長期インターンを広めて、日本の就活をアップデート!荒木珠里亜が新規事業に挑戦する理由とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第242回目となる今回のゲストは、株式会社キュービックで長期インターン関連の新規事業企画に携わっている荒木珠里亜さんです。 国際基督教大学在学中、キュービックにインターンとして入社し、そのまま2017年同社に新卒入社。丸4年人事に携わった後、2020年7月より新規事業企画の責任者に抜擢された荒木さん。そんな荒木さんがどんな学生生活を過ごし、キュービックと出会ったのかお伺いしました。   自分で意思決定する力を育てられた幼少期 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 現在、株式会社キュービックで長期インターンに関わる新規事業の立ち上げを行っています。 キュービックには大学3年生のときに長期インターンとして入社しました。それからご縁があり、そのまま新卒で入社したんです。 インターン時から人事を担当していて、広報や社内研修にも携わっていたのですが、今年の7月から新規事業に異動することになりました。 ー新規事業ではどんなことをされていますか? 長期インターンの人材紹介をしています。私自身の経験から、長期インターンからの入社は、会社の良い面・悪い面を知ったうえで意思決定ができるので、ミスマッチがないと思っていて。 ただ、新卒採用を行っている会社で3か月以上の長期インターンを実施しているのは、全体の0.4%しかないという調査結果が出ているんです。全国的に見るとまだまだ広まっていないんですよね。 ーなぜ、なかなか長期インターンが広まらないのでしょうか? システムと文化の問題だと思います。例えば、大学生が週5でインターンする場合、休学するか、長期休み中にインターンするしかないですよね。 ただ、「大学生は夏休みに遊んで過ごす」とか、「3年生になれば就活が始まる」とか、そういう一般的なシステムに紐づく文化が根付いているので、長期インターンが広まりづらいのではないでしょうか。 企業側も、長期インターンをイメージできていないケースが多いと思っていて。まず、企業が長期インターンを行う目的は「現在の働き手の確保」、「新卒採用のため」、「内定者インターン」の3つが考えられます。 3つ目は内定者インターンなので割愛して、1つ目と2つ目の目的があったときに、「どちらを目的にするのか」、「その目的を達成するにはどんな長期インターンを設計すればいいのか」を、イメージできていない会社さんは多数いらっしゃると思っています。 ー長期インターンを広めるには、いくつも課題があるのですね。今日は幼い頃のお話も伺いつつ、今の荒木さんに至るまでの過程を伺えればと思います。幼い頃はどんな子どもでしたか? ひたすらおしゃべりで目立ちたがり屋でした。一人っ子だったので、マンションの隣の部屋、またその隣の部屋の子たちとよく遊んでました。 よく遊ぶ子たちの中で一番年上だったので、年下の子たちをまとめるリーダー的立ち位置でしたね。 ー小さい頃からみんなを取りまとめていたんですね。 親の教育方針のおかげだと思います。一人っ子は、箱入り娘のように大事に育てられる場合と、1人なので大人と同じように育てられる場合の2パターンあると思っていて。私は後者の育てられ方でした。 小学生のときにもらったお小遣いを何に使うかは自分で決めていましたし、中学生の頃、携帯代は自分で払っていました。お年玉も親が管理するのではなく、自分で好きに使う。貯めるも使うも自分次第でしたね。 幼いころから自分で意思決定できるよう教育されてきたので、考える力は養われたと思います。 ー教育熱心なご両親ですね。 何か教えてもらうというよりは、自分で考えさせる方針でした。 例えば「家事のお手伝いをしたら100円もらえる」とかよく聞くじゃないですか。そういうのは一切なく、「労働はそんな簡単なものじゃないし、1人暮らしをすれば当たり前のことだ」と教えられてきました。「働かざるもの食うべからず」ともよく言われてましたね。笑   吹奏楽部で100人以上をまとめるリーダーに ー中学校はどちらに行かれたのですか? 東京都がリーダーシップ育成のために新しく作った、東京都立桜修館中等教育学校に入学しました。私が入学したときは、開校してまだ2期目でした。 ーその学校に入学した経緯を教えてください。 母親が「こういう学校あるから見てみれば」と言ってくれたのがきっかけです。先進的なことにチャレンジしていく校風に惹かれて、受験することにしました。 テスト内容がすごく変わっていて。文章を読んで考察したり、パズルみたいな問題があったり。私が受けたテストでは、デジタル時計とアナログ時計の写真があって、「これを見てあなたが考えたことを書きましょう」という作文がありました。 ー独創的なテストですね。入学後、面白い授業はありましたか? 「国語で論理を学ぶ」「数学で論理を学ぶ」という授業がありました。「国語で論理を学ぶ」の授業では、自分の文章を相手に伝えるためにはどう表現すべきかを学びました。生徒同士で文章を見せ合って、「こういう心情が表れていて良かった」など、フィードバックし合ってましたね。 「数学で論理を学ぶ」の授業では、どうすれば方程式を使わないで問題を解けるかなどを考えました。また自作で和算の問題を作って解き合うということもしました。 あとは「コミュニケーション&プレゼンテーション」という授業もあって。自己紹介やプレゼンテーションを通して、話す練習をしていました。型にはまらない授業ばかりでしたね。 ー部活もされていましたか? 小学生の頃からアルトサックスをやっていたので、吹奏楽部に入りました。他の新しいものにチャレンジすることも考えたのですが、何をやるかより誰とやるかを重視していたこともあり、小学校からの友達に誘われて入部を決めたんです。 入部後は学年のリーダーになり、そのまま部長になりました。立ち上げ期だったので最初は30人ほどの組織でしたが、卒部する頃には100人を越える組織になりました。 ー部長を務めた経験は、どんな思い出として残っていますか? とにかく楽しかったです。吹奏楽部では夏のコンクールと定期演奏会があって。コンクールでは賞を取ることを目指して、定期演奏会では自分たちが演奏したいものを作ることを目指していました。 「やるからには金賞を取りたい」という達成欲と、「自分たちが考えた演奏で最高のものを作りたい」という最上志向のどちらも満たせるのが、私にとっては最高の環境でした。 あとは、大人数をどうまとめるか考える工程が楽しかったですね。副部長と一緒に、毎日ルーズリーフに今日やりたいことを書いて、「じゃあここはこういう風にしていこう」とアドバイスし合っていました。ルーズリーフが文字でびっしりになるくらい、話し合いを重ねていましたね。 ーその頃の経験は、今につながっていますか? 少人数からどんどん大きくなっていくとか、初めて出たコンクールからステップアップしていく経験から、今のベンチャーマインドが培われたと思っています。 1人よりチームの方が楽しいという感覚や、みんなで1つの目標に向かって頑張っていくことが面白いという感覚も、その時の経験で身につきました。   挫折をバネに、自分を見つめ直した大学受験 ー大学はどちらに行かれましたか? 国際基督教大学(以下ICU)へ行きました。大学受験時はICUに入ることしか考えていなくて、センター試験や滑り止めも一切受けませんでした。 ーICUを選んだ理由を教えてください。 高校生の頃、自分は何がしたいのか常に考えていたんですけど、色々と考えた結果「何をしたいかは、今すぐには決められない」という結論にたどり着いてしまって。そうなると、高校時代に大学の学部や学科を決めることはできないな、と思いました。 大学生活は、自分の興味関心を知る期間にしたかったので、広く深い教養を身につけるために、リベラルアーツを学べるところを探しました。アメリカの大学も考えましたが、お金の問題やリスクを考慮して、ICUの方が適正だと考えたんです。 ー受験勉強は大変でしたか? それが、絶対にAO入試で受かると思っていたので、受験勉強は一切せず、AOの準備だけ続けていました。すると10月中旬の受験発表で落ちていて……。人生初の挫折経験でした。 その瞬間、ショックよりも先に「私は本当にICUに入りたかったのかな?」という思いが湧きあがり、1か月ほどかけてICUに入りたい理由を再度考えました。 ICUは、第二次世界大戦後に、平和の確立のために作られたという背景があって。私も人と人との対立をなくし、相互理解を深めていく方法を学びたいと思っていて、ICUの理念と私の興味が合致したので「やっぱりICUしかない」と思いました。 そこから1か月間猛勉強して、結果受かったからいいものの、超リスキーですよね。 ー初めての挫折から学んだことはありますか? 大学受験はだいぶリスクのある選択ではありましたが、無数にある選択肢の中から自分で意思決定した、初めての経験でもありました。自分の決断を自分で正しくしていく感覚は、ここで身についたと思います。   部活にバイトにTEDに、経験の先に見えてきた軸 ーICUでの生活はいかがでしたか? ビッグバンドジャズの部活でサックスをやったり、バスケのサークルで友達と遊んだり、バーテンダーのバイトをしたりと、THE大学生というような生活を送っていました。 大学2年では、友達と「ICU生はうちに篭りがち。もっと学外との接点を生み出すために、TEDをICUでやろう!」という話をして、TEDxICUというイベントを企画しました。TEDからライセンスを取ったり、スピーカーや観客を集めたり、舞台のセットを企画したり、タイムスケジュールを組んだり……。1年ほどかけて準備をして、無事開催できたときには大きな達成感がありました。 1~2年でいろんな経験をして、3年からは「就職する前に社会で働くということを知りたい」と思い、インターンを探し始めて。そこで長期インターンと出会いました。 ーやりたいことが次々と出てくる荒木さん。やることとやらないことをどのように判断していたのか教えてください。 自分に合うこと、合わないことがわからなかったので、とにかく興味のあるものはやってみようと思い、いろんなことに手を出していました。実際に経験することで、向き不向きは段々わかってきましたね。 振り返ってみると、誰とやるかを重視したときはパフォーマンスを発揮できたと気づいて。どんな仲間と、どんなものに向かってやるのかが重要と考えて、やることを判断していました。   「何の制約もなかったとして、何を一番大切にしたいか」で決めたファーストキャリア ー長期インターン先はどのように決めましたか? 大学3年のときに、Wantedlyで長期インターンをいくつか見つけて。その中で、「私が買いすぎたチロルチョコを一緒に食べてくれる人Wanted」というタイトルの募集を見つけました。 こんな面白い募集を出しても許される会社だから、絶対面白いだろうと思ったんです。何をやるかはあまりよくわかっていなかったのですが、そこにいる人や文化に魅力を感じて応募しました。 一度話を聞きに行ってからとんとん拍子で話が進み、気づいたら働くことになっていて。その会社が、今働いているキュービックです! ―キュービックでインターンを始めたとき、やりたいことは明確にありましたか? ありませんでした。 このままだとなんとなく知っている会社や、何かかっこいいと思っている会社に行ってしまうな、と思って。会社で働くとはどういうことかきちんと知るために、インターンを始めました。 ー就活はしていましたか? 就活らしい就活はあまりしていなくて。リクルートスーツは1回も着てないですし、エントリーシートも一度も書いてないんです。 1つだけやっていたことは、「START BAR」でのバイトです。そこは経営者や人事の方と学生がフラットに話せるバーで。バイト中にいろんな会社の方と出会い、話していく中で、自分の価値観や大事にしていることが少しずつ見えてきました。 また、自分の知見だけでは、自分に合う会社は絶対に見つけられないと思っていたので、バーのオーナーで元某メガベンチャー人事の方に「私のことをよくご存じだと思うので、私に合いそうな会社紹介してください!」と言って、おすすめの会社をいくつか紹介してもらってました。 ー様々な会社と出会う中で、最終的になぜキュービックへ新卒として入社したのでしょうか? キュービックでインターンをしていた大学4年の頃、リクルートキャリアから転職してきた方が人事部を立ち上げることになって。私がいたチームがそのタイミングでなくなることになっていたので、「新しく立ち上げる人事部に異動したいです」と手を挙げ、人事として働くことになりました。 キュービックで働きつつ、新卒で入る会社を探していたある日、上司からご飯に誘われたんです。そこでその上司の方から「選んだことを後悔させないし、絶対一流のビジネスパーソンにしてみせるから一緒に働こう」と、プロポーズのようなオファーをいただきました。 自分のことを自分以上に信じて、期待してくれる人がいることに感動し、「この期待に応えたい」と心から思ったので入社を決めました。 ープロポーズのような言葉をいただいたとき、入社を即決しましたか? 実は、会社探しをしているときに、「この会社に入りたい!」という会社に出会っていて。他の会社の選考をすべて辞退して、その会社だけを受けるくらい本気だったので、かなり悩んで……。 そんなときその会社の方が、「何の制約もなかったとして、自分が一番何を大事にしたいか、考えておいで」と言ってくださったんです。 そこで改めて考えたとき私は「自分が自分らしく在れること」を何より大事にしていることに気づきました。自分も自分らしく、そして共に働く誰もが自分らしく輝ける組織を作れる人になりたい。そして、個としての影響力を高めることで、それを世の中に広めていける人になりたい。それが一番実現できる環境はキュービックだと思ったのが、最後の決め手でした。   当たり前を覆し、未来のための採用を ーキュービックへ新卒として入社した後、人事から新規事業への異動に踏み切ったきっかけを教えてください。 社会人として3年間人事をやり切って、今の自分にできることに限界を感じたのがきっかけでした。人事として生きていくためにも、もっと視座をあげる必要があると強く感じました。 日頃から「事業をやりたい!」とは言っていたのですが、自分が抜けると迷惑がかかるのでそんな簡単には異動できないだろうな、とどこかで思っていて。そんなとき、社長と上司が「新規事業に異動だから」と背中を押してくださいました。 もし人事と新規事業の両方やっていたら、新規事業はなかなか成果が出なくて自己効力感も得られない一方で、人事はそれなりに経験があって結果が出るので、そっちに逃げちゃってたと思うんです。 そこをあえて、人事を辞めて新規事業に異動という形にしてくださったことには、とても感謝しています。 ー新規事業で働いている現在の採用基準は、人事で働いていたときの採用基準と異なりますか? 採用人事を始めたばかりの頃は、みんなが欲しい人を採用していました。「こういうチームで、こういう人が欲しいです!」と言われたら、「そういう人探します!」というように、御用聞きになっていたんです。 でもそれじゃだめだな、と思って。自分たちが事業やチームのことを深く理解したうえで、今このチームにどんなピースが必要か、そのピースを入れたら成長するかを考えて、未来のために採用しなければいけないと強く思いました。 新規事業に移って改めて思うのは、事業を行っている人が、採用のことを1番深く考えるべきだということです。私はTwitterで「こういう子が欲しい」と発信し、DMが来た子と直接やり取りをしてチームメンバーを採用しました。 必要な人材は、事業に関わる人が1番深くわかっているはずですよね。なのでそれをしっかり言語化して人事に伝え、一緒に探していく必要があると思うんです。逆に人事は、「自分たちは今の事業のことを完璧にはわかっていない」というスタンスに立ち、事業成長のパートナーとして採用に関わるべきだと。新規事業に移った今だからこそ、それこそが本来あるべき採用の姿だと思います。 ー採用の当たり前を崩していく姿勢、素敵ですね。荒木さんは今までいろんな挑戦をしてきていますが、後悔したことはないですか? 私の中で、選んだ答えに正解はないと思っていて。何がどうつながって、今の自分があるのかわからないですよね。事象は絶対に変わらないので、それをどう解釈するかによって人生は決まっていくと思っています。 どんな決断にも間違いはないですし、間違っていたと気づいたことさえ学びになっているはずです。経験はすべて学びになり、人生につながってくると思えば、もう少し気楽に挑戦できますよね。 ー最後に、荒木さんの今後のビジョンを教えてください。 ありのままの自分でいるということは、これからもずっと大切にしていきたいです。こうありたいという姿はありますが、将来絶対にこれがやりたいとかはなくって。今から将来を鮮明に描いたとしても、時代も世の中も、やりたいことも変わっていくことはわかっているので、大事にしたい軸だけを決めて、あとは柔軟に動いていきたいですね。 近い将来でいうと、今やっている長期インターンを広める事業に注力したいです。手段は今後色々と増やしていく予定なのですが、まずは長期インターンの紹介を行う「ドットインターン」というサービスを先日リリースしました。長期インターンを採用する企業人事の視点と学生の視点と、両方を経験している私だからこそ提供できる価値を、このサービスを通じて届けていけたらと思っています。長期インターンを探している学生さんは是非こちらのリンクよりご登録ください!(急に宣伝すみません。笑) 私は長期インターンを広めることで、今の日本の就活をアップデートしたいと強く思っていて。日本以外ではかなり一般的になっている、長期インターンを経由しての新卒入社という選択肢を広めることが、ミスマッチのないキャリア選択の一助になると考えています。 広めるためにはたくさん乗り越えないといけない壁があるのですが、一つひとつ乗り越え、実現していきます! ー荒木さんのお話を聞くと、今悩んでいる方たちも一歩踏み出しやすくなりそうですね!これからの荒木さんのご活躍、楽しみにしています。本日はありがとうございました。   取材者:あおきくみこ(note/Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

