「迷っても振れてもいい」下濵美久が自分の道にたどりつくまでの行動力とは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第273回は、海を愛するアーティスト 下濵美久(しもはまみく)さんです。

幼いころから絵を描き続け、いくつもの受賞経験がある下濵さん。美術家にいたるまで決して真っ直ぐな道のりではなく、会社員やフリーランスなどの経験もされています。いろんな幅に振れながら、今の場所に行き着くまでの葛藤や歩みについてお聞きしました。

人前で表現する楽しさを知った幼少時代

ー最初に自己紹介をお願いします。

鹿児島県出身、海を愛するアーティストの下濵美久と申します。多摩美術大学の絵画学科を卒業後、現在は油絵とアクリル画を描きながら活動しています。海が好きで、ダイビングやサーフィンをしながら世界観を吸収してアウトプットする方法で、みなさんにエネルギーを与える絵を描いています。

ーどんな幼少期を過ごされたのですか?

引っ込み思案で、自分を表現するのが苦手な子でした。姉の絵を真似したり、自分が見た夢や好きな食べ物の絵を描いていました。

アカデミー音楽幼稚園に転校したことがきっかけで、私が描いた絵が認められるようになりました。美術や音楽の授業がある芸術系の幼稚園だったのですが、先生から「絵の才能があります」と言ってもらえたんです。その時に芽が出た感覚でした。人から注目されるのが嬉しくて頑張ってきました。

素敵な先生と出会えたのですね。小学校4年生から合唱隊に入隊されたと伺いましたが、どんな活動をされていましたか?

鹿児島市立少年合唱隊に入り、5年間在籍しました。入隊するのに試験があるんですよ。そこでは、「敬語を使う」「姿勢を正しく」といったルールや集団行動を学びました。広いホールで、人前で歌う経験もしました。

転機は二年目ですね。合唱隊が演劇やミュージカルを始めたんです。オーディションに合格して役をもらえて、そこから舞台で表現したり、ドイツの海外遠征に参加したりといった「人前で表現をする」ことに慣れていきました。私は「人前に出ることで華が出るタイプの人」だそうで、それが目覚めたのかなと思います。そのときに、”ともにつくっていく”大事さや友人関係も学びました。共同創造は、私の人生の課題だと思っています。

 

スランプを乗り越えた先に見えたもの

ー中学から高校時代は、絵を描くことに対してスランプに陥ったと伺いました。どのようにスランプを乗り越えたのですか?

スランプになった理由は、人から求められるものを描こう、評価されようとして絵を描いていたからです。中学と高校時代は絵を描くのがこわくなって、まったく描けなくなりました。たくさん賞をとったので、次も賞をとらなければという気持ちになっていたんです。
人から求められるものと自分がしたいことは、対局のところにあるときがあります。人間は振り子だと思っているんです。振れたときに刷新して、変化していく力だと思っているので、そのあとに振り子をちゃんと戻せるかどうかなんですよね。中立の場所に立つことを、今は大事にしています。

ー最初は評価される絵の方向に振れたあと、少しずつ中立な場所に戻ってくるわけですね。

そうですね。高校も美術科に進学しました。石膏像を写して描写力をあげる授業でデッサンを大量に描きましたが、授業とは別で上手な絵を描くのはやめようと決めてから、毎日一人で誰にも見せない絵や落書きを始めました。幼少期の気持ちに戻って何も考えずに、クレヨンを使って無心で手を動かしていたら、次第に絵を描く楽しさを思い出しました。

大学入試直前に、井上直久さんの本に出会ったことも大きな転機です。
その本に掲載されていたインタビューで、「僕は手が無意識に動くままに無我夢中で作品を作って、最終的にできたものに結論をつける」という内容を読んだときに、私はこのやり方があってるんだと気づきました。自分で無意識に絵を描く「ドローイング」を続けていたら、多摩美術大学に現役で合格しました。手が動くままに描く。出来上がったものに結論をつけるやり方です。その方法は今も変わりません。それが自然の形なんだと思います。

 

デザイナーとしてがむしゃらに働いた会社員時代

ー多摩美術大学に進学後は就職を選ばれたと聞きましたが、進路はどのように決めたのですか?

