「SNS×アート」で世界に挑む現代アーティスト・池田真優

  今回は現代アーティストとして活躍されている池田真優さんにお話をお伺いしました。池田さんはFacebookページに投稿した絵画「花」が100万いいねを突破し話題となったアーティスト。と同時に、日経新聞COMEMOにてアートのコラムを寄稿されており、13回も日経新聞電子版トップページに掲載されるキーオピニオンリーダー(KOL)です。 そんな池田さんの意外にもあまり語られていないアートとの出会いやアートとSNSとの関連性について語っていただきました。   人の感情を動かしたいという思いからアートの世界へ ―まずは池田さんとアートの関係について教えてください。そもそも昔からアートが好きだったんですか? 元々アートは好きでしたが、中学校の時は吹奏楽部で部活漬けの毎日でしたし、高校は勉強メインの生活。数学が得意だったので大学は中央大学の経済学部、とアートの世界からはどちらかというと遠かったですね。 でもこういった経験がむしろアートにつながったんだと思います。 中学では全国大会を目指すレベルの吹奏楽部に入っていたので上下関係も厳しく練習もハードでした。団体行動が求められた分、自由さがなくて、個性は求められていなかった。高校時代は京都大学を目指して予備校に通って受験勉強していたんですが、みんなが同じレールの乗っていることや競争社会で頑張ることに疑問を持つようになりました。 もっと個性を生かした生き方をしたい、他にもっと違う世界があるんじゃないかという思いがあったんです。大学に入って、いろんなサークルに所属して面白い人たちにで会っていく中でSNSでの発信活動を始めたのがアートにつながっています。 ―元々アートの世界にどっぷりではなかった中でアートのどこに魅力を感じられたんですか。 小学校のイベントでお化け屋敷をしたり、高校の文化祭で廊下装飾をやったりしたときに人がびっくりしたりする反応を見た時に楽しいなと思ったのが原点になっているかと思います。私、人の感情を動かすのが好きなんです。そしてアートだとそれができる。なので「上手な絵」じゃなくて「これ何?」って見た人がザワザワするような作品を作りたいと常に思っています。 人の意表を突くのが好きなんですね。私がSNSのアクティブユーザーなのもそこに繋がっているんだと思っています。SNSもアートと似ていて人の感情を動かしたり、人の感情に働きかけたりすることができるんですよね。 SNSとアートの共通項 ―池田さんといえば「SNS×アート」というイメージがあります。SNSとの出会いはどんな感じだったんですか? 最初は趣味ではじめたツイッターが、実は友達と繋がるだけではなく外部とも繋がれるツールだと気づき2016年からツイッターで匿名の美容アカウントをはじめました。ここで個性が武器になるんだということを知りました。これもアートに通じるところがありますね。 このアカウントが短期間で3000人フォローもいただいたので2017年からはInstagram、Facebookもはじめてみました。Instagramは文章ではなく写真の世界だと思ったので写真を加工したデジタルアート作品を載せていました。これが現代アーティストとしての活動の原点になっていると思います。   ―Facebookはどのような形で活用していたんですか? Facebookでは面識のない方にもメッセージ付きで友達リクエストを送らせていただいたりして、自分の出会ったことのない価値観を持った人と出会う場所として使っていました。   ―Facebookは特にリアルな友達と繋がる場という認識があるのでかなりレアな活用方法ですね。 そうですね。でもそれがきっかけでたくさんの出会いや気づきがありました。今やらせていただいている日経新聞のCOMEMOも実はFacebookで繋がった人が実はきっかけなんです。 それとは別に、2018 年からはフェイスブックページの運営もスタートさせました。花を中心とした作品を投稿していたんですが、フェイスブック広告をだして投稿に100万いいねをもらえるかというチャレンジをやってみたんです。これはInstagramで投稿したアートに対して海外の方からリアクションがあったのをみてFacebookならさらに多くの海外の人たちと繋がれるんではないかと思ったのがきっかけです。 実際このチャレンジを通して世界各国からコメントをもらうことができて多様性が見ることができたのが面白かったしアートの重要性も確認できました。   ―100万いいねはすごいですね。そのチャレンジの発想はどこから得たんですか? Facebookで繋がっていた起業家の方ですね。その方もフェイスブックページを運用されていたんですが、同じようなことをアートでやってみたらどうなるんだろう?って。 こうやって振り返るとSNSがきっかけで人脈も活動の幅も大きく広がりました。 自分らしい働き方と活動 ―池田さんは大学時代にSNSを活用した発信を行って今に至るとのことですが企業への就職などは考えなかったんですか? 万博の開催が決まってそれに関わりたいと思ったことや決まった所に長くいるということや、決められた時間に出社するといったことが自分に合わないなと思ったので就職は考えませんでした。 私はアーティストっていわゆる起業家だと思っています。どこかの会社に属するというよりかは、日本各地で個人として活動しながらいろんな企業さんのいろんな事業に関わらせていただく感じで忙しくさせていただいています。2019年3月に大学を卒業したのでまだ卒業して1年経っていませんが、いろんな人との出会いがあっていろんなプロジェクトに関わらせていただく働き方が自分らしいなと思っています。   ―そんな多忙スケジュールの中、意識していることはなんですか? 無理しすぎないことですかね。ついつい頑張りすぎたくなるし、ちょっとくらいは無理してでもやりたいと思ってしまう。これは学生の頃から変わりません。バランスが難しいので自分の中でもまだ試行錯誤しています。時間に余裕がなくなると厳しいのでスケジュールには余白を持たせて詰めすぎないようにはしています。 忙しくなりすぎて目の前のことしか見えなくなってしまうとアート活動も目先の利益ばかりになってしまうんです。それは良くないなって。アーティスト活動というのは本来10年とか50年単位で考えるべきだと私は思っています。だから先のことを考えられる余裕を持つためにもスケジュールに余裕を持つように意識しています。   ―先のことを考える機会ってあまりなくありませんか? そうですね。意識的に時間を作らないとなかなか考える機会を持てないですね。 なのでこの前「シンギュラリティ後のアート」というイベントを開催したんです。今の技術を踏まえつつ、2045年とかの未来がどうなっているのかを考えてみる、みたいな。未来について話すことができる人達、世の中を俯瞰できる人達が集まるコミュニティがあれば未来に向けて何か意味ある活動ができるのではないかと思いました。 それを経て、「シンギュラリティ後のアートのあり方」というフェイスブックページを作ったところ一週間で100人くらいの方が興味を持ってくださったんです。すごく先の未来について考えるイベントに対して100人も興味を持ってくれる人がいると知りこういったテーマに需要があることを知れました。今後定期的にこういったテーマでのイベントを企画したら面白いなと思っているので企画していく予定です。 ―他にも最近取り組まれていることはありますか。 最近はなんで心が揺らぐのか?などといったこと、心理学や脳科学とか、哲学とかに興味を持つようになりました。そこでこれまで学んでこなかった学問を勉強したいと思い、Nサロンという日経新聞のサロンにアート哲学部を立ち上げさせてもらったんです。簡単に言うとみんなでアート哲学の知見を深めていこうというコミュニティですね。 似たような形でNサロンで発信研究部というのもスタートさせました。どうすればSNSで人の心に影響を与えることができるのかといったことを研究する部活ですね。 あと個人的にやっていることとしてはnoteをこまめに更新しており、フォロワーがついに7000人を超えました。 ―noteではどんなことを発信されているのですか? いろいろ書いていますが、日本のアート市場、世界のアート市場の現状などやはりアートの話が中心です。 実は世界のアート市場は7兆円と言われている中、実は日本のアート市場は300億円にしか満たないんです。これってすごく少ないし残念だしもったいないなと思ってその現状について書いたりしています。日本のアート市場を広げて、アート市場の活性化を目指したいという思いの詰まったnoteもぜひ読んでみていただきたいです。 新しいアートの世界を作りたい ―果敢にチャレンジされ続けている印象を受けていますが、これからやりたいことはありますか? まずはやはり大阪万博をきっかけにアートでムーブメントを起こしたいです。 大阪には岡本太郎さんの作品、太陽の塔がありますがあれって世界での知名度が低いんですよね。でも岡本太郎さんみたいに哲学的な考え方にアーティストとして正面からぶつかっている人って実はあまりいないので、その魅力・すごさを世界に知ってほしいなと思います。そして日本の芸術も捨てたもんじゃないぞ!って伝えたいです。 また、岡本太郎さんの太陽の塔を超える創作をしたいと思っています。岡本太郎さんが不在の世の中で今こそ、岡本太郎さんの代わりになる人達の存在が必要じゃないかと思うんです。そのためのアイディアを今は色々インプットしているという状況ですね。   ―作品を作るだけではなく、発信して、さらに繋がりも増やすということを続けて、ムーブメントを作っていかれるんですね。 はい。日本人のアーティスト無しに世界のアートマーケットが成り立っている所が現状では正直あります。なので、日本のアーティストもいいんだぞ!という所をしっかりPRしていきたいし、他のアーティストにとっても意味のあるムーブメントを起こしていきたいと思っています。 最近は2020年とか2025年に向けて何かやりたいっていう人がたくさんいるので、そんな人たちとうまく繋がってコラボレーションしながら徐々に熱を高めていって日本のアート世界を盛り上げていきたいなと思っています。 <取材:西村創一朗、文:松本かれん、写真・デザイン:矢野拓実>

