたっていうことに魅力を感じました。 ーそのあと、2013年にマイクロソフトさんに入社されたのですが、社員の方の魅力についてはどうでしたか? 小杉:入社してからも、やっぱりすごい人はたくさんいました。そういう中で「自分はどうしたいのか」っていうのを強く考え始めるようになりましたね。 ー1年間はITコンサルタント、そのあと2年間セールスと、3年間マイクロソフトにいらっしゃったわけですよね。その3年間の中で、成功体験はありましたか? 小杉: 僕は失敗体験しかなかったように感じていたんですが、それはもっと書道に時間をかけたいという理由があったからなんですよね。このままでいいのか、今「書」を全力やらないでいいのかという思いが、じわじわと溜まっていて辛かった。 そして4年目、 26,7歳になった時に、まだ20代なら書がだめでも再就職できるぞと。 ー今なら独立できるという自信があって独立したわけではないんですね。 小杉 :はい。書道の仕事が増えていたとはいえ、絶対的な自信があったわけではなかった。収入も、マイクロソフトに勤めていた方が3倍くらい多いし、だけど今やらなかったら、書道が広がっていく可能性が少なくなっちゃうなと思ったんです。だからその時に、リスクを取るっていう選択をできたことは、良かったですね。 ーそういう意味では、副業が可能なマイクロソフトでよかったかもしれないですよね。会社の方の理解はあったんですか? 小杉:はい、上司の後押しもすごくありました。自分の心の中にやりたいことがあるんだったら、それをやったほうが絶対いいっていうアドバイスをくださって、すごくありがたかったですね。ただ、業務の中で大きな貢献をできなかったことが自分の中ではすごく心残りだった。だからこそ、今やらなきゃ、と思っています。 ■ パリで、アートとしての書を確立したい ー辞めて選んだ道を成功にしていかないと、と思っているわけですね。そこから2017年にマイクロソフトを辞めて、半年後にパリにいくわけですが、実際に行ってみてどうでした? 小杉:感じたことは2つありました。一つは、「いけるな」っていう可能性からくる自信と、もう一つはまだまだ時間がかかるっていう現実的な部分。 今、アニメの影響とかで、日本ってすごくフォーカスされてるんですよね。ラーメン屋さんもめちゃくちゃ増えてて、行列ができてるんです。そういう日本ブームの流れの一環で、書も興味を持たれることは多かったんですよ。でも、「日本的なもの」というふうに書がみられているうちは、書の価値って伝わってないんだろうなと。正直、本質的な書が全体に広がるのは時間がかかるっていうのを感じた部分がある。 一方で、アートや表現に対しての寛容さが違うところに、可能性を感じたんですよね。表現をする人への態度やリスペクトも全然違う。自分が何者で、何をしに来たのかっていうのをよく問われるんで、何十回も何百回も話しました。 それは日本だからとか書道だからとかではなくて、何かを感じようとしてくれる人が必ずいる。だからこそアートの文化が育ったんだろうなって思いました。そこで、伝えられる部分が確実にあったので、フランスでもっとやりたいとも思いましたし、東京でもきっとできるっていう自信にもなりました。 ■ みんなが持っている「書」のフレームを壊したい ー日本に戻られてから、少しずつお仕事いただけていたとはいえ、書家として営業も行うのは難しいと思います。どんなふうに仕事を取っていったんですか? 小杉:パリのときから、営業はずっとしています。パリには知り合いはゼロで、最初2、3ヵ月は仕事もゼロだったんですよ。行く前に、紹介してもらった人のリストを作っていたんですが、毎日人に会って、こういう作品書いてて、こういうことがやりたいんですって、ずっと言い続けて。ようやく書道を教えてほしいとか、イベントがあるからパフォーマンスしてみないとか、少しずつ仕事をいただけるようになりました。 今もそうなんですけど、例えばワークショップに来てくださった方から依頼を受けた時に、一回、その方の期待値を超えるものを用意したいっていうのがあって。 