生きるために必要なのは「心が安定する場所」。作家・岸田奈美が「好き」を仕事にするまでの半生

生まれつき「ダウン症」という障害のある弟、病気の後遺症で車椅子生活を送る母、突然死した父――まるでフィクションのような家族構成を持つのは、作家・岸田奈美(きしだ なみ)さんです。 ともすれば暗い話になってしまいそうな家族の話を、あっけらかんとユーモラスに書き綴る岸田さん。彼女のエッセイは、「読めば心が温かくなる」と人気を集めています。2020年9月には、初めての著書『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった(小学館)』を発売。 今でこそ「好きなことで生きる」を体現する岸田さんですが、その人生はまさに波乱万丈。どのような幼少期を過ごし、29年間でどれほどの経験を積んできたのでしょうか。「作家・岸田奈美」を作り上げた過去と、これから目指す未来に迫ります。   生きることに必死だった自分を救ったのはインターネット ――現在は作家として活躍されている岸田さん。どのような幼少期を過ごしていたんでしょうか? 私、幼い頃から両親に愛されて育ったんです。どんな些細なことでも、オーバーなくらいに褒めてもらっていました。でもそれにはきっかけがあります。 ダウン症の弟で生まれたことで、母は当時「お姉ちゃんはしっかりした強い人に育ってほしい」と考えていたらしく、私に対してすごく厳しかったんです。そんなこと知らなかったから、ある日母に「私なんていらないんでしょう」と泣いて訴えました。その言葉を聞いた母はひどく反省したそうで、その日以来、私のことも褒めてくれるようになったんです。 ――愛情をたっぷりもらって、自己肯定感の高い子供時代を送っていたんですね。 それが、そうでもないんですよ(笑)家では両親が褒めてくれるものの、小学校では誰からも褒めてもらえませんでした。忘れ物も多かったし字も綺麗に書けなかったので、先生も褒めてくれない。 周りで勉強やスポーツのできる子が人気者になっていく中、「私はもっと面白いのに誰もわかってくれない」と、どんどん自信をなくしていきました。 ――自信をなくしたまま中学生になり、2年生のときにお父さんが亡くなった。 父が突然死したことで環境が一変しました。亡くなるまでの2週間、父は生死の間をさまよっていたので、容態が急変したら学校を抜けて病院に行くという生活に。授業も部活も早退するし、友人と遊ぶ約束をしていても行けなくなる。周りからすれば異質な存在だったと思います。 そんな私を救ってくれたのが、インターネットの世界でした。幼い頃に父からもらったiMacを使って、掲示板サイトを見たりそこに書き込んだりする時間が楽しかったんです。顔の見えない人の書き込みに笑い、私の書き込んだことに反応してくれる人がいる。 父を失って心に余裕がなかった私が、唯一楽しいと思える場所がインターネットでした。インターネットの世界だと、「お父さんが亡くなったかわいそうな子」というレッテルを貼られることなく、私を私として見てもらえる。それが嬉しかったんです。 私はどんどんインターネットにのめり込みました。自分でHTMLを勉強してホームページを作り、人気サイトになったこともあります。インターネットの世界が面白すぎて、現実世界がつまらなく感じるほどになっていました。   志望大学合格が人生初の成功体験 ――インターネットに救われ、その世界を楽しみつつも、高校に進学された。どんな高校生活を送っていたんですか? 高校生活もあまり楽しいものではなかったですね。部活でひどいいじめにあって、孤独を感じていました。そんな中、高校1年生のときに母が病気で倒れて入院することに。父もいないし母は病気の後遺症で歩けなくなった。まったく余裕のない状況でした。 あまりに辛いことが連続して起こったので、生きることに必死で、自分を不幸だと思うことすらなかったです。父が亡くなったときに「どんな悲しみも絶望も、時間が過ぎれば楽になる」と知ったので、高校時代もなんとなく「これ以上悪い状況にはならないだろう」と思っていましたね。辛い中でも楽しみを見つけながら過ごしていました。 この頃も、ずっと自分に自信がありませんでした。「私は面白いことを考えているのになぜか評価されない」と思っていたし、心が通じ合う友人もいなかったんです。 ――辛い状況が続く中、高校3年生になって大学進学を考えた。関西学院大学を選んだのはなぜでしょう? 車椅子生活となった母のために、福祉の勉強をしたかったんです。加えて、起業家だった父のようになりたいという思いもあったので、福祉と経営を一緒に学べる関西学院大学 人間福祉学部 社会起業学科を目指しました。 だけどこれまで勉強してこなかったので、偏差値が全然足りなくて……。勉強するために塾に通おうにもお金がない。そこで、塾講師もやっていた整骨院の先生にお願いして英語を教えてもらうことにしたんです。 ――その出会いが、岸田さんの人生の転機となったわけですね。 そうですね。その先生は愛想も良くないし、考え方も変わっていたんですが、他の人と違った好奇心を私にくれました。勉強方法を訊ねたときも、「英単語は覚えなくていい」「文法を覚えて、俺に授業できるようにしろ」と言われたんです。普通はこんな教え方しませんよね(笑) でも自分が誰かに説明したことって、絶対忘れないんです。周りの受験生は誰もやっていない勉強方法でしたが、おかげで「知らないことを知る喜び」や「人に教えることは楽しい」という勉強の楽しさを知れました。先生の勉強法が功を奏し、受験本番は、英語でほぼ満点を取ることができました。   福祉を変えるためにはビジネスの力が必要。ミライロの創業メンバーに ――いろんな出会いやご自身の頑張りが身を結び、志望していた大学に合格。そして大学1年生のときに、前職の株式会社ミライロとの出会いがあったんですね。 そうです。関西学院大学主催の講演会に他校から参加し、事業の公開相談をしていたのが、ミライロを創業した垣内と民野でした。垣内はその場で「車椅子に乗っている僕だからこそ伝えられることがある」「僕は社会を変えるために民野と一緒に起業したいと思っている」と話していました。 当時の私は、志望した大学に入ったものの、期待を膨らましすぎていて大学生活にがっかりしていたんです。授業を聞いても学生活動に参加しても、どれもしっくりこない。私は、地域の障害者や海外の貧しい子供たちより、「歩けないなら死にたい」と苦しんでいる目の前の母を助けたかった。 以前、大学の授業で「ビジネスだからこそ福祉を変えられることがある」と話をしてくれた方がいて、すごく共感したんです。だから垣内の話を聞いたとき、「母を救う方法が見つかるかもしれない」と一筋の光が見えました。そしてすぐに声をかけて創業メンバーとして参加させてもらうことにしたんです。 ――ミライロに創業メンバーにジョインしてからの生活はどうでしたか? 非常に忙しくて寝る時間も取れないほどでしたが、とても楽しかったです。クライアントからバリアフリー地図のデザインを頼まれたものの、デザインのソフトを勉強するところから始めたり、徹夜で研修資料を作ったりしていました。 ただ、私は遅刻も多いし納期も守れなくて、よく怒られていたんです。楽しかったけど完璧を求められることに疲れてしまい、大学3年生が始める春休みのある日、過呼吸で倒れてしまいました。そして1年間休職することにしたんです。 ――会社を辞めるのではなく休職することにしたのはなぜでしょう? ミライロのミッションも事業も好きだから離れたくなかったんです。大学では得られない経験もたくさんできますし、大学には話の合う友人もいなかった。気付けば、会社が自分の居場所になっていました。 1年間休職したのち、大学4年から復職。休んでいる間に授業を受けて単位も取得できていたので、そのままストレートに卒業しました。同時に、ミライロに正式に入社したのです。   生きるために必要なのは、心身が安定する環境 ――ミライロの正社員になって、仕事内容に変化はあったんでしょうか?? 正式に入社すると同時に、営業から広報の仕事へ異動することになりました。広報は、「自分の会社のことが大好きな人」かつ「他人を好きになれる人」が向いているんですよ。私はミライロの「バリアバリュー(障害を価値に変える)」という企業理念がすごく好きだし、サービスも好きでした。 それに、人を好きになる才能もあったので、広報の仕事は向いていたんだと思います。誰もやったことのない方法でウケるサービスを作ろうと奔走していました。 広報の仕事は計画を立てることが重要なのですが、実はそれは苦手分野。ただ、瞬発力はあるので、急なメディアの取材などでは最適なルートを最短で導き出して成果を上げていました。 ――ご自身に合った仕事で活躍されていた岸田さんですが、会社を辞めて作家として独立することに。どのようなきっかけで独立を決めたんですか? 相変わらず細かいことや計画立てることが苦手で、失敗し、迷惑をかけてばかりだったので、会社を辞めたいと思うほど自信をなくしていました。その一方、「ここにしか居場所がない」と思い込んでいたので、ずっと辞められずにいました。 でもある時、耐えられないほど落ち込む出来事があって、会社を3ヶ月間休むことになったんです。その間に、弟が私を旅行に連れ出してくれました。そこで改めて気づいたのは、私はずっと人の目を気にして生きてきたのに、弟は誰の目も気にせず楽しく生きているということ。 「弟は素晴らしい」と思ったんです。「そんな弟がいる私は幸せ者だな」と。その気持ちを誰かに伝えたくて、Facebookに投稿しました。それを読んでくれた人が「もっと人の目に触れる場所で書いたほうがいい」と言ってくれたので、noteに書き写したんです。 このことがきっかけで、noteに文章を書くようになりました。そして「弟が万引きを疑われ、そして母は赤べこになった」の記事がバズった。それがきっかけになって、クリエイターエージェント・株式会社コルクの代表兼編集者の佐渡島さんと出会います。これが大きな転機となりました。 作家として独立することを考えていたものの、私は自信がなくて諦めかけていたんです。でも、打合せの席で佐渡島さんは「岸田さんが誰も傷つかない文章を書けるのは、岸田さんが傷ついてきたからだと僕は思う」と言ってくれた。 その瞬間、「褒められない場所に居続けて心を削るのは、全然いいことじゃなかったんだ」と悟りました。安定的な給与をもらって心が不安定になることより、心身の安定のほうが大事だと気付いたんです。 佐渡島さんと話しているとき、私の心は安らかでした。「生きるために必要なのは、こっちだ」と思った瞬間、退職を決意したんです。 ――独立後、心は安定していますか? はい。書くことの大変さもありますが、その大変さすら楽しいと思えますね。ずっとやり続けられるくらい。そんな状態になった自分に、自信が持てるようになりました。 コルクで私を担当してくださる方々が、「僕たちの仕事は岸田さんをマネジメントしたりコントロールしたりすることではなく、岸田さんがやりたいと言ったことを実現させること」だと言ってくれたんです。その言葉で、すごく安心できました。 これまでの私は、褒められるために頑張っていました。でも最近気付いたのは、「自分で自分のことを褒めてあげられないと、何をやっても上手くいかない」ということ。自分が納得のいく努力をしている自信さえあれば、周りの評価がどうであっても、好きなことをやり続けられるんですよね。やり続けるから結果も出せるんだと思います。   自分を愛せる理由を増やして、他人を愛せる人間になりたい ――岸田さんが今後挑戦したいことは何ですか? 今まさに挑戦中なんですが、フィクションを書けるようになりたいと思っています。これまではエッセイばかり書いてきましたが、糸井重里さんにお会いしたとき「かわいそうで大変そうな人は応援されやすい。この状態を続けると、岸田さんは不幸を探して歩くようになる」と言われたんです。 ハッとしました。確かに、不幸を探すようになっていたんです。「今日は何も起きなかったな」と思うようになっていた。本当は、何も起きない毎日が素晴らしいはずなのに。 糸井さんからは、「人を楽しませる不幸を探すのではなく、人を楽しませる物語を自分で創れるようになったほうがいい」とも言われました。佐渡島さんも「自分が創る世界観でファンになってもらったほうが、クリエイターとして長くやっていける」とおっしゃっていたので、「それなら挑戦しようじゃないか!」と。 それに、フィクションじゃないと言えないこともあるんですよね。「岸田奈美」を主語にすると角が立つようなことも、物語として書けばマイルドになります。伝えたいことを余すことなく伝えるためには、言い方を変える必要がある。だから今、小説を書く練習をしているんです。 ――岸田さんの書く小説、楽しみですね。これから30代を迎えるにあたって、なりたい自分像はありますか? 自分を好きになる理由をもっともっと増やしていきたいですね。私が文章を書くモチベーションは、「好き」「伝えたい」「愛したい」というもの。他人や社会のいいところを見つけて好きになるためには、まず自分を愛してあげることが大切だと思っています。そのために、常に小さな挑戦を続けて「私ってまだまだできるじゃん!」という体験を積み上げていきたいです。 ――自分を好きになることができずに悩む20代も多いと思います。好きになるためのコツはあるんでしょうか? 「この人と話しているときの自分が一番好きだな」とか、「この人と話していたら自分の好きなところがたくさん見つかるな」という人を見つけることじゃないでしょうか。私の場合は、それがコルクの方々や家族でした。 そういう人をたくさん見つけるために、私はいろんな方と話をするようにしています。そして見つけたら、その人に愛を注ぐんです。愛を注げる人数には限りがあるので、誰に愛を注ぐかよく見極めることも大事です。自分を嫌う人にまで愛を注ぐ必要はありません。環境を変えて人を選ぶ、という意識を持つといいかもしれませんね。 ――それは、限りある人生を楽しく過ごすためのヒントでもありますね。紆余曲折を経た岸田さんだからこそ出てくる言葉の数々に胸打たれました。今後の活動も応援しています。ありがとうございました!   取材:西村 創一朗(Twitter) 文:矢野 由起

「貧困不良少年」から国会議員へ。正義を貫き平和を愛する中谷一馬が駆け抜けた日々【第1章:県議会議員編】

第一線で活躍しているビジネスリーダーの方に、まだ何者でもなかった10〜20代の頃から現在に至るまでのストーリーを伺う連載企画「#何者でもなかった頃」。今回のゲストは、立憲民主党衆議院議員の中谷一馬(なかたに・かずま)さんです。 27歳、県政史上最年少で県議会議員に当選して政界デビュー。しかし、かつては不良少年グループの代表格だった時代があると言います。貧困家庭に育ち、中卒で社会に出る――まさに「何も持っていない」状態からスタートを切った中谷さん。どのようにして這い上がり、国会議員の座に就いたのでしょうか。 今回は第1章として、中谷さんの幼少期から県議会議員になるまでのストーリーをお届けします。   「貧困」と「暴力」に苦しんだ過去があるから政治家を目指した ――現在、最若手クラスの国会議員として精力的に活動されている中谷さんですが、過去には中卒で「貧困不良少年」としてレールを外れた時期があるそうですね。そもそも中卒で社会に出る道を選んだはなぜでしょうか? 母子家庭かつ貧困家庭で育ち、少しでも早く働きに出て家族を支えたいと思っていたからです。11歳のときに両親が離婚して以降、母は女手ひとつで子供3人を養ってくれていましたが、どれほど働いても生活は厳しくなるばかり。 必死に働くひとり親家庭の母親がワーキングプアになるという社会構造自体に問題があるのですが、当時の私はそんなことを考える知識も余裕もなかった。火の車になっている家計を目の前に、とにかく稼がねばと思って中卒で社会に出ました。 ――中卒で社会に出ても、家族を支えるほど稼ぐのは難しかったのでは? その通りです。引越し屋、ピザ屋、ガソリンスタンド、コンビニエンスストアなど、さまざまなところでの仕事を模索したものの、家族を養えるほどの収入は得られませんでした。私が未熟だったこともあり、仕事も続かなかったり、すぐクビになったりするなど、なかなか上手くいかない。そうしているうちに、社会で働くことに挫折し、道を逸れてしまったのです。 ――そこから「貧困不良少年」時代に突入するわけですね。 気づけば、同じように道を逸れた若者たちと集まるようになっていました。貧困や家庭環境が原因で道を逸れ、十分な教育が受けれらずに社会に出た若者たちです。その中でグループが形成されていき、ある時期には私が不良少年グループの代表の代表格だったこともあります。 このような状況から抜け出すための道を指南してくれる大人がいれば、私を含め、不良少年たちの人生は違ったものになっていたかもしれません。