「楽しい」を「好き」へと揺さぶるブロガー・加藤瑞貴の人生を豊かにするサイクル

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第309回目となる今回は、現役立教大生ブロガー(※取材当時)のてんび〜さんこと、加藤瑞貴(かとう みずき)さんをゲストにお迎えし、現在に至るまでの経緯を伺いました。 小学6年生の頃からブログを始められ、人生の半分以上をブログとともに過ごしてきた加藤さん。ブログ運営においてモットーにされている、「楽しい」を「好き」へと揺さぶる記事とは? ブログを軸に回しているサイクルとは? 加藤さんのこれまでについてお伺いする中で知ることができたのは、人生を豊かに過ごすためのコツでした。   ー自己紹介をお願いします! 立教大学4年生の加藤瑞貴と申します。インターネット上では「てんび〜」という名前で活動しています。 「ガジェットタッチ」というブログを運営しながら、「Yahoo! JAPAN クリエイターズプログラム」のクリエイターとしても活動しています。2020年11月には、初の著書である『大学生のためのレポート・卒論で困らないワード/パワポ/エクセルのコツ』を出版しました。   ーブログを中心に幅広く活動されているんですね! ブログ歴は人生の半分以上という、加藤さんのこれまでについて掘り下げていきたいと思います!     小6でブログとTwitterを開始 ー幼少期はどんなお子さんでしたか? 色んなことに興味がある子どもでした。 小学生の頃は、特に電車や車が好きでしたね。親の話によると、よく見ていた電車のDVDから漢字も覚えていたとか。 自分の興味・関心を軸に、周辺知識も吸収していくタイプでしたね。   ー当時からご自身の「好き」に対する思いははっきりしていたんですね...! その好奇心旺盛さから、小学校6年という早い段階でインターネットと出会ったんだとか。 インターネットに興味を持ったのは父親の影響ですね。12歳でiPod ouchを買ってもらったのがきっかけでした。 インターネットにアクセスできるようになったと同時に、父親がやっていたTwitterにも興味を持ち、アカウントを作ってもらいました。当時は13歳未満でも登録ができたんですよね。   ーTwitterはどのような使い方をされていましたか? 自分の興味のある事柄について呟いたり、趣味が近い人をフォローしたりしていました。 Google検索よりも早く知ることができる点や、自分よりも知識を持っている人と、年齢の差を感じることなく会話できる点に、とても魅力を感じました。   ー同じタイミングでブログも始められたそうですね!何をきっかけに始めようと思われたんでしょうか? 当時ハマっていた「太鼓の達人」のプレー記録として始めました。 自分の取ったハイスコアを写真に撮って載せる、という日記のようなものが原点でした。   ーまさか「太鼓の達人」がきっかけだったとは...!よくネットに上げようと思われましたね! ゲームについて発信している人のブログや動画を目にして、自分も真似したいと思って始めましたね。 一方で、現在のブログで発信しているガジェットにも、当時から関心がありました。 ガジェットについての記事やツイートを見ていると、海外のニュースをそのまま翻訳して発信している人が多くて。小学生の時から英語が好きだったので、これなら自分でもできると感じました。 そこで、ニュースをただ翻訳するだけでなく、小学生でも分かるレベルに噛み砕いた記事を書き始めたんです。 すると、Twitter上でシェアしてくれる人が徐々に現われました。 活動を応援してくれる人がいて、内容も人のためになっている、ということでどんどんのめり込んでいきました。     中学生ブロガーとして活躍!ブログは月間20万PVに ーその時から現在まで続けられているのはすごい!中学生になってからの発信内容はどんなものだったんでしょうか? 中学2、3年の頃から、ニュースやガジェットに加え、プライベートな内容も書き始めました。主なテーマは、高校受験に向けての学習スケジュールや、日々の生活についてでした。 学校以外の時間はほぼブログ漬けの毎日でしたね。朝早起きして1本書いて、学校に行って部活終わりに1本書いて、といった調子で、多い時は1日に5本書いたりもしていました。   ー1日5本...!!超多忙な学生生活でしたね。 その頃から、ブロガーのオフ会にも顔を出すようになりました。 自分の親世代の人ばかりの中で、自分だけ中学生で。珍しがってくれる人や、「こんな中学生がいるぞ」とシェアしてくれる人たちのお陰で、どんどん話題になっていきました。それに伴い、ブログも月間20万PVを叩き出すまでに成長しました。 イベントを主催したこともありましたね。 各々ブログを書いたり、情報共有のために語り合ったりするブロガー合宿を、2、3回開催しました。   ー高校の頃もブログは継続されていたんでしょうか? それが、高校は進学校だったので、ブログを書く時間がなくなってしまったんですよね。勉強と部活に時間を費やしていました。 中学3年間はずっとブログを書いていたこともあり、学生らしく高校生活を楽しみたいという思いもありました。なので、ブログを書けなくて嫌だという気持ちはなく、純粋に高校生活を楽しみました。     第一志望不合格。人生初の挫折も前向きに ーしっかりメリハリをつけて生活されていたんですね。大学はどんな基準で選ばれたんですか? 自分の興味を深掘りできたり、広げられるところを考えていました。 志望校は高校1年の頃から決めていたのですが、その年の小論文が難しく不合格になってしまいました。人生初の挫折でしたね。   ーそれは辛かったですね...。 この時はかなり落ち込みました。 でも、第一志望に縁がないとすれば、小論文だろうと分かっていました。得意ではなかったところに、たまたま苦手なジャンルのお題が当たってしまったので、しょうがないなと。 それよりも、入学後の4年間について考えた方が、自分にとって良いと考えるようになりました。人生初の挫折にしては、すぐに切り替えることができましたね。   ーポジティブ...!その後はどんな生活を送られたんでしょうか? 受験が全て終わった次の日から、休止していたブログを再開しました。 受験生をしながら、ブログに書けそうなネタを溜めていたので、まずはそれを記事化していきました。   ー本当にブログが好きなんですね!内容はどんなものを書いたんですか? 受験の勉強方法や、大学生活を控えた当時の自分が使っていたモノについて書きました。中学までと比べると、自分の経験をベースにした内容が中心になりました。今のブログのスタイルに近付いてきたのは、この頃からですね。   ーブログの運営以外に、何か活動はされていましたか? 周りのブロガー友達が、企業からのタイアップ案件を始めたのをきっかけに、自分も仕事を受けるようになりました。 中学生の頃から、アフィリエイトやアドセンスで収益を生むことはしていました。ですが、ブログ外で提案したり仕事を受けたり、ということはこの時が初めてでした。金銭感覚が身についてきて、仕事の取捨選択ができるようになったのが理由です。   ーこの頃から、ブロガーとしての知名度が高まってきたんですよね。本の出版はどんな経緯だったんでしょうか? 中学生の頃から知り合いだった方に声をかけてもらいました。 大学生で本を出版することに大きなワクワクを感じ、二つ返事で受けることに。 内容は、オフィスソフトについて大学生向けに書きました。ちょうど大学の授業がオンラインに移行したタイミングとも重なったので、その辺りにも触れながら執筆しました。   ー本の執筆はどうでしたか? とても大変でしたね。大学4年の頃だったので、卒論執筆とも並行になってしまいました。 出版の難しさを実感しましたが、なかなか経験できることではないので、楽しかったです。 本が出版されてからは、たくさんの人に褒めてもらえました。買ってくれる方も多く、特にゼミの先生は、ゼミ生の人数分購入して研究室に置いてくれて。大学の部の案内にも載せてもらえて、想定以上の反響がありました。     「楽しい」を伝えながら、ブログを軸に生きる ー丹精込めて執筆した本が、大きな反響を得られて本当に素敵です!ブロガーとして独立できそうですよね。 新卒でいきなりフリーランスで働くことには抵抗がありました。 ブログ一本になってしまうと、失敗できないからこそ色々なことに挑戦できなくなってしまう。本業に就くことは、ブログでチャレンジを続けるための必須条件でした。 自分がやりたいことに活かせる経験ができて、相互作用が生まれそうな企業に就職しようと考えていました。あとは、ブログなどの副業が認められていて、時間の融通が効くというのが決め手でしたね。 人生の半分以上はブログを書いているので、今後も続けていくのだろうなと思います。   ーブログを優先するからこその選択だったんですね。 「楽しい」を「好き」へと揺さぶる、という言葉には、どんな思いが込められているんでしょうか? ブログでは、僕自身が楽しいと感じるモノや、好きなモノを書いています。 まずは、その楽しさに触れてもらう。そして、その「楽しい」が「好き」へと繋がったり、進化していく過程を味わってもらいたいという思いがあります。 そのために、継続的に濃い情報を届けていきたいですね。   ー加藤さんは、頼み事をあまり断らないタイプだとか。行動を選択する上で、何か大切にしている考えはありますか? 楽しそうだと思ったことには、首を突っ込んでしまうんですよね。 そして、その首を突っ込んで得たことは、ブログや自分の活動に還元されます。そのサイクルを回すのが面白いと感じています。   ーサイクルを回す度に、加藤さんの世界が広がっていくようでワクワクしますね! 今後、加藤さんがやりたいことについて教えてください! 今後もブログの執筆は続けます。ブログを起点に何か新しいことを始めてみたり、そうした挑戦をまたブログに還元したり。 これからもブログを人生の軸としながら、色んなことに取り組んでいけたらと思っています。   ー加藤さん、お話ありがとうございました!   取材:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆:中原瑞彩 デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

