「誰かの頑張るきっかけに」。スペインで挑戦するサッカー選手・竹本将太が発信し続ける想い

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第310回目となる今回は、サッカー選手としてスペインで挑戦する竹本将太(たけもとしょうた)さんです。

Jリーグのオファーを断り、海外でプロサッカー選手になる決断をされた竹本さん。現在はスペインでプレーしながら、多くの媒体で努力する方法を発信されています。これまでのサッカー人生を通して、どのように考え、日々努力をし、決断し続けてきたのかを伺いました。

プロのサッカー選手になるためにクラブチームをやめた

ーまずは、自己紹介をお願いします。

サッカー選手として、現在はスペインでプレーしています。幼少期から高校までは横浜、大学は兵庫県西宮市にある関西学院大学でサッカーに明け暮れていました。大学では一般入部から約180人いる部員のキャプテンになり、夢であったJリーグのチームからオファーをいただく形で夢を叶えました。将来を考えたときに新しい挑戦がしたいと思ったので、スペインにサッカー選手として渡り、2025年のUEFAチャンピオンズリーグ出場を目標に日々努力しています。
サッカーを始めたのは4, 5歳の頃です。小さい頃からプロサッカー選手になる夢を持っていたわんぱく小僧でした。

ー12歳の頃に、今後の人生を左右するような転機を迎えたと伺いました。詳しく教えてください。

中学1年生の時に初めて、どうやってサッカー選手になるのかを具体的に考えました。それがひとつの転機であり、夢が目標に変わった瞬間です。夢から目標に変わると、具体的な逆算ができるようになりました。

小学生の時点で、自分にはサッカーの才能がないことに気づいたんですよね。当時僕は、J1のクラブチームに一期生として在籍していました。でも周りには、自分より圧倒的に上手な人たちがたくさんいた。自分はプロになる人間ではないんだとわかりました。
ただ、そこで諦めなかったことが大きかったですね。エリートの勝ち方は無理だと気づいたけど、サッカー選手になることは無理だと思わなかったんです。

サッカー選手になる方法は、高卒のタイミングと大卒のタイミングの2パターンがあります。小学生の時は大卒という言葉を知らなかったのですが、中学1年生の時に中村憲剛選手が「大卒でプロサッカー選手になることができた」と言っていた本を偶然読んで、自分にはこの道だと思いました。

高校ではなく大学で一番強いチームに入って、スタメンで試合に出ることができればプロになれる。そのためにはどうすればいいのか。それは、スポーツ推薦ではなく学力で大学に入学することでした。放課後の時間をすべてサッカーに捧げるのではなく、当時の自分がすることは勉強だと気づきました。中学1年生で所属しているクラブチームをやめて、部活動でサッカーを続けながら受験勉強をしたことが夢の第一歩です。

ー12歳でそのような決断をされたのは驚きました。一人で決断されたのですか?

はい、一人で決めました。この経験を通して一番大きかった出来事は、承認欲求から少しだけ逃れたことです。当時は社会のすべてが家族と学校での人間関係でした。そこではサッカー部よりクラブチームに所属している人の方が、本気でプロを目指しているという自尊心や優越感があるし、周りの目や反応もよかったんです。でも、その立場を初めて捨てました。

僕にとっては部活に転向することが、プロになるための最短ルートですが、世間にとって僕は脱落した人なんです。当時は本当に苦しかったです。世界から認められない感覚と、プロになる土俵に立っていないレッテルを貼られた感覚が苦しかった。でもその苦しみにあらがって勉強とサッカーを両立したことで、初めて承認欲求から逃れられました。これは後のキャリアをずっと支えてくれています。

Jリーグ行かなかった意思決定も、おそらくこの捨てる経験がないとできなかったです。本質的に価値のある意思決定は何かを捨てることだと思っています。まだ12年しか生きていない時点で、捨てる経験ができたことは僕の大きな財産です。

「根性×戦略」で試合に出て、キャプテンになった大学時代

ークラブチームをやめ、戦略的に受験勉強とサッカーを両立しながら目標の大学に進学されました。大学に入学してからはどうでしたか?

明らかに自分とレベルが違いました。180人の部員のなかで一番下手なのが僕だったので、練習に行くと毎日怒られるんですよ。あと当時は関西弁も怖かったです。

でも、挫折した感覚はまったくなかったです。そうなるとわかって入部したんですよね。大学4年間でうまくなればいいから、入部当時に下手であることは僕にとって何も問題はなかった。下手であることを嘆くのではなくて、それよりも考えるべきことは、次は何をしなければいけないかでした。

ー周りのうまい人たちを追い抜いて自分が試合に出るために、取り組んでいたエピソードはありますか?