しかしながら、公共に手を差し伸べてもらえる環境があったわけでもありませんでしたので、そんな社会や政治に対して皆で不平不満を漏らすばかりでした。 残念ながら当時は、私を含め「社会を良くしよう」「政治を変えよう」と考える人は周りに誰もいませんでした。そんな発想をするだけの知識や経験を持ち合わせていなかったため、社会を改善するための方法もモチベーションも持っていなかったんだと思います。社会の底辺で政治や世の中の矛盾を感じながらも、「何を言っても社会は変わらない」と諦めていた。次第に、「自分の今が楽しければそれでいい」という刹那的な生き方をするようになりました。 ――そのような状況にいた中谷さんが、政治家を目指すきっかけは何だったのでしょう? フランスの画家であるポール・ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という作品を見たことがきっかけです。その絵を見たとき、シンプルに「私は何のために生まれてきて、この一時代で何を成し、どう死んでいくのだろう」と考えました。 先人たちが、より良い世界にするために思考と行動を積み上げてきた結果、今の時代がある。それならば私の100年の人生も、次の時代をより良いものにするために使うべきではないかと思ったのです。 まずは自分と家族が幸せになるために生き、それがゆくゆくは世界中の人の幸せや平和につながれば、それが自分の存在価値になるんんじゃないか。そう考えて行き着いた答えが、「政治家になって世の中をより良くする」というものでした。 ――たった一枚の絵が人生を変えた、と。 私は貧困と暴力のある家庭で育ったため、ずっと死生観や哲学的なことを考えて生きてきました。だからこそ、自分の軸が早くから形成できていたのかもしれません。数多ある社会課題の中で、自分の目の前にある課題はボーッと待っていても誰かが何とかしてくれるわけではないので、自分たち自身が改善しなければならない。そして社会の矛盾を変えるためには政治を変えるしかない、と思うようになっていました。ゴーギャンの絵に出会ったことが、考えを行動に移すためのトリガーになったのです。   「平和」と「正義」を守る生存戦略としての”ヤンキー” ――社会に不平不満を漏らすばかりの不良少年グループの中で、「自分で変えよう」とポジティブなマインドセットを持ち続け、腐らずにいられた理由は何だったのでしょうか? 幼い頃のカオスな家庭環境が、私の「正義感」や「反骨精神」を育んだのだと思います。父は非常にバイオレンスな人で、家の中だけでなく外でも喧嘩ばかりしていました。幼い私にとって父は声を聞くだけで鳥肌が立つほど怖い存在でしたが、その結果、多少のことでは恐怖を感じない人間に成長しました。特殊な家庭環境だったからこそ、勇猛果敢に挑むメンタリティが培われたのだと感じます。 一方の母は、父を反面教師として徹底的に「人としてこうあるべき」と教育してくれました。彼女にとっての理想の男性像を叩き込んでもらったのだと思います。おかげで、「当たり前のことを真摯に誠実に愚直に行う」「困っている人がいたら手を差し伸べる」という私のマインドセットができあがった。母の影響は大きいですね。 ――幼い頃からの環境と教育が、今の中谷さんを作り上げたのですね。 自分の正義や平和を守るための生存戦略として、今の人格が形成されていった部分もあります。両親の離婚などもあり、生活が不安定な時期が続き、親戚を頼って全国を転々としていたので、幼稚園から中学校まで何度も転校を繰り返しました。そうすると、既存のコミュニティに飛び込んで、必要とされるポジションを見つけて友達を作る術が自然と身につきました。 特に、東京から大阪に引っ越したときは過酷でした。まず大阪弁を話せないので、コミュニティに入ることができない。引っ越した街も、犯罪発生率が非常に高かった。その中で自分の平和を守るには、強くならざるをえませんでした。 人間は無意識に、自分に実害を加える可能性のある自分より強そうな人を相手に意味のない不合理な喧嘩を売ったりしません。「ボブサップならカツアゲされにくい」と言えばイメージしやすいかと思います。だから自分が強ければ、仲間や家族が危害を加えられることもありませんので、戦わずして勝つ環境を作ることができました。私にとって、「正義」や「平和」を守るための生存戦略が「不良になること」だったのです。   チャンスを掴んで成功するコツは「行き当たりバッチリ」にすること ――不良少年グループにいながらも、ご自身の正義を貫いた中谷さん。政治の世界に入るまで、2度のターニングポイントを経験されています。まず1つ目が、投資家に3,000万円出してもらって渋谷にバーをオープンさせたこと。このチャンスを手に入れるまでには、どのような経緯があったのでしょうか? 政治家になるには学歴が必要だと分かり、まずは働きながら通信制の高校に行くことに。その頃、銀座でホステスをしている友人の話を聞いて、テレビに出るような著名な人たちに近づける環境があることを知りました。 私自身、知恵もお金もコネも何もなかった。だったら環境を変えて、すごい人たちの側で勉強しようと思い、西麻布でバーテンダーをすることにしたのです。そこでは、多くの著名な経営者や政治家、芸能人の方々と会い、世間話をする機会もありました。お客さんの話は一つひとつがすべて刺激的。知らない単語はその場でメモして、帰宅後に調べて自分の知識にしていったのです。 3000万円出してくれた投資家の方と出会ったのも、そのバーでした。私たちは会話が弾み、その方のホームパーティーに参加することに。渋谷でバーをオープンしたいと考えていた私は、パーティーで具体的なプランを話したのです。 するとその方は、まだ会って2回目にポンっと3,000万円出してくれることを即決された。こんなチャンスがやってきたことは、私の37年間生きてきた人生の中でも22歳のこのときだけです。 ――具体的な計画を立てることができたからこそ掴めたチャンスですね。なぜそこまで詳細な未来設計ができていたのですか? 「好きこそ物の上手なれ」の言葉通り、シンプルに好きなことで目標が明確だったからです。だからすぐに具体的なプランを答えられた。このとき初めて、巡ってきたチャンスを受け止める準備の必要性を実感しました。 しかし、仮に準備ができていなかったとしても、チャンスだと思ったら果敢に挑戦することが大事だと思っています。大口を叩いて、臆さず飛び込めるか。飛び込んだら、帳尻を合わせるために必死で頑張れるものです。「行き当たりばったり」ではなく、「行き当たりバッチリ」にすること。そして失敗しても成果が出るまでめげずにやり続けること。これがチャンスを掴んで成功するための秘訣だと思います。 ――好きだから準備ができていたし、もしできていなくても飛び込むことが大事なんですね。もうひとつのターニングポイントは、株式会社gumi(旧 アットムービー・パイレーツ株式会社)の執行役員としてジョインしたこと。これはどのような経緯があったのでしょう? 3,000万円の資金をかけて、渋谷で「Reality【リアリテイ】」というダイニング・バーをオープンしたとき、人間関係を構築するために20代の若手の団体代表サークル「TOPS」をつくりました。そのサークルのイベントに、gumiを創業する前の國光宏尚さんも参加してくれていたのです。 通信制高校を卒業したばかりで不良少年上がりの私と、バックパッカーとして世界を旅して帰ってきた國光さん。二人とも何の力もありませんでしたが、夢だけは大きかった。「俺は、会社を上場させて世界一の企業を作るで」「俺は、国会議員になって世界を平和にします」ビックマウス過ぎる夢を語り合っていた私たちは意気投合してすぐに仲良くなりました。 だから國光さんから「会社を創ろうと思っている」と誘われたときは、二つ返事でOKし、gumiの役員として参画することになったのです。 当時は事業が軌道に乗らず苦労したこともありましたが、お互いに支え合って頑張ってきました。今では國光さんが私の後援会長を務めてくれています。   「バッターボックス」に立ったからこそ、県政史上最年少議員として当選できた ――バーの経営もベンチャー企業の仕事も順調だった中谷さんが、政治家としての活動に専念することとなったきっかけは何だったんでしょうか? 私の原点はずっと政治にありました。だからこそ自民党の学生部に副委員長として携わったり、日本の政治をおもしろくする会という学生団体を立ち上げるなど、政治と関わる環境にも身を置いていたのです。いずれ政治一本に絞らなければと思っていた頃、縁あってインターンシップに従事させて頂いていた菅直人さんに「給料はいくらでもいいので雇ってください」と懇願。すると、秘書として雇ってもらえることになりました。そこから政治の道にシフトしたのです。 ――菅元首相の秘書を辞めて神奈川県議会議員に立候補したのはなぜですか? いずれは独り立ちしなければならないと考えていたからです。それに、私の中には「人が人から離れるときは、その人が困難なときではなく、最も良い状態のときだ」という信念がありました。お世話になった人だからこそ、人が離れて困る時期ではなく、人が沢山集まってきて自分の変わりなどいくらでもいる時に離れようという想いからです。 だから菅さんが総理大臣になった月まで秘書として仕えた後、県議会議員を目指すべく神奈川県の港北区で立候補を目指しました。県議会議員より総理大臣秘書の方がいいんじゃないかと引き止めてくださった方々もいらっしゃいましたが、私の意思は変わりませんでした。 ――そして史上最年少の27歳で県議会議員に当選。戦況は厳しかったそうですが、そのような状況で当選できた要因は何だったのでしょう? バッターボックスに立ったことが、何よりの勝因だと思っています。もし「自分にはできない」と諦めて打席に立たなかったら、その時点でホームランどころかヒットの可能性も”0%”になります。打てないかもしれないけれど、打席に立ってトライすることが大事なのです。 私はとにかく打席に立ってバットを振った。すると、現職の方が別の選挙区に移ったり、引退されたりと、不思議な化学変化が起こったのです。さまざまな事情が重なった結果ではありますが、私が飛び込んで歯車をひとつ変えたことで、周囲の動きも変わった。私が挑戦をやめていたら、起こりえなかったことです。 また、その選挙区は若者の人口が多く、住民の平均年齢が比較的低い地域で、若い政治家を生み育ててくださりやすい土壌があったことも要因のひとつだと考えています。   「世界平和」を実現させるために政界で突っ走る ――最年少で県議会議員に当選したのち、「リバースオークション」を導入してマニフェスト大賞で最優秀政策提言賞を受賞。具体的にどのようなことをされたのでしょうか? リバースオークションというのは、価格を競り下げていく入札方式です。複数社から見積りを提示してもらったのち、それぞれの価格をオープンにする。そうして各業者で競ってもらい、価格を競り下げて役所が入札します。 要件をきっちりと定めて、これまでより公平かつ安価で業者に依頼できたため、経費の削減に成功。多くの財源を生み出すことができたので、その分を教育や福祉の予算に充てたいと考えました。 ――リバースオークションに反発する事業者や団体もいたと思うのですが。 これまで他と比較されることなく受注して利益を得ていた事業者からは、反発を受けたと思います。しかし、リバースオークションを実現することが特定の誰かの利益ではなく、公の幸せにつながると信じていましたので、芯を持って推進しました。 無名の新人が進めていたため、実現するまで事業者含めてノーマークだったことも加勢し、スムーズに導入が決定。提案が通ったあとでビジネス的の発想だったこともあり、若干の反発はありましたが、政策としては成功して評価され、全国に広がったことはひとつの成果だと考えています。 一部の既得権者の利益ではなく、多くの国民の利益を優先する。その積み重ねが、今の私の信用につながっていると思っています。 ――マニフェスト大賞で受賞する前に、WEF(=World Economic Forum)のGSC(=Global Shapers Community)でも活動されていたんですよね。 はい、世界経済フォーラムの33歳以下の日本代表メンバーに選んでもらい、コミュニティに参加することができました。日本の地方議員としては初の選出でしたので、とても光栄でした。そのコミュニティには当時、私と同世代のスーパースターたちが大勢参加しており、非常に刺激をもらいました。 これまでの人生経験で、自分の判断力や決断力、推進力にはある程度の自信を持っていましたが、「上には上がいる」と思い知らされる、学びの大きい環境だったと思います。自分が上にいる環境は居心地はよいと思いますが、成長には繋がりにくい。やはり自分が下にいて優れたロールモデルに見取り稽古で触れられるコミュニティは学ぶことが多くありましたので、成長スピードもぐんと加速したように感じました。 ――県議会議員として活躍されたのち、ついに国会議員へ。中谷さんが政治を通じて実現したい未来とは? 私は世の中の「貧困」と「暴力」を根絶したいと思っています。「平和」で「豊かな」社会がいつもいつまでも続く世の中を創りたい。端的に言えば、”世界平和”を実現したいです。 「世界平和なんて無理に決まっているだろ」と言われることもありますが、どのような社会を創りたいと思っているのか、ビジョンを明確に掲げることは非常に重要です。政治家が前を向いて夢を語らなかったら、国民の皆さんに一体何を語るのでしょうか。私は夢を大きく語り、実現に向けて一歩一歩道筋を切り開いていきたい。 そして理想とする社会を実現するためには、政治家だけでなく国民の皆さんの協力が必要不可欠です。私が政界に入って痛感したのは、意見を通すのが上手い人たちの意見だけが制度に反映されているということ。 政治に無関心でいることはできても、生活に政治が無関係であることはできません。だからこそ私は、誰かが動いてくれるのを待つのではなく、主体的に変えていこうと思いました。 私は、平安時代に天台宗を開いた最澄が述べたとされている「一隅を照らす」という言葉がとても好んで使います。私達一人ひとりが世の中の問題点に対して、自分の見える範囲のことをできる限り改善していけば、世の中はきっとより良くなる。仮に、この世に生きるすべての人が、ステージに応じた社会の問題点を真剣に考え、それを解決するために全力でアプローチができる社会を創ることができれば、「世界平和」という目標も必ず実現できると確信しています。 「現状に屈するのか、未来を拓くのか。全ては自分自身の行動が未来を決める。」 皆で一緒に社会をより良くしていきましょう。 ――U-29世代に勇気を与えるストーリーと、未来に向けた力強いメッセージをありがとうございました!次回、中谷さんが県議会議員から国会議員になるまでの道のりを詳しくお伺いしたいと思います。   取材:西村 創一朗(Twitter) 文:矢野 由起

人生は楽しんだもん勝ち!ペイミーCS・人事の門野妹のターニングポイント

