本田圭佑氏に「サッカークラブを作りたい」とDMして人生が変わった。Edo All United運営責任者・奥山大の熱い挑戦

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第175回目のゲストは、全員参加型のサッカークラブEdo All Unitedで運営責任者を担当している奥山大さんです。 大学時代に慶應義塾大学の体育会ソッカー部でマネージャーを務めるほか、一般社団法人ユニサカを立ち上げて代表理事として活動するなど、サッカーに人生を注げてきた奥山さん。その行動力の裏側にはどのような思いがあるのか、お話を伺いました。 「サッカークラブを作りたいです」の一声が人生を変えた ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 奥山大です。先日、慶應義塾大学を卒業しました。現在は、本田圭佑さんが発起人を務めるEdo All Unitedという全員参加型サッカークラブで運営責任者をしており、東京都4部リーグ(J10)から活動をスタートさせています。 ー運営責任者をしているんですね、すごい…。どのようなきかっけでEdo All Unitedに出会ったのですか? 本田圭佑さんにTwitterでDMをしたことがきっかけです。昨年12月に、本田さんが「お金を払ってでも、サッカーを学びたい人はいないか」とTwitterで発信しており、しばらくの間、DMを開放していたんです。そのタイミングで「僕、サッカークラブを作りたいです」とDMを送りました。 (↑実際のDM) 1,500件ぐらいDMが届いたらしいのですが、無事返信をいただいて「直接会いましょう」と言われました。じつは本田さんもクラブを作る構想があったらしく、結果的に「一緒にやりましょう」という流れになったんです。そして、その2週間後にはEdo All Unitedを立ち上げることになりました。 ーすごい行動力ですね! 「クラブチームを作りたい」という思いはいつごろから描いていたのですか? 本当に最近で、大学3,4年生になってからです。小さいころから漠然と「自分が夢中になれるサッカーで勝負したい」という思いがありました。また、今までリーダーになる機会が多かったので、コミュニティ作りにも興味があったんです。なので、サッカークラブを作るべきなのではないかと思いました。 ーそう考えると激動の1年ですね。この短期間でどのような動きをしたのですか? 本当に0からのスタートだったので、チーム登録から始めました。2020年1月に登録をして、そこから選手をトライアウトで集めて、という流れです。あとは、全員参加型を掲げているので、活動の基盤となるオンラインサロンを2月に立ち上げてから練習をスタートさせました。 ークラブチームを立ち上げるにあたって、オンラインサロンをやるのは珍しい取り組みですよね。どのような経緯でアイディアが出たんですか? サッカークラブでは「現場」「経営」「ファン」の大きく分けて3者が存在していて、一致団結することが理想です。しかし既存のクラブのなかで、この3者が本当の意味で1つになっている例をあまり見たことがありません。 実際、Jリーグが地域密着を掲げていながらも、東京にいるサッカー少年もヴィッセル神戸のイニエスタ選手のユニフォームを着てサッカーをしていますよね? そこに課題意識を持ったので、全員がクラブのオーナーになれば一致団結するのではないかと思い、世界中にリーチできるオンラインサロンを主軸とした全員参加型のクラブを作りました。 ーなるほど、そうだったんですね。実際に運営をしてみて、全員参加型ならではの難しさはありますか? すごく難しいですよ。僕たちのサロンでは「みんなで一緒に作る」ということだけを決めているので、あとは各々でやってくださいというスタンスです。月に1万円、もしくは5万円を払いながらも、SNSを運用したりとか、写真を撮りに来るなど、お金を払って仕事をしてもらうことになります。 なので、こちらから「これをやってください」とか、そういうトップダウンな関係性だと上手く回りません。ただ、その一方で、ある程度のスピード感を持って事業を進めていく必要があるので、その点は本当に難しいと感じています。 サッカーを始めたきっかけは、ナンバー1になるため ーもともとは、どのような経緯でサッカーを始めたんですか? 小学生のときに、みんながサッカーをしていたので自分もやりたいと感じたのがきっかけです。日韓ワールドカップがあって、サッカーがかっこいいとされていた世代なので、誰よりも上手くなってナンバー1になりたいと思っていました。 ただ、ずっとトレセン(地域の選抜チーム)に選ばれてステップアップできたわけでもないし、チームとして全国レベルで活躍できたわけでもありません。だんだんと上には上がいると感じるようになって、サッカー選手としてナンバー1になれるビジョンが見えなくなりました。 ープロになれないと感じるとスポーツから距離を置く人も多いですよね。そんな中で、サッカーに対する思いを持ち続けられたのはなぜですか? 勉強もそこまで苦手ではなかったのですが、特別に好きというわけでもありませんでした。なので、自分からサッカーをとったら何も残らないのではないかと思い、当時は「何者でもない自分」という現実から目を背けるようにサッカーに励んでいました。 「自分の育てたい種を探せ」その一言がきっかけで、大学進学を決意 ーもともと大学に行くつもりはなかったとお伺いしたのですが、本当ですか? そうですね。大学に進学していない両親や祖父母が幸せに生きているのを見て、必ずしも大学に行く必要はないと考えていました。僕の入学した高校は大学進学率の高い高校でしたが、その当時も大学に行くつもりはあまりなかったですね。 ーどのようなきっかけで大学に進学することになったんですか? 時々行われる進路志望調査で「大学には行きません」みたいなことをみんなに隠れてこっそり書いたりしていました。それを見た担任や進路指導室の先生方が「考え直せ」とよく言っていたのですが、それも基本聞き流していたんです。 しかし、ある日、英語の先生に職員室に呼ばれて「君は大学にゼミがあるのを知っているか?」と聞かれました。「知らないです」と答えると、その先生は「ゼミの語源は苗床で、自分の種をまいて育てるという意味なんだよ。今までは言われた内容を勉強してきたと思うけど、大学では自分が育てたいと感じる種を育てることができるんだ。その種を育てる過程にいろんな困難もあると思うけれど、君が人生をかけて育てたいと思える種があるのであれば、その種を植える苗床を探さないともったいないでしょう。」と言われたんです。その一言が胸に刺さり、大学進学を考えるようになりました。 ーなぜ慶應義塾大学に進学したのですか? 「自分の育てたい種を探せ」と先生に言われたけど、実際はその種が何かはよくわかりませんでした。なので、まだ種を見つける段階にいないことを認めて、多様な価値観に触れる必要があると感じたんです。 慶應であればスポーツを頑張ってる人もいれば、起業をしている人もいるし、帰国子女もいれば、田舎育ちもいる。色んな価値観に触れられるし、私立大学でナンバー1だったということもあり、進学を決めました。また、高校からの推薦という後押しもありましたね。 マネージャーとして裏方だった反動から、積極的な行動に移る ー大学入学後は色んな選択肢があるなかで、なぜ体育会ソッカー部のマネージャーや、一般社団法人ユニサカの立ち上げをすることになったんですか? 入学直後、慶應にはすごい人がたくさんいたので「やばいやばい」と思って安心できるサッカーに逃げたんです。怪我の影響などもあって、マネージャーとして裏方の仕事をしていたのですが、どこか選手として活動できないことに悔しさを感じていました。 そんな中で、長い伝統の中に位置する自分たちが思考停止の状態に陥っているのではないか、と考えるようになりました。自分たちの頭で考えることなく、前例踏襲をしていることが多かったのです。そこで「この構造を改革したい」と思うようになりました。 大学サッカーはあまり人気がないので、前例踏襲な風潮を変えることで何か変わるのではないかと思い、一般社団法人ユニサカをつくって大学サッカー界を良くするための活動を始めました。 ーユニサカではどのような活動をしていたんですか? 大学サッカー界を向上させるために、まずはたくさんの人に試合を観てもらう必要があると考えていました。そのためにも超目玉コンテンツを作りたいと思い、以前まで野球やラグビーのイメージが強かった早慶戦を「早慶クラシコ」とリブランデングすることにしたんです。その他にも、ハーフタイムショーやチケットのオンライン化、クラウドファンディングなど、さまざまなことに挑戦しました。 ーすごいチャレンジですね! 当時は、改革に対していろんな声がありました。でも、それは僕にも大きな原因があったんです。当時はひたすら大人に中指を立てて、本当古いよ、時代が変わったんだよ、と威勢を表現していましたね。言われた方も、面白くないですよね....。 でも、それでうまくいかなかった時に初めて、パフォーマンスではなく本質的な価値に向き合うことや、誰よりも自分が努力を積み重ねることで付いていきたいと思われる人材を目指すようになりました。今も、まだまだ未熟者ですが....笑 今では徐々に「クラシコ」も浸透してきて、野球やラグビーの早慶戦がそのモデルを真似するような流れとなっています。時代をつくる感覚が大事だと考えているので、そういった意味では、時代をつくる第一歩を踏み出せたのではないかと思います。 当たり前を疑い、さらなる高みを目指す ー就活をしない決断をしたのは、どのような経緯があったんですか? 慶應に入ってから、さまざまなチャレンジを続けてきました。しかし、じつは自分の立場や仲間が導いてくれたのではないかと、中途半端な成功体験が意外とコンプレックスになっています。 なので、1回既存のレールを疑うところから始めて、自分が慶應のはしごを外れたときにどれだけ高いところまで登れるか挑戦しようと思ったんです。 ー当たり前をしっかりと疑うところがすごいですよね。 おそらく家庭環境が影響していると思います。他の慶應生だと、親も兄弟も大学進学や就活をしっかりと経験している場合が多いのですが、自分はそういった環境ではなかったので、変なバイアスに囚われずに意思決定ができています。 ー最後に今後のビジョンを教えてください。 今やっているEdo All Unitedのプロジェクトを成功させることです。優勝と昇格を繰り返して、より高い競技レベルで、より多くの人の心を動かせるステージに立ちたいと考えています。また、単純なサッカークラブとしての結果だけではなく、サロンメンバーの思いや自己実現に繋がるような仕組みも作りたいと考えています。 個人としてどうなるかよりも、今は自分=Edo All Unitedです。「Edo All Unitedの成功は自分の成功である」と言えるぐらいに取り組んでいます。そこに対しては、しっかりとプライドを持ちつつ引き続き頑張りたいと思います。 ー奥山さん、本日はありがとうございました! 取材者:西村創一朗(Twitter) 執筆・編集者:下出翔太 デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

