野球選手→福井ワイルドラプターズ球団広報・三木田龍元さんに訊く!愛と夢を追い続けた先にある想い

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第180回は福井ワイルドラプターズで働かれている三木田 龍元さんです。プロ野球独立リーグの選手として活躍しながら、大学時代には作業療法士と気象予報士の二つの資格を取得した三木田さん。
現在は福井の独立リーグの新球団で球団広報として日々奮闘中の三木田さんに、これまでの自身のライフストーリーや今のお仕事についてお話いただきました。

応援してもらうためにSNSでの発信を大切に

ーまずは三木田さんの自己紹介をお願いします。
大学卒業後から去年まで3年間は選手として活動し、現在はプロ野球の独立リーグで今年設立された「福井ワイルドラプターズ」で球団広報として働いています。また、大学在学中には作業療法士と気象予報士の資格を取得しました。

ー現在のお仕事を具体的に教えてください。
今の仕事では、SNSの運用や試合のタイムスケジュールの管理、メディアや行政・パートナー企業と連携して試合をどう盛り上げるかを考えています。本来であれば、4月からシーズンが開幕する予定でしたが、コロナの影響で開幕が6月に延期された上に開幕当初は無観客での試合でした。7月からお客さんが入って試合をできるようになりましたが、コロナの影響でお客さんの数は例年よりも減っているので大変です。

ーSNSというオンラインの部分を重点的にやっていったということですが、現役時代からSNSでの発信をしていたのでしょうか。
私自身が現役時代にTwitterの発信を意識するなど、オンラインでの発信を大切にしていました。独立リーグはNPBの球団よりも人気や実力は負けてしまうので、どうしたら応援してもらえるのか、自分を知ってもらえるのかを考えたときに個性をどれだけ出せるかを現役時代は意識して発信を続けていました。その観点を球団広報でも活かし、発信が苦手な選手やSNSがよくわからないという選手の魅力を引き出したり、球場では見えないバックグラウンドの部分を引き出せるように心がけています。

悔しい経験の数々が原動力となる

ー三木田さんの過去についてお伺いしていきます。野球を始められたのはいつごろでしたか。
ボール遊びに興味を持ったのがきっかけで小学1〜2年生で野球を本格的にはじめました。
小学校から中学校の時はなんとなくで野球を続けたのですが、全国大会にも出場するチームに入っていた中学生の時は最後の大会にも関わらずメンバーを外れるという悔しい経験をしました。その経験が反骨心となり、高校でも野球をやることに決めました。

ー高校そして大学での野球についても教えてください。
私は投手をしていたのですが、高校最後の夏の大会で負けた試合が今までにないくらいの調子で途中まで相手を抑えていました。しかし、ピンチの場面で自分のライバルだった投手へ交代した後に逆転負けしてしまいました。突然引退が決まってしまったため、高校野球が終わった実感が全くなく、当時は負けた事実を受け入れることが難しかったです。

大学では勉強をベースとしつつも、中学時代の最後の大会でベンチ入りできなかった経験や甲子園に行くという目標を達成できなかった高校時代の悔しさが野球を続ける原動力となりました。大学野球は苦しい時期もありましたが、やりきれたのは中高時代の経験が大きかったです。

ー大学は北海道大学に進学をされましたが、それは野球が関係していたのでしょうか?
とりあえず大学で野球を続けたいというのはあったものの、そこから全国大会やプロに絶対行きたいというのは考えていませんでした。そのため、ある程度は野球をしっかりやりつつもあくまでもベースは勉強という風に考えていたので、家から通えるかつ国公立大学で親の負担を考えた上で野球に力を入れている大学を探していた時に北海道大学が出てきました。

せっかく野球をやるからには、一番高いレベルで本気で全国を目指せるような環境でやれる硬式野球部に所属することにしました。

ー大学を一年休学する選択をしたきっかけは何だったのでしょうか。
私が所属していた学部が医学部保健学科作業療法学専攻というリハビリの作業療法士になるための専攻だったので、実習が多くありました。大学野球は春と秋に大きな大会があるのですが、4年生の春と秋の大会と長期の実習が重なってしまったんです。通常通り進学して実習に行くと、最後の1年間が何も野球ができずに完全燃焼できないまま終わってしまうと思いました。そこでリーグ戦を最後までやり切り、野球が終わったタイミングで実習や将来のことについてコミットしようと思いました。

