誰かの「助けたい」気持ちが実現できる世の中に。株式会社MAGiC HoUR CEO・西尾輝さん

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第244回目となる今回は、株式会社MAGiC HoUR(マジックアワー)CEOの西尾輝さんをゲストにお迎えし、現在のキャリアに至るまでの経緯を伺いました。

大学時代の研究をきっかけに、社会的企業の事業継続支援に挑戦している西尾さん。そんな西尾さんが「心優しい人の挑戦を諦めなくても良い世界にしたい」という考えに至るまでにどんな出会いや思考の変遷があったのか、詳しくお伺いしました。

「お前はどう思う?」「多面的に思考せよ」大人に囲まれ思考を鍛えた幼少期

ー現在の活動やお仕事について教えててください。

代表を務める株式会社MAGiC HoURでは、大学生の時からずっと考えていた、社会課題解決を目指す企業の事業継続支援のビジネスを展開しています。

会社を立ち上げようと思ったきっかけは、フリーランスで研究の仕事をいただいたなかでの気づきや、一緒に挑戦したいと思っていた仲間たちとタイミングが合ったことが大きいですね。

社会人4年目の段階で、改めて研究者になろうと思い、大学院に戻り、地域政策やソーシャルベンチャーに関わることを学ぼうと考えていました。しかしコロナの影響で、大学院に進学しても2年間の時間をうまく使えない可能性があったため、「研究領域の事業化」を検討することにしました。

また、研究の構想を進めていく上で、「このやり方なら資金に困り事業を諦めた企業を救えるのではないか」「研究の視点、ビジネスの現場を知っている目線から社会課題解決型の事業に役立てるのではないか」と思ったことや、関わってきた仲間と一緒にやろうと思えるタイミングが合ったというのも会社を立ち上げようと思ったきっかけの1つです。

ー現在代表として起業を行われていると思いますが、そういった価値観に至った経緯をお伺いしたいと思います。生まれてから小学校時代に入るまでに、どんな子供時代を過ごしてきたか、お伺いできますか?

幼少期はおしゃべりな子どもだったと聞いています。また、家庭内では子どもとしてではなく、ひとりの人間として扱われていたため、大人と対等なスタンスで話そうとしていました。そもそも大人と対等に話そうとするようになったきっかけとしては、父の教育方針があります。

父親の教育方針で、家庭でニュースなどが流れるとそのニュースに対しての僕個人の意見を求められ、適当に思い付きで答えると、深く掘り下げられそのたびに「物事を一面からだけで判断するな」と言われていました。「自分の知識がないからもっといろんな視点で物事を考えないといけない」と子どもながらに思っていましたね。

また、親族の集まりでは、ご年配の方や年上の親戚と話をする機会が多く、同年代の子供と話す機会があまりなかったことも、大人と対等に話そうとするようになった理由の1つかもしれません。

ー小学生時代を思い返して、印象的なエピソードはありますか?

小学生のときは、正直自尊心が肥大化していました。小学生時代は、たくさんの習い事に通っていたのですが、それぞれに熱中していましたね。当時は割と要領よくこなせるタイプだったので、自分は才能があり、周りとは違う人間だと思っていました。学校の授業も、教室ではなくて図書室で自分で勉強をしてましたね。

勉強やスポーツも、いつからか賞状を持って帰ることが目的になってました。毎回学期末にどうやって名前を呼ばれて賞状持って帰るためにはどうしたらいいかを考えてました。

ーそんな中、西尾さんは中学受験をされたんですよね。どのような経緯だったんですか?

中学受験の勉強を始めたのは、小学校4年生くらいのときでした。小学校が自分にとってものすごく居心地のいい場所というわけでもなかったので、レベルの高い学校に入れば自分に合った友人や環境があるかもと思い、受験しました。受験勉強自体は、活字が好きで教科書や問題などを読むことも好きだったので、楽しくやっていました。その結果として、学校の明るい雰囲気が印象的だった、第一志望の中学校に無事合格しました。

初めての挫折。抜け出すきっかけになった友達の存在

ー念願の中学校に合格されたと思いますが、中学校時代に印象的だったエピソードはありますか?