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、株式会社ペイミーにてカスタマーサクセス(CS)と人事を担う門野妹(かどの・まい)さんです! ”かどまい”の愛称で親しまれ、TwitterやnoteなどでCSや人事の仕事の発見や面白さを発信する門野さん。そんな門野さんがこれまであまり明かしてこなかった過去の転機や自分軸に気づいた背景などに迫っていきます。 青春真っ只中に、仲良しグループのギャルとバトルが勃発!? ーSNSなどの様子を見ていると、明るく誰とでも分け隔てなく交流している印象のかどまいさんですが、幼少期はどんな女の子だったのでしょうか? 幼少期は活発な子だったと思います。3歳のときに補助輪なしの自転車を乗り回し、幼稚園に通園する姉の後ろをついていくなど、周囲からも驚かれるほど元気な子供でした。 小学校の時は生徒会長をしていました。学校では目立っている方だったかもしれません。中学時代はバトントワリングをしていて、大学ではダンスをしていました。 運動が好きで、スポーツ大会に出たこともあります。友人に誘われて色々な環境に飛び込んでいき、楽しそう!と思えることは何でも挑戦するのが好きなタイプです! ーかどまいさんの人生において、唯一の”暗黒時代”と言われる出来事が高校生の時に起きたそうですね…。何があったのでしょうか? 私は三重県の四日市市出身で、地元の高校に進学していました。通っていた高校では、10人ぐらいのグループに属していて、”THE・女子高生”という生活を送っていました。 ある日、誰かが私に関する良くない噂を流したみたいで…グループ内で私に関するデマが広まってしまい、話しかけても無視されたり…友人が離れていき孤立する経験をしました。非常にショックを受けました。 結局、グループの子たちとは半年後くらいに和解して、今でもたまに集まったりするほど仲良くなったのですが、当時は周囲の友人や男子グループにも心配されるほど揉めました。 ー無視されるのは悲しいですよね…その経験が後の人生において役立っていますか? 人に好かれようと媚びることや、取り繕った人間関係の脆さ・醜さを実感しました…。 当時の自分を振り返ってみると、無理してグループの皆のテンションに合わせてたなと感じます。本当に良いと思っていないことでも「それ良いよね!」と取り繕ったり、目立つタイプの人に合わせて行動していた自分がいたと思います。 ただ、逆に私が辛いタイミングで「気にしない方が良いよ」と優しく声をかけてくれる方々もいて、本当に大切にすべきはこの人たちだと気付きました。その時に本質的に自分が良いと思える関係性を築いていこうと決意しましたね。私も辛い人や困っている人に優しい人であろう、と。 ーそんな高校時代を経て、東京に進学した経緯とは? 大学受験が大きな転機でした。地元の高校の進学組は、比較的近い都市の名古屋に行くか、大阪に行く方が多かったので、「東京に行く」と言うだけで周囲からは驚かれました。 東京にずっと行きたい!という強い気持ちがあったわけではなく、なんとなく大学受験を考える中で、実際に東京の大学に進学した知人からアドバイスをもらい、新しい環境が好きな自分に合っている気がしたので勢いで決めたという流れでした! ーかなり思い切った選択だったのですね!大学生活はいかがでしたか? 非常に充実していました! 昔から、「挑戦してみたら新しい自分に出会えるかもしれない。根拠はないけれどきっと上手く行くだろう!」と考え、様々なことに挑戦したいタイプだったので、色々な活動を同時進行でやっていました。 実は私が高校生になったタイミングで母子家庭になったこともあり、母と進学自体をどうするか悩み抜いた末に大学進学に踏み切ったので、あらゆる時間を楽しもう!という気持ちも強かったです。 学費は、奨学金を借りつつ自分で支払い、バイトを複数掛け持ちしながらダンスサークルで活動して文化祭なども出て…という感じです。また、大学で初めて海外留学やインターンシップも経験しました! 初海外はインド!カオスだらけの飛び込み営業インターンに挑戦! ー大学時代に海外留学に挑戦されたとのことですが、なぜインドを選んだのでしょうか? 私の母は英語が話せることもあり、自宅でホームステイの受け入れなども行っていて、幼い頃から海外への憧れがありました。大きくなったら、自分はいつか海外に行けるものだと思い込んでいたんです。実際には大学に入学してから、同年代の子が次々と海外に短期留学に行く中でもひたすらアルバイトをして自力でお金を貯めてから長期留学することになったので、時間がかかりました。 私にとっては人生初の海外だったので、どこにするのか非常に重要でしたし、悩みました。英語圏で、あまり費用がかからず長期滞在できるところを探し、フィリピンかマレーシアかインドが選択肢に残りました。 そんな時、インドから帰国した先輩から「インドで狂犬病の犬に追いかけられた」というエピソードを聞いて、「そんな経験ができる国って楽しそう!せっかく行くならユニークな経験が欲しい!」と思って、即決しちゃいました。 他の国は日本人留学生も多いけど、他の人があまり選ばない国を選びたかったのもあります。勉学よりは面白い経験を求め、インドのムンバイに半年間留学しました。 ーインドでは、どんな生活が待っていましたか? 初めての海外、初めての飛行機で緊張しながらインドにたどり着き、生活はなかなかカオスでした(笑)どんな生活だったかは、noteをぜひ読んでみて欲しいです。 留学先の大学のカリキュラムが少ないため、週に5時間くらいしか授業がないんです。空き時間を有効活用するため、なるべくフルコミットできるインターン先を探しました。 そこで巡り合ったインドの会社で、飛び込み営業のインターンを経験することになってから、インド留学が非常に充実して面白くなっていきました! ー初海外で初インターンってすごく勇気がいると思います!どんな経験でしたか? 内容は、広告の飛び込み営業です。日本人駐在員向けフリーペーパー事業をしている企業で、現地のインド企業向けに広告営業をするという内容でした。駐在員がよく利用するホテルや飲食店などにアポを取って、現地で交渉するお仕事でした。 約4ヶ月ほど営業インターンをしました。インド名物のドアのついていない満員電車に飛び乗って、揉みくちゃにされながら営業していました(笑) 幼少期から「かどまいはどこでも生活できそう」と言われていたのですが、インドで半年間生活してみて本当にそうだと言える自信が付きました! インターンを通じて、同じ日本人留学生の先輩方が非常に優秀で、そういった”戦友たち”と出会えたのも良かったですし、英語で営業をすることの難しさ・できない悔しさも感じました。インド留学は、成功も失敗も含め両方経験できた素晴らしいターニングポイントでした! ーもっとお聞きしたいほど濃いエピソードですね!インドから帰国後は日本でもインターンを経験されていますよね。 帰国後は、周囲からの勧めもあって日本の企業で長期インターンを探しました。当時まだベンチャーでの長期インターンは今ほどメジャーではなかったのですが、知人に教えてもらった”Wantedly”を使って、複数の企業と面接をしました。その中でたまたま、ご縁があったユニラボに決めました。 ーユニラボへの入社は、インターン経由だったんですね。入社の決め手になったものは? 就活では、インドの留学経験を活かして働いても良いかもと考えていたので、海外進出をしている企業や日本のベンチャー企業の説明会に行ったりしていました。 就活とインターンを両立していたのですが、ユニラボからも「新卒入社しないか?」とアプローチを受けていました。 役員の方々とご飯に行って色々な話をさせてもらい、インターンの自分のことを知ってくれている信頼や安心感もありました。また、背伸びして挑戦できるフィールドがあると感じたので、ユニラボへの入社を決めました。   カスタマーサクセスから社内初の人事に抜擢!新しいキャリアが見つかる ーユニラボに入社してからのお仕事はどんな内容でしたか? ユニラボは「アイミツ」というサービスを運営している企業で、事業部配属のカスタマーサクセスが私の最初の仕事でした。 入社したときは社員が15名ほどで、代表が片手間で人事もやっているというような状態でした。入社してしばらく経ったある時、新しい福利厚生制度とバリューの浸透を推進するコーポレート業務を行ってほしいと言われ、そのまま人事とカスタマーサクセスを兼務する流れになりました。 私は「そもそも人事って何をするの?」という状態で、最初は未経験の私と代表が一緒にすり合わせながらプロジェクトを立ち上げ、社内へのミッション・ビジョン・バリュー浸透や採用などを行っていきました。後に人事部長の方が入社し、さらに人事の仕事にコミットできる環境になっていきました。 ービジョンやミッションの浸透に共感を得るための、かどまいさんならではのポイントはありますか? モノを買う時にモノ自体の価値に加えて、職人さんや作り手さんのエピソードに感動・共感したことによって購入した!という体験をした方は多いのではないでしょうか。会社のビジョンも、創業時の紆余曲折や、事業立ち上げの思い、その時に代表が考えていたことなど、背景の感じられるエピソードに人は惹きつけられるのだと思います。 そういった創業時のエピソードと一緒にビジョンを伝える、”ストーリーテリング”が大事かなと思いますし、いろんな人がそのエピソードをいろんな人の視点で自分ごととして語れるようになれば、浸透していくと考えています。 ー1人目の人事になったという経験はすごく大きかったのでは? 当時、周囲と自分のビジネススキルを比べては落ち込んでしまうことが多々あり、仕事では少しくすぶっている状態でした。 自信を失いかけている時に、人事という社内では新しい領域を任せてもらえたことは、「自分にしかできない仕事がまだあるんだ!」と頑張ろうと思えるキッカケになりました。 途中から「自分には人事がすごく向いているのでは?」と思えるほど、自信をもって仕事ができるようになっていったので、すごく大きな転機でした。 ーユニラボの人事として活躍していたかどまいさんが、転職を考えたキッカケは? ユニラボの人事業務は楽しいし、周囲も必要としてくれました。周囲に期待されている業務をやることで、喜んでもらうことが自分の働き方に合っているなと感じていました。 ただ、採用の面接などで事業の面白さを語っていく中で、事業について「本当にこの事業が面白いと思えているか?」と少し違和感を覚え始めました。 上長からも「そういう時は、事業サイドと人事サイドをいったり来たりすることで、より事業の良さや内容に触れることで人事の仕事にも活かせるよ」とアドバイスを頂き、事業サイドに戻ることを視野に入れてみたんです。 ですが、ユニラボ内で事業サイドを経験するのではなく、思い切って違った企業の事業サイドを経験しても良いのでは?と考えたのが転職の最初のキッカケです。 ー人事ではない転職を考えていらしたんですね!ペイミーを選んだ理由とは? 株式会社ペイミーの運営している”Payme”というサービスは、給与日を待たずに働いた分の給与を受け取れるようにする、給与即日払いサービスです。 SNSで発信されている情報を以前から見ており、ユニラボ在籍中、ユニラボで勤務するアルバイトの方向けに導入をしていたんです。Paymeがどのようなサービスなのか、企業担当者の視点で良い点も課題点も見ていました。 また、「資金の偏りによる機会損失のない世界を創造する」というペイミーのビジョンに非常に共感できました。 私自身が母子家庭で学費を工面することの大変さを身を以て知りましたし、お金がない時でも人の出会いやご縁に恵まれ、色々な経験をしてきました。これまでの人生を振り返った時に、自分と重なる良いビジョンだなと思っていました。 転職活動中に「そんなに好きなサービスなら、面接受けてみたら?」という知人の何気ない一言に後押しされ、そのまま2020年の4月にペイミーのカスタマーサクセスとして新たなキャリアをスタートしました。 ー2020年入社ということは、ちょうどコロナ禍での転職だったのでは? そうです。ちょうど、コロナウイルスが大流行して1回目の緊急事態宣言中の入社でした。1回だけパソコンなどを貰いに行ったきり出社せず、入社後からフルリモートでした。最初は多少戸惑いました。 ーすごい大変なタイミングでの入社だったのですね。ペイミーでの今のお仕事とは? 入社時はPaymeの顧客対応を行うカスタマーサクセスとして入社しました。導入先の企業に対し、サービスの紹介や導入オンボーディングと、活用後の定期フォローなどを行っています。 また、2021年の1月からは人事を兼務しています。3割ほどの工数を費やし、エンジニア採用や社員との1on1などの業務を行っています。 ー事業サイドで入社したペイミーで、再び人事をやることになった経緯は? 2020年は会社もコロナウイルスの影響をかなり受けてしまいました。アルバイトをできない学生さんが増えたり、飲食店などが軒並み営業ストップしてしまったりと、サービス利用者に影響が出たことで売上にも非常に影響が出ました。また、会社の組織面の課題も大きく出てしまった1年でした。 そんな会社の状況下で、「会社の内側から組織を立て直すならば、自分が人事をやったほうがいいのでは」と思い立ったのが人事を兼務するようになった背景です。 ただ、人事業務にフルコミットするよりは、カスタマーサクセスに軸足を起きながら兼務する方が会社にとっても自分にとってもベストと考え、そのような形での兼務を提案しました。 前職は採用人事のポジションでしたので、人をどう採用するか?を考えて動いていたのですが、今はメンバーのケアや組織づくり、人員配置のことを考えることがメインです。これまでやってきた人事の領域とは、また違った業務を任されていますので、探りながらやっている状態です。 誰もが不安を感じる現在において、私が社内のメンバーの支えになれたら良いな…と頑張っています。 ー素敵な志ですね。最後に、読んでいる同世代の方々に向けてメッセージをお願いします! 適材適所という言葉があると思うのですが、スタートアップやベンチャー企業では、そもそもポジションがすごく少ない場合や、適した人材がすでに配置されている場合があります。 人事として社員のポテンシャルを加味して配置などを考えますが、思ったより活躍するほどハマってくれる場合もあれば、全然合わない場合もあります。私自身も、初めて人事のポジションに挑戦したときは、まさかここまで自分に合っているとは思いませんでした。 最近は世の中でも色々なことが起きていますし、正直予想がつかないところが多いと思います。ただ、物事を本質的に捉え、自分の心にまっすぐ従って目の前のことに一生懸命生きていけば自ずと”向いている仕事”に辿り着けると思います。 ”楽しく生きていく”が私の人生のコンセプトです。辛いことも人生のネタ作りだと捉えて楽しんだもん勝ち!あまり深刻に悩みすぎず、その時々の出来事を楽しんでいきましょう。 ーかどまいさんの知られざる一面と、仕事や人生へのポジティブな向き合い方を学んだインタビューになりました!ありがとうございました! ▼門野妹さんの魅力が詰まったSNSはこちら ・Twitter ・note   インタビュー:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆:MOE(Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

誰かの「助けたい」気持ちが実現できる世の中に。株式会社MAGiC HoUR CEO・西尾輝さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第244回目となる今回は、株式会社MAGiC HoUR(マジックアワー)CEOの西尾輝さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 大学時代の研究をきっかけに、社会的企業の事業継続支援に挑戦している西尾さん。そんな西尾さんが「心優しい人の挑戦を諦めなくても良い世界にしたい」という考えに至るまでにどんな出会いや思考の変遷があったのか、詳しくお伺いしました。 「お前はどう思う?」「多面的に思考せよ」大人に囲まれ思考を鍛えた幼少期 ー現在の活動やお仕事について教えててください。 代表を務める株式会社MAGiC HoURでは、大学生の時からずっと考えていた、社会課題解決を目指す企業の事業継続支援のビジネスを展開しています。 会社を立ち上げようと思ったきっかけは、フリーランスで研究の仕事をいただいたなかでの気づきや、一緒に挑戦したいと思っていた仲間たちとタイミングが合ったことが大きいですね。 社会人4年目の段階で、改めて研究者になろうと思い、大学院に戻り、地域政策やソーシャルベンチャーに関わることを学ぼうと考えていました。しかしコロナの影響で、大学院に進学しても2年間の時間をうまく使えない可能性があったため、「研究領域の事業化」を検討することにしました。 また、研究の構想を進めていく上で、「このやり方なら資金に困り事業を諦めた企業を救えるのではないか」「研究の視点、ビジネスの現場を知っている目線から社会課題解決型の事業に役立てるのではないか」と思ったことや、関わってきた仲間と一緒にやろうと思えるタイミングが合ったというのも会社を立ち上げようと思ったきっかけの1つです。 ー現在代表として起業を行われていると思いますが、そういった価値観に至った経緯をお伺いしたいと思います。生まれてから小学校時代に入るまでに、どんな子供時代を過ごしてきたか、お伺いできますか? 幼少期はおしゃべりな子どもだったと聞いています。また、家庭内では子どもとしてではなく、ひとりの人間として扱われていたため、大人と対等なスタンスで話そうとしていました。そもそも大人と対等に話そうとするようになったきっかけとしては、父の教育方針があります。 父親の教育方針で、家庭でニュースなどが流れるとそのニュースに対しての僕個人の意見を求められ、適当に思い付きで答えると、深く掘り下げられそのたびに「物事を一面からだけで判断するな」と言われていました。「自分の知識がないからもっといろんな視点で物事を考えないといけない」と子どもながらに思っていましたね。 また、親族の集まりでは、ご年配の方や年上の親戚と話をする機会が多く、同年代の子供と話す機会があまりなかったことも、大人と対等に話そうとするようになった理由の1つかもしれません。 ー小学生時代を思い返して、印象的なエピソードはありますか? 小学生のときは、正直自尊心が肥大化していました。小学生時代は、たくさんの習い事に通っていたのですが、それぞれに熱中していましたね。当時は割と要領よくこなせるタイプだったので、自分は才能があり、周りとは違う人間だと思っていました。