料理の道からサラリーマン生活を経てフリーランスを選んだ今村えいの働き方とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第312回目は料理プロデューサーとして活動中の今村えいさんです。幼少期の頃から料理に興味を持ち、料理の道一本で進まれてきた今村さんが、サラリーマン生活を経て再び料理に関わる仕事に就くまでの経緯をお話いただきました。 料理人を志したきっかけは料理好きの母の影響 ーまずはこれまでの経歴も含め、簡単な自己紹介をお願いします! フリーランスで料理プロデューサーとして活動しております、今村えいです。新卒からフランス料理人として4年、法人営業を4年、エンジニアを1年経験後、独立しました。メニュー開発やフードイベントの企画運営の他、webディレクターとしても活動して現在2年になります。 ー現在に至るまで過去に遡ってお話を聞けたらと思いますが、幼少期の頃から料理人になりたいという気持ちをお持ちだったのでしょうか。 そうですね。4歳の頃から料理人になりたいと思っていました。母が料理好きで、家でも凝った料理を作ってくれていたことや、それをお手伝いしていたことがきっかけだったかと思います。小学4年生の時に初めて火を使う料理を教えてもらい卵焼きを作ったのですが、ただ砂糖を入れたりするのではなく、ジャムやシナモンを入れてみるなど卵焼きのアレンジをいろいろと創意工夫してやっていました。 ーその思いが中高も変わらなかったんですね。 小学生の時はなんとなく料理人になりたいと思っていましたが、明確に料理人を目指すようになったのは中学1年生の時です。母がフランス料理の料理教室に通っており、そこに一緒に連れて行ってもらったのですが、こんなに美味しくて上品で綺麗な料理があるんだと衝撃を受けました。また、そこのシェフがとてもかっこよく映ったことから調理師免許が取れる道に進もうと決意しました。 調理師免許を取得できる高校を受験し、高校では調理技術の基本を広く浅く学びました。免許はとることができたので高校卒業後すぐに働くという選択肢もあったのですがもっと専門的知識と技術を身に付けたかったので専門学校に進むことに決めました。 ー専門学校生活はいかがでしたか。 ずっと興味のあった西洋料理に特化して学ぶことができ、料理において様々な表現の仕方や手法、味の奥深さなどを知ることができたので楽しかったです。一方で、特にフランス料理は1つの料理を作るのに手数が多いためチームプレーが求められるのですが、コミュニケーションをとることに苦手意識があったため、難しさも感じました。 フランス料理の道からサラリーマン→エンジニアに ー今の今村さんからはコミュニケーションに苦手意識があったと想像できません!専門学校卒業後の進路についてはどのように選ばれたのですか。 デザートが美味しいお店を就職先に決めました。レストランのデザートはケーキ屋さんのケーキなどと異なり、一番美味しい状態でスイーツを食べていただくことができるのでアレンジの幅もかなり広がります。だからこそレストランのデザートを担当したいと思い、就職先にはフランス料理店にも関わらず、麦茶のゼリーや白味噌を使ったケーキなど枠に捉われない料理を考案しているお店を選びました。 同じお客様には同じメニューを出さないというお店のポリシーがあったため毎日のように空いている時間を見つけては試作と提案を行いました。4年間、お世話になったのですがここでの経験が今のメニュー開発の仕事に活きています。 ー希望していたデザートの開発を担当できていたにも関わらず、転職を決意されたきっかけは何だったのでしょうか。 住み込みで朝早くから夜遅くまで働いていたので、外の世界を知ることがない4年間だったんですよね。また、やりがいはありましたが、作ったデザートはお店の中で完結してしまい世の中の人全員にインパクトを与えることができない点や料理を作る人よりも考える人になりたいと思った点も転職を考えるきっかけとなりました。 外の世界をいざみてみると飲食の世界は8~9割が生き残れない厳しい世界であることを改めて実感しました。ちょうど第二新卒の年齢だったこともあり、一度料理人以外の選択肢を検討するチャンスかと思い、サラリーマンにチャレンジすることを決意し、法人営業としてデザイン会社へ就職しました。 ーなぜ営業職を選ばれたのでしょうか。 エージェントの方にとりあえず営業を経験した方がいいと言われたことと、自分のコミュニケーション能力を磨くべきだと感じていたことが主な理由です。ゴリゴリの電話営業など初めてのことだらけで大変でしたが、とにかく頑張った2年間でした。 ーそこから再び転職を決意されるんですね。 料理の世界から離れてみてやっぱりメニュー開発を仕事にしたいと思ったことから製薬会社向け高級弁当の代理店ベンチャー企業に転職しました。営業職ではありましたが、コンシェルジュとしておすすめのお弁当を提案したり、飲食店と一緒にメニュー開発を行ったりするなど2年間働きました。 しかしベンチャー企業だったということもあり休みがないほど忙しかったことから理想の働き方について考えるようになり、再び転職を考えるようになりました。好きなことに特化して働きたいと思った結果、フリーランスという選択肢に出会いました。そしてフリーランスで安定した収益を確保する方法を考える中で、エンジニア職に挑戦することを決意し、転職。未経験で採用いただいた会社で1年間エンジニアとしてのスキルを身に付けながら、副業で出張料理や動画編集、ライターなどの仕事に挑戦していき、副業が本業の収入を上回ったので独立をしました。 料理における自由な発想と感情的価値を探究中 ー満を期しての独立されたのですね!好きや得意を仕事にするために今村さんが意識したことなどはありますか。 まずは好きと得意をきちんと認識することです。好きだとその好きなことを探究できる燃料を持っていると思うのですが、それって財産であり才能だと思っています。なので何に自分は心を奪われるのかを書き出してその中から共通項を見つけて自分がやりたいことや好きなことを知ることがファーストステップだと思います。その上で、得意なことにフォーカスして好きと得意の両方が活かされる仕事を探すのがいいのではないでしょうか。 同時に、世間が求めているかとのすり合わせを行う必要もあります。社会の課題や人の悩みなどを分析し、自分の能力や持っているリソースがどういう人に対して価値提供をできるかを考えることで初めて仕事として成り立つと思います。 ーフリーランスとして働く中で、これまでの経験が活きていると感じることは多いですか。 そうですね!現在させていただいているメニュー開発の仕事はフランス料理店で働いていた際の経験があるからこそだと思いますし、飲食関係者はウェブに弱い方が多いのでエンジニアとしての経験がディレクターとして働く中で重宝されることが多いです。 料理人を集めて1つのテーマに沿って思い思いの創作料理を作るイベント「俺達のビストロ」や奇想天外なテーマに沿った料理を提供する一夜限りのコンセプトレストラン「林檎亭」も定期的に企画し、開催しているのですが、そこではやはり営業経験で磨いたコミュニケーション力が役立っていると思います。 ー俺達のビストロも、林檎亭も面白そうなイベントですね。 料理では美味しいという点さえ外さなければどれだけ遊んでもいいと思っています。前回の俺達のビストロでは駄菓子をテーマに開催したのですが、駄菓子は思い出を想起させることが多く、ただ美味しいではなく、料理を通してノスタルジックさを感じることができると改めて感じました。このように、機能的な美味しさだけではなく、感情的美味しさを感じてもらえる機会を増やしていきたいです。 安価で質の高い料理が楽しめるようになり、美味しさの基準が年々上がっていますが、金額やクオリティ、気軽さにおいて大手に勝てない飲食店が今後差別化していくために必要なのはまさにこういった感情的価値の部分だと思っています。 ー最後に今村さんの今後の目標を教えてください! 料理で様々な手法を活用して自己表現をするということは今後も続けていきたいと思っています。一方で料理に感情的価値を付加する可能性を今後は研究していきたいです。 様々な仕事が今後AIに代替されるのではないかなどといった議論がありますが、AIに代替されないためには飲食業・料理の世界でもこれからは感情的繋がりが注目されることかと思います。「あの人のお店だから」や「あの時の気持ちが思い出せるから」などといった関係性を感じる料理こそがこれから必要とされる時代だと思うのでその深掘りをしていきたいです。そして得た知見を飲食店にシェアし、本当に良いお店や良い料理がきちんと評価される社会であり続けるように、まだまだ微力ですが活動を続けていきたいと思います! インタビュー:吉永里美(Twitter/note) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)  

グリーンスクールを卒業した環境活動家・露木志奈が大学を休学をして、気候変動を伝える講演をはじめた理由とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第320回目となる今回は環境活動家として全国を周りながら講演活動をされている、露木志奈さんをお迎えしてお話をうかがいました。 露木さんが「環境活動家」という概念がなくなる世界に向けて活動されているという言葉がとても印象的です。そんな活動を行うに至った背景や、みなさんが知らない露木さんのこれまでの過去などをお伺いしました。 気候変動と自分の生き方を伝える環境活動家   ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 こんにちは、露木志奈(つゆき しいな)です。 現在20歳です。メインの活動は毎日全国の小学校から大学を周り、講演をすることです。 講演では「気候変動」と言われる問題についてお話ししています。また、「自分という生き方」について少しでも知ってもらうことで、「こういう生き方があるんだ」と感じてもらえたらと思い活動しています。 私が環境に興味を持ったきっかけは、高校生の時に世界で一番エコな学校と呼ばれるグリーンスクールというインドネシアのバリ島にある学校に通っていたことにあります。 さらに、環境について知ってもらうきっかけ作りとして、自分で口紅をつくることができるコスメキットを、ワークショップも合わせてお届けしており、体験を通じて環境について考えていただく活動を行っています。   生きる力を学んだり、自給自足の生活をした幼少期   ー露木さんのメインの活動でもある環境について興味を持った背景には、どのようなルーツがあるのか教えていただけますか? トトロ幼稚舎という名前の幼稚園に通っていました。「生きる力を学ぶ」みたいな幼稚園だったと思います。それをコンセプトとして運営されているのかはわからないのですが、私自身は「生きる力」を強く学び、感じました。 具体的には、一般的な幼稚園はお昼ご飯を出してくれると思うのですが…ここでは出さないんです!児童が飯盒でご飯を炊いたり、幼稚園生なのに火を燃やし飯盒炊爨したり、みんな包丁を持って料理をしていました。 卒業遠足として、箱根ー厚木間の30キロを歩いたり、山へ行って、生えている桑の実や山菜を採って食べたるなどする幼稚園でした。 私はそんな環境にガンガン馴染めましたね。(笑)比較的どこでも馴染めちゃうタイプなので、一般的な幼稚園にいたとしても馴染めていたと思います。   ーその後、小学生の時に山村留学に行かれていますが、どのような環境で、どんなことをしていたのかを記憶に残っている範囲内で教えてください。 4~5年生の2年間で山村留学をしていました。それ以前は公立の小学校に通っていましたが、夏休みに行ったキャンプをきっかけに山村留学が実施されることを知り、「行きたい!」と感じたので母に伝え、行かせてもらえることになりました。 長野県泰阜村にある「暮らしの学校だいだらぼっち」という名前の寮で、全国から集まってきた小学生約10〜20人と一緒に共同生活をしました。日々自給自足の生活をし、同時に泰阜村の公立の学校に通いました。 例えば、五右衛門風呂でお風呂を沸かします。追い焚き機能なんてものはないので、木を組み立てて燃やして沸かしました。 さらに、無農薬の畑や田んぼを耕したり、自分たちが使う容器も作り、登り窯などで焼き、釉薬なども作っていたりしました。お箸やスプーンですらも木を削って作っていました。   ー自分たちの身の回りに当たり前にあるものが「どうやって作られているのか」や「それがどういうものなのか」って言うのが手にとってわかる生活ですよね。 そうですね!日々生活していると、色々な家事をやる必要が出てきます。ゴミ出し、毎日の料理、はたまた掃除や犬の散歩は一体誰がするのか、ルーティンで行うのか当番制で行うのか、考える必要があります。これらを子どもたちだけで話し合って決めていました。そして、何か問題が発生した際には、夜中2時まで話し合うこともありました。 スタッフさんはいらっしゃるのですが、基本的には「そこにいる」というスタンスです。なので、子ども自身が主体的に物事を決めて、実行していくということがモットーとなっています。   英語が苦手だけれど、バリのグリーンスクールを選んだ   ーその後、15歳まで公立の学校に通学後、グリーンスクールに拠点を移されたことが大きな転機のひとつとしてあげられるかと思うのですが、グリーンスクールをどのように知り、何に惹かれ、グリーンスクールへの進路を決断されたのでしょうか? 中学生の時、私の英語の評価は「1」でした。しかし、英語自体は好きで、魅力的に感じていたので、英語を話せるようになりたいと思っていました。 なんとなく留学というものが頭にあったので、母に「高校では留学がしたい」と相談した際に、母は「英語だけを学ぶのであれば日本でやれば良いと思う。それ以外のものを外国で学ぶのであれば、応援するよ!」と言いました。 この言葉の背景としては、3歳の頃から母子家庭で、私たち4人兄弟を母が頑張ってみんなを育ててくれました。だからなんでも私がやりたいことができる訳ではありませんでした。 しかし、たまたま母が英語以外の要素も学ぶことができるグリーンスクールをインターネットで見つけてくれて、「こんな学校があるよー!」と紹介してくれました。 校舎が全て竹から作られているグリーンスクールの画像をインターネットで見た時は、「行きたい!」以外の感情はありませんでした。そして、全く英語を話せないことを忘れたままグリーンスクールに進学することを決断し、入学に至りました。   ーグリーンスクールはどのような環境で、日々どのような活動をされていたのでしょうか? グリーンスクールーは「世界のグリーンリーダーを育てる」という目標を掲げています。世界各国から子どもたちが集まり、幼稚園から高校まで通うことができます。私は高校の3年間をグリーンスクールで過ごしました。 グリーンスクールではプロジェクトラーニングという、日本でいうところの少人数のグループで主体的に問題解決を目指す学習形態をとっていて、「ただ問題を学んで終わりでなく、その問題に対して、一体今何ができるのか」という方針で授業が進んでいくのが特徴です。 また、自分で授業を作ることもできます。自分が探究したい物事が選択授業の中にない場合は、それについて学習する時間を与えられ、学習を進めていくと正式に単位も付与されます。ちなみに、私はその時間を使って「化粧品作り」をしていました!   化粧品の中身と容器は環境問題と関連付いている   ー化粧品づくりに至った背景や、どんなところにインスピレーションを受けて、そして何を化粧品作りから見出されたのでしょうか? きっかけは2歳下の妹の肌が弱かったことにあります。妹が安心して使える化粧品がないことに気付き、グリーンスクールで化粧品を作りはじめました。 私が高校1年生、妹が中学2年生の当時、初めて化粧品を買いに行きました。私たちは「ナチュラル」と記載してある商品を「安全だし良いな〜」と思って購入しました。しかし、実際に使用してみると妹の肌は荒れてしまい「ナチュラル」「オーガニック」「無添加」と記されているのになぜ安全じゃないのだろうと疑問に思いました。 当時は不思議に思いながら、原材料が書いてある裏面のラベルをみて一つ一つの成分を調べるだけでしたが、調べているうちに3つの気づきがありました。 1つ目は、「曖昧な言葉の定義」についてです。日本語は特に言葉の定義がしっかり定められていないケースが多いので、「ナチュラル」や「オーガニック」等の言葉を必ずしも安全ではないけれど、マーケティングワードとして利用している場合があります。これは企業だけが悪いということではなく、知識不足の消費者の問題でもあると考えています。 2つ目は、「動物実験」です。医療の場面だけではなく、化粧品が開発される際にも動物実験がされているということに驚きました。そして、調べていくうちに、この動物実験が必ずしも必要ではないということも知りました。 3つ目は、「プラスチック問題」です。実はこの辺りから環境問題について知るようになりました。以前から環境問題については知っていましたが、身近なシャンプーボトルやリップスティックや口紅の容器は便利で素晴らしいものなのに、「なんでみんながプラスチックを消費することを避けよう」としているのだろうと疑問に思っていました。 結局色々調べていく中で、今の世の中にリサイクルできるシステムがほとんどないことに気づきました。リサイクルができれば、ずっと使い続けることができたり、海に流れていくこともなく全く問題ないけれど、今そのようなシステムがうまく機能していないからこそ、必要でないものは減らしていこうという世の中になってきていると感じました。   ー露木さんのつくる手作りできるコスメキットのブランドはどんなところを大切にされているのか教えてください。 「作るということをきっかけに、普段、消費しているものの背景やどういった物語があるのか、私が口紅を通して学んだことを他のものにも目を向けて欲しいな」という思いが根本にあります。ただ言葉で伝えるよりは、口紅作りという体験を通じて経験していただいた方がより伝わるのではないかと思いました。 まず、化粧品と環境問題のつながりは「中身と容器」の2つの課題に分けられると考えています。 中身の場合、化粧品に多く使われているのは石油です。例えば口紅に使用される石油はオイルとしても使われますし、着色する際にも石油が使われています。 そもそも身体にあまり良くないとされている石油を色々な企業が使用している現状を改めて俯瞰した時に疑問を感じました。石油の代わりがない場合は仕方ないと思いますが、実際には代替できるものがあるので、身体に良い方を使うべきだと私は思います。 どの企業も安く生産するために石油を使用しているケースが非常に多いのですが、口紅の中身の原価はいくらかご存知ですか?4000円の口紅があったと仮定した時に、口紅の中身の原価はいくらだと思いますか? 実は...7円です! 容器は高くても、100円という風に言われていて、容器と中身を合計するとおおよそ107〜110円ぐらいになります。 私が当初、完成された化粧品を販売しようとした時は、原価が300円ほどかかりました。やはり材料や容器にこだわるとどうしてもこれくらいの原価になってしまいますが、普通の口紅の原価と比べると3倍ほどかかっているわけです。そのまま市場に出すと、やはり消費者からすると高すぎますよね。 だから7円という原価に収まっているという事実の背景には、より原価を抑えて、利益追求のための大量生産が存在します。このように、化粧品の中身と容器は環境問題と関連付いているということです。   ーどのように化粧品作りを学んでいったのでしょうか? はじめは、作り方はもちろん、何を使って作れば良いのかわからなかったので、日本で「手作り化粧品」について書かれている本を購入して参考にしました。 そこに載っているレシピの原材料を自分好みのものに入れ替えたり、原料にこだわったり、オイルやワックスの量を試行錯誤しながら調節するなどして、1〜2年かけてできあがったのが今のレシピです。 時間をかけて作ったレシピや道具、材料を購入できる場所もすべて公開しています。さらに、販売しているキットも1回きりではなく今後も一生消費者自身が口紅を作ることができるキットになっています。   大学は待ってくれるけど、気候変動は待ってくれない   ー現在行われている講演活動は大学入学後、どのタイミングで始められたのでしょうか。 講演を始めたのは2020年の11月なので、活動をはじめて2ヶ月半になります。(3月現在) 講演活動を11月に始めた経緯としては、私は9月入学なので2年生に進級する前の夏休みにこれまでの振り返りと今後何をしたいのかと自問自答しました。 このまま大学で学んでいくこともできたのですが、環境問題はすでに解決策が明確で、私が今するべきことはまた新しい知識を取り入れることよりも行動することの方だと考えました。 気候変動に対する解決策として、クライメイトクロックという地球の平均気温上昇を1.5度に抑えるという指標が示されています。国連もこの平均温度の上昇を食い止めるにはここ7~10年が大切な期間ということを提唱しています。 「大学は待ってくれるけど、気候変動は待ってくれない」と、私は他のメディア等でもこのように述べています。だから私は講演活動の優先順位を高くしています。 しかし、課題に対してどういう手段をとるかというのは個人の自由だと思います。私の場合は「環境問題について知らない人」や「環境問題は知っているけど、何をしたいいのかわからない」という人たちに、私の長所でもあるコミュニケーション力を活かした講演会を通じて同世代に伝えることに決めました。   ー火がついてるものが確実にそこにあって、その熱が伝染していくイメージができます。 露木さんはその人たちのあったものに火を灯して、その人たちの気持ちを肯定してあげられるきっかけ作りをされたりなど、講演活動を通してすごく大きな役割をはたされていますよね。 ただ、私は「環境について知ってもらいたい」や「行動していれば絶対に変わる」と言いながら活動していますが、実際にこれが本当に答えなのかは誰にもわからないと思います。 自分の一生の人生を通じて、私の行動や発言があっていたのかどうかを問うていくものだと思います。 明確な答えがわからない中で、みんなと一緒にもがいて答えを見つけていきたいと感じているので、自分の行動が100%正しいとも思っていませんし、人の数だけ正しい答えがあります。 私は「行動お化け」「おしゃべりお化け」みたいな性格なので、良いか悪いかを判断する前にとりあえずやる!そして失敗したら巻き戻すみたいな性格です。(笑) 実際に初めて講演先の先生をご紹介いただいた時に、自分の自己紹介とともに「人生を変えるプレゼンをするので、ぜひ講演をさせてください」と言ったものの、講演用のプレゼン資料は1枚もできていませんでした。(笑) スライドができていないのに、そのような発言をすることが普通ではないということにすら気づかなかったくらい、行動することが先走るタイプです。   ー最後に、講演活動を行っていて印象的なことや、嬉しかったことについて教えてください。 昨日は東京スタートアップという場所で講演をしました。講演後に大人の男性の方から「今日は病室から講演を視聴しました。薬より効くぐらいのお話の内容とエネルギーを感じました」と、素敵な感想をいただいたのが忘れられません。 その後も、「私のやっていることが正解かどうかはわからないし、違う考え方の人もいる」という講演中の私の発言が心に残ったとご連絡をいただきました。こういうお言葉がすごく嬉しいですし、ずっと講演をしていたいなと思います。 学校での講演後の場合だと、講演をした日に持続可能な電力会社に変更してくれたり、企業のプラスチックのパッケージングを調査する学生や、環境問題をテーマにして団体を作ろうと声をあげてくれる学生さんがいました。実際に行動してくれた人のお話を聞くと本当に嬉しいです! 私はどちらかというと熱で話すタイプで、言語化に時間を要してしまうのですが、人に伝えわって行動してくれている事実を知ると本当に嬉しいです。 人に求められたり、必要だと言ってもらえることが人間の生きがいだと思いますし、答えがわからないからこそみんな探そうとするし、それが人生の生きがいだと思います。   ー露木さんの活動が広まるにつれて、今後は環境活動家として旗を立てる人が増えて行ったり、旗を立てるまでもなく、みんなの中に溶け込んでいく未来が来るかもしれないと露木さんの話を聞きながら、ワクワクしました。今回はお話ありがとうございました! 取材者:山崎貴大(Twitter) 執筆者:大野雛子(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