「社会の境界線を溶かす」というライフパーパスのもと活躍するWORLD ROAD共同代表・平原依文の人生の転換期

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ、第170回はWORLD ROAD共同代表の平原依文さんです。8歳の頃から単身で中国渡り、小学校・中学校・高校・大学のほとんどを海外で過ごしてきた平原さん。そんな平原さんのこれまでの人生を振り返り、ご自身の転機となった出来事・出会いについてお話いただきました。また、最後には自分の「軸」から始まる持続可能な社会と働き方を追求しながら、日本の教育変革を目指している平原さんの今後の展望についてもお伺いしました。 教育×SDGsで日本の教育を変えていく ー現在のお仕事について簡単に教えてください。 幅広い世代へのSDGs教育のため「地球を一つの学校にする」をビジョンに掲げるWORLD ROADを設立し、現在はWORLD ROADでの仕事をメインに働いています。新卒ではジョンソン・エンド・ジョンソンに入社し、営業を3ヶ月経験した後、デジタルマーケティングの仕事を経験しました。その後転職したプロノイア・グループでは広報、マーケティング、ブランドコンサルティングなどのお仕事をしていました。先月まではプロノイア・グループでのお仕事をしながら、WORLD ROADの活動をしていました。 ーWORLD ROADでのお仕事内容についても少し教えていただけますか。 WORLD ROADでは主に2つの事業を行っております。 1つは法人向けにSDGsに関連したコンサルティング・ブランディング事業です。多くの企業ではSDGsの取り組みをしているものの、形だけとなっていることがあります。そんな企業さんのSDGs達成に向けてどのような新規事業開発ができるかなどのご相談にのらせていただいています。 もう1つは教育機関向けの事業となり、こちらの事業は共同代表である市川が中心となって進めております。現在はSDGs×夢をテーマに世界196か国で社会貢献活動されている方々の夢を集めた本の作成に取り組んでいます。この本をいずれは教育機関に教材として使用してもらう予定です。 ー世界中の人の夢を集めた本とは面白い企画ですね! 実は京都にある、いろは出版さんが過去に47都道府県の高校生の夢をまとめた本「47都道府県47人の高校生の夢」を出版されており、その世界版を作りたいと直接ご連絡させていただき実現することとなりました。青年版ダボス会議のOne Young Worldの繋がりなどを駆使し、現在170か国まで集まっています!   強くなりたくて8歳で単身中国へ   ーこれまでの平原さんの過去のターニングポイントを教えていただけますか? 私の母は私が3ヶ月の時に血のつながらない父と結婚したのですが、シングルマザーとして私を産んだため、母(文子)に依存するということから「依文」と名付けられました。そんな名前の由来とは反対に私は8歳で単身で中国に行きました。これが私の初めのターニングポイントです。 小学校1年の時、私はいじめられていたのですが、2学期になって中国人の女の子が入学してきたことによりいじめの対象がその子にうつりました。私も自分を守りたくて、その子とは仲良くしないことを選んだのですが、それでも彼女はめげずに話しかけてくる強い女の子だったんです。 なんで彼女はこんなにも強いんだろうと思い、彼女に聞いてみたところ「中国は日本みたいにに安全じゃないし全員が良い教育を受けられるわけではない。人口が多い分チャンスが回ってくることも少ないからみんな必死なの。」と言われたんです。これがきっかけで私も中国に行ったら強くなれるのかもと思い、両親にお願いして上海に旅行に連れて行ってもらいました。 ー上海に行ってみていかがでしたか。 実際に行ってみると、何を言っているかわからないものの現地の人たちが皆みんな喜怒哀楽豊かに話しているのが伝わってきてびっくりしました。それまで自分のこと、自分の気持ちを表現することは悪だと思っていた節がありましたが、表現をするのって大事だなと感じたんです。これまで自己表現や自分のやりたいことを伝えることを避けてきた私が初めて「中国の学校に通いたい!」とその時思い、その場で両親に伝え、旅行中に全寮制の学校を見つけることができ転校が決まりました。 ーそういった経緯があったんですね。中国での学校生活は楽しかったですか。 中国人と朝鮮人しかいない学校だったので、楽しいことはもちろん、大変なこともいっぱいありました。特に歴史の授業では日本と中国の戦争の話になると辛かったです。日本の加害者である一面を強く認識するようになりました。 それでもたくさんの良い先生や友人との出会いがありました。中でも、仲良かった友人がカナダ国籍を持っていたのですが、彼女の「カナダはいろんな国の文化や歴史が混ざっている」の一言が私にとって2度目の人生のターニングポイントとなりました。   カナダで見つけた理想の生き方と働き方 ー中国の次はカナダに目を向けられたのですか。 はい。英語圏で英語を勉強したいと思っていたことと、多様性溢れる国をみてみたいと思ったことが重なり、12歳でカナダのバンクーバーに移りました。カナダではホームステイをしていたのですが、そのホームステイ先のお父さんが国会議員でありながらワイナリーを持ち、ソムリエをしながら働いていたのが今の私の生き方への価値観に繋がっています。お父さんは「自然と都会が入り混じった場所だからこそ作れる社会、届けられる幸せを政治とワインで伝えたい」と言い、その軸の元、複数の仕事に就いているのを見て、「こんな生き方をしたい。自分の軸を持って自分の名前で生きていきたい」と思ったんです。 ー複数のお仕事を両立されていたり、転職を決められたりした背景にはカナダでの出会いも影響しているんですね。その後はカナダでずっと過ごされていたのですか。 16歳の時にカナダから交換留学でメキシコに行きました。それまでは1年に1回しか日本に帰らず、日本の家族・友人とは基本文通で連絡をとっていたのですが、メキシコに留学中に急に母から「お父さんが胆管癌になってしまった。手術してみないと助かるかわからないからとにかく帰ってきて欲しい」と電話がありました。 急いで飛行機を予約し、日本に帰国したのが2011年3月11日。東日本大震災は日本に着いてバスで移動していた時に起こりました。緊急停車した後、結局は空港に再び戻り、空港で一晩を過ごすこととなりました。翌日もほとんど電車が動いていなかったため、ヒッチハイクをして父の病院まで行くことにしました。その時に車に乗せていただいたおばあちゃんとの出会いが私の人生における次のターニングポイントになります。   出会いと別れがきっかけとなって選んだ道 ーおばあちゃんとの出会いについて詳しく聞かせていただけますか。 メキシコから帰ってきたという話をしたところ、おばあちゃんに「メキシコだったら同じようにヒッチハイクしていた?」と聞かれたんです。「メキシコだったらしていない」と答えたところ「じゃあなんで日本ではできたんだと思う?」と言われました。そして「日本は安心安全な国だからできたんだと思うけど、その安心安全な日本はどうやってできたと思う?」とも。「若者はすぐに外に出ようとするけれど、私たちの世代が頑張って今の安全で安心な国に日本を作ってきたことを理解して欲しいし勉強してほしい。」そうおばあちゃんに言われた私はそれまで海外ばかりに目を向けていたことに気づきました。この出会いが私にとってとても印象に残り、「私は日本にどうやって貢献できるだろう ?」と考え始めるきっかけとなりました。 今でもこの考えるきっかけをくれたおばあちゃんにはたまに会ったりしており、私の人生での貴重な出会いになっています。 ーなるほど…確かに考えさせられますね。 はい。日本にもっと目を向けたいと思ったことと、病気で痩せ細ってしまったものの手術がうまくいった父ともっと時間を共にしたいと思ったことがきっかけで日本に帰国することを決めました。大学は早稲田大学に進学したのですが、21歳の時、父が回復していたこともあり再び海外に行きたい欲が…当時スペイン語を勉強していたこともあり交換留学制度を活用してバルセロナへ留学することにしました。 ー4か国目の留学を決められたんですね。スペインはいかがでしたか。 Airbnbで知り合った30代半ばの建築士の彼女と大学院でヨットの研究をしている彼氏のカップルと3人でシェアをして住んだり、友人からFCバルセロナの日本人向けツアーのマーケティングを任せていただいたり、充実した留学生活となりました。バルセロナで驚いたことは、まだまだ物々交換の文化が残っていたこと。バルセロナでは近所の人に足りないものをもらって、代わりに違うものを何かあげるというのが日常茶飯事で行われていました。バルセロナでの経験で、人との繋がりでも経済が回るんだなと実感しましたね。 ーその後就職活動となるかと思いますが、どのように企業選びをされたのでしょうか。 教育を変えたいという思いがあったので、大学卒業後は戦略コンサルタントとして経験を積んでから独立をしようと当初は考えていました。コンサルティング会社から内定もいただいたいてのですが、ちょうど22歳の時に父が残り2週間の余命宣告を受けたんです。 父は製薬会社で働いていたのですが、闘病生活中も常に自分が症例としてどう役立てるかをお医者さんと話すような人でした。そんな父の姿をみて私も病気で苦しんでいる人の選択肢を少しでも増やしたいと思い、父からの助言もありジョンソン・エンド・ジョンソンへの就職を決めました。   複数の業界で境界線にアプローチ。次は念願の教育業界で。 ー新卒で入社した会社からその後プロノイア・グループに転職された理由は何だったのですか。 ジョンソン・エンド・ジョンソンでは横断型プロジェクトを担当させていただき、充実した生活を送っていたのですが、会社の看板をとっても何か成し遂げられるようになりたい、自分の名前でゼロから何かやりたいと思ったことが転職のきっかけとなりました。たまたまプロノイア・グループの代表が大学時代からの知り合いだったこともあり、「誰もが自己実現できる社会」を目標にしている点に共感して転職を決意しました。 ーそしてWORLD ROADを立ち上げられ現在に至るかと思いますが、これまでのお仕事で平原さんが共通して持っている思いは何になるのでしょうか。 私のライフパーパスは社会の境界線を溶かすことだと思っています。国境などの境界線もそうですが、日本国内だけを見ても様々な境界線がたくさんあります。そしてそれは可能を不可能にしてしまっている境界線だと思うんです。 ジョンソン・エンド・ジョンソンにいた時は医療業界の境界線、プロノイア・グループにいた時は働き方の境界線、今は教育の境界線にアプローチしています。私自身がパラレルキャリアを続け、それを発信することも働き方・生き方の境界線がなくなることに繋がると思っています。境界線が無くなっていけばたくさんの可能性が生まれると信じているんです。 ー現在は教育の境界線と向き合っているとのことですが、今後教育業界で平原さんが実現したいことはありますか。 今の日本の教育は、就職のため・受験に合格するための教育になっているのが現状です。私は教育の主軸が受験・就職ではなく「自分」にあるべきだと考えています。なので受験制度を廃止することを目標に、そのための活動をこれから進めていきたいです。 受験制度は日本が経済を発展させるために必要だった制度といえると思いますが、これからは個々に合わせた教育、選べる教育が必要だと思っています。「なぜ」を問い続ける、それぞれがライフパーパスを見つけられる教育こそがこれからの日本には必要なのではないでしょうか。 DoingではなくBeingの教育を広めること。これが今の私の目標です。 取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

両親の病気がきっかけで家事の魅力を再確認。家事に恋する高校1年生・大山桃代

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第184回は家事に恋する高校1年生としてInstagramやnoteで発信をされている大山桃代さんです。小さい頃からお母さんのお手伝いを自ら進んでやっていたという大山さん。ご両親の病気がきっかけで家事の大切さに向き合うこととなり、現在は家事の魅力を広めるために情報発信を発信されています。何がきっかけで情報発信をされるようになったのか、これまでを振り返ってお話いただきました。 実はお姉さんの大山友理さんはWomen’s Innovationを高校3年で立ち上げ(U-29でもインタビューさせていただきました!)。姉妹揃って学業と活動を両立されているお話もお伺いしました。 ストレスフリーに楽しく家事ができるノウハウを発信中 ―まずは簡単な自己紹介をお願いします 現在高校1年生の大山桃代です。家事に恋する高校1年生という名前で今年の4月から、Instagramやnoteで家事の魅力を伝える活動をしています。具体的にはInstagramでは趣味であるお菓子作りで作ったお菓子の紹介や、低糖質レシピの紹介、noteでは家事の魅力や糖尿病についてなどの情報発信をしています。 ―Instagramやnoteで家事について発信をしようと思われたきっかけは何だったのでしょうか。 もともとおおままごとが好きで、その延長線でよく母の家事を手伝っていました。父は家事をするタイプではなかったので母の力になりたいという一心で家事を手伝っていたのですが、家事が決して難しい事ではないものの、一般的に学ぶ機会が少ないなと思ったんです。 ちょうどコロナにより自宅で過ごすことが増え、時間に余裕がでたことが大きなきっかけになっています。家での時間が増えたことにより、これまで手の回っていなかった家のタイルの掃除をしたのですが、磨いたタイルが輝いているのをみて掃除っていいなと改めて思ったんです。 また、テレビ番組で外出自粛によりお母さんの家事の負担が増えたことが離婚につながっているといった内容が取り上げられていたこと、ちょうどドラマ「家政婦のなぎささん」でも家事にフォーカスがあたっていたこともあり、家事の大切さを再確認しました。少しでも家事の魅力を同世代に広め、みんながストレスフリーに楽しく家事ができるようになったらと思い発信を続けています。   両親の病気が家事と向き合うきっかけに ー幼少期からおままごとが好きだったということですが、どういった経緯で家事をするようになったのですか。 幼稚園の頃から母の後ろに背後霊のような感じでついてまわり、母が家事をする様子を見て育ちました。毎朝エプロンをつけて家事をしている母の姿をみて「私もやりたい!」と思い少しずつ手伝わせてもらっていました。幼稚園の時に洗濯物を畳むことからスタートし、お米とぎや食器洗いを経験。その後小学校に入ってからは子供用の包丁を買ってもらい料理の手伝いをしたり、お金の計算ができるようになるとおつかいに行ったりするようになり少しずつできることを増やしていっていました。家事は好きでずっと続いていましたが、一方で習い事はあまり長くは続かなかったですね。 ー家事が好きでやっていたとのことですが、それはしばらく続いたのですか。 小学校3年になった頃、父が病気になり、母が毎日のように病院に通うようになったことでますます家事に時間を費やすようになりました。病院との行き来の生活で大変そうだった母のために何ができるかと考えたら家事しかなかったんですよね。それまではただ楽しくてお手伝いしていましたが、この頃からは母の負担を減らすためにも手伝うようになりました。 エプロンをつけてご飯の準備をし、ごはんが終われば片づけをしてゴミ出しをし、一通り掃除が終わればエプロンを外してホッと一息をつくということが当時の私にとってはとてもかっこよくうつっていました。それを実際にできるようになり、大人になった気分を味わえたので苦痛に思うことはなかったです  ―中学に入ると勉強や部活動などで忙しくなったかと思いますがそれでも家事は続けられていたのですか。 中学2年(14歳)の時に、病院の行き来や祖父母の世話が重なり身体がついていかなくなった母も病気になってしまいました。母の負担を少しでも減らすため、姉・兄とも協力して家事を分担するようになりました。正直、学校に通いながら、部活動をしながら、毎日帰宅後家事をするのは大変でした。この頃から、母も含め、働きながらあるいは子育てをしながら家事をしている人たちに尊敬の気持ちを持つようになりました。 また、母がかかった病気が1型糖尿病という病気だったため糖質に配慮した食事にシフトするようになりました。それまでは一食にどれくらいの糖質が入っているか気にしたことがなかったのですが、ネットで低糖質レシピを検索し、糖質量を計算して料理を作るようになりました。 実は糖尿病には1型と2型とあり、多くの人が思い浮かべる糖尿病は2型になります。2型糖尿病は生活習慣による病気ですが、1型はストレスや遺伝からなる自己免疫疾患です。いずれも砂糖を抜いたり炭水化物を減らしたりといった食事療法が中心になります。 ―低糖質というとかなり食事が限られて大変なイメージがありますがどうでしたか。 糖質制限の場合、小麦粉が食べられないイメージが強く大変だと思う方が多いですが、実はおからパウダーやアーモンドプードル、ふすま粉などといった代替品があるのでパンだって楽しむことができます。また、今は豆腐麺などがスーパーで気軽に手に入ります。豆腐麺はそうめんと比べると糖質量が50g程少ないんです。これを担担麺などにアレンジすれば麺料理も低糖質で楽しむことができます。 他にも糖質0の砂糖「ラカント」を使用すれば甘い物や砂糖を使う煮物も糖質制限しながら楽しむことができるので、糖質制限でも食の選択肢は十分あるなということが分かりました。   家事に恋する高校生として学業と家事を両立 ―そうなのですね!高校に進学してからは家事と学業との両立がいかがですか。 運動部に所属しており部活があった日などは特に疲れて家事をやりたくないなと思うときもあります。そういう時は兄や姉に変わってもらったりしながら家事を続けているという感じです。また、時にはゲーム感覚で家事を楽しむことも意識しています。 ―ゲーム感覚とはどういうことでしょうか。 例えば、前回はお風呂掃除に10分かかったから今回は最短記録を目指してやってみよう!などと時間制限をつけて家事を楽しむやり方です。特に掃除などは完璧を求めたらきりがなかったりするので、目標時間を設定してやると限られた時間で効率よくきれいにすることに意識が向くようになります。また、はやく終わったときに味わう達成感が楽しさに繋がると思います。  ―なるほど。それはいいかもしれませんね!4月からInstagramとnote情報発信をはじめてみていかがですか。 特に写真が好きだった訳でも、文章を書くのが得意だった訳でもなかったのでまだまだ試行錯誤の状況です。Instagramでは好きな韓国のインスタグラマーさんの写真などを参考にお皿の組み合わせなどを学んだりして姉に撮影協力してもらいながら自分で考えて更新を続けています。低糖質のお菓子を紹介した際には、糖尿病患者のご家族からメッセージをいただきました。誰かのためになる情報が発信できていることが分かったので、それを活力に定期的に更新をするように頑張っています。 ―どの材料で何を作るか、どうやってアレンジするかなども全て自分で決められているんですか。 お菓子は自分が好きなものや食べたいものしか作っていません。Instagramでおいしそうなものを見つけたら作ってみたり、レシピ本を参考にしたりしています。母が料理の先生をしているので母に教えてもらうことも多いです。   生きることと家事はセット  ー家事の魅力を広めることを目標に活動されているとのことですが、大山さんが思う家事の魅力は何でしょうか。 家事はお母さんを助ける一つの手段であるだけではなく、いい運動になったり、自分の自立につながったりするものだと思っています。生きていく中で家事はずっとついてくるものなので、できて困るということはないと思うんです。私は楽しくてやっていた家事が、父の病気によって使命感が生まれてより進んでやるようになり、家事は誰かを助けることができる・誰かに喜んでもらえるものということを知りました。 自分のためにも、誰かのためにもなると思うのでぜひ一度家事と向き合ってほしいなと思います。  ―最後に今後の目標や挑戦したいことがあれば教えてください。 進路についてはまだ考え中ですが、できれば料理など家事に繋がることをこれから万で行けたらなと漠然と考えています。 今後の活動としては、オフラインでの料理教室などを開きたいと思っています。活動をはじめて以来ずっと考えていることではありますが、コロナもありずっと自分の中でその思いを温めている状況です。その気持ちがどんどん大きくなっているので、まずはオンラインで開催してみようかなと思い、現在計画中です。近いうちにみなさんにもご報告できたらと思っています。 ―そうなんですね!実現されるのを楽しみにしています。 取材者:中原瑞彩(Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