「monopoに出会ったから日本にいる」ー 若きクリエイターが語るmonopoというコミュニティと夢

monopoについて 東京を拠点のグローバルクリエーティブエージェンシーとして、国内外の様々なブランドにサービスを展開。"A BRAND OF COLLECTIVE CREATIVITY”をビジョンに掲げ、ブランディング・広告・PRを中心に様々な領域において、個人が持つアイデアや創造性を共に発揮できるようなコミュニティ作りを目指している。 2019年、ロンドンに子会社monopo London.Ltdを設立。自社プロジェクト『poweredby.tokyo』では、東京の知られざる魅力を世界に発信中。 Clara Blanc -プロジェクトマネージャー 1994年、フランス生まれ。 大学在学中より、モデル・フォトグラファーとして活動しながら、ラグジュアリーブランドにて広告・ブランディングのプロジェクトマネージメントに従事。自身が運営するブログ「Parisienne in Tokyo」を通して、フランス人目線で日本カルチャーを発信している。2019年、monopoに入社。ファッション・ライフスタイルブランドのブランド戦略・広告企画の仕事を行なっている。 Sumie Newell -デザイナー / イラストレーター 1997年、日本生まれ。 日本とアメリカのハーフとして生まれ、幼少期から日米両方で生活する。 高校卒業後、カリフォルニアの大学を休学しながら18か国を周るバックパックを経験。 世界を渡り歩くなかで、様々なデザインインターンシップを通しスキルを磨き、日本に帰国。 2019年、monopoに入社。持ち前のアートスキルと多国籍な感覚を強みとして様々なブランドのアートディレクション・広告制作などに従事。 「tokyo creative agency」と検索すれば、最上位に出てくるのは、優秀なクリエイターが集まる「monopo」という日本企業。2019年10月、そこに入社された二人の20代女性がいます。 日本とアメリカで暮らした経験から、多様な価値観を強みとするデザイナーのSumieさん。そして、フランス人でありながら日本が大好きで、ブランディングやディレクションの経験もあるClaraさん。 今回はそんなU-29世代のお二人にお話を伺いました。様々な選択肢がある中で、なぜmonopoという会社を選んだのか。また、それまでにどんな人生を歩み、これからどんな未来を描いているのか。 お二人が語ってくれたのは、monopoという企業の素晴らしいカルチャーと、世界を見据えたワクワクするような熱い夢でした。   ここでなら夢が叶う。入社に迷いはなかった 西村創一朗(以下、西村):お二人がmonopoに入社されるまでの経歴を教えてください。まずは、Sumieさんからお願いします。 Sumie:私は日本生まれで、今年22歳になります。父がアメリカ人なので、10歳からアメリカに引っ越し、4年ほど住んでいました。高校は日本で卒業したものの、大学に行きたくなくて世界中を旅して回ることに。そこで自分の世界の狭さに気付かされました。 西村:その旅では何ヶ国くらい回ったんですか? Sumie:18ヶ国くらいを、バックパック一つで回りました。ルーマニアから始まって最後はタイで終わり、再び日本に帰ってきたんです。帰国後、インターンができる企業を探していて、monopoに出会いました。 西村:なるほど。では次は、Claraさんの経歴を教えてください。 Clara:フランス出身の25歳です。日本に滞在するのは今回が3回目。最初は2015年に交換留学で1年間滞在し、2017年には日本のファッションブランドでインターンをしていました。今回は1ヶ月前から日本に滞在していて、monopoに入社しました。 西村:お二人がmonopoを知るキッカケは何だったんでしょう? Sumie:東京でデザイン関係のインターンシップができる企業を探していたところ、monopoが運営しているpoweredby.tokyoにすっかり魅せられてしまって。「こういうものをインハウスプロジェクトとしてやっているエージェンシーって素敵だな」と思ったんです。実は、その時はまだmonopoがどういう企業なのかもよく知らないまま応募しました。 西村:poweredby.tokyoはもともと知っていたんですか? Sumie:いえ、知りませんでした。インターネットで「東京 クリエイティブエージェンシー」と検索して、monopoに辿り着いたんです。 西村:そうだったんですね。Claraさんはどうでした? Clara:私の場合は、友人とmonopo nightというイベントに参加したのがキッカケです。そこでmonopoの雰囲気を知って「すごい会社だなぁ」と。それからmonopoが今までに作った作品などを調べました。国際的な社風でありつつも日本の心を持っている企業だなと感じ、すごく私に合っていると思ったんです。 大学を卒業したら絶対日本に戻りたいと思っていましたし、私は広告を作るようなクリエイティブな仕事をしたかったので、monopoなら私の夢も叶うな、と。 西村:なるほど。Sumieさんは、いろんな選択肢がある中で偶然monopoに出会い、poweredby.tokyoに魅力を感じて……とのことでしたが、他にもたくさん選択肢がある中で悩むことはなかったんでしょうか? Sumie:私はあまり悩みませんでした。世界を旅していた際に思ったのは、多様性のある環境で働きたいということ。そしてmonopoの面接でみなさんと一緒にランチを食べたとき、いろんな国のいろんな人種の方々が集まっていて、みなさん自分の好きなことに没頭しているということが感じられたんです。そういう企業がmonopoしかなかったので、迷いはなかったですね。いつもバックパッカーのような素の自分でいられる職場を探そうと思っていたので。 西村:毎日がバックパッカー。 Sumie:そうです。実際、刺激はめちゃめちゃありますね。学ぶことも多いですし、楽しいです。父がアメリカ人であることや、アメリカで生活した経験もあったので、このような多国籍な企業を見つけられてすごく嬉しかった。 西村:ちなみにmonopoにはどんな国籍の方がいらっしゃるんですか? Sumie:フランス人が多いですね。あとは、南アフリカやカナダ、アメリカ、ドイツの人もいます。日本人が半分くらいいるのですが、グローバルな人が半数もいる企業って、日本ではなかなかないですよね。 西村:それはmonopoのいいところだと思いますね。ですが、アメリカに暮らしていた経験をお持ちなのに、日本で働こうと思った理由は何でしょうか? Sumie:monopoに出会えたからですね。実は、昔から日本に対して「閉ざされた国」というイメージを持っていました。だからこそ世界を旅しようと思ったわけですし。もしmonopoに出会っていなかったら、海外に引っ越して就職していたと思います(笑)こういう環境の会社ってあまりないので、貴重です。   monopoは「会社というよりコミュニティ」 西村:働く環境としてのmonopoはどうですか? Sumie:最高です。やっぱりクリエイティブなお仕事なので、残業もあるし忙しいんですが、忙しさも含めてやりがいがあるなと感じています。とはいえ、仕事中の9割くらいは楽しいと感じています(笑) 西村:いいですね。Claraさんはどうですか? Clara:私も最高です。フランスから見ると、日本の企業は休みが少ないなどけっこうハードな環境なんですが、monopoはそんなフランスの企業より優しいですね。日本でこういう会社があるなんて、信じられないくらい。 例えばフレックス制度があるので、みんながそれぞれ自分のリズムに合わせて仕事ができていいなと感じます。また、他の会社だと担当させてもらえる業務も一つに限られると思うのですが、monopoではやりたい仕事をいろいろとやらせてもらえるのもいいところです。 Sumie:他にも、業務時間内に日本人が英語の授業を受けることができたり、逆に英語しか喋れない人は日本語の授業を受けることができたりするんです。それも、会社の経費で。 西村:へえ、それはすごい。 Clara:monopoでは、「一緒に仕事をする」というより、「一緒にmonopo人(じん)を育てる」という雰囲気があって。仕事以外の自分のプロジェクトも周囲の人がサポートしてくれたり、すごくいい環境ですね。会社というよりはコミュニティといった感じです。 西村:Sumieさんもそのように感じますか? Sumie:はい。いい意味で厳しくないというか。自分で自分のペースを決めることができるんです。だからこそ自分で育つことができる、そういうコミュニティだと思います。 西村:どんな時にコミュニティだと感じていますか? Sumie:まず、みんな仲がいい!めちゃめちゃ話しやすいし、先輩後輩もあまり関係なく学べる感じです。ギクシャクせず、気軽に話しかけられる感じなのがとても大きい。日本の会社だとそういう雰囲気ってあまりないと思うんです。だからこそコミュニティだと感じます。 Clara:例えば周りの人の手が空いていないときでも、私が自分のプロジェクトで悩むポイントがあったら、その部分だけ手伝ってもらえたり、逆に他の人の困りごとがあれば私もそのお手伝いをする。コミュニティの中でのsolidarity(=結束、連携)がすごく強いんですよね。 Sumie:チームメイトって感じですね。 Clara:普段はみんな自分のペースで仕事をしているんですが、一緒に話せる時間もちゃんと決めてあります。合宿もあるんですよ。 西村:合宿があるんですね!どんな感じでしたか? Clara:3日間のうち一泊がキャンプだったんですが、ケータリングがあったりバーテンダーがいたりして驚きました(笑)私は入社前に参加させてもらったんですが、この合宿で入社前に社員の方々とすごく仲良くなれたので良かったです。monopoって最高だなと思いました。 西村:それは楽しそう! Clara:monopoの中のコミュニティが魅力的なだけでなく、monopoの周りのコミュニティがすごく広いのもいいところだと感じます。 Sumie:月に一度開催されているmonopo nightも、世界中のクリエイティブコミュニティをローカライズする、東京に集める、という意図があります。 Clara:monopoは日本の会社ですし、日本のことをすごく理解していて日本文化のいいところもたくさん取り入れられているんですが、海外に対する意識もちゃんとあって。日本と海外との言葉の壁を越えて繋ぐ「架け橋」としての役割を担っていると思います。   自分のやりたい仕事が入社1ヶ月で実現 西村:ここまでmonopoの環境やカルチャーについてお伺いしたんですが、お二人が今どんなお仕事をされているのか、お聞きしたいです。Sumieさんはデザイナーをされていると思うのですが。 Sumie:最近は、ある企業の新製品のキービジュアルを作ったり、ソーシャルコンテンツを作ったりしています。私はイラストレーターでもあるので、企画の絵コンテを描いて提案することもあります。 西村:素晴らしいですね。Claraさんはどういった仕事をされているんですか? Clara:基本的にはプロジェクトマネージャーなんですが、今はファッション企業のクリスマスのキャンペーンを作っています。 西村:作る、というのは? Clara:コンペのためのピッチコンセプトを考えて発表し、実際にそのコンセプトを実現させるところまでやっています。そのキャンペーンのコンペは、monopoのメンバーとチームを組んで勝つことができたので、これからカメラマンさんとも協力して撮影を進めていく予定です。 私はファッションやコスメに関する広告の仕事をやりたいとずっと思っていたので、入社して一ヶ月で、こうして自分がやりたい仕事を実現させることができて幸せです。 西村:普通、入社して一ヶ月って辛いことが多かったり仕事が大変だったり、また逆に研修ばかりで仕事を任せてもらえないということもあると思うんですけど、お二人ともすぐ戦力になっていて、しかも仕事を楽しまれていて、すごく素敵だなと感じます。 Clara:こういう仕事をしたくてmonopoを選んだわけですし、仕事にはしっかり責任を持ちたいと思っています!   「チャレンジ」と「成長」ー 20代の二人が抱く夢 西村:monopoとの出会いのお話の中で「私の夢」という言葉が出てきましたが、クララさんの夢はどういったものなんでしょう? Clara:私にとっては、チャレンジしているときが人生でいちばん楽しいんです。アーティストさんと一緒に働くようなお仕事も、インスピレーションがすごく湧くしモチベーションも高いんですけど、アートのためだけだと、私にとってのチャレンジがあまりないように感じてしまって。それよりは、商品やそのブランドをうまく見せるために、いかにアーティストさんの才能を上手く使うかという戦略を考えるほうが楽しいです。 だから、今はクリエイティブディレクターを目指しています。 西村:なるほど、それで今はプロジェクトマネージャーをされているんですね。Sumieさんはいかがですか? Sumie:私はそんなに野心が強いほうではないんですが、第一に考えているのは「幸せになりたい」ということなんです。 西村:それは大切なことですね。 Sumie:そして、好きな人たちと一緒に自分の好きなことをやり続けて、その中で成長していくということが私にとっての幸せだと思っているので、そういう環境を見つけることが私の夢ですね。   monopoと一緒に世界中で活躍するクリエイターへ 西村:最後に、今後なにかチャレンジしたいことがあれば教えてください。 Clara:monopoと一緒に大きいプロジェクトをしたいです。ルイ・ヴィトンなどの仕事をゲットして、日本のマーケットだけでなく、世界中の広告を作りたい。また、趣味で日本についてのブログを書いているので、そのブログを広めて海外の人たちに日本をもっと知ってほしいなと思っています。 西村:素敵ですね。Sumieさんはどうですか? Sumie:私は、monopoのセールスポイントをひとつ増やしたいと思っています。今のmonopoはデジタルエージェンシー、クリエイティブエージェンシーとしてアピールしていますが、私自身イラストが好きなこともあって、イラストもセールスポイントにしたいんです。 今はポートフォリオにもイラスト系の作品が全くないので、そこから改造していって、イラストの仕事も発注してもらえるような状態に変えていきたいですね。 西村:素晴らしい。Sumieさん自身がmonopoのセールスポイントになる、というわけですね。 Sumie:そうですね。私もまだあまりビジネスのことをわかっていない部分もありますけど、そこはmonopoで学べますし、今は自分をどんどん世界中に押し出していきたいと思っています。個人としても、monopoの一員としても。 monopoにアクセス (取材、写真:西村創一朗、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

NEXTユニコーン企業、freeeに新卒0期生としてジョインした今岡柾のキャリア戦略。

様々なキャリアを持つ人たちが集まり、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うU-29 Career Lounge。   今回のゲストは、NEXTユニコーン企業として注目されているスタートアップ、freeeの今岡柾(まさき)さんです。   新卒採用がはじまる前に新卒0期生としてfreeeへ入社し、現在は新規事業開発の責任者として活躍されている今岡さん。なぜ、新卒でベンチャーだったのか? エリート達がぞろぞろと集まる環境の中で、いかにして責任者ポジションを勝ち取ったのか?    その背景にある想い、そしてキャリア戦略を聞きました。 “えげつない金持ち”に囲まれて気づいたこと ー最初に、簡単なプロフィールとfreeeに入社するまでの経歴をお願いします。 1991年生まれで、今年28歳になります。中高はずっとサッカーをやってまして、部長でした。東京都でベスト8くらいまで行ったんですよ。でもそこで燃え尽きて、大学は第一志望に行くことができませんでした(笑)。   ー第一志望はどこだったんですか。 慶応です。浪人することも考えたんですけど、人と違う大学を選んで、人と違う大学生活を送るのもよいなと思って、最終的には首都大学東京に行くことを決めました。 人と違うポジションを取るというのは、僕の中に一貫している姿勢かもしれません。大学在籍中に海外留学をする機会があったのですが、そこでもあえてアメリカやカナダではなく、タイを選びました。東南アジアはこれから成長していくだろうし、なによりタイに留学に行く人って少ないだろうなと思って。 ーチュラロンコーン大学っていう、タイの東大っていわれているところですよね? そうですね。「タイ ナンバーワン ユニバーシティー」ってググって、1番上に出てきたところにアプライしたら、なぜか通って(笑)。大学を1年休学して行きました。 ―タイに留学した経験は、今岡さんにとって大きかった? そうですね。月並みかもしれませんが、「貧富の格差」の大きさを思い知りました。タイは日本より貧しい国です。でも一方で、タイにいる本当の富裕層が、ほんとえげつなかったんですよ。 チュラロンコーン大学って、さっきも言った通りタイで1番いい大学なので、トップ大企業の息子や軍関係者の息子、「ベンツ、自分で10台で持っています」みたいなのがごろごろいる。大学に運転手さん付きの超高級車で通学していたり。 ―それはえげつないですね。 そういう貧富の格差を体験したことで、「機会の不平等をなくしていきたい」と思うようになりました。これは今も人生のテーマとして持っています。僕はこの日本で生まれて、何の不自由もなく暮らしてる。これは本当に恵まれていることなんだなって、タイで実感しました。その幸運を社会に還元したいと思うようになったんです。   オフィス選びからはじまった、福岡支社時代 ―大学卒業後には、新卒0期生としてfreeeに入社されています。きっかけは何だったのでしょうか? もともとは大学院に行こうかとも考えていたんですよ。「機会の不平等」をなくすために、行政系の大学院に入って、もう少し公共政策について自分で勉強してみたいなと思っていました。ビジネスの道に進むのも良いかなと思うようになったきっかけは、freeeのCEO佐々木の話を聞いたことですね。 IVS(Infinity Ventures Summit)というスタートアップのカンファレンスがあります。僕、そこで学生スタッフをやっていたんですよ。そこでたまたま佐々木の講演を聞いた。佐々木はそこで「ビジネスで社会を動かす」という話をしていて、そうか、公共政策だけじゃなく、ビジネスの観点からも社会を動かすことができるんだなと気がついたんです。 ありがたいことにインターンをしてみないかという話を頂いたので、そこから大学行かずに週5でインターンをはじめました。あれよあれよと、新卒で入らないかという話を受けて、じゃぁせっかくなのでということで入社。ですから、面接を受けたことも、合同説明会に参加したことすらもないんです。   ーなるほど。とはいえfreee以外にも、起業などさまざまな選択肢があったかと思います。なぜ最終的にfreeeを選んだのか、ぜひ聞きたいですね。 ありがちですけど、「人・事業・市場環境」の3つで選びました。 人でいうと、freeeはやっぱりGoogleの人が立ち上げた会社なので、役員もGoogleの出身の人が多くて優秀な人が揃っている。話す人、話す人が、みんなすごく面白い、ユニークな人ばかりだったことが大きかったですね。あと、外資系のフラットな組織ですし、人事評価もすごくクリアになっています。頑張ればそれだけ評価されることも魅力に感じました。 事業という面では、自分の持っているテーマと事業内容が一致したことが大きかった。freeeの事業って、非常に公共性が高いんです。中小企業のクラウド化によって日本の経済を活性化したいというビジョンが明確にある。それが、先ほど話した「機会の不平等をなくしたい」という自分の思いと合致したんです。 3つめの市場環境というのは、成長する産業や市場かどうかということです。そういう伸びしろのある環境に自分を置くことによって、結果的に自分の市場価値が上がっていくだろうと考えた。こういった要素から考えて、freeeに行くのが正解だろうなと判断しました。   ーなるほど。実際に入社した当時のfreeeは、どのような雰囲気だったのでしょうか 今でこそ700名規模の会社になっていますが、僕が入社した当時のfreeeはまだ30人ぐらい。すごくカオスな状況でした。どのくらいカオスかっていうと、支社立ち上げを僕に任せるくらいカオスだった。 2016年の9月ごろですかね。「ちょっと福岡に行ってみる?」みたいな感じで上司にいわれて「じゃぁ行ってきます」ってことで福岡に行きました。 ーゼロからの立ち上げですか? はい、もう完全にゼロから1人で。自分でオフィスを選ぶとことからはじめました。天神駅の近くのコワーキングですね。 ーすごいですね。それは入社何年目の頃ですか?  2015年4月に新卒入社しているので、入社1年半の頃、社会人2年目ですね。2年目にコレをやらせるって、結構カオスですよね(笑)。 最初の10ヶ月間は完全に1人、そこから人を採用して、3、4人。立ち上げから1年が経ったころに、もう僕いなくていいかなみたいな感じで東京に戻ってきました。   ―すごい経験を積んでいますね。東京に戻られてからは、どのような業務を担当されているんでしょうか? 今は新規事業開発兼PdM(プロダクトマネージャー)を担当しています。「freee」は会計ソフトなので、ソフトを使ってくださっているユーザーさんが資金繰りに困った時に金融サービスを提供して、彼らのビジネスを良くしていくみたいな事業です。融資とかファクタリングとかっていわれる領域ですね。   コンフォートゾーンを抜け出せ ー大学や留学先の選び方、新卒からのスタートアップ入社など、今岡さんは一貫して人とは違う道を選んできています。これはとても勇気がいることだと思いますが、そういった性格は昔からなのでしょうか? そうですね。結構、個人的な理由なんですけど、僕には4つ上の兄がいまして。彼は財務省の官僚やったりと、見栄えがいいキャリアを歩んでいるわけですよ。そこで僕が彼と同じような道を歩むのは、ちょっと面白くないなと思ったことが影響しているかもしれません。   ー人と違う道を選んで後悔したことってなかったですか? 「やっぱ慶応行っておけばよかったなあ」、みたいな。 学歴コンプレックスはありますけど、学歴に負けないユニークな人生を自分で作ってきたつもりです。 ある特定の分野、例えばロジカルシンキングだったり、コミュケーション力だったり、それこそ学歴だったり、そういったところで人と戦おうとしても、自分より優秀な、絶対勝てない人って5万人、100万人といますよね。 でも多分タイに行った経験があって、タイ人の友達がたくさんいる人とか、僕は今NPOの理事などもやってるんですけど、そういう本職以外の活動経験を持っている人とか。そういう要素を掛け合わせてみると、同じような人ってなかなかいない。あえて人とは違う選択して、「埋もれないようにしよう」と常に考えていましたね。   ーご自身をとても客観視されているんですね。そういった視点は、どうすれば得ることができるのでしょうか? やはり、自分で自分のことをよく知れるタイミングって、外に行ったときなんですよ。タイへ留学行ったときもそうですし、福岡支社に行ったときもそうでした。東京から離れてみて、はじめて自分をよく知ることができた。自分を相対化して見る習慣が身についたかなと思います。   ーコンフォートゾーンを出ることを通じて内省化するのが大事なんですかね。 そうですね。コンフォートゾーンを出るっていうのはおっしゃる通りだと思います。「福岡に行け」って言ってきた上司は、まさにそれを僕に課してきたわけですよ。「お前は今、コンフォートゾーンにいるぞ」って。   彼はGoogleのセールスでトップになって、マネージャーをやった後にfreeeに来た非常に優秀な人。そういうことを言ってくれる人が社内にいるのはすごくありがたかったなと感じています。   スタープレイヤーたちと戦うための「ジョーカー」 ー今はもうfreeeで5年目ですよね。3年目から5年目は、キャリアやライフステージについて考え出す時期かと思います。転職などを考えたことはありましたか。   ありましたね。5年目がはじまったくらいの時ですかね。30人規模の頃に新卒0期生として入社してから、500~600人規模になるまで、僕にはそれなりに成果を出してきたという自負がありました。でも、役職的になかなか上に行けなかったんです。   会社の規模が拡大していくとともに、30、40代の超優秀な人たちが外から入ってくる。IT業界のトッププレイヤーみたいな人たちが、僕の上にマネージャーとして入ってくるんです。正直、彼らには勝てません。もちろん、僕自身はすごい刺激になるし成長させてもらってるんですけど、いざ自分のキャリアを改めて振り返ってみると、本当にこれでいいのかなって。たとえば転職するにしても、「人を率いた経験はありますか」といわれたら、自分にはそれがないんですよ。   ―伸びているベンチャーゆえのジレンマですね。   そうですね。なので、自分の裁量が持てる、もう少し小さいスタートアップに行こうかなと考えたりしていました。でも結果的には、違う事業部に異動させてもらって、本当にド新規の事業開発を任せてもらえるようになったので、今はリーダーシップを持って仕事が出来ています。 ー外部から優秀なスタープレイヤーたちが集まっている中、「ぜひ今岡くんに任せたい」と思ってもらえた理由は何だったんですか。 「金融事業部に行って事業開発やりたいです」というふうに明確にポジションを言ったことも大きかったのではないでしょうか。   もちろん、言い方は悪いですけど、普段から根回しみたいなことはしていました。金融系をやりたいという思いはずっとあったので、金融事業部の人に積極的に話を聞きに行ったりはしていましたし、誰がどういう悩みを抱えていて、どういう事業があるのかなど、普段から好奇心に従っていろんな人に話を聞きに行っていた。その結果として、説得力のある交渉ができたのかなと思っています。   ーなるほど。最後に今後の展望、今後のキャリアのイメージみたいなものがあればお聞かせください。 どうしましょうかね。将来的にはアジアに行きたいと思っています。転職や起業など、方法は色々と考えられますが、「機会の不平等をなくす」というテーマのもとに、アジアでテクノロジーを使ってやっていきたいですね。 30歳手前ぐらいまでに東南アジアに拠点を構えて、30代後半ぐらいから社会的インパクトを打ち出すために動いていきたい。今はそこに向けて、準備していきたいなと思っています。  

