フランス在住ワインソムリエ・藤崎智史が18歳から国外生活を続ける理由

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第187回目のゲストは、フランス在住ワインソムリエの『Timothy(ティモシー)』こと藤崎智史(ふじさきともし)さんです。 母親が観る韓流ドラマで、日本以外の言語と文化に興味を抱き、高校を卒業して韓国に飛び立った藤崎さん。現在は、7か国語を操るワインソムリエとしてフランスで働いています。香港でホームレスの状態に追い込まれ、キャリーケースを携えてマクドナルドや公園で寝泊りし約 1 ヶ月を凌いだこともあったそう。常に現状に満足せず、自分に向き合い、国境を越えて挑戦を続ける行動力に迫りました。 韓国語を学びに18歳で韓国へ ー自己紹介をお願いします。 藤崎智史です。現在はフランス・ボルドーに在住しており、ワインバー&レストランL’exquis(レクスキ)でワインソムリエをしています。日本人にとって、ワインは馴染みがない。そこで、正しい嗜み方や、日常で役立つ情報をTwitterで発信しているんです。 ー藤崎さんは、名前が 2 つある?『Timothy(ティモシー)』とは別名ですか。 香港滞在時のイングリッシュネームです。香港は母国語が英語なので、香港で生まれ育った人はイングリッシュネームを持ってたんです。名前の発音である「Tomoshi」が派生して、「Timothy」。レストランで会話のつかみに使うと、お客様との距離が近くなるんですよ。 ーワインソムリエとしてワインはどのように選ぶのでしょうか。 友人にワインを選ぶときは、味の好みから勧めます。普段の食事やドリンクを聞いて、味の好みを逆算します。 人とワインを関連づけて選ぶこともあります。人生の印象的な話を受け取り、ワインの醸造年度と記念の年を合わせるんです。例えば、10年前に交際を始めた彼氏と結婚した女性には、醸造年度が2010年のワインをセレクトします。 ー現在は海外を拠点に生活する藤崎さん。昔から日本以外の文化に親しまれていたのでしょうか。 唯一の海外の接点は、母親が観る韓流ドラマ。自分の知らない言語と生活を知ったんですよ。小学6年生の卒業文集に留学したいと書いていて、留学に興味がありました。 しかし中学校と高校は部活でテニスに打ち込み、英語が苦手だったので、留学からは遠い環境にいましたね。 ー留学への意識はいつから高まったのでしょうか。 はじめての進路相談ですね。高校2年生で自分の将来を考えたとき、「留学」というワードをふと思い出したんです。「4年制の日本の大学に行くより、韓国で18ヶ月の語学学校の学費の方が安い」と交渉すると、両親は快諾。一方で、高校の先生には「海外に行っても、言葉を覚えても、なんにもならない」と応援はしてもらえなかったんですよね。だけど、「言われてるなー。はいはい」と真剣に取り合わなかったです(笑)。 ーどこの国に留学されたのでしょうか。 「英語は話せないから『英語圏以外』で、お金に余裕が無いから『近場』だと、『台湾と韓国』がいいかもしれない」と考え、「韓流ドラマの韓国の言葉や文化が面白かったなあ。よし、韓国にしよう!」と決断。 2012年4月、韓国語を学びに18歳で慶熙大学校(きょんひだいがっこう)付属の国際教育専門学校へ語学留学します。休みの日や授業後は、日本人や韓国語を勉強する外国人と交流していましたね。韓国語を日常会話でスラスラと話せるようになったので、嬉しいなと感じていました。 韓国に来て1年ぐらいが経過し、日本への帰国か、慶熙大学校に編入するかを悩みました。 でも、「学びたいことがないから大学進学を希望しなかったのに、韓国で大学に進学するのは違うな」と思ったんです。「将来、日本で何かをすることは頭にないから、僕の人生は海外が中心になりそうだ。ということは、英語が話せるといいかも」と思ったので、英語を中心に学べる環境を第一に考えました。 語学学校に進学する以外の選択肢を探していると、香港で2010年からワーキングホリデービザが解禁されたことを知ります。日本人で経験した人は少なそうだったんです。「英語を使う職場に就職して、勉強しよう!」と思い、韓国滞在中の2012年に決断。2013年に香港に渡航しましたね。 入国8時間でホームレス ー香港のワーキングホリデーで印象に残っていることはなんですか。 実は、入国した直後に出鼻を挫かれたんですよ。予約したマンスリー契約の物件を訪れ、「藤崎です」と受付に伝えると、「あなたの部屋がありません」と言われて…。 到着して8時間で、家なし状態。キャリーケースをゴロゴロと轢きながらトボトボ歩いていると、マクドナルドを見つけたんです。「とりあえず、ここで寝泊りするか」と思って一晩過ごすと、「あれ?意外と寝れるぞ!」って思って。 -すごい生命力ですね… 椅子はガチガチで固いし、冷房でガンガンに寒いけど、Wifiあるし、充電できる。「どうせなら、ホームレスを体験してみようかな」と思って、各地のマックや公園を2〜3週間で転々とする生活を送りましたね。 ーポジティブすぎる!! 異国の地でホームレスしながら働いていたんですね… なんとか無事に家と仕事を見つけ、時間はあっという間に過ぎました。ワーキングホリデービザが残り3、4ヶ月だった2015年2、3月。日本人が集まるバーベキューでの出会いから、次はマカオに行くことにしたんです。 ー急展開! どんな出会いがあったんですか? バーベキュー会場で、元々の友人に韓国と香港の経験を話し、「次の方向を探している」と友人に相談していると、出席していた日本人経営者に「マカオでオープニングスタッフをやらないか」と声をかけられたんです。 話を聞いてみると、六本木で『Cafe Frangipani』、マカオで『Cafe Little Tokyo』を展開する洋食カフェを運営する会社で、マカオで2店舗目の飲食店『Tokyo Kitchen』を立ち上げたそうで。 「面白そう!」と思ったので、5秒後には、「はい、やります!」と口にしていました。 店長未経験で売り上げは半年間で14倍に 2015年5月1日に『Tokyo Kitchen』で店長として働きはじめましたが、売り上げが伸び悩んだので、悔しかったんです。ふと、『Cafe Little Tokyo』の客層を横目に見ると、単価800〜1,000円のランチに学生が満員だった。「学生をターゲットにすればいいのでは?」とひらめいたので、交流を深めることに。 『University of Saint Joseph New Campus』や『Macao Polytechnic Institute』が近隣にあり、休みを活用していろんな学生と遊びましたね。当時マカオで学生だった人はほとんど全員が顔見知りだったぐらいなんです。「『Cafe Little Tokyo』に来たら、御馳走するよ」と約束すると、お店に遊びに来てくれるようになって。「おいしい!」と満足した学生の家族が家族全員分の弁当を注文。さらに、家族それぞれの友人が評判を聞きつけて、お店に立ち寄ってくれるようになったんです。2015年11月頃には、半年間で、弁当販売事業の売り上げが14倍に伸びました。 だけど、お店が軌道に乗ったので、固定業務の繰り返しの毎日。高い給料を湯水のように使い、勉強する習慣を失うと、「ここままじゃ僕はダメになる」と思ったんです。ある日、日本酒バーとイタリアンレストランで働いた情景が蘇り、日本酒とワインへの興味を呼び覚ましました。「ワインをより深く学ぶなら、フランス語が必要だ」と感じ、「韓国語、英語、広東語を勉強したので、ここまで来たらフランス語も学ぼう」と思って、ワインを選択。 ふと思い出したのは、マイルドで優しい味の「ローザンセグラ」。それまでワインを飲んでも、「美味しいか、美味しくないか」の基準で判断していました。しかし、フランス・ボルドーで製造されたそのワインを一口飲んだときに、味の深さに衝撃を受けたんです。 サービスを主軸に。ワインを副業に。 ーフランスに渡航されるのですね。 田崎眞也さんが会長を務める一般社団法人日本ソムリエ協会の、ワインエキスパートの資格を日本で取得。2016年10月からワインの学校『CAFA FORMATION』に入学しました。 「ジタバタしても、伝わらないものは伝わらない。時間をかければ、言語は学べる」と考えていたので、フランス語を話せない不安や心配はありませんでした。しかし、ワインとフランス語の勉強で時間が追いつかず、最初は死ぬ思いをしましたね。 2017年9月から、ボルドー・モンテーニュ大学付属の語学学校であるDEFLEに入学。とりあえずフランスに滞在できる学生ビザを取得しました。現在の勤務先である「L'exquis」でアルバイトとして働きながら、ワインの勉強を継続できています。 ー藤崎さんの活動の展望を教えてください。 ワインとサービスを同時に提供するソムリエは一生続けたい職業ではないんです。 不特定多数を相手に楽しませたり喜ばせたりするのは大好きでした。一方で、マネージャー業務を通じて、自分の親しい人に深く関わって、目の前の相手をとことん幸せにすることが居心地がいいと感じたんですよね。 これからは、サービスの仕事を主軸にし、3年後は、執事として働くことが目標なんです。 ...