卒業するときは、なにも決めていなかったです。留学や作家になるのも正直ふわふわしていたし、お金がなかったから就職しようかなという状況でした。就活で志望動機を聞かれてもピンとこないし、OG訪問もしていなかったから、社会がどういうものかあまりわかっていなかったです。

最初はギャラリーで働きました。でもあまり心から楽しめなかったです。そしたらある日、作家の先生から「メーカーのデザイナーをやってみないか」と声をかけてもらったんです。就職して一人前になりたかった気持ちがあったし、その会社の商品も好きだったので、デザイナーとして就職することにしました。
入社してからは、がむしゃらに働きました。早く認められたくて、朝の電車の中でデザインの勉強をしたり、夜は名刺を配って営業活動をしたりと必死でした。

ーなぜそこまでがむしゃらに働くことができたのですか?

紹介してくれた作家の先生が、私のスイッチを上手に入れてくれたからですかね。
仕事がつまらないと感じていたとき、「君は頑張ったら、もっとできる人だよね」や「会社を変えてほしい」と頼ってもらえたことが嬉しくて頑張りました。

当時はブランディングがやりたかったんですよね。1からブランド品を作るのに憧れていました。大学時代にファッションやブランド品を追いかけていたのがきっかけですね。自分でブランドを立ち上げたい夢もありました。就職した会社で、実際に自分のブランドを出すプロジェクトに携わることができたんです。入社当初からすごく期待されて、私もがむしゃらに頑張ったんですけど、最終的に挫折して退職しました。

ーそれほど期待をかけられて、かつ自分も当事者意識を持てるプロジェクトを抱えるまでになると、さらに没頭してビジネスパーソンの道も見えるのかなと思ったのですが……

そのときは私もそう思っていましたね。正直に言うと逃げました。元々私のコミュニケーションは言語ではなく絵だったから、人に頼ることができなかったんです。もっというと、意思を貫くことが出来なかったんです。挫折しましたが、そこでデザインを学んだ経験は今にも活きています。

 

輝く理想の大人たちに出会って、エネルギーをもらえた

ー退社後は、どのように過ごされていたんですか?

独りで本を読みあさって、心理学、歴史、宇宙、スピリチュアル、ビジネス、経済などを勉強しました。そのあとはさまざまな人にも会いました。とにかく何か変えなきゃいけないと思っていたんです。
大学の友人の紹介で、千原徹也さんが主宰しているオンラインサロンに出会い、そこで佐藤可士和さんや田中杏子さんといったクリエイティブ業界で活躍している有名な人たちのお話を聞きました。

当時はデザイナーで成功しようと思っていたので、彼らの話がとてもおもしろかったですね。自分の理想の大人に会えたんですよ。たくさんのエネルギーをもらいました。理想のロールモデルや心から尊敬できる大人に出会う体験は、学生時代にしておくべきだなと思います。今後の指針になるからです。

ーデザイナーとして歩んでいた下濵さんですが、なにがきっかけで絵の道に進もうと思ったのですか?

デザイン塾のワークショップに参加したことです。実際にグループで広告を作ってコンペにも参加しました。必死で頑張りましたが、そこで喪失感を感じてしまったんです。フリーランスでデザインをしていたときも感じていたのですが、デザイナーは依頼主が作りたいものを作るから、自分が作りたいものを作れる割合が低いんです。だから、自分はデザインではないかなと感じて、塾の卒業と同時にデザイナーをやめることにしました。そこからまた、出会う人が変わりました。

ーここでも、大きく振れていくんですね。

そうですね。次々に手放した結果、原点に戻っていくんだと思います。

 

迷ってもいい、自分の直感と信念を貫くことが大切

ーデザイナーから美術家には、どのようにシフトしていきましたか?