「挑戦をやめたら俺じゃない」中村義之が決断してきた“自分らしくいる”ための選択

26歳のとき、DeNAから分社化したみんなのウェディング取締役に就任し、29歳でマザーズ上場を果たすも、その後体調不良により退任。1年半の療養を経て、福岡への移住・転職支援を行うYOUTURNを創業。 まさにジェットコースターのような経歴。今回は激動の20代を過ごされた、株式会社YOUTURN代表取締役の中村義之さんにお話を伺いました。  意志のある選択をし続けている中村さんは、岐路に立ったとき、どのように考えて決断してきたのか。悩めるU29世代へのヒントとして、中村さんのこれまでの選択と信念を紐解いていきます。 妥協が嫌い。やりたいことをやりたかった ― 新卒でDeNAに入られたのは何年でしたっけ? 中村義之(以下、中村):2008年入社ですね。大学在学中から、将来起業したいと思っていて、Eコマースの会社で1年半くらいインターンしていたんです。ネットだと色々数字を取りながらPDCA回せますし、商売のキホンのキはものを売ることだと思っていたので。 就活のときは、インターンでやった経験を生かして働ける会社、かつ、すぐに起業ってイメージは持てなかったから、新規事業を若手に任せてくれる会社に行きたいと思っていましたね。ある意味、起業の疑似体験をしたいというか。 この二軸で考えたとき、これはDeNAだな、とピンときて。 ― もう一択だったんですか? 中村:一択でしたね。DeNAしか受けてないです。面接のときって「他にどこ受けてんの?」って訊かれるじゃないですか。そのときに「いや、御社だけです」って。 「いやいや…。え、本当に?」と言われたけど、僕としては「行きたい会社に行けないのなら進学や留学を選ぶし、行きたくないところに行くつもりはない」と思っていました。 ― 意志の強さがすごいですね…。決断の仕方は小さい頃から同じなんですか?  中村:そうですね。次善の策が嫌いというか、妥協が嫌いというか。やりたいことをやるのが一番良いと思っているから。大学もそうなんですよ。筑波大学の自分の学部しか受けていない。  あとは、意識的に周りと違う行動をとっていますね。高校の同級生が地元に残るなか筑波大学を選択したり、大学の同級生が大企業に就職するなかネットベンチャーを選んだり。進路を選択するときに「親が言うから」って人いるじゃないですか。そういう話聞くと、「いや、お前の人生を生きろよ」って思っちゃう。 「自分が選んだ選択を正解にする」覚悟を決めた夢への挑戦 ― DeNAではどういうお仕事をやられていたんですか?  中村:入社して2年間はEコマースの事業部で働かせてもらって、3年目に新規事業部の配属になりましたね。最初はEC経験を活かしながら働かせて欲しい、そこで実績や経験を積めたら、新規事業部の部署に配属して欲しい、と入社当初から言っていたんですよ。  ― まさに希望通り。新規事業に挑戦する機会を得られた理由はなんだったんでしょう?  中村:言い続けていたからかもしれませんね。DeNAには当時、半期に1回、自分のキャリア希望を書くシートがあったんです。そこに色々書いていましたね。海外事業部も出来たばかりだったので、海外行きたい、新規事業やりたい、と毎回書いていました。 実を言うと、僕は同期の中でそれほど結果を出していたわけではないんです。営業は2年間やっていましたけど、MVPとかとったことないし。表彰されて「アイツは優秀だ」と言われているやつが沢山いたなかで、自分が挑戦のチャンスをもらえるって本当にラッキーだなって。 ― そして新規事業部に配属されて、みんなのウェディングの事業に参加。26歳のときに分社化して、取締役として参加したんですよね。 中村:分社化が発表されたとき、DeNAにもたくさん子会社があったので「あ、これからは子会社に出向する形になるんだ」と思っていたら、「子会社でもグループでもなく、完全に独立した会社になる。だから、ジョインするとしたらDeNAを辞めて行ってもらうことになる」と言われたんですよ。 DeNAは大好きだったし、こんなに成長出来る会社はないなと思っていたので、辞めるという選択は一度も考えたことがなかったんです。でも、みんなのウェディングもとても楽しかった。「あ、両方取れねえんだ」と思いましたね。 それで1日考えたんですけど、元々起業したかったし、独立してVCから出資受けてIPOを目指すスキームだったので、このチャンスに挑戦しない手はないだろうって。宝くじ当たるよりも確率低いんじゃないかって思ったんですよね。 そして、翌日に「辞めます」と決断して、みんなのウェディングの設立に取締役として参加したんです。 ー 迷いはなかったんですか? 中村:なかったですね。みんなのウェディングって口コミサイトだったんですよ。当時、口コミサイトってユーザーの支持はあるけどビジネスとしては儲からないって言われていて、同期の数人からも「絶対上場とか出来ないからやめとけ」って言われたりもしたんですけど。  でも「いや俺好きだからやってるしさ」と思って。どんな選択にも正解ってないじゃないですか。だったら、自分が選んだ選択を正解にする。「俺はそういうスタンスでいくよ」と思って、選んだ決断でしたね。 挑戦は順調だった。だからこそ潰れてしまった ー 26歳で取締役になって、29歳のときにみんなのウェディングが上場。ジェットコースターのような3年間で、重圧に押し潰されずに結果を出し続けられたのは何が要因だったと思いますか?  中村:一番は「こんなに成長出来る機会って他にないよな」と、超楽しんでやっていたことだと思います。 色んな課題がどんどん変わってくるんですよ。社内の人間関係の問題はもちろんだし、競合が想定しなかった戦略を打ち出してきたとき、どう対抗するか考えるのもそうだし。局面局面でこれまでやったことがない領域の知識を得ていかなきゃいけない、って状況は面白かったですね。手探り状態だからとんでもない間違いをすることもあったけど、だからこそ想定してないようなフィードバックが返ってくることもあった。 ー 常に手探り状態の中で一番大変なことって何だったんです? 中村:一番は、自分たちで設定したストレッチな目標だったので、それをどう達成するかでしたね。まさにムーンショット。走りながら考えて、ダメだったら別の方法を考える。 大変でしたけど、目標も毎年達成して、当時の株主の方から「こんなに計画達成するベンチャーないよ」と言ってもらえたんです。最初はビクビクやっていたけど、むしろワクワク、どう乗り切るか考えるようになったからかもしれませんね。プレッシャーがありつつも超楽しんでやっていました。 ー そして、2014年にIPOした後、10月末に体調を崩して退任なさったんですよね。何かきっかけとかはあったんでしょうか? 中村:きっかけというよりは、リスクとかプレッシャーに対して麻痺していたんだと思います。「まだまだいける!もっと来い!」みたいに。 あとは、組織の拡大に伴ってアンコントローラブルな領域が増えていったことですね。IPO前までは、目標に対して下振れしても、顔が見える株主の方々に頭を下げればよかったんです。 でも、上場したら、目に見えない匿名の株主の方が何人もいるんですね。加えて、クライアントの数は増えますし、打たなきゃいけない戦略は高度なものになりますし、自分がやらないといけない明確な限度が分からなくなってきた。  「俺がここまでやんなきゃいけない」って限度が広がってしまって、結果、睡眠時間を削って何とか回していたんです。 ー 1日何時間くらい寝ていたんですか? 中村:病気になったな、と思ったときは1,2時間睡眠を1か月続けていましたね。上場の前の正念場を同じ1時間睡眠で乗り越えた経験があったから、俺は大丈夫、この働き方で難局を凌げるはずだと言い聞かせていました。 でも、当たり前ですけど、上場した後のプレッシャーって桁違いなので、そこで潰れましたね。 気付いたら、頭痛と吐き気と体の震えが止まらなくて。パソコンを開くだけで症状が出るようになってしまった。そんな状態になって「あぁこれはもうダメだ」と思って退任させてもらったんです。 挑戦をやめたら俺じゃない。再び、自分らしくいるために ー 取締役をご退任してから延べ1年半の療養期間、回復のきっかけとかあったんですか? 中村:具体的なきっかけはないんですけど、療養中、リハビリも兼ねて色んな所に旅行したんですよ。海外含めて、夫婦で様々出掛けていました。 ある地域を旅行しているとき、ふとフラッシュバックしてきたんです。楽しく働いていたときの思い出が。 病気になってからは、仕事って辛いもの、キツイものとしか捉えていなかったのに、「あぁ、俺って仕事好きだったなぁ。またやりてえなぁ」って急に思って、涙が止まらなくなったことがあったんです。それが精神的に回復した瞬間だったと思います。 ー そこから、どのようにYOUTURNの起業まで至ったんですか? 中村:精神的に回復して今後の人生を考えたとき、ここでチャレンジを諦めてしまったら俺じゃないなって思ったんです。骨壺入るとき絶対後悔するだろって。次もやっぱり挑戦し続けたかったんですよね。 だけど、もう病気にはなりたくない。チャレンジとQOLが両立するやり方ってなんだろうと考えた結果、自分のバランスがとれる環境の良いとこでやるってことなんじゃないか、って思ったんです。 旅行中も沖縄とか北海道で「こんな環境が良いところで仕事できたら最高だな」と思っていましたし。本来、インターネットって場所も関係ないですしね。 ー 東京じゃなくても仕事出来るじゃんって。 中村:そう。じゃあどこが良いかな、と考えていたときに地元の福岡があったんですよ。あ、地元があるじゃん!って。 この選択が良いか悪いかは分からなかったんですけど、根拠のないやりたい気持ちが膨れ上がったんです。直感的に面白いことになりそうって思って。 ー 何で地方だったんでしょうか? 中村:ここでも天の邪鬼なところが出たんでしょうね。金太郎飴にはなりたくない、ユニークな存在やオリジナリティのあるポジションを取りたい、という想いが根底にあるんだと思います。 東京ってスタートアップの雛形があるじゃないですか。プロダクトを作って資金調達すれば誰でも出来そうで、コモディティ化している。だったら違う軸で、東京じゃないところで面白いベンチャーを作れたら面白いんじゃないか、と。根拠なんてまったくなく、ただ自分がワクワクしたんです。 ー ここでも自分の意志を信じての選択だったんですね。 中村:さて、どこで起業するかは決まった、次はどの領域で起業するかを決めないと、と福岡で既に起業していたり、支援している人達から情報収集していたんです。そしたら、みんな採用に課題を抱えていたんですよ。「福岡はすごく起業しやすくなったけど、人がいない」って。 本当にみんな同じことを言っていたので、自分が起業して全く同じ課題に直面するんだったら、俺がこれ解決しよう!と思ったのがYOUTURNを起業したきっかけでしたね。今もまだまだこれからの会社ですけど、行政の方を初め、色んな方に「いいね!」と応援してもらえているのは嬉しいです。  『自分らしくいることは成長にも繋がる』悩めるU29読者へのメッセージ ー 中村さんは、人生において逆張りとも言えるような選択をしていますし、YOUTURNさんとしても地方へのUターンIターンなど、逆張りに思える選択を提案していますよね。そんな中村さんから20代の方々にメッセージを送るとしたら、どんなことを伝えますか? 中村:「人と比較しなくて済む生き方を選ぼう」ってことですかね。自分がニッチな逆張りの選択をしてきたのは「相対的な自己として社会にありたくない」って思っていたからなんですよ。人と比較する軸でキャリアを選んじゃうと、いつまでたってもハッピーじゃないと思うんです。上には上がいるし、他人の芝はいつまでたっても青いし。そういう人生って、あんまり面白くない。 ー 比較が必要なときもありますけど、疲れちゃいますしね。 中村:局地戦では必要だけど、大局観としては「人と比較しなかったとしても、自分自身はどうありたいんだ」を考えて欲しいです。 僕はその1つの選択として、福岡での起業を選んだんです。人と比較されないユニークなポジションを取っていくことって、結局生き抜いていく上での勝ち筋なんじゃないかって気もしますしね。 ー オリジナリティを自ら作っていくってことですね。 中村:その領域で自分しか知らないことが増えるから、結局ビジネスの引き合いも来るし、結果的にチャンスをもらえて成長機会になるんだと思います。 そういう意味でも、これからの時代、用意された環境でしか成長できない人って厳しくなってきます。だからこそ、自分の意志が大事になる。そのためにも、「自分らしくいるには、どういう環境に身を置いたら良いのか」を考えて欲しいですね。 (取材:西村創一朗、写真:鵜ノ澤直美、文:安久都智史、デザイン:矢野拓実)