「まずはやってみる」を大事に!日々挑戦を繰り返す僕の人生 二神雄揮さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第284回目となる今回は、株式会社バードマン リレーション第二本部 部長 二神雄揮さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 子供の時から今までたくさんのことに興味を持ち、挑戦を繰り返す二神さん。そんな二神さんの半生と二神さんにとっての「挑戦」について詳しくお伺いしました。 勉学と習い事で忙しかった子供時代 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 株式会社バードマンの二神雄揮です。プロデュースカンパニーを名乗っていて、いわゆる広告的なTVCMやプロモーション企画の実行の他、0→1フェーズの事業や1→100フェーズの事業問わずマーケティングパートナーとして寄りそって、一緒に事業を作っていくような業務もしています。 今働いている会社が3社目で、事業開発に関わることが好きで大きい事業に関わりながらも、手触り感のある事業がしたいこともあり副業にも力を入れてます。 ー部長として、具体的にはお仕事はどういうことをされてるんですか? 現在営業部は2つの部署に分かれていて、エンタープライズ担当の部署とSMBや新規の案件を受け持つ部署があり、僕の部署は後者です。 既存のクライアント様の事業をしっかりと伸ばすことに貢献しながら、我々にお支払いいただく予算もしっかり拡張させていただくという業務になります。担当業務としては案件のフロント業務から進行、時にはマーケティングアドバイザリーやコンサルティング的な領域も担当することがあります。 組織には新卒や営業未経験の若手が多いので、育成業務も担当しています。 ー多岐にわたるお仕事をされているのですね。先ほど副業についてもお話がでましたが、副業は現在どのようなことをされているのでしょうか? 現在は、今の会社が忙しいので停滞気味ではあるのですが、愛犬に出演してもらってInstagramやYouTube運用したり、アーティストさんの作品の売り上げ上昇のためのアドバイザーのような副業をしています。 また、 NoCode(ノーコード)というプログラミングを使わなくても、ある程度LPやアプリ、自動化のツールなどが作れるツールを紹介するサイトを作っていますね。 ーそれではここからはライフログに沿ってお話をお伺いしたいと思います。小学校時代のお話からお伺いできますか? 小学校の時は勉強ばかりやっていました。塾に週3、4回通い、習い事もバスケット、水泳、英語、サッカー、野球などを掛け持ちしていて、バスケ行った後に塾に行くことやスイミングスクール行った後に英語教室行くことなどしていました。 家庭内で習い事させられていたわけではなく、自分自身が興味範囲の広かったのでとりあえずやってみたいから始めてみることが多かったです。僕の家庭は、1度自分で決めてやり始めたものは目標を決めて目標をやり切るまでは続けるといった教育方針だったので、自分の興味のあるものを始めていくうちにハードなスケジュールになりましたね。 当時の教育方針が今の仕事にも生きていると思います。 ー努力の甲斐あって四国の進学校に進学されるようですが、学校選びの経緯をお伺いできますか? 当時、周りの友達の目指す学校が同じ偏差値周辺の学校だったので、自然にそういった進学校を目指していました。 ー進学されてからの学生生活についてお伺いできますか? 医師を志望している同級生が多く、学校でも勉強にかなり力を入れていました。 入学当時から中学校2年生までは、上位6位から上位8位ぐらいキープしていたのですが、小学校からずっとあんまり遊んでいなかったこともあり、勉強に飽きてしまいました。また、自分が医師になりたかったわけではなかったので、「医者になるために勉強している」という周りの雰囲気に乗ることができず、勉強のモチベーションが下がってしまい、成績がどんどん悪くなってしまったんです。 中学校2年生から大学受験まで、あまり勉強をしなくなったのですが、数学はずっと好きで大学の受験も数学で受験をしました。 パルクールに熱中、さまざまな会社のインターン参加した大学時代 ー中学校2年生から大学受験までの期間で他にされていたことはありましたか? 中学校1年生からサッカーをずっとしていました。しかし、高校生に入ってちょっとした疾患が見つかり、今は完治しているのですが当時はドクターストップで、集団スポーツを控える必要がありました。自分はスポーツが好きだったので、1人でできるスポーツを探し、パルクールやフリーランニングに出会いました。 パルクールであれば集団スポーツではないので、自分にもできると思い、高1から始めました。当時はYouTubeにも動画をアップしたり、SNSで全国各地のパルクールをしてる人たちと繋がって、練習、オフ会で遠征して練習したりしていました。 1人でやるからこそ、ほかの人と繋がって情報収集や友達を作ることでパルクールを続けるためのモチベーションにしていました。 ー本当にこの時期から色々なことをされていたのですね。その後大学は早稲田の商学部に行かれると思うのですが、早稲田大学を選んだ理由などはありますか? 東京大学の文科一類を目指していて落ちてしまったのですが、早稲田大学は親族が3人いたので、私立に行くのであれば早稲田かなと思っていました。 当時は起業にとにかく興味があり政治経済学部か商学部に入りたいと思っていて、結果的に商学部に入ることになりました。 ただ、なんちゃって意識高い系と言いますか、当時は大学ではなく入って何をやるかを重要視しており、そんなに大学にこだわりはなかったです。 ー起業という言葉も出てきましたが、大学に入ってからの生活はいかがでしたか? 大学での勉強に対するモチベーションはあまり高くなかったのですが、事業開発や起業に対する意識は高かったです。東京に行ったら将来起業するための準備をしたり、当時の言葉で言うとなり上がるための最短の道を歩みたいと思っていました。 まず、東京に来て1番にしたことが新宿の歌舞伎町のバーで働き始めたことです。その理由が、バーは経営者がいっぱい来るはずだと思っていて、バーに来た経営者の人と話して、人脈が広がれば大きいことできるんじゃないかと思っていました。 実際に働いていたバーで色々な経営者の方とお話する機会があり、将来に役に立つアルバイトをおすすめされ始めたり、インターンに行ったりもしていました。 具体的にインターン先でしたことは、中高生向けのプログラミングスクールをやってるベンチャー企業で、iPhoneアプリの作り方を学んで、それを中高生に教えていました。その後、色々な企業のインターンに参加し、できるだけ幅広く色々なことを学びたいと思っており、営業技術やスタートアップで使えるような技術を培っていきました。 ーたくさん足を運んで色々な経験を積んでいたのですね。幅広く色々なことをしたいと思ったきっかけはありますか? まず、「将来どういうビジネスに関わりたいか」の点で、僕は矛盾する2つの思いを抱えていて、1つ目がユーザーに大きな行動変容を生む可能性のあるような、作り上げる世界観に熱狂できるプロダクト作りをしたいって考えています。世界に影響を与えるようなプロダクト作りってのに関わりたいなと思ってるんです。 一方で手触り感のあるスモールビジネスもやりたいと思っています。具体的には仲間内でちょっとした事業を立ち上げたり、あまり収益にはならないが面白そうなビジネスなどです。また、自分していた愛犬のInstagramも戦略から行動まで自分で対応できるので、自分だけの実験場みたいなものを、もっておきたいと考えています。 しかし、その2つを同じ会社で求めることなかなか難しいと思います。そこで、大きい会社にサラリーマンとして軸足を置きながら、副業で自分の好きなことを実現させていく方法を考えました。 2つのことを実現させるために必要なスキルが事業開発のような幅広いスキルだと思い、幅広く色々なことに挑戦しました。 僕が考える事業開発スキルとは、どんな事業においてもインパクトの大きい成長促進のアクセルの役割を担えるスキルです。営業やマーケッター、エンジニア、デザインなどの実務スキルと大きい組織でのマネージャースキルや多くの階層のマネジメント、戦略策定とかファイナンスの両方を取っていくようなものが事業開発スキルだと考えます。 もちろんしっかり実務スキルもないといけないですし、その組織やその事業の成長促進のアクセルになる部分をしっかり把握して、実践に落とし込むるスキルも大事だと思います。両取りをしていくことを意識しながら、事業開発スキルを追い求めてます。 「まずはやってみる」成果がでないことは無駄ではない ー色々なことを経験された後、サンフランシスコに留学されるんですよね。 元々留学はしてみたいと思っていました。 当時は、ベンチャーやスタートアップの企業を学んでいたので、シリコンバレーにはずっと興味がありました。職場見学とか、もしかしたらインターンさせてくれるかもしれないと思い、サンフランシスコに留学しました。 実際に海外の企業の面接を受けてインターンをさせてもらえないかお願いして実際に働かせてもらったりしてました。現地の企業は実力社会で僕が留学したの23歳の頃だったのですが、10代や20代前半のCEOが多くいて、日本じゃ聞かない額の投資を受けたとか、すごい数のMAUを抱えているとか話していることに驚きましたね。20歳前半ですでに有名大学の教授の資格を持っているというような人もいました。 ー留学したことで、就活への影響はありましたか? 留学で影響を受けた点は、就活をする時の会社を選ぶ基準ですね。 いかに早く基礎スキルを学ばせてもらい、基礎スキルを学びつつ成果を上げたら、新規事業任せてもらえる可能性が高い会社を軸に職場を選びました。事業とか領域とかの好みはあまり考えずに、就職先を決めました。 その結果、1社目はあまり興味がなかった介護・医療業界の会社の営業部門に就職しました。 ー1社目は介護・医療業界の営業をされてたそうですが、実際はどういったお仕事をされてたのですか? 最初は既存事業の営業から始まりました。介護職のヘルパーさんやケアマネージャーさんなどの転職のウェブサービスの営業から始まりました。 2年目に僕がずっとやりたいと言ってた新規事業の立ち上げに関わらせていただき、営業や仕組み作り、どんなツールを使うかなど、予算の部分も請負わせていただきました。 ー3年半くらいで転職されるようですが、転職のきっかけをお伺いできますか? 同じ会社で働いていた人から声をかけていただいたのがきっかけでした。 当時働いていた会社が大きな会社だったので、ある程度お金も事業運営のリソースもある中の事業開発だったのですが、同じ領域でいくつも事業を展開していたので、既存事業とのカニばりなど、なかなか自由に動くことができない状態でした。 2社目では小さい会社で事業運営のためのリソースや資金や人などを集めたり、自分の裁量が大きく関わってくる泥臭いところから新規事業を携わりたいと思っていました。また新規事業を始める時に、自分の興味がある事業を始めたいと思いました。 ー自分の興味のある分野に転職されたのですね。2社目に転職するタイミングでこ副業を始められたそうですが、きっかけはあったのでしょうか? ちょうど転職にタイミングで愛犬を飼い始めたのがきっかけですね。飼い始めの小さい頃もとても可愛くて写真に収めておきたいと思い、Instagramを始めました。 ペット系のSNSアカウントは需要が高く、戦略を組まなくても流行るアカウントが多かったので、戦略的に運営をしたら勝てるのではないかと思ったことが始めたきっかけですね。 ー興味関心があることを、ある程度スキルとして確立するまでに何か気をつけていることはありますか? 「まずやってみる」ことを大切にしています。 結果、意味がなかったことや成果が出なかったとしても、最悪今回のようなインタビューだったり 飲み会の場で話せるネタになるので無駄なこととは思わないです。 例えば、YouTubeの運営はインスタグラムほどうまく行かなかったですが、自分で実行したり動画の編集技術を身につけたことにより、営業先の方が「YouTubeの運用始めたいんです」となった時に自分がやっていた時のノウハウが生きて、アドバイスさせていただいたり、時にはそれが仕事に繋がることもありました。なにかをすることで無駄になることは1つもないんですよね。 あとは始めた後、どうやってモチベーションを維持するかですが、僕の場合は始めると決めた段階で、機材や設備など形から入ります。逃げ道をなくすみたいな感じですね。 「投資金額を取り戻すためにはどこまで続けないといけないか」を決めることでモチベーションを維持しています。 また、時には引き際も大切な時があるので、モチベーション高く熱していく時と、冷めていく時を、しっかり自分でメリハリつけるようにしてます。 ー二神さんの今後の展望をお伺いできますか? そろそろ、継続的に成長させていけるような手触り感のあるスモールビジネスを動き出したいと思っています。 まだ、何を事業として運営するかなど詳細は決まっていないので、しっかり決めて検証をしていきたいと考えています。 5年後には立ち上げたスモールビジネスで、しっかり収益をあげられるようにしていきたいと思っています。 ー本当に今日はあっという間でした!素敵なお話ありがとうございました。今後の二神さんのご活躍楽しみにしています。 執筆:ゆず(Twitter) インタビュー:中原瑞彩 デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