小学生時代とはうってかわって、中学校には自分では努力しても敵わないと思うような人がたくさんいました。

そこで、自分は特別な才能がある人間ではないんだということに気づきました。3年生きてきて、人生で初めての挫折でしたね。

自分に価値が見出せなくなる経験をし、「自分は恵まれた才能があるから、勉強をして世の中の助けになることをした方がいいんだ」と思っていた小学生時代から、「努力しても敵わないのだったら、僕が勉強の方面で社会に貢献するのではなく、できる人間がやればいいのではないか」と思うようになりました。

ー中学校生活はいかがでしたか?

友人には恵まれ、ヨット部での活動にも熱中していたことから、学校生活だけで見ると楽しかったと思います。ただ、子供時代に持っていた大人への反抗や生意気さは消えるわけではなく、学校の先生方には嫌われていたと思います。

また、両親も賞状を持ってくることでコミュニーケーションがとれていたので、その賞状がなくなってお互いの接し方がわからなくなった時期でもあり、家族間のコミュニケーションもほとんどなかったですね。

ー高校進学はどのように選択しましたか?

本来であれば、中高一貫校なので、そのまま高校に上がるものですが、成績が芳しくなかったため、進学が危ういと伝えられました。しかし、仲の良かった友人たちが先生に掛け合ってくれ、無事に付属の高校に進学できました。

その出来事から「彼らの友人として恥ずかしくない存在でありたい」と思うようになり、より真剣に部活や勉強に取り組むようになりました。

ー高校での印象的なエピソードはありますか?

高校入学時に、陸上部に勧誘されて入部しました。それ以外にも、体育祭の実況や、学園祭でのラジオ放送などをしており、充実した高校生活でした。特に、ラジオに関しては、「しゃべりだけで物事を伝える」ことに面白さを見出し、部活のない日には、近くのマクドナルドで友人とラジオ番組の脚本を書いたりしていました。

ー高校3年間を終えたあとの進路選択については、どのように考えていましたか?

周囲では「この学問を修めたい」「この仕事に就きたい」「こういう国にしたい」などの志を持っている友人が多かった一方、僕は進路について明確な意志がなく、特に行きたい大学も見つからなかったため、どのようにするか悩みました。

結果的に群馬の草津温泉で働くことを決めたのですが、僕の通っていた高校は、ほとんどの生徒が大学進学するので、就職の選択はかなり珍しかったです。

周囲にはいわゆるエリートコースに乗るであろう友人が多かったので、僕が大学進学ではない道に進むことで、彼らに別の目線を提供できるのではないかと考えたのが、働くことを決断した理由でした。

ー人と違った選択をすることは勇気がいることだと思いますが、どのように進路を決めていきましたか?

「どうせ働くならみんなと違うことをやろう」と思っていました。「オフィスで働く仕事ではない」「都会で働く仕事ではない」などの要件を満たす場所として、群馬の草津温泉で働くことを決めました。

働いてみて、仕事やお金に関するカルチャーショックを感じました。恵まれている環境で育ったため、自分や周りの家庭を基準に考えていました。しかし、実際働いてみて「仕事は面白くなくてもやらないといけない」「この労働でこれだけのお金しかもらえない」「生きていくためだけに仕事をする生き方がある」ということを知り、これまでの自分の人生がいかに狭い世界だったかと痛感しました。

いつも選ぶのは「自分が変わる可能性のある選択肢」

ー就職後に大学進学を選んだきっかけはなんでしたか?