入社3年目で編集長へ大抜擢。キャリアを掴み取るマイルールは「宣言すること」

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第6回目のゲストは、東洋経済新報社で「業界地図」の副編集長を務める中山一貴さんです。 東京外国語大学で中国語を専攻し、その知識を現在の仕事に活かして活躍されている一方、「志望していた大学に行けなかった」というコンプレックスもあったという中山さん。 しかし、そのコンプレックスをバネに第一希望の企業へ入社。記者という望んでいた仕事を経て、入社3年目で「業界地図」の編集長に抜擢されるという輝かしいキャリアを歩まれています。 これから就職を考えている学生や、激務と言われる業界で働くU-29世代向けに、エールや指針となるようなお話をたっぷり伺ってきました。   挫折を経験し、中国語にのめり込んだ大学時代 ー 中山さんのブログを拝見したところ、本当は東京大学の文科三類に行きたかったけれど合格できずに東京外国語大学に行かれた……ということを書かれていました。なぜ東京大学の文科三類を目指していたんでしょうか? 私には、中学生くらいから「国連で働きたい、英語が好きだから英語を使った仕事がしたい」という思いがありました。そこからひたすら英語の勉強をして、高校2〜3年生の頃に「もっと幅広く勉強してみたい」と考えるようになり、東京大学の教養学部を目指したんです。 ところが、前期試験はボロボロ。浪人も考えましたが、飽きっぽい性格だから一年も続かないだろうなと思い、後期試験を受けられるところを探しました。そこで東京外国語大学という大学があることを知り、受験したという流れですね。 ー 第一志望の大学に行けなかったというコンプレックスはありましたか? もうめちゃくちゃ大きかったですね(笑)大学一年のはじめの半年くらいは、友人たちと集まっても、経済学部や法学部に進学して自分のやりたかったことを勉強しているという話を聞いては落ち込む日々。外国語は好きでしたが、どちらかというと英語が好きだったわけで、大学に入って中国語を毎日やらなければいけないという状況に嫌気が差したんです。 ー その辛さを乗り越えられたキッカケは? 大学の中に、中国の友人ができたことです。中国語のいい教材を教えてもらったり、彼と会話をしていくうちに「中国人の考え方って面白いな」と思うようになって。もし自分がもっと中国語を使えたら、心を開いてもらえるんだろうなと思い、中国語の勉強を頑張るようになりました。 ー 日中交流サークルも立ち上げて活動されていましたよね。 ちょうど大学一年の秋頃に、学科の先輩が「北京外国語大学との交流プラットフォームを作ろう」と声を掛けてくださり、京英会というサークルを一緒に立ち上げました。 活動のメインは、10人くらいの中国人を東京に連れてきて、逆に私たち日本人も中国に一週間行くという交流イベント。ただ、このイベントにはお金がかかるため、企業や基金の協賛がないと成り立たないということで、いろんな会社に「何とか10万円お願いします」などと電話を掛けて営業していました。 ー 当時はまだ、今ほど中国への注目度は高くなかったでしょうから、協賛を集めるのは大変だったんじゃないですか? かなり大変でしたね。日中関係があまり良くなかったというのもありますし、そもそも出来立ての団体で実績がないので、企業もなかなか受けてくれません。しかし、もともと中国に関心のあった経営者の方が「仕方ないな」と半分同情でお金を出してくれるようになり、そこから何とか集まり始めたという感じです。 ー 京英会の活動を通じて、もともと全く興味がなかった中国、中国語にのめり込んでいった……という感じでしょうか。 そうなんです!やればやるほど楽しくて、大学二年が終わる頃には「休学して中国に留学しよう」と考えるようになりました。中国語もだいぶ好きになっていましたね。 ー 本当に何がキッカケになるかわからないですね。 中国の友人ができたり、京英会を始めたりしていなかったら、大学の授業も出ないでぷらぷらしていたかもしれません。本当に大学一年のときに良い縁に恵まれたなと思いますね。   メディアと現実の温度差を感じ、経済誌の記者へ ー サークル活動をされる中で、大学三年生のときにはどのような就職活動をされていたんですか? 就職活動の時点で、記者になりたいと考えていました。新聞やテレビ業界も考えましたが、規模が大きいゆえに、自分のやりたいことを実現させるまで時間がかかってしまうだろうと思ったので、もう少し規模の小さい出版社を探したんです。本屋に行って雑誌を読み比べたり、実際に先輩方にお会いしたりして、最終的にしっくりきたのが東洋経済でした。 ー そもそも、どうして記者になろうと思ったんですか? 2012年に中国へ留学したのですが、当時は尖閣諸島のことで反日デモが起こり、メディアでは両国がお互いに叩き合うような報道が多く見受けられました。私も実際、日本大使館のほうへ歩いていたらちょうどデモに遭遇し、”怒りの卵”というものを大使館に投げ込む中国人を目の当たりにしたんです。 しかし、中にはニヤニヤと笑いながら参加している中国人もいて、必ずしもみんな日本が嫌いでやっているわけじゃないんだなと感じました。中国での生活も、日本人だからといって苦労することはありませんでしたし、メディアと現実には温度差があるな、と。 その頃、私はすでに中国がかなり好きになっていましたし、日本のことももちろん好きで、文章やブログを書くことも好きだったので、「記者やジャーナリストになって日中関係に貢献できたらいいな」と思ったのが、記者を志す最初のキッカケでした。 ー それで記者という仕事を選ばれたんですね。しかし門戸の狭い第一志望の会社に受かるというのは、並大抵のことではないと思います。内定を勝ち得るために意識していたことや行動していたことありましたか? ひたすら情報収集ですね。OBOG訪問をしたり、企業のホームページを見たりと、最低限自分で調べられることは調べていました。そして、役員面接で「こいつを働かせてみよう」と思わせるよう、面接でいかに円滑にコミュニケーションとるかということに重点を置いていました。 ー 入社されてから、東洋経済での新人時代にはどんなお仕事をされていたんですか? 新人時代は、食品やお酒のメーカー、小売の業界担当をしていました。各企業を回って、決算や業績についての取材をしたり、社長が変わったときには新社長の抱負を聞いたりといった取材をし、いろんな媒体に記事を書くという仕事です。 ー 記者というのは、何を持って評価されるものなんでしょう? それは会社としても課題ではあるんですが、ひとつは記事の本数ですね。ノルマではないものの、目安にはなるかな。あと、大きなニュースや業界の変化が起こった際に、いいタイミングで記事をかけているかという点でも評価されます。記事の内容については評価軸がバラバラで、明確な基準がないので難しいです。 ー 紙の媒体だとPV(ページビュー)も見えないから、数字で測るのは難しいですよね。 たとえオンラインの記事であっても、たとえば食品業界や小売というのは読者の関心が高く、記事が面白くなくてもけっこう読まれてしまいます。しかし半導体や電子部品などの業界は、一般の読者からすると縁遠く感じられ、どんなに面白い記事でも読まれにくいという性質があります。記事を一律に比較するのは難しいですね。 ー 中山さんからの目から見て、優秀な記者とそうでない記者というのは何が違うものなんですか? 細かいところにどれだけこだわっているか、という点ですかね。固有名詞の間違いや事実関係のズレなど、心がけ次第で防げるミスってかなり多いんです。そこに気を遣えるかどうかは、優秀かそうでないかを大きく分けてる気がします。   「宣言してチャンスを呼び込む」入社3年目で雑誌の編集長へ ー 記者として入社され、第2ステップとして業界地図の編集長になられた中山さん。入社3年目で編集長に抜擢されたのは、どんな会社の意図があったのでしょうか? 就活生向けの雑誌だから若手にやらせよう、という意図はあったと思います。あとは、年に一度しか出さない媒体なので、他の雑誌の編集長と比べたら負担が軽いというのもありますね。もともと30代から40代前半の方達が編集長をやっている雑誌で、若手の登竜門でもありました。 ー その中でも26歳の編集長というのは、異例だったんじゃないですか? 当時はそうでした。まだ記者として働いて一年くらいで、編集の仕事も担当していなかったので驚きましたね。ですが、業界地図では170ほどある業界を全て見ることになるので、今までは違った業界を見られるのはありがたい機会だと感じました。 ー 業界地図の編集長をやってみて、大変だったことや苦しかったことなど、今の糧になっていると感じることはありますか? 業界地図を作るにあたっては、各業界のそれぞれの記者だけでなく、営業さんなど社内の各部署とのコミュニケーションを繰り返して意思決定していかなければならない難しさがありました。さらに、周りの人より私のほうが年下なので、毎回頭を下げ、疑いの目を受けながら、いかに信じて一緒に頑張ってもらうか、というところが大変だったなと感じます。 ー 編集長として記者さんたちの信頼を受けるため、特に意識していたことは? 記者の意見や考えを尊重するコミュニケーションを意識していましたね。まず構成(ページの割り振り)をしっかり記者と擦り合わせる。その上で、実際に原稿が上がってきたら勝手に変えるのではなく、なるべくコミュニケーションをとって改善提案し、記者のモチベーションを維持できるようにと心掛けていました。 ー 敬意を持って、気持ちよく書いてもらえるような関係づくりに腐心されていたんですね。業界地図の編集長を経て、その後『週刊東洋経済』の編集部に移られた中山さん。これもご自身で志願されたんですか? 飲み会の場などで先輩方になんとなく「行きたい」という話はしていました。ですが、明確に希望を出していたわけではありません。 ー 迷いはなかったですか? なかったですね。週刊東洋経済は、基本的に二人の編集者で6週間に一度、40ページほどの特集を作っています。その特集の出来栄えによって売り上げが変わるため責任は大きく、私にできるんだろうかという不安は当然ありました。それでも、やってみたいという好奇心のほうが勝っていたんです。 ー 自分のやりたいことをなかなか口にできない人もいる中で、中山さんはキャリアを宣言して勝ち取ってこられたんですね。 恥知らずなんです。人見知りな部分はあるのですが、恥はかいてもいいと思っています。後でお風呂に入って恥ずかしかったな、と考えればいいかなと。とにかく、思ったことはなるべく言う。 たとえば学生時代に「記者になりたい」と思っていたわけですが、そのときもメールの署名に「2020年までに日本と中国をつなげるフリージャーナリストになる」といったことをずっと書いていました。そこから中国系のイベントの話が舞い込んできたり、「記者になりたいんだよね」と紹介してもらえるようになったり。正直恥ずかしいんですが、やっぱり宣言しておくと機会を呼び込める気がします。 ー そこから念願叶って、今年から中国に関わる仕事をされていることかと思うんですけれど、それも周りに宣言し続けていたんですか? 入社した時に新入社員歓迎の場でスピーチをする機会がありまして、そのときに「中国といえば東洋経済の中山って言われるようになりたいです」って話していましたね。そうすると意外と覚えていらっしゃる方もいたので、言ってみるものだなと思います。 ー 実際のところ、中国に関わるお仕事はいかがですか? やっぱり楽しいです。日本企業の取材ももちろん楽しいんですが、大学で勉強してきた中国語を使えるというのがありがたくて。中国の優秀な方は英語もぺらぺらなんですけど、こちらが中国語で話せば喜んでもらえますし、友達感覚に近い感じで取材できるんですよ。あと、中国では信用がないと取材を受けてもらうこと自体が難しいんですが、仲良くなれればグイグイ中に入れるという面白さもあります。   「腕時計をつけ変える」激務とプライベートを両立させるマイルール ー 記者や編集者って、プライベートがほとんどないイメージがあります。仕事とプライベートの分け方で心がけていることや、激務の中で気をつけていることなどあれば教えてください。 プライベートと仕事の分け方でわかりやすい話をすれば、私は普段、腕時計を左手にするんですけど、オフの日は右手にするようにしています。夜の飲み会も、仕事絡みの会食だったら左手だけど、友人との飲み会だったら右手に変えるなど、意識的に切り替えていますね。 あと、1〜2年目の頃はなかなか有給を取りづらかったり、いつ休めるかわからなかったりするんですが、5年目にもなると繁忙期と閑散期が見えるようになってきたので、あらかじめ休みを確保するようになりました。 体調管理については、ジムに行くのが面倒くさいので、普段からよく歩くようにしています。お酒を飲むのも好きなので、飲んだ帰りは一駅分歩くようにしたり。 ー プライベートでの時間をいかに投資するかで人生の動きは変わると思うのですが、中山さんはプライベートの時間を何に投資されていますか? 学生の頃のように友達と飲み会やカラオケに行ったり、旅行したりもしているんですが、これもひとつの投資になっているかなと思っています。やっぱりリラックスする時間がないと企画するときにアイデアが浮かばないので。 たとえば、私はTwitterが大好きでよく見たりつぶやいたりしているんですけど、家の中にずっといると何もつぶやくことが思い浮かばない。そんなときは、散歩でもいいので外に出たり友人と遊んだりして、頭の中を整理しています。意識的に遊ぶ、外に出るっていうのが、発想やコンテンツにつながるかな、と。 ー 編集の仕事というのは、意識しなければならない対象も多く、気持ちが分散してしまいますよね。ひとりで没入して考える時間も必要だと思うんですが、どのようにバランスを取られていますか? 実は私も同じところで悩んでいて試行錯誤中なんですが、目の前のすぐやる仕事は終わったら消せるよう付箋にシャーペンで書き、少し先にやることはEvernoteに書いておいて締め切りが迫ったら紙の方に移す、などということをやってみています。 時間が明確なものはGoogle Calendarで通知が来るようにして、通知が来ると頑張る。明確な締め切りがない仕事は、どうしても後回しになりがちなので、自分にご褒美をあげながらするようにしてます。 ー そのような様々な工夫は、どこで学ばれているのですか? 明確にこれというのはないのですが、『わたし、定時で帰ります。』というドラマを参考にしていたことはありました。あとは、常に「セルフ働き方改革をしたい、早く帰りたい」という思いからいろんな手段を実践して、良さそうだったら続けてみて、というのを繰り返しています。   いつかは「好き」を仕事にしたい ー 今後のキャリアについては、どうお考えですか? 正直、悩んでいます。今は独身なのですが、仮に結婚して子供ができたときのことを考えると、今の働き方ではいいパパでいられる自信がありません。そのため、結婚や子供ができたタイミングで業界を変えることは考えてはいます。ただ、今のところはもうしばらくこの仕事をやってみようかな、と。 私には夢が2つあって、まずは取材経験を通して得た知識などを学生に還元したいということ。もうひとつは、旅行やご飯、お酒が好きなので、グルメ雑誌や旅行雑誌をやりたいなということです。取材が旅行になる、というのも楽しそうですよね。 ー いい意味での公私混同というか、「Work Life Balance」ではなく「Work As...

