大学時代、200人以上の社会人と話して見つけた流拓巳の人生におけるビジョンとは

様々なキャリアの人たちが集まって、これまでのステップや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第160回は株式会社ガイアックスの人事マネージャー、流拓巳さんです。仕事以外にもよさこいチーム須賀IZANAI連、HR Buddy運営事務局、yentaエヴァンジェリストなど複数のコミュニティに所属し、活動されている流さん。

大学時代に寮の先輩からの紹介がきっかけではじめたインターンで自分の人生を長期的に考えはじめ、就職活動では200人以上の社会人と話す中で見つけたミッションとビジョンとは何だったのか。就職先を株式会社ガイアックスに選ばれた理由や、人事を担当することとなった経緯なども含めて詳しくお伺いしました!

会社を内部からよりよくするべく人事部門を立ち上げ

ーまずは現在のお仕事について簡単に教えてください。

新卒で入社したIT系企業、株式会社ガイアックスにて人事支援チームと労務チームのマネージャーを務めています。もともと人事専門部門はなかったのですが、働き方の自由度が上がり、グループの規模も拡大したことで取り組むべき課題も増えたことから今年、人事支援チームを立ち上げました。

株式会社ガイアックスは社会課題を解決する事業を生み続けることを目標としており、新しい事業がどんどん子会社として独立していくことを前提としています。そのため多くの企業の人事部では、いかに長く働いてもらうかをフォーカスしているかと思いますが、株式会社ガイアックスでは長く働き続けてもらうことを目的とせず、新しい事業を作るポテンシャルを持った方を採用し、いかに個人のミッションが実現されるかを大事にしています。

ー新卒で現在の会社に入社されたとのことですが、どのように企業を選ばれたのですか。

就職活動では業界を問わず様々な会社をみていました。コンサル会社と最後まで迷ったのですが、株式会社ガイアックスを選んだ理由は自分自身が人生を通して成し遂げたいと思ったことが、株式会社ガイアックスの世界観とマッチしたからです。

人事は経験してみたかった多くの職種の1つで、やるのであれば就活生を経験してすぐの方が自分の経験を役立てることができると思っていました。この組織を内側からよくすること、そしてそのカルチャーを発信していくことに関わりたいと思い、事業部ではなくバックオフィス業務を志望しました。

 

幼少期の妄想癖は今でも健在

ー後程流さんの成し遂げたいことについてもお伺いできればと思いますが、まずは過去のお話もお聞きできればと思います。どのような幼少期を過ごされたんでしょうか。

山口県の田舎で長男として育ちました。父は大阪と福岡を往復するフェリーの船長をしており、家を長期で留守にしていることが多かったです。また母もパートで働いていたため、友達や親戚の家に預けられることが多い幼少期だったのではないかと思います。しかしそのおかげもあり、人見知りしなくなりました(笑)

また少し前までは恥ずかしくて人には言っていませんでしたが、小さい頃から妄想力が高く、一人で妄想を繰り広げることが多かったです。例えば小学校2年生からサッカーをはじめたのですが、サッカーワールドカップがある年は全試合を具体的な試合展開まで脳内でシュミレーションしてみたり、小学校からはじめたよさこいに関しては架空の衣装やチーム名を落書き帳に書いてみたり。人事になった今も、誰をどこに配属させたらどうなるか、どんな会社になるかを日々妄想しています。

ー地元の公立中学に進学後はどのような学校生活を送られていたのですか。

小学校とほとんどメンバーが変わらない環境だったので、人間関係なども小学校から大きく変わりませんでした。小学1年の時に好きだった担任の先生が、中学のバレー部の顧問をされていたのでバレー部に入部しました。が、入部一年でその先生が転任され、新しく連れられてきた学外のコーチは、ちょっと問題があるくらいバイオレンスかつわがままで、想像とは違った部活生活となりました。また、当時から責任感が強く、自分の学年に生徒会長をやりたい人がいないのを察して自ら立候補して生徒会長を務めましたね。

