「僕は勝手にCEOです」おせっかいな起業家が生み出すのは、守るためのビジネスモデル

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第38回目のゲストは株式会社MIKKE代表取締役の井上拓美さんです。

日本初の“吸うお茶”のブランド「OCHILL(オチル)」共同創業者、日本全国でシェアハウスを展開する株式会社リバ邸取締役、シーシャカフェ「いわしくらぶ」取締役、コワーキングスペース「ChatBase」やWebマガジン「KOMOREBI」、ラジオ番組「ハミダシミッケ」などのプロデューサー…井上さんが関わるプロジェクト、そしてポジションを並べると止まらないほど、たくさんの事業に参画されています。

ただ、そんな彼に「肩書きは?」と尋ねると、先に整列させた言葉はでてきません。

起業家、だけど、その型に嵌め込むにはあまりに変幻自在で大きな輪をもった井上さんに、これまでの歩みと、その先で芽生えたビジネス観について取材しました。

ビジネスのはじまりは「もう一回、会いたいから」という気持ち

ー井上さん、本日はどうぞよろしくお願いします。多くのプロジェクトに関り、肩書きもその数だけ増えているかと思いますが…ご自分をどう他人に紹介していますか。

よろしくお願いします。

自分を紹介する肩書きは、相手によって変えるようにしています。誰かと会ったときに僕が一番強く思うことは「この人と友達になりたい!」ということなんです。僕、とても寂しがりやなんですよね(笑)

人と会ったときに「もう一回、この人と会えないかなあ」という気持ちが沸き上がるんです。「僕の肩書きはこれです!」と言ってしまうと、その人のなかで関係性に対するバイアスが出来上がってしまうように思います。なので「僕はこういう者です」って差し出すのではなく、その人の話を聞き、自分がその人のために出来ることを探して伝えます。

ー井上さんは少し変ったデザインの名刺を持っていらっしゃっていますよね。

この名刺のデザインにしたのも、そういった理由からです。やっていること、好きなこと、やりたいことなどをいっぱい並べて、相手に興味があるものを言ってもらうんです。そこからどんどん深く話を進めていくと、仲良くなれることが多いです。

色んなプロジェクトに携わっていますが、肩書きは決めないようにしています。出会ったその人がその人なりに解釈して、その人の言葉で僕を表現してくれたほうが仲良くなれるし、嬉しいよなあ、って。最近だと、「何をやっているか分からないけど、MIKKEの井上拓美という人がいるらしい」って声も聞こえるようになってきました。それが面白い。

使うつもりはありませんが、もし無理やり肩書きを自分に付けるとしたら、「勝手にCEO」かな(笑)
そういう感覚でプロジェクトに関わっています。

ー「勝手にCEO」、なるほど。様々なプロジェクトを並行して進めていると思いますが、どのようなきっかけで井上さんが参加することになっているのでしょうか。

日本発の“吸うお茶”のブランド「OCHILL」の場合は、完全にただのおせっかいからスタートしましたね。

もともと、僕がプロデュースしたコワーキングスペース「ChatBase」のクラウドファンディングに支援してくれていたのが、シーシャカフェ「いわしくらぶ」の店主である磯川大地さんだったんです。それからいわしくらぶに通うようになって、シーシャにももちろんハマったんですが、何より空間全体に惚れていきました。もともとChatBaseで実現したかった空間が、いわしくらぶにあったんです。もう「ここでいいじゃん!」って思って、週に3,4回は行くようになりました。

ー週に3,4回!?かなりの頻度ですね。

そのうち、自然な流れで磯川さんから相談を受けるようになり、「どうやら意外と大変な状態みたいだぞ」というのが見えてきました。そこで、勝手にCEOをやりだしたんです(笑)

収支計画書がなかったので作ったり、そもそも何がやりたいのか、何が大切なのかを一緒に言語化していったり、お客さんをどうやったら巻き込んでいけるかを考えたり、なんならお客さんを呼びまくったりしていました(笑)

ーとてもありがたいおせっかいですね。

いろいろやるなかで、「いわしくらぶを今後どういう形で続けていくのがいいのか」まで考えるようになり、フランチャイズ化もありなのではないかと検討しました。その道を模索するうちに、いわしくらぶの想いをまとったシーシャのモノがあれば、場所はどこでもいわしくらぶ的な空間になるのではないか、ということに気付いたんです。そこで今度は、「OCHILL」というシーシャの構造を応用した、“吸うお茶”のブランドの立ち上げをすることになりました。

高校を卒業して起業へ。「ただの見栄だった」

ー高校卒業後に、大学へ進学をしなかったのはどうしてですか?

僕は自分のことを、かなりスタンダードな「ゆとり世代」だと認識しています。漫画に憧れて、ドラマの主人公を真似た格好をして育ち、インターネットに出会った。高校3年生の時です。僕が暮らしていた札幌でもインターネットが広がり始めていました。。インターネット上の有名人がすこしずつ現れるようになり、「俺もきっと何者かになれるはずだ」って思えてくる。ただ、何になれるかは分からない、何をしたいのかも別に分からない。そんな中で、大学受験で落ちてしまいました。

ー受験はしたけれど、行けなかった。浪人という選択肢はなかったのでしょうか?

