アスリート&会社員としてパラレルに活躍!セパタクロー強化指定選手・玉置大嗣の新たな挑戦とは?

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。今回のゲストは、セパタクローの日本代表として世界大会で活躍するなど、アスリートの第一線で活躍する玉置大嗣(たまき・だいし)選手です!

セパタクローのプロ選手でありながら、クラブチームの創設、コーチ、会社員などパラレルに活躍する玉置選手の、これまでの選手人生とプライベートに迫ります!

サーブの威力は日本一!? 玉置選手がセパタクローと出会うまで

photo by 高須力

ーさっそくですが、セパタクローってどのようなスポーツなのでしょうか?

僕がやっているセパタクローは、簡単に例えると足でやるバレーボールのようなものですね。

片手でつかめるほどの、小さなプラスチックを編んでできたボールを使います。足を使ってボールを相手のコートに打ち込むのですが、腕や手は使えません。コートの広さはバドミントンと同じでネット越しに2対2か、3対3、4対4で戦います。

僕は3人制の競技選手で、サーブ専門のポジションです。183センチの高身長を活かした速度の出るサーブが武器です!

ーセパタクローをはじめようと思ったキッカケは?

僕は中学までサッカーでキーパーをやり、高校ではバスケットボールをしていました。千葉大学に入学後も、その熱量のままバスケサークルに入ろうと思っていたんです。

するとたまたま、新歓で訪れた体育館でめちゃくちゃアクロバティックな動きのスポーツを見てしまったんです。それがセパタクロー部との出会いでした。

セパタクロー部の謳い文句はマイナースポーツあるあるで、「すぐ日本代表になれるよ!」というものでしたね。

ーバスケの経験もありますし、すぐ大活躍したのでは?

いえ、それが最初は全然できなかったんです。セパタクローの見せ所は、バク転をしながら打つローリングアタックです。

セパタクローの場合、バレーボールのようにポジションがローテーションではなく専門性が求められるスポーツなんです。アタックならアタック、サーブならサーブと、ポジションで役割がある程度決まっています。

最初は僕もアタック専門の選手としてプレーしていました。ですが、アタックは非常に柔軟性が求められるポジション。バク転する勇気や恐怖心の克服も必要ですし、めちゃくちゃ怪我をするポジションでした。約2年アタッカーをやっていましたが、半分ぐらい怪我で満足のいくプレーができず、不完全燃焼でしたね。

そこで、大学3年でサーバーにシフトチェンジしたんです。そうしたらなんと8ヶ月後に世界大会に出ていました!(笑)かなり異例だったと思いますが、それほどサーバーのポジションが自分に合っていたんだと思います。

ーサーブを打つ際には、高い身長も武器になりますよね!

現在は183センチあるのですが、実は中学3年生でサッカーをやっていた時は163センチしかなかったんです。クラスでも小さい方で、サッカーは後輩に背でもスキルでも抜かれてしまい、ずっとベンチでした。

そこから、背が伸びるのを見越して高校でバスケに転向。そうしたら1年で10センチ伸びて、現在は183センチになりました!

ーすごい成長期!大学ではどのような練習をしていたのですか?

大学2年時にはアタッカーとして、自主的に資金を集めてタイに修行に行ったのですが、日本のトップ選手を遥かに超えるレベルでした。

セパタクローの本場であるタイには、高校生で強い選手がゴロゴロいます。そのとき、タイの全国クラスを目の当たりにして、衝撃を受け、心が折れかけましたね。

でもそこで辞めるのはダサいな…と感じ、クラウドファウンディングで旅費を集め、毎年タイに修行しに行き、自分のスキルを磨いていきました。

ーなぜそこまでセパタクローにのめり込めたんでしょう?

そもそも、僕は何かハマりはじめると没頭する猪突猛進タイプなんです。高校時代のバスケなどもそうでした。ハマったものがあると、それ以外なにも見えなくなるんです。

セパタクローの場合は、スポーツが得意な僕でも“全くできなかった”というのがハマった理由ですね。できなかったから、「悔しい。もっとうまくなりたい!」という一心でのめり込んで行きました。基本的に負けず嫌いなんです。

 

前十字靭帯断裂の大怪我…そして強化指定選手落ちしたどん底時代に、新たな挑戦をスタート

ーアタックをしていた玉置選手が、サーバーに転向したキッカケは?

ひざの怪我ですね。アタックを打って着地して痛くて、それ以上飛びたくないと思えるほどの痛みが続いたんです。あと、このままアタッカーでも日本代表にはなれないと感じたのも転向の要因です。

サーブも最初は上手くなかったのですが、日本の強化指定選手の方々の練習に参加させてもらったり、先輩からのフィードバックも参考にして、上達していきました。

そして強化指定選手に入れてもらい、日本代表の合宿にも参加するまでになりました!