草津温泉で働いているときは、自分と向き合う時間が多かったので本を読む機会が増え、興味のある分野、特に観光地での労働問題について、勉強したいと思い、政策系の学部のある大学に進学することを決めました。

ずっと関東で暮らしていたなかで関西の大学に進学した理由は、仲の良い友達が多い関東に進学をしたら甘えてしまい、自分自身が変わることができないと思ったからです。

そう選択できたのは、高校時代の友達が言った「ヒーローや仮面ライダーになるのは無理なんだけど、ゴミを拾ったり席譲ったりは自分でもできる。僕はできることをひとつひとつしていくことで、なりたい自分になれると思う」という言葉がきっかけでした。

僕はその言葉に感銘を受けると同時に、「なりたい自分になっていくためには、小さい変革を続けていかないといけない」と思いました。その時に変わらない可能性のある選択肢は選ばないと決めました。

ー大学生時代はどのように過ごしていましたか?

大学生活では主に大学教授の方とのディスカッションと学生団体への加入、立ち上げを行ないました。

大学には勉強をするつもりで入ったので、基本的には大学の教授に付いてディスカッションなどをさせていただきました。本を読んだや論文の感想や疑問点をぶつけ、それに対しての回答をもらうという形で関わっていたため、大学の先生とは仲は良かったと思います。

最初は勉強ばかりしていたため、ほかの同級生との勉強への熱意の違いであまり仲が良かったわけではなかったのですが、見かねた教授に勧められて学生団体に入ったり、僕の取り組みを面白いと思ってくれた同級生をゼミに誘って研究したりしたことで、少しずつ仲間を増やしていきました。。

ー学生団体を立ち上げた、とのことですが、どのような取り組みをされていたんですか?

学生団体ができたきっかけは、大学の敷地内にあったカフェの店長さんに、お店にもっと人が集まるようにしてほしいと相談を受けたことでした。そこから友人らと学生団体を立ち上げ、カフェの売上向上のためにさまざまな取り組みを行いました。

そのカフェは障害者の方が働くカフェで、障害者の方や問題と接してるうちに、福祉業界のよくないところや疑問に思う点がたくさんでてきて、学生団体を福祉団体に、最終的には福祉事業として起業するに至りました。

ー大学を卒業したあとのことはどのように考えていきましたか?

事業化した学生団体に残るか、就職活動をするか葛藤しました。もちろん、起業した会社に残るという選択肢もあったのですが、労働格差や教育などの様々な方面で課題に取り組んでいる友人たちを応援したいという気持ちが強くあり、外の世界でビジネスや組織形成などの知見を持ち帰り、彼らの後押しができる能力を身に着けることが、仲間として価値のあることではないかと思い、就職を選びました。

ー就職活動はどのような企業を見ていましたか?

大学3年生の頃に僕の中で「人事ブーム」がありました。大学時代の福祉団体のときもメンバーの勧誘を担当していたこともあり人材採用や人事業務に興味を持ち、人材業界をメインに就職活動を行い、派遣業や人事部への就職を決めました。

いくつか内定があるなかで1社目の会社を選んだのは、内定者の顔合わせが決め手でした。同期となる友人が多様な価値観があり、いままでに会ったことのない人たちだったことから、自らの価値観変化を促せるのではないかと考えたからです。

「納得できる世の中と向き合える方法」を見つけるために僕がしたこと

ー起業を経てふたたび社会人になられましたが、感じ方には何か違いはありましたか?

自分が事業創出に関わったことで組織との向き合い方には特に苦労しました。最初に入社した会社は人材業界で、組織の中で競争していくことで勝ち上がっていくという文化でした。競争原理自体に一定の合理性は感じつつも、僕の仕事が会社にとって良いことなのか、社会にとって良いことなのか、それとも個人の幸福にとって良いことなのかと考えた時に、「競争原理主義であることと、個人の幸福や社会への価値提供は相関性が低いのではないか」という違和感を持っていました。個人が得意なことをし、互いに補い合うことでより組織としても個人としてもパフォーマンスを上げられ、社会的な価値の追求が出来るのはないかと考えていました。

転職を繰り返しながら様々な組織、業務に触れる中で、「本当に貢献したいことは既存の組織や事業では難しいのかもしれない」「事業で世の中を解決するにはもっと勉強が必要かもしれない」と思い、自分が納得できる世の中と向き合える方を見つけるために試行錯誤していました。

ただ、いくつかの会社を転々と出来たことは起業をする際には比較できる材料が多く、非常にポジティブな経験だったとは思います。

ー起業をするにあたって、会社の未来設計はどのように作りましたか?