根本的に努力とは「根性×戦略」だと思っています。僕にとって根性は、泥にまみれたサッカー人生なので完璧だったんです。戦略さえ合致すれば、努力は続けられる人間なので大丈夫だと思いました。そのために2つの戦略を考えました。

まずひとつ目の戦略は、みんながうまさで勝負しているのなら僕は強さで勝負をすること。
なぜかというと、大学ではサッカーがうまい人ばかりで、フィジカル的に強い人があまりいないんですよ。周りを見てみると、みんなサッカーの技術を磨いて、自分のやりたいサッカーを表現していました。でも監督心理として、11人全員同じタイプを揃えるよりも、走れたり体が強かったりと個性のある選手を置きたくなる傾向にあります。だから僕は、自分が監督だったらどのような選手を置きたいかを観察しました。その結果、どのチームにも一人はフィジカルが強い人を置いていたんです。僕のポジションはこれだとわかった瞬間でした。僕の身長を考えても、このままフィジカルを鍛えたら武器にできると気づけたのは大きいです。

もうひとつは、人とは違うプロセスをやること。みんなが普段サボっているけど本当はやるべきことで気づいたことが睡眠と食事でした。大学生の一人暮らしだとコンビニ弁当や偏食になりがちですよね。だから、きちんと食事に気をつけていれば、周りと差をつけられると思いました。夜更かしもせず、毎日11時に寝て7時に起きる生活を続け、常にコンディションを整えました。

続けているうちに、試合に出場できるのは実力がある選手ではないと気がついたんです。
試合に出るときは実力を出すのではなく、自分の実力を本番で何%発揮できるかの戦いなんですよ。当日のコンディショニングや、実力を発揮できる状態でいることが大事。自分の実力を引き出せるかにフォーカスすると試合に出られるようになるんです。

ここからさらに面白いのが、Aチームの試合に出ると、練習するより何倍も早くサッカーがうまくなったんです。その結果、キャプテンにも就任しました。

 

夢だったJリーグのオファーを断り、スペインへの挑戦を決意

ー大学を卒業するタイミングで、なぜ国内ではなく海外でサッカーをしようと考えたのか教えてください。

大学4年でキャプテンだった時期に、僕たちは夏の全国大会出場を逃しました。
当時まだJリーグからのオファーはなく、企業の内定をもらっていたんです。僕の中ではJリーグからオファーを待ちつつ、でもオファーがこなければ内定の会社に行けばいいかなという状況でした。でも、キャプテンである僕が進路ひとつ決められずに悩んでいる状態だから、チームを引っ張れずに負けてしまうんだと気づきました。

それと同時に、今まで下から這い上がって自分から掴み取ってきたのに、なんで今さら受け身になっているんだろうと思い、覚悟を決めて企業の内定を辞退しました。

その後にJリーグのチームからオファーをいただきましたが、これから長期的な目標について考えた時に、Jリーグでプレーしている自分の姿がイメージできなかったんです。けれどサッカーは大好きだからこれからも携わっていきたい。好きなことをやることが一番だと思ったときに、ゼロから積み上げることや努力のプロセスが好きで、根性と戦略で明らかに誰もが無理だと思う挑戦を成し遂げることが楽しい。それを叶えることができる国はスペインだと思いました。

ーなぜスペインを選ばれたのですか?

サッカーの世界でチームに所属するのが難しいのは、ヨーロッパの5大リーグ(フランス、ドイツ、イングランド、イタリア、スペイン)なんです。だからその5ヵ国で一番難しい国に行こうと決めました。それがスペインでした。なぜスペインが一番難しい国かというと、外国人枠というものがあるんですよ。ドイツやイングランドは外国人枠がないので、スタメン11人全員が外国人でもいいんですけど、スペインはEU圏外の選手は3人しか登録できない。それは自分にとって最高な環境だと思いました。サポートしてくださる方の力を借りながら手配を進め、2020年1月、ついにスペインに入国しました。

 

逆境ばかりのスペイン生活、でも1秒も妥協しなかった

ースペインに入国してからはどのように過ごしていましたか?