そもそもテストという一般化された評価軸で測られることが苦手でした。そのときに知っていた選択肢は、大学進学のための浪人か、専門学校進学か、アルバイト。根拠の全くない思い込みで「何者かになれるんだ!」とプライドだけは高かったので、どれも選びたくなかった。でも結果、実家でゴロゴロしていました(笑)

ーそこから起業へと行動が移ったのにはどういったきっかけがあったのでしょうか?

母親に「自立しなさい!」と言われて、そのとき思いついたのが「お金を借りよう」だったんです。そこから銀行に通い詰めるようになりました。門前払いを受けたんですけど、毎日通ううちに、銀行員さんと仲良くなって…18歳が銀行に通うなんて、きっとないですから、可愛く見えたんでしょうね。

でも結局お金は借りられなくて。そこで、日本政策金融公庫の存在を教えてくれたんですよ。「ここは何かを始めたい人のためにお金を貸してくれるところだよ」って。そこで「何か」を始める必要性ができて、高校生のときに飲食店でアルバイトをしていたので「お店ならなんとなくわかるんじゃないか」って飲食の事業を始めようと決めました。

ー日本政策金融公庫からの元手で飲食店を始めたんですね。

いえ、実は借りられなくて…。ただ、事業計画も作って、物件も契約して、お店を始める準備は整っていたので、もう、やるしかなかったんです。最終的には、約6年ぶりに会った父親から借りることに。そしてイタリアンのお店をオープンさせました。

いま思い返すと、頭が悪かったなあって(笑)別の選択肢を全く考えられなかった、知らなかった。学校は、学ぶ内容は教えてくれますけど、学び方は教えてくれないじゃないですか。学び方が分からないから、何を知れば自分の選択肢が広がるのかも分からなかった。そんな状態がずっと続いていたような気がします。

ーそんな状態でも、開業まで辿り着いたんですね。イタリアンは、井上さんが作りたかったんですか?

お金を借りた段階では、どんな飲食を提供するか決まっていませんでしたね。そもそも僕は料理を振舞いたかったわけでもなかったし、振る舞うほどのスキルもなかったので、シェフが必要で、料理ができる人と出会うために飲食店を回って聞きまくったんです。「余っている人、いないですか?」って。

ーそんなこと聞く人いますか?(笑)

いないと思います(笑)当然、余っている人なんていなくて。ただ、あるお店で、「うちの店と合わないんだよね」と言われている60代の料理人と出会いました。その人はイタリアンをやりたがっていて、独立を考えていたんです。ただ、どうやればいいか分からない。そもそも、その料理人も経営に興味はなくて。対して僕はお店のコンセプトなんかは考えていない。なので「経営に関することは僕がやるので、好きな料理を提供していいですよ」と言ったら、その人がシェフになりました。それで、イタリアンのお店に。

ーコンセプトもなく、料理人任せでイタリアンのお店をスタートして、うまくいったのでしょうか?

1年半ほどで黒字になり、2年を過ぎた頃には借金の返済もできました。

今の時代は、まず最初にコンセプトを作ってから何かを始めることが多いですよね。当時の僕は、まず始めて、やっていきながら「このお店は、こんなお店かもしれない」って気付いていく過程を面白がっていました。

もちろん、最初から順調だったわけではありません。国道沿いのお店だったのですが、車がまったく止まらず、いつまで経ってもお客がこなかった。そこで、周辺に住んでいる人たちに注目したんです。この人たちが来てくれるようになったら「食っていけるぞ」と思って。とりあえず話すことから始めてみようと挨拶をするようになりました。そうすることで、そこにどんな人たちが住んでいるのかを把握していきました。ご年配の方が多く、昼間からスナックやパチンコに行っているんですよね。

ーそんな人たちをどうやって自分のお店に引き込んだのでしょう?

町を散歩してひたすら挨拶をしたり、スナックに通うようにもなりました。未成年だったのでお酒は飲めませんでしたが、ビートルズや玉置浩二さんの歌を歌えたので、仲良くなっていけて(笑)

その人たちは、別に昼間からお酒を飲みたいわけじゃなかったんですよね。寂しくて、人と触れたがっていたんです。スナックのオーナーさんもご年配で、昼間からお店を開けることに負担を感じていました。なので、「うちの店で無料のコーヒーを出しますよ」って提案をしました。そうしたら、昼間はうちでコーヒー、夜はスナック、というルーティンができてきました。最初は、本当に無料のコーヒーしか飲まなくて(笑)でも、続けていくうちに彼らにも申し訳なさが芽生えてきたのか、料理も注文してくれるようになって…そこからは早かったですね。それまで食べなかった人が食べるわけですから、売り上げが倍以上になりました。

この経験から、まずは行動によってコンセプトが生まれると強く感じました。自分が起したアクションが、外からどう見えるかによってコンセプトは変るんです。この感覚は、今のプロダクト作りにも活きていますね。

上京、起業。「好きなこと」が分からなくなる

ー北海道で飲食店を経営し、その後、20歳の時に上京をされますよね。どうして活動の拠点を東京にうつしたのでしょうか?