学校の授業も、教室ではなくて図書室で自分で勉強をしてましたね。 勉強やスポーツも、いつからか賞状を持って帰ることが目的になってました。毎回学期末にどうやって名前を呼ばれて賞状持って帰るためにはどうしたらいいかを考えてました。 ーそんな中、西尾さんは中学受験をされたんですよね。どのような経緯だったんですか? 中学受験の勉強を始めたのは、小学校4年生くらいのときでした。小学校が自分にとってものすごく居心地のいい場所というわけでもなかったので、レベルの高い学校に入れば自分に合った友人や環境があるかもと思い、受験しました。受験勉強自体は、活字が好きで教科書や問題などを読むことも好きだったので、楽しくやっていました。その結果として、学校の明るい雰囲気が印象的だった、第一志望の中学校に無事合格しました。 初めての挫折。抜け出すきっかけになった友達の存在 ー念願の中学校に合格されたと思いますが、中学校時代に印象的だったエピソードはありますか? 小学生時代とはうってかわって、中学校には自分では努力しても敵わないと思うような人がたくさんいました。 そこで、自分は特別な才能がある人間ではないんだということに気づきました。3年生きてきて、人生で初めての挫折でしたね。 自分に価値が見出せなくなる経験をし、「自分は恵まれた才能があるから、勉強をして世の中の助けになることをした方がいいんだ」と思っていた小学生時代から、「努力しても敵わないのだったら、僕が勉強の方面で社会に貢献するのではなく、できる人間がやればいいのではないか」と思うようになりました。 ー中学校生活はいかがでしたか? 友人には恵まれ、ヨット部での活動にも熱中していたことから、学校生活だけで見ると楽しかったと思います。ただ、子供時代に持っていた大人への反抗や生意気さは消えるわけではなく、学校の先生方には嫌われていたと思います。 また、両親も賞状を持ってくることでコミュニーケーションがとれていたので、その賞状がなくなってお互いの接し方がわからなくなった時期でもあり、家族間のコミュニケーションもほとんどなかったですね。 ー高校進学はどのように選択しましたか? 本来であれば、中高一貫校なので、そのまま高校に上がるものですが、成績が芳しくなかったため、進学が危ういと伝えられました。しかし、仲の良かった友人たちが先生に掛け合ってくれ、無事に付属の高校に進学できました。 その出来事から「彼らの友人として恥ずかしくない存在でありたい」と思うようになり、より真剣に部活や勉強に取り組むようになりました。 ー高校での印象的なエピソードはありますか? 高校入学時に、陸上部に勧誘されて入部しました。それ以外にも、体育祭の実況や、学園祭でのラジオ放送などをしており、充実した高校生活でした。特に、ラジオに関しては、「しゃべりだけで物事を伝える」ことに面白さを見出し、部活のない日には、近くのマクドナルドで友人とラジオ番組の脚本を書いたりしていました。 ー高校3年間を終えたあとの進路選択については、どのように考えていましたか? 周囲では「この学問を修めたい」「この仕事に就きたい」「こういう国にしたい」などの志を持っている友人が多かった一方、僕は進路について明確な意志がなく、特に行きたい大学も見つからなかったため、どのようにするか悩みました。 結果的に群馬の草津温泉で働くことを決めたのですが、僕の通っていた高校は、ほとんどの生徒が大学進学するので、就職の選択はかなり珍しかったです。 周囲にはいわゆるエリートコースに乗るであろう友人が多かったので、僕が大学進学ではない道に進むことで、彼らに別の目線を提供できるのではないかと考えたのが、働くことを決断した理由でした。 ー人と違った選択をすることは勇気がいることだと思いますが、どのように進路を決めていきましたか? 「どうせ働くならみんなと違うことをやろう」と思っていました。「オフィスで働く仕事ではない」「都会で働く仕事ではない」などの要件を満たす場所として、群馬の草津温泉で働くことを決めました。 働いてみて、仕事やお金に関するカルチャーショックを感じました。恵まれている環境で育ったため、自分や周りの家庭を基準に考えていました。しかし、実際働いてみて「仕事は面白くなくてもやらないといけない」「この労働でこれだけのお金しかもらえない」「生きていくためだけに仕事をする生き方がある」ということを知り、これまでの自分の人生がいかに狭い世界だったかと痛感しました。 いつも選ぶのは「自分が変わる可能性のある選択肢」 ー就職後に大学進学を選んだきっかけはなんでしたか? 草津温泉で働いているときは、自分と向き合う時間が多かったので本を読む機会が増え、興味のある分野、特に観光地での労働問題について、勉強したいと思い、政策系の学部のある大学に進学することを決めました。 ずっと関東で暮らしていたなかで関西の大学に進学した理由は、仲の良い友達が多い関東に進学をしたら甘えてしまい、自分自身が変わることができないと思ったからです。 そう選択できたのは、高校時代の友達が言った「ヒーローや仮面ライダーになるのは無理なんだけど、ゴミを拾ったり席譲ったりは自分でもできる。僕はできることをひとつひとつしていくことで、なりたい自分になれると思う」という言葉がきっかけでした。 僕はその言葉に感銘を受けると同時に、「なりたい自分になっていくためには、小さい変革を続けていかないといけない」と思いました。その時に変わらない可能性のある選択肢は選ばないと決めました。 ー大学生時代はどのように過ごしていましたか? 大学生活では主に大学教授の方とのディスカッションと学生団体への加入、立ち上げを行ないました。 大学には勉強をするつもりで入ったので、基本的には大学の教授に付いてディスカッションなどをさせていただきました。本を読んだや論文の感想や疑問点をぶつけ、それに対しての回答をもらうという形で関わっていたため、大学の先生とは仲は良かったと思います。 最初は勉強ばかりしていたため、ほかの同級生との勉強への熱意の違いであまり仲が良かったわけではなかったのですが、見かねた教授に勧められて学生団体に入ったり、僕の取り組みを面白いと思ってくれた同級生をゼミに誘って研究したりしたことで、少しずつ仲間を増やしていきました。。 ー学生団体を立ち上げた、とのことですが、どのような取り組みをされていたんですか? 学生団体ができたきっかけは、大学の敷地内にあったカフェの店長さんに、お店にもっと人が集まるようにしてほしいと相談を受けたことでした。そこから友人らと学生団体を立ち上げ、カフェの売上向上のためにさまざまな取り組みを行いました。 そのカフェは障害者の方が働くカフェで、障害者の方や問題と接してるうちに、福祉業界のよくないところや疑問に思う点がたくさんでてきて、学生団体を福祉団体に、最終的には福祉事業として起業するに至りました。 ー大学を卒業したあとのことはどのように考えていきましたか? 事業化した学生団体に残るか、就職活動をするか葛藤しました。もちろん、起業した会社に残るという選択肢もあったのですが、労働格差や教育などの様々な方面で課題に取り組んでいる友人たちを応援したいという気持ちが強くあり、外の世界でビジネスや組織形成などの知見を持ち帰り、彼らの後押しができる能力を身に着けることが、仲間として価値のあることではないかと思い、就職を選びました。 ー就職活動はどのような企業を見ていましたか? 大学3年生の頃に僕の中で「人事ブーム」がありました。大学時代の福祉団体のときもメンバーの勧誘を担当していたこともあり人材採用や人事業務に興味を持ち、人材業界をメインに就職活動を行い、派遣業や人事部への就職を決めました。 いくつか内定があるなかで1社目の会社を選んだのは、内定者の顔合わせが決め手でした。同期となる友人が多様な価値観があり、いままでに会ったことのない人たちだったことから、自らの価値観変化を促せるのではないかと考えたからです。 「納得できる世の中と向き合える方法」を見つけるために僕がしたこと ー起業を経てふたたび社会人になられましたが、感じ方には何か違いはありましたか? 自分が事業創出に関わったことで組織との向き合い方には特に苦労しました。最初に入社した会社は人材業界で、組織の中で競争していくことで勝ち上がっていくという文化でした。競争原理自体に一定の合理性は感じつつも、僕の仕事が会社にとって良いことなのか、社会にとって良いことなのか、それとも個人の幸福にとって良いことなのかと考えた時に、「競争原理主義であることと、個人の幸福や社会への価値提供は相関性が低いのではないか」という違和感を持っていました。個人が得意なことをし、互いに補い合うことでより組織としても個人としてもパフォーマンスを上げられ、社会的な価値の追求が出来るのはないかと考えていました。 転職を繰り返しながら様々な組織、業務に触れる中で、「本当に貢献したいことは既存の組織や事業では難しいのかもしれない」「事業で世の中を解決するにはもっと勉強が必要かもしれない」と思い、自分が納得できる世の中と向き合える方を見つけるために試行錯誤していました。 ただ、いくつかの会社を転々と出来たことは起業をする際には比較できる材料が多く、非常にポジティブな経験だったとは思います。 ー起業をするにあたって、会社の未来設計はどのように作りましたか? ソーシャルベンチャーの事業継続支援の会社を作りたいということは決めていたため、それを軸に設計しました。 背景としては、資金の問題で事業の継続が難しく、諦めざるを得ない方をたくさん見てきたなかで「世の中を良くしたいという想いを持つ人たちが、事業推進の仕方がわからないということだけで諦めてしまうのは、世の中にとって大きな機会損失だ」と思ったことがきっかけでした。 資金が集まらず諦めてしまったソーシャルベンチャーをもっとビジネス的な側面から支援することで、想いや目指している場所が素晴らしい挑戦が事業としての成長戦略が描きやすくなれば、資金が確保できず諦めてしまう人が減ると思ったからです。 僕は現状、ビジネスのソーシャルベンチャーの領域でも立ち上げ支援は少しずつ増えてきているものの足りていても、「立ち上がった事業を継続的に支援する」事業がないことに課題意識を覚え気付き、事業を継続するためのための支援をしようと考えました。 ー具体的にどういった事業内容で継続支援を行っているのですか? 事業展開としては、主に3つあります。1つ目は、スタートアップ~中規模ベンチャーフェーズのソーシャルベンチャーのマーケティング・組織設計・採用・事業創出・事業推進のコンサルティング、2つ目はソーシャルベンチャーを中心とした想いのある事業のサービスが集まるプラットホームの創出、そして、3つ目は社会課題解決という堅苦しいテーマをもっと簡単に身近に、出来るなら「これももしかしたら社会課題解決じゃない?」と気づかないうちにしていた社会課題解決を一人ひとりがふと気づくことが出来るような、知識よりも再発見をテーマにしたメディア運営です。 メディア運営は、一見すると事業継続支援と関係ないようにも見えますが、より多くの人が良いサービスや良い想いに巻き込まれる社会、つまり、社会課題解決へのハードルのない社会の実現に近づけるために必要だと考えています。TwitterやInstagramを見るように、日常の流れの中にふとした発見があるような、そんな生活に溶け込むようなメディアを目指していきます。 プラットホームを中心としたサービス開発が掲げている社会の実現の肝になってくるため、現在も日夜メンバーと議論を重ねながらより良い形を模索しています。 ー西尾さんの「未来像」はありますか? 世の中を少しでも良くしたい、一人でも誰かを助けたいと思い挑戦する心優しい人たちが、挑戦を諦めなくていい社会を作っていきたいと思ってます。 現状の社会システムでは、挑戦の一歩目が踏み出しやすくなっている一方で、そういった人たちが壁にぶつかったり、立ち止まったりしたときの支援の仕組みは足りていないように感じます。「事業継続支援」という仕組みを通じて、社会的な取り組みが少しでも持続可能な社会となるようにしていくというのが直近のミッションです。 また、これまで日本が海外諸国で学校の設立や就労支援などを行ってきたように、人口減少の避けられないなかで、いかに海外からの支援を受けられる国に出来るか、というのが大きなテーマになってくると考えています。そういう意味でも、日本のカルチャーの一つとしてソーシャルビジネスが発展することは大きな一手になると思っています。 もちろん、「社会を良くしたい」という想いの根底は、「周りにいる仲間たちがいかに幸福でいられるか」なので、社会への挑戦という大きなテーマを掲げながら、いかに仲間たちの最大幸福を実現出来るかということが人生最大のテーマです。 ー短い時間で濃いお話をありがとうございました。西尾さんの今後のご活躍を楽しみにしています! 執筆:ゆず(Twitter) インタビュー:高尾有沙(Twitter/Facebook/note) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

やりたいことを磨き続ける 古元 遥奈が考える「これからの働き方」とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第268回目となる今回のゲストは、パーソルプロセス&テクノロジー株式会社の社員であり、週末デザイナーの古元 遥奈さんです。女性のキャリア意識について考えたことがきっかけで、大学時代に学生団体を立ち上げた古元さん。そんな古元さんに、自身のこれまでの人生とこれからの働き方や副業についての考えをお聞きしました。 今やりたいことにこだわった学生生活 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 パーソルプロセス&テクノロジー株式会社の古元と申します。 会社では、業務改善のコンサルタントとして働いています。具体的には、業務プロセスの可視化やクライアント先で発生しているプロジェクトのPMO(Project Management Office) としてプロジェクトを円滑に回すようなポジションをしています。 また、本業の側で、デザインの仕事や教育事業のベンチャー企業で授業制作のお手伝いをしたり、就活生のリクルーターのような仕事もやっています。 ー古元さんの肩書きである「つまみぐいキャリア」について詳しく教えてください。 「自分がこんな人です」と伝えたい時に自分が何者か求められる風潮があると思いますが、やってみないと分からないという気持ちが強く、いろんなことをやっていく中で自分にフィットしているものを見つけている段階なので、「つまみぐいキャリア」と名付けています。 ー幼少期の出来事で印象に残っていることを教えてください。 9歳のときに、癲癇(てんかん)という脳に発作が起きてしまう病気を発症し、学校の授業中に突然倒れてしまう出来事がありました。 それによって、薬を服用したり、自律神経の乱れによる体調が落ち着かない状態が続き、日常生活の中で苦労する場面がありました。 薬を飲んだり規則正しい生活を送っていれば基本的には大丈夫だと主治医の先生から言われていましたが、中学生まで発作がひどく、精神的には苦しい状態でした。 中学から部活も始まりましたが、体調が悪くなって途中で帰らせてもらったり、自律神経の乱れによる起立性低血圧を発症し、保健室登校をしていた時期もあったので、不安定な思春期を送っていたと思います。 ー高校は受験をされましたか。 中学の頃、癲癇を発症していましたが、学校を欠席した日も家にいて勉強をしていたため、 授業の参加率は悪いながらもテストの点数はとれていたので、第一志望の公立高校に合格できました。 ー高校時代はモチベーションが高まったのでしょうか。 高校時代のポイントとして2つあります。 癲癇の発作が落ち着いたことが1つ目のポイントです。 高校に入ってから1度発作を起こしたものの、その1度だけだったので、体調も安定していました。 もう1つが真面目キャラからの脱却です。 中学の時はテストの点数がとれていたので、周囲からは真面目なキャラとみられていましたが、自分自身は真面目だと思っていなかったので、中身を見てもらえていない寂しさを感じていました。 しかし、高校では同じような偏差値の人が集まり、自分が真面目だと捉えられなくなったことで、内面をきちんと見てくれているという感覚を持てたのが大きく、自分らしく振る舞えるようになったのでやりたいことに注力できるようになりました。 ーどんな高校生活を送っていましたか。 部活に一番力を注いでいて、男子バレーボール部のマネージャーをしていました。 中学の時はハンドボール部に所属していましたが、癲癇の影響で体調を崩して練習を休んだり、レギュラーメンバーながらも大会前に体調崩したことでチームに迷惑をかけることが多くありました。 