ー初めて出場した世界大会はどうでした?

僕のデビュー戦の相手は中国でした。なんとか勝てて、良いデビュー戦だったと思います!チームメイトにも支えてもらいながら夢中で戦いました。

ー良いですね!そこからは順風満帆な競技人生でしたか?

それが…うまく行きませんでした。

みんな働きながら選手として生活をしているので、大会に行ける時もあれば行けないときもあるんです。僕は大学を卒業後も競技を続けるために就職せず、アルバイト生活だったので、比較的、大会に参加しやすかったんです。

でも、大会で明らかにパフォーマンスの質が落ちていき、スランプまではいかないですが少し悩む時期を過ごしていました。

ーそれはいつ脱出できました?

その頃、逆にさらなる追い打ちをかけられてしまいました。

大学を卒業して1年目の冬、出場したチーム戦で久々にアタッカーをやったんです。そうしたら最悪なことに、前十字靭帯を断裂してしまい、全治8ヶ月の大怪我をしてしまいました。これはしんどかったですね。

「怪我は絶対治して、また日本代表に戻るんだ…!」と思っていたし、代表チームのサポートもあったのですが、リハビリ期間中に僕と監督との間でコミュニケーションの齟齬があって…。そこで実力抜きに、人間性の部分で厳しく怒られ、強化指定選手を外されてしまいました。メンタル的にはズタボロでした。

ーそれは辛いですね…。リハビリ期間はどのように過ごしたのでしょうか?

怪我でプレーはもちろん、アルバイトも行けないですし、ずっとリハビリをしたり読書したりしていましたね。その時たまたまビジネス書も読んでいて、セパタクローのプロ選手になるのであれば、何かスポンサーとの契約以外にやった方が良さそうだなと考えていました。

そこから、タイで学んできたセパタクローを教えるコーチをやってみたいなと思うようになったんです。

リハビリをしながら、大学でコーチをやってみようと売り込みに行ったのですが、お金を払ってでも自分をコーチとして雇うチームという需要がなかったんです。

じゃあもうチームを作るしかないな…ということで、知人の縁をつないでいき、僕の所属する「SC TOKYO」の下部組織として『SC TOKYO レゾンデートル』を横浜に作りました。

最初は生徒4人ではじまったチームが、「なんだかおもしろそうなスポーツチームがある」という口コミのみで広がっていき、最大で20人弱まで増えました!集客は困らないくらいになりましたね。

ープレーができない時期にも活躍されていたんですね。

SNSで子どもたちの活動を発信し、ファンの方々に見てもらったり、そのクラブチームにスポンサーを付けるような活動をしました。自分の挑戦を応援してもらいたい!と思い、グッズ作りなどにも挑戦しました。

この子ども向けクラブチームの創設は、マイナースポーツのセパタクロー界では珍しい動きでした。皆さん自分の競技人生が第一ですし…。活動が広まり、交友関係も一気に広がりました!

この経験から得たものは大きかったです。特にスポンサーを付けていく取り組みは、そう簡単にいかないと実感しました。ビジネスの創り方のようなものを学べましたね。

ーファンの方々にとっても、玉置選手の活動は嬉しかったのでは?

それが、この活動を辞め、自分自身のプレーに専念したほうが良いと言ってくれる方もいましたね。

確かに、怪我が良くなり選手として復帰したときは、週に2回のコーチと、選手としての練習日の確保などの両立が難しかったです。

生徒がいるスクールをしょっちゅう休みにはできないし…。そこで、コーチを雇おうと社会人のセパタクロー選手を募ったのですが、上手く行かず…。結局採用できずに1人でコーチをやってました。

もちろん応援してくれる方もいたのですが、厳しい環境でしたね。

最近では、応援してくれている人はとても増えたと感じています。SNSでの発信を通じて、僕に僕自身も気づいていない内面の変化があったのだと思います。

 

強化指定選手への復帰と同時期に家族が増える!アスリート・会社員・父親としての覚悟

photo by 長浜功明

ーそこからまた強化指定選手に復帰するまでの道のりは、どういったものでしたか?