スペインのテルセーラ以上のリーグでプレーするにはビザと外国人在留書が必要ですが、実はすぐにビザがおりなかったんです。そのため予定していたチームに入れず、もう1つ下のカテゴリのチームを受け直してすぐにオファーをいただけました。このチームで半年プレーして8月には上のリーグに移籍しようと思っていたのですが、3月にコロナでスペイン全土がロックダウンしました。自宅での軟禁生活が始まり、スーパーに行くこと以外は一切外出できない。トレーニングは部屋で筋トレをするしか方法がない生活でした。僕のスペインの挑戦は、一番の谷からのスタートでしたね。

ー大変だったんですね……!でもそれを乗り越えて、もうすぐ今季のリーグが始まるそうですね(※取材当時)。ビザの問題は解決しましたか?

はい。無事に取得できたので、次の8月には移籍できます。だから1つずつ上がっていければと思います。けれどロックダウンになったことで、すべてのトレーニングを筋トレに費やすことができました。スペインに入国した当時の体重だと海外では戦えないんですよ。でもこの1年で10kg増やすことができた。

それにロックダウン中は、1秒も妥協しませんでした。トレーニングをしている間、睡眠や食事、語学の勉強も一切妥協していません。1秒でも妥協したと思った瞬間があったら、サッカーをやめようと自分で決めていました。逆にこれを乗り越えられたら、絶対自信になる。そう決めたことで、サボることなく1年間楽しむことができました。

そのおかげで明確にフィジカルが変わりましたね。身体を大きくしても重くならないトレーニングもしっかりと実践しました。この1年間、誰にも評価されることがなく、ただスペインの自宅で筋トレをする一年でしたが、妥協しなかった自分を褒めたいと思います。

ーフィジカルが大きく変わると、竹本さんにとってなにか変化はありましたか?

自分より大きく見えた相手が、そこまで大きいと思わなくなりました。だからといって、結果が出るわけではないんですよ。絶対にまたどこかで挫折します。それがこの半年以内かもしれないし、一年後かもしれない。

人が努力をしんどいと感じるのは、努力の想定を右肩上がりにとっているからだと思うんです。努力の成果や成長は確かに右肩上がりですが、それは俯瞰で見たときの話なんですよね。ミクロの視点で見てみると、上がったり下がったりしているんですよ。下がってる時も必ずあるし、もう1回上まで上がっている時もある。それを俯瞰でみると、結果的に右肩上がりになっているんです。時々やってくる谷間に、いちいち反応して諦めてしまうことが夢の終わりだと思います。

今回の挑戦はいきなり下降状態から始まったけど、全然問題ないですね。続けていれば、俯瞰で見ると絶対右肩上がりになることを知っているから。根性と戦略を掛け算して、努力し続けていきます。

こんな偉そうなことを言っていますが、結局は結果がすべてです。もし仮に目標であるチャンピオンズリーグに出られなくて、サッカー選手としての終わりが来たら、そこでは言い訳したくないんですよね。最後は結果であるということは、プロセス・過程・努力が大好きな僕でもわかっています。努力の目的は結果を出すことだから。そこから逃げずに、信念持って勝ち取りにいきたいと思います。

成功もうまくいかない過去も発信して、誰かの頑張るきっかけにしたい

ー現在23歳ですが、この5年間、さらにその先10年後の目標を教えてください。

2025年までにチャンピオンズリーグに出場する目標は必ず叶えたいです。

現在僕はさまざまな発信をしているのですが、将来自分が成功したときに、だめだった頃の自分を証拠として見せられるように残しておきたいからです。

まだ結果を出していないのに、えらそうだと思う人もいるかもしれません。でも2025年にチャンピオンズリーグに出て結果を出せば、発信してきたことが本当に努力してきた証拠になるんです。まだ何も実現できていない現状を恥ずかしがって残さなかったら、成功してから「コロナ禍でしんどくても妥協せず努力していたんです」と言っても説得力がないんですよ。残さなければ子どもたちから「竹本選手は才能があったから」「身体が大きくて恵まれているから」と言われるんです。それだと説得力がない。

将来誰かが夢を諦めそうなときや無理かもしれないと思ったときに、竹本将太の成功とうまくいかなかった過去の証拠が、誰かの頑張るきっかけになればいいなと思います。

一人のサッカー選手がただサッカーをするだけではなく、後世にさまざまなものを残すことができる世の中です。だからこそ、2025年までにチャンピオンズリーグに出場する目標は成し遂げたい。10年後は全く決めてないですね。ただ、そういう存在であり続けたいです。

 

取材:増田 稜(Twitter
執筆:スナミ アキナ(Twitter/note
デザイン:五十嵐有沙(Twitter