「仕事にもっとワクワクを」株式会社アフタースクール代表取締役 石綿文太の働き方 

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第194回目のゲストは、株式会社アフタースクール 代表取締役 石綿文太さんです。

「株式会社アフタースクールでは学生時代の”放課後のようにワクワクする”をモットーに、関わった全ての人が楽しく、やりがいのある仕事をできる環境を日々構築しています。」

アフタースクールの会社サイトには、働く全ての人がこころ惹かれるような言葉が並んでいます。「仕事なんて、つまらない」と反論したくなる人もいるでしょう。ただ、石綿さんの仕事への姿勢、楽しむことへの貪欲さを知った後では、あなたの仕事観は180度変化しているかもしれません。

2歳からの芸能活動、中学生でせどりを始め、高校生でバイトながら売り上げを2倍に、そして複数社の起業。楽しいだけじゃない、働くこととお金の酸いも甘いも経験した彼だからこそ言える「楽しいことだけを仕事にしよう」という言葉。その言葉の重みが蓄積された半生を辿ります。

 

「負ける戦はしない」

 

ー本日はよろしくお願いします!まずは、石綿さんの自己紹介と、現在のお仕事を教えてください。

石綿文太です。株式会社アフタースクールという会社を経営しています。アフタースクールは、広告運用やサイト制作などWeb関連事業を展開する会社です。そのほかにも、ブログ「いつまでもアフタースクール」の運営や、高知県を拠点としたNPO法人「ヒトマキ」の副代表理事を務めています。

 

ー石綿さんをTwitterでフォローしている人は、ブロガーというイメージが強いのではないでしょうか。

そうですね。ブログは、21歳のときにそれまでの起業経験を書き始め、初月で10万PVを記録し、1年後には月200万円の収益を得られるほどに成長しました。起業した会社が経営難に追い込まれ、離脱してからのタイミングで開設したので、いまの事業の領域である「Webって面白いな」と改めて思わせてくれた存在でもあります。 

NPO法人ヒトマキの代表とも、ブログを通じて出会い、意気投合していまの活動につながりました。過去には、ブロガーのためのオンラインサロンも運営していました。現在は、ブロガーが集まるバー「ブロバー」を新高円寺に開いています。

 

ーブログ以外にも様々なビジネスに挑戦している石綿さん。具体的にはどのようなことを行っているのでしょうか? 

ブログで培った知識と経験を活用し、SEOアフィリエイトをしていました。それをさらに発展させ、企業向けにWebマーケティング支援を行っているんです。クライアント企業様のサイトやサービスの集客から、購買に至るまでの顧客教育を、広告運用やLINE、メルマガなどのツールを導入して行っています。

 

ー個人ブログが十分な収益を上げており、フリーランスとして活躍されていますが、法人としての株式会社アフタースクールはどんなことを目指しているのでしょうか。 

経営理念は「負ける戦をしない、最大化できる価値を発揮できる場所で戦おう」です。 

「仕事って、つまらないものだ」そういう価値観を持っている人が多くいらっしゃると思います。本当にそうでしょうか。ぼくの会社では、仕事をつまらないと思って働いている人はいません。そして、パートナー企業様にも、仕事をつまらないと思って働いてほしくないと考えています。 

仕事にも、学生の頃に放課後を待ちわびたようなワクワクをもって向き合ってほしい。楽しい仕事だけをやっていこう、と決めているんです。そして、仕事の楽しさのひとつは「成果が上がること」。成果を上げるためには、自分の本来の価値を発揮できることが重要。働いているスタッフの価値を最大化できることに注力し、結果として、楽しく働きながら、業績の向上を実現しています。

 

お小遣い禁止令。7歳でお金と向き合う

ーブログや会社経営など、石綿さんは「働くこと」をテーマに様々な発信を行っています。ご自身が最初に経験した仕事はなんだったのでしょうか。 

親の意向で、2歳から芸能活動をしていました。いわゆる子役です。高校入学の16歳まで、10年以上の芸歴があります。芸能活動をしていたことで、ぼくには幼少期から、お金のことを考える思考が身についていました。

7歳になったとき、突然、親にお小遣い禁止を言い渡されたんです。芸能活動で得たギャラの半分を渡すから、すべてそのお金で工面しなさい、と。自分が欲しいものを買うためのお金だけではありません。撮影現場に行くために交通費などの経費もです。親を現場に同伴させる場合は、親の分の交通費もぼくの財布から捻出する必要がありました。 