農業の人手不足を解消!シェアグリ代表・井出飛悠人さんに訊く!社会人になりたくない人に贈る言葉

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第182回のゲストとして、株式会社シェアグリ代表・井出飛悠人さんをお呼びしました。 大学生時代に企業をし、今や一企業の代表として社会の一線で働く井出さんですが、以前は働くことへあまり意欲的ではなく、社会に出ることすら前向きではないこともあったとか。そんな井出さんが、自ら社会の課題解決に乗り出し、起業するにまで至った軌跡を伺いました。 農業が抱える課題を解決したい!その一心で株式会社シェアグリを企業 ー早速いろいろお話をお伺いしていきたいのですが、まずは今のお仕事について改めて教えてください! はい!株式会社シェアグリは、農業の人手不足解消と人件費削減を目標に、人手が必要な農繁期のスポットでの特定技能人材や日本人の派遣事業を行っております。また、農繁期がずれている産地ごとに人材をリレーする仕組み作りにも取り組んでいます。2018年の大学生生活の夏に操業をしました。最初に1人で立ち上げた会社も、今では7名のメンバーがいるまでになりました。 ーシェアグリの事業本当に面白いですよね!なんでそもそもその事業を始めようと思ったんですか? 僕の中で、農業の課題解決をしたいという気持ちがずっとあり、それがきっかけとなりこの事業を始めました。というのも、僕の実家が長野県佐久市で150年続く種苗会社を営んでおりまして、物心ついた時から僕にとって農業はとても身近なものだったのです。 また、大学でも農学部を専攻していたこともあり、農業の世界に価値を提供したいという気持ちをずっと持っていました。 高校生活教科書も開いたことがないサッカー少年が選んだ次なる道は、農学部への進学 ーもっと事業のお話を聞きたいところなんですが、ここで少し過去に遡ってお話を聞いてみたいと思います。小さい頃はどんな子だったんですか? 小さい頃から陽気・好奇心旺盛な性格でした。それを象徴するエピソードとしては、公園に遊びに行ったまま夕方になっても一向に帰らずに遊んでて、親に無理矢理家まで連れて帰られたこともありました(笑)小学校から中学校は、サッカーにずっと打ち込んでいて、家族旅行も自分だけ行かずに練習に参加するほどサッカーが大好きでした!なので、高校進学時にはサッカー推薦をもらうことができました。 高校生活は、サッカーを通じて人間関係の学びを得られたことがとても印象に残っています。通常部活というものは、監督がいてその監督によって決められた練習メニューを選手がこなし、その結果などをみて監督が試合メンバーを決めたりすると思うんです。ただ、自分の部活はちょっと違って、選手たちで練習メニューや試合メンバーを決めることになっていました。僕は、その中でもリーダーとしてメニューやメンバー構成を考えていたのですが、その点に関して役不足だった部分もあって、もう少し良い方向に持っていけたのではないかという後悔が残ったまま卒業を迎えてしまったんです。 ーなるほど、そんなことがあったんですね。でも高校生の時点でそういった気づきがあったことは、きっとこの後の井出さんの活動に良い影響をもたらしているのではないかと思いました!でもこれだけサッカーに打ち込んでいたら、大学進学はどのように考えて行ったんですか? そうなんです。年末の選手権大会を目指していると予選が11〜12月まであり、どうしても引退の時期は高校3年生の冬になってしまうんですよね。そうなると、もうそこから大学受験に向けて勉強!と言ったところでもう遅くて(笑)何せこれまでサッカー漬けの日々を送っていて、高校生活三年間は教科書すら開いたことない、みたいな状況でしたからね(笑) ようやく自分の進路と向き合えたのは、サッカー部を引退したその時期からでした。やっぱり、実家が農業を営んでいるということから自分が進むとしたら、経営学部か農学部がいいのではと思い、結果的に東京の玉川大学農学部に進学を決めました。 大学で得た新しいチャレンジの場が、「働く」の意識を変え、新しい道を切り拓くきっかけに ーサッカー漬けの日々から、突然大学進学と周りの環境も一変したのではないかと思いますが、振り返って大学生活はいかがでしたか? サッカーは自分の中で高校生活で燃え尽きた感もあったので、大学では特に部活には入らずに、フットサルサークルとアカペラサークルに入りました!当時、フジテレビ系列で放送されていた人気番組「青春アカペラ甲子園 全国ハモネプリーグ」というのがあって、そこに出演しているアカペラサークルの大学生にそれにすごく憧れていたんです(笑)ああ、大学に入ったらみんなアカペラやるんだなって思ってましたからね(笑) ーサッカーからの突然のアカペラ!大転身ですね(笑)大学生活では大きな転機ともなる出来事があったそうですが、そちらの体験もぜひ教えてください! 所属した学科がカナダかオーストラリアへの留学が必須になっていて、僕もカナダへ2年生の春から秋にかけて留学へ行きました。もちろん英語も喋れないですし、その上で課題にも取り組まなければいけないのでものすごくハードな日々でしたね。留学中はサッカークラブにも参加させてもらっていたのですが、言語がわからないながらも週に2回くらいサッカーをしていくうちに自然とコミュニケーションができるようになっていき、それがとても楽しい時間でした。言語が分からなくても生きていける、ということをこの留学では学びましたね。また、この留学をきっかけに、新しい全く知らない環境で挑戦することの楽しさをしりました。 ーそうだったんですね!そう言った経験を通して経験値を積んだと思うのですが、帰国後は何か次にチャレンジしたことはあったんですか? 帰国後、友人がベトナムであるビジネスインターンに二週間参加するという話を聞き、自分もやってみたい!と思い参加を決めました。ビジネスインターンということで、新事業立案をして実際に現地のビジネスマンや日本の経営者にプレゼンテーションしたりするのですが、まあボロボロにされましたね(笑) しかし、そのプレゼンテーションをより良いものにしようと仲間と深夜まで寝る間も惜しんで試行錯誤作り上げて行ったのは、非常に貴重な体験でした。 また、ここに参加したメンバーはハイレベルな大学の生徒も多かったので、そう言った人々とたくさん知り合えたことも財産になりました。これまでは大学サークルの交友関係が中心だったので、全く雰囲気の違う仲間と出会えて僕も新鮮だったんです。 ーなかなか普通の大学生活では体験できないような経験ですね!すごい刺激的な毎日だったことと思います。そんな経験を経て、次に井出さんが進んだ道は何だったんですか? そのビジネスインターンを通して、株式会社はぐくむの代表取締役である小寺さんという方と出会ったのですが、その方とその後も親しくさせていただき、ある日「ひーくんにとって一番ベストなプログラムがあるよ!」と言ってあるビジネススクールを紹介してくれたんです。その紹介されたスクールに6ヶ月間通っていたのですが、そこで僕の働くということへの価値観はガラッと変わりました。 それまでは実は、全く働くことへポジティブな印象を持っていなかったんですよね。というのも、先にも言った通り実家は長野県佐久市で150年続く種苗会社を営んでおり、生まれながらにして僕はその家業を継いで行かなければならないと思っていました。そうすると、自分の仕事のイメージや自分の生活が20年30年先どうなっていくのかも、父や祖父を見ていれば想像することが容易にできました。想像の範囲内の自分の人生、決まり切った道みたいなのがすごくつまらなく思えて、それで働くことにあまり前向きじゃなかったんですよね。 しかし、そのビジネススクールで「働く」の語源は「傍(はた)を楽にする」ことであり、傍(はた)というのは自分の周りの人たちを指し、その人たちの苦労を取り除き、より楽になるようなものを提供することが働くということだと学びました。その話を聞いてる中で、自分にとってそれに当たる人は一体誰なんだろうと考えた時、真っ先に思い浮かんだのが農業をしている方だったり地方の中小企業の方だったんです。ここで初めて僕の中に、働く=家業を注ぐことではない という選択肢が生まれました。 ーなるほど、私も勉強になりました!そういう学びもありつつ新しい自分の道が拓くきっかけにもなったんですね。ただ、そういう価値観が変わるような事柄に直面した時、全てを放棄して全く別の道を歩む人もいると思うんです。その中で井出さんが真っ先に周りの人を思い浮かべて、そこに向かうことができた理由はどこにあったんでしょうか? 150年続く種苗会社を営んでいる家庭に生まれることは、そう願ってもできるものではないですし、自らをもって選択することのできない運命だと僕は思っています。ただ一つ言えることは、僕は生まれながらにしてそういう環境を持っているわけで、それを生かすしか他ないなと率直に思ったんですよね。ここまでこの家業を守ってくれた先代の方々にも尊敬と感謝の気持ちがあったし、その意志を継いで僕の力でいい方向に持っていくしかないと思ったんです。 先にも話したように、以前はこの家業があることを僕は人生のデメリットだと思っていたんですが、今ではそのおかげでビジネスのヒントをもらえたと思っていますし、自分の新たな道を切り開けたと思っています。 農業の課題解決をしたい。その信念と対話から生まれた「農業人材シェアリングサービス」 ー新しい道を決めた井出さんですが、実際にはどのように最初は行動して行ったんですか? 最初は、ビシネススクールで出会った同期と小さいことからトライを始めていきましたが、そのうちに自分の中でもアイデアが出てきて、自ら事業を立ち上げたりもしました。 数年前に、宿泊施設・民宿を貸し出す人向けのサービス「Airbnb」が日本でも流行し出したことを覚えていますか?その時に、自分が住んでいた長野県の軽井沢や蓼科といった別荘地で空き家になっている物件が多いことが問題になっていました。そこで、その空き家をリノベーションして、民泊業としてバケーションレンタルできないか考え、様々な別荘管理会社に連絡を取って掛け合ってみるみたいな事からまず始めていきました。またその中で、様々な企業と話しているうちに歴史あるところからベンチャー企業まで様々な地方企業と東京の学生をつなぐような企業体験ツアーを発案しやってみたこともあります。 ーどれも面白そうな事業内容ですね!とても興味深いです。そこからはどうやって今の事業へと変わって行ったんですか? 今の会社は、大学4年生の夏休みに起業しました。当時、いろいろな事業がしたいとピッチイベントや登壇イベントにどんどん出ていたのですが、そこにきっかけがありました。 その中で、株式会社ガイアックスという企業がやっているイベントがあり、それがシェアリングエコノミーと何かを掛け合わせてピッチしてみませんか?という内容で、面白そうと思って参加してみて、僕はそこで農機具のシェアを提案したんです。農機具が余ってるという農家さんの課題を、c to cでシェアしていくことで解決するというものを提案したのですが、実際にこれを事業化しましょうと言ってもらうことができ、これがまさに企業にきっかけになりました。 ー農業のフィールドは同じでありつつも最初は農機具のシェアから始まったんですね!しかしそれがなぜ今の事業である「農業人材シェアリングサービス」になっていったんですか? 根本的に僕の中では、農家さんの間で一般的に存在する課題を解決するという目標があったので、事業をする中で一番大切にしていたのは、農家さんとのリアルな対話でした。その対話を続けていくうちに、自分が思っているものよりも違う課題が見えてきたんですよね。そしてその課題に対しては、今の事業では何の解決にもならないと思い、方向転換をすることになりました。その課題というのが「人手不足」だったんです。 農業には、顕著に閑散期と繁忙期があり、地域によっては夏場の6ヶ月間は忙しく、冬は半年間休んでいるみたいな農家さんも多くいます。ただそうなると、一般的にある通年採用というものがどうしてもフィットしなくて、既存の人材紹介等サービスがが全く機能していなかったんです。そこで考えたのが、農繁期スポットをしながら産地間で人材をリレーしていく仕組みです。 例えば、一年を通してキャベツはスーパーで買うことができると思いますが、あれは時期をちょっとずつずらして色々な産地で作られているからです。なので、一年間で群馬県、千葉県、茨城みたいに産地が移り変わるところに、人材も一緒に動かしていけば専門性も高まってその道のプロも育つし、必要な時に人も来てもらえるし、人件費も最低限で良くなるということになります。それがまさに今のやっている事業「農業人材シェアリングサービス」ですね。 ー実際の農家さんとの対話から生まれたこの発想、本当に素晴らしいですね!!ただ事業を変えるいう決断は並々ならぬものがあったと思いますが、その辺はいかがでしたか? その前やっていた事業も、メディアに取り上げてもらったりしていたので決して不調だったわけではありませんでした。だからこそ、本当に事業を変えることは正しいのだろうかという迷い話ありましたね。ただ、基本的にはやはり自分の傍(はた)である、農家さんのことを考えるなら今の状態では本当の価値は生み出せていないという現状があったので、やはり事業は変えていこうという決断に至りました。 ー自分の傍(はた)である人々と真摯に向き合う、そしてそこへの価値提供をとことん突き詰める姿勢が本当に素敵だと思いました!これは私たち社会人が仕事を進めていく中でも見習うべきものだと感じました。本日は貴重なお話本当にありがとうございました! 取材者:高尾有沙(Facebook/Twitter/note) 執筆者:後藤田眞季(Facebook) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

一輪車で世界一周・土屋柊一郎さんに学ぶ!人生の経験を最大限に生かす方法

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第192回目となる今回は、土屋柊一郎さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。 小さい頃から一輪車の世界大会で優勝したり、釣り雑誌での連載やyoutubeでの発信、そして日本一周・世界一周と、現在においても尚アクティブに挑戦し続けている土屋さん。土屋さんのエネルギーの源となるような考え方や、これまでの一風変わった経験について取材しました。 小学校から一輪車をはじめ、国際大会優勝という世界一を達成、怪我をしながらも続けられた理由とは? ー早速ですが、自己紹介をお願いします。 1994年生まれ、AB型の土屋柊一郎です。小学生の頃から一輪車をして、19才の時に一輪車で日本一周で旅に出て、その2年後の21才で一輪車で世界一周をしていました。その後、旅する中でもっとも好きになったカンボジアという国で、BLANKゲストハウスという日本人宿の運営をしています。現在コロナの影響でカンボジアのゲストハウスは休業中なのですが、日本に帰ってきてからシェアハウスを作ろうと思い、9月に沖縄からスタートして今現在で全国に7拠点展開しています。宜しくお願いします。 ーそもそも、一輪車と出会ったきっかけはなんだったのですか? 父が一輪車をずっとやっていて、実は父が一輪車の元世界チャンピオンなんです。その影響で父に教わるようになり、10歳の時には一輪車の世界大会で日本代表として出場しました。そのときに、金メダル3つといくつかの賞を受賞することが出来、当時は嬉しかったことを今でも覚えています。 ー世界大会で優勝後は、プロになりたいと思っていたのですか? いや、プロになる気は特になくて、一輪車の世界大会で優勝したらその時にやりたかった野球をしてもいいということだったので、優勝後は野球を始めました。その後も中学生では陸上をやったり、何かを極めるというよりはその時々で好きなことをしていました。 運動に関係なく、釣りも好きで、釣り雑誌にも当時載ったんです。中学生の頃から誌面に載り始めて大学生になってからはその月刊誌で連載を持っていたりしていました。中学や高校の頃は一輪車や陸上よりも釣りがメインの少年でした。(笑) ーそれから時が経ち、19歳で日本一周をしようと思ったきっかけとは? はい。それまでは、色々やっているように見えてレールの上を乗っているような人生だったんです。大学2年の頃に日本一周をしたのですが、3年生はインターン・4年生は就活で忙しくなるなというイメージだったので、時間のある今にしかできないことをやろうと旅に出ました。はじめは自転車で行こうかな、と思ったのですが自転車で日本一周って実はたくさんいるんですよね。なので、自分にしか出来ない旅をしようと一輪車で旅に出ることにしました。一輪車だけでは移動の制限も多いので、加えてヒッチハイクもしていました。だいたい2か月ほどで終えました。 最初は「挑戦したい」という気持ちの方が大きくて日本一周に出たのですが、この日本一周をきっかけに旅や出会いが大好きになって、世界一周したいと思うようになりました。 ー日本一周中にいちばん記憶に残っていることは何がありますか? いちばん記憶に残ってること…たくさんありすぎて選べませんね。やはり人との出会いが1番大きかったですね。たとえば、宮崎を走ってる時にたまたま道の途中で自転車で日本一周をされている方と出会い、話が盛り上がってその日は夜ご飯をご一緒にさせていただきました。その方は会社の社長をされている方でして、その後、自分が世界一周の旅をすることになった時にスポンサーになってくださったり、ゲストハウスのスポンサーもしていただけて。とても応援していただいてます。 逆にいちばん怖かったのは、箱根の峠道を下っているときに坂が急すぎて自分の足で止められなくて、突っ込んでこけたんです。ブレーキがないのはなかなか危険だなと感じ、世界一周にいくときは一輪車を改造してブレーキをちゃんとつけました(笑) ーそれは怖いですね...。そんな日本一周を達成された後は、予定通り就活などはされたんですか? いえ。日本一周の旅に出て、色々な生き方をしているひとが沢山いることを知り、自分の価値観がガラッと変わったんです。なので、自分のやりたいことをやったらいいと気付いて、世界一周にいこうと決意しました。初めは考えていなかったんですが、友人に冗談で「日本一周すげーわ。つぎは世界一周っしょ。」と言われて、初めは行かねーわ!なんて言っていたのですが、気付けばその気になってしまって。 その後、TABIPPOという団体が行なっているあるコンテストにノリで応募しました。自分のやりたい旅の想いをプレゼンして、そこで優勝すると世界一周の航空券がもらえるというものです。そうしたら、トントン拍子で優勝してしまって、気付いたらもう行くしかない状況になっていましたね。 ー世界一周ではどのくらい回られたのですか? 1年弱で20カ国ほど回りました。世界一周って色々な定義があると思うのですが、僕の定義としては国数というよりは、わかりやすく測れる指標で「一輪車で1万km」と決めました。休憩も含めて1日7時間でだいたい70kmくらいを走り、めちゃめちゃ走った日は1日maxで146km走りました(笑)一輪車で、10kgくらいのバックパックを背負いながら走っていたのでほんとにお尻が痛くなりました。途中からその痛みにも慣れましたけどね。 ーどの国が楽しかったですか? 圧倒的にカンボジアですね。楽しかったというか住みやすいというか、パッと一言では言えないのですが居心地の良さがとってもありました。宿が無かったときに、たまたまお姉さんに逆ナンされて泊まりに行ったらすごい面白い家だったり、と懐かしいエピソードが色々あります。世界一周を終えてから作ったフォトブックを持って、また会いに行きました。そういった普段日本ではできないような経験が、一輪車を通して沢山できました。   ゲストハウス経営やYoutube、メディア出演、アウトドアなど多岐に渡る土屋さんの軸になっている想いとは? ー24歳でカンボジアに移住されたんですね。 はい、当時は色々と迷いましたね。大学を2年休学して、世界一周したり、UUUMで社員として働いたりしたのですが、迷った末に卒業後にカンボジアへ移住してゲストハウスを開業しました。 一輪車で日本一周・世界一周をして、ほんとうに価値観がガラッと変わったんです。日本の常識は世界の非常識で、何が正解かなんて無いんだなと思いました。そんな感じで、自分のやりたいことで生きていくのがいいなと思って、ゲストハウスを開業しました。旅する側も旅人を受け入れる側も楽しいし、楽しい場を作ってその場を見ているのも楽しかったりして。 ーそうなんですね。現在は、シェアハウスを全国展開中ということですがどういった経緯があったのでしょうか。 カンボジアのゲストハウスは最初こそ知名度が全然無かったんですが、日本人宿でいちばん若者が集まる場に急成長してたんです。ですが、コロナがやってきてしまったので自分も行けず、カンボジアのゲストハウスは休業中です。何も出来ない中でも止まっていられないなと思ったので、日本でシェアハウスをやろうと思いました。 7月に沖縄で1か月限定で、シェアハウス兼ゲストハウスをやる機会があったのですが、とても楽しかったんです。シェアハウスは、より長期的なコミュニティができる点でゲストハウスにプラスした面白さがあると感じハマりました。そうして9月には本格的に沖縄につくり始めて、現在はどんどん全国に展開していく計画を立てています。 ー活動が多岐に渡っていますよね。色々な取り組みの中で、軸となる想いとかありますか? 考えたことはあまりないですが、自分の中で「なにがいちばん楽しいか」を大事にしています。あとは例えば、寒いのが苦手なので暖かいところに行くとか、満員電車が嫌いなのでそれを避けるような生活をする、などネガティブなことは排除するようにしています。 なかなか出来ない人も多いかと思いますが、小さい挑戦を重ねて成功体験をたくさん積んで、これ楽しい!いける!という感じに少しずつ出来ることが広がって自信に繋がっていくのかなと思います。何事も楽しそうならやってみればいいんじゃないかな、と思いますね。 ーいままで挫折や、辛かった経験などはありますか? そうですね、あまり挫折というのは無いですが。一輪車で日本一周を終えて、次は世界一周へ行くぞ!という時に、事故で右足の骨が5本バッキバキに折れたんですよ。そのときはさすがにメンタルやられましたね。自分のやりたいことが1年間できない期間、リハビリだったり車椅子だったり、とてもつらかったです。 あと、今年のこのコロナの時期もけっこうキツイですね。やっとカンボジアの事業が軌道に乗ってきたときに、何も出来なくなってしまって。家に缶詰にされてもやりたいことも無いし、自由にビュンビュン動き回る人間には自粛期間は辛すぎましたね。自分がやりたいときにやりたいことが出来ない環境って辛いですよね。 ーそういった挫折からは、どうやって立ち直りましたか? 正直、挫折はあまりしないタイプです。ですが例えば、上記のような自分ではどうしようもない場合には、その環境下で出来ることを自分なりに考えて行動しながら時が経つのを待ちますね。それ以外は、挫折する前に自分自身で環境をガラッと変えたりしながら改善しているのかなと思います。あとそもそも、他人から何を言われても全く気にしない性格であることのも大きいかもしれません。(笑)   世界一周した当時の経験から、今の自分がだからこそ気づける学びと生かし方について。 ー世界一周しての学びなどはありますか? 色々な価値観に触れられたのが良かったですね。多様性というか、いろんなひとがいるんだと知れたのが良かったし、自分の為になっているなと感じます。日本で、世界が狭いなあと思うひとに出会うと、一回旅に出たらと本気で思いますね。 ー旅人に共通する人間性など、なにかあるかと思いますか? 楽観的というか、やはり多様性を認められるひとが多いですかね。「何でもいいよね!」というか、違う価値観を認められて気にしないひとが多い気がしますね。 ーこれから世界一周にいくひとへ、何かアドバイスはありますか? 死なないことですね!命・パスポートさえ取られなければ何でもいいんじゃないですかね。とにかく自由に、たのしんでほしいです。いろんな形がありますから、細かいことは何も決めず、気の赴くままに旅に出てみたらいいんじゃないでしょうか。 世界に挑戦し続ける土屋さんはアフターコロナに何を描くのか。 ーいま、日本国内でも事業を展開していて、改めて思うことはありますか? コロナの時ってオンラインが流行ったじゃないですか。オンラインって便利だしじゅうぶん楽しいんですけど、なんだか足りないって思ってたんです。それが、宣言が解除されてオフラインで友人と会うと、やっぱり直接会う・オフラインってめっちゃいいな!と思いました。幸福度が高くて価値を感じるというか。これからオンラインが主流になっていっても、オフラインの価値が上がってさらに盛り上がるのではと感じています。 ー土屋さんのこれからの人生でやりたいことなど教えてください。 直近で何をやるといった人生計画的なものは何もなくて、行き当たりばったりというか、その時々で楽しめればいいなと思っています。例えば、コロナが起きるなんて誰も予想出来なかったですし、将来の予定を立てても狂ってしまうと思うので。 まあ勝手にやりたいなと思っているのは島を買って開拓したいです、コミュニティの拡大版みたいな。(笑)明確な目標は無いですが、そのときの環境に適応しながら、いちばんやりたいこと・楽しいことが出来ていたらいいなと思います。   ーありがとうございました。土屋さんのこれからのご活躍を応援しています!!   取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:福原蛍 デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)  

