入社3年目で編集長へ大抜擢。キャリアを掴み取るマイルールは「宣言すること」

色々なキャリアの人たちが集まって、これまでのキャリアや将来への展望などを語り合うユニークキャリアラウンジ。第6回目のゲストは、東洋経済新報社で「業界地図」の副編集長を務める中山一貴さんです。

東京外国語大学で中国語を専攻し、その知識を現在の仕事に活かして活躍されている一方、「志望していた大学に行けなかった」というコンプレックスもあったという中山さん。

しかし、そのコンプレックスをバネに第一希望の企業へ入社。記者という望んでいた仕事を経て、入社3年目で「業界地図」の編集長に抜擢されるという輝かしいキャリアを歩まれています。

これから就職を考えている学生や、激務と言われる業界で働くU-29世代向けに、エールや指針となるようなお話をたっぷり伺ってきました。

 

挫折を経験し、中国語にのめり込んだ大学時代

ー 中山さんのブログを拝見したところ、本当は東京大学の文科三類に行きたかったけれど合格できずに東京外国語大学に行かれた……ということを書かれていました。なぜ東京大学の文科三類を目指していたんでしょうか?

私には、中学生くらいから「国連で働きたい、英語が好きだから英語を使った仕事がしたい」という思いがありました。そこからひたすら英語の勉強をして、高校2〜3年生の頃に「もっと幅広く勉強してみたい」と考えるようになり、東京大学の教養学部を目指したんです。

ところが、前期試験はボロボロ。浪人も考えましたが、飽きっぽい性格だから一年も続かないだろうなと思い、後期試験を受けられるところを探しました。そこで東京外国語大学という大学があることを知り、受験したという流れですね。

ー 第一志望の大学に行けなかったというコンプレックスはありましたか?

もうめちゃくちゃ大きかったですね(笑)大学一年のはじめの半年くらいは、友人たちと集まっても、経済学部や法学部に進学して自分のやりたかったことを勉強しているという話を聞いては落ち込む日々。外国語は好きでしたが、どちらかというと英語が好きだったわけで、大学に入って中国語を毎日やらなければいけないという状況に嫌気が差したんです。

ー その辛さを乗り越えられたキッカケは?

大学の中に、中国の友人ができたことです。中国語のいい教材を教えてもらったり、彼と会話をしていくうちに「中国人の考え方って面白いな」と思うようになって。もし自分がもっと中国語を使えたら、心を開いてもらえるんだろうなと思い、中国語の勉強を頑張るようになりました。

ー 日中交流サークルも立ち上げて活動されていましたよね。

ちょうど大学一年の秋頃に、学科の先輩が「北京外国語大学との交流プラットフォームを作ろう」と声を掛けてくださり、京英会というサークルを一緒に立ち上げました。

活動のメインは、10人くらいの中国人を東京に連れてきて、逆に私たち日本人も中国に一週間行くという交流イベント。ただ、このイベントにはお金がかかるため、企業や基金の協賛がないと成り立たないということで、いろんな会社に「何とか10万円お願いします」などと電話を掛けて営業していました。

ー 当時はまだ、今ほど中国への注目度は高くなかったでしょうから、協賛を集めるのは大変だったんじゃないですか?

かなり大変でしたね。日中関係があまり良くなかったというのもありますし、そもそも出来立ての団体で実績がないので、企業もなかなか受けてくれません。しかし、もともと中国に関心のあった経営者の方が「仕方ないな」と半分同情でお金を出してくれるようになり、そこから何とか集まり始めたという感じです。

ー 京英会の活動を通じて、もともと全く興味がなかった中国、中国語にのめり込んでいった……という感じでしょうか。

そうなんです!やればやるほど楽しくて、大学二年が終わる頃には「休学して中国に留学しよう」と考えるようになりました。中国語もだいぶ好きになっていましたね。

ー 本当に何がキッカケになるかわからないですね。

中国の友人ができたり、京英会を始めたりしていなかったら、大学の授業も出ないでぷらぷらしていたかもしれません。本当に大学一年のときに良い縁に恵まれたなと思いますね。

 

メディアと現実の温度差を感じ、経済誌の記者へ

ー サークル活動をされる中で、大学三年生のときにはどのような就職活動をされていたんですか?

就職活動の時点で、記者になりたいと考えていました。新聞やテレビ業界も考えましたが、規模が大きいゆえに、自分のやりたいことを実現させるまで時間がかかってしまうだろうと思ったので、もう少し規模の小さい出版社を探したんです。本屋に行って雑誌を読み比べたり、実際に先輩方にお会いしたりして、最終的にしっくりきたのが東洋経済でした。

ー そもそも、どうして記者になろうと思ったんですか?

2012年に中国へ留学したのですが、当時は尖閣諸島のことで反日デモが起こり、メディアでは両国がお互いに叩き合うような報道が多く見受けられました。私も実際、日本大使館のほうへ歩いていたらちょうどデモに遭遇し、”怒りの卵”というものを大使館に投げ込む中国人を目の当たりにしたんです。

しかし、中にはニヤニヤと笑いながら参加している中国人もいて、必ずしもみんな日本が嫌いでやっているわけじゃないんだなと感じました。中国での生活も、日本人だからといって苦労することはありませんでしたし、メディアと現実には温度差があるな、と。

その頃、私はすでに中国がかなり好きになっていましたし、日本のことももちろん好きで、文章やブログを書くことも好きだったので、「記者やジャーナリストになって日中関係に貢献できたらいいな」と思ったのが、記者を志す最初のキッカケでした。

ー それで記者という仕事を選ばれたんですね。しかし門戸の狭い第一志望の会社に受かるというのは、並大抵のことではないと思います。内定を勝ち得るために意識していたことや行動していたことありましたか?

ひたすら情報収集ですね。OBOG訪問をしたり、企業のホームページを見たりと、最低限自分で調べられることは調べていました。そして、役員面接で「こいつを働かせてみよう」と思わせるよう、面接でいかに円滑にコミュニケーションとるかということに重点を置いていました。

ー 入社されてから、東洋経済での新人時代にはどんなお仕事をされていたんですか?

新人時代は、食品やお酒のメーカー、小売の業界担当をしていました。各企業を回って、決算や業績についての取材をしたり、社長が変わったときには新社長の抱負を聞いたりといった取材をし、いろんな媒体に記事を書くという仕事です。

ー 記者というのは、何を持って評価されるものなんでしょう?

それは会社としても課題ではあるんですが、ひとつは記事の本数ですね。ノルマではないものの、目安にはなるかな。あと、大きなニュースや業界の変化が起こった際に、いいタイミングで記事をかけているかという点でも評価されます。記事の内容については評価軸がバラバラで、明確な基準がないので難しいです。

ー 紙の媒体だとPV(ページビュー)も見えないから、数字で測るのは難しいですよね。

たとえオンラインの記事であっても、たとえば食品業界や小売というのは読者の関心が高く、記事が面白くなくてもけっこう読まれてしまいます。しかし半導体や電子部品などの業界は、一般の読者からすると縁遠く感じられ、どんなに面白い記事でも読まれにくいという性質があります。記事を一律に比較するのは難しいですね。

ー 中山さんからの目から見て、優秀な記者とそうでない記者というのは何が違うものなんですか?

細かいところにどれだけこだわっているか、という点ですかね。固有名詞の間違いや事実関係のズレなど、心がけ次第で防げるミスってかなり多いんです。そこに気を遣えるかどうかは、優秀かそうでないかを大きく分けてる気がします。

 

「宣言してチャンスを呼び込む」入社3年目で雑誌の編集長へ

ー 記者として入社され、第2ステップとして業界地図の編集長になられた中山さん。入社3年目で編集長に抜擢されたのは、どんな会社の意図があったのでしょうか?

就活生向けの雑誌だから若手にやらせよう、という意図はあったと思います。あとは、年に一度しか出さない媒体なので、他の雑誌の編集長と比べたら負担が軽いというのもありますね。もともと30代から40代前半の方達が編集長をやっている雑誌で、若手の登竜門でもありました。

ー その中でも26歳の編集長というのは、異例だったんじゃないですか?

当時はそうでした。まだ記者として働いて一年くらいで、編集の仕事も担当していなかったので驚きましたね。ですが、業界地図では170ほどある業界を全て見ることになるので、今までは違った業界を見られるのはありがたい機会だと感じました。

ー 業界地図の編集長をやってみて、大変だったことや苦しかったことなど、今の糧になっていると感じることはありますか?

業界地図を作るにあたっては、各業界のそれぞれの記者だけでなく、営業さんなど社内の各部署とのコミュニケーションを繰り返して意思決定していかなければならない難しさがありました。さらに、周りの人より私のほうが年下なので、毎回頭を下げ、疑いの目を受けながら、いかに信じて一緒に頑張ってもらうか、というところが大変だったなと感じます。

ー 編集長として記者さんたちの信頼を受けるため、特に意識していたことは?

記者の意見や考えを尊重するコミュニケーションを意識していましたね。まず構成(ページの割り振り)をしっかり記者と擦り合わせる。その上で、実際に原稿が上がってきたら勝手に変えるのではなく、なるべくコミュニケーションをとって改善提案し、記者のモチベーションを維持できるようにと心掛けていました。

ー 敬意を持って、気持ちよく書いてもらえるような関係づくりに腐心されていたんですね。業界地図の編集長を経て、その後『週刊東洋経済』の編集部に移られた中山さん。これもご自身で志願されたんですか?

飲み会の場などで先輩方になんとなく「行きたい」という話はしていました。ですが、明確に希望を出していたわけではありません。

ー 迷いはなかったですか?

なかったですね。週刊東洋経済は、基本的に二人の編集者で6週間に一度、40ページほどの特集を作っています。その特集の出来栄えによって売り上げが変わるため責任は大きく、私にできるんだろうかという不安は当然ありました。それでも、やってみたいという好奇心のほうが勝っていたんです。

ー 自分のやりたいことをなかなか口にできない人もいる中で、中山さんはキャリアを宣言して勝ち取ってこられたんですね。

恥知らずなんです。人見知りな部分はあるのですが、恥はかいてもいいと思っています。後でお風呂に入って恥ずかしかったな、と考えればいいかなと。とにかく、思ったことはなるべく言う。

たとえば学生時代に「記者になりたい」と思っていたわけですが、そのときもメールの署名に「2020年までに日本と中国をつなげるフリージャーナリストになる」といったことをずっと書いていました。そこから中国系のイベントの話が舞い込んできたり、「記者になりたいんだよね」と紹介してもらえるようになったり。正直恥ずかしいんですが、やっぱり宣言しておくと機会を呼び込める気がします。

ー そこから念願叶って、今年から中国に関わる仕事をされていることかと思うんですけれど、それも周りに宣言し続けていたんですか?

入社した時に新入社員歓迎の場でスピーチをする機会がありまして、そのときに「中国といえば東洋経済の中山って言われるようになりたいです」って話していましたね。そうすると意外と覚えていらっしゃる方もいたので、言ってみるものだなと思います。

ー 実際のところ、中国に関わるお仕事はいかがですか?

やっぱり楽しいです。日本企業の取材ももちろん楽しいんですが、大学で勉強してきた中国語を使えるというのがありがたくて。中国の優秀な方は英語もぺらぺらなんですけど、こちらが中国語で話せば喜んでもらえますし、友達感覚に近い感じで取材できるんですよ。あと、中国では信用がないと取材を受けてもらうこと自体が難しいんですが、仲良くなれればグイグイ中に入れるという面白さもあります。

 

「腕時計をつけ変える」激務とプライベートを両立させるマイルール

ー 記者や編集者って、プライベートがほとんどないイメージがあります。仕事とプライベートの分け方で心がけていることや、激務の中で気をつけていることなどあれば教えてください。

プライベートと仕事の分け方でわかりやすい話をすれば、私は普段、腕時計を左手にするんですけど、オフの日は右手にするようにしています。夜の飲み会も、仕事絡みの会食だったら左手だけど、友人との飲み会だったら右手に変えるなど、意識的に切り替えていますね。

あと、1〜2年目の頃はなかなか有給を取りづらかったり、いつ休めるかわからなかったりするんですが、5年目にもなると繁忙期と閑散期が見えるようになってきたので、あらかじめ休みを確保するようになりました。

体調管理については、ジムに行くのが面倒くさいので、普段からよく歩くようにしています。お酒を飲むのも好きなので、飲んだ帰りは一駅分歩くようにしたり。

ー プライベートでの時間をいかに投資するかで人生の動きは変わると思うのですが、中山さんはプライベートの時間を何に投資されていますか?

学生の頃のように友達と飲み会やカラオケに行ったり、旅行したりもしているんですが、これもひとつの投資になっているかなと思っています。やっぱりリラックスする時間がないと企画するときにアイデアが浮かばないので。

たとえば、私はTwitterが大好きでよく見たりつぶやいたりしているんですけど、家の中にずっといると何もつぶやくことが思い浮かばない。そんなときは、散歩でもいいので外に出たり友人と遊んだりして、頭の中を整理しています。意識的に遊ぶ、外に出るっていうのが、発想やコンテンツにつながるかな、と。

ー 編集の仕事というのは、意識しなければならない対象も多く、気持ちが分散してしまいますよね。ひとりで没入して考える時間も必要だと思うんですが、どのようにバランスを取られていますか?

実は私も同じところで悩んでいて試行錯誤中なんですが、目の前のすぐやる仕事は終わったら消せるよう付箋にシャーペンで書き、少し先にやることはEvernoteに書いておいて締め切りが迫ったら紙の方に移す、などということをやってみています。

時間が明確なものはGoogle Calendarで通知が来るようにして、通知が来ると頑張る。明確な締め切りがない仕事は、どうしても後回しになりがちなので、自分にご褒美をあげながらするようにしてます。

ー そのような様々な工夫は、どこで学ばれているのですか?

明確にこれというのはないのですが、『わたし、定時で帰ります。』というドラマを参考にしていたことはありました。あとは、常に「セルフ働き方改革をしたい、早く帰りたい」という思いからいろんな手段を実践して、良さそうだったら続けてみて、というのを繰り返しています。

 

いつかは「好き」を仕事にしたい

ー 今後のキャリアについては、どうお考えですか?

正直、悩んでいます。今は独身なのですが、仮に結婚して子供ができたときのことを考えると、今の働き方ではいいパパでいられる自信がありません。そのため、結婚や子供ができたタイミングで業界を変えることは考えてはいます。ただ、今のところはもうしばらくこの仕事をやってみようかな、と。

私には夢が2つあって、まずは取材経験を通して得た知識などを学生に還元したいということ。もうひとつは、旅行やご飯、お酒が好きなので、グルメ雑誌や旅行雑誌をやりたいなということです。取材が旅行になる、というのも楽しそうですよね。

ー いい意味での公私混同というか、「Work Life Balance」ではなく「Work As Life」みたいな。好きなことを仕事にしていけたらいいですよね。

 

(取材:西村創一朗、写真:山崎貴大、文:ユキガオ、デザイン:矢野拓実)