私はチームスポーツが好きではあるものの、自分がプレイヤーでやる自信がなかったので、マネージャーという選択肢を考えていました。 そんなとき、仮入部で男子バレー部の練習風景を見て、「このチームのメンバーに入りたい」と思い、男子バレー部に入りました。 練習中のボール渡しやボール拾い、ドリンク作り、さらにはお金の管理や体育館の場所取りなどをやっていました。マネージャーだからとチヤホヤされる環境下ではなく、部員同様に厳しい雰囲気だったので、マネージャーとプレイヤーの枠を超えて、部員として切磋琢磨しながら頑張っていました。 ー高校は部活一色だったのでしょうか。 高校が行事に力を入れていたので、体育祭で5mくらいのマスコットを作ったりしていました。高校3年生になると、進学校ということで周りが受験モードになっていましたが、高校最後の文化祭や体育祭をなしにして受験勉強をすることが耐えられませんでした。 そのため、クラスの出し物でやることが決まっていた映画撮影の内容決めやキャスティング、撮影などに高校最後の夏休みを注ぎました。大学受験は失敗に終わりますが、高校生活3年間はかけがえのない時間だったので、今思えば良かったと思います。 つながりが増えたことで幅が広がる ー大学生活はどんなことをしていましたか。 大学生活は、学年によって異なることをやっていました。 入学当初は、学歴のコンプレックスから何かしなければと思いつつ、やりたいことをやってみたかったので、ダンスサークルに所属しジャズダンスをしていました。 紅白歌合戦でバックダンサーをした経験のある先生がいたので、サークルでありながらも部活のように週3~4回のペースで練習があったので、基本的にはダンスかアルバイトか学校のレポートという生活を送っていました。 大学生活このままでいいのかと次第に思い始め、大学祭でダンスの発表をしたのちにサークルを辞めて、学生団体などの学校外で活動するようになりました。 2年生のときにネパールの教育支援を行っている学生団体に入りました。 そこでは、国内でチャリティフットサル大会を企画し、集まったお金をもとに現地を訪問し、小学校で手洗いの授業や理科の実験、図工や音楽など現地で普段行われていない授業をしつつ、物資支援や代によっては図書館の建設も行っていました。 学生団体に入って半年後に副代表となったことで、他団体との関わりも増え、つながりが増えました。そして、つながりが生まれたことで、所属団体以外の人と一緒にイベントを企画・運営し始めました。それが2年生の終わりから3年生になるタイミングですかね。 その頃、就活やサマーインターンが始まり、サマーインターンで出会った子と一緒に、横のつながりを作るために19卒の交流会を定期的に開催していたので、一気に交流の幅が広がりました。 ーここまで順調な学生生活なのかと思うのですが、その後はいかがでしたか。 19卒の交流会をする中で、「将来こうしたい」と語ったり、キャリアの相談をしあえる同期が男性しかおらず、周りにキャリアについて話ができる女友達がいないことにモヤモヤやジェンダーギャップを感じていました。 そこで、同じようにモヤモヤを抱えている人がいるのではないかと思い、「女子プロジェクトLIKE」という団体をわたしの思いに共感してくれたメンバーと作りました。 実際に、高校生〜社会人までの女性を集め、将来のキャリアや幸せ・結婚について語る場を作ったり、キャリアのロールモデルとなる方をゲストに迎えたパネルディスカッション形式のトークイベントを企画したり、さらにはリピーターの参加者とコミュニティを形成していたので、彼女たちの「やりたいこと」をイベントにしていました。 女性が働きやすい社会を整えるために ーキャリア相談できる仲間と出会い始めたタイミングで就職を迎えると思いますが、どんな軸で就職活動をされていましたか。 就活をする中で、ジェンダーギャップを感じていたことは大きかったです。 さらに、学生団体で活動しているときに20代の方とお話しすると、社会人の大変さや社会人が大学生ほど楽しくないという話を聞く機会が多く、働くことを前向きに捉えていない人が多いなと思いました。24時間の中で働く時間は3分の1を占めるからこそ、人生の大半を占める働く時間が充実していれば、他の時間もより良く過ごせるのではと感じていました。 また、ジェンダーギャップを抱えていたので、もっと女性が働きやすい社会にしていきたい、もっと女性が働きたいと思わせる環境になればと思い、働くことに向き合う人材業界に目を向けていました。 人材業界は幅広いのですが、その中でやりたいことは働く環境を整えたり、組織づくりをしたいなと思った時、働きやすい場づくりに注力したいと考え、業務系のコンサルタントや組織改善の領域に興味を持ち、この会社に入りました。 ー実際に働き始めてみて、いかがですか。 働きやすい環境や組織文化づくりに直接的に寄与できていませんが、 業務を可視化して、部署で働く人の工数を削減するところを行なっています。 ただ、組織づくりは今後やってみたいという気持ちがあります。 「やりたいことと違う」という気持ちは持ちながらも、「今の仕事がイヤ」という気持ちでなく働けているのは、働き方が影響しています。 働き方改革をやっていこうと発信している会社で働いていることもあり、自社もリモートワークやテレワーク・副業解禁など働き方を追求しているので、本業以外でやりたいことをやりながらも本業と両立させてできる環境は自分にとっては強いです。 ー23歳の今は、充実した生活を送っているんですね。 コロナ禍で自分の将来のキャリアを考える機会は多かったのですが、 今の会社で本業をやりながら、自分で自由に使える時間をうまく使って他にやりたいことに注力するスタイルが最もあっているなと感じているので、今は副業としてやりたいと思っていたことをやってみようというマインドでいます。 ーいろんな副業をされている中で、それぞれにフォーカスしたきっかけを教えてください。 活き活きと働く人を増やしたい思いでパーソルに入社した際、まずは自分が体現したいという気持ちがありました。そのため、もともと興味があったデザインを学びはじめました。デザインは「好きを仕事にした」という感覚が強いですね。 また、活き活きと働く人を増やすためのアプローチとして、組織と個人があると思いますが、 本業で組織の業務改善や環境要因の解決を行っているため、副業では個人アプローチでやりたいと考えました。そこで、コーチングのスキルを習得したり、就活生向けのリクルーターの仕事をするなど、キャリアを形成する上でやりたいことを模索している人に対して、納得感を持てる意思決定ができるようにお手伝いしています。 個人アプローチについては、マインド面と同時にスキル面が大事になるので、教育事業にも手を出しています。 働きづらいと感じる人々が働きやすい組織づくりを ー副業が当たり前になりつつありますが、副業に関してどう思われていますか。 私は、直属の上司に自分が副業でやっていることを話すようにしています。 ただ、本業が第一優先なのは当たり前なので、本業のスケジューリングを優先しつつ、空いた時間で副業をするスタンスは曲げないようにしています。 ただ、本業で長時間の残業があるわけではなく、平日の夜は時間が空きやすいため、 その時間を副業に当てている感覚です。本業に支障がない範囲で副業をするというのが1つあると思います。 本業での仕事量に加え、副業の仕事がある感覚なので、副業をやっていない状態よりは本業以外の場で学びを得る機会はいっぱいあると思います。副業で学んだことがため、本業でも活かせると考えているので、本業・副業関係なく個のスキルをアップさせるための場として、副業することはいいなと捉えています。 ーこれから働き方はどうなっていくと考えていますか。 大学生の時に女性の学生団体をやっていたこともあり、育児をしながら働いているママさんにフォーカスをおいて考えることがありますが、それに限らず障がい者や外国籍の方といった働きづらいと思われている属性の方々が働きやすいようなダイバーシティをテーマとした組織づくりが重要になると思います。 結婚・子育てを経験してからもキャリアを継続していきたいと私自身が考えているので、 そういう状況下でも働きやすいことは自分本意ではありますが重要と考えています。 ー最後に、古元さんの今後のビジョンを教えてください。 今、何を自分がやりたいのかを大切にしたいなと思っています。 その時にいる環境によって興味が変わるので、そのタイミングでやりたいことや気持ちを大事にしながらいろんなことに挑戦したいです。 ー古元さんの今後のご活躍を応援しています! 取材者:増田 稜(Twitter) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

にわか女子大歓迎!19歳で女性向けフットサルコミュニティを設立。一般社団法人ULVO代表理事・山本美樹

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第263回目となる今回のゲストは、一般社団法人ULVO(ウルボ)代表理事の山本美樹さんです。 青山学院大学在学中、19歳のときに「女性による女性のための女性だけのフットボールコミュニティULVO」を立ち上げ、計5,000名以上の女性を集客。スポーツ業界に、にわか女性目線のサービスを生み出します。 そんな山本さんが、19歳で大学を中退してまで起業することに決めた経緯をお伺いしました。 スポーツを通して2秒で立ち直れるメンタルに ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 一般社団法人ULVO代表理事の山本美樹と申します。青山大学在学中に、サラリーマンにならずに起業することを決め、女性向けのフットボールサービスを立ち上げました。大学2年のときに中退して会社を設立したので、最終学歴は高校ですね。 スポーツはもちろん好きですが、それにこだわりはなくて。スポーツ系の事業を展開することは1つの手段であって、目的はみんなが幸せになる世界を作ることなので、そのために今はいろいろと活動しています! ー18~19歳で、今後やっていくことを決めたのですね。その決断に至るまで、掘り下げて聞いていきたいと思います。小中高生の頃、山本さんはどんな子どもでしたか? 小学生の頃は、通信簿のコメント欄に、「周りの人を元気にする、太陽みたいな存在です」と毎回書いてありました。 ー当時から今の明るいキャラクターがあったんですね! そこはずっと変わってない部分かもしれないです。高校時代は1つのターニングポイントでもあって。「偏差値がすべて、勉強第一」という校風の進学校に通っていたのですが、私はフットサル部に入りました。 部活している人は勉強できないと思われるのが悔しかったので、毎日始発で学校へ行って自習室で勉強して、部活が終わるとまた勉強してましたね。その結果、文系で学年トップの成績をとることができたんです。 ーまさに順風満帆な人生のように思えます。 決してそんなことはないんです。受験期にMARCH(マーチ)レベルを目指していたのですが、成績が良かったので早慶上智レベルに上げることになって。一気に難易度が上がり、予備校に通い始めました。 結局第1~第4志望まですべて落ちて、第5志望の青山学院大学だけ受かったんです。初めて思い通りにいかない経験をしました。 かなり落ち込みましたが、2秒で立ち直りました(笑)。「志望校に行けた人たちよりも、絶対充実した人生を送ってやる!!」と意気込んでいましたね。 ー2秒で切り替えるなんてすごい(笑)。 スポーツの経験が活きてますね。私が最初に始めたスポーツはテニスで、テニスって個人スポーツなので試合中も1人じゃないですか。落ち込み続けて、サーブがずっと入らなかったら負けちゃいますよね。 だから「1回切り替えよう!」と1人でぶつぶつ言いながら、無理やり気持ちを切り替えてました。スポーツを通じて、メンタルは格段に強くなりましたね。   起業を決意したきっかけは、東進ハイスクールでの「夢教育」 ー青山学院大学進学後は、どのように過ごしていましたか? 大学で「人と違うことをやってやろう」と思い、入学してすぐに「山サー」というサークルを作りました。私山本と一緒に飲むサークルで、略して山サー。 「初めまして!何年生ですか?4年生なんですね!!私1年生なんですけど……」と、全然知らない人に声をかけまくり、大学1年の5月時点で80人くらい集めることができました。毎月30人くらいの飲み会を開催してたんですよ。 ー学年に関係なく声をかけていたんですね。 学年もですし、なんなら学校も関係なく声をかけてました。他の大学や専門学校に通っている人、働いている人など、誰でもウェルカムでした! ー「山サー」では、飲むことがメインコンテンツ? お酒がメインというよりは、話を聞くことがメインでした。それぞれがどういう風に生きてきて、今何をしていて、今後何をしたいかなど、そんな話をしてましたね。 ー大学で「山サー」以外に挑戦していたことはありますか? 大学1年から、東進ハイスクールでアルバイトをしていました。そこでの経験が今に活きています。東進の企業理念は「独立自尊の社会・世界に貢献する人財を育成する」こと。大学受験は人生の通り道であって、最終ゴールではないということをいつも言われていたんです。 だから東進では「夢教育」というものがあって。高校生に対して、「将来やりたいことがあって、そのために大学受験があるんだよ」と教育していました。 ー将来の方向性について考える機会を与えていたんですね。 私が高校生の頃はそこまで考えず、偏差値で大学を決めていたので驚きました。良い教育ですよね。ただ、毎日「将来何がしたいの?」と高校生に聞いている中で「そういう自分は何がしたいんだろう……」と、ふと思ったんです。 それから自分の将来について、真剣に考えるようになりました。昔からリーダー的ポジションにいたので、社会の歯車として働くよりは、仕組みを作る側の方が向いていると思いました。私がリクルートスーツを着て就職活動をしている姿をイメージできなかったこともあり、起業したいと思いながら過ごしていたんです。 ーサラリーマンになるのではなく、起業すると決めてから、どのように動きましたか? 大学1年生の夏休みが終わったあたりから、あまり大学へ行かなくなりました。大学にいる先輩方は、みんな就職するために面接練習ばかりしていたので、「ここにいてもこの世界しか見れないな」と思って。それからは大学以外の場所へ行き始めました。   行動心理学「PCM」でマーケティング力が向上 ー学校以外の場所とは、具体的にはどのようなところ? 起業セミナーやトークイベント、交流会などですね。その中で、「ハタモク(働く目的)」という、学生と社会人が働く目的について話す座談会に参加したことがあって。たまたま同じテーブルでディスカッションをしたのが、一緒に会社を立ち上げた共同代表の方だったんです。 ーすごいご縁ですね! 当時私は19歳。共同代表の方は25歳で、大学卒業後に起業して、2つの事業を運営していました。「事業が軌道に乗ってきたから、今ちょっと時間があるんだよね」「すごい……!これが!経営者か……!!」と感動して。すぐに個別でアポイントを取りました。 事業のお話を聞く中で、PCMという行動心理学のお話が出てきて。アメリカやフランスにはPCMのトレーナーが6,000人ほどいるのですが、日本ではたったの20人ほどしかいないんですよ。その方はなんと、世界最年少トレーナーだったんです……! ーそんな方から直接PCMのお話を聞けたのですね。山本さん自身も、PCMに興味を持ちましたか? 19歳のときに、実際にPCMのセミナーを受けました。PCMは自分のことを知るだけでなく、マーケティングにも役立つんですよ。 例えばターゲットを設定するときに、「20代の女性で、運動経験はなくて、運動不足を解消したいと思っている事務職勤務のOL」というようなペルソナを作るじゃないですか。そこに心理学的側面を足すことで、より強固なターゲット設定ができるんです。 PCMは家族関係や恋人関係など、日常的に使えるものでもありますが、マーケティングや組織マネジメントにも役立つので、サービスを提供している方は知っておくのがおすすめです!   女子のニーズを察知!フットサルサービスの展開を決める ー「ハタモク」で共同代表の方と出会い、PCMを知ってから今の活動に至った経緯を教えてください。 やりたいことがたくさんある中で、共同代表の方に「自分のやりたいこと、今の自分ができること、世の中から求められていること。この3つが重なるところがビジネスになるよ。やりたいことだけやってたら、自己満足になっちゃうからね」と言われて、確かに……と思いました。 3つが重なっているものを探していた2012年に、なでしこがロンドン五輪で優勝。「これからサッカーやフットサルが盛り上がってきそうだな」と思い、大学1年のときに1人で個サル(個人参加フットサル)に参加したんです。 するとそこには男性しかいなくて。