「日本が好きだからこそ、批判的に考えたい」中尾有希が語る日本の変えたいところ

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第330回のゲストはWomEnpowered Internation共同代表・HerStory Japan代表として活動されている中尾有希さんです。本業の傍ら、団体運営に注力されている中尾さんが団体設立を決意するに至るまでのお話をお伺いしました! 摂食障害になったことも自分にとって大切な経験 ーまずは自己紹介も含めて、現在行われている活動について教えていただけますか。 コンサルティング会社で働きながらWomEmpowered Internationの共同代表及びHerStroy Japanの代表を務めております、中尾有希です。 WomEmpowered Internationalは2019年1月に友人と一緒に立ち上げた東京大学に登録されている学生団体になります。男性がマジョリティである東京大学大学院に在籍していた時に、どうすれば女性が自分の可能性を探求し、活躍できる場を作るかということを考えるために設立しました。この活動は日本にいる英語話者のための団体だったため、もっと日本の日本語を話す女性にジェンダーやフェミニズムについて話す機会を設けたいという思いからできたのがHer Story Japanです。 2020年1月に立ち上げたHerStory Japanでは「女性にとってのロールモデルを多様化する」ことをミッションに活動しています。日本でメディアに取り上げられている女性はワンパターンであることが多く、偉大すぎて身近に感じられないなどの問題点があると感じ、HerStory Japanでは誰もが共通点を見つけられるようなロールモデルをできるだけたくさん紹介することを目標としています。主な活動として現在は月に1回のイベント開催や、ブログの更新、そして歴史上重要な功績を残した女性たちの生涯について学ぶ勉強会を行っています。 ー現在に至るまでの経緯を過去を遡ってお伺いできればと思います。どのような幼少期を過ごされていたのでしょうか。 快活な子供でしたが、周りからどう思われるかをあまり気にしない、一風変わった子供でした。1歳から5歳まで香港に住んでいたのですが、自己主張をすることが奨励される環境にいたことが影響していたのかと思います。 今でも覚えているのは、小学校の教室の掃除にハマり、みんなが遊んでいる休み時間にも一人だけ掃除していたことです(笑)謎の使命感を持って掃除をしていたのですが、それを見た大人に「いじめられているのか」と心配されたのを覚えています。 ー幼少期を振り返って何か現在の活動に繋がる出来事があればぜひ教えてください。 15歳の時に、無理なダイエットに走り摂食障害になったことは今の活動に繋がっています。私は小学3年から競泳をしており、プール漬けの生活をずっと送っていたのですが、中学に入ってからは結果が出なくなり、妹に抜かれるのが怖くて逃げるようにやめたんです。その喪失感からなのか、急に何もしない時間が増えたからなのか、摂食障害になってしまいました。「青春」を摂食障害に奪われたようで、とても辛かったです。 でもそれがきっかけで、何か代わりに自分にできること・頑張れることをと思い、高校では勉強に全力で取り組むことができました。そのおかげで大学の選択肢も増えたのでよかったと今振り返って思います。 環境の変化がきっかけでジェンダーセンシティブに ー高校卒業後の進学先についてはどのように考えられていたのですか。 付属高校だったので、高校を卒業したら大学に進学するということに疑問を持ったことはありませんでした。一方で小中高の一貫校でずっと育ったので、違う世界を見てみたいと思い、指定校推薦で国際基督教大学(以下 ICU)に進学することを選びました。当時はまだ何が勉強したいか明確ではなく、大学3年になるまで専攻を選ばなくていい制度が魅力に感じたんです。 ー大学生活はいかがでした。 居心地の良かった環境を離れ、新しい環境に飛び込むという選択は結果的に大正解でした。高校までの私を誰も知らないという環境に行ったことで、ずっと過去に縛られていたような感覚から解放され、自分らしくなることができたんです。 また、ICUにはジェンダー研究があり、ジェンダーに関心を持った学生が多く、当時からジェンダーに関心を持っていた私にはぴったりの環境でした。学祭の時期になると毎年ミスコン開催有無について議論が巻き起こるような環境で、それまで気にならなかったジェンダーロールや差別的発言に私も少しずつ気づくように。授業でも男性が稼ぎ主であることを前提に作られた税金制度や社会保険制度があることを学び、全てのジェンダーに平等である公共政策が実現されるべきだということが共通認識としてあったのはICUだったからこそだなと思いました。 ー大学生活でその他に印象に残っていることなどはありますか。 アメリカに留学して自分がマイノリティであるという立場を経験したことです。幼少期から漠然とアメリカへの憧れがあったので、大学ではペンシルバニア大学に留学しました。日本ではマジョリティであった私が、アメリカでは外国人・アジア人・そして日本人というマイノリティに所属し、その中でマジョリティに合わそうと努力する自分や全て合わせるのは無理だと割り切って行動している自分を知ることができたのはとても良い経験でした。そして、日本という国を外から眺め、いいところも悪いところもよく見えたのも、留学生活の収穫でした。   女性にとって安全な空間を提供し続けたい ー大学卒業後の進路についてはどのように考えられていましたか。 留学したことによって日本への愛情も増し、好きだからこそ、日本をもっと良い国にしたいという思いが生まれました。特に日本社会における人権意識の低さや、マイノリティへのフォビアに対しては強い問題意識もあり、政策的な観点から何ができるかを勉強するために東京大学公共政策大学院に進学を決めました。また、ICU時代の指導教授がアメリカのアマースト大学に行っていたことがご縁で、大学院を休学してアマースト大学に編入もしました。それまでの私は目標に対して常に最短距離で進んでおり、最短距離が分からなければ潰しがきく選択肢を選んできたのですが、アマースト大学への編入は初めて自分の心の声に従った決断だったなと思います。 アマースト大学では勉強と歌のサークル漬けの生活でしたがとても充実した日々でした。ちょうどトランプ政権が設立した時でもあったので、キャンパス上で政治運動が行われているのを見ることができ貴重な経験となりました。 ーそして現在活動されている2つの団体設立に至る、ということなんですね!  ICUでも、アマースト大学でも、ジェンダーに敏感な人たちに囲まれていたからこそ、男性が学生・教員の大半を占める東京大学では少し違和感を感じることがあり、傍観者側で居続けるのではなく、女性にとって安全な空間を作る側に回らなければならないという風に思うようになりました。その思いから友人とWomEnpowered Internationalの設立、その1年後にHerStory Japanの設立が実現しました。 ー企業で働きながら2つの団体を運営するのは難しいことかと思いますが、今後の目標などはありますか。 HerStory Japanの運営メンバーはみんな本業の傍ら、活動にジョインしてくれています。それぞれ忙しい中ではありますが、月に1回のイベント開催や月に数回のブログ更新を継続することで社会に変化を少しずつもたらすことができたらと思っています。 WomEnpowered Internationalは現在メンバーが100名ほどと、どんどん大きくなっています。在日大使館などとの繋がりも生まれつつあるのでこれから政府と市民社会がどうやって対等な関係で協力していけるかについて考えていきたいです。 社会起業家が増え、多くの人が社会変革に興味を持ちつつあり、日本がさらに良い国に変わるのに必要な流れはできつつあると感じています。なので今ある2つの団体の活動をきちんと継続していくことを大事にしていきたいです。 取材者:山崎貴大( Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)  