同世代の生き方をアップデートし、教育から世界を幸せに。宮坂春花のバイタリティーあふれる生き方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第243回は、株式会社Mahal.KitaQ代表取締役 宮坂春花さん。起業をした経緯や、自分に自信をつけるまでの経緯などについてお話いただきます。 ーまずは簡単に自己紹介からお願いします。 宮坂春花(24)です。現在は、株式会社Mahal.KitaQの代表と人材紹介会社の2社で働いています。 Mahal.KitaQでは主に、フィリピン留学をメインにした海外プログラムを展開中です。 会社名のMahal.KitaQの由来は、フィリピンのタガログ語で「愛している」という意味になる「Mahal.Kita(マハル キタ)」と発足当時の拠点、北九州(通称:キタキュウ)からきています。フィリピンと北九州を愛で繋ぐという意味でつけました。 ー普段はどこで活動されていますか? 基本は東京です。この時期なので月に1、2回福岡・北九州へ出張にきています。 多動の秘密は小学校時代の習い事の多さ ーそうなんですね。本日は、少し過去を振り返って現在の宮坂さんのターニングポイントとなったお話をお聞きできればと思います。 最初のターニングポイントは10歳です。週7日の習い事生活であったと思います。3歳からエアロビクスを習い始め、小学生では11個の習い事を平行していました。 子供らしく遊ぶことよりもハードスケジュールで毎日を過ごしていましたね。 ーそんなに習い事をしていたなんて、びっくりです(笑) 習い事は、ダンス系や塾が多かったです。興味を持ったものを親は習わせてくれましたね。 1日に習い事4つの日もありましたが、どれも楽しく真面目に取り組んでいました。一番続いたのがエアロビクスです。 ー続けられた理由はありますか? 一つ目は、エアロビは大会があったことです。レオタード(衣装)を着て、技の難易度を競い合うんですね。結果を残すためにライバルと競い合う競争環境が自分に合っていたところだと思います。 二つ目は、踊っている姿をみて、家族や周りの人が笑顔になったり、結果を残すと喜んでくれたのがやりがいに感じたことです。 自分も周りの人も笑顔になれるのが、エアロビの魅力だと思います。 ーなるほど。充実していた小学校時代だったんですね。中学校はどうでした? 中学は、受験に合格して地元の中高一貫校の進学校に進みました。しかし、小学校時代のなんでもできる天狗状態から一転して「井の中の蛙」であったことを痛感させられました。 中学1年生にして既に周りの子は資格や自分の強みになる特技を持っていたんです。 そこで自分がいた世界の小ささを知りました。皆んな個性も強く、とにかく圧倒されていましたね。 ー1番つらかった出来事はありますか? 部活で仲間外れにされたことですかね。 バスケ部に所属していたのですが、私の父がバスケの外部顧問だったんです。 真剣に取り組んでいたのですが、私が試合に出るたびに「お父さんがコーチだからでしょ」と周囲から言われ始めました。やがて部室でも一切喋ってくれなくなり、友達がいなくなるという経験をしました。部員の親御さんからどつかれたり。(笑)びっくりしました。 でも、朝練や土日の自主練など自分がやれることは絶対にやろうと逃げずに努力していましたね。 ーいじめで辞めるのではなく、もっと努力される方を選んだんですね。 最後の試合まで出ました(笑) 親や友達、学校の先生に頼っても、結局自分が変わらないと周りは変わらないということに気づきました。最終的に、少しはいじめもマシになっていたと思います。 ー周りの目も変わっていったんですかね。 今振り返ると、その時から負けず嫌いで根性があったと思いますね。 他人は他人と切り替えることができたんじゃないかと思います。 ー切り替えが身についたんですね でも当時は学校のレベルも高いし、いじめもあったので、自分にそんなに自信が持てませんでしたね。 コミュニケーションをどうすればいいか自然と考えて気をつけていたと思います。 また、頑張らなければ置いていかれるということを自覚していたので、自分ができる努力で精一杯でした。 ー周りができる環境だからこそ持ち前の根性で努力し続けられたのですね。高校は、そのまま進学されましたか? はい。高校は中高一貫校だったので受験せずに行きました。 進学校なので、私は勉強も特にせず、週5でエアロビに夢中になっていました。 他にもバレー部のマネージャーをしたり、生徒会に所属したり、国際交流の部活をするなど、好きなことしかしていませんでした。 案の定、大学受験には失敗し、受験に本気で向き合っている人には負けると当たり前を痛感しましたね。 ー大学生活はどうでしたか? 最初の1年間は大学の寮で生活をしていました。女子大ということもあり、門限22時、点呼23時。食事入浴の時間が決まっており、外泊は3日前申請・親の許可必須という結構縛りがきつかったです。真面目に授業にでて、学内でいい成績を残そうと優等生ぽい生活をしていましたね。 しかし、2年生から一人暮らしを始め、環境も変わったことで少しづつ活動的な自分を取り戻してきたんです。 大学に出会った人にも影響を受けたので、そこで自分の将来も大きく変わったと思っています。 ーエアロビも離れたんですか? 大学一年生でインストラクターの資格をとり、インカレやアマチュアの大会に出場し、大学生最後までやっていました。最後の4年生の大会では個人で5位に入賞して、大学生活では一番いい成績を残せました。 ーすごいですね。エアロビも続けられながら他に何かしていましたか? 最初に熊本地震のボランティアをやり始めました。 地震で一番被害が大きかった益城町で子どもから高齢者までを集め約100〜200人のイベントを開催したり、復興のためのペイントイベントなどを開催しました。また、学生団体に所属し、ラジオや北九州の地域創生活動やキャリアイベントなどを経験してきました。 同世代の生き方をアップデートしたい ーマルチですね。そのエネルギーの源は何だったんでしょう? 大学当初、自分の周りの人は、9割教員を目指していたことから自然と私も教員を目指していたんです。でもある違和感で学校の先生ではないと感じ始めたんです。 それは大学の授業で発表する時の時間。教員希望の人でも全く手が上がらず消極的だったので、「実際に教員になったとき、『子ども達に手を挙げましょう』とか『主体性を持ちましょう』言えるのか」と率直に疑問に思いました。 私は、今の教育を変えなければ、受け身を譲り受けた子どもしか育たないと思いました。 まずは、同世代の教員を目指す学生の意識を変えるところからやりたい、と。 でも教職以外で自分にできそうなことが分からず、とにかく行動することを意識していました。 ー自分ができることをやっていこうと まさに自分たちができるところから変えていこう、社会をより良くしていこうという意識しました。生き方、働き方も自分達からアップデートしていかなきゃなと。 今一緒に会社をやっているメンバーも実は大学時からの仲間で、新卒で入社した会社を辞め、上京してきてくれました。 ー大学時代に特に印象的だったことはありますか? 大学二年生の夏に初めてフィリピンを訪れたことです。 実は海外には特に興味はなかったんです。留学も行こうと思ったことなかったくらいで。(笑) ボランティア活動を通じ、世界一周の旅の話を聞き、興味を持ちました。きっかけは、先輩との「世界地図にダーツを投げて現地集合して旅をしよう。」というノリ。 ダーツを投げたら、たまたまフィリピンで!(笑) ーまさに運命ですね(笑)近かったから行けたのもありますし……。 ノリで始まったので、ツアーとかも組まず、日本ではきっと経験できないような生活をしていました。 突撃でアポをし、学校で授業をしたり、家にピンポンし泊まらせてもらったり……。 星空を見ながらシャワーを浴びたり!(笑) 「現地で、旗立ててるから!」と先輩が言ったので、そこまで辿り着くためにWi-Fiをもたずにフェリーに乗ったり、バスやタクシー、徒歩など冒険したのはいい経験でした。 ー貴重な経験が今の事業の原体験になっているんですね。帰国後は何をされましたか? 時期的に就職活動をはじめました。大学三年生の11月には直感でベンチャーの企業に行くと決め、就職活動をすぐに終え、残りの大学生活をマハキタに使いました。 そこで紹介して頂いたのが、フィリピンの語学学校を経営する日本人の女性社長でした。 お話をして、フィリピンと日本の教育のプログラム作りたいと夢を語りました。 改めて決意を固め、自分と自分の周りのまだ自信のない女の子を変えたく、北九州女子大生団体Mahal.KitaQを創りました。 ー団体に共感する人も増え、仲間もできたんですね。さらには初年度は学生団体ながら一千万円を売り上げたと。マネタイズのポイントはありますか? 一番は、『学生が学生のために作り、行動し続けることができた』ことがポイントだと思います。 マハキタが提供するプログラムは、全てオリジナルです。例えばフィリピンの大手航空会社や旅行代理店などの海外インターンシップなど豊富に用意しました。自分たちがやりたいことを形にしてきた結果、一千万円を売り上げる組織になったと思います。 特に意識していたのは、周りの学生が「留学で、何をしたいのか」をヒアリングし、自分たちにできる付加価値を生み出していったことです。最初は「マハキタ」なんて言葉もなかったので毎月、30人に会うなど目標を設定し、ひたすらに動き続けていました。 9ヶ月で退職。そこからスピード起業へ ー自走力がすごすぎます!このまま起業も出来そうですが、大学卒業後はそのまま就職したんですね。 はい。2020年まで、東京という日本の最先端で働き、営業力をつけようと上京。入社9ヶ月間は走りきりましたね。 最初は成績もよく楽しかったのですが、会社と家の往復でだんだんと精神的に追い詰められていきましたね。 会社の経営に関わっていきたい思いと最初からがむしゃらにやりすぎたことから体調も悪くなってしまったんです。 会社にいくと具合悪くなったりし、ここでやり切るのも厳しいのかなと。 ー辛いですね……。 ですが、自分で自分の人生を切り拓く決心ができたので良かったと思います! 今後に悩んでいた時に、ご縁があり、今の人材紹介会社の社長に相談する機会を頂きました。そこで自分のやりたい事の応援をして下さり、勇気をもらいました。すぐに学生団体を法人化の準備をし、2020年の7月7日に会社を設立しました。 ー早い!(笑) そんなことないですよ!私は特別行動力があるとは思っていなくて、理想の自分になれているか日々振り返る必要があると思っています。 理想の自分であるためにどうするか、内面的なところを考え、実行することが行動力につながるのかなと! ー最後に今後の目標を教えてください。 実はコロナウイルス感染拡大の前は、留学ができる国を18カ国準備していました。 しかし海外事業が動けなくなった時に、教育のプログラムを作るのは留学だけではない、自分たちにできることは他にもあると気づいたんです。 現在は、グローバル教育に特化したオンラインでできる海外事業と、SDGsプログラム、日本でのキャリア教育事業を展開しています。これからは、自らがロールモデルとなり、同世代の生き方ををアップデートしていきたいと思います! 私のビジョンである、信念を持って生きる人を増やすことで世界貢献していきます。 ー本日はありがとうございました!宮坂春花さんのさらなる活躍を期待しております! 取材者:吉永里美(Twitter) 執筆者:三田理紗子(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