書道って、日本のほぼすべての方が体験しているがゆえに、すでに一つのフレームができていると思うんですよ。だけど、僕はもっとフレームは広い、なんだったらフレームはないって思ってるので、ファーストアタックの時にどれだけそのフレームを壊せるかだと思っています。そうなった時に、何かが生まれるなと思ってます。 ー書に対するフレームを壊すことで、アイデアを膨らますということですね。では、フレームを壊すためにどんなことをしていらっしゃいますか? 小杉:自分の中で変えちゃいけないところと、変わり続けなきゃいけないところを明確に分けています。変えちゃいけないところは、僕は書って言葉の表現の芸術だと思っているんで、それだけは書道の中でずらせないんですよね。 だけど一方で、言葉をどう表現するかっていう部分には線を設けたくない。例えば筆や紙、墨を使わなきゃいけないだとか、逆に色を使っちゃいけないとかっていうことを、僕は表現においては絶対考えたくない、と思っています。 誰かと話している時に、その人にとって一番いい表現はなんなのかっていうのは、いつもゼロから考えたいなと思っています。それが結果として、その方が持っている書のフレームとは全然違うところにいけるんじゃないかなと。だから言葉を描くっていうのは、書の真ん中にあるものだと思うんですけど、その周りの部分のフレームってあるようで何もなかったみたいなところに、ハッとしてもらえたらうれしいと思います。 ーそういうところから、気づきを書に表しましょうというワークショップをされたりしたんですね。マツダの発表会でも書を披露されてましたが、書家としての成功体験は、何かありますか。 小杉:そうですね。それはある特定のお仕事ではなくて、マツダも含めてですが、大きな舞台で人前で披露するっていうことに、大きな可能性があると思いました。 去年から、クラシック音楽と一緒に舞台を作ってるんですけど、ライブでショーを見てもらう、というのは自分の取り組み方を変えてくれたと思っています。 なぜならば、より共通体験としての書を提供できるなと思って。言葉って、もっと自分の内側から湧いてくるものだったりとか、それに触れて相手も新しい言葉が生まれてきたりとか、もっともっとライブなものだと思うんです。そのライブで書を披露するにあたって、書には時間があるっていうことを僕は気づいたんです。絵画と違って、書は、どこから書き始めてどこで書き終わるかっていうのがわかるわけですよ。そこに始まりと終わりがあるということは、そこの間の時間が存在するってことなんですよね。目の前でライブで書いていたら、なおさら、その字を書き終わっていく時間を共有できる。ということは、より深く言葉を生で感じてもらえているってことだと思うんですよね。そういう表現をこれからもっともっとやっていきたいと思っています。 ■ アートとビジネスの刺激しあえる関係とは ーアートとビジネスは分断されたものじゃなくて、アートにおける思考法っていうのはビジネスにいける、だからビジネスパーソンこそアートを学ぶべきだ、みたいな考えがあると思うんですけど、それに関して小杉さんはどう思いますか? 小杉:そこはすごく興味深いなと思っています。山口 周さんの本も何冊か読みましたし。そもそも人間が人間らしくいきていくためには、自分が頭で考えたことを、自分で決めないと幸せにはなれないと思っています。それをアート思考って言い換えているのかな。 例えば、ビジネスで数字的な答えって出せますよね。どういうデータをどういうふうに使うかっていうのは考えなきゃいけないけど。でもアートって自分の中から出さないと出てこない。そこにはどういう色をどういう割合で使ってとか、筆をどういう筆圧で入れるとか、すべて考えて出されているものだと思うんですよね。 むしろ、僕はアートの方にビジネスを持っていったら面白いと思っています。私たちみたいなアートに関わってる人こそ、ビジネスとして、お金や興味がどう動いているのかにもっと目を向けないと、表現って出てこないと思うし。お互いが刺激しあえる部分は、たくさんある気がします。そういう意味でのアートとビジネスの関係性っていうのはすごく考えています。 