建築デザインの視点で考える経営者とは。株式会社ZEN AUTO代表・丸山耀平

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第296回目のゲストは株式会社ZEN AUTO代表の丸山耀平さんです。小さい頃から経営者になるのが夢だったという丸山さん。建築デザインを勉強されていた丸山さんがシステム設計・開発事業を行う会社を起業されるまでに至るライフストーリーをお伺いしました。 経営者になるのは小さい頃からの夢だった ーまずは簡単に現在のお仕事について教えてください。 株式会社ZEN AUTOという会社の代表を務めています。株式会社ZEN AUTOではRPAと呼ばれるパソコンの全自動化の技術をフルオーダーメイドで受託開発しています。作業時間の短縮など業務の効率化を必要としている企業に、それぞれの目的や悩みにあったシステムをカスタムメイドしているんです。 ーRPAといったキーワードがでてきましたが、AIとはまた違うのでしょうか。 AIを人間の脳と例えるなら、RPAは人間の手にあたります。AIは学習させることでどんどん賢くなっていきますが、RPAは仕事をコピーすることが目的で再現性高く、操作の指示書に従って作業を進めていくのが得意なんです。 ーなるほど…また全然違うものになるんですね!少し幼少期に遡って現在に至るまでのお話もお聞かせください。どのような幼少期を過ごされていましたか。 雪国の新潟で育ち、小さい頃は外でよく遊ぶヤンチャな子供で先生がきたらトラップが発動するように仕掛けを準備したりするイタズラ好きでした。一方で父は不動産事業や外壁塗装事業、結婚相談所の運営など複数の事業を手掛けている経営者だったこともあり、将来は経営者になりたいと小さい頃から思っていました。そういった意味で今後どんな技術が発展していくのか、どんな需要が伸びていくのかなどといったことに意識的にアンテナをずっと張ってきていたと思います。   建築デザインの世界に魅了されて ー中高時代は何か部活などされていたのですか。 中学ではサッカーをしていました。高校からは少しでも都会にいきたいと思い、新潟市内の高校に進学。高校では初めはバスケをやっていましたが、元々武術が大好きだったこともあり、友人の紹介でテコンドーに挑戦してみたところセンスがあったようで全日本大会出場までいくことができました。 ーその後の進路についてはどのように考えられていたのでしょうか。 中学の時に新しい戸建てに引越したのですが、その際、ゼロから家が建っていく様子や図面と選んだ材質通りに家ができていくのを見て感動し、建築に興味を持っていました。新潟大学を第一志望に勉強していたのですが落ちてしまい、滑り止めで受かった長岡造形大学に進学しました。 入学してから長岡造形大学が建築デザインにかなり強いことを知ったのですが、結果的に自分の勉強したかったデザインに特化して勉強できる環境に行けたのはよかったなと思います。 ー大学生活はいかがでしたか。 建築デザインを勉強したことで考え方や物の見方が変わって面白かったです。建築デザインとはターゲットの選定、地域の特色や文化のリサーチを徹底的に行い、コンセプトに合わせて組み合わせ、再構築していくプロセスです。それを知ってから、どれだけ需要や目的が考えられた設計・デザインになっているかを思わず街中の建物でも見るようになりました。 そして設計・デザインでは抽象度の高い議論で行われる一方で、建築の段階に入るとミリ単位で作業が行われるんですよね。精密な作業も求められる、すごい世界だなと勉強し始めて知ることになりました。 ー学びと気づきの多い、充実した大学生活を過ごされていたのですね。 そうですね。大学1年の終わり頃から大学で学ぶ内容は専門的で勉強になると感じるものの、実際に建築物を作るわけではないので実践的な経験がつかないことに違和感を感じて建築有志団体arc.を設立。50名ほどのメンバーと共に学園祭で木造建築のコンペを行い、資金援助を得て実際に建築をするなどの活動を行いました。   建築デザインの思考を広めるべく、大学を退学 ーかなり順風満帆な学生生活を送られていたかと思いますが、その後どうやって現在に至るのでしょうか。 学ぶ環境が整っており、友人にも恵まれていましたが3年次に選ぶ専攻分野を選ぶ進路選択がきっかけで退学を決意しました。2年間勉強する中でデザインとは最適化できる魔法の力だと感じ、その建築デザイン思考を人の生き方などにも応用していきたい、建築デザインの思考方法を経営に落とし込んで利活用したいと思ったのですが、それができる選択肢が大学内になかったんです。 大学生活自体はとても楽しかったのでとても悩みました。でも父が若くからお金を稼いでいたのに対してまだ大学生をしていることに疑問を持っていたことや、ビジネスを起こすのに年齢は関係なく、早ければ早い方が有利だと感じていました。また、友人に休学か退学を考えていることを相談したところ「一度大学から外の世界にでたら絶対戻ってこないだろ」と言われ、確かにそうかと思ったので退学を決意しました。 ー退学後は何から着手されたのですか。 東京にまずは行ってみようと思い、友人と上京し、その友人のfacebook友達の家に一緒に行かせてもらい半年間はそこで居候させてもらいました。上京後は何も知らなかったのでビジネスというキーワードだけで行動した中で転売というネットビジネスに出会ったのですが、やってみたところすぐにめんどくさくなり…そのプロセスを全て自動化してしまえれば楽だと感じたことから自動化できるスキルを持っているエンジニアを探し個人契約を結んだことが今の事業のベースとなっています。 そのほかにもブロックチェーン事業など知り合い経由の紹介で手伝うようになりました。ブロックチェーンやクロスチェーンについての知識は全くなかったのですが、デザインで貢献する形でエンジニアの方からいろいろ学ばせてもらいました。結果的に2年程でその事業が花咲かなかったため現在はもう関わっていませんが、とてもいい経験になりました。 3つの段階を踏んで世界一の会社を作る ー紆余曲折を経て現在に至るかと思いますが、今力を入れていることなどはありますか。 将来実現したい目標に向かって、今必要なのはスキルの習得と資金を増やすことだと感じているのでその2点に力を入れています。起業してもうすぐ3年になりますが、引き続き受託開発を請け負い、できるだけ早く数千〜億ほどの資金を貯めることが目標です。 ー具体的に将来実現したい目標を教えていただくことはできますか。 世界一の会社、ホールディングスを作りたいと思っています。具体的には3段階でそれを実現させたいと計画しています。まず1つ目は Fintech事業で購買データやKYCと呼ばれる個人データを活用してLINEの代替となるサービスを開発すること。その次はビッグデータでデータとデータを結びつけるGoogleの次世代サービスを開発すること。そして最後にIoTでデジタル化された社会にモノでアプローチしてAppleを超えることです。 一方で近いうちに取り組みたいこととして、次世代のためになる教育系事業の展開があります。これまでたくさん失敗してきた経験を生かして、イノベーションを起こしたいと思っている次世代を対象としたオンラインサロンを始めようと考えています。 ー明確な夢と目標をしっかり持たれているのですね! 夢は大きいので焦らず1つ1つ積み重ねながら精進していきたいと思います。必ず達成するので見ていてください。 取材者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) 執筆者:執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

フリーランスコーチ・上野稜太が語るコーチングのお仕事の苦労とこれから

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第281回目のゲストは「旅するフリーランスコーチ」として活動されている上野稜太さんです。大学在籍時にオンラインでテニスの指導を始めたことをきっかけに、アスリートへのメンタルコーチとしてキャリアをスタートさせた上野さん。新卒フリーランスになるまでの経緯や新卒フリーランスとして働く中で大変だったこと、フリーランスとして働く上で意識されていることをお聞きしました。 日本代表候補アスリート、20代フリーランスに向けてコーチングを使ってサポート ーまずは簡単な自己紹介をお願いいたします。 フリーランスでコーチングとメンタルトレーニングを行っています、上野稜太です。コーチングは主に事業主や経営者の方を対象に、メンタルトレーニングはスポーツ愛好家やアスリートを中心に行っています。 ー肩書きはフリーランスコーチとのことですが、具体的にどのようなことをされているのですか。 アスリートの方向けの場合、試合に勝つというゴールのもと、試合でパフォーマンスを上げるためのメンタルサポートと将来的なアスリートとしてキャリアなど人生全体に関してのコーチングを行っています。対象年齢問わず、これまで小学生〜62歳の方までみてきました。また、競技レベルも愛好家レベルから日本代表候補のトップレベルで活動するアスリートまでサポートしています。 大学4年の時からメンタルトレーニングの事業を始め、卒業後そのままフリーランスとして働いているのでコーチ歴は2年程とまだまだ歴は短いですが、これまで300人近くの方にコーチングセッションをさせていただきました。2021年の9月からはスポーツ界ではないフィールドで活動をされてる経営者、個人事業主の方にもビジネスコーチングを提供するようになり、活動を広げていきました。 現在は働く場所や時間を選びながら、様々な業界で活躍される夢や目標に向かって挑戦を続けられてるクライアントさんにコーチング、タロットカード、メンタルトレーニングを一人一人の要望に合わせて提案しています。 ―メンタルコーチとして、コロナの影響などはありましたか。 コロナの影響は大きかったですね。コロナ以前はスポーツ選手やアスリートを対象としたメンタルトレーニングを中心に行っていたのですが、インターハイなどの大会が中止になった影響からメンタルトレーニングの依頼も激減し、4か月程仕事がなかった時期がありました。その時は知り合いの方の会社で事務のお手伝いなどをしてなんとか凌ぎ、コロナが落ち着きだした8月頃から活動を再開しました。 スポーツ好き少年がフリーランスになるまで ―スポーツ選手のメンタルトレーニングを行っているとのことですが、上野さんご自身も昔からスポーツをされていたのでしょうか。 そうです、小中高とずっと運動していました。小学校の時はドッジボールのクラブチームに6年間所属し、北信越大会などにも出場していました。中学ではソフトテニス、高校では硬式テニスをやっていました。幼稚園の頃は他人と同じことができなかったりとどちらかというと社会不適合者のような感じだったのですが、スポーツを通して他人とコミュニケーションを取れるようになったり、少しずつ自己表現ができるようになりましたね。 ―中高と進む中で将来の進路についてはどのように考えられていましたか。 商業学校に通っていたので周りは7割近くが就職するという環境にいたのですが、やりたい仕事が思いつかず、富山県から出たいという気持ちだけで横浜の大学へ進学を決めました。 ―思い描いていた大学生活となりましたか。 高校が校則の厳しい学校だったこともあり、大学で急に自由度が上がったことで何をしたらいいのか分からなく、なんとなく大学生活を過ごしていたなと今振り返って思います。生活費等を稼ぐ必要があったので授業以外の時間は全てアルバイトにあて、年間2000時間働いていました。飲食、塾講、派遣、イベント設営、アパレル、テニス、コーチなどとにかく様々なバイトを経験しました。 しかし、年間2,000時間働く生活をこのまま続けるのは精神的にも体力的にもきついと思い、バイト以外での収入源を模索する中で思いついたのがブログを通して自分でサービスを提供することでした。初めは自身のテニス経験を活かしてオンラインでテニスを指導するサービスをスタートしたのですが、メンタル系の相談が多かったことから徐々にテニスの指導ではなく、メンタルコーチに内容をシフトしていくように。同時にテニスに特化することなく、スポーツに関わる方々まで対象も広げました。 ―そのまま、その事業で独立されることになったのですね。 そうです。高校の時と同様、働きたいと思う会社がなかったのでフリーランスで頑張ってみようと思いました。今考えれば、ビジネスというものを知らなかったらこそできた選択ですね(笑)でも当時は0から1を生み出すことができていたのでもう少し頑張ればなんとかなるだろうと思ってたんです。 コロナでライスワークとライフワークのバランスを考えた ー実際にフリーで働かれてみていかがでしたか。 収入源が多い方がいいかと思い、文章を書いてみたり、動画編集をしたりなどいろいろやってみましたが他の仕事ではあまり収入が伸びなかったことと、「自分の経験と立場だからこそ出来ることを仕事にしよう!そこに他の人から価値を感じてもらえるのではないか」と思ったことからメンタルコーチとして活動をして行くことに決めました。独立してからは、自分が動かないと何も始まらないので意識的に自分のために動くようになったと思います。 ーフリーランスの場合、食べていくための仕事(ライスワーク)と好きな仕事(ライフワーク)の2軸を持たれている方も多いと思いますが、そのあたりはいかがですか。 コロナで仕事がなくなった時に、それをまさに実感しましたね。アスリートを対象としたメンタルトレーニングがライスワークだったので、ビジネスとして今後どう進めていくか考える良い機会となりました。アスリート向けメンタルトレーニング事業と事業主向けのコーチング事業の2軸に方向転換したのもライスワークとライフワークについて考えた結果です。 対象は違いますが、どちらも相手の価値観に寄り添って相手が進みたい方向性を一緒に確認することは共通しています。日本代表候補アスリートをサポートしてきた経験から、自分の経験していない職業の方対象のコーチングもできると分かっていたのは大きかったと思います。 ーフリーランスとして働く中で意識されていることはありますか。 最初は能力的にも経験的にも誇れるものがなかったので、すぐに行動出来ることとして人と会って学ぶ、情報蒐集には力を入れてました。。仕事に繋がるかどうかに関係なく、自分のことを知ってもらうきっかけは多ければ多い方がいいと思いますし、人に出会う中で知った情報や得た価値観がいつかきっと役に立つと思うので…特にコーチングは人によって求めているタイミングが異なります。自分の身近な人がコーチングを必要としてる、受講することでことで夢、目標の実現に近づける時に自分が力になれたらいいなと思い、人と会うようにしてます。 その他にもコーチングへの導線を増やすために、そして少しでもコーチングを身近に感じていただけるように、セミナーを開催したり、タロットカードを用いたコーチング事業を始めたりしています。   クライアントと一緒に自分も前に進み続ける ーいろいろと工夫しながら活動されているんですね!今後新たに挑戦したいことなどはありますか。 やりたいことは山のようにあります!20代で独立を考える方も増えてきていると思うので、そんな同世代の刺激になることができたらと思っています。なので同世代のコーチングをもっとやっていきたいですね。もちろん、引き続きスポーツ界とも関わりは持ち続けていきたいです。 自己分析という言葉も最近よく耳にするようになりましたが、自己分析ではどうしても自分の主観が入ってしまい意外に冷静な分析ができていなかったりします。過去の自分と現在の自分を比較することはできますが、やっぱりコーチングを受けていただき様々な視点を絡めながら分析していくのが大事だと思うのでそのお手伝いを引き続きできたらと思っています。 いずれにせよ、コーチングやメンタルトレーニングはクライアントとの信頼関係で成り立つものなので、クライアントと一緒に自分も前に進むスタンスを大事にすることを忘れないでいたいです。 ー最後にフリーランスコーチとして何かU-29世代にメッセージがあればお願いします! 人生一度きりで時間も有限なのでやりたいことを優先してやっていかないときっと後悔が生まれると思います。でも自分の進みたい方向性が分かっていないとやりたいことかどうかも判断ができなかったりします。未来のビジョンを明確にするためにもぜひ自分と向き合う時間を作っていただき、必要であればコーチングセッションなども活用していただければと思います! また、コーチングを今後普及していくために、タロットカードを使ったコーチングセッション『タロットコーチング』のサービスを始めました。自分の思考と心の整理、目指す未来に対して足りないものを補っていくためのアクションを知ることが出来るので自分のビジョンを明確にしたい人、今までに経験してない挑戦を成し得たい人の力になれたらと思っていますのでよろしくお願いします。 インタビュー:えるも(Twitter/ブログ) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