高校生CDO松永幸樹が見据える新しい日本の教育のスタイル

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第251回となる今回は、株式会社UnpackedのCDO(チーフデザインオフィサー)として高校生の教育支援事業に携わる、自身も現役高校生の松永幸樹さん。 デザイナーにとどまらず、フォトグラファーや高校生コミュニティ「HIMITSUKICHI」のリーダーとしても幅広く活動されている松永さんのこれまでの歩みと今後の展望について伺いました。 現役高校生による高校生のためのキャリア事業 ー本日はよろしくお願いします。まずは自己紹介をお願いします。 高校2年生で都立の学校に通っている松永幸樹です。株式会社UnpackedでCDO(チーフデザインオフィサー)として制作の指揮をとったり、高校生コミュニティ「HIMITSUKICHI」のリーダーとしてコミュニティの運営を行っています。 ーCDOと言いますと、具体的にどのようなことをされているのですか。 CDOとして、会社のホームページをはじめとした事業に関わる制作物のデザインや業務委託の指示・管理、また、会社全体のブランディングにも携わり、どういう名前でどういうサービスを展開していくのかを考えています。 ーありがとうございます。松永さんがジョインされている株式会社Unpackedとはどんな会社ですか? 高校生向けのキャリア教育事業を行っている会社です。「高校生が高校生の為に」をコンセプトに、新しい形の教育事業を探究しようと高校生5人と相談役の計6名で立ち上げた会社になります。企業とタッグを組んで教育のプロジェクト開発を支援したり、また高校生向けイベント「U18キャリアサミット」という高校生が自分たちのキャリアと向き合う機会を提供するイベントを開催したりしています。   日本教育のスタンダードに違和感を感じる日々 ー現役の高校生が、高校生に向けたキャリア事業を作っているというのは新しいですね。どのようなきっかけがあったのですか? きっかけはUnpackedにジョインする前、僕が高校1年生の時に遡ります。いわゆる「進学校」と呼ばれる高校に通い始めたのですが、そこでの教育のあり方に疑問を感じました。 ーと言いますと? 僕のいた地元の中学校では、授業中のディスカッションや発言が活発に行われる学校で、「授業は先生だけでなく自分たち生徒も一緒に作るものだ」という意識が強くありました。そのような学校で生活してきて、いざ高校の授業を受けてみると、生徒は黙って先生の話を聞き、ノートを取って、テストを受けている。生徒には主体的な意見を発言する場が少なく、「先生」と「生徒」という位置関係ができている受動型教育に強い違和感を覚えました。 ー日本だとそのような授業形式が一般的ですよね。 友人に聞いたら、僕がいた中学校の授業形式は珍しいと言われ、受動型教育が日本のスタンダードなんだと初めて気がつきました。このような教育がスタンダードだとしたら、日本の教育の行く末はどうなってしまうのだろうと。社会を作っていくための自主的な意見をどのように持ち、発信する方法をどこで学べば良いんだろうというところに疑問を抱いたのが教育事業に携わることになったきっかけになります。   既存の在り方に囚われず、新しい枠は自分で作る ーその後、その疑問を事業にぶつけていくまでにどのような経緯があったのでしょうか? はい、高校の文化祭で担任の先生と衝突したことが転機となりました。文化祭担当委員としてクラスをまとめていた僕は、取り組みの中で先生に呼び出され、「私の方が偉いんだぞ」という言葉を投げかけられました。その言葉を聞いて、「先生」と「生徒」という上下関係が生まれてしまっている日本の教育の在り方への疑問がより鮮明になりました。 そこでその時抱えていたモヤモヤを、UnpackedのCTOで幼馴染の高津悠樹に相談したところ、「既存の枠にはまりたくないなら、居場所は自分で作ればいいじゃん」という言葉をもらい、高校生のコミュニティを作ることにしました。 ーなるほど、それがコミュニティを立ち上げたきっかけになったんですね。 高校は住んでいる街の区分や偏差値によって分けられるため、会える人が自然と限られてしまいます。ですが、高校生も学校以外でアクティブに活動する場所があってもいいよねという思いがあり、新しくコミュニティ「HIMITSUKICHI」を立ち上げることにしました。 立ち上げ後は「学校の枠に囚われず、仲良くなろう」というのをテーマに、HIMITSUKICHIの初めてのミートアップを開催しました。高校生が企画する同様のイベントでは、SDGsをはじめとした難しい課題についてディスカッションをするなどといったテーマを設けられていることが多いのですが、テーマを設けることで会える人の枠を縛ってしまうことに疑問を感じていたため、HIMITSUKICHIミートアップでは敢えてテーマを設けず、ジャンル問わず面白い人が交流すれば面白くなるよねという考え方のもとで場を設定しました。 ー実際に開催してみて、どうでしたか? コミュニティのコンセプトが「誰よりも楽しんでやろう」なので、スタッフが一番楽しむという意気込みで会の運営をしました。当日参加した20〜30人ほどの高校生は、いろんなことに取り組んでいる人が集まりましたが、その場では一旦それぞれやっている活動を置いておいて、人間として楽しく関わろうねという形で少人数の会ならではの深い交流をすることができました。 また、そのミートアップにはUnpackedのCOOの中澤治大も参加していて、そこで彼と意気投合しUnpackedへのジョインを決めました。 ー高校生向けのキャリア事業に携わるようになったのは、ご自身が立ち上げたコミュニティでの出会いが始まりだったのですね。Unpackedの中澤さんと仲良くなった理由というのはなんだったのでしょうか。 彼自身も高校生のキャリアに関するプロジェクトを企画していたところで、そのプロジェクトに誘われたのが一つかなと思います。また、ミートアップに来た人の中でも、彼の「交流」を躊躇しない姿勢が印象的でした。ぐいぐいと積極的に会話のキャッチボールをしようとするその勢いに圧倒され、彼との会話がすごく楽しかったと覚えています。   デザイナーとしての道は祖父がくれたカメラ ー現在松永さんはUnpackedでCDOとして働かれていますが、そのスキルや知識はどこで身につけていたんでしょうか。 デザインに関する専門的な知識やスキルを身につけたのは高校に入学してからです。祖父にもらったカメラで写真を撮り始め、撮った写真を加工したいなと思ったのが始まりになります。初めは色味の調整だけでしたが、だんだんと素材の切り貼りにも手を広げ、独学で細かな編集を勉強し始めました。 僕自身、まだまだわからないことが多いですが、学びながら取り組んでいる形になります。 ーデザイナーに限らず、フォトグラファーなどさまざまな創作活動に取り組まれていますが、クリエイティブに目覚めたきっかけはカメラを買ってもらったことが始まりだったのですか? 一番初めは小学生のころに自分で好きな曲を集めたCDを作り、そのラベルも自分で作ってみようと思ったことです。中学生の時には、プログラミングや動画編集、HP制作にも興味を持ち、世の中に出ている制作物を自分も作ってみたいと考えていました。 ーその時から、何かを作っていくということに関心を持たれていたんですね。 はい、特にappleの製品が身近にあったことが大きいと思います。動画編集は専門的な知識と高額な機材が必要になるイメージでしたが、iPad一台でなんでもできることに衝撃を受けました。そこから動画編集やコラ画像の制作など自分で色々作ることに挑戦していましたね。   「それはおもろいんか?」を常に自分に問い続ける ーさまざまな分野に関心を持ち邁進されている松永さんですが、大事にしている軸やモットーはなんですか? モットーとして「それはおもろいんか?」という言葉を大事にしています。飽き性な性格というのもあるのですが、今自分が取り組んでいることはおもろいんか?と自分自身に問いかけ、チャレンジすることを取捨選択するようにしています。また、会社の会議でも、他の人の意見に妥協して賛同するのではなく、常にこの言葉を意識し、会議がより良い方向に進むよう考えるようにしています。もちろん、会議ではいろんなアイデアがあっていいと思いますが、自分自身に言い聞かせる意味でも意識しています。 ーHIMITSUKICHIのコンセプト「誰よりも楽しんでやろう」もこの言葉に通じるところがありますね。 はい、HIMITSUKICHIは小さい頃に秘密基地を作ったあのワクワク感を忘れないようにという意味を込めて名付けました。 ーありがとうございます。最後に、Unpackedのメンバーとして、またHIMITSUKICHIのリーダーとして活躍されている松永さんの今後の展望を教えてください。 日本の学生の課題である「自分の意見をもつ力」、さらにそれを発信する「アウトプットの力」を伸ばすために、発信する力を養う意味で、人間にしかできない表現・アートを学ぶことに可能性を感じています。 現在AI技術が進歩していますが、それ以上に人間は究極のクリエイティブな生き物だと思うので、 人間にしかできない部分を研ぎ澄ますため、高校だけでなく、小学校の頃から教育パッケージとして「表現」を学べる仕組みを作っていきたいと考えています。 今はプログラミング教育が進んでいますが、さらに「その次」の教育を作っていくイメージです。 また、一個人としては、いつまでも子供の心をもった人間でありたいです。ユニークな人とたくさん関わり、自分自身もワクワクする体験を忘れず、楽しみながらストレスフリーで生きていきたいと考えています。 ーありがとうございます!松永さんの今後のご活躍を期待しています! 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:青砥杏奈(Facebook) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

自分が今できることを。フードロス問題の解決に命をかける篠田沙織のメッセージ

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第255回目となる今回のゲストは、株式会社コークッキング取締役の篠田沙織(しのださおり)さんです。 7歳で急性リンパ性白血病を患い、それを機に「食」分野へ興味を持ち始めた篠田さん。数多の経験を経て『TABETE』というサービスの運営にたどり着いた過程、そしてフードロス問題を通じて発信したいことについて伺いました。 フードロス問題をビジネスの力で解決へ ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 株式会社コークッキングで取締役を務める篠田沙織と申します。日本女子大学英文学科を卒業し、飲食店検索サービスを運営するRetty株式会社に新卒入社しました。その後、10か月で退職してコークッキングに入社し、現在に至ります。 ーありがとうございます。コークッキングの事業についても簡単に教えていただけますか? 軸となる事業が、2018年4月にリリースした『TABETE』です。飲食店さんや小売店で売れ残ってしまった食べ物を『TABETE』で出品すると、消費者がお得な価格で買うことができます。2020年12月時点で利用者数が34万人を突破し、関心が高まっていることを肌で感じています。 ー新型コロナウイルスの影響で、テイクアウト需要が高まっていますよね。 おっしゃるとおりです。コロナ禍で外食店さんからの利用申込が10倍以上増えています。また、消費者側も「飲食店の力になりたい」という支援消費の気運が高まってきており、『TABETE』で作りたい世界観が徐々に形になってきています。 ー今の時代に求められているサービスですね。その中で、篠田さんはどんな役割を担っていますか? マーケティングや営業、広報などいわゆるビジネスサイドを担当しています。Retty時代には飛び込み営業やSEOライティング、開発ディレクションも経験しました。 ーかなり幅広いですね!その中で自分に合っているものは何だと思われますか? マーケティングかな、と自分では思っています。「納得してくれるお客様にしか売りたくない」という考えであるため、「どう流入してどう買ってもらうか」から設計できるマーケティングが合っている気がします。これも、色々なことをやってみてわかったことですね。 「いつからでも立ち上がれる」と学んだ2つの挫折 ーここから過去について伺っていきますが、若くして2つの大きな挫折を経験されたんですよね。一つずつ聞かせていただけますか? はい。一つ目は7歳のとき、急性リンパ性白血病にかかってしまい、1年半の入院生活を余儀なくされました。スポーツ一家で、私自身もスポーツ少女だったのですが、体を動かしたいのにずっとベッドの上にいる生活は辛かったですね。 ーいきなり辛い出来事ですね…。どのような症状が出る病なのですか? 最初の異変は、鼻血が止まらなくなることでした。それを飲み込んでしまい、おなかの具合が悪くなって入院することになりました。入院後、幸い骨髄移植の必要はなく薬の投与だけで済んだのですが、その副作用で髪の毛が全部抜けたり。さらに、薬の副作用で食欲が抑えられなくなって、暴食を続けてしまうこともありました。 ー想像を絶しています…。その時、どんなことを考えていましたか? やはり、焦りは大きかったですね。体力もどんどん落ちていきましたし、勉強においても同級生に置いてけぼりにされている気がして。また、親の配慮からか症状を詳しく聞かされていなかったのですが、重い病気であることは薄々気付いてはいました。 ーそんな闘病生活をきっかけに、篠田さんの軸となる「食」への興味が湧いたんですよね。 はい。ずっとベッドの上にいると、楽しいことが食べることしかないんですよね。たまに外泊許可が出て、その時に母の手料理を食べたら以前よりもおいしく感じたり。とはいえ、病院では食事において制限されることが多く、「食べたいのに食べれない」が原体験になっていると思います。 ーその原体験から、当時どんな道を進もうと考えたのですか? 自分自身の闘病経験、そして親が糖尿病を患っていたこともあり、「食の分野で人の助けになる仕事がしたい」と考えはじめていたんですね。そこで思い浮かんだのが、管理栄養士という仕事。資格取得のために志望大学も決め、「さあ受験だ」という時に2つ目の挫折が訪れました。 ー大事な時期に再び挫折が…。 センター試験の数学Ⅰ・Aで、13/100点という今までになく低い点を取ってしまいました。試験中、何も頭に浮かばなくなって、かつ周囲の受験生はカリカリ解いていて、ずっと焦っていたのを鮮明に覚えています。 ーその13点という数字は、進路にも影響を及ぼしたのですか? 管理栄養士の資格取得のために理系大学を志望していたものの、点数が足りずに断念せざるを得ませんでした。結果文系大学に進学したのですが、今振り返るとこれで良かったのかも、と思っています。 「フードロス問題を仕組みから変える」と決めた瞬間 ー大学ではどんなことをされていたのですか? 飲食関係のアルバイトやインターンシップなど、計7つ活動をしていました。英文学科という「食」とは離れた環境だったので、「少しでも食関係の近づくために」と考えたためです。 ー行動に出ましたね!その時は、「こういう形で食に関わりたい」という軸はあったのですか? いえ、その時は特にありませんでした。「どんなことに関心があるんだろう?」と自分も探りたかったので、飲食店やジムのインストラクター、カフェなど色んなことを経験しましたよ。実は、そのうちの一つが、新卒で入社したRettyでのインターンシップでした。 ーその中で、現在生業としている「フードロス問題」に関わるきっかけはありましたか? ありました。色んなアルバイト先で、かなりの量の廃棄を見てきたんですね。私は、白血病にかかった時に「食べたくても食べれない」を経験していたので、当然のように廃棄される光景を見て悲しくなってしまったんです。職場の方は廃棄することに慣れていたようですが、私はどうしても慣れなくて…。 ー「食べたくても食べれない」経験があったからこそ、敏感に反応してしまったのですね…。 ただ、このフードロス問題は、お店が悪い、消費者が悪い、というものではないんですよ。提供するより多めに発注するのは、飲食店の仕組み上やむを得ないことだし、「発注量を減らしてください」と言っても意味がない。だから、「業界の仕組みから変えていかないといけない」と強く思いました。 ーそこで”ビジネス”を強く意識するようになったのですか? そうですね。たとえば、自分の勤める店舗だけロスを減らしても他の店舗では減らない、なんてことになっては意味がない。そこで、「全体解決を目指したい」と考えるようになり、「ビジネスを通じてフードロス問題を仕組みから変えていきたい」という気持ちが芽生えましたね。 ーその時期から「フードロス問題」という軸は固まっていたのですか? いえ、就活で約50社を受けたのですが、その中で固まっていきましたね。また、大手からベンチャーまで幅広く話を聞きに行ったのですが、自分がベンチャー志向であることも就活中に気付けました。 ーこの記事を読むU-29世代にとって参考になるかもしれないので、少し詳しく聞かせてください。 大手企業の方は「自分が関わっている領域のこと」を、ベンチャー企業の方は「事業全体のこと」を話されることに気付いたんです。どっちも素敵であるという前提で話しますが、私の場合は「事業全体に関わり、業界の仕組みを変えていきたい」という想いがあったため、そこでベンチャーの方が合っているなと思えました。 さらに、Rettyの他にコンサルティング会社さんから内定をいただき、最終的にRettyに入社しました。これは、Rettyを退職して起業する方の話を聞いたときに、「他社の事業を支援するのと、事業に当事者として関わるのとどっちを選ぶか」という考え方を教えていただき、「私は後者だ」と思ったためです。 フードロス問題の解決は、自分が今できることから一つずつ ーそんな、納得して入社したRettyを10か月で退職されたんですよね。その経緯について聞かせていただけますか? はい。Rettyの皆さんには本当によくしていただいて、感謝しています。入社前から「新規事業、特にフードロス問題に関することをやりたい」と伝えていて、私のキャリアについても本気で考えてくださりました。ただ、私が新規事業に携われるタイミングが中々無く、フードロス問題に関われる会社に転職or合う会社がなければ起業、という2択でキャリアチェンジを模索し始めました。 ータイミングが合わなかった、ということなのですかね。篠田さんが希望するような会社はすぐに見つかりましたか? 予想はしていましたが、やはりありませんでした。なので、起業する方向にシフトして、起業準備をしていたのですが、自分一人で起業するのも正直怖くて。そんなタイミングで、運よくコークッキング代表の川越一磨と出会ったんです。 ーすごいタイミング!色々お話しされたと思いますが、どんなことを思いましたか? 二つの感情がありました。一つは、念願のフードロス事業に関われるワクワクです。白血病を患ったときの「食べたくても食べれない」に、いよいよ自分も事業者として関われるわけですから。そしてもう一つが不安でした。当時新卒10か月だった自分に何ができるのだろうか、という気持ちは強かったですね。 ーその不安をどのように乗り越えたのですか? 過去の経験ですね。2度の挫折で、自分では「人生終わった」と思ったのですが、現在こうしてフードロス事業に関われているので、「ゼロからでも行動すれば人生は変わる」と自分に言い聞かせて乗り越えました。この考えは、今もずっと大切にしています。 ーありがとうございます。この記事を読んでいるU-29世代に対して、フードロスに関してどんなことを伝えたいですか? あまり大きく捉えすぎないようにしていただきたいですね。「社会問題」と聞くとどうしても大きく考えてしまいますが、結局は個々人の行動の積み重ねです。なので、自分が今できることを、一つずつやっていただけると嬉しいなと思います。 ー日常生活の中で、たとえばどんなことから始めればいいですか? 「自分が何に対してお金を使っているのか」を考えることをオススメします。今自分が手にしている商品は、どんな人が作ってどういう流通経路で手元に届いているのか。普段の購買行動の裏で起こっていることを想像してみるだけで、それまでとは視座がかなり変わると思います。 ー最後に、篠田さんが今後実現していきたいことなどをお聞かせください。 「消費者が、社会課題に対して前向きに取り組める社会にしたい」と考えています。なぜなら、消費者が変わることで産業が変わり、事業者の意識も変わるためです。そうすることで、事業者も「消費者に選ばれるお店を目指そう」と考えてもらえるはずで、フードロスがその要素の一つになればいいなと思います。そのためにも、消費者が楽しんで社会課題に関われる仕組みを作っていきたいですね。 篠田さんのSNSはこちら Twitter https://twitter.com/0815sama ______________ 取材者:吉永里美(Twitter/note) 執筆者:角田尭史(Twitter/note/Instagram) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