ー実際にマイクロソフトで働いていたからこそ、書家としてできたこともたくさんあるかと思うんですけど、例えばどんなことが生きたと思いますか? 小杉:ビジネスってお客さんがいることが大前提じゃないですか。それが今の自分の中でとても助けられている部分です。 僕は、書は究極のアートでありデザインでもあると思っているんですけど、何を、誰に、どう伝えたいのかを常に意識しなきゃいけない。それは究極的にはビジネスも一緒だと思っていて。この商品を、誰に、どういうふうに使って欲しいか、その答えを導いていくプロセスっていうのは全く同じだと思います。それを、マイクロソフトで猛烈に体験できてよかったです。 ■ アートを言語化することで感性を磨く ービジネスでも、フレームにハマった提案でなく、その人の独自性とか、感性を入れると面白い提案になることがあります。感性を磨く時間がないというビジネスマンのために、もっと仕事に生きるような感性を磨ける方法があれば聞きたいなと思います。 小杉:私は感性って究極の論理だと思っています。アーティストって、よく感性で書いてるとか、演奏してるって思われることがあるけど、少なくとも私はそうじゃなくて。紙の墨の吸い方はこれくらいだからこのくらいのスピードで筆を動かさなきゃいけないというように、すべて何かのロジック、論理を元に書いています。 ただ感性を磨きたいっていっても、つかみどころがなさすぎちゃう。音楽を聴く時も、感性で聴くってどうやって聴くんだろう、みたいな。でも、例えばこれって気持ち良さ数100あるうちの、95くらい気持ちいいんですとか、それってこういう理由があるんですって言った時に初めて、なるほどなって共感してくれると思うんですよね。そういうふうに、感性を数字で見る、言語化してみるっていうのはすごく大事なことだと思ってます だから、何か「あ、いいな」と思ったものを、きちんと言葉で説明してみることですね。いい音楽だなと思った時に、どういい音楽なのか。この音がすごく好きだと思ったら、どんな和音でできているのかを仕組みまで見ようとする。すると、きちんと理由や裏付けのある感性になるし、自分の感性はそういうものに響きやすいっていう自己認識にもなると思うんですよ。そうなった時に、それは武器になると思います。 ー感性っていうのは言語化してロジックに落として見ると、磨かれていく部分があるということなんですね。 小杉:そうだと思います。 ■ これからは、社会にたいして「書」でできることをやりたい ー最後にお伺いしたいのは、これから小杉さんが書家として、また書家という役割を超えてチャレンジしていきたいことはどんなことでしょうか。 小杉:もちろんパリコレを目指すっていうのはあるんですけれど、ここ1年で、社会に対して書で何ができるのかというのをすごく考えるようになって。 モデルにしてる考え方が、ベネズエラの「エル・システマ」っていうプロジェクトなんです。何十年か前に、ベネズエラで子供の貧困がすごく問題になったんですが、それを政府がクラシック音楽教育でなんとかしようとしたんですよ。 貧しくて教育も受けられないような子に、ただでクラリネットとかフルートとか楽器を配って音楽教育を始めたんですよ。音楽って一人でもできるけど、みんなで合わせることの楽しさも教えたんですね。面白いですよね。 今、そのベネズエラで音楽教育を受けた人が、ベルリン・フィルとか、世界のトップオケといわれるところで活躍する音楽家になって、どんどん輩出されているんですよ。そういうふうに、音楽で一つの社会問題を解決できることって、すごく面白いし、アートってそうあるべきだなって思ったんですよね。 これからの時代に起こりうる社会問題ってたくさんある。そして、書っていうものは日常から、だんだん離れていってしまっている。では社会と書はどんな関わり方をしたらよいか、例えば教育の中で書と関わっていったら、社会がどう前進するかとか考えています。これは中長期的に取り組んでいきたいなと思っています。

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