美容師はライフスタイル想像職。美容師 米田星慧が伝える「挑戦し続ける素晴らしさ」とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第297回目となる今回のゲストは、「美容室GOALD(ゴールド)」執行役員の米田 星慧(よねだ せいえ)さんです。 一人ひとりの生き方にスポットライトを当て、誠実に真っすぐ接する「心友」のような美容師スタイルで、今、若者から最も支持されるスタイリストとして知られている米田さん。 そんな米田さんが、美容師としてただ髪を切るのではなく、「あなたの心に触れること」をテーマにカットをするようになった経緯をお伺いしました! 熱意の源は、その先にいるお客様 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 美容室GOALDで執行役員をしている米田と申します。全国の「好きな美容師ランキング」で2位、20代では2年連続で1位を取らせていただきました。 美容師の仕事以外では、学生の校則を直すプロジェクトや、全国の美容学生への講演会、あと最近はメンズメイクの検定を作ったりもしています。美容師をやりながら様々な活動をやらせていただいてますね。 ー全国に美容師が53万人以上いる中で、1位なんてなかなか取れるものじゃないですよね……!米田さんの肩書で、「47都道府県からお客様が会いに来る」と書かれているのをよくお見かけします。 全国47都道府県から毎年コンスタントにお客様にご来店いただいてます。今はコロナ禍で難しいですが、2020年までは土日になると地方のお客様で朝からご予約が埋まっている状況でした。 朝から北海道、福島、徳島の方と順番にお会いするとなんだか不思議な気持ちになりますし、髪を切るために東京まで出てきてくれるのは本当にありがたいです。 ー米田さんがなぜここまで愛されるようになったのか、幼少期からさかのぼってお伺いします。幼少期はどのように過ごしてましたか? 小学生の頃は習い事でダンスをやりながら、よくおじいちゃんと将棋をしてました。その頃からなんとなく「頭を使うのは好きだな」と感じてましたね。 ー頭を使うことが好きということは、勉強も? 勉強は好きというより、やらなきゃいけないと思ってやってました。勉強が楽しいとは感じてなかったですね。美容師になってから技術や知識が増えるのが楽しいと感じるようになったので、お恥ずかしながら勉強の楽しさを知ったのは20歳を超えてからです。 ー受験の勉強と、美容師の技術や知識を増やす勉強の違いを教えてください。 受験勉強は自分が希望の学校に行くためにするので、そこに他人は関与してないじゃないですか。一方で、美容の勉強はその先にお客様の豊かさが存在するんです。 自分自身のためだけに頑張るのではなく、その先に喜んでくれる方がいると、より頑張る熱意が出るんですよね。   「米田家で生まれてできないことはない」と家族を説得 ー中学・高校時代はどんな学生でしたか? 高校生の頃、学校の仕組みに違和感を感じるようになって。「何でこれって必要なの?最善の方法は?」と考えるようになりました。 それを周りに話すと「何考えてるの?」となること多くて。良くも悪くも、自分が着目する点は周りとけっこうズレてるのかもと感じていました。 ー高校生の頃から原因の追究をしていたんですね。美容師への道を志したのはいつ頃でしょうか。 中学のときに通っていた床屋さんで言われた一言がきっかけです。中3の受験期は、1日15時間勉強してたんですよ。どうしても家の近くにある進学校に行きたくて。 そんなときに当時通ってた床屋さんで、「髪切る人は勉強しなくていいんだよ」と言われて、美容師の道を目指すことにしました。1日15時間勉強してる子にとって、「勉強しなくていい」ってドラッグみたいな言葉じゃないですか。 人の笑顔を見るのが好きだったこともあり、美容師はそれが日常的にある仕事でもあるので、美容専門学校への進学を決意しました。 ー美容師の専門学校に進むことを伝えたとき、ご家族の反応は? ぶちぎれられました(笑)。専門学校の願書は親に内緒で出しましたもん。 今より10年以上前なので、「美容師なんて稼げないし、成功するのは一握りだよ」と言われていたのですが、何とか説得しました。 ーどうやって説得したんですか? 「俺、お父さんもお母さんも兄貴も好きで、その3人に育ててもらってできないことってあんの?」と言うと、「何なんだろうこの子は……」みたいな空気になってきて(笑)「米田家で生きてたら何でもできると思うの俺だけ?」と聞いたら、「じゃあもういいんじゃない」となりました。パッションだけでいきましたね。 ー美容師に対する熱量というよりは、家族に対しての本気度を伝えたんですね!この家族だったら大丈夫と本気で思ってるのが伝わったんですね。 そうですね。「この家族だったら大丈夫」というのは、今も本気で思ってます。   世の中で1番難しいのは、自分との約束を守ること ー高校卒業後、専門学校に進学してからはどのように過ごされたか教えてください。 絶対に美容師として成功すると覚悟を決めていたので、「国家試験に受かる」ことと、「行きたいサロンに絶対に入る」ことしか考えてなかったです。クラスの飲み会は全部欠席してましたし、LINEに専門の友達はいませんでした。 ー入学前はみんな気合いを入れますが、いざ入学すると楽な方に流れるパターンが多いと思います。そんな中で米田さんは、なぜ目的がブレなかったのでしょうか。 昔から、「継続=心の強さ」だと思ってて。1度やると決めたことは、終えるまでやめないことを徹底してるからですね。 ー目的に向かってまっすぐ走った専門学校時代だったんですね。 そうですね。高校生のときに、人として最も難しいのは何か考えたことがあって。人との約束なんか誰でも守れる。人生で1番難しいのは、自分との約束を守ることだと思ったんです。 自分との約束さえ守れば成功できると確信していたので、すべてのものごとを始めるときに必ず自分と約束して、それを守ることを追求しました。僕が酒・タバコ・夜遊びを絶対にしないのも、自分と約束してるからです。そういう小さな約束も守り続けることにこだわってます。 ー自分との約束を守ることが人生で1番難しいと結論づけられたのはなぜ? 周りを客観的に見て、「世の中、心の弱さが勝敗を分けてるのかもしれない」と思ったからです。スポーツ選手とか見てて、「どうしてこの人たちは活躍するんだろう?」と考えてみると、勝利に対する熱狂度が違うと思ったんですよ。 それからは、1人でも熱狂し、挑戦し続けることを大事にしてます。   温かい目で見守ってくれる大人と出会い、GOALDに行き着く ー専門学校卒業後、美容師になった米田さん。なりたてのときは何を感じていましたか? 美容師で成功するために自分に何が足りないのか客観視してみると、まずは美容師としてより社会人として一人前になる必要があると思って。当時、男の子をかっこよくする男でありたいと思っていたので、メンズで1番有名なサロンに入って社会人とは何か追求しようと思いました。 そこで社会に関して学び、社会人とは何か見えた瞬間、お店を辞めました。その後、美容師として最大の輝きとは何かを追求したいと思い、影響力のあるお店に入ることを決めたんです。 ー美容院を2回辞めたのはネガティブな理由ではなく、ご自身の目的のためだったんですね。1つ前のサロン「OCEAN TOKYO(オーシャン トーキョー)」との出会いについてお聞かせください。 OCEAN TOKYOは、僕が最初に入った「美容室 LIPPS (リップス)」で働いていた高木 琢也(たかぎ たくや)さんと、GOALD 社長の中村 トメ吉(なかむら とめきち)さんが作った会社で。その2人は僕が学生のときの、メンズの頂点だったんですよ。最初に入ったサロンにいるときから、2人が会社を立ち上げることは知っていました。 美容師の仕組み上、年配の方がたくさんいると、自分に役職が回って来ないかもしれないと思い始めて。若くして執行役員を任せてもらうには、環境的要素がある程度大事だと思ってましたし、メンズの頂点である2人のもとで学びたいと思ったのでOCEAN TOKYOへ入りました。 ーOCEAN TOKYOで得たものは? 最初のアシスタント時代は、忙しすぎてマジで記憶ないです。すべての期間を振り返ると、ひたむきにまっすぐやれば応援してくれる人が現れることを知れたことが1番大きいですね。 昔から先生や同級生から応援された記憶なくて。仲がいい友達にも「美容師になってどうすんの?」と言われてましたし。だけどOCEAN TOKYOで働き始めてから、背中を押してくれる大人に出会い始めたんです。 まだ何も成し遂げてない自分を信じてくれる人に出会えたことが、1番の価値ですね。 ーそれからGOALDへ移籍した経緯を教えてください。 OCEAN TOKYOは大きい会社なので、学校の校則やメンズメイクなど、僕が世の中に感じている想いを形に出来ないなと思って。じゃあ自分でやった方が早いと思い、独立も考えたんですけど、経営はしたくなかったんですよ。 そんな矢先に中村トメ吉さんが退職して独立するという話が出て。同じ系統のお店を作るのに、一緒にやらないのはもったいないと思い、すぐに中村さんに相談して「じゃあ一緒にやりますか」となりました。 ーGOALDはコロナ禍でもいち早く休業されてましたよね。そういった判断は経営陣でされてるんですか? 決定は最終的に役員メンバーでしますが、けっこう僕の感覚を信じてもらってますね。「せい、時代的にどう思う?」とよく聞かれます。 コロナのときも、「僕的にですけど、休んだ方がいいですね」という意見を取り入れてもらえました。すごく信頼していただけてますし、逆に僕もよく相談をします。そんな2人の関係性が心地いいし楽しいです。   お客様のライフスタイルを想像できる美容師になりたい ー米田さんはなぜそんなに熱量を持ってものごとに取り組めるのでしょうか。 毎日若い子たちから「今日こんなことがありました」というDMが100件くらい来るんですよ。それを見るだけでも感じることはありますね。伝えてくれる子たちがいるので、走り続ける理由はそれだけで十分だと思います。 ーそういった言葉をもらえるのは、米田さんが相手に対して変化をもたらしているからだと思います。相手に影響を与える秘訣を教えてください! 僕が思うに、恋愛でもなんでも、その人にとって初めての人であり続けることがすごく大事だと思っていて。「初めてああいうタイプに出会った」みたいなのって、忘れないじゃないですか。 人は、心に衝撃があったときしか変われないと思ってるので。初めての人であり続けるために日々努力しています。 ー変えるのが大変な人に対しては、どのように接してますか? ほんとに変わりたいと思ってるかどうかがものすごく大事だと思っていて。大体の人は変わりたくないと思ってるんですよ。なぜかというと、本心じゃないから。 お客様と話すときも、なぜ変わりたいかと、なぜ自分が変われないかを口に出してもらうまで聞き続けないと意味ないと思ってて。例えば「受験受かりたいけど、なかなか勉強できないです」と相談されたら、「なぜ?」と聞き続けます。 ときには「どうしてもゲームやっちゃうんだったら、大学落ちて親泣かせたらさすがに変わるんじゃない。親泣かせてもゲームしたいんだったら、ゲームで結果出した方がいいよ」と、わざと口悪く伝えますね。 ーあえて口を悪くして伝えるのはなぜ? 今の時代、洗練しすぎると伝わりづらいと感じていて。完成した言葉を投げちゃうと、うなずくだけで終わっちゃうと思ったので、わざと乱雑に伝えるようにしてますね。 講演会のラスト15分はマイクを捨てて、何百人の学生の前で「お前たちがやんねえからいけねえんだよ!逃げんじゃねえよ!」みたいな伝え方をしてます。そうすると良くも悪くも、それに対して思うこと伝えてくれるんです。 「感動しました」もあれば、「正直むかつきました」もありますけど、自分の評価なんてどうでもよくて。その子たちが入る空間を作ってあげることで、自分事に置き換えられるようにすることをものすごく大事にしています。 ー最後に、米田さんが今後どこへ向かうのかお聞かせください! 美容師=技術職ではなく、美容師=ライフスタイル想像職という形を取っていきたいです。 小学生から政治家の方まで、多種多様な方々と毎日ふれあっていると、人生の悩みを聞く機会が多々あるんですよ。悩みを聞くだけでなく、悩む根本の原因まで壊せるんじゃないかと思ってるので、これからも来てくれるお客様の問題の原因となっている部分まで、変えていけるような美容師になりたいです。 美容師という仕事を通して、世の中に対して挑戦することの素晴らしさを届けていきたいと思いますし、私欲にまみれずに他人の願いを叶えていけるような人間でいたいですね。 ー米田さんは今後、世の中の社会問題にどんな風穴を開けるのでしょうか。今まさに米田さんが体現されている「心と髪型を変える」が美容業界に広まって、いち顧客としてサービスを受けるのがものすごく楽しみです!本日はありがとうございました。   取材者:吉永里美(Twitter/note) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