ネパールで先生からシェアハウスの代表に?坂元裕星は心からの笑顔を守るために働く。

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第252回目のゲストは、株式会社アオイエ代表取締役の坂元裕星さんです。もともとはサッカー少年だったという坂元さんが、ネパールでの経験を経て、シェアハウス事業を行う株式会社アオイエで代表を務めることになるまでのライフストーリーをお聞きしました。 経営者でありながら二度目の大学生を経験中 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 株式会社アオイエでシェアハウスの経営を行っています、坂元裕星です。また、現在はアメリカの大学の授業オンラインで受けている学生でもあります。直近ではシェアハウスの住民だった方からお声がけいただき、今年新しくできたサッカーチームにも所属しています! ー経営されているシェアハウス、アオイエについてもう少し詳しく教えていただけますか。 もちろんです。アオイエは現在東京に11拠点、大阪と沖縄の拠点も加えると全部で17拠点あるシェアハウスで主に学生から若手社会人の方々が中心に住んでいます。私も元々は住民で、創業者の方に一緒に運営をやらないかと誘っていただいたことをきっかけに株式会社アオイエに入社しました。 アオイエの魅力は言葉で伝えるのが難しいのですが、アオイエはやりたいと思ったことを遠慮なく言える場だと思っています。変わりたい・成長したいという思いを持っている人にはぜひアオイエを選択肢の1つとして入れていただきたいです。 ーそして会社の代表を務められている一方で学生もされているとのことですが… はい。日本の大学は卒業しているのですが、もう少し勉強したいという思いがあったので、これもまた住人の方繋がりで知った大学に入学を決めました。もう一度大学生として、今回はグローバルマインドリーダーシップについて学んでいます。   サッカー漬けの中学生活から文武両道を意識した高校生活 ー少し過去に遡ってお話も聞かせてください。どのような幼少期を過ごされていましたか。現在もされているサッカーは幼少期の頃から始められたのでしょうか。 こだわりの強い子供だったみたいです。物を定位置に戻すことにこだわっていたり、手が汚れるのが嫌だったり…父が転勤族だったので、幼少期は転校も経験しました。小学生の頃、茨城から福岡へ引っ越したのですが、茨城では当たり前だったことが福岡では当たり前ではないことを知り、衝撃を受けたのを今も覚えています。転校を経験したおかげで新しい環境への適応力は磨かれたなと思います。 サッカーは小学3年の頃に始め、その後一時期辞めていたのですが、小学6年の頃に再び再開しました。サッカーが大好きだったので、サッカーの強い学校に進学するため中学受験も経験しました。 ーそうだったのですね。中学はサッカー漬けの日々を過ごされていたのですか。 そうですね。中学時代は毎日のようにサッカーをしていて、気づいたら成績は下から数えたほうが早いくらいまで落ちていました。 勉強と部活の両立を意識するようになったのは、中学3年の時に学校の語学研修旅行でニュージーランドに行ったのがきっかけでした。現地滞在中にM6.3の地震を経験し、死んでもおかしくない状況を経験しました。たくさんの方が亡くなられた中、日本に無事帰国することができたのですが、帰国後すぐにに東日本大震災が起こりました。福岡にいたのでこちらは直接的な影響はなかったのですが、死を再び身近に感じる出来事でした。 この2つの地震をきっかけに、綺麗事に聞こえるかもしれませんが、「亡くなられた方の分も生きないと。何事も頑張ろう」と思うようになったんです。中高一貫だったのでそのまま高校に進学したのですが、高校ではプロサッカー選手を目指して部活に励みながらも、勉強にもたくさんの時間を費やしました。 ー高校卒業後の進路についてはどのように考えられていましたか。 指定校推薦での進学を考えており、ご縁を感じたのが法政大学でした。小学生の時に遊戯王が大好きだったのですが、そのエンディングの歌を歌っていたのが法政大学出身の方でした。そして中学生の時にテレビでみた法政大学大学院の卒業式の様子が記憶に残っていた中、指定校推薦の一覧に法政大学を見つけたんです。 高校からの指定校推薦の場合、法政大学はキャリアデザイン学部しか選択肢がなかったのですが、これもまた勉強してみたい分野にかぶっていたのでぴったりでした。というのも、高校生の時に大怪我と失恋を同じタイミングで経験したのですがその時にたまたま出会った本「死ぬまでに仕事に困らないために20代で出逢っておきたい100の言葉」にかなり救われて…その本の著者が経営者の方だったので、「会社の代表になれば人を救えるかも」と思い、起業家になりたいと考えるようになっていました。   ネパールで、心から笑顔でいるためには?を考えた ーそして大学で上京されるんですね。 はい。高校時代、両親からいろいろと口出されたりするのが嫌だと感じていたこともあり、学費も生活費も全て自分で払うから干渉しないでほしいと両親に伝えて上京しました。その結果、バイトと勉強で大忙しの貧乏学生生活を送ることになりました。 そのバイト先で出会ったのがネパールから出稼ぎに来ている人たちだったのですが、彼らはどれだけ忙しくても明るくフレンドリーで一緒に働いていて楽しかったんです。逆に日本の社員さんは挨拶を全然しなかったり、常にイライラしていたり…何が違うのか気になり、彼らになぜそんなに楽しそうなのか、心にゆとりがあるのかと聞いてみたところ「とりあえずネパールに行ってみた方がいいよ!」と言われました(笑)ちょうどアルバイトでも有給をもらえることを知っていたので、早速有給を活用してネパールに行ってみることにしました。 ーなんと!初めてのネパールはいかがでしたか。 たまたまバイト先の友人が同時期にネパールにいたので、彼に基本は案内をしてもらいましたが、やはり笑顔な人が多いなという印象を受けましたね。が、現地で出会った方に日本の満員電車の話や日本では近所付き合いがなくなりつつある話などをしたところ、ネパールでもお金があればいいという考えの人も増えつつあり、取り繕った笑顔をする人も増えてきて悲しいという話をしてくれました。ネパールに行ったことでそれまで以上に、自分を含め、みんなが心から笑顔でいるためにはどうしたらいいのかと考えるようになったと思います。 ー帰国後はどのように過ごされたのでしょうか。 もう一度海外に行きたいという思いが強くなったので、トビタテ!留学JAPANに応募したのですが、選考に落ちてしまい…どうしようかと迷っていた時にネパールで学校を設立された方と繋がることができ、会ってみたところネパールで1年間学校の先生をしてみないかとお誘いただきました。すぐに決めて欲しいとのことだったので、その場で大学を休学することを決め、1ヶ月後にはネパールに渡りました。 ーすごいスピード感ですね。再び訪れたネパールはいかがでしたか。 ネパールのコタンというエリアへ行ったのですが、毎日お風呂に入れない生活、電気がないので暗くなったら寝るという生活を経験しました。村人同士が何かあった時は助け合い、シェアをするという文化がある村で、みんなで生きているという関係性を体感しました。こういった人間関係が築かれているからこそ、みんなが笑顔で過ごせているのだなと感じる貴重な経験となりました。 ー1年間のネパールでの経験を経て、現在にはどのように至ったのでしょうか。 帰国後の住む家を探していた時に、知り合いが紹介してくれたのがアオイエでした。同世代と一緒に住むことによってたくさんの学びや刺激があり、アオイエのようなシェアハウスに住んでいることで心からの笑顔が増えているという実感がありました。そんな実感があったからこそ、住み始めて2ヶ月の頃、創設者の方に一緒に運営をやらないかと誘われた時にやってみたいと思いました。本当はお金を貯めて起業をしようと考えていたのですが、アオイエというコミュニティの可能性に賭けてみようと思ったんです。   最強な大人を目指して、偶然を意味のあるものにしていく ーそれ以降アオイエの運営に携わってきたとのことですが、これから代表としてどのようなシェアハウスにしていきたいと考えられているか教えていただけますか。 拠点数を増やしてコミュニティを広げたいという思いはあります。いつか海外にアオイエのコミュニティを広げていきたいですね。ですが直近の目標はアオイエのようなシェアハウスを必要としている人にアオイエのことを知っていただくこと。「アオイエのことを知っていたら住んでたのに…」と言われるのが今は正直1番悔しいです。お金や時間の制限から夢や目標を諦めてしまっている人に、アオイエの存在を知っていただけるようにもっと頑張りたいと思っています。 長期的な目標としては、アオイエが「日本で初めてベーシックインカムを導入したコミュニティ」と言われるようになりたいです。衣食住の全てを家賃に含められるように今後制度を充実させていきたいと考えています。 ー今後、シェアハウス経営の以外で取り組んでみたいことはありますか。 やっぱりいつかはネパールに恩返しがしたいと思っています。大学卒業後はまずは日本で自分にできることを、と思いアオイエの運営に携わることを決めましたが、将来的にはネパールに何か還元したいですね。 ネパールは1日1500人以上の方が出稼ぎに他国へ行くのですが、その多くは過労死して遺体でネパールに帰国していると言われています。私たちは海外へ観光や勉強が目的で行くことが多いですが、ネパールでは家族のために海外へ行く人が多数派なんです。そうせざるを得ないネパールの現状に何らかの形で貢献し、ネパールの人たちの笑顔を守ることができたらと思っています。そのために、今は日本で財力を蓄え、スキルを磨きたいと思います。 ーそうなんですね! 最後にはなりますが、もし大事にしている言葉や考え方があればぜひ教えてください。 計画された偶発性理論(偶然を計画的に設計し、自分のキャリアを良いものにしていこう)という考え方を大事にしています。偶然を意味のあるものにするための行動を積み重ねていきたいです。また、周りの人を心から笑顔にするために行動するということも引き続き大切にしていきたいと思っています。 目指すのは最強でかっこいい大人。今後も精進していきたいと思います!   取材者:高尾 有沙(Facebook/Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