「地に足をつけて着実に前に進みたい」多様な女性の生き方を発信しつづけるWomen’s Innovation代表・大山友理

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ、第179回はWomen’s Innovationを高校3年で立ち上げた大山友理さんです。中学の頃からクラスメイトの死や家族の病気などといった出来事に直面され、その度に周囲の人との向き合い方や自分の人生について考えてきたという大山さん。「考える」ことをやめず、常に前に進み続けようとしてきた大山さんがWomen’s Innovationを立ち上げた経緯についてお話いただきました。また、現在4年目となる組織の立ち上げで苦労したことや、現在組織を持続的に運営する際に意識していることについてもお聞きしました。 おかえりとただいまが循環するコミュニティの運営 ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします。 津田塾大学総合政策学部3年の大山友理です。2017年4月に立ち上げた学生コミュニティWomen’s Innovation(ウーマンズイノベーション)の代表を務めている他、次の週末に取り入れたい理想の生活を提案するコミュニティメディアNEXTWEEKENDでイベント制作のインターンもしています。 ー現役大学生でありながら、Women’s Innovationでの活動とメディアでのインターンもされているんですね!Women’s Innovationの活動についてもう少し詳しく教えていただけますか。 Women’s Innovationではライフステージに合わせて選択をしてきた女性の多様な生き方を発信しています。パーソナリティが今会いたいゲストとトークする「お悩み相談ラジオ」や全国各地の街のロールモデルに出会えるオンラインコミュニティ、ロールモデルに直接会えるオフラインでのイベント開催、運営メンバーによるアウトプットコラムなどが主な活動内容です。これまではどうしても都心中心の活動になっていましたが、今は東京以外の拠点にもこの活動を広げることに力をいれています。 メインで活動しているメンバーは10人程ですが、コラムの執筆をしてくれているサポートメンバーなどを含めると総勢30人程になります。Women’s Innovationの特徴としてはコミット度を全て個人に任せていることがあります。やりたいと思ったことをやってもらい、忙しい時はお休みしていただき時間ができた時にまた戻ってきてもらっているんです。そのため、コミュニティの卒業もそれぞれが卒業したいと思った時に卒業してもらっています。「おかえり」と「ただいま」が循環するというのがコミュニティのルールになっているんです。 ーおかえりとただいまの循環って素敵ですね! その中で大山さんはどのような役割を担っているのでしょうか。 各コンテンツごとにリーダーをアサインしており、そのリーダーたちのサポートをすることが主な仕事になります。大事にしていることは定期的に行っているミーティングで必ず各コンテンツ・各リーダーからの意見をしっかりと吸い上げること。メンバーの思いが反映されたコンテンツとなるように意識しています。 Women’s Innovationは社会に対して発信することよりも当事者である自分たちが満足して発信できることに重きを置いています。周りからの反応を気にするのではなく自分たちがやりたいこと・知りたいことをWomen’s Innovaitonを通して実現できるプラットフォームであり続けたいです。   幼少期は地域コミュニティで育てられた ーWomen’s Innovation設立に至るまでの過去のお話も聞かせてください。どのような環境で幼少期を過ごされたのですか。 幼少期の頃は宮城にあった母方の祖父母の家に頻繁に訪れ、そこで過ごすことが多かったです。祖父母がブティックとレストランを経営していたので、お店に訪れる祖父母の友人や母の友人など地域の人たちに囲まれて育ちました。それもあってか人見知りはせず、物怖じせずに大人にも話しかけられる子供でした。人とのコミュニケーションの取り方や人と関係性を深める方法はここで鍛えられたのだと思います。 ーその生活はいつ頃まで続いたのですか。 祖父母の家との2拠点生活は5歳頃まででしたが、その後も小学校3年頃まではよく遊びにいっていましたね。ちょうど小学3年の3月からは中学受験の勉強を始めました。勉強が苦手だったので進学するには早めに受験勉強をスタートした方がいいと思い、小学3年からやっていたのですが、中学受験では第一志望に合格することはできませんでした。それでも受験勉強のために通っていた塾で恩師に出会うことができたので受験勉強はやってよかったです。 ーそうだったんですね。どんな先生だったんですか。 私が長女だったこともあり、私にとってその先生は少し上のお姉ちゃんのような存在の先生でした。自分で学費を払いながら大学生活を楽しんでいて、自立して前に進んでいける女性になりたいとその先生を見て思ったんです。   生まれてきた焦燥感と劣等感、考える日々 ー素敵な出会いが小学生の時点であったんですね!第一志望は不合格だったとのことですが、中学生活はいかがでしたか。 第二志望だった中高一貫の私立、玉川聖学院に進学しました。人に恵まれて中高生活は楽しかったです。中学ではバドミントン部に入ったのですが、部の人たちが聴覚障害持った親友のいないところで親友の悪口を言っていたのを聞いてしまい、違和感を持ちました。障害は個性ではなく、先天性や突発性など予期せぬこと。コントロールできない辛さもある中で、嘆くことなく、頑張っている親友に陰口を言うのはおかしいと思ったんですよね。そんな親友とともに、私が小学校時代に習っていた書道を再開し、その他に今も続けている茶道と着付けを習っていました。 また、中学1年の秋にクラスメイトが病死したことが、「自分は一生懸命人生を生きれているか?」と考えるきっかけになりました。ドキュメンタリーで他国の現状や病気と闘っている人などを見るたびに自分がいかに恵まれているかを認識し、明日から頑張ろうと思うことは小学校の頃から多々あったのですが、翌日にはすぐ忘れちゃっていたんです。毎日を本気で生きれていないのではないかということに対する焦燥感・劣等感とも向き合った中学生活でした。 そして中学3年の時には父が難病にかかり、余命宣告を受けました。クラスメイトの死以来、次に誰か身近な人が病気になった時はその人とちゃんと向き合い、自分にできることを考えたいと思っていた時の出来事でした。父は仕事で忙しかったので、母や祖父母と比べてあまり思い出がなく、残された父との時間をどう過ごせばいいか向き合い方に悩むこととなりました。父の発病から学んだことはたくさんあります。次の瞬間を後悔しないように生きること、日常の幸せに感謝して生きること、そして何より健康が資本になることです。家族の心と身体の健康に今まで以上に気にかけるようになりました。 ー高校生活はいかがでしたか。 人格を教育することにフォーカスしていた学校だったため、人間学という授業が高校ではありました。車椅子で生活されている方や難聴などのハンデを持っている方と一緒に自分たちには何ができるかについて考える機会があったり、毎年クリスマスには1人2つ手作りポーチを作製し近隣の老人ホームと障害者施設に届けたりしていました。自分以外の人のために何ができるかを考えさせられた高校生活だったなと今振り返ると思います。 また高校に入ってからは父の病気が再発した他、父方の祖父が脳梗塞、母方の祖父が癌、母方の祖母が認知症になり、身近な人の病気が重なり、自分以外の人に寄り添うということについて考えるようになりました、 ー大山さんにとって大変な時期だったかと思いますが、どうやって心の整理をされ、向き合われたのでしょうか。 弟の影響を受けてサッカーが好きだったので、中学から高校に進学する際に「サッカー日本代表はなぜここまで強くなることができるのか」についての修了論文を書きました。その中で、プロサッカー選手もたくさんの苦労を乗り越えて、いろんな思いを抱えながら前を向いて生きていることが分かりました。きっと最後は時間が解決してくれるだろうと思い、私も前を向いて毎日を全力で生きようと思ったんです。 それでも常に前向きでいられた訳ではありませんでした。父の病気を含め「生きる」をテーマに弁論大会に出場した頃を境に、高校2年の3月あたりから身体と心のバランスが取れなくなり車椅子や松葉杖に頼る生活を一時期送っていました。前に進みたいのにどうしていいか分からず、先のことを考えすぎて目の前のことに目を向けられなくなってしまったんです。   たらればを失くすためWomen’s Innovationを設立 ーそこからどうやって再び目の前のことに目を向けられるようになったんですか。 前に進む手段として高校3年の4月に始めたのがWomen’s Innovationでした。進路選択も含め、自分がこれからどうなりたいか、どう生きていくかを考える必要がでてきたので人生の先輩方に話を聞きたいと思ったのが立ち上げのきっかけでした。あとで「たられば」を言わないようにできるだけ自分の選択肢を増やしておきたいと思ったんです。 ーWomen’s Innovationを通して自分がどう生きていきたいか、明確になってきましたか。 いろんな方々のお話を聞き、それが自分の選択肢として増えたことで、逆に将来何がやりたいのか分からなくなってしまった部分は正直あります。大学に進学してすぐにメディアでインターンもはじめましたが、そこでもまた、子育てをしながら働く自分のイメージができず、これからどういう選択をするのが正解なのか分からなくなってしまいました。 同時に、悩みはきっと何歳になってもなくならないんだなということも分かってきました。「ネガティブケイパビリティ」という言葉と最近出会ったのですが、不確実なことはそれぞれのタイミングで必ずあるのでそれを受け入れて前に進むことが大事なんだなと思いました。何歳になってもきっとモヤモヤすることはあることに納得したら少しずつモヤモヤって解消されるんだろうなと。 ーそうかもしれませんね!  Women’s Innovationの運営はやってみていかがですか。 コミュニケーションをとることの難しさは常に感じています。なので誰に対してもその人がどういう意図や思いを持って言葉を選んでいるのかを考えながら話すことを意識しています。逆に、会話している中でいいなと思った言葉や表現はメモにして自分の言葉にしたりもしていますね。最近ではオンライン上のみでのコミュニケーションも増えてきたので、テキストベースでは意識的に絵文字を使うようにしています。ただ句読点だけだとこちらの感情が伝わり難かったりするので… 個人的な話をすると、去年の3月に母が劇症1型糖尿病を発症し、GWに父方の祖母が亡くなりました。寄り添うとは何かを、自分なりに改めて探究していた気がします。それから1年近く経った今年の6月、母方の祖父が亡くなりました。私と性格が似ていて距離が近く、とにかく愛情深い人でした。このコロナ期間は、病気による家族の多くの変化にその都度向き合いながら、背伸びをして頑張るのを辞めました。 最近Women's Innovationでは、持続的な組織の運営と地に足をつけて前に進むということをテーマに今再び動き出しているところです。 ーそうだったんですね。最後にWomen’s Innovationの今後の展望や大山さん個人の目標についても教えてください! Women’s Innovationの目標としては9月に広島でのオンラインコミュニティがスタートしたところなので引き続き他県でもWomen’s Innovationを広めていくことに注力していきたと思っています。地に足をつけながら、着実に前に進めていきたいです。 私個人としては、これから就職活動としっかり向き合うことが直近の目標です。自分にきっかけを与えてくれた人、関わってくれた人への感謝の気持ちを忘れず、手に取れる距離にある幸せを紡ぎながら前に進めたらなと思っています。 ー素敵なお話ありがとうございました!今後のご活躍、応援しています。 取材者:あおきくみこ(note/Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