「就活の最終面接で説教された」等身大の自分で挑む、学生起業家のトライ&エラー

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。最終回となる第9回目のゲストは学生起業家の晒名駿さんです。 晒名さんは現在、明治大学の4年生でありながら、今年の4月にHUNT BANK株式会社を設立。「探さない 選ぶだけ」の就活/新卒採用における大学生と経営者のマッチングサービス・ハントバンクは、ローンチ3週間で登録者数500名を突破。 学生起業家という、華々しい肩書を持つ彼。さぞかしキラキラした学生生活を謳歌してきたことだろうと思われるかもしれませんが、彼の口からは次々と意外な言葉が。 「アイデンティティもなく、自分の居場所もなかった」 「最終面接にすすんだ10社で怒られた」 挫折も笑って話し、今の自分を飛躍させる材料に。挑戦に怯まない晒名さんの、いままでとこれからのユニークキャリアに迫る。 「起業」という選択肢に出会うまで ―2019年4月にHUNT BANK株式会社を設立し、10月に学生と経営者向けのサービス「ハントバンク」をローンチされた晒名さん。まずはサービスについて教えてください。   ハントバンクは、簡単に言えば就活版マッチングアプリです。毎日お昼の12時に大学生には経営者が、経営者には大学生がランダムに3名ずつレコメンドされます。 お互いが会いたいと思ったら、チャット機能をつかえるようになります。そして面談へ、という流れです。用途は本採用でもインターンでも、好きに使うことが可能です。 学生限定なのですが、就活生に限ってはいないので、1年生から登録可能になっています。また、ゆくゆくは高校生にまで展開していきたいです。 就職、新卒採用における完全無料のプラットフォームを作りたいと思っているので、学生はもちろん経営者の方も完全無料で利用が可能になっています。また、このサービスをマネタイズする予定もいまのところはないですね。広告掲載とかは検討するかもしれませんが。   ―多くのプラットフォームは、採用側(ハントバンクの場合は経営者側)が課金するシステムだと思いますが、なぜ採用側も無料なのでしょうか。 僕が就活をしていたときに、ある面接官の方に、「自分は今、数字で見られているな」という印象を強く与えられたのがきっかけです。 「この人を雇うためには〇万円払う必要があり、この人が入社したら利益がいくらでるだろうな… 」というような計算をされ評価を下された経験が、なんだか居心地が悪くて。お金で学生と企業の関係が揺さぶられて、アンマッチが起きてしまうって、結局もったいないことになるじゃないですか。 綺麗事だ、と言われてしまうかもしれませんが、お金を一旦度外視して、腹割って話し合ってどう付き合っていくか決めてほしいなと思っています。   ー昔から「起業しよう」という思いがあったのでしょうか。 高校生の頃に、経営学に興味をもったのがはじまりでしたね。 僕、未熟児で生まれて、心配した父が、体を強くするためにサッカーを習わせたんです。だけど、中学受験をして入った中高一貫の学校にサッカー部がなくて。 小学校までは、僕は勉強も運動もできて、ちやほやされていて…出木杉くんタイプでした。だけど、わざわざ中学受験して学校に入ったら、個性的で、自分より勉強も運動もできる子たちがたくさんいて、自分の居場所がない、と感じていましたね。 そんなとき、先輩たちの格好良さに惹かれてハンドボール部に入部することにしました。サッカーと違って、手を使うスポーツなので、最初は全然上達しなくて。高校生になってやっとうまくなってきたら、今度はチームマネジメントに興味をもつようになりました。勝つためには、チーム全体を強くする必要がありましたから。 そのときにたまたま流行っていたのが、岩崎夏海さんの「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」で、そこから経営学に興味をもつようになりました。 経営は会社づくりに必要で、その延長で起業という選択肢もでてきました。明治大学には、経営学を学ぶために進学しました。   インターンより、社長体験ができる学生団体へ ―大学では、起業につながるような活動をされていたのですか? ふたつの学生団体に所属していました。ひとつめがアイセック明治大学委員会。アイセックは、日本の学生を海外の企業のインターンに送り出すエージェント団体です。そこで僕は企画と、インターン生のマネジメントを担当していました。 アイセックでは、「自責の念」を勉強しました。他人のせいにはしない、全部の出来事は自分次第、という考えをもつようになりましたね。 ふたつめが、2018年に代表を務めたAGESTOCKです。AGESTOCKは歴史ある学生団体で、「学生の力」を社会に発信するためにイベントなどを行う企画を展開しています。500人ほど所属しているので、AGESTOCKの代表をやれる、ということは、大企業の社長をやることに近いという認識をもっていました。 滅多にない貴重なチャンスだと思い、代表に立候補しました。選挙制だったので、出馬し、選んでもらって代表になりました。   ―500人いる学生団体の代表、というのは苦労も多いかと思いますが、どのようにしてチームをマネジメントしていったのでしょうか? 昔、ハンドボール部に所属し、チームのために自分が場を引き締めねば、と思い動いた結果、チームメイトがひとり辞めてしまいました。その経験から、まずは自分が変わらなきゃいけないと思い、理想のチーム・理想のリーダーについて考えました。 ハンドボール部のときはピラミッド型の頂点にリーダーとしていましたが、そうじゃなくて、ピラミッドの土台にリーダーがなって、全体を底上げすべきだと思いました。また、目立つのも、メンバーのみんなであるべきだと考え、身近な存在として支えられるよう意識して活動しました。   ―1年間の代表経験を通し、成功したと感じていますか? イベント開催に関してですが、成功と失敗、どちらも感じています。動員数と来場者の満足度では成功といっていいかと思いますが、企業との協賛に関してはもっとできたかなと。ただ、最も大事にしていたのが、後輩たちが来年以降も活動を続けていくモチベーションを保つことでした。なので、会場がお客様で埋まる、という景色を見せることができたのは満足しています。 なんだか、ゆるっとした理想を掲げているように思われるかもしれませんが、実は人一倍数字が見える結果にはこだわっていましたね。あたたかいチームを実現するにも、結果が出ていないと意味がないですから。 コアの運営メンバーには毎日、口癖のように「結果を出せ、結果を出せ」と言っていました。言うだけではだめなので、自分がトップセールスになるよう、チケットの販売ランキングでは絶対に僕が1位になろうと奮闘していました。口だけの、ダサい奴にはなりたくないので。 こういった結果に対しての執念や泥臭さが、成功の要因だったのではないかなと思います。   ―限られた学生の時間をインターンという選択に使う人も多いかと思いますが、なぜ晒名さんは学生団体に加わったのでしょうか? たまたまのタイミングで出会ったものって運命だと思っているんです。その時々で自分が納得できる選択ができたなら、それが正解だよなあ、と。深く考えて選んだわけじゃなくて、自然に出会って自然に選んだ、という感じですかね。 あとは、せっかくの学生時代なので、学生にしかできない選択であったのも理由にあるかなと思います。 お金をモチベーションとしないものであったことも自分にとっては意味がありました。チームのビジョンに共感し、ひたすら突っ走るって、社会人でももちろできるとは思うのですが、どうしてもビジネス色が強くなると予想しています。金銭の価値から外れたところでひたむきに頑張れるって、大事な経験だと思います。   2度の就職活動で学んだこと ー就職活動はされたのでしょうか?     はい。学生団体を3年生の12月に引退してから、いろんな経営者の方のアポをとって直接会いに行きました。そのなかで、最初に会った方が、「将来若い人を応援したいから大学生とその経営者がつながるサービスを作っていきたい」と仰っていたんです。学生団体をやっていたこともあり、「僕、大学生とのつながりが多いのですが、それ、僕がやるのどうですか?」と提案しました。そこからハントバンクが生まれました。   ー起業には、就職活動をしたことが大いに影響しているんですね。 そうですね。その後、起業することを前提に就職活動をしました。なので、副業ができるスタートアップやメガベンチャーを中心に30社ほどエントリーし、そのうち20社で最終面接まで進ませていただきました。 ただ、そのうちの10社でめちゃくちゃ叱られまして…。   ー叱られる、というのはどうしてでしょうか?起業を前提にしていたからですか? はい。最終面接で起業することを伝えると「君、うちに入る気ないでしょ。こっちのお金と時間を無駄にしないでくれる?」って。当然ですよね…。なかには、「ビジネスパートナーとして仲良くしていこう」と言ってくださった方もいました。結局、自分から辞退したところもあり、内定は1社ももらえず、一度目の就活は終えました。   ―内定はもらわない状態で、就職活動をストップさせたのには、心境の変化などがあったからでしょうか? お叱りをうけた最終面接で、印象的だったことがありまして。ある面接官が、「就職するってどういうことだか分かる?」と僕に聞いてきたんです。その方は、「就職するっていうことは、どれだけ企業を愛し、どれだけ企業を伸ばしていけるか、この2つを考えるってことなんだよ」と。それまでの面接で、気付けば僕はずっと自分の成長のことばかり口にしていたな、と。 「自分の成長なんてどうでもいいんだよね。就職にはその2つしかないから、君には就職という道はないんじゃない」と言われて。きつい言い方だったので、当時はうまく受け入れられなかったのですが、時間が経つに連れて納得していく自分がいました。 そして、僕はハントバンクという会社を愛して、どれだけ伸ばせるかを考えよう、って、踏ん切りをつけることができました。   ーその後、会社の成長に集中して取り組まれたわけですね。9月から再び就活を再開されたそうですが、なにか変化があってのことでしょうか? ちょうどその時期に会った友人から、就活の相談を受けていたんですよね。その友人に「晒名も、もう一度就活をしてみたら?この時期まで就活をやっている人特有の悩みってあるし、それはいまのサービスに活きるものじゃないかな」と言われました。 確かに、新卒での就職活動は今しかできないことでしたし、自分がサービスを提供するユーザーの気持ちをリアルに体感できるだろうと考えて、9月から10月末までの間、就活を再開しました。   ーそもそも、起業するという道がありながら、就職という選択を捨てきれなかったのはどうしてなんでしょうか? いまいただいている仕事って、自分が大学生であることが大きな強みになっているんですよね。だからこそ、卒業してその肩書が外れた自分になにが残るんだろう、と正直、不安な気持ちがありました。 なので、二度目の就活は専門性をつけることができる企業を選んでいました。自分の武器が欲しかったんですよね。 そんななかで出会った経営者の方に、「専門性って、ときに足枷になるんじゃない?」と言われたのが印象に残っています。 たとえばデザイナーだったら、デザインをするって決まっている。それはそれでいいんだけど、デザインとなにか他のものを掛け合わせて新しい価値を創造することに起業家や経営者の価値があるんじゃないかって。「君がそういう生き方をしたいんだったら、専門性より、日々の目の前にある課題を自分の力で乗り換えていく適応力の方が大事だよ」と伝えられて、腑に落ちました。 いまの自分にとって必要なのはそれだ、と気づき、いまはいただくお仕事のなかで自分ができることを増やせるよう注力しています。なので、就職はもう考えていません。 …ただ、これも出会いのタイミングだと思いますので、本当にビビッとくる出会いがやってきたらまた違う選択をしているかもしれません。一見ブレブレしていそうですが、そういう柔軟さを大切にしています。フットワークの軽さが強みです!(笑)   起業の先に見据えるもの ーハントバンクは今後、どのように展開していく予定でしょうか? いまはアプリを開発しているところで、来年リリース予定です。これはあえて公言しているのですが、最終目的はバイアウトです。国内の大手人材会社に買っていただいて、その会社の理想を持ちながら、ちゃんと世の中に残るサービスを作りたいという思いがあります。 もともと、会社を立ち上げるときに、会社経営のなかでも特にチーム作りを大事にし、自分がお皿になって社員のみなさんを幸せにしたいという思いが強くありました。そこを僕のライフワークにしたいんです。 なので、ハントバンクはひとつの通過点だと思っています。こうやって振り切って、目的地が決まっているからこそスピードと成果を重要視していけていますね。 いいサービスであると自信をもっているので、会社にとっての目的の達成は、そのさきに幸せになる人がいるとも信じています。   ―いずれはハントバンクを手放すということですが、晒名さん自身の今後の展望は? いま、僕は大学4年生で、リアルに就活のことが分かるからこそ、取り組めている部分もあると思うんですよね。3年後、5年後…と年を重ねるごとに、そのときどきの人生における課題は必ずでてくると思うんです。なので今後も、そのときの自分ならではの目線で物事を見て、挑戦し続けられたらいいなと思っています。 ハントバンクはこちら == 執筆・編集:野里のどか(Twitter / ブログ) 取材:西村創一朗 写真:橋本岬 デザイン:矢野拓実