毛虫は桜餅の味がした!?好きを仕事にする時代に「昆虫食」を極めた地球少年の物語

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第166回のゲストとして、地球少年・篠原祐太さんをお呼びしました。 4才のある日、昆虫を口にしたことから広がった「昆虫食の世界」。 まさに今の時代にあった「好きを仕事にする」を体現された篠原さんですが、そこまでの苦悩や葛藤はかなりのものだったそう。 篠原さんが好きを仕事にするまでの道のり、また昆虫食世界の魅力についてたっぷりとお話を伺いました。   コオロギラーメンや旬の虫を使ったコース料理が味わえる「昆虫食レストラン」を開業! ー最近広まりつつ「昆虫食」ですが、篠原祐太さんは具体的にどんな活動を行っているのですか? 2019年11月に株式会社Join Earthを設立し、今は日本橋馬喰町に開業したレストラン「ANTCICADA」を営業しつつ、商品開発や販売を行っています。 このレストランは、「地球を愛し、地球を探究し続ける」をコンセプトにコオロギラーメンと、旬の虫を使ったコース料理を提供しています。   ー名前のインパクトが大きすぎる!昆虫食って聞くとなんか虫のフォルムがどうしても先行してしまうのですが… そうですよね。 世の中の昆虫を扱っているレストランも主に、 ・東南アジア系のお店で昆虫も一つの食材として扱っているところ ・普段口にしないような珍しい食材を使った、ユニークさに重きを置いているところ の二種類があり、そういうところがそのイメージを作っているかもしれませんね(笑) でもレストラン「ANTCICADA」は、食材として虫が持っている個性を掘り下げて、その魅力を届けたいという想いで昆虫食を作っています。 なので、いわゆる虫がそのままのっている!みたいなキャッチーな見た目ではなく、魚や肉と同じような感じで食材の一つとしてあくまで使っているだけなんですよね。 なので、たとえば提供しているコオロギラーメンも、別にコオロギがのっているだけではなく、出汁にそれが使われています。   ーなるほど、確かに一つの食材として使っているだけ、という言葉でしっくりきました!そうなると次に気になってくるのが味の部分なんですが、実際どんな感じなんですか? そうですね、見た目も味も、どちらも虫の良さが生かされているかを追求して、妥協することなくつくりあげています。 どうしても虫はゲテモノというイメージが強いですが、昆虫の個性や魅力を最大限に料理を通して伝えていければと思っています。 味についてなんですがイメージがつきにくい人も多く、実際僕も「どんな味がしますか?」と聞かれることが多いです(笑) 一般的には、「こおろぎはえびのような香ばしさがあって…」とか「蚕の幼虫は豆っぽい感じで…」みたいな「ぽい感じ」というのは伝えられていますが、ぶっちゃけ実際に本当にコオロギがエビと同じ味だったら、エビでラーメンを作ればいい話なんですよね。 あくまで味を想像してもらうために例えで言っているのであって、食べてみるとそれは他に例えようのない新たなテイストで私たちに驚きを与えてくれます。 虫一つひとつ味が全く違うので、そこが本当に面白いんですよね。   公園の木で見つけた毛虫は上品な桜餅の味がした!?彼の昆虫世界はここから始まった。 ーここまでのお話でだいぶ私も昆虫食のイメージが変わり、ものすごく興味が持ててきました!ここからはそんな昆虫の世界と篠原さんの出会いなどをお伺いしていきたいです! 実はもう物心ついた頃には、自然と虫が好きだったんですね。 虫だけじゃなくて草木や好みなどにも興味があって、それは幼少期の住まいが高尾山に隣接していて、非常に自然に恵まれた環境であったことが大きく関係しています。 基本は、山や川で遊んでましたからね(笑) そんな虫と触れ合う時間が多い生活の中で、自然と虫を口にしたことが全ての始まりでした。 ー…なるほど!誰かの真似をしてとかではなく自発的に行われたことだったんですね。ちなみに最初に食べた虫だったり、印象深いエピソードはあったりしますか? 最初に食べたものは、バッタやセミでしたね。 調理などはせずにそのまま食べてましたよ。 ただ、別にめちゃめちゃ美味しいから食べたわけではないし、その行為自体に深い意味があったわけではないですが、「虫によって味が違う」というとに気がついてそれが子供心ながらにめちゃめちゃ好奇心を感じたんです。 同じ虫でも個体差とか自分の体調で感じ取り方が変わってきたりして、飽きることなくのめり込んでいきました。 あと印象に残っていることといえば、公園の木についていた毛虫を食べた時に、苦味えぐみ一切なしの上品な桜餅みたいな味がして子供ながらに感動しました。 しかも、見た目はピンクとか黄色のけばけばしい色の毛虫だったので、まさかそんな味がすると思わず物凄い衝撃が走りました。 それでなんでその毛虫がそんな味になったのかというところにものすごく興味を持たところで、彼らは桜の木で生まれて桜の木の葉っぱを食べて育ったからというところに行き着いた時は、言葉に表現し難い感動がありましたね。 自分が食べている物の生き様を感じながらそれを食す、という食物連鎖を肌で感じることができたこの体験は間違いなくその後の自分の人生に大きな影響を及ぼしたと言えると思います。   昆虫好きを周りに言えない…好きを仕事にするまでの苦悩と葛藤の青春時代 ー幼少期の間に自分の人生を作る貴重な体験ができたというのは、ものすごく価値のあることだったと思います。じゃあもうそこからは昆虫世界にまっしぐら!って感じだったんですか? 実はそれが、ここからは結構長きに渡りいろいろな葛藤がありました。 それこそ幼稚園時代は、友達と虫取りに行くのがあたりまえでしたが小学校に上がると遊びもゲームやサッカーなど遊びが多様化していく中で、自分の昆虫好きを公言できなくなっていったんです。 言いたい気持ちがなかったわけではないですが、人と違う自分をまだまだ幼い自分は認められなかったんですよね。 なので周りの友人には一切言えてなかったです(笑) でもその中でもその虫への熱意は消えず、小学校の卒業文集にも生物学者になりたいと書いたほどでした。 なので、そのために私立の進学校を受験したりもしました。   ーなんと!自分の好きなことを好きと言えないストレスは、幼いながらにものすごく感じていたのでしょうね…でも中学校でガラッと環境も変わりそこでの変化も大きかったのではないでしょうか? いえ、中高ではむしろより葛藤が大きくなりました。 実は受験した中学は、生物部があったりして自分の好みを理解してくれる人がいたり、自分がやりたいことに打ち込める、と結構期待していた部分があったのですが、実際入部してみると全然活動していなかったりしてその期待を裏切られることになって…それは結構ショックな出来事だったんです。 そのショックな気持ちの裏には、やはり「昆虫好きな自分をさらけだせる」と思ったのに、それが叶わないなかったという想いがありましたね。 昆虫好きを公表してみんなに引かれるのが怖く、結局周りに対して言えないまま中高が終わっていきました。 ーまたまたショックな出来事に胸を痛めていたのですね。では、中高はどんなふうに過ごしていたのですか? 以前からスポーツは好きだったので、部活は野球部に所属していました。 しかしそれも、高校一年生の時に膝の剥離骨折によって退部を余儀なくされていまい…その出来事もショックすぎてその時は本当にもうどこに次はモチベーションをさけばいいか分からなくって混沌としていました。 でも結局、勉強は元々嫌いではなかったので、全てを勉強に注ぐことに決めました。 幸いにも進学校であったので勉強をがんばる環境も整っていましたし、やればやるほど目に見えて成績も上がっていくのはゲーム感覚で楽しかったですね。 でも少しギアを入れるのが早すぎちゃって、全国模試で一位をとったら燃え尽きちゃって、大事な高校二年生や三年生では全然勉強に身が入りませんでした(笑) いよいよ大学進学を考える時期になっても、特段やりたいと思えることもないし今進学しなくてもいいのかな…なんて考えることもありました。 でもそんな僕を見た親が、自分の出身校でもある慶應義塾大学の商学部に勝手に願書を出してしまったんです…! もうびっくりですよね。僕も何勝手にやってるんだよって思っちゃいましたもん。 挙げ句の果てに「まあどうせ行っても受からないだろうけどね」とか言われたもんだからそれに腹が立って、試験を受けに行って、入学することになりました。 でもこれが後々考えたら、親に本当に感謝すべき出来事になりました。 ー私も理系の学部出身だとばかり思っていたので、経歴を見た時に「商学部!?」となったので不思議に思っていた部分もあったのですがそういうエピソードがあったのですね(笑)結構衝撃的な出来事だと思うのですが、ぶっちゃけどう思いました? 勝手に願書出された時はどうなるかと思ったんですけどね(笑) これは後々わかったことなんですが、親が慶應義塾大学の商学部を選んだのは、豊かな環境や様々な人との関わりで自分の可能性を伸ばしていって欲しいという願い、また名のある大学の商学部で学ぶことは今後僕が何かを成し遂げる際に必ず活かされるだろうという想いがあったからだったんです。 自分のことを本当に理解している親しか出せないこのベストアンサーを聞いて、僕は心からその時感謝しました。 実際、大学入学以降昆虫食の活動をするにあたり、大学の名前が僕の背中を押してくれる場面やビシネスの場で商学部の学びが活きた場面は本当にありました。   自分の好きをシェアできる喜びをかみしめ、大学で再び開いた昆虫世界の道へ突き進む ーここまでは小学校〜高校まで自分の好きをシェアできない、好きなことに打ち込めないことへの葛藤が大きかったと思うのですが、大学入学して変化はありましたか? 大学では、いろんな形の「好き」を追い求めていく人を見て「好きってこんなに形があっていいんだ」と思えるようになり、ついに周りにも昆虫好きの自分をさらけ出すことができたんです。 またちょうどその頃、国連が昆虫食を推奨する報告書を発表したで世間の注目が一気に高まったこともかなり後押しになりました。 これまでひた隠しにしてきたのですが、国連というおおきな機関が自分の味方になってくれたみたいですごく勇気づけられたんですよね(笑) ーまさに時はきた!という感じですね。長きに渡る葛藤本当に辛いものがあったかと思います。ちなみにそれを公表した時、周りの反応はどうでした? 公表とは言ってもまずは、Facebookの投稿から…と想い投稿欄に思いの丈を綴ってみたものの、投稿ボタンを押すのにはものすごく時間がかかりました。 正直その投稿もあまり周りの反応は良くなかったんです(笑) それはそれでショックではあったのですが、それでもその投稿を見てDMで「興味深い!今度一緒に昆虫食食べてみたい!」と言ってくれる友人もいたんですよ。 そして実際に一緒に食べにいって、自分の好きな昆虫の話を一緒にしたり、何より昆虫食を食べて感想などをシェアしたその時間が本当に本当に楽しくて。 その後その友人から「昆虫がこんなに美味しいなんて、世界観が変わったよ!」なんてメッセージをもらったりして、それが今の活動の原点になりました。 なんとなくのイメージで昆虫に触れられない人もたくさんいて、それをみている子供たちもまたよくないイメージを持つということがよくあると思います。 でも、大人たちのそう言ったイメージで子どもたちの世界が閉ざされてしまうのは非常に悲しいことだと思っています。 なので、この昆虫食を通して、昆虫の世界の素晴らしさを多くの人に知ってもらいですね。 僕は、そんな昆虫や昆虫食に興味を持ってもらえる人に120%で応えられるようにこれからも活動を続けていきたいと思います。 ー好きを仕事にする、とはまさにこのことだと思いました。途中様々な境遇におかれたとしてもその熱意は絶やさなかったこと。そしてその世界に導かれて今立つべき場所に立っている、そのように感じました。貴重なお話本当にありがとうございました。   取材:青木空美子(Twitter/note) 執筆:後藤田眞季 デザイン:五十嵐有沙(Twitter)