生きづらい人を救いたい。パラレルキャリアを歩む藤島凌が目指す世界とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第181回目となる今回のゲストは、ウォンテッドリー株式会社セールス兼CSの藤島凌さんです。 本業のかたわら、インナーブランディング研究協会(IBRA)副会長兼ファシリテーターとして活動し、さらに個人事業として「Life Style Creation Company」を設立した藤島さん。そんな藤島さんが、パラレルキャリアを始めるに至った経緯を、幼少期からさかのぼってお話いただきました。 見てみぬふりができない、不器用だった幼少期 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 私は今、ウォンテッドリー株式会社でセールス兼CSとして働いています。具体的にはウォンテッドリーを使っていただいているお客様に対して、どうやったら採用がうまくいくのか、企業のブランディングができるのか、についてアドバイスさせていただいています。 その他にも副業でインナーブランディング研究協会、いわゆるインナーブランディング事業に対するオンラインのサロンを展開していますね。 さらに2020年8月7日に「Life Style Creation Company」を設立し、個人事業でオンラインのカウンセリング事業も展開しているので、三足の草鞋を履いて仕事をしている状況です。 ー3つのお仕事をするうえで共通する考えはありますか? 1つひとつ規模感は違うのですが、「輝きを見出す」という共通点がありますね。 例えばウォンテッドリーを通して会社や求職者の人を救ったり、インナーブランディング研究協会を通して社員が会社をもっと好きになるように支援したり、個人事業を通して個々人の生き方・働き方についてアドバイスをしたり……どれも貢献性の高い仕事なんです。 法人・個人問わず、一人ひとりの輝きを増すことによって、結果的に世の中に貢献することになると思っているので、どの仕事もやりがいを持って続けられています。 ー「輝きを見出す」というテーマを設定するに至った経緯を教えてください。 さかのぼると小学校2年生の頃からになりますね。当時5、6年生が、少し障害がある子をいじめている場面に遭遇したんです。 その時とっさに「どうしてそういう差別をするんだ。別に障害を持ちたくて持っているわけではないし、努力している人に対して何でそんなに辛辣な言葉を浴びせられるんだ」と、小学生ながらに反発しました。上級生と隔たりはできましたが、自分に嘘はつきたくないと思っていましたし、それが大事にしている価値観でもあったので。 その経験から、いろんなバックグラウンドがあってもすべて受け入れて、個が輝けたら世界はもっと美しくなるんじゃないか、と考えるようになりました。 ー幼い頃から信念が強いと、周りと感覚が合わない時はありませんでしたか? まさに生きづらさを感じていたことは多々ありました。 世の中と自分の考えていることに乖離があるなと感じていて、そのまま乖離がある状態が続いたら苦しいな、ともがいていましたね。実は生きていて唯一自殺を考えた時期でもあったんです。 何か支えがないと乗り切れないほど辛かったですが、家族と友人がそばにいてくれました。私がどんな個性を持っていても否定をしない家族と、私が行き過ぎた時に冷静に止めてくれる友人がいたからこそ、今こうして生きていけてます。   目標達成のために半年で20㎏減 ー小学校高学年になると環境は変わりましたか? 小学校6年生の時に30人31脚という競技に参加したことで、人生が好転していきました。 実は当時身長160㎝で、体重が110㎏ほどあったんですよ。30人の平均体重が仮に50㎏だとすると、私だけで2人分あるので実質31人32脚になってたんじゃないかな(笑) よくぽっちゃりりょうくんって呼ばれてました。いじられるのは嫌いではなかったんですけど、太っていると30人31脚の足手まといになってしまうので、どうにかしなきゃとは思ってましたね。 ー誰かに攻められたことは……? それが私たちのチームは、そうやって誰かを攻める人は1人もいなくて。運動のセンスがなかった私に対していちから教えてくれる同級生がたくさんいました。 どうしてもみんなと同じステージに立ちたいという想いから、涙を流しながら日々練習し、なんと110㎏あった体重は半年で90㎏まで落ちたんです。さらに支えてくれる友人も増え、30人31脚で全国3位になることができ、人生がプラスに転じていきました。 ビジョンやゴールに向かってみんなで歩幅を合わせて、試行錯誤しながら進んで行った経験は今の仕事にも活きています。人を信頼することって大切だな、1人でできることには限りがあるんだなという気づきがありましたね。   成績ビリから生徒会長に ー中学生時代についても教えていただきたいです。 中学生の頃はものごとの変動が激しかったです。当時の私は運動だけでなく勉強もまったくできなかったんですね。校内テストではビリだったんです。 ある日恩師が「藤島くんは勉強できなくないと思うよ。興味の範囲を広げてみれば、また違った世界が見えるんじゃない?」と言ってくれて。その言葉をきっかけに猛勉強し始めました。 小学校1年生のドリルからやり直して、1日8~10時間は勉強しましたね。徐々に勉強の楽しさを見出していき、最終的には校内成績トップ10を維持できるほどになったんです。 その成果もあり生徒会に推薦してもらえて、中学2~3年は生徒会長を務めることに。勉強ができない人の気持ちがわかるので、勉強が苦手な人や、部活で勉強の時間を確保できない人のために勉強会を主催したりしました。 ー部活動ではどうでしたか? バドミントン部に入ったのですが、勉強と同じくビリだったんです。ビリで悔しいという想いから、ビリから這い上がるためにはどうすればいいか必死で考えました。 1年生の頃はしんどい時もありましたが、努力を続けたことで2年生でレギュラーを取れるようになり、3年生で区内1位を取り続けるところまで行けました。 ちなみに体重は90㎏から55㎏まで落ちました。身長が178㎝まで伸びたので、むしろ痩せすぎでしたね。 こういった勉強と部活の成功体験が、やればできるという自信につながりました。   周りに流されないことでテクノカットを回避 ー高校生になって、何か壁にぶつかった経験はありましたか? 悩みしかなかったですね。 当時ファッションにまったく興味がなくて、毎日シェル(貝殻)が印刷された赤いTシャツを着ていて(笑)5年間好きだった初恋の子に5~6回告白したんですが、1回も振り向いてもらえず、最後は「シェルのTシャツを毎日着ている人とは付き合えない」とバッサリ振られました…… 振られたショックから毎日ファッション雑誌を読みあさった結果、調べすぎてファッション好きになりました。ところがやっとおしゃれに目覚めたタイミングで、ものすごく校則が厳しい高校に入ってしまったんです。 どれくらい厳しいかというと、前髪が眉毛に1mmでもかかったらアウト、耳に髪がかかったらアウト、襟足があったらアウト。坊主頭か、オードリーの春日さんのようなテクのカットしかできない状況まで追い詰められました。 そこで頭の中に「何でこの校則ができたんだっけ?」という考えが思い浮かんできて。先生方に「校則によって何を防げるのか」「生徒のためになるのか」「テクノカットと坊主であることが学校のブランディングにつながるのか」と詰め寄りました。校則やルールに逃げることは、思考停止していることとイコールだと考えていたんです。 ー先生たちの反応はどうでしたか? ものすごく苦い顔をされましたね(笑)「言っていることはわかるけど、私たちの力ではどうすることもできない」と言われたのをよく覚えています。 当時は離れていく友達もたくさんいたんです。目立つような行動をしても私にとって損だとアドバイスをしてくれる友達もいましたが、それでも主張し続けたことでクラスで浮いていました。 逆にその中でも慕ってくれる友達もいましたね。どうやったら私の主張が通るか一緒に考え、校則を変えたいという人の意見を集めてデータをもとに戦おうとしてくれたりもしました。 その時の経験から、周りに流されず、かつ周りの考えも大切にしながら事業を進めていく術を学べたのではないかと思います。   仕事にのめり込む人を増やしたい ー高校卒業後、進学や就職はどのように進めていったか教えてください。 進学と就職どちらも誰にも相談せず、自分で選択しました。まず進学は、附属大学へ行くか、他の大学へ行くか、それとも自分で会社を立ち上げるかなど、いろんな選択肢を考えていて。当時からビジネスには興味があったので商学部に進学することに決めました。 就職活動では大手企業を目指していたのですが、就職指導課の方や友人に「うちの大学じゃ無理だよ。そんな大手に受かるわけない」と止められて。止められると本当にそうなのか検証したくなりました。 周りができないと思っていることでも、努力をすれば成し遂げられることを証明するため、ゴール設定をしてひたすら努力しました。結果的に、金融業界の大手企業5社から内定をいただくことができたんです。 ー実際に大手企業で働いてみて、ギャップはありましたか? ギャップしかなかったですね。丸の内で働くことに憧れがあったので、転勤が少ないと聞いていた信託銀行に就職したのですが、最初の配属がまさかの高知県でした。 また当時から自分で会社をやってみたいという気持ちを抱いていたので、経営者の方々と密接に関われることを期待して入社したのですが、金融やファイナンスのお話はできても経営的な視点ではなかなか関わることができませんでした。 3年ほど働いて、ふと「この職業をずっと続けていけるかな?」と考えました。定年まで、生涯をかけて仕事をしたいと思っているのですが、1つの基点だけで生きていくのはリスクがあるなと思って。 金融の知識も活かして別のことにもチャレンジするというように、かけ算のキャリアを歩みたいと思い、転職を決意しました。 ーそこから現在されている3つの仕事と出会った経緯を教えてください。 まずウォンテッドリー株式会社は、実は元々ヘビーユーザーだったんです。信託銀行を退職してフリーランスとして働いている時に、ウォンテッドリーで転職先を探していました。 「個を輝かせる」という軸で30社ほどピックアップして面接も受けました。その中で「そもそもウォンテッドリーってそういう会社だな」と、一周回って気づいたんです(笑) ちょうどウォンテッドリー株式会社で社員を募集していたのですぐにエントリーして、面接開始から1週間で入社を決めました。社内では最速入社だったみたいです。 副業でジョインしているインナーブランディング研究協会は、フリーランス時代に参加したイベントがきっかけでした。参宮橋のBarで一日店長をやるイベントを見て、なんとなく参加した先で出会ったのが、現会長の鈴木 誠一郎さんです。本当に運命的な出会いでした。 個人事業の展開は、コロナがきっかけですね。友人がコロナの影響でタイ人の彼女と会えなくなり、さらに事業主として展開していた飲食業や不動産業が大きな打撃を受けました。友人のそういった環境を救いたいと思い、外的要因に左右されない環境を自ら作り出すことに決めたんです。 ー3足の草鞋を履いた働き方は、率直にどうですか? とても充実していますね。信託銀行で働いていた頃は、日曜日しんどくなったり、月曜日を迎えるのが怖く感じたり、いわゆる「サザエさん症候群」に悩まされました。その経験から、仕事に対する負の感情をプラスに変えられる人を増やしたいと思うようになったんです。 実際に今働いているウォンテッドリー株式会社や、インナーブランディング研究協会、個人事業での仕事では、一人ひとりに寄り添って、生き生き活躍するための支援をしているので、それぞれでシナジーを生み出せていると思います。 実は四足の草鞋も履こうとしている状況でして、大切な方がVR・AR特化型の動画配信プラットフォームを作るという話が出ていて、市場調査から事業計画書作成までがっつり飛びついて行ってます(笑)まだまだ挑戦し続けます。   生き方・働き方に正解はない   ー転職や起業をするには勇気が必要だと思います。藤島さんが行動を起こす原動力は、どこにあるんでしょうか? 私が大事にしているのは、自分で自分の限界を決めないことです。転職や起業をするときに、周りから「やめた方がいい」「ここまでしかできないんじゃないか」と言われるケースは多々あります。 私はメンタルがものすごく強いわけではありませんが、自分で限界を決めないという想いと、人のためという想いから、周りの意見を気にせず突っ切れていますね。自分のためだけでは限界を感じてしまうので、仕事を通して人を幸せにする、など「人のため」が根源にあります。 ー仕事にやりがいを持てていない人に、メッセージをお願いします。 副業ができる会社に勤めている場合であれば、パラレルキャリアを歩むことをおすすめします。ご飯を食べるためだけのライスワークに依存していると、限界値があると思っていて。 収入だけでなく、誰かを救いたいとか、スキルを活かしたいとか、社会に貢献したいとか、そういった目的をもってライフワークも行うことで、より人生が輝くのではないでしょうか。 副業ができない場合は、改めて自分がやりたいことを言語化することが大切だと思います。私がウォンテッドリー株式会社の「シゴトでココロオドルひとをふやす」というミッションに共感して転職を決めたように、ビジョンやミッションに共感できるかどうかは、やりがいにつながってくると思うんです。 転職や起業など、いろんな選択肢があると思いますし、みんな違ってみんないいので、焦らずにしっかりと自分と向き合って今後の働き方を決めて欲しいですね。 ー自分の信念を曲げずに行動を起こしてきた藤島さんのお言葉は、一歩踏み出せない方々の力になると思います。本日はありがとうございました!藤島さんのさらなる挑戦を応援しています! 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) 編集者:あおきくみこ(Twitter/note) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

