#少年院から早稲田へ 逆転劇を躍進する湯谷昂太の見せたい「背中」

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第249回目となる今回は、少年院にいた経歴をもちながら、現在は「はみだしチャンネル」を運営するYouTuberである早稲田大学生の湯谷昂太(ゆたにこうた)さんをゲストにお迎えし、現在に至るまでの経緯を伺いました。

「#少年院から早稲田へ」というキャッチコピーを掲げて発信を続けられている湯谷さん。あえて暗い過去を隠さず、肩書きとして掲げながら活動されているのには、かつての仲間や友人たちへの思いがあるのだとか。逆転劇を果たした湯谷さんが見せたい背中や、決意を実現できた理由について、余すところなくお話いただきました。

ーまずは簡単に自己紹介をお願いします。

早稲田大学文学部2年生の湯谷昂太です。学生生活の傍ら「はみだしチャンネル」というチャンネルを開設し、YouTuberとしても活動しています。

ー「はみだしチャンネル」ではどういったことを発信されているのですか?

このチャンネルでは、僕が10代の頃に生活していたアウトローなコミュニティを取材、発信しています。

彼らは、社会的には良くないことをしているかもしれないんですが、心の内に膨大なエネルギーを秘めていたり、笑顔が素敵だったり、将来の夢に向かって走っていたりと、キラッと光る良いところをたくさん持っているんですよね。

僕が10代の頃に、仲間や友人から感じていた彼らの魅力を、自分のチャンネルで発信したいと思い活動しています。

ーチャンネル概要からも湯谷さんの想いが伝わってきてとても素敵だなと感じました!なぜ始めようと思われたんですか?

僕は毎年目標を立てるんですが、一昨年は少年院から出てきて、1年間受験勉強に励み早稲田大学に合格しました。今年の目標を考えた時に、少年院から早稲田に行った自分だからこそ伝えられることを発信する、というのを思いつき始めたのがきっかけです。

 

ーすでに気になるワードがたくさん出てきていますが、現在の湯谷さんがどのように形成されたのか、これまでの人生についてもお伺いしたいと思います!

 

毎日5時からの早朝練習!野球に打ち込んだ小学生時代

ー幼い頃はどんなお子さんでしたか?

あまり運動が得意ではなく、習っていたサッカーと水泳でも目立った成績を出せない、平凡な子どもでした。

そんな中、4年生の時に観た甲子園の試合で衝撃を受けました。地元・広島の広陵高校と佐賀北高校の対戦だったのですが、それが高校野球史に残る熱戦で。その夏から野球に目覚め、うまくなりたい一心で毎朝5時から父親に練習を手伝ってもらう日々が始まりました。

ー早朝練習を続けられたんですね!その成果はありましたか?

町内のチームで僕だけベンチにも入れてもらえなかったところから、1年でクラブチームの5番バッターになれました。今思うと、それが人生で初めての成功体験でしたね。

 

真面目な野球少年から一転、不良の道へ

ー大躍進でしたね!中学でも引き続き野球部で活躍されていたんですか?

それが、初めは野球をやっていたんですが、中学2年の頃に良くないことが続き辞めてしまって…。

ー辞めてしまったんですね…!良くないこととはどんなことだったんでしょうか…?

一番は肩を壊したことで、走り込みしかできないようになり、練習が面白くなくなってしまいました。また、チーム内でもトラブルがあって、それでますます練習に行きたくないという思いが強まってしまいました。

そんな時に、テレビでヤンキーが取り上げられている特番を見て、純粋にかっこいいと思ったんですよね。それである日、チーム全員が坊主頭のなか、自分だけ赤のモヒカンにしていきました。

ー思い切りましたね…!

もちろんのことながら監督にはこっぴどく怒られて、その瞬間「もう野球なんていいや」と気持ちが冷めてしまいました。その日から先輩と夜の街をぶらついたり、悪さをして遊んだりするようになり、道を外してしまいましたね。

ー野球への熱が冷めていたところに、別の刺激的な世界を見つけてしまったんですね。

でも、それはそれでとても楽しかったし、幸福度もすごく高い時期でした。今でも野球を辞めて道を逸れたことを後悔はしていないし、むしろグレてよかったなと思っています。その意味では、人生のターニングポイントだったな、と。

ーグレてよかった、というのは新鮮ですね。どんなところに良さを感じたんでしょうか?