自分の答えに自覚的に。サービスデザイナー・郷上 亮さんが掲げる価値のある問いとは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第292回目となる今回は、サービスデザイナーの郷上 亮(ごうがみ りょう)さんをゲストにお迎えし、現在に至るまでの経緯を伺いました。 大学進学を機に渡米し、7年間のアメリカ生活を経て日本で再就職された郷上さん。なぜアメリカへ行こうと思ったのか。異国での生活から感じたこととは?デザインにおいて重要視されている「問いの設定にこだわる」とは?郷上さんの視点や考えをじっくりお伺いしました。 ー自己紹介をお願いします。 外資系コンサルティング会社で、サービスデザイナーとして活動している郷上 亮です。 高校卒業と同時にアメリカへ渡航し、ニューヨーク州立大学でファッションを、ペンシルベニア州立大学でリベラルアーツを、それぞれ2年ずつ学びました。 大学卒業後は、サンフランシスコのデザイン会社で勤務していました。昨年10月に、転職とともに帰国し、現在の活動に至ります。 ーサービスデザイナーという肩書きはあまり聞きなれないですよね。具体的にどのようなことをされているんですか? ざっくり言うと、人やモノ、場所など様々な対象を包括的かつ俯瞰的に捉え、それらの関係性をデザインすることで人々の生活を向上する体験を作り上げていく職業ですね。最終的なアウトプットは、アプリや店舗のデザイン、街のコンセプトなど多岐に渡ります。 カフェでの体験を例に挙げると、ドリンクの味や内装の雰囲気、接客の態度などを体験を構成する上での一要素として捉え、それぞれを通してより良い体験を作るにはどうしたら良いのか、ということを考えます。 プロダクトデザインとの対比で言うと、ドリンクや内装など、それぞれの要素を切り離して個別最適で考えるのではなく、全体の体験をデザインの対象としている点が大きな違いだと思います。もちろんどちらが良い悪いという話ではなく、そういったデザイナーたちとも常に協業しています。 ー郷上さんの活動の礎となった、これまでの経歴についてもお伺いしたいと思います   周囲に馴染めなかった学生時代 ー幼少期はどんなお子さんでしたか? 熱中するものがコロコロ変わる子どもでした。小学生の頃から、サッカーやバスケ、演劇、モデル活動、軽音楽など、色んな活動をしていました。 瞬間的に楽しかった思い出はたくさんあるものの、学校という組織にはあまり馴染めていなかったかなと思います。   ーどんな違和感があったんでしょうか? 皆に合わせることや、合わせることで我慢するというのが苦手だし、嫌だったんです。 自分が好きなものを大事にしたい、という思いが強かったんだと思います。   ーご自身のスタンスをはっきりお持ちだったんですね。 アメリカに留学されたとのことですが、幼い頃から興味があったんでしょうか? 漠然とした憧れはありました。きっかけは、小学校6年生の時に、親の仕事の都合でニューヨークに行ったことですね。ただ、その後起こしたアクションは英会話を習い始めるくらいで。まさかアメリカの大学に行くとは思ってなかったですね。 将来に関しては、父親が歯科医師なので、自分も同じ道に進むのかなと思ってましたね。   父親の反対をきっかけに、本当にやりたいことを見つける ー大学受験も、家業を念頭においた進路を考えていたんでしょうか? 高校に入ってからは理系に進み、特に何も考えずに模試の志望校欄には歯学部を記入していました。 高校3年のある夜、親から聞かれたのをきっかけに、将来についての考えを打ち明けました。 すると、父親からは「考え直せ」という言葉が。親が歯科医だから子もなるべきだというのはおかしい、という意見でした。   ーそれは驚きですね...!家業を継ぐという息子に反対するのは、親御さんとしても勇気のいる判断だったのでは。 それまで口に出したことがなかったものの、賛成してくれるだろうと思っていたので、驚きましたね。 その時、人生で初めて改めて自分と向き合い、どんな人物になりたいかを考えました。そこで蘇ってきたのが、小6のニューヨークでの思い出でした。 拙いながらも英語を話し、現地の人と渡り歩いている父親の姿を見て、自分も国内外問わず活躍できる人間になりたい、と感じていました。 ならば、今すぐ渡米して、現地の大学で勉強をするのが一番良い選択肢なのでは、と考えました。 そして、ファッションやアートに関心があったので、ニューヨークのファッションが学べる大学を志望校に決めました。   ーお父様からはどんな反応をされましたか? 考え直せとは言ったものの、さすがに海外進学という選択が返ってくるとは思っていなかったようで(笑) 「よく考えろ、それでも本気で行きたいのならプレゼンをしろ」と言われました。   ープレゼンとは、なかなか高校生には難しいのでは...! それまでパソコンを使ったことがなかったので苦労しましたね。 しかし、決意は固く「この選択が自分に必要なことだ」と信じていました。 どういう学校に行くのか、そこでの経験がどんな職業に繋がるのか、そのためにいくら費用が必要なのか、などをまとめたスライドを作成し、思いを伝えました。   ー親御さんや学校の先生には、どんな風に伝えたんでしょうか? 行ってみないとわからない、ということは継続的に伝えていました。 社会的に一般的ではない選択肢を取ると、反対意見がたくさん出てきます。でもその中の多くは、一般的とされる選択をした場合にも当てはまることだった。その時点で、説得材料にならないと感じていました。 ましてや、反対している人の中に自分と同じ選択をした人は居ませんでした。なので、とにかくアクションを起こすことの大切さを伝えていた気がします。 また、こうした節目節目での行動は、その人の人生全体へのスタンスが現れると思っています。それを考えた時に、社会がこうだから、という理由で選択し続けるのではなく、自分は能動的に生きていたいと思いました。 自分で取捨選択をするという姿勢は、今でも大切にしています。   単身渡米。図書館で猛勉強の日々 ーアメリカではどんな学校に進学したんでしょうか? 最初の2年は、ニューヨークのコミュニティカレッジ(短期大学のような学校)に通いました。留学生向けの英語の授業を受けながら、大学の単位も取れる学校でした。 ニューヨークの学校でファッションについて2年間、その後4年制のペンシルベニア州立大学に編入し、リベラルアーツについて2年間学びました。   ーリベラルアーツとはどんな学問なんでしょうか? 一つのモノを色んな視点で捉えられるようになる学問だと思っています。 様々な視点から物事を多角的に見れるようになるために、一つの専門性に特化するのではなく、色んな領域の勉強をする学問ですね。   ーデザインにおいてとても役立ちそうですね! ファッションからリベラルアーツに専攻を変えたのは、なぜだったんでしょうか? その時期に流行していた、ファストファッションのビジネスモデルに疑問を持ったからです。 今は変わってきていますが、当時は先進国が享受できる利益は、途上国の人々の劣悪な労働環境があってこそのものでした。 そんな構造を変えるため、衣服のデザインではなく、サプライチェーンやビジネスモデルそのものの勉強がしたいと思うようになりました。 当時は、サービスデザイナーになりたいというよりも、そういった仕組みや構造を組み替えることで、関わる人がみんなハッピーになれる状態を作りたいという思いが強かったですね。   ー英語の勉強と並行しながら、英語で別の学問を勉強するのは本当に大変そうですよね...。 ずっと図書館で勉強していて、テスト期間中は泊まったりもしていました。毎日いたので、周りからは「図書館に住んでいる」とも言われていましたね。 アメリカの大学は、求められる勉強量が日本よりも格段に多いので、それくらいやらないと追いつかないという点はありました。   ー余程入り浸っていたんですね(笑) 辞めて日本に戻ることができた中で、それでも勉強を続けられた理由ってなんだったんでしょうか? 自分で選んだ生活だったからですね。 周囲から留学を反対された時に、「自分のすべきことはこれだ」と確信していたし、その思いは人に伝える過程で更に強まっていました。 苦しんだこともありましたが、自分の選んだ生活の中で勉強していられる環境が幸せだという思いの方が強かったですね。   サンフランシスコのカルチャーに影響を受ける ー大学卒業後はそのままアメリカで就職されたんですよね。どんな進路を考えていましたか? 多くの日本の留学生は、卒業のタイミングで帰国して就職する人が多いんですよね。 でも、アメリカでまだまだやりたいこともあったし、ここで戻ったら勿体無いと感じたので、そのままアメリカで就職することにしました。 当時、自分の特徴は、デザインとビジネスを2年ずつ学んだという経歴だと感じていました。 この2つを掛け合わせて新しい価値を生みたい、という気持ちもあったので、これを軸に就活していました。 すると、まさにそうしたことをしている、サンフランシスコのある企業を見つけたんです。 サイトのトップページに記載されていた「ビジネスとデザインの交差点」というコピーを見て、自分のやりたいこととぴったりだと感じました。   ーご自身の強みを生かしつつ、やりたいことができる、理想の企業を見つけられたんですね。どんな仕事をされていたんですか? CEOアシスタントとして、インターンからスタートしました。 リサーチの手伝いや公式ブログの更新、ポスターのデザインなど、アシスタントという肩書きには収まりきらないことをたくさんさせてもらいました。 また、その企業にいる間は、CEOの家に住まわせてもらっていました。 社長が何を考えているか側で知ることができ、なかなか他の従業員に相談できないような話もしてくれたと記憶しています。 そんな経営者ならではの苦悩や孤独を近い距離で感じられる経験があったからこそ、彼らの気持ちを少しでも深く理解できるようになった気がします。   ー仕事中もプライベートもCEOに付きっきりでいられたのは、かなり貴重な経験ですね...! その企業の所在地である、サンフランシスコという街からもとても刺激を受けました。 サンフランシスコは、スタートアップ企業が多く集まる街で、優秀な人は起業をするという文化です。それまでの自分には縁遠かった、起業の文化を身近に感じれたのが良かったなと思います。 また、街全体に根付いている「失敗したらやり直せば良い」という価値観にも、とても影響を受けました。 事業で失敗した人をサポートする仕組みが街全体で整っているから、皆が挑戦しやすい環境になっているんだと思います。 日本では、成功した人は褒め称えるけど、失敗した人は叩く風潮が強いですよね。 実際にやったことがないから、その人の立場になって考えられず、客観的な意見でしか評価できない。僕は革新的なモノやサービスは個人の意志から生まれるのであり、逆に過剰な客観性はそのチャレンジを妨げる社会を作っている要因になっているのではと思います。 まず自分が何かに挑戦してみることで、他の人にも寛容になれるのかなと思いますね。 異国での生活を経て、大切にしたいあり方 ー昨年9月に帰国して転職されたんですよね。なぜこのタイミングで日本に戻ってこようと思われたんでしょうか? アメリカでは、まず3年働くのが一般的な働き方なので、自分もその期間をターニングポイントに考えていました。 3年経ったタイミングで、その会社でやりきった感覚と、違う環境で新たな挑戦をしたいという気持ちが芽生えたので、転職することにしました。 そう考えていた時に、コロナが流行し始めたんです。あらゆる企業でリモートワークに移行していくのを見て、自分がどこにいるかは関係ないなと感じました。 そこで、転職と同時に日本に戻ることにしました。   ー日本で働き始めてから、サンフランシスコの時と何か違いは感じますか? プロダクトデザインにおいては、日本は強いですよね。技術の高さが世界で評価され、かつてはメイドインジャパンのブランドとして成り立っていました。 ですが、今は「体験の時代」。一つのモノのクオリティにこだわることはもちろん、それだけではなく、顧客との様々なタッチポイントを通して、優れた体験を作ることの方が重視されている。 顧客視点でその体験を包括的に考えて、どうすれば質の高い体験を提供できるのか、といったことを考えていく必要があると感じています。   ー冒頭でお話しいただいた、「世の中にインパクトを与えられるサービスの設計」についてもお伺いできますか?どんな要素が必要なのでしょうか? 問いの設定が重要だと考えています。どんな問いを掲げるかによって、アウトプットやインパクトが異なるからです。 例えば、「どうすれば良い階段を作れるか」という問いを掲げたとすると、アウトプットは階段に絞られます。これを、「どうすれば人は快適に上に行けるか」という問いにすると、階段だけではなくエレベーターやゴンドラというアイデアも持ちうる。 問いに対しての答えを考えることはもちろん重要ですが、それ以上に、どんな問いを掲げるかが、そのアウトプットを通して、人や社会にインパクトを与えられる可能性を持つものになるのか、それとも、単純に改善になるのかで変わってきます。いかに本質的な問いを掲げるかがサービスデザインにおいてとても重要だと考えています。 これは、人生の夢にも共通しているとも言えるかもしれません。どれだけ大きな夢を掲げるかによって、そこに向けての行動や最終的な成果が変わってきますから。   ー問いの重要性を感じますね...。 帰国された今、7年間のアメリカ生活からどんなことを感じますか? アメリカでは、マイノリティとして生きることの重要性を感じました。 文化や考え方など、マイノリティの生活にどんな難しさがあるのかは、日本に居れば分からなかったことでした。 周囲の人が助けてくれたことや、理解しようとしてくれたことは、すごく心に残っています。その経験ができたおかげで、相手の立場になれる人が増えたと感じています。 ちょっとした思いやりの連鎖が社会を良くしていくと思うので、このことを周囲に伝えられるのは嬉しいですね。 また、人と人との間に優劣は存在しないことも感じました。 学歴や能力など色んな軸があるかもしれませんが、どこに軸をとるかによって評価は変わりますし、その軸にも優劣はないです。誰が優れている、劣っている、ということは100%ないですね。   ーアメリカ留学という、大きな選択についてもお伺いしたいです。 やりたいことがあるけど、何らかの理由によって進めない人へアドバイスをもらえますか? 自分の行動に責任を持てるかが大事だと思います。 行動を起こす時に、誰かに言われたから、という理由では、責任の所在が宙ぶらりんになってしまいます。 自分が人生のオーナーだという意識が持てるかどうか、を軸に行動を取捨選択することが重要だと思います。 踏み切れるか勇気が出ないという場合は、最悪のシナリオを考えるのも一つ手かもしれません。自分がアメリカに行けたのも、最悪の事態が起こっても死ぬことはないという確信があったからでした。   ー郷上さんのお話に力強さを感じるのは、自分の責任範囲の中で行動を起こしてきたからこそなんでしょうね。 最後に、今後やりたいことについて教えてください! 一つは、何事もやり抜きたいということです。 要領良くこなすのではなく、ちゃんと向き合って、自分が自信を持って良いと思うものを追求し続けたい。そうすることでしか成長できないと思っています。 もう一つは、前提を疑い続けることですね。 身の回りの出来事をどう解釈するのか、自分の中の答えに自覚的でありたいです。どんな問いを掲げるかにも近いですが、「本当にそうなのか?」と前提を疑い続ける姿勢を持たないと新しいものは生まれないと思います。 ーお話ありがとうございました!   ゲスト:郷上 亮(Twitter) 取材・執筆:中原瑞彩(Twitter) 編集:杉山大樹(note/Facebook) デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