元サッカー部のガチ勢が、バチバチやってるわけですよ。これは初心者の女の子が1人で来たら、フットサル嫌いになっちゃうなと思いました。 ーそんなに殺伐としてたんですね。 はい。その光景を見て、これが世の中から求められていることだと思いました。 「社会人になって余裕が出てきたから趣味を作りたいな」とか、「大学にも慣れてきたから新しいこと始めたいな」とか、「毎週ジムに通うほどのモチベーションはないけど、身体を動かしたいな」とか。そういったニーズと、自分ができることと、やりたいことを掛け合わせて思いついたのが「女性に特化したフットサルサービス」でした。 あと実は、大学1年の3月に、中高生30人と大学生・社会人30人の計60人を集めて、女の子だけのフットサル交流会を開催したことがあるんです。 ーそんなに早い段階で、行動していたんですね。 大学1年生の1月にハタモクで共同代表と出会って、「ほんとに起業したいんだったら、今すぐ何かやればいいじゃん。今実際に何やってんの?」ってカマかけられたので。じゃあなんかやってやろう!と奮起し、フットサル交流会を自分で開催しました。 そのときに、60人の女子がワーキャー言いながら、好きな髪型や服装をしてフットサルしている姿を見て、純粋に「可愛いな」と思ったんですよ。私が参加したフットサルは男子がメインで殺伐としていたけど、女子が心理的に求めているのは「楽しい」とか、「褒められたい」とかだよな、と察知して。 スポーツ初心者の女子を集めてフットサルしてもらって、「楽しい」をシェアしてもらえば絶対バズるじゃん!と確信し、方向性が決まりました。 ーそこからビジネスへ展開していったわけですね。数千人規模のコミュニティを運営するのは難しいと思うのですが、コミュニティの価値を下げないように意識していたことはありますか? ものやサービスは顕在化していますが、みんなが求めているのは「こういう感情を得たい」「こういう自分でいたい」など、潜在化した感情なので、PCMを使ってその感情に訴求することを意識しました。 あと関わる人みんなに、「私たちはフットサル屋さんじゃないよ」と言ってますね。ただボールを蹴りたいだけであれば、場所はごまんとあるじゃないですか。私たちは、自分に自信がなかったり、落ち込んだりしている人がプラスの気持ちになれる場を提供しているので!   「豊かさ」に気づく場を提供していきたい ー起業してから9年目ということですが、起業当時と比べて心境の変化はありますか? 19~20歳のときは勢いがあるじゃないですか。見える世界も小さかったので、その中でできることをやってやろうという気持ちでがむしゃらに突き進んでいましたが、3年前くらいから今後どうしたいかを考えるようになりました。 今は楽しいけど、20代後半や30代40代になり、結婚や出産を考えたときに、今やっていることをやり続けることが自分にとっての幸せなのかな?と悩み始めたんです。そのときに『7つの習慣』という本と出会い、熟読しました。 ーあのボリュームがある本を! 1章読むごとに感想文を書いてアウトプットしました。本の内容を現実社会と照らし合わせて、どういうことが実践できるか考えながら、1年半くらいかけて1冊を読み切りましたね。人生の目的について考える1つのきっかけになりました。 同じタイミングで、瞑想にも出会って。人って忙しいと、考える時間がないじゃないですか。私もずっと動き続けてきたのですが、一度立ち止まって内面を見たり、将来のことを想像したりすることって大事ですよね。 ー『7つの習慣』を読んだり、瞑想したりすることで、どんな方向を目指していきたいと思いましたか? 豊かさを与えられる人でありたいと思いました。そうなると「余裕」が必要になってくるんですよ。今自分ができることを探して豊かさを与えていくには、世の中を俯瞰して見て、「こんな大きな世界で、自分が与えられるものって何だろう?」と考える必要があって。だから常に時間の余裕、金銭的な余裕がある状態にしておきたいんですよね。 ー山本さんが考える「豊かさ」とは? 豊かさの基準は人によって違うと思っていて。まずは自分にとっての豊かな状態を知ることが大事です。 例えばAさんのことをうらやましいと思っていても、その人にとっての幸せと自分にとっての幸せが違えば、その人を目指さなくてもいいじゃないですか。だからまずは自分の人生にとっての豊かさとは何かを知り、そのために必要なものをかき集めていくことが重要です。 私はPCMや『7つの習慣』、瞑想を通じて、豊かさの基準を知ることができましたが、若い世代はどうしても視野が狭くなってしまう可能性があると思っていて。私もまだ20代ではありますが、いろんな経営者の方とお付き合いして知り得たことがたくさんあるので、それを発信することで視野を広げる手助けをしたいです。発信も「与える」ことだと思うので。 ー具体的にどのように発信していこうと考えていますか? 自分がどうなりたいか気づけるようなワークショップや朝活を企画しています。自分にとってのハッピーな状態や、それを実現するための手段を見つける場を提供していきたいです。 欲を言えば、みんなが自分にとっての幸せや豊かさを手に入れたときに、それを一緒に味わいたいんですよね。それが感動につながるので。 ー相対的に他者と比較するのではなく、まずは自分にとっての豊かさを知ることが大事で、山本さんはその機会を今後も提供していくということですね。今後のご活躍を応援しています!本日はありがとうございました。   取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

場所にとらわれない働き方を実験中! パラレルワーカー松岡 マイのこれまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第257回目となる今回のゲストは、フリーランスのパラレルワーカーの松岡マイさんです。高校時代から目指していた薬剤師になるも、ある出来事がきっかけで辞めざるを得なかった松岡さん。現在、薬剤師の資格を生かしながらWEBライターやWEBデザイン、講師としても活躍している松岡さんのこれまでの人生とこれから目指したいことをお聞きしました! 薬剤師は家族の影響で目指しはじめた ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 1991年生まれで愛知県出身の29歳です。 薬科大学にて6年間過ごし、正社員の薬剤師となりました。 しかし、体調を崩したことで派遣薬剤師に転向。沖縄で療養したのち、沖縄・北海道・静岡で働いていました。その後、元々旅好きだったこともあり、日本や海外問わず「どこにいても自分の力で働けるようになりたい」と思うようになりました。 WEBスキルを学び、医療・取材ライターやWEBデザイン、nocodeでのサイト制作や講師メンターなど、オンラインでの働きかたを確率し、ノマドワークをしています。 ーここから幼少期のお話を伺えればと思いますが、幼少期はどんな様子でしたか。 小さい時は活発でしたが、中学受験を経てからどんどん消極的で内向的になっていった気がします。 自分のやりたいことや意見があったとしても、それを伝えるのが上手くありませんでした。 私には姉と妹がいるのですが、真ん中のポジションは挟まれている感覚があり、空気を読まなければ…と感じながら過ごしていました。 ー薬剤師という仕事は幼い頃から興味があったのでしょうか。 職業の存在は知っていましたが、そこまで詳しくは知りませんでした。 また、理系科目が苦手だったので、心理学を学びたいという気持ちや、好きな絵を書いて過ごしたいという気持ちもありました。 高校2年生の時に両親が離婚をしたのですが、そのとき母が「女一人でも生きていける資格を持っておいたほうがいい」とアドバイスをしてくれました。姉が医学部に行くことになり、その影響から医療系がいいな、少しでも姉に近付きたいなという気持ちがありました。 当時は、医学部・看護学部・薬学部しか医療系の学部を知らなかったため、 結婚後に働きやすい働き方が出来たり、全国どこでも働ける薬剤師を目指そうと思いました。 ーその当時から目標としていた大学はあったのでしょうか。 一人暮らしをしたかったのと、 当時の自分が頑張ったら行ける大学を目指そうと思い志望校を決めました。 通っていた高校が文武両道を大切にしていたので、学問を頑張るのはもちろんですが、体育祭などの行事にも力を入れていました。体育祭にも力を入れつつ、web上の解説記事や姉の友人の力を借りて苦手科目の克服をし、6年分の志望校の赤本を理解して解けるまで10周するなど、繰り返して勉強を続けていました。 ー今振り返って、薬剤師という道を選んだことをどう思っていますか。 悔いはなく、母に感謝しています。 また、苦手な部分にも取り組んだことが自信になったので、選んで良かったと思っています。 6年間の勉強や国家試験でプレッシャーはたくさんありましたが、乗り越えた部分や国家資格を取れたこと、どれをみても自分の強みになりました。また、現在フリーランスとして色々なことに挑戦できるのも、資格があることで他人よりも仕事が取りやすくなっていると感じています。 旅をすることの楽しさに気づいたベトナム旅 ー大学時代、特に印象に残っている出来事はありますか。 大学3年生の時にボランティアサークルを立ち上げた友人に誘われ、ベトナムの孤児院に行きました。そこで、子どもたちに遊び感覚で化学の面白さを知ってもらいたいと思い、現地の食材を使って理科の実験をしたのですが、それがとても楽しかったんです。 大学時代は自分に自信がなく、頭の回転が速い周りの人たちを羨ましく思ったり、自分の意見なんてなくてもいいのでは、と思う場面もありましたが、海外のボランティアを楽しみながら孤児院の子どもたちと仲良くなったことで自信がつき、そこから海外旅行をして、現地の人と話すことが好きになりました。 ーベトナムの経験を生かして、行動に移したことはありますか。 ベトナムの孤児院に行った時に、すごく仲良しになった女の子がいたので、3年に1度ベトナムに行き、その子に会ったりしています。 あとは、大学5年生の時に病院実習と薬局実習がそれぞれ2ヶ月半あったのですが、その合間の1ヶ月半で研究室の先輩が留学していたことから、「私も留学に行ける!」と思い、英語の勉強をするためにイギリスのロンドンに単身で行きました。 元々好奇心は強い方だったので、「やってみたいことをしてみよう」「ワクワクすることがしたい!」と思い、安く語学学校へ行ける方法をネットで探しました。 ーロンドンへの単身留学が今に生きていると感じる部分はありますか。 はい、とても視野が広がったなと思います。 ロンドン留学した際は、様々な人種の方に囲まれていました。 メモを取り、誰よりも一生懸命学ぶロシア人のおばあちゃんや、なまりがあっても練習し続けるイタリア人の女性、簡単な内容でも分からないと思ったら積極的に質問するドイツの青年など、「日本だったら見ない光景」を目の当たりにしていました。 周りの目を気にしすぎず、目標に向かって努力するクラスメイトの姿にすごく刺激を受けたと思います。 世界の広さ・多様性から、「もし自分に合っていない環境にいたとしても、広い世界の中に過ごしやすい場所はいくらでもあるんだ」と感じました。 憧れの薬剤師になるも退職し、派遣薬剤師に転身 ーその後、就職のタイミングになると思いますが、薬剤師という夢は変わりませんでしたか。 「薬剤師の資格を取ったら薬剤師になる」というのが自分の中の基準だったので、臨床で働く薬剤師になるんだと思っていましたし、心理学や絵など小さかった頃やりたいと思っていたことは、薬剤師になってから自分でお金を稼いで楽しくやろうと思っていました。 しかし、初めての薬剤師国家試験は、あと2点足りず不合格になってしまいました。 周りから「頑張ってたし絶対大丈夫」と言われていたにも関わらず、プレッシャーや自信のなさから凡ミスを繰り返してしまいました。 2度目の国家試験は「どうせ凡ミスするなら凡ミスありきで受かろう」と思い、予備校の全国模試での1桁獲得や模範生に選ばれたことで、自信をつけて合格できました。 当時は合格できなかった不甲斐なさや母への申し訳なさで自分を1年間責め続けていたので、合格できたことが嬉しく、「学んだ知識を実戦で生かしたい、座学と現場の違いを学びたい。絶対臨床の薬剤師になりたい」と思っていました。 そして、内定をもらっていたドラッグストアの中にある調剤薬局の薬剤師となりました。 ー薬剤師になってから今のパラレルワーク的な働き方になるきっかけは、何でしたか。 耳鼻科の門前薬局へよくヘルプで入っていました。その頃は、業務や勉強会で疲れることも多く、免疫力が低下している時に、何らかのウイルスにかかってしまったんです。その結果、左側の顔面が全く動かなくなってしまいました。さらに、薬の副作用で味覚が消えたり、口の中の温度感覚がなくなってしまうなど色々な症状が出ました。 休職して休みたいと会社に話したものの、人手不足だから働けるなら働いてほしいと言われ、その状態で1ヶ月働き続けました。マスクやメガネをしながら働いていましたが、精神的にしんどく、患者さんと話しているときに泣いてしまう自分に気づいたときに、1回仕事を辞めて、派遣薬剤師になろうと思いました。 もともと、派遣薬剤師という働き方を知っていましたが、より知識を身につけてからでないといけない、正社員が1番の正解だ、と思っていたので正社員として3年勤めてから派遣薬剤師になろうかと考えていました。しかし、顔面麻痺をきっかけにして、週3~4日で自分のペースで働くことができる派遣薬剤師になることを決めました。 ー派遣薬剤師という新しい働き方に踏み出せたのは、どんな思いからでしたか。 今まで親の離婚や国家試験など、顔面麻痺よりも辛いことが多くあり、それを乗り越えてきたからいけるだろうという謎の自信がありました。 20代半ばくらいだったので、ずっと動かなければ精神面がやられたと思いますが、退職してすぐ沖縄に行き、1人で1ヶ月半のんびり過ごし、顔面麻痺の治りが早くなったので、そのまま沖縄で派遣薬剤師をしていました。 そうやって過ごす中で、どんどん生きやすい生き方になっていることに気付き、自分のやりたいことや直感をもっと大事にした方がいいなと思いました。 また、顔面麻痺にならなくても、私にとって正社員の薬剤師を続けることはしんどい選択だったのかな、とも思います。 元々私は理系の考え方が得意なわけではなかったので、苦手分野で何年も専門職にしている先輩方と一緒に頑張り続けることは、自分にとって大変な生き方でした。 シフトチェンジせざるを得ない環境になったことは、結局良いターニングポイントだったかなと思っています。 誰かの力になりたい ー現在やっているWEBライターは、派遣薬剤師として働き始めてから始めたのでしょうか。 20代女性で顔面麻痺の症状について書いている人がいなかったため、「自分でブログを書こう」と思いました。また、沖縄で派遣薬剤師として働いていた日常を書いていました。 すると、自分が書いた記事が読まれるようになり、ライターに興味を持ち始めました。 その後、Twitterで「沖縄での派遣薬剤師の体験談」を募集されている方を目にしたため、DMを送り体験談を書かせていただきました。 そして、もっと書けるようになりたいと思ったのが今の働き方につながる第一歩でした。 ーそこからWEBデザインはどのように習得されましたか。 一昨年の9月~10月に1ヶ月間合宿型でライティング・ブログ・WEB制作・WEBデザイン・写真の撮り方全般を学べる講座「いなフリ(田舎フリーランス養成講座)」に参加しました。 前から「いなフリ」の存在を知っていたものの、どこか自分ごとではなく「そんな生き方ができる人もいるんだ、いいな」という印象でした。 しかし、自分がTwitterをフォローしていた方々が講師で参加されることや、派遣薬剤師の契約がきれるタイミングが重なったこともあり、「今こそ行くタイミングだな」と思いました。 さらに、ライティングだけではなく、WEB全般のことを学べることが嬉しく、せっかく行くなら全部吸収したいと考え、参加してWEBスキル全般を教えてもらいました。 ーU-29世代(29歳以下の世代)で、医療関係に興味のある方や医療系の仕事に将来つきたいと考えている方にメッセージをお願いします。 資格は、自分を守ってくれる強みの一つになりうるので、 大変な時期もあると思いますが、自分の気持ちを大事にしながら諦めずに頑張って欲しいです。 私は国家試験に一度失敗しましたが、国家試験に失敗しても死ぬわけではありません。 失敗したときやうまくいかない時は、マイナスな感情で頭がいっぱいになったり、色々なプレッシャーに押し潰されそうになってしまう時もあるかもしれませんが、生きていれば大丈夫です。 遠回りしたとしても、遠回りしたからこそ見える景色があると思います。 どんな状況でも、そこから目線を変えることで学べることが出てくるはず。 「どんな薬剤師になりたいか?」 「自分はどんな風に生きていきたいのか?」考えながら、ひとつひとつ乗り越えていってください! ー今後やってみたいことや挑戦したいことを教えてください。 私が最初に「ライターになりたい」と思った時、どのように書けば良いのか・どこで学べば良いかなど、わからないことが沢山ありました。 なので、最近はその経験を踏まえて、医療ライターを育成するオンライン講座「医療ライターのはじめかた」を開催しています。 特に今は、医療従事者の方にとってオフラインで学ぶこと・行動することが難しい時代です。そんな中「自分の人生を見つめ直して働き方を考え直したい。一歩踏み出してみたい」と思う方々に、今度は自分が何か力になれることができたら良いなと思っています。 また、「自分の本を出したい」というのも一つの夢です。 今まで国内や海外、色んな場所に行ってきたので、その写真と合わせて文章を書けたらいいなと思っています。 取材者:あおき くみこ(Twitter/note) 執筆者:大庭 周(Facebook/note/Twitter) デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter)