不安を超えるワクワクを求めて。松本佳恋さんに学ぶ、答えがない未来を楽しみ続ける生き方とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第183回目となる今回は、松本佳恋さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。   大手企業に勤めながらパラレルワーカーとしてアクティブに活動されている松本さん。ご自身をとてもポジティブだと自負されていますが、実は中高時代はネガティブ思考だったとのこと。彼女の生き方を変えた出会いや経験が一体何なのか、取材しました。   海外大進学を決意したワケとは? ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 小学校3年生から2年半程シンガポールで過ごしましたが、それ以外は高校までを神戸で過ごし、大学はアメリカのニューヨーク州立大学ストーニーブルック校に進学。卒業後新卒で化学メーカーに入社し、現在3年目になります。本業とは別に本業終了後の時間や土日を活用してライターとして活動をしていたり、高校生みらいラボという教育団体で運営をお手伝いしている他、フリーで英会話を教えたりしています。 ー小学生の頃にシンガポールに住まれていたのですね。 はい。8歳(小学3年生)の夏から、父の仕事の関係で家族でシンガポールへ引っ越しました。両親から「シンガポールに引っ越すよ!」と言われた時はシンガポールがどこかも分からなかったので「は?」となったんですが、母が家族は一緒に過ごすべきという考えを持っていたので、日本に残るという選択肢は初めからなく家族全員で引っ越しました。 シンガポールは多様性に溢れた国で、住みやすくてとても良い国でした。インターナショナルスクールに入学したのですが、初めは英語が全く分からずただ座っているだけという状態が続き大変でした。でも、床に座って授業を受けたり、おやつの時間があったり、授業中もお茶を自由に飲んで良かったりといった日本の学校にはない自由な雰囲気はすごく好きでした。「なんて自由なんだこの国は!」と思いましたね。そんな環境に慣れてしまったので逆に日本に帰国してから日本の学校生活に慣れるのが大変でした。 せっかく英語が出来るようになったのだから、と帰国後は帰国子女枠での入試があった神戸の私立の中高一貫校に進学しました。 ーなるほど。17歳の時には、高校生外交官プログラムに参加されたそうですね。 はい。高校生外交官プログラムという、AIU保険会社(現AIG保険)が全額奨学金を出してくれる日米国際交流プログラムに高校3年の夏に参加させていただきました。アメリカ人20人が日本・京都にやってきて、全国から選ばれた日本人20人と合計40人で10日間一緒に過ごすプログラムでした。 実は、シンガポールから帰国してから英語が嫌いになり、英語を積極的に使ったり、勉強したりすることから遠ざかっていました。けれど高校生になってから自分の将来を少し考えるようになって、「英語を話せることは自分の武器だ」と気づきました。そこから英語を伸ばそうと思い、短期留学に行ってみたり、中学で辞めてしまった英会話学校に再度通ってみたり、英語のスピーチコンテストに出場してみたり、AFSという留学団体がやっているサマーキャンプに参加してみたりしました。高校生外交官プログラムも「夏休み 無料 英語」とググったところたまたま見つけて応募しました。  ーこのプログラムの10日間を経て、心境の変化などはありましたか? めちゃめちゃありましたね。このプログラムに参加したことで自分のその後の人生観や進路選択が変わったので、参加できたことに感謝しています。 プログラムに参加するまで、現実派だった私は、「無難に安定して良い人生を送るだろう。自分の人生こんなもんだろう」と思っていたんです。でも、プログラムの参加者たちが大きな夢を語ったり、将来に対してすごく前向きな思いを持っているのを見て、「大きい夢を語ってもいいんだ。自分の人生こんなもんだって卑下せずに、自分の人生の可能性をもっと認めてあげてもいいかな」と初めて思えたんです。みんな人生一度きりを体現するかのように楽しそうに生きているのを見て、私ももっと楽しく生きたいなと思うようになりました。その気づきが今の生き方に繋がっていると思います。 また、そのプログラムで仲良くなった広島県出身の女の子が「アメリカの大学に行く!」と言っており、そういう選択肢があることを初めて知ったんです。その言葉が自分の進路を考えるきっかけになりましたね。 ーそこからどう言った選択を? 正直、プログラムが終わると現実に戻り「いや、アメリカの大学なんて無理でしょ」という思いに戻っていました。でも、高校3年の11月末にいただいていた推薦先に進学することに、もう無視できないほどの違和感を覚えたんです。進学予定だった大学に通う姉や周りの知り合いからの話を聞いて、もし自分がこのまま推薦先の大学に入学したら、1-2年目はバイト・サークル漬けの生活、3年目は留学、4年目は就活。卒業後はきっとそこそこ良い会社に入社して、そのあとはもう結婚?出産?と思った時に、なんてつまらない人生を送ろうとしているんだろうと思ってしまったんです。それに対して、アメリカの大学に行けばどんな人生になるかが未知で、無限に将来の選択肢が増える気がしました。 すでに進路変更するには遅すぎる時期だったのですがそこで初めて先生に相談して、アメリカの大学に出願する準備を始めました。クリスマス前までにはエッセイや出願資料を全部用意して出願完了させていたので、もう本当にドタバタでしたね。両親は突然の進路変更にもちろんびっくりしていましたが、浪人しないように複数の大学を受験することと、日本の大学へ行く予定だった分を超える学費は自分で払うことを条件にアメリカの大学への進学を許してくれました。なので今は絶賛借金返済中です(笑) アメリカといえばニューヨークだろうという安易な考えでニューヨーク州の大学を4校出願した結果、全ての大学から合格をいただくことができました。まさか全て受かると思っておらず、選ぶ選択肢があると思っていなかったので、合格してからどこに進学するかかなり迷うことに。結局どうやって決めたらいいか分からなかったので、ストーニーブルック大学で毎年開催されるイチゴフェスティバルに行きたいという理由だけでストーニーブルック大学に進学を決めました。   海外生活を経験して今に活きていること ー実際に海外の大学に行ってみてどうでしたか? 勉強はとても大変だったんですが、アメリカでの生活はとても楽しくて自分にしっくりきました。学費を自分で払ってでも行った価値があったなと思います。アメリカの大学も日本同様、基本4年で卒業なのですが、アメリカの大学は単位取得が終わり次第卒業申請をして卒業することが出来ます。学費を抑えることができるのもあり、私は3年で卒業しました。また、アメリカの大学だからこそある制度をフル活用したく、専攻を2つ、副専攻を1つ選択しました。大変だったんですが、やってみてよかったです。 ー在学中に、ライターも始められているんですよね。 そうです。同じように海外大学に進学されている方とTwitterで繋がり、その方からニューヨークの現地情報や海外進学に関する情報を発信するメディアのライターをやらないかというお話を頂いたのがきっかけではじめました。 私自身、周りに海外進学をする人がいなかったので情報収集にとても苦労したこともあり、これから海外進学を考える人たちの役に立ちたいなと思ったんです。初めはボランティアという形で始めたのですが、やっていくうちに意外と書くことが好きということに気づき、誘っていただいたメディアに加えて、留学エージェントなどの媒体に寄稿したりし始めました。 ー海外の大学に進学をした、という選択をして今に活きていることはありますか? 生き方、考え方ですかね。アメリカに行って、とてもポジティブになりました。 中・高時代の私はとても現実主義者で、「人生こんなもんだろ」と冷めていたのであまり人生が楽しくなかったんですよね。でもアメリカに行ってから、自分の好きな服を着て自分の好きなことを主張する周りに影響されて、私ももっと自分らしく生きたいと思うようになりました。そこから、自分のことをとても好きになることができ自己肯定感がだんだん上がっていきました! 新卒で日本の大手企業に就職。海外ではなく日本で就職した決め手は? ー帰国するかどうか迷いましたか? とても迷いました。というのも、夏季休暇で日本に一時帰国すると自己肯定感が下がってしまうのが分かって。私が好きなのは、アメリカにいる自分だから、卒業後もアメリカにいたいなと思いました。ですが当時トランプ大統領が当選した直後だったので、卒業後のVISAの確保がおそらく厳しいなというのと、アメリカでは自分の専攻していた分野と一致する仕事にしか就職が出来ないので、そもそも応募できる仕事が限られていて。あまりやりたくない仕事をしてまでアメリカに居続けるかどうかの迷いもあったんです。 そのことをたまたまそんなに好きじゃなかった教授に機会があったので相談してみました(笑)そしたら、「あなたは18歳の時、単身でNYに乗り込んできたんでしょう?22歳のあなたなら、どこに行くのも怖くないわよ。一度日本に戻って違うと思ったなら、アメリカに戻ってきたら良いし他の国に行くでも良い。そのスキルが今のあなたにはあるから。今のあなたは、無敵よ。」と言われて、「あ〜確かにな」と思ったんです。アメリカに戻りたいと思ったらいつでも戻れるな、という謎の自信がその時に生まれました。だったら、一度日本に戻ってみて自分と向き合ってみるのもひとつかなと思い、帰国することを決めました。 ー先生の言葉に背中を押され日本に帰国することを決意し、その後就職までには1年間のギャップイヤーがあったと伺っています。 そうですね。帰国したのがちょうど同い年の子達が就職している時期だったので、急いでその波に乗って就活をしました。そして6月にいくつかの会社から内定をいただくことができたので、7月から入社までの期間はサマーキャンプの運営スタッフをしたり、アルバイトを掛け持ちしたりしてフリーター生活をしてました。 アメリカにいたときにボスキャリ(ボストンキャリアフォーラム)に2回参加したのですが、その時は業界問わずいろんな会社を受けて外資の保険会社から内定を頂いていました。でも何か違うなと思って。また、両親が外資企業ではなく日系企業に就職してほしいと思っていたのを知っていたので内定は辞退しました。それで卒業時には就職先が決まっていない不安もあったのですが、とりあえず日本に帰国して日本の大学生と一緒に就活してみることにしました。 ボスキャリだと限られた会社の数しか来ないのでそこから選べば良いのですが、日本だと中小も合わせると膨大な数の企業があるじゃないですか。さすがにやみくもに受けるのは難しいなと思い、日本に帰国後はメーカーを中心に、ボスキャリに来ていない、海外大を卒業している学生の採用が少ない日系企業に絞って就活をしていました。 ーあえてそう選んだのはどういった理由からでしょうか。 自分がこれまで出会ってこなかった人たちと出会ってみたいな、と思ったんです。化学メーカーだと理系の方が多くて、あまり海外に興味のない方が多いんですよね。また、化学メーカーの日系大手だと中途採用が少なく、新卒入社でしか入るタイミングがなかったので、違う世界を見てきた人たちと会える機会って今しかないと思ったんです。 メーカーを選んだのは、両親がメーカーを推していたというのも大きいです。どちらかというと保守的な両親が海外進学を応援してくれて3年間自由にさせてもらっていたことに感謝していたので、次の3年は親も納得するような選択をしたいな、と思っていました。そんな感じで何となくで選んで就職した会社でしたが、とても人にも環境にも恵まれて、感謝しています。   複業、個人活動など積極的に行動している松本さん。その行動力はどこから来るのでしょう。 ー本業以外もやってみよう、と思うようになったのはどんな心の変化があったんでしょうか。 わたし実は、「化学」に興味が無くて(笑)なんなら1番嫌いな科目でした。そして1年目で製品の勉強などをする中で「やっぱり化学は苦手だな」となってしまい…会社や職場の人は大好きなのですが、自分の仕事自体にはそんなに愛が持てていないんです。もちろん仕事は仕事なのでそれはやろうとは思ったのですが、それだけでは人生が楽しくなくなってしまうなと思いました。そこで好きなことをやろうと思い、色々なことに足を突っ込んでみたという感じですね。 ー課外活動では特に教育に関わっている印象があるのですが、そこにはどんな想いがありますか? 日本の英語教育が良く無いなと思ったことと、教育現場でこそ新しい選択を提示できるチャンスがあると思っているからです。例えば海外進学について、そもそも選択肢として提示してくれる先生が日本の中高にはいないんですよね。海外進学は合う合わないは勿論あるけど、そもそもその選択肢があるということを周囲の大人が提示してあげないとその人の生きる選択肢が狭まっている気がしました。選択肢は多いに越したことはないと私は思っているので、できるだけたくさんの選択肢が提示される教育現場になればいいなと思って活動しています。 ーいろんなことをやってみようという行動力は、どこからきていると思いますか? 基本的に、やって無駄なことは無いと思っているので行動できているのかなと思います。とりあえずやればいい、というか。 好きな言葉に「Everything happens for a reason.(何事も理由があって起こる)」という言葉があるんです。自分が見つけた選択肢には理由があるはずなので、やらない意味が無いなと思っています。やってみて、振り返った時にきっとそれに意味があったと思えるんだろうなあと、いうのが行動してみようと思う理由ですかね。後から何らかの形で繋がればいいなと思っています。   松本さんの考える、人生論とは ー将来に不安だったり、怖いと思うことはありますか? 常に将来は不安です!ですが、不安を帳消ししてくれるワクワクをいつも探すようにしています。これを挑戦したら自分がどうなってるか分からないな、というのが自分にとってのいちばんの楽しみです。「想像できないかも」と思ったらそれはめちゃめちゃ面白いことなので、不安かもしれないけどやりたいっていつも思いますね。   ー素敵ですね。最後に、今後考えていることや方向性など、ご自身が大事にしていきたいことなどありましたら教えてください。 私自身、これからどういうキャリアを選ぶかは決めていません。今の会社で働きながら、空き時間に好きなことに取り組む働き方を続けるかもしれないし、全く違う会社に転職するかもしれない。将来が決まっていないことに正直不安もありますが、それがやっぱり楽しみでもあります。何歳になってもきっと不安がなくなることはないと思うんですよね。でも常にそれを超えるワクワクを探して、数年後の自分がどうなっているか分からないという状況を楽しんで前向きにやっていけたらいいなと思います。   ー本日はありがとうございました!松本さんの今後を応援しています。 取材者:あおきくみこ(Twitter, note) 執筆者:福原蛍 デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)  