自分らしい生き方は何度でも選べる! 林 利生太から生き方に悩む若者へ送る言葉

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第294回目となる今回のゲストは、NPO法人ひとまき事務局長の林 利生太(はやし・りゅうた) さんです。 皆さんも一度は、生き方に悩んだ経験ありませんか。 今回の主人公である林さん、大学時代にこのままで良いのだろうかと違和感を感じ、2年間の休学を選択、休学中に生き方に悩む若者向けのNPO法人ひとまきを設立されました。 自身の生き方が変わった出来事に触れながら、ひとまきでの活動を通じた林さんの思いをお聞きしました。 ヤンチャでスポーツに打ち込んでいた少年時代 ーまずは自己紹介をお願いします。 NPO法人ひとまきの林です。 普段は高知県の山奥にある嶺北地域にて、古民家を活用した拠点で若者のキャリア支援を行っています。「何度でも生き方を選ぼう」をスローガンに掲げ、世の中に発信する中で「自分も生き方を変えていいんだ」と思う若者を増やすことを目的に活動しています。 ー幼少期から振り返られればと思いますが、小学校時代はどう過ごされていましたか。 小学校5年生まではヤンチャで、ある日の下校途中に選挙ポスターに落書きをしてしまったんです。 自分としては出来心で、鉛筆とポスターが近くにあったからやったことなのですが、その翌日見たことのない学年の先生たちに職員室で囲まれ、「君がやったのは選挙妨害という立派な犯罪だよ」と言われました。そこから、反省をして真面目に生きるようになりましたね。 ーその後の中学校での生活で、印象に残っている出来事はありますか。 中学校の時は、柔道とバスケットボールの二足の草鞋をはいて、スポーツに熱中していました。その時大きかった経験が、バスケを一切やったことがないものの、分からないなりにも必死にバスケを勉強していたバスケットボール部の先生との出会いでした。 先生は自分が教えるだけではなく、僕たちと一緒にぶっ倒れるまで汗を流していました。その姿を見て、全力を出すことのかっこよさを学んだんです。私が先生を目指す上で、その先生の存在は大きかったです。 瀕死の状態になって、生き方が変わる ー高校生活で印象に残っていることはありますか。 高校生活は、私の人生にとって大きな転機となっています。 それは部活でも勉強でもなく、高校一年生の時の事故ですね。 タイヤの大きさが1mあるようなクレーン車の下敷きになってしまったんです。部活に行くため、雨の中レインコートを着ながら自転車に乗っていたのですが、お店の駐車場から出てきたクレーン車に自転車と体ごと巻き込まれてしまいました。 幸いにもタイヤの下敷きにならなかったのですが、その時に「死んだな」と心の底から思ったのを今でも覚えています。この事故で足の皮がめくれ、手足の骨も見えそうな状態になったため、高校時代はずっと入院していました。 ー衝撃的な出来事でしたね。その事故がきっかけに変わったことはありますか。 私の座右の銘が「死ぬこと以外蕁麻疹」なんです。 なぜかといいますと、その事故の経験が大きく、生きていてよかったなという原体験になっているからです。つまり、生きているだけでいい、命が存在しているだけで自分は幸せだということです。 今まで勉強しようという気概はなく、高校の授業や小テストや模試も適当で、学年順位も下から10番目だったのですが、事故後は限られた時間の中でリハビリに行きながら、勉強もスポーツも全て全力で取り組むようになりました。 このままで良いのだろうかと違和感を感じ、休学を決意 ーその後、高校から大学へとステージが変わると思いますが、大学はどんな軸で選ばれましたか。 学校の先生になるために大学に行かなければいけなかったので、進学を選びました。 高校時代の私には、なりたい職業が4つあり、学校の先生・消防士・警察官・理学療法士でした。 柔道で体を鍛えた経験をいかしたいという思いや、事故でリハビリをしていた時に支えになった経験がなりたい職業に影響を与えたのですが、大学に行けば学校の先生や消防士・警察官になれると思い、大学進学を決めました。 ー大学ではどんなことを経験されましたか。 大学が高知大学だったこともあり、高知県に住むようになりました。 理科の先生になりたいと思い、理学部に進学をし、柔道に励みながら飲み会をしていた学生生活を3年生まで送っていました。 在学中の一番の転機は、休学という選択をしたことです。 休学をしたきっかけは、教員採用試験、大学最後のインカレ、卒業論文を控えた状況でこのまま世の中のことを知らずに学校の先生になってよいのだろうかという疑問が湧いてきて、一切採用試験の勉強をしなかった自分がいたことです。 今まで小中高では、やらなきゃいけない時に一気にブーストすることを繰り返してきたので、今そのタイミングのはずなのにブーストしない自分に違和感を感じました。 なぜその職業につきたいのかにフォーカスをした時に、全部自分の身近な大人の職業であることに気づきました。そして、その4つからしか選ばないのは、恐ろしいと感じたんです。このまま視野が狭いまま先生になって伝えられることは、理科以外はないなと感じ、より視野を広げた先に自分が本当になりたい人の姿が見つかれば、その方向に進みたいと思ったので休学を選びました。 ー休学の期間や休学中に経験された出来事について、教えてください。 休学は2年間しました。 休学中は海外も行ったのですが、島で環境教育をしたり、農家さんで朝から働いたりする中で、どんな仕事をするのかよりもどんな暮らしをするのかということが大事だとわかりました。そして、自然の中で暮らす田舎生活が楽しいと感じました。 そのため、田舎で何かをやっていこうと休学中に思いました。現在、ひとまきを通じて若者支援を行っていますが、私自身休学を決断した時は親に反対されたんです。早く社会で働くように促されたり、友人から就職を心配する声が聞こえ、高圧的に接する人がいたりしました。その時感じたのが、休学という何もしないことに対する周囲や世間の反応って何なのだろうかという違和感でした。フリーターやニートという何もしていない状況への偏見や差別が蔓延しているなと気づきました。 そして、今の若者がゆっくりと見つめ直せて、他人による定義ではなく自分で人生を定めていく場所が今の日本にはないため、その場所を作る。その上で、地方にある空き家の増加、産業の衰退などの現状課題を組み合わせて解決していくことに可能性を感じたので、やっていきたいと思うようになりました。 学校の先生になりたいと最初は思っていましたが、人の価値観が広がったり深まったりする瞬間に立ち会うことが一番のモチベーションにつながるのだと気づき、休学中に法人を立ち上げて活動をスタートさせました。 ーローカルで暮らすことの良さを感じたということですが、なぜ若者の課題と地域の課題を掛け合わせようと思ったのでしょうか。 休学中に島で暮らすときも、環境教育をやっているNPOにボランティアでもいいので活動させてほしいと飛び込みました。人手不足だったので、何もスキルがない自分が役立ったり、農家さんのところへ行ったときも力仕事で役立った経験があり、自分が田舎で役に立てるのだと実感しました。 田舎の人たちや仕事に触れる内に、地方には自分が入り込めるスペースがあり、そこに自分が入れたことが自分の価値を認める瞬間になりました。今の若い人は自己肯定感が低かったり、都市に集まるとパズルのピースが溢れ出している状況に近いと思いますが、地方はピースが当てはまっていないので、そこに自分を当てはめることで価値を感じ、そのフィールドで成長をしていく流れがありますね。 自分がやりたいことの本質を見極め、退学を決意 ー休学があける直前はどんなことを考え、休学が開けた直後はどんなステップを踏んでいきましたか。 今の仕事はNPO法人ひとまきの事務局長として働く中で、個人事業としてコーチングやメディア収入、地域の柔道の先生として地域に雇用されていたり、さらには不動産の大家をやっていたりと仕事は5つある状況です。 休学中に法人を立ち上げて、その後復学をする選択もあったのですが、そのタイミングで法人の財政状況が厳しくなりました。当時、委託事業として地域の人材不足や情報発信をメインで受けつつ、生き方に悩む若者から連絡が来たらいつでも受け入れを行っていました。その結果、休学中に立ち上げて2年が経ったときには延べ2000人くらいの若者を受け入れていく中で、目の前で人生が変わっていく人たちを何人も見てきました。 私たちはその姿を見て、日本にはこの場所が必要だと感じていたものの、お金をいただいている委託業務をしっかり行わなければならないことや設立期に莫大なリソースを割いていたことを踏まえた経営判断として、委託業務を全てやめ、若者支援にだけ集中することにしました。若者支援に集中するためには、私たちも生きていかないといけないので、寄付型のNPOに転換することになりました。 実は、そのタイミングが私が退学するのか復学をするかどうかの分岐点で、復学をするとしたら1年間という時間と50~60万の年間の学費を大学に使うわけですが、本当に自分がやりたいことは目の前にあってすでに始めていましたし、寄付を募ろうとしている状況を考えたときに、この学費も寄付したらいいのではと思いました。そのため、個人としてもひとまきとしても大学に戻るべきではないと考え、退学することを決めました。 生き方で悩む人の力に ー寄付型のNPOを運営する上でどんなことに取り組み、どんな課題を感じているのかを教えてください。 当時は連絡があれば泊まっていいよと話していたものの、受け入れ側も相当なリソースを使っていたこともあり、大変だと感じていました。そうした時に、生き方を選び直していく場を再現性を持ってどう実現できるのかを考えたのですが、今までは2泊3日の人もいれば半年の人もいて様々でした。 そこで、誰がどれぐらい変化したのかを、スタッフが今までの滞在者リストと向き合ったところ、スタッフと参加者の関わり合いだけではなく、同じように生き方に悩んでいる若者同士が高知の山奥に来て、お互いの状況を分かち合う瞬間があったとわかりました。 その結果、1週間のプログラムに変更することになり、最初は無料でやっていたのですが、財政的に厳しい状況になりました。ひとまきには、毎月67名の寄付者の方がいらっしゃるにもかかわらず、リソース不足な状況が続いていたため、どうすれば持続的に続けられるかを考えたときにお金の問題にぶち当たりました。 お金の問題を考えた時に、生き方に悩んでいる状況とお金がない問題は全く同一でないことに気づきました。今までは無料でやって、いつかその参加者が寄付者に回ればいいなと思っていましたが、それを待っているだけでは難しいので、プログラムの有料化をはじめました。参加するお金のハードルが高いという方には、寄付を財源として半額以下に下げてプログラムに参加してもらうという形にしました。 また、プログラムに参加する以前にキャリアについて悩んでいる方が参加できる「生き方相談所」を寄付を財源にしながら、事業展開しています。 ー最後に、今後のビジョンを教えてください。 普段、ひとまきでは1週間の滞在型コーチングプログラムをやっています。 今、自分の理想の生き方を選べない、あるいは選択肢すら知らないという方もいると思います。選択肢を知りたい方は、次世代生き方図鑑という色々な生き方を詰め合わせた本があるので、連絡いただければお送りします。 実際にオンラインで話したいという方は、無料でキャリア相談に乗ります。 さらには、実際に生き方を変えたいという方は、1週間滞在型のコーチングプログラム「若者エンパワーメントプログラム」に参加いただき、自分の中の価値観に向き合ったり、実際に生き方を変えていきます。このプログラムは、1週間の滞在型に加え、3ヶ月間オンラインでメンタリングサポートをさせていただき、一緒に生き方を変えていきましょう。 また、高知県で実際にチャレンジしたいという方は、私たちがシェアハウスの運営もしているので、1年間住んでいただきながらメンタリングサポートを毎月受けつつ、同じ思いで集った仲間と生き方を変えていく取り組みを年度毎に行っています。 現在、絶賛募集中なので、NPO法人ひとまきのホームページから応募していただければ嬉しいです。 何度でも生き方を選びましょう! 取材者:山崎 貴大(Twitter) 執筆者:大庭 周(Facebook / note / Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

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