怪我をして復帰まで約2年半でした。完治してからは1年半かかりましたね。指定選手落ちしたときのように、プレーだけでなく自分自身の内面も評価されないと、代表には戻れないと感じていました。

復帰できたキッカケは、ちょうど去年の今頃。入賞常連チームを倒し、まずプレー面を認められました。また、監督が僕のコーチ活動や発信内容を見て、「お前が変わってきているのを認めるが、次のチャンスはない。わかっているな?」とチャンスをくれたので、「わかってます!やれます!」と回答し、再び強化指定選手として再スタートすることができたんです。

ー強化指定選手に復帰して、怪我する前と後で何か変わりましたか?

めちゃくちゃ変わりましたね。

怪我をする前には使えていた強化練習の場所がなくなってしまったんです。しかし強化練習の場所を失ったにも関わらず、誰も場所の確保をしていなかったんです。

そういったチームのための活動を、誰もしていないことに違和感を感じました。

ちょうど僕が所属していたチームで場所の確保やチームづくりを経験していたので、皆で練習するための場所を自分で確保していきました。

もっと、日本代表チームが同じ方向を向かないといけない…と感じはじめ、組織づくり・チームづくりをするためのマインドに変化したと思います。

ー結婚も、何か心境の変化があったのですか?

強化指定選手に戻る半年前に、子どもができました。授かり婚です。子どもが生まれることで、責任感がさらに増しました。

運営していたスクールも、父兄の方々から「無理せずでいいから継続してね」と言われ、サポートもしていただき、今でも責任感をもって続けています。父親になって強化指定選手に戻って、“覚悟”はより強くなったと思います。

ーお子さんは今何歳ですか?

今9ヶ月です!可愛いです。「理人(りひと)」と名付けました。Instagramにもよく登場するので、ぜひ見てください!

ー家族を養う、子育てのために生活面は何か変化はありましたか?

子どもが生まれたのをキッカケに、25歳ではじめて就職をしました。

大学時代にはアスリートとして食っていくんだ!と思い就職活動もしていなかったのですが、今回もオファーをいただくカタチでOceans株式会社に出会いました。

現在は「KIZUNA」というアスリートとファンをつなぐSNSを運営しています。アスリートとしての僕を応援し、競技を優先させてくれる、非常に理解のある会社です。

ーアスリートとしての視点も活かせそうな仕事ですね!

そうなんです。でも、アスリートだからこそ「KIZUNA」のサービスは、サービスの需要と供給がまだガッチリ合ってないと感じることもありました。

アスリートを応援したいファンの方から課金いただくSNSコミュニティを運営するサービスなのですが、ファンの方々からお金をもらうのも運用するのも難しいです。

もう少し事業内容を考えないといけないな…というのは、いちアスリートとして非常に感じています。まだベンチャー企業なので、これから社員の皆さんと一緒に創っていきたいです。

また、僕は別の新規事業なども担当しています。これまで自分の力で事業を組み立て、マネタイズができ、運用するまでに至っていないので、何か1つ成し遂げたいという思いはありますね!

ーアスリートとしての活動が、生活に活かせた!という瞬間はありますか?

セパタクローのおかげで、1つの目標に対して突き進む忍耐力や、やりきる力のようなものは強くなりました。簡単ではないことでもすぐ諦めない。それは仕事で非常に活きています。

私生活では、健康志向が強くなりました!以前は食事や睡眠もおろそかになりがちだったのですが、アスリートとして徐々に見直していき、規則正しい生活とバランスの良い食事を摂るようになったり。家族と一緒に健康を意識した生活になりましたね!

僕の場合、食べるものを一気に変えたというよりは、食べる時間や量、栄養バランスを少し見直してマイペースに無理のない範囲で続けています。

ー2年前に比べ、公私ともに順調ですね。そんな玉置選手の今後の目標を教えて下さい!

直近の目標は、2022年に中国で開催予定のアジア大会に、日本代表として出場したいです。

そして2026年の日本・愛知大会の開催予定が決まっているので、そこにプレイヤーとしてのピークを持っていきたいです。

そして長期目標は、セパタクローのアスリートとして、プロリーグを作りたいと思います!バスケのBリーグ、サッカーのJリーグのような、沢山の方に応援される大会や場を作ってみたいです。

現在はYouTubeやSNSでの発信も行っているので、よかったらトレーニング風景や試合のプレーなど、ぜひ見て下さい。

そしてぜひ、セパタクロー選手たちの応援もよろしくお願いします!

せぱたまちゃんねる-玉置大嗣-

Instagram

ーありがとうございました!今後の活躍、非常に楽しみにしています!

 

ユニークな価値観を持つ29歳以下の世代(U-29世代)のためのコミュニティ「ユニーク大学」を運営中。29歳以下ならどなたでも無料で参加できます。

取材:西村創一朗
写真:玉置さん提供
デザイン:五十嵐有沙
文:Moe