2年半飲食店をやって、飽きてきたっていうのが正直な気持ちでした。そんなときにビジネスコンテストに誘われて、「交通費はでるし、参加費はいらないし、行くか」という軽い気持ちで参加したのですが、そこで優勝してしまったんです。主催者の上場企業が、出資すると言ってくれたので、上京して起業することになりました。少し酔っているときに返事をしてしまったので、結構ノリでした(笑)そのときはまだ、飲食店の方はどうするかなんて考えていなくて…。

ー上京をして、新規事業に参入するのは大きなハードルに思えますが…。

そもそも、何かを始めるときに大きな意識や行動を自分自身がもつ必要があるとは思っていません。そういったものが必要なタイミングは訪れることはあるでしょうけど「それまで待ってよう」くらいの姿勢でいます。

ー上場企業から出資をうけての企業。全く違う業界になったわけですが、苦労はしましたか?

Webサービスの開発にあたったんですけど、その頃、エンジニアっていう存在すら知らずにいたので…。とにかく難しかったです。ただ、サービスの完成から逆算して考えて、進めて、大きな失敗とかはありませんでした。ユーザーも増えて、うまくいっているように思えていましたね。でも「僕、誰のためにやっているんだろう」って問いが生まれてきたんです。

Webサービスがどんどん誕生していて、その波にのって東京の真ん中で開発をして…何も考えていなかったんですよね。その先の、単純な「自分は何がしたいんだろう」という問いへの答えが分からなくなった。

そうなってからは、友達に「何が好きなんだと思う?」ってひたすら聞いていました。そのタイミングで、出資してくれた社長から今後の話を聞かれて、サービスとしても天井が見えていたので「もっと勉強したいです」と伝え、入社することにしました。

辛いからこそ分かった、自分の感情が向うところ

ー初めての会社員生活ですね。しかし、その企業は入社して数カ月で退職されたようですが…。

本当に小さなストレス積み重ねです。朝の電車が辛い、とか。だってドアから人がはみ出しているんですもん。そんなのに乗れない、ってホームに引き返したこともあります。

上場企業だったので、優秀な人が集まっていて、そういう人たちのことを知れたのは学びでした。自分で起業、経営をしてきたので天狗になっていたんですよね。優秀な、仕事が出来る人を前にして、自分が出来ない奴のように感じました。ただ、そのことについて考えれば考えるほど、そもそも彼らとは世界線が違うんじゃないかな、という違和感が芽生えたんです。

「この気持ちはなんだろう」と考え抜いた先に、株式会社の構造そのものに疑問が生まれました。会社の中の一部署で仕事をするってどういうことかというと、「なぜ」が決まっていて、それに対してのビジネスモデルの仮説が決まっていて、事業があって、行動が決まっていて、目指す先まで…ある程度、経営会議で決定済みの事項なんです。その固まってしまった中で、僕らに「具体的にどんな方法でやると良いのか、クリエイティブに考えろ」って託されるんですよね。

「『具体的にどうやるか』から始めたら、クリエイティブに考えられるんだろうか?」それが、僕が抱いた違和感でした。だって、もう枝まできてしまっているんです。クリエイティブを発揮するのであれば、本来、根っこから解決しないと出来ないよ、と思って。大企業だと仕方がないと思うんですけど、その構造を受け入れられず、1ヵ月で辞めてしまいました。

ー1ヵ月で!もうすこしいれば変わるかも、とは思わなかったのですか?

蕁麻疹が出るようになってしまって…。ただ、あの会社員生活がなかったら今の僕はいなかったので、無くてはならない経験でした。辛かったからこそ、自分の役割やポジションを模索し続けて、その結果として好きなことや得意に気付けました。

ナチュラルな状態を大事に。守るためのビジネスモデル

ー会社員を辞め、再び起業家に。

辛すぎて、やりたいことがいっぱいでてきて、それを解放するために株式会社MIKKEを立ち上げました。ただ、明確に、この事業を、とか、こういう会社にするぞ、というビジョンが定まっていたわけではありませんでした。

「友達と仲良く楽しく飲んでいて、そしたらいつの間にか一緒に始まっていた」みたいな流れを面白がりたい。「自分の感覚に純粋でいられる状態を作りたい」という想いで活動しています。僕のプロジェクトや仕事は、必然性や偶然性をとても大事にしています。ナチュラルな状態であることが心地いいんです。「何かをするために何かを捨てなきゃいけない」とか「こうしなきゃいけない」とか、そういうのが嫌なんです。いつの間にか自然と「こうなってしまった」という状態を大事にしたいと思っています。

ー先ほどの「なぜ」から始まる体系的なビジネス思考とは違いますね。

決して、循環させるための構造やお金の必要性が先にくることはありません。縁起として繋がる偶発性や、言語化しきれない感情…そういうものを大事にしていきたくて、それを守るためにビジネスモデルを作ろうと日々あらゆるプロジェクトや事業を生み出しています。

ー本日はありがとうございました!

取材:西村創一朗(Twitter
執筆・編集:野里のどか(ブログ/Twitter
撮影:橋本岬