ヘビーユーザーから運用のプロへ。「Wantedlyお兄ちゃん」の原点と未来

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第11回目のゲストは、ディップ株式会社の次世代事業統括部の「Wantedlyお兄ちゃん」として複業でも活躍されている小林宥太さんです。 現在、本業でインターンや新卒・中途採用をメインに仕事をしながら、「Wantedlyお兄ちゃん」の異名を持ち、多いときには10社ものWantedlyアカウントを運用して採用の手助けをしているという小林さん。 なぜWantedly運用にこだわったのか、またこれからどのようなビジョンを描いて複業に取り組んでいるのか。学生時代を振り返ってもらいながら、彼の原点と現在の活動の経緯、そして思い描く未来について伺いました。   神童としてもてはやされた小林さんの学生時代 - 小学生の頃は、開校以来の神童と言われていたそうですね。 僕は全校生徒100人くらいの小さな小学校に通っていたんですが、親の勧めで私立中学の受験をすることにし、無事に合格。周りに中学受験をする人がいなかったこともあって、小学生の頃は神童ともてはやされていたんですよね。 ですが、中学は三重県下の秀才が集まっている環境だったため、成績は真ん中くらいに。自分のことも、「普通の人間なんだな」と感じるようになりました。中学高校時代はアルバイト禁止だったため勉強をするしかなく、友達が少なかったこともあって、つまらない6年間を過ごしました。 - 高校生時代は京都大学を目指していたんですよね? はい。京都がものすごく好きで、ただただ京都という場所に行きたくて目指していました。高校3年生の夏時点では模試でA判定が出ていたんですが、勉強が好きじゃなかったので、そのあとどんどん成績が落ちていってしまって。結果は不合格。受かった私立大学の中で、名前が一番格好良かった慶應義塾大学に入学することを決めました。 - 大学に入ると、かるたにはまっていたとか。 慶應に入学してからは、かるたにめちゃくちゃはまっていました。高校3年生の頃に読んだ『ちはやふる』という漫画に影響されたんです。大学に入ったら、かるた会(競技かるたに取り組む団体)に入ろうと決めていました。大学1年生の時は、アルバイトもせず、ひたすらかるたにのめり込む日々でした。   SNSでのイベント集客に成功した理由は「友達が少なかったから」 - 大学3年生の頃に、学生団体デビューされていますよね。そのきっかけは? 大学3年の夏、「就活支援団体を立ち上げたい」という子に出会ったんです。その子は、就活関連の仕事をしたいという社長さんの下で一年ほどインターンをし、その社長さんの援助を受ける形で学生団体を立ち上げました。 その団体は、企業から協賛金をもらってイベントをやっていたんですね。それを見ていたら、「イベントってお金になるんだな」ということに気づいて。だったら個人でもできるんじゃないかと考えたのが、きっかけです。 - それまで普通の学生生活を送られていたのに、いつのまにかインフルエンサーのように集客できるようになっていったそうですね。 そうですね。僕が入っていたその学生団体は、企業側にはツテがあったものの、学生が集められなかった。そのため、各大学にアンバサダーみたいな人を置いて、学生に学生を集めて貰おうっていうシステムを作っていたんです。 基本的には友達に声をかけて集客するんですけど、僕は友達が少なくて。どうしようかと考えたときに、SNSを使うことを思いついたんです。もともとTwitterの使い方はよく知っていたので、集客にTwitterを使うように。SNSを使って学生にリーチしたというのは、その時が初めてでした。 - 集客するために、どんな方法でフォロワーを増やしていったんでしょう? 個人のアカウントではないものを作っていました。「○○卒就活情報」とか「○○大学就活情報」といったアカウントで、就活生が求めるような情報をツイートしたり、自分の大学の休講情報を書いたりとか。たまに就活とは関係のないお役立ち情報もつぶやいていました。そうしたらフォロワーが増えていったんです。   「これから伸びていく会社が自分に合っている」大企業志望からベンチャー企業へ -ご自身の就職活動への意識が芽生えたのはいつ頃でしたか? 大学3年生の夏くらいですかね。今でこそ1〜2年生の頃からインターンをやっている学生も増えましたが、当時の僕にはそんなの考えられなかった。だから、3年になって焦ってインターンに応募したり自己分析セミナーに行ったりしていました。 はじめは、就活系のメディアをやってるベンチャー企業で3ヶ月ほど長期インターンをやっていました。法人営業だったり、議事録を書いたりといった仕事をさせてもらって。それが僕の就職活動のスタートでしたね。 - はじめの頃は、ブランド重視で大手を狙っていたそうですね。 サマーインターンで行った10社は、各業界トップシェアの企業ばかりでした。携帯会社やクレジットカード会社、保険会社など、BtoCをメインに狙っていたんです。ベンチャー企業はまったく考えてなかったですね。 - では、途中で就活の方針が変わったのでしょうか? Fintech系のスタートアップで半年間インターンをしたときに、就活方針を変えました。先ほどお話しした長期インターンのあと、夏休みの間にそのベンチャー会社が廃業してしまったため、次のインターン先を探していたんです。そこで紹介してもらったのがその会社で、インターンをしているうちに「これから伸びていくような会社のほうが自分に合っているかもな」と強く感じたんですよね。 - それで、最終的にディップ株式会社への入社を決められたわけですね。 実は大学4年の5月に一度、別のIT企業から内定をいただいていたんです。そこで就活が終わって暇になってしまったので、学生団体から独立して自分で就活系のイベントを企画するようになったんですが、だんだんそっちのほうが楽しくなってきちゃって。このまま就職するのも…と思い、内定式の一週間前に内定を辞退させてもらうことに。 翌年は、イベント業の収入と塾講師のアルバイト収入とが十二分にあったので、新卒フリーランスという道も考えていました。でも、このままじゃ自分の世界が広がらないなと感じて就活をすることにしたんです。 就活イベントを企画していたこともあって、採用や企画をさせてもらえる会社を探して見つけたのがディップでした。今の上司や役員さんなどとも会ってみて面白そうな会社だな、と思えたので入社を決めましたね。   ヘビーユーザーだったからこそできたWantedly運用 - 学生団体で集客の差別化に成功し、ディップにも内定が決まっていた。しかし、3回目の大学4年生を送ることになられたわけですよね。 入社予定も決まり、内定式にも出席していたんですが、僕の履修ミスにより留年することになってしまったんです。それがわかったのが3月の半ば。急いでディップの人事さんに話をしに行きました。そうしたら「一年待ちます」と言ってもらえたので、翌年入社することになったというわけです。入社までの間は、ディップで内定者インターンとして働かせてもらうことになりました。 - 留年が決定した1ヶ月後に、Wantedlyの運用に力を入れ始めたそうですね。具体的にどのようなことをされていたんでしょうか? Wantedly経由でディップに入社が決まったくらい、もともとヘビーユーザーだったんです。Wantedlyって、ウォンテッド・スコアというものがあるんですけど、学生の間ではそのスコアを獲得するのが流行っていました。僕も当時は、ランキング上位に入っていたんですよ。 ところが、ディップに入ってみたらWantedlyのアカウントの専任がいなかった。だから「やりたい!」と手を挙げて、その運用をやらせていただくことになったんです。当時のディップのアカウントには、簡単なメンバーインタビュー記事しかありませんでした。しかし、インターン生を集めるためにWantedlyをもっと積極的に活用していこうというタイミングだったので、だったら学生たちが欲しい情報をいかに出せるかが大事だなと考えて、学生目線での情報発信をするようにしたんです。 - ディップへの入社後、ミッションは変わったんでしょうか? インターンの最初の半年は、ひたすらWantedlyを運用していました。それが軌道に乗ってきてインターン生が10〜20人ほど入ってきた時から、プレスリリースを書いたり他の人の手伝いをしたりといったこともするようになっていたんです。 でも、入社してからはまたWantedlyに注力し始めました。今のTwitterアカウントを始めたのも、社員になってからです。Wantedlyを活用して採用しながら、インターン生の管理や人事部とのやりとりといった業務も担当し始めました。入社2年目の今は、『Jisedai』という採用オウンドメディアの立ち上げ、運営なども行なっています。   「Wantedlyお兄ちゃん」としての複業から幅を広げていきたい - 現在、本業以外でも色々な企業の採用をお手伝いされているんですよね。 そうです。入社一年目の6月くらいに、ちょっと暇なタイミングがあったんですよ。そのときはまだ今みたいに「サラリーマンは複業、兼業だ!」っていう時代ではなかったものの、「僕は忙しいほうが向いているし、複業してみようかな」と思ったのが始まりでした。 最初は、採用に困ってるところを会社の先輩に紹介してもらい、無料で相談に乗っていました。Wantedlyを使っている企業であれば、その運用を有料で任せてもらっていたんです。そういったことを数社やってSNSで発信していたところ、僕のところに企業から直接メッセージが来て依頼を受けるようになりました。 ー ディップに入社して2年目、「Wantedlyお兄ちゃん」として複業でも活躍されている小林さんですが、今後はどのようなことをしていきたいですか? 今は「Wantedlyお兄ちゃん」が強く出てしまっていますが、採用コンサルタントとして他の採用手法も使えるようになりたいなと思っています。たとえば、最近はWantedly内で就職活動中の人を直接スカウトするための「スカウトチケット」をディップで購入したんです。今までやってこなかったスカウトという方法がこれから試せるのは面白いですね。また、Wantedly以外の媒体も活用できるようになったらいいかな、と。 ー 大きな変化を求めるというよりも、今いる場所でさらなる広がりを……という感じですね。 そうですね、部署を変わるようなことは今は考えていません。あとは、現在の部署にいながら他部署の採用を手伝ったり、他部署にインターンを送り込めたりできるようになったらいいなと思います。 小林さんのTwitter (取材:西村創一朗、写真・デザイン:矢野拓実、文:ユキガオ)

大人がイキイキと働ける社会を目指して ー チャレンジし続ける新卒採用責任者の想い

  色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第8回目のゲストとして、サイボウズ株式会社の新卒採用責任者である綱嶋 航平さんをお呼びしました。 新潟県で高校までの18年間を過ごし、京都大学へ進学された綱嶋さん。大学を一年間休学しての長期インターンを経て、サイボウズ株式会社へ入社。新卒採用を担当しながら、人事や働き方についての話をTwitterで、またサイボウズという会社の考えや内側の話をnoteで発信されています。 複業としてキャリアに悩める学生向けのコーチングを行うなど、幅広く精力的に活動されている綱嶋さんが、かつてどのようなことに悩み、どのような決断をして今に至ったのか。また、なぜ企業の人事として発信活動を続けているのか。 就活に悩む学生はもちろん、複業やSNSを活用した採用に興味のあるビジネスパーソンにも参考になるような貴重なお話を伺ってきました。   「このままでいいのだろうか」就活中に感じた2つの危機感 ー これまでの経歴を教えてください。 1994年生まれで現在25歳です。18歳のとき、新潟を出て京都大学文学部へ進学。大学4回生のときには一年間休学して、企業の働き方をコンサルティングする株式会社ワーク・ライフバランスでインターンとして働きました。 この会社で、サイボウズ株式会社(以下、サイボウズ)の製品を使っていたことや、会社同士の仲が良かったこともあり、就活でサイボウズを受けて入社することとなりました。 ー 京都大学を選んだ理由は? もともと、京都大学なんて自分には手が届かないと思っていました。高校も進学校というわけではなかったですし、新潟の国公立大学に進学して教師になれたらいいなくらいに考えていたんです。 でも、高校3年生のときの担任教師が「京大を目指してみないか?」と勧めてくれて、そこから視界が広がりましたね。東京にはいずれ働き始めたら行くと思っていたので、それなら大学はワクワクする土地に行きたいなと考え、京都大学を受験することにしました。 ー 受験はスムーズに進んだんでしょうか? 全然(笑)模試も、ギリギリまでE判定でした。高校のカリキュラムも、京都大学の入試レベルに対応していなかったので、授業が間に合っていなかったんですよね。「自分は、進学校の生徒とは違う戦い方をしなければならないんだ」と自覚して、先生とマンツーマンで勉強させてもらい、なんとか受験に間に合わせました。 ー 京都大学に合格したことは、きっと成功体験になりましたよね。 センター試験が終わった頃に、クラスメイトから「綱嶋くんが朝から晩まで教室の一番前の席で勉強してレベルの高い大学を目指しているのを見ていたら、俺も頑張れる」と言われるようになったんです。そのときに「人の頑張りを素直に認められる人って素敵だな」と思いましたし、「大学受験は自分だけの戦いではないんだな」と感じたんです。 だから合格がわかったときは嬉しさもありましたけど、その後、いろんな人に感謝の電話やメールをしました。これはすごくいい経験でしたね。 ー いい仲間に恵まれたわけですね。大学ではどんな風に過ごされました? 小学校2年生くらいからずっとバスケをやっていたので、大学でもすぐバスケ部に入部したんですが、自分の思い描いていたキャンパスライフと違うことに気づき一年目の8月に退部。大学3回生の夏まではサークル、バイト、授業、テスト……と楽しかったものの、あまり起伏のない日々を過ごしていました。 ー 休学してインターンシップに行こうと決める前は、就職活動もしていたんですよね? 大学3年の夏にサマーインターンシップが開催されるので、説明会を聞きに行きました。その頃はまだ就活に関する情報収集もあまりしておらず、有名企業のインターンにだけ申し込んだんですよ。だけど、結果はすべて落選。 周りの同世代がこれまでの経験や将来やりたいことなどについてしっかり話している一方で、自分には話せるようなことが何もないという事実を突きつけられました。 ー それは本当になかったんでしょうか?それとも自己分析が足りなかっただけでしょうか? 両方だと思います。人に話せるような大きな経験もしていませんでしたし、自分の経験を人に伝える技術もなかったので。 ー それがショックでこのままじゃダメだと思ったんですね。 そうですね。それに、大企業に就職した大学の先輩に会って話を聞くと「めっちゃ辛い」と話している人がけっこういたんです。もし自分も、このまま何も考えずネームバリューばかり気にして就活していたらまずいのでは……と気づきました。 やりたいことがない自分に対する危機感と、このままなんとなく就職してしまうことに対する危機感。この2つをどうにかしなきゃいけないと思ったのが大学3回生の8月あたりのことです。   自分のやりたいことを見つめ直した長期インターン ー 大学を休学してインターンに行く、というのは勇気のいる決断だと思うのですが、その原動力は何でだったんでしょう? 周りにいる京大生は本当に天才・秀才ばかりだったんですが、このままここにいたら、京都という土地柄のゆったりした流れに飲まれてしまいそうだなとも感じる部分もあったんですよね。 「大学のどこか一年間で、東京という場所でフルタイムで働くという、今と全く違う経験をしたら、自分はどう変化するんだろう」ということにワクワクを感じたため、思いきって休学を決断できました。 ー 休学を決めてからインターン先を探したんですか? はい。自分が何をやりたいんだろうと考えたとき、もともと子供の教育に関心があることを思い出しまして。子供たちが「早く大人になりたいな」とワクワクできる社会ってどんな形なのか?と考えた結果、身近にいる大人が背中を見せるのが一番だと思ったんです。 一方で、日本人は残業も多く、ワクワクしながら働いている人はごく少数であると知って、自分の理想とは違うな、と。そこでワークライフバランスという考え方を知り、ちょうど株式会社ワーク・ライフバランスのインターン募集を見つけたため、「ここだ」と思いすぐに決めました。 ー インターンで得られたものはありましたか? 働き方に対する知見が得られました。「長時間残業よりも、効率的に時間を使って空いた時間をしっかり余暇に使うほうが成果が出る」ということをデータで知ることができたんです。また、ベンチャー企業だったため、インターン生であることを気にせずコミュニケーションを取ってくれることも、新たな気づきでした。 ー インターン期間中はそちらの仕事にコミットし、そのあと就活を始められた綱嶋さん。準備が間に合わない、といったことはなかったですか? いえ、インターン中に就活の準備はしていなかったものの、インターンの仕事でさまざまな企業に出向いて話を聞く機会があったので、それが最高の就職活動になったなと感じています。普通の就活生では聞くことができないような人事担当者の話を聞くこともできましたしね。 だから就活をスタートさせた3月には、どんな企業に就職したいのかも、おおよそ決めていました。 ー 子供の教育に関心があったという話がありましたが、そのビジョンは変わらなかったんでしょうか? もともとは「働く大人の環境を変えて、子供たちの教育も変えたい」と思っていたんですが、ワーク・ライフバランス社でインターンシップをしている間に「教育はそんなに簡単に変えられない」と気づきました。 一方で、自分がインターンとして働いていてワクワクしていることにも気づき、「今の社会人がイキイキできるよう支援するほうが楽しいな」と、気持ちが変わっていったんです。 まずは自分の両手が届く範囲の人たちを幸せにしたい。いつか自分にも子供ができたとしたら、自分の家族からハッピーにしていきたい、というのが今持っている教育への思いです。また、今は学生さんと接する機会もあるので、どうすればイキイキとした社会人になれるのかということも伝えたいな、と思っています。   「ここで人事の仕事がしたい」サイボウズを選んだ理由 ー 就活を経てサイボウズに入社されたわけですが、サイボウズを選んだ決め手は何だったんでしょう? サイボウズに行ったら面白い気がする、という予感があったんです。たとえばTwitterですごく発信されている社長の存在や、「サイボウズ式」というオウンドメディアなど、自分にピンとくるキーワードがとても多かった。また、サイボウズは働き方に対して考え方が柔軟で、自由さを併せ持っていたことも魅力でした。 ー 入社してどんな仕事がしたいと思っていましたか? 実は、はじめから人事の仕事がしたかったんです。就活の軸が、ワーク・ライフバランス社に学んだ「働き方」だったので、人事ならそこにダイレクトに関われるな、と。 とはいえ、人事というのはどこの会社にもある仕事です。でも僕は、働き方に関しても先進的で既存の枠組みに捉われないサイボウズだからこそ、ここで人事の仕事をやる意味があると思っていました。 ー 内定をもらったあとで「本当にこの会社でいいんだろうか」と悩んだことはありますか? 僕が内定をもらった当時、サイボウズはまだ認知度が低く、友人に社名を言ってもわかってもらえないことが多かったんですよね。周りには大企業に就職する友人もいる中で、「本当にここで社会人一年目のキャリアをスタートさせていいんだろうか?」と悩むことはありました。 ですが、「絶対に今よりいい会社にしてやるから見てろよ!」という気持ちで、3年後の未来を見るようにしたんです。その気持ちをバネに、3年後の自分がもっとイキイキできてるように頑張ろう、と思っていました。   SNSで発信し始めたら採用現場が変わった ー これまでのサイボウズでの仕事を振り返って印象に残っている出来事といえば? 1年ほど前からTwitterをきちんと使い始めたのですが、そこからのご縁で仕事が始まることもあったのが印象的でした。SNSを使った会社の認知の広げ方や、なぜ人事がSNSで発信をする必要があるのかといったことに興味を持っていただき、記事として取り上げてもらったこともあります。 自分の発信を見てくれている人と「想い」でつながった仕事が生まれるんだな、というのがとても心に残っていますね。 ー そもそも今のようにTwitterを使い始めたキッカケは何ですか? 人事に入ってみて、これまで当たり前に使っていた就活サイトに掛かるコストを知ったことがキッカケです。就活サイトではたくさんの人を集めることができるんですが、会社の考えに共感して集まってくれる層は少ないんですよね。そこで「Twitterでフォロワーがたくさんいたら、会社の考えを広く伝えることができるんじゃないか」と考えました。 ー Twitterを続けるというのはなかなか難しいことだと思うんですが、続けられた理由は何でしょう? 最初はフォロワーも少ないので、いいねはほとんどつかないのですが、1~2件でもいいねがついたら嬉しかったんですよね。見てくれる人がいるんだな、と実感できて。 そしてどんな人がフォローしてくれてるのか、どんな人がいいねしてくれているのかを見にいったら、その人たちの悩みを知ることができたので、その答えになりそうなことをツイートすることが自分にとっての楽しみになっていったんです。 ー 発信するようになって、サイボウズの採用が変わった実感はありますか? 最も成果があったなと思うのは、「【勝手にまとめてみた】採用担当が個人的にオススメする、サイボウズを知るならフォローしておきたいTwitterアカウント30選」というnoteの記事に多くの反響をいただけたことですね。その記事を見て会社説明会に来てくれた学生さんや社会人の方がいたり、面接で「あの記事を読んでサイボウズの社員について調べていた」と言ってもらえたりしたんですよ。 ー 実際にTwitterを通して採用に繋がったこともあるんでしょうか? 直接ではないですが、Twitterでごくプライベートな趣味の集まりを企画した際に、そこに来てくれた人たちと色々話をしていたら、その中の一人の学生が「サイボウズに入社したい」と言ってくれて。その子が採用試験にエントリーした結果、内定が決まったというようなことはありました。 ー 素晴らしい。成果に繋がっていますね。   本業と複業の両輪で社会を変えていきたい ー 現在、複業でブログ執筆サポートのコーチングなどもされていますが、どんな背景があって始められたんでしょうか。 はじめは、知人からコーチングの講座を勧められたんです。当時はコーチングについてまったく知らなかったんですが、「傾聴して話を引き出すことや目標達成をサポートするということは人事にとって大切なことだな」と気づき、本業に活かすために講座へ通うことに。勉強していくうちに、このスキルが人の役に立つかもしれないと思い、今の複業を始めました。 ー ビジネスパーソン向けのブログ執筆サポートを思いついたキッカケは? ある日、知人とお互いコーチングをし合っているときに、相手が「こういうことを書きたい」と話していたので、話を聞いていたんです。そうしてその日のうちに、実際に書く直前まで形にできていた。「もしかしたら、こういうサポートを求めている人がいるかもしれない」と思ったのがキッカケです。2020年に向けて、自分のビジネスとして継続サポートできるようにしていきたいと思っています。 ー 今後、本業・複業含めてチャレンジしていきたいことは? 「自立した個人の集う、しなやかなチームを創る」というのが僕のモットーなので、そういう社会を創るための仕事が何かしらできたら、と思っています。そのためにもまず、「チームワークあふれる社会を創る」という理念を掲げるサイボウズで、自分にできることを一つひとつやっていきたいです。 また、自立した個人というものに対しては、コーチングを通してやりたいことに向かって進んでいける人を増やしたいですね。その結果、いいチームも増えていってほしいなと考えています。   (取材:西村創一朗、写真:大沼楽、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)