公式TikToker・ガリレオが語る、意外な過去と40万フォロワー達成までの道のり

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第178回は公式TikTokerであるガリレオさんをお招きしTikTokerに至るまでの経緯などをお話いただきました。 現在40万人のフォロワーを持つガリレオさんですが、普段はあまりお話しされていない幼少期のお話や、大学・大学院時代はウナギの研究をされていた話、元々はYouTuberとしての活動を考えられていた話など、パーソナルなお話をたくさんお伺いしました! 本業を持ちつつ、TikTokを更新する日々 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 ガリレオという名前でTikTokを中心に教育系のコンテンツを発信しています。また、公式TikTokerを含むインフルエンサーとしての活動やTikTokerの育成も実施しております。実はTikTok関連に費やしている時間はそんなに多くなく、本業は東京のインフルエンサー広告会社で営業統括として働いています。個人でインフルエンサーをしており仕事でもインフルエンサーに関わらせていただいているので良い相互作用をうむことができていると思っています。 ーしっかり本業も持たれているんですね!なぜガリレオという名前をつけられたのでしょうか。 ガリレオ・ガリレイから取りました。ガリレオは地球は太陽の周りを回っているという地動説を主張した人ですが、天動説を唱えていた教会と対立したことによって宗教裁判にかけられました。そのため正しいことを発信しようとしたにも関わらず、教会という権力に負けて真実を世の中に発信できなかったんです。 今はTikTokをはじめ、多くのSNSで誰もが正しいと思ったことを発信できる時代です。ガリレオ・ガリレイが正しいと思ったことを世の中に発信したように、私自身も正しいことを発信し続けようと思いガリレオという名前にしました。 ー具体的にはどのような教育系コンテンツを発信されているのですか。 もともとはコロナが流行しはじめたころに、コロナ禍で今後どのような変化がでてくるかなどといったことを題材に発信することから始めました。今はコロナ関連に限らず、政治の話であったり、環境の話であったりと幅広い内容を発信しています。   実は昔はコミュ障だった ーガリレオさんがTikTokerになるまでの話についても教えてください。もともと話したりするのは得意だったのですか。 高校までは鹿児島で育ちました。小さい頃は人見知りで、クラスメイトからも静かな人と思われていたと思います。コミュニケーションをとるのが得意ではなかったので友達も少なかったですね。中学3年の時に「コミュ障」という単語と出会い、自分がコミュ障であることを受け入れたと同時に、人と話せないのは問題なのかもしれないと思うようになりました。これがきっかけでコミュニケーション能力を改善するようになったんです。 ーそうだったんですね。今のご様子からは想像できません…!具体的にはどのようにコミュ障を改善されていったのでしょうか。 ちょうど進学した高校が、中学時代までの自分を知っている人が少ない新しい環境だったのでチャンスだと思い、意識的にキャラを変えていきました(笑)自分の笑っている顔が嫌いだったので、それまでは人の話を聞いてもほとんど笑っていなかったのですが、とにかく笑うことを意識していました。 また、それまでチャラチャラしている人に対して苦手意識を持っていたのですが、笑顔を意識するようになったことが功を奏し、たまたま同じクラスになった彼らと話すことができ、仲良くなりました。チャラチャラしている人に対する偏見がこれによって変わり、視野が広くなったのでよかったです。 ー高校卒業後の進路についてはどのように考えられていたのですか。 幼少期の頃から魚が好きで飼っていたりもしていたので水産系の勉強を大学ではしたいと考えており、北里大学の海洋生命科学部に進学しました。大学1年目は神奈川のキャンパスで、2年目からは岩手県にあるキャンパスで勉強予定でしたが、ちょうど東日本大震災と重なったため4年間神奈川で過ごしました。   安定を求めて大学職員になるも、IT系営業職に転職 ー好きなことの勉強に費やす4年間だったんですね! それがいろんなことに興味を持ってしまうタイプかつ、あまりのめり込むと飽きてしまうタイプだったので、入学後は魚に対する興味は薄れてしまっていました(笑)それでも、大学内にある小さい水族館のスタッフをしたり、大学の勉強はしっかりしていたりと、なんだかんだ魚に関わることに時間を使っていた気がします。 また、たまたま受けた授業でウナギの話があったのですが、その先生のプレゼンが上手だったことと、ウナギの完全養殖を世界で初めて成功したのが自分の出身高校のある街だったということもあり、4年生はウナギの研究に打ち込みました。結果的に、ウナギの研究を続けるために大学院の進学も決めちゃいまいたね(笑) ー水産系から離れることなく大学院に進学されたのですね! はい。その後は博士課程に進むことも考えたのですが、大学の職員として就職することを選びました。これは両親が国家公務員で安定を好む家庭で育ったことが影響しました。仕事を通じて成長したいという思いはあったものの、リスクは取りたくないと思い、安定と考えられている大学職員を選んだんです。 ー実際に就職されてみてどうでしたか。 働き始めてすぐに、ここは成長できる職場ではないなと気づいてしまいました。ならば仕事をしながら勉強しようと思い、様々な本を読んでいた時に落合陽一さんの「AI時代の生存戦略」と落合陽一さんと堀江貴文さんの「10年後の仕事図鑑」と出会いました。この本には、事務職が現在AIに代替されていないのは、人件費がまだ比較的安くAIの導入費用の方が高くつくからだけであること、技術的には十分発達しているので今後人件費が上がれば事務職は全てAIに代替されるだろうといったことが書かれていました。この本を読んで、これからまだ35年程働くだろうという状況で、大学の職員は決して安定ではないということに気づき、退職を決めました。そして、これから生きていく中で本当の安定はスキルを身につけることだと思い、汎用性の高いスキルを身につけるためにIT系企業の営業職に転職しました。 ー大学の職員から営業に転職してみていかがでしたか。 テレアポで数をこなすのは思ったより得意で、社外のお客様とのやりとりも特に困りませんでしたが、社内で関係性を築くのには結構苦労しました。この頃から営業をやりながら自分で何か力をつけたいと思いYouTuberなどに挑戦しはじめたんです。   発信力を持つ人間を目指して ーTikTokの前にYouTubeにも挑戦されていたんですね! そうなんです。TikTokは踊っている動画をあげるSNSというイメージが強かったのですが、たまたまYouTubeの登録者数を増やす方法としてTikTokがあげられている記事を見つけたので初めてみることにしました。 初めは昨年の12月に恋愛のノウハウを語るアカウントからスタートしました。このアカウントのフォロワーが順調に増えていたので、次は美容・健康について発信するアカウントを作りました。このアカウントが初日で5000フォロワーを達成。TikTokの自分のやり方、ノウハウに再現性があるのを確信しました。そして将来的に長く発信できる分野での発信を考えた結果、現在の教育系コンテンツにシフトを決めたんです。 ーそういった経緯があったのですね。どんな戦略でたくさんのフォロワーを獲得されたのでしょうか。 参入時期がよかったというのは大きかったと思います。その他具体的にやっていたこととしては、恋愛ノウハウを発信している時は猫カフェにアポをとり、そこで猫と一緒にTikTok動画を撮っていました。猫の写真や動画はSNSでバズることが多いのでそこで他のTikTokerとの差別化をはかったんです。また、今であれば毎回同じ服を着て動画を発信するなど、動画の細部にまで気にかけています。何の服を着るかということもインフルエンサー要素に影響してくるんですよね。 ーTikTokでバズるためのコツなどがあればぜひ教えてください。 教育系コンテンツを発信しているので「論破しないこと」を意識しています。誰かを敵に回してしまう表現は避けたいですね。一人語りではなく、相手の視線に合わせた発信をすることで共感性が生まれ、自然とフォロワーさんが増えていくと思います。 フォロワーを増やす方法に関してはよくご質問いただくのですが、うまい人・目標としている人を真似して自分の目利きを磨くことが大切だと思います。真似をすることからはじめ、そこからどんどんオリジナリティを足していくといいのではないでしょうか。 ーちなみにTikTokでバズったことで何か変わったことはありますか。 人生が変わりましたね(笑)現状TikTokだけで生活ができるわけではないですが、いつかできるかもと思えるくらいになってきました。TikTokを通して一緒に仕事をしたいといった問い合わせをいただくことも増えてきて、新しい人との出会いがあることも嬉しいです。 ー素敵ですね。最後に今後の目標があれば教えていただけますでしょうか。 ウェブ業界で働く中で、発信力を持っている人間が強いと改めて感じているので、発信力をこれからどんどん磨いていきたいと思っています。フォロワーさんの数が全てではありませんが、発信力があるかの指標としてフォロワーさんの数があげられることが多いので、この点を伸ばすことは意識していきたいと思っています。 SNSのおかげで言いたいことが言える時代になりました。バズるかバズらないかで出す動画を決めるのではなく、例え炎上しやすい内容であっても伝えたいことを引き続き発信していきたいと思っています。 取材者:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

「将来の夢は人間国宝です」桂枝之進が推して参る未来の落語

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第164回目のゲストは、落語家の桂枝之進(かつらえだのしん)さんです。 落語を、同世代にとってもっと身近なものにしたいと願う枝之進さん。中学時代に年間150回を公演し、ポーランドとフランスでの海外公演を敢行。中卒で落語家・桂枝三郎師匠に弟子入りしました。初めての社会人経験で、伝統的な落語業界に必要な礼儀や作法をほとんどゼロから学び取ってきたそう。親や先生、友人のしがらみを捨て去り、自分が狂愛する世界に身を投じて、伝統芸能を未来に継承しようとする現在に至るまでを取材しました。 「右向いて左を向いて」友人を笑かす ー自己紹介をお願いします。 桂枝之進です。2001年生まれの現在19歳です。5歳の頃に初めて落語を見て、9歳でアマチュアとして活動を開始し、15歳で師匠である落語家の桂枝三郎に弟子入りしました。現在はプロ4年目です。活動拠点は大阪ですが、最近は東京でもちょこちょこ活動しています。 -落語との出会いはいつでしょうか。 近所の市民ホールで開催される落語会に、親がたまたま連れて行ってくれたことが出会いとなりました。落語という言葉を知らず、「これ、なんなんだろう?」と疑問を持ちながら鑑賞しました。右、左と向いて、違う人物を演じ分けるおじさんを、日常生活で見ないじゃないですか。その後は、テレビやラジオで落語を見聞きしていました。9歳のときに学校の図書室で落語の速記本を借りました。落語の小噺で登場する全てのセリフが書いてある本です。興味本位だったものの、ずっと読みあさってましたね。 読んでいるうちに内容をだんだん覚えて、登下校中に友達に喋ってたんですよ。それが、自分で落語をやる一番最初の体験でした。「おかしなことをやってるな」と、友人は面白がってくれました。 「Il était une fois、昔々、un petit garçon、男の子が、」 -小学生、中学生でも落語に関わっていかれるんですか。 友達の前、親戚の集まり、飲食店と落語をする機会が広がりました。ちびっこ落語が少しだけ流行した時は、子ども落語の全国大会に出場し、それがきっかけで、キッズ落語家としてさらにいろんな機会に呼んでもらえるようになって。 中学生の頃は年間で150回ほど公演していたので、今より忙しかったですね(笑)。学校より落語が優先だったので、学校で授業受けていると、慣れない感じでした。ふつうの中学生だったら、月曜日から金曜日まで同じことの繰り返し。しかし、落語のおかげで古今東西に足を運び、いろんな体験や人に出会えました。毎日がどんどん加速していくので楽しかったです。 ポーランドとフランスに海外公演へ行ったときは、とても忙しくて、帰国した翌日は沖縄、その次は岐阜で…。落語を通じて社会と接点が増えました。 -印象に残っている舞台、もしくは場所はありますか。 フランスで「じゅげむ」を披露したことですね。「Il était une fois、昔々、un petit garçon、男の子が、…」みたいな感じで、フランス語と日本語を同時通訳で覚えました。海外で落語を初めて公演したので、ひどく緊張したことを覚えています。フランスの高校生が並ぶ会場に、着物を来て出る僕が現れると、「なんだこれは!」と驚いている様子でした。 フランス語は発音が難しいので、意味が伝わるのか不安でしたね。しかし、公演後に、「すごい面白かった」「フランスにも似たような芸能があるよ」と反応をもらって、ほっとしました。中でも面白かったのは、「あなたはラップができますかー?」と話しかけられたこと。「じゅげむ」では、「寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚の…」と、長い名前が登場するじゃないですか。これをラップだと解釈したらしく、僕にボケてきたんです(笑)。 プロポーズは、ローストビーフ丼とともに -ご自身がアマチュアからプロになる転機はいつだったのでしょうか。 小学校の卒業文集で「プロの落語家になりたい」と書いていましたが、「いつなろう」「なれるのかな」と思いあぐねていました。プロの落語会に足を運び、終演後の送り出しでは、落語家の先輩方に「いつ落語家になれるでしょうか」と、相談をしていました。 大学生や社会人生活を経て落語家になる人も多いので、弟子入りの平均年齢は20代後半。中学校を卒業してすぐに弟子入りすることに、周りの大人や友人は反対する意見が多かったんです。一方で、プロの落語家からは、「早くてもいい業界だと思うよ」と賛成する意見も多くいただきました。僕はどちらかというと早く落語家になりかったので、後者の言葉を信じたかったんです。 身近な存在からも、弟子入りをすすめられていました。中学3年生の進路相談では、学校の先生に「落語家になるって言ってるけど、どこに弟子入りするの。早く決めてこいよ〜」と尻を叩かれ、親からも「落語家に反対ではないけど、弟子入りできる覚悟はあるの」と、急き立てられていたんです。中学を卒業してすぐプロの落語家になるなら次の進路相談までには弟子入りしないといけないと思い、中学3年生の冬に弟子入り志願に行きました。 -弟子入り志願とは、どのようにして行うものなのでしょうか。 師匠である桂枝三郎の落語会に足を運びました。「このあと弟子入りを志願するんだ!」と考えると、頭がぼーっとして師匠の噺が何一つ耳に入ってこないんですよ。終演後に声をかけようとしましたが、言葉が出てこなくて…。他の進路は全く考えていなかったので、絶対に弟子入りを決めないといけない。だけど、なかなか切り出せず…。「これ、今か?今か?」と、タイミングを窺ううちに、「どうしよう、どうしよう!これで、決まるのか?」と焦燥感だけが高まりました。弟子入りは一生に一度の告白。プロポーズに近いもので、断られたら他の師匠ってわけにはいかないんです。 人生を決める一言をどう切り出そうか迷っていると、師匠は僕がいる場所まで歩み寄ってきて、「このあと、飯行くか?」って声をかけてくれたんです。「行きます!」と返答し、緊張ではちきれそうな心臓を押さえたまま会場を後にしました。近くのご飯屋さんに入り、頭の中では「弟子にしてください」と鳴り響いている状態で、米を口に運んでいると、師匠が「お前、弟子入りに来たんやろ」と話題を振ってくれて。「あ、そうです!」と安心して答えると、「桂枝之進っていう名前を考えてるんやけどどうや」って。僕は嬉しくなって、「ありがとうございます!」と返事をすると、「弟子としてのはじめての仕事や、ここの会計払ってといで」って言われて財布を渡されました。 後から聞いたら、その日、僕が落語会に来たときから、僕の挙動不審さから楽屋で「あいつ今日弟子入りに来ましたよ!」と、話題になってたらしいんです(笑)。落語家に弟子入りした過去が全員あるので、緊張が伝わったのでしょうね。 ーなぜ桂枝三郎師匠に弟子入りしたのでしょうか。 僕の師匠である桂枝三郎は、「枝三郎600席」というライフワークにしている落語会があります。600席の落語をする定期開催の落語会で、昔の資料から落語を再構築し、誰も演じていない噺を披露しているんです。訪れた落語会で、ほかの師匠と同じ演目だった…ということも度々あったのですが、師匠の落語会はいつも違う演目なので面白くって… 師匠の公演に足繁く通っていました。終演後に話をさせてもらうことも多く、僕のYoutube動画を観て、「ボタン(枝之進さんのアマチュア落語家時代の名称)、あの噺の所作はこうやで」と教えてくださることもありました。 はじめての舞台 -弟子入りを果たし、その後、どのような稽古やお仕事をされていらっしゃるのですか。 入門後、落語の稽古が始まりました。師匠の自宅へ伺い一対一の空間で座布団に座り、向かい合います。「三べん稽古」という形で、師匠がまず3回演って、その後に僕が演らないといけない。でも、3回聞いたぐらいで出来ないんですよ。それを何回も繰り返す。師匠の自宅を出ると、覚えたことを忘れないように、必死にボイスレコーダーに吹き込んでました。一ヶ月で1つの噺が終わると、次の一ヶ月はまた別の噺をはじめます。 また、お囃子(おはやし)と呼ばれる太鼓と三味線で奏でる効果音があります。これも、若手の仕事なんですよね。師匠によって出囃子が違うので覚えるのが大変で、鳴り物教室へ月に何回か通って、初歩的なところから覚えていきます。 さらに、師匠の仕事に同行し、師匠の着物を畳んだりとか、出囃子を叩いたりとか、いろいろお世話をするんです。社会人としての仕事も、弟子入りがはじめてだったので、最初のうちは何をしていいかもわかりませんでした。礼儀や作法は先輩の所作を見て学びました。一日一日を全力で駆け回り、帰宅の電車では何回も寝過ごして隣の市まで行くことも。 -一人で舞台に立ったのはいつだったんでしょうか。 弟子入りして一年後の年末でした。小さい頃から足を運んでいた寄席である大阪の天満天神繁昌亭が初舞台。僕にとっては憧れの場所だったんです。この舞台のために、半年間ぐらいは稽古をしました。初舞台は、太鼓や三味線に合わせて噺を展開する「ハメもの」入りの演目でした。 落語の初舞台で一番怖いのは、絶句すること。初めての舞台、そしてハードルの高い演目で、緊張していました。そしたら案の定、僕は舞台で、絶句したんです。「これはヤバイ」と心の中で思い、なんとかそれっぽく誤魔化したんです。 噺が終了し、「師匠なんていうかな、怒られるかな…」と不安を抱えて袖に降りると、師匠は、喜んでいました。「なんでだろう?」と不思議がっていると、「お前な、落語家は、ひゃっぺんの稽古よりいっぺんの誤魔化しやで」って。「100回稽古するより、実地で1回経験する方が大事だ」ってことを伝えてくれたんです。記念深い、思い出深い、初舞台になりました。 -現在は、SNSで落語を発信する活動もされていますね。 落語会の中では僕が唯一の10代ですし、お客さんにも同世代はいませんでした。そこで、「僕がおじいさんになって舞台で喋っていたら、観客席で誰が観てるんだろう」という意識が湧いたんです。将来、落語会にお客さんが足を運んでくれるためにも、同世代に落語を知ってもらうきっかけを、僕が積極的につくっていかないといけない。そう感じて、社会の中の立ち位置として自分のやるべきことが見えました。 僕のやっていきたいことは、同世代に対しての導入設計を考案し、実践すること。いろんなところで落語と触れる仕掛けをつくっていけたらいいなと思うんです。そこでまずは、SNSでアカウントを作成しました。修行中の様子や訪れた場所を発信すると、いろんな方と知り合い、同世代にアプローチできるような仕事が頂けるようになったんです。 -同世代に落語を知ってもらうために、ほかにはどのようなことを実践されていますか。 最近の活動では、「Z落語」というプロジェクトを立ち上げました。Z世代(95年から2005年に生まれた世代)にとって「落語はどんな存在になれるだろうか?」をメインテーマに掲げ、さまざまな取り組みを行っています。 例えば、「落語ってどんなイメージを持ってる?」「落語家と聞いて誰が浮かぶ?」と、Z世代に聞くと、「古典的、伝統芸能」「日曜日の夕方の笑点に出演する人」という答えが返ってくる。一方で、「次の休みに友達に落語に誘われたらどうする?」という質問に対しては、「興味があるから、行きたい」というポジティブな意見がアンケート調査回答全体の半数以上だったんです。 落語は古典的なイメージが強いんですが、漫才やコントと同じ日常的なエンターテインメントの一つです。予備知識を必要としないので、日常生活の娯楽として自然体で楽しんでもらいたいですね。 ー落語家として、何を大切に活動していきたいですか。 僕は、新しい落語をやっているように思われますが、古典落語しかやっていません。古典に落語の全ての魅力が詰まっていると思うからです。古典落語は400年の期間、脈々と受け継がれているので、今も廃れない笑いのポイントがあるんですよね。人間として生活する上でのあるあるが詰まっているものなので、日常的な笑いをもっと届けていきたい。 「温故創新」をモットーに、古典的なイメージの強い落語を、新しいカルチャーとしてZ世代に伝えたいんです。普段は大阪で落語家としてのキャリアを積み、古典落語を深めるのが温故。東京で新しい導入設計を展開することが創新だと思っていて、常にバランス保ちながらこれからも活動していきたいと考えています。 ーありがとうございました! 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:津島菜摘(note/Twitter) 編集者:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