人見知りの僕が「マッチングの神」と呼ばれるようになるまで 大手ITエンジニア前田 一樹さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第258回目となる今回は、大手IT企業のエンジニア 前田 一樹さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 幼少期はとても人見知りだった前田さん。どんな経験を経て、人見知りとは正反対のマッチング業界で成功したのかを詳しくお伺いしました。 テレビ番組の出演は拒否。人見知りな子供時代 ーまずは簡単に自己紹介をお願いいたします。 NTTドコモに入社し、インターネットサーバの管理やマッチングアプリの仮説検証をしています。また、本職以外に副業で地元企業で商品の企画をしています。 NTTドコモではスポーツの競技者とコーチをマッチングするアプリで、今年の5月から社内新規事業コンテストを通じて、社内で企画、11月頃から本格的に稼働しました。 競技者は「自分に合ったコーチがいない」、コーチは「教える人が見つからない」という問題を抱えています。お互いの仲間内のネットワークだけでは見つからない人を見つけるという、お互いのニーズを叶えられるようなアプリ開発を目指しています。 ー前田さんはどんな子供でしたか? 幼少期はコミュニケーション力が低めでしたね。 例えば、子供の頃、NHKの「お母さんといっしょ」に出演する機会があったのですが、撮影の現場まで行ったのにもかかわらず、「恥ずかしいから出演しない」と駄々をこねることもあるくらい人見知りでした(笑) ーそんな人見知りを変えるきっかけになった、サッカーを始めた理由についてお伺いできますか? 最初は水泳を習っていたのですが、目立つのが嫌だったのでずっと辞めたいと思っていたんです。ただ、両親の「何かスポーツはやってほしい」という意向もあり、仲良い友人がやっていたサッカーを始めました。 友達の影響で始めたサッカーでしたが、個性が活かせるチームプレイのサッカーがとても楽しいと感じるようになっていきましたね。僕はご縁があり、中学生時代にキャプテンに就任したのですが、勝利に向かってチームで一体感を持ってできるところがとても楽しいと感じるところでした。 難しいところとしては、「楽しくプレイしたい人」と「勝利に向かってもっと練習もプレイしたい人」など取り組みの姿勢が違っていて、その違いがある中で同じ目標を持たせるといいうところです。 ーサッカーに夢中になった経緯について教えて下さい。 両親から自分の意見を否定されることがあり、両親が僕自身の行動を決めるということが多かったのですが、サッカーは違っていました。 自分で考えたプレイをして、失敗したら怒られ、またその反省を生かしてプレイをする、成功したら褒められるの繰り返しで、その経験から自分の意見に自信が持てるようになり自己肯定感が高くなりましたね。 結果、人に興味を持ってもらうのが増えたことと自分も他人に興味を持ったことで交流が増え、人見知りが解消されていきました。 ー進路選択の背景をお伺いできますか? 高校を選んだ背景としては大学進学を見据えての選択でした。高校によって大学に進学しやすい学校などがあったため、有名な大学に進学しやすい高校を選択して。元々姉に「大学に行けば色々なことを知れる」と聞いていたので、中学生の頃から大学に興味がありましたね。 研究とマッチングサービスの運営に没頭 ー大学に進学したきっかけや実際の大学生活について教えていただけますか? 経済学部や心理学部に入りたかったのですが、進学したのは工学系の大学でした。 当時の塾の先生から「理系にいけば就きたい仕事にはなんでもなれる」、「したい勉強はどこでもできるから、なりたいものがまだないなら選択肢が広がる理系に進学するのがいい」と言われたことが工学系の大学に進学したきっかけでした。 また数学が得意だったことも理由のひとつです。 ー大学時代に優秀賞を受賞したそうですが、受賞ができた要因はなんだったのですか? 1番の要因は研究室の環境だったと思います。 僕自身、1人で何かをするのが得意ではないので、当時の研究室のみんなで研究しようという流れが僕にとってはとてもいい環境でした。相談しやすい環境だったことが優秀賞を取れた要因ですね。 ー研究の他に、大学時代に打ち込んだものはありますか? 大学時代にも男女の出会いを手助けするマッチングのサービスも打ち込んだことの1つですね。 工学部の学生は男子が圧倒的に多かったので、どうやって女性と接したらいいかわからない方や人見知りな方が大半を占めていました。また、出会いの場もなかなかない状態だったんです。 一方で女性側からも「工学部の男性や高学歴の男性と出会いたいが、どこで出会えるのかわからない」の声を聞くことがあったので、工学部の男性との出会いの場を作るようなサービスを展開していました。 SNSのアカウントで出会いを探している人のプロフィールを公開して呼びかけなどを行い、集まった方で出会いの場をセッティングしてました。半年でだいたい30件くらい出会いの場所の提供をしましたね。 マッチングサービスの運営や大学生活によって人見知りは完全に克服できました。 ー大学から活動的になられたんですね!大学時代は旅行などをよくしていたそうですが、旅したきっかけやエピソードについてお伺いできますか? 旅をしようと思ったきっかけは、「旅を通して現地の感じを味わいたい」が1番の理由で、現地でサッカー観戦をして空気感を感じながら各国を周っていました。 1番印象的なエピソードはロシアのサッカーワールドカップの試合観戦ですね。 色々な国の人がいるので言葉が通じないのに、サッカー観戦をしている人はみんな一体感があって盛り上がってました。言語を超えた一体感を見て、「スポーツは人と人を繋げる力があるんだ」と感銘を受けました。 その時に「スポーツを盛り上げることで世界の平和になる」と思い、現在運営しているスポーツマッチングサービスの発想の一画にもなっています。 その後、大学院でテラヘルツ波の勉強をして、通信系の会社に就職しました。 ※テラヘルツ波…周波数1THz(波長300µm)前後の電磁波 マッチングの神と呼ばれる現在 ー今はどんなお仕事をされていますか? 元々はスポーツビジネスに携わりたく入社しましたが、現在行なっている仕事は通信サーバの管理です。 この2つは一見全く関係ないものに見えますが、通信サーバの管理も将来関わりたいスポーツビジネスの一貫で、スポーツビジネスを作るにあたってまずは通信サービスの基盤になるサーバの部分の勉強をしたいと思いました。 ーそんな会社で新規事業のスポーツマッチングサービスをしようと思った経緯をお伺いできますか? スポーツマッチングサービスは、現在働いている会社の同期3人で立ち上げた事業でした。 みんな、スポーツを心から愛している人たちばかりで「もっとスポーツ業界を盛り上げるためにどうしたらいいか?」と考えた時にこのアイディアが出てきました。 たくさんの方にヒアリングをしたところ、教わる側と教える側が出会う機会が少ない課題が立ち上がり、今のマッチングサービスに繋がりました。 ー大学時代に運営していた恋愛マッチングサービスは社会人になってからも継続しているとそうですが...。 元々恋愛マッチングサービスを続ける気はなかったのですが、友達を助けたい気持ちで継続しました。 やはり社会人になっても、職種や業界によって出会いがない方もいらっしゃいますし、今ある既存のマッチングアプリに登録する勇気が出ないような方に登録のハードルを下げられるアドバイスや出会いの場を提供しています。 ー前田さんの今後の展望をお伺いできますか? 1つ目が今の会社で次世代のサッカー観戦ができるようにしたいと思っています。 具体的にはビリアード台を使って、ホログラムでサッカーの試合を写し、世界のどこにいてもスポーツ観戦ができるようなシステムを作りたいと思っています。 もう1つは「理系学生の交際率をあげていく」ことが目標です。今しているマッチングサービスの経験を通して、どうすれば人見知りな人たちが恋愛できるのかのノウハウを展開していけるようにしたいと思います。 ー本当に今日はあっという間でした!素敵なお話ありがとうございました。今後の前田さんのご活躍楽しみにしています。 執筆:ゆず(Twitter) インタビュー:山崎貴大(Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

これからの働き方はご自愛スタイル!? 17歳クリエイターのゆぴの仕事との向き合い方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第269回目となる今回は、17歳クリエイターのゆぴさんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 広告のディレクションやライター経験を経てフリーランスとして独立し、好きなことを全部仕事にしているゆぴさん。仕事ばかりだった生活から、自分を大切にしながら好きを仕事にした方法について語っていただきました。 内向的な私の世界を広げたブログとアニメが、私の夢になった ーまずは自己紹介をお願いいたします。 ゆぴ(17)です。永遠の17歳をしています(笑)。 仕事は取材ライターを中心にライティングをしているほか、SNS運用や原稿作成なども行なっています。また、声優としてナレーターをしたり、イラストを描いたり……。とにかく制限を設けずに自分のやりたいことをしています! ※ゆぴさんが永遠に17歳でいる理由についてはゆぴさんのブログで語られています。 ー様々な活動をするマルチクリエイターのゆぴさんですが、どんな子供・学生時代を過ごされましたか?あ、17歳になる前ですね(笑)。 実は、私はとても内向的な子供で(笑)。友達と遊ぶよりも1人で黙々と絵を書いたり本を読んでいたりする幼少期でした。 しかし、中学2年生のときに父親の仕事の都合でアメリカに行くことになったのが大きな転換期になりました。アメリカの学校ではいわゆる”陽キャ”が多いので、明るく振る舞わないと生き抜いていけないと思って頑張ったんです。その経験があったから、今こうしてなんとか話せる人材になりました。 一方でアメリカにいた時はとても自己肯定感が低かったです。日本ではいわゆる優等生だったのですが、アメリカ行った瞬間にこれまで学んできた勉強が、英語すらもうまく活かせなかったので……。 そこで日本にいる友だちや日本での生活に想いを馳せて始めたのがブログでした。 ーブログを始めたのはアメリカにいるときだったのですね! はい。日本にいた友達は部活や生徒会などでキラキラした生活を送っているのに、私は簡単な日常会話もできないことに悩みながら生活する毎日が本当に辛かったんです。 そのころはちょうどアメブロが全盛期だったので、「記録をしておけば、後で見返したときに『こんな日もあったな』と思えるようになるかも」と、何気なくブログを始めました。 自分の日常の発信が当たり前になった当時の経験が、現在のnoteやTwitterでの発信にも繋がっています。 ーなるほど。ちなみに、今の活動のひとつである声優になりたいと思ったきっかけは何でしょうか? もともと本を読むことと、国語の教科書を音読することが好きで。声に出して読む仕事=声優になりたいと思った最初のきっかけでした。 その後アメリカに行って、言葉は通じなくてもアニメが共通の話題になってコミュニケーションが取れた経験がありました。そのことから、アニメの力は偉大だと感じて、ますます声優への憧れを募らせていきましたね。 「私の本当にやりたいことは?」自問自答の末に見つけたフリーランスの道 ー憧れの声優や得意だったライターをファーストキャリアに選ばなかった理由は何でしょうか? アメリカから帰国後に全国声優オーディションの準グランプリに選ばれたりもしたのですが、声優になるにはレッスン代や下積みが必要なんです。そのときに両親に高いレッスン代を払ってほしいと説得ができませんでしたし、説得できるほどの熱量もなくて。大学生のときに「声優だけで食べていくのは難しいだろうな」と現実を見てしまいました。 大学生のときに声優の夢を諦め、ホワイト企業だったメーカーの営業に新卒で就職しました。 ーホワイト企業からサイバーエージェントに転職した経緯を教えてください。 当時は、人間関係も良好で、お客さんにも喜んでもらえて、「働く」って意外と楽しいんだな、と思いはじめていました。しかし、2年目で「自分が本当にやりたかったことって何だろう?」と考え、もっと自分の好きなことーー書いたり、作ったりすることに関わりたいと思いました。 そこで広告クリエイティブの制作に関われるサイバーエージェントに、クリエイティブディレクターとして転職しました。 ーゆぴさんは退職エントリのイメージもあり、サイバーエージェントと新R25の活動のイメージが強いですが、当時はどんな仕事や働き方をしていましたか? サイバーエージェントではクリエイティブディレクターとして、SNS広告のクリエイティブのディレクションをしていました。充実はしていましたが、当時はデータを見て改善する、といった仕事が多く「何かを作りたい」という私のやりたいことは100%はできていませんでした。 広告事業本部のときは人生で一番忙しい時期でしたね。夜中12時まで仕事して昼にまた出社する……みたいな生活でした。そのなかで、仕事で満たせない思いをまたブログにぶつけはじめました。更新する時間もないのに、仕事帰りのタクシーの中で黙々と書いて……。それが、ライティングを仕事にしたいと思ったきっかけになり、社内転職で新R25のライター・編集者になりました。 新R25のときも、自分のブログや朝活コミュニティ、副業でライターもしていたので忙しかったですね。朝にイベントに出て、出社までにその記事を書き、本業をして休み時間にまたその記事を書いて……。夜も土日も関係なくずっと仕事をしていました。 ほんと、今考えると良くない働き方ですよね(笑)。 ーとても多忙な会社員時代だったんですね……!そこからフリーランスとして独立したきっかけを教えてください! 最初のきっかけは複業が増えすぎたことでした。社外での活動が増えて「組織や枠にとらわれずに、やろうと思えばいろんなことができるんだ」と気づいたんです。 また私自身も飽きっぽい性格なので、仕事や働く相手、場所も自由に選べるフリーランスのほうが合ってそうと思ったのが独立のきっかけでした。会社も楽しかったので辞めるときはとても迷ったのですが……。 コロナ禍で「余白」を作って変わった、仕事の向き合い方 ーフリーランスになって、多忙な働き方からは脱出できたのでしょうか? フリーランスなりたては全然脱出できていませんでした(笑)。いざフリーランスになると、ちゃんとやっていけるのか不安で……。不安から「私で良ければ全部やります」と、いただいた仕事を全部引き受けていました。 だから働き方は会社員時代よりひどかったです(笑)。会社員と違って残業がないので、徹夜で仕事もしていました。 ーまさかのセルフブラックに……!そこからどのように、今のバランスが取れた働き方に変えたのでしょうか? フリーランスの場合は特にですが、仕事って基本的に終わらないものなんです。だから1度手を止めて、考える時間をとることが必要だと思います。私は新型コロナの流行が、休むきっかけになりました。具体的には、自分がかつて愛していたマンガやアニメを見る「余白」を意図的に作りました。 今までは何かに追われるように仕事をして、インプットとアウトプットしていました。会社員時代や独立初期は、「ダラけること」が許されない気がしていたんです。