「ダルい上司の回避法」動画の火付け役!劇団ノーミーツ 作家/演出家・岩崎裕介

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は、劇団ノーミーツ×U29コラボ!今話題の劇団ノーミーツメンバーがユニキャリにやってきました。今回のゲストは、劇団ノーミーツ作家・演出家の岩崎裕介(いわさきゆうすけ)さんです。 CMディレクターとして働きつつ、劇団ノーミーツでは主に短編作品や企業案件の演出、時おり出演もしている岩崎さん。ZOOM演劇 「ダルい上司の打ち合わせを回避する方法」をきっかけに、演出家として活躍の幅を広げています。そんな岩崎さんが映像の世界に魅了された経緯を、幼少期からさかのぼってお伺いしました! 1度のカラオケで覚醒した中学時代 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 劇団ノーミーツで作家と演出家をしている岩崎と申します。 ー本日は、岩崎さんが劇団や映像に興味を持った背景について、過去にさかのぼってお伺いできればと思います!幼少期、印象に残っている出来事があれば教えてください。 13歳の頃、学校帰りに初めてカラオケに行った日を鮮明に覚えてますね。中学の頃の記憶って、そうそう覚えてることないじゃないですか。それでも頭に残っているので、おそらく1つのターニングポイントだったんだと思います。 ーその日のお話を、詳しくお聞かせください。 私はもともと生真面目な人間ではなかったのですが、自営業を営んでいる父、教育者の母のもとで、知らず知らずのうちに感情を抑圧していました。そんなある日、初めて校則を破って学校帰りにカラオケに行ったんです。 最初は「バレたらやばいな……怒られる……」とびくびくしていましたが、カラオケで曲を入れて歌った瞬間、自分の中に本来あった感情が溢れだしました。それ以降は取り繕うのをやめて、欲望に忠実に生きてます。 ーそこで、たがが外れたんですね。 「プツン」と何かが切れるような感覚があって。10年間以上抑圧されていたエネルギーが解き放たれてしまったんでしょうね。 ーご両親に制約されていたことはありましたか? いえ、両親は基本的にやりたいことを尊重してくれていたんですよ。そこはすごくリスペクトしていて。ただ、やりたいことの選択肢を増やすためには、ある程度いい学校へ行った方がいいと言われていました。両親が慶応大学出身で、母親が教育者だったこともあり、勉強漬けの日々でした。 ーそれが1回のカラオケで一変したんですね。 そう、壊れてしまって。悪友に連れられ学校帰りにカラオケに行ってからは、一切勉強せず毎日狂ったように遊び、刹那的に生きていました。   オーストラリア留学を経て、慶應義塾大学を目指す ー中学時代に覚醒した岩崎さん。高校時代はどのように過ごされていましたか? 小中高一貫の男子校に通っていたのですが、そこはサッカーの名門校で、スポーツのできる人が最強だという構図ができあがっていました。スポーツに興味がない人は、どうしても音楽や服などのカルチャーにのめり込むしかないんですよ。私も同様に体育会系のノリに馴染めず、趣味に時間を費やすようになりました。 当時は服が好きで、原宿のファッションサークルを見つけたので参加して。ちょっとだけお邪魔するつもりが、ドハマりしたんです。私と同じように、奇抜でアウトサイダーな人たちが集まっているのが居心地良くて。そこで出会った友達は今も仲が良いですね。 ーそうなんですね。服が好きな子が同じ学校にあまりいない環境で、ファッションに興味持ったきっかけは? 中高生の頃は、目立ちたい、ちやほやされたいという気持ちが強くて。「俺はみんなとは違うんだ」という自意識から、派手な服を好んで着ていました。主張性のあるものを直感的に選んでいたので、逆に流行のものには興味がなかったです。 ーピンときたものを買って着ていたんですね。ファッションに没頭していた高校時代、大学受験の時期が迫ってくると、どのように活動されていましたか? 両親からは慶応大学を勧められていましたが、努力はしたくなくて。慶応の中でも、1番簡単に行けるのは文学部だと思いました。慶応文学部の受験は、小論文と英語と世界史の3教科だけなんですよ。 母親が英語の教師で、日々教えられていたので、英語は高1の段階で慶応に受かるレベルになっていて。「英語はノー勉でよくて、小論文はセンスだけでいけるし、あと世界史頑張れば行けるじゃん!」と思い、慶応文学部を受けることしか考えてなかったです。 ーそんなに英語が得意だったんですね。 中学1年から、母親に死ぬほど教わりましたからね。突然「オーストラリアの現地校に行ってこい」と言われて、実際に留学したこともありました。ライオンが子を崖から落とすような感じですよね(笑) ー英語はまだ習得されてない段階で行かれたんですか? もちろんです。最初はビビってましたが、なんとか英語を学んで無事に帰ってこれました。今振り返ると、オーストラリアへの留学経験で培ったのは英語力ではなく、切り開いていく力だったかもしれません。 人と話すのはもともと好きだったので、英語が話せなくても「行ったれーーー!!!」っていう度胸はつきました(笑)   演劇と出会い、 “人” に魅了された大学時代 ー海外で力をつけた後、無事に慶応大学へ入学されたんですよね。大学ではどのように過ごされていましたか? 高校3年まで目立ちたがり屋だったので、大学入学前にはファッションショーの演出やモデル、バンド、お笑い、ダンス、DJなど、いろいろ経験して。オンステージが好きだったんですよ。 大学入学後、クラブイベントをやっている演劇のチラシを見て。「舞台でまだ演劇やったことないし、DJできるんだったら入ってみるか」と行ってみたら、DJなんて誰もやってないサークルだったんですよね(笑) 「しょうがないから演劇やるか」ってなって、そこで出会ったのが劇団ノーミーツ主宰の小御門優一郎(こみかどゆういちろう)と、The Breakthrough Company GOプランナーの飯塚政博(いいづかまさひろ)です。 ー小御門さんと飯塚さんと初めて会ったときはどんな感じでしたか? 会ってすぐ打ち解けました。みんなひねくれてるんですけど、笑いのツボが近くて。3人だけずっと笑ってて、あとはみんな真顔みたいなことがけっこうありましたね(笑) ー運命的な出会いだったんですね。サークルでの活動はハードでしたか? 半端ないペースで演劇公演を打っていたので、バイトもせずに毎日稽古してました。なんとかお金を稼ぐために、合間を縫って日雇いの仕事やライター活動をしてましたね。 ー大学までは演劇をされてこなかったと思うのですが、なぜそこまで演劇に没頭できたのでしょうか? 答えはシンプルで、 “人” に起因しています。私は昔から人が1番好きだったので、何をやるかではなく誰とやるかが大事で。「こいつらと一緒にずっとなんかやってたいな」みたいな気持ちが強かったですね。 だからもし小御門と飯塚がスキューバダイビングのサークルにいたらスキューバダイビングしてるし、カバディのサークルだったらカバディしてるし、ゴミ拾いサークルだったらトングでゴミを拾ってたかもしれないです(笑) ー岩崎さんの中で、 “人” が根っこにあるんですね。 まさにそうです。「この人のためなら。この人の力になりたい」という気持ちが1番の原動力ですね。 ー大学に入るまでは自意識がキーワードでしたが、入学後は矢印が外側に向き始めたようなイメージを持ちました。何かきっかけはありましたか? 高校までは謎の自信があって、世界で1番自分が面白いと思ってたんですよ。けど、慶応大学には化け物級の人たちがたくさんいて。「俺って取るに足らない存在だったんだ」と自覚しました。 あと、演劇を通して作ったものをアウトプットした後のリアクションを見るのがすごく楽しくて。以前までは自分ありきでしたが、「自分がいかに存在感を出しても死んだら終わりだし、影響を与える方が重要じゃない?」と思うようになりました。   あるCMをきっかけにCMディレクターを志す ー今までのお話で、大学時代は演劇で彩られていたことがわかりました。次のフェーズとして、就職活動ではどんな業界を見ていましたか? もの作りは続けたいと思っていたのですが、演劇の道に進もうとは思っていませんでした。 ーそれはなぜでしょうか? リアリティとか普遍性に1番興奮するからですね。舞台があって、その上に人がいて、何かをやっている時点でリアルじゃない。演劇よりも映像の方が、目の前にあるものを切り取っているだけなので、やりたいことをやれそうだなと思いました。 あと演劇は、多くの人に見てもらえないのが悲しかったんですよね。箱の中で終わってしまう刹那的で儚いものなので、映像業界に行きたいと思いました。 「CM制作とかいいじゃん。けどCMってどうやって作るんだっけ?」とネットで調べているときに、あるCMと出会い衝撃を受けたんです。そのCMを見て、「俺はきっとCMの監督になるんだ!」とビビッときました。 ーどんなCMだったのか、教えてください。 関西電気保安協会のCMです。おじいちゃんがカメラに向かって、「はい、山田さんのお宅では、ビリビリするとこがありっ……ないのでよかった」って言うだけなんですけど、企画としてしっかり成り立っていて。 電気保安協会の人って、家に入ってくるじゃないですか。だから生活者に安心してもらう必要があるんですよね。安心させるためには電気保安協会の方の人間性を見せる必要があるから、人柄だけを見せようっていう理屈が理知的でゾクゾクしました。 ー私も関西電気保安協会のCMみたことあるのですが、そういう意図があるんですね……! ありのままを見せていますよね。人間も弱さを見せたほうがチャーミングに見えるんじゃないかな。 ー等身大のほうが心に刺さることもありますよね。それから就活を経て、実際にCMディレクターに就かれたと思いますが、CMを作ることは面白いですか? めちゃめちゃ面白いです!東北新社でCMディレクターとして働かせていただいてて、仕事がつらいと思ったことはほぼないですね。単純に忙しいとかはありますけど、精神的に追い詰められたことは一瞬もないです。適職なんだと思います。   劇団ノーミーツに加入し、「ダルい上司の回避法」動画が誕生 ー現在、東北新社で働きながら劇団ノーミーツに関わられてますよね。どういう経緯で劇団ノーミーツに加入したのですか? 小御門とは大学を卒業してからも仲が良くて、コロナ禍も連絡を取ってて。「最近ノーミーツっていう劇団始めたから、役者として出てよ」と言われ、最初は役者として関わっていました。 ーZOOM演劇「ダルい上司の打ち合わせを回避する方法」はどうやって生まれたのでしょうか? ある日小御門から「何かアイデアちょうだい」と言われて。「会社でだるい打ち合わせがあってさ。参加人数いっぱいいるから、うんうんってうなずいてるバーチャル背景にしようかと思ったんだよね」と話すと、小御門が「いいじゃん、それで動画1本作れそうじゃん。岩崎が仕切って作ってみてよ」と言ってくれたんです。 その後すぐに動画を撮影し、YoutubeにアップしたのがZOOM演劇「ダルい上司の打ち合わせを回避する方法」。次の日、朝起きて再生数を見たらとんでもないことになってて。その動画をきっかけに、劇団ノーミーツに矢継ぎ早に制作依頼が来るようになり、企業案件は私が企画演出することになりました。 ー岩崎さんも、みなさんも、本業がありながらそんなに劇団ノーミーツに没頭しちゃうのはなぜ? みんな根底に、「誰もやってないことをやってやるぜ!」といういうマインドがあるからだと思います。劇団ノーミーツにはアイデアマンが多くて、各方面に人脈があるので、案件が増え続けているんですよ。 溢れて止まらないのでリソースが足りなくなって、新しい人に手伝ってもらって、そのままメンバーに加わってもらうというのを繰り返し、今は総勢20名以上います。『ONE PIECE』で仲間がどんどん増えていく感じと似ていますね。 ー20名以上のメンバーがいるとのことですが、動画がアップされる頻度が高いことには驚かされます! 休む暇がないですね。みんな心のどこかに「続けることの大切さ」みたいなものがあるんじゃないかな。ノーミーツは時代性を反映していますが、コロナ禍における劇団というイメージが強いと思っていて。「コロナが収まっても活躍していけるか」という焦りはあるんじゃないですかね。 最近はZOOM撮影から離れて、本格的に撮影をすることもあります。ただバズ動画を作っている人たちで終わりたくないんです。 ー今後ノーミーツ2.0、3.0とアップデートしていくんですね。劇団ノーミーツさんの動画を見ると、世間一般的にNGなことを、コミカルに表現されているように感じます。 私も欲求のままに生きている人間なので、「客観的に見たら少し変なところを許してほしい。逆に僕は全部許すから」という気持ちがあるんです。 人の本質を見てあげることが、人生のテーマとしてありますね。「それでいいじゃん。恥ずかしくないよ、みんなそうだから」と、弱さを肯定することが生きがいなので。 ー素敵ですね。最終的にどんな人生を送りたいですか? 好きな人と好きなことだけをして生きていける状態を作りたいですね。バイブスが合う人と同じ方向を向いて、一緒に肩を組んでやりたいことを伸び伸びとやって、そのまま死んでいくのが夢です。 ー岩崎さんの今後のご活躍、劇団ノーミーツの益々の繁栄をお祈りしています!本日はありがとうございました。   取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

YouTubeチャンネル登録者数10万人に至るまで!堀口英剛さんの物事の考え方に迫る

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回は株式会社ドリップCEOとして活躍する傍ら、ご自身のYouTubeチャンネルでも積極的に活動されている堀口英剛さんです。  小さい頃からモノを集めるのが好きだったという根っからのモノ好き堀口さんですが、現在のインフルエンサーとしての活躍に至るまでの経験や考え方について、今回は伺いました。   YouTubeの面白いところは、双方向のやりとりにある ー簡単に自己紹介をお願いします。  堀口英剛と申します。今年30歳になるのでアンダー29ギリギリの歳です。株式会社ドリップという会社を経営しており、私を含めた様々なインフルエンサーさんとモノづくりをしている会社さんを繋ぎ、新しい発想と確かな技術を元にして今までに無かった製品や長く愛されるような製品を皆様に届けるお手伝いをしています。  それと並行して、「monograph」というYouTubeチャンネルを持っており、暮らしに関するお話や新しい電化製品やガジェットなどを紹介しています。自分の好きなものを発信する活動は、大学2年生から続けているので10年ほどやっていますね。初めは、ブログでテキストと写真を組み合わせての発信を始め、去年頃からYouTubeへ移行しました。本業で会社をやりつつ、複業としてYouTubeでの活動をしています。   ーまだYouTubeは始めて2年ほどなのですね。  はい。私の場合、ブログでの発信経験があったので立ち上がりも順調でした。始めてからの伸びが早いのがYouTubeの良いところではないでしょうか。ある程度コンセプトや質がしっかりしていれば、YouTube側が勝手に集客してくれます。コアな層にはブログ時代にアプローチできていたのですが、より広いマス層にYouTubeを通して知ってもらえたと感じています。  ブログでは物撮りが多かったので基本的に顔出しをしていなかったのですが、YouTubeでは顔出しが基本なので、街で声をかけられることが増えました。顔だけでなく声で気づいていただくことも多く、動画だと五感を通してコミュニケーションが取れるので面白いです。   ー他のSNSではなく、YouTubeならではの面白さなどはありますか?  沢山ありますが、双方向のやりとりができるのは面白いです。ブログの頃は読者からの反応を知れる機会は多くはありませんでした。しかしYouTubeではチャンネル登録機能や、コメント機能によって段違いに反応をいただく数が増えたので、それがやりがいに繋がっています。  また、YouTubeの方が分析機能も充実していますね。例えば直近であげた10本の動画のうちどれがどのような層に人気なのか、などを事細かに教えてくれるんです。そしてその分析を踏まえて改善していくと確実に再生数も伸びていくので、ゲーム感覚で楽しめます。   ーどのような比率で本業と複業をおこなっていますか。  本業:複業が、5:5か6:4くらいですね。時間でいうと圧倒的に本業の方が長く働いていて、朝や夜の空き時間にYouTube用の動画撮影や編集などを行なっています。合間の時間にYouTubeをしているような感じです。   自分のペースでも、やることをしっかりとやっていれば結果は自ずとついてくると気付いた学生時代 ー幼少期はどんな子どもでしたか。  思えば、小さい頃から好みの本質は変わっていなくて、物を集めたり何かを作ることが好きでした。小さい頃の夢は発明家でした。昔は機関車トーマスや魚、今は植物を集めてみたりと、その時々で興味のあるものを収集する癖は変わりません。  モノづくりと言っても、かかと部分が無いダイエット効果が期待できるスリッパのような今までにない新しいアイデアの製品を作るのが夢でした。今のお仕事では新しいアイデアを持った人と物を作ることが出来ているので、夢が叶った部分もあります。   ー小学生の頃は、剣道をされていたとか。  はい。剣道は何となくで始めました。当時はとても楽しかったのですが、いま思うと剣道は大人になってからの使い所が無いなと思っています。学生時代に球技などにハマっていたら、もう少しスポーツを続けていくことへのハードルが低かったのかなとも思います。  もちろん、剣道をやっていて良かったなと思うことはあります。剣道は基本的に1対1の個人戦なのですが、決勝へ勝ち進んだときに沢山の人から注目される場面で声を出して緊張に打ち勝ちながら力を発揮して相手を倒すという経験から、人前で何かをしたり話すことへの場慣れが出来たと感じています。チーム競技ではなく個人競技ならでは、周りから注目されることへの耐性が付いた気がします。   ーその力に気付けているということも素敵ですね。そのまま剣道を続けていたのですか?  いえ。高校は男子校に通っていて、チームで何かをやりたいなと思ったので吹奏楽を始めました。当時通っていた高校の吹奏楽部がとてもかっこよく見えたからです。楽器であれば今後の長い人生で続けていけることや、音楽は生活の中にも取り入れることが出来ることなどが選んだ理由にありますね。本当に楽しかったです、まさに青春でした。   ーちょうどこの頃に自分のペースを掴むことを学んだとお伺いしています。  当時通っていた高校が「自主自立」を大事にしていたので、制服も校則もなく、全てが自己責任の学校でした。当時、私は朝にすごく弱かったので昼から登校して、出席しなかった分は自分で勉強して補っていました。その時に、型にハマらずともやることさえしっかりやっていれば結果も出るし、認められることを学びました。おかげで、社会人になってからも自分のペースで仕事や生活が出来ています。   ー周りに流されないようにするコツはありますか。  やることをやっていないと、他のことを心から楽しめていないと気付けるかは重要かもしれません。「あれをやらなきゃ、これをやらなきゃ」と気にしている時間が勿体無いので、気になる前にさっさと終わらせてしまえば、効率も生産性も上がって一石二鳥です。   大切なのは、こなす量と継続すること ーその後、大学へ進学されて、ブログを始められたんですね。始めるきっかけとは、何だったのでしょう。  そうですね。ここが私のターニングポイントだったと思っているのですが、当時の通学時間が片道2時間半ほどありました。初めの頃は当時流行っていたパズドラをずっとやっていてたのですが極めたら飽きてしまって、何か別のことをしようと思いmixiを始めました。そこで映画や漫画の感想などを発信していたら周りから好評で、友人しか見ることが出来なかったmixiよりも、さらに多くの人に見てもらえるようにとブログを開設しました。とにかく時間があったので、多いときは1日で5記事ほど書いた日もありました。当時は大学の授業を受けつつ書いたりと、とにかくハマって書いていました。   ーネタが切れたりなどは、無かったですか。  元々、ネット上の記事を読むのが好きだったので1日に1000記事くらい普通に読んでいて、そうするとその中で1,2記事は確実に面白い記事があります。その面白い記事の紹介もしていたので、ネタが尽きませんでした。   ーそれぞれのスキルはどうやって磨いていったのですか。  一定のレベルまでは量で補っていました。自分の型を決めて目に見えないような1、2%の改善を重ねて少しずつ質を上げていった結果、自分の色が出てきました。これはスポーツも似ていると感じていて、例えば5球しか投げない時よりも100球を投げ続けた方が一定のレベルまで身体も覚えて改善しやすいですよね。  そこからは、続けることです。ブログやYouTubeの数字が跳ねたのは、全て日々努力を続けた結果に過ぎません。   一歩を踏み出す事が成功への近道 ー新卒での就職先はどのように決めたのですか。  2,3社から内定は頂いていましたが、最終的にYahoo! JAPANに入社を決めました。自分の性格と合っていて働きやすそうだと感じたからです。というのも私は、力を注ぐ一つの軸を持ちつつ他のことにも挑戦してみたくなってしまう性格なので、一社に全身全霊は捧げられないと思ったのです。   ーなるほど、当時からパラレルキャリアを意識されていたんですね。  そうですね。最近は複業OKの会社も増えてきていますが、実際は「業務は通常通りやった上で副業をしてね」という場合がほとんどです。例えば週3出勤がOKであったり、15時の退社が認められるなど、一定の自由が認められなければ本質的に副業OKとは言えないと思っています。その点Yahoo! JAPANは当時から副業に対しての理解があり、柔軟さがありました。   ーその後独立をされてますが、なぜ決断されたのですか。  Yahoo!JAPAN!では、新規事業をやるよりも既存事業で成果を出して親会社のソフトバンクに利益を還元する考えが根本にありました。しかし私は新規事業をやりたかったので、当時人事だった伊藤羊一さんに相談したところ独立を勧められ、起業を決めました。   ー一歩を踏み出すのは怖くなかったですか。  恐怖心はなかったですね。もともと好奇心が強いのもありますが、気になるものがあったらまずやってみる、現状維持よりは新しくチャレンジしてみることが成功への近道だと考えています。私の知り合いでも、「YouTubeってどんな感じなの?」と話だけ聞いてくる人と、面白そうだからやってみた人とどちらもいますが、後者の一歩を踏み出せる人の方が圧倒的に成功している印象です。  よく言われることではありますが、まずは一歩を踏み出してみて、そこで分かったことを元に改善していくやり方の方が最終的に成功する確率は高くなりやすいです。この事を実体験ベースで私は知っていたので、起業する事にためらいはありませんでした。   自分の中のポジティブな感情を大切にする ーどのようにして新しいことに挑戦し続ける原動力を生み出していますか。  自分が楽しいと思えることを意図的に集めて、パワーを出しやすい環境を自ら作るようにしています。例えば私自身は、オススメしたものを友達が気に入ってくれた時にとても楽しいと感じます。なので、仕事にもその要素を取り入れるようにしています。  Yahoo!JAPANで営業をしていた時も、取引先の方に「(当時から好きだった)家電やガジェットについてなら何でも答えられます」と毎回言うようにしていました。その結果、取引先の役員の方とドラム式洗濯機を買いに行ったこともあります。(笑)自分が楽しいと思えることを仕事に付け加えていくことで、自ずと力が出しやすくなり結果として仕事もうまくいく好循環が回り始めます。ぜひ皆さんも、自分が楽しいと感じる要素を見つけ、日常に取り入れてみてはいかがですか。   ー最後に、今後目指す姿や未来について教えていただけますか。  これまでは0→1ベースでメディアや会社をつくる経験をしてきたので、次はそれらを1→100に広げていくフェーズに取り組んでいきたいです。   ーありがとうございました!堀口さんのこれからの活躍を期待しています!! 堀口さんのYouTubeチャンネルはこちら👇 取材者:吉永里美(Twitter/note) 執筆者:たるちゃん デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