それと同時に、作業療法士になりたいと思って大学に入ったものの、実際に働いている人から話を聞いたり実習に行くと、作業療法士が素晴らしい仕事であると感じる一方で、大学卒業後は大学院に進学するか作業療法士として病院で働くかの二択しかありませんでした。そこで、自分が本当にやりたいことは何なのかという思いを抱き始め、進路を見つめ直すために休学を決めました。

進路を見直すきっかけになった多くの人を幸せにしたいという思い

ーそもそも、三木田さんが作業療法士になろうと思ったのはなぜだったのですか。
私に生まれつき障がいを持っている2歳上の兄がいたのがきっかけでした。兄をきっかけに医療や障がいを持った方と毎日関わる中で、その人達は自由にやりたいことができないと感じ、自分が何か手助けできないかと幼い頃から医療やリハビリという部分に興味がありました。実際の病院現場を見ると、目の前の人を幸せにすることはあるものの、より多くの人を幸せにすることができないかと思うようになり、進路を見直すことになりました。

ー医療とは離れた気象予報士の資格も取得されていますが、こちらはなぜ取得されたのですか。
気象予報士ってかっこいいなという印象が一番でした。リハビリ以外の進路を考えなければと思っていたある日、本屋に立ち寄った際に気象予報士と書いてある背表紙が目に入り、その本が面白くて読み物の一つとして購入したのが始まりでした。本を読み始めて、気象予報が面白くなってきたので、資格を取得してみようかなと思ったのと同時に資格取得率が4%の気象予報士の資格が取れたらかっこいいなと思いましたね。

作業療法士の勉強と並行して1年半をかけて資格を取得しましたが、興味のある分野で楽しく勉強できたのが大きかったです。

ー2つの資格を取得された後、合格していた大学院に進学するところから一転して独立リーグを目指すことになると思うのですが、そこにはどういった心境の変化があったのでしょうか。
作業療法と気象をミックスさせた特異性を磨ける道に進むことができたら面白いなと思ったのが当初大学院に進学するきっかけでした。気象と医療といってもピンと来ないと思いますが、天気の変化といった外部環境が人間の体にどのような影響を及ぼすかについて考える生気象学という分野に関心を持ちました。生気象学であれば、今自分が学んでいる二つの勉強がガッチリ当てはまると思い、その研究をするために大学院を目指しました。

所属大学とは別の学部の大学院に温泉による刺激をリハビリにどう活かすかを研究している先生がいて、先生の下で勉強をしたいと伝えていたため、それ以外の選択肢を考えていませんでした。すると、大学院試験の直前の6月頃に先生から新設する大学院の学長をやることになりゼミをやることが難しいと連絡があり、大学院を受けられなくなってしまったんです。頭が真っ白になり焦っていたタイミングで大学野球引退後に所属していたクラブチームの先輩が独立リーグを志望していて、その先輩に独立リーグはどんな感じなのか聞いたことで独立リーグに興味を持ちはじめました。

「今しかない出来ない」を選んだ結果が独立リーグの選手になることだった

 

ー独立リーグに踏み込む決断をした時には不安はなかったのですか?
相談した先輩から上のステージのNPBにいく選手は年々増えていることや待遇が苦しいのは聞いていましたが、正直大学院に進学することが上でした。ただ、独立リーグに興味があったのでとりあえずテストだけ受けてみようと思い、独立リーグのテストを受けました。

テストの日は背負うものやプレッシャーがなく、楽しみな気持ちで臨んだことで良い結果を残せたんです。これまで自分の可能性に蓋をしていたものの、テスト後に様々なリーグや球団からラブコールを受けたことでまだ選手として挑戦する価値があるかなと思い始めました。
ただ、実際に指名をいただいたことで大学野球か独立リーグに進むかで悩みました。
独立リーグからプロ野球に進む人は1年1年が勝負で年齢が1歳違うだけで評価が変わる世界なので、30歳になった時にやはり野球がやりたいと思って挑戦できる環境ではありません。一方で、大学院はやはり学びたいと思ったときに苦労はするかもしれませんが、学べるところだと思いました。10年後に後悔しない選択はどちらなのか、今しかできないことは何なのかを考えた時に野球だったので、野球を選びました。