バレー・ラグビーと好きなことを続けた中高生活

ー勉強の方はいかがでしたか。

田舎の中学では勉強熱心な人は少ないので、宿題とテスト前の勉強だけしていればあまりがんばらなくても成績上位をとることができていました。高校でもバレーを続けることを考えていたので、たまたま幼少期に遊んでくれていた近所のお兄ちゃんから、彼が通う進学校のバレー部が人数不足で廃部の危機だから来て欲しいと言われ、中三の秋頃から急遽そこを志望校に勉強を頑張ることにしました。

ぎりぎり合格できたのはよかったのですが、高校に進学して初めて周りが両親共に大卒で、子供も大学を目指すのが当たり前という環境になり、自分よりも勉強ができる人たちに囲まれることとなりました。中学では常に成績上位でしたが、高校に入って初めて成績最下位を経験しました。

ー予定通りバレーは続けられたのでしょうか。

はい。廃部寸前で人数が足りていなかったこともあり、入部直後から主力選手となれたのですが、前述の近所の先輩(キャプテン)と何度も揉めてしまい1年生のうちに退部してしまいました。そしてたまたまバレー部同様、部員が足りず困っており、入学時からずっと誘ってくれていたラグビー部に入ることとなりました。

ーまさかの1年経たずしてバレーからラグビーに変えられたんですね!高校生活も部活漬けの日々を過ごされたんですか。

両親から「留年はするな」とは言われていましたが、その代わり3年間好きなことをやっていいし浪人も1年は認めると言われていたので部活中心の生活を送っていました。そんな中、2年の夏にラグビー部に経験豊富で優秀な後輩が入部してきて、早稲田大学で開催される全国の高校生対象のラグビーキャンプにその後輩と参加しました。その時に見た早稲田大学のラグビー部の選手たちがすごくかっこよく、こんな風になりたいと思って早稲田大学に行きたいと思ったんです。

ー勉強するモチベーションはそうやって見つけられたんですね。

はい。ただ、勉強の仕方もよくわからないまま勉強して、自分にも甘く、さらには分不相応に早稲田大学スポーツ科学部しか志望していなかったので、当たり前ですが、合格することはできず…浪人を決め、北九州予備校というとにかく厳しいことで有名な寮制の予備校に通い始めました。

2浪を経て、大学へ進学

ー2度目の受験で合格できたのでしょうか。

初めは面白いくらい成績が伸びたのですが、同じ浪人生の彼女ができ、心の支えができたと思ったのも束の間、彼女の相談にのっているうちに自分自身もメンタルをやられてしまいました。自分よりも人の問題に寄り添うタイプだったのが裏目にでる結果となり、心も体も壊してしまい、勉強がままならないので成績も下がってしまうという悪循環で、受験は再び失敗してしまいました。

親不孝だとは思いつつも、母親から「まだ頑張れると思うなら、もう1年浪人しても応援するよ」と言われ、もう1年浪人生活を続けることに。2年目は通いの塾に変更し、自分の目標と調子に合わせた無理のない生活を自分で組み、自分で自分をコントロールするようにしました。

ーそしてついに早稲田大学スポーツ科学部に進学されたのですか。

それが、勉強していく中で経営学に興味を持つようになり、早稲田大学スポーツ科学部ではなく商学部に志望校を変更しました。また、結果的に早稲田大学には合格できませんでしたが、その次に行きたかった立教大学の経営学部に進学を決めました。

ーなるほど…!大学ではどのように過ごされたのでしょうか。

浪人時代の先生に「流に合うと思う」と紹介していだいた学生寮和敬塾に入り、寮生活を中心とした大学生活を送っていました。というのも和敬塾が60年の伝統があり、かなり体育会系な寮で、大学の長期休みにも寮対抗で1ヶ月にも及ぶ体育祭があったり、役職者は土日も寮運営の会議があったり、とにかく忙しかったんです。