ソーシャルベンチャーの事業継続支援の会社を作りたいということは決めていたため、それを軸に設計しました。

背景としては、資金の問題で事業の継続が難しく、諦めざるを得ない方をたくさん見てきたなかで「世の中を良くしたいという想いを持つ人たちが、事業推進の仕方がわからないということだけで諦めてしまうのは、世の中にとって大きな機会損失だ」と思ったことがきっかけでした。

資金が集まらず諦めてしまったソーシャルベンチャーをもっとビジネス的な側面から支援することで、想いや目指している場所が素晴らしい挑戦が事業としての成長戦略が描きやすくなれば、資金が確保できず諦めてしまう人が減ると思ったからです。

僕は現状、ビジネスのソーシャルベンチャーの領域でも立ち上げ支援は少しずつ増えてきているものの足りていても、「立ち上がった事業を継続的に支援する」事業がないことに課題意識を覚え気付き、事業を継続するためのための支援をしようと考えました。

ー具体的にどういった事業内容で継続支援を行っているのですか?

事業展開としては、主に3つあります。1つ目は、スタートアップ~中規模ベンチャーフェーズのソーシャルベンチャーのマーケティング・組織設計・採用・事業創出・事業推進のコンサルティング、2つ目はソーシャルベンチャーを中心とした想いのある事業のサービスが集まるプラットホームの創出、そして、3つ目は社会課題解決という堅苦しいテーマをもっと簡単に身近に、出来るなら「これももしかしたら社会課題解決じゃない?」と気づかないうちにしていた社会課題解決を一人ひとりがふと気づくことが出来るような、知識よりも再発見をテーマにしたメディア運営です。

メディア運営は、一見すると事業継続支援と関係ないようにも見えますが、より多くの人が良いサービスや良い想いに巻き込まれる社会、つまり、社会課題解決へのハードルのない社会の実現に近づけるために必要だと考えています。TwitterやInstagramを見るように、日常の流れの中にふとした発見があるような、そんな生活に溶け込むようなメディアを目指していきます。

プラットホームを中心としたサービス開発が掲げている社会の実現の肝になってくるため、現在も日夜メンバーと議論を重ねながらより良い形を模索しています。

ー西尾さんの「未来像」はありますか?

世の中を少しでも良くしたい、一人でも誰かを助けたいと思い挑戦する心優しい人たちが、挑戦を諦めなくていい社会を作っていきたいと思ってます。

現状の社会システムでは、挑戦の一歩目が踏み出しやすくなっている一方で、そういった人たちが壁にぶつかったり、立ち止まったりしたときの支援の仕組みは足りていないように感じます。「事業継続支援」という仕組みを通じて、社会的な取り組みが少しでも持続可能な社会となるようにしていくというのが直近のミッションです。

また、これまで日本が海外諸国で学校の設立や就労支援などを行ってきたように、人口減少の避けられないなかで、いかに海外からの支援を受けられる国に出来るか、というのが大きなテーマになってくると考えています。そういう意味でも、日本のカルチャーの一つとしてソーシャルビジネスが発展することは大きな一手になると思っています。

もちろん、「社会を良くしたい」という想いの根底は、「周りにいる仲間たちがいかに幸福でいられるか」なので、社会への挑戦という大きなテーマを掲げながら、いかに仲間たちの最大幸福を実現出来るかということが人生最大のテーマです。

ー短い時間で濃いお話をありがとうございました。西尾さんの今後のご活躍を楽しみにしています!

執筆:ゆず(Twitter
インタビュー:高尾有沙(Twitter/Facebook/note
デザイン:五十嵐有沙(Twitter