ーそこから3年間、1年ずつ別のチームを渡り歩いて活躍したと思うのですが、その中でTwitterの運用・発信に注力されていたんですよね。
Twitterで一番恩恵を受けたのは、独立リーグのテストを受ける時に「独立リーグ挑戦します!」とツイートをした時でした。いろんなリーグや球団の人がその投稿を見てくれたことで、テスト会場でキャッチボールをしていると「君が三木田くんか」と多くの人が声をかけてくれたんです。その際、いかに無名の自分を知ってもらうかは自分を売り込むための発信が大事だと気付きました。また、大学時代が医学部の中の学科に属していたことも重なり、医学部卒のサウスポーが独立リーグに挑むという形で様々なメディアに取り上げてもらいました。その記事に自分の考えを上乗せして発信していった結果、数千人のフォロワーに応援してもらえるようになりました。

ー独立リーグ3年目のシーズンで引退を迎えると思うのですが、どういったきっかけだったのでしょうか。
入団時にメディアに取り上げてもらったものの、正直周囲の期待やプレッシャーがすごくて期待に応えきれない悔しさを感じつつ、まだ自分の力はこんなものではないと思っていたのが1年目・2年目のシーズンでした。ただ、3年目のシーズンは1年目・2年目よりも結果を残せませんでした。
1年1年が最後のつもりでやっていた中で不甲斐ない結果になっており、野球選手として上を目指すのは年齢的にも厳しいと感じたので、引退を決めました。

ーそこから気持ち面をどう立て直しましたか?
野球以外にもやりたいことはたくさんあったので、引退しても引きずらずに前を向くことができました。高校野球の時は突然の引退だったのですが、独立リーグの時は3年目のシーズン途中で引退するというのを自分で決めていたので、引退までの日々は目の前の1日1日を楽しむことに全力を注ぐようになりました。そこから野球へのモチベーションも楽しく最後できましたし、だからこそ引退したタイミングで次の道に進み始めることができました。

目の前の人を喜ばせたい

ーそこから新球団の立ち上げ。これはどういった経緯がありましたか。
引退してからは東京を中心に活動したいと思い就職活動をしていたのですが、目先のお金が無く悩んでいました。どうしようかと思っていた時に、所属していた独立リーグの事務局の代表に1ヶ月ほど雇ってもらえないかと話し、インターンという形でリーグのお手伝いをすることになりました。福井に新球団ができるということで福井の球団立ち上げ業務に事務局が追われていたので、その仕事に関わりはじめました。この仕事が始まった当時は福井に行くことは考えておらず、自分の実になるアルバイトとして手伝わせてもらいながら別の軸でごく普通の営業マンをやろうと考えていました。

ー福井に行くことになるのは、タイミングや縁が重なったからでしょうか。
福井に来てほしいとなった時は、何も知らない土地であることや新球団というリスクがあり、正直迷いました。ただ、大学院か独立リーグに進むかを選んだ時と同じ軸で考えた時に、新球団の立ち上げや新球団での1年目というのは今年しか体験できないと思い、挑戦することに決めました。

ー新球団の広報の仕事に就いたばかりかと思いますが、最後に三木田さんの今後のビジョンや野球との関わり方について教えてください。
野球にこだわりがあるわけではなく、スポーツやエンタメを舞台にいろんな人を巻き込み、力を合わせて目の前にいる人を喜ばせることが今のやりがいでもあるので、それを続けていきたいです。今の球団が福井という地域になくてはならない存在であり続けるために、広報の仕事は魅力を発信したり面白い人を増やしていくための大切な仕事なので、野球という枠に囚われずに活動していきたいです。

取材者:中原 瑞彩(Twitter)
執筆者:大庭 周(note/Twitter
デザイナー:五十嵐 有沙 (Twitter