会社員×ユニキャリインタビュアーの中原瑞彩に聞く、ウェルビーイングな暮らしを目指すワケ

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第197回目となる今回のゲストは、広告プロダクトの販促に従事しながら、ユニキャリでインタビュアーとして活動中の中原瑞彩さんです。 会社員とフリーランスのどちらも経験し、現在はマルチに活躍している中原さん。そんな中原さんが、ウェルビーイングという言葉を意識するようになった経緯について、お話を伺いしました。 勉強に打ち込み、いじめとおさらば ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 普段はEC企業で販売促進のお仕事をしながら、ユニキャリのインタビュアーとして活動しています。 クライアントに広告を販売している営業さんに対して、「こういう売り方はどうですか?」とアプローチしたり、営業さんが担当している媒体の成功事例をまとめたりしていますね。媒体の企画から携わらせていただくこともあるんです。 ー中原さんが今の人生を歩むに至った経緯を教えていただきたいです。 最初のターニングポイントは小学生時代ですね。小5、小6くらいから男女分かれてグループができ始めて。それと同時にいじめが起こるようになっていきました。 活発な女の子グループが、クラスの他の女の子を順番にいじめていくみたいな、陰湿なことが繰り広げられてました。当時のクラスの雰囲気は悪く、息苦しかったですね。 ーその環境で、中原さんはどのように過ごされていましたか? 当時は結構冷めた目で見ていました。いじめっ子たちはあまり勉強ができない子が多かった反面、私自身は周りの子たちよりも勉強ができたので、「いじめしかすることないんだな」と内心思ったり。 地元の小学校から中学校にそのまま上がると、また同じメンバーと学校生活を送らなければいけないので、「あの人たちと私は違う。私は中学受験をして違う学校に行くんだ」と決心しました。 結果、無事に中高一貫の女子校へ進学することができ、空気が重い場所とは距離を置くことができました。   1度大学に入学したものの、中退後に再受験 ーその後の人生のターニングポイントを教えてください。 大学受験期ですね。当時ピアノを10年間やっていたので、ピアノで大学に進むのか否か迷っていました。もし音大に進むとなると、将来はピアニストやピアノの先生、音楽の先生など、道が決まっているように感じて。 将来がすでに想像できてしまうのは面白くないと思い、普通の総合大学に行くことを決めました。音楽自体は好きだったので、音楽学という珍しい専修がある大阪大学の文学部を目指すことにしたんです。 ところが現役時代は成績が及ばず、別の大学へ入学し、音楽とは関係のない学部で学びました。大学生活を過ごすにつれて、やっぱり音楽について学びたいという思いが忘れられず、再び大阪大学を目指そうと思って。大学に半年間通いながら仮面浪人をして、その後半年間は休学して自宅浪人をしました。 浪人後は無事大阪大学に合格し、入学することができました。 ー念願の大阪大学に入学した後は、どのような大学生活を送っていましたか? あんなに苦労して入学したのですが、大学に入ることがゴールになっていて、入学後は燃え尽き症候群になってしまいました。それではもったいないと思い、興味を持った活動には参加するようにしましたが、自分がやりたいことは見つかりませんでした。所属していたダンスサークルでは、友達と遊ぶほうが好きだったのでダンスの練習はあまりせず、友達と一緒にカメラ旅と称してお散歩しに行ってましたね。 やりたいことがない状態で就活の時期がどんどん近づいてきて。文学部の受験を通して文章を書くことが好きになったことと、なんとなくかっこいいという憧れから新聞記者を目指すことにしたんです。エントリーシートと筆記試験は通るのですが、面接ですべて落ちました。面接で深掘りをされると、根本的になぜこの仕事をやりたいのかはっきりしていないことがバレてしまうんですよね。 新聞記者の夢は叶いませんでしたが、マイページに登録していた会社から面接をしたいという連絡が来て、受かったのが新卒1年目の会社でした。   新卒2年目にしてまさかの退職 ー入社後はどのように過ごされていましたか? 1社目は志望動機が薄かったので、入社前はモチベーションが高くなかったです。ただ、入ったからには成果を出してやろうと思っていたので、同期が120~130人くらいいる中で勝ち残っていくためには自分の能力を高めなければ、と自分を奮起させていました。 2年目に差し掛かったころ、大きな仕事を任せてもらっていたので成長実感はぼんやりとはありましたが、「その成長は他の場所でも通用するのか」「今までやってきたことは正しいのか」などいろんな悩みが出てきたんです。 それから仕事の幅を広げるため、販促会議という広告業界で大きなコンペに、同じ部署の先輩と4人で出場しました。そこで自分の実力を試そうと思っていたのですが、思うような動きができず、打ちのめされてしまいました。成長に関する悩みがある中で業務量は増えてきて、すべて自分でこなさなければ、という思いになってしまって。最終的に体調を崩して、休職に入ってしまいました。 ー休職後に退職と復職という2つの選択肢がある中で、なぜ退職を選んだのですか? 復職するという考えはありませんでした。2つ理由があって、1つは業務量が多い状況に耐えられなかったからです。 もう1つは業務領域が決まっていたからです。決められた領域を1年間続けてきて、その領域はできるようになったけど、他の領域はどうなんだろう……という思いがありました。次の成長機会を求めていたタイミングでもあったので、退職を決めました。   たまたま見つけたミスコンで準々グランプリ ー退職後はどのように過ごされていたか教えてください。 実は1か月間の休職に入る前に、販促会議がきっかけでマーケティングスキルが不足していると感じていて。マーケティング力をつけるには、自分を商材としてプロモーションするのが1番効果的ではないかと思っていました。 そんなときにSNSで見つけたミス京都というコンテストの理念に惹かれ、出場を決めていたんです。ファイナリストとしての活動はやりがいがあり、当時の体調不良から感じた問題意識を発信するためにも最低でもベスト8に入ろうと努力し、結果3位にあたる準々グランプリを受賞することができました。 ーミスコンではどこを評価されていたのですか? ファイナリストをステージ上で選ぶときには、水着・着物・スピーチ・ウォーキングの4つの審査がありました。その前にファイナリストとして活動する期間が1か月ほどあるので、その期間中のSNSでの発信も評価されていましたね。 ーミスコンを経て、心境の変化はありましたか? ちょうど成長で悩んでいた時期だったので、その悩みを自分の中で消化できました。自分1人で努力をして何かを成し遂げるという経験は私にとって大きな影響がありましたし、賞を取れたことも自信につながりました。 その後フリーランスとして独立することを決めたときも、受賞によって得た自信に支えられたんです。「今なら何でもできる気がする」という気持ちになれたんですよね。   フリーランスでスキル不足を実感 ーフリーランスになった経緯をもう少し詳しく教えてください。 大学時代から漠然と「自分の力で稼ぎたい」という思いがあり、フリーランスに憧れていました。会社の名刺ではなく、自分の名前で仕事がしたいと思っていて。 ミスコンで賞を取り、自信がついていた時期でもあったので、大学時代からの夢を今こそ実現しよう、とやる気に満ちあふれていたんです。プログラミングスクールに2か月半ほど通い、ある程度スキルをつけた状態で独立しました。 いざフリーランスとして活動してみると、すぐに準備不足を実感しました。フリーランスは経験ありきの世界なので、スクールで勉強したとはいえ未経験の分野で仕事を取るのは難しいんですよね。そこでもう1度スキルを身につけなおすために、再就職を決めました。 ー再就職後の生活はどうですか? 新卒のころと違い、やりたいことが明確になったうえで入社しているので、やりがいを持って楽しく仕事ができていますね。業務時間の観点からも、バランスの取れた良い生活ができていると感じます。 ー会社員とフリーランスのどちらも経験した中原さんが考える、会社員とフリーランスそれぞれのメリットとデメリットを教えてください。 会社員のメリットは、企業リソースを存分に使えて未経験でも仕事がもらえることですね。新卒であっても、1人では集めきれないようなデータを使って施策を考えたり、地盤が整っていないとできない上流の企画に挑戦できたりするのは大きいと思います。 デメリットは、やりたくない仕事をやる必要や、関わりたくない人と関わる必要も時には出てきてしまうことですね。あとは個人のキャパシティによって業務量を調節しづらいことです。人不足でみんなが忙しい状態で、キャパオーバーですとは言いづらいですよね。 フリーランスは、自由に働ける・自分がルールになれるのが1番のメリットだと思います。また、営業で仕事を取ってくるところから、制作して納品して、経理などお金周りまで自分でやらなければいけないので、生活能力は上がりますね。それに付随して、お金を稼ぐことの難しさについて、肌身を持って感じられたのは大きかったです。企業に所属していたら、仕事をしていなくてもお金をもらえたりもするので、売上を出すことの難しさを感じにくいのではないかなあと思います。 逆にデメリットは、経験値ありきで仕事が決まるので、できる仕事の幅が先細りしていくことです。あとはフィードバックを得にくいことですね。企業からすると、その人ができなければ別の人に頼めばいいので。スキルを上げるためのフィードバックはお願いしないともらえないですし、もらえたとしても当たり障りのない内容であることが多いですね。 どちらのメリットデメリットも知ったうえで、現在はEC企業で働きつつ、プライベートではユニキャリのインタビュアーとして活動しているのですが、成長とプライベートの充実の両方を手に入れ、のびのびと過ごせています。   ウェルビーイングな未来の暮らし ー会社員としてだけでなく、インタビュアーとしても活動しているのはなぜですか? 依存先が1つになると良くないという考えが核にあるからですね。恋愛に例えると、メンヘラの彼女は頼る先が彼氏しかないから、彼氏の一挙手一投足に振り回されますよね(笑) 仕事も同じで、前職では自分の働いている会社しか居場所がないと思っていたので、頑張りすぎて体調を崩してしまいました。居場所を複数作ることで、心のよりどころを増やすことは大事だと思っているんです。 ーハードワークで体調を崩された経験がある中原さんが、働くうえで気をつけていることがあれば教えてください。 ウェブ業界で働いているとパソコンを見る時間が多くなり、どうしても目と姿勢が悪くなってしまうので、そこは気をつけています。そういうことは実際に体調を崩してからでないと気づきにくい部分だとは思うので。ミスコンで身体を鍛えた経験から、自分の身体をメンテナンスする大切さを学びましたね。 ー今後のビジョンや、考えている取り組みなどはありますか? いつかブックカフェを作りたいと思っています。日本人でストレスを抱えている人の比率が高いというデータを見たことがあって。ハードワークをしている人に限らず、ストレスを抱えている人にとっての居場所を作りたいです。 そしてより多くの人に対して、身体的・精神的・社会的に良好な、ウェルビーイングな暮らしを提供していきたいですね。 近い将来のことで言うと、現在入社4か月目なのでまずは今の会社でスキルを身につけて、今後いろんなことにチャレンジしていくための土台を築きたいです。 ー自分の成長だけでなく、周りの方にも還元していく中原さんの姿勢、とても素敵です。中原さんの今後のご活躍、応援しています!本日はありがとうございました! 取材者:増田稜(Twitter) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)