決断と挑戦を積み重ねてきた「リレーションデザイナー」川口 ゆりの生き方に迫る!

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第211回は、フリーランス広報・ライター・モデルの川口 ゆりさんです。高校1年生の時に空手部で経験した挫折を機に、高校3年生の時にはミス・ユニバース・ジャパン 北海道大会へ応募することになった川口さん。これまで幾度の決断と挑戦をしてきた川口さんに、これまでの人生やそれぞれのターニングポイントで大切にしてきた思いなどを伺いました。   広報ライター、企画・モデルのマルチな生き方だからこそ時間を大切にしたい ーまずは自己紹介をお願いします。 北海道札幌市出身で、2019年6月に札幌から上京しました。現在はフリーランス広報・ライター、企業広告のモデルなど幅広く仕事をしています。元々、学生時代から女性の社会進出や働き方に関心があり、「世界三大ミスコンテスト」と呼ばれるMiss Universe Japanの地方大会の最終やMiss Internationalの日本代表選出大会に出場した経験もあります。 その後、Missの経験を生かしながら、北海道中を駆け巡って様々な自治体に呼んでいただき、講演会を開いていただきながら、新卒で入社した旅行会社では、法人支店で法人・教育・MICE旅行の企画手配や営業サポートのを経験しました。その後、転職先のファッションEC×TECH企業では人事・採用広報・広報PRとして経験を積み、昨年独立をしました。 ー現在はフリーランスの広報・ライター・モデルとして活動されていると思いますが、1日の仕事の流れについて教えてください。 フリーランスとして常に同時並行で様々な企業の広報部門や編集部でお仕事をしていますが、自分で自由に時間を組み立てて業務内容を決めています。人事や広報、イベント企画などのキャリアを活かした仕事もも多いですが、執筆・編集だけではなくモデルとしても担当するPR記事や広告出演など、目的達成の為には自身が表に立つこともあれば黒子として企画サイドに入ることもあります。 また、最近では都内の社会実験のための複合施設で「女将」という肩書で、イベントの企画と渉外調整、広報、接客を担当していました。まだ見ぬ価値を持っている様々な人々や物事を繋げる場所で様々な物事に関わりたいため、時間の使い方を考えながら常に新しい物事に挑戦したい気持ちがあり、マルチでフレキシブルな働き方を模索しています。 好奇心と強いチャレンジ精神は学生時代が原点だった ー過去の話を伺えたらと思うのですが、どんな幼少期を過ごされていましたか。 幼少期は、マイペースで様々なことに興味を持っていました。幼稚園の遠足の時は、みんなでワイワイするよりも、一歩引いた目線で周囲にある建物や人などに関心を持ち、1人だけ先生のところに駆け寄り、色々と質問をすることも多かったです。好奇心旺盛な点は小学生の時も今も変わらないですね。小学4年生の時に両親に買ってもらったコンポではよくFMラジオを聴いていて、小学5年生の時にはラジオ番組にメッセージを送ったりするなど大人びていました。 「自分の知らない世界が世の中には広がっているんだろうな」と見えない未来に想像を働かせることがとにかく楽しみで、小学校で見る目の前の風景よりも、大人になってからの自分の人生の方が楽しみで仕方なかったです。 また、小学生の頃から後輩の面倒を見て気にかけることが得意で、生徒会長をしながら下級生のクラスに手作りの紙芝居の読み聞かせをしにいくなど、誰かの喜びや幸せを真剣に考えていました。自分の好きなことに熱中しありたい姿を追いかけ続けるところはは今の自分に繋がりますね。 ー高校はどういったところを選んだのでしょうか。 実は、高校受験に失敗してしまって、第一希望の高校への進学ではなく全校生徒1300人を超える、日本で最多の甲子園出場を誇る私立高校に進学しました。人が多く集まる学校は、必然的に挑戦できる物事が多いだろうと思ったからです。実際に面白い先生がいる場所で、英語の先生と国語の先生と一緒にバンドを組んで学園祭で演奏することもありましたね。 また、高校1年生の時に空手部に入り、空手の選手を経験しました。しかし、空手部での試合中に足を怪我してしまい、挫折をしてしまいました。最初は空手を続けたいという気持ちがあったものの、休んでいる間にどんどん周りと自分との差がついていく姿からを見て感じ、退部することになってしまって…。 新たに挑戦できるものを探していた時にMiss Universe Japanの存在を知る ーそんな時に今の川口さんを作るきっかけとなった出来事があったそうですが、何に挑戦されたのでしょうか。 高校3年生の時に、Miss Universe Japanの北海道大会に応募しました。空手部を退部した後の1年後の高校2年生の時、スポーツではなく何かに挑戦して成長したいと考えていた際、札幌駅前を歩いているとMiss Universe Japan のポスターをたまたま発見しました。詳しく見ると募集要項の年齢制限が18歳〜27歳とあり、高校3年生になったら応募できると思い、高校2年生の時から本格的にダイエットを始め、18歳になったタイミングで応募しました。 Miss Universe Japanについてはテレビで厳しいトレーニングの様子を拝見したことがあり認識はしていましたが、地方からでも応募できることに驚き、勇気を出しました。コンテストは自分と他者の違いを徹底的に知り戦略的に行動する必要があるため、マイペースになりきれず周りの目を気にして生きてきた自分にとっては良い経験だろうと思い、興味を持ちました。 ー結果はどうだったのでしょうか。 初めてのMiss Universeは北海道大会に出場し、エントリー総数200人から書類審査・一次審査、最終審査を経てファイナリスト8名に選ばれました。日本大会には出場できなかったものの、史上最年少でのTOP8入りでした。ただ、1度コンテストを受けただけでは、やはり自分の思う結果を残せないなと悔しさを抱き、結果発表が行われたステージ上では仲間と抱き合いわんわん泣きました(笑) ー応募してからファイナリストになるまでの間にご自身が変わったなと思うポイントはありますか。 自分の強さも弱さも含めて自分なのだと思えるようになりました。コンテストに応募する前は、他者評価=自信でしたが、ビューティーキャンプというファイナリスト限定の2週間ほどのトレーニングを通して自分とはどういう人で、どんな生き方をしていきたいのかを真剣に見つめる時間を経験しました。その経験を通して、本当の意味で自分を深く知り、自己を肯定できるようになっていきましたね。 ーその後はどうされたのでしょうか。 それでも、Miss Universeでは納得の行く結果ではなかったので、一度だめでも何度でも諦めずに応募する過程で成長を望めるのではと思い、同時に最初から全国大会に進める大会に挑戦したいと思い、Miss Universeと同じ世界三大ミスコンのMiss International 2014 日本代表選出大会に19歳の時に応募しました。 19歳の時に出場したMiss International 2014 日本代表選出大会は結果としては約3000人の応募者の中から最終の22人まで進みました。将来を考えた時に、ミスコン経験者のセカンドキャリアとして予想されるタレントやモデルなど、人前に出る仕事をメインにすることも検討したのですが、画面越しではなく社会の近くにいながら人と関わることが自分らしさだと思い、まずはビジネス領域で幅広く様々な領域に携わりたくて就職活動をすることにしました。それでも本当に表舞台に立ちたかったら、いくらでも社会に出てから挑戦するだろうと自負もありました。 学生時代はモーターショーへの出演やMCを経験していたのですが、仕事自体は面白くてもまずは就職してみたいという思いが強かったですね。 自分らしさを大切にし、納得できる選択をする ー就職活動を通じてどういった企業を選んだのでしょうか。 様々な会社を見ていく中で、一般の方にもそうでない方にも身近な存在でありながらも、仕事を通して関われる業種が多く、グローバルな視点が持てる分野で働きたいと考えていたため、大手の旅行会社に就職しました。 旅行会社では、企業や学校、学会・大会などMICE(Meeting、Incentive tour、Convention・Conference、Exhibition)を担当しました。既存のパッケージ商品を販売する個人旅行向けの業務だけではなく、お客様の要望に沿ってオーダーメイドの旅程を企画し、情報を集めるといった、要望に応えるだけでなくお客様がより満足するための提案をする面白さがありました。 しかし、入社した会社は日本で一番古い旅行会社で、社風が堅く、あらゆる場面で会社の看板を強く意識する必要があり、自分らしく振る舞えないことで、不自由さと葛藤を感じていました。 ー会社にギャップを感じていた中で、どのようにして気持ちを立て直したのでしょうか。 その会社を選び入社をした事実に変わりはないので、自分の捉え方を変えようと思いました。捉え方を1つ変えてみると、大手企業の仕組みを社会人として早い時期に学べたことで、今後の社会ではどんな会社が求められていくのかを考える期間にできると思いました。 当時は「これからのキャリアをどうしようか」と多少の不安もありましたが、3年間会社としてのを考えつつ、自分がより伸ばせる能力に気づいていく社会人3年目までの期間として捉えていたので、後悔はありませんでした。 新卒で入った会社を3年続けるかという点で悩まれる方もいるかと思いますが、私は3年いるのが必ずしも良いとは思っていませんし、自分が違うなと思ったらすぐに会社を辞めてもいいと思います。しかし、まずは自分の決めた道を納得がいくまでやってみてから考えるのでも遅くないですし、そこで仮に「失敗した」と感じたとしても、なぜ失敗したのかきちんと振り返ってから次の判断をするのも一つだと思います。 ーそこからの転職先は以前の会社と全く異なる会社に進んだのでしょうか。 様々なファッションブランドのECサイトをワンストップで行っているIT企業にWantedlyでのスカウトがきっかけで転職しました。 異業種・異職種での仕事でしたが、転職前にセルフコーチングの本を買って、数ヶ月かけて自分にとっての幸せと徹底的に向き合っていたので、会社に出会った時に「この会社なら自分らしく働ける」と確信を持てていたのが大きかったです。自分の中でその道に進むか進まないかを考えた時に不安よりもその先の世界が見たい、壁を乗り越えた先に自分はどうなっているのかに関心があったため踏み出せました。 ー転職先の企業ではどのような仕事をしていましたか。 転職した会社では、最初は人事と採用広報の担当者として札幌の人事部門の立ち上げを担当し、エンジニア、デザイナー、マーケターの採用を担当しました。また、支社が本社化するタイミングと重なり広報にも力を入れる必要があり、人事部門だけではなく広報の仕事も行いました。 未経験から人事や広報として活動するのは最初は心細いこともありましたが、当時の上司の力強い後押しや、人事部門でパラレルキャリアを実践している知人がビジネスパートナーのように壁打ち相手になってくださったり、挑戦したことのない仕事の機会をくださることもあり、仕事とは一人で完結するものではなく、良い意味で周囲に影響を受けながら協力しあうものなのだと感じ、このあたりから周囲との関係性を凄く大事にするようになりました。 次第に、もっと視座を高めて様々な世界をを見ることで今の仕事により活かせるのではないかと思い始め、複業を検討するようになったのですが、当時働いていた会社が複業禁止だったため、当時の上司と相談し、業務委託に切り替えてみないかということで自然と独立をすることになりました。 そこから、上京するまでの半年間は札幌で採用担当と採用広報を行いながら、東京に通いながらフリーの仕事を受注していくようになりました。「なぜ独立したのか」と周りによく聞かれますが、当時の会社の仕事に従事しながら自分が大切にしたい部分を叶えていくための一つの手段でしかなかったため、最初から独立することが目的ではありませんでした。 人との関わりと関係性を大切にしながら、社会に温かな循環を生み出す象徴的な存在でありたい ー広報とライターを中心とした独立を選んだのは、なぜだったのでしょうか。 旅行会社の法人支店での企画手配や人事職など、目の前にいる人と本気で向き合う仕事を一貫して続けてきたのですが、組織や事業の可能性以上に人が大好きなことに気がつき、目の前の人の良さをより多くの人に知ってもらいたいという気持ちを大事にしながら働きたいと感じたためです。 そのような純粋な内発的動機や組織内の関係性を丁寧に表現したいと考えた時に、企業の人事・広報PR視点を持てる仕事も一つだと思ったのです。 ー実際に独立をして、いかがでしたか? 実は、独立をして仕事を一から作らなくてはならないタイミングと同時期に婚約を機に上京を経験したので、最初はそのような状況下で仕事が来るのか少し不安でした。しかし、会社員時代からTwitterやnoteで顔と名前を出して発信を続けていたため、独立の機会に一緒に仕事がしたいと言ってくださる企業に恵まれたり、ひょんな出会いから自分が経験したことのなかったウエディング業界などの職種に関われるなど、一気に世界が広がりました。会社や何にも縛られず、学生時代からの経験を全て生かして仕事ができることを知り、人生には無駄なことなどないのだと感じましたね。 今は、人事経験を生かしてHR領域のライターをしながらも「関係性」という軸でウエディング業界を中心としたライターやと企業広告の商品着用モデルなど、幅広く経験しています。2020年にはBOOKOFFの新サービス「すてるより、すてき。」のイメージモデルにもなりました。 表舞台も裏方も含めて、その時々に合わせて自分が生かせるスキルを生かしながらも知見を深め成長していきたいと考えているため、何をやるかは特にこだわりはありません。自分自身がどうありたいか、という視点でいたいですね。 ー独立をして、大変なことはありますか? 案件ごとのチーム関係も多く、仕事が終わる寂しさを感じることはありますね。また最近では、コミュニティマネージャーに近い「女将」という存在として、場所を持って人と関わる経験をしましたが、場所や時間に縛られても、誰かが毎日会いにきてくださる幸せを感じたので「自分はこういう働き方ではなければならない」という思いこみの枠を外し、様々な働き方を経験しながら幸せを追求したいですね。 ー川口さんが目指す今後の生き方について教えてください。 関係性を大事にする人がその場所にいることで生まれる価値を追求していきたいですし、まず自分自身がそのような存在でありたいと考えています。誰かを愛することで誰かからも愛され、愛されることで誰かを愛せるといった好循環を作っていきたいと常に考えていて、「愛するために、愛される。愛されるために、愛する」という個人理念を元に生きていきたいですね。10代の頃から挑戦と決断を大事にして生きてきたので、事業や自分の成長をスピード感を持って追いかけていくことも喜びではありますが、それだけが人生ではないとも考えています。 その場に関わる人々が安心して働ける環境を作ることや、自分も他者も肯定できる空間や関係性を強く守りきることも自分にとっては等しく大事なことで、周囲を大事にすることなくして会社の成長を追いかける必要はあるのかとも常に問い続けながら生きています。 ー最後に、同世代へのメッセージをお願いします。 世の中には様々な人がいて、生きる上での価値観は多様にあり、日々多くの情報が溢れていますが、その中で自分らしさを作る鍵とは、世の中の動きがどのような視点で常に動くかではなく、どんな時も自分の頭で考えて、胸の中にある本当の気持ちにいかに誠実に向き合いながら社会を見つめることではないかと思います。そこに誠実であれば、たとえ過去には考えもしなかった新たなキャリアを拓くとしても、振り返ったときに「あの決断で良かった」と肯定できると思うので、日々過ごしている中で自分がどういった時にで幸せを感じるのかを丁寧に受け止め、大事にし続けたいですね。 ー川口さんのお話を通じて、自分が何に幸せを感じるのかを切り口にどんな生き方をしていきたいのか、どうありたいのかを考えるきっかけになりそうですね。今後のご活躍を応援しています! 取材者:あおきくみこ(note/Twitter) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

