働き方より生き方の追求のために「起業」の道を選ぶまで 株式会社unname 代表取締役 宮脇啓輔さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第252回目となる今回は、株式会社unname 代表取締役 宮脇啓輔さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

「幸せになるための起業」と語る宮脇さん。そんな宮脇さんの決断のきっかけや半生について詳しくお話をお伺いしました。

あまり好きではなかった野球を辞め、テニスに没頭

ーまずは簡単に自己紹介と起業したきっかけをお願いします。

マーケティングの仕事に携わった後、2019年の4月に会社を起業しました。現在は企業のマーケティングの支援の仕事をしています。

起業したきっかけは前職を突然辞めることになったことです。頑張っていることが報われないことや方針の違いが理由で辞めることになり、半年間フリーランスをして再度就職することは考えてなかったです。

Webマーケティングを中心にSEOや広告してたり、伝えたいことがうまく伝えられない企業に向けて企業のコンセプトを作るサポートをしています。

スタートアップの企業中心に事業を展開していますね。

ー幼少期のエピソードや印象的だったことをお伺いできますか?

やんちゃだったと思います。家族は両親と姉が1人いて、喧嘩もしていましたが仲は良かったです。ただ、仲良いと思われるのが嫌であんまり仲良いところは見せないようにしてました(笑)

出身は滋賀県で、電車が1時間に2本くらいしかない田舎で琵琶湖と山に囲まれてました。琵琶湖から歩いて10分くらいのところに住んでましたね。

学校数も少なく、同じ小学校の友達がほぼ同じ中学校にいくようなところでした。

ー学生自体に部活などは加入していたのでしょうか?

小学校の時から野球をしていて、当時はとても好きでした。ただ年月を重ねていくごとに出番があまりなかったことでつまらない気持ちが大きくなってしまいました。しかし、進学をしてもあまり環境や友達が変わらなかったので、野球を辞めたいと言えませんでした。

実際の練習は応援の練習や走り込みが多かったのと、自分が体も小さかったため試合にもあまり出れず、「真っ当な努力ではない」ことをするのが嫌だと思っていました。中学校1年生の秋に退部する決断をしました。友達がいなくなるリスクなど考えてた時に、辞める決断をした当時の自分は勇気があったなと今改めて思いますね。

野球部を辞めた話が、人生で初めての自分で意思決定しにくいことを決めたエピソードでした。

次に入った部活はソフトテニス部でしたが、スノーボードで怪我をしてできない時期がありました。1年半くらいの活動期間でしたが、ソフトテニスはメキメキうまくなっていきました。先生がすごく厳しい先生で、日々怒られたりしていましたね。

「等身大の自分」で挑んだ就活で大成功

ー高校はどのような生活を送られていましたか?

滋賀県の高島市の高校に進学しました。

電車も1時間に1、2本しかなく、市外に出ることが大変だったので僕が通っていた中学校の生徒はほとんど同じ高校に進学したんです。中学生時代とは打って変わって、熱意があまりない学校でした。

高校でも硬式でしたがテニス部に入部しました。当時は部活と並行して学外のクラブにも通っていて2年生くらいまではどんどん上達していきました。

今思えば価値観の押しつけだったとは思うんですが、まわりのチームメイトがやる気がない中、自分は練習メニューなどを考えてみんなに実施してもらったことや、やる気や熱意の違いが原因で自分だけが孤立してしまいました。

最後の大会でも成績が残せず、「人生の目標がなくなってしまった」と落ち込んでいた時期でした。

塾の先生がとても面白い方で、建築士の方なんですが塾でバイトしながら自分で家を建てていました。「先生が落ちた大学に1発で受かれば先生超えられるね」のような話になり、軽い気持ちで大学を受験しました。

当初はノリで決めた志望校でしたが、だんだん自分も本気に勉強をすることになって受験への熱意のまわりとの温度差で友達とは疎遠になってしまいました。同じ学年で4人だけ受験へ本気で挑んでる人と一緒に切磋琢磨していましたね。

ー大学生活についてお伺いできますか?

大学時代はテニスのサークルに入り、テニスばっかりしていました。

ゼミは1番入りたかったゼミに入れず、マイペースに活動しているゼミに入ったのもテニスに没頭した理由の1つです。

ーそれでは大学時代は主にサークル活動をしていたのですね。大学時代の就活はどうだったのでしょうか?

テレビ業界にいきたいと思って今の大学に入ったのもあり、同業界の仕事を探していました。

大学の学部がメディア社会学科だったので、テレビ業界に少しマイナスなイメージが持ち、テレビ局ではなく、広告業にしぼって就活をしていました。

大学3年生の1月くらいから就活が始まり、受ける企業も絞っていたため、企業のことを調べる時間や自分と向き合う時間がたくさん取れたので2社目で内定がもらえました。

面接の際に「興味はあるけど本当にしたいかどうかはわからない」と言っていたのが企業にウケがよかったです。

選んでいた企業の基準は「将来がいい意味で想像できないこと」でした。あとは成長のために、働く時間が長い会社に入りたいと思いました。最初の2~3年の成長角度で今後40年のキャリアがある程度決まるような気がしていたので。

「したい仕事」よりは「働く時間が長くて、将来が想像できない会社」を探していましたね。

働き方を考えるより、生き方を考えられる世の中に

ー実際に就職したあとはどのような仕事をしていましたか?

広告事業の部門に配属されました。実際にはインターネット広告の運営をしてました。当時担当していた案件は休日に動くことが多く、日々パソコンが手放せなくなりましたね。

3年目に働く意義が見出せなくなったことで仕事が辛くなり、「何のために生きてるんだろう」と考えるようになったんです。

「人間が生きる理由はないが、生きてて楽しいことはたくさんある」と思い、幸せになるために生きたらいいんだと思ったときにとても腹落ちしました。

当時、読んだ本「海賊とよばれた男」の影響で「このかっこいい主人公のように生きたい」と考えるようになり、自分にとっては没頭する瞬間が幸せだと気付き、起業をしたいと思いました。笑

ー今もマーケティングの仕事は自分にあってるから続けているのでしょうか?

自分の肌にはあっていると思っていますが、一生続けたいとは思っていません。

若い人の中には、起業後失敗してしまう方もいらっしゃるので、自分は同じやり方ではないやり方で成功したロールモデルになれたらいいなと思っていて、エクイティで資金調達を行って華やかなスターアップ街道を走り抜ける方法ではなく、地道に盤石に会社を大きくしていく方向性で起業しました。まずは、自分のこれまでの経験を生かせるマーケティングを事業として展開しています。

ー最後に宮脇さんが今後していきたいことをお伺いできますか?

企業のピークを更新できるようにサポートしたいと思っています。すごいことをやり遂げた時にそれ以上の人生の嬉しかったことや楽しかったことの「人生のピーク」を更新することはなかなか難しいと思います。

運がなくて、ポテンシャルが高い方が埋もれてしまうのがもったいないと思うので、若い方々の「人生のピーク」の更新のお手伝いをしたいと思っています。

起業することが必ずしもいいわけではないので、自分が幸せになれる選択肢を選んでいってほしいと思います。

ー本当に今日はあっという間でした!素敵なお話ありがとうございました。今後の宮脇さんのご活躍楽しみにしています。

執筆:ゆず(Twitter
インタビュー:高尾有沙(Twitter/Facebook/note
デザイン:五十嵐有沙(Twitter