forucafe創業者の平井幸奈に学ぶ、好きを仕事にする秘訣

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第156回目となる今回のゲストは、bills本店での修業後に、現在都内に4店舗展開する「forucafe(フォルカフェ)」をオープンした平井幸奈さんです。 大学時代のアルバイトをきっかけに料理の世界に魅了され、単身でオーストラリアのシドニーへ渡り料理修業をした平井さん。そんな平井さんが店舗経営をするまでに至った経緯についてお話いただきました。 アフターコロナを見据えてメニュー開発 ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。 株式会社フォルスタイル代表の平井と申します。会社として大きく3つの事業を展開していて、メインはforucafeというカフェの運営です。早稲田に本店があり、渋谷と原宿、東京ワールドゲートにも店舗があります。東京ワールドゲートにある店舗は、2020年9月にオープンしたばかりです。それぞれの店舗によって提供している商品やサービスは異なりますが、利用していただくお客様のペースメーカーになるようなお店を目指しています。 2つ目の事業はFORU GRANOLA(フォルグラノーラ)というグラノーラのブランドです。保存料を使わず1つ1つ手作りしたグラノーラを、オンラインショップで販売しています。 3つ目はケータリング事業です。企業様のイベントやホームパーティー、撮影現場など様々なシーンでご利用いただいています。 ー平井さんご自身が店舗に立つことはありますか? 最近はほとんどないですね。業務に関してほとんど任せられる状況になっているので、新商品の開発や特別な指導があるときだけ顔を出しています。優秀な店長をはじめスタッフがたくさん育ってくれてとても頼もしいです。 ーコロナ禍で、9月に店舗を増やすことにした経緯を教えてください。 本当は1か月前にオープンする予定だったのですが、コロナの影響でどんどん延期になり、やっと9月にオープンすることができたんです。 周りではコロナの影響で閉店してしまうお店が多かったですし、弊社もコロナ禍で売上が半分以下になったので、このタイミングでの店舗出店はかなり勇気がいりました。 ただ中長期的に見れば、この挑戦は間違いではないと思い、出店を決めたんです。コロナ以前は、目の前の仕事をこなすことに精いっぱいでしたが、今回立ち止まって改めてブランドについて考え直す、良い機会になりました。外部の方にもアドバイスをいただきながら、これから10年先のことも考えてスタッフの技術面の向上や、メニューのクオリティを上げる取り組みを進めています。 ーメニュー開発は頻繁に行っているのですか? 各店舗ごとに、1ヶ月半~3ヶ月のスパンで定期的に行っています。 forucafeのforuは”for u”=”for you”つまり、「あなたのための」という思いを込めていて、みなさまの忙しい毎日のリズムを整える、ペースメーカーになるようなお店を目指しています。このコンセプトを実現するために、forucafeの店舗ごとのメニューは大きく異なります。 早稲田にあるforucafe本店のオープン当初からの名物はブリュレフレンチトーストです。表面にカソナードというお砂糖をまぶして、バーナーで焦がしてパリッとさせています。早稲田という場所柄、学生やファミリー層が多いので、気軽にテイクアウトできるお弁当やローストビーフ丼などのランチメニューも充実させています。 原宿店はWeWorkのオフィスに併設されていて、明治通りに面している特殊な立地です。毎日通われるオフィスのメンバーさんとのコラボメニューを定期的に打ち出す一方で、インスタ映えするような期間限定のブリュレフレンチトーストにも力を入れています。最近は世界大会にも出場したラテアーティストが活躍していて、定期的にコーヒーワークショップなども行う、ラテに力を入れている店舗でもあります。 渋谷店と東京ワールドゲート店は、完全にWeWorkのオフィスのメンバーさん向けの店舗です。渋谷店は新進気鋭の企業で働かれているオフィスワーカー向けに、週替わりのデリやおにぎり、お味噌汁など、気軽にサクッと使っていただけるメニューを展開しています。   ワーホリを活用し、bills本店へ飛び込み ー大学時代はどのように過ごされたか教えてください。 国立大学に行きたかったのですが、高校2年生のときに勉強面で挫折して、私立大学を目指し始めました。上京したかったこともあり、早稲田大学に進学しました。 大学2年生のときに留学を考え、両親に相談すると「お金は自分で用意しなさい」と言われて。「じゃあ働けばいいんだ」と思いました。当時billsの表参道店でアルバイトをしていて、billsはオーストラリアのシドニーに本店があるので、ダメもとで料理長に「現地で働かせてください」と頼んでみたんです。 すると「ワーキングホリデーのビザを取ったら行っていいよ」と言っていただいて。すぐに自分でワーホリのビザを取得し、飛行機や宿泊先も予約してシドニーへと飛び立ちました。 ー当時英語は話せましたか? 大学で習う日常会話レベルの英語しか話せなかったですね。キッチンで使う専門用語などはまったくわからなかったです。 ーbillsでアルバイトされていた頃のやりがいが「本店でも働いてみたい」という気持ちにつながったのですか? そうですね。大学1年生のときに、なんとなく大学には行っているけどこれといった目標もなくて、何者でもない自分にもやもやしていて。サークルは楽しかったですが飲み会があまり好きじゃなくて、アルバイトで料理を作っているときが1番楽しかったんです。 料理を作って、それをお客さんに食べてもらって「美味しい」と言ってもらえると嬉しくて。これを仕事にしてお金ももらえるなんて幸せだなあ、と思っていました。 実はbills以外にフレンチレストランでも働いていて。フレンチはうさぎやエスカルゴなど、日常とはかけ離れた料理ですが、billsは日常に密着した料理ばかりでした。ビル・グレンジャーというシェフが、「お家にお客さんを招き入れるような」というコンセプトで、内装はお家をイメージして作り、レシピもすごくシンプルでお家でもできるようなメニューにしたんです。日常的な空間と料理に、惹かれました。 ー本店で働いてみて感じたことはありますか? 夏休みの丸々2か月間、シドニーの本店で働いたのですが、日本とシドニーの現場はまったく違いました。当時日本ではキッチンを6~7人で回していましたが、本店では基本2〜3人体制。長年経験のあるプロしかいなかったです。 私は最初はまったく仕事ができなくて、「何しに来たんだ」「日本からお荷物が来た」という目で見られていたと思います。いつもキッチンの端っこで、パクチーをピッキングする作業ばかりしていました。 ーつらい状況をどのように乗り越えましたか? 仕事がまったくできなかった初めの頃は、午前9時から午後3時まで働く予定が、12時には「帰っていいよ」と言われて。私は何をしに来たんだろう、と落ち込んでいましたが、徐々に仕事を任せてもらえるようになったんです。 そのきっかけは、メニューチェンジのタイミングでした。メニューチェンジをするときは、総料理長から次のシーズンのメニューや作り方を伝えられ、みんながゼロからメニューを覚えるんです。今までの経験値はほとんど関係なく、全員ゼロからのスタートなので「巻き返すにはここしかない!」と思い、猛勉強しました。 1度言われたら1回で覚えることを意識して必死で働いていると、徐々に仕事を任せてもらえるようになって。料理長から初めて、「君がいてくれてよかったよ。ありがとう。」と言ってもらえた日は、本当に嬉しくて……今でも鮮明に覚えています。 最終的には、イギリスに出す新店のメニュー開発の総料理長アシスタントのお仕事をいただけたりもしました。   大学3年で、自身のお店forucafeをオープン ーシドニーからの帰国後、どのように過ごされたか教えてください。 billsを広めたビル・グレンジャーに憧れていて、「私もbillsのようなお店を作りたい」という思いはありつつも、当時の私にはお金も人脈もなくて。唯一料理を教えて欲しいと言ってくれる友人がいたので、材料費500円だけもらって自宅で料理教室を開催したり、学生団体のイベントでボランティアで料理を作ったりしていました。 そんなある日、「日曜日に使っていないカフェがあるから自由に使っていいよ」と言っていただけたんです。そこで月に一回日曜限定のフレンチトースト専門店をはじめたのが、forucafeのはじまりでした。SNSで拡散して、1ヶ月前から100人のご予約が埋まるご盛況をいただきました。 ただ単発では誰でもできるので継続したい、そしてビジネスとして成り立たせたいと強く思うようになったんです。 ーお店を出すことに迷いはありましたか? もちろんありました。お金がかかることなので、周りは大反対でしたし、実現できるかどうかも半信半疑でした。ただ好きなことを仕事にしたいと強く思っていたので、雇われるのではなく自分でお店を出そうと決意しました。 ー就職活動の時期は、今後についてどのように考えていましたか? 最初は就活のセミナーに出席していましたが、forucafeよりも魅力的な仕事は見つかりませんでした。いろんな方に「就職した方がいいよ」「就職すればもっと視野が広がるから」と言われましたが、「自分の気持ちに素直に」というのが私のモットーで。1番ワクワクできる道は、会社を作って大きくしていくことだと思ったので、みんなの反対を押し切って就職しない道を選びました。 もう1つ、私が大事にしているのが「ブレブレの時が一番変われるとき。選んだ答えはすべて正解。」という言葉です。選んだ答えを正解にできるのは自分だけですし、それを正解にできるように頑張ればいい、これを正解だと信じて進んでいこうという気持ちで今も過ごしています。 ーforucafeを経営していくことに決めてからのお話をお聞かせください。 アルバイトから社員になってくれた子が1人いて、その子と一緒にカフェを運営していました。私と同じ最低賃金の給料でしたが、やりたいことやコンセプトに共感してくれて、ゼロからいろんなことを二人三脚でやってきて。 そんなある日、お店でお客さんがいなくなったタイミングで突然辞めることを告げられました。予兆も何もなかったので驚いて、「ああ…わかった」と言って、レジから1,000円札を1枚抜いて、ひとまず近くのコーヒー屋さんへ1人で向かいました。コーヒー屋さんの前に着いても涙が止まらなくて。仕方なく公園のベンチで泣いていました。 休みの日も一緒に旅行するほど仲が良く、私生活でもずっと一緒にいた子だったので、恋人に振られたときのような感覚だったんです。公私混同していたことは今では反省していますが、それくらい大切な人でした。 私はずっと心の中で、関わってくれる人みんなを幸せにしたいと思っていたので、1番近くにいる子さえ幸せにできていないのか、とショックを受けました。仕事を始めてから今までで、1番つらく悲しい出来事ですね。 ーそのショックからどうやって立ち直りましたか? 起きていることは全て自分の責任として、しっかりと受け止め次につなげる努力をしました。 それまでは大学のサークルの延長みたいな感じで、フワっとしていた部分も多かったので、これを機に会社として真剣に経営をしていこう、と気持ちを入れ替えることができたんです。私自身、気の引き締まったタイミングでもあったので、その経験があったことで成長できました。   関わるすべての人に「foryou」を届ける ー何か決断をするうえで、大事にしているポイントはありますか? 何をするか、しないかを決めるときに、自分の気持ちがワクワクするかどうかを1番大切にしていますね。決断をしたあとは、「選んだ答えはすべて正解」という信念のもと、決めたらそれをやりきることを徹底しています。 今回も、コロナ禍で売上に伸び悩んだ中での新店舗出店は迷いましたが、中長期的に考えると虎ノ門の一等地にそうそう出店はできないですし、やりたいと思ったのでやることにしました。もちろん反対意見はたくさんありましたが、ワクワクしたインスピレーションを信じることにしたんです。 ー仕事で悩んだときに周りに相談はしますか? 夫や、社内で一緒に経営をしている子に相談をするくらいですね。最終的には自分で決めちゃうことが多いです。 ーそれは昔も今も変わらずですか? forucafeを開店するときや、新規事業を始めようと思ったときは、いろんな方に相談していて。相談された側は、相談内容に対してそれぞれの意見をくださるじゃないですか。それを1つ1つ受け止めていたら、「この事業はうまくいかないかもしれない」とネガティブ思考になってしまって…… たくさんの人にいろんな意見をもらいすぎて、自分の気持ちがぶれてしまうのであれば、ひとまずやってみてトライアンドエラーを繰り返し、より良い道を探っていく方が私には合っていると思ったんです。もちろん人に意見を聞いた方が勉強になることもあるので、雑談程度にお話することもありますが、聞きすぎないことも大事かなと思います。 ービジネスアイデアは日常から得ることが多いですか? 日常やいろんなところにヒントは転がっています。海外旅行先で、「これいい!」と感じたものを参考にしたり、Pinterestやインスタを見てヒントを得たり、日常的に私たちが食べてるものの中でメニュー化できるものを探したり。日々の暮らしの中で見つけたものを形にしています。 ービジネスを行ううえで、今も昔も大事にされている思いはありますか? forucafeの”foru”の由来でもある「foryou」の気持ちを大切にしています。例えばコロナ禍で店舗を3か月お休みしたことがあって。もちろん会社としても厳しい状況でしたが、いかに仕事を作ってスタッフのモチベーションを上げていくか、従業員1人1人に対して私ができるforyouは何か、を考えました。 社内だけでなく社外に対しても、foryouの気持ちを大切にしています。お客さんに美味しいを届けるというのはもちろんですが、それだけではなく、私たちにとって仕入業者さんも大切な存在です。業者さんは雨の日も風の日も、いろんな場所を回って大変じゃないですか。その中でも届けたいって思っていただけるような場所にしたいと思っていて。そういう意味ではお客さんだけでなく、業者さんやクライアントとも良い関係が築けるよう常に”foryou”を心がけています。 ー今後の方向性や、描いているビジョンを教えてください。 forucafeは、忙しない毎日のリズムを整える、ペースメーカーになるようなお店を目指しています。会社のミッションとして「make life delicious」を掲げているので、foryouの気持ちを持って、食を起点に人々のライフスタイルを彩るブランドを作っていきたいです。そして私たちらしく、一歩ずつ、ブランドを大きくしていけたらいいなと思っています! ー選んだ答えはすべて正解だと思い、夢を実現してきた平井さんのお言葉は、多くの方の励みになると思います。本日はありがとうございました!平井さんのさらなる挑戦を応援しています! 取材者:あおきくみこ(Twitter/note) 執筆者:Moriharu(Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

いつ来るか分からないライフイベントに対応できるように。株式会社ネクストビート・上津原清子の働き方

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第198回は株式会社ネクストビートで採用担当として働かれた後、現在は広報・営業として活躍されている上津原清子さんです。「珍しいことにチャレンジし、それを見て周囲がハッとすることに快感を覚える」という上津原さんが大学時代に挑戦したことや現在働かれている株式会社ネクストビートに新卒一期生として入社を決められた経緯などをお話いただきました。   小学生の頃から女性の働き方を意識していた ー現在のお仕事について簡単に教えてください。 株式会社ネクストビートという子育て支援事業などを行っている現在7期目のベンチャー企業で働いています。今年の10月より広報と営業を兼務していますが、その前はエンジニア・デザイナー・新卒・中途の採用業務を担当していました。 ー上津原さんの生い立ちについても少し教えてください。どのような幼少期を過ごされていましたか。 開業医の父と専業主婦の母、愛犬、広いお家…側から見るととても裕福で幸せな家庭で育った子供だったと思います。が、実際には両親の不仲や経済的に厳しい時期もあった家庭で育ちました。 専業主婦だった母が経済的に父に頼らざるを得ない状況をみて育ったこともあり、小さい頃から将来は自分の力で稼げるようになりたいという強い思いがありました。また、佐賀県で育ったのですが、女性は家庭に入り夫をサポートするのが大事という価値観に囲まれていたこともあり、女性の働き方については小学生の頃から意識していたように思います。 ーかなり早い段階から将来について考えられていたのですね。 そうですね。兄が9つ上にいたこともあり、少し先の将来のことを考えやすい環境にあったことも影響しているかと思います。小学4年には中高一貫への受験を決め、兄が通っていた男子校の共学1期生を目指して勉強に励んでいました。勉強すればするほど、数字が伸びていくのをみるのは楽しく、知らないことを知る楽しさも実感しました。そして無事受験に成功したことは貴重な成功体験になりました。   広い世界を求めて上京を目指す ーどのような中高生活を過ごされていたのですか。 共学1期生で女性が少ない環境だったということもあり、女性ということを強く意識しながら将来について考えるようになったと思います。また、進学校だったので、理系に進む人が多く、医学部志望者が多い環境でした。初めはそれが当たり前なのかと思い、理系に進むことを考えたりもしましたが、徐々にそれに疑問を持ち、結局文系を選択しました。 また今思うと、この頃から地元に居続けることへの窮屈さのようなものも感じるようになっていました。地元は過ごしやすく好きでしたが、新しいことにチャレンジにする人が少なかったり、決まった固定概念の中で生きている人が多くいました。兄が東京の大学に進学しているのをみて、私ももっと違う世界、もっと広い世界をみたいなと思うようになったんです。 ーそういった経緯で大学からの上京を目指されたのですか。 はい。自分の将来の選択肢を増やしたいと気持ちだけで東京の大学を目指していたので特にオープンキャンパスなどに行くこともなく、志望校を選んでいました。国立大学を本当は目指していたのですがセンター試験の数学で違う問題を解いてしまうという大失敗をしてしまい、中央大学の商学部に進学することとなりました。 ーセンター試験の失敗は引きずりませんでしたか。 問題を間違えたことに気づいた時は絶望しましたね。でもどの大学にいってもそこで頑張るしかないと気持ちを切り替えていたので、上京前は不安よりも期待とワクワクでいっぱいでした。 ーそうだったんですね。商学部を選ばれたのには理由があったのでしょうか。 一見お金持ちに見える家庭で育ちながら、お金に困った時期があったのが影響しています。父は医者としては良い先生だったかもしれませんが、経営者としては足りない点があったのではないかと思い、どうやったらうまくお金を回せるのかに興味を持ったので商学部を選びました。   学外に目を向け続けた大学時代 ー大学に進学してみていかがでしたか。 東京といっても自然が豊かなキャンパスで、学内のコミュニティはたくさんありましたが、社会との接点というのが思った以上に少ないなと感じました。 学内ではなくもっと外との繋がりを持ちたいという思いから、インターンに興味を持ち初め、大学2年では長期インターンに行ける授業を履修しました。そしてその授業で事業案についてグループワークで考える機会があったことをきっかけに共通の関心を持った友人と一緒に長期インターンの人材会社を立ち上げを手伝うことになりました。 ー大学生で起業も経験されたのですね。 私自身が社会との繋がりを求めていたこともあり、社会に早い段階で出るきっかけを後輩にも提供したいという思いが起業に繋がりました。大学生という強みを生かしてできる事業ということで長期インターンの人材会社を立ち上げたのですが、0から作り上げる作業は想像以上に大変でした。自分の力不足を感じることが多々ありましたね。 一方でビジネスをすることの難しさが面白いと感じる部分もありました。初めは消費者の動向を踏まえてビジネスを立ち上げたら成功したというようなサクセスストーリを聞きビジネスって面白そうと思っていましたが、実際にはそんなに簡単には行かないからこそ面白いのだということが分かりました。幼少期の家庭環境の影響でなんとなく選んだ商学部でしたが、社会に価値のある事業をつくる難しさと面白さを経験できたので商学部を選んでよかったなと思います。 ー大学卒業後の進路についてはどのように考えられていたのですか。 個人でも働けるスキルを身に付け、仕事を選べるくらいの立場になりたいと思い、個として活躍できる会社を探して就職活動をしていました。人伝にいろいろ話を聞いた結果、ベンチャーが合っているのではないかと思い、ベンチャーを中心にみていました。また、発信することに興味があったので就職活動と並行して就活アイドルとしての活動もしていました。 ー就活アイドル、ですか。 はい。内定をもらったらアイドルを卒業するというコンセプトの元、就活生の代わりに企業を訪問してインタビューした動画や模擬面接の様子の動画など生の就活情報を発信を行っていました。就活ってネガティブなイメージを持っている学生も多いと思うのですが、「就活をもっと自分らしく!」を伝える手段として就活アイドルという活動に関わりました。   ベンチャー企業に新卒一期生として入社 ーその後どういった経緯を経てネクストビートに就職されたのですか。 たまたま知り合いの方の紹介でイベントの司会をやらせていただくことになったのですが、それがネクストビートのイベントでした。そのイベントで出会ったネクストビートの女性社員さんの印象が強烈で…(笑)その女性社員が、現在ネクストビートで人事の執行役員をしている澄川さんなのですが、イベントで部下の方を叱咤されていたんですよね。その後お話させていただいたところ、妊娠中でありながらもバリバリにお仕事をされていることや、仕事に対するストイックな姿勢が素敵だなと思いました。鋭い質問を何度もされたので、この方と働くことができれば、自分をごまかすことなく成長できるのではないかと思いネクストビートを就職先として考えるようになりました。 当時ネクストビートはまで創業3年目で、初の新卒採用を行おうとしているタイミングでした。すでに入社が決まっていた同期1人と一緒に、「初の新卒として一緒に会社をメガベンチャーに育てて欲しい」という話をしていただき、新卒採用文化を作るというミッションの元、入社することが決まりました。 ー新卒一期生としての入社だったのですね。入社してみていかがでしたか。 人事として入社し、早速2018年卒の採用に向けて新卒採用の戦略をたてるところから取り掛かりました。何もしなかったら何もない状態からのスタートで、当時はとにかく夢中で仕事に取り組んでいました。悩む時間すらないくらい毎日がカオスで、正直当時の記憶はあんまりありません(笑) 無我夢中に採用業務に取り組んできた結果、入社時は60名程度だった会社が気づいたら300名を超え、オフィスも五反田のワンフロアから恵比寿の9フロアのビルに移動する程会社が成長していました。 ーそれは大きな変化ですね。働く中で、働き方などに対しての価値観が変わったりはしましたか。 子育て支援に関わる事業を行っているので女性の仕事と子育ての両立について考える機会は増えたと思います。その時々の目的に応じた、自分のやりたいことに合わせた働き方ができるようにするためには、やっぱり働き方を選べるように自分のできることを増やしていかなければならないなと今は感じています。自分のライフイベントがいつ来るのか分かりませんが、その時が来るまでに実力をつけていきたいなと思っています。   初心を忘れず、前向きな気持ちで仕事に取り組み続けたい ーとはいいつつも、いつ来るか分からないライフイベントに向けてモチベーションを保ち続けるのは難しいかと思いますが、何か気にかけていることなどはありますか。 自分の原点や将来の目標を常に考え、初心に立ち返ることを意識しています。入社時に代表が「一緒にメガベンチャーに育てよう」と言ってくださったことや、入社する時に「あなたを育てるから信じてついてきて欲しい」と澄川さんが言ってくださったことはよく思い出します。 自分の選択を正解にできるのは自分だけです。どんな選択をしても自分が納得できるまで頑張ることは大事にしています。 ー最後に、今後の目標などがあればぜひ教えてください。 仕事はかなりの時間を費やすものなので、仕事に対して前向きな気持ちを持って取り組んでいる人を増やしていきたいなと思っています。まずは広報として、社内で仕事に前向きに取り組んでいる人を社内外で紹介したり、仕事に対してポジティブな仲間を集めていきたいです。また、ゆくゆくは仕事に対して前向きな気持ちを持てていない人が前を向けるような機会を作っていきたいとも思っています。 取材者:山崎貴大( Twitter) 執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