お菓子を作る人が、幸せに働ける業界づくりを目指す。飲食業界に新たな風を吹かせる林巨樹の挑戦

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第222回は株式会社Bross代表の林巨樹さんをゲストとしてお迎えしました。 幼少期からの夢であるパティシエの夢を叶え、さらに飲食業界の働き方に変化をもたらすべく幅広く活躍されている林さん。その原点は何なのか、どのような道を歩んでパティシエになったのかなど、林さんの人生のこれまでや飲食業界への思いなどをうかがいました。 飲食業界の働き方に切り込む新気鋭 ー簡単な自己紹介をお願いします。 株式会社Brossの林巨樹です。僕はパティシエとして、お菓子を作る仕事をしています。その中で感じた課題をどうにか解決できないかなと思いながら、これまで様々なアクションを起こしてきました。2020年10月に会社を設立して、新しい働き方の提案や、飲食のプロのステージ作りなどをやっていく事業を進めています。よろしくお願いします。 ー具体的な活動内容や日々どのような働き方をしているのか教えてください。 1年半くらい前までは、東京のトップクラスのパティスリーで、パティシエとして働いていました。そこを辞めてから1週間後には自分でデザートバーを始めました。お客様に今ベストなスイーツを提供して、アルコールドリンクをペアリングでつけるというものを、お休みのレストランや使ってない時間帯のバーを間借りして、やっていました。 プロのパティシエとしてある程度スキルを持っていても、経営や人を雇う、育てる経験を持っていなかったので、お店を運営することには非常に難しさを感じました。料理人がなかなか経営できなかったりとか、お店がうまく回っていなかったりするのは、職人であるが故にどうしても経営の勉強を疎かにしてしまうからなのではないか、と考えるようになりました。 ちょうどその頃、元メルカリでメルペイの取締役を務められていた松本龍祐さんが、カンカクという会社を起こし、ITや最新テクノロジーで飲食店を作っていくというお話を聞き、僕は飲食周りのサポート担当として関わらせていただくことになりました。KITASANDO COFFEEという完全キャッシュレスのコーヒースタンドの立ち上げを行ったり、TAILORED CAFEというモバイルオーダーでアプリから事前に注文をしてコーヒーを買いに行くものや、サブスプリクションでコーヒーサービスを行うといった飲食にITが入ってくるような部分をサポートするお仕事をしていました。 テクノロジーが入ると、飲食の働き方って変わるんです。お金を使わないと衛生的な作業ができますし、レジでお客さんにメニューをお渡しして、注文を受けて、スタッフに伝えて、作ってもらってという数分間に渡るオペレーションコストも下げられるので、カフェで働く人はラテを入れるとか、バリスタをするとか、パフォーマンスに注力できて、やりがいに特化した仕事に就いてもらうことができるんですよね。 この経験を経て、ITで飲食業界の働き方は変えられるんだという確信を持ちました。ITを導入して、もっと料理人やパティシエためのサービスを作れるんじゃないかと思い、僕が総合的に勉強してきた部分を活かしながら新しい会社を立ち上げて進めています。 マカロンをきっかけにパティシエを志す ー1番最初のターニングポイントである、10歳の時のできごとについて教えてください。 今から15年前の話で、ターニングポイントというか、ここからはじまったという感じです。マカロンは今じゃみんなが好きなお菓子ですが、当時はブームがぼちぼち始まってきたという時期でした。それ以前からマカロンを売るお店はありましたが、国民的には「マカロンって何?」という人の方が多かったです。 10歳の時、羽田空港に行って、マカロンをお土産に買ってもらって食べました。200円もする高価なものでしたが、子どもの口でも一口で収まっちゃうくらいの小さなお菓子にとてつもない幸せを感じました。変な話、子どもって300円渡されて、お菓子を買ってくるというような金銭感覚で1,000円札をもらうことなんてないじゃないですか。 僕の中では300円でうまい棒を30本買うとコスパがいいと思っていました。なので、お菓子の価値というのはうまい棒で換算されていて、200円のマカロン1つがうまい棒20本分に勝った瞬間だったんですね。うまい棒20本20種類を楽しむよりもマカロン一口の方が圧倒的に幸せでした。 これが衝撃を受けた瞬間で、その年のバレンタインデーにマカロンを作りたいなと思い、本屋さんを探し回って、やっと見つけたレシピでマカロンを作ってみました。もちろん味見をしながら作れるので、完成した時には半分くらい食べてしまって、60個できるはずが30個くらいになっていました。(笑)そこで作る楽しさとワクワクと自分が食べてハッピーになるという体験を経ました。 残りの30個は配ることにしたのですが、小学校の同級生はマカロンが何かわからないんですよ。食べてもらうと、僕とまったく同じ「何これー!」という嬉しそうな反応をしてくれました。さらに、親御さんたちはマカロンを知っているけど、食べたことはなかった。「こんなものを小学生が作れちゃうんだすごい!」みたいな反応をもらい、黄色い声援のようなものが聞こえてくるのが僕にとってはすっごい楽しい瞬間でした。 これを仕事にしたら楽しいのではないかと考えるようになりました。しかし、ケーキ屋さんといえば女の子がなりたい職業ランキングベスト3に入ってくるようなものですよね。だから、女性がやる仕事だと思っていました。ただ、「パティシエ」って調べてみると男性しか出てきません。有名な方はみんな男性で、男の人も仕事にしていいということを知りました。 さらにマカロンに関わるパティシエを調べると、ピエールエルメという人が出てきます。彼はマカロンをカラフルに彩り、パティシエ界のピカソと呼ばれるようになったすごいパティシエです。彼の存在を知り、これはパティシエになる以外選択肢はないなとその時に決めました。 父親の理解を得られずとも、自分の気持ちは曲げなかった ー15歳のときにモチベーションが下がっていったということですが、詳しく教えてください。 今でこそエネルギーに変換できているんですけれども、この時間が一番辛い時間でしたでした。15歳の時の話です。 フランスには修行制度があり、14歳からパティシエを目指して修行をすることができます。フランスにはもうパティシエの道を進み始めている子たちがいるというのに、中学2年生の僕は、進路を決めている段階です。 前述のマカロンのピエールエルメが僕にとって大きい存在となっていましたが、ピエールエルメは14歳の時点で実家のパン屋さんで、修行を始めているんですよ。もともと実家がパン屋でハンデも大きいですし、アルザス地方というフランスのクラシックで非常に美味しい伝統菓子が溢れているエリアでキャリアをスタートされています。14歳で恵まれたスタートを切り、10代後半にはパリに移って歴史を塗り替えていく人をお手本にしていたので、僕は中学卒業の段階ですでに遅れをとっているパティシエキャリアを、いかに早くはじめるかということしか考えていませんでした。 しかし、日本では中学を卒業してから働ける場所はなく、高校卒業もしくは専門学校を出てから就職するという流れが一般的だったので、どう頑張ってもしばらくは学生をするしかないことが明らかになり、どうしようかと思っていました。 その頃、地元に調理国際科ある公立高校があることを知りました。お菓子の分野ではありませんが、幅広い食材知識や、製法や調理の技術を学び、調理師免許を早めに取るため、生き急ぐように必死に入学に漕ぎ着けました。いざ、ここから調理の道を歩むぞというタイミングで家庭内の大騒動が起きました。 父親は厳しい人間で古典的な考えをする人だったので、長男が台所に立つことを望ましく思っていなかったんですね。僕は、これからは大学を出ることが必須ではないし、景気が悪くなってもスキルを持っていることが力になるのではないかという考えを持っていたので、調理国際科に進む際には納得してもらうために話をし続けました。ようやく許可もらって通えたわけですが、父親からするとあまり面白くはなかったと思います。それなりのキャリアを積んできた父親だったので、社会的地位が低く、お給料ももらえなくて、休みも少ないイメージのパティシエという道に父親は魅力を感じてなかったようです。 高校生になって、体も大きくなって、父親と対等に戦えるようになってしまったタイミングで、バチバチぶつかり、その流れで父親が出ていく形で、事実上の離婚。家庭が崩壊しました。経済的に厳しくなる一方ですし、高校出た後に専門学校に行けるのか、フランスに修行に行けるのか不安なっていきました。 ケーキ屋さんに頭下げて「バイトさせてください」とお願いしたりもしていました。高校生だったので掃除ばかりしていましたが、モチベーションに変えて、自分の気持ちを曲げずに、どうにかしてパティシエはやるんだっていうことを意識して生活していた高校生でした。 ーいざ洋菓子の世界へ!ということですが、高校を卒業されたあとに進まれるんですよね? 高校を卒業して、調理師免許を取得しましたが、お菓子の勉強は高校ではしていなかったので、お菓子のプロになるのであれば、製菓の教育機関を出るべきだなと思い、世界の辻とも呼ばれる世界3大料理学校のひとつである辻調グループの学校に入学しました。 本来専門学校って2年通って、座学をたくさん受けて、資格を取れる場所が専門学校なのですが、僕は早くパティシエになりたかったので、1年間の座学が少ないコースをあえて選びました。学歴としては専門学校を卒業ではなく、高卒です。しかし、パティシエのキャリアにおいて大学や専門学校の卒業はいらないかなと思っていたので1年でも早くパティシエのキャリアを始めないと、ピエールエルメが先にいっちゃうという焦りがありました。 高校での座学の知識があったので、専門学校では実習とお菓子の勉強、フランス語の勉強を1年間でさせてもらいました。高校まではお菓子が好きな男の子はいなかったんですけど、専門学校に行くと同じ志を持ったまさに同士がわんさかいて、毎日楽しいと思える幸せな時間でした。 専門学校を1年で卒業したあとは、そのまま辻調グループの東京校で講師として働きました。その後、19歳後半はフランスで勉強をして、ピエールエルメが生まれたアルザス地方で1年間働きました。彼はここで美味しい食材と収穫したての小麦で作る小麦粉からできたお菓子やパンを食べて育ち、作っていたということなので、同じ食材に触れることで少しでも彼に近づけたかと思います。その後、日本に帰国しました。 人を幸せにするためのケーキを作る人が、幸せじゃない状態 ーフランスから帰ってきて、どのような生活を送られたんですか? フランスから帰国後は、東京の日本橋にあるオクシタニアルというケーキ屋さんで働きました。この時に国内コンクールでトップになり決勝にいかせていただきました。コンクール自体は30代前半の方が次のシェフになるセカンドシェフから自分のお店を持つまでのキャリアを作るために出てくる大会だったので、パティシエとしての総仕上げのような大会なのですが、この大きな大会に20代前半が出てくることが珍しく、社会人の卵のような若造が同じ表彰台に乗ってしまい、チヤホヤされる時もありました。しかし、僕の皮肉な発想では、逆に今22歳の僕枯らしたら10年、20年修行したとしても若造に勝てないんだと感じました。 洗い物や雑用をさせられて10年経って、若者に負けてしまうのであれば、コンクールで優勝してキャリアを作ることが本質的に間違っているんじゃないかなと思いました。10年修行するのが当たり前という価値観ですら、正しいものではないんじゃないかとさえ思うようになりました。頑張ってチャンピオンになって優勝してお店出すとなっても経営が勉強できてなくて、人を育てた経験がないような人が組織を作れることもなく、お店は壊れていく。世界大会で勝ち抜いているレジェンドの方々がお店を出しても、2、3年で潰してしまうケースは平気であります。 また、若手がやりがいを求めて、華やかな仕事が待っていると思ってこの世界に飛び込んできても現実にぶち当たってしまい、うまくいかないということもよく聞きます。 人を幸せにするための嗜好品であるお菓子やケーキを作っているのに、作っている人が組織によって幸せではない状態は僕としては認めたくない現状でした。 そんな頃、若者の料理人やパティシエを集めたコミュニティを運営していたんですが、そこにベースフードという会社の代表の橋本舜さんが来てくださいました。当時ベースフードは完全栄養を含んだパスタを開発していました。僕もサプリメントなどを摂りますが、主食に栄養素を含ませようなんて発想を1ミリも持ったことがありませんでした。ペペロンチーノにしてもカルボナーラにしても、例えば嫌いな食材があるならそれを抜いたとしても、栄養素が全部取れてしまう。これは社会的意義があることだと思いました。例えば、少食な人や好き嫌いがある人や子どもたちにもさりげなく食べてもらえる主食に栄養素が含まれているので、たくさんの人を健康にすることができます。 その後、ベースフードとしてパンを作りたいというお話を聞きました。しかし、パンにすると膨らまないんだという相談を受けて、開発に携わることになりました。橋本さんは元DeNAの新規事業を進めていた方なので、いわゆるIT企業としての仕事の進め方、速度感を持っています。僕が開発に入って3ヶ月後には完全栄養パンを作り上げて、リリースするというスケジュールが組まれていて、こんなスピードでやったことないぞと思いつつ、どうにかパンを膨らませて商品開発を進めました。 パンとパスタは製法が似ていますが、パンは8000年も歴史がある古い主食です。8000年あって誰もここに栄養素を混ぜようと考える人はいませんでした。心のどこかで僕には絶対できないと思っている節もありましたが、奇跡的にできてしまったので、本当にすごいことをやったなという感覚です。 1ヶ月でたくさんの数のパンが出荷され、たくさんの人の健康を、僕のスキルが支えたんだと思うと、非常にやりがいがあるプロジェクトでした。ショートケーキを1日に5台、6台作ったとしても、1ヶ月間には150台程度しか作れませんが、パティシエのスキルによってたくさんの人の健康に貢献することもできると考えたら、働き方はやはり変えていく必要があると、心が決まりました。 そのタイミングでオクシタニアルを辞め、自分でデザートバーを始め、食のイノベーションに携わるようなフリーランスの仕事をするようになりました。そこから繋がりに繋がって、カンカクに携わることになりました。 シェフが料理を作ることに注力できる新しい働き方を提案 ー今面白そうだと思っていること、これからチャレンジしていきたいことはありますか? 会社を起こしたタイミングなので、いろんな妄想が膨らんでいます。本当は3年後に作りたいと思っていたモデルがあります。これが、シェフはシェフとして料理を作るだけのパフォーマンスをすればいいという新しい働き方の提案です。 例えば港区にあるビストロだったら、最低でも3人が働かないとお店は回りません。料理人であるシェフと、サービスマンであるソムリエ、レジ係や雑用をするウェイターの3人なんですが、仕事を分解していくとお金を受け取るレジ係や日中にかかってくる予約の電話対応など、手をあけておいて営業が回るようにする仕事、食事を提供したり、メニューを伺うのサービスマンの仕事、そして料理を作る仕事。3つの仕事が存在するのですが、もしもキャッシュレスで事前に予約をして決済まで済ませられれば、レジ係も電話係もサービスマンも必要ありません。 仮にカウンターが20席ほどで、シェフ1人で見渡せる範囲内であれば、シェフが予約に合わせて事前に仕込みをしておいて、目の前のお客様に料理をお出しするだけというモデルができるかもしれません。目の前でシェフが作ってくれるスタイルでも、料理に関する説明をしながらパフォーマンスができるので、非常に楽しいエンターテイメントに変えられると思います。 人件費は3分の1に安くなりますし、1日8時間しか働けないので、24時間ある1日を3分割すれば、1つの店舗で3つのお店をやれる可能性もあります。すると、場所代人件費に関しては普通の飲食店の9分の1のコストでステージを作れます。それ以外にかかるコストである、システムの運用や事務作業、マーケティング、ブランディング、SNS運用などは本部が巻き取れると初期投資がかなり安いステージ作りができますよね。つまり、シェフの方の個性、磨き上げたスキルを披露する場所作りができるのです。 これを3年後に作ろうと計画していましたが、コロナの影響で対面のパフォーマンスは現状リスクが高いので、一旦は形を変えて、パティシエがオンラインショップを作るためのステージを作りたいと考えています。 ー大会などで若手ながら活躍し、他の人よりはキャリアが浅い中で勝ってきた理由やポイントは何だったのでしょうか? 僕個人より優れている人はいっぱいいると思っているのですが、僕が唯一持っている強みは、体力と努力なのかなと思っています。パティシエの大会は必ずって言っていいほど、飴細工の種目があります。この飴細工は浅草にあるような棒状につけた飴細工とは違って、手で100度以上の高温の飴を触って細工をしていくのですが、つまりは根性焼きをずっとしている状態なんです。なので、はじめは手の皮膚の皮を分厚くするために手を焼く作業から始めるんです。何でこれがパティシエの必要なスキルなんだって思いますが、僕は家庭が厳しい環境だったこともあり、父親の暴苦に耐えてきた根性があるので、正直全然怖くもないし、熱くも感じないんです。楽しい時間の痛みは少しも苦しいと思っていなかったので、仕事終わりから次の日の仕事がはじまるまでずっと飴細工の練習をし続けられます。 また、物事を客観的に捉えて、本質的に理解しなおしたり、構築しなおしたりすることが好きです。分析化できたっていうのもあって、今あるお菓子の最先端のスキルからさらに無駄を省いて新しいものを作り出すことも得意なのかもしれないです。 ー今後のビジョンやここから成し遂げていきたいことは何ですか? 飲食の働き方を変えていきたいです。まさに時代は変わり始めたと思っていて、ハッピーな人がハッピーなものを作って人をハッピーにしていかないと、料理や場所、空間を本質的に楽しめないと思います。このままでは東京の美味しいものを作っていく人たちが潰れていてしまって、最終的にはどこも同じ味とか、コンビニの味になっていくのかもしれません。飲食のプロに新しい働き方の新しい提案をするのと同時に、東京の食文化を守る、継承するということをハッピークリエイターとして、ハッピーを作る目線からやっていきたいと思っています。頑張ります! 取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:大野雛子(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