「新しい挑戦は、批判を無視できるくらい没頭するしかない」炎上した新卒フリーランスのその後

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第4回目のゲストはフリーランスとして多方面で活躍をされている鳥巣愛佳さんです。 福岡県出身の鳥巣さん。幼少期からエアロビクスをはじめ、早稲田大学在学中には世界大会に出場した経験も。講師としてレッスンも行い、ブログでエアロビクスの魅力を発信されていました。 大学卒業後は、就職は選ばず、新卒フリーランスとしてフィットネス業のほかにメディア運営などを仕事にしています。 「新卒フリーランス」というまだまだ一般的ではないキャリアからスタートし、常に自分の素直な気持ちを指針に行動してきた鳥巣さん。 彼女だからこそ見えてきた世界や、キャリア選択の葛藤などについて話を聞きました。 「新卒フリーランス」で独立して4年が経った今 -現在、取り組まれているお仕事について教えてください。 新しい働き方をテーマにした20代のキャリア思考の高いビジネスパーソンのインタビューマガジン「アシスト」の編集長をしています。 そこから、法人の広報のお仕事などもいただくようになりました。 また、ずっとエアロビクスをしていた経験から、フィットネスの講師業もしています。 新卒フリーランスとして独立をして、あっという間に4年目になりました。 -新卒でフリーランスになるという選択はまだまだ一般的ではないと思いますが、周りから批判などはありませんでしたか? SNS上でめちゃくちゃ炎上しました(笑) もともとブログをやってTwitterで発信もしていたので、「こうしたらバズるだろう」というのが分かっていたのですが、思った以上に反響がありました。 インフルエンサーの方に言及されたのが、炎上のはじまりで。ちょうどそのとき卒業旅行で海外に行っていたのですが、帰国してネットがつながると通知が鳴りやまなくなりました。 怖いもの知らずな部分があったので、いただいたコメントなどは全部読ませていただきました。いろいろ書かれていましたね。「自分が親族ならめっちゃ怒るわ」とか「親の顔が見たい」とか「絶対、水商売にいくぞ」とか。やはりいくらか傷つきました。 なにより、家族のことを悪く言うコメントを読むのが辛かったです。わたしは家族の反対を押し切ってフリーランスになったので、家族を責められるのは……。 -ご家族は鳥巣さんが就職せずにフリーランスになることを反対されていたんですね。 両親はわたしに就職をしてほしい気持ちを一番強くもっていました。 わたしの気持ちを変える猶予を設けるために、留学という選択肢も提示されました。真剣に考えたのですが、留学してなにを勉強するのかが見えなくて…。 当時は、「メディア運用をやりたい」という気持ちと、「フィットネスの現場に立ちたい」という気持ちが大きく、どちらにも決めかねていました。なので、第三の選択肢であるフリーランスは、モラトリアム的な意味をもっていたと思います。 ブログでかっこよく発信はしていましたが、当時は正直、会社員をしながら、副業でやりたいことをやる、というのはどれも中途半端になりそうで、自信がなかったんです。 -当時やりたかった気持ちを大事にした結果、いま、両立して仕事になっているのはすごいですね。軌道にのったのはいつぐらいなのでしょう? もともと勉強していたフィットネスを、仕事として通用するスキルにするために、卒業後半年間は勉強期間を設けていました。 メディア運用の知識は、インターンとして学んで。その頃は、父と同居していたので、収入としてはなんとか生活費をまかなえていました。 1年経ったくらいで、勉強の成果もでて、収入的にも安定するようになりました。 就職活動での違和感を尊重した結果のキャリア選択 -就職活動もされていた、ということですが、どのような企業を見ていたのですか?エアロビでプロの道に、という選択肢はなかったのでしょうか? エアロビクスはまだまだマイナー競技で、プロとしてやっていくという選択肢はそもそもありませんでした。エアロビクスからフィットネスのインストラクターになる方は多いんですよね。なので、いまのフィットネス業には自然となった感じで。 就職活動がはじまる前に、学生で起業している同世代に会ったんです。それまで自分が熱量を注いできたスポーツや学生の世界とは全く違っていて、衝撃を受けました。自分も好きな分野で人を巻き込んで、価値を残したいって思ったんです。 しかしながら両親が大手企業に就職しててほしいという希望をもっていたこともあり、就活もしていたんです。面接の会場に行くと違和感を感じてしまって…。みんなが同じ髪型、同じ服装で並んでいるのを見ていると、だんだん、「なんでわたしは、ここにいるんだろう?」という気持ちになっていました。 型に合わせる、というスキルももちろん大事だとは思っているんです。ただ、それが自分は受け入れることができないんだと気づきました。 大学4年生のときから、ウェブコンサルのスタートアップ企業でインターンをしていて、そこで内定をいただいていたんですけど、やはり、自分がやりたい!と思うことに一度振り切りたかったので就職はしませんでした。 キャリアを考えるにあたって私は体がアスリート並みによく動く、ということにとにかくこだわっていました。。一度就職をして、30歳くらいでインストラクターに転身する…そんな道も考えていたんです。もちろん、年齢を重ねると技術的には磨かれていくと思うのですが、若く、動ける、という武器を使っていきたいと強く感じていたのをおぼえています。 フリーランスになったのには「いま、やりたいことは、素直にいまやろう」という気持ちが決定打になりました。10年後、後悔しない道はどれ?って自分で自分に問いかけた結果、新卒フリーランスだったんです。 -学生時代からフリーランス的な働き方をして、とても精力的だったかと思います。ブログなどの発信活動をはじめたきっかけは? 学生のころにブログを始めたきっかけは、エアロビクスがマイナー競技だったからですね。もっと広く認知されてほしい、という気持ちから、ブログでの発信をはじめました。 また、同じ大学、同じ学部に、学生時代からブロガーとして活躍していた八木仁平さんがたまたまいたことが継続につながったと思います。 もともと知りたいだったというわけではなく、読んでいて面白いなと思った記事を書いていたのが、彼だったんです。そこからコンタクトをとって、その後は、進路に悩んだ時にも背中を押してもらうことも。いまでも刺激をもらっている友人のひとりです。 すきなことが仕事になるまで -いまのような状態になるまでに挫折はありましたか? もちろんありましたよ!思い返せば、結構波があるフリーランス生活だな、と。 フィットネス業界には様々な団体があって、それぞれの団体にカラーがあるんです。わたしもある団体に所属していて、たくさん勉強させてもらっていたんですけど…フィットネスのみでなくメディアもいろんなことをしたかったので、その団体のカラーだけに染まるのはまだ早いと思ったんです。 それで、その団体を辞めて…ただ、それまでのお客様ともお別れしないといけないことになったので、一気に仕事も減ってしまいました。2ヶ月くらいは気分が落ち込んでいたと思います。 そこから抜け出すきっかけになったのが、いま、編集長を務めているウェブマガジン「アシスト」の運営メンバーとの出会いでした。 そのときはまだアシストは存在しなかったのですが、仲良くしていた友人がいろんな事業を手掛けている人で、わたしが「自分でメディアを運営している」と言ったら、「じゃあ一緒にメディア事業をやろうよ」と言ってくれて、そのメディアのテーマなどもわたしに任せてくれたんです。 あまりお金がモチベーションにならない性格なんですけど、もともと仲が良かった友人と一緒に事業をすることで、「この人たちとなら頑張りたいな、楽しくやっていきたいな」という気持ちが原動力になっています。 それまで落ち込んでいた時期が続ていたので、彼らとの出会いが突破口でしたね。いろんなことを個人でやりながらも、ホームとなるような場所ができたというか…2年目くらいで、がちっと自分の土台が固まったように思います。 -新しいことをやる人は、批判されることもあると思いますが…ネガティブな意見との向き合い方は? やっぱり、誰も知らないことをしようとするのは、それなりのエネルギーと覚悟のいることだと思います。その挑戦に対して、いろんな意見をぶつけられることも。だけど、夢中になってやっているとあまり気にならなくなってきます。そのくらい、頑張ればいいんじゃないかな、と。 大学進学して、エアロビックの選手としての活動をしたくて、でも練習施設もお金も仲間もいなくて…どうしようもなかったので公園で一人で練習していたんです。子どもたちに変な視線を投げかけられながらも、ただ一生懸命に競技に没頭していました。 たとえば、わたしが失敗したとしても、それまで意見をぶつけてきた人は誰も責任なんてとってくれないんです。。当然ですが、正解を教えてくれる人がいるわけでもない。みんな、好き勝手に人の人生に口出ししているだけ。それが分かっているから、わたしがそんな批判的な言葉に向き合うのは意味がないなって思うんです。自分の人生は自分でしか責任取れないので。 パラレルワークをするうえで大事にしていること -いろんな仕事を同時並行でしていますが、どうやって切り替えを? 切り替えは大事ですね。それぞれの業務にあたっているときは、ほかの業務のことは考えないように務めています。例えばフィットネスのレッスン講師の仕事は、会場にむかうまでの30分間で先生モードに切り替えて、、編集のことは頭から追いやる感じです。 あと、わたし、歯磨きがとっても好きで!1日に5回くらい磨くんです(笑)それがスイッチになっているんじゃないかな。自分のなかで、切り替えのポイントを設けると、パラレルワークでもうまく両立していけると思いますよ。 -いまでも様々な分野でご活躍されていますが、鳥巣さんご自身が考える武器はなんですか?また、それを活かしての今後の展望は? いまは大きく分けて、メディア運営とフィットネス業をお仕事にしていますが、どちらの仕事も、どんなシーンでも応用が効くなと感じています。 フィットネス業であればヘルスケアとか、人前で話す講演の仕事とか、メディア運営は広報やマーケティングにつながりますから…「なんでもやってやる」というマインドが自分のなかで育まれています。そこは武器だと思うので、今後も大事にしたいですね。 事業としては、メディアは法人向けにサービス展開しているので、それをまずはしっかり固めたいです。フィットネス業は、人に教えるという部分を発展させて、地元の福岡県で高齢者向けのレッスンを開けるようになればいいなと考えています。それで稼ぐというよりは、社会貢献としてという意識はもっていますね。 地元・福岡が好きなので、貢献したいですし、事業をひろめることで、将来的には、東京都の二拠点生活も実現したいです! === 編集:野里のどか(Twitter/ブログ)