組織に所属しながら「好き」も仕事に。パラレルワーカー・度会彩花のこれまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ、第177回のゲストは平日は社労士事務所で働きながら、ライターとしても活動されている度会彩花(わたらい・あやか)さんです。週末などの空き時間に「書く」という自分の好きなことを仕事にされているパラレルワーカーの度会さん。そんな彼女がライティングを仕事にするようになった経緯や、フリーライターとしてただ働くのではなくパラレルワークという働き方を選んだ理由などお話いただきました! フリーライターを趣味にして、組織に所属を選択 ーまずは現在のお仕事について教えてください。 名古屋を拠点に、平日は社労士事務所で採用労務コンサルタントとして働いており、週末はフリーライターとして活動しています。社会人1年目までは人材会社で求人広告ライターとして働いていましたが、その後フリーライターとして独立、今年の8月からはフリーライターとしての活動を続けながら現在の社労士事務所で働いています。 ー社労士事務所では具体的にどのようなお仕事をされているのですか。 社会保険労務士の所長の下で、企業の経費絵計算や補助金申請のサポート、社会保険取得の手続きなどのお手伝いなどをさせていただいています。人材会社勤務時代にも給与計算など労務系のお仕事を少ししていたこともあり、もう少しその分野でも経験を積めたらと思い働かせていただくことにしました。 ーその一方でライターとしての活動も続けられているんですね。 はい。ライターをはじめた当初はコラムの執筆などを中心にしていましたが現在は求人広告を中心としたコピーライターとしての仕事をしています。企業さんの代わりにホームページの会社案内に掲載する文章やキャッチコピーを作成したり、アイキャッチ画像を含め求人広告などを作ったりなど、制作系のお仕事をしています。   中学3年で突然食べられなくなった。 ー少し過去に遡ってお話も聞かせてください。どのような幼少期を過ごされたのでしょうか。 生まれは三重県なのですが、生まれてすぐに愛知県の春日井市に引越し、21歳までそこで育ちました。幼少期の頃から活発で人見知りしない、話すのが大好きな子供でしたね。 が、中学3年の頃に突然拒食症になってしまい学校に通うことが苦痛になりました。通常、拒食症や過食症はストレスなどが原因となっていることが多いのですが、私の場合は理由らしい理由が見つからず、突然ご飯が食べれなくなってしまいました。本来楽しいはずの学校のお昼休みは、ご飯を見たり匂いがするだけでも嫌だったので苦痛の時間になりました。また、ほとんど食べることができなかったため体力もなく、学校は不定期で休んだり、半日で早退したりこともありました。 ー拒食症はどれくらい続いたのですか。 約1年ほど続きました。突然食べれなくなったので怖くなって病院にも行ったのですが、原因はわかりませんでした。「あと3kg痩せたら入院してください」と先生にも言われるくらい痩せてしまいましたね。食事をすることがかなり難しく、基本的に水分に近いようなゼリーや、ヨーグルトなどを摂取していました。それすらも食べられないときは、最低限の栄養摂取のため、病院へ点滴を打ちにも行ってましたね。たまに食べられるタイミングもあったので、そういうときは少しずつ食べるという、不自由な食生活を送っていました。 ー何がきっかけで治ったのでしょうか。 特に何かがきっかけで治った訳ではかったです。原因も分からなかったなかで、時間が解決してくれたという感じでした。拒食症になった当初は、誰にでもできる「食べる」という簡単なことができない自分に苛立ちを感じたり、いつ治るかわからないことに不安を感じることが多かったりしたのですが、食べられない自分を徐々に認められるようになったのがよかったんだと思います。   大学入学後ライターとして本格始動 ー中学・高校で何か熱中していたことや取り組まれていたことはありましたか。 もともと読書感想文など文章を書くのが好きだったのですが、16歳の頃に、文章コンテストで賞を受賞したことで、「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」という一般書籍に、私の書いた文章が掲載されました。賞状と書籍が家に届いたときはびっくりしましたが、とても嬉しかったのを今でも覚えています。 ーその時の経験がライティングのお仕事をすることにつながったのでしょうか。 そうですね。大学に入ってからクラウドワークスというサービスを偶然見つけ、在宅で仕事をできるのが画期的だと思い登録してみたところ、ライティングのお仕事があったので、挑戦してみることにしました。 最初は経験がなかったので、かなりの低単価でした。それでもライターを続けられたのは、『やっぱり書くことが好き』『自分はいつか単価をあげられるという自信があった』というメンタル的な理由と、デビュー時は実家暮らしで金銭面で余裕があったという理由があったからですね。その時の自己肯定感の高さが、今の私をつくりあげていると思っています。 ーどのようなものを書かれていたのですか。 初めはクラウドワークスでのファッションやコスメ、仮想通貨に関するコラムライティングが中心でしたが、その後はコピーライティングにも挑戦することになりました。大学3年生の終わり頃、受付スタッフのアルバイトに応募し、それがきっかけでとある派遣会社に登録面談をしにいきました。面談時にライターとしての活動を話したことで、その面談をしてくれた社員さんに、「君さ、うちで求人広告ライターとして働かない?」と誘いをうけ、その派遣会社でライターとして勤務することになりました。 ー異なるライティングのお仕事をされてみていかがでしたか。 書くお仕事という点では一緒でしたが、気をつけなければならないポイントが違ったので初めは苦労しました。コラムの執筆などは要約に近いライティングですが、求人広告はどれだけ簡潔にその仕事の魅力を伝えるかがポイントです。 両方をやってみて、求人広告のライティングは人材不足の企業を救う仕事かつ求職者と経営者の人生を左右する仕事という点で、コラムなどのライティングよりもやりがいを感じました。   会社員生活を経て独立するも「頭打ちを感じた」 ー大学卒業後もライティングのお仕事は続けられたのですか。 はい。新卒では人材紹介会社の総務部に入社したのですが、介護の求人媒体を自社が持っていたこともあり、再び求人広告のライティングをすることになりました。結果的に大学時代に働いていた派遣会社と似たような業務を担当していましたね(笑) ー仕事面では大学時代と大きく変化はなかったのですね。プライベートでは何か変化はありましたか。 1年同棲していた彼氏と大学を卒業と同時に結婚しました。結婚するなら大学卒業のタイミングしかないのではないかと思っていたこと、車を買うことを検討した時などに結婚していない2人が一緒に暮らす不自由さを感じる部分があったこともあり、結婚を決めました。少し前に鼻の手術をしたのですが、入院中は家族としか面会ができなかったんです。そういったいろんな場面で、近くにいるのが彼氏ではなく、主人という人生のパートナーがいること、家族がそばにいることはとっても素敵なことだなと思いましたね。 ー順風満帆な社会人生活1年目を送られていたんですね。 そうですね。ただ、1年目を終えたタイミングでやっぱり一度フリーで働いてみたいと思ったため会社を退職し、フリーライターとして求人広告・会社案内やブログの執筆代行などをするようになりました。 そんな中ライター4年目を迎え、ライターの仕事に頭打ちを感じるタイミングがありました。私にとって仕事へのモチベーションは自己成長だということもあり、ライティング以外にもう1つ何か柱が欲しいと思ったので、人材会社で少し関わった採用や労務の分野でキャリアを積むために、社労士事務所で働く道を選びました。   将来の目標は人事労務に関わる講師業 ーまだ働き始められたところかと思いますが、パラレルワークを初めてみていかがですか。 これは人によると思いますが、自分の性格や描いているキャリアプランを考えると、今の働き方はベストな働き方だなと思っています。ライターとしても、採用労務コンサルタントとしても同時並行で経験を積めるのはパラレルワーカーである最大のメリットですね。 あとは、20代の間は自分の能力を使って社会に還元することよりも、経験を積みながら、学びながら少しずつ社会に還元していく時期だと思っているので、組織の力を借りて1人ではできない経験を積めることにとても感謝しています。 ー度会さんが描いているという今後のキャリアプランについてぜひ教えてください。 将来的にはライターと採用労務コンサルタントの経験を生かして、人事労務に関わる講師業をやりたいと思っています。これを30歳までに実現させるためにも、今のお仕事に全力で取り組みしっかりと経験を積んでいきます。 また、講師として働くのであれば、話を聞きたい、教えてもらいたいと思ってもらえるような人間であるべきだと思っているので、キャリアだけでなく、人間力もしっかり磨いていきたいと思っています。 取材者:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