木林毅さんに学ぶ!日本代表バスケ少年→大手→ベンチャー。別世界に飛び込んだことで見えたこと

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第176回 のゲストとして、株式会社テンシャル・木林毅さんをお呼びしました。 なんと木林毅さんは、バスケットボールでU-15やU-22に選ばれるほど実力のあるバスケ選手でした!そんな彼が筑波大学を卒業し、三井住友海上火災保険株式会社を経て現在の株式会社テンシャルに入社することに。バスケットボール選手時代のお話はもちろん、全く違う道を歩むことを選んだ理由や転職のきっかけなど気になることを盛り沢山で伺っていきます! 新卒で入社した大手企業を辞め、株式会社テンシャルに入社 ー現在、株式会社テンシャルにお勤めということで、まずは簡単にどんなことをやっている会社か教えてください! テンシャルはスニーカーや革靴など日常シーンで使用するインソールや、靴下やマスクなどのウェルネスを中心に商品を展開している会社です。社名の「テンシャル」は、「ポテンシャル」から名付けられており、人々のポテンシャルを引き上げて、人々の生活を豊かにするという想いが込められています。社員の平均年齢は26〜27歳かなり若く、やるときはやるし、遊ぶときは遊ぶという部活動っぽい雰囲気があります。 ー会社のお名前とそこに込められた想いとても素敵ですね!木林さんは、テンシャルの前には大手の「三井住友海上火災保険株式会社」にお勤めだったということですが、全然違う業界ですよね?そちらでは何をしていたんですか? 以前は、三井住友海上火災保険株式会社で代理店営業をやっていました。代理店の方々をしっかりマネジメントしつつ、様々な種類の保険を提案したりしていました。マネジメントスキルだったり、チームで一緒に目標に向かって進めていくところは、今も昔も共通していることだと思っています。僕は、自分が主体となってゴリゴリ進めていくよりも、周りと一緒に手を組んでやっていく方が得意なんです。それはきっと、幼少期から取り組んでいたバスケットボールのおかげなんですよね。 常にベストな方法・環境を見つける。バスケットボールを中心にした人生の選択とは ー先ほどのお話にも少し出てきた「バスケットボール」ですが、おそらく今の木林さんを語る上で最も重要なポイントだと思います!ぜひバスケットボールのお話とともに幼少期のお話も教えてください。まず、バスケットボールに出会ったのはいつ頃でしたか? 僕がバスケットボールに出会ったのは、4歳の時のことです。元々、両親がバスケットボールをやっていたこと、そして2人の姉も競技していたことから自分もバスケットボールを始めることはごく自然のことでした。小学校に入ると、地元のミニバスケットボールチームに入り、それがない時は父と一緒に体育館で練習することもあり、バスケットボール漬けの毎日でしたね。ただ、小学校の時は練習に行くとお小遣い100円もらえるという制度が我が家にあり、それでお菓子を買うのが楽しみでバスケットボールをやっていました(笑) しかし、その中でも漠然とバスケットボール選手への憧れはあって、いつしか自分もそうなりたいという気持ちが芽生えていきました。また、実家のある府中市はBリーグのアルバルク東京のホームタウンであり、試合を観に行ったりしたこともあったので、バスケットボール選手というのは自分にとって身近な存在でもあり、より憧れは強くなっていったという感じです。中学校はひとまず地元の公立中学に進学したのですが、中学校1年生の3学期にバスケットボールに強い中学校に転入しました。 ー途中でバスケットボールに強い中学へ転入されたということで、どんどん木林さんの中で「バスケットボール選手になる」という決意が固くなっていくのがよくわかります!強豪中学であること、そしてミニバスケットボールチームから部活へといろいろ変化が多い中学校時代だと思うのですがいかがでしたか? 僕が転入した中学は、中高一貫校で関東中から人材が集まるバスケットボール強豪校でした。そんな強豪校部活でしたから、生活スタイルも今振り返るととてもハードでしたね。朝6時に家を出て、帰宅するのは21:30〜22:00くらいで、週に一回しか休みはありませんでした。それだけ聞くととんでもなく大変なように聞こえると思うのですが、それでもそれは本当に良い経験になりました。 というのも、中高一貫なので部活は高校生と一緒に行います。ですので、体格や技術も全く段違いの高校生と一緒にメニューや練習をこなしていく環境は非常に緊張感を感じるものがありましたし、自分の成長にもつながりました。練習の中でミニゲームをやって、毎回ボコボコにやられるみたいなのはザラにあって…本当にキツかったです(笑) ー確かに、中学生と高校生では全く違いますよね。それはなかなかできない貴重な体験だと思います!では、そのまま高校にあがりその環境でバスケットボールを続けて行ったんですか? 実は、高校にはそのまま上がらず、バスケットボールの名門校である福井県・北陸高校に進学しました。もちろん当初は、僕もそのまま中学と同じ高校に進学する予定だったのですが、やはり全国大会で優勝したいという気持ちが強くなり、勝てるところでやりたいと思いこの決断に至りました。また、姉たちもすぐに家を出て寮生活をしながら学校に通っていてること、また親自身も「早く家を出て、色々な世界を見た方がいい」と常々言ってたこともあって親元を離れることにも抵抗はありませんでしたね。 実際に高校でプレーする中で、やっぱりレベルは格段に高いと感じましたし、それぞれが多様な価値観を持っていて、それに触れられるのもすごく楽しかったです。また、高校時代は寮生活でしたのでそれも普通の高校生活では体験できないようなもので、バスケ以外のそう言った学びも非常に自分の財産になりました。 ーなるほど、さらなる高みを目指すための選択だったのですね!また高校では、ガラリと環境が変わったと思うのですがそこでの苦労したことや印象的な出来事はあったりしますか? そうですね、入学してすぐ試合に出場できていたことから一時期天狗になっていた時期もあって、それで二年生の時にいきなり試合に出られないということがあって、気持ちがネガティブになっていた時がありました。その八つ当たりからと自分の頑固な性格から、審判や対戦チームとよく喧嘩をしていましたね。監督や先輩に言われても自分が違うと思ったら、反発してよく衝突するなんてことはよくありました(笑) そんな自分が改心できたのは、どんな時もチームメイトのみんなが見放さずに自分と向きあってくれたからだと思っていて、今でも当時のチームメイトのみんなには今でも頭が上がらないです…!そういった仲間たちに支えられたおかげもあって、1年時に冬の全国大会ウィンターカップで優勝、3年時には全国ベスト4、U−18代表候補にも選ばれるなど成績を残すことができました。 ーすごい!!自分で選択した道でしっかりと結果を残せているの本当に素晴らしいことだと思います。そしてバスケットボール推薦で大学へと進学されたと思いますが、また大学ではこれまでと違った環境がありそうですよね。 これまでバスケットボールをしていく中で様々な環境に身を置いてきましたが、大学は大学で全く異なる環境でした。高校は、寮生活ということもあって規則が厳しかったのですが、大学はそれとは真逆で全て自分の責任のもと自由に生活することができたのでそのギャップはありましたね。一気に、大人として自分がみられている感じがしました。 部活もさらにレベルが格段に上がり、小手先では通用しない高い技術やフィジカルを持った選手ばかりが集まっていました。なので、一年生の時は、全然試合に出られなく、ベンチにさえ入れないことも続きました。これまではどちらかというと、いつもチームの中心で活躍していた自分が「みんながみんなエース級に活躍できるわけではない」という現実をはっきりと見せつけられた形でしたね。 ー代表にも選ばれた木林さんでさえベンチに入れないということは、相当なレベルの高さが伺えます。実際そういうことが続くとモチベーションも下がりますよね。 そうですね、なかなかメンタルにきたこともありました。ただやっぱり自分の中で「活躍したい」という気持ちは絶えずあって、でもこのまま技術やフィジカルで真っ向から勝負しても難しいと思ったんです。その時考えたのが、他者が注力できないところに自分は力を入れて、それを自分の役割として、メンバーとの差別化をすることにしました。その行動を続けるうちに、チャンスをもらえるようになり、プレータイムも増えていくということにつながりました。 自らで考え行動してやることをしなければ、周りのスーパーエースの中で活躍するのは難しいとを思い知り、大学は頭脳戦で勝ち抜いていきました。その努力の結果、2年時の途中からスターティングメンバーとしてインカレ三連覇に貢献したり、3年時には大学の日本代表に選出もしていただきました。 バスケットボールから社会へ。真摯に自分と向き合って選択した新たな決断 ーここまで長らく打ち込んできたバスケットボールですが、就職では別の道を選ばれたということなのですがそれはどういう理由があったんですか? バスケットボールの道に進まなかったの理由は、2つあります。 一つは、Bリーグから声はかけてもらっていたのですが、そのレベルに達せる自信がなかったこと、またこれまで以上に競争が激しい中で本当に戦っていけるのかと疑問を持ってしまったんですよね。やはりやるからには代表レベルで戦いたく、そこで活躍できないのであればあまり意味はないかなと思いました。 二つ目の理由としては、自分はこれまでバスケットボールしかしてこなくて、逆にそれを職業としてやっていくことに違和感があったんです。かなり自分が狭い世界で生きてきたと言うのは、大学で様々な価値観に触れる中でとても感じていたので、もっと違う世界をみたいと思うようになりました。また、大学も筑波大学ということで就職活動をすればある程度の企業には入れると思い、どちらが後悔をしない道かを考えた時に就職の方を選びました。 ーそうだったんですね。やるからには一番を目指したいという意思決定が木林さんらしくてすごく素敵だと思いました!そこからでは就職活動を始めて行ったと思いますが、その中でなぜ三井住友海上火災保険株式会社を選んだのですか? 実業団リーグっていうのがあって、バスケを続けながらできるということが非常に大きかったですね。やはり、人生のほとんどを捧げたバスケットボールと完全に縁が切れるというのは自分の中であまり選択肢がなく、就職してからも続けられる道を選びました。あとは、自分のバスケットボールの成績を認めてもらえたり、知り合いの先輩が就職していたということもあって色々な話を聞いてるうちに良い会社だと感じでそこに決めました。 ーバスケを続けながら仕事を続けるというのも木林さんらしい選択ですよね。実際に就職してみてどうでしたか? 業務内容は難しかったり、覚えることもたくさんあって、想像よりも大変でした。しかし、どんな大変なこともバスケットボールでの経験を思い返せば乗り越えることができました。ただやっていくうちに、なぜか一生懸命になれない自分ががいることに気がつき、そこに違和感は感じていくようになりました。 というのもこれまでバスケットボールに打ち込んで、努力して練習して考えてということができたのは、自分が興味のあることだからだったということに気づいて、自分が頑張れないのは今やっていることに興味がないということを理解することができたのです。やらなきゃいけないことはもちろん仕事なのでやるのですが、これまであったような上に昇りつめたいという熱量は一度も感じられませんでした。そんな中で、このままやっていいのかな…という想いが生まれたのが転職のきっかけになりました。 ー自分の感じた違和感と真摯に向き合った結果の転職だったんですね。このあとテンシャルにはどのようにして出会われたんですか? 共通の知り合いを通じ代表の中西と出会ったのがきっかけでした。スポーツに対して熱い想いがあるメンバーが集まっていて、それが自分にとってとても魅力的に感じました。メンバーと話していて、学生時代ワクワクしながら部活にやってたのと同じ熱量で仕事に取り組んでいるのをみて、自分が働きたい会社と出会えたと思いました。 また、代表は同い年ながら(株)リクルートでキャリアを積み、今ではビジネスの最前線で働いているとうこともあり、この人の元で働けばこれまでに得られなかったスキルや視座を獲得することができると思ったのも会社を選んだ理由です。大手からスタートアップへの転職は、周りから反対もありましたけど、先に挙げたような環境や成長できるという点、そして何よりも自分が興味を持てるという点でここしかないと思いました。 実際に働いてみると、大手企業にいた時にはなかった裁量や責任感のある仕事に非常にやりがいを感じました。また、メンバーも意欲的に成長して、行動に移していくその姿がとても刺激になりました。 ーバスケットボールから、就職をして転職をして、これまで様々な環境に身を置いてきたと思うのですが、だからこそ見えてきた視点というのもありますか? 体育会出身者はよく就職すると、とりあえず営業やっとけばいいみたいな風潮があるんですよね。でも、本当にトップレベルで活躍してきた学生であれば、本気で物事に打ち込んでいるはずで、高いレベルに行くまでは頭も使って試行錯誤してやってきてると僕は思うんです。なので、営業だけじゃなくて、そこで得た経験や思考法は社会でどんな職種で働こうが再現性はあると思っています。 体力を武器に活躍していくのももちろん選択肢としてはあると思いますが、自分も含めてもっと自分を生かす就職を最初から考えられればよかったなと思いました。スポーツをずっとやってきた子は、よく「スポーツしか自分はしてなくて…」と口にするのですが、それを卑下することは全くないんです。むしろその経験でしかできないことをたくさんやってきているはずなので、ぜひそこを自分の強みとして道を切り開いて行って欲しいと思います。 ーこれぞ、トップで活躍していたからこそ、そして現在社会の一線で働く木林さんだからこそのメッセージですね。これから就職を考える学生にもエールとなる言葉だと思いました。本日は貴重なお話をありがとうございました! 取材者:中原瑞彩(Twitter) 執筆者:後藤田眞季(Facebook) デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter)  