元ゼクシィ編集長が語るキャリアと子育てを両立する3つの思考法

「17時に帰る編集長」というコピーのもと、働く女性のロールモデルとして広く話題になった元ゼクシィ編集長、伊藤綾さん。 ゼクシィ編集長を退任された現在も、子育てをしながら3社で活躍する「パラレルママワ―カ―」というスタイルで、新しいロ―ルモデルとして大きな注目を集めています。 しかし現在に至るまでには、寿退社によるキャリアのリセット、専業主婦から契約社員への挑戦、育児休暇を経た職場復帰など、女性ならではのさまざまな苦労や葛藤があったといいます。 そんな伊藤さんに、女性の働き方、特に仕事と育児の両立について語っていただきました。 キャリアのスタートは、20代後半だった ―現在のお仕事などについて教えてください。 現在は小学校5年生の双子を子育てしながら、3社で パラレルワ―クを行なっています。リクル―ト、医療系企業の人事、教育、広報などを掛け持ちしています。 ―伊藤さんは専業主婦をされていた時期があったという、リクル―トの中ではかなり珍しいタイプの方です。 たしかに、すごく珍しかったと思います。リクル―トに入社する前は出版社に勤務していました。でも、24歳で結婚したことを機に退社。夫の転勤について行くために仕事を辞めて、専業主婦になったんです。 その後東京に戻ってから、リクル―トのゼクシィ編集部に契約社員で入りました。そういった経緯があるので、今のキャリアのスタ―トは27、8歳の頃なんですよね。 20代後半からのキャリアリスタ―トは、かなり大変だったのではないでしょうか? そうですね。やっぱり、毎日必死でした。スタ―トの遅れを取り戻すために、かなり忙しく働いていましたね。 ―しかし、苦労して築き上げたキャリアを、妊娠出産を機に「もういいかな」と手放そうとしたとか。 キャリアのスタ―トは遅かったのですが、30代になって子供を妊娠した時には編集長になっていました。編集長にまでなったし、キャリアはこれでもういいかな、って。 ―「キャリアはもういいかな」と考えた理由は何だったんですか? そんなに明確な意思を持っていたわけじゃないんです。「せっかく専業主婦から復帰したのにもったいないよ」という言葉もたくさんいただきましたが、単純に「私には子育てしながら仕事なんて無理! そんなス―パ―マンみたいにできない」と思ったんです。 かなり忙しく働いていたので、子育てをしながら出産前と同じ仕事をするイメ―ジがまったく持てなかったんですよね。 毎日残業が当たり前で、少なくとも保育園のお迎えに間に合うぐらいの時間に仕事が終わるなんて、当時はとてもイメ―ジできなかったです。 花嫁さんたちの「その後」を考えるようになった ―ご出産される際も、相当大変だったとおうかがいしています。 子供が生まれるときに、産褥性心筋症という心不全の病気になってしまったんです。ちょっと重い状態になっていて、CCUっていうICUみたいなところに入っていました。かなり体調が悪くて、電話にも出られないほどだったので、「自分はもう二度と仕事はできないだろうな」と感じました。 ―しかし、その後に再び職場復帰され、ゼクシィ編集長として再度ご活躍されています。二度目の職場復帰を思い立ったキッカケは何だったのでしょう? 出産後、育休生活に入ったんですが、やっぱり育児がすごく大変で。ある日、体調があまり良くない時のことです。子どもの夜泣きをあやしながら、朦朧とする意識の中で鏡か窓に映る疲れた自分の顔を見て、ハッとしたんですよ。今まで私がゼクシィ編集長として関わってきた花嫁さんたちって、今どうしてるんだろうなって。 もちろん育休に入る前も、いつも一生懸命、花嫁さんと花婿さんのことを考えていました。ゼクシィは結婚式について取り上げる媒体だったので、どういう結婚式なら喜んでもらえるだろうか、良い結婚式って何だろう、とか。でも、鏡で自分の顔を見た次の日から、結婚式の後のこと、「その後、花嫁さんや花婿さんは幸せにしているのかな?」ということが気になり始めたんです。 ―ご自身の育児経験をキッカケに、ゼクシィの捉え方が変わったんですね。 もちろんお子さんがいる人いない人など、結婚後のスタイルは様々です。でもどんなスタイルであっても、結婚式の後、花嫁さんや花婿さんがどうやって自分の人生を生きていくのか。そこまで考えた雑誌作りをしなければならないと、遅ればせながら気がついたんです。 そして同じように、今ここで赤ちゃんを抱いている私は、どういうふうに自分の生活をつくっていくのか、どんなふうに人の役に立てるのか。そんなことを真剣に考えているうちに、「もう一度やってみよう、現場に戻って育児との両立も挑戦しよう!」って思ったんです。 自分の時間を予約する意識を持とう ―そうして職場復帰されたわけですが、やはり最初は大変だったのではないでしょうか? 最初は3時退社の時短勤務からスタ―トしたんですが、それでもわたしには結構厳しかったですね。時短勤務って、もっとゆっくりできるかと思っていたんですが、全然そんなことはなかったです。 仕事が終わって家に帰っても当然、休まることはありません。トイレにゆっくり入りたい、朝までゆっくり寝てみたいと、何回思ったかわかりません。 ―時短勤務という、限られた時間で成果を出さなきゃいけないのはプレッシャ―だったと思います。短い時間のなかで成果を出すために、意識していたことや努力されていたことはありますか? 意識していたポイントが3つあります。1つは、いかに業務を効率化して、家事や働き方をコンパクトに変えていくかということです。 たとえば、朝の段取り。こっちの廊下でこの洗濯物出した帰りに、必ずこのブラシを取ってくるとか、そういうことを常に考えるようにしていました。 その際に参考にしていたのは、佐々木かをりさんから教わった「自分の時間を予約する」という考え方です。自分の時間は自分で確保する。そのために、まずは会議の時間を全部半分にするところからスタ―トしました。定例会議のように色々な人が入る会議は無理ですけど、私が主催の会議はできるかぎり時間を半分にするようにしたんです。 ―1時間やっていた会議を30分にするということですか。 はい、まずは原則会議時間を半分にしました。あと「予約する」という観点で言うと、色々なアポイントメントの40分前には自分の時間を予約するようにしていましたね。 ―なぜ40分なんですか? 約束の30分前に着くと、どうしてもバタバタしちゃうんですよね。でも40分あれば、たとえば隣のカフェとか公園に行っても、30分は時間を確保できるんですよ。30分あれば、本を読んだり、ぼ―っとしたり、プライベ―トなメッセージを返したりできる。そういう時間を確保できるようになるだけで、かなり働くのが楽になるんですよ。 時短に不可欠な「論理的思考」 ―非常に実践的なノウハウですね。他に意識されていたことには何があるのでしょう? 2つめのポイントは、効率化するだけではなく、仕事自体のスピードを上げること。仕事の「成果」を最短で最高のものにする道のりをいつも考えることです。そしてそのためには「論理的思考」をできるだけ高いレベルで習得すること。イシューは何か、その解は何かを順序立ててクリティカルに思考する癖をつけていくことが大切ではないかと思います。 出産するまでは、そういうことはあまり学ばなくてもよい、と思っていた節がありました。たとえば、何かの合意を取ったり、決めるたりする時には、感覚的に「こういうものなんです、今の花嫁さんは」とか、「これがヒットすると思います」みたいな説明をするのみ。今思えば本当にひどい(笑)。 でも限られた時間で働こうと思ったら、こういう勢いと熱意に任せた方法はなかなか使えないんですよね…。もちろんテクニック的な時短ノウハウも大事ですが、その根本に論理的思考が備わっていると、結果として生産性も高まる。これはトレ―ニングしなきゃいけないぞ、という思いが出てきて、大変遅ればせながら頑張りました。 ―具体的には何を頑張ったんですか。 研修を受けたり、勉強に行ったり、本も読みましたし、仕事の場で実践しては上司からフィードバックを受けたり。他の部署の、自分とは全く違う強みを持った方にメンターになってもらったり、あらゆることをしましたね。 ママは時間がないので、どうしても時短テクが気になります。でも本当に大事なのは、それだけじゃないよ、と今は思います。 出産や育児はハンディではない ―出産を経て、仕事に対する考え方がガラッと変わったんですね。 変わりましたね。でも一番大切なのは、3つめのポイント。「時間的はハンディを負った」という意識をとにかく捨て去るということです。  ―呪われた存在だって思わないことですね。 そうです。どうしても産休明けに働こうとすると、「昔の自分はもっと働けたのに、今は自由が利かない」とか、「これもやらなきゃ、あれもやらなきゃと」みたいに、色々とネガティブに考えてしまう。 でも、そういう考えにとらわれていると発想が豊かになりづらい。そうではなく、そうした状況にあることを1つの「機会」として捉えることが大切です。 ―具体的には、どのように考えれば良いのでしょうか? 私の場合は育児の経験を経て、結婚式だけでなく、花嫁さんたちの「その後」を考えるようになりました。結婚式当日が素敵なことも大事だけれど、「結婚式以降も素敵でいるためにはどのような式がよいのだろう」といったように、これまでとは違う視点で考えられるようになった。 もちろん、経験に関係なく多様な視点を持てることが大切だし、育児以外の経験もみんな、自分にとってきっと意味がありますよね。私も生活の変化によってそういう考えを得る機会を得たのだと考えました。 出産以前と全く同じ働き方はできないかもしれないけれども、代わりに得られるものも沢山ある。出産前から変わることは、決してハンディではないんです。 「自分の時間」が仕事にもプラスになる ―とはいえ、伊藤さんのような働き方は誰にでもできるものではない。そう感じてしまう人も多いのではないでしょうか? そう思われることがないように気をつけるようにしていましたね。当時は2010年ぐらい、今ほど多様な働き方に対する理解があるわけではありませんでした。 「(伊藤さんは)ス―パ―ウ―マンだからできる」というふうになってはいけない。色々な選択肢がある中で、こういう働き方もあっていいんだって思ってもらえるように意識していましたね。 ―具体的には、どのような取り組みをされていたのですか? 当時みんなとやっていたのは、「5時に帰る日」決めですね。ママ社員だけじゃなくて、編集部のあるチ―ムで、必ず5時に帰る日を作ることにしたんです。 「きっといいことあるから、強制はしないけどやってみるといいよ」ってアドバイスして。メンバ―が「じゃあ、ちょっとやってみます」と、予定をブロックして、5時に帰っていました。 ―おもしろいですね、「5時に帰る日」。 結果として、みんながそれぞれ自分の時間を作るようになったことで視野が広がり、色々なアイデアが出てくるようになりました。 すると、トライアルをしたチームだけではなくて、編集部全体の雰囲気が変わってくる。 当時ヒットした、しゃもじや婚姻届などを付録として付けるというアイデアは、こうやって色々な生活を見て、色々な人と話をする時間を設けるようになったからこそ生まれてきたアイデアなんだと思います。 それに、「5時に帰る日」を設けるようになってから、みんなでユーモアを大切にした雑談が増えたり、部内で優しくできるようになったようにも感じます。時間を使って色々な人に会うようになったことで、多様性を受け入れやすくなったのかもしれませんね。 ―自分の時間を持つことが、結果的に仕事にもプラスになる。 職種にもよりますけど、そう信じていました。時間が物を言う仕事もあるので一概には言えませんが、心持ちが変わることで成果が変わるということを実体験しましたね。 「働き方のバトン」をつなぐ ―そうしてゼクシィで活躍された伊藤さんですが、現在は一社だけの会社員として週5日働くという働き方をやめ、パラレルワ―クを実践されています。 40代になって、子どもが小学生になって大きくなって、私もすごく悩んだ。子育てしながら働くことに対する意識が、またちょっとずつ変わってきたんです。 ―よく、「子育ては3歳までが大変」と言われますけど、大変の質が変わっていくだけで、いくつになってもその都度の大変さがありますよね。小5は小5なりの大変さがある。お受験だとかなんとか。 そうですね。きっと中、高、大人になっても別の大変さが出てくるでしょうし、そのうち親の介護などの問題も出てきます。そうしたことを考えたときに、さらにもっと色々な選択肢があるといいよね、と思ったんです。 ここまでも頑張ってきたけど、もっと挑戦してみてみたいなって。さっきの3つめのポイントにつながりますけど、これも「機会」だと考えようと思いました。 ―ハンディじゃなくて機会。とてもいい言葉ですね。 今でこそ「働き方」の多様化が推し進められていますが、これって今までに多くの方が様々な挑戦をして、「働き方のバトン」を繋いでくれた結果だと思うんですよ。 特に女性の働き方に関しては、出産しても辞めない、管理職になるなどの挑戦を多くの方がしてくれた、本当にいろんなバトンが渡ってきた結果として、今がある。 なので私も、どんなバトンを渡せるかな、と考えるようにしています。実際にできているかわかりませんが、より良い形でバトンを渡せるようにしたいですね。 ―働き方のバトン、素晴らしいと思います。どんなバトンを渡したいかというイメ―ジはありますか? 私の今までの取り組みって、どちらかというと時間面のチャレンジだったんですよね。いかに時間を短縮して、育児と仕事を両立させるかという点からの挑戦だった。でもこれからは、もっと色々な仕事をするとか、時短以外の部分で選択肢をたくさん提案できるようになりたいなと考えています。 「早く帰る、早く帰らない」という選択以外の選択肢。すでに広がりつつありますが、これをもっと広げていきたい。私の「パラレルママワ―カー」というスタイルが、バトンとして誰かの役に立つと嬉しいなと考えながら働いています。 (取材:西村 創一朗、編集:大沼 楽)

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