時間がもったいないと思って、移動時間もすべてインプットに当てたり、アニメやドラマも「ながら」で見たり。でもそれって、何かに追われているようで自分にとってはあまり幸せではなかったんですよね。 ずっとそうして働いてきたからこそ、「ダラダラする自分」を許せずにいました。だから、私コロナで初めて余白を作ってダラけたんですよ。そうやってダラダラと過ごしてみたら、「余白」がとても大事だと気づきました。 ー余白を作ったことで、どんな変化がありましたか? 「仕事を選ぶこと」の大切さに気が付きました。独立初期は仕事は何でも受けていましたが、本当にやりたい仕事だけをしていこうと思ったんです。 仕事を選んで、余白を作って生活するようにライフスタイルを変えました。それなのに、収益は以前と変わらなかったんです。誰にでもできる代替可能な仕事ではなく、自分にしかできない仕事を選ぶようになったので、単価も大きいものが残ったのかもしれません。 自分の基準を持って選ぶのは大事ですよね。テンションが上がらない仕事は、ワクワクしないから筆が進まない。多く引き受けると、それぞれのクオリティは下がってしまう。仕事は選ばずにがむしゃらにやるべきだと考えていたなか、「むしろ仕事は選んだほうがいいんだ」「余白を楽しんでいいんだ」と思えるようになったのが、1番大きな変化でした。本来であれば、そこがフリーランスの特権で、目指すべきところなのに、忙殺されて忘れてしまっていたんです。 ーとはいえ、余白をつくってゆるく生きるのは勇気がいるのですが、不安を乗り越える方法はありますか? 週に1回温泉に行くなど、自分が喜ぶ”ご自愛”をまずは一度してみてはいかがでしょうか。1度経験すれば楽しさがわかるし、仕事のパフォーマンス向上も実感できると思います。 また「手を抜いたら仕事が来ない」という不安がある方は、自分が「ここだけは自信がある」と思えるものを1つでもつくってみると良いと思います。何でもいいので愚直にやって、自信と実績を積み上げるのは大切だと思います。 人生すべてを発信する、17歳クリエイターの挑戦 ーゆぴさんみたいな「ゆるくてすごい人」になるための、発信のコツなどはありますか? ゆるくてすごい人(笑)。「見せ方」を意識するのは大切だと思います。 仕事のことばかり呟いていると、バリキャリイメージがつくので、やさしいメッセージも織り交ぜてみるとか。発信を工夫して、「仕事をおろそかにしてるわけではなくて、だけど自分の時間を大事にしている、自分のペースで周りの意見とかに左右されずに生きてる人」と思ってもらうのがいいと思います。 昨今はSNS疲れが話題になっていますが、みんな、キラキラしていたり、寝る間も惜しんで働くようなマッチョな発信を目にすることに疲弊してきていると思うんです。だから、これからは意識高くバリバリ働くよりも、自分を大切にする”ご自愛フェーズ”に移行すると思っています。自分の心に素直に従って、自分に負担をかけずに生きることが当たり前になっていくんじゃないかな。 もちろん仕事が1番だと思う人もいますが、世の中って楽しいことや娯楽もたくさんあるじゃないですか。 幸せは人それぞれだという前提で、じゃあ自分にとっては何か幸せなのか、どんな状態が理想なのかを向き合って実現していくのが大切だと思いますし、その姿を発信していくと良いと思います。 ーゆぴさんがフリーランスとして活動するうえで大事にしてることはありますか? 「全部を発信すること」を意識しています。自分の生活や人生、友達との話も「これ、SNSに書けるな」と頭の片隅で思いながら生きていますね(笑)。 考えや想い、今ハマっているものなど自分の全部をSNSで発信すると、タイムラインがブログのように「自己表現をするもの」になっていきます。 SNSは多くの人の目に留まるので、そこから声掛けしてもらうことも多いですね。例えば、なんとなく文章の書き方を発信していたら、そこから仕事の依頼をいただけたりとか。日記のように、私の人生すべてを発信することを意識しています。 ーゆぴさんは今後、どんなことに挑戦したいですか? 今までは文章をメインに発信をしてきましたが、2021年は「喋ること」にもっと挑戦していきたいです。特にViocyとYouTubeの発信を強めて、声と動画の可能性を模索していきたいと思っています。いつまでもnoteとブログだけに固執せず、新しいことを取り入れていかなければいけませんしね。 あと、私の今年のテーマが「ゆるく生きる」なので、広告時代の働きすぎている私を救うような気持ちで、「もうちょっとゆるくやっても罰は当たらんよ」というメッセージを届けられたらな、と思っています。 ーステキなお話をありがとうございました!ゆぴさんのこれからのご活躍も応援しています! 執筆・インタビュー:えるも(Twitter/ブログ) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

人生の転機と選択で高卒工場作業員がベンチャーで新事業を立ち上げ!ハッシャダイー三浦宗一郎さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第245回目となる今回は、一般社団法人ハッシャダイソーシャル理事の三浦宗一郎さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 高卒で工場作業員だった三浦さんが、なぜベンチャーで新事業の立ち上げに至ったのでしょうか。三浦さんが経験した人生の「転機」そして「選択」について詳しくお伺いしました。 「男の1番のファッションは生き方」恩師からの言葉で人生の価値観が変わる ーはじめに、自己紹介をお願いします。 一般社団法人ハッシャダイソーシャルで理事を勤めており、経済的に厳しい境遇の子供達に教育機会を届ける仕事をしています。 今までの経歴は、新卒でトヨタ自動車に入社し、3年で退社しました。その後海外で半年間の旅をした後に、「ヤンキーインターン」の事業を行うハッシャダイに入社しました。 ー中学校時代、トヨタ工業学園に入った経緯をお伺いできますか? トヨタ工業学園は入学時からトヨタの社員として入社して働くので、親に負担をかけずに夢を叶えられると思ったからです。 思えば、幼少期から多くの魅力的な大人との出会いがあり、サッカーのコーチや学校の先生などの「人」から、大きな影響を受けました。昔から母親から「人との出会いを大事にしなさい」「外の人から学んできなさい」と教わっており、人との出会いや関わりを大事にしてきました。人との関わりを大事にするうちに学校の先生になりたいと思うようになりました。 ただ、当時の家庭は経済的に厳しい状況でした。先生になるには大学に行かないといけないのに、塾にいくお金もなくて......。どうしようと思っていた時に出会ったのがトヨタ工業学園でした。 トヨタ工業学園に進学することができれば、頑張れば自分のお金で大学も行ける可能性があり、そのままトヨタ工業学園の先生になる選択肢もある。いつか人の人生に関わる仕事につくためにトヨタ工業学園に入りました。 ートヨタ工業学園で印象に残ってることはありますか? いじめを受けた時期があって、高校1年生のときはかなり沈んでいました。 寮生活だったので、村八分にされてる感じでした。特にランチの時間が1番辛かったですね。 ーその状況をどのように乗り超えましたか? サッカー部の顧問だった杉浦先生に相談することで乗り越えられました。その杉浦先生は、有名バンドと対バンするくらい、音楽業界では有名な人なのになぜかサッカー部の顧問だったんですよ(笑) 当時、時間が空いたときは逃げるように実家に帰っていたのですが、両親にはいじめのことを話せませんでした。 でも杉浦さんには全部ばれていて、「最近どうなんだ?」と聞かれて「最近しんどいですね」と学校生活が辛いと話していました。 当時の僕はどうやったら仲間と仲良くなれるか、できるだけ関わらないようにしよう、仲間が変わってほしいなど、自分の外側に対してのアプローチをしてました。しかし、杉浦さんに「自分の内側に向き合え。問いを自分に投げろ」と言われ、そこからたくさん勉強をして自分を変えていきました。 ーその時、自分にどんな問いをしましたか? 「かっこいい生き方」を考え続けました。 杉浦さん「お前の今の生き方はどうなんだ」どんなに外側でカッコつけたって、男の1番のファッションは生き方だぞ」と言われたのが1番印象に残ってます。 かっこいいものを身につけるものではなく、「かっこいい人が身につけてるものがかっこいいんだ」と思うようになり、自分の中の価値観が形成されていきました。 「どうせやるなら楽しんだ方がいい」自分の人生楽しいものにしようと決意した瞬間 ー働いてみての学びや働く前とのギャップはありましたか? トヨタ自動車に入社するのは自分にとって楽しみな未来でした。僕が配属されたのは、組立工場でした。仕事の内容はライン作業でした。最初は覚えるのに必死で、楽しかったのですが、慣れてくると、朝起きて会社のバスに乗って工場に行き、1日仕事をしてまたバスに揺られて帰ってくる、という毎日が自分にとってはとても辛かったことを覚えています。 いわゆる「サザエさんシンドローム」みたいな、明日会社に行くことがしんどくなることがあると思うのですが、それくらい精神的にも肉体的にも辛い毎日でした。 ー難しいと思ったところ、合わないと感じたところはどこですか? 今思うと、そもそも仕事が自分に合ってなかったと思います。毎日同じ作業を同じようにやる、という仕事が自分の特性に合っていなかったですね。 もう1つが人間関係でした。当時、僕はみんなのことを暗いと感じていて、その職場に行くのがしんどかったです。 ーそんなお仕事の中で影響を受けた人物のエピソードをお伺いできますか? お金を貯めるために3ヶ月間だけトヨタ自動車で働いていた、門口さんの言葉で価値観が大きく変わりました。門口さんは元々、沖縄の公務員をやりながら野球の指導をしていて、その時は公務員をやめて居酒屋の経営をする夢を追っているという当時の自分からすると、不思議な方で。 僕と同じような仕事をしている門口さんですが、職場に来た瞬間から「そのテンションあってる?」と思うくらいの明るい挨拶をするんです。にこにこ笑ったり鼻歌歌いながら仕事をしている門口さんを見て、「楽しそうなのはどこからきてるの?」と好奇心が溢れてしまい、門口さんをご飯に誘いました。 この仕事は楽しいのか尋ねると、門口さんに「楽しいかどうかわからないけど、どうせやるなら楽しんだ方がいい」と言われて衝撃を受けました。 当時の僕は「仕事が楽しくないから自分の人生も楽しくない」と思っていたのですが、「目の前のことをいかに楽しむかで人生が決まる」という門口さんの言葉で価値観が大きく変わりました。 門口さんとの出会いをきっかけに、ライン作業から何を得られるか、ライン作業をどう楽しむかを考えられるようになり、自分自身の感情の動きに対してどう抑えるか、作業の中で自分の精神性を深めるような気持ちで過ごした3年間でした。 「意地でも自分の人生楽しいものにしてやろう」というマインドセットからすべて変わっていきましたね。 お金の使い道は「旅」と「友達」と「本」 ー退職の背景を教えてください。 門口さんとの出会いをきっかけに、人生を自分の力で楽しくしていこうと思って始めたのが「旅」でした。お金を貯めて旅に出てたのです。 その時にお金の使い道を決めていて、「旅」と「友達」と「本」にしか使わないと決めてました。お金の稼ぎ方はこの瞬間には変えられないけど、お金の使い方は今この瞬間に変えられると思ったんですよね。 そこで「物は一生残らないけど、ストーリーは一生残る」、そう思って旅にお金を使おうと決心しました。旅をすることでいろんな視点からの自分を手に入れることができました。 僕自身、3年間でトヨタ自動車をやめるか続けるかの答えを出すと決めていたんです。答えを出すためにやることを2つ決めていて。「辞める時に引き止められるような自分になること」と「やめられる自分になっていること」でした。そのための自己投資として、お金は「旅」「友達」「本」に使おうと決めていました。 いよいよ残り1年となった時に、あと1年で答えを出すのが難しいと感じたんです。そこで1ヶ月くらい仕事を離れる体験ができないかと考えました。 ただ、若い社員で1ヶ月間休みをいただきたいとは言えず、悩んでいたところでたまたま知ったのが「世界青年の船」でした。 世界青年の船は世界各国から集まったメンバーと船で共同生活をするのですが、船で得た1番の気付きは「世界の深さ」でした。景色や場所だけでなく、人と深く関わることで考え方や宗教、精神性などを知り、世界が3Dで見えるようになったんです。もっと人から世界を学びたいと思い、悩んだ末に、トヨタ自動車の退職を決めました。 ー日本に帰ってきた後の心境の変化はありましたか? 船の旅は夢だと思うくらい、一気に日常に戻される感覚がとても怖かったのを覚えてます。この経験を夢で終わらせてはいけないと思いましたね。 また、船に参加したナショナルリーダーの永崎裕麻さんに伺った「人生を変える言い訳」の話も印象的でした。一晩の飲み会で人生が変わったと言われても説得力がないけれど、「世界11か国から参加してきたこの船旅で人生を変えようと思った」という言い訳は周りにも自分にも通用する言い訳だ、と聞いて。「自分はこの船で人生が変わったと言える未来を絶対歩んでやろう」と決意しました。 そのため、帰国してからは執着するように日常に埋没していく自分と新しい一歩を踏み出す自分の葛藤をしてましたね。同期や両親には仕事を辞めると言っていたのですが、直属の上司だけにはなかなか言えなくて……。上司に言ったら本当に人生が動くから、怖くて言えなかったんだと思います。 ーどんな出会いや考え方の変化で退職後に踏み出すことができたのですか? 正直、退職後は「旅をする」ということしか決めていなくて。転職先も、次の仕事も決めていませんでした。世界の深さを学ぶ旅はどこでできるのか考えたときに、「カミーノ・デ・サンティアゴ」という800kmスペインを巡礼する旅を経験した方に出会い、スペイン行こうと思いました。 自分の人生は自分の力によって変えていくことができる ー最後の転機、ハッシャダイとの出会いやどんなところに惹かれて入社を決めたのかを、教えていただけますか? 少し話は戻りますが、トヨタ自動車にいる間にDMM.comの亀山会長に会いに行ったことがあるんです。会食に同席させていただき、ハッシャダイの代表の久世さんと出会いました。 ハッシャダイは僕のやりたいと思っていたことがすべてできそうだと思いましたね。 でもその時はハッシャダイに入社しようとは思っていませんでした。 船に乗って、スペインを歩き、自分の意思を突き詰めていった時に「やっぱり人の人生に関わる仕事がしたい」と思い、22歳でハッシャダイへの入社を決めました。 ハッシャダイへの入社の時に夢が叶ったと言われることもありますが、僕は中学生の時に自分のやりたいことを発見し、自分自身が後輩の相談を聞いたり、周りの人を元気付けた時にすでに自分の夢は叶っていたんです。 今もずっと、自分は夢のど真ん中にいる感覚がありますね。   ーハッシャダイで携わってきたことと、いま三浦さんが取り組んでることを教えください 入社1年目はヤンキーインターンという最終学歴が中卒・高卒の方のための長期研修型キャリア支援事業で、「ヤンキーハッカー」というエンジニアを育成するプログラムに携わり、200人くらいの参加者に関わらせていただきました。 仕事をする中で愛知の高校から公演依頼をいただき、あることに気づくようになって。 ヤンキーインターンは「若者の選択格差を是正する」というするサービスなのですが、実際に現場に行ってみると、そもそも自分を肯定する力が弱かったり、チャレンジできないマインドの若者達がたくさんいることを知りました。 選択肢を作ることはもちろん大事ですが、「選択する力を作る教育」や「土台を作る教育」が大事だと思い、高校生向けの活動をし始めました。 僕たちがメインに関わってる高校生は、遅刻が多かったり校則違反もするような子なんですが、そうなった経緯は彼らのせいではなく家庭の事情であることがすごく多いんです。 彼らの働くことへのマインドセットや、自分の人生は自分の力によって変えていくことができるという事実を伝えいくような仕事をしています。 ー短い時間で濃いお話をありがとうございました。三浦さんの今後のご活躍を楽しみにしています! 高校生向けの活動をする三浦さんには、この記事には書き切れないお話もたくさんあります。もっと知りたい方はぜひ三浦さんのnoteをご覧ください! 三浦さんnoteはこちら 執筆:ゆず(Twitter) インタビュー:山崎貴大(Twitter) デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

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