野球でも充分身につけられただろうとは思うのですが、礼儀や根性を身につけられたというのが大きいかなと思っています。上下関係の厳しいコミュニティのなかで、自分の力で生き抜いていく経験ができたことは、確実に今の自分に活きています。

また、それまでの僕は、普段の態度や素行に気をつけて生活していたし、野球を続けるために「いい子」で居ようと親や先生の顔色を伺いながら生きていました。野球を大切にしていたから、自分の行動を制約していたんですよね。

それを手放したことによって、親や先生といった既存の枠組みから抜け出し、自分がその瞬間やりたいと思ったことをすぐ行動に移せるようになりました。自分のエネルギーをもって生きているという感覚が得られるのは、それまでに感じたことのない喜びでしたね。

 

高校進学も授業を受けずに退学

ー中学で道を外してしまったとのことですが、高校へは進学されたんですか?

高校へ進学はしたのですが、本気で野球をやっていた頃に思い描いていた学校とは全く異なる、名前を書けば入れるような学校でした。

ですがここでも、入学式の前日に小さな事件を起こしてしまい、謹慎部屋からのスタートになってしまいました。その謹慎期間が長く、結局授業に出ることも教科書に触れることもないまま辞めてしまいました。高校を辞めてからは建設系の職に就き、暴走族に入りました。

ーなぜ暴走族へは入ろうと思ったんですか?

地元で恐れられている先輩の勧誘が激しかった、というのが背景にあったんですよね。その勧誘から逃れるために、とりあえずどこかのチームに所属するのが、仲間内の暗黙の了解になっていました。いじったバイクで走るにはチームに所属していないといけなかったので、仲の良い先輩に掛け合ってチームに入れてもらいました。

ー地元のルールがあったんですね。走ることにはどんな魅力があったんですか?

今となっては、どうしてあんなに夜から朝方までバイクを乗り回してたんだろうと思いますね。とても馬鹿だとは思うんですが、自分たちの運転で街の交通が乱れることに快感があったのは間違いないです。警官と追いかけっこすることにはスリルがあったし、何より目立てることが気持ちよかったです。他にも方法があるとは思いつつも、僕含め皆それしか目立つ方法がなかったからやっていたんだと思います。

ーなるほど、スリルを求めてですね…。走るのは長く続けられていたんですか?

17歳の時に事故をして1ヶ月くらい入院したんですが、それをきっかけに走りを辞めようと思いました。暴力団との繋がりは続いていたので、バイクを降りてからは組織の準構成員として、パシリのような生活をすることになりました。

その頃、現場仕事では物足りなくなりもっと効率的に金稼ぎがしたいと思うようになり、友人と援交デリヘルの違法ビジネスを始めました。

ー金銭への欲から違法ビジネスに手を染めてしまったんですね…。具体的にはどんなことをされていたんですか?

売春をする女の子を10人程度雇って、自分たちは用心棒役として女の子たちの稼ぎから手数料を取る形で運営していました。

その時は稼ぎたいという欲が強かったので、その運営で入った金銭を見せ金にして、情報商材ビジネスなどにも手をつけていました。それまでの真面目に働いていた頃と違い、自分で汗水たらして働かずともお金が入ってくる仕組みを構築できたことから、天下を取った気分になっていました。

 

売春斡旋が発覚し逮捕。少年院の中で決めた人生の歩み方

そんな時に援交デリヘルが明るみに出て、2017年に売春斡旋容疑で逮捕され少年院に入ることになりました。

ー上り詰めたと思い込んでいた矢先に逮捕されてしまったと…。少年院の中ではどんなことをしていたんですか?

少年院では、高卒認定試験や資格の勉強をしたり、再犯防止のカリキュラムを受けたりして過ごしていました。刑務所とは異なり教育という色が強く、そもそも罰を与える場所ではないので、少年が社会に出て生活できる能力を身につけるための支援を受けられたり、それぞれの課題に向き合うための講座があったりするんです。

僕は、1年間暴力についてのカリキュラムが組まれて、同じ課題を持った子達と講義を受けて認知行動療法などを学びました。

ーたくさん時間があったと思うんですが、その中で考えていたことってどんなことでしたか?

少年院に行くまでに留置所と鑑別所を経由したんですが、鑑別所にいた時までは逮捕されたことに納得していませんでした。周囲の大人にも反発していました。

でも少年院に移ってからは、自分のこれまでを深く省みるようになり、もう悪さはしたくないという思いを抱くようになりました。もちろん被害者の方に対する謝罪の気持ちも大きかったですが、自分の人生を真剣に考えた時に、いつまでも悪事を働いて裏社会で生きるような人間でいたくない、これからは表舞台で正々堂々と勝負できる人間になろうと決意しました。

ー少年院のなかで生き方を変えようと決心されたんですね。そこからなぜ早稲田を目指そうと思われたんですか?

一般的に考えて、少年院上がりってマイナスに聞こえるし、隠したい過去になると思うんですよね。表の社会で生きていくにおいて、周囲から受け入れてもらいづらい事実だと思います。でも、僕はそれをプラスにしたかった。少年院に入ったこの1年を自分の人生に活かしたいと思い「少年院から〇〇」というキャッチコピーを考え、事実を隠さず表に出しながら生きることを決めました。

なぜ早稲田大学にしたかというと、地元の友人や少年院に入るような子たちにとってわかりやすい経歴にしたかったからです。短期間で決着がついて、わかりやすいギャップを作るには、誰もが知っている大学に合格するというのが一番ぴったりだと思い、早稲田への受験を決めました。

 

少年院から早稲田へ。暗い過去と決意を経て見せたい「背中」

ー受験勉強開始からわずか11ヶ月というスピードで合格されたんですよね!自分で課したルールを実現できた理由について教えていただけますか?

何かに挑戦する時に大切にしていることが、決意した段階で計画を立てることと、その計画を遂行するための環境を整えることです。

少年院を出てから地元の塾に通い始めたんですが、入塾テストで中学1年生のレベルからスタートしなければならないことがわかりました。一年後に早稲田に合格するためには、勉強以外何もできない環境を作らなければと思いました。友人と遊ぶことも塾から抜け出すこともできないよう、SNSアカウントを削除したり父親に塾まで車で送り迎えをお願いしたり、一日中塾で勉強するしかない環境を整えました。

計画や目標を立てた時って、人間の意思ってすごく高いところにあると思うんですよね。でも僕はそれをあてにしていないし、意思の通りにならないことも多い。だから、最初に決意したタイミングで、とにかく環境を整備するということを意識していました。

ーなるほど、決意の揺らぎを予め考慮しておくんですね。

でも、非行少年だった頃のスリルをまた味わいたい、って思ったりしないんですか?

ないですね。昔過ごしていた場所とは比べものにならないくらい、今見ている世界はとても広い。名前も売れててお金も持っていた頃とは違いますが、表の世界で活躍したいという思いの方が強いので悪さはできないです。今の方が断然ワクワクしてますね。

ーここからチャンネルを通して、湯谷さんはどんなことをやっていきたいですか?

僕は、僕の人生まるごとを通して、くすぶっている子たちを勇気づけたいと思っています。道を外してしまうような不良の子たちは、生きるエネルギーに満ち溢れていて、やりたいと思ったことに対して行動スピードがとてつもなく早かったりします。僕はそういうところに魅力を感じるんですが、彼らはその力を使う場所を知らないために、悪事を働いていることがあります。

僕も、過去には少年院にお世話になるようなこともしましたが、表舞台で勝負することを決めました。将来、何か成し遂げた時に「18歳の時は自分もそこにいたけれど、ここまで来れたんだ」「あの湯谷でもここまでできたんだ」ということを見せたいと思っています。YouTubeだけに留まらず、僕の生き方全てをもってそれを証明したいんです。

ーちゃんと表舞台で活躍できるということを証明している過程なんですね。

教育や少年に寄り添うようなスタンスをとりたいわけでは無いんです。僕を見て「俺にもできるかも」って思ってもらえるような、そういう存在になりたいなと。

ー最後に、湯谷さんご自身が今後やっていきたいことについて聞かせてください!

今年はYouTubeの運営に力を入れたので、来年は格闘技のプロになることを目標にしたいと思っています。僕には長期的なビジョンはないんですが、常に何かに挑戦し続けたいという思いがあり、今関心があるのが格闘技なので、来年はその分野で頑張りたいなという気持ちです。

並行してYouTubeももっと質の良いチャンネルにしていきたいと思っています。来年からはチャンネルの色も変えていこうと思っているので、新たな一面を見せていきたいですね。

ーご自身の固い信念のもと、常に挑戦を続けられている姿にとても刺激を受けました。お話ありがとうございました!

 

取材・執筆:中原瑞彩(Twitter
デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter