「挑戦をやめたら俺じゃない」中村義之が決断してきた“自分らしくいる”ための選択

26歳のとき、DeNAから分社化したみんなのウェディング取締役に就任し、29歳でマザーズ上場を果たすも、その後体調不良により退任。1年半の療養を経て、福岡への移住・転職支援を行うYOUTURNを創業。

まさにジェットコースターのような経歴。今回は激動の20代を過ごされた、株式会社YOUTURN代表取締役の中村義之さんにお話を伺いました。

 意志のある選択をし続けている中村さんは、岐路に立ったとき、どのように考えて決断してきたのか。悩めるU29世代へのヒントとして、中村さんのこれまでの選択と信念を紐解いていきます。

妥協が嫌い。やりたいことをやりたかった

新卒でDeNAに入られたのは何年でしたっけ?

中村義之(以下、中村):2008年入社ですね。大学在学中から、将来起業したいと思っていて、Eコマースの会社で1年半くらいインターンしていたんです。ネットだと色々数字を取りながらPDCA回せますし、商売のキホンのキはものを売ることだと思っていたので。

就活のときは、インターンでやった経験を生かして働ける会社、かつ、すぐに起業ってイメージは持てなかったから、新規事業を若手に任せてくれる会社に行きたいと思っていましたね。ある意味、起業の疑似体験をしたいというか。

この二軸で考えたとき、これはDeNAだな、とピンときて。

もう一択だったんですか?

中村:一択でしたね。DeNAしか受けてないです。面接のときって「他にどこ受けてんの?」って訊かれるじゃないですか。そのときに「いや、御社だけです」って。

「いやいや…。え、本当に?」と言われたけど、僕としては「行きたい会社に行けないのなら進学や留学を選ぶし、行きたくないところに行くつもりはない」と思っていました。

― 意志の強さがすごいですね…。決断の仕方は小さい頃から同じなんですか? 

中村:そうですね。次善の策が嫌いというか、妥協が嫌いというか。やりたいことをやるのが一番良いと思っているから。大学もそうなんですよ。筑波大学の自分の学部しか受けていない。 

あとは、意識的に周りと違う行動をとっていますね。高校の同級生が地元に残るなか筑波大学を選択したり、大学の同級生が大企業に就職するなかネットベンチャーを選んだり。進路を選択するときに「親が言うから」って人いるじゃないですか。そういう話聞くと、「いや、お前の人生を生きろよ」って思っちゃう。

「自分が選んだ選択を正解にする」覚悟を決めた夢への挑戦

― DeNAではどういうお仕事をやられていたんですか? 

中村:入社して2年間はEコマースの事業部で働かせてもらって、3年目に新規事業部の配属になりましたね。最初はEC経験を活かしながら働かせて欲しい、そこで実績や経験を積めたら、新規事業部の部署に配属して欲しい、と入社当初から言っていたんですよ。 

― まさに希望通り。新規事業に挑戦する機会を得られた理由はなんだったんでしょう? 

中村:言い続けていたからかもしれませんね。DeNAには当時、半期に1回、自分のキャリア希望を書くシートがあったんです。そこに色々書いていましたね。海外事業部も出来たばかりだったので、海外行きたい、新規事業やりたい、と毎回書いていました。

実を言うと、僕は同期の中でそれほど結果を出していたわけではないんです。営業は2年間やっていましたけど、MVPとかとったことないし。表彰されて「アイツは優秀だ」と言われているやつが沢山いたなかで、自分が挑戦のチャンスをもらえるって本当にラッキーだなって。

― そして新規事業部に配属されて、みんなのウェディングの事業に参加。26歳のときに分社化して、取締役として参加したんですよね。

中村:分社化が発表されたとき、DeNAにもたくさん子会社があったので「あ、これからは子会社に出向する形になるんだ」と思っていたら、「子会社でもグループでもなく、完全に独立した会社になる。だから、ジョインするとしたらDeNAを辞めて行ってもらうことになる」と言われたんですよ。

DeNAは大好きだったし、こんなに成長出来る会社はないなと思っていたので、辞めるという選択は一度も考えたことがなかったんです。でも、みんなのウェディングもとても楽しかった。「あ、両方取れねえんだ」と思いましたね。

それで1日考えたんですけど、元々起業したかったし、独立してVCから出資受けてIPOを目指すスキームだったので、このチャンスに挑戦しない手はないだろうって。宝くじ当たるよりも確率低いんじゃないかって思ったんですよね。

そして、翌日に「辞めます」と決断して、みんなのウェディングの設立に取締役として参加したんです。

ー 迷いはなかったんですか?

中村:なかったですね。みんなのウェディングって口コミサイトだったんですよ。当時、口コミサイトってユーザーの支持はあるけどビジネスとしては儲からないって言われていて、同期の数人からも「絶対上場とか出来ないからやめとけ」って言われたりもしたんですけど。 

でも「いや俺好きだからやってるしさ」と思って。どんな選択にも正解ってないじゃないですか。だったら、自分が選んだ選択を正解にする。「俺はそういうスタンスでいくよ」と思って、選んだ決断でしたね。

挑戦は順調だった。だからこそ潰れてしまった

ー 26歳で取締役になって、29歳のときにみんなのウェディングが上場。ジェットコースターのような3年間で、重圧に押し潰されずに結果を出し続けられたのは何が要因だったと思いますか? 

中村:一番は「こんなに成長出来る機会って他にないよな」と、超楽しんでやっていたことだと思います。

色んな課題がどんどん変わってくるんですよ。社内の人間関係の問題はもちろんだし、競合が想定しなかった戦略を打ち出してきたとき、どう対抗するか考えるのもそうだし。局面局面でこれまでやったことがない領域の知識を得ていかなきゃいけない、って状況は面白かったですね。手探り状態だからとんでもない間違いをすることもあったけど、だからこそ想定してないようなフィードバックが返ってくることもあった。

ー 常に手探り状態の中で一番大変なことって何だったんです?

中村:一番は、自分たちで設定したストレッチな目標だったので、それをどう達成するかでしたね。まさにムーンショット。走りながら考えて、ダメだったら別の方法を考える。

大変でしたけど、目標も毎年達成して、当時の株主の方から「こんなに計画達成するベンチャーないよ」と言ってもらえたんです。最初はビクビクやっていたけど、むしろワクワク、どう乗り切るか考えるようになったからかもしれませんね。プレッシャーがありつつも超楽しんでやっていました。

ー そして、2014年にIPOした後、10月末に体調を崩して退任なさったんですよね。何かきっかけとかはあったんでしょうか?

中村:きっかけというよりは、リスクとかプレッシャーに対して麻痺していたんだと思います。「まだまだいける!もっと来い!」みたいに。

あとは、組織の拡大に伴ってアンコントローラブルな領域が増えていったことですね。IPO前までは、目標に対して下振れしても、顔が見える株主の方々に頭を下げればよかったんです。

でも、上場したら、目に見えない匿名の株主の方が何人もいるんですね。加えて、クライアントの数は増えますし、打たなきゃいけない戦略は高度なものになりますし、自分がやらないといけない明確な限度が分からなくなってきた。 

「俺がここまでやんなきゃいけない」って限度が広がってしまって、結果、睡眠時間を削って何とか回していたんです。

ー 1日何時間くらい寝ていたんですか?

中村:病気になったな、と思ったときは1,2時間睡眠を1か月続けていましたね。上場の前の正念場を同じ1時間睡眠で乗り越えた経験があったから、俺は大丈夫、この働き方で難局を凌げるはずだと言い聞かせていました。

でも、当たり前ですけど、上場した後のプレッシャーって桁違いなので、そこで潰れましたね。

気付いたら、頭痛と吐き気と体の震えが止まらなくて。パソコンを開くだけで症状が出るようになってしまった。そんな状態になって「あぁこれはもうダメだ」と思って退任させてもらったんです。

挑戦をやめたら俺じゃない。再び、自分らしくいるために

ー 取締役をご退任してから延べ1年半の療養期間、回復のきっかけとかあったんですか?

中村:具体的なきっかけはないんですけど、療養中、リハビリも兼ねて色んな所に旅行したんですよ。海外含めて、夫婦で様々出掛けていました。

ある地域を旅行しているとき、ふとフラッシュバックしてきたんです。楽しく働いていたときの思い出が。

病気になってからは、仕事って辛いもの、キツイものとしか捉えていなかったのに、「あぁ、俺って仕事好きだったなぁ。またやりてえなぁ」って急に思って、涙が止まらなくなったことがあったんです。それが精神的に回復した瞬間だったと思います。

ー そこから、どのようにYOUTURNの起業まで至ったんですか?

中村:精神的に回復して今後の人生を考えたとき、ここでチャレンジを諦めてしまったら俺じゃないなって思ったんです。骨壺入るとき絶対後悔するだろって。次もやっぱり挑戦し続けたかったんですよね。

だけど、もう病気にはなりたくない。チャレンジとQOLが両立するやり方ってなんだろうと考えた結果、自分のバランスがとれる環境の良いとこでやるってことなんじゃないか、って思ったんです。

旅行中も沖縄とか北海道で「こんな環境が良いところで仕事できたら最高だな」と思っていましたし。本来、インターネットって場所も関係ないですしね。

ー 東京じゃなくても仕事出来るじゃんって。

中村:そう。じゃあどこが良いかな、と考えていたときに地元の福岡があったんですよ。あ、地元があるじゃん!って。

この選択が良いか悪いかは分からなかったんですけど、根拠のないやりたい気持ちが膨れ上がったんです。直感的に面白いことになりそうって思って。

ー 何で地方だったんでしょうか?

中村:ここでも天の邪鬼なところが出たんでしょうね。金太郎飴にはなりたくない、ユニークな存在やオリジナリティのあるポジションを取りたい、という想いが根底にあるんだと思います。

東京ってスタートアップの雛形があるじゃないですか。プロダクトを作って資金調達すれば誰でも出来そうで、コモディティ化している。だったら違う軸で、東京じゃないところで面白いベンチャーを作れたら面白いんじゃないか、と。根拠なんてまったくなく、ただ自分がワクワクしたんです。

ー ここでも自分の意志を信じての選択だったんですね。

中村:さて、どこで起業するかは決まった、次はどの領域で起業するかを決めないと、と福岡で既に起業していたり、支援している人達から情報収集していたんです。そしたら、みんな採用に課題を抱えていたんですよ。「福岡はすごく起業しやすくなったけど、人がいない」って。

本当にみんな同じことを言っていたので、自分が起業して全く同じ課題に直面するんだったら、俺がこれ解決しよう!と思ったのがYOUTURNを起業したきっかけでしたね。今もまだまだこれからの会社ですけど、行政の方を初め、色んな方に「いいね!」と応援してもらえているのは嬉しいです。

 『自分らしくいることは成長にも繋がる』悩めるU29読者へのメッセージ

ー 中村さんは、人生において逆張りとも言えるような選択をしていますし、YOUTURNさんとしても地方へのUターンIターンなど、逆張りに思える選択を提案していますよね。そんな中村さんから20代の方々にメッセージを送るとしたら、どんなことを伝えますか?

中村:「人と比較しなくて済む生き方を選ぼう」ってことですかね。自分がニッチな逆張りの選択をしてきたのは「相対的な自己として社会にありたくない」って思っていたからなんですよ。人と比較する軸でキャリアを選んじゃうと、いつまでたってもハッピーじゃないと思うんです。上には上がいるし、他人の芝はいつまでたっても青いし。そういう人生って、あんまり面白くない。

ー 比較が必要なときもありますけど、疲れちゃいますしね。

中村:局地戦では必要だけど、大局観としては「人と比較しなかったとしても、自分自身はどうありたいんだ」を考えて欲しいです。

僕はその1つの選択として、福岡での起業を選んだんです。人と比較されないユニークなポジションを取っていくことって、結局生き抜いていく上での勝ち筋なんじゃないかって気もしますしね。

ー オリジナリティを自ら作っていくってことですね。

中村:その領域で自分しか知らないことが増えるから、結局ビジネスの引き合いも来るし、結果的にチャンスをもらえて成長機会になるんだと思います。

そういう意味でも、これからの時代、用意された環境でしか成長できない人って厳しくなってきます。だからこそ、自分の意志が大事になる。そのためにも、「自分らしくいるには、どういう環境に身を置いたら良いのか」を考えて欲しいですね。

(取材:西村創一朗、写真:鵜ノ澤直美、文:安久都智史、デザイン:矢野拓実)