寮以外では、大学でもあまり友達を作らない中、自分が2年生になった時に早期退寮をすることになった先輩に人材系インターンを紹介してもらったのをきっかけに一緒にインターンをはじめることとなりました。ヘッドハンターのアシスタントの業務をする中で多くの社会人の経歴をみる中で、業界や会社規模を見て就活するのではなく、自分の人生を長期的にみて考えようと思いはじめました。就職活動をはじめてからも、最初の半年で200人程の方に自分の頭の中をぶつけることで、自分が長期的に成し遂げたいミッションとビジョンも見つけることができました。

 

見つけたミッションと2つのビジョンに向けて

ー様々な方と話す中でたどり着いた、長期的に成し遂げたいミッションとは何だったのですか。

人生における自分自身のミッションは「理不尽な制限によって生まれる“勿体無い“をなくすこと」だと気づきました。またより具体的なビジョンの1つは「世の中から他人事という概念をなくす」ということ、もう1つは「自分に自信がない成功体験がないことが理由でチャレンジできない人がチャレンジできるためのきっかけを作ること」です。

そのための手段として何が適切かは分からなかったものの、生きる目的が決まったので、手段が決まるまでに先にやらなければならないことを考えました。その結果、「やるべきこと」としては、誰にでも自信を持って語れるほどのビジネスでの実績を複数作ることや、どんな領域に進んでも第一人者と繋がれるくらいの人脈作り、世の中の最先端を知れる仕事をすることなどだと思いました。また、自分自身の「在り方」としては、人と誠実に向き合うことが重要で、そのためには心と時間とお金に余裕を持ち続けられる環境に自分を置くことが大事だと考えました。

ーそれが冒頭の就活時の企業選びの軸となった訳なのですね。

そうです。株式会社ガイアックスからは逆求人サービスからオファーがあり、面接を受けました。将来的に作りたい社会像が自分のミッションとかぶっていたこと、社員の皆さんがそれぞれ個々にミッションをしっかりと持っているところに惹かれました。この会社であれば、自分のミッションやビジョンを忘れることなく働き続けることができると感じたんです。

実際に入社以来、部署関係なく広く事業を手伝うことで自分のミッションを忘れることなく働くことができているなと感じています。また、自社でできることだけではミッションを果たせないと思い、人事コミュニティの運営やオンラインサロンへの所属、踊りを通してアプローチすることも目指してよさこいチームにも所属しています。

ー社外でも幅広く活動されているんですね。日々行動する際に意識されていることなどはありますか。

プロジェクトにおいても、人生においても、ゴールをしっかりとイメージすることです。入社した時は自分が思う完璧な30歳像をイメージし、言語化できるレベルにまで明確化しました。そしてその30歳像になるために何をしないといけないか細かく1ヶ月単位にまでブレイクダウンします。私の場合、最終的には30分単位にまでブレイクダウンしてやることを休憩時間さえもあらかじめいれながらグーグルカレンダーのスケジュールにいれています。ここまでできたらあとはカレンダー通りに生きるだけなので計画ができた時点で8割は成功していることになります。

ー全て細かく計画されているんですね…!今後その計画にはどのようなことを組み込まれているか、ぜひ教えてください。

今は自分のミッション・ビジョンに対する手段として現在の仕事がベストだと考えているので、まずは会社の可能性を広げる仕組み作りに全力で取り組む予定です。様々な社会課題を解決する事業を輩出できるよう、最適化した組織に変えていきたいと思っています。

個人としては、これまで1対1での影響力を生かすが多かったですが、自分の影響を受けた人が、また誰か別の人に影響を与えることができるような、対大人数向けの活動もしていけたら考えています。これからは一人で課題に向き合うのではなく、みんなで一緒に課題に向き合って解決していく時代だと思います。だから他人を頼れる人や他人がヒントを与えやすい人であることが大事になってくるのではないかと思います。私自身も会社だけではなく様々なコミュニティを通して、ビジネスでは届かない領域に対しても仲間と一緒に課題に向き合っていき、よりよい社会を作っていきたいです。

 

取材者:高尾有沙(Facebook/Twitter/note
執筆者:松本佳恋(ブログ/Twitter
デザイナー:五十嵐有沙 (Twitter