25歳で年収1000万!バーバーショップオーナー・吉田奈津樹がたどり着いた本当のシアワセとは?

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第241回目のゲストは、PARK BUILDER株式会社CEOの吉田奈津樹(よしだなつき)さんです。 現在5店舗の理容室を経営しながら自らもオーナースタイリストとして現場に立ち続ける吉田さんは、専門学生時代から数々のコンテストでタイトルを取り続けるコンステスターでした。独立後は、確かな技術力とテックの力を生かした店舗経営で理髪店事業のみで年商1億円を達成します。 そんな吉田さんの20代前半はまさに苦悩の日々だったとか。サロンワークにとどまらずコンサルタントやバーバーYouTuberとして活躍する吉田さんの今までの人生に迫ります。 なんとなくで入った理美容の道 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 現在29歳で、理容室の経営やそれに付随する仕事をしています。 24歳のときに人生で初めて独立起業し、理容室を立ち上げました。そこから派生して様々なお仕事をいただくようになり、今はお店で髪を切っているのは週2、3日くらいです。 ー高校3年生で理美容の道へ進むことを決めたようですが、それまでの経緯を教えてください。 受験が近付いてきて進路を考えたときに、そもそも世の中の仕事をほとんど知らなくて。その段階でなりたいものを探して進路を決めろと言われても僕はピンと来なかったんですよね。 特に何かやりたいことも無かったので、何をやりたくないのかを考えて消去法で仕事を削っていきました。 元々勉強が好きではなく、成績も良くなかったので、デスクワークは無しだと思い、世の中の仕事の大半は無理だなと思ったんです。 そのときに自分の唯一好きだったことは何だろうと振り返りました。 高校時代の頭髪検査で、直前に校則違反を回避するために友達から「なんとかセットかカットで誤魔化してよ!」と言われることが多かったんです。 頭髪検査のとき以外にも、髪の毛を切ってほしいと言ってくる友達もいて。自己流だったのですが、皆喜んでくれたんですよね。これを仕事にしたら人も喜んでくれるし、自分も楽しめると思って、理美容の専門学校を選択しました。 ー最初は強い意志があったわけではなかったのですね。 今でこそそんなことないのですが、高校時代は自分に自信が無かったんです。 何をやっても1位になれず、頑張っても報われないなら頑張るのをやめようと考えるタイプで。 とりあえずその場が楽しかったら良いやという人生の選択をしていたんです。進路も何をやりたくないか、どうなりたくないかという消去法だけで選んでいましたね。 ー進学先の学校はどのようにして選んだのですか? 僕は地元が福井なんですが、福井にも理美容師の資格が取れる学校はあったんです。 でも、どうせ勉強するなら一流の学校でしたいと思い、日本で一番厳しくて、一番国家試験の合格率が高い学校である大阪の高津理容美容専門学校を選びました。その当時学生の技術大会のほとんどの部門で全国1位を取っていたのがこの学校だったんです。 栄光の学生時代と苦悩の社会人生活 ー専門学校に入ってからはどのような日々を過ごしていたのでしょうか? 専門学校の男子寮に入っていたのですが、朝起きてから寝るまでずっと同じ空間で友達と生活していました。 皆ととても仲良くなったのですが、テスト期間に遊びに誘われても僕は断って練習したりしていましたね。それでテストで1位を取っていたので、嫌な奴だったと思います(笑) それでも、そんな僕のことを皆分かっていて、とがめられることもなかったです。後々「お前こっそり練習してたもんな」と言われました(笑) 皆わざわざ地方から出てきているので、努力することを馬鹿にする人はあまりいなくて。そのような恵まれた環境だったからこそ頑張れたのだと思います。 ーコンテストでも賞を取りまくっていたそうですね! 「出るからには賞を取らないと意味がない」と思って練習していたので、審査員の好みを分析して戦略的に賞を取りにいっていました。 賞を取るためにはやみくもに練習するだけじゃダメだと思っていて。効率化して最短距離でトロフィーを取ることを常々考えていました。 ー卒業後、就職するお店はどのような軸で決めたのでしょうか? 日本の中心、東京で挑戦したいと思い、東京のすごい勢いで成長しているお店に入りました。 勢いがあって店舗展開も多数しているITベンチャーのようなお店でしたね。 学生時代はコンテストで賞を取りまくるコンテスターだったのですが、就職してからの目標はコンテストで優勝することではないと考え、あえてコンテストばかりやるお店は選ばなかったんです。 ー就職してからは苦労の日々だったようですが、この当時はどのようにして過ごしていましたか? 僕の入ったお店はITベンチャーのような雰囲気だったので、タイムカードがなくて。上司も部下の労働時間を把握していないんですよね。だから定額払ったら労働者を使い放題で、拘束時間がとても長かったんです。 当時の社長から「自分の給料を時給換算するのはやめろ」と言われていました。100円とかとんでもない金額になりますから(笑) でも、無茶をして頑張った過去があるからこそ、今普通の人からしたら無茶に見えることでも普通にできるので、マイナスな経験だったとは思わないですけどね。 ーこのがむしゃらに働く中で、すでに独立は決められていたんですよね? 日々のブラックな環境の着地点はどこなんだろうと思えてきて。合理的な僕からしたら、ただやみくもに毎日働くだけの日々が苦しくなってきたんです。 「誰よりも早く独立して誰よりも早くお金持ちになってやろう」というのがそのときのモチベーションでした。そんな気持ちで1年目から過ごして、独立のために1年目の初月から貯金をしていましたね。 ーそこからさらにどん底の日々が訪れたようですが、何があったのでしょうか? 僕は先輩や上司よりも業績が良かったので、新店舗の店長に社会人2年目で選ばれました。 そこで、僕自身が努力をして結果も出していたので、同じレベルを周りのスタッフや部下にも求めてしまったんですよね。 本当にマネージメントスキルのない店長だったんです。部下に対して「やる気ないなら帰れば」とか言ってしまったりして。もちろん付いてきてくれる人もいましたが、部下やスタッフからはかなり嫌われてしまいましたね。 人間関係が上手くいかないと、色々なことが上手くいかなくなって。自分でも知らないうちにストレスがたまり、どんどん体調が悪くなりました。 お客さんと接するのが好きだったのですが、人と接することが苦しくなっていったんです。当時は、「独立して誰よりも成功したい」という気持ちと、「もう二度と人と関わらなくて済む仕事に転職したい」という気持ちが同時にありましたね。 ーそれから1年後くらいには復活したようですが、どのようにして立ち上がったのですか? 元々負けず嫌いな性格なので、このままのたれ死んでいくのも違うなと思いはじめました。 20代のうちに独立しようと思っていたのですが、このような状況なので一刻も早く独立して一刻も早く結果を出そうという気持ちが強くなっていったんです。 とりあえず始めてみて、ダメだったら改善しながら区切りを決めて続けるかやめるかを決めれば良いと思い、半ば勢いで独立することにしました! 年収1000万円を達成して見えた世界 ー独立して自分のお店を構えてからは、順調でしたか? 最初はびっくりするほどお客さんが来ませんでした。 予約表が空っぽで、1日お客さんが来ないまま営業時間を終えてチラシ配りをしに行く日もありましたね。 美容業界では、元々自分のいたお店の顧客情報を持ち出してお客さんに営業をかけるパターンがとても多いんです。でも、それで出店して上手くいっても嬉しくないなと思って、僕は顧客情報を持ち出しませんでした。 オープン初月の僕の給料はたった3万円。固定費がかさんで通帳の残高がどんどん減っていくのを見て焦りましたね。 でも、今思えば人間関係のストレスとお金がなくなっていくストレスを比べると、お金の方は自己破産してアルバイトなどで働けばいい話なので、店長時代に人間関係で思い悩んでいたときよりは頭を抱えていなかったように思います。 ーそれからはすぐに結果が出たのでしょうか? そうですね。HPなどを整え終わったのがオープンと同時くらいだったので、3ヶ月後ぐらいにやっと結果が出始めたんです。 オープンしてから3ヶ月後ぐらいには1ヶ月先まで予約が取れないお店になりました! ー25歳で念願の年収1000万円を達成されたそうですね!その当時はどのようなことを感じましたか? 年収1000万円は1つの指標だと思うんです。 経営者は自分が一番上になるので、自分のことを認めてくれる人がいないんですよね。唯一自分のことを認めてくれるのが数値的な指標で、年収1000万円を達成したときに、「俺ってちゃんと頑張ったんだな」と思えて嬉しかったですね。 一方で、ずっと目標にしていたことではあったのですが、お金の無かった20代前半の頃に比べて何倍も幸せかと聞かれるとそこは疑問でした。 最初に達成したときは馬鹿みたいにお金を使っていたのですが、意外とコスパが悪いことに気付いて。月に何十万と買い物をしても、それに対する人生の幸福度はそれほど高くないという感覚に陥りました。 ーでは、そんな吉田さんにとって人生の幸福度を上げるものは何なのでしょうか? 「やっぱり人ですよね。」 誰かと一緒に何かをやって結果が出て、それを喜び合える瞬間が一番幸せです。 うちのスタッフにも「吉田さんの元で働いて良かった」と言ってもらいたいと常々思っています。 お金のないBBQでも良いですが、信頼し合える人間関係の輪の中で何かをやっているとき、人生の幸福度は最も高いと実感しています。 「命あるものからしか人は幸せを感じられない」という言葉がありますが、本当にその通りだなと感じます。動物とか人間とかから得られる幸せの方が持続するんですよね。 ー吉田さんの今後のビジョンを教えてください! 自分の年収や資産を増やすことは、とりあえず考えていません。 今後はうちの会社の年商を30代で10億円までもっていくのが目標ですね。 年商は個人ではなく、会社としてどれだけ結果を残したのかということなので、従業員と共に達成していきたいです。 僕は常々「突き抜けたい」と思っています。30代の土俵には、とてつもなくすごい人たちがたくさんいますが、ヘアサロンの事業だけで年商10億円を達成している人はなかなかいないので、達成できれば突き抜けられるかなと。 それ以外では、僕と接している周りにいる人たちに幸せになってほしいです。「みんなでやってきて良かった」と言い合いながら年商10億円を達成できれば30代をハッピーに生きられると思います! ー本日はありがとうございました!吉田さんの今後のさらなる活躍を期待しています! *店舗公式サイト* PARKBUILDER KINGSMAN TOKYO BARBERSHOP 公式 KINGSMAN TOKYO BARBERSHOP 多摩センター本店 KINGSMAN TOKYO BARBERSHOP 多摩センター2号店 KINGSMAN TOKYO BARBERSHOP 立川店 FREEDOM BARBER&Co. KINGSMAN TOKYO ONLINESHOP BUDDY MOTORS 取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:五十嵐美穂(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

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