ぼくの家は、郊外にあって、同級生にはお金持ちの家庭の子が多かったんです。ぼくは4人兄弟で、同級生と比べずとも貧乏でした。「周りの子たちは好きなものを買い与えられ、遊んでいるのに、どうしてぼくは…」と、自分の置かれた状況を恨めしく思うこともありました。 

正直、芸能活動にやる気はなかったんです。けれど、週1,2回は早退や欠席をしてオーディションに通い、放課後も演技の練習、休日もレッスンに費やすほど頑張れたのは「ちゃんと自分で稼がないと」という意識があったから。あれだけお金を意識する教育がされてなかったら、もっと早くに芸能活動は辞めていたと思います。

 

ー高校入学後、芸能活動は引退されたんですよね。引退を選択されたのはどうしてですか。

そもそも、子役は、成長に伴って仕事が減っていくんです。特に男の子は、声変わりがある小学校高学年から中学校の時期が登竜門とされていて、辞めていく人も多いという実情があります。ぼくも、年齢を重ねるにつれ、オーディションに呼ばれることが減り、仕事もなくなっていきました。 

そんな状況下にあっても、当然、家のお小遣い禁止ルールは変わりません。仕事がなくなったら、お金に困ってしまうというプレッシャーの中で、せどりを始めました。ほかに稼ぐ方法が必要だったんです。

カードゲームの流行を探り、高価なカードを手持ちのカードを使ってなんとかゲットして販売したり、ジャンク品のPSPを自分で修理して安価な中古品として再び商品にしたり…。そういったことは独学で習得しました。思い返せば、当時は、常にビジネスのネタを探していましたね。 

高校入学と共に、バイトができるようになります。せどりは不安定でしたから、より安定的なバイトを始め、そうすると芸能活動で稼ぐ必要もなくなったので引退を選んだんです。

 

失敗ばかりだったからこそ、自分の真価に気付く

ーそれだけのビジネス感覚が備わっていたのであれば、バイトでも活躍したのではないでしょうか。 

それが…「どこでもやらかす石綿」と呼ばれるくらい、ぼくは使い物にならないバイトでした。バイト先で選んだのは観光地。大きな会社で、バイトも多く雇っており、その分職種も様々でした。ぼくはそこを、たらい回しにされていたんです。ホールになればお客様にラーメンをぶちまけ、3日で異動。そんな失敗ばかりのバイト生活でした。

 

ーいまの石綿さんから想像ができません。そのような状況をどのように打破したのでしょうか。 

とにかくいろんな仕事を順番にやって、やっては失敗し、別の仕事に回され…そんなふうにすべての仕事に関わったからこそ、全体把握ができていることに気付けました。実働をすると失敗してしまうけど、業務改善を考えることならできるな、と。 

そこで、上司に「もっとここを改善すれば、この課題を解決できると思うんです!」と進言をするようになったんです。上司は上司で、失敗ばかりのぼくの存在を持て余していたものですから、「ああ、もう勝手に好きにしたらいいよ」と。 

1年間は失敗つづきでしたが、2年目からは業務の仕組化や施策の提案などをやるようになり、自分の真価を発揮できるようになったんです。そうしたら、その店の売り上げは2倍になったうえ、人件費の大幅削減にもつながりました。本社から「なんかすごいバイトがいるらしいぞ」と社長さんや部長さんなどの管理職の方が視察に来るほど話題になり、時給も最終的に2300円まで上がったんです。 

このバイト生活を通して、「仕事というものは、自分の価値を最大化していくことなんだ」と気付けました。

 

高卒の肩書きより、一生使えるネタを

 

ーそんな濃いバイト生活もありながら、高校生活も送られていたんですよね。どんな高校生だったのでしょうか。 

新設の高校に通っていて、ぼくたちが一期生でした。その高校に進学したのは、これから始まるような高校を選ぶ人は、きっとエネルギッシュな人や不思議な人たちに違いないと思ったからです。また、そんな人たちが集まる環境で生徒会長を務めたい、というのも入学前から考えていました。

実際に、立候補と選挙活動を経て、生徒会長への就任が叶います。あの頃は、放課後が待ち遠しくて仕方なかったですね。生徒会の活動で、さまざまなプロジェクトを進行した経験は、のちの仕事にも活きています。

 

ー大学進学や就職はせずに、起業されたそうですね。高校を卒業されてすぐのことだったのでしょうか。 

実は、高校は卒業式の7日前に自主退学しました。

 