防災グッズ専門カタログを開発!KOKUA代表・泉勇作さんに訊く!根拠のない自信が自信に変わるまで

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第189回目となる今回は、泉勇作さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。   幼いころに阪神淡路大震災を経験し、物心ついた頃から地震に対する意識が人一倍強かったという泉さん。「防災」というフィールドでビジネスをする現在に至るまでに、いったいどんな経験をされてきたのか、取材しました。   防災グッズ専門カタログってなに? ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。  はい。株式会社KOKUAで代表をしている泉と申します。元々、防災・災害救援に関する活動を個人として続けておりました。現在は、それに加えて、防災をよりポジティブな形で一般の方々に考えていただけるように、と「防災×ギフトのライフギフト」というサービスを作っている真っ最中です。 ーライフギフトとは?  防災ってとっつきづらい・何から手をつけて良いか分からない・堅いなど、とても大事なことなのに簡単に手をつけられないのが現状ですよね。そういった自分で防災グッズを買い付けるのが難しい中でも、自分の大切な人の大切な日(例えば、誕生日や父の日・母の日など)に1冊のカタログギフトとして、防災グッズをまとまって見ることができるものがライフギフトです。自分たちで言うのもあれですが、とってもお洒落でスタイリッシュなカタログになっています!(笑)  僕たちは、「あなたのことを大切に思っています」「あなたの無事が何よりです」という思いが伝わるようなカタログギフトを作っています。先日2ヶ月ほど行っていたクラウドファンディングが終わりまして、現在は印刷や紙の質感の調整などの作業真っ最中ですね。 ースタイリッシュなカタログ、がポイントかと思うのですが、デザインをお洒落にすることにはどういった想いがあってデザインを考えられたのでしょうか。  防災が大事だ、と自発的に認識して防災を始めていくことがベストだとは思うのですが、それは難しいなと思っていて。防災を何と馴染ませていくかが大切だなと僕らは思っています。そのため今回は、防災グッズとしてではなくてまずは「ギフト」として喜ばれるものであることが大前提としてあります。贈り物をする体験として喜んでもらえるように、ということでデザインにはこだわりました。   防災にかかわるようになったきっかけは? ー大学受験の失敗があったとお伺いしています。  はい。森見登美彦さんという作家さんが好きで、その作品に登場する京都出身のこじらせた大学生に憧れを抱きすぎて京都の大学を受験して進学しました。正直、今まで自分で思い描いた目標は達成することが多かったので「自分ならまあ、何とかなるだろう」といった自信がありました。その延長で、受験も何とかなるだろうと思っていたのですが、見事に大学受験で打ち砕かれましたね。 ーその、いわゆる根拠のない自信をもつきっかけは何だったのでしょう。  高校生の頃に、ある大学の教授を招いて自分のビジネスを発表する、という機会がありました。当時、地元の有馬サイダーを他県の人に知ってほしいと思ったことをきっかけに社長さんの元へノーアポで伺って「(有馬サイダーを)800本、僕に預けてください!どうにかしてみせます」と伝えたことがありました。優しい社長の心遣いでその時は800本頂き、それを使って、地域の夏祭りで有馬サイダーの無料試飲をやってみたんです。この時の効果測定として、その場でオンラインから有馬サイダーを購入してくれるひとが増えることでトータルの販売数がアップするという仮説を立てていました。結果は、全くだめでした。無料で提供して終わりでしたね。ですが、この研究を1000人程度が集まって発表する場で審査してもらって優勝できたんです。この成功体験が、根拠のない自信が植えつけられて勘違いするというきっかけになる事件ですね。(笑) ーなるほど...。その後の大学入学後に、東日本大震災を経験されたのですね。  厳密にいうと、入学式の直前ですね。在学していた大学と被災地は、地理的に離れていたのですがボランティア活動を始めました。僕が1歳半の時に阪神淡路大震災を経験しているんです。ほぼ記憶には無いですが身の回りの環境がそこで大きく変わったという経験があり、物心ついた時から年の離れた兄姉や親戚から地震の話を聞いたり、震災学習を熱心に学ぶ機会があったりと地震に対して人よりも敏感だったというのが前提の背景にあります。なのでボランティアというか、特別なことを何かしたとは思っていません。あの当時って、日本中の誰もが「なんとかしたい」と思っていたと思いますし、初めて募金をしたひともいるかと思います。僕もそういった感覚でボランティアに参加しました。 ーボランティアに参加してみて、内面の変化などはありましたか?  いわゆる何も起きていない安全圏から遠く離れた非日常の現場に行って感じるギャップに対してとても思うところがありましたね。その後も、東日本大震災に限らず災害支援は基本的に参加するようにしていて、学生時代は1軒でも多くの家の役に立てるならと思って活動していました。  我々は土日やお休みの期間に活動をするんですが、平日に日常へ戻るととんでもなくギャップがあるんですよね。自分自身に対して、無力とまでは行かなくても微力だな、と感じることも多々ありました。1週間と経てば関心の低い友人たちは「台風なんてあったけ?」といった様子で、そういった人たちにとって災害を自分事として考えてもらうためにはどうしたらいいのかと考えるようになりましたね。 ーその後、ボランティア団体に入られたのですね。  インカレのような形で各大学に支部があって、当時1000名程度、現在は3000名程度の団体に入っていました。当初、僕の大学の支部には3名しか人がいなかったので「人数を増やして欲しい」という依頼を受け、支部長として「仲間を増やして出来ることを増やしたい」というマインドで活動していました。  共に生きる共生社会をつくることをミッションに掲げる団体で、当時から共感して活動していました。僕が在学中には1年半ほどで200名くらいに増えましたね。メンバーを増やすために泥臭く、新歓の時期に色んなひとに「とりあえず説明会だけ来て!」と走り回っていました。自分に酔いしれまくった演説をして(笑)それに共感してくれた下級生が加入してくれ、そこからは口コミで広がって、という感じで人が増えていきました。 「なんでもできる」「なんとかなる」と思っていた過去。どうにもならない現実を経験して感じたこととは ー学生時代は色々と活動されている中で、留年を経験されたんですね。  そうなんです。当時、ボランティアするか遊ぶか、あと学費・生活費を稼ぐために沢山働いて、という生活だったので本末転倒で留年してしまいました。ボランティア団体は規模が大きく、一緒に活動する中で横の繋がりが強かったです。周囲が自身の成長や社会への貢献という意識が強かった分、当時の自分は1年遅れになることに対して取り残されてしまった感覚に苛まれていましたね。 ーなるほど...。その悩みを乗り越えて、就職活動はどういった形でされていたのでしょうか。  とにかく、成長したい!と思っていたので、いちばん過酷で実力が試される環境にいこうと思い、人材会社に営業として入りました。当時、200-300名いた同期の中で1位をとることが自分の価値の証明になると思っていたので、入社後は時間を惜しまず努力していましたね。  当時、NPOへの就職も選択肢としてあったのですが、少し違った切り口から自分がやってきた防災というフィールドで持続可能なサービスを作りたいというか、社会起業家のような存在にぼんやりと憧れがありました。そのために、モノを売って、お客様に価値の対価としてお金をもらうという経験をしたいという思いで一般企業に就職しました。将来を視野に入れた選択でしたね。 ー当時、ガンガン営業を極めて成果も出されていたかと思うのですが、しんどくはなかったですか?  そうですね。1年目で経営企画室に配属後、表彰されてから、新たなシステムの作成・販売担当となりました。出来たばかりのサービスだったので、誰も売ったことのない商品を扱っていました。作りたてのサービスはバグが起こりがちなこともあり、リアルに週に3日は朝の7時まで一睡もせず働く日々でしたね。近くの満喫でシャワーを浴びて8:30にはまた出社、という生活を仕事を辞めるまでの最後の8か月は続けていました。そんな生活を続けていたので、体重は57kgから80kgにまで増えました。当時娯楽が本当に無くて、帰宅時にご飯をどか食いすることしか楽しみがなかったんです。今思えば病的で、ストレス解消で食事に走り、見事にブクブクと太っていきましたね。 ーそんな中、退職を考え始めたきっかけとは?  新卒入社時からお世話になっていたメンターの方が、ご自身のお父様の会社を継ぐということで僕が辞める3,4か月前に辞められたんです。僕としては、起業したい・新規事業を自分でつくりたいという思いが強かったので、先輩に自ら頼み込んで「(先輩が担当していた)-2000万の赤字を黒字にすることができたら、僕に好きなビジネス何でもやらせてください」と言って承諾を得て先輩(の会社)についていきました。その後、1年半ほどで黒字化に成功しました。その時もめちゃめちゃ働きましたね。   根拠のない自信がいつからか根拠のある自信に。その過程にあった努力と葛藤とは? ー防災をキーワードとしたビジネスをしたい、という想いが強くなっていったきっかけなどありますか?  はい。社会人になってからも当時に起きた災害時にはボランティアへ行ったりなど活動を続けていたのですが、その中で自分はまだまだだなと思いつつもこれまで経験してきた自分を試してみたいと思うようになりました。「防災をいろんな人に広めるためのビジネスが何かあるのではないか」と、当時いた会社に自分の想いを伝えたことがきっかけです。最初は会社の中での一事業という形でスタートしましたが、そこから続けていく中でしっかりビジネスとして考えてみてと言われた時がありました。ちょうどその時が「防災ガール」という団体の解散のタイミングで、アクセラレータープログラムがあってそこから思わぬ方へ展開が進んでいくという感じですね。防災ガールからは、防災をどうやって伝えるか、社会に馴染ませるか、とそもそもの防災のあるべき姿を突き詰めていくこと、そしてそれを実際に行動することの難しさを学びましたね。 ーアクセラレータープログラムではどんな経験をされたのでしょうか。  個人として、友人と2人で参加しました。プログラムを通して改めて、防災を事業化することの難易度の高さを感じましたね。半年で2回ほどビジネスモデルを変えたり、と僕らはとても出来の悪い方だったかと思います。最終的な着地点として、企業研修という形に落ち着きました。僕らがBtoBの営業にはそれなりの自信があったので、企業様にとって役に立てるように新人教育などの研修に防災教育を組み込んで「防災を学びながら企業様のチームビルディングができる」ような防災×企業研修を提案しました。 ーそこから、独立へと踏み切ったのはどうしてでしょう。  そうですね。僕の場合、どちらの方が心地よい人生かと思った時に、自分が力になりたいと思う場所で努力することを心地よいと感じたので、独立することを選びました。  当時の上司からは、「困ったら戻ってこればいいし1度やってみたら?潰れても死にやしないよ!」と温かい言葉で背中を押してもらいました。保険というか、そう言ってくれる人がいるというのは大きかったですし、僕個人の深い部分での気持ちを見透かされたようでした。 ー独立を決めてから、心境の変化はありましたか?  決して今の自分が根拠のある自信を持っているというわけではないんです。ですが、自分が求めればリアクションをくれる、知恵をくれたり手を貸してくれる、時には支援をしてくれたりする方々の存在に気付けたということが大きかったですね。頼っていい、与えてもらってもいいんだ、という感覚です。多くのひとのリソースを合わせて生かすことが大事だと気付けました。自分は何でもできるぜ、という感覚から、自分はまだまだだなと思いつつも頑張れば何とかなるという感覚に変わった感じがしますね。   防災を通して実現したい世界とは ーこれから、どんな世界を実現したいとお考えですか?  防災に関わらず、気候変動に関することなども手広くやっていきたいという思いがあります。いま、防災は多くの人にとって不自然な、敷居の高い行為だと思うんです。それをもっとナチュラルに取り組めるような仕組み、商品やサービスを作り出すというのが僕らのミッションです。  たとえば「防犯」って日頃から「あの角を曲がったら刺されるかも...」とは思わないとしても、夜道の帰り道に誰かを迎えに行ったりするじゃないですか。無意識に。大事な誰かがいるから自然と迎えにいく、といったような無意識にできることが防災にも必要だと思っています。 ー泉さんの思う今後の展望について、お聞かせください。  まずはライフギフトをひとりでも多くの方に手に取ってもらえるよう広めることが直近の目標としてあります。ですが一方で、ライフギフト1冊が手元に届いたからといってその方の防災意識が上がっていくわけではなく、きっかけにすぎません。取り組んでみようかしら、と思ってほしいという想いの込もった商品なので、その先で「防災を取り揃えたい」「どういったことから出来るのだろうか」と考えた時に、情報が整っているような、そういったサイトや場所なども合わせて作っているところです。  最終的には災害救援にまで手を出したいと思っていて、「自然災害の事前から事後まで」自然と付き合って生きていく中で、世の中の人のお役に立てるような会社を作っていきたいなと思っています。   ー本日はありがとうございました。泉さんのこれからを応援しています!   取材者:中原瑞彩(Twitter) 執筆者:たるちゃん デザイナー:五十嵐有沙(Twitter)

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