「人との出会い」と「現実」で、シフトしていきました。デザイナーをしていたときは、フリーランスで仕事をしながら転職活動も続けていました。でもうまくいかなくて、就職は違うかもという気持ちや現実がそうさせたのかもしれません。

大学時代の友人が個展を開催したときに、ふと「これは行かなくちゃ!」と運のセンサーが働きました(笑)。実際に行ってみると、当時は存じておりませんでしたが、アート業界に精通した方がいらっしゃったんです。「売れるにはどうしたらいいですか?」と話しかけたら仲良くなれました。

その方からアート業界について、色々なことを教えてもらいました。どういう業界なのかということや、美術家やアーティストとして生活できることも知りました。知れば知るほど、私が考えていたアート業界と実情は違っていたんです。いろんな人を紹介してもらい、その仕事一本で生活しているアーティストにも出会えましたし、自分でもたくさん情報収集して、とにかく必死でした。

ー人と出会ったり自分で調べたりすることで、絵で生きていくことの解像度が上がったんですね。

そうですね。実は、友人の個展で出会った方が、初めて私の絵を買ってくれたんですよ。私の絵でお金がもらえるんだと実感しました。そこから、知り合いにも絵を見せたら買ってくれるようになって、夢みたいだと思ったけど現実でした。そのことがきっかけで、美術家として前へ進んでいきました。何か外側が変わったというより、少しずつ自分の内側から変化したのかなと思います。

ーそれからも重要な出会いはありましたか?

バイトを探していたとき、とある経営者に「なんで13年絵を描いてるのに他のことをやろうとするの?」と突っ込まれて、絵で生きていくために今までの人間関係を一旦断ち切ったり、アトリエを作るために家具や過去の物を断捨離しました。作品集を持ってギャラリーをまわることで、個展をしないといけないと気付かされます。その後Twitterでアプローチをするなかで出版社の編集長から、「売れたいなら集客をしなさい」と知恵をいただき、とにかく人を集めて成功を収めることができました。

基本的に、自分より人生ステージが進んでおり、情報や知恵を多量に持っている人が、こちらに興味をもち、向こうから声をかけてくれることはまずありません。自分から絡みにいかなければいけません。

下濵さんはどのようなことを胸に、日々絵を描いたり、活動されていたりするのですか?

一番したいことってなかなかできないじゃないですか。私は引っ込み思案で本当にしたいことを言うのがすごく苦手でしたが、何を描きたいのか、何をしたいのかをしっかり伝えることです。

周りから「こういう絵を描いてほしい」と言われることもあります。
承認欲求や売れたい気持ちがあるから、つい流されそうになることもあるけど、絶対に自分がこうしたい信念を貫くことが大事。その瞬間に現実が変わっていくんですよね。

私もどの絵を描いていこうか悩んでいましたが、どうしても海の絵が描きたい気持ちが昔からあったのでそれを貫きました。海を体験して描くことで、共感してくれる人も現れました。今は自分から営業しなくても、買ってくださるお客様がいます。

ー最後に、U-29世代へメッセージをお願いします!

自分がやりたいことに対して、その気持ちをごまかさないこと。そうすると、自然と協力してくれる人が現れるんですよね。だから自分も人に協力してあげたら嬉しいですよね。抽象的ですが、波長の高いところに人もお金も集まり、感覚も冴えて上手くいきやすいので、常にエネルギーのある自分でいるということも若いうちから知っておいてほしいです。自分が尊敬する人達をみつけて、何をアウトプットしているかより何をインプットしているかを観察して、生活に取り入れることです。あと運を逃さないことかな(笑)。

ーありがとうございました!下濵さんの今後の活動を楽しみにしています!


■アーティストページ
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取材:山崎 貴大(Twitter
執筆:スナミアキナ(Twitter/note
デザイン:五十嵐 有沙(Twitter