ー7日前に!充実した高校生活だったことがうかがえますが、どうしてそのような決断を下されたんですか。

高校も楽しかったのですが、あの頃は、バイトで成果を上げられることが嬉しくて、学校へ行かずにバイトに勤しむことも珍しくなかったんです。単位取得制の自由な校風であったことから、それでも問題はありませんでした。 

高校3年に進級したくらいのときに、自分は就職ではなく起業が向いている人間なんだろうな、と感じ始め、それと共に起業準備もスタート。バイト先で得た成果を資料にして、営業活動をしていました。

卒業が目前に迫ったタイミングで退学をしたのも、のちの起業のためです。このまま卒業をしても、「高卒」という学歴が手に入るだけ。でも、高校卒業7日前に退学すれば、一生使えるネタが手に入る。最終学歴は中卒でも、中退のほうがよっぽど面白いことになるだろうと思って辞めました。

生徒会長なのに、中退って…当時は先生や友人からもかなりのバッシングを受けましたね。

 

経営難、解雇申告…仕事がゼロに

ー確かに、インパクトは抜群です…。そうして学生生活を電撃的に幕引きし、起業家に。最初に立ち上げた会社はどのようなことをしていたのでしょうか。

学校を辞めて、すぐにイベント運営とケータリング事業を行う会社を設立しました。観光地でのバイト経験から、需要と供給の相関性を意識していたので、人が多く集まるところでのビジネス展開が思い描けていたんです。最初はニコニコ動画のオフラインイベントであるニコニコ超会議にケータリングを出店。初月の売り上げは約350万円でした。大きな額ではありますが、バイト先ではもっと売り上げを出していたので、やっとスタートラインに立てたな、という感覚でしたね。

 

ー先ほど営業資料を作って…とお話されていましたが、どのように仕事をとっていたのでしょうか。

人づてに紹介をしてもらうと「〇〇さんの知り合いね」とバイアスがかかって本質の部分を見てもらえないと感じたため、縁もゆかりもない人へ、飛び込みで営業活動を行っていました。当時はまだ、バイト先での実績しかなかったので、とにかく若さと熱意を売りに。「売り上げになるかは分からないが、面白そうだし応援してみるか」という方々から、仕事をいただいていました。 

また、関係性の広がりを意識していましたね。たとえば、会社を設立すると、税理士や社労士をお願いする必要があります。ただ、会社のバックオフィス業務を任せるだけに雇うのではなく、その人に依頼することで、可能性が拡大する人にお願いするようにしていました。「一石二鳥、三鳥となる人と関係性が構築できれば、きっと仕事は増えていく」そんな仮説を基に動いていたんです。

 

ー会社経営は順調でしたか。

起業から3か月で軌道に乗りました。ただ、正直、バイトからスタートして観光事業は数年経験して、飽きていたんです…。そこで、Webに知見のある友人と共同でWeb制作の会社を新しく起業しました。

 

ーそうして現在のWeb業界に進出されたんですね。

当時はまだクラウドソーシングサービスの規模も大きくなく、案件をとることから苦戦しました。また、ただ受注と制作を繰り返すのではなく、せっかくなら世界にインパクトを与えるようなWebサービスを生み出したいと、毎月、新しいサービス開発に挑んでいたんです。 

資金調達もしていないような会社で、社員も4人雇っていました。資金は全てぼくのケータリング会社の売り上げを使い、役員報酬もぎりぎりまで下げ、さらにそこから経費を捻出し…。1日の睡眠時間が3時間しかないほど働いても、月収は10万円、そこからさらに仕事のために使って、自由なお金は月1万。そんな生活は長く続きません。遂に、社員をリストラするレベルに業績が悪化してしまったんです。

 

ー立ち上げからいた社員を解雇するのは、相当に辛い決断だったかと思います。

ぼくより10個も年上の、会社のムードメーカーであった社員に解雇を伝えたときは、ひたすらに謝るしかありませんでした。自分たちが誘い、会社のために働いてくれた人物です。彼は「大丈夫ですよ、気にしないでください」と言ってくれたものの、申し訳なさで胸がいっぱいで…。

このままじゃだめだ、とその経験から痛感し、ぼくが役員を退任して会社から身を引きました。そのしばらく前に、ケータリング会社の売却も完了していたので、仕事が完全になくなります。あのときは、人生で一番、精神的支障をきたしていました。

 