「明日を楽しみに夜眠る人を増やす」 同世代に寄り添うN高生社長・三橋龍起の志

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストはN高等学校3年生の三橋龍起さんです。 「世界中の人々が、夜寝る前に明日も楽しみだな、と思える社会を創る」という志・ビジョンを掲げる三橋さんは、中高生向けのキャリア教育事業を展開する団体「Unpacked(アンパックド)」を運営されています。参加者である同世代と同じ目線に立ち、ご自身の言葉で語りかける、三橋さん得意の即興的プレゼンテーションを活かした対話が繰り広げられます。 「三橋さんと話したい!」と学生から支持を受けるほど、彼の言葉は同世代の人々の心に響いています。その言葉たちの裏には、15歳の時に最愛のお父様を突然失くすという出来事、「変わりたい」ともがき苦しんだ過去がありました。 情熱が溢れ、「今日より明日を楽しくできるように」というメッセージが伝わる彼の話とともに、揺るぎない信念が形成された経緯に迫ります。 湘南の高校生、1年で大変貌を遂げる ーご自身と、現在取り組まれている活動の紹介をお願いします。 三橋龍起(みつはし たつき)です。学校法人角川ドワンゴ学園 N高等学校(通称:N高)3年生です。N高は、出版事業などを行うKADOKAWAとインターネットの総合エンターテイメント企業、株式会社ドワンゴによって創られたインターネットと通信制高校を活用した新しいスタイルの高校です。 N高の特徴の1つは、各自の興味や志に合わせ、柔軟に学習カリキュラムを組み合わせられる環境です。また、生徒によっては一般的な高等学校で卒業までにかかる時間よりも短期間で高校卒業資格(高卒)を取得でき、空き時間を各々が専念したい活動に充てることができます。プログラマーやパティシエになるための授業など、生徒の視野や選択肢を広げるとてもユニークなコースも用意されています。 僕は、部活動では日本や世界を支える人材の育成を目指して設立された起業部に所属しています。この夏、起業部の特別メンターであるベンチャー企業の最高執行責任者らによる入部審査を通過することが出来ました。7月から本格始動し、秋に行われる学内審査会、その先の特別審査会に向けて事業計画に磨きをかけている真っ只中です。 僕の学校生活をお話しすると、東京・代々木のキャンパスに週3日通い、残りの時間で中高生向けのアイデアソンや経営者との座談会などの中規模イベント、日本最大級の中高生向けキャリア教育サミットを行う「Unpacked」の事業運営に励んでいます。その他に、経営者・教育者と対話をしたり、地方創生やSNS運用にも取り組んでいます。 Unpackedのメンバーは現役高校生で構成されていて、僕たちが目指すのは、高校生自らの手で中高生に価値を提供することです。11月に株式会社Unpackedとして登記し、僕は代表取締役社長に就任する予定です。 「Unpacked」としての活動は、個人的に掲げるビジョン・志「世界中の人々が、夜寝る前に明日も楽しみだな、と思える社会をつくること」を実現するための第一歩です。 ーとても活動的ですね。「Unpacked」の活動について詳しく教えてください。 「Unpacked」のMISSIONは「Find U for GO CRAZY-」です。何かしたくても何から始めれば良いかわからない、あるいは、なんとなく何らかの活動をしている同世代を対象に、未知なる発見や学びを様々な形で提供します。 それらを通して、自己と改めて向き合い、新たな自分をUnpacked(発見)できます。日本の未来を担う僕たちの世代が、目的意識を持って共に考え、行動し、問題を解決するために、講座をはじめとする多様な機会を提供していきます。 活動の背景には、僕たちなりのこの世界の将来に対する危機感がありました。日本社会は、20年間にわたってGDPの上昇がみられない、先進国のなかでも自殺率が抜きん出て高く、若者の自己肯定感・幸福度は最低クラス…など、向き合うべき課題が多数あります。 2019年11月に公益社団法人日本財団が日本を含む世界各国の18歳を対象に実施した「第20回 -社会や国に対する意識調査-」によると、自分の国の将来について「良くなる」という回答が過半数を占めたのは中国、インド、ベトナム、インドネシアでした。中国では、若者の96.2%が国の将来に希望を持っています。 日本では、「良くなる」と答えた若者がわずか9.6%でした。この結果を見て思い出したのは、SNS上で目にした「死にたい」「しんどい」などといった、行き場のない気持ちを抱えた同世代の投稿です。 僕自身も絶望感で心が埋め尽くされた時期があり、それを乗り越えて今の自分があります。 父を失くしてから、「ありがとう」さえ言えなかった後悔と無力感から、毎晩寝る前に「死にたい」と思っている自分がいました。同じような状況の人が前を向けるようにしたくて、個人的なビジョンが育まれ、活動の下支えとなっています。 幸せを感じる、歩んできた人生を好きになるには、その人自身が何を望んでいるかを知った上で、自らの意志で選択していく必要があると思います。周りに流されてなんとなく選んでいては、なかなか明日にワクワクすることはできません。少なくとも僕は周りに流されて何かすることは好きではなかったです。 ー最近の活動について教えてください。 2020年6月14日に「U18CareerSummit」を開催しました。「#なんとなくから卒業だ」をコンセプトに、Z世代である高校生が、同世代と志を掘り下げるための考え方、形にする機会、一緒に活動する仲間を得られる環境を共有します。それらを通して「活動に対する目的意識」と「継続力」を身に着け、社会に価値を出せる人材を輩出する国内最大級のキャリアサミットです。 具体的な内容として、ロールモデルとなる「すごい人」らのトークセッションや集まった学生同士のつながりを作れる場を創出しています。新型コロナウイルスの影響でオンライン配信となりましたが、約300人の高校生が参加するなど、大変な盛況となり嬉しかったです。 同年7月には「#世界で戦う準備はいいか。」をコンセプトにしたオンライン・オフライン併用型イベントを開催し、創立2年目となる情報経営イノベーション専門職大学を会場としてお借りしました。加えて、登壇者としてあの有名な中国のアリババの元日本支社代表であるグローバルパートナーズ株式会社の代表山本 康二さんにご登壇していただきました。 少しずつ、多方面の方々からご支援いただき、全国の中高生に向けてメッセージを発信する機会を作ることができています。 ー17歳で明確なビジョンを持つだけでなく、既に形にしつつある高校生は珍しいですよね。 こう見えて、実は1年ほど前までは、地元の湘南でバスケットボールをし、放課後に友達とタピオカを飲んでいるような、いわゆる「量産型高校生」でした。 たった1年でどうして自分がこんなに変わることができたのか。「今の自分を変えたい」という執着心があったからだと思っています。 あとは、N高という、生徒一人一人の考えを尊重してくれる特別な環境に身を置いているから、とも思います。自分がしたいことに時間を使うことができて、一人一人の「違い」を認め合える環境、関心分野は違えど切磋琢磨しているクラスメイトの存在、N高という環境なしには今の自分はいません。 誰よりも尊敬する父の死が原動力 ー小学校の頃のご自身について教えてください。 周りの子に比べて精神的に幼く、いつも先生やクラスメイトに迷惑をかけていました。それが原因で、いじめも受けていました。 そんな自分を心配した親が学習塾に通うことを勧めてくれて、人生最初の大きな転機を迎えました。塾に通って数ヶ月で成績が上がり、自分の振る舞いもかなり落ち着くようになったんです。小学校では、勉強やスポーツが得意な子がクラスで一目置かれることが多いですよね。僕自身も「優等生」に生まれ変わったかのように、クラスメイトや先生から信頼を取り戻していったんです。 今振り返ると、この経験は自分に「やれば出来る」という自信をくれた、一つの成功体験ではないかと思います。 ー中学校時代の三橋さんはどんな学生でしたか。 順調な学校生活を送ることができた小学校の後半からの波に乗り、順風満帆な日々を送っていました。父親を亡くすまでは、です。今でもこの頃の何気ない日常の風景を思い出しますよ。 小学校を卒業して、そのまま地元の公立中学校に進学したんです。バスケットボール部のキャプテン、学級委員長などを経験し、みんなの先頭に立つタイプでした。 僕は昔から人に興味があって、人と話すのが大好きです。先生はもちろん、活発な子も大人しい子も、クラスメイトの誰とでも分け隔てなく仲良くしていました。 その頃は、自分は中学校を卒業したら地元の進学校へ進み、そして「良い大学」を経て「良い会社」に勤めるのだろうと、レールに乗って進んでいく人生を漠然とイメージしていました。 ーお父様を亡くされたのはいつ頃ですか。 中学校3年生の11月、高校進学に影響を与える期末テストに向けて勉強していた時でした。夜、父が2階から降りてきて「頭が痛い」と急に倒れ、救急車で運ばれたんです。次の日、母が「父が手術を受けるけど、90%以上の確率で成功するみたい。安心して学校に行っておいで」と言うので、僕はいつも通り登校しました。期末テストの2日目が終わった時、母から電話で呼び出され妹と病院へ向かうと、父は重症でその日に亡くなって…。 「父の容体は、大丈夫だから心配ない」と医師に言われていたけれど、人の命に「絶対大丈夫」という保証はないのだと、その時に教訓めいたものを得ました。 ー中学生が一人で抱えきれないくらいの悲しみだったと思います。 そうですね。僕が帰宅すると父も家に帰っていそうな気配がする、でもその瞬間、父はもう二度と家に帰ってこないと気付く…父の死から間もない頃は、悲しいというよりも不思議な感覚だったのを覚えています。 周囲の人たちはこの時、僕への接し方を変えませんでした。それが、僕にとっての一番の拠り所でした。学校へ行けば、みんないつものように笑顔で話しかけてくれるし、冗談も言い合うし、バスケットボールを一緒にする。 あとは、父親が僕に注いでくれた愛情に救われていたと思います。その受け取った愛情は、今も僕の中に残っています。 ーお父様はどんな存在でしたか。 父親とは喧嘩を時々しましたが、仲直りした後「パパは龍起の味方だよ」といつも言ってくれました。父のこの短い一言が、いつもでも僕を生かしてくれている。父親に会えなくなっても、自分は独りではないと思えるんです。 昔、獣医師に憧れた父は、高校時代には特待生の認定を受けるくらい優秀でした。でも、父方の父親が突然病に倒れると、父は消防士を目指さざるを得なくなりました。 そんな父が消防の専門知識を勉強していた頃に使っていたノートを目にする機会があったんです。父のひた向きな生き方が表れたノートだったので、それまで以上に尊敬するようになりました。努力家の父を思い出すと、僕も「もっと努力しよう」と踏ん張ることができるんです。 ー高校入試に影響はありませんでしたか。 父が亡くなって、勉強へのモチベーションは下がるどころか上がりっぱなしで、受験勉強をとても頑張りました。その一方で、喪失のショックのせいか、いくら時間をかけて机に向き合っても、内容が頭に入らなくなってしまいました…。 第一志望の高校には数点足らず、第二志望の学校へ進学しました。父が亡くなった直後の新生活スタートとなりましたが、高校生活に対してはとても前向きでした。 ところが、入学してしばらくすると、夜寝る前に父親のことを考えて苦しくて眠れない日々が続きました。「消えてしまいたい」「死にたい」と毎晩追い詰められて泣く…ゲームやYouTubeで現実逃避しようと努めたものの、苦しくて仕方なかったです。 自分を変えられるのは自分だけ ー当時の苦しみが伝わってきます。どのようにして乗り越えられたのでしょうか。 自分に向き合う時間を通して乗り越えられたと思います。高校2年の頃、持病のアトピー性皮膚炎とアレルギーの治療をするために3週間ほど入院することになりました。今思えば、高校入学以来、勉強や部活に追われていた僕はどんどん精神をすり減らしていたと思います。偶然だったのですが、僕が僕自身を取り戻すことができたタイミングです。 ちょうどこの頃、僕は人生が中学時代のように上手くいかなくて、何とか変わりたかったのを覚えています。不満が募っていた理由は、父の死以降、不安定な精神状態を引きずったからか、些細なことで人と衝突することが増えたことでした。高校に入ってからは彼女ができたり、バスケを楽しんだり、順調に高校生活を送れていると思っていたのですが、周りから「負のオーラ」が出ていると言われはじめて…勉強も部活も人間関係も順調だった中学校の時の僕ではなくなったかのようでした。 あとは、当時通っていた高校の教育方針に疑問を感じていました。一方的に教わるのではなく、自ら考えて学ぶ、中学時代の授業スタイルが僕に合っていたのだと思います。 ー入院中はどのように自分と向き合われましたか 僕自身が何を不満に感じるのか・どう在りたいのかを考えたり、情報収集をしました。 入院期間は3週間ほどでしたが、休んで自分を見つめ直す良い機会になりました。高校生活が始まってから休む暇もなかったので、知らないうちに心も体も悲鳴を上げ始めていたのかもしれないです。時間ができたので調べ物をしてみると、東京で活動している団体や、毎日のように開催されているイベントについて知り、参加したくなりました。 それから毎日のように放課後に東京へ行くようになり、あるイベントで横浜市立上永谷中学校の元校長、北見俊則先生にお会いしました。僕より豊富な人生経験をお持ちにも関わらず、若者のような真っ直ぐな探究心と終始楽しそうにされている様子に惹かれました。私自身も1度きりしかない人生だからこそ「一日いちにちを後悔のないように生きよう」と決めました。 ー変化を求めて動いたら、前に進めたのですね。 そうですね。人との出会いが大きく自分を変えました。僕はこの1年で、5,000人くらいの人に会ってきました。 そのうちの1人、先ほどお話しした北見先生の言葉が私の足を動かし、軸を持つきっかけとなりました。北見先生は、志を高く持ち、そのために行動した方が毎日が充実する、という考えを元に「志教育」という教育方針を掲げています。その講演を聴き、自分がやりたいことに存分に時間を使うことのできるN高へ転入することを決めました。 上場企業である株式会社フォーバルの会長・大久保秀夫さんとの出会いも印象に残っています。思いを持っているだけでは自分の理想は形にならない、行動し続けなればいけない、ということを教えていただきました。 ー引っ越しなどを伴わずに高校を転校するという選択は珍しいかと思います。お母さまにはどのように納得してもらいましたか。 「現状を変えたい」という強い執念を持っていたからです。 いくらしたいことがあっても、親を説得する必要はあり、そのためには材料がいります。ブレない目的意識を持っていて、信頼を得られるように、プレゼンテーションで賞を獲得するなど実績を積みました。 目的ある行動の積み重ねが、大きな一歩を踏み出す力となりました。 ーN高の北見先生の影響を受けたというご自身の「志」について教えてください。 僕の志は「世界中の人々が、夜寝る前に明日も楽しみだな、と思える社会を作ること」です。この原点は、やはり父の死にあります。父を亡くしてから毎晩、辛くて死にたくてなかなか眠れず苦しみました。明日もずっとその先も、自分には真っ暗闇にしか見えなかった からです。同じような思いをしている人たちを救いたいです。 僕がこうして志を言語化することが出来るのは、北見先生が勧めてくださった第2回世界青少年「志」プレゼンテーション大会の選考で出会った方達のお陰です。 応募者200人から10人のファイナリストの1人として選ばれた時、過去にファイナリストに選ばれた方々や外部講師の方にメンタリングをして頂くとても贅沢な機会がありました。 自分の志に対して様々な角度からフィードバックをいただきながら、深く掘り下げていきました。 ※ 第2回世界青少年「志」プレゼンテーション大会でのスピーチの様子 ーご自身の志を作ってから生き方は変わりましたか。  そうですね。実は、志を持つ前は、辛くなったら街で遊び歩いていたこともあったんです。でも、色んな方々との出会いを通して、自分にも「社会貢献できる」「社会貢献したい」という想いが芽生えました。  最初は僕のビジョンを同世代にバカにされたこともありましたが、少しずつ有言実行を積み重ね、実績を出すと、周りが認めてくれて。経営者の先輩方も、新しいことを吸収したい僕にどんどんチャンスを与えてくれるようになりました。 自分の言葉が自信を育む ー「Unpacked」のイベントを通して同世代に何を伝えようとしていますか。 生きていると、いつ何が起きるか分からないので、1日1日を自分が在りたい姿で生きて欲しい、と伝えようとしています。 あと、僕は「ありがとう」という言葉に強い思い入れがあり、「もっと人に『ありがとう』って伝えよう」と話すことも多いんです。僕自身がそうであったように、人には「死にたい」や「辛い」と思う時もあると思います。それでおしまいにするのではなく、日常を振り返って、周りの人や自分の境遇に感謝する、そしてそれを伝えると、周りの人だけでなく自分自身も幸せを感じます。「ありがとう」は本当に偉大な言葉ですし、大好きな言葉です。 最近、嬉しいことに、「三橋さんの話を聞きたいです」と連絡をくれる高校生も増えてきました。「話を聞いて励まされました」と言われることも多いですが、実は皆さんにお話することで僕自身が力を貰っているんです。 ー人に何かを伝えるとき、どんなことを意識していますか。 まずは、会場との一体感を大切にしています。僕は準備をするのが好きではありません。事前に話したい要点だけを頭に入れて、あとは会場の空気感や反応を探りながら話を展開します。 また、僕自身の言葉で話すことも意識しています。どんな状況でも、言葉に責任を持つと自信が生まれます。自信を持って対話すれば、必ず相手の心に響くはずです。 先ほどお話ししたプレゼンテーション大会では、他の参加者はスライドを作っていたのを覚えています。もちろん、スライドを使うことはスピーチをする上でとても効果的です。でも、僕はスライドを使わず、言葉で参加者の心に訴えたかったんです。飾らない、等身大の僕自身であるように心がけていました。 ー現状を変えたいけれどなかなか踏み出せないという人が目の前にいたとしたら、どんな言葉を伝えますか。 「まずは、どんなことでも良いので、今日・明日でやりたいことを一つでも始めよう。それを積み重ねていくと、『自分で切り開いた人生』と言えるから」と声をかけたいです。 僕自身を振り返ると、一年前は現状を変えたくても、なかなか思い通りにならずもがき苦しんでいました。色々と挑戦するうちに気付いたのは、小さなことでも続けていけば、振り返ると道ができていること。難しく考えなくて良かったんだなと。もちろん考えることも大切ですが、行動に移すことを疎かにできないです。 ー何かを決断する時に意識することはありますか。 自分で自分の行動を選択する、です。僕も、時には周りに流されることはありますが、最後は自分で決めるようにしています。 それから、物事は良い面も悪い面もあるので、何をするにしても自分で納得することが大事だと思います。例えば、YouTubeを見過ぎると罪悪感を抱く人が多いと思うんです。「自分は良くないことをしてしまった」と。本当にそうでしょうか。YouTubeを1時間見た時、「気分転換することができた」と肯定的に考えても良いです。 ーたくさんの人に会ってきた三橋さんは、人と接する時に何を大事にしていますか。 コミュニケーションにおいて、気持ちを言葉で伝えることはとても重要です。基本的なことですが、先ほど挙げた「ありがとう」と「ごめんなさい」を伝えることは特に大事にしています。 これは過去の僕自身を反面教師にしています。N高に入ってすぐにインターンを始めた時、自分のことばかり考えて行動していました。精神的な辛さを言い訳に、人の親切にお礼を伝えないとか、チャンスを与えて貰ったのに突然消えたりしてしまったんです。あとで深く後悔しました。 ー三橋さんの人生において、お父様の存在は大きいものだと思いますが、どんな姿をこれから見せていきたいですか。 まずは、僕が父に感謝しながら日々生きている姿を見せたいです。父は突然亡くなったので、面と向かって「僕の父親でいてくれてありがとう」と伝えられず、ずっと心残りでした。 それから、僕が死んだ時に父が「龍起は親孝行してくれた」と思ってくれるような生き方をしたいです。父が消防士として日に日に社会に尽くしたように、僕も志に真っ直ぐでありたいと思っています。 ー最後に、将来の夢を教えてください。 今のビジョンは、すでにお話したように「寝る前に明日が楽しみな人を増やす」です。引き続き、イベントなどを通してどんどん形にしていきたいです。今年の秋から「経営者」という立場になりますが、それはあくまで自分がしたいことを成し遂げるための手段に過ぎません。常に、「こういう世界にしたい」という理想像を自分の頭の中で持ち続けたいです。 あとは、「何にでもなれる人」に憧れています。今は教育関係の起業をしてますが、今後はその時々で、僕自身が「おもしろい」と思ったことをして生きていきたいんです。 ありがたいことに、僕の周りには「すごいな。あんな大人になりたい!」と尊敬できる、経営者を含む大人の方がいます。いずれは僕もそんな風に慕われる人間になりたいです。 ー今日はお話をありがとうございました。 取材 : りっちゃま (Twitter) 編集:野里のどか(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter) 執筆:Yuka(Twitter)

学生映画を切り口に「固定概念」を壊す。 熊谷宏彰の学生生活を自粛させない「行動力」とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、群馬大学の4年生(21)熊谷宏彰さんです。 熊谷さんは、2020年8月16日に公開されたオムニバス長編映画「突然失礼致します!」で総監督及び製作総指揮を務めました。 この長編映画は、全国約120以上の大学の映画部を中心に、一団体1分以下の動画を集めて3時間14分の作品にしたもの。 コロナ禍でサークル活動も自粛される中、表現活動をしたい学生にとって「希望の光」となりました。 その裏には熊谷さんの「固定概念を壊したい」という強い思いが。 一体彼の原点は何なのか。どんな思いが学生映画の活動に結びついているのかを伺いました。 「普通じゃない人生がいい」幼少期で抱いた退屈さ —幼少期はどんな子でしたか? 人生の全盛期でした。思いついたことは全部やっていましたね。 途方もなく退屈だけど何をやっても許される時期でした。 僕はずっと「普通じゃない人生を歩みたい」と思っていて、小さいながらもやりたい事がやれる環境があったと思います。 —「普通じゃない人生を歩みたい」と幼稚園から抱くってすごいですね。なんでそう思ったんですか? きっかけは分からないのですが、ずっと周囲を見て「つまらないなあ」と思っていました。 僕は群馬県の片田舎に住んでいます。 その田舎の閉塞感がとても嫌だったんですよ。「普通」が賞賛され「普通」が好まれることにずっと違和感を抱いていました。 そんなことをずっと考えていたので、思考と行動が伴わない生きづらさでいっぱいでした。 中学の時は文字通り、鳴りを潜めていました。小学生のとき、僕の非常識さからか親が学校に呼ばれたりで、静かにした方が楽に生きられるんじゃないかなと思っていました。 中学3年間、自己主張しない主義で、むしろ人と話してはいけないとまで思ってましたね。 —なるほど。高校もそんな感じでした? いや、さすがに学びましたね。 意地を張って話さないことを辞め、普通の高校生時代を過ごしました。 高校3年生のころ、自分の人生に漠然と危機感を覚えて受験勉強に打ち込みました。 商業高校で進学率も殆ど皆無に等しかったんですけど、一念発起し毎日勉強を開始。 カリキュラムも普通高校と商業高校とは異なるので大変でしたね。 短期大学で世界が広がった。ヒッチハイクで日本一周へ —受験結果はどうでしたか? 東京の大学を一校だけを受験していました。 自信はあったんですけど見事落ちまして。 その後、教員に報告しにいくと短期大学を勧められました。 —短期大学!進学できたんですね。 無事に合格できました。 学費の問題が非常にネックでしたが、親に土下座してなんとか入学を許してもらえました。 短期大学は第二の人生です。 大河ドラマでいうならまさに「後半戦」で、ここから世界が大きく変わりました。 親元から離れて自由になれたし、何より短期大学には愉快な人がたくさんいました。 色々な価値観に触れることができたので退屈することはなかったですね。 —印象的だったことはあります? ヒッチハイクを始めたことです。2年生になる前の春休み、なんとなくインスタグラムを見ていたんです。そしたら友人の写真に変な人が写っていることを発見。 調べてみたらヒッチハイカーでした。春休みは暇をしていたので「これだ」と思い動きましたね。出発点はヒッチハイクで有名な東京の用賀にしました。 通りに向かって試しに「西へ」と紙を掲げたら、10分後に拾ってくれた時は嬉しかったです。 —10分でくるとは...! 気付けばその日のうちに神戸に到着していました。 最終的には福岡県の大宰府まで行きましたね。 「一歩動き出せば意外とうまくいく」と実感しましたし、車内では乗せてくれた人を楽しませようと話したので、良い意味でコミュニケーションの勉強になりました。 「何はともあれやってみる」という感覚は編入試験でも活かせたと思います —編入試験は難しかったですか? 大学の編入試験は特殊な形式で、特定の資格があれば試験を受験できるというものでした。 資格があったので編入試験にチャレンジすることにしました。 編入試験は試験前に事前に試験範囲として提示される二冊の教科書を丸暗記したら合格できます。 1週間だけですが、自転車で公園行ってハンドルの真ん中に教科書を挟み、1日10時間、文をひたすらぶつぶつ唱えるやり方をしました。 読んでいるだけだから飽きなかったですね。 それで合格できました。 モチベーションの一つにヒッチハイクがありました。 日本一周したくて早く進路を決めたかったのです。 —日本一周もされたんですね! 20才になる前にヒッチハイクで日本一周を決行しました。 朝起きた時に「(これは夢ではなくて)まだ続くのか」と思った瞬間は感慨深かったし、本当に本当に楽しかったですね。 そんな中、ある運転手さんから「海外でもヒッチハイクをやってみろ」と言われました。 それで海外でも同じことをやろうと思いました。 2週間ほどタイでもヒッチハイクをしましたね。すごく楽しかったです。 「何かやりたい」思いから映画サークル立ち上げへ。業界の地位も上げていきたい —ヒッチハイクにのめりこんだんですね。編入してからの大学生活はいかがでしたか? 大学は安定思考の方が多い印象でした。 編入ゆえのカリキュラム的に単位も多く取得しなければいけないので平日は授業の日々。休日はアルバイトと自動車教習で正直退屈で行き詰まりを感じましたね。 —確かに学生生活は何をすればいいか分からなくなると絶望するのは分かります...。 そうですね。 「何かやりたい」という思いは強かったのもあり、3年生の10月に自分が好きな映画に関するサークルを立ち上げました。 大学公認のサークルにしたかったので、部員を集めて顧問教員を見つけ、学校に活動内容をプレゼンして認めてもらいました。 —すごい行動力! 私は映画というメディアの持つ意義そのものに興味を持っています。 ですが、実際大学生が映画サークルで作る「学生映画」の既存の立ち位置には限界を感じていました。 サークルは表現活動として賞をもらえたら一区切り、みたいなルーティンを当たり前としています。 映画はもっと今後広がる産業であるから、その原動力となる学生映画の地位を向上させていく必要があると思いました。 —映画好きだけでなく、業界の地位も上げていこうと...。 はい。ですが、部員も集まり映画を撮ろうとした矢先にコロナで活動自粛で何もすることができなくなってしまいました。 その中で他の映画サークルは、どんな様子かとSNSで他大学の映画部の部員との交流を提案して繋がり始めました。そこで皆が共通して「何か作品を撮りたい」という気持ちを抱いていたことに気付いたのです。 —コロナで家にいることを強いられても活動自粛は強いられていない、と みんなが動き出すきっかけを僕は作っただけです。 全国の映画サークルを検索し「学生映画をオープンにし、皆でオムニバス形式の映画を撮らないか」と提案していきました。 これが8月に公開された長編映画『突然失礼致します!』の原型になります。 東日本から西日本まで連絡し、主要メンバーを集めて製作委員会として多くの人々を巻き込んでいきました。製作期間3ヶ月でそれぞれの大学で映画を制作してくださり、最終的に180本もの作品を集めることができました。 クラウドファンディングも成功したので、その映画をミニシアターで公開します。 より多くの人に学生の創作活動を観てもらいたいと思います。 —最後に今後の展望を教えてください! これからも「固定概念の破壊」を行っていきたいです。 普通じゃない人生がいいという思いも、普通に囚われる固定概念が強いと思ったことの裏返しです。映画産業を切り口にして、これを行っていくために制作した映画をきちんと広め、横に思いを繋げていきたいです。 またこの産業を営利的に支えられる職業につけられたら理想です。 ーコロナで大学生活がストップしてしまった人にとっても、励みになると思います! 熊谷さんの今後を応援しています。ありがとうございました!   ▼映画の本編映像はこちら (10月31日まで期間限定公開中!) https://youtu.be/tGx72Qv9-3Y ▼映画のホームページはこちら https://a.japaration.jp/ ▼熊谷さんのインスタグラムはこちら https://instagram.com/hialoki 取材者、執筆:三田理紗子(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

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