ーそれまでがむしゃらに働き続けていたのが、突然、まっさらに…そこからどのような生活を送られたのでしょうか。

1,2か月は働く気力が起きなくて、ずっと家に引きこもっていました。心配してくださった方から、たくさんの連絡をもらいました。その中には、辞めた会社のクライアント様の存在も。「私は君のお客だから、また再開するなら君に頼みたい仕事があるよ」と言ってくれる方もいて…。自分はまだ、誰かに必要とされている。それを実感できたことで、個人としてできる範囲で仕事にすこしずつ復帰していきました。

 

ー周りの方に手を引かれるようにして、徐々に回復していったんですね。

当時、お世話になった人にはたくさんの恩があります。19歳だったぼくを、気に入り、関係を築いてくださった親世代の経営者たちの存在は、ぼくにとって財産ですね。直接的に仕事関係がなくなったいまでも、たまに元気な顔を見せなきゃと連絡をとりつづけています。

 

能力がない人はいない、大事なのは環境選び

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ーその後、フリーランスとしても活躍するわけですが、2018年に現在のアフタースクールを法人化されますね。またふたたび会社という形で仕事をつくることにしたのは、どうしてですか。

ひとりで働くことは、とても気楽でした。ブログの収益もどんどん伸びて、生活には全く困らなくて、それでも、そんな生活を続けるうちに自分がやりたいことがなんだったのか、分からなくなったんです。

1,2年間は、ふらふらと、いろんな場所へ滞在し、いろんなプロジェクトに参加しました。そうしたなかで、やはり自分のこころが楽しいなと動かされたのは、誰かと一緒に大きなことにチャレンジするとき。長けている人間を集めて、大きな成果を追い求めるとき、楽しいなって強く思うんです。

生徒会をしていた頃、放課後が近づくとワクワクしていた。文化祭や体育祭など、忙しくて大変だったけど、みんなで一丸となってプロジェクトを遂行するあの楽しさはなににも替えがたいものがありました。あの感覚を、いろんな人と共有したい。Webマーケティングという領域で、「仕事、楽しいな!」と噛みしめて働く人を増やしたいと思ったんです。

 

ー石綿さんは、楽しさと成果の両軸を大事にされていますね。仰る通り、成果が上がらずつまらないと感じ、働き方に悩む人は多くいらっしゃると思います。

ぼくは、価値を発揮できない人はいないと思っています。人は誰しも、環境の変化によって成果が左右される。そのため、その人の価値を定義するものは環境だと考えているんです。 

もちろん、その人自身にも原因がある場合もあるでしょう。でも、最大限頑張っても成果が出ないなら、環境のせいだと考え、環境を変えることから始めてほしいです。「自分はなんて駄目なんだ」「毎日が鬱々と過ぎていく」そんなふうに感じているなら、環境を変えてしまえばいい。自分に能力がないのではなく、ただ、環境選びが下手なだけではないでしょうか。

 

ー石綿さんのその考えは、NPO法人ヒトマキの活動にも映っているように感じられます。

ヒトマキは、高知のれいほく地域を拠点に、悩んでいる若者の居場所づくりを行っています。古民家を改修したり、シェアハウスを提供したり、バイトを紹介することで、コストを抑えて生活できる環境を整えているんです。お金があまり必要なければ、すこし働き、あまった時間で、自分のこととこれからのことをじっくり考えられる。休憩しながら、次の場所へ向うエネルギーを蓄え、自分の可能性を拓く場所です。

 

ー石綿さん自身は、どんな場所で可能性が開花するように感じていますか。

とにかく「楽しいな」と感じられる場所に尽きますね。自分のことを行動力があるな、とは思ってません。ただ、やっている仕事に対しての、楽しさのアンテナは常に張っています。そうやって、自分の楽しい基準を明確化したからこそ、楽しいことを探知し、楽しいことを続け、楽しいからこそ頑張れるというサイクルが生まれました。

そして、自分が楽しんで仕事をしていると、不思議と楽しい仕事が舞い込んでくるものなんです。

 

ー常に楽しむマインドを大事に進む石綿さんが、欠かさないことを教えてください。

振り返れば、自分にずっと問い続けてきました。「ぼくはどんな人間なんだろう?」「どんなことに悲しむんだろう?」「どんな生き方をしたいんだろう?」…毎日のように、自分自身へ質問を繰り返してきました。そういう過ごし方をすることで、自分自身が納得した人生を重ねていけると思うんです。

いま、なにかに悩んでいる人がいたら、自分自身へ問いてみてください。

 

ーそこから見えてくることがありそうですね。本日はありがとうございました。

 

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取材者:山崎貴大Twitter
執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter
デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter